ノルゴー大陸南端の港町マリーデルから、デラスカバリスカ山脈の麓、アリャネーの町までは、険しい山々もなく、平原が続くのみであるため、街道もほぼ一直線でつながっており、真紅たちの乗った馬車は、その街道をわき目も振らず北上していた。
マリーデルを出立したときは、大荒れの空模様で、道もぬかるみ難渋したものの、町から20ノルヤード(10km)も離れると、空は嘘のように晴れ上がり、旅は順調そのものになった。
マリーデルを出たのは、朝の4ノルゴ(8時)頃であったが、8ノルゴ(午後4時)頃には、アリャネーの名物であるサイロが見えてきた。
なぜこれほど順調に事が進んだのかというと、真紅が非常に大人しかったからだ。街道には、途中に2箇所ほど小さな宿場町があったが、そこで真紅が「おダンゴ食べたーィ」などと、一切わがままを言わなかったのである。なぜ真紅が一切わがままを言わなかったのか、その理由は彼女が車酔いで、マリーデルを出発して1ノルゴルン(2分)後から今に至るまで、ずーっと寝ていたからである。
ガフンダルは、御者台の後ろにある小窓から馬車の中を覗いて声をかけた。「みんな。そろそろアリャネーの町に着くぞ。穀物の町アリャネーの名物、サイロが見えてきたゆえな」
「まあ。アリャネーのパンは本当に美味しいのよ。辺境の町では『アリャネーのパンを食べてから死ね』っていわれてるくらいなのよ。さすが世界中の穀物が集まる町よね。なんでも、アリャネーの町がある標高と、気温と湿度が、穀物を保存するのに絶好なんだって。すごいわね。ねえルビイちゃん?美味しいパン食べたいでしょ?」
ノルゴー大陸きっての名医チョントゥーも、やはり女性である。美味しいものには眼がないようで、掌を打ち鳴らして、大喜びで真紅に話しかけた。しかし、博識なところをちゃっかりと見せておくのを忘れないのはさすがであった。
「う、お、おえぇー」小麦の袋を枕にして横たわっている真紅がえずく。
「それからね、ルビイちゃん。豆大福がめちゃめちゃ美味しいのよ、豆大福が。辺境の町では『アリャネーの豆大福か、親の死に目か』っていう諺があるのよ。これはね、どうしても譲れない究極の二者択一を迫られたときのことをいうの。すごいわねぇ。諺になるほど美味しいのよ。ねえルビイちゃん?豆大福好きでしょ?豆大福、豆大福、豆大福」
「おお、おぇぇぇぇー」真紅がまたしてもえずく。食べ物の話になると、想像して気持ち悪くなるようだ。心配そうに真紅を看ていたパイソンも、さすがにこのチョントゥーと真紅のやり取りに、プッっと噴出している。真面目なパイソンが噴出した様子など、めったに見られるものではないので、なかなかに貴重なワンシーンとなった。
「まあどっちにしてもよぉ。これだけ順調にアリャネーの町に着けたってこたあ、めでてえよな。ウンウン。これもすべてルビイのおかげってやつだぁな」実装寺健一郎が意識を乗っ取って、美味しいところをさらっていくようになってから、めっきり影が薄くなっている長七郎が、ここぞとばかりに発言する。
― くっそぉー。それってワタシが車酔いで寝込んで静かだから、なんのトラブルもなかったってことが言いたいわけね。長七郎めぇ。いつかキレイにフォーマットして、OSごと入れ替えてやるぅ! しかし、なんでこんなに乗り物に弱いのかなあ。ワタシ ―
「うわはははは。ルビイよ、アリャネーの町についたら薬をやるゆえ、もう少し我慢せよ。そうさな。後5ノルゴルン(10分)もすれば到着するぞ。今薬を飲んでしまうと、また気持ち悪くなるからな。わかったか?ルビイ」ガフンダルは、真紅が弱っているのをいいことに、いつになく尊大な口調である。
― ひゃぁぁー。また気持ち悪くなってもいいから、たった今、薬くれぇー ―
さて、ここで時間を少し戻させていただく。真紅たちの乗る馬車が、マリーデルとアリャネーの中間地点付近に差し掛かった頃、目的地のアリャネーでは、人知れず大事件が発生していた。
ビッグ・ジョンの長男、リトル・ジョンは、日課であるお昼の点検をすべく、彼が所有しているサイロの中にいた。
サイロの中にうずたかく積み上げられている穀物の袋をひとつひとつ丹念に見ていって、小動物が齧って袋が破れていないか、もしくは虫がついていないかなどを点検するのである。どれだけ効率よくやっても、軽く1ノルゴ(2時間)はかかる地道な作業であったが、もしそれを怠って、質の悪いものを顧客に販売してしまうと、ビッグ・ジョン商店ののれんに傷がついてしまうのである。そういうわけで、今日も薄暗いサイロの中、ビッグ・ジョン商店アリャネー支店長である彼が、じきじきに商品を点検しているのであった。
「ん?」
作業をしていたリトル・ジョンは、自分の視界に奇妙な物体が入ってきたことに気付き、手を止め、その物体に眼をやった。
よく見ると、ちょうど彼の目線と同じぐらいの高さに積み上げてある袋の上に、通常の倍ほどもある大きなネズミが立っていたのだ。『立っていた』というのは誤植でもなんでもなく、そのネズミは本当に『立って』いたのである。
しかも、前足を体の前で揃えて、後ろ足だけでちょこんと立つというような生易しいものではなく、背筋をピンと伸ばして、両の前足を腰に当てて、人間様のように威風堂々と仁王立ちしていたのだ。
リトル・ジョンは、自分が直面している不思議な現象を理解できないので、眼の錯覚であると信じ、「嘘だろ。こりゃあきっと何かの見間違いだよ。それとも疲れているのかな」と呟きながら、何度も何度も眼をこすってみたが、そのネズミの姿は一向に消えてなくならない。
しかも、あろうことかそのネズミは、右の前足でリトル・ジョンを指差し、「俺はお前を知っているぞ。リトル・ジョン」と、地獄の底から響いてくるような、低くしわがれた声で喋ったのである。
「ひんぁふ」あまりの驚愕に、リトル・ジョンは意味不明の小さな叫び声をあげ、その場にへたり込んでしまった。
それと同時に、ネズミの体から、どす黒い霧が噴出して、見る見るリトル・ジョンの体を包んだ。そして、口や鼻や耳の穴から、彼の体内に入り込んでいく。
「う、うぎゃぁああああー」長い長い悲鳴の後、リトル・ジョンは床に倒れ、しばらくヒクヒクと痙攣していたが、やがてゆっくりと起き上がってきた。
そして、薄気味の悪い笑いを浮かべながら、「ルビイよ。可哀想だが、貴様の命運もこのアリャネーで尽きるのだ。このダークナイトの手によってな」と呟いたのである。
そう。ついに、やっとのことで、真紅たちの前に、敵らしい敵が出現したのであった。
最終更新:2009年01月03日 23:18