broilerの個人ページへようこそ
ブロイラーという者です。ダイナマイト野球の対戦を主にやらせてもらってます。このページでは暇な時に考えてる選手の一生を書いていくので暇つぶしに見てください。コメントする場所もありますよ。
選手の一生は、以下の条件を守ってくれれば、wikiメンバーなら誰でも編集して構いません。
- 他の人の作品を消さない、編集しない。
- ある程度の物語の形式は守る(何個か見てもらったら大体分かります。成績,説明(物語),能力みたいな感じです。)
- あまりにも強くしすぎない。極端に言うと|10|10|10|10| みたいなのを許可すると、そういうのばっかりになって選手の個性がなくなりそうなので、自分でラインを考えて強さを調整していただきたいです。(特殊能力も同じです。)
選手の一生
※この「選手の一生」は全て個人のダイナマイト野球の二次創作であり、公式情報ではありません。
ゲームに実装されてる能力の時は目印で★マークをつけます。
成績の見方 打率(出塁率) 本塁打 打点 盗塁
成績の見方 打率(出塁率) 本塁打 打点 盗塁
+ | 金杉 【最強遊撃手への道】broiler作 |
金杉が野球を始めたのは小学生の頃からだ。中学生時代は地元ではNo.1内野手として有名だった。高校では「甲子園で遊撃手として活躍して将来は球界No.1遊撃手になってやる。」と意気込んでいたが、残念ながら甲子園には出れなかった。しかし、攻守の安定感、流し方向への打撃技術がスカウトから評価され、ファルコンズの本拠地が地元から近かった事もありドラフト4位で入団することができた。ちなみにその年のドラフト1位は雑賀である。
18歳(1年目) 10試合 .222(.222) 0本 0点 1盗
2軍で安定した成績を残して、チームの消化試合で少しだけ使われた。初ヒットは打ったものの目立った活躍はできなかった。本人は同期の雑賀の活躍を見て、自信を無くしかけたが「あいつが凄すぎるだけ。まだまだこれからだ。」と自分に言い聞かせた。
21歳(4年目)43試合 .246(.299) 0本 18点 3盗
守備、走塁練習をし続けた結果、チームトップクラスの守備力を手に入れて1軍のベンチには入れるようになった。打撃も打席を積み重ねるごとにプロの球に少しずつ対応できるようになっていった。弱い打球でも全力で走ることで内野安打にした。
★26歳(9年目)120試合 .277(.335) 4本 32点 6盗
5年後、いつのまにかちゃっかりレギュラーに定着した金杉。出場機会を増やす為、セカンド守備も鍛えた。レギュラーに定着してからキャッチングの安定感も増した。このままそこそこの成績を残しておけば、数年の間はまずレギュラーから外されることはないだろう... が、「本当にそれでいいのだろうか。」と金杉は考えていた。『球界No.1遊撃手になる。』これはもう過去の目標なのか?
「夢を追いかけるのがプロ野球選手なのではないか。」
30歳(13年目) 140試合.345(.411) 17本 80点 26盗
数年後... そこには見違えるような彼の姿があった。夢を叶えるため、先輩の久野から打撃技術を教わり、必死に練習した成果が出たようだ。プロ野球選手としては普通くらいだった体つきはよりたくましくなり、特に足の筋肉は随分鍛えたように見えた。チームでは主に3番を打っている。ファンからの人気も高い。ファルコンズ自慢の最強投手陣を攻守で支える立派な遊撃手になれたのだ。打撃練習に専念した結果、サブポジは忘れかけてるようだが、全く問題ではない。彼はもうショートのレギュラー、いや、球界No.1遊撃手と言っても過言ではないのだから。
35歳(18年目) 52試合 .251(.312) 3本 21点 10盗
遊撃手の選手生命は短い。守備機会や負担の多さを理由に、昔からそう言われている。もちろん長年遊撃手をやり続けた彼も例外ではない。だんだんと守備の衰えが見えてきた。そしてこの年には遊撃手としてはかなり厳しい守備力になっていた。彼もそれを自覚したのだろう。ファルコンズ一筋プロ18年目、引退を表明した。ファンの中からは「打撃だけ見ればまだ引退するには早い、負担の低いポジションに変えてやってみては?」と言う声もあったが、彼は「遊撃手」にこだわりがあるので引退を決めた、と言った。そして引退試合が行われ、最後には、甲子園に出ていない自分を指名してくれた球団、野球を楽しみながら過ごした地元、チームメイトやファンへの感謝の気持ちを込めて深々と頭を下げて「ありがとうございました。」と言い、歓声に包まれながら球場を後にした。
その後...高校時代行けなかった甲子園に監督として行くために、地元の高校で野球の監督をしているらしい!
終わり
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+ | 郷野 【ヤンチャ小僧が日本の4番に】broiler作 |
今では球界で知らない人はいない和製大砲、郷野は学生時代、不良だった。不良グループのリーダーで仲間達と色々と悪事をはたらき、その体格の良さと「郷野の"ごう"は豪快の"ごう"や!」と言われるほどの加減知らずで、地元では学生達から恐れられていた。
野球も、その頃は実はそれほど好きではなかった。親から「頼むから学校だけは行ってくれ」と言われていたので仕方なく高校に行き、学校の間暇なので仕方なく野球部に入った。 勉強よりはマシなので授業をサボって不良仲間達と校庭でずっと野球をやっていた。 しかし、野球の才能は本物で、高校通算75本のホームランを放った。 高校3年時には甲子園にも出場したが、相手投手からデットボールを当てられた際に相手を威嚇し、退場にされ、それ以降の試合も全て出場できなくされてしまった。 プロ入りは確実と言われていたが、この事件後、郷野の素行不良が世に知れ渡ってしまった。 他の球団は郷野を指名しない方針だった。しかし、そんな郷野の獲得に乗り出したのはエレファンツだった。当時のエレファンツは取材に対し、「素行不良はなんとかする」と答えた。 こうして郷野はドラフト1位でエレファンツへ入団したのだ。
18歳(1年目)68試合 .194(.211) 17本 33点 0盗
一年目からいきなりスタメン、代打で出場した。技術、技巧面はプロ最低限のレベルにも到達していない程荒削りで三振も多かったが、長打力は評判通りで、積極的に引っ張る天性のプルヒッターであることが分かった。高卒一年目と考えると素晴らしい活躍ではないだろうか。一方素行面は案の定で、あまり練習を真面目にしない事や、乱暴な言葉遣いや、地元の不良グループとの交流を続けていた他、試合前日夜遅くまで遊び呆けて監督から怒られる事もしばしば。しかし、不良グループで養った仲間意識の強さからか、チームメイトとの関係は良好であった。 本人は一年目から17本ホームランを打ち「プロ野球、楽勝じゃね?」と心の中でプロの世界を下に見ていた。それが薄々表面にも表れていたのだろう。ファンからの評判はまだかなり悪かった。
24歳(6年目)110試合 .239(.295) 28本 83点 0盗
6年目となると試合数も増え、打率も少しずつ上がってきた。長打力はすでに完成しているので、あまりマジメに練習していなくても、その少量の練習により技巧面が少しづつ伸びるだけで彼にとっては十分な武器なのだ。もう準レギュラーレベルには達している。 そして、この年は彼にとって印象深い年だ。ある日のシャークス戦での話だ。この年のシャークスは調子が良く、エレファンツとの首位争いを繰り広げていた。そしてこの試合でシャークスが勝てば優勝が決まるという試合で、9回裏のエレファンツの攻撃の時点でシャークスは既に2点を入れていて、エレファンツは打線が中々繋がらず0点だった。大切な試合なので、普段は先発で絶対的エースの南方が9回裏に出てきた。しかし、エレファンツも最後の執念でヒットを繋ぎ、1アウト一二塁の場面で郷野に打席が回ってきた。そして南方の1球目スライダーを豪快に引っ張り、サヨナラホームラン。会場はエレファンツメンバーと、ファン達の歓喜に包まれた。しかし問題はその後だ。郷野がダイヤモンドを一周する際、南方に向かって「あっかんべー」をしたのだ。その姿が球場のカメラマンによってしっかり収められていた。落胆する南方と古川バッテリー、ふざけた顔で挑発する郷野、それを見て「なんだこいつ」と言わんばかりの顔をしているショートヴェラスケス、何故この行動を取ったのか、詳細な理由は明らかになっていない。もしかしたら、野球の上手さは勿論、恵まれた裕福な家庭に生まれ、幼い頃はピアノの世界大会で優勝し、名門大学に己の学力で合格し、礼儀正しく顔立ちも整っているみんなからの人気もとても高い球界随一の超エリート、南方と、決して実家は裕福とはいえず、素行不良で有名で野球ファンからもあまり好かれていない自分を比べて何か思うことがあったのかもしれない。この事件は新聞テレビで大々的に報道され、それを見た野球ファンも、「完璧南方を不良の郷野が負かす」という構図、展開を興味深く感じ、この事件は撮られた写真と共に今でも語り継がれている。そしてこの事件後から郷野は実力がありながら悪い行動をする事と、エレファンツの紫色のユニフォームにちなみ、みんなからダークヒーローというあだ名が付けられた。郷野自身はこのあだ名を「カッケェ」と言い少しだけ気に入っていたそうだ。ちなみにこの年のエレファンツはこの事件後に失速し、優勝を逃してしまった。
28歳(10年目)135試合 .262(.334) 32本 89点 1盗
※長いので能力先にしてます。
あれから数年後... 郷野の様子を見ると...あれ?礼儀正しく監督・コーチに挨拶をしている。乱暴な言葉遣いも減ったようだ。野球ファンからのネットでの評判もいい。どうしたのだろう。
実は、あの事件後1週間の出場資格停止を言い渡され自分が出られずにチームが優勝を逃してしまったことから流石の彼もかなり反省したようだ。また、9年目のオフシーズンに結婚を発表し、家族ができたので夜遅くまで遊び呆ける事も無くなったそうだ。ダークヒーローと呼ばれることも少なくなってきた。そして彼はこの年の野球世界大会の日本代表に選出された。もう今の彼なら世界の舞台に立たせても恥ずかしくないと判断されたのだ。そしてその年、日本代表は決勝まで進み決勝戦はアメリカとの戦いになった。場所はアメリカで行われたが、日本のファンもたくさん来ていた。そして9回表、日本の攻撃。日本は3-4で負けていた。しかし、2アウトから代打で登場した久野がヒットを放つと、その後の滝川も繋ぎ二死一三塁に。そこで打席は郷野に回ってきた。郷野が打席に立つと、今まで体験したことの無いくらいの応援、声援が聞こえた。このような場面とはいえ、この前まで練習をサボり真面目にやらずダークヒーローと呼ばれてきた自分をみんなが応援してくれているのだ。郷野は「応援してくれるみんなの為にも絶対に打ってやる」と思った。しかし... 一球目ファール、二球目空振りといきなり追い込まれてしまった。そして三球目...
郷野のバットは空を切った。
ベンチから飛び出してくるアメリカ代表の選手達、落胆する日本の応援席、そして今にも涙を流しそうになっている郷野... 信じてくれたみんなのために打てなかった...
★32歳(14年目)140試合 .333(.461) 41本 159点 2盗
「チャンスの場面では、ものすごく気持ちが入るんですよ。多分、あの時を思い出すからでしょうね。」
当時の雑誌のインタビューより
4年後、郷野は最高の成績を残した。ホームラン、打率、共にキャリアハイ、特に打点は球界の歴代最高記録を残した。彼はあの世界大会決勝戦の後、猛練習を重ねた。不良だった、こんな自分を信じてくれたみんなを裏切ってしまったことがよほど悔しかったのだろう。若い頃の彼からは想像がつかないほどの量をこなした。その気持ちからチャンスに強い打撃を手に入れたのかもしれない。故に彼の得点圏打率は.470を記録した。同チームで昔から彼をよく知る蔵野はこう語っている。「あいつは重要な場面になるとね、雰囲気が違うの。そういう時のあいつはもう誰も抑えられないと思うよ。」そして彼はこの年、世界大会に4番で出場し、大活躍をして日本は優勝することができた。
もう彼はダークヒーローなんかではない。
立派なヒーローなのだ。
36歳(18年目)107試合 .267(.322) 26本 91点 0盗
輝かしい成績を残した彼にもついに衰えが来た。しかしチームが負けている時はベテランとして何度も逆転弾を放った。得点圏や打って欲しい時の彼への期待度は、むしろ、全盛期よりも増しているかもしれない。
40歳(22年目)89試合 .211(.242) 16本 40点 0盗
代打での出場が多くなった郷野 体の衰えはかなり酷いものとなっていたが、長年の経験で培ったメンタルは増していく一方。今日もチームを支える。この打率で16本、打点44は流石郷野だ。野球ファンからはチャンス、ビハインド時にしか打たない男とあだ名を付けられた。
しかし、彼はこの歳で引退を選んだ。たくさんの野球ファンが引退を惜しんだ。「まだ全然いけるんじゃないか」そんなファン、首脳陣からの声は勿論たくさんあったが、それに対し郷野は「そろそろ世代交代。若手の出場機会を増やしてあげたい。それに... 僕は昔の僕みたいなちょっと、ヤンチャなね、子達に野球の楽しさを 教えてあげたいんです。」と笑顔で返した。 その後彼はその言葉の通り独自で色々な事情を持つ子ども達に野球を通して社会性を身につけるプロジェクトを立ち上げ、今も色々な中学校、高校を訪問して一人一人の子ども達から話を聞いて寄り添っている。郷野の選手としての物語は幕を閉じた。しかし、彼の第二の野球人生の道のりはこれからも長い。
終わり
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+ | 安東 【】小城製作中… |
例えば、こんな選手がいたとしよう。
遊撃手として全試合フルイニング出場し、ゴールデングラブ賞を受賞。 打撃では首位打者・打点王・本塁打王の三冠を達成し、さらに盗塁数はリーグ2位。 誰よりもチームを思い、若手の面倒も惜しまず見て、リーダーシップにも長けている。 まるで夢のような、理想の選手。そんな人間が本当にいるはずがない――そう思うだろう。
だが、実在した。
その名は、安東大輔。ダ界の伝説と呼ばれた男である。
そしてこれは――
その安東大輔の“息子”の物語である。
父に憧れて
「パパがまた打った!」
テレビの画面には、スタジアムの歓声を背にダイヤモンドを一周する安東大輔の姿。
少年の目は、食い入るようにその背中を追っていた。 小さな頃から、スター選手である父の活躍は日常の風景だった。 そして自然と、父の真似をするのが何より好きになった。 フルスイングで放つホームランの再現、地面すれすれのダイビングキャッチ、三振しても決して顔を歪めないクールな仕草―― どれも完璧にコピーできるほどだった。 父に憧れてやまなかった安東少年は、小学校に入学するなり、「野球がやりたい!」と父と母に直談判。 その情熱に心打たれた両親の後押しで、地元の軟式少年野球チームに入団する。 ポジションはもちろん、父と同じショート。 毎日のようにユニフォームを泥まみれにしながら、懸命に白球を追いかけた。 やがて四年生になる頃には、チームの4番を任されるまでに成長。 中学生になってもそれは変わらず、キャプテンとしてチームを牽引していた。
期待と現実
だが、少年の前には、ひとつの影が常につきまとっていた。 “安東大輔の息子”という看板だ。 試合で活躍すれば、「やっぱり大輔の息子だな」と言われ、 ミスをすれば、「大輔の息子でもこんなもんか」と囁かれた。 褒め言葉にも皮肉にも、いつも父の名前がついて回った。 少年は次第に、自分のプレーが“誰のため”のものなのか、分からなくなっていった。 尊敬していたはずの父の存在が、いつしか心の重荷となり、 バットを握る手にも、グラブを構える足にも、迷いが宿るようになっていく。
それでも高校入学時、周囲の期待は大きかった。
「ついに安東大輔の息子がやって来た」と、メディアも騒ぎ立てた。 当然のように背番号6、ショートのポジションが与えられる——はずだった。 だが、現実は違った。 すでにレギュラーとしてチームを支えていた一学年上の天才ショートがいたのだ。 守備範囲、スローイング、判断力……すべてにおいて、彼のほうが上だった。 監督から言い渡された言葉は、「お前には外野を守ってもらう」だった。 その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。 “父と同じショートを守る”という夢は、静かに遠ざかっていった。 それでも、グラウンドに立ち続けた。 「安東大輔の息子なのに」とささやかれながら。 結果が出なければ「親の七光り」、少し活躍すれば「大輔に似てきたな」。 自分のプレーが、いつも誰かの記憶と比べられていた。 迎えた三年夏、チームは甲子園出場を果たす。 だが、夢の舞台で彼を待っていたのは、さらなる試練だった。 緊張からか外野守備で連続ミス。失点に直結し、逆転負け。 試合後のベンチで、彼は誰よりも長く頭を下げていた。 「ああ、これで俺の野球人生も終わりだな」
そう思っていた。
だが、その秋。ドラフト会議の日。まさかの指名がかかる。 「第5巡目、リザーズ、安東悠人、外野手」
どよめく会場。そして、ネットの声。
「親のコネじゃん」「あんなやつ取る意味ある?」「監督が父親だからでしょ」
そう、リザーズの新監督は、つい数ヶ月前に現役を引退したばかりの父・安東大輔だった。
そして、息子の名前を、誰よりも強くスカウト会議で推したのもまた、父だった。 その理由を、父は短く語った。 「アイツはまだ、終わっていない。ここからが始まりだ」
周りの目
プロの世界は想像以上に厳しかった。 父が監督という立場もあり、安東は開幕一軍入りを果たす。 代打、代走、守備固め――少しずつ、少しずつ出場機会を得る。 だが、打てない。守れない。走れない。 努力はしている。それでも結果が出ない。 それでも父は、起用を続けた。 「育てるには時間がかかる。あいつは、必ず花を咲かせる」
けれど、世間はそれを「親バカ」と呼んだ。
「また安東かよ」「どこがいいの?」「だから監督の息子は…」
ネットで、観客席で、ささやかれる冷たい言葉。
チームは好調、首位を争う勢い。しかし、そこに安東の名はほとんど絡まない。 それどころか、彼が出場するたびに監督采配への批判が噴き出す。 「俺のせいで……チームの空気が悪くなってるんだ」
気づけば、クラブハウスで誰とも話さなくなっていた。
打撃練習の後、バットを握ったまま動けなくなる日も増えていった。 眠れない夜。食欲のない朝。野球が、怖くなっていた。
そんなある日、静まり返ったロッカールームで、安東に声をかけた男がいた。
「お前、そうやって一人でいるのがチームのためだと思ってるのか?」
振り向くと、そこに立っていたのは――
リザーズの正遊撃手、そして首位打者有力候補として大活躍中の男、佐藤だった。 「お前がどんだけ打てなくても、どんだけ叩かれてても、 あの人は毎日お前のバッティングフォームを見てた。 『今日は昨日よりバットの出がいい』って、嬉しそうに言ってたぞ」
安東は、息が詰まった。
ロッカールームの床に、ぽたぽたと涙が落ちた。
「外野の声なんて気にするな。お前の価値は、他人が決めるもんじゃない。お前が決めろ」
その言葉は、誰の称賛よりも深く、胸に届いた。
覚醒
日本シリーズ最終戦。リザーズ対ドッグス。 ここまで3勝3敗、運命の第7戦。 8回裏、リザーズは2点ビハインド。 二死二・三塁。観客の視線と空気が一つに重なる。 三塁ランナーは佐藤。 このチームを支え、安東を救ってくれた師匠。 安東監督が動く。 「代打、安東悠人!行ってこい!」
どよめきがスタジアムを包む。
一年前、甲子園でエラーを連発した男。 今季前半は結果も出ず、“贔屓の象徴”として叩かれた男。
だが、後半戦――
代打で出場し始めてから、彼は変わった。 「チャンスに強い」「勝負強い打者」として、 いつしか「安東の打席は何かが起こる」と言われるようになっていた。 本人も気づいていた。 以前は「打たなきゃ」という義務感に押し潰されていた。 でも今は違う。 “自分のスイングをする” “この一打が、誰かの記憶に残るかもしれない” そう思えるようになったのだ。
打席に立つ。
相手はドッグスのセットアッパー、長越。 初球、154キロのストレートがインコースに突き刺さる。 観客が息をのむ中、安東はバットを構え直す。 佐藤が三塁から、静かに帽子をとって彼に頷いた。 「任せたぞ」
その一瞬で、すべてがつながった。
二球目、外角低めの変化球。
――振った。
鋭く振り抜かれたバット。 白球は一瞬止まって見えたかと思うと、センターの頭上を越えていく。 二者生還。スタジアムは歓喜に包まれた。 同点。 そして、流れは完全にリザーズへ。 9回裏、リザーズは太田のタイムリーでサヨナラ勝ちを決めた。 歓喜の中、安東監督が宙に舞った。
ヒーローインタビューに呼ばれたのは、
サヨナラタイムリーの太田、そして安東だった。 マイクを握りながら、安東は目を潤ませて言った。 「これは、僕だけの力じゃありません。 父さんが、僕を信じてくれたから。 佐藤さんが、僕に立ち上がる勇気をくれたから。 僕は今日、ここに立てています」
父・安東監督は遠くからインタビューを見ていた。
誰よりも静かに、そして誇らしげに拍手を送っていた。
この優勝を皮切りに、リザーズは圧倒的な黄金時代へ突入する。
翌年も、そしてその次の年も日本シリーズを制し、 見事「三連覇」を成し遂げた。 安東も代打からスタメンへと成長。 勝負強さとチームプレーを兼ね備えた選手として、 リザーズの中心に名を連ねていく。 一時は“親の七光り”と揶揄されたその名が、 いまや“リザーズの若大将”と呼ばれるようになっていた。
だが、栄光には終わりが来る。
三連覇後、リザーズは太田の移籍や吉川の怪我、主力外国人の帰国などが重なり、 毎年「惜しいところまでは行く」が、あと一歩届かないシーズンが続いていた。 |
+ | 立原 【異星人・立原伝説】141作 |
立原はもう今ではすっかり衰えた。出場機会は代打でたまに出る程度。だが、グッズ売上では毎度上位に食い込む。若いファンの中には「こんなオッサンがどうして…」と思う人もいるかもしれない。
その理由は、オールドファンに聞けば分かる。オールドファンに立原の話をすると、目の色を変えて生き生きと語りだす。「彼を超えるスターはこの先50年現れないだろうね」と話すファンもいるほどだ。
そう、全盛期の彼は、誰もが憧れ、畏れ、認めるスーパースターだった。
プロ初打席はまさかの…
彼は高卒即プロで、奇しくも地元・シャークスにドラフト4位で入団。ずっと応援していた地元球団への入団をとても喜んだそうだ。
といっても当時はまだまだ荒削りで、長打こそ多いが三振ばかり、ファームでも打率は1割台と、ルーキーにしても何ともいえない成績。 しかし当時のシャークスは、後に殿堂入りもする名キャッチャー・本田こそ大活躍していたものの打線は壊滅状態、代打の候補にすら喘いでいる状況だった。 監督はやむなく立原を代打要員として一軍に昇格させた。苦渋の決断ではあっただろう。 そして、7月のドッグス戦でその時はやってきた。
──9回表1アウト1,3塁。差は一点。打席にはルーキー・立原です。初の一軍での打席になります。ファームでの成績は…
初球、相手投手・牧野のフォークに豪快な空振り。しかしその覇気にスタンドが湧く。
──初球から豪快にいきました。思い切りの良い選手と聞いています!
2球目、ストレートを大きなファウルに。またも球場が湧く。
──おぉ、ファウルですが凄い当たりです!これは…
3球目、
振り抜いた。
──高く上がったぞ!どうか!どうか!フェンスの上… …超えたーーー!超えました!なんというルーキー!プロ初打席でホームラン!しかも逆転の3ラン!
球場は湧きに湧いた。新たなスラッガーの到来に鮫党は歓喜の大合唱を繰り広げた。
プロの壁
しかし、プロの壁は厚かった。
左翼でスタメン起用されるようになるも、内角高めが苦手なことを見抜かれて徹底的な内角攻めに遭い、打率は1割台前半まで下降。守備もまだまだお粗末でエラーを連発。再び二軍に落とされた。
立原は落ち込んだ。「俺はプロでやるにはやはり実力が足りないんだ。練習しても成長している気がしない…」と。
そこに手を差し伸べたのが、捕手・本田であった。 当時、高卒からまだ数年しか経っていなかったにもかかわらず天才的なバッティングを見せ、打撃の達人と称されていた彼は、立原の素質を肌で感じ取り、直接ファームまで出向いて声を掛けに行ったのだった。 そこで立原は、打撃フォームの修正とともに「振る時は思い切り振れ。中途半端な三振が一番格好悪い」という言葉をもらったという。 のちに「これは僕の野球人生を変えた一言ですね」と振り返る。 復活の時は来た。
18歳(1年目)12試合 .140(.140) 1本 4点 0盗
復活と決意
本田の指導を受け、再び結果を出した立原は、翌年のシーズンからまた一軍に戻った。
空振りは依然多かったが、ホームランも増えた。 監督は「アイツのやりたいようにやらせたいと思う」と話した。それだけ、彼のホームラン、そしてパフォーマンスには価値があった。 一軍には守備も求められる。厳しい練習にもついていき、気づけば適性は7、肩は9にまでなっていた。
そして…
23歳になった年、本塁打王争いに最終盤までついていくほどバッティングの調子が良かった立原。争いの結末はリザーズとの三連戦にかかっていた。リザーズの4番・安東大輔はここまで41HR、対する立原は39HRと熾烈な争い。立原もやる気に燃えていた。
しかし、彼に足りなかったのは勝負強さと冷静さだった。
初戦、安東は42号ソロを放ち数字を伸ばした。だが、立原は力みが目に見えて出ていた。4打数3三振。第2戦も2三振。結局、一本の安打すら放つことができず、ホームラン王を安東に譲ることとなってしまったのだ。 またも「プロの壁」を実感した。しかし、今度は挫けなかった。むしろ闘志がたぎった。偉大な野球界の先輩である安東をも、立原は越えようとしていた。
23歳(6年目)116試合 .258(.268) 39本 87点 2盗
安東に引退を決意させた一試合
翌年は、序盤に怪我を負い出遅れ、またもホームラン王はかなわなかった。
しかし、そのさらに翌年のシーズンでは序盤から飛ばしまくった。前半戦だけで25ホーマーと、50本も射程圏内。逆境にも見違えるほど強くなり、ビハインド時は手がつけられなかった。
そして、またも安東擁するリザーズとの三連戦。
この年の安東は急激にガタが来ていた。加えて膝の怪我もあった。一昨年シーズンも、実は膝に爆弾を抱えた中でのプレーだったのだ。引退も頭をよぎっていたという。
そんな中、立原は初戦で2本のホームランを放つ。その次の試合も4打数3安打の大活躍。まるで、一昨年の悔しさを晴らすかのように打ちまくった。
しかし、安東氏がのちに語ったのは、意外にも三振を喫した第3戦の打席についてだった。
「高めのストレートにフルスイングで空振り三振。でも、それだけで観客は湧いた。本人もどこか清々しい表情だった。
そこで、あ、僕は勝てないと思いましたよ。三振でさえ持ち味にしてしまう選手。そんなのは初めてでしたね」
その年、安東は引退した。45HRを放ってホームラン王になった、立原への賛辞とともに。
25歳(8年目)143試合 .265(.283) 45本 97点 1盗
ライバルを振り切った、汗と涙の2度目
この頃には鈴木、小林、沢口といった長距離砲がたくさん生まれていた。立原はなかなか上がれずにいた。最初のホームラン王から4年、この間一度もホームラン王に輝けなかった。
そして、初のホームラン王から5年が経ったシーズン。
パワーと華の立原、安定感抜群の鈴木、強肩強打捕手小林、技巧派スラッガー沢口という4者の激しい激しい争いとなったこのシーズン、立原は久々に怪我なく最終戦までたどり着いた。 優勝は岡村擁するファルコンズで確定していた。あとは、ホームラン王が鈴木か、立原かというところだった。 鈴木とは最終戦までで47本と並んでいた。この1戦が勝負を分ける。
立原は、あの1安打も打てなかったリザーズとの三連戦を思い出した。不安がよぎる。相手はここまで47本も積み上げてきたんだ。
しかし、あのときの自分とは違う。俺だってここまで47本打ってきたんだ。 もう、チャンスに弱い立原は存在しなかった。
──立原、初球を振り抜いたーー!第1打席、まさかの初球ホームラン!
──立原、また打ったーー!!2打席連続!相手を突き放す2ランホームラン!
──第3打席は… 空振り三振!岡村の渾身のストレートにフルスイングしましたが、惜しくも空振りの三振です!
夢の50本まであと1本に迫った。第4打席。
──岡村のあとを継いだ串本ですが、なんとか抑えたいところ… …立原打った!特大!特大ーーー! バックスクリーンだ!!立原、まさかの一試合3ホーマー、そして、50本達成!!彼は異星人なのか!同じ星にいるとは思えない漢だ!!!
これ以上ない形。文句なしの最強打者の称号を、「異星人」という、敬意を込めたニックネームを与えられた瞬間だった。
30歳(13年目)143試合 .274(.314) 50本 109点 0盗
衰え、しかし
しかしこれ以降の立原は大きく衰えた。かの安東もそうだったように、全力でスイングするゆえ、体への負担は尋常ではなかった。怪我も増えた。シーズンを完走できないこともあった。
そんな中行われたのが、本田の引退試合。
立原が慕ってやまない、打撃の師だ。 監督はかつてのように、キャッチャー本田、レフト立原という3,4番コンビを起用。 その試合は、昨季ホームラン王の沢口擁するアリゲーターズだった。
序盤からアリゲーターズがリード。捕手として出場した本田も、肩・体ともに限界を迎えつつあった。
そんな中で、9回ウラ。 差は3点。しかし、1番浪岡、2番藤代の連打から、3番・本田。
──本田、おそらくこれが現役最終打席です!
カキン!
──打った!打った!本田ーーー!!! 劇的、同点に追いつく3ランだ!現役最後に、とんでもない意地の一打!シャークス同点!
そして、打順は立原に回ってきた。
──立原、ここで一発出れば…
ブシューーーーン!!
──初球打ったーーー!!!サヨナラだーーー!!!
敬愛してやまない先輩の引退試合は、本田と、そして自身のアベック弾で決めた。
本田に引退の花束を渡したのは、かつての黄金バッテリーの片割れ、大平と、弟子の立原だった。 立原は、周りの目もはばからず泣きに泣いた。 本田に「オレより泣いてどうするんだよ」と笑われた。 しかし、本田も泣いていた。
★44歳(27年目)18試合 .216(.225) 2本 11点 0盗
そして、その後
そして、今から数年後のシャークス。
監督はバッテリーコーチから昇格した本田が務めていた。そして、その横に立つのは、バッティングコーチ、立原だった。 シャークスは、外国人二人が帰国、南方がメジャー挑戦でそれぞれ抜けたことで生え抜きが奮起し、まさに黄金期とも呼べる快進撃を起こしていた。
本田「今のシャークスなら、優勝もいけるんじゃないか」
立原「いきたいですね、結局僕達がいた頃は優勝できませんでしたからね」 本田「そうだな」 本田「でも、俺達がいたころも、あの外国人が二人いた時もできなかったんだからな、道のりは厳しいかもな」 立原「いえ、いけますよ。絶対に」
立原「俺達の経験と技術を、彼らの努力と才能に結びつけたら、最強ですから」
立原「…あといざとなれば、代打オレもいけますよ!」
本田「なんじゃそりゃ!」
優勝への道のりは、そう遠くなさそうだ。
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+ | 川島 【早瀬監督に育てられたエース】猛虎魂製作中 |
伸び悩むプロ入り
実は川島は甲子園準優勝に貢献していたのである。
甲子園出場時
ロングリリーフで出場した準決勝では1点差に追いつくソロホームランも放った。
高校3年では強い選手であった。しかし同じチームには南方がおりあまり目立っていなかった。。当初クロウズはドラ1に南方、2位に川又、3位柳瀬、4位篠原を入れるつもりだった。だがその案を見た早瀬監督は川島を1位にして入れようといったのである。何故なら南方を見に行った際、南方より速い球を投げ、南方より長打力のある選手を見つけたのである。早瀬監督はなんとかスカウトを説得してドラフト会議で1位川又2位柳瀬3位篠原4位川島で入れさせた。 プロの壁
1年目は消化試合での一軍出場1試合のみだった。クロウズはまずは体を作らせるところから始めた。しかし二軍では投手として4試合出場し、防御率3,21だった。
★実装段階
2年目は足の怪我により育成選手にされた。3年目は怪我は治ったものの成績は安定しなかった。
川島はチームをやめたくなった。それを2軍監督であった保田監督に相談した。その時初めて川島は早瀬監督がこのチームに入れてくれたことを知った。そこからやる気がわき、秋季キャンプの教育リーグでは防御率3,12 打率2,52とアピールに成功。春季1軍キャンプに参加できることになった。 夢の開幕一軍
秋季キャンプではコントロール、春季キャンプではカットボールを磨いた川島は開幕戦で7回と8回に同期の柳瀬に代わり出場、3安打無失点だった。スポーツ新聞では 同期の二人のYKリレーでラビッツ零封! という記事が載った。
4年目 打撃成績23試合 18打席 .274(.314) 3本 5点 0盗 投手成績23試合 133打席 .323
これを見た早瀬監督は驚いた。そして自分の持ち球で魔球とまで言われた縦スライダーを川島に教えることにした。
そして取得した川島は縦スライダーとストレートで無双し同期の柳瀬とともに2本柱と呼ばれるまで成長した。 5年目 打撃成績23試合 48打席 .274(.314) 5本 11点 0盗 投手成績23試合 612対打席 .139
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+ | 村下 【内外野を飛び回った激動の記録】亀つん作 |
首位打者、本塁打王、盗塁王、ゴールデングラブ…。選手を称える称号は多くある。しかし、これらに届いたことが一度もない彼を、私は愛した。
無名のルーキー
ドラフト会議の日、村下はカメラに目を合わせる余裕などなかった。彼は社会人となり、なお野球を続けていた。無名の高校時代を過ごし、推薦を貰えなかったために自力で大学に進学した。大学の中では成績を残した方だが、プロからは目も向けられなかった。15年程願った大舞台へのラストチャンス。目を閉じて願う。
「第六巡選択希望選手 タートルズ 村下」 呼ばれた。体中から力が抜けた。決して高くない順位からの逆襲を誓った。
24歳(1年目) 2軍8試合 .167(.230) 0本 1点 1盗
社卒といえど、所詮下位相当の実力だった。広い守備範囲を拾っての指名だったが、タートルズにとっては屁でもない実力としか言えず、増して打撃は2軍すら怪しい実力だった。25歳の彼は戦力外も視野に入ってしまった。
ユーティリティプレイヤー
25歳(2年目) 2試合 .000(.000) 0本 0点 0盗
オフにファーストの守備の猛練習をした。持ち前である守備を生かすには、チームの穴であるファーストに出ることしかなかったからだ。この頃は宇崎がおらず、安定していなかった。守備固めくらいなら出れるかも、と信じて練習を重ねると、1軍として試合に出られた。しかし、初打席はまだであり、課題も残ったシーズンだった。
覚醒の年
28歳(5年目) 127試合 .273(.287) 2本 36点 9盗
いつかくるスタメン奪取のために守備を磨き続け、全てのポジションで高い守備を持つことができた。4年目に80試合に出場すると、守備の手応えを感じ、課題の打撃に励んだ。その成果が現れ、打撃が開花したのであった。惜しくも規定打席には到達しなかったが、レギュラーを掴んだ彼は来年花開く、誰もがそう思っていた。
2度目の挫折
29歳(6年目) 17試合 .275(.292) 1本 6点 2盗
4月19日の4回の裏以降、彼は球場に姿を見せなかった。ショートとして試合に出た彼は、フライを追いかけて飛び込んだとき壁に激突。脚の痛みで立つことができなかった。医師から診断された病名は「靭帯損傷」。そのまま引退することすらよぎる大怪我だ。ユーティリティプレイヤーは、あまりに大きすぎる壁にぶつかった。
復活
★32歳(9年目) 101試合 .269(.285) 2本 28点 5盗
「あの時の村下が戻ってきた」そう呼ばれた1年だった。外野のスタメンは勿論、宇崎の加入による一塁の守備固め、ベテラン植松の休養日の時のセカンドと内外野を動き回った。その姿は多くのファンを感動させた。本人も、「今、野球をできていることが何よりも嬉しい」と言葉を残した。
名手でなくとも
34歳(11年目) 22試合 .197(.232) 0本 3点 1盗
怪我を乗り越えた彼の体は既に限界を迎えていた。復活の年以降は徐々に成績が低下。新堂浩二の台頭などもあり出番は減っていった。主に一塁と外野の守備固めとして出場しながら後輩の指導も行った。若手の芽が出てきたチームは2位まで浮上。これを見た村下は引退を決意した。激動の12年、一度も規定打席には乗らなかった。ただ、「賞を取った名手」でない彼は、後輩から、監督から、そしてファンから信頼された選手であった。
勇姿
村下は2軍の守備走塁コーチとして奮闘している。まだ若い彼は選手と近い目線で指導し、様々なポジションの選手から信頼されている。夢は教え子がゴールデングラブを取ることらしい。彼の勇姿は、きっと、受け継がれていく。…ただ、ショートには少々のトラウマを抱えているらしい。
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+ | 福田 【走攻守3拍子揃ったチームの柱】tatsu作 |
20xx年、福田は大学野球で好成績を残したことが評価され、タートルズからドラフト2位で指名を受けた。打撃が武器の選手として評価されていたが、その身体能力の高さから将来的には走攻守3拍子揃った活躍が期待された。
22歳(1年目) 1軍出場なし
キャンプの際、その身体能力を活かしたアグレッシブな守備でアピールを試みたところ、脚を負傷してしまった。大事には至らなかったものの、キャンプを完走することができなかった。シート打撃でホームランを放つなどの活躍もあったが、福田のプロ野球人生は出遅れることとなった。結果的にルーキーイヤーは上手くいかず、1軍出場はなしに終わった。
24歳(3年目)35試合 .232(.269) 2本 7点 1盗
2軍などでアピールを重ね、首脳陣からの評価も少しずつ上がってきた。この年は1軍まとまった打席を与えられ、経験を大いに積むことができた。打率こそ振るわなかったが、本塁打を2本放つなど長打力を見せつけた。しかし、チャンスで変化球に対応できずあっさり三振したり、俊足だが走塁ミスもあったり、守備でも大事な場面で落球や暴投をしたりするなどやらかし癖が散見された。ファンや首脳陣に対して、走攻守全てにおいてよくも悪くも爪痕を残した。
★28歳(7年目)128試合 .261(.336) 12本 50点 10盗
かつてはやらかし癖もあり、あと一歩レギュラーの座を掴むことができていなかった。しかし経験を重ねるうちに実力がつき、ミスも減っていった。そうして首脳陣からの信頼を得てレギュラーに定着。このシーズンは自身初めて規定打席へ到達し、オールスターへの出場も果たした。高い身体能力を存分に活かし、ここから福田はチームの中心選手として活躍していくことになる。
30歳(9年目)140試合 .303(.378) 20本 77点 15盗
このシーズンは序盤から好調で、キャリアハイの成績を叩き出した。中心選手として仲間たちを引っ張り、チームの上位進出に大きく貢献した。主要なタイトルにこそ届かなかったものの、全ての打撃成績でリーグ上位の数字をマークした。加えて守備でも貢献し、GG賞を獲得。同時に、ベストナインにも輝いた。
35歳(14年目)99試合 .245(.315) 3本 25点 0盗
数年前はチームの柱として活躍していたが、年齢には勝てずパフォーマンスが落ちてきた。もう自分がレギュラーを張る時間は過ぎたと考えた福田は、代打という役割を担うことに決めた。このシーズンの多くは代打での出場となった。かつてのようなダイナミックなプレーは見られなくなったが、ベテランの勝負勘を活かしたここぞの打撃でチームを支えた。
37歳(16年目)27試合 .125(.185) 0本 3点 0盗
あるときは優れた身体能力の期待の若手、あるときはチームを引っ張る中心選手、あるときは代打の神様。そんな福田だったが、グラウンドから去るときがきた。このシーズンは開幕から不振に苦しみ、2軍降格後も調子が上向かずにいた。年齢にはどうやっても勝てない。ここが引き際だと考えた福田は、夏場に引退を表明した。そして引退試合が行われ、多くのファンの歓声を浴びながら「通算成績1083安打、93本塁打、79盗塁、GG賞3回、ベストナイン2回」の野球人生に幕を閉じた。
その後...引退後は解説業を務めることにした。それと同時に、タートルズの打撃コーチ就任を目指してコーチングについて勉強しているようだ。
終
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- テスト -- 名無しさん (2025-01-15 23:33:05)
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