ハッキング丸は、流氷の合間を巧みに縫って、悠々と進んでいた。氷の魔女、ゲルダが住まうイーレン島は、もう目と鼻の先というところに来ていたのである。

マリーデルの港を出港してから、概ね3ノル(6時間)ほど経過している。ハッキング丸は、完璧な進入角度でマリーデル沖の『次元の渦』へ突入し、見事、イーレン島のある海域の『次元の渦』に移動したのである。それもこれも、キャプテン・ハックの神業ともいえる操船技術があったからこそでだった。

本来であれば、その波乱に富んだ道中を記すべきなのであろうが、残念ながらそれはできない相談なのだ。

なぜなら、物語のヒロインである真紅が、船酔いによりベッドで寝込んだきりだったからである。

真紅は、出航当初こそ、「潮のにおいがちょー気持ちイイ」だの、「風が冷たくて、マジ、サイコー」だの、「ほら、もうマリーデルの港があんなにちっちゃくなってるぅ。カワイイ」だの、「海鳥さんこんにちは」だの、「さあハック、ナイフ投げ教えて」だのと、大はしゃぎであったが、十分もすると何も喋らなくなり、デッキの手すりから身を乗り出して、「おえー」と、繰り返し嘔吐し、とうとう、「もうワタシ、死ぬから・・・」という言葉を残して、船室のベッドにもぐりこんでしまったのだ。

ガフンダルとキャプテン・ハックは、真紅の前でこそ心配そうな表情をしていたが、彼女が船室に消えた瞬間、『うぎゃはははは♪』と大笑いしたことは言うまでもない。

船酔いで落命するというのは極めてレアなケースであり、陸地に着いてしばらくすれば治るのである。真紅自身も、自分がそんな状態のとき、人にあれこれ構われるのを潔しとしない性格であることを考慮し、ガフンダルたちの統一見解として、『船酔い娘は、この際うっちゃらかしておく』ことにしたわけである。

デッキには、ガフンダルとキャプテン・ハックの姿があった。二人並んで、流れ行く流氷を眺めている。さすがに長七郎は真紅が心配なのであろう。船室で彼女の傍にいるようで、デッキでは姿を確認することができない。

「さすがよのう。キャプテン・ハック。なんだかんだ言って、見事『次元の渦』を攻略しおったわ。もしかして、ノルゴリズム世界の最果ても最果て、黄泉の世界と直通の『髑髏環礁』に迷い出た時のことを考えて、攻撃魔法用の粉をたんと処方しておったのだがな」ガフンダルは、満足そうにうなずきながらそう言った。

「まあ、お前さんから、あの娘がビャーネ神の加護を受けてると聞いたんでな、ガフンダル。お前さんは海千山千、煮ても焼いても喰えねえ魔道師だが、ビャーネ神の名を騙ることはしねえ。強い魔力を持つ者ほど、ビャーネ神のしっぺ返しもきついからな。ビャーネ神の加護がありゃあ、俺が少々進入角度をしくじったところで、なんとかなるだろと思ってたのさ」キャプテン・ハックは、喋っている内容とは裏腹に、まんざらでもなさそうな顔でそう答える。

「ガラにもなく謙遜するでないわ。いくらビャーネ神といえども、全然あさっての方角から突っ込むようなバカ船には加護を与えることなどできぬ相談じゃ。とりあえず、この通り礼を言っておくぞ」ガフンダルは、キャプテン・ハックの方へ向き直り、深々と一礼する。

「へ。やめてくれよ。なんか、あちこちむず痒くなってくらあ。ところで、後5ノルゴル(10分)もすりゃあ、イーレン島に到着だぜ。そろそろルビイを起こした方がいいんじゃないか?」

「おおそうじゃ。では、船室へ行こうか」

船室では、真紅がウンウン唸りながらベッドに横たわり、その横で、あちこちのランプを点灯させながら、長七郎が心配そうに見ていた。

そして、さしずめ大病に冒された薄幸の美少女と、ひょんなことからお互い惹かれるようになった、硬派の番長との会話シーンが展開されていたのである。

「もうワタシ駄目だわ。もうじき死ぬのよ。長七郎さん。今までお世話になったわね」

「何くだらねえこと言ってやがんだ!?ただの船酔いだってぇの」

「ウソよ。そんなことウソに決まってる。ただの船酔いがこんなに苦しいはずはないわ。癌よ。白血病かもしれないわ。せんせいは、ワタシを悲しませないためにウソをついているんだわ」

「せんせいって誰だよ?せんせいって?あん?」

「ガフンダルせんせい」

「あの爺さんは、医者じゃなくて、いんちき魔法使いだっつーの」

「ほら見て、長七郎さん。ここにワタシの髪の毛が二本抜け落ちているのよ。やっぱり白血病なんだ。ワタシ」真紅は、ヨヨと泣き崩れる。

「普通の人間だったら、髪の毛の二本や三本、しょっちゅう抜けるってんだよ!大体白血病で頭髪が抜けるのは、抗がん剤の副作用なんでぃ。おめえ、いつ投与されたんだ?そんなモン?」

「だ、だからそれはワタシが寝ている間に・・・」

「寝てる間って、お前、船酔いがひどすぎて、うめいたりわめいたり、さらにのたうちまわったり、一睡もしてねえじゃねえか。そもそも誰も近づけねえよ。暴れるから危険だてぇの」

「だって、だって」

「もういいから。船酔いなんてもなあ、陸地に上がればケロッと治っちまうんだよ。もうすぐイーレン島だ。そろそろ船を降りる準備しな」

「長七郎さん、あなたって本当はいい人、じゃなくていいパソコンだったのね。そうしてワタシを元気づけようとして、ウソを言ってくれているんだわ。ああそれなのにワタシったら、長七郎なんて呼び捨てにして。ごめんなさい。幸せの青い鳥は身近にいるってことに、ワタシったら今頃気づいたんだわ。でももう遅いの」

「ルビイ・・・」

「どぉーれ。悲恋ドラマの撮影は終わったかのぉー」

船室のドアを乱暴に開けて、ガフンダルが入ってくるなり大声でそう叫ぶ。

長七郎は仰天して、天井近くまでぴょーんと跳ね上がった。

「ノックぐれえしろよこのクソジジイ!」

「ふぉふぉ。面白いからしばらく立ち聞きしていたが、そろそろイーレン島に到着するでな」といいながら、ガフンダルは、コートの内ポケットをごそごそと探って、小さな丸い粒を取り出した。

「ルビイよ。これを飲んでごらん」

「なにそれ?抗がん剤?」真紅はガフンダルが手に持った粒をいぶかしげに見つめながらたずねる。

「これはのう、船酔いの薬じゃよ。これを一粒服用すれば、どんなひどい船酔いであろうが、たちどころにしてケロッと快癒するのじゃ」

「な、なんですってぃ!?なんで最初から出さないわけ?それ」今まで薄幸のヒロインになりきって、潤んでいた真紅の瞳が一気に険しくなる。

「よいか。船酔いてなものは、自力で克服し、体を慣らしていかなければ、ずーっと船酔い体質のまま・・・。あ。その眼は、ワシをぶつつもりじゃな。あげないぞ。もし、あとでワシをぶたないと約束しなきゃ、この薬はあげないからな」

「わかったわよ。ぶたないって約束するから、早く薬ちょうだい」

「ほんとカナ」

「ほんとだってば。指切りげんまんしようか?なんだったらさ」

「わかったわい。ほれ」

真紅は、船酔いの薬を電光石火でガフンダルの掌から奪い取り、一気に口の中へ放り込む。

「にがぁーい。なにこれ!くいをあかがいいれうー。ひーひー」どうやら口の中がしびれると言いながら、思い切って、ごくんと薬を飲み込んでしまう。

「ま、良薬は口に苦しというからのう。その薬は普通、幾重にもオブラアトで包んで、水と一緒に飲み込むのじゃが。さすがは豪傑よのう」

「あれあおうけつよおあれあ。誰が?」どうやらだんだんと痺れがなくなってきたらしい。「あれ?あれだけ気分が悪くて、頭も痛かったのに、もうなんともないわ。さすがね」真紅は一転上機嫌になり、傍で心配そうに成り行きを見守っていた長七郎をぺしぺしと叩き始めた。

「痛えよ。いくら嬉しいからって、人をぺしぺし叩くんじゃねえや」

「ごめーん。長七郎」

「だから、呼び捨てにするなって言ってるだろが!」

「よし。ルビイよ。元気になったのなら、早く身支度を整えよ。まず操舵室へ行くから」ガフンダルが促す。

「別に身支度するほどのこともないわ」といって、自分のバッグをむんずと引っつかむ真紅。長七郎はというと、すっとその鞄の中に滑り込んだ。「はい。準備オーケイよ」

「よし、では行くぞ」ガフンダルがそう掛け声をかけて、きびすを返し、部屋の外へ歩き出す。

「おうりゃあー」そのガフンダルの背中へ向けて、真紅のジャンピングニーパットが鮮やかに決まった。

「んぎゃあああああああ」たまらず前に吹き飛ばされ、廊下の壁に激突するガフンダル。

「こりゃあ!暴力を振るわぬと約束したではないか!」

「ふん。ぶたないとは約束したけど、蹴らないとは約束してないわよ」

「ずっこいぞぉー」ガフンダルは既に眼を真っ赤にして、半泣き状態になっている。

「ハックが待ちかねてるんじゃないの。さあ、とっとと行くわよ」白々しい顔で、真紅が号令をかけた。

「ちょっとまてルビイ。外はもう氷の世界だ」といって、ガフンダルは何もない空中に、くるっと指で輪を描いた。すると、ガフンダルが描いた輪の部分が突然光りだし、その中から、ポロっと、真紅の世界のイヌイット族が着ているような防寒着が落ちてきた。ついでに長靴のようなものも落ちてくる。

「さ。これを着ておけ。それとこのブーツじゃ。このブーツは底にスパイクが取り付けてあるのでな。氷の上を歩いても、つるんつるん滑ることはあるまいて」

「あら。ちょっと便利じゃない。ガフンダル、アナタは?」

「ワシか。ワシはこの玉虫色のローブさえあれば、暑かろうが寒かろうが関係ないわ」

「大丈夫なの?その底が磨り減ったサラリーマン革靴で」

「大魔道師たるものが、氷の上を歩いて、つるるんとひっくり返っている場合ではないのだ。さあ。早く準備をせよ」

「はいはい」

操舵室では、キャプテン・ハックが望遠鏡のようなもので、眼前に広がっているイーレン島を眺めながら、しきりに首をひねっていた。キャプテン・ハックも既に防寒着を着用していた。

そこへ、ガフンダルと真紅が到着する。

「お。船酔いは治ったのかよ。お嬢さん」

「は。はい。えーと。ガフンダルからもらった薬のおかげで」真紅がしどろもどろになりながら、そう答えた。

「どうしたのだ?キャプテン・ハックよ。首などひねって」ガフンダルは、真紅の膝をくらった背中をさすりさすりたずねる。

「いやあ。どこもかしこもゴツゴツして切り立った岩場ばかりで、どこへ接岸したもんかと悩んでいたのさ」

「この島の南東へ回ってくれ。キャプテン・ハック。そこには、島の奥へと続く大きな大きな洞穴が開いていての。船でそのまま入り込むことができるのじゃ。ま、いわばそこが、この島の玄関といったところかのう」

「そうかい。そういう入り口がありゃあ、話は早いぜ。よし。南東だな」そういって、キャプテン・ハックは舵を大きく回す。と共に、今までたゆたっていた船がどんどん加速しだした。ハッキング丸は、あっというまにイーレン島の南東部へ回り込む。すると、ガフンダルの言っていた大洞窟が、肉眼でも見えるようになってきた。

「おお。あれだな。確かにでっけえ洞窟だ。あれなら、このハッキング丸も余裕で入り込むことができるってもんだ」と、キャプテン・ハックが言った刹那、ドスンと大きな音がして、強い衝撃を感じた。操舵室全体が、びりびりと震えている。

「おっと。言い忘れていたのじゃが、洞窟の周辺には、ほれ、あそこに見えているような流氷がたんとしつらえてあってのう。海面から頭をのぞかせていなモノもごろごろあるのじゃ。まあ誰にも簡単に進入されぬよう、ゲルダの魔力にて集められておるのだがのう」

「それを早く言わねえかよ。このスットコドッコイ!おい、ガフンダル。お前さんの魔法でなんとかしろよ。その氷。高熱で溶かすとか、全部空中に持ちあげるとかよ」

「そのように大仰なことをせぬともよいわ」ガフンダルはそういって、こうもり傘を持った腕を天井に向かって突き上げた。

「ゲルダよ。ワシだ。ガフンダルだ。お前さんにちと用があってのう。なあに、大して時間は取らせぬよ。だからちょっと通してくれんかな」ガフンダルは、一見年老いたと見えるその体のどこからそんな大声がでるのだと思わせる大音量でそう叫んだ。

船窓がガフンダルの声に共振して振るえるほどだ。真紅などは、両手で耳をふさいでいる。

ガフンダルが叫び終わったとたん、船の周りで異変が起こった。流氷がどんどん移動し始めたのである。海面下にある流氷も移動しているようだ。その証拠に、なにかがハッキング丸から遠ざかっていくように、海面に水しぶきが立っている。。

「ひゅー。こいつはなかなかの眺めだね。なあガフンダル?あんたとゲルダ。夫婦喧嘩をしたときゃ、どっちが強かったんだい?」

「ワシとあやつの力は、完全に異質であったからのう。どっちが強いとは一概に言えんよ。そもそも魔道に生きる者にとって、『強い』という概念は、非常に不確定ものであるゆえに。例えば二人の魔道師が魔力を比べあって戦い、片方が落命したとしよう。だが、落命したほうの魔道師の残留思念が、物理的な力を伴って、生き残った相手を苦しめ続けたとしたら、どちらが勝ちで、どちらが負けだとは簡単に判断できまい」

「なんだ。小難しい話になっちまったな。うだうだ言ってても始まらねえ。洞窟へ突っ込むぞ」

ハッキング丸は、洞窟の中に入っていく。洞窟の壁面は完全に氷に覆われており、入り口から入り込んでくる太陽の光を反射し、きらきらと輝いてる。洞窟内に流れ込んでいる海水が凍らないのが不思議だが、これもゲルダの魔力なのかもしれない。どんどん奥へと入り込んで、太陽の光が届かなくなっても、洞窟内はぼんやりと明るかった。おそらくひかりゴケの類が壁面に群生し、発光しているのだろう。ところどころに、氷の彫刻が姿を現してきた。

さしもの真紅も、その幻想的な雰囲気に圧倒され、先ほどから口をぽっかりとあけたままであった。

「そろそろ水の底が見えてきたぜ。これ以上ハッキング丸で進むのは無理だな。錨を下ろして、ここから先はボートで行こう」

ここは、ガフンダルと真紅も、さすがにキャプテン・ハックの考えに異議を唱えることはせず、彼の言うとおりボートに乗り移る。さすがにボートにまでエンジンはついていないようで、キャプテン・ハックがゆっくりとオールを漕いでいく。

さらにしばらく奥へと進むと、海水が途切れて地面が隆起し、眼前に巨大な氷の扉が出現した。幅も高さも優に二十メートルはありそうだ。洞窟の途中にあったものよりさらに一回り大きな氷の彫刻が、扉の周りをぐるっと囲っている。もしかすると、ノルゴリズムの神話かなにかにモチーフを取ったものなのかもしれないが、真紅にはさっぱりわからない。

キャプテン・ハック、真紅、そしてガフンダルの順番でボートを降りて、地面に足を踏み出す。ガフンダルが言ったとおり、地面にも分厚い氷が張っている。鋲のない靴を履いていたら、滑って一歩たりとも歩けなかっただろう。

「うぎゃぎゃあー」真紅の後ろで素っ頓狂な叫び声が聞こえたので、思わず振り返ると、ガフンダルが見事氷で足を滑らせ、派手にひっくり返っていた。

「ふん。なにが、『大魔道師たるものが、氷の上を歩いて、つるるんとひっくり返っている場合ではないのだ』よ。いきなりひっくり返ってんじゃないのさ」

「ふん。ちょっと笑いを取ってやろうと思うただけよ」氷の上にへたり込んだまま、ガフンダルが強がりを言っていると、ゴゴゴーと地鳴りのような音が聞こえてきた。見ると、氷の扉がゆっくりと開いていくようだ。

そしてその奥から、氷の上を滑るように『氷の魔女ゲルダ』が進み出てきたのである。

旅立ち(5)へ続く
最終更新:2008年12月03日 16:45