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宗近新八郎
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宗近新八郎
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)御意《ぎょい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)村|信濃守《しなののかみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
新八郎はあっと云った。
「……御意《ぎょい》討ち」
「そうだ」
平林六郎衛門は濃い眉の下から、底光りのする眼でじっと新八郎を見まもりながら、たたみかけるようにつづけた。
「監物《けんもつ》どのの専横ぶりはおみたちもかねて聞くところであろう、御しゅくんのご病気をよきことに、藩の政治をおのれの一存で切り盛りする。それはよい。監物どのはすぐれた政治家だから、多少、専横でもおいえのおんためになるあいだは黙っていてよい。しかしながら、権力を握るものはともすると権力に毒される。おいえのおんためという覚悟がぬけて、いつかおのれの一身一家を利する心がおこるものだ」
六郎右衛門は、ふところから一通の書きつけをとりだし、新八郎の手にわたしながら、
「これに監物どのの罪条がしたためてある。念のためよく読んでみるがよい。一日はやければ一日だけおいえの禍《わざわい》がすくなくなる道理だ、方法はどうとも望むままにまかせる、討ち損じのないよう頼むぞ」
「お言葉をかえすようではございますが」
新八郎はしずかに眼をむけた。
「御意討ちとは軽からぬことで、とのさまより直々《じきじき》の仰せつけならでは、口にすることのできぬものと聞いております。お直《じき》のご上意《じょうい》をうけたまわりたいと存じますが」
「もっともな申し分だ、けれどもお上《かみ》にはいまご病臥中のことでその儀がかなわぬ、それで老職の身分をもってわしが申しつけるのだ。……もしそれで承知できぬとあれば辞退してさしつかえないのだぞ」
「もってのほかの仰せ、ご上意とあれば身をすてても必ず仕止めます」
「そうか、そのもとならぬかりはあるまいが、監物どのは老年ながら小太刀の名手、心してやるがよい」
そう云って六郎右衛門は手をのばし、用意してあったらしい金包みをとった。
「些少《さしょう》ではあるが路銀だ、首尾よく討ちとったうえはしばらく当地をたち退くがよい」
「……たち退くのですか」
新八郎は意外そうに眼をみはった。六郎右衛門は頷いて、
「御意討ちとはいいながら監物どのは一藩の城代家老、討った者がそのままとどまっていては、面倒がおこらぬとは限らぬ、家中がしずかになるまで身をかくすほうがそのもとのためでもある」
「よく相わかりました」
新八郎は書きつけを懐中《ふところ》にすると、さしだされた金包みを押しかえして、
「では仰せのとおり致します、しかし自分にもいささかの貯えがございますから、これはそちらへお納めねがいます」
「いやわし[#「わし」に傍点]の寸志だから受けて呉れ」
「おこころざしだけ頂戴つかまつります。ではこれにて」
そう云って、新八郎はたちあがった。
そとへ出たが、ひきうけた役目の重大さに、心はなかなかしずまらなかった。戸坂監物は常陸《ひたち》ノ国《くに》手綱藩《たづなはん》、中村|信濃守《しなののかみ》の城代家老として、十年にあまる年月のあいだ、藩政の中枢を握ってきた人物であるが、その執政ぶりが専制的なので近年とみに評判が悪く家中の一部には「斬ってしまえ」という過激な論さえ出ているくらいだった。
新八郎はそういう評判も聞いていた。けれども彼は常に、
――若輩の者どもは、ご政治むきについて論ずるべからず。
という家法をまもって、そういう世評にはけっして耳をかさなかった。だれしも御いえのために身命をささげて働いているのである。悪評する者も、またされる者も、みんなそれぞれの立場で御いえのためを思うからこそだ。ご政治むきのことなど精《くわ》しく知らない若輩者が、世評に惑《まど》わされて騒ぎたてるなどは、もっともつつしまなければならぬことだ。新八郎はそう考えていた。
それがとつぜん、「監物御意討ち」という重大な役目を申しつかったのである。御意討ちといえば理非といかんにかかわらず討ちとめなければならない。
――上意とあれば討とう。その決心はすぐについた。同時に、監物を討つからには自分もその場で切腹する覚悟である。六郎右衛門はしばらく身をかくせと云ったが、新八郎にはそんな気持はなかった。
――討つからには自分も生きてはおらぬ。
と、かたく心にきめたのであった。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
宗近新八郎は二百石の書院番で、そのすぐれた男ぶりと、ずばぬけた剣の名手とで家中に知られている。しかし性質はどちらかというと女性的なほどおとなしく、道楽に尺八をたしなんでいるが、そのみちでもなみなみならぬ天分をみせていた。むしろ剣を執って家中ずい一の技をふるうときよりも陶然《とうぜん》として尺八の音に酔っているすがたのほうが彼にはふさわしいくらいだった。父も母もすでに亡く、家庭はさびしかった、その年の春さきに縁談ができて、秋には妻を迎えることになっていた。相手は御蔵奉行|外村《とのむら》剛兵衛の娘でおぬい[#「ぬい」に傍点]という、琴にたんのうな乙女で、しばしば御前へ召されたし、ときには新八郎の尺八と合奏したこともあった。そんなところから縁がむすばれて、ついに結婚の約束にまでゆきついたのである。
――それも今となっては夢だ。
新八郎にはむろん未練はなかった。かえって祝言をあげない肌だったことを、しあわせだとさえ思った。
――今宵のうちに、それとなくわかれをつげたうえ、討ちにゆこう。
そう思いながら、自分の屋敷へ帰った彼は、すぐおのれの居間へはいって、六郎右衛門からわたされた書きつけをひらいて見た。それには監物の罪を十二ヶ条にあげて記《しる》してあったが、もっとも重要なのは左の三ヶ条であった。
其一は、大坂の商人灘屋五郎兵衛と結托して、お借入金の一部を使途不明に費消していること。
其二は、不用意に谷峡村《たにあいむら》新田開発をはじめて失敗し、多額の藩金を徒費したこと。
其三は、当藩主、信濃守時継に世子がないため、親族から世継ぎを求めているのだが、監物は幕府の老中水野|和泉守忠之《いずみのかみただゆき》とよしみを通じ、ひそかにその三男と養子縁組をすすめていること。
右の三ヶ条を特に繰返し読んだ新八郎はそれまでおちつかなかった気持がようやくはっきりときまり、
――この三ヶ[#底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。]条だけでも、討ってとる罪にはじゅうぶんだ。よし!
と、はじめて心から闘志を感じた。
べつに後事の心配はなかった。自分の亡きあと家の始末について書き遺《のこ》すと、それを罪条書とともに密封して手文庫に納め、風呂にはいって軽く夕食をすませた新八郎は、愛玩の尺八をとりだし、「外村どのを訪ねる」
と云いのこして家をでかけた。
途中までいくと小雨がふりだした。しかし外村の屋敷は大手筋にあって、ひきかえす道のりでもなかったから、彼は小走りに道をいそぎ、濡れるほどのこともなくゆき着いた。
剛兵衛もちょうど食事をすませたところだった。
彼は新八郎が尺八を持っているのをみると、
「やあ、これはめずらしい」
と、色の黒い顔をうれしそうに崩して、
「そのもとが自分からすすんで尺八を持参するというのは初めてだ。むろん聞かせて貰えるのだろうな」
「じつは、きゅうの御用で江戸へたちますので」
客間にあい対してすわると、新八郎はさりげない風に云った。
「江戸へ御用、……いつだ」
「明朝はやくしゅったつ致します」
「帰りはいつ頃になる」
剛兵衛はすぐ秋の婚礼のことを考えたようすである、新八郎の胸にはそれが痛かった。
「出府してみないとわかりませんが、しだいによっては少しながく江戸表にとどまるかもしれません。それで、……おわかれにおぬい[#「ぬい」に傍点]どのと一曲あわせて頂とうと存じまして」
「それは願ってもないことだ。しかしながく江戸に滞在するというのはどういう御用なのか、お役替えにでもなったのか」
「それは申しあげられません、でもいずれお耳にはいることと存じます」
「……そうか」
御用のことは根を掘って訊くわけにはいかない、剛兵衛は解せぬ気持のままに、妻を呼んで、合奏のしたくを命じた。そして、またとない折だからというので、銀之助、市之丞《いちのじょう》の二子もその座へ呼びよせた。
おぬい[#「ぬい」に傍点]は化粧と着替えに、てまどったとみえて、みんなが座についてからややしばらくして出て来た。彼女はそのとき十九歳だった。にくづきのすぐれたからだつきでさして美人というのではないが、あかいつまんだような小さい唇《くち》もとと、睫毛《まつげ》のながい眼があり、どうかするとひどく艶《つや》やかな表情があらわれる、新八郎はときたま影のようにかすめ去るその表情を見ると、自分の胸にあたたかく血の騒ぐのを感ずるのだった。
「ご迷惑なことをお願い致しました」
新八郎はおぬい[#「ぬい」に傍点]が琴の前へ坐るのを待ってしずかに会釈した。
「しばらくのあいだ、おわかれになりますので、あなたのお手なみを想い出にしたいと考えたのです。拙者はほんのおつきあい、どうかそのおつもりで、じゅうぶんにお聞かせください」
「お恥ずかしうございます、つたない技ゆえ、かえってお邪魔になることでございましょう。どうぞお笑いぐさに……」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は頬を染めながら会釈をかえした。
曲は『想夫恋』ときまって、二人はおのおのの座につき、やがてしずかな十三絃の音で合奏がはじまった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
広縁の障子はすっかり、あけはなしてあるので座敷からさすほのかな燭《しょく》の光が、雨に濡れる庭の泉石をおぼろにうつしだしていた。もうこれが梅雨《つゆ》になるのであろう、けぶるような雨は音もなく庭の樹石を濡らし、泉水の水面にあるかなきかの波紋を描いている。琴の音はときにその波紋よりも幽遠《ゆうえん》だった。
琴も尺八もいずれ劣らぬ冴えをみせた。絃と管とはまったくひとつになり、珠玉の韻《いん》に凝《こ》るかとみれば、たちまち泉流となって砕け、あい即《つ》きあい離れつつ姚冶《とうや》と憂愁の感を自在に点綴《てんてつ》した。新八郎はまことに無念無想だった。まるで酔ったように、管絃のあい合して発する共鳴音のなかにおのれを忘れ去っていた。
するとやがてどうしたことか不意に琴の音がぴたりと止った。
新八郎は、なお吹きつづけようとしたが、そのまま琴がついてこないので、自分も尺八を措《お》いてふりかえった。……おぬい[#「ぬい」に傍点]は両手をついて、ふかく面《おもて》を垂れていた。
「おぬい[#「ぬい」に傍点]、どうしたのだ」
剛兵衛は感興を中断されて舌打ちをした。
「なぜよす、かげんでも悪くなったのか」
「申しわけございませぬ、宗近さま」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は新八郎を見あげた、額のあたりがすっかり蒼ざめていた。
「どうなすったのです」
「せっかくのおぼしめしでございますが、わたくしにはもうこれ以上お相手はつとまりませぬ、どうぞおゆるしあそばして」
そう云うと座にもいたたまらぬようすで逃げるように奥へたち去っていった。
「しようのない我儘ものだ」
「いあ、お叱りくださるな」
いきりたつ剛兵衛を制して、新八郎は微笑しながら尺八を袋に納めた。
「芸ごとは気がむかなければできぬもので無理にお願い申した拙者が悪いのです。しかしこれでよき餞別《せんべつ》を頂きました、どうかおぬい[#「ぬい」に傍点]どのへはくれぐれもお詫びを願います」
「詫びはこちらからせねばならぬ、せっかくの興を無にしてあい済まなかった。その代り別杯《べっぱい》を一|盞《さん》さしあげよう」
剛兵衛はそう云って酒肴《しゅこう》を命じた。
ことわることもできなかった。しばらく酒の馳走になったが、時刻が気になるので、よきほどに盃をふせていとまをつげた。いよいよ座を去ろうとしたとき、新八郎は愛玩の尺八を剛兵衛に預けた。けぶりにもみせなかったがかたみ[#「かたみ」に傍点]のつもりである。剛兵衛はそんなことに気づくはずもなく、よろこんで預った。
「では道中の水に気をつけて」
「ご無事のお帰りをお待ち申しております」
夫妻に送られ、傘を借りて新八郎はそとへでた。
あやめちわからぬ闇をこめて、雨は小歇《こや》みもなく降っていた。門長屋について右へあるきだした新八郎が屋敷はずれまで来かかったとき、うしろから声をひそめて、
「もし、宗近さま」
と呼びかける者があった。ふりかえってみると雨具も持たず、おぬい[#「ぬい」に傍点]が雨のなかに立っていた。
「おぬい[#「ぬい」に傍点]どの、……どうなされた」
「宗近さま」
娘はおもいつめた調子で、そばへすり寄りながらじっと男の眼を見あげた。
「お上《かみ》のご用で江戸へいらっしゃるのは本当でございますか」
「……どうしてそんなことを仰有《おっしゃ》る」
「わたくしには信じられませぬ、江戸へいらっしゃるというのは嘘でございましょう、もう生きておかえりになるつもりはないのでございましょう」
「おぬい[#「ぬい」に傍点]どの」
新八郎はおどろいて娘を見た。
「それが、どうしてそれが、あなたにわかります」
「さきほど琴をあわせて頂きましたとき、十三絃へひびいて来る竹の音《ね》には、必死のおこころがこもっておりました。言葉は、いつわることはできましても音楽のまことは隠せませぬ、わたくしの申すことが誤っておりましょうか」
「…………」
胸をつかれた。新八郎は心のまっただなかをぐさ[#「ぐさ」に傍点]と刺し貫かれた。いまはじめて琴を中断したおぬい[#「ぬい」に傍点]の気持がわかる、自分では無念無想でいたと思ったのだが交響する糸竹《しちく》の韻《いん》には、必死の心がかよったのだ、おぬい[#「ぬい」に傍点]はおのれの絃にひびいてくるその韻律に堪えられずついに中途でやめてしまったのである。
「おそれいった。さすがあなたは琴の名手だ、そう察しられた以上もう隠してもしようがない、なにもかもお話し申しあげよう」
新八郎はそう云って、濡れているおぬい[#「ぬい」に傍点]のうえに傘をさしかけながら、しずかに事情をはなしはじめた。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
戸沢邸に着いたのは、十時ちかくだった。
「火急お耳にいれたいことがございます」
そう云って案内を乞うと、すぐ客間へとおされた。そこでしばらく待たされた。六郎右衛門に注意されるまでもなく、監物が中条流の小太刀になかなかの腕をもっていることは定評がある。ことに屋敷のなかではひとつ仕損じると家臣が邪魔にはいるから、どうしても一刀必殺でなければならない、どうしたらその一刀をとれるか、新八郎は客間のなかを見まわしながら手順をはかった。
やがて隣の部屋へ人のちかづくけはいがして、しずかに襖《ふすま》があき、戸沢|監物《けんもつ》がはいって来た。
監物は六十三歳の小柄な老人だった。けれどもその五尺そこそこのからだは精悍《せいかん》の気に満ちていたし、銀白の眉のしたにある双眸《そうぼう》は、おそろしく力があって、これに睨まれるとたいてい、身が竦《すく》むと云われていた。……客間へはいって来た老人はそこでちょっと足をとめ、その評判の眼でひたと新八郎を睨んだ。そしてしずかに座へつくと、いきなり抑えつけたような声で、
「……斬りにまいったな、宗近」
と云った。
新八郎はとっさに大剣へ手をやった。しかし監物はおしかぶせて、
「待て、あわてるな」
と手をさげた。
「わし[#「わし」に傍点]はこのとおり丸腰だ、斬るつもりならいつでも斬れる、あわてずにわし[#「わし」に傍点]の申すことを聞け、そち[#「そち」に傍点]が誰に頼まれて来たかもおよそわかっておるし、案内を乞うたとき、すでにそれを承知でとおしたのだ」
「拙者は誰に頼まれたのでもありません、ご上意です」
「お上《かみ》じきじきの御意か、そうではあるまい」
「さ、……それは」
「お直《じき》の御意なしに上意討ちなどということはないぞ。しかしそんなことはどうでもよい、討手をひきうけたからはそちに監物を討つべき合点はあろう。どうして斬る気になった、まずそれを申してみい」
新八郎はじっと監物の顔を見まもった。老人の顔にはいささかの曇りもなく、らんらんと光る眼にも、一文字にひきむすんだ唇《くち》もとにも、不退転の意気がはっきりと描かれている。
――斬りに来たな。
というはじめの一言から、つづけざまに急所をつかれた新八郎は、まぎれのない老人の眉宇《びう》を見ているうちに、今こそ真実に当面できるということを強く感じだした。
「それではおたずね申します」
大剣をひきつけたままかたちを正して彼は口を切った。そして十二ヶ条の罪状をならべ、そのうち特に重要な三ヶ条についてはげしくつっこんだ。監物はだまってしまいまで聴いていたが、新八郎の言葉が終るとすぐ、
「うむ、よく拾いあげてある」と頷きながら、
「これからその条々について説明するが、そのまえに訊きたいことがある。……そちは監物を討ってからどうするつもりだった、御意討ちだからそのまま、すますつもりで来たか」
「お討ち申したうえは、この場を去らずに切腹する覚悟でございます」
「一命を捨ててまいったのだな」
よしと云って監物は侍者《じしゃ》を呼び、ひとかさねの書類をとり寄せた。
「ではいまの条目について精《くわ》しく説明をしよう、しかしまえもって一言申して置く、わし[#「わし」に傍点]の説明にすこしでも、うろんがあったら遠慮なく糺《ただ》すがよい、いいか」
「うけたまわりまする」
新八郎は膝に手を置いた。監物はとりよせた記録をひらきながら、歯ぎれのいい口調で十年来の藩政について語りだした。
徳川幕府はじまって百年、享保《きょうほう》年代になると、純然たる消費生活にはいった諸大名の財政は、眼にみえて窮乏の一途をたどりだし、おそろしい力で擡頭しはじめた商人階級とのぬきさしならぬ因果関係が生じて来た。……おおざっぱにいえば領内の物産を金に替えることが、いつかその物産を抵当に商人から借財をするとになり、それがしだいに嵩《かさ》んで身動きができなくなる。そこまでゆきつく経路はそう単純ではないにしても、つきつめたところはみな同様だった。
手綱藩《たづなはん》四万石も、その例外でありえなかった。監物が家老職についたとき、藩の財政はほとんど手のつけようもないほど紊乱《びんらん》していた。しかも政治の諮問機関たる年寄、老職という位置はすでに世襲となっていたため、凡庸《ぼんよう》はかるに足らざる人々ばかりで、共に藩政改革をおこなうべき人物はひとりもなかった。この急迫した状態を打開するためにはなによりも人物が必要である、しかし、それがないとすれば、思いきった独断専制を断行しなければならない、監物は心をきめた。
――自分はいま身命をなげだして、どんな悪評もひきうけよう、しかし命に代えて主家万代の策をたてなければならぬ。
そして彼は、ごしゅくん信濃守に執政一任のおすみつきを乞い、財政たてなおしの大|鉈《なた》をふるいはじめた。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
記録を引いて説明されても、そういう知識のない新八郎には、政治の細目にわたる点は、ほとんど理解することができなかった。
けれども、身命を捨てたという監物の覚悟と、あらゆる批判を無視して信ずるところを断行した態度には、いささかの疑念をはさむ余地もない壮烈なものが感じられた。監物の執政ぶりが万全であったかどうかはわからないが、四万石の財政をたてなおそうという大きな政治の方向がはっきりすればそのほかの小さな問題は、もうどちらでもよかった。
「これであらましは話した」監物は記録を閉じながら、
「最後にお世継ぎの件だ、わしが老中水野侯のご三男をお迎えするいう噂は嘘だ。水野侯とはべつのことで内談があった。それを老職どもが耳にはさんで、よくわきまえもせずに臆測をめぐらせたものだ」
「よく相わかりました」
新八郎は感動を抑えきれずに云った。
「ご政治むきに暗く、いちがいに人の言葉を信じましたためとりかえしのつかぬあやまちを犯すところでございました」
「そのもとが悪いのではない、どうやらご政治むきがたちなおったとみて、今まで手をつかねていた者どもそろそろ穴から這いだしはじめたのだ。ひとが餅を搗《つ》くうちは見ていて、喰べるだんになるとしゃしゃばり出るやつだ。……しかし仕事はまだ終っていない、これからが大切なときだ、死ぬことを怖れはせぬが監物はまだ生きなければならぬ。いかなる悪名も誹謗《ひぼう》もうけよう、だが監物はまだ死ぬことはできんのだ」
まだ死なんぞと云いながら、老人はおのれの膝をぐっと掴《つか》んだ。
……そして、烈火のような眼で新八郎をみつめながら、
「宗近、いまそのもとはわしを斬ったら切腹するつもりだと申したな」
「いかにもその覚悟でございました」
「その命、監物に呉れぬか」
「…………」
「突然こう申したのではわかるまい、いま仔細を話す」
そう云った監物は座をたって、奥へはいって大幅の掛物を二箱、みずから抱えてもどって来た。そして蓋をひらいてとりだした二幅を、ならべて壁へかけるのを見て新八郎は思わずあっと声をあげた。
牧谿《ぼっけい》画『山水』である。
御宝物拝見のおりたしかに見た中村家の秘宝の一軸、横ものの小品ではあるが、藩祖から伝来の品で、紀州家に伝わる「紅天暮雪」の軸につぐ名物だった。
それがいま二幅ある。
新八郎は眼を凝らせてひたと画面を見た。筆致といい時代色といい、二幅とも寸分たがわぬ牧谿の山水である。
「いうまでもなく御宝物の牧谿だ」
監物は低い声で会った。
「かねて老中水野侯から、三千金で買おうというご内談がしばしばあった。いま谷峡村《たにあいむら》新田開発について金がほしい、それでお上《かみ》とご相談のうえ、この一軸を水野侯にお譲り申すことになったのだ」
「…………」
「重代の御宝物ではあるが、五年にいちど御披露のあるほかはお蔵の塵《ちり》にうもれているばかり、新田開発は御いえ千年の事業だ。いずれが重きかは申すまでもあるまい。お上にもそこをお考えのうえ、お譲り申すことにきめたのだが、それでなくとも因循姑息《いんじゅんこそく》の老職どもにはとうていそう軽重《けいちょう》の区別はつくまい、そこで御宝物のかたちだけ遺すために、かような偽作を一軸つくらせたのだ」
「それで……」
新八郎は膝をすすめた。
「わたくしの一命どうせよと仰せられます」
「この軸を持って江戸へゆき、水野侯におわたし申したうえ金子を為替に組んで送って貰いたいのだ」
「それが命を賭けるお役目でございますか」
「……宗近」
監物はじっと新八郎の眼を見て、
「そのもとに監物を討てと頼んだが、そのもとの出て来るのを待ち伏せておると思わぬか」
「なんと仰有《おっしゃ》います」
「この屋敷のそとに宗近を狙う刃《やいば》があるぞ、これがひとつ、もうひとつは、もし偽作のことが発覚したばあい、監物一存でしたこととして切腹する。むろん悪名を負って死ぬのだ。そのもとにその覚悟がほしいのだ」
「…………」
「いいか、万一のばあいには、不臣の名のもとに死なねばならぬぞ、その覚悟なしにはこの役はつとまらぬのだ。わしを斬って死ぬべき命を、このお役にたてて呉れぬか」
新八郎はじっと眼《まなこ》を閉じていたが、やがて監物の顔を屹《きっ》と見あげながら云った。
「かような大役を、わたし如きおゆかり薄き者にどうしてお申しつけあそばしますか」
「君家のために、まこと身命を惜しまぬ人間はそう多くはないものだ。……十年ちかくしても知己ならぬ者があるし、一面の識で生死を誓う場合もある。あい知ることの長きと短きとで、人間の値うちがきまるものではあるまい」
「ご家老」
新八郎はにっと微笑しながら云った。
「その役目たしかにおうけ致しましょう」
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
窓の障子がふいにぱっとまばゆく陽をうつしたので、おぬい[#「ぬい」に傍点]は夢から覚めたように眼をあげた。
朝から降りつづいていた雨がいつかやんで、雲のきれめから初夏の太陽がぎらぎらと光の箭《や》を放っている。庭の樹々は濡れた若葉の枝をいっせいにその光のほうへさしのべるかとみえ、梢をわたる小鳥の声もにわかに活々と音をはりあげた。
――宗近さまはどうあそばしたか。
あの夜からすでに五日経っている。監物を討ちとって死ぬと聞いたので、覚悟はもうきまっていたし、そうなったら自分も髪をおろして尼になるつもりだった。
けれどもそれ以来なんの噂もない、戸沢監物が斬られたということも聞かないし、新八郎についても消息がない。
――もしや仕損じて、戸沢の屋敷でかえり討ちになったのではあるまいか。
そういう心配もあった。しかしそれにしても噂位はあるはずだ、五日も経つのになんの沙汰もないのは、まだその機会がなく、新八郎はどこかに潜んでいるのではあるまいか。
かっこう。……かっこう。
屋敷のうえを高く鳴きながら郭公《かっこう》鳥が飛んでいった。おぬい[#「ぬい」に傍点]は遠のいてゆくその澄んだ声を耳で追いながら、まだ新八郎が生きていて、どこかでおなじようにその鳴き声を聞いているのではないかと思い、ふと、さそわれるように立って縁さきへ出ていった。
ちょうどその時、兄の銀之助が、一人のたくましい若侍とつれだって、庭の手からいそぎ足にはいって来るのが見えた。
「まあ、……平林の啓二郎さま」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は若侍の顔をみて、それからちょっと眉をひそめた。藩の老職平林六郎右衛門の長男で、まえにおぬい[#「ぬい」に傍点]を貰いたいと申しこんで来たことがある。ずいぶん熱心だった。家柄にも申分はなかったが、そのときおぬい[#「ぬい」に傍点]の心にはもう新八郎が忘れることのできぬ人になっていたし、父の剛兵衛もそれを察していたのでついその申込みはことわってしまった。
それからぱったり啓二郎は来なくなっていたのである。
それがひさしぶりでやって来た。しかもふだん余り往来をしない兄とつれだっているのもめずらしい。
「……どうしたのかしら」
呟きながら見ていると、二人は庭からそのまま、はなれ造りになっている父の居間へはいっていった。それがなにかひどくいそがしそうだったので、おぬい[#「ぬい」に傍点]の眼はふと光を帯びた。
――もしや宗近さまのことではないかしら。
そう思うと、きゅうにからだ中の血が熱くなった。
――きっとそうだ、そうに違いない。
おぬい[#「ぬい」に傍点]はなかば夢中で裏へ出た、そして跫音《あしおと》をしのばせながら、父の居間になっている部屋の横手へ近づいていった。
はじめに父の声が聴《きこ》えた。
「なに……それは事実か」
ひどくおどろいた声音だった。つづいて平林啓二郎のすとし嗄《しゃが》れた声が聞えた。
「絵師の名は文哉《ぶんさい》と申します。京絵師だそうでございますが、さきごろからしきりに家老のお屋敷へ忍んでまいるとのことでひっとらえて糾明《きゅうめい》したのです」
「その絵師がそう白状したのか」
「御宝物とは知らぬようですが、牧谿の山水を寸分たがわず模写せよと頼まれ、多額の金に眼がくらんで偽作をつくったと申すのです」
「頼んだのは戸沢どのだと申すのだな」
「はっきりそう申しております」
しばらく話し声がとだえた。そしてやがて、父の呻くような声が聞えた。
「その絵師はどこにおる」
「父が預っております」
「そやつに会わせて貰いたい、事実とすれば一大事、すぐお蔵あらためをせねばならん、ご案内を頼む」
「承知いたしました」
三人の立つけはいに、おぬい[#「ぬい」に傍点]はそっと其処をはなれた。
新八郎のことは話に出なかったが、ことがらは監物にかかわっていたし、御宝物偽作という重大なものなので、もしや新八郎もその禍中《かちゅう》にいるのではないかと思われ、おぬい[#「ぬい」に傍点]の不安はますますつのるばかりだった。
おぬい[#「ぬい」に傍点]の心配はちがったかたちで事実となった。その日すっかり暮れてから父が帰ってくると、間もなくおぬい[#「ぬい」に傍点]は母の部屋へ呼ばれた。
「たいへんなことになりました」
娘が坐るのを待ちかねたように、母親は声をひそめて云った。
「いま父上からうかがったのですが、ご家老さまが御宝物の一軸を偽作させ、本当のお軸をどこかへお隠しなすったのだそうです」
「どうしてそのようなことを」
「偽作をした絵師という文哉を父上がご自分でおしらべになったところ、事実にちがいないことをおたしかめになったのです。そしてその宝物のお軸を持って逃げた人は宗近さんだということです」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は愕然《がくぜん》と眼をみはった。なにか聞きちがえたのかと思った。
「宗近さまがどうあそばしましたの」
「ご家老と同心して、御宝物の一軸をいずれかへ持ってたち退いたというのです」
「それは嘘です、嘘ですわ、母上さま」
おぬい[#「ぬい」に傍点]はあの夜、新八郎が監物を斬ると云って去ったことを思いだして、はげしくかぶりをふりながら叫んだ。
「宗近さまはそんなかたではありません、ちがいます、そんなことは嘘です」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
おぬい[#「ぬい」に傍点]の声を聞きつけたのであろう、兄の銀之助がはいって来て、
「おぬい[#「ぬい」に傍点]、未練だぞ」
と叱るように制した。
しかしおぬい[#「ぬい」に傍点]は、
「いいえ申します」
と、面をあげて云った。
「宗近さまが、ご家老と同心などとはまるで嘘です、いまとそお話し申しますけれど、あの夜お別れにいらしったのは、御いえのためにご家老を斬り、自分は切腹をするおつもりでした、わたくし宗近さまのお口からはっきりそれをうかがったのです」
「新八郎がどのように云おうと」
銀之助は肩をつきあげて、
「彼が監物どのの屋敷からしのび出るところを見た者があるし掛物と思える包みを背負って、街道口へ去るところをたしかめた者もあるのだ。しかも、翌日、監物どのから『宗近は御用にて江戸へ遣わした』という届が出ている。あいつが監物どのと同心していることはもう疑う余地はない、すで平林啓二郎どのが討手にむかう準備をしておる」
「平林さまが討手に……」
「宗近とおまえの縁はあきらめろ、いいか未練なふるまいをするのではないぞ」
そう云って、銀之助は去った。
おぬい[#「ぬい」に傍点]の頭は、怒濤のようにもみかえしていた。なにを信じたらいいのか、どれが本当でどれが嘘なのか、混沌としてなにもわからなかった。
「おまえには、辛いことだろうけれど」
母がそっと囁くように云った。
「宗近さんのことはあきらめてお呉れ、父上も母も、あんなかた[#「かた」に傍点]とは知らずにおまえに辛い思いをさせてすまぬと思います」
「わたくしにはわかりませぬ、……いいえどうしてわたくしには、宗近さまをそんなかた[#「かた」に傍点]とは思えませぬ」
「おぬい[#「ぬい」に傍点]」
呼びかける母の声をふりすてて、おぬい[#「ぬい」に傍点]は自分の部屋へもどった。すると、……その折を待っていたように、弟の市之丞がはいって来て、黙って姉の前に一通の文をさしだした。
「……宗近さんからです」
「えっ?」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は夢中で文をとりあげた。表には自分の名があり、裏をかえすと「新」という一字が書いてあった。
「これをどうして、……誰から」
「宗近さんの家から家扶《かふ》の近藤がみえて、姉上にそっとおわたし申して呉れと頼まれたんです。悪かったでしょうか」
「いいえ、ありがとう、ありがとうよ、市之丞」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は、弟を抱きしめるように見あげた。
「でもけっして誰にも云わないでお呉れ」
「云いません、誰にも云いません」
十二歳になる市之丞は、自分のしたことがそんなにも姉を喜ばせたことに満足して、そっと笑いながら出ていった。
おぬい[#「ぬい」に傍点]はふるえながら封を切った。
[#ここから2字下げ]
とりいそぎ申しあげる
けんもつどのを討ち申すべきとのことお耳にいれ候いしが、事情あってただいま江戸おもてへむかう途中にそろ、くわしきこといずれ申しあぐべく候もただ武士の忠、不忠は世の批判のほかにありとおぼしめし候へ。……江戸おもて宿は、麻布日ヶ窪、慶松寺にそろ。
[#ここで字下げ終わり]
くれぐれも健固《けんご》を祈ると読みながら、おぬい[#「ぬい」に傍点]の胸には反射的に、
――平林啓二郎が討手にむかう。
という兄の言葉がよみがえって来た。
「……武士の忠、不忠は、世の批判のほかにありとおぼしめし候へ。……忠、不忠は世の批判のほかにありと……」
おなじところを繰返し読んでいたが、おぬい[#「ぬい」に傍点]の表情には曽《か》つてみたことのない、はげしい決意の色がうかびあがって来た。
そこには、いつかまた雨の音がしはじめていた。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
幕府の老中、水野出羽守の中屋敷は、芝新銭座の海べりにあった。出羽守は内福として知られているだけあって、屋敷がまえも贅《ぜい》をつくしたものだし、ことに汐入りの泉池《いけ》をめぐる庭の結構は、眼をおどろかすものがあった。
泉池のなかへ半島のようにのりだしている丘のうえに、腰掛けの亭《ちん》が建っていて、いましも出羽守忠之が、宗近新八郎を引見しているところだった。
出羽守は牧谿の軸を見ている。
そばには、老臣ひとり小姓ひとりだけしかいない。忠之は肥えたからだを前にとどめ、細い眼をじっと絵のうえに集注していた。
新八郎の顔は、蒼ざめていた、芝のうえに膝をおろし、仰ぐように出羽守の表情をみつめながら、じっと息を殺していた。
ずいぶんながいこと軸を見ていた忠之はふとその細い眼を新八郎にむけた。
鋭い、射徹すような眼だった。
新八郎の右手が、ぶるぶるとふるえた。
出羽守はそのようすを眼もそらさず睨んでいたが、やがて、からだには似ない女性的なやさしい声で、
「そのほう名はなんと申す」
と云った。新八郎が低頭して答えると、
「宗近新八郎か……ふむ」
と頷きながら、
「監物はたっしゃでおるか」
「……はっ」
「若いころ会うたことがある。藩政改革でだいぶ思いきったことをしておるようだな」
「身命を捨てて働いております」
「そうか、身命を捨てておるか」出羽守はおおきく頷きながら、画幅を巻きおさめて老臣にわたした。
「牧谿の山水は、かねて中村侯から譲りうける約束ができておる、代金三千両は相違なくわたすが、宗近、持参したとの一軸は」と、忠之は屹《きっ》と声をあげた。
「この一軸は中村侯のおさしずか、監物のしたことか、それを申せ」
「…………」新八郎は蒼白な面をあげ、ひたと出羽守の眼を見あげながら云った。
「おそれながら、わたくし一存のはからいでございます」
「ではもしこの牧谿が偽作だと申したら、そのほうはなんとするつもりだ」云われるより早く、新八郎はうしろへとびさがって、衿《えり》をくつろげながら脇差の柄へ手をかけた。
「待て、うろたえるな」忠之は腰掛けから立ってするどく叫んだ、「余はただそのほうの覚悟をたずねたまでだ。牧谿の山水はたしかにうけとったぞ」
「……はっ」
「金子《きんす》は相違なくわたす。ただし」
「…………」
「この軸は中村侯には大切な家宝、御入用のときは三千金をもって、いつでもおかえし申すとお伝えするがよい」
「かたじけのう!」新八郎は、むせびあげるように芝のうえへ平伏した。出羽守はそのありさまを見おろしながら、
「身命を捨ててかかるものは強いな、新八郎、武士はかくありたきものと思うぞ」
そう云って、しずかに庭のかなたへたち去っていった。
[#8字下げ]九[#「九」は中見出し]
「おぬい[#「ぬい」に傍点]どの」
新八郎はいきなり殴られでもしたように「あっ」と云って立ちすくんだ。
水野家でうけとった代金を、すぐ為替問屋へまわって国許へ送る手はずをつけ、宿にしている日ヶ窪の慶松寺へもどってみると、思いもかけぬおぬい[#「ぬい」に傍点]がそこに待っていたのだ。
「どうしたのです」新八郎は、大剣をとりながらあがった。「どうして来たのです、誰ぞごいっしょですか」
「わたくしひとりでまいりました」
「おひとり。……どうして来ました」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は、旅装のままだった。おそらく乗物をとばしつづけて来たのであろう。頬がこけているし、ひどい血色だった。
「宗近さま」おぬい[#「ぬい」に傍点]は新八郎が坐るのを待ちかねて、ひっしと見あげながら云った。
「平林啓二郎さまが、あなたを討とうとして江戸へ来ております、それをご存じでございますか」
「平林が拙者を討つ?……なぜです」
「国許ではご家老さまが、御宝物の牧谿を偽作させ、宗近さまが同心のうえ持って逃げたと申しております」
「それで平林が、討手にたったのですか」
「宗近さま」おぬい[#「ぬい」に傍点]の声はみじめなほどふるえた。
「どうぞ、本当のことを仰有《おっしゃ》ってくださいまし、偽作のことは父も、その絵師をしらべてたしかめたと申します、あなたはご家老さまとどのようなお関わりがあるのでございますか、御宝物の牧谿を持ってたち退いたというのは、本当でございますか」
新八郎は黙っていたが、ふとおぬい[#「ぬい」に傍点]のうしろにある包みに不審を感じていった。
「その包みは何ですか」
「あなたからお預りした尺八です」
「どうしてそんなものを持って来たのです」
「わたくし……」娘はきっと唇を噛みながら、
「わたくし、あなたのお話をうかがったうえで、しだいによっては、この尺八をおかえし申すつもりでまいりました」
それは婚約の縁を切るという意味であろう、新八郎は娘の眼をしばらく見ていたが、「すぐ戻ります、待っていて下さい」そう云って庫裡《くり》のほうへ出ていった。
おぬい[#「ぬい」に傍点]は眼を閉じた。むだんでぬけ出て来た家を思い、父母や兄の怒りを思った。しかし彼女は新八郎に会って、その本心をたしかめずには、一刻も生きていられなかったのだ。娘の身でひとり旅をする無謀さも知っていた、ふたたび家へ帰れぬことも覚悟のうえだ。新八郎に会って真実をたしかめさえしたら、あとはどうなってもかまわぬと思ったのである。
新八郎のもどって来る跫音《あしおと》がした。
――なにをしに行ったのか。
そっと眼をあげて見ると、新八郎のうしろから十二、三なる小坊主が、なにか長いものを肩にしてついて来た。
――琴ではないか。
そう思って見ていると、果してそれは一面の古びた琴であった。小坊主をかえした新八郎は、座敷のまんなかへ袋をはらって琴をすえ、しずかにおぬい[#「ぬい」に傍点]を見やりながら云った。
「あの夜の『想夫恋』は中途でやめになりましたね、尺八を持って来てくだすったのをさいわい、ここであの続きを合わせましょう」
「……宗近さま」
「まあお聞きなさい」新八郎はさえぎって云った。
「あなたは宗近新八郎の妻だ、あなたは新八郎を信じていればよい、御宝物の牧谿の軸はたしかに国許にあります、また監物どのは御いえのために身命をなげうって働いている人です。……御意討ちといって、拙者に監物どのを斬らせようしたのは、平林六郎右衛門どの、こんどはその子の啓二郎が拙者を討ちに来るという。……おぬい[#「ぬい」に傍点]どの」
新八郎は力のこもった口調でつづけた、
「六郎右衛門どのは、城代家老の席がほしかった。そして啓二郎は……わかりますか」
「……はい」
「啓二郎はあなたがほしいのだ」おぬい[#「ぬい」に傍点]がそっと面を伏せるのを見ながら、新八郎はにっと唇に微笑をうかべた。
「あなたはあの夜、拙者の吹く竹の音が、必死のひびきを十三絃につたえたと云われた、言葉は偽われても音楽のまことは隠せぬと仰有《おっしゃ》った。さあ、琴にむかってください」
「…………」
「拙者の心に微塵《みじん》もの曇りがあれば、必ず竹の音にあらわれずにはいないでしよう、鳴響する韻律《いんりつ》こそ言葉以上の証拠です、いざ」おぬい[#「ぬい」に傍点]はしずかに身をおとした。
旅装の塵《ちり》よけをぬぎ、包みをひらいて尺八をわたすと、化粧箱をあけて髪をかきあげ衣紋《えもん》をなおしてからおもむろに琴の前へ坐った。新八郎も尺八をとって坐りなおした。
「あの夜のつづきから」
「はい」
ふたりはじっと呼吸をしずめた。
[#8字下げ]十[#「十」は中見出し]
日はすでに暮れたが、梅雨《つゆ》にはめずらしくからりと晴れた日のなごりで、黄昏《たそがれ》のいろのどこやらにいつまでも夕やけの光の残っているゆうべだった。しずかにはじまった管絃の音《ね》は、ひろい寺の境内《けいだい》をうめる樹立のなかに蕭条《しょうじょう》と幽玄《ゆうげん》なひびきの尾をひいた。心のまことを伝えようとする新八郎と、それをうけとめようとするおぬい[#「ぬい」に傍点]と、ふたつの心はただ一点に凝《こ》っていた。それはもう音楽をつきぬけて、心と心とが、じかに触れあって発する情熱の歌であった。
しかしこんどもまた、曲の終らぬうちに琴の音がはたとやんだ。ふっと絶えた琴の音に気づいて、
「おぬい[#「ぬい」に傍点]どの」とふりかえる新八郎に、娘は恐怖の眼をみひらきながら庭のほうをゆびさした。新八郎がおぬい[#「ぬい」に傍点]の眼に恐怖の色をよむより早く、のしかかるような人影が、さっと縁さきへとびあがって来た。平林啓二郎だった。
「奸物《かんぶつ》、うごくな」抜手の剣が、部屋のなかの夕闇にぎらっと閃光《せんこう》をとばした。新八郎は脱兎の様にその剣をくぐり、
「啓二郎、はやまるな」
と叫びながら庭へとびおりた、逃げるかと、わめいて啓二郎はひっしと追いつめた。新八郎は尺八を青眼につけながら、
「待て平林、御宝物の牧谿は国許にある、仔細を聞けばわかることだ、刀をひけ」
「云うな! この場におよんで未練な云いぬけがなんになる、もう今となってはとりかえしはつかんぞ」
「刀をひけ、手むかいはしない、国許へ帰ればわかることだ、一緒に帰ろう」
「問答無用、己《おれ》は貴様を斬るために来た、云訳を聞きに来たのではない、刀をとれ」
「……そうか」新八郎はぐっと頷いた。
「拙者を斬るために来たという、その言葉の底になにがあるか、拙者にもわからぬことはないのだ。よし、……斬ってみろ」
「刀をとれ」
「それにはおよばぬ、来い!」
忿怒《ふんぬ》の眉をあげながら、新八郎は尺八をぐっと前へつきだした。啓二郎は充分に相手の呼吸をはかろうともせず、疾呼《しっこ》しながら踏みこんだ。……すさまじいかけ声とともに、夕闇をひき裂いて白刃がとび、両者の体がひとつになるかと見えた。しかし次の刹那《せつな》には、啓二郎の手から大剣がはねとばされ、よろめくところへ新八郎の踏みこむのが見えた。その刹那、おぬい[#「ぬい」に傍点]が悲鳴のように、「いけません、宗近さま」と絶叫した。その声とほとんど同時に、新八郎のうちおろした尺八は、相手の肩骨に発止と音をたてていた。
啓二郎はあっと叫びながら前のめりに倒れ、もう起きあがる力もないとみえて、土のうえに伏したまま暴々《あらあら》しく背に波をうたせていた。新八郎はそれを見おろしながら、
「貴様にも、六郎右衛門どのにも、拙者の方こそ申すべきことがあるのだ。しかしなにも云わん、拙者はこれから国許へ帰るが、もし恥じるところがなかったら貴様も帰って来い、……ただしふたたびこんなことをすれば、こんどこそ容赦なく斬って捨てる、それだけは忘れるな」吐きだすように云うと、新八郎はそのままおぬい[#「ぬい」に傍点]のほうへもどって来た。
「こんども途中できれましたね」
旅装をととのえて慶松寺を出た新八郎とおぬい[#「ぬい」に傍点]の二人は夜道にもかかわらず帰国の途についた。
「こんどこそしまいまで合わせようと思ったのに、どうしてこの曲はこう終りまで行けないのでしょう」
「わたくし。……もう生涯この曲は弾くまいと存じますの」
「なぜです」
おぬい[#「ぬい」に傍点]はそっと眼をあげながら、
「でもこの曲を合わせて頂く度に、宗近様のお命に危険があるのですもの、わたくしもう決して弾くまいと存じます」
「危険はこれからも避けられませんよ」
新八郎は歎息するように云った。
「監物どのでさえ身命を捨てたと仰せられている、手綱藩《たづなはん》四万石の政治が万代の安きに置かれるまでは、まだ多くの危険や困難がある、道は嶮《けわ》しいのです。おぬい[#「ぬい」に傍点]どの、……その覚悟ができますか」
おぬい[#「ぬい」に傍点]はおおきく眼をみひらいて、新八郎をふり仰ぎながら頷いた。信頼と愛情にあふれる燃えるようなまなざしだった。そして小さい唇《くち》もとに、花の咲くような美しい微笑《ほほえみ》がこう語っていた。どんなに嶮しい道でも、御一緒に。
底本:「愛情小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年9月1日 初版発行
1979(昭和54)年6月15日 新装第十刷発行
底本の親本:「講談雑誌」
1941(昭和16)年7月号
初出:「講談雑誌」
1941(昭和16)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)御意《ぎょい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)村|信濃守《しなののかみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。]
-------------------------------------------------------
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
新八郎はあっと云った。
「……御意《ぎょい》討ち」
「そうだ」
平林六郎衛門は濃い眉の下から、底光りのする眼でじっと新八郎を見まもりながら、たたみかけるようにつづけた。
「監物《けんもつ》どのの専横ぶりはおみたちもかねて聞くところであろう、御しゅくんのご病気をよきことに、藩の政治をおのれの一存で切り盛りする。それはよい。監物どのはすぐれた政治家だから、多少、専横でもおいえのおんためになるあいだは黙っていてよい。しかしながら、権力を握るものはともすると権力に毒される。おいえのおんためという覚悟がぬけて、いつかおのれの一身一家を利する心がおこるものだ」
六郎右衛門は、ふところから一通の書きつけをとりだし、新八郎の手にわたしながら、
「これに監物どのの罪条がしたためてある。念のためよく読んでみるがよい。一日はやければ一日だけおいえの禍《わざわい》がすくなくなる道理だ、方法はどうとも望むままにまかせる、討ち損じのないよう頼むぞ」
「お言葉をかえすようではございますが」
新八郎はしずかに眼をむけた。
「御意討ちとは軽からぬことで、とのさまより直々《じきじき》の仰せつけならでは、口にすることのできぬものと聞いております。お直《じき》のご上意《じょうい》をうけたまわりたいと存じますが」
「もっともな申し分だ、けれどもお上《かみ》にはいまご病臥中のことでその儀がかなわぬ、それで老職の身分をもってわしが申しつけるのだ。……もしそれで承知できぬとあれば辞退してさしつかえないのだぞ」
「もってのほかの仰せ、ご上意とあれば身をすてても必ず仕止めます」
「そうか、そのもとならぬかりはあるまいが、監物どのは老年ながら小太刀の名手、心してやるがよい」
そう云って六郎右衛門は手をのばし、用意してあったらしい金包みをとった。
「些少《さしょう》ではあるが路銀だ、首尾よく討ちとったうえはしばらく当地をたち退くがよい」
「……たち退くのですか」
新八郎は意外そうに眼をみはった。六郎右衛門は頷いて、
「御意討ちとはいいながら監物どのは一藩の城代家老、討った者がそのままとどまっていては、面倒がおこらぬとは限らぬ、家中がしずかになるまで身をかくすほうがそのもとのためでもある」
「よく相わかりました」
新八郎は書きつけを懐中《ふところ》にすると、さしだされた金包みを押しかえして、
「では仰せのとおり致します、しかし自分にもいささかの貯えがございますから、これはそちらへお納めねがいます」
「いやわし[#「わし」に傍点]の寸志だから受けて呉れ」
「おこころざしだけ頂戴つかまつります。ではこれにて」
そう云って、新八郎はたちあがった。
そとへ出たが、ひきうけた役目の重大さに、心はなかなかしずまらなかった。戸坂監物は常陸《ひたち》ノ国《くに》手綱藩《たづなはん》、中村|信濃守《しなののかみ》の城代家老として、十年にあまる年月のあいだ、藩政の中枢を握ってきた人物であるが、その執政ぶりが専制的なので近年とみに評判が悪く家中の一部には「斬ってしまえ」という過激な論さえ出ているくらいだった。
新八郎はそういう評判も聞いていた。けれども彼は常に、
――若輩の者どもは、ご政治むきについて論ずるべからず。
という家法をまもって、そういう世評にはけっして耳をかさなかった。だれしも御いえのために身命をささげて働いているのである。悪評する者も、またされる者も、みんなそれぞれの立場で御いえのためを思うからこそだ。ご政治むきのことなど精《くわ》しく知らない若輩者が、世評に惑《まど》わされて騒ぎたてるなどは、もっともつつしまなければならぬことだ。新八郎はそう考えていた。
それがとつぜん、「監物御意討ち」という重大な役目を申しつかったのである。御意討ちといえば理非といかんにかかわらず討ちとめなければならない。
――上意とあれば討とう。その決心はすぐについた。同時に、監物を討つからには自分もその場で切腹する覚悟である。六郎右衛門はしばらく身をかくせと云ったが、新八郎にはそんな気持はなかった。
――討つからには自分も生きてはおらぬ。
と、かたく心にきめたのであった。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
宗近新八郎は二百石の書院番で、そのすぐれた男ぶりと、ずばぬけた剣の名手とで家中に知られている。しかし性質はどちらかというと女性的なほどおとなしく、道楽に尺八をたしなんでいるが、そのみちでもなみなみならぬ天分をみせていた。むしろ剣を執って家中ずい一の技をふるうときよりも陶然《とうぜん》として尺八の音に酔っているすがたのほうが彼にはふさわしいくらいだった。父も母もすでに亡く、家庭はさびしかった、その年の春さきに縁談ができて、秋には妻を迎えることになっていた。相手は御蔵奉行|外村《とのむら》剛兵衛の娘でおぬい[#「ぬい」に傍点]という、琴にたんのうな乙女で、しばしば御前へ召されたし、ときには新八郎の尺八と合奏したこともあった。そんなところから縁がむすばれて、ついに結婚の約束にまでゆきついたのである。
――それも今となっては夢だ。
新八郎にはむろん未練はなかった。かえって祝言をあげない肌だったことを、しあわせだとさえ思った。
――今宵のうちに、それとなくわかれをつげたうえ、討ちにゆこう。
そう思いながら、自分の屋敷へ帰った彼は、すぐおのれの居間へはいって、六郎右衛門からわたされた書きつけをひらいて見た。それには監物の罪を十二ヶ条にあげて記《しる》してあったが、もっとも重要なのは左の三ヶ条であった。
其一は、大坂の商人灘屋五郎兵衛と結托して、お借入金の一部を使途不明に費消していること。
其二は、不用意に谷峡村《たにあいむら》新田開発をはじめて失敗し、多額の藩金を徒費したこと。
其三は、当藩主、信濃守時継に世子がないため、親族から世継ぎを求めているのだが、監物は幕府の老中水野|和泉守忠之《いずみのかみただゆき》とよしみを通じ、ひそかにその三男と養子縁組をすすめていること。
右の三ヶ条を特に繰返し読んだ新八郎はそれまでおちつかなかった気持がようやくはっきりときまり、
――この三ヶ[#底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。]条だけでも、討ってとる罪にはじゅうぶんだ。よし!
と、はじめて心から闘志を感じた。
べつに後事の心配はなかった。自分の亡きあと家の始末について書き遺《のこ》すと、それを罪条書とともに密封して手文庫に納め、風呂にはいって軽く夕食をすませた新八郎は、愛玩の尺八をとりだし、「外村どのを訪ねる」
と云いのこして家をでかけた。
途中までいくと小雨がふりだした。しかし外村の屋敷は大手筋にあって、ひきかえす道のりでもなかったから、彼は小走りに道をいそぎ、濡れるほどのこともなくゆき着いた。
剛兵衛もちょうど食事をすませたところだった。
彼は新八郎が尺八を持っているのをみると、
「やあ、これはめずらしい」
と、色の黒い顔をうれしそうに崩して、
「そのもとが自分からすすんで尺八を持参するというのは初めてだ。むろん聞かせて貰えるのだろうな」
「じつは、きゅうの御用で江戸へたちますので」
客間にあい対してすわると、新八郎はさりげない風に云った。
「江戸へ御用、……いつだ」
「明朝はやくしゅったつ致します」
「帰りはいつ頃になる」
剛兵衛はすぐ秋の婚礼のことを考えたようすである、新八郎の胸にはそれが痛かった。
「出府してみないとわかりませんが、しだいによっては少しながく江戸表にとどまるかもしれません。それで、……おわかれにおぬい[#「ぬい」に傍点]どのと一曲あわせて頂とうと存じまして」
「それは願ってもないことだ。しかしながく江戸に滞在するというのはどういう御用なのか、お役替えにでもなったのか」
「それは申しあげられません、でもいずれお耳にはいることと存じます」
「……そうか」
御用のことは根を掘って訊くわけにはいかない、剛兵衛は解せぬ気持のままに、妻を呼んで、合奏のしたくを命じた。そして、またとない折だからというので、銀之助、市之丞《いちのじょう》の二子もその座へ呼びよせた。
おぬい[#「ぬい」に傍点]は化粧と着替えに、てまどったとみえて、みんなが座についてからややしばらくして出て来た。彼女はそのとき十九歳だった。にくづきのすぐれたからだつきでさして美人というのではないが、あかいつまんだような小さい唇《くち》もとと、睫毛《まつげ》のながい眼があり、どうかするとひどく艶《つや》やかな表情があらわれる、新八郎はときたま影のようにかすめ去るその表情を見ると、自分の胸にあたたかく血の騒ぐのを感ずるのだった。
「ご迷惑なことをお願い致しました」
新八郎はおぬい[#「ぬい」に傍点]が琴の前へ坐るのを待ってしずかに会釈した。
「しばらくのあいだ、おわかれになりますので、あなたのお手なみを想い出にしたいと考えたのです。拙者はほんのおつきあい、どうかそのおつもりで、じゅうぶんにお聞かせください」
「お恥ずかしうございます、つたない技ゆえ、かえってお邪魔になることでございましょう。どうぞお笑いぐさに……」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は頬を染めながら会釈をかえした。
曲は『想夫恋』ときまって、二人はおのおのの座につき、やがてしずかな十三絃の音で合奏がはじまった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
広縁の障子はすっかり、あけはなしてあるので座敷からさすほのかな燭《しょく》の光が、雨に濡れる庭の泉石をおぼろにうつしだしていた。もうこれが梅雨《つゆ》になるのであろう、けぶるような雨は音もなく庭の樹石を濡らし、泉水の水面にあるかなきかの波紋を描いている。琴の音はときにその波紋よりも幽遠《ゆうえん》だった。
琴も尺八もいずれ劣らぬ冴えをみせた。絃と管とはまったくひとつになり、珠玉の韻《いん》に凝《こ》るかとみれば、たちまち泉流となって砕け、あい即《つ》きあい離れつつ姚冶《とうや》と憂愁の感を自在に点綴《てんてつ》した。新八郎はまことに無念無想だった。まるで酔ったように、管絃のあい合して発する共鳴音のなかにおのれを忘れ去っていた。
するとやがてどうしたことか不意に琴の音がぴたりと止った。
新八郎は、なお吹きつづけようとしたが、そのまま琴がついてこないので、自分も尺八を措《お》いてふりかえった。……おぬい[#「ぬい」に傍点]は両手をついて、ふかく面《おもて》を垂れていた。
「おぬい[#「ぬい」に傍点]、どうしたのだ」
剛兵衛は感興を中断されて舌打ちをした。
「なぜよす、かげんでも悪くなったのか」
「申しわけございませぬ、宗近さま」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は新八郎を見あげた、額のあたりがすっかり蒼ざめていた。
「どうなすったのです」
「せっかくのおぼしめしでございますが、わたくしにはもうこれ以上お相手はつとまりませぬ、どうぞおゆるしあそばして」
そう云うと座にもいたたまらぬようすで逃げるように奥へたち去っていった。
「しようのない我儘ものだ」
「いあ、お叱りくださるな」
いきりたつ剛兵衛を制して、新八郎は微笑しながら尺八を袋に納めた。
「芸ごとは気がむかなければできぬもので無理にお願い申した拙者が悪いのです。しかしこれでよき餞別《せんべつ》を頂きました、どうかおぬい[#「ぬい」に傍点]どのへはくれぐれもお詫びを願います」
「詫びはこちらからせねばならぬ、せっかくの興を無にしてあい済まなかった。その代り別杯《べっぱい》を一|盞《さん》さしあげよう」
剛兵衛はそう云って酒肴《しゅこう》を命じた。
ことわることもできなかった。しばらく酒の馳走になったが、時刻が気になるので、よきほどに盃をふせていとまをつげた。いよいよ座を去ろうとしたとき、新八郎は愛玩の尺八を剛兵衛に預けた。けぶりにもみせなかったがかたみ[#「かたみ」に傍点]のつもりである。剛兵衛はそんなことに気づくはずもなく、よろこんで預った。
「では道中の水に気をつけて」
「ご無事のお帰りをお待ち申しております」
夫妻に送られ、傘を借りて新八郎はそとへでた。
あやめちわからぬ闇をこめて、雨は小歇《こや》みもなく降っていた。門長屋について右へあるきだした新八郎が屋敷はずれまで来かかったとき、うしろから声をひそめて、
「もし、宗近さま」
と呼びかける者があった。ふりかえってみると雨具も持たず、おぬい[#「ぬい」に傍点]が雨のなかに立っていた。
「おぬい[#「ぬい」に傍点]どの、……どうなされた」
「宗近さま」
娘はおもいつめた調子で、そばへすり寄りながらじっと男の眼を見あげた。
「お上《かみ》のご用で江戸へいらっしゃるのは本当でございますか」
「……どうしてそんなことを仰有《おっしゃ》る」
「わたくしには信じられませぬ、江戸へいらっしゃるというのは嘘でございましょう、もう生きておかえりになるつもりはないのでございましょう」
「おぬい[#「ぬい」に傍点]どの」
新八郎はおどろいて娘を見た。
「それが、どうしてそれが、あなたにわかります」
「さきほど琴をあわせて頂きましたとき、十三絃へひびいて来る竹の音《ね》には、必死のおこころがこもっておりました。言葉は、いつわることはできましても音楽のまことは隠せませぬ、わたくしの申すことが誤っておりましょうか」
「…………」
胸をつかれた。新八郎は心のまっただなかをぐさ[#「ぐさ」に傍点]と刺し貫かれた。いまはじめて琴を中断したおぬい[#「ぬい」に傍点]の気持がわかる、自分では無念無想でいたと思ったのだが交響する糸竹《しちく》の韻《いん》には、必死の心がかよったのだ、おぬい[#「ぬい」に傍点]はおのれの絃にひびいてくるその韻律に堪えられずついに中途でやめてしまったのである。
「おそれいった。さすがあなたは琴の名手だ、そう察しられた以上もう隠してもしようがない、なにもかもお話し申しあげよう」
新八郎はそう云って、濡れているおぬい[#「ぬい」に傍点]のうえに傘をさしかけながら、しずかに事情をはなしはじめた。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
戸沢邸に着いたのは、十時ちかくだった。
「火急お耳にいれたいことがございます」
そう云って案内を乞うと、すぐ客間へとおされた。そこでしばらく待たされた。六郎右衛門に注意されるまでもなく、監物が中条流の小太刀になかなかの腕をもっていることは定評がある。ことに屋敷のなかではひとつ仕損じると家臣が邪魔にはいるから、どうしても一刀必殺でなければならない、どうしたらその一刀をとれるか、新八郎は客間のなかを見まわしながら手順をはかった。
やがて隣の部屋へ人のちかづくけはいがして、しずかに襖《ふすま》があき、戸沢|監物《けんもつ》がはいって来た。
監物は六十三歳の小柄な老人だった。けれどもその五尺そこそこのからだは精悍《せいかん》の気に満ちていたし、銀白の眉のしたにある双眸《そうぼう》は、おそろしく力があって、これに睨まれるとたいてい、身が竦《すく》むと云われていた。……客間へはいって来た老人はそこでちょっと足をとめ、その評判の眼でひたと新八郎を睨んだ。そしてしずかに座へつくと、いきなり抑えつけたような声で、
「……斬りにまいったな、宗近」
と云った。
新八郎はとっさに大剣へ手をやった。しかし監物はおしかぶせて、
「待て、あわてるな」
と手をさげた。
「わし[#「わし」に傍点]はこのとおり丸腰だ、斬るつもりならいつでも斬れる、あわてずにわし[#「わし」に傍点]の申すことを聞け、そち[#「そち」に傍点]が誰に頼まれて来たかもおよそわかっておるし、案内を乞うたとき、すでにそれを承知でとおしたのだ」
「拙者は誰に頼まれたのでもありません、ご上意です」
「お上《かみ》じきじきの御意か、そうではあるまい」
「さ、……それは」
「お直《じき》の御意なしに上意討ちなどということはないぞ。しかしそんなことはどうでもよい、討手をひきうけたからはそちに監物を討つべき合点はあろう。どうして斬る気になった、まずそれを申してみい」
新八郎はじっと監物の顔を見まもった。老人の顔にはいささかの曇りもなく、らんらんと光る眼にも、一文字にひきむすんだ唇《くち》もとにも、不退転の意気がはっきりと描かれている。
――斬りに来たな。
というはじめの一言から、つづけざまに急所をつかれた新八郎は、まぎれのない老人の眉宇《びう》を見ているうちに、今こそ真実に当面できるということを強く感じだした。
「それではおたずね申します」
大剣をひきつけたままかたちを正して彼は口を切った。そして十二ヶ条の罪状をならべ、そのうち特に重要な三ヶ条についてはげしくつっこんだ。監物はだまってしまいまで聴いていたが、新八郎の言葉が終るとすぐ、
「うむ、よく拾いあげてある」と頷きながら、
「これからその条々について説明するが、そのまえに訊きたいことがある。……そちは監物を討ってからどうするつもりだった、御意討ちだからそのまま、すますつもりで来たか」
「お討ち申したうえは、この場を去らずに切腹する覚悟でございます」
「一命を捨ててまいったのだな」
よしと云って監物は侍者《じしゃ》を呼び、ひとかさねの書類をとり寄せた。
「ではいまの条目について精《くわ》しく説明をしよう、しかしまえもって一言申して置く、わし[#「わし」に傍点]の説明にすこしでも、うろんがあったら遠慮なく糺《ただ》すがよい、いいか」
「うけたまわりまする」
新八郎は膝に手を置いた。監物はとりよせた記録をひらきながら、歯ぎれのいい口調で十年来の藩政について語りだした。
徳川幕府はじまって百年、享保《きょうほう》年代になると、純然たる消費生活にはいった諸大名の財政は、眼にみえて窮乏の一途をたどりだし、おそろしい力で擡頭しはじめた商人階級とのぬきさしならぬ因果関係が生じて来た。……おおざっぱにいえば領内の物産を金に替えることが、いつかその物産を抵当に商人から借財をするとになり、それがしだいに嵩《かさ》んで身動きができなくなる。そこまでゆきつく経路はそう単純ではないにしても、つきつめたところはみな同様だった。
手綱藩《たづなはん》四万石も、その例外でありえなかった。監物が家老職についたとき、藩の財政はほとんど手のつけようもないほど紊乱《びんらん》していた。しかも政治の諮問機関たる年寄、老職という位置はすでに世襲となっていたため、凡庸《ぼんよう》はかるに足らざる人々ばかりで、共に藩政改革をおこなうべき人物はひとりもなかった。この急迫した状態を打開するためにはなによりも人物が必要である、しかし、それがないとすれば、思いきった独断専制を断行しなければならない、監物は心をきめた。
――自分はいま身命をなげだして、どんな悪評もひきうけよう、しかし命に代えて主家万代の策をたてなければならぬ。
そして彼は、ごしゅくん信濃守に執政一任のおすみつきを乞い、財政たてなおしの大|鉈《なた》をふるいはじめた。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
記録を引いて説明されても、そういう知識のない新八郎には、政治の細目にわたる点は、ほとんど理解することができなかった。
けれども、身命を捨てたという監物の覚悟と、あらゆる批判を無視して信ずるところを断行した態度には、いささかの疑念をはさむ余地もない壮烈なものが感じられた。監物の執政ぶりが万全であったかどうかはわからないが、四万石の財政をたてなおそうという大きな政治の方向がはっきりすればそのほかの小さな問題は、もうどちらでもよかった。
「これであらましは話した」監物は記録を閉じながら、
「最後にお世継ぎの件だ、わしが老中水野侯のご三男をお迎えするいう噂は嘘だ。水野侯とはべつのことで内談があった。それを老職どもが耳にはさんで、よくわきまえもせずに臆測をめぐらせたものだ」
「よく相わかりました」
新八郎は感動を抑えきれずに云った。
「ご政治むきに暗く、いちがいに人の言葉を信じましたためとりかえしのつかぬあやまちを犯すところでございました」
「そのもとが悪いのではない、どうやらご政治むきがたちなおったとみて、今まで手をつかねていた者どもそろそろ穴から這いだしはじめたのだ。ひとが餅を搗《つ》くうちは見ていて、喰べるだんになるとしゃしゃばり出るやつだ。……しかし仕事はまだ終っていない、これからが大切なときだ、死ぬことを怖れはせぬが監物はまだ生きなければならぬ。いかなる悪名も誹謗《ひぼう》もうけよう、だが監物はまだ死ぬことはできんのだ」
まだ死なんぞと云いながら、老人はおのれの膝をぐっと掴《つか》んだ。
……そして、烈火のような眼で新八郎をみつめながら、
「宗近、いまそのもとはわしを斬ったら切腹するつもりだと申したな」
「いかにもその覚悟でございました」
「その命、監物に呉れぬか」
「…………」
「突然こう申したのではわかるまい、いま仔細を話す」
そう云った監物は座をたって、奥へはいって大幅の掛物を二箱、みずから抱えてもどって来た。そして蓋をひらいてとりだした二幅を、ならべて壁へかけるのを見て新八郎は思わずあっと声をあげた。
牧谿《ぼっけい》画『山水』である。
御宝物拝見のおりたしかに見た中村家の秘宝の一軸、横ものの小品ではあるが、藩祖から伝来の品で、紀州家に伝わる「紅天暮雪」の軸につぐ名物だった。
それがいま二幅ある。
新八郎は眼を凝らせてひたと画面を見た。筆致といい時代色といい、二幅とも寸分たがわぬ牧谿の山水である。
「いうまでもなく御宝物の牧谿だ」
監物は低い声で会った。
「かねて老中水野侯から、三千金で買おうというご内談がしばしばあった。いま谷峡村《たにあいむら》新田開発について金がほしい、それでお上《かみ》とご相談のうえ、この一軸を水野侯にお譲り申すことになったのだ」
「…………」
「重代の御宝物ではあるが、五年にいちど御披露のあるほかはお蔵の塵《ちり》にうもれているばかり、新田開発は御いえ千年の事業だ。いずれが重きかは申すまでもあるまい。お上にもそこをお考えのうえ、お譲り申すことにきめたのだが、それでなくとも因循姑息《いんじゅんこそく》の老職どもにはとうていそう軽重《けいちょう》の区別はつくまい、そこで御宝物のかたちだけ遺すために、かような偽作を一軸つくらせたのだ」
「それで……」
新八郎は膝をすすめた。
「わたくしの一命どうせよと仰せられます」
「この軸を持って江戸へゆき、水野侯におわたし申したうえ金子を為替に組んで送って貰いたいのだ」
「それが命を賭けるお役目でございますか」
「……宗近」
監物はじっと新八郎の眼を見て、
「そのもとに監物を討てと頼んだが、そのもとの出て来るのを待ち伏せておると思わぬか」
「なんと仰有《おっしゃ》います」
「この屋敷のそとに宗近を狙う刃《やいば》があるぞ、これがひとつ、もうひとつは、もし偽作のことが発覚したばあい、監物一存でしたこととして切腹する。むろん悪名を負って死ぬのだ。そのもとにその覚悟がほしいのだ」
「…………」
「いいか、万一のばあいには、不臣の名のもとに死なねばならぬぞ、その覚悟なしにはこの役はつとまらぬのだ。わしを斬って死ぬべき命を、このお役にたてて呉れぬか」
新八郎はじっと眼《まなこ》を閉じていたが、やがて監物の顔を屹《きっ》と見あげながら云った。
「かような大役を、わたし如きおゆかり薄き者にどうしてお申しつけあそばしますか」
「君家のために、まこと身命を惜しまぬ人間はそう多くはないものだ。……十年ちかくしても知己ならぬ者があるし、一面の識で生死を誓う場合もある。あい知ることの長きと短きとで、人間の値うちがきまるものではあるまい」
「ご家老」
新八郎はにっと微笑しながら云った。
「その役目たしかにおうけ致しましょう」
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
窓の障子がふいにぱっとまばゆく陽をうつしたので、おぬい[#「ぬい」に傍点]は夢から覚めたように眼をあげた。
朝から降りつづいていた雨がいつかやんで、雲のきれめから初夏の太陽がぎらぎらと光の箭《や》を放っている。庭の樹々は濡れた若葉の枝をいっせいにその光のほうへさしのべるかとみえ、梢をわたる小鳥の声もにわかに活々と音をはりあげた。
――宗近さまはどうあそばしたか。
あの夜からすでに五日経っている。監物を討ちとって死ぬと聞いたので、覚悟はもうきまっていたし、そうなったら自分も髪をおろして尼になるつもりだった。
けれどもそれ以来なんの噂もない、戸沢監物が斬られたということも聞かないし、新八郎についても消息がない。
――もしや仕損じて、戸沢の屋敷でかえり討ちになったのではあるまいか。
そういう心配もあった。しかしそれにしても噂位はあるはずだ、五日も経つのになんの沙汰もないのは、まだその機会がなく、新八郎はどこかに潜んでいるのではあるまいか。
かっこう。……かっこう。
屋敷のうえを高く鳴きながら郭公《かっこう》鳥が飛んでいった。おぬい[#「ぬい」に傍点]は遠のいてゆくその澄んだ声を耳で追いながら、まだ新八郎が生きていて、どこかでおなじようにその鳴き声を聞いているのではないかと思い、ふと、さそわれるように立って縁さきへ出ていった。
ちょうどその時、兄の銀之助が、一人のたくましい若侍とつれだって、庭の手からいそぎ足にはいって来るのが見えた。
「まあ、……平林の啓二郎さま」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は若侍の顔をみて、それからちょっと眉をひそめた。藩の老職平林六郎右衛門の長男で、まえにおぬい[#「ぬい」に傍点]を貰いたいと申しこんで来たことがある。ずいぶん熱心だった。家柄にも申分はなかったが、そのときおぬい[#「ぬい」に傍点]の心にはもう新八郎が忘れることのできぬ人になっていたし、父の剛兵衛もそれを察していたのでついその申込みはことわってしまった。
それからぱったり啓二郎は来なくなっていたのである。
それがひさしぶりでやって来た。しかもふだん余り往来をしない兄とつれだっているのもめずらしい。
「……どうしたのかしら」
呟きながら見ていると、二人は庭からそのまま、はなれ造りになっている父の居間へはいっていった。それがなにかひどくいそがしそうだったので、おぬい[#「ぬい」に傍点]の眼はふと光を帯びた。
――もしや宗近さまのことではないかしら。
そう思うと、きゅうにからだ中の血が熱くなった。
――きっとそうだ、そうに違いない。
おぬい[#「ぬい」に傍点]はなかば夢中で裏へ出た、そして跫音《あしおと》をしのばせながら、父の居間になっている部屋の横手へ近づいていった。
はじめに父の声が聴《きこ》えた。
「なに……それは事実か」
ひどくおどろいた声音だった。つづいて平林啓二郎のすとし嗄《しゃが》れた声が聞えた。
「絵師の名は文哉《ぶんさい》と申します。京絵師だそうでございますが、さきごろからしきりに家老のお屋敷へ忍んでまいるとのことでひっとらえて糾明《きゅうめい》したのです」
「その絵師がそう白状したのか」
「御宝物とは知らぬようですが、牧谿の山水を寸分たがわず模写せよと頼まれ、多額の金に眼がくらんで偽作をつくったと申すのです」
「頼んだのは戸沢どのだと申すのだな」
「はっきりそう申しております」
しばらく話し声がとだえた。そしてやがて、父の呻くような声が聞えた。
「その絵師はどこにおる」
「父が預っております」
「そやつに会わせて貰いたい、事実とすれば一大事、すぐお蔵あらためをせねばならん、ご案内を頼む」
「承知いたしました」
三人の立つけはいに、おぬい[#「ぬい」に傍点]はそっと其処をはなれた。
新八郎のことは話に出なかったが、ことがらは監物にかかわっていたし、御宝物偽作という重大なものなので、もしや新八郎もその禍中《かちゅう》にいるのではないかと思われ、おぬい[#「ぬい」に傍点]の不安はますますつのるばかりだった。
おぬい[#「ぬい」に傍点]の心配はちがったかたちで事実となった。その日すっかり暮れてから父が帰ってくると、間もなくおぬい[#「ぬい」に傍点]は母の部屋へ呼ばれた。
「たいへんなことになりました」
娘が坐るのを待ちかねたように、母親は声をひそめて云った。
「いま父上からうかがったのですが、ご家老さまが御宝物の一軸を偽作させ、本当のお軸をどこかへお隠しなすったのだそうです」
「どうしてそのようなことを」
「偽作をした絵師という文哉を父上がご自分でおしらべになったところ、事実にちがいないことをおたしかめになったのです。そしてその宝物のお軸を持って逃げた人は宗近さんだということです」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は愕然《がくぜん》と眼をみはった。なにか聞きちがえたのかと思った。
「宗近さまがどうあそばしましたの」
「ご家老と同心して、御宝物の一軸をいずれかへ持ってたち退いたというのです」
「それは嘘です、嘘ですわ、母上さま」
おぬい[#「ぬい」に傍点]はあの夜、新八郎が監物を斬ると云って去ったことを思いだして、はげしくかぶりをふりながら叫んだ。
「宗近さまはそんなかたではありません、ちがいます、そんなことは嘘です」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
おぬい[#「ぬい」に傍点]の声を聞きつけたのであろう、兄の銀之助がはいって来て、
「おぬい[#「ぬい」に傍点]、未練だぞ」
と叱るように制した。
しかしおぬい[#「ぬい」に傍点]は、
「いいえ申します」
と、面をあげて云った。
「宗近さまが、ご家老と同心などとはまるで嘘です、いまとそお話し申しますけれど、あの夜お別れにいらしったのは、御いえのためにご家老を斬り、自分は切腹をするおつもりでした、わたくし宗近さまのお口からはっきりそれをうかがったのです」
「新八郎がどのように云おうと」
銀之助は肩をつきあげて、
「彼が監物どのの屋敷からしのび出るところを見た者があるし掛物と思える包みを背負って、街道口へ去るところをたしかめた者もあるのだ。しかも、翌日、監物どのから『宗近は御用にて江戸へ遣わした』という届が出ている。あいつが監物どのと同心していることはもう疑う余地はない、すで平林啓二郎どのが討手にむかう準備をしておる」
「平林さまが討手に……」
「宗近とおまえの縁はあきらめろ、いいか未練なふるまいをするのではないぞ」
そう云って、銀之助は去った。
おぬい[#「ぬい」に傍点]の頭は、怒濤のようにもみかえしていた。なにを信じたらいいのか、どれが本当でどれが嘘なのか、混沌としてなにもわからなかった。
「おまえには、辛いことだろうけれど」
母がそっと囁くように云った。
「宗近さんのことはあきらめてお呉れ、父上も母も、あんなかた[#「かた」に傍点]とは知らずにおまえに辛い思いをさせてすまぬと思います」
「わたくしにはわかりませぬ、……いいえどうしてわたくしには、宗近さまをそんなかた[#「かた」に傍点]とは思えませぬ」
「おぬい[#「ぬい」に傍点]」
呼びかける母の声をふりすてて、おぬい[#「ぬい」に傍点]は自分の部屋へもどった。すると、……その折を待っていたように、弟の市之丞がはいって来て、黙って姉の前に一通の文をさしだした。
「……宗近さんからです」
「えっ?」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は夢中で文をとりあげた。表には自分の名があり、裏をかえすと「新」という一字が書いてあった。
「これをどうして、……誰から」
「宗近さんの家から家扶《かふ》の近藤がみえて、姉上にそっとおわたし申して呉れと頼まれたんです。悪かったでしょうか」
「いいえ、ありがとう、ありがとうよ、市之丞」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は、弟を抱きしめるように見あげた。
「でもけっして誰にも云わないでお呉れ」
「云いません、誰にも云いません」
十二歳になる市之丞は、自分のしたことがそんなにも姉を喜ばせたことに満足して、そっと笑いながら出ていった。
おぬい[#「ぬい」に傍点]はふるえながら封を切った。
[#ここから2字下げ]
とりいそぎ申しあげる
けんもつどのを討ち申すべきとのことお耳にいれ候いしが、事情あってただいま江戸おもてへむかう途中にそろ、くわしきこといずれ申しあぐべく候もただ武士の忠、不忠は世の批判のほかにありとおぼしめし候へ。……江戸おもて宿は、麻布日ヶ窪、慶松寺にそろ。
[#ここで字下げ終わり]
くれぐれも健固《けんご》を祈ると読みながら、おぬい[#「ぬい」に傍点]の胸には反射的に、
――平林啓二郎が討手にむかう。
という兄の言葉がよみがえって来た。
「……武士の忠、不忠は、世の批判のほかにありとおぼしめし候へ。……忠、不忠は世の批判のほかにありと……」
おなじところを繰返し読んでいたが、おぬい[#「ぬい」に傍点]の表情には曽《か》つてみたことのない、はげしい決意の色がうかびあがって来た。
そこには、いつかまた雨の音がしはじめていた。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
幕府の老中、水野出羽守の中屋敷は、芝新銭座の海べりにあった。出羽守は内福として知られているだけあって、屋敷がまえも贅《ぜい》をつくしたものだし、ことに汐入りの泉池《いけ》をめぐる庭の結構は、眼をおどろかすものがあった。
泉池のなかへ半島のようにのりだしている丘のうえに、腰掛けの亭《ちん》が建っていて、いましも出羽守忠之が、宗近新八郎を引見しているところだった。
出羽守は牧谿の軸を見ている。
そばには、老臣ひとり小姓ひとりだけしかいない。忠之は肥えたからだを前にとどめ、細い眼をじっと絵のうえに集注していた。
新八郎の顔は、蒼ざめていた、芝のうえに膝をおろし、仰ぐように出羽守の表情をみつめながら、じっと息を殺していた。
ずいぶんながいこと軸を見ていた忠之はふとその細い眼を新八郎にむけた。
鋭い、射徹すような眼だった。
新八郎の右手が、ぶるぶるとふるえた。
出羽守はそのようすを眼もそらさず睨んでいたが、やがて、からだには似ない女性的なやさしい声で、
「そのほう名はなんと申す」
と云った。新八郎が低頭して答えると、
「宗近新八郎か……ふむ」
と頷きながら、
「監物はたっしゃでおるか」
「……はっ」
「若いころ会うたことがある。藩政改革でだいぶ思いきったことをしておるようだな」
「身命を捨てて働いております」
「そうか、身命を捨てておるか」出羽守はおおきく頷きながら、画幅を巻きおさめて老臣にわたした。
「牧谿の山水は、かねて中村侯から譲りうける約束ができておる、代金三千両は相違なくわたすが、宗近、持参したとの一軸は」と、忠之は屹《きっ》と声をあげた。
「この一軸は中村侯のおさしずか、監物のしたことか、それを申せ」
「…………」新八郎は蒼白な面をあげ、ひたと出羽守の眼を見あげながら云った。
「おそれながら、わたくし一存のはからいでございます」
「ではもしこの牧谿が偽作だと申したら、そのほうはなんとするつもりだ」云われるより早く、新八郎はうしろへとびさがって、衿《えり》をくつろげながら脇差の柄へ手をかけた。
「待て、うろたえるな」忠之は腰掛けから立ってするどく叫んだ、「余はただそのほうの覚悟をたずねたまでだ。牧谿の山水はたしかにうけとったぞ」
「……はっ」
「金子《きんす》は相違なくわたす。ただし」
「…………」
「この軸は中村侯には大切な家宝、御入用のときは三千金をもって、いつでもおかえし申すとお伝えするがよい」
「かたじけのう!」新八郎は、むせびあげるように芝のうえへ平伏した。出羽守はそのありさまを見おろしながら、
「身命を捨ててかかるものは強いな、新八郎、武士はかくありたきものと思うぞ」
そう云って、しずかに庭のかなたへたち去っていった。
[#8字下げ]九[#「九」は中見出し]
「おぬい[#「ぬい」に傍点]どの」
新八郎はいきなり殴られでもしたように「あっ」と云って立ちすくんだ。
水野家でうけとった代金を、すぐ為替問屋へまわって国許へ送る手はずをつけ、宿にしている日ヶ窪の慶松寺へもどってみると、思いもかけぬおぬい[#「ぬい」に傍点]がそこに待っていたのだ。
「どうしたのです」新八郎は、大剣をとりながらあがった。「どうして来たのです、誰ぞごいっしょですか」
「わたくしひとりでまいりました」
「おひとり。……どうして来ました」
おぬい[#「ぬい」に傍点]は、旅装のままだった。おそらく乗物をとばしつづけて来たのであろう。頬がこけているし、ひどい血色だった。
「宗近さま」おぬい[#「ぬい」に傍点]は新八郎が坐るのを待ちかねて、ひっしと見あげながら云った。
「平林啓二郎さまが、あなたを討とうとして江戸へ来ております、それをご存じでございますか」
「平林が拙者を討つ?……なぜです」
「国許ではご家老さまが、御宝物の牧谿を偽作させ、宗近さまが同心のうえ持って逃げたと申しております」
「それで平林が、討手にたったのですか」
「宗近さま」おぬい[#「ぬい」に傍点]の声はみじめなほどふるえた。
「どうぞ、本当のことを仰有《おっしゃ》ってくださいまし、偽作のことは父も、その絵師をしらべてたしかめたと申します、あなたはご家老さまとどのようなお関わりがあるのでございますか、御宝物の牧谿を持ってたち退いたというのは、本当でございますか」
新八郎は黙っていたが、ふとおぬい[#「ぬい」に傍点]のうしろにある包みに不審を感じていった。
「その包みは何ですか」
「あなたからお預りした尺八です」
「どうしてそんなものを持って来たのです」
「わたくし……」娘はきっと唇を噛みながら、
「わたくし、あなたのお話をうかがったうえで、しだいによっては、この尺八をおかえし申すつもりでまいりました」
それは婚約の縁を切るという意味であろう、新八郎は娘の眼をしばらく見ていたが、「すぐ戻ります、待っていて下さい」そう云って庫裡《くり》のほうへ出ていった。
おぬい[#「ぬい」に傍点]は眼を閉じた。むだんでぬけ出て来た家を思い、父母や兄の怒りを思った。しかし彼女は新八郎に会って、その本心をたしかめずには、一刻も生きていられなかったのだ。娘の身でひとり旅をする無謀さも知っていた、ふたたび家へ帰れぬことも覚悟のうえだ。新八郎に会って真実をたしかめさえしたら、あとはどうなってもかまわぬと思ったのである。
新八郎のもどって来る跫音《あしおと》がした。
――なにをしに行ったのか。
そっと眼をあげて見ると、新八郎のうしろから十二、三なる小坊主が、なにか長いものを肩にしてついて来た。
――琴ではないか。
そう思って見ていると、果してそれは一面の古びた琴であった。小坊主をかえした新八郎は、座敷のまんなかへ袋をはらって琴をすえ、しずかにおぬい[#「ぬい」に傍点]を見やりながら云った。
「あの夜の『想夫恋』は中途でやめになりましたね、尺八を持って来てくだすったのをさいわい、ここであの続きを合わせましょう」
「……宗近さま」
「まあお聞きなさい」新八郎はさえぎって云った。
「あなたは宗近新八郎の妻だ、あなたは新八郎を信じていればよい、御宝物の牧谿の軸はたしかに国許にあります、また監物どのは御いえのために身命をなげうって働いている人です。……御意討ちといって、拙者に監物どのを斬らせようしたのは、平林六郎右衛門どの、こんどはその子の啓二郎が拙者を討ちに来るという。……おぬい[#「ぬい」に傍点]どの」
新八郎は力のこもった口調でつづけた、
「六郎右衛門どのは、城代家老の席がほしかった。そして啓二郎は……わかりますか」
「……はい」
「啓二郎はあなたがほしいのだ」おぬい[#「ぬい」に傍点]がそっと面を伏せるのを見ながら、新八郎はにっと唇に微笑をうかべた。
「あなたはあの夜、拙者の吹く竹の音が、必死のひびきを十三絃につたえたと云われた、言葉は偽われても音楽のまことは隠せぬと仰有《おっしゃ》った。さあ、琴にむかってください」
「…………」
「拙者の心に微塵《みじん》もの曇りがあれば、必ず竹の音にあらわれずにはいないでしよう、鳴響する韻律《いんりつ》こそ言葉以上の証拠です、いざ」おぬい[#「ぬい」に傍点]はしずかに身をおとした。
旅装の塵《ちり》よけをぬぎ、包みをひらいて尺八をわたすと、化粧箱をあけて髪をかきあげ衣紋《えもん》をなおしてからおもむろに琴の前へ坐った。新八郎も尺八をとって坐りなおした。
「あの夜のつづきから」
「はい」
ふたりはじっと呼吸をしずめた。
[#8字下げ]十[#「十」は中見出し]
日はすでに暮れたが、梅雨《つゆ》にはめずらしくからりと晴れた日のなごりで、黄昏《たそがれ》のいろのどこやらにいつまでも夕やけの光の残っているゆうべだった。しずかにはじまった管絃の音《ね》は、ひろい寺の境内《けいだい》をうめる樹立のなかに蕭条《しょうじょう》と幽玄《ゆうげん》なひびきの尾をひいた。心のまことを伝えようとする新八郎と、それをうけとめようとするおぬい[#「ぬい」に傍点]と、ふたつの心はただ一点に凝《こ》っていた。それはもう音楽をつきぬけて、心と心とが、じかに触れあって発する情熱の歌であった。
しかしこんどもまた、曲の終らぬうちに琴の音がはたとやんだ。ふっと絶えた琴の音に気づいて、
「おぬい[#「ぬい」に傍点]どの」とふりかえる新八郎に、娘は恐怖の眼をみひらきながら庭のほうをゆびさした。新八郎がおぬい[#「ぬい」に傍点]の眼に恐怖の色をよむより早く、のしかかるような人影が、さっと縁さきへとびあがって来た。平林啓二郎だった。
「奸物《かんぶつ》、うごくな」抜手の剣が、部屋のなかの夕闇にぎらっと閃光《せんこう》をとばした。新八郎は脱兎の様にその剣をくぐり、
「啓二郎、はやまるな」
と叫びながら庭へとびおりた、逃げるかと、わめいて啓二郎はひっしと追いつめた。新八郎は尺八を青眼につけながら、
「待て平林、御宝物の牧谿は国許にある、仔細を聞けばわかることだ、刀をひけ」
「云うな! この場におよんで未練な云いぬけがなんになる、もう今となってはとりかえしはつかんぞ」
「刀をひけ、手むかいはしない、国許へ帰ればわかることだ、一緒に帰ろう」
「問答無用、己《おれ》は貴様を斬るために来た、云訳を聞きに来たのではない、刀をとれ」
「……そうか」新八郎はぐっと頷いた。
「拙者を斬るために来たという、その言葉の底になにがあるか、拙者にもわからぬことはないのだ。よし、……斬ってみろ」
「刀をとれ」
「それにはおよばぬ、来い!」
忿怒《ふんぬ》の眉をあげながら、新八郎は尺八をぐっと前へつきだした。啓二郎は充分に相手の呼吸をはかろうともせず、疾呼《しっこ》しながら踏みこんだ。……すさまじいかけ声とともに、夕闇をひき裂いて白刃がとび、両者の体がひとつになるかと見えた。しかし次の刹那《せつな》には、啓二郎の手から大剣がはねとばされ、よろめくところへ新八郎の踏みこむのが見えた。その刹那、おぬい[#「ぬい」に傍点]が悲鳴のように、「いけません、宗近さま」と絶叫した。その声とほとんど同時に、新八郎のうちおろした尺八は、相手の肩骨に発止と音をたてていた。
啓二郎はあっと叫びながら前のめりに倒れ、もう起きあがる力もないとみえて、土のうえに伏したまま暴々《あらあら》しく背に波をうたせていた。新八郎はそれを見おろしながら、
「貴様にも、六郎右衛門どのにも、拙者の方こそ申すべきことがあるのだ。しかしなにも云わん、拙者はこれから国許へ帰るが、もし恥じるところがなかったら貴様も帰って来い、……ただしふたたびこんなことをすれば、こんどこそ容赦なく斬って捨てる、それだけは忘れるな」吐きだすように云うと、新八郎はそのままおぬい[#「ぬい」に傍点]のほうへもどって来た。
「こんども途中できれましたね」
旅装をととのえて慶松寺を出た新八郎とおぬい[#「ぬい」に傍点]の二人は夜道にもかかわらず帰国の途についた。
「こんどこそしまいまで合わせようと思ったのに、どうしてこの曲はこう終りまで行けないのでしょう」
「わたくし。……もう生涯この曲は弾くまいと存じますの」
「なぜです」
おぬい[#「ぬい」に傍点]はそっと眼をあげながら、
「でもこの曲を合わせて頂く度に、宗近様のお命に危険があるのですもの、わたくしもう決して弾くまいと存じます」
「危険はこれからも避けられませんよ」
新八郎は歎息するように云った。
「監物どのでさえ身命を捨てたと仰せられている、手綱藩《たづなはん》四万石の政治が万代の安きに置かれるまでは、まだ多くの危険や困難がある、道は嶮《けわ》しいのです。おぬい[#「ぬい」に傍点]どの、……その覚悟ができますか」
おぬい[#「ぬい」に傍点]はおおきく眼をみひらいて、新八郎をふり仰ぎながら頷いた。信頼と愛情にあふれる燃えるようなまなざしだった。そして小さい唇《くち》もとに、花の咲くような美しい微笑《ほほえみ》がこう語っていた。どんなに嶮しい道でも、御一緒に。
底本:「愛情小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年9月1日 初版発行
1979(昭和54)年6月15日 新装第十刷発行
底本の親本:「講談雑誌」
1941(昭和16)年7月号
初出:「講談雑誌」
1941(昭和16)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ