真紅の部屋にやってきた黒い影は「ギヒ」と小さく笑うと、懐から剣のようなものを取り出した。月明かりを反射して、刀身が不気味に光る。黒い影は、剣をぶら下げたまま、よたよたとベッドににじり寄っていった。
真紅は、息を止めてその様子を見つめている。
黒い影は、ベッドの側まで到達すると、「ゲヒイ」と低く笑って、剣を大上段に振りかざした。
― やべ。本当に毛布身代わり作戦に引っかかっちゃったわよ。このバカ ―
状況を考えると、そんな余裕はないはずなのだが、プッと噴出しそうになるのを懸命にこらえる真紅であった。
「ネビュリュッシャァー」黒い影は、わけのわからない雄叫びを上げながら、剣で毛布の塊を突き刺し始めた。何度も何度も。
― ひゃぁー。『狂ったように』って言葉があるけど、まさにこのことだわ。毛布とシーツはもう使い物にならないわね。勿体ないなあ。ところで、ゴメラドワルがこんなバカを手下にしているような奴なら、もしかして余裕で倒せるんじゃない? ―
ついでに、ゴメラドワルまで辛らつに評価してしまう真紅であった。
「プシュルルルルゥー」都合、300回ほど毛布を突き刺し続けた黒い影は、さすがに疲れたのか、はたまた、今日はこれぐらいにしといたると満足したのか、剣を振るう手を止め、シーツに手をかけ一気にめくり上げた。
「ネギャ?」黒い影は、どうもいまいち状況が理解できていないようだ。丸まった毛布をそーっと開いてみたりしている。そんなところに人間が隠れられるわけがないのである。
「びゃはははははは。なにやってんのアンタ!?」真紅はとうとうこらえきれず、笑い出してしまった。と同時に、ホリハレコンの短剣を抜き放つ。
「さあ、輝けよ!ホリハレコーン」真紅がそう叫ぶと、ホリハレコンの短剣は、真昼のようなまばゆい光を放ち始める。
「二ギアァァァァァァァァー」
黒い影は、ホリハレコンの短剣が放つ光を正視できず、眼を両手で覆い、その場にうずくまって悲鳴を上げた。
「さあ、シーツと毛布のカタキよ。覚悟しなさい」そういいながら真紅が黒い影に徐々に接近していくと、ばね仕掛けのように、黒い影が跳ね起き、猛然と部屋の入り口に向かって走り出した。ドアは開いたままだ。
「しまった。逃げられちゃう」
部屋の入り口に向かって走り出した黒い影は、なにか壁のようなものに激突し、もんどりうって部屋の中に押し戻される。
「ルビイ。怪我はないか」
「パイソン?」
パイソンに続いて、ガフンダル、そしてチョントゥーが部屋の中に入ってきた。
「パイソンにチョントゥー先生。あのジュース飲まなかったの?」
「私は医者よ。一口つけただけで、睡眠薬が混ぜられていることぐらいすぐわかるわよ」
「俺は、においをかいだだけでわかった。ふん。義母が出してくる飲み物や食べ物と同じにおいがしたからな」
「ガビュルルルー」黒い影が吼える。両の拳でどんどんと床を叩いているところを見ると、どうやら悔しがっているようだ。
「そんな、いまさら悔やんだって仕方ないじゃない。アンタがバカなんだからさ」真紅は、さらに辛らつになる。
ガフンダルが前に進み出てきて、ご自慢のこうもり傘で黒い影を指しながら、「リトル・ジョンにとりついて、ルビイに仇なす貴様は何者だ?」と叫んだ。
「俺はお前を知っているぞ。ちんけな魔力でいい気になっている耄碌ジジイ。俺はお前が嫌いだ、ガフンダル」黒い影は、しわがれた声でそう言った。
「なにを!」
「ダークナイトに失敗という言葉はない!」黒い影はそう叫ぶと、突然立ち上がり、ブツブツと呪文を唱えだした。
「ダークナイト!みんな。息を止めて伏せろ!」ガフンダルがそう叫んだ直後、黒い影の体が倍ほどに膨れ上がり、全身からドス黒いガスが噴出して、真紅たちを襲った。
ガッシャーン。
「窓ガラスを割って逃げたわよ。ゲホ、ゲホ。くっさーい。なにこのガス!?」真紅が思わず叫び声を上げ、ガスを吸い込んでしまった。
「喋るな!毒ガスじゃ。神経をやられるぞ。あれは、『ダークナイトの最後っ屁』という術じゃ。みんな、ダークナイトが逃げた窓から部屋の外に出るのじゃ」
真紅、チョントゥー、パイソン、そしてガフンダルの順に、窓から裏庭にまろび出た。見ると、10ノルヤーン(10メートル)ほど先に、ダークナイトが立っている。
「あれ?逃げなかったみたいよ、ダークナイト。あんなところに突っ立ってるわ。ねえガフンダル。ところでアイツ何者?」と、真紅はガフンダルに訊ねた。
「ふむ。ゴメラドワルの手下じゃな」
「やっぱりぃー?なんか希望が沸いてきちゃったな♪ゴメラドワルなんてラクショーかも」真紅はポンポンと手を打って喜ぶ。
「ほう。それは頼もしいワイ。ところで、そのホリハレコンの短剣をワシの目の前に持ってこんでくれんか。ちと、まばゆ過ぎるでな」ガフンダルはいつの間にかまたサングラスをかけていた。
「あ。ごめんなさい。やい!ダークナイト!覚悟しなさいよアンタ」真紅はホリハレコンの短剣をダークナイトの方へ向け、そう叫んだ。
「ビュシュリュリュリュー。小娘。お前にこの私が倒せると思うのか。1200年もの時を生きている、このダークナイトを」
ダークナイトはそう言うと、眼を閉じてまたブツブツと呪文を唱えだした。
「ふん。また最後っ屁かますつもり?外だと効果ないんじゃない?面倒だわ。いくわよぉー」真紅はそう言って、ホリハレコンの短剣をかざしながら、ダークナイトの方へ向かって走り出した。
「ルビイ、無茶をするなよ」パイソンが、腰の剣を抜き放って真紅の後を追う。
「デギビヤァー!」ダークナイトがまた意味不明な叫び声を上げると、彼の体が分裂し始めた。新しく生まれたダークナイトがさらに分裂し、都合5体になる。
「フン。幾ら数が増えたって一緒よ!」真紅は、近くにいるダークナイトに片っ端から切りかかっていったが、全く手ごたえがない。ホリハレコンの光を受けて、一旦は消滅するものの、暫くするとまた違うところに出現する。パイソンが手を貸しても同じことであった。
「ハアハア。ガフンダルー!これじゃきりがないわ」真紅は、5ノルゴルン(10分)ほどぶっ通しでダークナイトに切りかかっていたが、さすがに息が上がっている。「なにかいい手はないの?」
「ダークナイトの本体を見つけるのじゃ!」
「そんなこと言ったって見分けがつかないんだもーん!」
「ダークナイトの分身の術を解くには、5体いるダークナイトを1体ずつ倒していけばよいのじゃが、そのとき、必ず最短の移動距離で行わねばならないのじゃ。5体全部を倒すのに費やす移動距離の合計が、いっちゃん少ない順番でな」
「そんな難しいこと言われたってわかんないよぉー」
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン♪」
あまりに唐突に、VAIOに『群青色の健一郎』 が降臨した。
「わ!呼んでないわよ!見りゃわかるでしょ?今、めっちゃ取り込み中なの。パパの出番かどうかぐらいわかるでしょうが!」
「何を言ってるんだいルビイ。今をおいてほかに私の出番はあるまいと思ったから、こうして登場したんじゃないか。5つの地点を順番に結ぶ最短距離を求めたいのだろう?」
「そうよ!」
「これは、有名な『巡回セールスマンの問題』だな」実装寺健一郎のVAIOは、高らかにそう言い放った。
「せ、せえるすまぁん!?ちょっとパパ。今この情況で、なにをワケのわかんないこと言ってんのよ。本当に髑髏環礁に沈めるわよ」真紅は完璧にブチ切れている。
「まあ聞けルビイ。複数あるポイントを一箇所ずつ回る場合に、一番最短のルートはどれかということを探索するのは、ソフトウェア工学上非常に重要なテーマとなっておってな。『巡回セールスマンの問題』と呼ばれているのさ」
「ふーん。なんとなく今この情況にマッチしていなくもないわね」珍しく真紅が興味を示したようだ。
「そうだろう。よしではこの画面を見てくれ」健一郎がそう言うと、またしてもスクリーンにウインドウがポコッと出現した。
「ウインドウの中に、四角い領域があるだろう。そう、一面に地面のような模様がある部分だ。この領域の任意の場所をクリックすると、その場所にモンスターが配置される。5体のモンスターを配置し終わると、ウインドウ下部に探索ボタンが現れるのでそれをクリックすると、コンピュータが最適な経路を探すわけだ。モンスター配置中に最初からやり直したくなったらクリアボタンを押すとよいぞ。ちょっとやってみてごらん」
「そんな暇ないんだけど。まあいいわ。えーっと。ここでしょ。それからここ・・・・。はい。探索」
真紅が探索ボタンを押すと、モンスターが赤いラインで結ばれる。
「なるほど、このルートでモンスターを倒せばいいわけね」
「コホン、そもそもこのプログラムはだな・・・」健一郎が得々とプログラムの解説を始めようとしたところを、真紅がビチコーンと平手で張り飛ばした。
「な、なんて事をするのだルビイ!意識だけだとはいえ、仮にも父親だぞ!」
「だってほら、今この通りの状況だからさぁ。プログラムの説明なんて聞いてる暇ないのよ。まずはダークナイトを倒してからゆっくり聞いてあげるわ。えっと、5人のダークナイトの位置の通り置いてと。よし探索!悪いけどパパ、私の横についてきてくれる。この通りに倒していくから!」そう言うと、真紅は稲妻のように駆け出した。
「おい、ちょっと待って!」長七郎のVAIOが慌てて真紅を追う。
「ちょうど私の斜め前ぐらいを飛ぶようにして。パパ。もたもたしてちゃだめよ!」そういいながら、真紅は1番目のダークナイトに切りかかり、消滅させた。
「ルビイよ!そのダークナイトが復活せぬまに、次のダークナイトを消すのじゃ!」ガフンダルの声が飛んだ。
「まかしといて!よーし、次はあいつね」コンピュータが計算した通りに分身を倒していくと、もう復活することなく、一体、また一体とダークナイトの数が減っていき、とうとう最後の一体になってしまった。
術を破られてしまったダークナイトは、口をポカンと開けたまま凝固してしまっている。
「やい!ダークナイト。覚悟しなさいよ。別にアンタに恨みはないけどさ」
「ゲヒィヒィ。我は永遠に不滅よ」ダークナイトはそう言って、両手を高くあげ、真紅を睨みつけた。
「ルビイ!気をつけるのじゃ。また妙な術を使うかもしれぬぞ!」ガフンダルがそう叫ぶと同時に、ブッシューと大きな音がして、黒い霧のようなものが、塊になって上空に吹き上げた。リトル・ジョンの体は、力なくその場に崩れ落ちる。そのまま、黒いきりの塊はぐんぐんと上昇し、角度を変えて西の方角へ飛び去ってしまった。
「ありゃ?逃げちゃったわよ、ダークナイト。あれだけ逃げ足が速けりゃ、不滅なはずよね」真紅はさも馬鹿馬鹿しそうにそう吐き捨てた。
「さて、今回はどうかのう。これほどの大失敗をやらかしたのじゃから、ゴメラドワルも捨ておくまい。ま、悲しい最期が待っておるかもしれんよ。あヤツには」ガフンダルが満足そうにそう言った。
「う、うーん」どうやら、リトル・ジョンが意識を取り戻したようだ。早速チョントゥーが介抱している。
「あれ?私は今まで何をしていたのだろう。はて?なにやら悪い夢をみていたような。ときに、皆さんはどちらさまですか?」
ガフンダルが、これまでの経緯をかいつまんでリトル・ジョンに説明すると、リトル・ジョンはなにやら複雑な表情を浮かべて、「なるほど、変な怪物に乗り移られていたのを助けていただいたことについては感謝しなくてはいけないのでしょうが、そもそも貴方達のせいで私がそういうめに遭ったというのは、ちといただけませんねえ」と歎息する。この辺りの損得勘定は、さすがに商売人といえる。
「いやはや、ご迷惑をおかけしてしまってまことに面目ない。まあ迷惑のかけついでといってはなんじゃが、このまま明日の朝までお宅に泊めていただくわけにはまいらぬかな?なあに、それなりの御礼はいたしますゆえ」ガフンダルが真面目腐った態度でそう言うと、リトル・ジョンは相好を崩し、「なんと。さようでございますか。そう言うことであれば、当方は何の支障もございませんのでして」と快諾した。
真紅とチョントゥーは、お互いに突っつきあって、ニヤニヤとしながら小声で「ぷ。可哀想に。木の葉よ木の葉」と囁きあう。
「さて、明日はいよいよ地下大洞窟へ向かって出発じゃ。皆それぞれの部屋へ戻り、休もうではないか」
「おぉー!」真紅、チョントゥー、パイソンは右拳を振り上げ、揃って掛け声をあげた。
「ちょっと待ってよ・・・」健一郎のVAIOが、どんよりとした音声を発した。
「おっと。これはしたり。いやぁー群青色の健一郎殿。本日のご活躍は見事であったなあ。さすがはプロペラリ」ガフンダルが慌ててフォローする。
「プログラムです」
「やるじゃんパパ。ちょっとだけ見直しちゃたわよ。じゃあ、明日早いからもう寝るわ。お休みパパ」
「解説していいっていったもん・・・」
「は?」
「ダークナイトを退けたら、プログラムの解説していいって言ったもん。さっき」健一郎はとことんイジケている。
「わかったわよ。じゃ、200字以内でやって」真紅は、心の底から面倒くさそうに言った。
「できない!ああ母さん、ちょっとオトコができたと思ったらいい気になって、父親は邪魔者扱いだよ。嘆かわしいねえ」
「わかったわよぉ!もう好きなだけやれば」
「ほんと♪じゃあお言葉に甘えちゃおうかな。さて、今回のテーマとなった『巡回セールスマンの問題(TSP)』というのは、非常に有名なものでな。多くの研究者が、必死になって正解を導き出そうとしているものの、未だに誰も達成できていないのだ」
「え?ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあさっきのも、もしかして正解じゃなかったかもしれないってこと?たまたまだったの?」これは聞き捨てならないと、真紅が口を挟んだ。
「いや、先ほどのは、絶対の正解だよ」
「さっき、誰も正解を導き出せないって言ったじゃん」
「先ほどのプログラムで使用したルーチンは、必ず正解が導き出せるのだよ。なぜならば、1番のポイントから出発して、また1番のポイントに戻ってくる経路を全て辿って移動コストを計算し、その中で一番低コストである経路を採用しているだけなのだ。だから、アルゴリズムというほどに大それたものではない」
「必ず正解が導き出せる方法がわかってるんだったら、なんで偉い人が研究してんの?」
「それはな、その全経路探索が現実的には、くその役にも立たないからだよ。今回のように、ポイントが5つぐらいなら瞬時にて計算が終わるが、例えばポイントが32個になると、いったいどうなると思うかね?」
「えーっと。1時間ぐらいかかるの?」
「フフフ。現在のコンピュータの能力では、太陽系滅亡の時を迎えても計算が終わらないのだ」健一郎は真紅が話に乗ってきたのが嬉しいらしく、非常に得意げである。
「うそぉー。何億年もかかっちゃうの?たった32箇所で?」
「その通り、だからこそ、研究者は様々なアルゴリズムを考えて、正解に近いであろうと思われる解、即ち『近似解』を導き出そうとしているのだよ。例えば『遺伝的アルゴリズム』などのようにな」
「ふーん。変な名前ね。『自伝的アルゴリズム』かあ」
「『自伝的』ではなくて『遺伝的』だ愚か者!」
「じゃ、なんでパパはその『市電的アルゴリズム』を採用しなかったの?」
「
『遺伝的』だっつーの。だって、このようなライトウエイトな物語に、
『遺伝的アルゴリズム』のような大掛かりなものを持ち出しても仕方あるまい。なにせ、
『巡回セールスマンの問題』だけで、書籍が一冊出来上がって、実際に
出版されているほどなのだから」
「それってやっぱりあれ?現役売り上げトップのセールスマンが書いたわけ?」
「なんか、大いなる勘違いをしているようだなルビイ。もういいわい。それより、読者の皆さんにとっては、モンスター同士を線で結ぶ処理の方が参考になるかもしれないよ。何しろHTMLだから、簡単にラインをぴゅっと引くということができないので、2点間を結ぶ直線上にドットを置いていくという、めちゃめちゃ辛気臭い方式を採用しているのだ。2点間の直線上をドットで繋ぐために、『ブレセンハムの線分発生アルゴリズム』というのを使用しているから、是非ご覧になっていただきたいと思う」
「あ。パパ、解説終わった?じゃあもう寝ようよ。お休みなさーい」真紅は大きくあくびを一発かまして、ガラスが割れた窓によじ登り、部屋の中に消えていった。
ガフンダル始め、チョントゥーやパイソンもそれに続く。
「健一郎殿、これからもよろしく頼みますぞ。ではワシも休むとするかのう」
かくして、ぽつねんと裏庭に、健一郎VAIOのみが取り残されたのであった。
「ん?なんでオイラ、一人ぼっちでこんなとこにいるんだ?あれ?そういや、ダークナイトのクソガキは?」
どうやら、裏庭に取り残されたのは、長七郎だったようである。
最終更新:2009年01月07日 23:36