新聞連載記事

2004年朝日新聞連載記事[高校人国記〜奈良の群像] 全文WEB版のコピー。



 最近10年間は、現役・浪人あわせて100人前後が毎年、東大、京大に合格−−。中高一貫の進学校として全国に名を知られる東大寺学園高校。その前身の青々中学校は、進駐軍が奈良公園周辺を四輪駆動車で走り回っていた1947年に誕生した。
■■■東大寺学園の歩み■■■

【青々中学校】1947年4月 定時制の金鐘中の校舎を利用して開校、同5月に校章決定▽59年11月 全日制高校の新設を決定▽60年8月 新校舎建築のため旧奈良学芸大(現奈良教育大)校舎に一時移転▽61年6月 新校舎完成▽62年8月 校名を東大寺学園中学校・高校と決定
 【東大寺学園中・高校】63年4月 青々中から改称。定時制の金鐘高校と統合、高校は全日制・定時制合同で初の入学式▽69年9月 新校舎完成▽70年11月 定時制課程の募集停止の決定▽76年4月 高校1クラス増で3クラス制に▽86年4月 奈良市山陵町に現校舎が完成して移転、高校5クラス制に▽96年4月 青々中創立50周年記念式典を開催

東大寺学園<1> 戦後学制改革の年、 「男子だけ」望まれ誕生


6・3・3制導入、共学移行の学制改革が実施された年だ。奈良市中心部の小学校に通う男子児童の親たちは「男子だけの旧制中のような学校を」と独自の学校設立に動いた。目を付けたのは東大寺南大門の西側にあった定時制の金鐘中学校。運営する東大寺に昼間の校舎を借りて新しい中学校をつくりたいと訴え、青々中学校が誕生した。のちに東大寺別当を務めた清水公照が理解を示し、初代校長に就いた。
 小学校の通信簿と面接による入試を経て、4月20日に1回生35人が入学。寺子屋のような木造校舎で授業が始まった。校名や校章が決まったのは翌月。校章は三つの輪が重なるデザインで、生徒、教師、保護者の「和」を表現した。
 直木恵美子(78)=奈良市尼辻南町=は創設時に3人いた専任教諭の1人。奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大)を卒業した直後、「男だけの中学をつくる。女性の教師を1人採りたい」と誘われた。「面白い」と思い、飛び込んだ。
 英数国は35人を2クラスに分けたため、授業は速く進んだ。成果は10年足らずで表れ、大半が県立奈良高校などの進学校に合格。受験者も増え始めたが、入試問題の作成には苦労した。「記憶力だけでなく、考える力を試す問題を教師全員で考え、自ら解いてみた」と振り返る。

1票差で高校を開設

昭和30年代に入ると、高校開設に向けた機運が高まる。住職の傍ら国語を教えていた東大寺長老の狹川宗玄(83)=奈良市水門町=は「優秀な子を中学卒業後に他の学校にとられるのはもったいないという声が出始めた」と説明する。
 だが、寺の幹部による会議はもめた。「失敗したら寺のイメージも悪くなるといった意見もあった」。結局、投票で決着を図ることになり、1票差で可決された。
 高校新設に向け、鉄筋コンクリート3階建ての新校舎が建てられ、名前は東大寺学園に決まった。工事中は奈良学芸大(現・奈良教育大)の旧校舎で過ごした。生徒が他の高校に流れずに内部進学してくれるかどうかが心配だったが、父親の転勤で別の高校に移った生徒を除き、青々中14回生全員が東大寺学園1回生となった。

教師、同じ目線で接し

「別の高校を受験しようという考えは全くなかった」と話すのは、奈良市経済部長の林啓文(56)=奈良市西木辻町、66年卒。自由な雰囲気と、偉ぶらない教師たちが好きだった。
 狹川が自坊で開いていた俳句会にはよく顔を出した。「お菓子を目当てに通っているうちに、俳句に興味を持つようになった」。四季を肌で感じ、自然と向き合えた気がした。約40年たった今、林は疲れたときに歳時記に目を通す。なぜか心が落ち着くという。
 東大寺学園になっても一学年100人規模というこぢんまりとした学校のままだった。それでも依然として教師不足が続き、校長や学芸大の教員が教壇に立っていた。
 県教育長の矢和多忠一(58)=奈良市山町、66年卒=は、逆にそれがうれしかった。「大学の偉い先生に習っていることが自慢だった」。矢和多は大学で化学を学んだ後、県立高校の教員に採用された。
 高井レディースクリニック院長の高井一郎(56)=奈良市油阪町、66年卒=は共学にあこがれたが、父親から「男子校に行け」と言われた。入ってみると、自由な校風に驚いた。職員室に行くと教師がコーヒーを入れてくれる。数学の教師は試験で問題を配ると職員室に帰ってしまう。「同じ目線で接してくれた。信用されていると思うから、誰もカンニングしなかった」と懐かしむ。
 京大医学部を卒業して婦人科医となって実感した。悪性腫瘍(しゅよう)で患者が人生を終える。10代や20代の女性もいる。医学では手に負えないとき、医師として何をしてあげられるか真剣に悩んだ。
 医師を目指す後輩は多い。「優秀でも患者とコミュニケーションをとれない医師もいる。患者の言いたいことを察することができる医師を目指して欲しい」と助言する。
 最初の卒業生の入試実績が高校の評価を左右する−−。結果は東大1人、京大7人、阪大4人など98人が大学合格。教師らはまずまずの成績に胸をなで下ろした。(敬称略)

東大寺学園<2> 中高一貫教育へ カリキュラムもゼロから


63年、青々中から東大寺学園に改称、中高一貫教育を掲げて新たなスタートを切った。中学校として16年間の歴史があるとはいえ、高校のカリキュラムやクラブ活動、学校行事などは一から作り上げなければならなかった。高校創設から2年後、初の文化祭が開かれた。

文化祭企画 他校に聞く

国連次席大使の北岡伸一(56)=67年卒=は2回生だった。吉野町から片道2時間かけての通学。文化祭の運営役をまかされたが、最初の疑問は「文化祭って何?」。イベントの企画や、広告集めなどを他校に聞きながら進めた。受験一本やりの無関心層にいかに興味をもってもらうかも苦心した。結果的に文化祭は爆発的に盛り上がった。「ゼロから新しいものを作り出せたことが一番の思い出」と振り返る。
 当時、テレビはベトナム戦争の惨状を映し出していた。「なんでこんな戦争をするんだろう」。その思いが、政治学に目覚めるきっかけになった。
 今では日本政治外交史研究の権威だ。今年4月末、東大教授から初の民間国連大使としてニューヨークに赴任した。「世界で日本文化のパワーは評価されている。奈良に住んでいたことで、日本を知っているという自信が持てる」
 文化祭の目玉は仮装行列だった。奈良大教授(倫理学)の大町公(55)=奈良市佐保台、67年卒=は「金色夜叉」のお宮に扮した。母親から羽織を借り、画用紙でかつらを、模造紙で腰巻きを作った。「熱海の海岸」の場面も順調に終わり、走って退場。その途中、腰巻きが破れてずり落ち、会場は爆笑に包まれた。「それまで話したこともない人から声をかけられるようになった」
 北岡とは親友であり、ライバルでもあった。中学3年生の時、北岡から一通の「果たし状」が届いたのを覚えている。「英語は君に、今年中に勝ってみせる」と書かれていた。高校では本を競い合って読んだ。
 大町は京大、北岡は東大に進んだ。大学紛争のさなか。北岡はデモに批判的だったが、大町は関心を持った。「様々な考えをもった人たちに会い、これまでの考えが崩れた。どう生きていくか悩んだ」。そんな時に、倫理学と出合った。
 「学校行事の運営でも、教師の懐が広かった」と話すのは、弁護士の中村悟(54)=奈良市佐保台、68年卒。文化祭で早食い競争を企画したところ、「健康に良くないから考え直すように」と教師に反対された。仲間で話し合い、「量ではなく、一杯を食べる速度を競うのなら問題はない」と計画を修正すると、許可が下りた。

修学旅行は投票で決める

修学旅行の計画も生徒にまかせられた。信州や九州などの候補地に、「やめる」という選択肢も加えて投票を実施。結果は「やめる」が多数を占め、修学旅行はなかった。
 弁護士になった直後、豊田商事事件の被害者救済に取り組み、消費者保護がライフワークになった。「自分でものを考え、動いていく。根拠さえしっかりしていれば、受け入れてくれた」。高校時代に身についた方法論は、今でも役立っているという。
 模擬試験の結果は、1学年約100人のうち50位まで名前が公表され、それ以下は伏せられた。
 奈良市議の松石聖一(55)=奈良市大森町、68年卒=は「いつも伏せられている順位だった」と笑う。
 興味を持ったことには、授業中でも教室を抜け出して没頭するタイプだった。シダ植物を見に山に登ったり、校舎の地下室で機械いじりをしたり……。だが、教師たちは不思議と怒らず、「困ったもんだなぁ」とニコニコしていた。
 得意分野を伸ばそうしてくれたのではないかと思う。「進学校を目指すなら、成績が下の層を切ってもよかったはず。しかし、入れた以上は責任をもつ覚悟があった」と感謝する。(敬称略)

東大寺学園<3> 安保・ベトナム反戦「政治の季節」影響


安保闘争、ベトナム反戦運動、東大安田講堂の封鎖、沖縄返還問題−−。60年代後半から70年代初めにかけての「政治の季節」は、東大寺学園に通う生徒たちにも少なからず影響を与えた。

黙々と勉強2、3割

安田講堂の攻防があった69年1月、関西大教授の木岡伸夫(52)=大阪市大正区、70年卒=は2年生だった。東大の入試が中止となったため、自分たちが受験する翌年はどうなるか不安になった。同じ学年では、学生運動に関心を示さず、黙々と勉強しているのが2、3割。積極的に動いていたのは1割程度。大半がその中間にいた。木岡もその一人だった。
 「革命だと言いながら、結局、自分たちは進学校に身を置き、いい大学を目指している。体制を支える人間になることへの疑問をもつ生徒は多かった」
 この年、学園の高校生を中心としたデモ行進があった。生徒からの申し出を受け、学園は職員会議を開き、許可を出した。県下の高校では初めてのデモだった。しかし、この行進の列に木岡はいなかった。もともと過激な学生運動には批判的で、デモへの参加は「気が引けた」と話す。
 印象深かったのは卒業式。代表者が答辞を述べるスタイルをやめ、話したい人たちがそれぞれ登壇した。トップバッターの木岡は「6年間、自分らしく生きることができたかを振り返った」。詩を朗読する者もいた。別の者は「仰げば尊し」を合唱しようと呼びかけ、ほかの生徒が応じた。学校側はどんな批判が飛び出すか緊張していたが、式の2時間は穏やかに過ぎた。

若い先生に理解者

木岡の1学年下にあたるのが、元興寺住職の辻村泰善(52)=奈良市中院町、71年卒。デモ行進をしようとプラカードを作った。しかし、肝心の行進をどうすればいいのか困っていると、教師から「シュプレヒコールというのを上げるもんだ」と教えられた。「若い先生を中心に理解のある人が多かった」と振り返る。
 修学旅行先は、生徒の話し合いの結果、沖縄になった。復帰する3年前のこと。「沖縄に行かないで、温泉などでのんびりしていいのかという声が強かった」
 渡航に必要な身分証明書をもらい、土産はドルで買った。米軍機が発着する基地の周辺を通る際は緊張した。沖縄の高校生と平和について語る集会もあった。ただ、一番の思い出は「船酔い」だ。
 京大大学院教授の大西広(47)=京都市伏見区、75年卒=は、生徒会の活動に熱心に取り組んだ。ある時、パンの納入業者が値上げを決めたことに反発し、交渉をもった。5円の値上げに対し、「5円の根拠は何か」とただした。結局、業者が1個の売り上げにつき1円を生徒会に納めることで決着。だが、「実はその後、一度も業者にもらいにいかなかった」。
 大西は京大に進学。教養部自治会の初代書記長を務めた。そして今は京大職員組合の中央執行委員長として、教職員が働きやすい環境づくりを進める。
 「自分は東大寺学園の中ではユニークな存在」と話すのは、奈良県議の上田悟(47)=斑鳩町法隆寺1丁目、76年卒。70年代半ば、すでに「政治の季節」は終わっていた。学園でも、勉強の傍らクラブ活動、バンド、他校の女子生徒との交際……と、それぞれに熱中するものが違った。上田は「アウトロー的な生徒だったから、学校の外のほうが面白かった」。
 2年生で、ある決心をする。志望大学を一つに絞り、不合格なら浪人をしたり、別の大学を受けたりせずに家業を継ぐというもの。受験の結果は不合格。決めていた通り、自動車整備工場で働いた。
 進学率100%が当たり前の学校だけに、教師からは考え直すように説得された。だが、決意は変わらなかった。
 「妥協するより、皆より4年早く社会に出ようと思った」。卒業して15年後、政治の世界に進む。振り返って、自分の選択に間違いはなかったと考えている。(敬称略)

東大寺学園<4> へこたれにくく、主張は強く 発想は独創的


数多くの研究者が輩出している東大寺学園。共通するのは枠に捕らわれない独創的な発想だ。
 ベストセラー「インターネットが変える世界」の著者、法政大法学部教授の広瀬克哉(46)=埼玉県所沢市、77年卒=は、音楽部の部長だった。
 ラジオからはディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」が流れていた。「フォークからハードロック、そしてプログレッシブロックというジャンルにも手を出したが、技術が追いつかなかった」。手足が不自由な子供たちが通う「東大寺整肢園」で、コンサートをしたこともあった。
 東大では政治学を専攻し、そのまま大学院へ。省庁、特に防衛庁の政策決定の過程を研究テーマにし、官僚を「取材」した。だが10年ほど前から興味が自治体に移った。「官僚は現場から離れている。現場を生々しくとらえているのが自治体」。厳しい財政の中、自治体が取り組むべき政策は何かを提言している。
 UFJ総合研究所主任研究員の今西一憲(43)=奈良市千代ケ丘、79年卒=が大学受験の年、共通1次試験が導入された。「どうやったら速くマークシートを塗れるか友人と話し合った」という。
 東大卒業後、自治省(現・総務省)の官僚になった。「東大寺学園の自由な校風で育ったせいか、若いころは筋が通らない話には上司でも反抗した」。仕事は楽しかった。大臣官房企画室の係長時代には、法案作りをめぐる他省庁との調整を担当。「互いに主張をぶつけあうため、協議は長時間続いた」。泊まり込みも珍しくなかった。
 90年、消防庁災害対策官を最後に自治省を去った。30歳の決断。「決められたフレームでいかに頑張るかが役所の仕事。そのフレームが国民ではなく、自分たちに向いているのではと疑問をもった」。子供が生まれたことも背中を押した。転勤を繰り返す生活に終止符を打ち、家族との落ち着いた暮らしを選んだ。
 いまは同研究所地域社会共創室で、地域づくりや市町村合併を担当している。「自分のしたい分野が、したい手法でできるのがうれしい」

昨年6月、約10センチ角で重さ約1キロという手のひらサイズのミニ衛星がロシアの宇宙基地から打ち上げられた。現在も高度820キロの軌道を回る。
 開発した東大大学院生らを指導したのは、同大学院助教授(宇宙システム工学)の中須賀真一(43)=川崎市麻生区、79年卒。宇宙への関心の始まりはアポロ11号の月面着陸だった。高校ではラジオやトランシーバー作りに熱中する傍ら、テニス同好会を結成したり、文化祭で演劇をしたり。何かを作り上げていくことに喜びを感じた。
 ミニ衛星は学生が1年半かけて製作。費用は200万円。東大阪市の中小企業でつくる「東大阪宇宙開発協同組合」の人工衛星計画にもかかわっている。中小企業の技術力で人工衛星「まいど1号」を打ち上げようというプロジェクトのため月に数回は大阪を訪れる。
 「人工衛星は電子、機械などさまざまなチームが協力し合って作り上げていきます。高校の文化祭と同じ感覚です」
 中須賀がいる研究棟のすぐそばには、2期先輩で同大学院教授の佐藤慎司(45)=千葉県柏市、77年卒=の研究室がある。研究対象は海岸の浸食。幼少のころから飽きずに水の流れを眺め、高校生になっても水と人間の関係を考える研究をしてみたいと思っていた。
 相次いで建設されたダムが土砂をせき止める影響で、海岸の浸食が深刻化しているという。湘南海岸(神奈川)などで調査を続けている。「浸食を止めるには山から解決していかねばならない。今なら間に合う」と強い使命感を抱く。
 学園の後輩を指導することもある。「東大寺の学生はへこたれにくい。主張が強いですね、よくも悪くも……」と笑う。
春日山の頂上から眼下に広がる景色を見ると、すがすがしい気持ちになった。京大医学部教授(心臓血管外科)の米田正始(49)=京都市左京区、73年卒=は陸上部で長距離の選手だった。
 京大卒業後に勤務した病院ではあまり手術をさせてもらえず、失意の日々が続いた。その間、自作の心臓の模型で難しい手術の練習をした。「何百回も、目をつぶってもできるぐらい練習した」
 限界を感じ、カナダ、米国、オーストラリアの病院で修業。日本では20例で一人前とされるが、気がつくと900例をこなしていた。98年に京大へ教授として戻る。「これまで助けられなかった人を救うことができるのが喜び」と語る。
 熟練度が必要とされない現在の外科教育の改革と、優秀な医師を育てることが当面の目標だ。
 取材の日、米田の目は充血していた。「未明まで手術が続いて……。でも患者さんはもうお茶を飲んでますよ」と顔をほころばせた。(敬称略)

東大寺学園<5> 地場経済支え活躍する企業トップが輩出


高校創設から41年。卒業生の中には、関西経済界で活躍している者も多い。
 大阪に本社機能を置く村本建設(本店・広陵町)の社長村本吉弘(47)=東京都豊島区、75年卒=は広陵町から1時間半かけての通学だった。帰宅すると食事の後に仮眠して11時ごろに起床。午前3時までラジオを聴きながら机に向かった。「深夜番組の『天才・秀才・バカ』のコーナーが好きで、笑いながら勉強した」
 大学卒業後、親類が興した村本建設に入社。順調な道のりと思われたが、営業部門にいた93年に倒産。優秀な社員20人を集めて対策室をつくり、受注済みの工事を継続できるよう顧客を回らせた。助言を求める社員の列は連日午前3時ごろまで続いた。「会社更生法の適用が決まるまでの2カ月は、睡眠時間がゼロに近かった」と振り返る。
 支えてくれたのは学園の仲間だった。更生管財人代理に選ばれた弁護士を訪ねると、偶然にも同窓生。「奈良の村本をつぶすわけにはいかない」と応援してくれた。手紙をくれる者、励ます会を開いてくれる者……。ひそかに男泣きした。
 10年がたち、村本は4月に社長となった。社員を前に「村本建設がなぜ地域に必要なのかを考えながら仕事を」と訓示した。
同窓会で顔を合わす旧友たち。しばらくぶりでも、すぐに40年近く前の関係に戻れる。南都銀行(奈良市)の取締役公務部長木口宗久(56)=天理市杉本町、66年卒=は同窓会が楽しみだ。「中高の6年間をともに過ごした仲だけに話は尽きない」
 現在の仕事は自治体の公金を扱う部門の責任者。地域の開発について行政から意見を求められる機会も多く、やりがいがある。「地域のために」という意識も強くなった。それだけに、卒業生の多くが進学で東京へ行ってしまう今の母校に、1期生として寂しさを感じるときも。「地元に対する思いも忘れないでいて欲しい」と後輩にメッセージを送る。
三輪そうめん山本(桜井市)の社長山本太治(46)=桜井市箸中、76年卒=も同窓会にはできるだけ参加する。仕事の話はほとんどしない。「先生は空いている机がないか見回して出席を確認していたため、机を隠して授業をさぼるやつも多かった」。話題は事欠かない。
 1717(享保2)年創業の同社を継いだのは94年。8代目として、レンジを使って簡単に調理できる製品を開発したり、そうめん作りを体験できる施設を設けたりした。「伝統はそのまま引き継ぐものではなく、消費者に合わせてカスタマイズしていくもの」と挑戦的経営が信条だ。
「バンカラな雰囲気があった」と話すのは、1部上場の森精機製作所(大和郡山市)の社長森雅彦(42)=奈良市百楽園、80年卒。エアコンがなかったため、水泳の授業の後は水泳パンツのまま教室に戻った。
 京大工学部に入ったものの、商社マンへのあこがれもあって伊藤忠商事に入社。月に数回の出張、毎晩の接待というイメージ通りの生活だった。産業機械の販売が主な仕事。「若いうちから色々な経営者を観察できたのが収穫だった」という。
 93年、森精機に移り、6年後に37歳で社長就任。当時、東証1部の上場企業では最年少の社長だった。不況でも赤字にしない、賃金や社員を削減しない会社を目指してきた。「次は工作機械メーカーのナンバーワンを目指す」
木材のまち・桜井市に本社を置く1912(明治45)年創業の西垣林業は、代表取締役の西垣隆司(55)=桜井市戒重、67年卒=と、弟で取締役社長の泰幸(52)=名古屋市瑞穂区、71年卒=が取り仕切る。
 ともにサッカーに熱中した。隆司は64年の東京オリンピックで釜本邦茂のプレーに魅了され、サッカー愛好会をつくった。「インターハイを目指したが、グラウンドもなく、指導者もいなかった」。3年生になっても夢を追いかけたが、手が届かなかった。
 代わりに夢を現実にしたのが、4年後に入学した泰幸だった。1年生で広島インターハイに出場。練習は境内の空き地、棒を二つ立ててゴールポストに見立てた。「試合に出ると、普段は満足にできない分、思い切りプレーした。それが最大の勝因かも」と笑う。(敬称略)

東大寺学園<6> 政治から経済・芸術まで 幅広い分野で活躍


文系なら法曹界、理系なら医者か研究者−−。東大寺学園ではこうした道を志す生徒が少なくないが、卒業生は実に幅広い分野で活躍している。

ハンドボール部創設

参議院議員(公明)の白浜一良(56)=大阪市都島区、66年卒業=は1年生の時、ハンドボール部を創設した。「見よう見まねでサインプレーを考えるところから始めた」。それでも1年後にはインターハイに出場。「チームワークが抜群だった」と振り返る。
 「政治家は目立つタイプの人がなるものと思っていた」と話すのは衆議院議員(民主)の中村哲治(32)=生駒市本町、90年卒=。86年に校舎が奈良市山陵町に移転した。念願の広いグラウンドもあり、砲丸投げに打ち込んだ。「大会で競う以上に、いかに自己ベストを超すか。自分と戦えるのが魅力だった」と話す。

ロックと詩に夢中

内閣参事官の引原毅(44)=東京都文京区、78年卒=が熱中したのは「ロックバンドと、詩をつくること」。文学部に行きたかったが、父親に反対され、東大法学部へ。外交官試験に合格し、外務省に入った。
 1等書記官として韓国に赴任した97年、当時の政権が日本文化の開放を進めた。文化担当の引原は調整業務に当たり、目に見えて両国の関係がよくなっていくのを感じた。「自分の発言の先に世界が広がっている。歴史がつくられていく過程を実感できるのが喜び」と話す。現在は安全保障を担当。国際平和協力の枠組みについて戦略を練っている。
 県総務課長の平井康之(51)=王寺町畠田4丁目、71年卒=も民間より公的な機関で仕事がしたいと考えた。3年目で自治省(現・総務省)に出向。遅くまで仕事をし、省内で一夜を過ごしたことも。
 印象に残るのが文化観光課長時代。昨年、飛鳥歴史公園の石舞台地区を中心に行われた歴史イベント「飛鳥京ルネッサンス」にかかわった。「奈良は観光立県といいつつ、生かし切れていない部分がある。地域間競争が進む中で、地域の活力をどう生み出すかを考えさせられた」
 福本良平(54)=奈良市平松1丁目、68年卒=が社長を務める福本設計(奈良市)は、奈良市音声館、東吉野村役場、大宇陀町心の森多世代交流プラザなど、県内の公共施設の設計で高い評価を受ける。
 竹中工務店の都市計画や開発の部門で4年半過ごした後、父が創業した同社に入った。受注の8割が公共事業で、デザインはそれほど重視されていなかった。民間にいた経験を生かし、芸術性を取り入れた設計にも挑戦するようになった。
 多くのデザイン賞を受賞した。今もまちづくりへの関心は強い。「観光スポットをPRする手法から、まち全体の美観を重視した戦略に変える時期だ」と提言する。
 「高校時代が自分の人生で一番楽しかった」と話すのは、リーマン・ブラザーズ証券で国債取引部門の責任者を務める西田龍一(40)=東京都港区、82年卒。田中康夫(現・長野県知事)が書いた「なんとなくクリスタル」を読んで、都会的な雰囲気にあこがれた。東京の一橋大に進み、ゴルフ部に所属した。
 就職先は旧東京銀行だったが、ディーラーの世界は転職が常識。引き抜かれることもあり、外資系証券4社を渡り歩いた。途中、ニューヨークやロンドン勤務も経験した。年収が同年代の10倍を超える時もあるという。「人生は一度。ある枠の中で生きていくのもいいが、世界を舞台に自分の判断が即、収入に跳ね返ってくる今の仕事が肌に合う」
 映画監督の高橋伴明(55)=東京都国立市、68年卒=は今、滋賀県信楽町で映画「火火」のロケをしている。陶芸家の女性が、息子の白血病発症を機に骨髄バンク運動を始めた実話をもとにしている。
 主人公の女性に亡き母をだぶらせながら脚本を書いたという。「親が子にどう向き合っていいかわからない時代、母親をテーマにしたかった」と話す。
 東大寺学園時代は「不良っぽかった」。母親に反抗したり、家出をしたり。「それでも母はきちんと受け止めてくれた。日本のお母ちゃんという感じだった」
 早大で東大寺学園の先輩に誘われて映画研究会に入ったのがきっかけで、助監督に。72年に監督デビューした。「学園にはドロップアウトさせてくれてありがとうと言いたい」と笑う。(敬称略)

東大寺学園<7> 受験一辺倒ではなく 将来必要なこと教える


80年代に入り、進学実績を伸ばしてきた東大寺学園への志願者が大きく増える。競争倍率が10倍前後になることも珍しくなくなる。

答えある問題簡単

公認会計士の岩崎泰史(35)=生駒市在住、87年卒=は入学後、世間にはまだまだ上がいると感じた。「成績の良い同級生に英単語の覚え方を聞いたら、『一回書いたら覚えるやろ』と言われたのが印象深い」
 驚くような授業もあった。タイム誌を題材に中東問題を考えたり、一年間にわたって飴(あめ)を作って変化を研究したり……。「答えのある問題はむしろ簡単だということを教わった」と振り返る。
 創設時は1学年2クラスだったが、新校舎に移った86年には5クラスに拡大。89年の卒業生から1学年200人を超えるようになった。

各地で時代を築く

20代後半や30代前半という若さながら、すでに責任あるポストについている卒業生もいる。
 「バブルの残り香があったころで東京志向が強かった」と話すのは大阪府豊能町の助役辻寛起(31)=91年卒。東大に進学し、旧総務庁に入った。「大蔵省などの不祥事を見ながらも、あえて官僚の道を選んだ。立派な公務員になりたかった」
 昨春、総務省から現職に出向。財政状況が厳しいのは自治体も同じ。同町も3月で収入役が廃止され、辻が兼務をしている。「地方は国以上にシビアだが、思い切ったこともできる。特色あるまちづくりを進め、全国に発信したい」と意気込む。
 県立医大付属病院の産婦人科医成瀬勝彦(30)=橿原市在住、92年卒=は月に半分しか家に帰れない。当直が多いこと、県内に婦人科の手術ができる病院が少ないことが原因だ。依然として医学部の人気は高いが、「社会的地位や収入の高さで医師を目指すなら、やめておいたほうがいい」と忠告する。
 過酷な労働環境ながら、やりがいを感じている。責任は重いが、生命の誕生という瞬間に立ち会える喜びは大きい。「産婦人科は未知の研究分野が多い。将来は周産期医療のスペシャリストになりたい」と目を輝かせる。
 1818(文政元)年創業で、奈良晒(さらし)と呼ばれる麻織物を扱う中川政七商店(奈良市)。常務の中川淳(29)=奈良市学園南1丁目、93年卒=は2年前まで電機メーカーにいた。「このままいても新しい局面は見えない」と退職し、父親が経営する同社へ。
 大企業での経験をもとに生産体制の改革を進めた。直営店「遊 中川」の出店にも力を入れ、店舗数を倍にした。「若い頃から経営側に身を置けるのは貴重」と話す。
 2年生の嶋田研志郎(17)=大阪府枚方市=は「伸び伸びやれる環境は今も同じ」と語る。生徒会長と、9月に開かれる文化祭の実行委員長を兼ねる。今年で文化祭が40周年を迎えることから、これまでの歴史を振り返る企画を検討中だ。
 気掛かりなのは、文化祭は来て見て楽しむものという生徒が多いこと。「みんなが積極的に参加してくれる行事にするのが目標」
 東大寺学園総務部長の松川利行(55)=奈良市佐保台3丁目、68年卒=は初代の文化祭実行委員長。ゼロの状態から企画を練るのに苦労した。あれから40年近く。教え子が大量の机の配置計画を作り、整然と素早く移動する姿に驚かされる一方で、創造性はなくなっているように感じる。
 11年間、製薬会社で新薬の研究に没頭した後、母校に理科教諭として採用された。最近、創設期からいた教師が退職時期を迎え、東大寺らしさが薄まりつつあることに気をもむ。「受験一辺倒ではなく、将来に必要なことを教えるという伝統を守っていきたい」
 東大寺持宝院住職の上司永照(41)=奈良市雑司町、81年卒=は5月に学園の常任理事に就任した。父は学園の創設にかかわり、東大寺別当を務めた故上司永慶。幼いころによく生徒の話をしていた程度の記憶しかなかったが、4年前の葬儀で教え子が弔辞を読み、出棺のときは学園の前身・青々中の校歌が響いた。そこで父の教育への思いを実感した。
 有名大学への進学実績を競う母校に対し、卒業後、心の中で距離があった。しかし、この1カ月で見方が変わりつつある。1200年以上の歴史をもつ東大寺は、遣唐使をはじめ、命懸けで世のために生きた人物を支えてきた。
 「学園の卒業生たちも世界各地で一生懸命に働き、今の時代を築いている。そう思うと、東大寺が運営する意味があると気づいた」 (敬称略)
    ◇
 東大寺学園高校は今回で終わります。