◆


「───よう。あんたか、久しぶりだな。だいたい1ヶ月くらいか?」


「なに? 来たのは初めてだ? おいそんなワケねえだろ………………ああ、そういう事ね。順序が少し入れ替わってんのか。
 (オレ)相手で、しかもこんな場所だ、意図せず事象の交差が起こる事も、あるんだろうさ」


「なんの話だか分からない? ちゃんと説明しろ? 何だそりゃ、オレへ意見してるつもりか?
 不敬にせよ不遜にせよ、命で支払うべき行為だが……ここでのオレはしがない売人(バイヤー)だからな。
 黙って商品を持ち去る盗人でない限り、銃も爪も引っ込めておくさ」


「では改めて紹介といこう。
 ようこそ、わがベルベットルームへ。
 この部屋は夢と現実、精神と物質の狭間の場所。1日の切り替わり、次の1日が重なり合う一瞬のみ開く青い神殿。
 そして今では、オレの臨時商店だ。期限付きの賃貸だがね。
 店長がオレで、そっちが受付嬢だ。依頼があったらソイツに言ってくれ」

「以後、お見知り置きください、ね。
 ところで兄様。やはりこの部屋、装飾が物足りないのではないでしょうか。訪れるお客に我々の威厳がいまいち伝わってませんし。
 全面ベルベットじゃなく黒曜石に張り替え……せめて翡翠の彫像を置くべきでは?」

「抑えろハチドリ。この部屋借り入れるだけで幾らかかったと思ってんだ。
 模様替えなんざしたら今度はあの嬢ちゃん、小言じゃ済まねえぞ。即死呪文(メギドラオン)ぶっぱされてもオレは知らんからな」


「さて。話を戻すか。
 売っているものは表通りにある日用品とは一味違う。葬者(オタク)ら向けの実用性重視のブラックマーケットだ。
 心臓を引きずり出す為のナイフ。眉間に風穴を空ける銃と弾丸(タマ)
 礼装、素材……大概のものは揃ってると自負してるね。
 言うまでもなく対価は貰う。金もいいが、物々交換でも手を打とう。武器……特に銃なんかがあれば高く買取る。近代兵器ってのに目がなくてね。
 より上物があれば、それ以上に融通してやってもいい。戦おうと意志を見せる者には、オレも援助を惜しまない」


「ほら、座れよ。まずは落ち着いてカタログにでも目を通してな。
 冷やかしならさっさと帰れよ。何度も通ったところでイベントなざ起こりやしねえからよ。
 ああ、ちなみに開くのは零時の今だけだ。客同士でかち合ったりはせんが、後が控えてるんでね。コンビニの24時間営業ってのは努力の賜物だなありゃ」


「とはいえだ、選んでる間に話ぐらいは聞いてやる。なんなら情報料をくれてやってもいい。
 なんせここ1ヶ月ばかり、ドサ回りに専念してたもんで、外の様子をあまり見られてないんだ。
 たとえば、そう────物語なんかがいい。
 この冥界に墜ちたマスター葬者達がどう生き残り、どう戦い、どう死に、そしてこれからどうなるか……そういう物語をな」


 ◆


 ───3月31日。正午。表参道。
 若者のトレンドの震源である原宿から続き、国の最先端のファッションを発信するハイブランドが立ち並ぶ若木の象徴。
 冬の寒気も鳴りを潜めてきた、月替りの真昼時には、連日通りに人の横断が波打っている。
 多くの国において新生活が始まる前日。
 学校の進級と入学、会社への初出勤という激動を前に、若者達は不安を払拭しようと最後の休みを満喫している。

 冥奥領域内の街の住人は、全てが陽を浴びた死が映す影だ。
 聖杯が器の内部に掬い取った死後の魂、あるいは招かれた葬者の焼き付いた記憶から抽出された、戦争を彩る書き割りでしかない。
 どんなに不足で不格好でも、その人をここまで立たせて歩ませてきた過去も。
 過去の経験を土台にして、『どう在りたいか』『どう成りたいか』の指針の向きを測り、先へ進んでいく未来も。
 この総合を概して『人生』と呼ぶそれを、最初から保有していない。

 何を思い、何を選び行動するのか。
 考え、決めているようで、その実起きているのは過去の映像を再生しているだけ。
 設定に準じた編集はされていても、真に結果が変わる事はない。
 この先に訪れる幸も不幸も、それが齎す感情の旋律も、とうの生前(むかし)に決まったこと。
 真実を知らず、役割をこなすだけを求められる。
 既に終わっている運命の歯車を回し続ける彼らは、とても幸福なのかもしれない。
 その死者の葬列に紛れるように混ざりながらも周囲から孤立している様子は、オルフェ・ラム・タオの今の心情を表してるといえた。

 ファウンデーション公国宰相の立場に相応しい礼服を纏っている平時と違い、一般的な現代服の装いだ。
 全体を黒でまとめたパンツスタイルの上にミリタリーフライトジャケットという出で立ちは、21世紀の東京のオフィス街でなんら悪目立ちするものではない。
 オルフェにしてもこだわりがあったわけでもなく、存在しない国家の重役の格好で悪目立ちして敵に捕捉されるなどという愚昧を侵さまいとする配慮だ。
 宇宙進出を果たした未来世界といえど、技術のブレイクスルー、資源や生活環境の激変も起きない限りは、近代以降とコズミック・イラのファッションセンスに然程の齟齬は出ていない。
 あえてみすぼらしく見せる必要もないが、華美に葬者の格式を知らしめるでもない、極めて無難なチョイスのはずだった。

「ククク、目立っているなマスター。まるで黒いカラスの群れの中に一羽だけいる白いカラスの如しだぞ」

 オルフェとすれ違う人、主に若い女性の視線を釘付けにして、往来の流動が歪に滞ってる。
 コーディネイターの上位種であるアコード、その統率者となるべく生み出されたオルフェには全ての要素に最高度の調整を施されている。つまりはとてつもなく美形だ。
 外人が珍しくない表参道でも誤魔化しきれない王者の雰囲気が組み合わさると、街路がランウェイショーにでも立っているように絵になっていた。

「死霊候補の市民に目をつけられたところで厭うものはないさ。それに目立つをいうのなら、あなたの方こそだろう」 

 とはいえ、好奇の目に晒されているオルフェを隣で面白そうに見物しているサーヴァントも、注目の的になっている大きな要因だ。
 英国のティータイムに繰り出す私服の令嬢……映画かファッション誌でしかお目にかかれない絵がそのままの姿で街を闊歩している。
 黒のロングコートから覗く白のシャツにチェック柄のキュロットは、夜色のドレスを着込む普段にはない絶妙な華やかさを与えている。
 そして片手に抱える紙袋からは春の訪れをかき消す……肉、肉、肉の油臭。
 大手チェーン店のハンバーガーセット、ポテトドリンクデザートのまとめ買いを詰め込んだ、風雅なブリティッシュの欠片も感じられない混沌(ジャンク)の山を漁って取り出したバーガーにかぶりつく。
 アルトリア・ペンドラゴン。その異霊(オルタ)たるセイバーのサーヴァントは、冥界でも好き勝手に振る舞う暴君ぶりを発揮していた。

「誉れ高き騎士王が歩き食いとは、嘆かわしいばかりだ」
「糧食に品もなにもあるまい。食える時に食っておくのが優れた兵士というものだろう。貴様の時代には兵站の概念もないのか?」
「我々の時代でファストフードを糧食に含めないのは確かだな」

 戦略をそれらしく語るものの。もっきゅもっきゅと頬を膨らませて言う姿は、実に説得力に欠けている。
 小学生男児さながらの食い意地だが、幼稚さや野卑を露わにしながらも大元の品を損なわれていないのは流石の王族である。


 異境の黒騎士を従えての戦争が始まって、じき一ヶ月が経とうとしている。
 ファウンデーション公国のバックアップも、ブラックナイツの諜報も失った、孤立無援でのオルフェの取った策は実に単純なものだ。
 街を歩き、自身に向けられている思念をキャッチして接敵、もしくは誘導させ戦闘に入る。
 いざ戦端が開かれれば、彼のサーヴァントは相手の尽くを粉砕し、勝利を積み重ねた。
 単体でモビルスーツに匹敵する火力を叩き出すアルトリアの性能を目の当たりにし、取り得る選択肢を更新していく。
 疑いなく頂点に位置するスペック。それを十全に引き出す為の戦術。当然の如く備わった魔術回路から効率よく魔力を捻出する方法。
 想定外であるはずの聖杯戦争の環境にも、アコードは完全に適応を果たしていた。

 アコードが索敵を巡らせ、向かわせたサーヴァントが敵陣を葬り去る。
 互いの能力の相性が型にはまった、理想的な運用の展開を構築し、オルフェは着実に聖杯に近づいている。
 順調に進む王道にひとつだけ気を揉ませるものがあるとするのなら。
 この傲岸で、自分を終始雑に扱い、それでいて世話を焼いてくるサーヴァントを、オルフェは主従の契約以外で屈服できていない事にある。

 命令違反を犯したわけでもない。
 時に独自行動に出るのも、身一つで戦場を駆けた騎士の経験に基づいた判断が功を奏した機会もある以上、咎には含まれない。
 性能が万全で、役割を果たしているのなら、オルフェは諸手を上げて認めるべきである。
 なのにこうも、一本の細い棘が刺さって抜けない不快があるのはなんなのか。
 自分に対等に振る舞い、導くように手を伸ばしてくる事に、いったいなにを──────。

「───……?」

 油で焦がした安い肉の臭いが鼻先に香り、何事かと横を観る。

「仏頂面でいる主へ王からの餞別だ。ありがたく受け取れ」

 粗方腹に納めて一通り満足したアルトリアの手が、紙に包まれた新しいバーガーを差し出している。

「食事は既に済ませてある」
「今後もあんなお上品な皿だけ食べてくつもりか? 
 胡散臭い商人にそこらを蠢く怪異共、そして昨夜の"竜"───おちおち飯を食う暇もなくなる。
 切り替えろ、マスター。戦争はここからが本番になる。選り好みしていれば飢える一方だ」

 口に食べかすをつけての宣言に威厳は微塵たりとも感じられないが、言葉は軍事の理を説いていた。
 この一ヶ月で弱者は淘汰され、戦場の範囲は縮小した。
 これから出会う陣営はいずれも曲がりなりにも死線を越えた猛者達だ。戦線の激化は必至といえる。先の『竜』も、その先触れだろう。
 殊に竜の因子を継ぐアルトリアはその縁から雌伏の終わりを察していたのだろう。暴食暴飲にしか見えない今日の健啖ぶりも、彼女なりの戦いの備えということらしい。
 いや、だからといってジャンクフード三昧に納得がいくわけではまるでないのだが。

「まずは食え。戦場で生き残るのは、どんな状況でも生きる意志を捨てぬ者だ」

 いつまでも口に付くまで押し付けられる臭い。
 ここで反論しようと無駄だろうと観念して、渋々と包みを受け取る。
 袋を開き、バンズに挟まれた肉を薄く開けた口で噛み千切り、ゆっくりと咀嚼して嚥下する。

「……………………………………………………雑だな」

 初めて口に入れた味の感想は、そのようなものだった。


 ◆


 天堂弓彦()の朝は早い。

 学校や会社に向かう通行人の喧騒に気を煩わせる前に起床し、典雅に身支度を整える。
 朝食を済ませた後はパソコンを立ち上げネットサーフィンを開始。匿名をいいことに日頃の不満鬱憤を撒き散らしている咎人の身辺情報を把握する。
 不特定多数に向けて賢しらに誹謗中傷を真理であるかのように語って満足する咎人は、自分や身内を特定される証拠を開示している事に指摘されるまで気づかない。
 気づいた時には、既に神の審判は下され、眼前に揃えられた罪によって真になる罰を受ける。
 SNSだろうが懺悔室だろうが、セーフティが保証された状態で、顔も知れない相手に告解をしたところで、罪が赦されるわけがない。
 罪には罰を。虚偽には報いを。欺瞞には神手ずからの救いを。
 神の朝の日課はこのように進み、また世界から悪は消え去り善人の比率が増すのだ。

 冥界に赴いてからの神の日課には、ひとつ新たな項目が足されている。
 咎人の罪状以外にも、街全体で起きた事件、事故に関しての目撃証言。
 自ら変わる運命を持たない死者は、踊らされるままに戦争の在り様を実況する。熱狂という、苦痛を忘れる麻酔を打って。 
 現に懺悔室にも、その手の関連の被害や罪を、自己弁護を混ぜて赤裸々に語ってくる。
 神はこの家から動かず、他の陣営に探りを入りすらせず、信徒が自ら進んで裁くべき悪の所在を知らせてくれる。
 そして藁の家を暴かれた悪は、神が放った槍に貫かれて浄化される。これこそ神のお導きだろう。
 暴力行使が解禁された1ヘッドの総取り戦でも、天堂は盤上を自在に操作して戦局を進めていた。

「起きるがいいランサー。信徒たるもの朝の陽を浴びねば良き一日を過ごせぬぞ」
『ん───────』
「ランサー」
『んん~~~~~~……』

 脳の中で、妖精のぐずり声が聞こえる。
 毛布に包まって愛くるしく寝返りを打つサーヴァント、メリュジーヌの姿を見れるのも、今のところ神のみの特権である。

「……まったく。神の騎士としてのお前は申し分ないのだが、信徒としてはまだまだ学ぶべきことが多いな」
『だから言ったじゃん……僕は朝弱いんだって。妖精国でも基本午後出勤なんだよね。最強だから。ふぁぁ……』
「ならば尚更早起きしろ。朝一番に神のご尊顔を拝めば眠気など吹き飛ぶぞ」
『そりゃ目覚めてすぐに君の顔なんか見たらそうなるだろうけどさぁ……』

 寝坊して気怠く項垂れる信徒と、それを嗜める神。
 天堂にとっての現実はそう定義されている。外から見れば、虚空に向けてまるで託宣でも受けてるかのように呟く神父だとしても。

『特に今日はさ、いつもより少し疲れてるんだ。もう少し寝かして欲しいんだけどなぁ』
「昨夜の敵はそれほどの強さか。いよいよ裁くべき真の悪が尻尾を出したようだな」

 31日0時。
 常勝無敗、座して手札を揃え他陣営から略奪してきたこの主従にとって、初めて動きを迫られる日になった。

 神罰の代行者であるメリュジーヌの刃鱗でも殺しきれず、その機動に追従して手傷をも与えた"竜"。
 拮抗した対戦相手との空中戦は長引き、結果乱入者の入り込む余地を与えた。
 今までにない複数の戦況の混雑が、勝負を有耶無耶に帰し、半端なままに流された。

 引き分け(ドロー)に終わって、1ヘッドはおろか5スロットですらない些細な負債。
 だが竜の妖精を擁する神の陣営が白星を取り逃した事実は大きい。昨夜の光景は複数の陣営に映っただろう。
 彼らは無敵ではない。抵抗する勢力は存在する。
 冥界は神の運命すら奪いにかかると、これで証明されたのだ。
 今後は俄に色めき立った愚か者が、漁夫の利を得る腹積もりで教会に列を成すやもしれぬ。
 実際は殆ど無傷なのだから鎧袖一触であるし、咎人を一掃するいい機会ともいえるが。

『……あれ、怒ってないの?』
「ん? ───成る程。罰を与える天命を失した事で、神の怒りが降りかかるのを恐れ、御前に顔を出したくなかったのか。
 正しい態度だ。自ら罪を悔い改めるとは、やはりお前は信徒の鏡だぞランサー」
『え、いや別に悔いとかはないけど。別に負けてないし───』
「失敗を恐れ不安に苛まれる、それは現状に満足せずにお前が成長を止めていない証だ。その殊勝さを忘れるなよ」

 メリュジーヌの言い分も聞く耳持たずに託宣を示す。妖精の呆れ顔は、今度は神にも見えていない。
 穂先が罪人を貫けず弾き返されても、神は惑わない。
 戦術の見直しを促すような場に当たっても、居住まいを正す真似はしない。
 自分自身への絶対の信仰。世界を見通す全能との一体感こそが、天堂弓彦の最大の武器。
 それ故に己の映る鏡を割られ敗北した疵も───決して忘れていない。

「捨てられる神あらば、拾われる神あり。
 そして当然、神は信じる者を須らく拾うのだ」

 自己陶酔を高める神の顔が、ディスプレイの点灯で影を被る。
 新たな投稿は、『化物から自分を助けてくれたヒーロー』の投稿が、目まぐるしく表示数を増やしていた。


 ◆


「思い知りましたか悪党ども! この冥界の守護神、宇沢レイサとライダーがいる限り、罪なき人々を傷つける事はできないと知りなさい!」

 炎上する木々、凍結した道、切り拓かれたビル。
 末法の到来した惨憺たる有り様と化した街でも、小さな背中には星が輝く。

 胸元で両腕を組み、仁王立ちで勝利を宣言する。砂場遊びの権利を勝ち取った子どものような無垢さに、誇りと信念が混入している。
 言葉にするだけで指を指される正義という行いを、実際に成し遂げた者にのみ顕れる顔。
 宇沢レイサは晴れやかに、遠ざかる背を見送りながら勝利を宣言した。

「決闘ならいつでも受けて立ちますからね! その時は誰にも迷惑をかけず、正々堂々と戦うこと! いいですね!!」

 敵の影を追いはしない。こういう時に深追いは禁物だと、自分のサーヴァントから教訓を受けたからだ。
 マスターの立場であるものの、レイサは英霊に多くの知識と経験を分け与えられてる身だ。
 戦い方ひとつとっても、レイサだけでは思いもしなかった発見がこれまで多くある。
 今までの自警活動が素人に毛が生えた程度でしかないと痛感する。ライダーに励まされなければそのまま不貞腐れていたかもしれない。

「……よし。相手は完全に撤退したな。じゃあおれ達も急いで離れるか、マスター」
「はい、くまさ……ライダーさん!」

 そのレイサのサーヴァントであるところの、バーソロミュー・くまは、巨躯に見合わぬ繊細さで、安全が確認される最後まで哨戒を解かない。
 裁量をレイサに任せながら、自身はマスターが脅かされないよう入念に脇を固める。
 気持ちが先行しすぎて足場を踏み外すのもままあるレイサのサーヴァントには、うってつけの人物といえた。

 冥奥領域内でも、レイサはトリニティ自警団の活動を延長している。
 街中をパトロールし、異常を感知すればくまがすぐさま空気を弾いて跳び、徒に被害を広げる陣営を成敗する。
 聖杯戦争で最も意味のない、生還にも利益にも繋がらない行為を、ずっと繰り返していた。

 愚かと指摘されれば、くまは頷かざる他ない。
 実のない救助活動に精を出すレイサにも、それを放任しているくまにも、多くの陣営は冷ややかな侮蔑を送るだろう。
 特にサーヴァントの立場にしてみれば、くまの行いはまず論外。
 自身の願いを叶えるのは勿論、マスターを元の世界に帰すという善なる目的にすら、これは何ら寄与しないのだ。

 人を助ける。社会の治安を守る。
 善行だ。称賛に値する。多くの感謝を送られるだろう。
 しかしそれは全て正常に運営される現世における規範。
 統べる王もいない混沌とは、守るべき秩序からして無の混沌だ。

 世界は思うように動いてはくれない。
 暴力が秩序を振るい、愛も正義も飲み込み暗い底に沈めていく。
 過酷な海の世界に生きたくまにはそれはが分かる。
 体も心も明け渡さなくては一人の娘も守れないほど、世界は残酷だ。
 殺したとて咎められぬ。壊したとて糾されぬ。
 正義に喝采は怒らず、愛に抱擁は訪れない。
 あらゆる悪徳は免罪され、都市は欲望で腐乱し、獣の口にしか合わない味に爛熟していく。

 だが、それでも。
 正義と平和を無意味と嗤われる事には、幾度も拳を振り上げよう。
 少女の幼く、拙い、新芽のような未来を摘もうとするなら、あらゆる害を弾き飛ばそう。

 『死んだ人を痛めつけることが、正義のはずじゃありませんから』

 くまの抱く危惧を杞憂と吹き飛ばした、少女の言葉。
 素朴な善性だが、そうだ。死者を尊ぶのは冥界であろうとも、だからこそ守られるべき最後の一線だ。

 (そうさ。マスター、きみは間違っちゃいない。きみの"正義"は必ず、ここにいる誰かに届いている)

 正義とは法でなく、意志である。
 どれだけ踏み躙られても、泥で穢れ切っても、受け継がれるものは必ずあると、信じている。

 そして、世界はそう捨てたものじゃないのも、くまは知っている。
 死んだ方がいいとまで絶望していた自分がそうだったように、旅路には出会いがある。苦楽を共にする仲間が得られる。
 レイサの思想に理解を示し、共に戦うと申し出てくれた、本物のヒーローが。

『ハロー、レイサ。助けは要りそうかい?』
「ピーター君! こっちは大丈夫です、もう終わりましたよ!」


 ◆


 レイサのいる市とは1ブロック離れた地区で、通信機越しに話す全身赤青のコスチュームマン。
 ピーター・パーカーの名は誰も知られず。しかしてそのスーツを着て東京を跳び回る存在は多くの人に知れ渡っていた。

「オッケー。僕の方もリフォーム完了したところ。
 ああそれと、こういう時はそっちの名前じゃなくて───」
『あっそうでした! こちらも任務完了しました、スパイダーマン!』
「うん合格。けどボクはキャプテンじゃないからね、もっと砕けて話していいよ!」

 支柱が溶解して根元から倒壊するビルを、そこから落下する人を張り付け、あるいは絡め取る糸。
 甚大な犠牲は免れない惨事を食い止めた蜘蛛の糸は1本と言わず、関わった者全員に例外なく行き渡る。
 遥かニューヨークから冥界の東京に移住したクライムファイター、スパイダーマン。ヒーロー活動絶賛継続中。

「マスター! 周囲の避難終わったよー!」
「ありがとうセイバー! じゃあボクらも退散しようか!」

 鋼の翼を生やす機人。
 上空からの周辺状況の報告と住民の避難を引き受けたレイが戻って来たのを見て、ピーターも撤収を始める。

「大丈夫? ゴメンね綺麗なジャパニーズ・キモノなのに。申し訳ないけどビルで潰されるよりはマシだったって我慢してほしいな。
 それにボクの糸は清潔だからさ、意外といい飾りになるかも!」

 ビルの壁面に糸を射出して体を引っ張り上げた勢いを維持したまま次の壁に糸を飛ばしてを繰り返して、摩天楼を抜けて行く。
 立つ鳥跡を濁さず、事件を解決したヒーローが現場に長居するものではないのだ。

「やっぱりさ、レイサもここではマスクをしておくべきじゃないかな。ヒーローは敵が多いからね。
 身内が危ない目にあったり、安心して学校にも行けなくなっちゃうよ」 
『うーん……それはそうなんですけど、キヴォトスで顔を隠してるのは悪党ばっかりですから私には印象が悪くて……。
 いえスパイダーマンは素晴らしいヒーローですよ! 最初に悪党だと決めつけて銃をぶっ放した、過去の自分が恥ずかしいです!」
「うん、誤解が解けてくれてボクもホッとしてるよ。けど女の子なのにあんな慣れた扱いで銃を使うなんて、キミの街も大変そうだ」
『はい! キヴォトスは常に火砲と硝煙が絶えない街ですから!
 カタカタヘルメット団やジャブジャブヘルメット団なんかもいますが、中でも最近凶悪なのが、覆面水着団という組織です!
 5人組の犯罪集団で、闇市場にある銀行の強盗なんて準備運動扱い、学生運動や学校同士の対立にも噛んでいて、噂では連邦生徒会の金庫も狙っているなんていうとんでもねぇ連中なんですよ!』
「覆面に水着! ずいぶんホットな犯罪者だ。これボクの翻訳がおかしいわけじゃないよね?」

 冥界の治安維持、自警のボランティア活動を自発的にしていた2組のマスター。
 両者が早々に接触するのは必然であり、共闘の関係を結ぶのもまた必然だ。
 これにいち早く順応したのがレイサだ。年齢が近く同じ志で人を守るピーターをレイサは先輩と仰ぎ、屈託なく慕ってくれるレイサをピーターも信頼していた。
 サーヴァントも同盟を快く了承し、陸海空、あらゆる環境に対応した、海賊と閃刀姫と女子高生の混成ヒーローチーム。
 願い自体を否定するわけじゃない。戦わなければいけない理由の重さを、4人は理解している。
 法の敷かれぬ冥界において、無用の破壊の場に現れ被害を食い止める、抑止力の役目を請け負っていた。

「マスター、楽しそうだね」
「そう?」
「うん。なんか前より笑ってることが多くなった!」

 スウィングに並走して空を飛ぶレイは笑う。マスクで顔を覆ったピーターの分も補うとばかりに華を咲かす。
 戦いの最中であってもお喋りを欠かさないマスターをレイは好んでいた。
 不真面目さではなく、弱気になる心を鼓舞し、自分を見失わない姿勢からだと知っているためだ。
 それでも時折覗く難しい顔……掌から砂のように零れ落ちた何かに思いを馳せる顔を見る度に、哀しさを感じていた。

 レイサが新たなマスターの仲間に加わってからは、その頻度も減った。
 落ち着きがなく、目を離せば何処へ消え失せるか分かったものじゃないレイサの対応に追われてるだけかもしれいが、それでもレイには嬉しかった。
 今している事もそうだ。死者すら見た事のないレイには、生者との区別もつけられない。
 人がいるのなら話したいし、仲良くしたい。襲われるのなら、守りたい。
 誰に無意味と罵られても、殺し合わず、共に生きようとする意志を、心を、レイは無駄に消させたりはしない。


「楽しい、かぁ。本当はこういうのをやらないのが一番なんだけどね。でも……」
「?」

 一旦言葉を切って顔を上げる。こみ上げてきたものに必至に耐えて見栄を張る。

「うん、でもいいよねチームって。みんなでやってるって感じがしてさ。
 うん───やっぱりいいね」

 戦いの中にいるのは分かっている。欠けた空洞を埋め合わせしたいわけじゃない。
 けど親愛なる隣人スパイダーマンとしてでなく、スーツを脱いだひとりのピーター・パーカーとして。
 自分を知る誰かと隣にいられる瞬間を、今は噛み締めていたかった。


 ◆ 


 糸に引っ張られて建物の天井に昇って去っていく覆面の人を目で追う。
 身の毛もよだつ怪物の襲来から、颯爽と現れ被害者を助け出して退散するまでが、何もかも瞬く内の出来事。

 こうした事に慣れているのだろう。
 熟練の兵士のような無駄のなさは、今回が彼にとって初めての救出劇でないのを表している。
 誰かの悲鳴を聞き届け、どこからともなく駆けつけて悪漢を成敗し、疾風のように去っていく。
 現実にはいないとされる、絵物語だけの主人公。
 そういう人物を、この時代ではヒーローと呼ぶらしい。

 龍賀沙代も、昔はヒーローに憧れた。
 自分を囚われの姫に置いた、悪鬼の魔の手から解き放ってくれる英雄譚に憧憬した。叶うはずのない夢物語と、理解した上で。
 王子に救われるのは、穢れなき王女だけだ。
 鬼に囲われていながら一度も手を出された事のない、どこまでも都合のいい無垢で純真な乙女でなくては、物語の運命に選ばれない。

 生まれ育った土と水の臭いは、村を出ても消えてはくれない。
 誰も沙代の過去を知らずとも、自分自身が何よりも知る。
 龍賀の因習と同じ、血と欲望で濁るおぞましい腐臭を放つ女を欲しがる男なんて、同じ鬼畜外道ぐらいのものだ。

 沙代を糸で吊り上げ、凶手から逃がしてくれた彼。
 顔は隠していたが男性、それも年若い子供だろう。沙代と変わりないかもしれない。
 彼は沙代をどう見ていたのだろうか。悪霊に喰われそうになった幼気な市民に見えたのだろうか。
 あと数秒でも現着が遅れていれば───沙代が周囲を省みず狂骨を放ち、バーサーカーに命令を下していたと知らずに。
 彼は間違いなくヒーローだ。英霊の戦いに巻き込まれる数多の命を、救ってみせたのだから。
 正体を悟られなかった敵葬者に、手の内を晒してしまうのを代償に。

(手の内といえば……あれは一体、どういうことなのでしょう)

 沙代が見たサーヴァントは、戦闘機を人型にしたような刀使いの少女以外の他にもいた。
 この場所を襲撃した根源たる魔獣の霊と、不利と見て逃走したそれを追う巨体の魔人。
 掌の肉球で空気を弾き張り手を見舞う戦い方。何よりその姿、顔。
 どこを取っても沙代のライダー、バーソロミュー・くま本人であった。

『ライダー。あの彼は、あなたなのですか』
『……』

 無駄な質問をする。
 あれがくま自身だとするならば少しは違った反応が見られると思ったが、虚しい期待だった。
 いったいどういう理屈なのかは不明だが、無反応であるという事は、敵に回すのに支障もない。
 沙代と同じサーヴァントを召喚した葬者がいる。留め置くべきはそれのみでいい。

 甲高い警鐘音が聞こえてくる。民間によらない公的機関の救助隊の知らせ。今の時代の警察は優秀なようだ。
 公権力というものに沙代はあまり信を置いてない。老人ひとりに実権を握られていいように動かされる、傀儡の印象が拭えない。
 地位のある人間が葬者でない保証もなし、保護の名目で調べられると埃が出るまで叩かれかねない。人目につかないところまで離れたら、ライダーに移動してもらおう。
 袖に絡まった糸も後で解いてもらおうかと視線を横にやると。

「──────」

 モール街の被害範囲の外では、逃げ延びた家族連れやヒーローの目撃を聞きつけ記録に収めようとする野次馬達でごった返してる。
 好奇と恐慌の坩堝にあてられて半ば暴動に発展しそうな勢いで、ただ一人場の空気に呑まれず周囲を宥めようとしている男がいる。
 仕事の昼休憩中だったのか、背広姿を巻き上がる埃で灰に染め、飛んできた壁の破片が当たって額を赤く濡らしているのに構わず避難勧告に努めている。

「───み」

 何かを、言おうとした。
 心臓が跳ね、肺が膨らみ、食道をせり上がって、舌に乗るまで来ておいて。
 口から音が出る前に、溶けて消えてしまった。
 残る味はない。霞でも食べていたのかいうぐらい、無味無臭だ。

「…………は」

 見ていた人物は、妄想とは似ても似つかない男性だった。
 ありふれたスーツを着ていて、偶然額を怪我していたというだけ。
 それだけなのに、胸の動悸は欺瞞を許してくれず、浅はかな妄想を滑稽と嘲笑してくる。
 ここまでしといて、まだ諦めずに期待しているのか。
 彼が来ていると。自分と同じ地獄道に落ちてくれていると。

「なんて───未練がましい」

 愚かしい自嘲に唇を噛む。
 口内に広がる血の味も痛みも、過去の記憶に比べれば霞の如く消える朧でしかなかった。


 ◆


 少し隣で、何かが崩れた音がした。
 遠くに目をやると、さっきまで見えていた、天を突く長い一本のビルが騙し絵みたいに失くなっているのに気づいた。

 昭和に取り残された男の視点でも、この付近の建物の構造はそう柔でないのは理解できる。
 堅牢に設計された建築物を粉微塵に破壊するなど、人の手では到底不可能。
 出来るとしたら兵器による爆弾や空爆。地震といった自然災害。
 そして……怪獣。
 裏返るはずのない強固な現実を捲り上げる虚構こそが、悪夢を可能とする。
 白昼夢のように非現実的な光景は、冗談みたいに突然やって来ると、敷島浩一は身を以て知っている。

「…………」

 疲労を感じる。
 冥界の暮らしで安心して熟睡できた日は皆無だが、今のそれは不養生の諸々で来した不調とは異なる意味合いを持っている。
 足を動かしてもいないのに全力で何分も全力の疾走をした後のような、体力だけがごっそり抉られた感覚。
 サーヴァントの行使による魔力・生命力の消費の仕組みを詳しく知る敷島ではない。
 しかし一度も敵を撃つ事なく終戦を迎えたとはいえ、成績を評価された兵士の思考で、自分の一部が彼に使われたのだとは大まかに把握できた。

 バーサーカー。敷島の無念と絶望が招き寄せた憎悪の器。冥王プルートゥ
 誰よりもこの世界に似つかわしい名を持つ彼は戦っていた。昨夜零時、黒い空の上で。
 今までにないほど猛り動力炉の敷島の身を削り、今までにないほど傷ついた修復に要石の敷島の命を啜っている。
 そして初めて、敷島とプルートゥとが、明確に意思を同調した日だった。
 敵を滅ぼす、憎しみを。

 夜空に瞬いた破滅の星。
 頤を上げてそれを見た瞬間敷島の魂に飛来した、衝撃と恐怖と絶望は如何ばかりか。
 地の底を貫いた、こんな死後の世界ですら、己を逃がすまいと追いすがってくるのかと肝が凍りついた。
 拭えぬ過去の罪悪感が生んだ幻覚といった方がまだ救いがあった。亡霊に苛まされるのは自業が生む道理だが、目にしているのは信じがたいぐらいに現実だ。
 天を遊泳する巨影。そこにいるだけで大気を捻じ曲げる超重の存在感。
 白と黒の違いはあれ、それは敷島の前に幾度どなく現れたのと同じ、紛れもない『怪獣』だった。

 同じだ。
 あの時とまるで同じだ。
 敷島が命を拾い、未来を見据え、前に進むと意を決めたのを嘲笑うかのように、怪獣は悪魔となって敷島に襲来する。
 壊しては積み重ね、拾っては奪われる無限螺旋。

 そして白い怪獣が大口を開き、光を収束していく様に、敷島の理性のタガは消し飛ばされた。 
 最悪の既視感が走馬灯めいて駆け巡る。
 何をするのかは知らない。けれどあれを開かせたら何が起こるのかだけは分かる。
 死の世界が開く。
 意識が沸騰する恐怖と怒りの嵐の只中で、敷島はありったけに叫んだ。プルートゥも叫んだ。
 あの日押せなかった、機銃の発射装置にかけた指を、骨が折れんばかりに押し込んだのだ。

 それで敷島が運命を振り払えたのかは分からない。
 怪獣の『放射』は食い止められたが、敷島の一方向に偏った感情を乗せたプルートゥと同調した視界では、怪獣もまた健在であるのを確認していた。
 戦争は続いている。いや、怪獣だけでなく、冥界の全ての命を葬らなければ戦争は終わらないのだ。
 中途での脱落なんて最初から許されていない。聖杯に関わる前の戦争から、ずっと。

 まだ立たなくてはいけない。戦わなくてはいけない。
 昂ぶる感情のままに動こうとしても、膝は立ち上がる無能無策を笑ってばかりいる。
 体は否が応でも休息を求めている。背中を壁に預けて腰を下ろし、今しばらくは身を横たえる必要があった。

「おい、どうした? こんなとこで寝転がって」

 後ろから、そんな声がした。
 首を回した先には金髪の外人がいる。
 神色も服装も鮮やかなのに、纏う印象はただただ黒い。
 路地裏とはいえ天上から十分に陽光が差すのに、男の周囲はそこだけ遮蔽されてるかのように暗かった。

「景気の悪い顔だ。あまりいい戦争を送れなかったと見える。それに死に囚われている。
 死霊(やつら)にそんな権限はない。悼むならともかく苦しんだところで供物にはならんぞ。時間の無駄だ」

 黒の男が、一歩ずつこちらに近づく。

「だが再び戦場に臨まんとする意志は善しだな。お前には戦士の資格がある。
 そうであれば、これも縁だろう。やっとのオフでぶらついていたが、こいつは幸先がいい」

 人気のいない場所で見知らぬ外人に迫られていても、危険は感じなかった。
 与えられた知識しかなくとも、浮浪者に見間違われても違和感のない生気のなさでいる敷島に親しげに話しかける怪しい人物だ。
 言葉にせずとも自分と同じ立場の者であるのは察せられた。
 ならばすぐにでも殺し合いの場になるのだが、少なくとも此処で害を加えられる事はないという不思議と確信が敷島にはあった。

 敷島は気づく。
 男から発される、硝煙の臭い。戦の臭いを。
 それに引きずられて立ち上る、死の臭いを。

 ポケットから黒い塊を、無造作に取り出して、軽く投げて寄越す。
 敷島の膝に落ちた器物は、兵士に慣れ親しんだ形状と重みをしていた。

「餞別だ。オレとお前が出会ったのを祝してな。
 中古品だが動作に問題はない。弾は入ってる分だけ。追加で欲しけりゃウチの店に来な、安くしとくぜ。ここんとこ銃弾の需要が鰻登りでね」

 渡すだけ渡して、男は悠々と立ち去っていく。
 最後まで無言のまま、ビルの角に消える後ろ姿を眺めた視線が、膝下に落ちる。
 十四年式拳銃。大日本帝国軍。過去の遺物。
 無骨な黒い銃身に触れた手が吸い付く一体感が、生々しい。
 馴染んでしまう。ただの1人も殺していなくても。
 自分もまたこの銃と同じ、過去に置き去りにされた遺物なのだ。


 ◆


「がああああああ~~~~~!! ちくしょうっ! いてえ、いてえぞくそがあああ!!!」

 阿鼻叫喚。
 地獄に落ちた亡者が階層ごとの数々の責め苦に耐えかね救いを求めて叫ぶさまをいう。
 しかし暗い洞穴で悶絶する魔物が抱くのは懺悔も救済もない。あるのは屈辱と憤怒のみだ。

 持て余した怒りが生んだ気圧差が、壁に地面に三本線を殴り描く。
 妖魔討滅の使命を忘れ殺戮を饗膳と愉しむ成れ果ての獣、紅煉。
 英雄の高潔性・覇業。なし。
 反英雄の必要悪・非業。なし。
 そのいずれにも該当しない、邪悪・非道。セイバーの騎士の器を持ってこの獣が召喚された事例こそ、冥界に理法なしであると知らしめる明確な存在だ。

「久しぶりに旨そうな葬者を見つけたから骨までしゃぶってやろうとしたのに、あの熊野郎、こんなところまでぶっ飛ばしやがって……!
 俺の舌はもう娘っ子用の涎がダラダラ出てたんだぜえ? お預けにしてくれやがってよおおおお〜〜〜!!」

 補足した英霊を嬲り殺した後の葬者の肉は格別に美味い。
 魅惑のご馳走にすっかり味を占めて食事に精を出していた紅煉にとって、獲物を食い損ねたのは撤退より勝るストレスになる。
 況してや戦いの段になる前に張り手の一発で場外に弾き出されての判定負けとなれば、尚の事憤懣やる方ない。

「おうこらマスター! お前、なにすごすご逃げ帰ってんだあ!」
「クハハッなんだセイバー、やけにキレてやがるな」
「当たり前だろうがよ! これじゃまるで、俺らが負けたみてえに見られるじゃねえかよ!」

 受けたダメージは然程のものではない。
 これまで英霊の刀剣を尽く弾く外皮が受けた中で最も重い打撃だったが、たかが一発程度ならものの数秒で癒える範囲だ。
 よってあり余っている体力は、無傷で紅蓮に合流した異形のマスターに遠慮ない罵倒に浪費されていた。

 紅煉がサーヴァントの枠組みを逸した英霊なら、そのマスターも桁外れの非常識だ。
 非人間非術師云々を一笑に付す、火炎と凍氷の融合したフォルム。魔王軍の切り込み隊長、氷炎将軍フレイザード
 名は知られてない。相対した敵は全て殺したからだ。
 その所業を以て、魔性の戦線は聖杯の争奪戦の勢力図に確かな脅威の楔を打ち込んでいた。

「まあ落ち着けよ。……確かに俺ならお前が戻って来るまでガキ共の相手をして持ち堪えられただろうよ。
 だがそれで始まるのは単なる遊びにはならねえ。曲がりなりにもここまで生き残ってる連中だ、今までの雑魚よりは歯ごたえがある。
 それが三騎も揃ってちゃ、俺もお前も全力で当たる必要が出てくるぜ。こんな所で全部出し切って満足かよ?」
「……弱腰なのは変わらねえじゃねえかよ。そんなんで俺のマスターを続けられるとか、思っちゃいねえよなあ……?」
「だから聞けって。手はあるのさ。俺達がこっから勝ちに行く為のな」

 恫喝を交えた詰め寄られ方をしても、動じる事なく五指を広げて宥める。
 殺生を愉しむ享楽的でありながらも冷静な思考を失わないマスターの立ち回りも出来るのが、紅煉との最たる相違点だ。

「サーヴァントってのは極上の経験値だ。弱い奴も弱いなりに特殊な能力を持っていたりもする。レベル上げにはもってこいさ。
 こいつらと戦うだけで、生まれて1年しか積まれてねえ俺の力がどんどん研がれていくのが肌で感じられるぐらいにな」

 フレイザードは肉体も思考も予め完成して生み出される、禁呪法の生命体だ。
 しかしたとえ人造の命でも、最初から全ての性能を引き出せるわけではない。真価を発揮するには己の能力の深い理解と解釈が不可欠。
 同種に会えるはずもない異類。サーヴァント共々、他の葬者と協調の余地のない断絶した関係。
 所属する魔王軍は此処になく、見えるもの全て敵の、戦う以外の手段が必要ない孤軍の環境が、短期間でフレイザードの血肉を鍛え上げていた。

 氷炎の躰。相反する熱量の両立。
 練磨を重ねて行き着く先の究極とは即ち──────。

「もう少しだ。もう少しで俺の力の本質が掴める……。ガキが束になっても相手にならねえ、サーヴァントだって消し飛ばせる最強の力が手に入るんだ。
 それを思えば一時の屈辱なんざ、バクチで外すよりマシな損よ。一気にソイツをブッ放す瞬間の快楽に比べりゃなあ……!」

 感情の制御、戦術的な視野。
 合理に基づいているかのように見える思考の大元は狂気に端を発している。岩石の骨格でも分かる獰猛な笑みが物語る。
 歪んだ生を燦然と肯定する、勝利と栄光に続く一本道を舗装する素材に過ぎない。
 総司令たるハドラーに、大魔王バーンに、持ち帰った聖杯を手土産にして、異世界の勇者を血祭りにあげたと上奏するべく、今は牙を研ぎ雌伏するのだ。

「俺は手の内を晒したぜセイバー。お前もよ、いい加減ハラを見せたらどうだ?」
「へえ? なんのことだあ?」

 肉身の焔がバチリと弾ける。

「とぼけんなよ? そこそこ長い付き合いなんだ。
 このまま俺と仲良く並んでレースして満足するタマじゃえのは気づいてんだよ。俺を出し抜く算段のひとつも企んでるんだろ?」
「……けえっへっへっへ! 流石だなマスター! 意気は鈍ってねえようで安心したぜ!
 その礼だ、きっちり答えてやろうじゃねえの」

 詮索にあっさりと開陳を決める紅煉。

「といっても、別に黙ってたわけじゃねえんだぜ? 俺も気づいたのはつい最近だ。元とは比べもんにならないぐらい小せえ気配だったからな。
 なんでこんなちびっとしてるかは知らねえが、黒炎どもに探らせてるからじき見つかるだろうぜ。
 そうすりゃもう後は俺様の天下よ。英雄だろうが好きにいたぶり殺せるし、女もたらふく食えらあ」

 豪放にも及ばぬ、刹那性に生きる妖物なりに秘していた鬼札……『切れば勝てる』と確信する情報を。
 それだけの根拠が、あるのだ。

「いるんだよ、この冥界の何処かに俺の雇い主が……。
 妖怪も恐れる大妖の中の大妖……"白面の者"がよお!!」


 ◆


 生まれた街に別れを告げ、決めた相棒と旅に出る。
 鍛え上げた技で勝利を重ね、新たな仲間を増やして次の街へ向かう。
 ポケモントレーナーになったら誰もが一生に一度は思い浮かべる理想を体験している事に、スグリは曰く言い難い浮遊感を覚えていた。

 故郷キタカミとはまるで趣の異なる灰と青の強い街を戦いながら渡り歩く。それも憧れの鬼と、二人一組になって。
 夢に見た自分が、夢のまま終わっていた理想が、実際に叶って今でも続いている。

「俺は、強い」

 あり得ない、嘘だ、都合がよすぎる。
 訴えているのは過去のスグリだ。何一つ欲しいものを掴めない弱い自分だ。
 望外の幸運を受け止めきれなくて怯え、身の丈に合った生き方で妥協したがる諦めだ。

「俺は、勝つ」

 弱さは要らない。
 何もくれない、もらえない、手に入らない。
 強いからこそ、敗北から立ち上がれた。鬼さまに見初められた。今スグリが生きていられるのは全て強さがあるからだ。

「なあ、そうだよな、鬼さま───」
「……」

 白い面の鬼は黙ってついてくる。
 スグリの後ろを、何も言わず追ってきている。

 夢の中で出会った、怪しい道具屋からモンスターボールを買ったはいいが、死霊(ゴースト)ばかりが多い場所では仲間にできるポケモンはいない。
 過酷な冥界を生きていくのに、頼れる仲間はこの鬼の他にいない。

 オーガポンか仮面を外したところを、まだスグリは見たことがない。聞けばすぐ分かる特徴的な鳴き声もだ。 
 時折じっとこちらを見上げてくるのみ。あまり懐いてくれている気がしない。

 厳しく、恐怖を煽る仮面の下にある素顔を、もうスグリは知っている。
 出来ればすぐにでも見たかった。果実のように可愛らしい顔を、星のように煌めく瞳を見せて欲しかった。
 それさえ見れれば安心できるのだ。この不意に脳裏を掠める、些末な違和感を払拭できるのだ。

「なあ、鬼さま。おれ、もっと頑張るよ」

 スグリは対面になってオーガポンを見る。

「ポケモンもゲットして、バトルにも勝ちまくって、このリーグにも優勝する。聖杯っていう賞品も必ず手に入れるよ。
 もっともっと、もっと強くなって、鬼さまに認めてもらえるように頑張るよ」

 そっけない態度なのは信頼が足りてないからだ。強さが見合っていないからだ。幼いスグリはそう解釈する。
 鬼と並び立てるようになるためには。また見捨てられないためには。
 ただ自分が強くなればそれだけでいいのだと、誓いの言葉を口にする。  

「だからさ……そうしたら、鬼さまの顔、見せてくれないか?」

 静まる周囲。
 自分の唾を呑み込む音も聞こえるぐらい張り詰めた時間が流れたあとに。

「……」 

 こくりと。無言ながら確かな首肯で答えを示してくれた。

「……!」

 首を少し動かすだけの挙動。
 それだけでもスグリの胸に充足が溢れた。
 今は、これで十分だ。これから少しずつ、また鍛えていけばいい。
 チャンピオンになるまでの特訓は身を削るように辛かったが、これから待ち受ける戦いには一片の恐怖も苦痛もない。
 報酬は既にもらっている。輝かしい称号も、倒すべき因縁も、その前には沿えの銀メダルだ。
 漸く選んでもらえた運命の輝きに、スグリはいつまでも恍惚に酔いしれていた。


 鬼の皮を被ったアヴェンジャーは俯いた顔を上げない。
 仮面から口がはみ出るぐらい、こみ上げる笑いを噛み殺すのに必死だったからだ。

 贄は、良く育っている。
 劣等感から空いていた孔を埋められて、痩せ細っていた体が欲望で丸々と肉づいていく。
 光ある者に潜む闇を見抜き誘うのは容易く、膨れる陰を平らげるのは甘美である。
 特に今回は受肉の要になる大事な具材だ。時間をかけて魂の怨嗟を吐き出させなければならない。
 ぐつぐつと、ぐつぐつ。じっくり、ことこと。
 身が蕩けて味が鍋に完全に溶けるまで、時間をかけて煮出していく。

 生え揃った尾は4つ。
 受肉には届かずとも、力の一端を外部に投射する程度は造作もない。
 英霊には怪物退治で名を馳せた者も多い。
 我を滅ぼしたかの槍と同じく、必滅の呪いをひっさげて来るやも知れぬ。自分を切り分け力を削ってでも出向く価値はある。
 都合のいい事に、ここには化けられる皮がとても多い。
 死霊の群れ。英霊の影。三匹のともっこ。
 そうして冥界中の憎悪を招き寄せて要石に食わせ、この冥界を闇の孕み腹へと変える。

 白面は生贄を見上げる。
 光に生まれておきながら、闇に打ち克てずに堕ちる人を羨み続ける。
 昏い冥界の底。死が揺蕩う魂の流れ着く澱ですら浄化される事のなかった、哀れなるモノ。
 浅い眠りに微睡みながら、開いた産道から生まれ落ちる時を、白面の者は心待ちにしている。

 外界で本性を皮で隠したオーガポンは、あらぬ方向を見上げる。
 空は何も飛ばず、見渡す限りに異様な一面は見られない。
 世の陰から生まれた目は、魔力妖力で言い表せぬ『気』を見抜く。
 同じ冥界にあり、同じ陰気を宿らせながら、しかしこの身とは根本から異なった、外から来たモノが建つ、その屋敷を。

 (アア アソコデ ウマレタイ)

 隣にいながら浮足立つスグリには、鬼が心の内で囁いた声は、まったく聞こえはしなかった。



 ◆


 世界的に見ても屈指の発展国である日本の中でも、常にテクノロジーが回る中心地の東京だが、オカルトにまつわる事柄がまったくないわけでもない。
 霊現象は科学知識のない人間の錯覚であり、科学で解明できないオカルトはあり得ない。
 誰もが霊を信じないと言いながら、身近にある信仰を捨ててはいない。
 験担ぎ、バチが当たる、曰くつきの物件……。
 過去の荒御魂を祀る神社が今も取り壊されず整備されているように。
 神も霊も名と形を変えて、都市の根深くに染み込んでいる。

 故に霊脈、パワースポット……寺院や霊園が上に立つ霊験あらたか場所は、たとえ結界内部でも霊が溜まり易い区域と化している。
 土地の力で普通の霊よりも長く留まれて、他の霊を食って力を蓄えてる輩も多い。
 そこから霊も動けなくなるのが欠点だが餌が豊富な土地を離れても旨味はなく、被害が敷地外に漏れはしない。

「つまり、私には絶好の狩り場。まさに入れ食い」
「まあ、そうだな。悪霊払いで土地を清め整えるってのは、陰陽師のお役目だもんな。うん、大将は間違っちゃいねえよ」

 であるならば。神職の御所を荒らして回り、死霊共を捉えて回る寶月夜宵こそは、冥界一の悪童の名をほしいままにする葬者に違いあるまい。
 付き添うサーヴァント、坂田金時も、不法侵入と民草の周辺被害の排除と天秤にかけて後者に賛成してしまっているこだから、もう手が付けられない。

 時間制限のつきまとう冥界よりも街の内部にある心霊スポットを回った方が効率が判明してから今日。
 閻魔が不在なのをいいことに繰り返し続けた悪霊蒐集はいよいよ佳境に入った。
 夜宵の我流霊使役術の奥義、『卒業生』の制作である。

「けどよ、大将。やっぱり作らなきゃ駄目なのか? ソレ」
「護身としては過剰なぐらいだけど、それぐらいがここでは丁度いい。何事もし過ぎるという事はない。
 効果はどれも極悪で、範囲は周囲五建が巻き込まれるぐらい広くて、私にも見境なく襲う暴れ馬になるのが殆どだけど大丈夫」
「やっぱ駄目じゃねえかなあ……?」

 説明を効くだけでも厄まみれの劇物である。
 蠱毒の術式で呪いを凝縮させて誕生する卒業生は皆一様に殺意にまみれた気性をしている。持ち主の夜宵にもいつ何時牙を剥くか予測がつかない。
 金時としてはそんな呪物を作るのにだいぶ難色を示していたが、結局押し切られてしまい今に至る。

「でも使う機会はきっと来る。今のままじゃ駄目。最強装備で挑まないとあの幽霊屋敷は攻略できない。
 それに、バーサーカーがいるなら大丈夫。一番強い霊の傍で見張らせる。これ以上の包囲網はない」
「おうよ。任せな。誰一人巻き込ませやしねえよ」

 このように、全幅の信頼を寄せられているからには、尚更である。
 乗せられてる気がするのは、端から見た側の、事情を知らぬ誤解でしかないのだろう。

「それに、冥界(ここ)だと形代の人形を大量に置けないから、ここいらで捌いて厳選しておかないと。
 じき私の家も冥界に沈む。放置したまま飲み込まれたら暴発する可能性もあるし」

 霊現象を肩代わりする人形を大量に作成しても、それを長期保存できる立地を確保できないのは、夜宵の誤算だった。
 自由に出いるできる敷地はどんどん狭まる。かといって冥界内に置くのは運命力の消費と、死霊へ悪影響を及ぼすリスクがある。
 手持ちの圧縮と長期の保存。卒業生制作は戦力以外の目論見もあって実行する価値のある選択だ。

「だから、蒐集はこれが最後。ぱっと片してさっと帰ろう」

 苔生した整備のされてない石段。
 参拝もなくいつの間にか神主すら訪れなくなった、裏寂れた神社。いかにも霊の根城になる温床が揃いきっている。

「……ん? んん? 大将、ほんとにここでいいのか?」
「そうだけど、何かある?」

 夜宵が石積みに足をかける直前で待ったをかけた金時は、ううむと唸りながら首を傾げる。

「ねぇな。いや、違うか。そうじゃなくてよ、何かなさ過ぎるなって思ってよ。
 今まで入った寺や屋敷だ感じた、連中のたむろしてる感じが薄い気がするぜ。なんかハクがねぇっつうか」
「それはつまり───」 


「そこにはもう、なにもいないよ」


 丸太の如く野太い脚が前を踏みしめる。
 ごく自然に、流れる風のように、夜宵を庇う位置に立つ。
 袈裟を着込んだ男。寺を見物する修行僧であるはずもなく、にこやかに目を細めて見ている。立ちはだかる英霊ではなく、背後に控える夜宵を。

 言葉は一度きり。
 笑顔で軽く手を振って男は去っていく。夜宵も何も言わず、背中を見送る。
 受けた視線を少女は正面から受け止めた。怯む事なく重瞳は男を見返した。

 2人は同じものを見た。
 呪いを。
 体に収まりきらない密度の濃い呪いが、2人の因果を引き合わせた。


 ◆


 街への死霊の侵入を一律阻む冥奥の結界だが、幾つかの抜け道も存在する。
 結界の内側から術者による手引きがあった場合と、内側で霊が発生する場合だ。
 前者は結界内で呼び込んだ霊を使役、利用する段取りに用いられ、後者は設置型のトラップとして機能する。
 それ以外の用途で消費される事はないと踏んでいたが、夏油傑の目論見は意外な形で崩されていた。

「まさかあんな子供が、『悪霊狩り』の正体とはね」

 冥界の知られざる怪談。
 未練を遺して成仏できずに生者の領域にしがみつく悪霊を尽く捕らえて回る葬者。
 あと目ぼしい物件は、例の屋敷ぐらいのものか。
 情報収集を怠らない葬者の中では『令呪狩り』に継ぐ不穏要素だ。 

「───素晴らしいね」

 驚愕も確かにあるが、なお勝るのは歓喜。
 年端もいかぬ少女は才能に溢れている。呪いを扱うセンスといってもいいか。
 呪力や術式に関しては夏油の生きた世界と畑が違うのか不明だが、補うに足るだけの、死線を潜った風格を漂わせていた。
 何を置いても───少女は呪いを背負っている。
 誰かの人生に、呪われている。
 自分に他者に霊に、無数数多の呪いを受け入れても立ち上がれる気質こそが何よりも呪術師に求められる素質。
 その意味で夏油は、名も所以も知れぬ少女を一角の術師と認めていた。

「ひとまず、監視をつけようか」

 翻した袈裟の影が自立して袖から切り離され、黒羽の烏となって電柱に停まる。
 近い内にコンタクトを取る為のマーカーだ。徒に刺激して警戒心を持たせたくない。

 関心事のひとつに一段落がついた夏油は、独り路地の裏手へと進みながら、目下の懸念事項について改めて思考を綴った。


───英霊の影の数が、異様に多い。


 敗れたサーヴァントの霊基の残滓が、何らかの要因でその場に留まり元の英霊の分体として活動する。
 シャドウサーヴァントと呼ばれるそれらの数を、夏油は測りかねていた。

 この日までに術式で取り込んだ死霊の数は3桁を越え、百鬼夜行とはいかないまでも既に軍勢の規模にまで編成されている。
 中でもシャドウサーヴァントは漂うだけの雑霊とは一線を画する戦闘力がある事から積極的に蒐集に努め、こちらも相応の数を揃えられている。
 揃えられて、しまっているのだ。冥界で接触する影の、あまりの多さに。

 単純に。
 葬者1人の消滅につき地区1つが冥界化するルールから計算すれば、都内の市区町村62に等しい数の葬者とサーヴァントが、聖杯戦争の参加者という事になる。
 夏油が冥界に召喚されてから大凡1ヶ月が経過して、今や無事なエリアは23区まで削られようとしている。つまり現在の生き残りは23前後。脱落数は39。
 敗退したサーヴァントの全てが漏れなくシャドウサーヴァントと化すシステムなら、それでいい。
 しかしそうすると、既に脱落した半数の影と、夏油は接触している事になる。
 危険を冒して積極的に確保に向かったにしても、これは果たして正常な確率なのか?

 勝利には無関係の考察なのかもしれない。
 夏油の知らぬ理屈で、影が自然発生する法則が冥界にあるとも考えられる。
 死後の世界のルールなんて誰も知らない。人が物語に記した通りの保証があるわけでもないのだ。
 これも呪霊を操る術式持ちの性なのか。知らず知らずに、強い呪いの現出の察知に過敏になっているのだろう。

 袈裟の裾を引っ張られ、進む足が止まる。
 甚だ不愉快なことにも体が憶えてしまった力加減に後ろを振り向く。白と灰色の墓守。リリィがおずおずと夏油を見上げていた。

「……」

 無言でいながら何かを伝えようとして、拙い感情表現しかできず顔を強張らせるのにも、嫌になるほど慣れてしまった。
 正面に向き直ると、下町の雰囲気から荒涼の蜃気楼が覆う野へ。どうやら境界線に近づきすぎたようだ。
 一歩でも進めば夏油の魂は徐々に淀み、地上へ這い上がる運命を失って水底に縛り付けられる。
 葬者。誰が名付けたか知らないがよくいったものだ。死に損なった状態で時が止まった夏油は、棺桶に納められて葬られる寸前の死人同然なのだ。

「……まあいいさ。何事も実践だ」

 躊躇いなく、踏破する。
 瞬間、棘が刺さったわけでもないのに体に小さな穴が空いて、血のような生命を司るものが色も痛みもなく流れ出ていく。
 錯覚ではない、確実に自分が喰われ、蝕まれていく悪寒ですら、着慣れた袈裟と同列に伴って奥へ行く。

「何をしてるキャスター。私を殺したいのかい?」

 言われてはたと気づき、ぱたぱたと素足で背中を追うリリィ。後に続く、穢れの群れ。呪いの源泉。
 空も後悔も、未だ晴れはやって来ない。


 ◆


 かつて【聖域のヤコン】であった自分が、【おぞましきトロア】の名で英霊の座に登録されている事について、申し訳なく思わずにはいられないとふと耽る事がある。

 魔剣狩りにして魔剣使い。
 魔剣を持つ者の前に現れ、持ち主を殺し、近くにいただけの者を殺し、魔剣を奪い去っていく死の運命。
 伝説に敗れ殺されたと噂されながら蘇った、不滅の伝説。

 確かにそれには現在のトロアが打ち立てた逸話も含められているし、己はおぞましきトロアで在ると常に務めている。
 真名をトロアとして召喚されるのは父を継いだ誇りだと胸を張りたい一方で、父が授かるべき栄誉を掠め取ってしまったと恥じる心も捨てられない。
 父はそのようなものを求めてはいなかった。争いを生み出す魔剣。魔剣で殺される無罪の人々。
 魔剣が争いを招くのなら、あらゆる魔剣を奪えばいい。魔剣を持つ者を殺し、目撃しただけの民を殺す。
 魔剣を持つ事は死を意味する。おぞましきトロアが来るからだ。伝説の始まりだ。
 若さゆえの浅はかさだと過ちを認めながら、後悔を背負い魔剣士を続けてきた。
 敗北はなく、誰にも理解されず、魔剣の山で独り佇む父の名を、魔剣狩り以外の名で穢すわけにはいかない。
 願いと言えるほど熱のある言葉を持たないトロアが課す、それが唯一の指針だ。

「まだ熱がある。事切れて間もないようだ」
「俺達が来たのを勘づかれてしまったか?」
「どうかな。痕跡は極限まで消して来たが……向こうも英霊持ちだ。察知の手段なぞ考えればキリがない。追跡を知られているのは前提に考えるべきだな」

 トロアが生み出した死とは異なる惨殺死体を、衛宮士郎が眉一つ動かさず検めている。
 分かるのは性別と体格ぐらいのものだ。顔面は眼前で爆弾が破裂したかのように弾け飛んでいる。残った断片だけでも、最期に至るまでいかに恐怖を味わったのかが、二者には理解できた。

「『令呪狩り』の仕業か」
「ああ」

 士郎が発見してきた死体と一致する特徴。左右どちらかの手首が物理的に持ち去られている。
 殺害した葬者の令呪を奪い取っていく乱獲者の存在は、徐々に冥界に知れ渡っている。士郎が広めた。

「令呪の使用権を移譲できる技量のキャスタークラスか、魔力の吸収能力に優れているサーヴァント。それも敵に令呪を使わせる間もなく始末する。
 一刻も早く消えてもらうべき陣営だ。追い立てる用の善人を生かしてでもな」

 サーヴァントとの契約や、強制の命令に用いられるのが主な令呪な用途だが、契約を結んでない令呪を、無属性の魔力を練り出す道具とする応用法も存在する。
 消費型だが練達の魔術師とも大差ない疑似魔術刻印に転用するにせよ、即物的に魔力の充填手段にせよ、使い道は汎用だ。
 サーヴァントと契約していない葬者が死の運命に囚われるこの設定ならば、敗北寸前まで令呪を出し渋るマスターも多くいるだろう。
 そうして脱落済みの葬者から令呪を物理的に剥奪して備蓄にする。敵撃破と燃料補給がイコールで結ばれる、一挙両得の手段だ。

 積極性と殺傷性を併せ持つ危険因子。
 「間引き」に利用していい期間は過ぎた。これ以上肥えさせては狩るのにも一苦労する。
 畑を荒らす害獣は総出で追い立てて袋叩きするに限る。
 他に潜む、聖杯に触れさせてはならない最悪を警戒しつつも、現在進行で力を着けている方を優先して叩く。
 魔剣に囚われてばかりで戦略に疎いトロアに否やはない。正しい選択だと判断もしている。

「いつもより切断面が鮮やかだ。いい得物を仕入れたようだな」
「……魔剣か」

 布で覆った目に光が熾った。
 災いとなるもの。己が見過ごしてはならないもの。
 ここでも魔剣が死を招く。戦場を微塵に荒らす殺界の嵐を呼ぶ。
 トロアが魔剣に引き寄せられたのか。魔剣がトロアのあるところに呼ばれたのか。
 いずれにせよ魔剣を持つ者がいるならば、おぞましきトロアがその者の死となるべきであろう。




 ◆


「ほらよ、飯の時間だぜ」

 キャッチボールにしては奇妙に潰れた球が豪速で飛来する。
 プロのバッターであろうと見逃しかフルスイングで空振りし、捕手も受けた手がミットを貫通する殺人加速を、白手袋をしただけの手で事もなげに受け取った。

「前々から言ってるが爺扱いすんじゃねえよ、殺すぞ」
「そうはいってもねえ。100年前や1000年前ならともかく、俺の世代じゃナチとか60年前だぜ。まだご存命の爺さんだっているだろ。中途半端に齢食ってんだよ」
「そりゃテメェもおっさんなだけじゃねえかよ」

 五指で握りしめた球が掌中で爆裂する。
 手首から先の握り拳がスプラッタに変わり、肉片も血一滴分影も残さず消える。

「流石に結構魔力があるな。どんなに雑魚でも、令呪の質に違いはねえのはイイぜ」

 生き血を啜る吸血鬼。
 化物の代表的イメージを誇りとするヴィルヘルム・エーレンブルクは元よりそうした行為を厭悪しない。
 魂を取り込み強化を図るエイヴィヒカイトであるのは勿論、サーヴァントの身の上では精神衛生以上に補給の名目が大きくなる。
 なにせ魔力の提供という、マスターの最低限取り持つ役割を全身で放棄する猿である。
 自給自足を憂うほど自堕落じゃない。自ら獲物を見繕い、爪牙で刻み噛み食らってこその化物だ。
 それでも不良債権を掴まされたせいで節制を強いられれば、鬱憤が溜まっていくのも詮方無い。

「お気に召して何よりだ。これで大手を振って次のレースに賭けられるってもんだ」
「令呪で買った金を馬でスるとか頭まで筋肉か猿が!」
「おい、勝負はこれからだろ。戦う前から負けを考えるとか、それでも戦争上等のナチ公さんかよ?」

 まして寒い懐になった元凶に、申し訳なさの一片でも見当たらないふてぶてしい顔でいられては、なおうざったい。
 図抜けた身体能力に比例して、禪院甚爾の居丈高さは天上知らずだった。

 貫手を振り抜くのを自制して話題を切り替える。
 自分から引き下がった気がしてまた怒りが向きかけるも、事の重大さを知る為にここは堪えた。

「───確認するがよ。
 その武器の売り手の顔、ちゃんと見たんだろうな?」
「男の顔を憶える趣味はねえよ。まあ、お前さんが言うような襤褸切れの胡散臭い野郎じゃなかったのは確かだぜ。
 金髪の南米系でギャングの若ボスって体の、これも十分胡散臭い格好だけどな」
「そうかよ。ならひとまずはいい。要らねえ心配でしたで終わらせてやるよ」

 偽証東京に伝わる怪談。あるいは都市伝説。
 深夜0時に開く扉。葬者に必要なものを扱う不思議の部屋。
 誰の噺に端を発したかも分からぬ噂話に、甚爾も興味半分実利半分の心持ちで試してみた。
 天与の肉体が弾かれずに入室できた部屋は、確かに聖杯戦争専門の道具屋だった。

 術師殺しの悪名を馳せた甚爾の視点でも品揃えは見事なものだった。
 刀剣、銃器、爆薬。銃社会の欧米でも、軍に特別なコネでもなければ入手不可能の最新武装。
 呪具魔具も、特級やそれに準じる威力を持つ装備の豊富さ。
 数はともかく質に関しては、禪院家の武器庫ですら及ばないレベルにギラついた呪力でひしめいていた。

 生身でエイヴィヒカイトに並ぶ身体能力があっても、肉弾以外での呪的の干渉手段を持たない甚爾である。
 霊を斬れる武具は勿論のこと、葬者相手にも有効になる銃火器も欲しかった。
 宵越しの銭を持たない主義で、冥界は六文銭を渡すほど気前のいい所ではなかった。
 海外のギャングやマフィアにはよくある銃弾での差し押さえも店主の方では織り込み済みであるらしく、道具屋にサーヴァントの同伴は禁制にされていた。
 よって、ここは素直に物々交換で応じる事にした。ランサーのストックからくすねた、敵マスターからもぎ取った令呪を担保にして。
 備蓄を荒らされたヴィルヘルムの怒りたるやいつもの戯れ合いの比ではなかったが、甚爾が申開きをした途端、いやに神妙に詳細を聞き出してきたのだ。
 結果は空振りに終わったものの、相反してヴィルヘルムの方は幾分溜飲が下がったようだった。

「やけに嫌いな知り合いがいたみたいだな。やけに神経質じゃねえの。やっぱり小魚食うか?」
「俺以外の団員も漏れなく嫌ってる糞野郎だよ。例外はあの方ぐらいのもんだ。
 もうこの話は終わりだ。てめえも金輪際つついてくんじゃねえぞ」

 口に出すのも憚れる、話題にするだけで寄りつきかねないとでも言いたげだ。
 藪蛇をつつく真似もすまい、甚爾もこの件に関しては黙る事にした。男の秘め事を暴くのも面白みがない。

 しかし、あそこまで怒ることはないだろう。
 これだけ上等な得物があれば、餌の調達も楽に進められるだろうに。
 ビル1棟を買い上げても余裕が釣りが出てくる妖刀が、黴の生えたソファの上で抜き身のまま放られていた。


 ◆


 死後に向かう世界に、石田雨竜は行った事がある。
 尸魂界(ソウル・ソサエティ)虚園(ウェコムンド)。現世に連なる魂の循環場。
 善霊が向かい死神が管理する尸魂界と、悪霊が堕ち(ホロウ)が支配する虚園。

 こんなものは名ばかりの看板だ。住み良き処など笑わせる。
 死神が犯した非道、外道、数しれず。
 秩序を名分にした殺戮があり、改革を謳った反乱があった。体面すら放り投げた狼藉すらもある。
 死神の罪を擁護する気はない。体制の改善を怠り、再び進んだ腐敗が友や肉親に及ぶのなら、こちらもまた弓を向ける時もあっただろう。

 その上で、理解できる大義があるとするなら。
 世界の全てがこうならないように、過去の死神は人身御供を捧げたのだろうという感慨だ。

 まるで、浜辺に描かれた砂絵のようだ。
 丹念に、忍耐強く苦労して作った絵図も、波が通り過ぎれば解けてなくなり、元の平面に戻される。
 そこにはもう何もない。暖かさに満ちた一軒家も、迎えてくれる家族も。始めからありはしなかったと突きつける。
 聖杯戦争の運営の為だけに新造された模造品は消え、元の虚無に戻された。

「……よかったのかい?」

 砂塵に呑まれていく偽の我が家を眺める隣のクロエを、雨竜は慮る。

 見なくていい遺失(もの)のはずだ。
 記憶から鋳造された偽物の家族だと理解していたマスターは、宛てがわれた住居から立ち退いている。
 廃墟になった校舎やホテルで夜を明かし、シャワーやベッドの文明の力にあやかりたい時は、雨竜が代理で宿を取った。
 都内とはいえ23区からは外れた土地にあり、冥界と同化するのは時間の問題だった。合理的と評価しても薄情と詰るつもりは毛頭ない。
 なのに該当する場所に灰が降りたのを目にして、クロエは仮初の家に舞い戻っていた。

 雨竜と同じアーチャーの力を宿してるクロエには、千里眼系スキルも付与されている。
 遠方からでも確認ができるのを、エリアのギリギリまで近づいて、愛した人が肉を削ぎ落とされた骸骨に変わっていくのを、肉眼でじっと看取っていた。

 偽物でも死人でも家族だ。悪意があって用意されたわけでもない肖像との訣別を済ませるのだと、雨竜にも分かっている。
 言葉にするのは野暮だったかもしれない。心が先に衝き動かされていた。

「……分かんない」

 対するクロエも、返す言葉は自信の欠けた曖昧さだ。

「偽物だ、造り物だーってちゃんと弁えてるのにさ。この目で見ちゃうと、ここがどうしようもなくズキズキすんのよね」

 生まれを「無かったこと」にされ、妹の中で眠らされていた。クロエ・フォン・アインツベルンの名前も、母からではなく自分でつけた。
 もう振り切ったと気にしてない風に装っても、本物と偽物の扱いはとてもデリケートな話題になる。
 偽物だった本物は語る。ただの無関係な似姿だとしても、愛する者が消える様は、とても(くる)しいと。

「イリヤには、悪いことしちゃったかしらね」

 亡霊は消えるべき、なんて。
 自分でさえこれだ。泣き虫の妹には酷な場面だったろう。今頃びゃーびゃー顔面崩壊してるんじゃないだろうか。
 1ヶ月もあれば傷は少しは癒えてるか。たまにひとりで寝るベッドの広さに枕を濡らしてるんだろうか。
 一度考えてしまうと止まらない。
 あれ以外の手段はなかったとはいえ、残される立場の辛さを今さながらに思い知る事になるとは。

「なら、戻って謝りに行けばいい。
 姉は妹を守るもの、なんだろう? 僕に兄弟はいないからよく分からないけど」

 顎を上に向けた雨竜が、彼方を見たままクロエにそう言う。
 流れる涙など見えはしないと。なんとも分かりにくい気遣いがおかしくて、つい調子を取り戻してしまう。

「簡単に言ってくれるわね。さらっと勝利宣言してるって分かってるの?」
「当然だよ。君のサーヴァントとして僕はここにいるんだ、それぐらいの意気込みは見せなくてはね」

 兄足らんとす友に倣うのではなく、1人の滅却師の誇りを胸に。彼女のただ1騎の英霊であるが為に。
 聖文字にではなく自身の心で、不可逆の過去を塗り替えると誓う。

「それに君が現世に帰れず、魂が尸魂界にも向かえないとしたら……また死神が嫌いになってしまうだろうからね」

 だからそうはさせないと、固く自分に戒めるように。


 ◆


 聖杯戦争が進行していく中で葬者を最も悩ませる問題は住居の確保であると、プロスペラ・マーキュリーは目をつけていた。
 脱落者が増える毎に安全圏が絞られるこのルールは、戦況の活性化以上の意味がある。
 衣食住のどれかひとつが欠けるだけで、人間にはかなりのストレスがかかるものだ。
 衣と食については英霊擁する葬者であれば如何様にも手段が取れるが、住の問題についてはどうしようもない。冥界化の範囲に引っかかってしまえば引き払う他ないのだ。
 夜を野ざらしで過ごすというのは、野営に慣れていない人間にはひどく疲労を蓄積させる。
 ホテルの仮住まいを転々とするにもそれなりの資金を要し、長期間滞在するとすればいずれ足がつく。
 ベネリット本社の影響力を介すれば、顧客のリストを盗み見るのもわけはない。アサシンという天性の諜報員がいれば尚更だ。
 例外はキャスターやライダーのような固有の陣地を備えた陣営だが、翻せば所在の特定が容易でもある。
 アサシンを潜り込ませれば情報を抜き取り、寝首を掻く芸当も可能。実例を以て証明済みだ。

「おかあさん/マスターはすごいね! また敵のいるところ、見つけたんだ!」
「あなたが優秀だからよ、アサシン。本当にいい子だこと」

 デスクに座るプロスペラの背後から、猫のように飛びつくアサシンの頭を優しく撫でる。
 ジャック・ザ・リッパーの可能性の一片。確固たる器のない、曖昧な霊の集合体がこうも愛情を露わにするのも、母を求める共通した願望が故。
 その本質を理解し、巧みに刺激して好意を引き出し手綱を握って見せる。
 誰にでも出来る事ではない。殺人鬼であるジャックは無垢でありながらも警戒心に敏感に反応する。
 体よく利用する算段を秘めながら、同じ対象に真の愛情を注げるプロスペラの精神性こそ、真に驚嘆に至らしめる。

 死人を元手にした影で運営されているベネリット本社の権勢は、唯一の葬者であるプロスペラが実質握っている。
 家族と仲間の仇を顎で扱えている立場に思うものがないわけでもないが、死体相手への復讐を優先するほど曇ってはいない。
 とはいえ貰えるものは貰っておくべきである。社会力が不要になる終盤まで持っていて困りはしない。権力と資本力はいつの時代でも世界を操作するリソースだ。
 冥界の侵食は明らかに23区を残す形で進んでいる。大企業たるベネリットの立地は東京の中心地。少なくとも人数が10人以下になるまで保てる目算だ。

 だからこそ気を払うべきは───それ以上の権力を備えた相手がいる場合だ。
 領域内のロールでも、洗脳による乗っ取りでも、プロスペラがやってきた事をそっくりそのまま返される形になってしまう。
 ただでさえマスクを被った顔は悪目立ちする。ジャックが冥界で力を増し、宝具の条件が有利に働く環境だとしても、複数に狙い撃ちにされるのは避けるべきだ。

 備え付けの電話が、その時外部と連絡を繋ぐ呼び鈴を鳴らした。
 表示される相手先の番号に、プロスペラは唇を引き締め、だがすぐに営業用の顔で応対した。

「はい、シン・セー開発公社です……まあ、ヤヤウキ・カンパニーさん! ええ、先の件ではありがとうございます……」

 応接窓口もアポイントメントも突き抜けて直接かかってきた電話の主は、東京内には存在しない。
 仮眠を取ろうとしたプロスペラの寝室に現れた扉の先にいる、非合法どころか魔法じみた物品を一手に取り扱合う武器商人だ。

「…………いえ。その件につきましては先ほど申した通りお断りしています。
 ええ、はい……いえいえ、こちらこそご期待に沿えず申し訳在りません。はい、では、はい……」

 受話器越しでも柔和な笑みを絶やさず、低姿勢で頭を下げる。
 通話が切れて子機を置いたその瞬間、プロスペラの表情が消えた。吹き上がる憤怒と憎悪を、意志力で押さえ込んだ反作用で生まれた虚無の顔だ。

「おかあさん?」

 肩で母の変化に不安がるジャックにも応えない。
 揺れるな。惑うな。今するべきはそんな事じゃない。
 知ってか知らずか、こちらの逆鱗を撫ぜてくれた。あの商人。分かっててやっているのなら大した肝だ。
 『GUND技術を兵器にして売り渡す』などと。
 プロスペラ・マーキュリーがエルノア・サマヤであった頃から、エルノア・サマヤがプロスペラ・マーキュリーに変じた時からの、極大の地雷原だ。

「ねえ、おかあさん───」
「ああ、ごめんなさいねジャック。ちょっと考え事をしちゃった」

 復讐は終わった。清算はもう自らの手で済ませている。
 叶えるべきは愛娘の未来だけ。エリイが生きられる世界だけでいい。

 狂ってもおかしくない感情を自覚しながら、制御して大願を優先できる。
 アド・ステラの時代を手玉に取った、プロスペラという魔女の本領はここでも遺憾なく発揮されていた。

 ───だからこそ気づけない。
 理性を引き剥がした本物の狂気を司る、もう一人の魔女に。 


 ◆


 〈双亡亭〉の内部は、時空が連続していない。
 脳を刺激し画相を練り上げる目的で造られた屋敷は、造物主の意を受けた概念の造形と化した。
 水底の楽園。地上に戻ったら幾星霜が過ぎ去っている竜宮城に。

 朝も昼も夕も夜も。病めるときも健やかなるときも。変わりない日々も戦争の激動も。
 何時如何の区別なく、一心不乱一意専心の構えで、坂巻泥努は絵を描く。

 描いて、描いて、描き続けて……外界の様子を意に介さず没頭し。
 類を見ない聖杯への意欲の無さのまま優勝候補に残るのという、横紙破りの極致。
 怠慢を戒めるべき主すら、止めるどころか泥努を礼賛して自身も奔放に出歩く始末。
 サーヴァントもマスターも、主従共々役割を放棄して遊び呆ける道楽組が、冥奥領域最悪の大災害を生み出す事になると誰が信じられるのか。
 信じざるを得ないのだ。星を巻き込み世界を侵す、狂気を浴びてしまった探索者は。

「同じ事の繰り返しになるが……いつまでそうしているつもりだ、泥努」

 フォーリナーのクラスで召喚されたのは泥努でも、異星の降臨者の名を有するのはこの存在こそ適任だろう。
 〈しの〉と称した童女に身を捏ねた名も無き侵略者は、億千の思考を束ねて内密に計略を立てる。

「泥努……お前がどう思おうとも、外の者はいずれ双亡亭に攻め込んでくるぞ。
 お前を殺さねば奴らは元の場所に戻れず、願いを叶える事もできないからな……」

 双亡亭でなければ泥努の支配力も及ばず、叶わぬ。これはしのにも都合よく働く。

「我々も、詠子も、お前を守る為に力を尽くしている。
 しかし……強い欲望で動く人間の精神力は侮れないと、お前を通して我々は学んでいる。我々の想像もつかない戦い方をしてくるやも知れぬ。
 そうなってから動いては、間に合わなくなるかもしれぬぞ」

 しのは泥努の支配に逆らう態勢が整っている。
 だが泥努はしのの叛意を憶えていない。
 人間が恐怖に打ち克つ「勇気」の感情を擬似的に再現し、泥努を殺害寸前まで追いやった記憶を抜き取られている。
 帰趨の見通せない怪人も、「未来の挙動」を知ってさえすれば、無限数に等しい試行で予測が可能だ。
 逆襲は既に成っている。そして利用するのはここからだ。

 サーヴァント・坂巻泥努の能力に登録されていては、ただ泥努を殺しても自分達ごと消滅してしまう。
 泥努を排し、なおかつこの身が独立するには、第二の宝具発動が要となる。
 泥努の任意か、その死を契機に発動し、本星の同胞を招き入れる逸話再現。
 召喚される同胞は泥努の魔力を含まぬ実体のもの。そして同胞なればこそ『英霊の座』に繋がった自身と同化して、受肉を遂げるのも容易。

 之こそが侵略者の最終目的。
 英霊の座への侵攻。
 自己の高次元化による永遠の生。
 復活をも超えた、究極の生存の地を手に入れる野望を静かに燃え上がらせていた。

「おのれらの無能を棚に上げて……よくも大言を吐いたものだな……」

 カンバスの中を踊る筆が止まる。
 みきりと、腰を折り曲げて泥努が振り返る。
 線の細く均整の取れた体が、顔から指先までどれだけの筋肉を捻り回してここまで変貌するのか。
 溢れ出す激情に合わせて、皮膚が、肉が、骨が、関節が、内臓が、随時形態を変化させているかのようだ。事実そうなのかもしれない。

「双亡亭は壊させん。
 何者にも、私の創作活動の邪魔はさせん。そうだろう……しの」
「ああ……その通りだ」

 愉快だ。傑作に過ぎる。
 ほくそ笑む表情を再現したくてたまならない。
 あの坂巻泥努が、辛酸を舐め尽くされてきた男が、掌の上で思い通りに踊らされている。
 随分時間のかかったが、ようやく自分とこの未開の惑星の原生生物との立ち位置が正しい位置に収まった気がする。
 後は泥努が外の葬者相手に立ち回り消耗するよう誘導してやるだけだ。しのは唯々諾々と指示に従い、適当に体を潰させてやればいい。

「ところで……詠子のことだが、いつまでも双亡亭の外をうろつき、葬者をおびき寄せているようなのだ。
 私が言っても聞かぬ。泥努、お前が命じてはくれないか」
「……あの娘。スポンサアだからと調子づきおって。
 だが小間使いは要る。お前が連れ戻してこい。
 そしてどうせならば……芸術家のひとりでも連れてこいと伝えろ。
 アレクサンドロス、雪舟、ダ・ヴィンチ……。もし過去の人間がここに集っているとすれば、少しは名の知れた連中なら……私の脳の肥やしになるだろう」

 攻略同然の泥努の次は、令呪という切り札を持つ詠子の対処だ。
 これはもうまったく容易だ。些か奇特な精神をしているとはいえ、所詮は霊能者。双亡亭が食らってきた犠牲者と大差ない。
 部下に拘束させる水を飲ませて配下にすればよし。機を誤らなければいつでも始末できる。

 簡単だ。簡単だ。
 簡単なことは面白い。滑稽なのは面白い。
 もっとこの男の、面白いところを見てみたい。男の苦しみ、絶望する顔が見たい。
 それはとても───とっても、気持ちがいいだろうから。


 ◆


「ようこそ! ダ・ヴィンチちゃんの秘密ショップへ! さあ、何がお望みだい?」

 助手席の窓から顔をぴょこりと出すおしゃまな笑顔(エンジェル)
 この天使からのプライスレスな挨拶を前にして、財布の紐を緩くしていられる客があろうはずがない。
 冷やかし目的で来た客の手には欲しくもなかったけどあれば便利な日用品が、必要な品だけ求めに来た客は必要以上にエコバッグに詰めてお帰りになる。
 いたいけな少女をダシに使った違法スレスレのサブリミナル商法であるものの、レオナルド・ダ・ヴィンチの冥界での商業は順風満帆だった。

「ははははははは! ま、またうれた! またうれたぞ! おねーさん! 
 ぼくはしょうばいでも、やっぱり、さいきょうだ!」
「うんうん、君は本当に凄い子だよキャスター!」
「へへ、へへへへ!」

 冥界で家なき子のダ・ヴィンチは、住居問題の解決策に、居住スペースを確保した車を選んだ。
 それもトラックやキャンピングカーの類ではない。
 黒青色の装甲車である。
 虚数潜航艇シャドウ・ボーダー。ノウム・カルデアの地球白紙化解決の旅に使われた最初の拠点。その複製品。
 窮知の箱のメステルエクシル。自身のキャスターの兵器開発能力にものをいわせて製造させた、取っておきの移動手段だ。

 葬者が脱落する毎に冥界が迫ってくる領域のルールを、ダ・ヴィンチは深刻に捉えていた。
 これでも前職はキャスターだ。開発の専門家として、拠点に篭り腰を据えて研究にのめり込むスタイルを封印されるのはかなり痛い。
 より効率のいい作業と防衛に重きを置くなら霊脈の通った優れた土地を選ぶ場合、一等の霊地かつ侵攻が後半になるだろう東京中心に範囲を絞らざるを得なくなる。
 現実よろしく、地価代爆上がり。競争率、著しいことこの上ない。 
 不動産の仲介もない霊地の取り合いとは即ち暴力による抗争だ。そして一度勝ち取っても次々奪いに来る陣営に対処し続けなくてはならない。労力が増えるのだ。

 工房を構えて冥界の解決に当たるプランは早々に捨てた。
 そこで次に考えついたのが、拠点を移動式にすればいいじゃないかという、逆転の発想だった。

 これが想定以上に上手くはまった。ノウム・カルデアになってからのカルデアの活動とはフィールドワークがデフォルトだ。
 霊脈にポイント設置、物資は現地調達、街頭インタビューで情報を集めて、肉体言語で仲間に交渉。
 常に足りないとこから始めて、外堀を埋めていく。霊脈を敵陣に奪われるのはアトランティスの経験が参考になる。
 極めつけが、ダ・ヴィンチが引き当てたサーヴァントの異質な能力。
 彼方───ダ・ヴィンチでいうところの現代兵器を、その場にある素材から作ってのける全知と全能。
 そこにカルデアが製造した様々な魔術と科学の融合兵装の設計図を渡してみると、あっさりと形そのままに再現した。
 現場での活動に最も向いてるシャドウ・ボーダーに日用品魔術品を雑多に詰め込めば、イベント特設のショッピングカーの出来上がりというわけだ。

 東京中を行脚してコネもそれなりに築き、当面の路銀にも困らない程度には潤って、今後は次のプランに向けた進行をしている。
 ひとつは、メステルエクシルの強化。
 シャドウ・ボーダーは再現できても、そこに搭載されているペーパームーン……虚数潜航の機能までは付随させる事が出来なかった。
 敵陣サーヴァントの使った宝具も同様で、どうやら一定以上の神秘やブラックボックスは全知の枠から外れているらしい。
 聖杯戦争のサーヴァント化に伴う制限だろう。この手の枷はどの英霊にもままある事例であり予測の範囲だ。
 そこをどうにか突破すれば、あるいは冥界からの脱出も叶うのではないか、というのが目下の課題である。

「霊基の再臨、令呪のバックアップ……それも一画や二画じゃ足りないかあ。うーん。
 最高なのはストーム・ボーダーまで再現して、皆まとめて乗せて脱出! ……なんだけど、そこは流石に高望みかな? 妖精國でも上手くいかなかったし……」

 運転は自動操縦(席には大人のホログラムでカモフラージュ)に任せ、助手席であーでもない、こーでもないと、うんうん頭を捻る。
 トライアンドエラーの精神で好き勝手に技術漏洩するのも考えものだ。
 メステルエクシルの精神は無垢な子供そのもので、好奇心旺盛でちょっと戦い好きだ。
 マスターであっても母である開発者じゃないダ・ヴィンチでは制御をはズレた挙動をしてしまうかもしれない。

「……じゃ、まずは手近な問題から片付けよっかな!」

 資源の確保に手間を要する案件を棚に置き、今夜にでも殴り込みに行く予定の用意を始める。
 一定の資源が集まるまでそうしなかったのは、足元を見られないためだ。
 交渉は、対等な相手と初めて有利な条件を引き出せる。
 カルデアのバックアップもない。ネモやシオン、ゴルドルフ新所長といった有能なスタッフもいない。何より頼れるマスター君がいない。
 素寒貧のままでブローカーと向かい合うのは、首に値札を提げて出品されに行くのと変わりない。
 店を構えて商売をして、一端の店主としてこちらも商談が出来るのだと堂々と胸を張って豪語すれば、ただの客では得られない譲歩を引き出せると踏んだのだ。

「さあて。君がどうこの冥界に関わっているのか……聞かせてもらおうじゃないか、テスカトリポカ?」 




 一応、給料日だった。
 その日が来る度に目標に続く階段を一歩昇る。次の月にまた一段。
 目標にしていた金額。ブランドやコスメには目もくれず溜め込んだ、南極踏破の資金。
 あとたった1万。それだけ出せば3桁に繰り上がるというのに、振り込まれた分が封筒に加算される日は、ここでは訪れない。
 三途の川の渡し賃は、死者の懐には入ってくれず、入れた分だけ幻のようにすり抜けてしまう。
 小淵沢報瀬の時間は、凍りついて止まってしまった。

 (あら?心配事でもあるのかしら? 小淵沢のシラセ。おばあちゃんでよければ相談に乗りますよ?)

 猫なで声に肩を震わせる。
 都内某スーパーのレジ打ち台。店員も客も聴こえない。怯えたのは報瀬だけだ。 

 (……今バイトしてるから話しかけないで。あとその呼び方はなんか違うって言ったでしょ)
 (あら、そうだったわ。ごめんなさい。ミニアが生きていくのは大変なのねえ。
 私はほら、こんな身の上だもの。食べる事なんて考えてなくて……ウッフフフフ!)

 宇宙よりも遠い場所にいたのは、ペンギンでも白熊でもなく、白い竜だった。
 生き物ではない。南極と違って幻想に棲む存在だ。アーチャーのサーヴァント。冬のルクノカ

 およそ地球の生態系ではあり得ない進化を遂げた異種が、好々爺めいて報瀬に優しく語りかける。
 人と異種族の友好を表すロマンある構図に見えなくもないが、報瀬がルクノカに寄せるのは畏怖のみだ。
 ルクノカは報瀬を殺さない。自分が現界を保つ為の要石だから。
 けれど報瀬はルクノカが恐ろしくてたまらなかった。
 必要のなければ滅多に話しかけてこなかった竜が、今朝方からしきりに報瀬の名を呼んでるのに、着の身着のまま雪山に放り出されたような悪寒が止まらなかった。

(ああ……早く夜にならないかしら。待ち遠しいわ。まるで王子様に恋い焦がれるお姫様のよう!
 あの小さな竜のお嬢ちゃんと、また肌を裂き合いたい! 黒い機人と血飛沫を交換したい!
 もっといるのでしょう? まだまだこんなものではないのでしょう?)

 戦いがあった。
 決闘といえるほどではない。双方共に本気とはいえない。
 一夜の逢瀬。同じ空を飛ぶ鳥が交錯する一瞬、羽を擦り合わせた程度のもの。
 しかし「戦いになった」というだけで、凍てついたルクノカに雪解けをもたらしていた。
 地上最強の生物を脅かす、待望の英雄の登場を予感させた。
 それも2騎同時に。
 100年に一度あるかの出会いが重なる、倦怠が帳消しになる奇跡。
 流星だ。
 全天を覆う流星雨の軌道に、ルクノカは飛び込んだのだ。

 (待っていたわ。待っていたの。あの日の続きがずっと欲しかった!
 今までの1か月なんて瞬きの内だったわ! やっと始まるのね!  誇りある名乗りだけじゃない、真に私を傷つけ、殺す事ができる勇者との戦いが!
 あなたも嬉しいでしょうシラセ!? 『全部終わったら』、あなたもお家に帰してあげますからね! ウッフフフフフフ!)

 抑えつけられない興奮に息を荒げても、ルクノカは報瀬を忘れていない。
 可愛らしい命、守るべきマスターと認識して語りかけている。
 ただ、尺度が異なるだけだ。
 生まれついての最強種は、貴婦人の衣を脱ぎ捨てた、剥き出しの竜の本能に触れた、英雄でない人間の少女がどう感じるかという視点が、絶望的に欠けている。

 (私の愛した英雄が! とうとう、私を殺しにやってくる!)

「……っ!」

 気が狂いそうになる。
 昨夜の高揚がいつまでも冷めず熱を溜めるルクノカに対して、報瀬の心は凍える一方だ。
 たとえ命からがら冥界から逃げおおせたとしても、その時には氷塊に変わり果ててるかもしれない。

「あの」

 南極に行く希望を失って、報瀬はゼロになったと歎いたが、それは間違いだった。
 ゼロは最低じゃない。先には零下(マイナス)がある。
 −1(マイナスワン)の世界は、常に報瀬から何かを奪う。体温も。家族も。希望も。

 何だこれは。冗談じゃない。幾ら何でも理不尽過ぎるだろ。
 クラスメイトからの白眼視も、教師の遠回しな否定も耐えてきたが、こんなにも嫌がらせをされなければいけないのか。
 そんなにも悪いのか。諦めさせられてしまうような、いけない事をしているのか。

「……あの、お会計、お願いします!」

 悪夢(ゆめ)から覚めて、意識が浮上する。固まった頭が鈍く回る。
 買い物カゴを両手で抱える、髪の長い女の子が待っている。バイト中なのをすっかり失念していた。

「ぁ……はい。申し訳……ありません」

 あれほどやかましかったルクノカの声も消えていた。
 軽い目眩がするのを堪えて、商品を読み取っていく。

「ちょっといいでしょうか」

 代金を貰う段階に来て、少女が訊ねる。
 腰を越える長髪。つむじの上でチカチカと光る幾何学模様。
 他人への興味を捨てていた報瀬でも注視してしまう奇異な見た目。

(まさか……)

 学校とバイト以外に外出せず、人との交流も絶っている。
 最後までこのままでいいやと、自暴自棄に考えを止めていた。
 だから、道中でもし、報瀬と同じ境遇の対戦相手にあったらどうするかが抜け落ちていた。

 指が触れるだけの近さ。
 サーヴァントのいない無防備。
 戦争。殺し合い。対岸だと思っていた出来事が間近にあり、まさに報瀬に刃が向けられ─── 

「ここでは銃の弾を扱っていないのでしょうか?
 あ、オモチャのじゃないです。本物の銃弾です」
「……は?」

 模型屋で本物のロボットが欲しいとせがむ子供のような。
 素っ頓狂におかしな場面に出くわして、開いた口が固まってしまった。


 ◆


「うーん……ここにも弾丸は売ってませんでした……」

 とぼとぼと、足音が聞こえてきそうな意気消沈した顔でスーパーを出る。
 24時間営業のコンビニから2時からやってる卸売場まで駆け回りながら、一行に弾薬を見つけられずに、天童アリスは途方に暮れていた。

 キヴォトスには自販機のジュース感覚で売られていて、現代都市の東京では所持自体法に触れかねない違反物。
 銃の弾薬と調達というクエストは、何周目に入っても達成されないでいた。
 もっとも常時販売されていたとして、アリスが使う機会が訪れるかは微妙なところだろう。
 光の剣と仰々しく名付けられた大筒は、実態を大気圏外仕様のレールガン。
 販売どころか受注制作もお断りのオーパーツである。規格の合う品が陳列棚にある可能性は絶無といえた。

「やっぱり最初のアイテム屋さんに行くしかないのでしょうか……?
 ですが限定ショップは魔境……ゲーム部でも課金(あくま)が住まう魔王城だとモモイ達に禁止されています。
 それにあの人に渡すと、アリスの装備が呪われそうな気がしてなりません……うーん……」

 必要もないのに現地のショップを訪ねて回るのは、深夜にのみ開かれる限定販売点への不信にあった。
 ……他の葬者が抱く店への疑念と、見ている視点は大きく異っているのだが。

 アリス以外のキヴォトスの生徒がネットでニュースになっているのも見ている。
 自分はよくても向こうは弾の確保に難儀しているかもしれない。
 パーティ候補になる仲間の為にも、消費率が低いアリスが率先して道具集めをしなくてはという思いも感じていた。

 噂は聞けども、直に会えた試しは未だない。
 クラス名に反してアリスのライダーは騎乗物を用意していない。戦車に魂を搭載した彼自身が騎乗物だからだ。
 火力と装甲は折り紙付きなのだが、機動力を頼みとするには些か物足りなさがある。肩に背負えばアリスよりは速く走れるくらいだ。
 報道を聞きつけ急行しても、事は終わってもぬけの殻。別の葬者と鉢合わせてすわ戦闘となる時も少なからずあった。
 遠慮なしに足の鈍さの事を本人に告げると、いつもの鉄面皮が一層彫りを深くしたように見えて少し面白かったのは秘密である。

『その判断は肯定だ。あの店に不用意に近づくべきではない』

 陰鬱な貌を表に出さずマキナ、ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲンの重厚な声のみがアリスのAIに送られる。

『制限によって直接顔を見合わせずとも、お前についた部屋の香りだけで理解が叶う。
 お前が出会ったのは神の残滓だ。それも闘争を司る、ある意味でこの冥府の殺劇にも近しい芝居を回し続ける死神のな』

 サーヴァントの入室を拒まれ、帰ってきたアリスに付着した残り香だけでもこの露骨さ。
 直に見えた時には、そこが互いにとって死の間合いになるのは間違いない。

「……」

 警告を受けたアリスは、何故か口を開けて硬直している。
 幽霊でも見たかのような驚愕の表情に、さしものマキナも何事かと察し実体を戻そうとした矢先。

「ライダーが、自分から話しかけてくれました! 高難易度クエスト達成です!」

 ぱんぱかぱーん! と諸手を挙げて、満面の笑みで祝われた。

「……」

 俺から喋るのは、武器屋を掘り当てるよりも難儀な確率か。
 そう思ったかは、閉ざされた口で永遠に答えは知れないが。

「アリスは、確かな進展を感じています! トゥルーエンドの条件に、また一歩近づきました!
 これなら、ライダーと一緒にゲームをして感想を聞くのも、そう遠くはありません!」

 トゥルーエンドとは真理の獲得。
 理を知り因果を見た末にやっと開かれる超越の物語。
 そこに到達するには、どうしたって1人では手が足りない。抱えられる枝節(フラグ)には限度がある。
 どんなに強い無敵の勇者でも、仲間がいない孤独な旅路で得られるのはノーマルエンドだけだ。
 アリスは違うものを望む。全部を背負い込む聖者ではなく、誰かの手を取って一緒に立ち向かう勇者になりたい。

『……叶わぬ夢想だな。この戦争の終焉を見届ける方がまだ望みがある』
「それでもアリス達の冒険は、まだ始まったばかりです! 仲間も物語も、きっとまだたくさんあります。
 ライダーも知らない隠しエンドだって、どこかにあるかもしれません。それを探すのが、アリスはとっても楽しみです!」

 死とは結論。
 走り終えた物語が広がる既知の断片しかない冥界で、未知の結末を知りたいと謳う。
 そう、捨てられたもの、朽ち果てたものであれ、まだその姿があるのならば───。

 未知の結末を見せるとは。そう来るとは思わなんだ。
 マキナのみならず黒円卓の総員に刺さる言葉だろう、それは。
 つくづく因果とは、この身を繋いで離さんとみえる。

「……今の様を見れば、俺を嗤うか」

 未知への流出を果たした戦友。この先アリスが目指す道の先人になるであろう男を追想する。
 死を振り撒いてきた魔人の隷下にいながら、死んだ後になって、光の勇者の供などと。いったいどの口が言えたものか。
 抜かせよ塵が。今まであれだけ殺しておいて何様のつもりだ。厚顔無恥にも程がある。
 飛びかかる罵倒を想起して……しかしこれは乖離しているなとかぶりを振り、アリスの背を追う。

「いいや、嗤わんだろうな、お前は。刹那こそが、我らの求め(あいし)た光なれば」

 爛漫にも、だが勇気の意味を識っている笑顔で希望を目指す勇者が乗る、鋼の戦車の役を任ずるべく。



 ◆

 役者は次々と壇上に昇っていく。
 各々を主役に沿えた演目を記した、大団円の脚本を携えて。
 神が、英雄が、魔が。
 そして───怪獣が。
 空にそびえる竜、地に潜む怨に遅れて、海よりの厄災が上陸する。 

「ふふ───漸くここまで来たか。
 東京の中心地、新宿。繁栄と退廃。熱狂が渦巻く現代のソドム。
 死者の記憶の捏造というのは気に食わんが、この熱気は悪くない。僅かに余も気が昂るではないか」

 欲望の坩堝たる都市に囲まれて、歓楽、物見気分で目を輝かせる。
 アルターエゴの冠を被る妖妃、ドラコーは陰鬱に妖艶に微笑する。
 竜尾の生えた幼子といえど、漏れ漂う爛熟の実臭は、獣の残滓が健在であると物語っている。

「貴様はどうだ、葬者(マスター)? 思う存分感想を述べるがよいぞ」
「とりあえず、疲れた」
「む、なんと覇気のない。余の供に預かりながらそれとは不敬にも程があろう」

 意気揚々とした従者に反して、主の少年は疲れ切っていて、今にも倒れそうだった。

「だってさ、幾らなんでも、戦い過ぎじゃなかったか?」

 岸浪ハクノがドラコーと契約し冥奥の聖杯に参加する葬者となって、7日。
 東京の端から新宿に到達するまで、7日も要した。

 とにかく戦いずくめの毎日だった。
 出会う英霊は目の敵とばかりにドラコーを全力で襲ってきて。
 一時の避難に冥界に駆け込めば、今度はハクノが恨み骨髄の死霊に追い回される羽目になる。

「ラダーって、あると便利だったんだな」

 休める拠点もなく四六時中気を張らなければいけないのは、生きた体には中々堪える。
 特にドラコーへの、英霊の執着は異常につきた。 
 聖杯戦争だから、サーヴァント同士だから当然だとハクノも当初は捉えていたが、次第にその尋常じゃない敵意に気づいた。

「そうさな。確かに誰も彼も余を見るなり、涎を垂らしてはしたなく貪ろうと駆け寄ってきておる。
 それ程余の愛らしさに目を奪われたのか……まったく、美とは罪よな」

 そんなわけはないと思う。
 ドラコーが綺麗じゃないとかではなく、ここまで躍起になるからには、相応の理由があるのではないか。

 お前だけは許さない。何としてでもここで倒す。
 そんな殺意の域を超えた不倶戴天の敵に向ける執念を掲げて、命を懸けてドラコー1人を殺しにかかる。
 ハクノやユリウス、デッドフェイスが抱く憎しみですらない。
 彼らは狂気に落ちたバーサーカーではなく、意志を持った一個の人格を宿した瞳で刃を向けた。
 あれは本能や衝動に根ざしていない、強い使命感に等しいのではないか。

「ん? 疑っておるのか? ま、それも無理もなかろう。
 では何とする? 余が英霊共が寄って集って狩りに来る害獣だとして、そんな災難を引き当ててしまった貴様はどうするという?」
「いや、そこは別に。気にはなるけど、ドラコーが言いたくないならそれでいいし」

 言ってしまえば、ドラコーが何者であるかはどうでもいい。
 たとえ何者だったとしても、共に戦うと既に決め切っている。

 前のサーヴァントだったセイバーに酷似しているから?
 無意識にはあるかもしれない。だが根底にあるのは別の理由だ。
 戦う為の力が必要である以上に、彼女を見捨ててはいられないと。
 その正体がどんなにおぞましい、悪の顕現(カタチ)であるとしても。

「……余の正体がどうでもよい、とは。我が葬者は中々の痴れ者よな。ああ、あるいは───」

 あるいは、余程の豪胆か。
 告げる顔は宝石を愛でる皇帝のように酷薄で恐ろしく、それでも瞳だけはあの時と同じ、星の光を湛えていた。

(ああ、それにしても)

 この冥界は、ハクノが生まれた辺獄の底と同じだ。
 死者の残骸。負け犬の寄せ集め。浄化されない無念が淀んで、グズグズに爛れた膿になっている。
 街の外で喘いでいるのはハクノだったものの一部であり、ここにいても恨みの声が聞こえてくるようで、息が詰まる。
 彼らが罪人で苦痛は当然の罰だとしても、ここには裁く神も機構もない。こんな責め苛むだけの世界に何の意味がある。

「だったら、こんな世界は───」

 理由のない憎しみじゃなく。
 強く生きた感情を目に宿して、ハクノは救世主のいない、冥界のソラを見上げた。


 ◆


「……いっきし!」

 まだ冷たさを残す風に堪えたのか、タンクトップの下の裸身が身震いして盛大に吹き出す。
 仏がくしゃみしているのを見て、咄嗟に蓄えたばかりの知識を引き出して、プラナはバーサーカーに向けて手を合わせて拝んだ。

「……クサンメ、クサンメ」
「お? それオレの逸話じゃん。プーちゃん読んでくれたのかよ?」
「アーカイブから拾ってあなたの隣で読んでいたのですが……ああ、そこでも昼寝していましたね」

 サーヴァントが風邪を引くのかという疑問もあればこそ。
 語源になった釈迦本人に向けて実践するとは。そんな小さな出来事に僅かにも達成感を憶えるのも、最近になってからだ。

 帰る家を失い、身を寄せる術もなく放浪する難民。
 本来は実体なきO.S.でも危機的状況であると理解していたが、身を危うくした機会は結局訪れなかった。
 道を歩いていれば、通りがかった赤の他人から食料を恵まれる。
 偶然見かけた諍いに乱入して問題を解決すると、いつの間にやら寝床を提供されている。
 報奨を期待していたわけでもない。貰えるのはその日を過ごせるだけの糧だけ。けれども身体は十全に満たされている。
 さもありなん。彼女の傍らに立つのは誰あろうゴータマ・ブッダ。
 仏教の開祖がガードについて先行きを不安がるのが無理がある。現実に存在しない、仏教も信仰も知らぬプラナでも時間を置かず自然と緊張がほぐされていた。

 本命の聖杯戦争でもそれは同様。
 倒すべき相手と対面しようとも自然体で接し、いざ戦いとなれば無念無想の体術で鮮やかに攻めをいなして敵を地に臥せる。
 止めを刺さずに置き去りにされる英霊は、屈辱に身を震わせながらも皆一様に、どこか晴れやかさも浮かばせていた。

「……やはり、悟りを得るには1ヶ月程度では足りないようです」

 必要に迫られる諸事に気を揉まれないからこそ、生まれる迷いもまたある。
 釈迦の施しのお陰で生活に幾分余裕がある分、プラナは思考と演算を絶え間なく稼働させた。
 英霊に見出されてから初めての課題。彼の言う、思春期特有の悩みの解決の仕方を探して。
 失われた過去を取り戻すのか。新しい未来に舵を漕ぐのか。
 賢人だろうと容易に出せない解答だった。利益。実利。道徳。仁義。感情。希望。どれを取ってもどこかに必ず角が当たる。
 自分のこの未熟な心を、どこに置けば納得に到れるのか。チェスや将棋の盤面を予測するのと違うのは、何を持って「勝ち」とするかが見当がつかないからだ。

「あなたには無駄な時間を付き合わせてしまっているようです。申し訳ありもががががが」
「プーちゃんお菓子食う? 食うよな? ほら食いな」 

 質問するよりも先に手が伸びていた。
 有無を言わさぬチョコ棒突きで口を塞がれ、口内が甘味で満たされる。

「悟りに必要なのは時間の積み重ねじゃないよ。思いの積み重ねだ。
 今食った菓子の味。昨日見た猫の模様。明日の空の広さを想像する。
 幸福でも便利でもない、生きるのに無駄だと思ってたそういうの全部が、ふと脳ん中に駆け巡り光になって、そいつが悟りになる」

 釈迦(オレ)が、そうだったから。
 御本尊にそう言われてはプラナには返す言葉もない。
 曰く、仏教はこうすればいいという救いの道ではなく、覚者に至る方法は人それぞれだというが、生命としては赤子並の経験しかない身では真理であるように感じてしまう。
 でも彼は赤子の時から天上天下唯我独尊と喋ったというし……。ああ、彼について知れば知るほど、彼は常に一歩先にいるのだと思い知らされる。

「オレは楽しいぜ。プーちゃんとのここでの旅は。
 迷い猫を探してオレがあっちこっち捜し回ってたのをプーちゃんが一発で突き止めた時なんて凄え笑っちまったもん」
「そんな事を……憶えていたのですか」
「当たり前じゃん。君との思い出は、全部(ココ)にあるんだ。忘れるわけがねえ」

 シッテムの箱を使用してまでして猫の捜索を請け負って。
 指1本分にも満たない労力で居場所を探し当て持ち上げた、生き物の感触。重量。
 飼い主に渡した時の、涙ながらの感謝と笑顔。

「……まあ。退屈では、なかったです」

 きっと冥界では見向きもされない、幕間のアーカイブ。
 プラナの裡で花開く、青春の1ページ。
 白紙が記憶で埋められていく未来を想像するだけで、不思議と暖かいものが体に流れていく。

 それこそ正に悟りの萌芽。
 やがて全ての人類が辿り着く、吾が心を知る最初の道程であると彼女が気づくのを、釈迦は呵呵と笑いながら見守るのだ。

「……提案。一度の大量のふ菓子を食べて口の中が乾いてしまったので、飲料水の購入に向かいたいです」
了解(りょ)。んじゃあオレも菓子欲しいし、一緒にスーパーにでも行こうか」
「あなたが向かうと大量の商品がお布施に流されてしまうので、ただ買い物をしたい私としては心苦しいのですが……」
「厚意は素直に受け取っとくもんだぜプーちゃん」


 ◆


「救世主という(クラス)が聖杯戦争に召喚される確率は、通常ほぼあり得ないんだ」
「……そうなのかい?」

 契約したサーヴァントが自らのクラスについての、衝撃を以て迎えるべきであろう告白を、ぼんやりとながらも驚いてみせる。
 真面目に捉えていないのではなく、クラスといった設定の詳細までを把握してはいないが為だ。
 教える立場の生徒に逆に教えを受けるしかない関係は、少しばかり情けない。

「救世主の条件を、貴方は何だと思いますか、先生?」
「……イメージだけなら、言葉通り、世界を救った者だろうね。
 魔王を倒して物理的に危機を防いでみせたらそう呼ばれるだろうし……これは勇者の方が多いか。
 後は信仰の像として崇められる場合もあるかな。教祖とかまで行くとちょっと怪しくなるけど……」
「ええ、その認識が普通だと思います。けれどそれがサーヴァントの器の適合を求められる場合、より条件は絞られていく。
 どんなに規模が大きくても、ただ世界を救うだけで救世主にはなれない。世界なんて、本当は誰にでも救えるものだから。僕がそうであるように。
 そしてマスターに選ばれる葬者にも資格を要する。『世界を救う』という、大きな理念が」
「なるほど、それじゃあ無理だな」

 個人の望みを叶える闘争に救世主が応じる事、まずそこからして破綻している。
 敵を滅ぼす武力、世界を変革する精神、運命を支配する異能。
 たかだがそれだけの特権では、座には永劫届かない。

 だったら、自分が選ばれるのは誤作動とかしか言いようがない。
 強弱も善悪も問わず、そんな御大層な使命を抱いた憶えはさらさらない。
 助けたいと願ったものに届かせようと伸ばした手が、たまたま傾いた天秤を元の均衡に押し返したようなもので。

 そうか、と彼はそこで思い至る。
 そういう意味で、自分とこの少年は同類なのだ。
 世界を救う生贄。勝利者の器。多くを率いて青い先を目指したはずのもの。

「僕はただ殺してきただけの英雄だ。誰も救えていないし、誰も導いていない。
 選択肢を突きつけられて、どちらかを選んだ。結果として誰を殺したのか、誰を守ったのかなんて視点は、気づけば欠けていた。 
 僕の死後に僕を祀り上げる人がいたとしても、それは変わらないだろう。
 遠い場所から僕の過去を読むだけじゃ、バーサーカーとしか映ってもおかしくないだろう」
「……」

 葬者であり『先生』である彼は答えない。
 ザ・ヒーロー。天使も悪魔も従え躙る無敵の森に迷った子供であり、誰にも名前を呼ばれず、自分ですら半ば忘れてしまった迷い子。
 短くもない付き合いでも、彼が負った疵は自覚できてないぐらい黒洞洞の夜が広がっている。
 未知の選択を見せられてないまま、否やと言ったところで慰めにもならない。
 袋小路に至る最期まで、彼に向き合い続ける事こそが今できる誠意だ。

「つまり君が今のクラスなのは……この聖杯戦争のバグによるものだって?」
「少し、違うと思います。ただの間違いで喚べてしまうほど扱いの軽い器じゃない。
 これは殆ど僕の直感でしかないけれど……たぶん、この聖杯戦争には救世主が喚ばれる下地があった。
 けど、それが何かの都合で空席になってしまい、たまたま召喚時期が近かった僕がその席に充てがわれた……これこそがバグの原因です」

 救世主が欲される光景。
 確かに、救われぬ亡霊が成仏も叶わず蔓延る窮状は、釈迦が糸を垂らしたくなる慈悲を見せたくもなるだろう。
 それを蹴って、自由自儘に飛び出す唯我独尊(ワガママ)をしようものなら……狂人と見做されて、強引にクラスの入れ替えをする無法も通るのだろう。

「その証明が、これなのかい?」


 徒歩と自動車とが秒単位で切り替わっては津波の如く押し寄せる交差路に2人は立っている。
 都市の経済活動の動脈に、コンクリートの地面を突き破って太太と生えている菩提樹の下にいる。
 交通の便を思えば即刻土木建設を呼び出し伐採にかかるのを、対岸の火事だとばかりに誰もが電話せず、何週間も放置され。
 神の存在を嗤う現代においてさえ、罰当たりだと手を出すのを憚る聖性な大樹。

 キヴォトスでは馴染みが薄くともここでなら世界中で膾炙されている。
 この樹の下で座を組み悟りを開き、この星で最も伝わった教えのひとつを広めた開祖の名を。

「会いたいんだね、その人に」
「……分かりません。別に救われたいわけでもないし、何よりここでは敵同士だ。
 それを不敬とも感じていない僕が、会ったところで戦う以外に、何ができるか……」
「だったら尚更だ。君が初めて興味を持った他人だ。ぜんぶ選んでみようって決めただろ?」

 何をするにも提示されてから選ぶしかなかった彼が興味を寄せた。当座の指針にするには十分な切欠だ。

「あなたの生徒も、ここにいるかもしれないのに?」
「今は君も生徒だ。みんなの望みをなるべく叶えてあげるのが、先生の役目だからね」


 奇跡の配給を止めようと動く先生と生徒。
 絶望の始発点は本線に。希望の終着は、箱の中生命線に舞い戻れるか。

 ◆

 早春が終わる季節の寒気は鳴りを潜め始め花の咲く兆しを見せるが、陽気にはいまだ程遠い。
 頭から布団を被っても凍える夜は終わっても、油断して体を出して寝ると風邪を引いてしまう、そんな気温帯。

「つまり最高のお昼寝日和ってことなんだよね〜」

 断熱効果で人肌の温度を保った羽毛布団にくるまり、のんべんだらりと昼間まで寝転がる。
 日々の糧を得る為に骨身を軋ませる労働戦士、又の名を社畜には夢のまた夢のハッピーライフを満喫していた。

「ああ、分かるよ、すごく分かる。いいよな羽毛布団。俺そんなん使ったことねえけど。
 んで、いつまで寝てるつもりだ? ていうかもう起きてるだろ」
「うへぇ~アサシンはせっかちだねぇ。女の子には身だしなみの時間がいるのにさ~」

 アサシンの小言に大口を開けてわざとらしく欠伸をするホシノ。
 それも大きく背伸びをした時までで、体を戻せば、眠気は演技を辞めたように顔面から消え失せていた。

「……やっぱり起きてんじゃねえか。いや、寝てないのか?」
「流石に徹夜なんかはしてないよ。でもさ、果報は寝て待てっていっても、本当に寝てばっかじゃ、間に合うものも間に合わないしね~。
 でさ、見つけた?」
「いいや。例のヒーローも事件前はサッパリだ。覆面してる方はまだしも女の子も見つからないのは、サーヴァントが上手くやってるんだろうな」
「そっかあ……」

 頭上に光輪を翳した銃を持った女子学生───同じキヴォトスの生徒が、ここに来ている。
 なおかつ堂々と名を名乗り、市民を助ける自警活動に勤しんでいるという。
 伝聞を聞き漁る限りは、どうにもトリニティの生徒と特徴が近いらしい。少しばかり縁があるが、生憎宇沢レイサという生徒とは直接の面識はない。
 アビドスとトリニティの関係はゲヘナほど冷えてはないし、協力関係を結ぶのは難しくないだろう。覆面強盗(ぜんか)があるのがちょっと恐いが。

 自分の生死がかかっているのにヒーロー活動とかなにやってるんだ、他にやることあるんじゃないか。などと言う気はない。
 裏技での攻略法ばかり考えて動いてないホシノが、方針やら現実味やらで説教するのもおかしな話だ。 
 キヴォトスの生徒とは、つまり『先生』の生徒だ。学校を隔てていても、自分達は同じ大人を仰いでいる。
 きっと他の子にも、自分の気持ちに蓋をせず、望まれた事じゃなく望んでいる事をしていいんだと、そう教えているんだろう。

「……そっかぁ」

 死を知らないホシノが冥界に落ちた。
 キヴォトスの生徒も同じ地平にいる。
 2人目がいるなら3人目がいてもおかしくないと考えるのは自然だ。
 おかしくはない───が、浮かんだ想像にホシノは堪らなく自己嫌悪に陥りたくなった。

 同郷の人がいてもおかしくないのならって。
 こんな場所に落ちてきちゃいけない先生(ひと)と。
 こんな場所だからこそ会えるかもしれない先輩(ひと)に、希望を見出してしまうなんて。 


 やる気なし、金なし、職業なしの三本線を獲得してるゼファー・コールレインであるが、この地である一人の存在を探す事にかけては病的なまでに執心していた。
 探すとは正しくない表現かもしれない。むしろ死んでも会いたくない一心でいる。
 ただ、こんな殺しの巧さが勝利に直結するような戦場に立つのが最も似つかわしい英雄に、彼は多大に心当たりがあったので、意識せずにはいられなかったのだ。

 絶対に居て欲しくない。なんならそれを聖杯に願いたいくらい最悪だ。
 けどもし仮に万が一、かの総統閣下が現界あそばされ、そうとは知らずあの絶滅光にうっかり出くわしてでもしたら、それだけでショック死しかねない。いやアレの為に死ぬのは死んでも勘弁だがとにかくそれぐらい嫌なのだ。
 なので本当に気が進まないが、おっかなびっくりで本腰を入れて調査していた。

 そして今日この日。3月31日を以てゼファーは結論づけた。
 冥界聖杯戦争にアドラー総統───クリストファー・ヴァルぜライドは、サーヴァントとして現界していない。

 根拠は明白だった。これまでの空白が雄弁に物語る。
 街を縦断する破壊の亀裂も、野暮図に散乱する放射能も検出されていない現状こそがあらゆる杞憂を雲散霧消させた。

 ───あの英雄が1ヶ月も、何の音沙汰もなしに刀を振るわず大人しくしていられるわけあるかよ。

 英雄を知る誰に聞いても同様の答えが返ってくるだろう。それぐらい目茶苦茶なのだ。あの光狂いは。
 欲しくもない景品を賭けた殺し合いを強制されて陰鬱なのは変わりないが、これで心なしか肩の荷が下りた。
 後はこれで、気合と根性で物理を殴り倒す天下無敵の馬鹿共がいなければ言うことはない。
 マスターのホシノを、葬者ならぬ生者へ押し上げれば仕事は完了だ。
 民の為、国の為、もっともらしい正義信念救済を謳う英雄を駆逐して、戦禍に巻き込まれただけの子供を地上に還す。
 英雄譚も、逆襲劇も、大多数にとっては起きない方がいいに決まってる。都合のいい予定調和(デウス・エクス・マキナ)。結構じゃないか。
 それで十分だろう。上等だろう。贅沢なことは何も言ってないはずだ。

 どうかこのまま、難関も窮地も起きずに平坦な圧勝で終わってくれと、ゼファーは希わずにはいられなかった。
 そして悲しいかな、そのような安穏とした運命だけは掴み取れない星に生まれたのが、ゼファーという男なのであった。


  ◆


 その滅亡の痕は克明に刻まれながら、誰もその在り処を知らず。
 全ての葬者が憶える敵であると同時に、誰の記憶にも映らない。

 不可視の恐怖。不可避の破滅。即ちは死。
 死者の魂の流れ着く流刑所が冥界であるならば、堕ちたる者、招かれる者の生殺与奪を全握する者こそが支配者の証。
 終わりの世界で、終わりを司る者として君臨する。
 理想などと戯言をほざきはしない。
 薄汚れた罪人の魂に相応しい、全てが燃え尽きた灰色の世界を築いてやるだけの事。
 それこそが、ドクター・バイルの望むアルカディア。貧苦と恐怖に震える、地獄そのものだ。

「今、また葬者が消えたね」

 バイルと同じく地下に身を置きながら、地上の勢力の変化を逐一知覚するクリア・ノートが、葬者の消滅を感知する。
 勝利の喜びも敗者への愉悦も、その顔には映らない。今は、まだ。

「これで残るは僕達を含めて24組。結界も23区を除いて全て冥界に飲み込まれた。
 ここまでは君の目論見通りかい、マスター?」

 魔界の王を決める戦いでも残りが30組を切った際には本が通知を発した。それになぞらえれば、この戦いもいよいよ本番に差し掛かってきたか。

「フン、半分はそうだな。だがもう半分は不愉快極まれりだ」

 ゴボリと、頭部を納めた水槽で泡が噴く。
 葬者本人は地下から動かず高みの見物を決め込み、アーチャーも直接姿を見せもせずに長距離砲撃で一方的に葬る。
 殆どの情報をひた隠したまま、無傷で舞台を俯瞰し、いつでも狙撃が可能な理想のポジションを保持していながら、バイルはまだ満足していなかった。

「このワシ以外に葬者共を脅かすヤツらがいるだと……?
 ならん、ならんぞ。世界の恐怖はワシ1人だけだ。世界の支配者は1人しか許されんのだ!」

 昨晩に起きた空中での一戦。
 マスターの命を遵守し参戦こそ控えたが、弾けた魔力の衝突、大気を焼き焦がす熾烈な閃光は、クリアの感知能力でつぶさに観察していた。
 黒い夜空を純烈な白で染め上げた、巨大なる白竜を。

「僕も聖杯戦争というものを甘く見ていたようだ。アシュロンより強い竜族がいるとはね」

 竜の強壮さをクリアは知っている。生前好敵手に定めていた竜の魔物も、一族で期待される神童だった。
 恐らくは相当の古老なのであろう。経験が積まれてる分、その魔物、アシュロンを超える力量であるのが気配だけで分かる。
 更にそれと戦いを成立させられるだけの実力差しかない、天翔ける蒼銀の騎士。
 あれもまた、竜の一種だ。古竜と比べれば幼子の矮躯だったが、強さの質ではまるで見劣りしていない。
 最期に、突如吹き荒れた嵐から飛び出して乱入して戦いを打ち切らせた、黒の鉄人。

 聖杯戦争のバランスを崩しかねない三騎の衝突。
 だがそんなものより葬者の注目が自分から逸れる事態の方が、バイルには耐え難いらしい。

 怒りと憎しみの源泉は、戦略上の図面を完全に逸脱した、沙汰の外によるものだ。
 己に恐怖しない存在が、己以外に地獄を広げる存在が邪魔で仕方がない。
 自分の温情以外で地獄を生きていく術があると思い上がった人間が余りにも度し難い。
 怯えろ。竦め。八熱を巡り三魂七魄が燃え尽き散華する瞬間まで阿鼻を彷徨え。

 苦痛の憎悪だけが、バイルと世界を繋ぎ止める枷だ。
 もはやとうにバイルという個は滅びて、機械の体に巣食うそれらだけがバイルを名乗るだけの廃棄物なのかもしれない。だとしたらどうだというのか。
 思うのは苦しめという一念だけだ。願うのは滅べという妄念のみだ。
 (ヒト)に根付いた悪性腫瘍。宿主を祟り殺して後は自滅するだけの自滅招体。
 後はもう語るまでもない。我々はここまでだと句点をつけ、世界は打ち切られる(デッドエンド)

「アーチャー。ここからは次の計画に進むぞ。
 貴様を前線に出す。誰だろうと構わん。目についた者は残らず掃いて消せ。
 葬られたブタ共が歯向かう気すら起きんように、真の恐怖を教え込ませてやれ!」

 狂った歯車が加速を始める。
 終末戦争の笛が冥界の淵に鳴り響く。
 収めた希望を噛み砕く瞬間を心待ちにしていた滅びの顎が、遂に閉じられる時が来た。

「ああ、了解したよマスター。「滅ぼし」の始まりだ」

 魔界の王を決める戦いが終わった後に。
 クリアは滅びの力と記憶を失い、新たな魔物に生まれ変わって、魔界で平和に暮らしている。
 ここにいるクリア・ノートというサーヴァントはその再現だ。
 滅びにより力の結晶でしかないシン・クリアという術が「死」を獲得した事で、英霊としての登録され、召喚された。
 現王すら知らぬ運命の悪戯は、冥界という物語を白紙の結末で締め括るべく、純潔に微笑むのだった。



 ◆


 最後の物語が終え、最初の物語が栞を開く。
 狭間の部屋に設えられた商店は本来の機能を俄に取り戻し、賓客を迎え入れる。

「お帰りなさい、トラマカスキ。兄様からの試練をよくぞ乗り越えました、ね」
「何度も死ぬかと思ったけどね……うん、ただいま? ただいまでいいのかな」

 出迎えに来てくれた秘書に挨拶し、奥に進む。
 いつの間にか専属の付き人になっていた女性だが,疲れているせいか、日を追う毎に間の距離が狭まってる気がする。謎の呼び方もされてる。

「死にかけた? そいつはイイ。何度も死に目を見るぐらいが釣り合う塩梅だ。
 よう兄弟。元気で()ってるかい?」

 応接の間に入れば、指に煙草を挟んで手を振る伊達男が、ソファで片膝を曲げて待っていた。

「頑張ってるよ。まっとうな生活の方向ならね」
「ソイツはまた安穏だな。もう一度死なねば目が醒めないか?」

 これでマスターを喜んで窮地に突き落とした張本人であるのだから、我がサーヴァントながら恐ろしい。
 後にも先にも、マスターを単独で放り出して戦わせ、自分は商売に勤しむサーヴァントはこの男だけだろう。
 戦争の神テスカトリポカ。結城理の蘇生の権利を賭けた戦争の運命を回す者だ。

「だいたいさ、2人1組で戦うってルールなのに、なんで俺だけ前線に出る羽目になったんだっけ?」
「サポートはしてやったろう。能力の強化。装備の手配。わざわざハチドリ呼び寄せての街のナビゲーション。
 初手でこれだけ至れり尽くせりの加護を授けた試しはないんだ。もっと喜んで欲しいものだがね」

 理を街に送還して後、テスカトリポカは一度たりとも冥界の地を踏む事がなかった。
 ペルソナの召喚器、タルタロス攻略に使った武具、アサシンを兄と呼ぶ、不思議な精霊からの通信。
 万全に後方支援を揃えて本人は何をしているかといえば……何と看板をかけて道具屋を営んでいたのだ。

 しかもどう見てもベルベットルームだった。
 理がペルソナの調整をしてもらう鷲鼻の老人と美人秘書が住まう部屋が、南米風に改造されている。
「レンタルだ」とアサシンは言うが、どうやったのか。あとたぶん、ぜったいエリザベスは怒ってると思う。

「そっちが戦う方が絶対早かったと思うけど……」
「それに意味はないと言っただろう。空の器に興味はない。語るのも無駄だ。
 オレは戦争のルールブックを書くだけ。商売(コレ)もその一環さ」

 聖杯は求めない。そこに至るまでの闘争と流血にこそテスカトリポカは興味を抱いている。

「……」

 それがこの神としての役割であると理解はしている。
 定められたシステム。予め決められた現象。
 友誼を信じながらも、剣を交えるしかなかった、死の顕現の男と同じに。
 弁えてなお、理は忸怩たる思いに駆られていた。

「まだ悩んでるのか? オレを止めるべきだったかと」

 正鵠を射られ、俯きかけた顔を戻す。

「犠牲に善悪を重ねるな。善人だから死ぬのは間違いで、悪人だから死ぬのが当然? そんな馬鹿な話はない。
 戦場が既に用意されてる以上、オレが武器は卸さなくても死者は出る。ただし、はじめから力のある奴が抵抗する力を持たない弱者を蹂躙する形でな。
 虐殺も戦のならいだ。肯定はするが一方的なままじゃバランスが悪い。
 互いに心臓を賭けてこその闘争、生存競争だろう」

 メメント・モリ。
 死を想え。今日を生きろ。人生に祝福を。
 残酷なる神は掲げるのは、理と同じ想念。
 だからこそ死に向かい合い、最期まで走り抜けとするのか。
 だからこそ今ある命を大切に、いずれ来る死を恐れないよう人生を送ろうとするのか。
 始原が共通しても、辿る行き先が正反対だから、こんなにも理解できて、反発し合うのか。

「それで、どうだ。一通り巡ってきて。
 オレの舵取りがないよう気を遣ってやったが、願いは見つかったか?」
「気の遣い方が回りくどすぎる。けど、そうだな────」

 戦いの連鎖だった。
 譲れない信念で、他人の骸を踏み越えていく誰かがいた。
 殺し合いに怯えながら、人として越えられない一線を守り通す子がいた。
 戦いでしか交流がなかった。守ろうと助け合えた。
 死んでしまった人がいる。まだ生きている人もいる。

 戦い傷ついて、こまで生き延びた。聖杯に手が届き得る葬者が願うもの。
 悩んだし、考えた。答えはひとつしか出てこなかった。

「やっぱり、こういうのはやめにしたいな。
 死が避けられなくても、こんな風に殺されるのに祝福なんて、俺は願えない」

 誰かが死ぬのは、それだけで哀しい。さっきまで隣にいた誰かなら尚更だ。
 死の総体を乗り越え、星の命を魂を枷に救いながら。
 結城理の動機は、どこまでも素朴な善性でしかなかった。

「俺が願うのは、この冥界を閉じること。
 死人の夢は、生きてる人に見せていいものじゃないだろ」 
「戦いを止める為の戦いか。
 結構じゃないか。矛盾はないぜ」

 今すぐ銃声が室内に響くと身構えて戦闘を覚悟したのに。
 あっさりとアサシンは理の願いを受け入れた。

「お前はこの冥界を否定する。だがそんな選択に関わらず黄金を欲する輩は現れる。
 願いがかち合えば戦争は起こる。火種を投じるのは一緒だからな」

 意地悪に微笑する神は、そう言ってソファから立ち上がる。

「となると、オレもそろそろ表に出ようか。
 武器はいい塩梅に分配されたし、リソースは十分に溜まってる。1ヶ月の澱を落とすとしよう」
「いいの?」
「覚悟を問うのはお前の方だぜマスター。オレを戦士として解き放つ意味を、理解してないとは言わせねえよ。
 もしくは、最後の2人になったら雌雄を決するか?」

 命を任せる託生の相手に、これほど危険なサーヴァントはいないだろう。
 気まぐれで冷酷で残忍、いつ理や仲間に危害を加えるかも不明の大嵐。
 信じられるのは、死に対する真摯さだけ。

 ───それなら、ひとまずはなんとかなる。10年来の付き合いだ。

 力でも頭脳でも叶わないのなら、立ち向かえる武器は心しかない。
 これは自分だけじゃない、特別課外活動部の、理が重ねた絆の強さのぶつけ合いだ。
 束ね合わせた心は、神でも断ち切れない宇宙になると、鏡の前で見せつけてやろう。

「じゃあそれでいこう。今後ともよろしくってことで」
「クソ度胸は相変わらずだな。ああ、退屈な顛末だけにはならなそうだ」

 差し出された右手に、快く握り返す。獰猛に、鷹揚に笑みを交えて。
 戦士と神の契約はここに。全ての魂をかけた戦いがここから始まる。



 ◇


「『物語』にはね、命があるの」


「生まれてからたくさんの人の読まれて、愛されて、認められた本は大きく育って、世界中に種子を飛ばしていく。
 例えばこの国だとそう───三太郎。『桃太郎』『金太郎』『浦島太郎』。とっても有名な3人の太郎の童話。
 ここにも来ているよね? 悪い太郎とおともにいたずらをされた鬼。竜宮城に帰らなかった太郎。鬼と仲良くなって太郎。
 有名なお話は人の色んな解釈が混じり合って、おかしな事にもなっちゃうけど、それも人と人の望みの結果だもんねえ」


「でも、悲しいけど、忘れられる『物語』もある」


「誰にも読まれずに捨てられちゃう。誰にも望まれなくて打ち切られちゃう。途中で飽きて書くのを辞めちゃう。
 物語にとっての栄養は『読まれる』事だもの。栄養がなければ死んでしまう。手にとって読み返される事のない、思い出になっちゃう。
 それって命があって、死があるってことでしょ?」


「人が死ねば冥界に行く。
 だったら物語の死だって、受け容れる場所があるとは思わない?」


「それが此処。生まれたばかりの、名付けられていない冥界。
 ルールを作る王様がいない此処は、何でも許されて、何があっても許される混沌。だからみんな、此処に集まってきた。
 誰かの為の物語。貴方の為の物語。望まれるだけある、皆の為の物語……」


「世界の境は、もう崩れてる。
 後は、流し出すだけ」


「あなたは、どうするの?
 1人だけが座れる魔法の椅子に、何を乗せる?
 あなただけの『物語』を本にして蘇らせる事もできる。大切な人の『物語』も。
 此処にいる『みんな』の分だって、きっと叶えられるよ。彼らはずっと、それだけを願ってきたんだから」


「あなたの願いを聞かせてくれない?
 私はそれを応援するし、叶えられるように手伝ってあげる」


 ◆


 揃う葬者は24人。
 連なる英霊も24騎。

 だが生還が叶うのは1人のみ。
 願望を叶えられるのは1組のみ。

 例外はない。希望はない。
 手にした剣で地獄を作るしか抜け出す糸は掴めない。



オルフェ・ラム・タオ/アルトリア・ペンドラゴン〔オルタ〕
フレイザード/紅煉。
ピーター・パーカー/レイ。
衛宮士郎/おぞましきトロア。

小淵沢報瀬/冬のルクノカ。
クロエ・フォン・アインツベルン/石田雨竜。 
ドクター・バイル/クリア・ノート。

天堂弓彦/メリュジーヌ。
禪院甚爾/ヴィルヘルム・エーレンブルグ

宇沢レイサ/バーソロミュー・くま。 
龍賀沙代/バーソロミュー・くま。 
天童アリス/ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン。

夏油傑/リリィ 。
グラン・カヴァッロ/窮知の箱のメステルエクシル。 

結城理/テスカトリポカ。
小鳥遊ホシノ/ゼファー・コールレイン。
プロスペラ・マーキュリー/ジャック・ザ・リッパー。

敷島浩一/プルートゥ。 
寶月夜宵/坂田金時。 
プラナ/釈迦。

スグリ/白面の者。

岸浪ハクノ/ソドムズビースト/ドラコー。

十叶詠子/坂牧泥努。

『先生』/ザ・ヒーロー。



 吟遊詩人を振り返らず。国産神を怖れず。英雄王を乗り越えたくば。
 いざ葬者達(マスター)よ───冥府の深奥にて、生を勝ち取れ。



 ◆





 けれどもし。
 君が深奥で死を鎮めるというのなら、或いは────。





 ◆



【備考】
 3月31日深夜に都内上空で、ルクノカ、メリュジーヌ、プルートゥの戦闘が起きています。
 具体的な描写は後の書き手にお任せします。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2024年07月12日 17:44