初春型駆逐艦


大日本帝国海軍の一等駆逐艦。実在した。

竣工直後の子日(左)と初春

日付:1933年10月
原典:Kure Maritime Museum, Japanese Naval Warship Photo Album: Destroyers, edited by Kazushige Todaka, p. 76
作者:Shizuo Fukui
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。



基準排水量 1,400英トン
公試排水量 1,680トン
満載排水量 1683.2トン
全長 109.50m
水線長 105.50m
垂線間長 103.50m
最大幅 10.00m(バルジを除く)
水線幅 10.00m
深さ 6.00m
吃水 公試平均 3.03m
満載平均 3.245m
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付) 3基
主機 艦本式タービン(高低圧) 2基
推進器 2軸 x 400rpm
出力 42,000馬力
速力 36.5ノット
航続距離 4,000カイリ / 14ノット
燃料 重油:458トン
乗員 計画乗員:205名
初春竣工時定員 215名
兵装 50口径三年式12.7センチ砲 連装2基4門
単装1基1門
40mm単装機銃 2挺(竣工時)
(61cm)九〇式3連装魚雷発射管2型 3基9門
計画:八年式魚雷
竣工時推定:九〇式魚雷
18本
12本
九四式爆雷投射機 1基
三型装填台 1基
爆雷投下台 水圧三型
手動一型
2基
4基
九一式一型爆雷 36個
搭載艇 7.5m内火艇 2隻
7mカッター 2隻
6m通船 1隻(母港保管)
その他 二号二型大掃海具 1.5
一型改一小掃海具 2または1


駆逐艦初春の歌



波濤万里に雲は湧き 御稜威の光さすところ 名も麗しき初春の 勲をつぎて今日も征く

作詞:航海長 落合豊 大尉
作曲:主計長 池上秀高 主計大尉

一番のみ現存



概要 Ver1.0


ロンドン軍縮条約の影響下で竣工させた主力駆逐艦である。1931年から35年にかけて6隻就役した。
なお読みは「はつはる」型である。「しょしゅん」でも「ういはる」でもないない。
生まれたのは秋なんだが「初春」である。

ちなみに初夏と初秋という駆逐艦が改秋月型で計画されてたんだが未成艦である。初冬はなんでか無い。


本型はロンドン軍縮条約のせいで特型のような1.500t以上の駆逐艦が作れなくなっちゃったせいで、なんとか1400tの船体に特型並の武装を詰め込もうとした駆逐艦である。1500以上は保有制限16%までなんだがすでに使い果たし済み。
図らずと軽巡の夕張のようなコンセプトになった。

軽巡洋艦「夕張」

日付:1924年11月15日
原典: (Japanese Light Cruiser, 1923) Photograph apparently taken on 15 November 1924. Inscription in lower left reads: Warship Yubari Taisho 13-11-15. Photograph from the Bureau of Ships Collection in the U.S. National Archives.
この画像ファイルはアメリカ合衆国海軍に属する者が職務上作成したものです。これはアメリカ合衆国連邦政府が業務上作成した著作物と見做されるため、この画像ファイルもパブリックドメインとなります。

とはいえあっちは3000tの艦体に5500t級の装備を詰め込もうとしたんだが、こっちは280tの差。あっちと比べたら十分の一ぐらいである。
じゃあ大丈夫なのかと言うとそうでもない。無理なもんは無理。 いや動いたんだけど大変な事になってた。
夕張は大丈夫だったあたり流石は造船の神様こと平賀譲造船中将なのだろう……

平賀譲

日付:昭和戦前期
原典:三省堂「画報日本近代の歴史11」より。
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。



本型の設計者である藤本喜久雄造船少将は後任で平賀中将とはなんか確執があったのだそうな……でも最上型とか高雄型を作ったすごい人なのは間違いない。特型設計したのもこの人だし。


藤本喜久雄造船少将


藤本喜久雄

日付:不明
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

ここで設計者の藤本喜久雄造船少将について触れておこう。
上記の通り、先に投稿した特型の設計者として、世界に「日本スゲー」と言わせた設計者の一人である。

特型一番艦 吹雪

日付:1933年10月
原典:Transferred from en.wikipedia to Commons by User:BanyanTree using CommonsHelper.
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。


東大の造船科を卒業して海軍の艦政本部の勤務となったんですが、すぐに先輩の平賀中将の迫害を受けました。おかげでイギリスに留学する予定が1年遅れた。

なんでそんな事になってたのかと言うと、平賀さんは努力型で藤本さんが天才型。
平賀さんが保守型なのに対して藤本さん前衛型。
そりゃ意見は対立するよね。平賀さんは「平賀不譲(ゆずらず)」なんてあだ名があるような人なもんで……ちなみに嫌われてたそうです。あとすぐ赤くなるから「ニクロム線」とも言われてたそうな。

上で書いた「夕張」、実は当初はこの人のアイディアで設計を担当してる。というか真の設計者こっちなんじゃねとかそんな話も……不憫枠だね。

山本五十六と平賀の両名はこの後閑職に追いやられる。「夕張」がジェーン年鑑で特集組まれるほどすごかったんだが、この後の古鷹型や妙高型に問題があって……この後閑職に追いやられることになったのです。
と言ってもあまりに革新的な事やったせいで施工側の造船関係者が現場で無断で設計変更したのが原因なのだが……不憫枠その二。でも条約無視してたからしょうがなく現場がやったというのもあったりして……不憫枠撤回。
これのせいで避難浴びて山本五十六と一緒に左遷。造船責任者に藤本が選ばれる。

保守的な人が居なくなったので早速平賀が拒否してた溶接とか軽金属とかを使って造船設計。
が……友鶴事件とか第四艦体事件とかが起きちゃって、翌年脳溢血で死亡。平賀はこれで戻ってきた。

事件は起きたが、この人に才能無いってことは絶対にない。断言する。
まず軍の要求に応える設計をしてるのは普通というか軍が求めるのはそういう人。平賀さん無視したの設計したし。
こういう意味で平賀は異端である。ただ、その要求が無茶だった結果こうならざるを得なかったのだろう。当時は条約とか条約とか条約とかが大問題で、個艦優秀主義の最たる時期。この時期に一線から離されていた平賀は幸運だったとも言えるかもしれない。

というかね、条約がどう考えても、当時の日本の建造中の軍艦になんとか足枷をとしか見えないのがばかりなのよピンポイントなの多いのよ。古鷹型を重巡に分類させたりとか本型が生まれる理由になった特型とか「龍驤」とか。ロンドンもワシントンもどっちも。

航空母艦 龍驤

日付:1933年(昭和8年)6月19日。 19 June 1933
原典:広島県呉市海事歴史科学館所蔵品。Photo from the Archives of the Kure Maritime Museum.
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

こうやって振り回された結果として不具合が出た艦艇がちょくちょくある。ただ、制限を掛けられたときに発揮するいつもの小型化高性能化の文化もちょいちょい発揮したり後の教訓としたりと出来てたりと。

この人は艦艇近代化の最前線に立つ。しかも条約制限破るかどうかのギリギリを攻めるという感じで。
具体的に何やったかと言うと、金剛型から長門型までの……つまり戦艦全部を全長9メートルぐらい伸ばして主機関を増加して、だいたい3ノット前後早くして、それで空母と組ませて機動部隊を編成させようっていうもの。かなり早い時期から、海戦の主役が飛行機になるって理解してたようで。

あとは、戦争になったらすぐに空母に改造できる支援艦を建造するっていうこと。つまり、条約影響下だから空母は違反だから造れないけど、空母にすぐ改造できるけど今は空母じゃないから問題ないよねっていうのである。
昭和八年から十二年までの建艦計画で航空母艦二隻、航空巡洋艦二隻、水上機母艦三隻、航空母艦改造用支援軍艦三隻を設計。なんとも航空艦隊を作るぞという意気込みを感じる。
普通はこの手の大網は二年くらいかかるから、空母に準空母で10隻以上も作る何ていうあたり、昭和6年の危機感が分かる。

最後に、20cm砲搭載艦の不足を補うため、条約の満期後に15.5cm砲巡洋艦六隻の主砲を20cm砲に取り換えることを考えたことである。最上型とか。
「外国から文句がきたら、独断で条約違反をしたのは造船の責任だから、俺が腹を切るよ」なんて部下に言ってたのだそうな。人望も当然あった。

平賀の設計思想は純粋に重心の位置を低く取るものであったのに対し、藤本は復原値の確保により克服しようとするものであった。
ただ、失敗があったが……その失敗が大きかったのが問題か。色々と惜しい人材であった。
友鶴事件により、それまでの名声が落ちてしまった感があるものの、その設計思想の柔軟さと、新技術投入を惜しまない姿勢は、保守的な建造形式を重視してきた平賀とは対照的であり、平賀よりも人望はあったとされている。

金剛型代艦の設計でもイギリス式の集中防御に拘った平賀案に対し、藤本案はバイタルパートの延長という部分に重点を置いてて、艦艇の被弾によるダメージコントロール分野でも、藤本の方が研究熱心だったとされている。

藤本の死後、平賀が撤廃しちゃって、ひいては大量損失に繋がってしまったと言う意見もある。
多分日本のダメージコントロールとか、被弾後の復帰とかの影響はこの辺に出たと筆者は思ってる。


なぜにそんな重武装を求めてるのよ

そもそもなんでこんな特型といい初春型といい超攻撃重視になったのかと言うとだ。日本とアメリカとの国力差が原因。当然だが仮想敵国はアメリカで本当に敵国になったんだからしょうがない。
どのくらい国力差あったのかと言うと、日本が一隻戦艦作ってる間に、アメリカは五から十隻は造れてしまうから。
こんなん相手にガチ戦争やったら負けるに決まってるだろうと。

よって、正面から殴り合わないで戦争を長引かせることもなく、


サッと現れて
ガツンと殴って
バッと金と重油をむしり取る


一発でもなんでもとにかく、アメリカをガッツリ殺れる。
そんな作戦を考えてたんです。で、条約でその方針が縛られて迷走が始まった。

その日本の作戦というのは漸減作戦である。「ぜんげんさくせん」ね。
簡単に解説すると、まず空母の航空機や潜水艦でアメリカ艦隊を早期発見して、戦力を削る。故に漸減。
ここに各小島から飛び立った航空機も加わって敵戦力を削る。
いよいよ敵が消耗してきたら、日本は主力部隊が出てくる。
駆逐艦や巡洋艦を使って更に敵を削って、最後に戦艦部隊で敵の主力をぶっ飛ばす。

こんな感じが基本方針でした。

……更に簡単にすると。
戦艦というのは金は食うし修理も大変だから何度も使えない。保有数も問題あったし。
だから戦艦以外でなんとか敵を削って、ここだという一番のところで戦艦出動というのを考えてたんです。

これをやるのには巡洋艦や駆逐艦も敵の主力にぶつけて敵を削る必要があったと。
だから当初の日本は航空機がやたらと強かったんですね。
なんだかんだで時代を先取りしてる戦法がちょくちょく出てくるのが日本である。縛られた結果ではあったが。

つまり、巡洋艦でも駆逐艦でも、格上相手を沈められる戦闘力を求めてたのが日本。
だから重武装になった。

戦史が好きな人はご存知と思うが、大戦時の日本の軍艦はちょくちょく潜水艦に沈められております。それはもう結構な数が。アルバコアとかに。
これは、潜水艦と戦う力を削ってまで格上殺しの能力を求めた結果である。


日本は世界で唯一、酸素魚雷を開発することに成功してます。これ他国と比べてやたらと破壊力が高かったんです。具体的には戦艦の主砲並に。

九五式魚雷。圧縮酸素ガスを酸化剤とする潜水艦用の魚雷。

日付:2005年5月29日
パブリックドメイン https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Type_95_torpedo_(Oxygen_torpedo).jpg?uselang=ja

これをはじめ、とにかく攻撃力、攻撃力を~とやっていって、アメリカに対抗しておりました。

とにかく早期決着が必要なので…‥というか一回限りの戦艦決戦で日本に取れる手段はーというと、こんなんしか無かったわけで。筆者としては思いつくのはいくらかあるにはあるがそれは未来を知ってるからこそのものだし。

これに必要なのは、それなりの空母と、火力ガン積み駆逐艦及び巡洋艦、そして絶対勝てる戦艦でした。
そんなわけで日本は重武装の駆逐艦を求めて、そんななかで生まれたのが初春型と。
その初期型だから色々と問題ががががが

そしてその漸減作戦思想も、日本自らが「航空機では戦艦を沈められない」という世界的常識を粉砕しちゃって……これが原因で長期戦になっちゃって国力差がモロに出ちゃって、後はご存知のとおりです。

航空機という、生まれてすぐなせいで発展の余地が有りすぎたこと。
戦艦という、航空機によって時代遅れにされたこと。
そしてその戦艦を禁じられたことで航空機に目を向けて猛特訓をやり抜いたこと。

……なんともまぁ、いろいろ重なっちゃったもんで……


初春型の設計

上記の通り、いわゆる条約型に分類される。
条約型というのはもっと強いの作れるのに縛りを入れて設計したやつを指す。

……まぁもっとも?
条約関係なく特型が高価でこれ以上増やせないって所まで来てたので、なんとか安価なやつを研究しててその一号が初春型だったのでは……なんていう説もあるにはあるんだが……


全長が特型と比べて10m、全幅40cm小さい。喫水線は20cm浅い。
公試運転を開始した「初春」は、およそ37ノットをマークし、優秀な性能をアピール。
が、ここまでの内容からわかると思うが大欠陥露呈。

日本海軍初春型駆逐艦「子日」、館山沖で全力公試運転中

日付:August 23, 1933. (昭和8年8月23日)
原典:写真日本の軍艦第11巻p8
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。


ただでさえトップヘビー武装なのに艦橋と煙突が上がっちゃったもんだから、試験のときに10度だけ舵を切ったら38度も傾斜。しかも復帰不能寸前まで行った。
ちなみに舵の最大舵角は35度ね。
新造状態での復原範囲は当時59.2度となっており、「特型駆逐艦」で最も後期の「暁型」の値76.9度に比較しても相当に悪化していました。
どっちも公試状態ね。
実戦は当然として、平時ですらこれは無視できない。



日付:昭和8年6月1日発行
原典:海軍雑誌『空と海』、第二巻第六号
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。


アメリカと違いこっちは友鶴事件とかあったもんだからこの辺はなんとかせねばってことで武装を変更。
具体的には3基装備してた魚雷発射管を1基撤去して3連装2基にして、艦橋直前の二番砲を後方にうつして、三番砲と背中合わせ配置にした。
バルジ撤去して、船体側部の水防区画も撤去、後部第3魚雷発射管と装填装置の撤去、前部2番砲を後部に移設、艦橋構造物の小型化、煙突の短縮、残る発射管や機銃台の位置をなるべく低くして、艦底にバラストタンクを設けるなど、重心をなんとか低くしようと新造並のことをやってる。当然外見は大変化である。
魚雷は9射線から6射線に減少。速力も3ノット低下した。

なんとか復元範囲は70.6度にまで増やして就役できました。

若葉

日付:1937年10月21日
原典:Kure Maritime Museum, Japanese Naval Warship Photo Album: Destroyers, edited by Kazushige Todaka, p. 77
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。


なお当初は主砲を連装ではなく三連装にして基数を減らして四連装魚雷発射管にする計画もあった。
結局一基単装砲にしたんだが。

四連装魚雷発射管

日付:1937年10月21日
原典:Reports of the U. S. Naval Technical Mission to Japan 1945 ? 1946, Report 0-01-3 Japanese Torpedoes and Tubes-Article 3, Above-Water Tubes via http://www.fischer-tropsch.org/primary_documents/gvt_reports/USNAVY/USNTMJ%20Reports/USNTMJ_toc.htm
この画像ファイルはアメリカ合衆国海軍に属する者が職務上作成したものです。これはアメリカ合衆国連邦政府が業務上作成した著作物と見做されるため、この画像ファイルもパブリックドメインとなります。



特型が20隻以上作ったのにこっちが6隻止まりなのはこれが理由。
五番艦の「有明」と六番艦の「夕暮」は初春型と別扱いをされることがあるのは、建造中に改造を受けたから。だからこの二隻は「改初春型」とか「有明型」とか言われることがある。

駆逐艦 有明

日付:1935年3月25日
原典:Kure Maritime Museum, Japanese Naval Warship Photo Album: Destroyers, edited by Kazushige Todaka, p. 78
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。


進水してから改造→「初春」「子日」
改造して進水  →「若葉」「初霜」
建造初期から改造→「有明」「夕暮」

とはいえ、こっちは魚雷の次発装填装置を初めて搭載。これにより次の発射までが30秒になった。


が……今度は第四艦隊事件発生。船体強度に問題があったのと、まだ溶接技術に問題もあった。
軽量化のしすぎが問題。
甲板や外板の張り替え、熔接部を引き剥がし鋲止で接合し直す。三度目の大工事である。これでようやく戦力になって海上へ出てきました。

……当然ここまでしたら排水量は増える。具体的には1700tぐらいになった。当初は1400t未満を目指してたのに。
速力も33ノットぐらいまでに低下。
これで条約違反型になっちゃったんだが、黙ってたのでバレませんでした。
計画当初の高性能重武装駆逐艦という位置づけは失われ、平凡な性能の中型駆逐艦という位置づけになっちゃったけどね。


まぁ、こんなわけで小手先ではどうにもならなかったもんなので6隻で終了しました。当初は12隻作る予定だったんだけど。

このコンセプトは次の白露型でなんとかなる……なった? ……なんとかしたのです。
具体的には条約違反しつつも書類上は大丈夫ということにして。

白露型前期艦(公表写真)

この画像ファイルはアメリカ合衆国海軍に属する者が職務上作成したものです。これはアメリカ合衆国連邦政府が業務上作成した著作物と見做されるため、この画像ファイルもパブリックドメインとなります。



ちなみに有明型とも呼ばれてる5番艦以降は二枚舵を異常傾斜対策にしてる。実験せずに。
速力でない原因となってすぐ一枚に戻したけど。



こんなわけで特型に性能で劣る。主砲は一門減って魚雷発射管は三門少ない。
速力は5ノットほど遅い……まぁ改装した特型が4ノット遅くなったから最終的に大差なくなったんだが。
これは空母機動部隊には随伴できない速度だったりする。空母においてかれかねん。
まぁ加賀型は元戦艦ではあるのでこれが混ざってる異世界艦隊なら何とかなるのだろうか……? それでも「加賀」は27.5ノット出たんだが。
ただやっぱり空母随伴は想定してないというか出来るようには作ってないはず。
上の数値も穏やかな海面での数値なんで荒れると低下するはず。スクリュー空回りとかして。
船体がでかいと荒天時は有利。そして初春型は通常より小さく作られてるわけで。


ただ厨房能力は歴代の駆逐艦を上回った。
具体的には今まで石炭コンロだったのが重油コンロになった。食事の質がよくなったと好評だったんだそうな。

あと機関系も向上。
上記レシプロ発電からターボ発電に切り替わって密閉式給水装置が導入。これでボイラーが傷みにくくなった。レシプロ発電は潤滑油とか加熱された溶解酸素とかは痛む原因だったのよ。
あと機関室が防音防熱。機関員の負担も軽減。
操舵輪もセルター甲板に設置。今までは羅針盤橋にあった。

結構初春型から始まった試みは多い。






なぜに初春型が選ばれた?

上記の通り、とにかく問題に問題がジャンジャン上がった艦の為、具体的な作戦内容や目標、作戦期間すらもわからないまま艦隊型でもない本型が、六航戦と呼んで差し支えない異世界艦隊の護衛に選ばれた理由が、いろいろ考えたのだが筆者には今の所答えが出ていない。

一応、坊ノ岬沖海戦で天一号作戦に四番艦の「初霜」が第一遊撃部隊として戦艦「大和」の護衛に参加している。
ちなみにこれは帝国海軍の最後の艦隊であり、これ以降のアメリカ海軍の敵は日本海軍から神風特攻隊へと変わる。

だが、これはそれまでのこれまでの戦歴に基づく大改装を行った最終形態の初春型である。
もうちょっというと、型揃えとかも一切ない寄せ集め艦隊とも言える状態だからこそ選ばれたとも言える。燃料も無かったし。



と返信しているが、これの問題が発覚したのは一番艦「初春」の公試試験中である。つまり進水後すぐ。
なんでも38度傾斜してそのまま転覆しかけたのだそうな。
二番艦の「子日」も竣工しており、どっちも別物にするかの如く大改装が行われている。

三番艦「若葉」と四番艦「初霜」はまだ未進水でこっちも大改造。作り始めたのが後だった分だけ改造が容易なので「初霜」のほうが早く竣工した。


まだ建造初期だった五番艦「有明」と六番艦「夕暮」は設計から改めたことで改初春型と呼ばれ、一時期は有明型と別物扱いである。
ただこっちも改装改装また改装なので継ぎ接ぎだらけで速力が落ちている。

異世界艦隊へ赴いた艦名より、この進水後に改造した初春型……つまり日本国召喚史における真の三~四番艦と思われるので、大改装しているものと思うが……



推測を含むが、吹雪型建造の初期にはもう計画が始まっていたであろうことが名前から推測できるので、条約非対応の綾波型や暁型……せめて条約無視型の白露型に出来なかったのかなーと考えてならない。
ただ第一次世界大戦後から着手し始めたのとお偉いさんも詳細不明な艦隊に戦力を割きたくなかったとか、だから紀伊型以外が微妙に古い面子になってるとか。
白露型は表向きは条約型で1,400t型なのだが、実際は1,700t型である。
ずるいって思いますか? アメリカも同じことやってます。
律儀に守ってたのはイギリスだけ。そして例によって問題艦が多数出来てる。Nelson級戦艦とかが……

HMS Nelson

日付:1936年
原典:Scan from Burgess, Malcolm William (1936年) Warships To-day、ロンドン: Oxford University Press、pp. facing page. 128
This UK artistic work, of which the author is unknown and cannot be ascertained by reasonable enquiry, is in the public domain because it is one of the following:
A photograph, which has never previously been made available to the public (e.g. by publication or display at an exhibition) and which was taken more than 70 years ago (before 1 January 1949); or
A photograph, which was made available to the public (e.g. by publication or display at an exhibition) more than 70 years ago (before 1 January 1949); or
An artistic work other than a photograph (e.g. a painting), which was made available to the public (e.g. by publication or display at an exhibition) more than 70 years ago (before 1 January 1949).


更に改良かつ条約脱退後の朝潮型は1935年9月7日が一番艦起工なので無理として

駆逐艦 朝雲

このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。

条約無視の白露型一番艦が1933年11月14日。

駆逐艦 夕立

日付:1936年11月30日
原典:Kure Maritime Museum, Japanese Naval Warship Photo Album: Destroyers, edited by Kazushige Todaka, p. 80
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

本型の初春型一番艦は1931年5月14日。
異世界に赴いた吹雪型(特Ⅰ型)の一番艦が1926年6月19日。
綾波型(特Ⅱ型)は1929年10月5日。
暁型(特Ⅲ型)1930年2月17日。

……筆者にはわからない。
吹雪型から初春型まで5年もあるし……土佐とか紀伊とか白露型なんか問題にならないレベルの条約無視な異世界艦隊を建造していて、ここだけ条約型で作る理由……特ⅡやⅢ型では駄目だったのだろうか……

書いたときのメモが残ってないらしいので真相は闇の中である。




駆逐艦「初霜」


駆逐艦 初霜

このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。


生まれるまでの経歴にいろいろと問題があったわけだが、その後の活躍にも問題があったかというとそうでもない。
というか日本海軍に限らず、こういう生まれに問題が合った割にはやたらと活躍したというのはちょいちょい居た。上で書いたイギリスのNelson級戦艦も実はビックセブンで一番活躍したと言って差し支えなかったりする。


そして本型にもそんなやたらと活躍したのが一隻居た。それが初春型の四番艦「初霜」である。
大日本帝国海軍最後の作戦成功となった北号作戦をはじめ、アリューシャン作戦、アッツ島沖海戦、キスカ島撤退作戦、マリアナ沖海戦、坊ノ岬沖海戦と、本当に様々な激戦に参加した武勲艦でもある。

実は進水式のときに突然急停止して支柱を折るなんて失態をしてる。
進水式はお祭りのようなもんで、軍楽隊の演奏はやるし関係者も出席するし晴れ舞台である。
なんというかいきなり先行きが不安になったのであった。このために翌月に延期。
そして上記の通り友鶴事件と第四艦隊事件とで事前に大改装してるわけで。

それがこれだけ大活躍するなんて誰が予想できたであろうか。


奇跡のキスカ島撤退作戦に、戦艦「大和」最後の突撃である坊ノ岬沖海戦での奮闘は初春型を語る上で欠かせない話題。

第一波攻撃の頃と推定される大和の写真。後部に中型爆弾2による小火災を発生させている。被雷1を受けたが大和は水平を保っている。

このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。

なんと米機動部隊の400機近い艦載機の猛攻により僚艦が被弾し、撃沈されたり、航行不能に陥る中、唯一の

  • 被弾無し
  • 戦死者ゼロ
  • 戦傷者二名(三名説もある)

という正真正銘の奇跡を成し遂げ、最終的に多くの生存者を救助して帰還した。

キスカ撤退作戦以降も上の作戦以外にも沢山護衛任務に従事してて、その中には終戦まで生き延びた艦も多い。
伊勢型とか榛名とか妙高とか。全部戦後に護衛艦になってるやつである。

彼女こそが、1914年に創設され、防護巡洋艦「利根」より始まり、「出雲」「吾妻」「平戸」「天龍」「北上」「五十鈴」「夕張」「名取」「鬼怒」「神通」「那珂」「長良」「能代」「矢矧」「大淀」「霞」と続いた第二水雷戦隊の、最後の旗艦。


終戦の半月前まで生き残っていた数少ない駆逐艦。
と言っても最後に触雷して沈没しないために擱座させてたけど、これ以外でまともな負傷はあと「若葉」の乗員救出中にやられた空襲の砲塔被弾ぐらいである。
こういった都合、欠員が出ることなくあちこちの作戦に参加したので練度が高い高い。

駆逐艦の有名所の代名詞となってる「雪風」と命運を分けたのは本当に最後の機雷だけで、場合によっては二枚看板になっていたと思われる。

駆逐艦 雪風

日付:1939年12月
原典:Kure Maritime Museum, Japanese Naval Warship Photo Album: Destroyers, edited by Kazushige Todaka, p. 94
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

とまぁ、奇跡に奇跡を重ねぬいた艦がいるのもまた初春型であるのもまた事実。
だが異世界へ行ったときには例によってこれらの武勲はこれからなわけで……やっぱりよくわからない。



さて、そんな「初霜」の戦歴を戦没まで見てみよう。
少しでも軍事が好き……特に第二次世界大戦がともなれば、彼女の活躍は涙なくして語れず、実際の所何度も筆者も筆を止めて読みふけっては視界がゆがみ読めないと言った状況になっていた。


太平洋戦争においては南方作戦及び蘭印作戦に従事。以降は北方戦線で行動しました。
ここまで何度も書いているが、坊ノ岬沖海戦からも生還。
終戦直前に機雷に触雷して沈没。

この名を持つ日本海軍の艦船としては、神風型駆逐艦の「初霜」。こちらが初代であり本艦は二代目となる。

  • 浦賀船渠で竣工。第一水雷戦隊第二十一駆逐隊に所属
  • 内海西武で対潜掃蕩に従事
  • ダバオ出撃、ケンダリー攻略作戦
  • ケンダリー出撃、マカッサル攻略作戦
  • マカッサル出撃、バリ島攻略作戦
  • アリューシャン作戦などに参加
  • 砲術学校、潜水学校の教練作業に従事
  • 大湊出撃、アッツ島沖海戦
  • 第五艦隊第一水雷戦隊に編入、内地と千島間の船団護衛に従事
  • アッツ島再占領作戦に従事
  • セミチ攻略作戦に従事
  • ケ号作戦(第一次キスカ撤収作戦)
  • ケ号作戦(第二次キスカ撤収作戦)
  • 航空母艦「雲鷹」「千歳」「瑞鳳」「龍鳳」等の護衛に従事
  • あ号作戦(マリアナ沖海戦)
  • 第一水雷戦隊の志摩艦隊に属し、台湾からマニラへの輸送任務
  • 捷一号作戦(比島沖海戦)
  • 第二次多号作戦
  • 北号作戦
  • 天一号作戦(菊水作戦)
  • 坊ノ岬沖海戦

  • 昭和20年4月8日
    沈没した「矢矧」「浜風」の生存者を救助し佐世保に帰投
  • 昭和20年6月
    宮津湾で砲術学校練習艦
  • 昭和20年7月30日
    米機の攻撃を受け対空戦闘中、任意擱坐の為湾内を移動中に触雷し、艦尾から沈み始め擱坐
 日本駆逐艦で最後の戦没艦となった

  • 昭和20年8月15日
    終戦
  • 昭和20年9月
    浮揚され舞鶴にて解体
  • 昭和20年9月30日
    除籍


「初霜」は、「キスカ島撤退作戦」と「北号作戦」の二つ大奇跡に関わった唯一の艦艇であった。

まず「初霜」は初春型四隻で第二十一駆逐隊を編成し、太平洋戦争初期は「スラウェシ島ケンダリー攻略」の増援部隊としてダバオを出向するも、道中で「長良」と「初春」が衝突して作戦中止。さらに「子日」と「若葉」まで脱落しちゃって、「初霜」一隻で増援にむかうなんていう心もとないことに。

その後「マカッサル攻略作戦、バリ島攻略、アリューシャン方面の戦い」に参加します。
7月の時点で「子日」が沈没してしまっていたが、それをひっくり返す活躍を見せた「初春型」は北方海域で活動し続けました。

一時は戦略的勝ちがないってことでアメリカもアッツ島とキスカ島を放置してたのですが、南方での勢力を取り戻すとアメリカは上からも日本を押さえ込みにかかります。

1043年3月、アッツ島海戦に「初霜」は参加しておりますが、日本は敗北。
北方海域での日本の勢力は徐々に衰えはじめ、7月に日本は北方海域拠点となっていたキスカ島の放棄を決定。
「キスカ島撤退作戦」の実施である。

連合軍の侵攻地点

日付:2008年11月15日
原典:Aleutian Islands, United States Army Center of Military History
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kiska_Island_1943.svg?uselang=ja

このファイルはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植ライセンスのもとに利用を許諾されています。

死傷者ゼロの奇跡の作戦に「初霜」は参加するのだが、濃霧がひどく「若葉」に衝突し、「初霜」の損傷は大したことなかったのだが、任務は「給油艦 日本丸」の護衛に変更されまして、「若葉」はこれが原因で作戦に支障をきたすこととなり撤退が決定。
このあとで「長波」にも接触。
作戦自体は大成功です。これは文句どこにつけるのよという状態。ただその主な要因であった霧で被害は発生していたと。

で、作戦は成功しました。でもその中身は「撤退」であるわけで。
日本は北方海域の戦線を下げざるを得ない。
「初霜」は南方へ活動拠点を移すこととなりました。
そこだと航空母艦とか輸送船とかの護衛を任されて、その護衛対象を失うこと無く完遂。彼女の存在感はすごいものでした。
当時の日本は潜水艦や空襲による輸送妨害に悩まされておりまして、それは多くの輸送船の被害にあって沈んでいきました。このへんを反映して今の自衛隊の装備がある。
損害は有りました。でも沈まないってのは重要。物資持っていけてるわけだしね。

1944年6月、「マリアナ沖海戦」で油槽船の護衛を務めるも、海戦はアメリカの反航によって敗北。


アメリカ軍の攻撃を受ける空母瑞鶴と駆逐艦2隻

日付:1944年6月20日
このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。

この時油槽船を二隻も失ってるのですが、やっぱり「初霜」が護衛してた「速吸」は健在。
同年10月に「レイテ沖海戦」には「初春」と「若葉」と共にマニラへ輸送。その後急いで本体と合流して決戦に参加する……はずであった。

が、マニラに向けて出向してすぐにエセックス級航空母艦の「フランクリン」が……

フランクリン

日付:1944年2月21日
このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。

この空襲で「若葉」は力尽き、「初霜」も被弾して二番砲塔が使用不能に。

「若葉」の乗員を救助したあと、「初霜」と「初春」は本体合流を諦めてマニラに引き返します。
決戦部隊への合流が遅れた二隻は急ぎコロン湾へ入航するが、そこには損傷した重巡洋艦「那智」が……ちなみに理由は「最上」との衝突。

海戦で敗北。マニラに戻ってきて修復します。
このあとすぐに第二次多号作戦に参加。「油槽船 能登丸」を失うものの輸送作戦は成功。
旗艦「霞」に乗っていた木村聖福少将は自ら「能登丸」の救助に向かい「初霜」らには行方異不明になっている第131輸送艦の捜索を指示。

だがマニラには悲劇が迫る。
11月5日と13日。大空襲が来ました。
「初春」の被害によって起きる煙は「初霜」を覆い隠す煙幕となり彼女は守られました。
が……これによって「初春」は沈没。

こうして初春型は「初霜」一隻のみとなる。

この時、第二水雷戦隊は生き残りの寄り合い編成で、「初霜」はここの一員となり「霞」と共に行動します。基本同型艦で構成する戦隊が、違う型による編成になっている辺りに、このときの残存艦事情がわかるかと。

12月、「北号作戦」に参加を予定するも、その前に重巡「妙高」の救助の報が入る。
マニラ湾への空襲によってシンガポールへ避難してい所だった「妙高」が再び魚雷によって損傷して艦尾が脱落。
この救援に向かったのが「初霜」なわけだが、結局駆逐艦で重巡を曳航は無理なわけで、「羽黒」へ増援要請、「妙高」をシンガポール経送り届けてます。
こんなわけで「初霜」は日本最後の勝利であった「礼号作戦」には加われなかった。

1945年1月に「呉の雪風、佐世保の時雨」と称されるほどであった幸運艦である「時雨」が沈没。幸運艦の沈没が兵士にもたらす士気への影響はよく分かるかと。
同年2月。戦艦「伊勢」「日向」らが先頭に立った輸送作戦の「北号作戦」に参加。
この作戦も例によって制空権が完全に奪われていた状態で行われて、まぁ無理だろうぐらいのつもりで……でももしかしたらというような状態でやったら成功しました。しかも無傷。

これが「初霜」の二大奇跡。「キスカ島撤退作戦」と「北号作戦」である。
この両方に参加した唯一の艦艇が彼女であった。


そして4月。

「初霜」は、「大和」を中心とした「天一号作戦」の護衛に就く。

このときの「初霜」の兵装は大戦末期の主砲1基を撤去し、25mm三連装3基・連装1基・単装10基・13mm単装4基、さらには13号・22号電探とかなりの重装備を施した艦となっている。

先の「北号作戦」もそうだが、この作戦は玉砕前提の物であり、沖縄上陸をなんとしても阻止スべく「大和」を沈める覚悟で実施された。
国の名を冠した世界最大の戦艦を含めた艦隊が玉砕前提という辺りにどれほどの覚悟があったのかを察してください。
「初霜」は「坊ノ岬沖海戦」で「大和」の左舷後方に位置。輪形陣を取り、帝国海軍は最後の海戦へと挑みました。

道中、無念にも「朝霜」が機関故障により戦闘前に落伍。一隻を欠いた帝国海軍は「大和」を中心に航空機に向けて攻撃を開始。

艦載機の攻撃を受け、回避行動を取る大和。

日付:April 1945
このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。


やがて「朝霜」が、「浜風」が撃沈。「矢矧」「霞」が航行不能となり、「初霜」は「矢矧」の落伍によって空白となった「大和」の前方へ回り込みます。

魚雷と爆撃による猛攻を受ける矢矧

日付:April 1945
このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。

「大和」は空襲によって通信機能が麻痺しており、その任を「初霜」に預けました。
「初霜」は懸命にも「大和」を守り、そして各感の通信に耳を傾け、信号を受け取り続けました。

しかし14時20分。
日本の誇りであった戦艦「大和」はついにその巨体を支えることが出来なくなり、炎上、爆沈。
「大和」は、「初霜」が失った唯一の護衛艦であった。

大和の爆発

日付:1945年4月7日
このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。

だがこの戦闘での「初霜」の被害。わずかに負傷者二名(三名説も有り)。
異常なまでの被害の少なさである。
何度も書くが、戦艦「大和」が撃沈されるほどの大空襲の中、最後は「大和」前方に位置しながらこれである。

「初霜」は「矢矧」や「浜風」の乗員を救助し、その後「霞」や「磯風」の雷撃処分を「雪風」と共に行いました。

「坊ノ岬沖海戦」によって、多くの駆逐艦も「大和」と共に散り、生き抜いたのは
「初霜」
「雪風」
「冬月」
「涼月」
以上四隻。

このような大激戦の中、旧式でかつて失敗作の烙印を押された初春型の「初霜」がこれほどの偉業を成し遂げ、最終的に多くの生存者を救助して帰還したのだ。
「初霜」は「矢矧」「浜風」の乗員を救助。その後、「矢矧」に乗艦していた第二水雷戦隊の古村啓蔵司令官を救助、並びに二水戦将旗を収容。
最終的には乗員430名を含め、総勢約740名が乗っていた。


この戦いを終えた第二水雷戦隊は、同時にその歴史にも幕を閉じる。
上記の通り、「初霜」を最後の旗艦として、彼女の甲板上で解散となった。
6月には宮津湾で砲術学校練習艦となるが、7月30日、空襲に合う。

その際に海中にあった機雷に触雷。

ここまで懸命に戦い抜き、その被害も恐るべき少なさであった「初霜」であったが、終戦わずか半月前の触雷により大破。
沈没を免れるために擱座した。


宮津湾において擱座した初霜。1947年。

日付:1947年
原典:福井静夫(著)『終戦と帝国艦艇 -わが海軍の終焉と艦艇の帰趨-』
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

戦闘から護衛まで、自身も守った艦も殆ど被害を出さず、そして二度の大奇跡を経験した「初霜」の武勲は、「雪風」「時雨」に匹敵するものであった


戦後、山田記念病院の山田正明医学博士は、大阪帝国大学の医学部を卒業後、大学の医局を経て日本海軍の軍医として駆逐艦「初霜」の軍医長等を歴任。海軍軍医少佐として任務を終了しました。

山田記念病院は昭和22年10月、墨田区に山田病院を開設したことに始まり、同院のシンボルマークは「錨」である。

そのシンボルマークの「錨」は、病院正面玄関にある錨を表したものであり、山田正明医学博士が戦前に海軍軍医少佐であった思い出のものである。

歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨だ。

初霜錨、山田記念病院

日付:2015年8月2日
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:初霜錨.jpg?uselang=ja
このファイルはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承 4.0 国際ライセンスのもとに利用を許諾されています。


「雪風」は舵輪だけが残されたが、「初霜」もまた、現在にその姿を一部ではあるが残している。

2019年2月11日現在、「初霜」の名前は海上自衛隊には受け継がれていない。
坊ノ岬沖海戦で共に生存した「雪風」は戦後すぐに、「涼月」「冬月」も2014年に同時就役を果たした新鋭艦が継承したので、残る彼女の復活も心待ちにしたいものである。

なお「初霜」は二代目で、初代は神風型(初代)のニ番艦。国産駆逐艦としては最古参の艦であった。他の第二十一駆逐隊もこの頃からの姉妹である。


ただし、海上保安庁の巡視艇にはその名が存在した。
しらうめ型巡視艇「はつしも(CL-61)」である。元海軍の内火艇である。





駆逐艦「梨」と護衛艦「わかば」



ぶっちゃけ初春型とは全く違うんだが、名前を継承した護衛艦ということで合わせて解説しようと思う。
もちろんただ継承しただけではやらない。筆者は他の護衛艦も巡視船も全部書いているが、こんごう型護衛艦のところに金剛型戦艦のことは書いてない。

じゃあなんでかというとだ。
この護衛艦は、海上自衛隊で唯一の帝国海軍所属という経歴をもっていたのだ。
ちなみに海上保安庁にも上の「CL-61 はつしも」とかこんな感じのは何隻かいたんだが、海自は「わかば」一隻のみである。

そんな彼女の数奇な運命について聞いてほしい。

駆逐艦「梨」の前にまずは松型及び橘型駆逐艦について簡単に紹介しよう。さすがにここは上にみたいにガッツリとまではねうん……

日本海軍駆逐艦「橘」(橘型もしくは改丁型)。1945年1月(竣工時)の兵装配置図

https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Fig_of_IJN_DD_Tachibana_1945.gif
このファイルはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植ライセンスのもとに利用を許諾されています。

「梨」は橘型駆逐艦である。
松型及び橘型駆逐艦とは、太平洋戦争中に大日本帝国海軍によって建造された戦時急造型駆逐艦である。ただこの両型は書類上では区別されてない。

両型の特徴を簡単に並べてみよう。

  • 全長100mほどと小さい
  • 建造期間が短い
  • 機関配置を見直したから航行不能にはなりにくい
  • 駆逐艦としてはだいぶ速力が遅い(30ノット未満)
  • 航続距離も短い
  • 雷装が簡略化
  • 対艦戦闘よりは対空対潜戦闘向き

とまぁ、今まで作ってきた駆逐艦と比べてだいぶ仕様が違うことがわかると思う。
……これをもっと前から本格的に作ってやってたらいろいろと変わってたんだろうね……

とにかく、今までの仕様とはだいぶ違うわけで、なんでこれが採用されたかを語ろう。

特型駆逐艦……つまり吹雪型以降の日本海軍は駆逐艦を高性能化して大型化を続けた。
その結果、秋月型で大正時代に作られた軽巡洋艦「天龍型」に匹敵する性能と大きさになってしまった。駆逐艦とは何だったのか。

そんなわけで、こんなに高性能なもんだから建造には時間がかかりました。
具体的に例を出しますと、各一番艦にかかった時間が

夕雲型駆逐艦→一年半
秋月型駆逐艦→二年
島風型駆逐艦→一年九ヶ月

話は変わり1942年8月。ガダルカナル島の戦いが始まり、日本海軍は輸送作戦や夜戦で多数の艦隊型駆逐艦を失う。だから補充が必要。

でも最新鋭は上記の通り時間が掛かるから損失を埋められない。そんなに時間はない。
ここで日本海軍は、個艦性能が高くても米軍の物量にはかなわないと悟る。なにしろあっちは週刊だったり月刊だったりで航空母艦を作る国である。しかも結構な性能のやつを。

だから小型で、建造期間が短くて、国内の資源と建造能力に見合った駆逐艦への転換を図ったと。
あと輸送艦の護衛が甘かったからどんどん沈められていったという事実をほっとくわけにも行かなくて、輸送艦を護衛するために対空対潜兵装の強化も迫られた。後期まで生き残っていた艦はだいたいが対空強化されてる。

実戦だとこれまでの駆逐艦はみんなボイラー室と期間室のどちらかに浸水すると航行不能になるような防御上の欠点が明らかになって、新しいシフト配置に転換することを決定。ちなみにこの時米軍艦艇は全部シフト配置。

シフト配置というのはこういうの。
B:ボイラー
T:蒸気タービン
G:変速機


-+---------+---------+------------
| □(B)□-+-■(T)■-+-■(G)■---
-+---------+---------+------------
| ■(T)■-+-■(G)■-+-□(B)□---
-+---------+---------+------------
            ↑

この矢印のところで被弾すると、蒸気タービンとボイラーがやられるわけだが、それぞれ別の場所にどっちも残ってるわけじゃないですか。
だからボイラーと蒸気タービン、変速機がそれぞれ残ってるわけで、一気に航行不能になる事は避けられると。

で、これらの条件を満たして生まれたのが松型と橘型駆逐艦というわけである。

  • 対空兵装が強化されて
  • 工期短縮のために建造には溶接を多用して
  • 日本の特徴だった曲線構造をやめて平面構造を多用して
  • 低速だから操作性を重視して艦幅や喫水を全長に対して大きめに設計して
  • 艦隊材料の鋼材も今まで使ってた特殊鋼ではなく高張力鋼やら普通鋼を多用して(橘型は全部普通鋼)
  • 単装機銃を中心とした対空兵装を増備して
  • 海防艦で使ってたブロック工法を採用(橘型のみ)

めちゃくちゃ工夫されてる。

さて、なんで遅くて雷装まで簡略化されてるのかというとだ。
遅いのは鴻型水雷艇の機関を流用したからである。水雷艇……小さいやつだからね……それはしょうがない。大量生産が必要だったからしょうがないんだが。
じゃあ雷装はというと……一応搭載はしてます61cm4連装九二式魚雷発射管を。
雷撃戦に必要なのは目標艦に対する優速の維持なのである。つまり相手より早くないと駄目……というわけで遅い彼女らに水雷戦を求めるのは厳しいと……無くても良かったんじゃないかなこれ。

とりあえず島風型駆逐艦と松及び橘型と、米軍で一番作られたフレッチャー級を比べてみよう。

島風型 松型 橘型 フレッチャー級
基準排水量(t) 2,567 1,262 1,262 2,050
満載排水量(t) 3,323 1,686 1,530 2,500
全長(m) 129.5 100 100 114.8
最大幅(m) 11.2 9.35 9.35 12
吃水(m) 4.36 3.52 3.30 3.8
最大出力(馬力) 75.00 19.00 19.00 60,00
最大速(ノット) 40.37 27.8 27.8 36.5
航続距離(ノット/海里) 6,000/18 3,500/18 3,500/18 6,500/15
燃料(t) 635 370 370
乗員(人) 294 289 276 329
主砲 50口径三年式12.7センチ連装砲D型改一×3 40口径八九式 12.7cm高角砲単装砲×1
40口径八九式 12.7cm高角連装砲×1
40口径八九式 12.7cm高角砲単装砲×1
40口径八九式 12.7cm高角連装砲×1
38口径5インチ単装砲×5
魚雷 零式5型5連装魚雷発射管×3 九二式4連装発射管4型×1
(予備魚雷無し)
九二式4連装発射管4型×1
(予備魚雷無し)
533mm 5連装魚雷発射管×2

遅いよね? 比較対象が日本最速とはいえ。
そんなわけで、水雷戦は困難と……だから簡略化されました。とはいえ、松型駆逐艦の「竹」だけはこの雷装で敵駆逐艦の撃沈をしています。

「竹」が撃沈した米駆逐艦「クーパー」

日付:1944年3月25日
Official U.S. Navy Bureau of Ships photo 19-N-64350 available at navsource.org; Originally from en.wikipedia; description page is/was here.
このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。


さて、そろそろ肝心の「梨」について語ろう。
1945年1月17日に進水し、同年2月9日に神戸川崎造船所内に設置された梨艤装員事務所が事務仕事を開始。
同年3月15日に竣工、その艤装院長だった高田敏夫少佐が梨の艦長に任命。この人は「望月」「初雪」「陽炎」「能代」の水雷長を歴任した水雷屋ですね。戦後は「雪風」の艦長を務め復員輸送に従事。
なおこの日はアメリカが硫黄島の完全占拠を発表した日である。

竣工を持って即日第十一水雷戦隊に配属。ただし燃料事情の都合訓練後悔は月に数回のしかも日帰り。
だから練度は不十分。もう硫黄島まで失ってる状況だしねこの時……
なので停泊中は水泳訓練とか日本軍の戦闘機と米軍の戦闘機の識別訓練とかやってた。燃料使わない範囲で出来る中ではかなり重要なやつだな。なお3月。

で、上でも書いた天一号作戦への参加が予定されていたが、結局中止。……まぁ流石にこれはいてもいなくても変わらん。

同年5月20日。「梨」と同型艦の「萩」は第十一水雷戦隊・第三十一戦隊所属の第52駆逐隊へ転属して、5月25日付で海上挺進部隊の所属艦となる。

海上挺進部隊というのは、本土に上陸してきたアメリカを奇襲するための部隊である。
具体的には回天の母艦になれってことである。結局その前に終戦したが。

回天って何?って人のために簡単に解説するが、神風特攻隊ってあったじゃない? 
あれ飛行機で敵艦へ突撃するじゃない? 有人かつ脱出せずに。
これの魚雷版が回天。

で、「梨」もここに所属することになったもんだから同年7月にその搭載運用能力を付与されて回天基地があった山口県平尾に行ってそれ用の訓練に従事。
でも結局実戦には投入されず。

その回天の訓練中であった7月24日と25日に、敵艦載機が西日本へ攻撃。25日に山口県牛島沖に居た「梨」は十数機と交戦し、なんと2機も撃墜した。これが初の戦果である。

F6F-3

日付:1943年初頭
U.S. Navy photo 80-G-K-605
このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。

機体は撃破したがパイロットはPBYという飛行艇で救助されてしまった。射程外で狙えなかったんだとか。飛行艇ってのは紅の豚で登場してた飛行機。

そんで7月26日に第52駆逐隊の他の駆逐艦と合流して、山口県平郡島沖で4隻の合同訓練。
28日、平群島北岸沖にて停泊中に、早朝から午後にかけてアメリカ空母機動部隊の、またF6Fによる攻撃を複数回受けて、午後に弾薬庫に入ってたロケット弾に命中したのが致命傷となり、午後2時に転覆。

このせいで、駆逐艦は戦闘機……この場合制空戦闘用の艦載機に撃沈された駆逐艦という記録を持つことになる。
なんというか倍返しされてしまったということに。
一応言っておくが機銃掃射でやられたわけではないぞ。HVARというロケット弾を搭載してた上に数も居たから仕方ないといえばそうなんだが。
これによる戦死者は38名。行方位不明も合わせると60名がなくなった。生存者155名は随伴艦の「萩」や地元漁師の義勇隊に救助されて、「萩」で翌日に「呉」に帰還しました。

そんなわけで、ほとんど停泊と演習で一生を終えて、戦果は敵機2機撃墜。
こうして、短い艦歴を終え眠りにつくのだった。





……と、言う感じで終わるのであれば初春型の項目に書くわけがないわけで。
ここまでは駆逐艦「梨」の人生、というか艦生……艦歴? である。
この艦。護衛艦として海上自衛隊で運用されてた期間のほうが長い。

ここからが、戦時中の武勲艦である初春型三番艦「若葉」の名前を継承した、護衛艦「わかば」の歴史である。

沈没して海底に放置されてたのだが、1954年9月21日……沈没して9年が経過したところで北星船舶工業によってスクラップにする予定で浮遊されました。


1954年9月21日
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。


ちなみにこの会社は「梨」だけじゃなく、なんか3という数字に悪い縁がある会社で……
悲劇が多発した伊33という3が2つもついてる潜水艦の浮遊解体もやったんだが、3人有毒ガス中毒でなくなってる。ちなみにこの伊33の沈没地点の近くにDASH島がある。

「梨」は9年も海中にあった割には状態が良かったもんだから、解体辞めて当時の防衛庁に売り込みました。撃沈したの戦闘機だしね。
上の画像の通り、結構原型が残ってる。

防衛庁は「梨」を購入して再就役させる計画を立てて、だいたい9億円ぐらいで北星船舶工業から「梨」の残骸を購入し、1955年5月12日に海上自衛隊に編入、同月30日、「海上自衛隊海上警備艦 わかば」と命名。

護衛艦「わかば」

海上自衛隊公式HP http://www.mod.go.jp/msdf/2el/2elhen/index.html

上でも書いているが、本艦は海上自衛隊に在籍した唯一の日本海軍の戦闘艦艇である。
更にいうと、現在までに唯一の明確な敵国と戦闘を経験した護衛艦でもある。
掃海艇とかは何隻か前例がったんだが、戦闘艦は本当に海保含めても本艦だけ。


名前が変わった理由は海上自衛隊では自衛艦の名前をひらがな表記にする決まりがあって、それに沿ってしまうと「梨」だから「なし」になって、「名前なし」と勘違いするのを防ぐためである。これが「梨」以外だったらそのままだったのかもしれないね。

同年9月10日に呉造船で修復工事が開始し、翌年5月に完了。海上警備艦として就役して横須賀地方隊第11護衛隊に編入され、その後も主に横須賀に配備されておりました。
ちなみに修復費は約3億4500万円(当時)かかったそうです。
現代換算しますと、1955年の国家公務員の大卒の初任給が9700円で、2019年2月11日現在がだいたい20万強。
よって購入費を含めて250億円ぐらいに相当する。なお参考は人事院のHPです。
ついでに当時の同警備隊所属の護衛艦、つまりDEだといかづち型が相当するんだが、当時の価格で16億円である。まぁ改装だしねこっちは。


わかば
建造所 川崎重工業 神戸艦船工場 呉造船所(修復工事)
運用者 大日本帝国海軍 海上自衛隊
艦種 駆逐艦 警備艦→護衛艦
級名 橘型駆逐艦 わかば型警備艦
艦歴
進水 1945年1月17日 1954年9月21日
(浮揚作業完了)
竣工 1945年3月15日 1955年9月10日(修復工事開始)
1958年3月26日(再就役)
最期 1945年7月28日
沈没
1975年5月
古沢鋼材に売却
除籍 1945年9月15日 1971年3月31日
要目
基準排水量 1,350トン 1,250トン
全長 100.0m
最大幅 9.35m
吃水 3.40m 3.28m
(兵装搭載前は3.1m)
主機 艦本式三号丙型蒸気タービン 2基
出力 15,000PS
推進器 スクリュープロペラ 2軸
速力 最大速 25.5ノット
燃料 370t 395t
航続距離 18ktで3,500海里 16ktで4,680海里
乗員 211名 175名
兵装 八九式 12.7cm(40口径)高角砲単装1基
同連装
1基 Mk.33 Mod0 50口径3インチ連装砲(2次) 1基
九六式 25mm機銃 3連装
単装
4基
12基
54式対潜弾発射機(2次) 1基
九二式 61cm4連装魚雷発射管
(予備魚雷なし)
1基
4門
54式爆雷投射機(K砲)(2次) 4基
二式爆雷 36発 54式爆雷投下軌条(2次) 2条
回天 1基 65式533mm連装魚雷発射管(5次) 1基
レーダー AN/SPS-12 対空(2次)
Mk.34 射撃用(2次)
US SO 水上(2次)
AN/SPS-8B
高角測定(3次新設、6次撤去)
Mk.63 Mod11 射撃指揮装置 (2次)
ソナー SQS-11A 捜索用(3次)
SQR-4/SQA-4 攻撃用(3次)
T-3 国産試作ソナー(4次)
電子戦
対抗手段
OLR-4 ESM (2次)

艦橋はあけぼの型という当時の警備艦に準じたものに新造。機関部は9年も浸かってたもんだからかなり念入りに修繕したけど、結局この近くでは話もできないような雑音を放っていたのだそうな。

リムパック2010に参加中の「あけぼの」

日付:2010年7月24日
US Navy 100724-N-1004S-343
このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。

さて、なんでこんな大金払ってまで再就役させたのだろうか。新造すればこんな異常はないし楽だろうし。国会でもさんざん問題視された上に当事者も亡くなってるから不明なんだが。

よくある説としては「梨」は実用性より海上自衛隊が自認してる、旧海軍後継機関としての血統証の意味合いが強かったのではないかというものである。当時の艦艇を引き続き使うってことだから十分アピール出来るな。海保もそうである。というか海保の方がこの色合強い。

で、「わかば」となった「梨」は初期は無兵装で練習艦任務をやってました。
だが1957年9月に乙型警備艦となり、浦賀船渠で第二次改装が行われ、兵装や電子機器を搭載。
その後部隊を何度か転属し、1960年に第三次改装SPS-8B高角測定レーダーやソナーなんかが装備され、レーダーピケット艦という感じの艦になった。

わかばに搭載されたAN/SPS-8高角測定レーダー
(写真はアメリカ海軍巡洋艦「プロビデンス」に装備されたもの)


日付:1970年7月12日
http://www.history.navy.mil/photos/sh-usn/usnsh-p/clg6-t.htm
このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。

同型艦が無いから運用には苦労があったそうな。

レーダーピケット艦何ぞっていう人が多いだろうから解説しよう。
これは機動部隊の目である。機動部隊をレーダーで情報収集して、機動部隊の本体にその情報を送信するのが役目である。フレッチャー級とかにもこれになった艦が居た。

これを聞くと海自に機動部隊なんて無いだろって思うだろう? 今こそそれっぽくなろうとしてるのがあるが。
あくまでレーダーピケット艦『的』な内容の艦なのだ。話を戻す。

で……ここまで活躍は特になし。そらそうだ戦時中でもないんだから活躍の機会は無いほうが良い。ソ連とか面倒なのは居たが本艦横須賀にあったわけだし。

だがこのあとで来た。1962年に三宅島が噴火。
これの島民の避難輸送に従事。国民を守る大事な役割である。

溶岩流・噴石・砂礫分布(1971年気象庁技術報告第75号)

日付:1962(昭和37)年8月24日
気象庁公式HP https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/rovdm/Miyakejima_rovdm/miyakejima_1962.html

が、これが最後であった。
特に目立つことはなく、新兵器の試験艦任務をやったあと、1971年に除籍、解体され艦生を終えたのであった。

これが初代神風型駆逐艦三番艦「若葉」、そして二代目初春型駆逐艦三番艦「若葉」の名前を継承した三代目。
海上自衛隊の「乙型警備艦 DE-261 わかば」である。


ちなみに「わかば」の乗組員は、かつての「梨」の乗組員が優先的に配属されており、補給長は元「梨」の主計兵だそうな。
いろいろ改装したとはいえ同じ艦だしね。元乗組員を優先させるのは合理的である。

あと、なんか幽霊騒ぎがちょいちょい起きてる。
行方不明者合わせて60名も亡くなったから居ても不思議はない。


ちなみに「梨」時代の装備のうち、前部高角砲と魚雷発射管は江田島の海上自衛隊第一術科学校で展示されてます。
自衛隊のOBの人が毎日無料ツアーを実施してるから、観光先としても人気です。ぜひ行ってみてください。

駆逐艦梨に搭載されていたja:四十口径八九式十二糎七高角砲(単装)。海軍兵学校 (日本)似て撮影。

日付:2014年7月26日, 11:27:15
https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Type89_12.7cm_AA_GUN01.jpg
{このファイルはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承 4.0 国際 ライセンスのも
とに利用を許諾されています。}

駆逐艦梨に搭載されていた92式ja:魚雷発射管。海軍兵学校 (日本)似て撮影。

日付:2014年7月26日, 11:30:12
https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Type92_Torpedo_launchers_02.jpg
{このファイルはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承 4.0 国際 ライセンスのも
とに利用を許諾されています。}


なお、「梨」がその還暦を終えた所である平群島では毎年7月に慰霊祭をやってます。
1987年10月25日に有志によって建立された慰霊碑に刻まれた文章を最後に掲載しよう。

「長深山沖の海戦
 祖国の彌栄を念じ
 何の疑いもなく 
 情熱を燃やして散華せられた
 方々に深く感謝をせずにはおられません 
 平郡島民有志」

「梨艦ノ記
昭和二十年三月神戸川崎造船所デ竣工シ
本土防衛ニソノ機能ヲ発揮シタ
然ルニ同年七月二十八日
長深山沖ノ海戦デ敵機延ベ百五十機ノ攻撃ヲ受ケ
奮戦スルモ遂ニ爆沈
ソノ栄光ノ幕ヲ閉ジタ
ココニ海底深ク眠ル御霊ヲ祀ルト共ニ
恒久ノ平和ヲ念ジテ建立ス
昭和六十二年十月吉日 梨艦戦友会有志一同
同 遺族会有志一同」





初春型の戦歴


このあと反省をもとに改良強化をした陽炎型やら夕雲型やらの高性能艦隊型を作ったんで、主に護衛とか対潜掃討の任務が多い。
多分魚雷射線数の不足が原因なんじゃないかなーと思う。せっかく次発装填装置つけたのに。

とはいえ、主力艦の不足により本型も正面作戦に転用。他の駆逐艦に劣らぬ戦果を叩き出しました。
元々が超高性能型を目指して結局そうならなかった本型が、超高性能型に劣らぬという当たりなんとも皮肉というかなんというか。
特に上記の通り「初霜」は「時雨」や「雪風」に並べられるような代表して戦史に名前を上げてもよいほどの戦果となっている。

1931年
昭和6年
5月14日 「初春」 起工
12月15日 「子日」 起工
12月12日 「若葉」 起工
1932年
昭和7年
12月22日 「子日」 進水
1933年
昭和8年
1月14日 「有明」 起工
1月31日 「初霜」 起工
2月27日 「初春」 進水
4月9日 「夕暮」 起工
9月30日 初春型一番艦「初春」 竣工

※1
初春型二番艦「子日」 竣工

※2
11月4日 「初霜」 進水
1934年
昭和9年
3月12日 友鶴事件
3月18日 「若葉」 進水
5月6日 「夕暮」 進水
9月23日 「有明」 進水
9月27日 初春型四番艦「初霜」 竣工

※2
10月31日 初春型三番艦「若葉」 竣工

※1
1935年
昭和10年
3月25日 初春型五番艦「有明」 竣工

※1
3月30日 初春型六番艦「夕暮」 竣工

※2
9月26日 第四艦隊事件
1939年
昭和14年
9月1日 ドイツ、ポーランド侵攻
イギリス及びフランス、ドイツへ宣戦布告
第二次世界大戦開始
1940年
昭和15年
6月 フランス降伏
1941年
昭和16年
12月8日 大日本帝国 英米に宣戦布告
真珠湾攻撃
ウェーク島沖海戦
12月10日 マレー沖開戦
1942年
昭和17年
1月24日 バリクパパン沖海戦
「初春」セレベス・ケンダリーにて軽巡「長良」と衝突
1月27日 エンドウ沖海戦
2月19日 バリ島沖海戦
2月24日 アメリカ本土攻撃
2月27日 スラバヤ沖海戦
3月1日 バタビヤ沖海戦
4月5日 セイロン沖海戦
5月7日 珊瑚海海戦
6月5日 ミッドウェー海戦
7月5日 「子日」 戦没
7月31日 「子日」 除籍
8月8日 第一次ソロモン海戦
8月24日 第二次ソロモン海戦
1943年
昭和18年
7月20日 「夕暮」 戦没
7月28日 「有明」 戦没
10月11日 サボ島沖開戦
10月16日 「初春」キスカ島沖にてB26マローダー双発爆撃機の攻撃を受け損傷
戦死者2名負傷者14名

※3
10月26日 南太平洋海戦
11月12日 第三次ソロモン海戦
11月30日 ルンガ沖夜戦
1月29日 レンネル島沖海戦
2月1日 ケ号作戦(ガダルカナル島撤収作戦)
3月2日 ビスマルク海海戦
3月5日 ビラスタンモーア夜戦
3月27日 アッツ島沖海戦
4月7日 フロリダ沖海戦
7月5日 クラ湾夜戦
7月12日 コロンバンガラ島沖海戦
7月26日 「若葉」と「初霜」、キスカ島沖にて衝突
7月29日 ケ号作戦(キスカ島撤退作戦)
8月6日 ベラ湾夜戦
8月17日 第一次ベララベラ海戦
9月8日 イタリア 降伏
10月6日 第二次ベララベラ海戦
10月15日 「有明」 除籍
「夕暮」 除籍
11月2日 ブーゲンビル島沖海戦
11月25日 セントジョージ岬沖海戦
12月26日 「有明」ニュージョージア島北方にてB24四発重爆の攻撃を受け損傷
28名戦死40名負傷
1944年
昭和19年
6月2日 第二次渾作戦発令
6月4日 第二次渾作戦 中止
6月19日 マリアナ沖海戦
10月12日 台湾沖航空戦
10月23日 レイテ沖海戦
10月24日 「若葉」 戦没
10月29日 多号作戦
11月13日 「初春」 戦没
12月2日 オルモック湾夜戦
12月10日 「若葉」 除籍
12月26日 ミンドロ島沖海戦
1945年
昭和20年
1月10日 「初春」 除籍
3月10日 東京大空襲
3月12日 名古屋大空襲
3月13日 大阪大空襲
3月15日 松型駆逐艦「梨」就役
後の護衛艦「わかば」
3月17日 神戸大空襲
3月19日 呉軍港空襲
4月7日 坊ノ岬沖海戦
5月16日 ペナン沖海戦
5月7日 ドイツ降伏
7月24日 呉軍港空襲
7月28日 「梨」 戦没
7月30日 「初霜」 戦没
これを持って日本海軍は「初春型駆逐艦」の全艦を失う。
また、大日本帝国海軍駆逐艦における最後の戦没艦ともなる
9月15日 「梨」 除籍
9月30日 「初霜」 除籍
8月6日 広島市に原爆投下
8月9日 長崎市に原爆投下
8月14日 ポツダム宣言受諾
9月2日 日本 降伏文書調印 終戦へ
1952年
昭和27年
4月28日 サンフランシスコ平和条約 発行
1954年
昭和29年
9月21日 北星船舶工業 旧帝国海軍駆逐艦「梨」を沈没地点より浮揚
1955年
昭和30年
5月12日 防衛庁「梨」購入
海上自衛隊へ編入

※4
9月10日 「梨」 警備艇化工事開始
5月30日 「梨」 警備艦「わかば」と命名
9月10日 「わかば」 呉造船において修復工事を開始
1956年
昭和31年
5月31日 海上自衛隊 わかば型警備艦「わかば」編入。
海上自衛隊所属艦艇唯一の日本海軍所属歴のある戦闘艦艇である
1957年
昭和32年
9月1日 「わかば」 艦種記号と艦番号が付与され「DE-261」となる
9月1日 「わかば」 浦賀船渠にて第2次改装
1958年
昭和33年
3月26日 乙型警備艦「わかば (DE-261)」再編入
3月28日 「わかば」 第2次改装を完了し再就役
1959年
昭和34年
3月10日 ありあけ型護衛艦一番艦「DD-183 ありあけ」 就役
元フレッチャー級駆逐艦「USS DD-663 ヘイウッド・L・エドワーズ」である

※2
ありあけ型護衛艦二番艦「DD-184 ゆうぐれ」 就役
元フレッチャー級駆逐艦「USS DD-664 リチャード・P・リアリー」である

※2
1960年
昭和35年
9月2日 「わかば」 浦賀船渠にて第3次改装
10月1日 「わかば」 艦種分類改訂に伴い艦種を警備艦から護衛艦に変更
1962年
昭和37年
2月2日 「わかば」 浦賀船渠にて第4次改装
8月24日 「わかば」 三宅島昭和第2次噴火に際し島民の避難輸送に従事
10月 ありあけ型護衛艦 特別改装工事
1963年
昭和38年
2月13日 「わかば」 浦賀船渠にて第5次改装
12月10日 「ありあけ」 再改装
1970年
昭和45年
7月24日 「わかば」 浦賀水道にて小型タンカー「第3長和丸」と接触し損傷
1971年
昭和46年
3月31日 DE-261「わかば」 除籍
1974年
昭和49年
3月9日 DD-183「ありあけ」 除籍
DD-184「ゆうぐれ」 除籍
2002年
平成14年
3月6日 海上自衛隊 むらさめ型護衛艦九番艦 DD-109「ありあけ」 竣工

※4
2003年
平成15年
4月10日 「ありあけ」 テロ対策特別措置法に基づき、護衛艦「こんごう」、補給艦「はまな」と共にインド洋に派遣
8月22日 「ありあけ」 帰国
2004年
平成16年
5月17日 「ありあけ」 テロ対策特別措置法に基づき、護衛艦「こんごう」と共にインド洋に派遣
9月19日 「ありあけ」 帰国
2006年
平成18年
「ありあけ」 環太平洋合同演習 (RIMPAC)に参加
2008年
平成20年
3月26日 「ありあけ」 護衛隊改編により第3護衛隊群第7護衛隊に編入
11月10日 「ありあけ」 新テロ特措法に基づく補給支援活動のため補給艦「とわだ」とともに出港
2009年
平成21年
4月27日 「ありあけ」 帰国
2012年
平成24年
9月20日 「ありあけ」 ウラジオストク港とその周辺海域で実施される日露捜索・救難共同訓練に参加するため出航し同月23日にウラジオストク港に入港、護衛艦「おおよど」と共に同月26日に訓練を実施し、同月29日に帰港した
2013年
平成25年
7月29日 「ありあけ」 第16次派遣海賊対処行動水上部隊として護衛艦「せとぎり」と共にソマリア沖へ向けて出航
2014年
平成26年
1月15日 「ありあけ」 帰港
2016年
平成28年
3月19日 「ありあけ」 護衛艦「せとぎり」、練習潜水艦「おやしお」とともに外洋練習航海に参加

※1
日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1:1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
2:1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。

※2
このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します (17 U.S.C. §105)。

※3
この画像ファイルはアメリカ合衆国空軍に属する者が職務上作成したものです。これはアメリカ合衆国連邦政府が業務上作成した著作物と見做されるため、この画像ファイルもパブリックドメインとなります。

※4
海上自衛隊公式HP http://www.mod.go.jp/msdf/


作:日本国召喚wiki管理人

参考資料


アジア歴史資料センター(公式) (防衛省防衛研究所)
Ref.C05023511000 『第2094号 8.11.2駆逐艦初霜工事概括表の件』。
Ref.C05023511100 『官房第5025号 9.11.17初霧の進水に関する件』。
Ref.C08030019800 『昭和19年11月1日~昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(1)』。
Ref.C08030038600 『昭和19年10月1日~昭和19年11月15日 捷号作戦戦時日誌(7)軍艦能代・軍艦妙高』。
Ref.C08030087300 『昭和19年9月1日~昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
Ref.C08030087400 『昭和19年9月1日~昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
Ref.C08030103000 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
Ref.C08030103100 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
Ref.C08030103200 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
Ref.C08030127700 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4)』。
Ref.C08030127800 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(5)』。
Ref.C08030127900 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(6)』。
Ref.C08030128000 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(7)』。
Ref.C08030128100 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(8)』。
Ref.C08030147700 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(8)』。
Ref.C08030147800 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(9)』。
Ref.C08030246100 『昭和16年12月8日~昭和18年8月31日 第1根拠地隊戦時日誌(1)』。
Ref.C08030566400 『昭和20年4月6日~昭20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報』。
Ref.C08030589600 『昭和19年10月24日 第21駆逐隊捷1号作戦戦闘詳報』。
Ref.C08030590200 『昭和19年10月29日~昭和19年11月13日 第18駆逐隊(霞)戦闘詳報』。
Ref.C08030685300 『昭和19年5月1日~昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(3)』。
Ref.C08030749900 『軍艦矢矧艦歴等 (附機関参謀大迫吉二氏沈没当時の回想記)』。
Ref.C08030753300 『昭和17年12月9日~昭和18年8月22日 駆逐艦電戦闘詳報原稿 その2(5)』。
Ref.C08030763700 『昭和19年6月20日 特設運送船玄洋丸戦闘詳報 (対空戦闘)』。
Ref.C11080578900 『第267号 昭和10年1月23日艦船起工並に竣工細目写送付の件』。
Ref.C12070095800 『昭和7年達完/12月(5)』。
Ref.C12070164300 『昭和17年7月~9月 内令 3巻/昭和17年7月分(4)』。
Ref.C12070178900 『昭和18年7~8月 内令3巻/昭和18年7月(1)』。
Ref.C12070181100 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(1)』。
Ref.C12070181400 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(4)』。
Ref.C12070182500 『昭和18年11~12月 内令 5巻/昭和18年11月(6)』。
Ref.C12070496100 『昭和19年8月~9月 秘海軍公報』。
Ref.C12070497400 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報号外/10月(2)』。
Ref.C12070497900 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報号外/11月(3)』。
Ref.C12070498100 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報号外/12月(1)』。
Ref.C12070498200 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報号外/12月(2)』。
Ref.C12070503600 『昭和20年1月. 至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)』。
Ref.C12070503900 『昭和20年1月. 至昭和20年8月秘海軍公報/2月(2)』。
Ref.C12070504300 『昭和20年1月. 至昭和20年8月秘海軍公報号外/3月(2)』。
Ref.C12070504700 『昭和20年1月. 至昭和20年8月秘海軍公報/4月(3)』。
Ref.C12070505000 『昭和20年1月. 至昭和20年8月秘海軍公報/5月(3)』。
Ref.C12070529900 『昭和20年1月2日 昭和20年8月30日秘海軍公報/昭和20年8月(1)』。
Ref.C12070530000 『昭和20年1月2日 昭和20年8月30日秘海軍公報/昭和20年8月(2)』。
Ref.C13071968200 『昭和11年12月1日現在 10版 内令提要追録第1号原稿/巻1 追録/第6類 機密保護』。
Ref.C13071974300 『昭和12年12月1日現在 10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。
Ref.C13072003500 『昭和16年12月31日現在 10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。

フォト・ドキュメント「「梨」から「わかば」へ 改丁型駆逐艦の再生」海人社『世界の艦船』
原勝洋 『巨大戦艦「大和」全軌跡』 学研パブリッシング
外山三郎 『図説 太平洋海戦史 第3巻 写真と図説で見る日米戦争』 光人社
岡田幸和「改丁型駆逐艦「梨」、護衛艦「わかば」に変身」
木俣滋郎 『日本水雷戦史』 図書出版社
木俣滋郎 『日本軽巡戦史』 図書出版社
木俣滋郎 『第二水雷戦隊突入す 礼号作戦最後の艦砲射撃』 光人社NF文庫
池田清 『最後の巡洋艦・矢矧』 新人物往来社
石橋孝夫『海上自衛隊全艦船 1952-2002』(並木書房、2002年)
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> ―戦争最終期―』第93巻、朝雲新聞社、1976年3月。


日本国召喚での活躍

初明(はつあかり)

豊栄(とよさか)


以上二隻が登場、名前から推測するにこの二隻は日本国召喚史における三番艦と四番艦と思われる。
吹雪型同様、この二隻は計画自体存在しない完全に日本国召喚のオリジナル艦である。
なんでも編集氏はこの名前を考えるのに苦労したらしい。


最初の活躍は魔王軍に押されていた異世界の軍隊の最初の反撃である。
召喚四日後のフィアルデス大陸南方約200kmでの海戦。
空母二隻の艦載機の攻撃により大損害を受けた魔王軍の残り三十数体の海魔を本型二隻と吹雪型二隻の共同の雷撃にて撃破。

陸上への艦砲射撃や対空戦闘等の描写は無い。

以上

地球へ帰還後、極秘裏に解体処分。

随時加筆願います。


関連項目
兵器太陽神の使い

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  • ちなみに海防艦志賀は解体をまぬがれ巡視船こじまとして在籍していた - 名無しさん (2019-02-17 08:36:28)
    • 千葉県で保存されていたが予算不足のため19898年に解体。これで第二次世界大戦に参加した戦闘艦艇は完全に消滅した。 - 名無しさん (2019-02-17 08:38:59)
      • 超遅レスで申し訳ございませんが1989年か1998年どちらでしょうか - 名無しさん (2019-08-30 13:00:28)

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最終更新:2023年08月09日 04:20