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並木河岸
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並木河岸
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)撫《な》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四|帖《じょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
路地をはいろうとした鉄次は、その角の「なんでも屋」の軒下に、長吉がいるのを認めて立停った。五つになる長吉は、軒下に立ったまま、ぼんやりと店の中を眺めていた。
「どうした、長」と彼は子供の頭を撫《な》でた、「なにをそんなに見ているんだ、なにか欲しいのか」
長吉は首を振って、「ちゃんを待ってるんだ」と云った。ひどくもったいぶった口ぶりで、それから急に「飴《あめ》ん棒」と云った。長吉の父親は博奕《ばくち》で御用になり、もう六十日あまりも牢《ろう》にはいっていた。
「飴ん棒か、よし」と彼は財布から銭を出して、子供の手に握らせた、「これで買ってきな、もう暗くなるからうちへ帰るんだぜ」
「おっかあを待ってるんだ」
「そうか」と彼は頷《うなず》いた、「そんなら、もしも帰りがおそかったら、小父ちゃんちへ来ていな、遊んでやるからな」
「小父ちゃんちはだめだって」
「なにがだめだ」
「だめだって」と長吉が云った、「慶ちゃんちのおばさんがだめだってよ」
そして彼は店の中へはいっていった。
鉄次は路地へはいってゆき、井戸端にいる人たちと挨拶を交わして、自分の家の戸口へ、「いま帰った」と云いながらはいった。すると、障子をあけたのは隣りのおきの[#「きの」に傍点]で、静かに、という手まねをし、「お帰んなさい」と云った。鉄次は長吉の云ったことを思いだした。おきの[#「きの」に傍点]は慶太の母親である。彼はなにかあったのかとけげんそうにおきの[#「きの」に傍点]を見た。
「いま手拭を出すから、そのまま湯へいってらっしゃい」とおきのが低い声で云った、「そのあいだに晩の支度をしておくわ」
「うちのやつ、どうかしたんですか」
「大きな声をしないで」とおきの[#「きの」に傍点]が手を振った、「いまやっと眠りついたところなのよ、静かにしてちょうだい」
鉄次は口をつぐんだ。おきの[#「きの」に傍点]はすり寄って、彼の耳へそっと囁《ささや》いた。鉄次の口があき、顔がきゅっと硬ばった。彼は右手で、着物の上から、ふところを押えた。
「あとの心配はないそうだけれど」とおきの[#「きの」に傍点]は云った、「躯《からだ》がすっかり弱っているから、よほど大事にしないと、気でまいってしまうって医者が云ってましたよ」
「どうも、とんだ世話になって、済みません」
「湯へいってらっしゃい」とおきの[#「きの」に傍点]は立ってゆき、手拭を持って戻って来た、「晩の支度をしておくけれど、なにか注文があったら云って下さいな」
その心配はいらない、どこかで喰《た》べて来ようと、鉄次は云って、逃げだすように外へ出ていった。彼の顔はいまにも泣きだしそうに歪《ゆが》み、口の中で「またか、またか」と呟《つぶや》いた。路地の角に長吉がいて、「小父ちゃん」と呼びかけ、持っている飴ん棒を見せたが、彼はちょっと眼をくれただけで、ふらふらと四ツ目橋のほうへ歩いていった。
鉄次は足の向くままに歩いた。頭のどこかで、湯屋へゆくんだ、と思いながら、すっかり昏《く》れてしまうまで歩きまわり、それから、ゆきつけの「豊島屋」という居酒屋へはいった。それが同じ町内の、なじみの店だということは、中へはいってから気がつき、そこには知りあいの者が幾人も飲んでいるのを認めた。
――近まわりをうろついてたんだな。
鉄次は隅のほうの(いつもの)場所へ腰をかけた。じぶんどきのことで、店は混んでいた。三人ばかりが彼に声をかけたが、彼はそっちを見ただけで、返辞はしなかった。
――多助はいつ牢から出るだろう。
と彼は思った。小女《こおんな》がはこんで来た酒と肴《さかな》を前に置いて、独りでぼんやり飲みながら、彼は多助の家族のことを考えた。五つの長吉を抱えて、多助の女房のおみよ[#「みよ」に傍点]は日雇《ひよう》取りをしている。おみよ[#「みよ」に傍点]は躯が弱かったが、賃仕事ではやってゆけないので、三日いっては二日休むというふうにしながら、親子二人でかつかつ暮していた。多助は船宿の船頭で、かなりいい稼ぎをするらしいが、博奕のために身が持てず、御用になったのは三度めであった。船宿の親方の奔走で二度までは「叱り」で済んだけれども、三度めにはお裁きを受け、ついに牢屋へ入れられてしまった。
「だめだ、博奕はだめだ」と彼は口の中で呟いた、「博奕につかまったらおしまいだ、出て来ても多助はまたやるだろう、同じこった、夫婦別れをするよりしようがねえさ」
若者が一人、盃《さかずき》を持って来て、鉄次の側へわりこんだ。
「鉄あにい」と若者は持っている盃をさし出した、「ひとつ、――」
鉄次は彼を見、彼の盃を見て、首を振った。若者は酔っているらしい、鉄次の冷淡な眼には気がつかず、盃をさし出したまま、なお酒をせがんだ。鉄次の額に癇癪《かんしゃく》筋がふくれ、彼は高い声でどなった。
「うるせえ」と鉄次は云った、「酒ぐらいたまには手銭で飲めねえのか」
声が高かったので、店の中が急にしんとなり、殆んどいっぱいの客たちが、話をやめてこっちを見た。
「わかったよ」と若者は云った、「わかったよ、おめえ機嫌がわるいんだな、鉄あにい、そうとは気がつかなかったんだ、勘弁してくれ、悪かったよ」
鉄次はそっぽを向いた。若者は立って向うへゆき、元の伴れといっしょになった。鉄次は恥ずかしさで顔がほてり、小女を呼んで勘定を命じた。
それからさらに三軒ばかり飲んでまわり、十時ちかくになって、鉄次は家へ帰った。雨戸が閉っているので、それをあけていると、隣りの勝手口があいて、おきの[#「きの」に傍点]が顔を出した。
「ずいぶんおそかったのね、どこの湯へいってたの」とおきの[#「きの」に傍点]が云った、「お膳《ぜん》は拵《こしら》えてありますよ」
鉄次は低い声で礼を云った。
「あたしいま帰ったところよ」とおきの[#「きの」に傍点]が云った、「おてい[#「てい」に傍点]さんよく眠ってるから、なるべく起こさないようにして下さいな」
鉄次は家へはいり、あとを閉めた。
四|帖《じょう》半《はん》と六帖のふた間で、六帖のほうに蚊帳が吊《つ》ってあり、暗くしてある行燈の光りで、おてい[#「てい」に傍点]の寝姿がぼんやりと見えた。鉄次は四帖半に置いてある食膳を眺め、掛けてある布巾へ手をやろうとした。すると、蚊帳の中からおてい[#「てい」に傍点]の呼びかける声がした。
「お帰りなさい、おそかったわね」
「うん」と彼は云った、「いま帰った」
そして水を飲むために、勝手のほうへいった。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
水を飲んで戻った鉄次は、蚊帳へはいって、着替えはせずに、自分の寝床へ横になった。そう暑い晩ではなく、蚊帳のまわりで、蚊のうなりが聞えていた。
「あんた」とおてい[#「てい」に傍点]が呼びかけた。
「わかってる」と彼が遮《さえぎ》った、「いいから寝よう」
「怒ってるの」
「酔ってるんだ」と彼は云った、「寝よう」
そして彼は寝返りをうった。
鉄次はよく眠り、おきの[#「きの」に傍点]が戸を叩く音で、ようやく眼をさました。外は明けたばかりで、おきの[#「きの」に傍点]と入れちがいに井戸端へ出ると、霧のような雨がけぶっていた。――彼は顔を洗って戻り、「飯は外で食うから」とおきの[#「きの」に傍点]に断わって、手早く着替えをした。帯を解いたとき、ふところからなにか足元へ落ちた。鉄次はそのまま着替えをして、ふと足に触ったので見おろし、どきっとしながら慌てて拾った。それは二寸に三寸ばかりの、平たい奉書包で、彼はふところへねじこむと、おきの[#「きの」に傍点]にあとを頼んで、すぐに家をとびだした。
「まだ早すぎるわよ」とおきの[#「きの」に傍点]が呼びかけた、「こんなじぶんにいってどうするの」
鉄次は傘も持たずに路地を出ていった。
竪川の岸へ出ると、彼はふところから(さっきの)奉書包をとりだし、二つに引裂いて川へ捨てた。それは昨日、――仕事を少し早くしまって、水天宮までいって貰ってきた御守りであった。彼は水面を見やり、引裂かれた御守りが、ゆっくりと、大川のほうへ流れてゆくのを眺めながら、「ひき汐《しお》だな」とぼんやり口の中で呟いた。そこへ、おきの[#「きの」に傍点]が傘を持って追って来た。
「どうしたのさ」とおきの[#「きの」に傍点]が云った、「傘も持たずにとびだしらまってどうするの」
「なに、霧雨だから」
「鉄さん」とおきの[#「きの」に傍点]が傘を渡しながら彼を見まもった、「あんた、まさかあのことで、――」
鉄次は川のほうへ手を振った。
「いまあれを流したんだ」と彼は云った、「あそこを流れてるだろう、水天宮の安産の御守りだ」
おきの[#「きの」に傍点]は鉄次の顔をみつめ、それから眼をそらした。鉄次は「とんだお笑い草さ」と喉《のど》で笑い、「傘を済まなかった」と云って、四ツ目橋のほうへ歩み去った。
鉄次の黙っている日が続いた。
彼は船大工で、帳場は深川平野町にあった。本所の家からは、歩いて四半刻あまりかかるが、二十四でおてい[#「てい」に傍点]と世帯を持って七年、枝川の河岸に沿ってゆく道は、眼をつむっても歩けるほど馴れていた。――鉄次は十三の年に「相留」というその船大工の弟子にはいり、いまではいちばん年長で、仕事場のことはすっかり任されていたし、ちかごろでは、自分で道具を使うようなこともなく、職人たちに指図をしていればよかった。
鉄次はもともと口が重く、どっちかというとぶあいそな性分だったが、あの日からさらに無口になり、仕事場の職人たちはぴりぴりしていたし、家ではおてい[#「てい」に傍点]が、腫《は》れ物にでも触るような眼で、彼を見ていた。おてい[#「てい」に傍点]は寝たまま、他人の世話になっているのと、彼がなにを思っているのか見当がつかないのとで、暫くは話しかける勇気もなく、心のなかでおろおろしながら、いまにもなにか恐ろしいような事が起こるのではないかという、不安な気分で、彼のようすを見ているばかりだった。
あのことがあってから五日めの夜、――鉄次が帰って来て、蚊帳の中で横になってから、珍しくおてい[#「てい」に傍点]のほうを見て、「ぐあいはどうだ」と訊《き》いた。おてい[#「てい」に傍点]は救われたように、良人《おっと》に向って微笑した。
「だいじょぶよ」とおてい[#「てい」に傍点]は云った、「今日お医者が来て、順調だって云ってたわ」
鉄次は「そうか」と云った。
「ごめんなさいね」と暫くしておてい[#「てい」に傍点]が云った、「すっかり不自由をさせちゃって、――起きたら取返しをつけるから、もう少し辛抱して下さいね」
「誰か雇ったらどうだ、おきの[#「きの」に傍点]さんに悪いだろう」
「そう思うんだけれど」とおてい[#「てい」に傍点]は気弱く笑った、「あたし人を使うことが下手だから」
「悪くなければおきの[#「きの」に傍点]さんでいいさ」
「いつもこっちでしているし、治ったらお礼をすればいいでしょ」と云って、おてい[#「てい」に傍点]はさぐるように良人を見た、「でも、――もしかしてあんたがいやだったら」
「おまえがよければいいんだ」
と云って、鉄次は仰向けに寝返った。
そのまま時間が経ち、長屋のどこかで子供の泣く声が聞えた。隣りも向うも寝しずまっているので、その泣き声はかなりはっきりと、高く聞えた。鉄次は「長だな」と思った。長吉の声らしい、こんな時刻にどうしたんだ、そう思っていると、おてい[#「てい」に傍点]が低い声で「あんた」と呼びかけた。
「あんた、堪忍してね」
鉄次は黙っていた。
「まだ怒ってるの」とおてい[#「てい」に傍点]は云った、「堪忍してくれないの、あんた」
「その話はよせ」
「堪忍してくれないのね」
鉄次は黙っていた。そのまま沈黙が続き、やがて子供の泣き声も聞えなくなった。
「云って下さい」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「あたしどうすればいいの」
鉄次はやはり黙っていた。
「ねえ、云ってよ、はっきり云って、あたし覚悟はできてるんだから」とおてい[#「てい」に傍点]が含み声で云った、「ねえ、あたしたちもうだめなの」
「ばかなことを云うな」
「あんたは勘弁してくれないもの」とおてい[#「てい」に傍点]は乾いた調子で云った、「初めのときも二度めのときも、あんたはもっとやさしかったし、慰めてもくれたわ、覚えてるけど、あんたは云ったわ、おまえのせいじゃない、おまえが悪いんじゃないって」
「じゃあ誰が悪いんだ、おれか」と鉄次が云った。抑えてきた怒りが手綱を切ったような、激しくするどい声で、自分でも吃驚《びっくり》したのだろう、「もうよしてくれ」と少しやわらいだ声で付け加えた。
「おれはべつに怒ってやしない、いまさら怒ったってどうなることでもありゃあしない、つまらないことを云うな」そして彼は反対のほうへ寝返った、「もうおそいぞ、寝よう」
おてい[#「てい」に傍点]はじっとしていた。蚊帳のまわりで蚊のうなりが聞え、勝手の下あたりで、もの憂げになにかの地虫が鳴いていた。
「変ったわ、すっかり変っちゃったわ」とおてい[#「てい」に傍点]が低いかすかな声で囁いた、「まえにはこんなじゃなかったのに、もうあんなふうにはいかないのね」それからやや暫くまをおいて、ごく細い弱よわしい声で云った、「――どうなるのかしら」
鉄次はなにも云わなかった。
「どうなるのかしら」とおてい[#「てい」に傍点]が囁いた、「もうあたしたち、だめなのかしら」
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
深川扇町の、名も知れない居酒屋で、鉄次は飲んでいた。「豊島屋」で気まずいことがあってから、彼はそのときばったりの、知らない店で飲むようになり、その店もその晩が初めてだった。堀に面した、ちょっとした構えで、土間には三四十人もはいれるし、上に四つばかり小座敷もあった。天床にははちけん[#「はちけん」に傍点]が二つも吊ってあるので、店の中は明るく、板場からながれて来る煮焼きの匂いと、いっぱいの客の人いきれと、そこで話したり笑ったりする高声とで、酔わないうちに頭がぼうとなるようであった。
小女が三人、若い女が三人ばかりいるな、と鉄次は思った。若い女は白粉《おしろい》などを塗って、これは馴染の客の相手をするらしい。鉄次のところへは小女が来て、注文を聞き、それを運んで来、いちど酌のまねをするだけで、側に付いている者はなかった。――もちろん、彼にはそのほうが勝手で、まわりの客たちの話すのを、ぼんやりと聞きながら、いつもより気持よく、三本ばかり飲んだ。たしかに、いつもより気持よく飲んでいたが、そのうちに、彼の前へ中年の浪人者が来てから、急に機嫌の変るのが、自分でもわかった。
浪人者は年のころ三十六七で、汚れてはいないが継ぎの当った単衣《ひとえ》を着、躯つきは固ぶとりだが、顔は細おもてで、人を見くだすような、たかぶった、きざな眼をしていた。
――いやな野郎が来やがった。
鉄次はそう思い、なるべくそっちを見ないようにしながら、飲んでいた。
すると暫くして、小さな子供の声が聞え、見ると浪人者の脇に、五つばかりの子供が腰かけており、お新香で丼飯《どんぶりめし》を喰べようとしていた。
――子供を伴れていたのか。
浪人者は一人だと思ったので、鉄次はちょっと意外に思い、こんどは改めて、(それとなく)ようすをぬすみ見た。浪人者は酒を一本取り、つきだし[#「つきだし」に傍点]の小皿を二つ、前に置いたままで、ちびちびと飲んでいた。子供は手に余る箸《はし》を持ち、飯台にのしかかるようにして、丼を片手で抱え、そうして周囲の客の、肴の皿小鉢や腕などを、かなしそうな眼で眺めていた。欲しそうな眼ではなく、諦《あきら》めたような、かなしそうな眼つきであった。父親の浪人者は飲んでいた。一杯の盃を五たびにも六たびにも、まるで貴重な薬でも舐《な》めるように、大事にかけて啜《すす》っていた。
「坊や」と鉄次は子供に呼びかけた、「小父ちゃんのこのお魚、喰べてくれないか」
子供はゆっくり俯向《うつむ》いた。なにか云ったようだが聞えなかった。鉄次には「要らない」と云ったように思え、そこでまだ箸をつけてない刺身の皿を取って、子供の前へ置いた。
「これを手伝っておくれ」と彼は云った、「小父ちゃんは酒を飲んでいるから喰べられないんだ、美味《うま》いぜ坊や、ね、喰べてごらん、その御飯にのっけて喰べると美味いぜ」
「失礼だがそれは断わる」と浪人者が云った、「失礼だが、おちぶれても侍の子だ、食物の施しにはあずかりたくない」
「それはそうでしょうが、子供というものは」
「断わる」と浪人者はどなった、「おれは乞食《こじき》に来たのではない」
大きな声で、いまわりの客たちは話をやめてこっちを見た。浪人者の細い顔が赤くなり、その眼が怒りと憎悪のためにぎらぎらと光った。
「済みません」と鉄次は皿を引込めた、「私はそんなつもりじゃあなかったんだが、お気に障ったら勘弁して下さい」
浪人者は子供に、「早く喰べろ」と云った。子供はべそをかいて、糠味噌漬《ぬかみそづけ》の蕪《かぶら》と大根と、生瓜《きゅうり》の盛ってある鉢へ手を出した。腹はへっているが、いかにも気がすすまない、という手つきである。鉄次の前には、まだ箸をつけない肴が、幾品か並んでいた。
「子供は他人の物が欲しいものだ」と鉄次は抑えた口調で云った、「自分が好きな物を喰べていても、他人の物はもっと美味そうに見えるもんだ、それが子供だ、子供はそういうもんだ、侍も町人も差別はねえ、子供はみんなおんなしこった」鉄次の額に癇癪筋が立った、「罪じゃねえか」と彼は独りで続けた、「まわりにいっぱい肴が並んでいるのに、それを眺めながらこうこ[#「こうこ」に傍点]で飯を食わせるなんて、罪じゃねえか、そんならこんな処《ところ》へ伴れて来なければいいんだ」
「町人」と浪人者が云った、「口が過ぎるぞ」
鉄次は眼をあげた。
「きさま」と浪人者が云った、「このおれを浪人とあなどって、辱しめる気か」
「私は子供さんのことを云ってるんだ」
浪人者は突然、燗徳利《かんどくり》を取って投げた。鉄次は首を曲げ、燗徳利はうしろの連子窓《れんじまど》へ当って砕けた。「ゆるさん」と叫んで、浪人者は立ち、飯台をまわってこっちへ来た。鉄次は動かなかった。左右の客は慌てて脇へよけ、向うから女の一人がとんで来た。女がなにか叫び、浪人者は鉄次に殴りかかった。鉄次はなにもせず、浪人者は片手で(鉄次の)襟《えり》をつかみ、片手の拳《こぶし》で頬を殴った。そこへ女がとんで来て、うしろから浪人者を捉まえ、「又野さんおよしなさい、又野さん」と叫びながら、けんめいにひきはなし、鉄次に向って、「済みません、逃げて下さい」と叫んだ。
「このひと酒のうえが悪いんです」と女は云った、「済みませんが逃げて下さいな、つじ[#「つじ」に傍点]さん、またあとで来て下さい」
そのほうがいいだろう。鉄次は財布をそこへ置いて、すばやく外へとびだした。
彼は堀端を歩いてゆきながら、重い怒りが胸に充満しているのを感じた。重さが計れるほどの怒りで、それは殴られたからではなく、浪人者の無神経さと、子供の哀れさに対する怒りだった。すなおに受けたらどうだ、親の貧乏は子供の責任じゃあない、子供を可哀そうだとは思わないのか。「なにが侍だ」と歩きながら彼は舌打ちをした。てめえは酒を飲んでいた、酒を飲む銭で、子供に煮魚の一つも取ってやったらどうだ。それが親っていうものじゃあないのか、「そうじゃあないのか」と彼は口に出して云った。
時刻は早かったが、財布を置いて来てしまったので、鉄次はそのまま家のほうへ向った。新高橋と猿江橋を渡って、鉤《かぎ》の手に、堀端の道をまっすぐゆけばいい。堀の対岸は、軒の低い古びた町家が、ごたごたと並んでい、こちらは武家の小屋敷が続いていた。
「この道も飽きたな」と鉄次は呟いた、「飽きるほど通った、まる七年、この道をとおって帳場へゆき、この道をとおって家へ帰った、まる七年、これからもこの道を往きこの道を帰るんだ、そうして、――」
鉄次は足を停めた。
対岸の町家の灯が、ひき汐で水の少なくなった堀に映っていた。彼はその、水面に映っている灯を眺めながら、「そうして一生終っちまうんだ」と呟き、力のない太息《といき》をついた。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
考えてみるとつまらないものだ、と鉄次は思った。人間なんて哀れな、つまらないようなもんだ。あくせく稼いでも、運の悪い者は一生貧乏に追われどおしだし、金を儲《もう》けて贅沢《ぜいたく》をしてみたところで限りがある。将軍さまだって寐《ね》るひろさは定ってるだろうし、ひとかたけに十人前は喰べられやしない。同じ仕事を同じように繰り返して、右往左往して、そして老いぼれて、死んでしまうんだ。
「つまらねえもんだ」と鉄次は呟いた、「人間の一生なんてはりあいのないもんだ」
そうして、また歩きだそうとして、けげんそうに首をかしげ、「つじ[#「つじ」に傍点]さんだって」と呟きながら、空のどこかを見た。
「誰かつじ[#「つじ」に傍点]さんて云ったようだが」彼はまた首をかしげた、「いや、聞き違いじゃあない、たしかに誰かつじ[#「つじ」に傍点]さんと云った、あれは相川町にいた七八つじぶんの呼び名で、もう二十年あまりも呼ばれたことがないし、この辺で知っている者もない筈だ、――しかしたしかにたしかに誰か、つじ[#「つじ」に傍点]さんって」
鉄次は口をあいた。空のどこかを見あげて、口をあいたまま、暫くじっとしてい、「そうだ」とやがて頷いた。あの女だ、浪人者を抱き止めたあの居酒屋の女だ、たしかに「あの女がつじ[#「つじ」に傍点]さんと云った。
「誰だろう」鉄次は歩きだした、「きっと昔のおれを知っているんだろうが、誰だろう」
明くる日の夕方、――
鉄次は仕事の帰りに、扇町のその居酒屋へいった。日の長い季節で、外はまだ明るく、店の中もまだ客は疎らだった。ゆうべの、隅のほうに腰を掛けると、注文を訊きに来た小女が、「あらゆうべの親方ね」と云った。酒と肴をそう云い、あたりを見まわしたが、小女が三人いるだけで、若い女たちの姿は見えなかった。
――酒の客が来るじぶんに出るんだな。
化粧などしていたから、たぶんそんなところだろう、と鉄次は思った。まもなく、小女が酒肴といっしょに、財布を持って来て、「あのまま手をつけずにおいたから、調べてもらいたい」と云った。鉄次は頷いて、財布をふところに入れ、「ゆうべの姐《ねえ》さんはどうした」と訊いた。
「もうすぐに来ます」と小女は云った、「いま着物を着替えてるからすぐです」
「名前はなんていうんだ」
「姐さんのですか」と小女は笑った、「本当の名前かどうか知らないけど、ここではお梶《かじ》姐さんていうの、いやだ親方、おかぼれね」
そして笑って、ぶつまねをした。
――お梶、覚えのない名だな、お梶。
鉄次は飲みはじめた。彼は早く女に会って、それが誰だか慥《たし》かめてみたかったし、同時に、あまり早く慥かめるのが惜しくもあった。お梶という名に記憶はない、むかし遊んだ、女の子は幾人もいたが、おそらくその内の誰かにちがいない、誰だろう。そう思っていると、絶えて久しく、気持に張りができ、心たのしくうきうきするようであった。
鉄次が三本めをあけたとき、帳場の脇に女の姿があらわれ、小女になにか云われてこっちを見た。鉄次は気づかないふりをし、女は髪へ手をやりながら、こっちへ来た。鉄次はようやく眼をあげ、女は差向いに腰をかけて、微笑した。――すらっとした躯つきで、おも長な顔に少し険があり、微笑したとき、右側にある八重歯が、眼立って見えた。
「わかって、――」と女がまた微笑した。
「わからない」と彼が云った、「その八重歯に覚えがあるようだが、まあ一ついこう」
「お酒ですか」と女は盃を受取った、「いまから飲むと酔っちまうわね」
「相川町は相川町だろう、誰だっけな」
「薄情ね、はい御馳走さま」と女は盃を返し、酌をしながら鉄次をにらんだ、「あたしはすぐにわかったわ、いらしったのは気がつかなかったけれど、又野さんのどなり声でこっちを見たとき、その横顔ですぐにつじ[#「つじ」に傍点]ちゃんだなって思った、横顔はあのじぶんのまんまよ、あたしびっくりしちゃったわ」
「誰だっけな、思いだせないな、誰だっけ」
「いいわよ、召上れ」と女は酌をした、「あたし教えないから、思いだすまでここへ来てちょうだい、ふふ、面白いな」
そして、八重歯を見せて笑った。
いいだろう、それもよかろう、と鉄次は頷いた。二度か三度会えば、きっと思いだすにちがいない、そういうことにしよう。きっとね、それまでお梶って呼んでくれればいいわ、と少はあやすように笑った。
「それにしても」とやがて女が云った、「ゆうべどうしてあんなことをしたの」
「あの浪人者は馴染か」
「ときたま来るだけよ、酒乱ってほどじゃないけれど、酔うとわからなくなるの」と云って、女は彼をみつめながら、首を振った、「でもゆうべのあれはいけないわ、あれは貧乏人の気持を知らないやりかたよ」
「おれが貧乏を知らないって」と彼も首を振った、「おれは子供が可哀そうだったんだ、子供が可哀そうで、見ていられなかっただけだ」
「子ぼんのうなのね、可笑《おか》しい」と女は笑った、「つじ[#「つじ」に傍点]ちゃんが子ぼんのうだなんて可笑しいわ、いまお宅には幾人いるの」
「子供か、――子供なんかないさ」
「女房もない、ってね」と女は的をした、「こうみえてもあたしだって二人あるのよ、隠すことはないでしょ」
「一人もないんだ」と彼は眼をそむけた、「三度できたんだけれど、三度とも流産しちまった」
女は「まあ」といった。
「おてい[#「てい」に傍点]さん丈夫そうだったのにねえ」
「あいつのことも知ってるのか」
「あのひと丈夫そうだったわ、あんたが悪いのよ、きっと」
「おまえおてい[#「てい」に傍点]を知ってるのか」
「並木河岸のことだって知ってるわ、一つちょうだい」と女は盃に手を出した、「あの逢曳《あいびき》のことだってちゃんと知ってるんだから」
鉄次は困ったような顔をしながら、女に酌をしてやった。困ったような、照れたような顔つきであった。
女は話し続け、鉄次は黙って聞いていた。深川の並木河岸、人家の少ないところで、河岸とは反対側の道ばたに、並木があった。木はなんだったかしら。横に枝がひろがっていて、夏になると木蔭が暗くなるくらいだった。あんたたちそこで逢曳したじゃないの、と女は云った。いつも夕方で、木蔭は暗かった。おてい[#「てい」に傍点]さんは木場の伊勢屋に奉公していたから、ぬけて来てもゆっくりはできない、あんたはいっときでも長く留めておきたい。それで口論をして、よくおてい[#「てい」に傍点]さんを泣かせたものだ。そうでしょ、そのとおりでしょ、と云って女は笑った。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
――誰だろう、いったい誰だろう。
鉄次は女が誰だかわからなかった。並木河岸のことまで知っているとすると、範囲はずっと狭くなる。「つじ[#「つじ」に傍点]」というのは鉄次の「て」を取った幼い呼び名で、そのじぶんの友達は、(こっちが引越してしまったから)並木河岸のことは知らない筈である。とすると誰だろう、どこの誰だったろう、と鉄次は繰り返し思った。
彼は毎日その店へ通った。梅雨があがり、六月が過ぎた。
「このごろあんた、ようすが変ったわね」
或る夜、おてい[#「てい」に傍点]がそう云った。
おてい[#「てい」に傍点]は六月のはじめに床上げをしたが、躯に精がないようで、顔色も冴《さ》えないし、よくこめかみに頭痛|膏《こう》を張っていたりした。鉄次は毎晩のように帰りがおそかった。お梶と飲んでいると楽しい、お梶が「誰だったか」ということはまだわからなかったが、わからないことも肴の一つになった。話題も多いし、その話題のきりかえも巧みで、いくら話していても飽きない。それはたぶん、二人のあいだにいろめいた気持がなかったからであろう。ふしぎなくらい、二人ともさっぱりしていて、なんのこだわりもなかった。
「たしかに変ったわ」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「まるでいいひとでもできたようだわ」
「このごろ長を見かけないな」と鉄次はおてい[#「てい」に傍点]の顔を見た、「多助は牢から出て来たのか」
「話をそらすのね」
「わかったよ」興もないというように、彼は手を振った、「多助はまだ出て来ないのか」
「あんた長坊を見るわけがないじゃないの、朝は早いし帰るのはいつもおそいし」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「多助さんなら牢脱けをしたわ」
鉄次は眼をみはり、「牢脱けだって」とおてい[#「てい」に傍点]を見た。「六月はじめだったかしら、浅草の溜《ため》(病牢)へ送られる途中で、逃げたんですって」
「多助が」と彼は呟いた、「あいつがか」
「おみよ[#「みよ」に傍点]さんは番所へ呼ばれるし、この長屋へは張込みがあるし、長坊は少しまえから寝ているし、騒ぎだったわ」
「それで、多助はまだ捉《つか》まらないのか」
おてい[#「てい」に傍点]は微笑しながら、良人の眼をみつめていた。鉄次は「なんだ」といった。
「なんでもないけど、なぜ今夜に限って、そんなに多助さんのことを気にするの」
彼はおてい[#「てい」に傍点]の微笑する意味がわかった。
「ほかに話すことでもあるか」と鉄次はやがて、仰向けに寝ころんだ、「ほかになにか面白い話でもあるなら聞かしてくれ、なにかあるのか」
おてい[#「てい」に傍点]は黙った。ながいこと黙って、身動きもしずにいた。鉄次がそっと見ると、おてい[#「てい」に傍点]は前掛で顔を掩《おお》っていた。
「あんたはまだ、あのことを怒っているようだけれど」とおてい[#「てい」に傍点]が低い声で云った、「あたしがどんな気持でいるか、考えてくれたことはないの」
「済んだことはよしにしよう」
「あれはあたしにも子だったのよ」とおてい[#「てい」に傍点]は云った、「あんたも悲しいでしょう、子供の好きなあんたが、三度ともだめになったんだから、口惜しいことはよくわかるわ、でもあたしだってどんなに辛いかしれやしない、三度もみごもって、そのたんびに、おなかの子が流産してしまう、こんどこそと思って、できるだけの養生もし神しんじんまでして、それがまただめになってしまう、――流産して、ぺしゃんこになったおなかを撫でながら、あたしがどんなおもいをしたかあんたわかって」
鉄次は心の中で「ぺしゃんこか」と呟き、その言葉の可笑しさに笑いたくなった。
「あんたは仕事もあるし、酔って気をまぎらせることもできるわ」とおてい[#「てい」に傍点]は続けた、「でも、あたしには仕事もないし、酔うほどお酒も飲めない、独りでうちにいて、独りでぼんやり考えているだけよ、頼りにするのはあんただけだけれど、――そのあんたもはなれてゆくばかりだわ」
「おれが、どうしたって」
「はなれてゆくばかりよ、わかるわ」とおてい[#「てい」に傍点]は云った、「こんどの子供を産むことができたら、もういちど昔のようになれるかもしれないと思った。それもだめになってしまったし、もうあたしどうしていいんだかわからないわ」
「云いたいように云うさ、勝手な勘ぐりの相手はできやしない」
「まえにはそんなふうには云わなかったわね」
「おれはもう三十一だぜ」
「まえにはこんなじゃあなかったわ」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「ねえ」と良人のほうを見、静かに鳴咽《おえつ》した、「云ってちょうだい、あたしたちもうだめなの」
「なにが不足なんだ」と鉄次は仰臥《ぎょうが》したまま訊き返した、「なにが不足でそんなことを云うんだ、おれにどうしろってんだ」
「不足だなんて云って」とおてい[#「てい」に傍点]は泣きだした、「あたしはただ、昔のようなあんたになってもらいたいだけだわ」
鉄次は口をつぐみ、おてい[#「てい」に傍点]の泣く声を暫く聞いていて、それから云った。
「おまえだって昔のおまえじゃあないぜ」
おてい[#「てい」に傍点]はせつなそうに泣いていた。
それからつい数日して、鉄次はお梶から「遠出をしないか」と誘われた。草市の夜で飯台の上にほおずき[#「ほおずき」に傍点]を挿《さ》した小さな壺があり、そのほおずき[#「ほおずき」に傍点]はお梶が草市から買って来、彼に見せるために挿したのであった。
「あたしだってたまに息抜きがしたいわ」とおが云った、「つじ[#「つじ」に傍点]さんとなら間違いはないし、二日ばかり暢《のん》びり、どこかへいって来たいんだけれど」
「おれとなら間違いがないって」
「あんたはそんなことのできないたちよ、あたしの眼に狂いはないんだから」とお梶はまじめに云った、「それにあたし、男はもうたくさん、道楽者の亭主を持って懲り懲りしちゃったわ、子供を二人ひったくって別れちゃったけれど、男なんてもうまっぴら御免よ」
「そんな話は初めて聞くな」
「亭主のことを話すと、――」とお梶は首をすくめた、「あたしが誰だかってことがわかるかもしれませんからね」
「見当はその辺か」
「ねえ、二日ばかりでかけましょうよ」とお梶があまえた声で云った、「そんなにおかみさんの側にくっついてばかりいるもんじゃないわ、べつにいやらしいことをするわけじゃないし、二日っくらいぬけられるでしょ」
「息抜きか」と彼が云った、「悪くはないな」
そうだ、そいつも悪くはない、と鉄次は思った。ではどこにしよう、どこかあてがあるのか。江ノ島はどうかしら。江ノ島は二日では無理だろう。それなら川崎はどう。川崎とはまた近すぎるな。うそよ、近ければゆっくりできるじゃないの、ひと晩泊って、お大師さまへおまいりをして、ひる寝ぐらいして帰れるでしょ、そうしましょうよ、とお梶が云った。
「遠出をしてひる寝か」と鉄次は笑った、「なるほどいろごとには縁のねえ話だ」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
ゆくさきは川崎、日は中元の翌日、朝の八時に永代橋の西詰で会おう。そういうことに約束がきまった。――その夜、鉄次はいつもより早くきりあげ、うちへ帰ると、おてい[#「てい」に傍点]にそのことを告げた。もちろんお梶とゆくなどとは云えない、「帳場の常吉たちと道了様へいって来る」と、場所も変え、日もよけいに云った。
「道了様っていうと四五日かかるわね」
「三日でいって来る予定だ」
「いつかいったときは四五日かかったでしょ」とおてい[#「てい」に傍点]は云った、「あたしもいきたいな」
「このまえは水戸へまわったんだろう」と彼は話をそらした、「たしか水戸の、大洗へまわった筈だ」
「あたしもいっちゃあいけないかしら」
「常陸まで往復三日だぜ」と彼が云った、「男の足だって楽じゃあねえ、おまえなんかに付いてけるか」
「そうね」とおてい[#「てい」に傍点]は頷いた、「三日じゃあ無理だわね」
鉄次はまた話をそらし、「多助はまだ捉まらないか」と訊いた。おてい[#「てい」に傍点]はそれで思いだしたというふうに、「長坊を貰ったらどうだろう」と云いだした。あの子はあんたにもよくなついているし、うちで貰ってやれば、おみよ[#「みよ」に傍点]さんも故郷へ帰って躯の養生ができる、それに、貰い子をすると「あとができる」っていうじゃないの。うん、そうだな。あたしは貰って育ててみたいわ。そうだな、考えてみよう、と鉄次は答えた。
十五日が中元で、鉄次は午後から扇町へでかけ、(飲みながら)お梶と明日のうちあわせをした。それが済むと、お梶は斜交《はすか》いに彼を見て、微笑しながら、「おかみさん大丈夫」と訊いた。鉄次は「へっ」といった。
「そんな心配は逢曳にでもいく者のするこった」と彼は云った、「こっちは暢びりひる寝をして来ようというくちだからな」
「粋《いき》なもんだわ」とお梶は笑った。
鉄次は灯がはいるとまもなく帰った。
彼は少し気が咎《とが》めた。ほんの少しではあるが、「おてい[#「てい」に傍点]に悪いな」と思い、だが疚《やま》しいことはないので、「ひとをみろ」と自分に云った。ひとは平気で道楽をしているじゃないか、女を囲ってる者だって幾らもいろ。こっちはそんなんじゃない、幼な友達と息抜きに出ようというだけだ、それだけじゃないか、女房には関係のないこった、なにが悪い、と彼は自分で自分に云った。――家へ帰ると、おてい[#「てい」に傍点]が待ちかねたように、「おみよ[#「みよ」に傍点]さんがいなくなった」と知らせた。鉄次はびくっとし、「長はどうした」と訊いた。
「長坊は差配の源さんとこにいるわ」
「じゃあ」と彼は吃《ども》った、「日雇いにいったんじゃあないのか」
「今日はお中元よ」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「それに書置みたいなものがあったの、あたしは読まなかったけれど、亭主があんなことをして、世間に申し訳がないが、子供には罪がないというから、長吉だけは頼む、と書いてあったんですって」
「すると、――」
「ええそう」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「初めはみんなそう思ったの、これは死ぬつもりだなって、けれども」とおてい[#「てい」に傍点]は声をひそめた、「隣りのおきの[#「きの」に傍点]さんが云うの、そうじゃない、多助さんと逃げたらしいって」
鉄次はけげんそうな眼をした。
「そう云うのよ」とおてい[#「てい」に傍点]は良人の眼に頷いた、「証拠はなんにもないけれどそういう気がするって、日雇いに出たさきかなんかで、多助さんと会って、そして駆落ちの約束をしたんだろうって、死ぬんなら子供を置いてゆけるわけがないって、そう云うのよ」
鉄次は考えてみて「うん」と頷き、そうだな、死ぬときは子供は置いてゆけないかもしれない、いっしょに死ぬ気になるだろうな、と呟いた。
――うまくやれ、多助、やってみろ。
鉄次は寝てから、繰り返しそう思った。うまく逃げのびて、夫婦で初めからやり直してみろ、だが博奕だけはやめろ、それでもまだ博奕をするようなら、おまえは人間じゃあない、「人間じゃあねえぞ」と、鉄次は口の中で多助に囁いた。
ずいぶん久しぶりの早寝だったが、おてい[#「てい」に傍点]が明日の弁当の下拵えをしているうちに、鉄次は眠ってしまった。
翌朝、――六時に起きると、弁当も出来、旅の支度も揃《そろ》えてあった。おてい[#「てい」に傍点]は「さきに済ました」というので、鉄次は独りで朝飯を喰べた。喰べ終って、茶を啜っていると、六帖でなにかしていたおてい[#「てい」に傍点]が、「もう済んだの」と云いながら、こっちの四帖半へ出て来た。鉄次は口へ持ってゆこうとした湯呑を、途中で止め、眼をそばめて女房を見た。おてい[#「てい」に傍点]はよそゆきの単衣に、塵除《ちりよ》けの合羽《かっぱ》を着、手甲をはめていた。
「あたしもいっしょにゆくの」とおてい[#「てい」に傍点]は彼に微笑した、「いいでしょ、たまだもの、伴れてってくれるわね」
鉄次は「ばかだな」と笑った。
「おれ一人ならいいが、常吉や徳や、ほかにも三人ばかりいくんだ」と彼は云った、「男ばかりの中へおれだけ女房を伴れてゆけるか」
「だって、いいって云ったもの」
「いいって――誰が」
「常さんよ、あたし常さんに頼んだのよ」とおてい[#「てい」に傍点]が云った。見ると顔が硬ばっていて、声もうわずって聞えた、「あんたがきのう出かけたあとで、燈籠《とうろう》(中元に新吉原で燈籠を飾る)を見にゆこうって、常さんがここへ誘いに寄ったわ、それであたし頼んでみたら、いいって云ったのよ」
鉄次は声をだして笑った。
「なにが可笑しいのよ」とおてい[#「てい」に傍点]が云った。
鉄次は笑って、湯呑を置き、「知恵くらべか」と云った。知恵くらべなら負けないぞ、と云い、立ちあがって三尺をしめ直した。
「知恵くらべってなによ」おてい[#「てい」に傍点]は顔をひきつらせた、「あたしはただ、伴れてって下さいって、云っただけじゃないの」
「そうだろう、たぶんそうだろう」
「それがなぜ知恵くらべなの、だめならだめって云えばいいでしょ」とおてい[#「てい」に傍点]は声をふるわせた、「どうするの」
「歩きに出るのさ」と鉄次は土間へおりながら云った、「おめえいきたければ常といって来てもいいぜ」
そして彼は外へ出た。
外へ出たが、(朝の六時すぎで)ゆくあてはなかった。ふと思いついて、差配の家へ寄り、長吉を伴れだした。源兵衛の女房の話によると、子供ごころに諦《あきら》めているのだろう、ひと言も母親のことは口にせず、ゆうべも温和《おとな》しく独りで寝たし、朝飯も行儀よく喰べた。「見ていていじらしいくらいだった」と云った。
長吉は嬉しそうに、鉄次といっしょに外へ出た。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
鉄次は枝川に沿った道を、ゆっくり歩いていった。長吉は彼により添うように、黙って歩いていた。
「長、――」と彼が振向いた、「抱いてってやろうか」
「へえき」と長吉が答えた。
鉄次はおてい[#「てい」に傍点]に怒っていた。
なぜ知らん顔をしていなかったんだ。どうして黙ってゆかせなかったんだ、と彼は心のなかで云った。なんでもありゃしない、やきもちをやいたり、そんなふうに邪魔をする必要はなかった、うっちゃっといてくれればよかったんだ。
「小父ちゃん」と長吉が云った。
「なんだ、――」
「なんでもない」と長吉が云った、「お手てをつないでもいいか」
「さあ」と彼は手を出し、長吉はそれをぎゅっと握った、「なにかお菓子を買うか」
「へえき」と長吉は首を振った。
堀端の道は静かで、あまり往来の人もなかった。彼は、長吉が強く自分の手を握っているのを感じ、そして、心のなかで思った。そっちがそんなふうにするなら、おれはおれで好きなようにする、気づかれずに浮気をするくらいの知恵はあるんだ。――やってみるか、おまえの知恵で、(今日やったように)おれの浮気が封じられるかどうか、やってみようか、と彼は心のなかでおてい[#「てい」に傍点]に呼びかけた。
これまでおれは、一度だって不実なまねをしたことはない。つきあいだから茶屋酒も飲むし、なか[#「なか」に傍点](新吉原)へゆくことだってある、しかしおまえに不実なことは一遍もしなかったし、それはおまえが知っている筈だ。そんな、そのときばったりのいろごとができない性分だということは、おまえがよく知っている筈じゃないか、そうじゃないのか、と彼はおてい[#「てい」に傍点]に問いかけた。
「小父ちゃん」と長吉が云った。
「どうした」と彼は振向いた、「くたびれちゃったか」
「だいじょぶ」と長吉は首を振り、堀のほうを指さした、「この川で塩びき[#「びき」に傍点]がとれるか」
「そうさな」と彼が云った、「――長は塩鮭が好きか」
「どっちでも」と長吉が云った。
鉄次は空を見あげた。空は薄曇っていて、あたりは靄《もや》でもかかったように、堀の石垣も、対岸の家並もぼんやりと、もの憂そうにみえた。
――薹《とう》の立ったような気持だ。
と彼は思った。薹の立ったような、疲れたような気持だ。まる七年、まる七年の余も、この道を往きこの道を帰った。喰べて寝て、この道を往ったり帰ったりして、いったいなにが残った。これからも、同じことを繰り返すだろう、死まで同じことの繰り返しだ、死ぬまでだ、わかるか。
――おれは息抜きがしたい。
この繰り返しにはうんざりする、と鉄次は心のなかで呟いた。おれは息抜きがしたかった。お梶と二日ばかり遠出をすれば、少しは気が変るかと思った。それだけだ。お梶のほうにもいろけなんぞはなかったし、おれにもそんな気持は少しもなかった。これっぽっちもなかったんだ。
橋を渡り、また橋を渡った。
「小父ちゃん」と長吉が云った、「おしっこ」
鉄次は「よし」と云い、堀端へ伴れていって、うしろから肩を押えてやった。長吉は巧みに用をたした。子供の肩を押えてやりながら、彼はふと、そこが並木河岸だということに気づいた。
こちら側には(あのころと同じように)材木が積んであり、河岸に沿って、三町ばかり向うまで並木が続いている。その木は「さいかち」というのだそうで、黒みを帯びたこまかい葉の、びっしりと付いた枝が、横へひろく、重たげに腕を伸ばし、ひと並びに暗い木陰をつくっていた。
鉄次は胸の中で、横笛の音が聞えるように思い、惘然《もうぜん》と、その並木を眺めやった。
――おてい[#「てい」に傍点]。
と彼は心のなかで云った。
二人はそこでたびたび逢った。そこの、向うの、こっちから五本めの木蔭がそれだ。おてい[#「てい」に傍点]が先に来ていることもあり、用があって、おくれて来て、すぐに帰ったこともある。その向うの五本めの木蔭だ。おれが仕事の都合でおくれて、駆けつけて来ると、あいつはその木に凭《もた》れていて、いってみると泣いていたことがあった。どうしたんだ、と云ったら、とびついて来て、「ああよかった」と云った。ああよかった、もうあんたは来てくれないのかと思ってたのよ、「うれしい」と云って、おれにしがみついた。しがみついて泣いた。いまでもはっきり思いだせる、「うれしい」と云って、あいつはおれにしがみついて泣いた。
「小父ちゃん」と長吉が云った、「もういい」
彼は「よし」と云った。
「少し休もうかな」
長吉はこっくりをした。
「そこで休もう」と彼は材木の積んであるほうへ、長吉を伴れていった、「ここで少し休んで、それからなにか買いにゆこう」
二人は材木の上へ腰をかけた。
空の荷車を曳いた、老人が一人、ゆっくりと二人の前をとおり過ぎた。鉄次は膝《ひざ》の上へ左右の肱《ひじ》を突き、俯向いて、両手で額を支えた。――ああ、と彼は溜息《ためいき》をついた。力のぬけた、うつろな溜息であった。長吉はおとなしく腰かけていて、それからぼんやりと、なにかの唄をうたいだした。しかし、うたいだすとすぐに、唄をやめて彼の袖《そで》を引いた。
「小父ちゃん」と長吉は囁いた、「小父ちゃん、見なよ、小母ちゃんだよ」
鉄次は「うう」といった。
「見なったらさ」と長吉は彼を小突いた、「ねえ、見てごらんたら、小父ちゃんちの小母ちゃんが来たよ」
鉄次は「うん」といい、それからふいと顔をあげた。長吉が向うを指さした。
向うからおてい[#「てい」に傍点]の来るのが見えた。
彼女の好きな鳴海絞りの単衣に、白い献上博多をしめていた。俯向いて、放心したような足どりで、一歩、一歩、ひろうように、ゆっくりとこっちへ来る。脇へは眼も向けず、俯向いたままでこっちへ来て、二人の前をとおりすぎ、そうして、あの(五本めの)木蔭で立停った。
鉄次は黙って見ていた。石にでもなったように、身動きもせずに、黙って、おてい[#「てい」に傍点]の姿を見まもっていた。おてい[#「てい」に傍点]はその木蔭にはいり、木の幹へ両手を当てて、凭れかかった。
――鉄次はじっと見まもっていた。彼の額が蒼白《あおじろ》くなり、眉がしかんだ。長吉が「小父ちゃん」と呼びかけると、彼は手を振り、眼で「黙ってるんだ」というふうに子供を見た。「すぐ来るからな」と彼は云った、「すぐに来るから、ここで待ってな」
長吉は「うん」と頷いた。
鉄次は立ちあがって、静かにそっちへ歩いていった。おてい[#「てい」に傍点]は気づかなかった。彼は側へよって、そっと肩へ両手をかけた。おてい[#「てい」に傍点]はとびあがり、振返って、彼を見ると、「お」と大きく口をあけた。
「いいよ、なんにも云うな」と彼はしゃがれた声で云った、「わかってる、わかってるよ」
「あんた初めてでしょ」とおてい[#「てい」に傍点]は彼にしがみつき、嗚咽しながら云った、「あたしはときどき来るの、ときどきここへ来ていたのよ、ここへ来て、この木の蔭で、――」
「わかった、泣かないでくれ」と彼はおてい[#「てい」に傍点]の肩を両手で押えた、「向うに長坊がいるんだ、長が見ているから泣かないでくれ」
「あんた」とおてい[#「てい」に傍点]が云った。
「長坊を引取ろう」と彼は云った、「長を引取って、三人で、――」
「あんた」とおてい[#「てい」に傍点]は彼の胸にかじりついた。
鉄次は振返り、長吉に向って手招きをした。長吉は立ちあがり、不決断に、そろそろと、こっちへ歩いて来た。
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「オール読物」
1956(昭和31)年8月号
初出:「オール読物」
1956(昭和31)年8月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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《》:ルビ
(例)撫《な》
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(例)四|帖《じょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
路地をはいろうとした鉄次は、その角の「なんでも屋」の軒下に、長吉がいるのを認めて立停った。五つになる長吉は、軒下に立ったまま、ぼんやりと店の中を眺めていた。
「どうした、長」と彼は子供の頭を撫《な》でた、「なにをそんなに見ているんだ、なにか欲しいのか」
長吉は首を振って、「ちゃんを待ってるんだ」と云った。ひどくもったいぶった口ぶりで、それから急に「飴《あめ》ん棒」と云った。長吉の父親は博奕《ばくち》で御用になり、もう六十日あまりも牢《ろう》にはいっていた。
「飴ん棒か、よし」と彼は財布から銭を出して、子供の手に握らせた、「これで買ってきな、もう暗くなるからうちへ帰るんだぜ」
「おっかあを待ってるんだ」
「そうか」と彼は頷《うなず》いた、「そんなら、もしも帰りがおそかったら、小父ちゃんちへ来ていな、遊んでやるからな」
「小父ちゃんちはだめだって」
「なにがだめだ」
「だめだって」と長吉が云った、「慶ちゃんちのおばさんがだめだってよ」
そして彼は店の中へはいっていった。
鉄次は路地へはいってゆき、井戸端にいる人たちと挨拶を交わして、自分の家の戸口へ、「いま帰った」と云いながらはいった。すると、障子をあけたのは隣りのおきの[#「きの」に傍点]で、静かに、という手まねをし、「お帰んなさい」と云った。鉄次は長吉の云ったことを思いだした。おきの[#「きの」に傍点]は慶太の母親である。彼はなにかあったのかとけげんそうにおきの[#「きの」に傍点]を見た。
「いま手拭を出すから、そのまま湯へいってらっしゃい」とおきのが低い声で云った、「そのあいだに晩の支度をしておくわ」
「うちのやつ、どうかしたんですか」
「大きな声をしないで」とおきの[#「きの」に傍点]が手を振った、「いまやっと眠りついたところなのよ、静かにしてちょうだい」
鉄次は口をつぐんだ。おきの[#「きの」に傍点]はすり寄って、彼の耳へそっと囁《ささや》いた。鉄次の口があき、顔がきゅっと硬ばった。彼は右手で、着物の上から、ふところを押えた。
「あとの心配はないそうだけれど」とおきの[#「きの」に傍点]は云った、「躯《からだ》がすっかり弱っているから、よほど大事にしないと、気でまいってしまうって医者が云ってましたよ」
「どうも、とんだ世話になって、済みません」
「湯へいってらっしゃい」とおきの[#「きの」に傍点]は立ってゆき、手拭を持って戻って来た、「晩の支度をしておくけれど、なにか注文があったら云って下さいな」
その心配はいらない、どこかで喰《た》べて来ようと、鉄次は云って、逃げだすように外へ出ていった。彼の顔はいまにも泣きだしそうに歪《ゆが》み、口の中で「またか、またか」と呟《つぶや》いた。路地の角に長吉がいて、「小父ちゃん」と呼びかけ、持っている飴ん棒を見せたが、彼はちょっと眼をくれただけで、ふらふらと四ツ目橋のほうへ歩いていった。
鉄次は足の向くままに歩いた。頭のどこかで、湯屋へゆくんだ、と思いながら、すっかり昏《く》れてしまうまで歩きまわり、それから、ゆきつけの「豊島屋」という居酒屋へはいった。それが同じ町内の、なじみの店だということは、中へはいってから気がつき、そこには知りあいの者が幾人も飲んでいるのを認めた。
――近まわりをうろついてたんだな。
鉄次は隅のほうの(いつもの)場所へ腰をかけた。じぶんどきのことで、店は混んでいた。三人ばかりが彼に声をかけたが、彼はそっちを見ただけで、返辞はしなかった。
――多助はいつ牢から出るだろう。
と彼は思った。小女《こおんな》がはこんで来た酒と肴《さかな》を前に置いて、独りでぼんやり飲みながら、彼は多助の家族のことを考えた。五つの長吉を抱えて、多助の女房のおみよ[#「みよ」に傍点]は日雇《ひよう》取りをしている。おみよ[#「みよ」に傍点]は躯が弱かったが、賃仕事ではやってゆけないので、三日いっては二日休むというふうにしながら、親子二人でかつかつ暮していた。多助は船宿の船頭で、かなりいい稼ぎをするらしいが、博奕のために身が持てず、御用になったのは三度めであった。船宿の親方の奔走で二度までは「叱り」で済んだけれども、三度めにはお裁きを受け、ついに牢屋へ入れられてしまった。
「だめだ、博奕はだめだ」と彼は口の中で呟いた、「博奕につかまったらおしまいだ、出て来ても多助はまたやるだろう、同じこった、夫婦別れをするよりしようがねえさ」
若者が一人、盃《さかずき》を持って来て、鉄次の側へわりこんだ。
「鉄あにい」と若者は持っている盃をさし出した、「ひとつ、――」
鉄次は彼を見、彼の盃を見て、首を振った。若者は酔っているらしい、鉄次の冷淡な眼には気がつかず、盃をさし出したまま、なお酒をせがんだ。鉄次の額に癇癪《かんしゃく》筋がふくれ、彼は高い声でどなった。
「うるせえ」と鉄次は云った、「酒ぐらいたまには手銭で飲めねえのか」
声が高かったので、店の中が急にしんとなり、殆んどいっぱいの客たちが、話をやめてこっちを見た。
「わかったよ」と若者は云った、「わかったよ、おめえ機嫌がわるいんだな、鉄あにい、そうとは気がつかなかったんだ、勘弁してくれ、悪かったよ」
鉄次はそっぽを向いた。若者は立って向うへゆき、元の伴れといっしょになった。鉄次は恥ずかしさで顔がほてり、小女を呼んで勘定を命じた。
それからさらに三軒ばかり飲んでまわり、十時ちかくになって、鉄次は家へ帰った。雨戸が閉っているので、それをあけていると、隣りの勝手口があいて、おきの[#「きの」に傍点]が顔を出した。
「ずいぶんおそかったのね、どこの湯へいってたの」とおきの[#「きの」に傍点]が云った、「お膳《ぜん》は拵《こしら》えてありますよ」
鉄次は低い声で礼を云った。
「あたしいま帰ったところよ」とおきの[#「きの」に傍点]が云った、「おてい[#「てい」に傍点]さんよく眠ってるから、なるべく起こさないようにして下さいな」
鉄次は家へはいり、あとを閉めた。
四|帖《じょう》半《はん》と六帖のふた間で、六帖のほうに蚊帳が吊《つ》ってあり、暗くしてある行燈の光りで、おてい[#「てい」に傍点]の寝姿がぼんやりと見えた。鉄次は四帖半に置いてある食膳を眺め、掛けてある布巾へ手をやろうとした。すると、蚊帳の中からおてい[#「てい」に傍点]の呼びかける声がした。
「お帰りなさい、おそかったわね」
「うん」と彼は云った、「いま帰った」
そして水を飲むために、勝手のほうへいった。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
水を飲んで戻った鉄次は、蚊帳へはいって、着替えはせずに、自分の寝床へ横になった。そう暑い晩ではなく、蚊帳のまわりで、蚊のうなりが聞えていた。
「あんた」とおてい[#「てい」に傍点]が呼びかけた。
「わかってる」と彼が遮《さえぎ》った、「いいから寝よう」
「怒ってるの」
「酔ってるんだ」と彼は云った、「寝よう」
そして彼は寝返りをうった。
鉄次はよく眠り、おきの[#「きの」に傍点]が戸を叩く音で、ようやく眼をさました。外は明けたばかりで、おきの[#「きの」に傍点]と入れちがいに井戸端へ出ると、霧のような雨がけぶっていた。――彼は顔を洗って戻り、「飯は外で食うから」とおきの[#「きの」に傍点]に断わって、手早く着替えをした。帯を解いたとき、ふところからなにか足元へ落ちた。鉄次はそのまま着替えをして、ふと足に触ったので見おろし、どきっとしながら慌てて拾った。それは二寸に三寸ばかりの、平たい奉書包で、彼はふところへねじこむと、おきの[#「きの」に傍点]にあとを頼んで、すぐに家をとびだした。
「まだ早すぎるわよ」とおきの[#「きの」に傍点]が呼びかけた、「こんなじぶんにいってどうするの」
鉄次は傘も持たずに路地を出ていった。
竪川の岸へ出ると、彼はふところから(さっきの)奉書包をとりだし、二つに引裂いて川へ捨てた。それは昨日、――仕事を少し早くしまって、水天宮までいって貰ってきた御守りであった。彼は水面を見やり、引裂かれた御守りが、ゆっくりと、大川のほうへ流れてゆくのを眺めながら、「ひき汐《しお》だな」とぼんやり口の中で呟いた。そこへ、おきの[#「きの」に傍点]が傘を持って追って来た。
「どうしたのさ」とおきの[#「きの」に傍点]が云った、「傘も持たずにとびだしらまってどうするの」
「なに、霧雨だから」
「鉄さん」とおきの[#「きの」に傍点]が傘を渡しながら彼を見まもった、「あんた、まさかあのことで、――」
鉄次は川のほうへ手を振った。
「いまあれを流したんだ」と彼は云った、「あそこを流れてるだろう、水天宮の安産の御守りだ」
おきの[#「きの」に傍点]は鉄次の顔をみつめ、それから眼をそらした。鉄次は「とんだお笑い草さ」と喉《のど》で笑い、「傘を済まなかった」と云って、四ツ目橋のほうへ歩み去った。
鉄次の黙っている日が続いた。
彼は船大工で、帳場は深川平野町にあった。本所の家からは、歩いて四半刻あまりかかるが、二十四でおてい[#「てい」に傍点]と世帯を持って七年、枝川の河岸に沿ってゆく道は、眼をつむっても歩けるほど馴れていた。――鉄次は十三の年に「相留」というその船大工の弟子にはいり、いまではいちばん年長で、仕事場のことはすっかり任されていたし、ちかごろでは、自分で道具を使うようなこともなく、職人たちに指図をしていればよかった。
鉄次はもともと口が重く、どっちかというとぶあいそな性分だったが、あの日からさらに無口になり、仕事場の職人たちはぴりぴりしていたし、家ではおてい[#「てい」に傍点]が、腫《は》れ物にでも触るような眼で、彼を見ていた。おてい[#「てい」に傍点]は寝たまま、他人の世話になっているのと、彼がなにを思っているのか見当がつかないのとで、暫くは話しかける勇気もなく、心のなかでおろおろしながら、いまにもなにか恐ろしいような事が起こるのではないかという、不安な気分で、彼のようすを見ているばかりだった。
あのことがあってから五日めの夜、――鉄次が帰って来て、蚊帳の中で横になってから、珍しくおてい[#「てい」に傍点]のほうを見て、「ぐあいはどうだ」と訊《き》いた。おてい[#「てい」に傍点]は救われたように、良人《おっと》に向って微笑した。
「だいじょぶよ」とおてい[#「てい」に傍点]は云った、「今日お医者が来て、順調だって云ってたわ」
鉄次は「そうか」と云った。
「ごめんなさいね」と暫くしておてい[#「てい」に傍点]が云った、「すっかり不自由をさせちゃって、――起きたら取返しをつけるから、もう少し辛抱して下さいね」
「誰か雇ったらどうだ、おきの[#「きの」に傍点]さんに悪いだろう」
「そう思うんだけれど」とおてい[#「てい」に傍点]は気弱く笑った、「あたし人を使うことが下手だから」
「悪くなければおきの[#「きの」に傍点]さんでいいさ」
「いつもこっちでしているし、治ったらお礼をすればいいでしょ」と云って、おてい[#「てい」に傍点]はさぐるように良人を見た、「でも、――もしかしてあんたがいやだったら」
「おまえがよければいいんだ」
と云って、鉄次は仰向けに寝返った。
そのまま時間が経ち、長屋のどこかで子供の泣く声が聞えた。隣りも向うも寝しずまっているので、その泣き声はかなりはっきりと、高く聞えた。鉄次は「長だな」と思った。長吉の声らしい、こんな時刻にどうしたんだ、そう思っていると、おてい[#「てい」に傍点]が低い声で「あんた」と呼びかけた。
「あんた、堪忍してね」
鉄次は黙っていた。
「まだ怒ってるの」とおてい[#「てい」に傍点]は云った、「堪忍してくれないの、あんた」
「その話はよせ」
「堪忍してくれないのね」
鉄次は黙っていた。そのまま沈黙が続き、やがて子供の泣き声も聞えなくなった。
「云って下さい」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「あたしどうすればいいの」
鉄次はやはり黙っていた。
「ねえ、云ってよ、はっきり云って、あたし覚悟はできてるんだから」とおてい[#「てい」に傍点]が含み声で云った、「ねえ、あたしたちもうだめなの」
「ばかなことを云うな」
「あんたは勘弁してくれないもの」とおてい[#「てい」に傍点]は乾いた調子で云った、「初めのときも二度めのときも、あんたはもっとやさしかったし、慰めてもくれたわ、覚えてるけど、あんたは云ったわ、おまえのせいじゃない、おまえが悪いんじゃないって」
「じゃあ誰が悪いんだ、おれか」と鉄次が云った。抑えてきた怒りが手綱を切ったような、激しくするどい声で、自分でも吃驚《びっくり》したのだろう、「もうよしてくれ」と少しやわらいだ声で付け加えた。
「おれはべつに怒ってやしない、いまさら怒ったってどうなることでもありゃあしない、つまらないことを云うな」そして彼は反対のほうへ寝返った、「もうおそいぞ、寝よう」
おてい[#「てい」に傍点]はじっとしていた。蚊帳のまわりで蚊のうなりが聞え、勝手の下あたりで、もの憂げになにかの地虫が鳴いていた。
「変ったわ、すっかり変っちゃったわ」とおてい[#「てい」に傍点]が低いかすかな声で囁いた、「まえにはこんなじゃなかったのに、もうあんなふうにはいかないのね」それからやや暫くまをおいて、ごく細い弱よわしい声で云った、「――どうなるのかしら」
鉄次はなにも云わなかった。
「どうなるのかしら」とおてい[#「てい」に傍点]が囁いた、「もうあたしたち、だめなのかしら」
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
深川扇町の、名も知れない居酒屋で、鉄次は飲んでいた。「豊島屋」で気まずいことがあってから、彼はそのときばったりの、知らない店で飲むようになり、その店もその晩が初めてだった。堀に面した、ちょっとした構えで、土間には三四十人もはいれるし、上に四つばかり小座敷もあった。天床にははちけん[#「はちけん」に傍点]が二つも吊ってあるので、店の中は明るく、板場からながれて来る煮焼きの匂いと、いっぱいの客の人いきれと、そこで話したり笑ったりする高声とで、酔わないうちに頭がぼうとなるようであった。
小女が三人、若い女が三人ばかりいるな、と鉄次は思った。若い女は白粉《おしろい》などを塗って、これは馴染の客の相手をするらしい。鉄次のところへは小女が来て、注文を聞き、それを運んで来、いちど酌のまねをするだけで、側に付いている者はなかった。――もちろん、彼にはそのほうが勝手で、まわりの客たちの話すのを、ぼんやりと聞きながら、いつもより気持よく、三本ばかり飲んだ。たしかに、いつもより気持よく飲んでいたが、そのうちに、彼の前へ中年の浪人者が来てから、急に機嫌の変るのが、自分でもわかった。
浪人者は年のころ三十六七で、汚れてはいないが継ぎの当った単衣《ひとえ》を着、躯つきは固ぶとりだが、顔は細おもてで、人を見くだすような、たかぶった、きざな眼をしていた。
――いやな野郎が来やがった。
鉄次はそう思い、なるべくそっちを見ないようにしながら、飲んでいた。
すると暫くして、小さな子供の声が聞え、見ると浪人者の脇に、五つばかりの子供が腰かけており、お新香で丼飯《どんぶりめし》を喰べようとしていた。
――子供を伴れていたのか。
浪人者は一人だと思ったので、鉄次はちょっと意外に思い、こんどは改めて、(それとなく)ようすをぬすみ見た。浪人者は酒を一本取り、つきだし[#「つきだし」に傍点]の小皿を二つ、前に置いたままで、ちびちびと飲んでいた。子供は手に余る箸《はし》を持ち、飯台にのしかかるようにして、丼を片手で抱え、そうして周囲の客の、肴の皿小鉢や腕などを、かなしそうな眼で眺めていた。欲しそうな眼ではなく、諦《あきら》めたような、かなしそうな眼つきであった。父親の浪人者は飲んでいた。一杯の盃を五たびにも六たびにも、まるで貴重な薬でも舐《な》めるように、大事にかけて啜《すす》っていた。
「坊や」と鉄次は子供に呼びかけた、「小父ちゃんのこのお魚、喰べてくれないか」
子供はゆっくり俯向《うつむ》いた。なにか云ったようだが聞えなかった。鉄次には「要らない」と云ったように思え、そこでまだ箸をつけてない刺身の皿を取って、子供の前へ置いた。
「これを手伝っておくれ」と彼は云った、「小父ちゃんは酒を飲んでいるから喰べられないんだ、美味《うま》いぜ坊や、ね、喰べてごらん、その御飯にのっけて喰べると美味いぜ」
「失礼だがそれは断わる」と浪人者が云った、「失礼だが、おちぶれても侍の子だ、食物の施しにはあずかりたくない」
「それはそうでしょうが、子供というものは」
「断わる」と浪人者はどなった、「おれは乞食《こじき》に来たのではない」
大きな声で、いまわりの客たちは話をやめてこっちを見た。浪人者の細い顔が赤くなり、その眼が怒りと憎悪のためにぎらぎらと光った。
「済みません」と鉄次は皿を引込めた、「私はそんなつもりじゃあなかったんだが、お気に障ったら勘弁して下さい」
浪人者は子供に、「早く喰べろ」と云った。子供はべそをかいて、糠味噌漬《ぬかみそづけ》の蕪《かぶら》と大根と、生瓜《きゅうり》の盛ってある鉢へ手を出した。腹はへっているが、いかにも気がすすまない、という手つきである。鉄次の前には、まだ箸をつけない肴が、幾品か並んでいた。
「子供は他人の物が欲しいものだ」と鉄次は抑えた口調で云った、「自分が好きな物を喰べていても、他人の物はもっと美味そうに見えるもんだ、それが子供だ、子供はそういうもんだ、侍も町人も差別はねえ、子供はみんなおんなしこった」鉄次の額に癇癪筋が立った、「罪じゃねえか」と彼は独りで続けた、「まわりにいっぱい肴が並んでいるのに、それを眺めながらこうこ[#「こうこ」に傍点]で飯を食わせるなんて、罪じゃねえか、そんならこんな処《ところ》へ伴れて来なければいいんだ」
「町人」と浪人者が云った、「口が過ぎるぞ」
鉄次は眼をあげた。
「きさま」と浪人者が云った、「このおれを浪人とあなどって、辱しめる気か」
「私は子供さんのことを云ってるんだ」
浪人者は突然、燗徳利《かんどくり》を取って投げた。鉄次は首を曲げ、燗徳利はうしろの連子窓《れんじまど》へ当って砕けた。「ゆるさん」と叫んで、浪人者は立ち、飯台をまわってこっちへ来た。鉄次は動かなかった。左右の客は慌てて脇へよけ、向うから女の一人がとんで来た。女がなにか叫び、浪人者は鉄次に殴りかかった。鉄次はなにもせず、浪人者は片手で(鉄次の)襟《えり》をつかみ、片手の拳《こぶし》で頬を殴った。そこへ女がとんで来て、うしろから浪人者を捉まえ、「又野さんおよしなさい、又野さん」と叫びながら、けんめいにひきはなし、鉄次に向って、「済みません、逃げて下さい」と叫んだ。
「このひと酒のうえが悪いんです」と女は云った、「済みませんが逃げて下さいな、つじ[#「つじ」に傍点]さん、またあとで来て下さい」
そのほうがいいだろう。鉄次は財布をそこへ置いて、すばやく外へとびだした。
彼は堀端を歩いてゆきながら、重い怒りが胸に充満しているのを感じた。重さが計れるほどの怒りで、それは殴られたからではなく、浪人者の無神経さと、子供の哀れさに対する怒りだった。すなおに受けたらどうだ、親の貧乏は子供の責任じゃあない、子供を可哀そうだとは思わないのか。「なにが侍だ」と歩きながら彼は舌打ちをした。てめえは酒を飲んでいた、酒を飲む銭で、子供に煮魚の一つも取ってやったらどうだ。それが親っていうものじゃあないのか、「そうじゃあないのか」と彼は口に出して云った。
時刻は早かったが、財布を置いて来てしまったので、鉄次はそのまま家のほうへ向った。新高橋と猿江橋を渡って、鉤《かぎ》の手に、堀端の道をまっすぐゆけばいい。堀の対岸は、軒の低い古びた町家が、ごたごたと並んでい、こちらは武家の小屋敷が続いていた。
「この道も飽きたな」と鉄次は呟いた、「飽きるほど通った、まる七年、この道をとおって帳場へゆき、この道をとおって家へ帰った、まる七年、これからもこの道を往きこの道を帰るんだ、そうして、――」
鉄次は足を停めた。
対岸の町家の灯が、ひき汐で水の少なくなった堀に映っていた。彼はその、水面に映っている灯を眺めながら、「そうして一生終っちまうんだ」と呟き、力のない太息《といき》をついた。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
考えてみるとつまらないものだ、と鉄次は思った。人間なんて哀れな、つまらないようなもんだ。あくせく稼いでも、運の悪い者は一生貧乏に追われどおしだし、金を儲《もう》けて贅沢《ぜいたく》をしてみたところで限りがある。将軍さまだって寐《ね》るひろさは定ってるだろうし、ひとかたけに十人前は喰べられやしない。同じ仕事を同じように繰り返して、右往左往して、そして老いぼれて、死んでしまうんだ。
「つまらねえもんだ」と鉄次は呟いた、「人間の一生なんてはりあいのないもんだ」
そうして、また歩きだそうとして、けげんそうに首をかしげ、「つじ[#「つじ」に傍点]さんだって」と呟きながら、空のどこかを見た。
「誰かつじ[#「つじ」に傍点]さんて云ったようだが」彼はまた首をかしげた、「いや、聞き違いじゃあない、たしかに誰かつじ[#「つじ」に傍点]さんと云った、あれは相川町にいた七八つじぶんの呼び名で、もう二十年あまりも呼ばれたことがないし、この辺で知っている者もない筈だ、――しかしたしかにたしかに誰か、つじ[#「つじ」に傍点]さんって」
鉄次は口をあいた。空のどこかを見あげて、口をあいたまま、暫くじっとしてい、「そうだ」とやがて頷いた。あの女だ、浪人者を抱き止めたあの居酒屋の女だ、たしかに「あの女がつじ[#「つじ」に傍点]さんと云った。
「誰だろう」鉄次は歩きだした、「きっと昔のおれを知っているんだろうが、誰だろう」
明くる日の夕方、――
鉄次は仕事の帰りに、扇町のその居酒屋へいった。日の長い季節で、外はまだ明るく、店の中もまだ客は疎らだった。ゆうべの、隅のほうに腰を掛けると、注文を訊きに来た小女が、「あらゆうべの親方ね」と云った。酒と肴をそう云い、あたりを見まわしたが、小女が三人いるだけで、若い女たちの姿は見えなかった。
――酒の客が来るじぶんに出るんだな。
化粧などしていたから、たぶんそんなところだろう、と鉄次は思った。まもなく、小女が酒肴といっしょに、財布を持って来て、「あのまま手をつけずにおいたから、調べてもらいたい」と云った。鉄次は頷いて、財布をふところに入れ、「ゆうべの姐《ねえ》さんはどうした」と訊いた。
「もうすぐに来ます」と小女は云った、「いま着物を着替えてるからすぐです」
「名前はなんていうんだ」
「姐さんのですか」と小女は笑った、「本当の名前かどうか知らないけど、ここではお梶《かじ》姐さんていうの、いやだ親方、おかぼれね」
そして笑って、ぶつまねをした。
――お梶、覚えのない名だな、お梶。
鉄次は飲みはじめた。彼は早く女に会って、それが誰だか慥《たし》かめてみたかったし、同時に、あまり早く慥かめるのが惜しくもあった。お梶という名に記憶はない、むかし遊んだ、女の子は幾人もいたが、おそらくその内の誰かにちがいない、誰だろう。そう思っていると、絶えて久しく、気持に張りができ、心たのしくうきうきするようであった。
鉄次が三本めをあけたとき、帳場の脇に女の姿があらわれ、小女になにか云われてこっちを見た。鉄次は気づかないふりをし、女は髪へ手をやりながら、こっちへ来た。鉄次はようやく眼をあげ、女は差向いに腰をかけて、微笑した。――すらっとした躯つきで、おも長な顔に少し険があり、微笑したとき、右側にある八重歯が、眼立って見えた。
「わかって、――」と女がまた微笑した。
「わからない」と彼が云った、「その八重歯に覚えがあるようだが、まあ一ついこう」
「お酒ですか」と女は盃を受取った、「いまから飲むと酔っちまうわね」
「相川町は相川町だろう、誰だっけな」
「薄情ね、はい御馳走さま」と女は盃を返し、酌をしながら鉄次をにらんだ、「あたしはすぐにわかったわ、いらしったのは気がつかなかったけれど、又野さんのどなり声でこっちを見たとき、その横顔ですぐにつじ[#「つじ」に傍点]ちゃんだなって思った、横顔はあのじぶんのまんまよ、あたしびっくりしちゃったわ」
「誰だっけな、思いだせないな、誰だっけ」
「いいわよ、召上れ」と女は酌をした、「あたし教えないから、思いだすまでここへ来てちょうだい、ふふ、面白いな」
そして、八重歯を見せて笑った。
いいだろう、それもよかろう、と鉄次は頷いた。二度か三度会えば、きっと思いだすにちがいない、そういうことにしよう。きっとね、それまでお梶って呼んでくれればいいわ、と少はあやすように笑った。
「それにしても」とやがて女が云った、「ゆうべどうしてあんなことをしたの」
「あの浪人者は馴染か」
「ときたま来るだけよ、酒乱ってほどじゃないけれど、酔うとわからなくなるの」と云って、女は彼をみつめながら、首を振った、「でもゆうべのあれはいけないわ、あれは貧乏人の気持を知らないやりかたよ」
「おれが貧乏を知らないって」と彼も首を振った、「おれは子供が可哀そうだったんだ、子供が可哀そうで、見ていられなかっただけだ」
「子ぼんのうなのね、可笑《おか》しい」と女は笑った、「つじ[#「つじ」に傍点]ちゃんが子ぼんのうだなんて可笑しいわ、いまお宅には幾人いるの」
「子供か、――子供なんかないさ」
「女房もない、ってね」と女は的をした、「こうみえてもあたしだって二人あるのよ、隠すことはないでしょ」
「一人もないんだ」と彼は眼をそむけた、「三度できたんだけれど、三度とも流産しちまった」
女は「まあ」といった。
「おてい[#「てい」に傍点]さん丈夫そうだったのにねえ」
「あいつのことも知ってるのか」
「あのひと丈夫そうだったわ、あんたが悪いのよ、きっと」
「おまえおてい[#「てい」に傍点]を知ってるのか」
「並木河岸のことだって知ってるわ、一つちょうだい」と女は盃に手を出した、「あの逢曳《あいびき》のことだってちゃんと知ってるんだから」
鉄次は困ったような顔をしながら、女に酌をしてやった。困ったような、照れたような顔つきであった。
女は話し続け、鉄次は黙って聞いていた。深川の並木河岸、人家の少ないところで、河岸とは反対側の道ばたに、並木があった。木はなんだったかしら。横に枝がひろがっていて、夏になると木蔭が暗くなるくらいだった。あんたたちそこで逢曳したじゃないの、と女は云った。いつも夕方で、木蔭は暗かった。おてい[#「てい」に傍点]さんは木場の伊勢屋に奉公していたから、ぬけて来てもゆっくりはできない、あんたはいっときでも長く留めておきたい。それで口論をして、よくおてい[#「てい」に傍点]さんを泣かせたものだ。そうでしょ、そのとおりでしょ、と云って女は笑った。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
――誰だろう、いったい誰だろう。
鉄次は女が誰だかわからなかった。並木河岸のことまで知っているとすると、範囲はずっと狭くなる。「つじ[#「つじ」に傍点]」というのは鉄次の「て」を取った幼い呼び名で、そのじぶんの友達は、(こっちが引越してしまったから)並木河岸のことは知らない筈である。とすると誰だろう、どこの誰だったろう、と鉄次は繰り返し思った。
彼は毎日その店へ通った。梅雨があがり、六月が過ぎた。
「このごろあんた、ようすが変ったわね」
或る夜、おてい[#「てい」に傍点]がそう云った。
おてい[#「てい」に傍点]は六月のはじめに床上げをしたが、躯に精がないようで、顔色も冴《さ》えないし、よくこめかみに頭痛|膏《こう》を張っていたりした。鉄次は毎晩のように帰りがおそかった。お梶と飲んでいると楽しい、お梶が「誰だったか」ということはまだわからなかったが、わからないことも肴の一つになった。話題も多いし、その話題のきりかえも巧みで、いくら話していても飽きない。それはたぶん、二人のあいだにいろめいた気持がなかったからであろう。ふしぎなくらい、二人ともさっぱりしていて、なんのこだわりもなかった。
「たしかに変ったわ」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「まるでいいひとでもできたようだわ」
「このごろ長を見かけないな」と鉄次はおてい[#「てい」に傍点]の顔を見た、「多助は牢から出て来たのか」
「話をそらすのね」
「わかったよ」興もないというように、彼は手を振った、「多助はまだ出て来ないのか」
「あんた長坊を見るわけがないじゃないの、朝は早いし帰るのはいつもおそいし」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「多助さんなら牢脱けをしたわ」
鉄次は眼をみはり、「牢脱けだって」とおてい[#「てい」に傍点]を見た。「六月はじめだったかしら、浅草の溜《ため》(病牢)へ送られる途中で、逃げたんですって」
「多助が」と彼は呟いた、「あいつがか」
「おみよ[#「みよ」に傍点]さんは番所へ呼ばれるし、この長屋へは張込みがあるし、長坊は少しまえから寝ているし、騒ぎだったわ」
「それで、多助はまだ捉《つか》まらないのか」
おてい[#「てい」に傍点]は微笑しながら、良人の眼をみつめていた。鉄次は「なんだ」といった。
「なんでもないけど、なぜ今夜に限って、そんなに多助さんのことを気にするの」
彼はおてい[#「てい」に傍点]の微笑する意味がわかった。
「ほかに話すことでもあるか」と鉄次はやがて、仰向けに寝ころんだ、「ほかになにか面白い話でもあるなら聞かしてくれ、なにかあるのか」
おてい[#「てい」に傍点]は黙った。ながいこと黙って、身動きもしずにいた。鉄次がそっと見ると、おてい[#「てい」に傍点]は前掛で顔を掩《おお》っていた。
「あんたはまだ、あのことを怒っているようだけれど」とおてい[#「てい」に傍点]が低い声で云った、「あたしがどんな気持でいるか、考えてくれたことはないの」
「済んだことはよしにしよう」
「あれはあたしにも子だったのよ」とおてい[#「てい」に傍点]は云った、「あんたも悲しいでしょう、子供の好きなあんたが、三度ともだめになったんだから、口惜しいことはよくわかるわ、でもあたしだってどんなに辛いかしれやしない、三度もみごもって、そのたんびに、おなかの子が流産してしまう、こんどこそと思って、できるだけの養生もし神しんじんまでして、それがまただめになってしまう、――流産して、ぺしゃんこになったおなかを撫でながら、あたしがどんなおもいをしたかあんたわかって」
鉄次は心の中で「ぺしゃんこか」と呟き、その言葉の可笑しさに笑いたくなった。
「あんたは仕事もあるし、酔って気をまぎらせることもできるわ」とおてい[#「てい」に傍点]は続けた、「でも、あたしには仕事もないし、酔うほどお酒も飲めない、独りでうちにいて、独りでぼんやり考えているだけよ、頼りにするのはあんただけだけれど、――そのあんたもはなれてゆくばかりだわ」
「おれが、どうしたって」
「はなれてゆくばかりよ、わかるわ」とおてい[#「てい」に傍点]は云った、「こんどの子供を産むことができたら、もういちど昔のようになれるかもしれないと思った。それもだめになってしまったし、もうあたしどうしていいんだかわからないわ」
「云いたいように云うさ、勝手な勘ぐりの相手はできやしない」
「まえにはそんなふうには云わなかったわね」
「おれはもう三十一だぜ」
「まえにはこんなじゃあなかったわ」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「ねえ」と良人のほうを見、静かに鳴咽《おえつ》した、「云ってちょうだい、あたしたちもうだめなの」
「なにが不足なんだ」と鉄次は仰臥《ぎょうが》したまま訊き返した、「なにが不足でそんなことを云うんだ、おれにどうしろってんだ」
「不足だなんて云って」とおてい[#「てい」に傍点]は泣きだした、「あたしはただ、昔のようなあんたになってもらいたいだけだわ」
鉄次は口をつぐみ、おてい[#「てい」に傍点]の泣く声を暫く聞いていて、それから云った。
「おまえだって昔のおまえじゃあないぜ」
おてい[#「てい」に傍点]はせつなそうに泣いていた。
それからつい数日して、鉄次はお梶から「遠出をしないか」と誘われた。草市の夜で飯台の上にほおずき[#「ほおずき」に傍点]を挿《さ》した小さな壺があり、そのほおずき[#「ほおずき」に傍点]はお梶が草市から買って来、彼に見せるために挿したのであった。
「あたしだってたまに息抜きがしたいわ」とおが云った、「つじ[#「つじ」に傍点]さんとなら間違いはないし、二日ばかり暢《のん》びり、どこかへいって来たいんだけれど」
「おれとなら間違いがないって」
「あんたはそんなことのできないたちよ、あたしの眼に狂いはないんだから」とお梶はまじめに云った、「それにあたし、男はもうたくさん、道楽者の亭主を持って懲り懲りしちゃったわ、子供を二人ひったくって別れちゃったけれど、男なんてもうまっぴら御免よ」
「そんな話は初めて聞くな」
「亭主のことを話すと、――」とお梶は首をすくめた、「あたしが誰だかってことがわかるかもしれませんからね」
「見当はその辺か」
「ねえ、二日ばかりでかけましょうよ」とお梶があまえた声で云った、「そんなにおかみさんの側にくっついてばかりいるもんじゃないわ、べつにいやらしいことをするわけじゃないし、二日っくらいぬけられるでしょ」
「息抜きか」と彼が云った、「悪くはないな」
そうだ、そいつも悪くはない、と鉄次は思った。ではどこにしよう、どこかあてがあるのか。江ノ島はどうかしら。江ノ島は二日では無理だろう。それなら川崎はどう。川崎とはまた近すぎるな。うそよ、近ければゆっくりできるじゃないの、ひと晩泊って、お大師さまへおまいりをして、ひる寝ぐらいして帰れるでしょ、そうしましょうよ、とお梶が云った。
「遠出をしてひる寝か」と鉄次は笑った、「なるほどいろごとには縁のねえ話だ」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
ゆくさきは川崎、日は中元の翌日、朝の八時に永代橋の西詰で会おう。そういうことに約束がきまった。――その夜、鉄次はいつもより早くきりあげ、うちへ帰ると、おてい[#「てい」に傍点]にそのことを告げた。もちろんお梶とゆくなどとは云えない、「帳場の常吉たちと道了様へいって来る」と、場所も変え、日もよけいに云った。
「道了様っていうと四五日かかるわね」
「三日でいって来る予定だ」
「いつかいったときは四五日かかったでしょ」とおてい[#「てい」に傍点]は云った、「あたしもいきたいな」
「このまえは水戸へまわったんだろう」と彼は話をそらした、「たしか水戸の、大洗へまわった筈だ」
「あたしもいっちゃあいけないかしら」
「常陸まで往復三日だぜ」と彼が云った、「男の足だって楽じゃあねえ、おまえなんかに付いてけるか」
「そうね」とおてい[#「てい」に傍点]は頷いた、「三日じゃあ無理だわね」
鉄次はまた話をそらし、「多助はまだ捉まらないか」と訊いた。おてい[#「てい」に傍点]はそれで思いだしたというふうに、「長坊を貰ったらどうだろう」と云いだした。あの子はあんたにもよくなついているし、うちで貰ってやれば、おみよ[#「みよ」に傍点]さんも故郷へ帰って躯の養生ができる、それに、貰い子をすると「あとができる」っていうじゃないの。うん、そうだな。あたしは貰って育ててみたいわ。そうだな、考えてみよう、と鉄次は答えた。
十五日が中元で、鉄次は午後から扇町へでかけ、(飲みながら)お梶と明日のうちあわせをした。それが済むと、お梶は斜交《はすか》いに彼を見て、微笑しながら、「おかみさん大丈夫」と訊いた。鉄次は「へっ」といった。
「そんな心配は逢曳にでもいく者のするこった」と彼は云った、「こっちは暢びりひる寝をして来ようというくちだからな」
「粋《いき》なもんだわ」とお梶は笑った。
鉄次は灯がはいるとまもなく帰った。
彼は少し気が咎《とが》めた。ほんの少しではあるが、「おてい[#「てい」に傍点]に悪いな」と思い、だが疚《やま》しいことはないので、「ひとをみろ」と自分に云った。ひとは平気で道楽をしているじゃないか、女を囲ってる者だって幾らもいろ。こっちはそんなんじゃない、幼な友達と息抜きに出ようというだけだ、それだけじゃないか、女房には関係のないこった、なにが悪い、と彼は自分で自分に云った。――家へ帰ると、おてい[#「てい」に傍点]が待ちかねたように、「おみよ[#「みよ」に傍点]さんがいなくなった」と知らせた。鉄次はびくっとし、「長はどうした」と訊いた。
「長坊は差配の源さんとこにいるわ」
「じゃあ」と彼は吃《ども》った、「日雇いにいったんじゃあないのか」
「今日はお中元よ」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「それに書置みたいなものがあったの、あたしは読まなかったけれど、亭主があんなことをして、世間に申し訳がないが、子供には罪がないというから、長吉だけは頼む、と書いてあったんですって」
「すると、――」
「ええそう」とおてい[#「てい」に傍点]が云った、「初めはみんなそう思ったの、これは死ぬつもりだなって、けれども」とおてい[#「てい」に傍点]は声をひそめた、「隣りのおきの[#「きの」に傍点]さんが云うの、そうじゃない、多助さんと逃げたらしいって」
鉄次はけげんそうな眼をした。
「そう云うのよ」とおてい[#「てい」に傍点]は良人の眼に頷いた、「証拠はなんにもないけれどそういう気がするって、日雇いに出たさきかなんかで、多助さんと会って、そして駆落ちの約束をしたんだろうって、死ぬんなら子供を置いてゆけるわけがないって、そう云うのよ」
鉄次は考えてみて「うん」と頷き、そうだな、死ぬときは子供は置いてゆけないかもしれない、いっしょに死ぬ気になるだろうな、と呟いた。
――うまくやれ、多助、やってみろ。
鉄次は寝てから、繰り返しそう思った。うまく逃げのびて、夫婦で初めからやり直してみろ、だが博奕だけはやめろ、それでもまだ博奕をするようなら、おまえは人間じゃあない、「人間じゃあねえぞ」と、鉄次は口の中で多助に囁いた。
ずいぶん久しぶりの早寝だったが、おてい[#「てい」に傍点]が明日の弁当の下拵えをしているうちに、鉄次は眠ってしまった。
翌朝、――六時に起きると、弁当も出来、旅の支度も揃《そろ》えてあった。おてい[#「てい」に傍点]は「さきに済ました」というので、鉄次は独りで朝飯を喰べた。喰べ終って、茶を啜っていると、六帖でなにかしていたおてい[#「てい」に傍点]が、「もう済んだの」と云いながら、こっちの四帖半へ出て来た。鉄次は口へ持ってゆこうとした湯呑を、途中で止め、眼をそばめて女房を見た。おてい[#「てい」に傍点]はよそゆきの単衣に、塵除《ちりよ》けの合羽《かっぱ》を着、手甲をはめていた。
「あたしもいっしょにゆくの」とおてい[#「てい」に傍点]は彼に微笑した、「いいでしょ、たまだもの、伴れてってくれるわね」
鉄次は「ばかだな」と笑った。
「おれ一人ならいいが、常吉や徳や、ほかにも三人ばかりいくんだ」と彼は云った、「男ばかりの中へおれだけ女房を伴れてゆけるか」
「だって、いいって云ったもの」
「いいって――誰が」
「常さんよ、あたし常さんに頼んだのよ」とおてい[#「てい」に傍点]が云った。見ると顔が硬ばっていて、声もうわずって聞えた、「あんたがきのう出かけたあとで、燈籠《とうろう》(中元に新吉原で燈籠を飾る)を見にゆこうって、常さんがここへ誘いに寄ったわ、それであたし頼んでみたら、いいって云ったのよ」
鉄次は声をだして笑った。
「なにが可笑しいのよ」とおてい[#「てい」に傍点]が云った。
鉄次は笑って、湯呑を置き、「知恵くらべか」と云った。知恵くらべなら負けないぞ、と云い、立ちあがって三尺をしめ直した。
「知恵くらべってなによ」おてい[#「てい」に傍点]は顔をひきつらせた、「あたしはただ、伴れてって下さいって、云っただけじゃないの」
「そうだろう、たぶんそうだろう」
「それがなぜ知恵くらべなの、だめならだめって云えばいいでしょ」とおてい[#「てい」に傍点]は声をふるわせた、「どうするの」
「歩きに出るのさ」と鉄次は土間へおりながら云った、「おめえいきたければ常といって来てもいいぜ」
そして彼は外へ出た。
外へ出たが、(朝の六時すぎで)ゆくあてはなかった。ふと思いついて、差配の家へ寄り、長吉を伴れだした。源兵衛の女房の話によると、子供ごころに諦《あきら》めているのだろう、ひと言も母親のことは口にせず、ゆうべも温和《おとな》しく独りで寝たし、朝飯も行儀よく喰べた。「見ていていじらしいくらいだった」と云った。
長吉は嬉しそうに、鉄次といっしょに外へ出た。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
鉄次は枝川に沿った道を、ゆっくり歩いていった。長吉は彼により添うように、黙って歩いていた。
「長、――」と彼が振向いた、「抱いてってやろうか」
「へえき」と長吉が答えた。
鉄次はおてい[#「てい」に傍点]に怒っていた。
なぜ知らん顔をしていなかったんだ。どうして黙ってゆかせなかったんだ、と彼は心のなかで云った。なんでもありゃしない、やきもちをやいたり、そんなふうに邪魔をする必要はなかった、うっちゃっといてくれればよかったんだ。
「小父ちゃん」と長吉が云った。
「なんだ、――」
「なんでもない」と長吉が云った、「お手てをつないでもいいか」
「さあ」と彼は手を出し、長吉はそれをぎゅっと握った、「なにかお菓子を買うか」
「へえき」と長吉は首を振った。
堀端の道は静かで、あまり往来の人もなかった。彼は、長吉が強く自分の手を握っているのを感じ、そして、心のなかで思った。そっちがそんなふうにするなら、おれはおれで好きなようにする、気づかれずに浮気をするくらいの知恵はあるんだ。――やってみるか、おまえの知恵で、(今日やったように)おれの浮気が封じられるかどうか、やってみようか、と彼は心のなかでおてい[#「てい」に傍点]に呼びかけた。
これまでおれは、一度だって不実なまねをしたことはない。つきあいだから茶屋酒も飲むし、なか[#「なか」に傍点](新吉原)へゆくことだってある、しかしおまえに不実なことは一遍もしなかったし、それはおまえが知っている筈だ。そんな、そのときばったりのいろごとができない性分だということは、おまえがよく知っている筈じゃないか、そうじゃないのか、と彼はおてい[#「てい」に傍点]に問いかけた。
「小父ちゃん」と長吉が云った。
「どうした」と彼は振向いた、「くたびれちゃったか」
「だいじょぶ」と長吉は首を振り、堀のほうを指さした、「この川で塩びき[#「びき」に傍点]がとれるか」
「そうさな」と彼が云った、「――長は塩鮭が好きか」
「どっちでも」と長吉が云った。
鉄次は空を見あげた。空は薄曇っていて、あたりは靄《もや》でもかかったように、堀の石垣も、対岸の家並もぼんやりと、もの憂そうにみえた。
――薹《とう》の立ったような気持だ。
と彼は思った。薹の立ったような、疲れたような気持だ。まる七年、まる七年の余も、この道を往きこの道を帰った。喰べて寝て、この道を往ったり帰ったりして、いったいなにが残った。これからも、同じことを繰り返すだろう、死まで同じことの繰り返しだ、死ぬまでだ、わかるか。
――おれは息抜きがしたい。
この繰り返しにはうんざりする、と鉄次は心のなかで呟いた。おれは息抜きがしたかった。お梶と二日ばかり遠出をすれば、少しは気が変るかと思った。それだけだ。お梶のほうにもいろけなんぞはなかったし、おれにもそんな気持は少しもなかった。これっぽっちもなかったんだ。
橋を渡り、また橋を渡った。
「小父ちゃん」と長吉が云った、「おしっこ」
鉄次は「よし」と云い、堀端へ伴れていって、うしろから肩を押えてやった。長吉は巧みに用をたした。子供の肩を押えてやりながら、彼はふと、そこが並木河岸だということに気づいた。
こちら側には(あのころと同じように)材木が積んであり、河岸に沿って、三町ばかり向うまで並木が続いている。その木は「さいかち」というのだそうで、黒みを帯びたこまかい葉の、びっしりと付いた枝が、横へひろく、重たげに腕を伸ばし、ひと並びに暗い木陰をつくっていた。
鉄次は胸の中で、横笛の音が聞えるように思い、惘然《もうぜん》と、その並木を眺めやった。
――おてい[#「てい」に傍点]。
と彼は心のなかで云った。
二人はそこでたびたび逢った。そこの、向うの、こっちから五本めの木蔭がそれだ。おてい[#「てい」に傍点]が先に来ていることもあり、用があって、おくれて来て、すぐに帰ったこともある。その向うの五本めの木蔭だ。おれが仕事の都合でおくれて、駆けつけて来ると、あいつはその木に凭《もた》れていて、いってみると泣いていたことがあった。どうしたんだ、と云ったら、とびついて来て、「ああよかった」と云った。ああよかった、もうあんたは来てくれないのかと思ってたのよ、「うれしい」と云って、おれにしがみついた。しがみついて泣いた。いまでもはっきり思いだせる、「うれしい」と云って、あいつはおれにしがみついて泣いた。
「小父ちゃん」と長吉が云った、「もういい」
彼は「よし」と云った。
「少し休もうかな」
長吉はこっくりをした。
「そこで休もう」と彼は材木の積んであるほうへ、長吉を伴れていった、「ここで少し休んで、それからなにか買いにゆこう」
二人は材木の上へ腰をかけた。
空の荷車を曳いた、老人が一人、ゆっくりと二人の前をとおり過ぎた。鉄次は膝《ひざ》の上へ左右の肱《ひじ》を突き、俯向いて、両手で額を支えた。――ああ、と彼は溜息《ためいき》をついた。力のぬけた、うつろな溜息であった。長吉はおとなしく腰かけていて、それからぼんやりと、なにかの唄をうたいだした。しかし、うたいだすとすぐに、唄をやめて彼の袖《そで》を引いた。
「小父ちゃん」と長吉は囁いた、「小父ちゃん、見なよ、小母ちゃんだよ」
鉄次は「うう」といった。
「見なったらさ」と長吉は彼を小突いた、「ねえ、見てごらんたら、小父ちゃんちの小母ちゃんが来たよ」
鉄次は「うん」といい、それからふいと顔をあげた。長吉が向うを指さした。
向うからおてい[#「てい」に傍点]の来るのが見えた。
彼女の好きな鳴海絞りの単衣に、白い献上博多をしめていた。俯向いて、放心したような足どりで、一歩、一歩、ひろうように、ゆっくりとこっちへ来る。脇へは眼も向けず、俯向いたままでこっちへ来て、二人の前をとおりすぎ、そうして、あの(五本めの)木蔭で立停った。
鉄次は黙って見ていた。石にでもなったように、身動きもせずに、黙って、おてい[#「てい」に傍点]の姿を見まもっていた。おてい[#「てい」に傍点]はその木蔭にはいり、木の幹へ両手を当てて、凭れかかった。
――鉄次はじっと見まもっていた。彼の額が蒼白《あおじろ》くなり、眉がしかんだ。長吉が「小父ちゃん」と呼びかけると、彼は手を振り、眼で「黙ってるんだ」というふうに子供を見た。「すぐ来るからな」と彼は云った、「すぐに来るから、ここで待ってな」
長吉は「うん」と頷いた。
鉄次は立ちあがって、静かにそっちへ歩いていった。おてい[#「てい」に傍点]は気づかなかった。彼は側へよって、そっと肩へ両手をかけた。おてい[#「てい」に傍点]はとびあがり、振返って、彼を見ると、「お」と大きく口をあけた。
「いいよ、なんにも云うな」と彼はしゃがれた声で云った、「わかってる、わかってるよ」
「あんた初めてでしょ」とおてい[#「てい」に傍点]は彼にしがみつき、嗚咽しながら云った、「あたしはときどき来るの、ときどきここへ来ていたのよ、ここへ来て、この木の蔭で、――」
「わかった、泣かないでくれ」と彼はおてい[#「てい」に傍点]の肩を両手で押えた、「向うに長坊がいるんだ、長が見ているから泣かないでくれ」
「あんた」とおてい[#「てい」に傍点]が云った。
「長坊を引取ろう」と彼は云った、「長を引取って、三人で、――」
「あんた」とおてい[#「てい」に傍点]は彼の胸にかじりついた。
鉄次は振返り、長吉に向って手招きをした。長吉は立ちあがり、不決断に、そろそろと、こっちへ歩いて来た。
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「オール読物」
1956(昭和31)年8月号
初出:「オール読物」
1956(昭和31)年8月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ