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しぐれ傘
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しぐれ傘
山本周五郎
山本周五郎
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鯉《こい》
(例)鯉《こい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)杯|呷《あお》
(例)杯|呷《あお》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定]
(例)[#3字下げ]
(例)[#3字下げ]
[#3字下げ]鯉《こい》の宗七《そうしち》[#「鯉の宗七」は大見出し]
[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
佐野屋藤吉《さのやとうきち》は、女房《にょうぼう》の酌《しゃく》で朝酒を呑《の》んでいた。
いつも四、五杯で機嫌《きげん》よく酔うのが、今朝はもう二本めをあけようとしているのに、髭《ひげ》の剃跡《そりあと》の青い固肥《かたぶと》りのした顔は妙に冴《さ》えて、「眼玉《めだま》の藤吉」と綽名《あだな》のついている大きな両眼は、さっきから店の方を睨《にら》んではぎらぎら光っていた。
「なんだ、もう無《ね》えのか」
「あがるんですか」
「もう一本つ[#「つ」に傍点]けてくれ。いいからつけてくれ。なんだか酔いそびれて踏んぎりがつかなくっていけねえ」
女房のおかね[#「おかね」に傍点]は気遣わしそうに、亭主《ていしゅ》の横顔をそっと見た。
むっつりと、変に気の詰った調子で三本めを呑み始めると間もなく、弟子の六造がやって来た。
「親方、川口町が見えました」
「此処《ここ》へ通してくれ」
そう云《い》って藤吉は、女房に振り返った。
「おめえ二階へ行っていねえ」
「だって親方」
「いけねえ、おめえに側《そば》から口出しをされちゃあ話の筋が通らねえ、行っててくれ」
「では外しましょう、けれど親方」
おかね[#「おかね」に傍点]は素直に立ちながら「宗七はあの通りの気質で口下手だから、頭ごなしに叱《しか》っちゃあ駄目《だめ》ですよ、あれにもなにか考えのあることでしょうから……」
「それが余計なことだと云うんだ、いいから行きねえ」
藤吉は手酌で酒を注《つ》いだ。
おかね[#「おかね」に傍点]が二階へ去ると、入れ違いに、二十七、八になる若者が入って来た。……色の褪《さ》めた紺縞木綿《こんじまもめん》の袷《あわせ》に、やま[#「やま」に傍点]のいった小倉の帯を緊《し》めている。額の広い顎《あご》の張った逞《たくま》しい顔だが、ひどく蒼白《あおざ》めていて、ひと口に云うと、極度の神経消耗を思わせるが、その眼だけは深く潜んだ鋭い意力を湛《たた》えていた。
名は宗七、今江戸で鯉の木彫の名人と呼ばれている男だ。……口重に挨拶《あいさつ》をして、
「唯今《ただいま》はお使いでございましたが」
「ちょいと話があって来て貰《もら》った。手間を欠かして済まなかったな」
「いえなに、このところ暫《しばら》くぶらぶらしているものですから」
「そうか遊んでるのか」
「遊んでるという訳でもありませんが」
「まあいいや、ひとつどうだ」
藤吉は盃《さかずき》を洗って差出した。
「有難《ありがと》うございますが、実は断っているもんですから……どうか」
「断っている? へええ、なにか願掛けか」
「なに……願というほどのことでもありませんが」
藤吉は黙って手酌で一杯|呷《あお》った。
それから、手に盃を持ったまま何気ない様子で相手を見た。
「実あな宗七」
「…………」
「おらあ昨夜《ゆうべ》、石町《こくちょう》の富田屋さんに呼ばれて行って来た。お嬢さんが来月御婚礼なさるそうで、その祝に使う鯉の置物をおめえにお頼みなすったそうだ」
「……へえ」
「おめえの鯉は、一尾彫って十両が相場だ。石町さんは値に構わず欲しいとおっしゃる、……それをおめえ、お断り申したそうじゃあねえか」
「へえ、……申訳ありません」
「石町さんはそれでも是非欲しい、佐野屋おめえから頼んでくれとこう云われて帰《けえ》って来た。……おめえも知っている通り、おいらにあ大事なお店だ。なあ宗七、おめえれ気持よく彫ってあげて貰いてえが、どうだ」
「へえ、それあもう、……」
宗七は窮屈そうに、固く坐《すわ》った膝頭《ひざがしら》を撫《な》でながら、
「……親方のお口添えがなくとも彫りたいのですが……どうも」
「彫れねえのか」
「親方どうか……こいつは他処《よそ》へお頼み下さるように」
「他処でいいなら石町さんでも頼みゃあしねえ、どうしてもおめえの鯉が御所望だから、おいらを呼んでまでそうおっしゃるんだ。おいらにも大事なお店だが、おめえにとっても富田屋は縁のねえお店じゃあねえぜ。そうだろう」
「……へえ」
「なにか気に入らねえことでもあるのか」
「いえ、いえ決して」
「じゃあ彫ってあげねえ、おらからも頼むからやってあげねえ、どうだ」
宗七は低く頭も垂れながら黙した。
佐野屋藤吉は大工である。親の代から常に弟子の二三十人は使っている立派な株であったが、藤吉は職人気質の厳しい父の手で、弟子たち同様に普請場《ふしんば》の鉋屑《かんなくず》のなかから育てられ、大抵の苦労は経験して来ている。……だから、丁度いまから十二年まえ、一人娘のお雪が七つの祝をした年の冬、親兄弟を亡《な》くした孤児の宗七を手許《てもと》に引取ったときにも、
――孤児だからと云って差別をしちゃあいけねえ。ひねくれさせてもいけねえし、不憫《ふびん》をかけ過ぎてもいけねえ、皆と同じように、極《き》めどこは極めて面倒をみろ。
と女房にも弟子たちにも云い渡した。
いつも四、五杯で機嫌《きげん》よく酔うのが、今朝はもう二本めをあけようとしているのに、髭《ひげ》の剃跡《そりあと》の青い固肥《かたぶと》りのした顔は妙に冴《さ》えて、「眼玉《めだま》の藤吉」と綽名《あだな》のついている大きな両眼は、さっきから店の方を睨《にら》んではぎらぎら光っていた。
「なんだ、もう無《ね》えのか」
「あがるんですか」
「もう一本つ[#「つ」に傍点]けてくれ。いいからつけてくれ。なんだか酔いそびれて踏んぎりがつかなくっていけねえ」
女房のおかね[#「おかね」に傍点]は気遣わしそうに、亭主《ていしゅ》の横顔をそっと見た。
むっつりと、変に気の詰った調子で三本めを呑み始めると間もなく、弟子の六造がやって来た。
「親方、川口町が見えました」
「此処《ここ》へ通してくれ」
そう云《い》って藤吉は、女房に振り返った。
「おめえ二階へ行っていねえ」
「だって親方」
「いけねえ、おめえに側《そば》から口出しをされちゃあ話の筋が通らねえ、行っててくれ」
「では外しましょう、けれど親方」
おかね[#「おかね」に傍点]は素直に立ちながら「宗七はあの通りの気質で口下手だから、頭ごなしに叱《しか》っちゃあ駄目《だめ》ですよ、あれにもなにか考えのあることでしょうから……」
「それが余計なことだと云うんだ、いいから行きねえ」
藤吉は手酌で酒を注《つ》いだ。
おかね[#「おかね」に傍点]が二階へ去ると、入れ違いに、二十七、八になる若者が入って来た。……色の褪《さ》めた紺縞木綿《こんじまもめん》の袷《あわせ》に、やま[#「やま」に傍点]のいった小倉の帯を緊《し》めている。額の広い顎《あご》の張った逞《たくま》しい顔だが、ひどく蒼白《あおざ》めていて、ひと口に云うと、極度の神経消耗を思わせるが、その眼だけは深く潜んだ鋭い意力を湛《たた》えていた。
名は宗七、今江戸で鯉の木彫の名人と呼ばれている男だ。……口重に挨拶《あいさつ》をして、
「唯今《ただいま》はお使いでございましたが」
「ちょいと話があって来て貰《もら》った。手間を欠かして済まなかったな」
「いえなに、このところ暫《しばら》くぶらぶらしているものですから」
「そうか遊んでるのか」
「遊んでるという訳でもありませんが」
「まあいいや、ひとつどうだ」
藤吉は盃《さかずき》を洗って差出した。
「有難《ありがと》うございますが、実は断っているもんですから……どうか」
「断っている? へええ、なにか願掛けか」
「なに……願というほどのことでもありませんが」
藤吉は黙って手酌で一杯|呷《あお》った。
それから、手に盃を持ったまま何気ない様子で相手を見た。
「実あな宗七」
「…………」
「おらあ昨夜《ゆうべ》、石町《こくちょう》の富田屋さんに呼ばれて行って来た。お嬢さんが来月御婚礼なさるそうで、その祝に使う鯉の置物をおめえにお頼みなすったそうだ」
「……へえ」
「おめえの鯉は、一尾彫って十両が相場だ。石町さんは値に構わず欲しいとおっしゃる、……それをおめえ、お断り申したそうじゃあねえか」
「へえ、……申訳ありません」
「石町さんはそれでも是非欲しい、佐野屋おめえから頼んでくれとこう云われて帰《けえ》って来た。……おめえも知っている通り、おいらにあ大事なお店だ。なあ宗七、おめえれ気持よく彫ってあげて貰いてえが、どうだ」
「へえ、それあもう、……」
宗七は窮屈そうに、固く坐《すわ》った膝頭《ひざがしら》を撫《な》でながら、
「……親方のお口添えがなくとも彫りたいのですが……どうも」
「彫れねえのか」
「親方どうか……こいつは他処《よそ》へお頼み下さるように」
「他処でいいなら石町さんでも頼みゃあしねえ、どうしてもおめえの鯉が御所望だから、おいらを呼んでまでそうおっしゃるんだ。おいらにも大事なお店だが、おめえにとっても富田屋は縁のねえお店じゃあねえぜ。そうだろう」
「……へえ」
「なにか気に入らねえことでもあるのか」
「いえ、いえ決して」
「じゃあ彫ってあげねえ、おらからも頼むからやってあげねえ、どうだ」
宗七は低く頭も垂れながら黙した。
佐野屋藤吉は大工である。親の代から常に弟子の二三十人は使っている立派な株であったが、藤吉は職人気質の厳しい父の手で、弟子たち同様に普請場《ふしんば》の鉋屑《かんなくず》のなかから育てられ、大抵の苦労は経験して来ている。……だから、丁度いまから十二年まえ、一人娘のお雪が七つの祝をした年の冬、親兄弟を亡《な》くした孤児の宗七を手許《てもと》に引取ったときにも、
――孤児だからと云って差別をしちゃあいけねえ。ひねくれさせてもいけねえし、不憫《ふびん》をかけ過ぎてもいけねえ、皆と同じように、極《き》めどこは極めて面倒をみろ。
と女房にも弟子たちにも云い渡した。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
宗七は十三で佐野屋へ引取られたが、口数のすくない温和《おとな》しい子供で、仕事もすばらしくよく覚え、十七八になった時は、もう立派に一人前の職人の腕を持っていた。
――こいつは当てたぞ。藤吉はすっかり喜んで、
――これなら他処《よそ》からお雪の婿《むこ》を捜して来るこたあねえ。と女房とも話合っていた。
すると十九の年の春、石町の富田屋という太物《たんもの》問屋の主人|茂右衛門《もえもん》が訪ねて来た。藤吉にとっては親の代から大事な出入り先である。用があればむろん此方《こちら》から出向くところを茂右衛門が自ら訪ねて来たので驚いて会うと、意外なことを聞かされたのであった。
――宗七に暇《ひま》をやってくれ。
というのである。訳を訊《き》くと、――宗七は誰《だれ》も知らないうちに、自分流儀の木彫を始めていた。他《ほか》の者の寝た間遊ぶ間を偸《ぬす》んで、こつこつとやっていたのが、本来の才能に恵まれていたのであろう、めきめき腕が上って、殊《こと》に「鯉」を彫ると、古今無類の物が出来るようになった。そこで、ようやく心を決め、自分は木彫に本腰を入れてやろうと、富田屋を訪ねて親方への口利《くちき》きを頼んだというのである。
一人娘の婿とまで考えていたのだが、藤吉は事情を聞いて快く承知した。そして、川口町へ別に家を持たせて専念木彫をやらせることにしたのである。……ところが、富田屋の云う通り、三年目にはもう「鯉の宗七」と云って、一尾彫れば十両という、飛抜けた高値をよぶ立派な木彫家になったのであった。
――富田屋はおめえにとっても縁のねえ家じゃあねえ。
と云ったのは、右のような事情があったからである。
「どうしたんだ、否《いや》なのか、応なのか」
「親方、まことに申し訳ありませんが」
宗七はそこへ手をついて云った。「どうかお店へは、親方からお断り申して下さいまし。私はどうしても彫りたくないのです」
「帰《けえ》れ!」藤吉は、ついに我慢を切らして叫んだ。
「これほど頼んでも否なら勝手にしやあがれ、名人とか蜂《はち》の頭とか云われて逆上《のぼせ》てやあがる。てめえとは、たったいま縁を切った。帰れ!」
「親方、そ、それはあんまり」
「帰れと云うのに、帰らねえか、面《つら》を見るのも癪《しゃく》だ、二度とこの家の敷居は跨《また》がせねえぞ」
手荒く盃をほうりだすと、藤吉は裾《すそ》を払って二階へ立去った。
宗七は、間もなくぼんやりと、佐野屋の店を出た。
それでなくとも蒼い顔は紙のように乾いて、秋雲のかかった鈍い陽射《ひざ》しも眩《まぶ》しそうに、眉を顰《しか》めたまま力なく拾うように歩いて行く。――すると、八丁堀《はちょうぼり》の河岸《かし》へ出たとき、うしろから足早に一人の娘が通って来た。
藤吉の娘お雪である。
父親に似たのであろう、鈴を張ったような大きな美しい眸《ひとみ》をして、羽二重肌《はぶたえはだ》で、濡《ぬ》れたように朱《あか》いちんまりとした唇《くちびる》をもっている。年は十九だが、まだ十七ほどにしか見えない初心々々《ういうい》しい娘だった。
「宗さん、宗さん、待って」
「……あ、お雪さん」
宗七は、慌《あわ》ててふところ手を出した。娘は円くふくれた胸を波うたせながら、
「もういちど、帰って、宗さん。おっ母《か》さんが幾ら宥《なだ》めても駄目なの、どうしてもお父《とっ》つァんは怒って肯《き》かないのよ」
「私が悪いんです。親方が怒るのは無理もないことです」
「そう思うなら帰って頂戴《ちょうだい》、そしてお父つァんに謝って……ねえ宗さん」
「それが出来ないんです」
宗七は悲しそうに云った。「親方のおっしゃる通りに、石町さんの仕事をすれば勘弁して貰える。けれど、私が悪かったと謝るだけでは、親方は承知してくれやしません」
「では石町さんの御註文《ごちゅうもん》をしてあげてよ」
「出来ればします」
「どうして出来ないの。富田屋は宗さんのためにも恩のある人でしょ。無理な仕事なら別だけど、宗さんでなければならない鯉の彫物よ、どうしてお出来になれないの」
「今は云えないんだ、お雪さん」
宗七は意固地《いこじ》な調子でぶすりと云った。
「もう少し経《た》てば分ります。けれども今はなんにも訊かないで下さい。きっと分る時が来ますから」
――こいつは当てたぞ。藤吉はすっかり喜んで、
――これなら他処《よそ》からお雪の婿《むこ》を捜して来るこたあねえ。と女房とも話合っていた。
すると十九の年の春、石町の富田屋という太物《たんもの》問屋の主人|茂右衛門《もえもん》が訪ねて来た。藤吉にとっては親の代から大事な出入り先である。用があればむろん此方《こちら》から出向くところを茂右衛門が自ら訪ねて来たので驚いて会うと、意外なことを聞かされたのであった。
――宗七に暇《ひま》をやってくれ。
というのである。訳を訊《き》くと、――宗七は誰《だれ》も知らないうちに、自分流儀の木彫を始めていた。他《ほか》の者の寝た間遊ぶ間を偸《ぬす》んで、こつこつとやっていたのが、本来の才能に恵まれていたのであろう、めきめき腕が上って、殊《こと》に「鯉」を彫ると、古今無類の物が出来るようになった。そこで、ようやく心を決め、自分は木彫に本腰を入れてやろうと、富田屋を訪ねて親方への口利《くちき》きを頼んだというのである。
一人娘の婿とまで考えていたのだが、藤吉は事情を聞いて快く承知した。そして、川口町へ別に家を持たせて専念木彫をやらせることにしたのである。……ところが、富田屋の云う通り、三年目にはもう「鯉の宗七」と云って、一尾彫れば十両という、飛抜けた高値をよぶ立派な木彫家になったのであった。
――富田屋はおめえにとっても縁のねえ家じゃあねえ。
と云ったのは、右のような事情があったからである。
「どうしたんだ、否《いや》なのか、応なのか」
「親方、まことに申し訳ありませんが」
宗七はそこへ手をついて云った。「どうかお店へは、親方からお断り申して下さいまし。私はどうしても彫りたくないのです」
「帰《けえ》れ!」藤吉は、ついに我慢を切らして叫んだ。
「これほど頼んでも否なら勝手にしやあがれ、名人とか蜂《はち》の頭とか云われて逆上《のぼせ》てやあがる。てめえとは、たったいま縁を切った。帰れ!」
「親方、そ、それはあんまり」
「帰れと云うのに、帰らねえか、面《つら》を見るのも癪《しゃく》だ、二度とこの家の敷居は跨《また》がせねえぞ」
手荒く盃をほうりだすと、藤吉は裾《すそ》を払って二階へ立去った。
宗七は、間もなくぼんやりと、佐野屋の店を出た。
それでなくとも蒼い顔は紙のように乾いて、秋雲のかかった鈍い陽射《ひざ》しも眩《まぶ》しそうに、眉を顰《しか》めたまま力なく拾うように歩いて行く。――すると、八丁堀《はちょうぼり》の河岸《かし》へ出たとき、うしろから足早に一人の娘が通って来た。
藤吉の娘お雪である。
父親に似たのであろう、鈴を張ったような大きな美しい眸《ひとみ》をして、羽二重肌《はぶたえはだ》で、濡《ぬ》れたように朱《あか》いちんまりとした唇《くちびる》をもっている。年は十九だが、まだ十七ほどにしか見えない初心々々《ういうい》しい娘だった。
「宗さん、宗さん、待って」
「……あ、お雪さん」
宗七は、慌《あわ》ててふところ手を出した。娘は円くふくれた胸を波うたせながら、
「もういちど、帰って、宗さん。おっ母《か》さんが幾ら宥《なだ》めても駄目なの、どうしてもお父《とっ》つァんは怒って肯《き》かないのよ」
「私が悪いんです。親方が怒るのは無理もないことです」
「そう思うなら帰って頂戴《ちょうだい》、そしてお父つァんに謝って……ねえ宗さん」
「それが出来ないんです」
宗七は悲しそうに云った。「親方のおっしゃる通りに、石町さんの仕事をすれば勘弁して貰える。けれど、私が悪かったと謝るだけでは、親方は承知してくれやしません」
「では石町さんの御註文《ごちゅうもん》をしてあげてよ」
「出来ればします」
「どうして出来ないの。富田屋は宗さんのためにも恩のある人でしょ。無理な仕事なら別だけど、宗さんでなければならない鯉の彫物よ、どうしてお出来になれないの」
「今は云えないんだ、お雪さん」
宗七は意固地《いこじ》な調子でぶすりと云った。
「もう少し経《た》てば分ります。けれども今はなんにも訊かないで下さい。きっと分る時が来ますから」
[#3字下げ]路地の霜[#「路地の霜」は大見出し]
[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
もう霜月であった。
川口町の路地の裏にある長屋のひと間で、宗七は木屑に埋ったまま、丸鑿《まるのみ》を片手に呆然《ぼうぜん》と坐っていた。……あれから五十日あまり、めっきり痩《や》せの見える肩と、頬骨《ほおぼね》の出た顔が、ながい貧と労作をまざまざと語っている。
彫台の上には、荒彫した二寸ばかりの蛙《かえる》が投出してある。
宗七の眼は、鑿跡のなまなましい荒彫りの蛙をぼんやりと瞶《みつ》めている。……半年も前から取掛って今日までに何十となく彫ってみるが、どうしても気に入った物が出来ないのだ。
「……矢張り駄目だ」
力のない声で呟《つぶや》いたとき、
「ごめん下さい」と云って訪れる者があった。
宗七は恟《ぎょっ》としながら、慌てて彫った物を戸棚《とだな》へ押込む、……と障子を明けて、小さな風呂敷包《ふろしきづつみ》を抱えたお雪が入って来た。
「今日は少し遅くなりましたわ」
努めて気を迎えるように、微笑しながら云ったけれど、宗七はぶすっと黙ったまま答えなかった。
「昨夜《ゆうべ》おやすみにならなかったのね」
「…………」
「体が弱っていらっしゃるのに、夜明しなどなすっては、お毒ですわ」
「…………」
「まあ、火も消えていますのね」
「お雪さん」
宗七は冷い眼で娘を見た。
「今日までなんども云う通り、宗七は親方から勘当されたも同然の身上です。こうして、貴女《あなた》が面倒をみに通って来て下さるのは有難《ありがた》いが、それじゃあ私が親方に済みません、どうか今日限り私のことは捨てて置いておくんなさい」
「また始ったわ、そのことなら、もう前に話は済んでいる筈《はず》です。あたしの勝手で来るんですから、宗さんに御迷惑は掛けません」
「……そう云われればそれっきりです」
宗七はすっと立上った。
「けれども、私はこうやって貴女のお世話になるのは厭《いや》なんだ。迷惑と云いたいくらいなんだ。それだけは承知していて貰《もら》いますよ」
「宗さん、それはあんまりよ」
お雪は驚いてすり寄った。「あたしはこんな物知らずで、満足にお洗濯《せんたく》ひとつ出来ないけれど、少しでも貴方《あなた》に御不自由をさせまいと思ってずいぶん苦労をしているわ、……迷惑だなんて、……そんな、あんまりだわ」
「お雪さん、私は……宗七はねえ」
宗七はお雪の噎《むせ》びあげる声に振返って、「宗七は職人だ、……私は自分の命を仕事に打込んでるんだ、この仕事が満足に仕上るまでは、義理も人情も捨てているんだ、……職人には仕事の他《ほか》に自分の気持を乱されるのが一番迷惑なんですよ、……だが」
と云ったがすぐ、
「だが……こんなことを、今更ら云っても仕様がねえ」
投遣《なげや》りな調子で呟くと、そのままふらりと外へ出て行った。
藤吉《とうきち》から縁を切ったと云われて以来、宗七《そうしち》は佐野屋《さのや》へ足踏みの出来ない体になっていたが、お雪はそれからも三日にあげず訪れては、濯《すす》ぎ物や家の掃除など、細々した身の廻《まわ》りの世話をしてくれる。……いつかは婿に、という話のあった仲だ、お雪のいじらしい心根は見るも痛ましいくらいであったが、宗七の頑《かたく》な心は娘の気持を察する暇《いとま》もないほど、仕事に対する情熱でいっぱいだった。
出来るなら誰の目にも触れない山奥へでも行って、全身を仕事に打込みたい、仕事の他にはなんにも考えたくないとさえ突詰めている。……殊に此頃《このごろ》では、彼は自分に絶望していた、骨を削るような苦心をして彫る物が、一つとして満足な出来を見せてくれない。
――己《おれ》は駄目《だめ》なのか。そういう疑いさえ起っている。こうなるともう自分を自分で縛るようなもので、平常から殻《から》へ入った栄螺《さざえ》のような気質がますます内へ内へと引籠《ひきこも》り、仕事も気持も次第に追詰められて、身動きのならぬ状態に陥ってしまうものだ。宗七はいま自分では気付かずにそういう穴へはまっている。
当もなく、雨催《あめもよ》いの街を歩き廻って、宗七が帰って来たのは、もう灯《ひ》の点《つ》き始める頃だった。
家へ入るとたんに、
「おや!」
と呆れたのは、お雪が行燈《あんどん》の下で、せっせと夕食の支度をしている姿だった。
「お帰んなさいまし」
「お雪さん、おまえまだいたのか、もう日が暮れたというのに、なにをしているんだ」
「知っていますわ、でも……いいの」
「よかあない、家でもどんなに心配しているか知れません、早く帰らなくちゃあ」
「いいえ帰りません」
お雪は強く頭を振った、「あたし、今日は、帰らない積りで出て来たんです。おっ母さんも承知なんです」
「え、おかみさんが御承知だって?」
「宗さん……」
お雪は行燈に外向《そっぽむ》いて坐《すわ》りながら、
「お父つァんは、あたしに婿を貰《もら》おうとしています。貴方も知っている八丁堀の相模屋《さがみや》さんの銀次郎さん。あの人から話があって、この月内には結納《ゆいのう》をする運びになっているんです、……だからあたし、おっ母さんと相談して家を出て来てしまったんでしす」
「それじゃあ尚更《なおさら》だ。話がそこまで運んでいるのに、いまお雪さんがいなくなったら親方はどうなると思います」
「いや、いや、もうなにも云わないで」
お雪は両手で耳を塞《ふさ》いだ。
川口町の路地の裏にある長屋のひと間で、宗七は木屑に埋ったまま、丸鑿《まるのみ》を片手に呆然《ぼうぜん》と坐っていた。……あれから五十日あまり、めっきり痩《や》せの見える肩と、頬骨《ほおぼね》の出た顔が、ながい貧と労作をまざまざと語っている。
彫台の上には、荒彫した二寸ばかりの蛙《かえる》が投出してある。
宗七の眼は、鑿跡のなまなましい荒彫りの蛙をぼんやりと瞶《みつ》めている。……半年も前から取掛って今日までに何十となく彫ってみるが、どうしても気に入った物が出来ないのだ。
「……矢張り駄目だ」
力のない声で呟《つぶや》いたとき、
「ごめん下さい」と云って訪れる者があった。
宗七は恟《ぎょっ》としながら、慌てて彫った物を戸棚《とだな》へ押込む、……と障子を明けて、小さな風呂敷包《ふろしきづつみ》を抱えたお雪が入って来た。
「今日は少し遅くなりましたわ」
努めて気を迎えるように、微笑しながら云ったけれど、宗七はぶすっと黙ったまま答えなかった。
「昨夜《ゆうべ》おやすみにならなかったのね」
「…………」
「体が弱っていらっしゃるのに、夜明しなどなすっては、お毒ですわ」
「…………」
「まあ、火も消えていますのね」
「お雪さん」
宗七は冷い眼で娘を見た。
「今日までなんども云う通り、宗七は親方から勘当されたも同然の身上です。こうして、貴女《あなた》が面倒をみに通って来て下さるのは有難《ありがた》いが、それじゃあ私が親方に済みません、どうか今日限り私のことは捨てて置いておくんなさい」
「また始ったわ、そのことなら、もう前に話は済んでいる筈《はず》です。あたしの勝手で来るんですから、宗さんに御迷惑は掛けません」
「……そう云われればそれっきりです」
宗七はすっと立上った。
「けれども、私はこうやって貴女のお世話になるのは厭《いや》なんだ。迷惑と云いたいくらいなんだ。それだけは承知していて貰《もら》いますよ」
「宗さん、それはあんまりよ」
お雪は驚いてすり寄った。「あたしはこんな物知らずで、満足にお洗濯《せんたく》ひとつ出来ないけれど、少しでも貴方《あなた》に御不自由をさせまいと思ってずいぶん苦労をしているわ、……迷惑だなんて、……そんな、あんまりだわ」
「お雪さん、私は……宗七はねえ」
宗七はお雪の噎《むせ》びあげる声に振返って、「宗七は職人だ、……私は自分の命を仕事に打込んでるんだ、この仕事が満足に仕上るまでは、義理も人情も捨てているんだ、……職人には仕事の他《ほか》に自分の気持を乱されるのが一番迷惑なんですよ、……だが」
と云ったがすぐ、
「だが……こんなことを、今更ら云っても仕様がねえ」
投遣《なげや》りな調子で呟くと、そのままふらりと外へ出て行った。
藤吉《とうきち》から縁を切ったと云われて以来、宗七《そうしち》は佐野屋《さのや》へ足踏みの出来ない体になっていたが、お雪はそれからも三日にあげず訪れては、濯《すす》ぎ物や家の掃除など、細々した身の廻《まわ》りの世話をしてくれる。……いつかは婿に、という話のあった仲だ、お雪のいじらしい心根は見るも痛ましいくらいであったが、宗七の頑《かたく》な心は娘の気持を察する暇《いとま》もないほど、仕事に対する情熱でいっぱいだった。
出来るなら誰の目にも触れない山奥へでも行って、全身を仕事に打込みたい、仕事の他にはなんにも考えたくないとさえ突詰めている。……殊に此頃《このごろ》では、彼は自分に絶望していた、骨を削るような苦心をして彫る物が、一つとして満足な出来を見せてくれない。
――己《おれ》は駄目《だめ》なのか。そういう疑いさえ起っている。こうなるともう自分を自分で縛るようなもので、平常から殻《から》へ入った栄螺《さざえ》のような気質がますます内へ内へと引籠《ひきこも》り、仕事も気持も次第に追詰められて、身動きのならぬ状態に陥ってしまうものだ。宗七はいま自分では気付かずにそういう穴へはまっている。
当もなく、雨催《あめもよ》いの街を歩き廻って、宗七が帰って来たのは、もう灯《ひ》の点《つ》き始める頃だった。
家へ入るとたんに、
「おや!」
と呆れたのは、お雪が行燈《あんどん》の下で、せっせと夕食の支度をしている姿だった。
「お帰んなさいまし」
「お雪さん、おまえまだいたのか、もう日が暮れたというのに、なにをしているんだ」
「知っていますわ、でも……いいの」
「よかあない、家でもどんなに心配しているか知れません、早く帰らなくちゃあ」
「いいえ帰りません」
お雪は強く頭を振った、「あたし、今日は、帰らない積りで出て来たんです。おっ母さんも承知なんです」
「え、おかみさんが御承知だって?」
「宗さん……」
お雪は行燈に外向《そっぽむ》いて坐《すわ》りながら、
「お父つァんは、あたしに婿を貰《もら》おうとしています。貴方も知っている八丁堀の相模屋《さがみや》さんの銀次郎さん。あの人から話があって、この月内には結納《ゆいのう》をする運びになっているんです、……だからあたし、おっ母さんと相談して家を出て来てしまったんでしす」
「それじゃあ尚更《なおさら》だ。話がそこまで運んでいるのに、いまお雪さんがいなくなったら親方はどうなると思います」
「いや、いや、もうなにも云わないで」
お雪は両手で耳を塞《ふさ》いだ。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
「あたし十六の年に、おっ母さんから聞かされていたことがあります。宗さんがあたしの良人《おっと》になる人だって……こんなことを云《い》うのは恥しいけれど、あたしは今日まで、一日だってそれを忘れたことはないのよ。……今度の相模屋さんとの話だって、あたしが厭だと云い切れば、お父つァんだって無理にとは云わないと思うわ、ただ宗さんがあんなことから出入りしなくなったので、お父つァんはただ腹立ちまぎれに婿の話など始めたんだわ」
「…………」
「宗さん、もし、あたしが嫌《きら》いでなかったら、此処《ここ》にいていいと云って下さいまし。それでなければ、もうあたし、……死ぬばかりです」
宗七は外向《そっぽむ》いたままで、
「私にはなんとも云えません」
と吐き出すように云った。
「なんとも云えません。……いて貰っちゃあ親方に申訳のないことになる、さっきも云ったように、宗七は仕事の他にはなにも考えたくないんだし……」
「宗さん、いいと云って。居てもいいって」
宗七は黙って戸棚を明けた。
その後姿へ、すがりつくようにそっと合掌したお雪は、涙を拭《ふ》きながら膳拵《ぜんごしら》えにかかった。
すると間もなく、
「お雪さん」
と宗七が振返って呼んだ。
「貴女はこの戸棚の中の物に手をつけましたね」
「あら、忘れていましたわ」
お雪は急いで近寄りながら、
「さっき杉辰《すぎたつ》さんが見えましてね、なにか彫った物があったら見せて貰いたいというもんですから、お断りしなくては悪いと思ったんですけれど、そこに蛙の木彫があったのでお見せしたんです」
「それを、それをどうしました」
「杉辰さんは大喜びで、こんなすばらしい物をやっていたとは知らなかった、これで名人宗七の呼名がまた変ると、一両置いて持っていらっしゃいました」
「あの蛙、あれを売った、あれを!」
宗七はぶるぶると身を震わせ、
「お雪さん」
と息詰るような声で云った。
「おまえさん飛んだことをしてくれた。あれはまだ試し彫で、形もなにもついちゃあいない、子供の玩具《おもちゃ》にもならないやくざな物だ」
「でも杉辰さんはすばらしい出来だと」
「杉辰は道具屋だ、骨董物《こっとうもの》の売買には、鑑《め》が利《き》くかも知れないが、物の本当の値打を見る眼《め》は持っちゃあいない、あんな駄物を宗七の作と云って人手に渡すくらいなら、私は今日までこんな苦労はして来やあしないんだ」
「あたし、宗さん、あたしそんなことには気が付きませんでした」
「お雪さんには分るまいが」
宗七は拳《こぶし》を握りながら云った。
「男の仕事はいのち懸けだ。寸分も隙《すき》があるものじゃあないんだ。今こそ云うが、……あのとき石町さんの註文《ちゅうもん》を断ったのは、高い金が欲しいでもなく高慢でもなかった。私はこれまで五、六年のあいだに八十七態の鯉《こい》を彫った、清き鯉、沈み理、離れ、群れ、すっかり彫り尽してもう彫るべき物が無くなっていた。この上彫れば同じ物が出来る……だから私は断ったんです。訳を話さなかったのは、こんなことを云うと気障《きざ》に聞えるからで、今度の蛙が立派に会得《えとく》できたその時こそ、親方にもお話し申し、お詫《わ》びをするつもりでいたんです。……これが職人の気持なんだ、金にも名にも代えることが出来ない爪《つめ》の尖《さき》ほどの嘘《うそ》もない職人の気持なんだ」
「すみません、あたし、そこまで考えずに、つい貴方のお仕事を世間へ見せたくなって」
「杉辰の置いていった一両をおくんなさい」
宗七は構わず立上った、……そしてお雪から二分銀を二つ受け取ると、そのまま土間へ降りて見返りもせず、
「お雪さん、……これでお分りだろう、貴女はこんな処《ところ》にいる人じゃあない、矢張り佐野屋の娘で安楽に暮す方がいいんだ。どうかこのまま家へ帰って下さい」
そう云いながら外へ出た。
もう日はすっかり暮れていた。夕飯どきのざわついた路地をぬけ出ると、河岸《かし》っぷちはひっそりと暗く、今にも降って来そうな空は大江戸の街の灯をうつして鈍く染っている。宗七はまだ朝から食物をとっていなかった。それでなくても弱っている身体《からだ》は、足がふらふらするほど力抜けがしている。
……然《しか》し、そのよろめく足を踏みしめながら、宗七は懸命に大鋸町《おおがちょう》の道具屋、杉田屋辰五郎の店へ急いだ。
「…………」
「宗さん、もし、あたしが嫌《きら》いでなかったら、此処《ここ》にいていいと云って下さいまし。それでなければ、もうあたし、……死ぬばかりです」
宗七は外向《そっぽむ》いたままで、
「私にはなんとも云えません」
と吐き出すように云った。
「なんとも云えません。……いて貰っちゃあ親方に申訳のないことになる、さっきも云ったように、宗七は仕事の他にはなにも考えたくないんだし……」
「宗さん、いいと云って。居てもいいって」
宗七は黙って戸棚を明けた。
その後姿へ、すがりつくようにそっと合掌したお雪は、涙を拭《ふ》きながら膳拵《ぜんごしら》えにかかった。
すると間もなく、
「お雪さん」
と宗七が振返って呼んだ。
「貴女はこの戸棚の中の物に手をつけましたね」
「あら、忘れていましたわ」
お雪は急いで近寄りながら、
「さっき杉辰《すぎたつ》さんが見えましてね、なにか彫った物があったら見せて貰いたいというもんですから、お断りしなくては悪いと思ったんですけれど、そこに蛙の木彫があったのでお見せしたんです」
「それを、それをどうしました」
「杉辰さんは大喜びで、こんなすばらしい物をやっていたとは知らなかった、これで名人宗七の呼名がまた変ると、一両置いて持っていらっしゃいました」
「あの蛙、あれを売った、あれを!」
宗七はぶるぶると身を震わせ、
「お雪さん」
と息詰るような声で云った。
「おまえさん飛んだことをしてくれた。あれはまだ試し彫で、形もなにもついちゃあいない、子供の玩具《おもちゃ》にもならないやくざな物だ」
「でも杉辰さんはすばらしい出来だと」
「杉辰は道具屋だ、骨董物《こっとうもの》の売買には、鑑《め》が利《き》くかも知れないが、物の本当の値打を見る眼《め》は持っちゃあいない、あんな駄物を宗七の作と云って人手に渡すくらいなら、私は今日までこんな苦労はして来やあしないんだ」
「あたし、宗さん、あたしそんなことには気が付きませんでした」
「お雪さんには分るまいが」
宗七は拳《こぶし》を握りながら云った。
「男の仕事はいのち懸けだ。寸分も隙《すき》があるものじゃあないんだ。今こそ云うが、……あのとき石町さんの註文《ちゅうもん》を断ったのは、高い金が欲しいでもなく高慢でもなかった。私はこれまで五、六年のあいだに八十七態の鯉《こい》を彫った、清き鯉、沈み理、離れ、群れ、すっかり彫り尽してもう彫るべき物が無くなっていた。この上彫れば同じ物が出来る……だから私は断ったんです。訳を話さなかったのは、こんなことを云うと気障《きざ》に聞えるからで、今度の蛙が立派に会得《えとく》できたその時こそ、親方にもお話し申し、お詫《わ》びをするつもりでいたんです。……これが職人の気持なんだ、金にも名にも代えることが出来ない爪《つめ》の尖《さき》ほどの嘘《うそ》もない職人の気持なんだ」
「すみません、あたし、そこまで考えずに、つい貴方のお仕事を世間へ見せたくなって」
「杉辰の置いていった一両をおくんなさい」
宗七は構わず立上った、……そしてお雪から二分銀を二つ受け取ると、そのまま土間へ降りて見返りもせず、
「お雪さん、……これでお分りだろう、貴女はこんな処《ところ》にいる人じゃあない、矢張り佐野屋の娘で安楽に暮す方がいいんだ。どうかこのまま家へ帰って下さい」
そう云いながら外へ出た。
もう日はすっかり暮れていた。夕飯どきのざわついた路地をぬけ出ると、河岸《かし》っぷちはひっそりと暗く、今にも降って来そうな空は大江戸の街の灯をうつして鈍く染っている。宗七はまだ朝から食物をとっていなかった。それでなくても弱っている身体《からだ》は、足がふらふらするほど力抜けがしている。
……然《しか》し、そのよろめく足を踏みしめながら、宗七は懸命に大鋸町《おおがちょう》の道具屋、杉田屋辰五郎の店へ急いだ。
[#3字下げ]大名屋敷[#「大名屋敷」は大見出し]
[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
「旦那《だんな》はおいでですか、旦那は」
「おや宗七さん、どうなすったんです。なにか御用ですか」
「旦那がいたら呼んで下さい」
杉田屋の店先に立ったまま宗七は、もどかしそうに同じことを言い続けた。……晩酌《ばんしゃく》でもしていたらしい辰五郎は間もなく歯をせせりながら出て来たが、
「おいでなさい、何か急用でも」
「旦那、さっきの品、あれを返して頂きたいんです。お預りしたお金は此処へ持って来ました」
「なんです、いきなりそんな……」
「あれはまだ試し彫りで、とても人様にお見せ出来るような物じゃあないんです。留守の者が知らずに出したんですから、どうか返して下さい」
「そいつぁ弱ったなあ」
辰五郎は急いで坐《すわ》り直した。
「実あ、あれから帰りに堀田《ほった》様へお寄り申してね、堀田の殿様はまえっから宗七さんの作がお好きで集めていらっしゃるもんだから、ついお見せ申したところが、大変なお気に入りで、即金十両でお売り申してしまったんだが」
「売った、十両で……堀田様に」
「宗七さんの気性で、気に入らねえ作を手放すのは厭だろうが、どうだろう、殿様はすっかり御意《ぎょい》に召しているんだから、今度だけ眼をつむって貰《もら》えまいか……金ならもう少し割戻《わりもど》しをする積りでいるが……」
「堀田様のお屋敷を教えておくんなさい」
「お屋敷って、それを訊《き》いておまえさんどうしようというんだね」
「いいから教えておくんなさい」
宗七は、唇《くちびる》をわなわな震わしていた。
堀田|備中守《びっちゅうのかみ》の中屋敷を訊いて、杉田屋の店を出ると、外はいつかしとしと糠《ぬか》のように時雨《しぐ》れていた。
弾正橋《だんじょうばし》を八丁堀《はっちょうぼり》へ戻り、桜橋を渡って築地《つきじ》へ急ぐ、冷えて来た夜気は身にしみるようだ。袷《あわせ》の着流しきりだから、濡《ぬ》れるにしたがって寒さは骨へ徹《とお》る、……然し、宗七にはなにも感じられなかった。殆《ほとん》ど宙を歩くような気持で、堀田の中屋敷の門へたどり着いたときには、肩から裾《すそ》までずっくりと濡れていた。
「お頼み申します」
むろん門限は過ぎている、潜《くぐ》り門を叩《たた》きながら二三度呼ぶと、番士が窓を明けて覗《のぞ》いた。
「なんだなんだ。御門を叩くやつがあるか、なんだ其方《そのほう》は」
「へえ、川口町の宗七と申す者でございます。是非お殿様にお眼に掛らなくてはならない用がありますので、どうかお取次を願います」
「なに、お上《かみ》にお取次だと」
番士は呆《あき》れて眼を剥《む》いた。
「ばかなことを申すな、ものを知らぬにも程がある。素町人の分際でお上にお眼通りなどと、無礼なこと申すとそのままには捨置かぬぞ」
「いえ、これには訳があるのです」
宗七は必死だった。
「私は鯉の木彫をする職人で、宗七と云えばお殿様もよく御存じの筈《はず》、決して謂《いわ》れもなくお眼通りを願うのではございません。そうお取次下されば分って頂けるのです」
「例えお上が御存じであろうと、手続きを踏まなければお眼《め》通りなど叶《かな》うわけのものでない、詰らぬことを申しても無駄だ。帰れ帰れ」
「でもございましょうが、私にとっては一大事、お殿様がいけなければ、せめて御用人様にでもお取次ぎを願います」
「うるさい奴《やつ》だ」
番士は舌打をしながら、
「もう御門限は疾《とう》に過ぎて、御用人もお小屋へ退《さが》って居《お》られる、取次いでやるから明日来い、明日」
「へえ、明日は何刻《なんどき》に御門が明きましょうか」
「八時だ」
呶鳴《どな》るように云って、番小屋の窓を、手荒く閉めてしまった。宗七はその閉った窓へすり寄りながら、
「八時でございますね、……八時で。私は此処で待っておりますから、御門の明くまで待たせて頂きますから、……どうか刻が来たらお取次を願います、……待っておりますから」
返辞はなかった。
宗七はなお暫《しばら》く同じ言を繰返していたが、やがて窓から離れると番小屋の下へぶるぶると震えながら身を凭《もた》せかけた。
雨は依然として静かに降っている、僅《わず》かな庇《ひさし》はむろん頼みにはならず、頭から裾まで容赦なく降りつけて来る。……前の夜から眠らず、朝早く残り粥《かゆ》を啜《すす》ったきりの体は、寒さと疲れと飢えにすっかり弱って、暫くもせぬ中《うち》に立っていることが出来なくなり、宗七はずるずると崩れるように跼《かが》みこんでしまった。
どのくらいの刻が経《た》ったであろうか。顔にかかる雨がいつか歇《や》んでいるのに気付いて、ふと振仰いでみると、頭上に傘《かさ》がさしかけられている。
――傘……傘……
初めはなんのことか解《わか》らなかった。
それから静かに振返えると、右側にひき添って、お雪が立っているのをみつけた。
宗七はいきなりぎゅっと、胸をしめつけられたように感じた。切ないような、……苦しいような、哀《かな》しいような、なんとも云いようのない感動がぐいぐいと胸をしめつけ、鼻の奥へつんと酸《す》っぱいものがつきあげて来た。
仕事の「魔」に憑《つ》かれたような、ひと筋に突詰めた宗七の感情のなかへ、生れて初めて、……温い心の肌触《はだざわ》りが沁入《しみい》ったのである。宗七は眼の覚めたような気持で、
「……お雪」
と云いながら立上った。お雪の全身が顫《ふる》えた。
「……宗さん」
「ばか!」
「勘忍して」
「こんな、夜更《よふ》けに、なんだって……」
「だってあたし」
お雪は蒼白《そうはく》になっていた。
「あたし、おまえさんの……女房《にょうぼう》だもの」
「ば、ばか……風邪をひいたらどうするんだ」
「勘忍して」
立上った宗七の胸へ、お雪は顫えながらしっかと縋《すが》りついた。宗七はそれを両手で抱緊《だきし》めた。二人はぎごちなく相抱き、泪《なみだ》に濡れた頬《ほお》をすり寄せながら、わなわな身を震わせた。
「おや宗七さん、どうなすったんです。なにか御用ですか」
「旦那がいたら呼んで下さい」
杉田屋の店先に立ったまま宗七は、もどかしそうに同じことを言い続けた。……晩酌《ばんしゃく》でもしていたらしい辰五郎は間もなく歯をせせりながら出て来たが、
「おいでなさい、何か急用でも」
「旦那、さっきの品、あれを返して頂きたいんです。お預りしたお金は此処へ持って来ました」
「なんです、いきなりそんな……」
「あれはまだ試し彫りで、とても人様にお見せ出来るような物じゃあないんです。留守の者が知らずに出したんですから、どうか返して下さい」
「そいつぁ弱ったなあ」
辰五郎は急いで坐《すわ》り直した。
「実あ、あれから帰りに堀田《ほった》様へお寄り申してね、堀田の殿様はまえっから宗七さんの作がお好きで集めていらっしゃるもんだから、ついお見せ申したところが、大変なお気に入りで、即金十両でお売り申してしまったんだが」
「売った、十両で……堀田様に」
「宗七さんの気性で、気に入らねえ作を手放すのは厭だろうが、どうだろう、殿様はすっかり御意《ぎょい》に召しているんだから、今度だけ眼をつむって貰《もら》えまいか……金ならもう少し割戻《わりもど》しをする積りでいるが……」
「堀田様のお屋敷を教えておくんなさい」
「お屋敷って、それを訊《き》いておまえさんどうしようというんだね」
「いいから教えておくんなさい」
宗七は、唇《くちびる》をわなわな震わしていた。
堀田|備中守《びっちゅうのかみ》の中屋敷を訊いて、杉田屋の店を出ると、外はいつかしとしと糠《ぬか》のように時雨《しぐ》れていた。
弾正橋《だんじょうばし》を八丁堀《はっちょうぼり》へ戻り、桜橋を渡って築地《つきじ》へ急ぐ、冷えて来た夜気は身にしみるようだ。袷《あわせ》の着流しきりだから、濡《ぬ》れるにしたがって寒さは骨へ徹《とお》る、……然し、宗七にはなにも感じられなかった。殆《ほとん》ど宙を歩くような気持で、堀田の中屋敷の門へたどり着いたときには、肩から裾《すそ》までずっくりと濡れていた。
「お頼み申します」
むろん門限は過ぎている、潜《くぐ》り門を叩《たた》きながら二三度呼ぶと、番士が窓を明けて覗《のぞ》いた。
「なんだなんだ。御門を叩くやつがあるか、なんだ其方《そのほう》は」
「へえ、川口町の宗七と申す者でございます。是非お殿様にお眼に掛らなくてはならない用がありますので、どうかお取次を願います」
「なに、お上《かみ》にお取次だと」
番士は呆《あき》れて眼を剥《む》いた。
「ばかなことを申すな、ものを知らぬにも程がある。素町人の分際でお上にお眼通りなどと、無礼なこと申すとそのままには捨置かぬぞ」
「いえ、これには訳があるのです」
宗七は必死だった。
「私は鯉の木彫をする職人で、宗七と云えばお殿様もよく御存じの筈《はず》、決して謂《いわ》れもなくお眼通りを願うのではございません。そうお取次下されば分って頂けるのです」
「例えお上が御存じであろうと、手続きを踏まなければお眼《め》通りなど叶《かな》うわけのものでない、詰らぬことを申しても無駄だ。帰れ帰れ」
「でもございましょうが、私にとっては一大事、お殿様がいけなければ、せめて御用人様にでもお取次ぎを願います」
「うるさい奴《やつ》だ」
番士は舌打をしながら、
「もう御門限は疾《とう》に過ぎて、御用人もお小屋へ退《さが》って居《お》られる、取次いでやるから明日来い、明日」
「へえ、明日は何刻《なんどき》に御門が明きましょうか」
「八時だ」
呶鳴《どな》るように云って、番小屋の窓を、手荒く閉めてしまった。宗七はその閉った窓へすり寄りながら、
「八時でございますね、……八時で。私は此処で待っておりますから、御門の明くまで待たせて頂きますから、……どうか刻が来たらお取次を願います、……待っておりますから」
返辞はなかった。
宗七はなお暫《しばら》く同じ言を繰返していたが、やがて窓から離れると番小屋の下へぶるぶると震えながら身を凭《もた》せかけた。
雨は依然として静かに降っている、僅《わず》かな庇《ひさし》はむろん頼みにはならず、頭から裾まで容赦なく降りつけて来る。……前の夜から眠らず、朝早く残り粥《かゆ》を啜《すす》ったきりの体は、寒さと疲れと飢えにすっかり弱って、暫くもせぬ中《うち》に立っていることが出来なくなり、宗七はずるずると崩れるように跼《かが》みこんでしまった。
どのくらいの刻が経《た》ったであろうか。顔にかかる雨がいつか歇《や》んでいるのに気付いて、ふと振仰いでみると、頭上に傘《かさ》がさしかけられている。
――傘……傘……
初めはなんのことか解《わか》らなかった。
それから静かに振返えると、右側にひき添って、お雪が立っているのをみつけた。
宗七はいきなりぎゅっと、胸をしめつけられたように感じた。切ないような、……苦しいような、哀《かな》しいような、なんとも云いようのない感動がぐいぐいと胸をしめつけ、鼻の奥へつんと酸《す》っぱいものがつきあげて来た。
仕事の「魔」に憑《つ》かれたような、ひと筋に突詰めた宗七の感情のなかへ、生れて初めて、……温い心の肌触《はだざわ》りが沁入《しみい》ったのである。宗七は眼の覚めたような気持で、
「……お雪」
と云いながら立上った。お雪の全身が顫《ふる》えた。
「……宗さん」
「ばか!」
「勘忍して」
「こんな、夜更《よふ》けに、なんだって……」
「だってあたし」
お雪は蒼白《そうはく》になっていた。
「あたし、おまえさんの……女房《にょうぼう》だもの」
「ば、ばか……風邪をひいたらどうするんだ」
「勘忍して」
立上った宗七の胸へ、お雪は顫えながらしっかと縋《すが》りついた。宗七はそれを両手で抱緊《だきし》めた。二人はぎごちなく相抱き、泪《なみだ》に濡れた頬《ほお》をすり寄せながら、わなわな身を震わせた。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
夜が明けて、宗七とお雪とが門前に雨をよけながら立っているのを見たとき、番士がどんなに驚いたか云うまでもないだろう。……まさか本当に、夜通し待っているとは思わなかった彼等《かれら》は、その辛抱強さにうたれて、すぐその旨《むね》を係りへ通じた。
用人|幸野権太夫《こうのごんだゆう》はむろん宗七の名を知っていたので、一応自分が会って事情を糺《ただ》した上、仔細《しさい》を主君に言上すると、備中守はすぐに会おうという。そこで権太夫は、衣服を着替えさせた上御前へ伴《つ》れて出た。
備中守|正倫《まさみち》は上機嫌《じょうきげん》で、
「権太夫、式張ったことは許してやれ。……宗七だな、許す、近う近う」
「御意だ、無礼お許しとあるぞ」
権太夫に押されて、宗七は恐る恐る膝行《しっこう》した。
「昨日、杉田屋より求めた品に就いて願いというのは何だ。遠慮はいらぬ、申してみい」
「恐入りまする、甚《はなは》だ、勝手なことを申上げて恐入りまするが、あの品を私めにお戻し願いとう存じます」
「返せというか、ほう……なぜだ」
「あれは、まだほんの、未熟なもので、かたちもなっては居りませぬ、私の留守に杉田屋が持って行きましたので、他人様《ひとさま》に見せられる品ではないのでございます」
「余にはそう思えぬがの、鯉の名人と云われる宗七には珍しい蛙《かえる》、妙作と思うぞ」
正倫は、微笑しながら云った。宗七は懸命に面《おもて》をあげて、
「お殿様の眼にはそう見えも致しましょうが、それはお道楽だけの御鑑識《おめがね》、あの品はまだ石塊《いしくれ》も同然の駄作《ださく》でございます。彫りました当人の私が申上げますので、お手許《てもと》へ差置くべき値打はございません。どうぞお下渡し下さいますよう」
「道楽だけの鑑識か」
正倫は苦笑しながら、
「はっきり申す奴だな、よし……権太夫、昨日の蛙を持って参れ」
「はっ」
「宗七。それ程申すなら、あの品は返して遣わそう、然し約束がある」
権太夫の持って来た文庫の中から、木彫の蛙を取出して前へ置きながら、正倫は改めて宗七を見やった。
「この品は返してやるが、そのまえに、其方が是《これ》なら善しと思う物を彫上げて参れ、そうしたら是を下渡してやるが、どうだ」
「はい、然しそれが、いつ出来ますことやら」
「いつでもよい、二年でも三年でも待つ、そのあいだ、是は文庫に納めたまま決して他人には見せぬと約束して遣わそう」
「恐入りまする」
宗七は、初めて安堵したように微笑んだ。
「それでは私がお眼通り仕《つかまつ》りまするまで、どうぞ何誰《どなた》にもお見せ下さいませぬよう」
「よしよし、必ず見せずに置くぞ」
「私も必ず、宗七の作と銘打って恥かしからぬ品を仕上げまする。……就きましては、お殿様には杉田屋よりそれを十金にてお求め遊ばしたように伺いまするが」
「それがどうか致したか」
宗七は袂《たもと》から二分銀を二つ取出して、
「甚《はなは》だ失礼ではございますが、私が次にお眼通り致しますまで、つまり其品のお下渡しを願いますまで、十金の内の手付けとしまして、……こ、この壱両《いちりょう》をお預り……」
「これ、これ無礼なことを」
権太夫が仰天して乗出した。……堀田家は一万三千石だが、帝鑑《ていかん》ノ間《ま》伺候《しこう》の大名である。幾らなんでもその相手へ二分銀二つ差出すというのは度外れだ。
権太夫は顔色を変えたが、正倫は興あり気にそれを止めて、
「捨て置け権太夫、面白《おもしろ》いではないか、余が町人から壱両の手付けを預るというのは初めてだ、面白い、預るぞ宗七」
「かたじけのう存じます、これで私も安心致しました」
「余も手付けを取って安堵したぞ」
正倫は声を挙げて笑った。
宗七も笑った……。笑いながら、宗七はにわかに胸が空闊《くうかつ》とひらけ、体いっぱいに爽《さわや》かな風の吹通るのを感じた。
一点に追詰められていた退引《のっぴき》ならぬ気持が、正倫の寛闊無碍《かんかつむげ》な態度に会って、一時に解放されたのである。「凝《こり》」が落ちたのだ。……針の尖《さき》ばかり瞶《みつ》めていた眼が、その一瞬に広い天空を見たのであった。
――これだ、これだ。
宗七は、心の中で叫んだ。
――己《おれ》は自分で自分を埋める穴を掘っていたんだ。穴から出よう、……仕事はそれからだ。
「権太夫」
正倫は用人の方を見て、
「どうだ、余の商法はたしかであろう」
そう云いながらもう一度声高く笑った。
まことに奇妙な約束である。然し宗七は御前を首尾よく退出した。……御門を出ると、まだ降りやまぬ時雨《しぐれ》のなかに、お雪が待兼ねていて走り寄った。
「どうでございました? あなた」
「お雪!」
宗七は今度こそはっきりと、力のある声でお雪の名を呼んだ。
「大鋸町の店へ行こう」
「え? お父《とっ》つァんのところへ?」
「親方に会って、おまえを女房に貰って来るんだ。宗七は改めて出直す、昨日までのうじうじした気持もいけなかったんだ。……いま堀田のお殿様にお目通りをして熟々《つくづく》感じたぞ、人間は心を寛《ひろ》く持たなくちゃあいけねえ。其日の食に不足しても心は大名のように大きくもつんだ……大名のような寛い、大きな心持でやるんだ。親方に会って、なにもかも話して、それから……始めるぞ」
「うれしい、あなた……!」
「ええ、傘が傾《かし》いだ、濡《ぬ》れるぜ」
宗七は手を伸ばして傘の柄《え》を支える、その手へ自分の手を重ねながら、お雪は濡れた眸《ひとみ》で男の眼を恍惚《うっとり》と見上げた。
……降りしきる時雨の町に、ようやく往来の人が多くなりつつ……。
[#地から2字上げ](「講談雑誌」昭和十五年一月号)
用人|幸野権太夫《こうのごんだゆう》はむろん宗七の名を知っていたので、一応自分が会って事情を糺《ただ》した上、仔細《しさい》を主君に言上すると、備中守はすぐに会おうという。そこで権太夫は、衣服を着替えさせた上御前へ伴《つ》れて出た。
備中守|正倫《まさみち》は上機嫌《じょうきげん》で、
「権太夫、式張ったことは許してやれ。……宗七だな、許す、近う近う」
「御意だ、無礼お許しとあるぞ」
権太夫に押されて、宗七は恐る恐る膝行《しっこう》した。
「昨日、杉田屋より求めた品に就いて願いというのは何だ。遠慮はいらぬ、申してみい」
「恐入りまする、甚《はなは》だ、勝手なことを申上げて恐入りまするが、あの品を私めにお戻し願いとう存じます」
「返せというか、ほう……なぜだ」
「あれは、まだほんの、未熟なもので、かたちもなっては居りませぬ、私の留守に杉田屋が持って行きましたので、他人様《ひとさま》に見せられる品ではないのでございます」
「余にはそう思えぬがの、鯉の名人と云われる宗七には珍しい蛙《かえる》、妙作と思うぞ」
正倫は、微笑しながら云った。宗七は懸命に面《おもて》をあげて、
「お殿様の眼にはそう見えも致しましょうが、それはお道楽だけの御鑑識《おめがね》、あの品はまだ石塊《いしくれ》も同然の駄作《ださく》でございます。彫りました当人の私が申上げますので、お手許《てもと》へ差置くべき値打はございません。どうぞお下渡し下さいますよう」
「道楽だけの鑑識か」
正倫は苦笑しながら、
「はっきり申す奴だな、よし……権太夫、昨日の蛙を持って参れ」
「はっ」
「宗七。それ程申すなら、あの品は返して遣わそう、然し約束がある」
権太夫の持って来た文庫の中から、木彫の蛙を取出して前へ置きながら、正倫は改めて宗七を見やった。
「この品は返してやるが、そのまえに、其方が是《これ》なら善しと思う物を彫上げて参れ、そうしたら是を下渡してやるが、どうだ」
「はい、然しそれが、いつ出来ますことやら」
「いつでもよい、二年でも三年でも待つ、そのあいだ、是は文庫に納めたまま決して他人には見せぬと約束して遣わそう」
「恐入りまする」
宗七は、初めて安堵したように微笑んだ。
「それでは私がお眼通り仕《つかまつ》りまするまで、どうぞ何誰《どなた》にもお見せ下さいませぬよう」
「よしよし、必ず見せずに置くぞ」
「私も必ず、宗七の作と銘打って恥かしからぬ品を仕上げまする。……就きましては、お殿様には杉田屋よりそれを十金にてお求め遊ばしたように伺いまするが」
「それがどうか致したか」
宗七は袂《たもと》から二分銀を二つ取出して、
「甚《はなは》だ失礼ではございますが、私が次にお眼通り致しますまで、つまり其品のお下渡しを願いますまで、十金の内の手付けとしまして、……こ、この壱両《いちりょう》をお預り……」
「これ、これ無礼なことを」
権太夫が仰天して乗出した。……堀田家は一万三千石だが、帝鑑《ていかん》ノ間《ま》伺候《しこう》の大名である。幾らなんでもその相手へ二分銀二つ差出すというのは度外れだ。
権太夫は顔色を変えたが、正倫は興あり気にそれを止めて、
「捨て置け権太夫、面白《おもしろ》いではないか、余が町人から壱両の手付けを預るというのは初めてだ、面白い、預るぞ宗七」
「かたじけのう存じます、これで私も安心致しました」
「余も手付けを取って安堵したぞ」
正倫は声を挙げて笑った。
宗七も笑った……。笑いながら、宗七はにわかに胸が空闊《くうかつ》とひらけ、体いっぱいに爽《さわや》かな風の吹通るのを感じた。
一点に追詰められていた退引《のっぴき》ならぬ気持が、正倫の寛闊無碍《かんかつむげ》な態度に会って、一時に解放されたのである。「凝《こり》」が落ちたのだ。……針の尖《さき》ばかり瞶《みつ》めていた眼が、その一瞬に広い天空を見たのであった。
――これだ、これだ。
宗七は、心の中で叫んだ。
――己《おれ》は自分で自分を埋める穴を掘っていたんだ。穴から出よう、……仕事はそれからだ。
「権太夫」
正倫は用人の方を見て、
「どうだ、余の商法はたしかであろう」
そう云いながらもう一度声高く笑った。
まことに奇妙な約束である。然し宗七は御前を首尾よく退出した。……御門を出ると、まだ降りやまぬ時雨《しぐれ》のなかに、お雪が待兼ねていて走り寄った。
「どうでございました? あなた」
「お雪!」
宗七は今度こそはっきりと、力のある声でお雪の名を呼んだ。
「大鋸町の店へ行こう」
「え? お父《とっ》つァんのところへ?」
「親方に会って、おまえを女房に貰って来るんだ。宗七は改めて出直す、昨日までのうじうじした気持もいけなかったんだ。……いま堀田のお殿様にお目通りをして熟々《つくづく》感じたぞ、人間は心を寛《ひろ》く持たなくちゃあいけねえ。其日の食に不足しても心は大名のように大きくもつんだ……大名のような寛い、大きな心持でやるんだ。親方に会って、なにもかも話して、それから……始めるぞ」
「うれしい、あなた……!」
「ええ、傘が傾《かし》いだ、濡《ぬ》れるぜ」
宗七は手を伸ばして傘の柄《え》を支える、その手へ自分の手を重ねながら、お雪は濡れた眸《ひとみ》で男の眼を恍惚《うっとり》と見上げた。
……降りしきる時雨の町に、ようやく往来の人が多くなりつつ……。
[#地から2字上げ](「講談雑誌」昭和十五年一月号)
底本:「人情武士道」新潮文庫、新潮社
1989(平成1)年12月20日発行
2010(平成22)年3月20日三十四刷改版
2014(平成26)年9月20日四十一刷
底本の親本:「講談雑誌」
1940(昭和15)年1月号
初出:「講談雑誌」
1940(昭和15)年1月号
※表題は底本では、「しぐれ傘《がさ》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
1989(平成1)年12月20日発行
2010(平成22)年3月20日三十四刷改版
2014(平成26)年9月20日四十一刷
底本の親本:「講談雑誌」
1940(昭和15)年1月号
初出:「講談雑誌」
1940(昭和15)年1月号
※表題は底本では、「しぐれ傘《がさ》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ