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ひょう‐げん〔ヘウ‐〕【表現】
([名](スル)
心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。
また、その客観的形象としての、表情・身振り・言語・記号・造形物など。
「情感を―する」「全身で―する」)

 表現とは心情という内部のものを、外部に表出させることである。感情という「源泉」があり、それが「水たまり」や「泉」や「湖」や「海」といった表現物として残り、こういった源泉から結果物が残る、また結果物を残すことを「表現する・される」という。

表現 = 感情 → 表現(結果)物

 小説や絵画、映画などは文章・画像・映像などのメディアや分類上の差はあっても、どれも表現としては根底で同じである。

■表現者と鑑賞者の錯誤
 表現をするとき、その人の表現したことが、その人の感じたことを上回ることはない。つまりアウトプットはインプットを超えない。過大評価や曲解によって人為的にアウトプットである表現物が、制作者のインプットを超えているように見えることがあるかもしれないが、それはあくまで人為的なミスであり、物理的・論理的にはアウトプットがインプットを超えることはない。コーヒーとミルクを混ぜてカフェオレができることはあっても、レモンティーができることはありえない。コーヒーとミルクという材料をインプットすれば、できあがる結果というアウトプットの方向性はいやがおうにも決まってしまう。つまりそれを「カフェオレ」と呼ぶか、「コーヒー牛乳」と呼ぶか、「ミルク珈琲」と呼ぶか程度の違いでしかない。
 だから、表現する人間は、自分のつくるものが自分の感じたことを超えて読者や視聴者に伝わるかもしれないと愚考してはいけない。逆に小説や映画を鑑賞した者も、「すべては読んだり見たりした人間の感覚次第。解釈は人の数だけあって、すべてが正解だ」などと錯誤してはいけない。表現者は表現物をもちいてコミュニケーションを図っている。隣にいる友人の話を聞きながら、「この話をどう解釈しても私の勝手で、その解釈がどうであろうと私は間違うことなどない」と考えることは、ただの傲慢である。
 つまり表現者が「どう解釈されてもしかたない」と考えるのは問題ないが、鑑賞者が「どう解釈してもいい」と捉えるのは間違っている。逆に鑑賞者が「俺の思うままに感じとれ」というのは傲慢であるし、鑑賞者が「作者の意図を汲もう」と考えるのはまったく問題がない。
 だがこういった思考はどれも倫理的なものであり、人の心に障害をもうけることなど誰にもできない、傲慢な考えであっても支持するのは勝手である。ただ「この人は傲慢だ」という判断の助け程度にはなる。


■成語として
「表現」とは、「表」と「現」からなる成語である。
」には、「おもて」「あらわ・す(れる)」などの読みがあり、それぞれ「外面」「外面に出す(出る)」という意味がある。
」には、「あらわ・れる(す)」「うつつ」などの読みがあり、それぞれ「表面に出る(出す)」「現在」という意味がある。
「熟語の構成」として漢字検定などでは、「同じような意味の漢字を重ねたもの」「反対または対応の意味を表す字を重ねたもの」「上の字が下の字を修飾しているもの」「下の字が上の字の目的語・補語になっているもの」「上の字が下の字の意味を打ち消しているもの」として説明している(参考1)。またwikipediaでは「統語的構造」と「並列構造」とに二分し、それぞれの小区分として「主述構造」「補足構造」「修飾構造」「認定構造」、「類義語の並列」「対義語の並列」と分類している(参考2)。
この「表現」という成語は、漢検でいうところの「同じような意味の漢字を重ねたもの」つまり「表す(れる)」と「現れる(す)」という構成であるか、「下の字が上の字の目的語・補語になっているもの」つまり「表に現れる(す)」という構成であるかだといえる。すなわちwikipediaの分類法では、前者のどちらも「あらわ・す(れる)」と捉えるのが「類義語の並列」であり、後者の「表に現れる(す)」と捉えるのが「補足構造」であるだろう。

類義語の並列だとして、「表」にも「現」にも「あらわれる」と「あらわす」の2つの意味がつきまとう。「あらわれる」とは「(自動的に、また自分の意志が関与することなく)あらわれる」という解釈で自動詞であるし、「あらわす」とは「(自分の意志で)あらわす」という解釈で他動詞である。つまり「表現」という言葉には、「自分の意志に関係なく、外にあらわれる・あらわすという行為・結果を意味する」といえる(もっぱら表を「あらわす」、現を「あらわれる」と分類しがちなのは、ここでは無視する)。
補足構造だとして、「表に現れる」の「現れる」には自動詞・他動詞の両方の意味があり、「類義語の並列」での解釈よりも単に「表に」という部分を強調してあるというのを示すのにすぎない。

表現とは、その本人が意識的に「こう表現してやろう」という思うかどうかに関係しない。表現者ないし芸術家などが、みずからの責務や仕事を意識しながら表現するのと、まったく芸術にふれない人間が意識せずにしてしまったことでも、どちらも表現であり変わりはない。


■表現者とは
 究極的には、「表現者でない者はいない」といえる。
 たとえば道を歩いていたら誰かに殴られたとき、「殴り返す」「どなる」などの行為に及ぶ人がほとんどだろうが、この「殴り返す」「どなる」のどちらも怒りの表現である。また「(殴られたから)泣く」というのは、悲しみや恐怖の表現である。そして「無視する」ということですら、無関心の表現である。
 表現というものが、本人の意志・意図に決定的に依存するものではない以上、こうしたごくごく一般の人にも発生するようなできごとも、表現である。
 また無人島で遭難したもののSOSを送る手立てがなにひとつないとき、人は外部に情報を伝達することはできないが、それは「なにを送ることもできない」という表現をとるしかないと解釈できる。これは「なにも送ろうとしない」のとは違い、なんとかSOSを送ろうと苦心するだろうし、なにもしようとしない人は苦心しない。それに外部からでもその無人島に注視すれば、以前とは異なっている(本当に無人であるころと、遭難者がいる現在との違いがある)ことがわかるだろう。
 つまり無感情なように見える人でも、「なにも表現しようとしない者」と「表現する手立てがない者」は違うし、ほんの少しでも感情の浮沈があれば他人が注視すればわかる(どれほどの注視が必要かは、ここでは問題ではない)。感情が0である人間が現実世界に存在可能かどうかは別問題として、0.1でも0.01でも、どんな微弱な感情であれ、察知することが不可能であると言い切れない以上、そうした0の者以外は「表現者である」と見なせる。

 また表現に善悪はない。
 善の表現者としてナイチンゲールなどが挙げられるし、反戦の表現者(反戦提唱者)として挙げられる人は様々いる。逆に同様に、悪の表現者としてシリアルキラーなどが挙げられるし、戦争の表現者としてナチスやヒトラー、一部の政治家・軍人などが推挙できる。ここで「悪や戦争はベクトルがマイナスだから、表現としては不適切だ」という言論は成立しない。成立するとすれば、「ナチスやヒトラーは戦争を表現していない」という反論である。「ある人物・組織が、ある感情を表現した」という事実において、本来は表現していないはずの感情を、表現したと錯誤するミスはありえる。つまり殴られた人間が泣いたとき、「あいつは怖くて泣いたんだ」と他人が笑うミスは起きうる。たとえそれが悲しくて泣いたのだとしても。



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最終更新:2013年03月15日 13:47
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