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みんなの新武将/倭・日本(中世)/戦国時代(日本) - (2017/04/18 (火) 00:01:07) の編集履歴(バックアップ)
注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
当然、万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
新武将の能力値や適性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
当然、万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。
上杉謙信の名馬「放生月毛」、武田信玄の名馬「黒雲」などアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は こちら
特に「剣豪」「猛将」などの個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。アイテム効果は こちら 。能力効果は こちら
上杉謙信の名馬「放生月毛」、武田信玄の名馬「黒雲」などアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は こちら
特に「剣豪」「猛将」などの個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。アイテム効果は こちら 。能力効果は こちら
倭・日本
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
応仁の乱を契機とした内乱は、日本全国に広がり、世に言う「戦国時代」の始まりとなった。
関東では既に応仁の乱以前から戦乱が始まっており、やがて 伊勢盛時 を中心とする勢力が跋扈した。
甲信では甲斐を統一した武田信虎が追放され、かわって当主となった 武田信玄 が周辺諸国を平定。確たる勢力を築いていた。
越後では長尾為景の跡を継いだ、のちの 上杉謙信 のもと周辺諸国と凌ぎを削っていた。
東北では伊達家を中心とする天文の大乱が発生し、後に天下平定の直前になって遅すぎた群雄 伊達政宗 が奥州に覇を唱えた。
そして東海では、大勢力として 今川義元 が君臨し、織田信秀らと凌ぎを削っていた。
同地には、若き日の 織田信長 、 豊臣秀吉 、 徳川家康 らの姿があった。
関東では既に応仁の乱以前から戦乱が始まっており、やがて 伊勢盛時 を中心とする勢力が跋扈した。
甲信では甲斐を統一した武田信虎が追放され、かわって当主となった 武田信玄 が周辺諸国を平定。確たる勢力を築いていた。
越後では長尾為景の跡を継いだ、のちの 上杉謙信 のもと周辺諸国と凌ぎを削っていた。
東北では伊達家を中心とする天文の大乱が発生し、後に天下平定の直前になって遅すぎた群雄 伊達政宗 が奥州に覇を唱えた。
そして東海では、大勢力として 今川義元 が君臨し、織田信秀らと凌ぎを削っていた。
同地には、若き日の 織田信長 、 豊臣秀吉 、 徳川家康 らの姿があった。
織田家・豊臣家・徳川家
【西日本の戦国時代の人物】
【東海甲信越地方】
斯波家(武衛家)
斯波義統
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
19 | 5 | 43 | 61 | 33 | 名声・詩想・論客 | C | C | C | C | C | C | 1513 | 1554 | 小心 | 小心 | 尊大 | 維持・長 | 2/5 | 2/5 |
【シバヨシムネ】
尾張守護であった斯波家第14代当主。斯波義達の嫡男。
父が今川氏親に敗れて事実上の隠居となり、わずか3歳で家督を継いだ。先代以前から尾張守護代であった清洲織田家や
岩倉織田家との対立を続けており、事実上の傀儡君主であった。成長すると尾張守護として権勢をふるい、
特に拡張路線をしく織田弾正忠家を支援した。しかし織田信秀が死去すると清洲織田家との対立が表面化し、
1554年、清洲織田家の当主であった織田信友に居城を攻撃され、自害した。彼の死により、斯波家の権威は失墜した。
尾張守護であった斯波家第14代当主。斯波義達の嫡男。
父が今川氏親に敗れて事実上の隠居となり、わずか3歳で家督を継いだ。先代以前から尾張守護代であった清洲織田家や
岩倉織田家との対立を続けており、事実上の傀儡君主であった。成長すると尾張守護として権勢をふるい、
特に拡張路線をしく織田弾正忠家を支援した。しかし織田信秀が死去すると清洲織田家との対立が表面化し、
1554年、清洲織田家の当主であった織田信友に居城を攻撃され、自害した。彼の死により、斯波家の権威は失墜した。
織田信秀
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
63 | 84 | 77 | 79 | 68 | 富豪・眼力・徴税 | A | B | C | A | C | B | 1510 | 1551? | 剛胆 | 剛胆 | 丁寧 | 早熟・短 | 3/5 | 4/5 |
【オダノブヒデ】
斯波家家臣。斯波家の重臣であった清洲織田家に仕える三奉行の一人であった織田弾正忠家の出。織田信長らの実父。
1527年に家督を相続し、主家の斯波家や清洲織田家を凌ぐ勢威を持っていたと言われ、主家と争いを繰り広げた。
1538年には那古野城を奪取し、今川・斎藤家ら外部の勢力との戦いへと乗り出し、松平清康の死で混乱する三河西部も支配下に置いた。
斎藤家との戦いも有利に進め、一時期は大垣城を奪取していたと言われるが、斎藤道三とその援軍の朝倉宗滴をはじめ、各地の勢力の反抗により
敗戦を繰り返し勢力を衰退。小豆坂との戦いをはじめ、今川軍との戦いにも敗れ三河を失陥する。嫡男信長との婚姻で斎藤家と和解するが、
主家との抗争中に風土病にかかって病没。先代からの貯蓄で圧倒的な財力を有していたとあり、
また嫡男の信長に大いに期待していたと言われ、紆余曲折ながらも織田弾正忠家が雄飛する土台を築いた。
斯波家家臣。斯波家の重臣であった清洲織田家に仕える三奉行の一人であった織田弾正忠家の出。織田信長らの実父。
1527年に家督を相続し、主家の斯波家や清洲織田家を凌ぐ勢威を持っていたと言われ、主家と争いを繰り広げた。
1538年には那古野城を奪取し、今川・斎藤家ら外部の勢力との戦いへと乗り出し、松平清康の死で混乱する三河西部も支配下に置いた。
斎藤家との戦いも有利に進め、一時期は大垣城を奪取していたと言われるが、斎藤道三とその援軍の朝倉宗滴をはじめ、各地の勢力の反抗により
敗戦を繰り返し勢力を衰退。小豆坂との戦いをはじめ、今川軍との戦いにも敗れ三河を失陥する。嫡男信長との婚姻で斎藤家と和解するが、
主家との抗争中に風土病にかかって病没。先代からの貯蓄で圧倒的な財力を有していたとあり、
また嫡男の信長に大いに期待していたと言われ、紆余曲折ながらも織田弾正忠家が雄飛する土台を築いた。
織田信友
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
37 | 45 | 62 | 39 | 48 | 威圧・怒髪・長駆 | C | C | B | B | C | C | ? | 1555 | 小心 | 小心 | 尊大 | 維持・長 | 2/5 | 4/5 |
【オダノブトモ】
戦国時代の武将。斯波家家臣にして尾張下四郡の守護代であり、織田信長らの主君にあたる。
織田大和守家であった織田達勝の養子となり、養父ともども織田信秀、織田信長らと対立。
1547年には織田信秀と斎藤道三の戦いの間隙をつき、信秀居城を包囲するが平手政秀の機知で好機を逸した。
その後、信秀が亡くなると織田勘十郎信行を支持して織田信長と対立。萱津の戦いでは織田信長とその叔父信光と戦うが敗北。
信長本人の暗殺を企てるもこれも失敗した。のちに守護であった斯波義統を暗殺し、尾張を
牛耳ろうと目論むも、かえって織田信長に好機を与えてしまい、1555年に織田信長、織田信光に攻められ自害した。
戦国時代の武将。斯波家家臣にして尾張下四郡の守護代であり、織田信長らの主君にあたる。
織田大和守家であった織田達勝の養子となり、養父ともども織田信秀、織田信長らと対立。
1547年には織田信秀と斎藤道三の戦いの間隙をつき、信秀居城を包囲するが平手政秀の機知で好機を逸した。
その後、信秀が亡くなると織田勘十郎信行を支持して織田信長と対立。萱津の戦いでは織田信長とその叔父信光と戦うが敗北。
信長本人の暗殺を企てるもこれも失敗した。のちに守護であった斯波義統を暗殺し、尾張を
牛耳ろうと目論むも、かえって織田信長に好機を与えてしまい、1555年に織田信長、織田信光に攻められ自害した。
服部友貞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
51 | 32 | 67 | 58 | 56 | 論客・操舵・待伏 | B | B | B | C | C | B | ? | 1569 | 小心 | 小心 | 丁寧 | 維持・長 | 2/5 | 3/5 |
【ハットリトモサダ】
尾張の国人衆で服部党の当主。
今川家、伊勢長島寺社衆と協調し、織田信長と対立して独自の勢力を張っていた。
斯波家の当主であった斯波義銀の呼びかけに応じ、織田信長の追放に共謀するが失敗。
その後1559年、滝川一益の謀略により蟹江城を失陥。翌年桶狭間の戦いの際には今川方に味方し、海上から
織田領を攻撃するが、これも失敗に終わった。それでも伊勢長島寺社衆や北畠家と連携し、信長との対立を続けたが
1568年、北畠家への交渉の際に織田家の刺客に襲われ、殺害された。服部党はその後伊勢長島で寺社衆に与し抵抗する。
尾張の国人衆で服部党の当主。
今川家、伊勢長島寺社衆と協調し、織田信長と対立して独自の勢力を張っていた。
斯波家の当主であった斯波義銀の呼びかけに応じ、織田信長の追放に共謀するが失敗。
その後1559年、滝川一益の謀略により蟹江城を失陥。翌年桶狭間の戦いの際には今川方に味方し、海上から
織田領を攻撃するが、これも失敗に終わった。それでも伊勢長島寺社衆や北畠家と連携し、信長との対立を続けたが
1568年、北畠家への交渉の際に織田家の刺客に襲われ、殺害された。服部党はその後伊勢長島で寺社衆に与し抵抗する。
織田信行
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
51 | 33 | 67 | 74 | 77 | 怒髪・火攻・名声 | C | C | C | B | C | C | 1536? | 1557 | 織田信長 | 冷静 | 剛胆 | 普通・短 | 4/5 | 5/5 |
【オダノブユキ】
織田信秀の息子。織田信長の弟にあたるが、異説として兄とも言われる。信勝、達成とも。
父と離れて活動していた信長と異なり、父の城である末森城で若年期を過ごし、父の最期を看取ったと言われる。
うつけと呼ばれた信長に対し、品行方正で家中や周辺勢力の評判もよかった。弟が不意の事故で殺害されると
激怒して首謀者の城を攻めるなど、情にも厚かったとされる。当初は信長に従っていたが、
斎藤義龍や織田信安などと手を組み、周囲から孤立していく信長に対して反旗を翻した。信長の倍以上の兵力を擁し、
自らは防備に努めていたが、稲生合戦で重臣の林通具を討ち取られ、一旦服従する。
再度反旗を翻したが、病に伏せったと信長に欺かれて清洲城に登城、同地で信長側近である池田恒興らに斬られた。
織田信秀の息子。織田信長の弟にあたるが、異説として兄とも言われる。信勝、達成とも。
父と離れて活動していた信長と異なり、父の城である末森城で若年期を過ごし、父の最期を看取ったと言われる。
うつけと呼ばれた信長に対し、品行方正で家中や周辺勢力の評判もよかった。弟が不意の事故で殺害されると
激怒して首謀者の城を攻めるなど、情にも厚かったとされる。当初は信長に従っていたが、
斎藤義龍や織田信安などと手を組み、周囲から孤立していく信長に対して反旗を翻した。信長の倍以上の兵力を擁し、
自らは防備に努めていたが、稲生合戦で重臣の林通具を討ち取られ、一旦服従する。
再度反旗を翻したが、病に伏せったと信長に欺かれて清洲城に登城、同地で信長側近である池田恒興らに斬られた。
林秀貞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
39 | 12 | 74 | 81 | 52 | 論客・名声・指導 | C | C | C | C | C | C | ? | 1580? | 冷静 | 剛胆 | 早熟・短 | 2/5 | 4/5 |
【ハヤシヒデサダ】
織田家重臣であった林通安の子。弟に林通具がいる。
織田信秀の重臣として仕え、信長の補佐を任されるが、信秀死後に信長から離反。
弟とともに信長の弟であった織田信行につき、柴田勝家らとも組んで信長廃立を企てた。
稲生の戦いでは参陣せず、信行の死後は信長に降伏。以後重用され、主に政治面で重きをなした。
だが、1580年突如信長より追放処分が下り、同年のうちに死去。
追放の原因は信行擁立、平手との対立、一族の衰退など諸説あり不明である。子孫は山内一豊に仕えた。
織田家重臣であった林通安の子。弟に林通具がいる。
織田信秀の重臣として仕え、信長の補佐を任されるが、信秀死後に信長から離反。
弟とともに信長の弟であった織田信行につき、柴田勝家らとも組んで信長廃立を企てた。
稲生の戦いでは参陣せず、信行の死後は信長に降伏。以後重用され、主に政治面で重きをなした。
だが、1580年突如信長より追放処分が下り、同年のうちに死去。
追放の原因は信行擁立、平手との対立、一族の衰退など諸説あり不明である。子孫は山内一豊に仕えた。
林通具
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
62 | 81 | 46 | 22 | 45 | 昂揚・猛者・待伏 | B | B | C | B | C | C | 1516 | 1556 | 猪突 | 剛胆 | 維持・短 | 2/5 | 2/5 |
【ハヤシミチトモ】
織田家重臣であった林通安の息子。兄に林秀貞がいる。林美作とも。
織田信秀から兄ともども、織田信長の補佐を任されるが信長に不信感を抱き、村木攻めの際に
信長の命令を違え兄ともども離反し城から退去する。その後織田信行を補佐していた柴田勝家と
手を組み、信長廃立を企てた。異母兄の信時と2人で信長が乗り込んできた際には、
信長を襲撃して殺害しようとするも果たせなかった。のち、稲生の戦いでは柴田勝家とともに
信行軍の主力を率いて参戦。信長方の黒田半平を一騎打ちで負傷させ、襲来してきた信長に挑むが敗北。信長本人に討ち取られた。
織田家重臣であった林通安の息子。兄に林秀貞がいる。林美作とも。
織田信秀から兄ともども、織田信長の補佐を任されるが信長に不信感を抱き、村木攻めの際に
信長の命令を違え兄ともども離反し城から退去する。その後織田信行を補佐していた柴田勝家と
手を組み、信長廃立を企てた。異母兄の信時と2人で信長が乗り込んできた際には、
信長を襲撃して殺害しようとするも果たせなかった。のち、稲生の戦いでは柴田勝家とともに
信行軍の主力を率いて参戦。信長方の黒田半平を一騎打ちで負傷させ、襲来してきた信長に挑むが敗北。信長本人に討ち取られた。
土岐家
斎藤道三
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
78 | 76 | 97 | 75 | 61 | 虚実・連環・強行 | A | B | A | A | C | C | 1494? | 1556 | 冷静 | 冷静 | 剛胆 | 維持・長 | 1/5 | 5/5 |
【サイトウドウサン】
戦国時代の大名。もとは商人の出身。西村勘九郎、斎藤利政とも。
山城で油売りとして利を得ていたが、やがて一念発起し土岐家の陪臣となった。
主君である土岐家が家督争いを演じると次男頼芸に味方し、彼を助ける一方、長井長弘を殺害して
その権勢を掌握、その後土岐頼芸の弟を毒殺して主君とも反目。最終的に織田信秀や朝倉孝景らとも争い
苦戦の末に織田信秀を加納口で奇襲し撃退、美濃国主となった。晩年には織田家と和睦して娘を信長に嫁がせたが、
領内の旧土岐家臣を掌握できず、彼らに支持された不仲の嫡男であった義龍に急襲され長良川合戦で敗死した。
信長の器量を高く評価し国譲りの書状を書いたと言われているが、死の間際に義龍を侮っていたことを後悔したという。
戦国時代の大名。もとは商人の出身。西村勘九郎、斎藤利政とも。
山城で油売りとして利を得ていたが、やがて一念発起し土岐家の陪臣となった。
主君である土岐家が家督争いを演じると次男頼芸に味方し、彼を助ける一方、長井長弘を殺害して
その権勢を掌握、その後土岐頼芸の弟を毒殺して主君とも反目。最終的に織田信秀や朝倉孝景らとも争い
苦戦の末に織田信秀を加納口で奇襲し撃退、美濃国主となった。晩年には織田家と和睦して娘を信長に嫁がせたが、
領内の旧土岐家臣を掌握できず、彼らに支持された不仲の嫡男であった義龍に急襲され長良川合戦で敗死した。
信長の器量を高く評価し国譲りの書状を書いたと言われているが、死の間際に義龍を侮っていたことを後悔したという。
補足:斎藤道三の国盗りは、現在では親子二代によるものだとする説が主流。能力列伝はコーエーの基準を鑑み一代説による
斎藤義龍
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
79 | 87 | 72 | 78 | 76 | 詭計・反計・射手 | B | B | A | A | C | C | 1527 | 1561 | 剛胆 | 剛胆 | 剛胆 | 維持・長 | 3/5 | 4/5 |
【サイトウヨシタツ】
戦国時代の大名。斎藤道三の嫡男とも言われるが、異説として土岐頼芸の子とも。
1554年家督を相続するも、弟2人を殺害して父である斎藤道三とも反目。長良川の戦いでは道三を敗死させ、
道三の救援および弟の利治を匿った織田信長と大良河原で争うが、信長の采配と武勇に阻まれ
織田軍に大損害を与えることができずに織田軍撤退を許した。その後は父の方針を転換して
旧土岐家臣を重用し美濃統治を進め、六角義賢らと盟を結ぶ一方、織田信長と断交して
反信長勢力を支持しつつ信長の暗殺を企図するなど信長を苦しめる。しかし晩年は叔父で重臣でもある
長井道利との反目、道利と結ぶ武田信玄との対立、織田信長の勢力拡大などに苦しめられ、失意の中1561年死去した。
戦国時代の大名。斎藤道三の嫡男とも言われるが、異説として土岐頼芸の子とも。
1554年家督を相続するも、弟2人を殺害して父である斎藤道三とも反目。長良川の戦いでは道三を敗死させ、
道三の救援および弟の利治を匿った織田信長と大良河原で争うが、信長の采配と武勇に阻まれ
織田軍に大損害を与えることができずに織田軍撤退を許した。その後は父の方針を転換して
旧土岐家臣を重用し美濃統治を進め、六角義賢らと盟を結ぶ一方、織田信長と断交して
反信長勢力を支持しつつ信長の暗殺を企図するなど信長を苦しめる。しかし晩年は叔父で重臣でもある
長井道利との反目、道利と結ぶ武田信玄との対立、織田信長の勢力拡大などに苦しめられ、失意の中1561年死去した。
斎藤龍興
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
63 | 38 | 77 | 54 | 42 | 遁走・不屈・反計 | B | C | B | B | C | C | 1548 | 1573? | 織田信長・竹中半兵衛・斎藤利治 | 猪突 | 猪突 | 豪放 | 維持・長 | 4/5 | 1/5 |
【サイトウタツオキ】
戦国時代の武将。朝倉家の客将。父は斎藤義龍。叔父に斎藤利治。叔母に斎藤帰蝶。斎藤道三の孫。
もとは美濃国主であった斎藤家の当主であったが、父の下克上と早逝、織田信長、浅井長政の圧力により
勢力を衰退させ、家臣の離反と織田信長の侵攻によって美濃を追われた。その後、
伊勢長島の一揆衆や三好三人衆などと手を組み、反信長の姿勢を崩さず徹底抗戦を行った。
その後朝倉家に客将として迎え入れられ、織田信長との戦いに随行するが、刀根坂で敗北。信長に降っていた
旧家臣の氏家直昌に討ち取られたと言われている。暗愚と評判されるが、宣教師ルイスフロイスは彼の知謀を讃えている。
戦国時代の武将。朝倉家の客将。父は斎藤義龍。叔父に斎藤利治。叔母に斎藤帰蝶。斎藤道三の孫。
もとは美濃国主であった斎藤家の当主であったが、父の下克上と早逝、織田信長、浅井長政の圧力により
勢力を衰退させ、家臣の離反と織田信長の侵攻によって美濃を追われた。その後、
伊勢長島の一揆衆や三好三人衆などと手を組み、反信長の姿勢を崩さず徹底抗戦を行った。
その後朝倉家に客将として迎え入れられ、織田信長との戦いに随行するが、刀根坂で敗北。信長に降っていた
旧家臣の氏家直昌に討ち取られたと言われている。暗愚と評判されるが、宣教師ルイスフロイスは彼の知謀を讃えている。
※ 朝倉家滅亡後も生存し、越中名士となった説もある
斎藤利三
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
75 | 79 | 77 | 68 | 55 | 掎角・急襲・昂揚 | A | B | A | A | B | C | 1534 | 1582 | 明智光秀 | 冷静 | 維持・長 | 2/5 | 1/5 |
【サイトウトシミツ】
戦国時代の武将。足利奉公衆の1人。のち明智光秀の家臣。
はじめ三好家に仕えていた松山重治の家臣であったという。その後、斎藤義龍、稲葉良通に仕え、
その過程で織田家に属した。のちにその才を評価した明智光秀が高禄で召抱えたと言われている。
明智光秀の重臣として光秀の軍事行動に従軍。丹波平定後は黒井城を与えられた。
光秀の命で長宗我部氏との交渉も任されていたが、1582年明智光秀の本能寺の変に付き従い、
先遣隊を率いて直接京へ攻め入る役目を果たし、織田信長・織田信忠父子らを襲撃して自刃するきっかけを作った。
山崎の戦いでは明智軍先鋒を任され、織田羽柴軍の高山重友を果敢に攻め立てたが、救援にきた堀秀政の軍勢に押し止められている。
その後、戦況不利や明智光秀の敗走に伴い自身も逃走。近江堅田で潜伏するが捕らえられ、処刑された。
戦国時代の武将。足利奉公衆の1人。のち明智光秀の家臣。
はじめ三好家に仕えていた松山重治の家臣であったという。その後、斎藤義龍、稲葉良通に仕え、
その過程で織田家に属した。のちにその才を評価した明智光秀が高禄で召抱えたと言われている。
明智光秀の重臣として光秀の軍事行動に従軍。丹波平定後は黒井城を与えられた。
光秀の命で長宗我部氏との交渉も任されていたが、1582年明智光秀の本能寺の変に付き従い、
先遣隊を率いて直接京へ攻め入る役目を果たし、織田信長・織田信忠父子らを襲撃して自刃するきっかけを作った。
山崎の戦いでは明智軍先鋒を任され、織田羽柴軍の高山重友を果敢に攻め立てたが、救援にきた堀秀政の軍勢に押し止められている。
その後、戦況不利や明智光秀の敗走に伴い自身も逃走。近江堅田で潜伏するが捕らえられ、処刑された。
※その他候補となった特技:論客・補佐
松平家
松平康忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
65 | 59 | 60 | 72 | 65 | 補佐・急襲・掎角 | B | B | C | A | C | C | 1546 | 1618 | 冷静 | 維持・長 | 5/5 | 2/5 |
【マツダイラヤスタダ】
戦国時代の武将。徳川家臣、長沢松平家出身で松平政忠の嫡男。徳川家康の義弟。
父、松平政忠が桶狭間合戦で戦死したのち、祖父の後見を受けて1562年に元服。
徳川家康の三河平定戦に従軍して功を立て、義父の酒井忠次を補佐して姉川合戦にも従軍。
この功により、家康の嫡男である徳川信康の家老を任せられた。長篠合戦でも酒井忠次に従い
別働隊として武田軍を攻撃した。徳川信康の自害により、一時期蟄居するも家康のもとへ帰参。
本能寺の変の際も徳川家康とともにおり、伊賀越えに同道。その後小牧長久手の戦いにも参陣した。
1588年に隠棲して京に住んでいたが、実子を早くに亡くしたため、家康の六男である松平忠輝などを養子とした。
戦国時代の武将。徳川家臣、長沢松平家出身で松平政忠の嫡男。徳川家康の義弟。
父、松平政忠が桶狭間合戦で戦死したのち、祖父の後見を受けて1562年に元服。
徳川家康の三河平定戦に従軍して功を立て、義父の酒井忠次を補佐して姉川合戦にも従軍。
この功により、家康の嫡男である徳川信康の家老を任せられた。長篠合戦でも酒井忠次に従い
別働隊として武田軍を攻撃した。徳川信康の自害により、一時期蟄居するも家康のもとへ帰参。
本能寺の変の際も徳川家康とともにおり、伊賀越えに同道。その後小牧長久手の戦いにも参陣した。
1588年に隠棲して京に住んでいたが、実子を早くに亡くしたため、家康の六男である松平忠輝などを養子とした。
松平信一
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
70 | 79 | 55 | 47 | 62 | 猛者・槍将・強行 | S | A | C | B | C | C | 1539 | 1624 | 剛胆 | 維持・長 | 5/5 | 2/5 |
【マツダイラノブカズ】
戦国時代の武将。今川、徳川家臣。藤井松平家の出身。家康の祖父である松平清康の従兄弟。
若年の頃から徳川家康に付き従い、武勇を発揮して戦功を挙げた。
三河一向一揆の際は一揆勢の銃撃で左目付近を負傷するが、臆せず立ち上がって敵を倒したという逸話がある。
その後、織田信長の上洛軍に家康代理として参加し、観音寺城攻略で信長から激賞された。
以後、三河東条城の防備を務めながら姉川、長篠、小牧長久手の戦いに従軍し、家康の関東移封後には
下総国に領地を得た。関ヶ原合戦の際には松平秀康とともに関東で佐竹・上杉らの警戒にあたり、戦後、常陸土浦藩の藩主となった。
戦国時代の武将。今川、徳川家臣。藤井松平家の出身。家康の祖父である松平清康の従兄弟。
若年の頃から徳川家康に付き従い、武勇を発揮して戦功を挙げた。
三河一向一揆の際は一揆勢の銃撃で左目付近を負傷するが、臆せず立ち上がって敵を倒したという逸話がある。
その後、織田信長の上洛軍に家康代理として参加し、観音寺城攻略で信長から激賞された。
以後、三河東条城の防備を務めながら姉川、長篠、小牧長久手の戦いに従軍し、家康の関東移封後には
下総国に領地を得た。関ヶ原合戦の際には松平秀康とともに関東で佐竹・上杉らの警戒にあたり、戦後、常陸土浦藩の藩主となった。
松平家忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
60 | 54 | 76 | 81 | 72 | 築城・詩想・風水 | A | C | B | A | C | C | 1555 | 1600 | 冷静 | 維持・長 | 5/5 | 1/5 |
【マツダイライエタダ】
戦国時代の武将。十八松平の一つ深溝松平家の出身。
松平伊忠の息子として生まれ、酒井忠次の与力として貢献。
長篠合戦では別働隊として鳶巣山攻撃に参加し、長篠城救援の武功を立てる。
内政面でも力を発揮し、浜松城、諏訪原城、横須賀城など家康本領の遠江に
おける城郭普請に大きく貢献し、広田川の治水事業も担った。家康の関東入りの
際には幼少の松平忠吉の後見役として忍城10万石および埼玉1万石を統治。のちに下総を領する。
1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦として伏見城を鳥居元忠らと防備を固め、落城とともに戦死。
戦国時代の武将。十八松平の一つ深溝松平家の出身。
松平伊忠の息子として生まれ、酒井忠次の与力として貢献。
長篠合戦では別働隊として鳶巣山攻撃に参加し、長篠城救援の武功を立てる。
内政面でも力を発揮し、浜松城、諏訪原城、横須賀城など家康本領の遠江に
おける城郭普請に大きく貢献し、広田川の治水事業も担った。家康の関東入りの
際には幼少の松平忠吉の後見役として忍城10万石および埼玉1万石を統治。のちに下総を領する。
1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦として伏見城を鳥居元忠らと防備を固め、落城とともに戦死。
※徳川家を知る一級史料といわれる「家忠日記」の著者。
内藤正成
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
56 | 84 | 38 | 45 | 78 | 弓将・猛者・射手 | C | B | S | C | B | C | 1528 | 1602 | 剛胆 | 維持・長 | 4/5 | 2/5 |
【ナイトウマサナリ】
戦国時代の武将。徳川家家臣。徳川十六神将の一人。
弓術に優れ、松平広忠、徳川家康の二代に仕えた。
織田信秀との戦いや三河一向一揆では弓で敵を撃退、武田軍との戦いでも
活躍し、三方が原の戦いでは殿を務めた。武田軍からもその優れた弓術を恐れられたと言われる。
徳川家康の関東移封にも随行し、1602年に病没。
戦国時代の武将。徳川家家臣。徳川十六神将の一人。
弓術に優れ、松平広忠、徳川家康の二代に仕えた。
織田信秀との戦いや三河一向一揆では弓で敵を撃退、武田軍との戦いでも
活躍し、三方が原の戦いでは殿を務めた。武田軍からもその優れた弓術を恐れられたと言われる。
徳川家康の関東移封にも随行し、1602年に病没。
米津常春
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
64 | 82 | 45 | 32 | 71 | 猛者・槍将・連戦 | S | B | B | C | C | C | 1524 | 1612 | 剛胆 | 維持・長 | 4/5 | 1/5 |
【ヨネキツツネハル】
戦国時代の武将。徳川家家臣。徳川十六神将の一人。
1549年に織田家の安祥城を攻めた際、城主の織田信広を捕える大功を挙げる。
桶狭間の戦いでは三河衆の先鋒として戦い、三河一向一揆が起きた際にはいち早く家康の元へ駆け付け、鎮圧に当たった。
1612年死没。
戦国時代の武将。徳川家家臣。徳川十六神将の一人。
1549年に織田家の安祥城を攻めた際、城主の織田信広を捕える大功を挙げる。
桶狭間の戦いでは三河衆の先鋒として戦い、三河一向一揆が起きた際にはいち早く家康の元へ駆け付け、鎮圧に当たった。
1612年死没。
渥美勝吉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
52 | 83 | 36 | 15 | 64 | 猛者・掃討・槍将 | S | C | C | C | C | C | 1557 | ? | 剛胆 | 維持・長 | 4/5 | 1/5 |
【アツミカツヨシ】
戦国時代の武将。徳川家家臣。通称は源五郎。横須賀七人衆の一人。
松平家に仕え、長篠の戦いなど多くの戦いで活躍し「首取り源五郎」と称された。
横須賀城主の大須賀康高の与力として付けられ、大須賀家が絶家となると徳川頼宣に仕えた。
戦国時代の武将。徳川家家臣。通称は源五郎。横須賀七人衆の一人。
松平家に仕え、長篠の戦いなど多くの戦いで活躍し「首取り源五郎」と称された。
横須賀城主の大須賀康高の与力として付けられ、大須賀家が絶家となると徳川頼宣に仕えた。
今川家
今川義元
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
87 | 66 | 85 | 91 | 88 | 名声・仁政・看破 | S | A | C | B | C | C | 1519 | 1560 | 剛胆 | 剛胆 | 丁寧 | 維持・長 | 2/5 | 4/5 |
【イマガワヨシモト】
今川氏親の五男。兄の氏輝死後、異母兄の玄広恵探との家督争いに勝利し、今川家当主の座に就く。
武田家と同盟を結び北条氏と凌ぎを削りながら、一方で尾張の織田信秀との戦いを展開。
のちに北条氏康と同盟を結び、松平広忠を傘下に据えて三河の領国化を進める。
内政面では今川仮名目録追加を制定し領国で検地を実施、外交面では武田晴信と長尾景虎との争いを仲裁している。
徳川家康を人質に取り手元に置いて重用、織田信秀の介入を防ぎつつ逆に尾張に介入するなど
軍事行動を有利に進めていたが、1560年に桶狭間山にて織田信長の攻撃を受け、落命。
今川氏親の五男。兄の氏輝死後、異母兄の玄広恵探との家督争いに勝利し、今川家当主の座に就く。
武田家と同盟を結び北条氏と凌ぎを削りながら、一方で尾張の織田信秀との戦いを展開。
のちに北条氏康と同盟を結び、松平広忠を傘下に据えて三河の領国化を進める。
内政面では今川仮名目録追加を制定し領国で検地を実施、外交面では武田晴信と長尾景虎との争いを仲裁している。
徳川家康を人質に取り手元に置いて重用、織田信秀の介入を防ぎつつ逆に尾張に介入するなど
軍事行動を有利に進めていたが、1560年に桶狭間山にて織田信長の攻撃を受け、落命。
※その他候補となった特技:詩想・楽奏・明鏡・論客・威圧
今川氏豊
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
13 | 7 | 54 | 66 | 64 | 論客・祈願・詩想 | C | C | C | C | C | C | 1522? | ? | 小心 | 小心 | 丁寧 | 維持・長 | 3/5 | 1/5 |
【イマガワウジトヨ】
今川義元の実弟。今川家の傍流とも言われる。「今川竹王丸」とも。
尾張斯波氏との戦いで今川軍が勝利した際、今川氏親の命で那古野氏の養子となり、
斯波家の娘を娶って縁戚関係となった。1538年に尾張守護代の一族で、自身も信用していた織田信秀の離反にあい、
那古野城を陥落させられた。命乞いの末に信秀に許され、一時期京に登った後、駿河へ下向した。山科言継らと昵懇であった。
今川家と織田家の争いや、桶狭間合戦に代表される義元の尾張侵攻の遠因は、氏豊と織田の遺恨があったからだと言われている。
今川義元の実弟。今川家の傍流とも言われる。「今川竹王丸」とも。
尾張斯波氏との戦いで今川軍が勝利した際、今川氏親の命で那古野氏の養子となり、
斯波家の娘を娶って縁戚関係となった。1538年に尾張守護代の一族で、自身も信用していた織田信秀の離反にあい、
那古野城を陥落させられた。命乞いの末に信秀に許され、一時期京に登った後、駿河へ下向した。山科言継らと昵懇であった。
今川家と織田家の争いや、桶狭間合戦に代表される義元の尾張侵攻の遠因は、氏豊と織田の遺恨があったからだと言われている。
太原雪斎
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
74 | 38 | 91 | 84 | 75 | 洞察・論客・指導 | A | B | C | B | C | C | 1496 | 1555 | 冷静 | 冷静 | 丁寧 | 維持・長 | 5/5 | 1/5 |
【タイゲンセッサイ】
今川家臣庵原氏の出。京都五山の建仁寺で修業後、今川義元に仕えた。
花倉の乱をはじめとする、今川義元の軍事行動に参加し、彼を補佐した。
また、織田信秀と織田信広と戦いこれに戦勝。松平広忠を庇護して西三河における優位権を確保した。
武田氏や北条氏との関係改善につとめ、2者との友好関係を構築。1555年に死去した。
一説には主君であった今川義元や、人質時代の徳川家康を指導したとも伝えられている。
今川家臣庵原氏の出。京都五山の建仁寺で修業後、今川義元に仕えた。
花倉の乱をはじめとする、今川義元の軍事行動に参加し、彼を補佐した。
また、織田信秀と織田信広と戦いこれに戦勝。松平広忠を庇護して西三河における優位権を確保した。
武田氏や北条氏との関係改善につとめ、2者との友好関係を構築。1555年に死去した。
一説には主君であった今川義元や、人質時代の徳川家康を指導したとも伝えられている。
岡部元信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
89 | 81 | 75 | 56 | 79 | 洞察・乱戦・不屈 | S | B | B | A | C | C | ? | 1581 | 剛胆 | 剛胆 | 丁寧 | 維持・長 | 4/5 | 3/5 |
【オカベモトノブ】
今川家重臣。名は「真幸」「長教」とも。
今川義元に仕え、第二次小豆坂合戦を始めとする織田家との三河戦線で活躍。
今川軍の三河における優位確保に大きく貢献した。織田家臣であった山口教継が投降すると、
義元の命で尾張鳴海城を守備。対織田家への尾張最前線として信長を大きく悩ませた。
桶狭間合戦の際は、最前線の鳴海城を防備。今川義元討死後も頑強な抵抗を続け、ついに落城せず和睦にて退去した。
その後も今川家に仕えるが、武田信玄の駿河侵攻の際に武田家に降伏。以後は武田家臣として武田家の駿河戦線を
支えたが、1581年の高天神城攻防戦で徳川家康の包囲を受け、落城。織田信長の命令によって徳川軍は撫で斬りを行ったとされ、元信も戦死した。
この時、織田信忠の軍勢が徳川軍の後詰として清洲におり、彼の死や武田の対応は、織田徳川軍と武田軍の戦力差を象徴する戦いとして語られている。
今川家重臣。名は「真幸」「長教」とも。
今川義元に仕え、第二次小豆坂合戦を始めとする織田家との三河戦線で活躍。
今川軍の三河における優位確保に大きく貢献した。織田家臣であった山口教継が投降すると、
義元の命で尾張鳴海城を守備。対織田家への尾張最前線として信長を大きく悩ませた。
桶狭間合戦の際は、最前線の鳴海城を防備。今川義元討死後も頑強な抵抗を続け、ついに落城せず和睦にて退去した。
その後も今川家に仕えるが、武田信玄の駿河侵攻の際に武田家に降伏。以後は武田家臣として武田家の駿河戦線を
支えたが、1581年の高天神城攻防戦で徳川家康の包囲を受け、落城。織田信長の命令によって徳川軍は撫で斬りを行ったとされ、元信も戦死した。
この時、織田信忠の軍勢が徳川軍の後詰として清洲におり、彼の死や武田の対応は、織田徳川軍と武田軍の戦力差を象徴する戦いとして語られている。
吉良義昭
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
37 | 42 | 67 | 56 | 70 | 名声・威圧・富豪 | C | C | C | C | C | C | ? | ? | 小心 | 小心 | 乱暴 | 維持・長 | 2/5 | 3/5 |
【キラヨシアキ】
足利氏末裔、吉良家の当主。西条吉良家の出身。兄の子孫に吉良上野介がいる。
今川義元の遠江、三河進出のあおりをうけ、今川家に降伏。この際織田についた実兄義安の
代わりとして今川義元の命で当主となった。以後今川家の軍事行動に加担し、安祥城の戦いにも参陣。
だが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、織田家と結びつき今川からの独立を目指す徳川家康と対立。
善明堤の戦いでは家老であった富永忠元を送り込んで勝利するが、藤波畷の戦いでは軍の中心であった忠元が戦死したため降伏。
家康によって岡崎に連れられていたが、三河一向一揆が起こるとこれに加担し、東条城に籠城して家康と対立。
しかし、徳川家康の攻撃によって再度降伏させられ、以後三河を逃れ戻ることはなかったという。
足利氏末裔、吉良家の当主。西条吉良家の出身。兄の子孫に吉良上野介がいる。
今川義元の遠江、三河進出のあおりをうけ、今川家に降伏。この際織田についた実兄義安の
代わりとして今川義元の命で当主となった。以後今川家の軍事行動に加担し、安祥城の戦いにも参陣。
だが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、織田家と結びつき今川からの独立を目指す徳川家康と対立。
善明堤の戦いでは家老であった富永忠元を送り込んで勝利するが、藤波畷の戦いでは軍の中心であった忠元が戦死したため降伏。
家康によって岡崎に連れられていたが、三河一向一揆が起こるとこれに加担し、東条城に籠城して家康と対立。
しかし、徳川家康の攻撃によって再度降伏させられ、以後三河を逃れ戻ることはなかったという。
武田家
武田晴信(信玄)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
93 | 40 | 95 | 83 | 95 | 鬼謀・機略・繁殖 | A | B | S | S | C | B | 1521 | 1573 | 冷静 | 威厳 | 普通・短or維持・長 | 1/5 | 5/5 |
※壮年(44歳以降)ver
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
95 | 31 | 98 | 94 | 96 | 鬼謀・百出・神算 | A | B | S | S | B | B | 1521 | 1573 | 上杉謙信 | 冷静 | 威厳 | 普通・短or維持・長 | 1/5 | 5/5 |
【タケダハルノブ(シンゲン)】
戦国時代の大名。日本の戦国七雄の1人に数えられる。
武田信虎の嫡男として生誕するが、父を追放して甲斐を統一。
その後は権謀術数を巧みに操り、信濃駿河などを席巻。
一方で上杉謙信や北条氏康としのぎを削り領土を拡張した。
大軍を率いて三方ヶ原で徳川家康を蹂躙したが、その直後に病死。
生来病弱であったと伝わっている。武田家の史料や講談では、しばしば 諸葛亮 と同一視された。
戦国時代の大名。日本の戦国七雄の1人に数えられる。
武田信虎の嫡男として生誕するが、父を追放して甲斐を統一。
その後は権謀術数を巧みに操り、信濃駿河などを席巻。
一方で上杉謙信や北条氏康としのぎを削り領土を拡張した。
大軍を率いて三方ヶ原で徳川家康を蹂躙したが、その直後に病死。
生来病弱であったと伝わっている。武田家の史料や講談では、しばしば 諸葛亮 と同一視された。
※その他候補となった特技:深謀・百出・強運・藤甲・洞察・風水
飯富虎昌
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
68 | 97 | 56 | 59 | 83 | 勇将・藤甲・猛者 | A | B | B | S | C | C | 1504 | 1565 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 | 4/5 | 4/5 |
【オブトラマサ】
武田家臣。武田信虎、信玄、義信に仕える。弟(甥)に山県昌景。
「甲山の猛虎」の異名をとり、赤備えの祖とも言われる。はじめ武田信虎に反旗を翻したが、
敗れてその傘下となる。以後、今川家諏訪家との戦いで軍功を上げ、諏訪・村上との戦いでは首級97を挙げた。
1541年には板垣信方、甘利虎泰らと協力して信虎の嫡男晴信を擁立し、主君追放を主導して重臣となり、
板垣、甘利両名の死後は筆頭家老として武田信玄を支えた。上杉謙信・村上義清との戦いでも寡兵で敵を破り、
川中島の戦いでは別働隊の総大将を務める。その後、信玄嫡男である武田義信の傅役となるが、義信事件に連座して死去。
信玄義信への忠義から自ら死を選んだとする一方、勢力を伸ばし剛毅な彼を危険視した信玄の謀殺とも言われる。
武田家臣。武田信虎、信玄、義信に仕える。弟(甥)に山県昌景。
「甲山の猛虎」の異名をとり、赤備えの祖とも言われる。はじめ武田信虎に反旗を翻したが、
敗れてその傘下となる。以後、今川家諏訪家との戦いで軍功を上げ、諏訪・村上との戦いでは首級97を挙げた。
1541年には板垣信方、甘利虎泰らと協力して信虎の嫡男晴信を擁立し、主君追放を主導して重臣となり、
板垣、甘利両名の死後は筆頭家老として武田信玄を支えた。上杉謙信・村上義清との戦いでも寡兵で敵を破り、
川中島の戦いでは別働隊の総大将を務める。その後、信玄嫡男である武田義信の傅役となるが、義信事件に連座して死去。
信玄義信への忠義から自ら死を選んだとする一方、勢力を伸ばし剛毅な彼を危険視した信玄の謀殺とも言われる。
※その他候補となった特技:踏破
山県昌景
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
74 | 95 | 65 | 78 | 89 | 騎神・猛者・威風 | A | A | C | S | C | C | 1529 | 1575 | 剛胆 | 威厳 | 普通・長or維持・長or開眼(統率・知力など) | 5/5 | 1/5 |
【ヤマガタマサカゲ】
武田家臣。武田信玄、勝頼に仕える。
兄(叔父とも)の飯富虎昌とともに信玄を盛り立て、数々の合戦に参加。
信玄晩年には家中有数の重臣として重用され、文武にわたって武田の躍進に貢献。
信玄の死後も勝頼を補佐するが、長篠合戦で徳川隊の銃撃を受け、戦死。
その豪勇は「源四郎の赴くところ敵なし」と言われ、川中島では上杉軍に感嘆され
三方ヶ原では家康を敗走させ、美濃明知城戦では小勢で倍以上の織田軍に不利を悟らせ戦わずして撤退させた。
武田家臣。武田信玄、勝頼に仕える。
兄(叔父とも)の飯富虎昌とともに信玄を盛り立て、数々の合戦に参加。
信玄晩年には家中有数の重臣として重用され、文武にわたって武田の躍進に貢献。
信玄の死後も勝頼を補佐するが、長篠合戦で徳川隊の銃撃を受け、戦死。
その豪勇は「源四郎の赴くところ敵なし」と言われ、川中島では上杉軍に感嘆され
三方ヶ原では家康を敗走させ、美濃明知城戦では小勢で倍以上の織田軍に不利を悟らせ戦わずして撤退させた。
※その他候補となった特技:藤甲
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも
Te-PersonEditor
などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
馬場信春
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
66 | 92 | 70 | 52 | 90 | 騎神・洞察・連戦 | B | A | B | S | C | C | 1515? | 1575 | 剛胆 | 威厳 | 普通・長or維持・長or開眼(統率・知力など) | 5/5 | 1/5 |
【ババノブハル】
武田家臣。武田信虎、信玄、勝頼に仕える。「馬場信房」とも。「不死身の鬼美濃」と言われた。
はじめ教来石景政と名乗り、のちに馬場の名跡を引き継いだ。
武田信玄の初陣や信虎追放にも参加していたと言われ、以後重用された。
信玄の信濃攻略に参陣し、川中島合戦では別働隊の主軍を率いたと言われる。
その後も三増峠、三方ヶ原などに参戦し軍功を上げた。遠山氏の領有した東美濃の攻略戦では
少数ながら遠山氏の盟友であった織田信長の大軍相手に臆さず陽動攻撃をしかけ、
小軍に犠牲を強いられることを恐れた信長を撤収させたとも言われている。だが
武田信玄をもってしても織田信長の勢いを止めることはできず、やがて長篠で武田勝頼率いる
武田軍は織田信長、徳川家康と正面衝突。武将が数多戦死する大敗北を喫した。この戦いで殿を務め、役目を全うし戦死。
武田家臣。武田信虎、信玄、勝頼に仕える。「馬場信房」とも。「不死身の鬼美濃」と言われた。
はじめ教来石景政と名乗り、のちに馬場の名跡を引き継いだ。
武田信玄の初陣や信虎追放にも参加していたと言われ、以後重用された。
信玄の信濃攻略に参陣し、川中島合戦では別働隊の主軍を率いたと言われる。
その後も三増峠、三方ヶ原などに参戦し軍功を上げた。遠山氏の領有した東美濃の攻略戦では
少数ながら遠山氏の盟友であった織田信長の大軍相手に臆さず陽動攻撃をしかけ、
小軍に犠牲を強いられることを恐れた信長を撤収させたとも言われている。だが
武田信玄をもってしても織田信長の勢いを止めることはできず、やがて長篠で武田勝頼率いる
武田軍は織田信長、徳川家康と正面衝突。武将が数多戦死する大敗北を喫した。この戦いで殿を務め、役目を全うし戦死。
※その他候補となった特技:護衛
内藤昌秀
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
75 | 73 | 82 | 77 | 90 | 騎将・補佐・運搬 | A | B | B | S | B | B | 1522 | 1575 | 冷静 | 威厳 | 維持・長 | 5/5 | 1/5 |
【ナイトウマサヒデ】
武田家臣。信玄・勝頼の2代に仕える。「内藤昌豊」「工藤祐長」とも。
父が武田信虎に殺害されたことから一時期武田家を出奔していたが、信玄の代になると復帰。
以後信玄の信濃攻略や川中島合戦に従軍し、のち上野攻略の功績などから名跡内藤家の相続を許され、
浅利氏の後任として箕輪城代に任命される。その後は政軍あわせて信玄に貢献し、
三方ヶ原の戦いでも軍功を立てた。信玄死後も勝頼に仕え、かわらず重用されていたが、長篠合戦にて戦死。
武田家臣。信玄・勝頼の2代に仕える。「内藤昌豊」「工藤祐長」とも。
父が武田信虎に殺害されたことから一時期武田家を出奔していたが、信玄の代になると復帰。
以後信玄の信濃攻略や川中島合戦に従軍し、のち上野攻略の功績などから名跡内藤家の相続を許され、
浅利氏の後任として箕輪城代に任命される。その後は政軍あわせて信玄に貢献し、
三方ヶ原の戦いでも軍功を立てた。信玄死後も勝頼に仕え、かわらず重用されていたが、長篠合戦にて戦死。
春日虎綱
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
72 | 69 | 84 | 85 | 83 | 騎将・論客・明鏡 | B | C | B | S | C | C | 1527 | 1578 | 冷静 | 威厳 | 維持・長 | 5/5 | 1/5 |
【カスガトラツナ】
武田家臣。信玄・勝頼の2代に仕えた。「高坂昌信」とも言われる。
武田信玄の近習として仕え、信濃海津城を防備して上杉謙信に備えた。川中島合戦・三方ヶ原の戦いに
参陣し軍功を挙げつつ、信濃統治を行った。武田信玄の死後も勝頼に仕え、上杉謙信の備えにあたった。
長篠合戦へは嫡男昌澄を送り自らは参陣せず、勝頼の帰還後は武田家臣の中心的存在となった。
晩年は上杉景勝との同盟を画策したが、1年後の同盟締結を見ることなく死去。
武田家臣。信玄・勝頼の2代に仕えた。「高坂昌信」とも言われる。
武田信玄の近習として仕え、信濃海津城を防備して上杉謙信に備えた。川中島合戦・三方ヶ原の戦いに
参陣し軍功を挙げつつ、信濃統治を行った。武田信玄の死後も勝頼に仕え、上杉謙信の備えにあたった。
長篠合戦へは嫡男昌澄を送り自らは参陣せず、勝頼の帰還後は武田家臣の中心的存在となった。
晩年は上杉景勝との同盟を画策したが、1年後の同盟締結を見ることなく死去。
秋山虎繁
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
83 | 88 | 78 | 72 | 71 | 騎神・捕縛・機略 | C | B | B | S | C | C | 1527 | 1575 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 | 5/5 | 2/5 |
【アキヤマトラシゲ】
武田家臣。武田信虎・武田信玄・武田勝頼の3代に仕える。「秋山信友」とも。
武田信玄による諏訪攻めで初陣を飾り、以後信玄の信濃攻略に従軍。
信濃福与城攻めでは一番槍の功績と敵大将の藤沢頼親の生け捕りという功績をあげ、以後も功績を立てて武田信玄に重用された。
のち、信濃大島城に入り美濃方面を管轄。織田信長との交渉も受け持ち、織田武田同盟の成立に大きく貢献した。
信玄の西上作戦の際には三河で別働隊として貢献するかたわら、岩村城の遠山氏を懐柔して織田方から離反させる功績を立てた。
この功により東美濃岩村城を守備するが、長篠の戦いで武田勝頼が大敗北を喫し、織田信忠らの軍によって攻囲された。
その後奮戦し続けたが兵の多寡は如何ともしがたく、勝頼の援軍なきまま籠城を続け、起死回生の夜襲策も見抜かれた。降伏を申し出るが許されず、刑死した。
武田家臣。武田信虎・武田信玄・武田勝頼の3代に仕える。「秋山信友」とも。
武田信玄による諏訪攻めで初陣を飾り、以後信玄の信濃攻略に従軍。
信濃福与城攻めでは一番槍の功績と敵大将の藤沢頼親の生け捕りという功績をあげ、以後も功績を立てて武田信玄に重用された。
のち、信濃大島城に入り美濃方面を管轄。織田信長との交渉も受け持ち、織田武田同盟の成立に大きく貢献した。
信玄の西上作戦の際には三河で別働隊として貢献するかたわら、岩村城の遠山氏を懐柔して織田方から離反させる功績を立てた。
この功により東美濃岩村城を守備するが、長篠の戦いで武田勝頼が大敗北を喫し、織田信忠らの軍によって攻囲された。
その後奮戦し続けたが兵の多寡は如何ともしがたく、勝頼の援軍なきまま籠城を続け、起死回生の夜襲策も見抜かれた。降伏を申し出るが許されず、刑死した。
武田信繁
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
69 | 74 | 78 | 75 | 88 | 補佐・明鏡・百出 | B | C | B | A | C | C | 1525 | 1561 | 冷静 | 丁寧 | 維持・長or開眼(統率・知力など) | 5/5 | 1/5 |
【タケダノブシゲ】
武田家臣。武田信虎の次男。武田信虎・信玄に仕える。
当初は信虎から後継者と目されていたが、信玄を支持して自ら信玄の家臣となった。
以後武田信玄の信濃攻略に従事し、信玄名代として諏訪・村上・高遠との多くの合戦に従軍。
また内政人事にも関与して武田家の重鎮として活躍した。信玄に重用され、後年「まことの副将」と言われる活躍を見せたが
上杉謙信との第四次川中島合戦において、上杉軍の急襲を受け戦死。
武田家臣。武田信虎の次男。武田信虎・信玄に仕える。
当初は信虎から後継者と目されていたが、信玄を支持して自ら信玄の家臣となった。
以後武田信玄の信濃攻略に従事し、信玄名代として諏訪・村上・高遠との多くの合戦に従軍。
また内政人事にも関与して武田家の重鎮として活躍した。信玄に重用され、後年「まことの副将」と言われる活躍を見せたが
上杉謙信との第四次川中島合戦において、上杉軍の急襲を受け戦死。
武田信廉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
63 | 61 | 65 | 77 | 72 | 護衛・血路・遁走 | B | C | C | B | C | C | 1532? | 1582 | 冷静 | 丁寧 | 維持・長 | 4/5 | 3/5 |
【タケダノブカド】
武田家臣。武田信虎の四男とも。信玄、勝頼に仕える。
諏訪方面の重鎮として兄である信玄を補佐し、外交では
今川北条の三国同盟における使者として活躍。武田家重鎮としても
大きな影響力を有し、兄の信繁死後は一門衆筆頭として扱われ、
大島城、江尻城などを領した。信玄死後は勝頼に仕え、
父の信虎を自らの居城へ引き取った。長篠合戦では山県昌景につぐ
2番手で攻撃をしかけるも、織田信長・徳川家康の連合軍に敗れ去った。
甲州征伐では織田信忠の破竹の勢いを前に逃亡するも、捕えられ刑死。
武田家臣。武田信虎の四男とも。信玄、勝頼に仕える。
諏訪方面の重鎮として兄である信玄を補佐し、外交では
今川北条の三国同盟における使者として活躍。武田家重鎮としても
大きな影響力を有し、兄の信繁死後は一門衆筆頭として扱われ、
大島城、江尻城などを領した。信玄死後は勝頼に仕え、
父の信虎を自らの居城へ引き取った。長篠合戦では山県昌景につぐ
2番手で攻撃をしかけるも、織田信長・徳川家康の連合軍に敗れ去った。
甲州征伐では織田信忠の破竹の勢いを前に逃亡するも、捕えられ刑死。
※ 武田信玄の影武者などをつとめ、信玄時代は本陣守護などをつとめた。文化的事績も多い。
一条信龍
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
49 | 56 | 67 | 73 | 57 | 鉄壁・護衛・論客 | B | C | C | B | C | C | 1539 | 1582? | 剛胆 | 丁寧 | 維持・長 | 3/5 | 2/5 |
【イチジョウノブタツ】
武田家臣。武田信虎の八男とも、九男とも言われる。派手好きで傾奇者であったと伝わる。
兄である武田信玄の命で名跡であった一条家を継承。親族衆として重用され、主に外交で力を発揮した。
戦場では親族衆として主に武田信玄の近衛を任され、信玄本隊に従軍することが多かった。
しかし信玄死後の長篠の戦では、本隊である武田勝頼とは離れて戦い、親族衆として奮戦した。
以降、駿河方面で防備を固めるが、1582年の武田征伐の際に徳川家康の軍に攻められ、ここで討死したと伝わっている。
武田家臣。武田信虎の八男とも、九男とも言われる。派手好きで傾奇者であったと伝わる。
兄である武田信玄の命で名跡であった一条家を継承。親族衆として重用され、主に外交で力を発揮した。
戦場では親族衆として主に武田信玄の近衛を任され、信玄本隊に従軍することが多かった。
しかし信玄死後の長篠の戦では、本隊である武田勝頼とは離れて戦い、親族衆として奮戦した。
以降、駿河方面で防備を固めるが、1582年の武田征伐の際に徳川家康の軍に攻められ、ここで討死したと伝わっている。
武田義信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
72 | 73 | 51 | 79 | 84 | 乱戦・金剛・不屈 | A | C | A | A | C | C | 1538 | 1567 | 冷静 | 剛胆 | 維持・長or開眼(統率・知力など) | 3/5 | 4/5 |
【タケダヨシノブ】
戦国時代の大名。武田信玄の嫡男。
13歳で元服し、今川義元の娘を娶った。父である武田信玄の覚えめでたく、
1553年には斡旋により足利および源氏の通字である「義」を賜り
「義信」と名乗り、躑躅ヶ崎西曲輪を居所とした。1554年に初陣し
信濃攻略で功績を立てる。上杉謙信との川中島合戦でも功を立て、
将来を嘱望されたが、武田信玄と外交方針を巡って争い、信玄廃立を
企図して失敗、廃嫡された。2年後に病死。一説に自害とも。
戦国時代の大名。武田信玄の嫡男。
13歳で元服し、今川義元の娘を娶った。父である武田信玄の覚えめでたく、
1553年には斡旋により足利および源氏の通字である「義」を賜り
「義信」と名乗り、躑躅ヶ崎西曲輪を居所とした。1554年に初陣し
信濃攻略で功績を立てる。上杉謙信との川中島合戦でも功を立て、
将来を嘱望されたが、武田信玄と外交方針を巡って争い、信玄廃立を
企図して失敗、廃嫡された。2年後に病死。一説に自害とも。
※ 義信事件に連座した側近家臣は多く、武田家衰退の遠因となる。また義信が憂慮したことは現実となり、信玄ひいては勝頼を苦しめた。
武田勝頼
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
65 | 91 | 55 | 68 | 63 | 騎将・猛者・強行 | B | C | B | S | C | C | 1546 | 1582 | 猪突 | 剛胆 | 維持・長or開眼(統率・知力など) | 3/5 | 3/5 |
【タケダカツヨリ】
戦国時代の大名。武田信玄の四男。甲斐武田家20代当主。甲陽軍鑑では「強すぎる大将」と言われた。
もとは諏訪家の家督を継承していたが、嫡男義信の廃嫡により後継者へと目された。
上野攻略で初陣をはたし、敵将を討ち取る戦果をあげた。徳川氏との戦いでは二俣城を攻略。三方ヶ原の戦いにも従軍した。
武田信玄が病没すると家督を相続。以後父の方針を継承して織田信長・徳川家康と戦った。東美濃では遠山氏の勢力を攻め
これを支配下に入れたが、続く長篠城への攻撃では奥平氏の粘りに苦戦し、援軍としてかけつけた織田信長・徳川家康の
連合軍と戦い、大敗北を喫する。以後勢威を戻すことはなく、領地を失陥しながら抵抗を続けていたが、1582年に天目山で敗北し自害。甲斐武田家は滅亡した。
戦国時代の大名。武田信玄の四男。甲斐武田家20代当主。甲陽軍鑑では「強すぎる大将」と言われた。
もとは諏訪家の家督を継承していたが、嫡男義信の廃嫡により後継者へと目された。
上野攻略で初陣をはたし、敵将を討ち取る戦果をあげた。徳川氏との戦いでは二俣城を攻略。三方ヶ原の戦いにも従軍した。
武田信玄が病没すると家督を相続。以後父の方針を継承して織田信長・徳川家康と戦った。東美濃では遠山氏の勢力を攻め
これを支配下に入れたが、続く長篠城への攻撃では奥平氏の粘りに苦戦し、援軍としてかけつけた織田信長・徳川家康の
連合軍と戦い、大敗北を喫する。以後勢威を戻すことはなく、領地を失陥しながら抵抗を続けていたが、1582年に天目山で敗北し自害。甲斐武田家は滅亡した。
三枝昌貞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
59 | 80 | 46 | 61 | 52 | 乱戦・駆逐・猛者 | A | C | C | A | C | C | 1537 | 1575 | 猪突 | 剛胆 | 維持・長 | 4/5 | 1/5 |
【サエグサマササダ】
戦国時代の武将。武田家臣。山県昌景の娘婿。「三枝守友」とも言われる。
真田昌幸らとともに武田信玄の近習として仕え、足軽大将となった。
一時期武田義信の側についていたために謹慎蟄居を受けるが、その後は変わらず武田家領内の奉行や代官を務めていた。
また、武田信玄の合戦にも数多く従軍し、特に花沢城攻めでは一番槍の武功を上げている。
長篠合戦の際には武田勝頼本隊と離れ、長篠城を攻囲していたが、酒井忠次・金森長近らの奇襲を受け奮戦するも戦死した。
戦国時代の武将。武田家臣。山県昌景の娘婿。「三枝守友」とも言われる。
真田昌幸らとともに武田信玄の近習として仕え、足軽大将となった。
一時期武田義信の側についていたために謹慎蟄居を受けるが、その後は変わらず武田家領内の奉行や代官を務めていた。
また、武田信玄の合戦にも数多く従軍し、特に花沢城攻めでは一番槍の武功を上げている。
長篠合戦の際には武田勝頼本隊と離れ、長篠城を攻囲していたが、酒井忠次・金森長近らの奇襲を受け奮戦するも戦死した。
土屋昌続
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
70 | 73 | 72 | 86 | 65 | 論客・補佐・護衛 | B | C | A | A | C | C | 1544 | 1575 | 冷静 | 剛胆 | 維持・長 | 4/5 | 1/5 |
【ツチヤマサツグ】
戦国時代の武将。武田家臣。弟に土屋昌恒
信玄の守役をつとめた金丸氏の出身であったが、土屋氏の名跡を継承。
以後信玄の近習をつとめ、川中島合戦では武田本陣で奮戦し信玄を守護する。
その後は奉行衆、朱印状奏者となり、信玄の側近として各地の大名、土豪との外交交渉を
一任された。三増峠や三方ヶ原の戦いでも奮戦し、三方ヶ原では鳥居信之を討ち取ったとされる。
長篠合戦では一軍を担い、織田徳川軍に肉薄するも戦死。
戦国時代の武将。武田家臣。弟に土屋昌恒
信玄の守役をつとめた金丸氏の出身であったが、土屋氏の名跡を継承。
以後信玄の近習をつとめ、川中島合戦では武田本陣で奮戦し信玄を守護する。
その後は奉行衆、朱印状奏者となり、信玄の側近として各地の大名、土豪との外交交渉を
一任された。三増峠や三方ヶ原の戦いでも奮戦し、三方ヶ原では鳥居信之を討ち取ったとされる。
長篠合戦では一軍を担い、織田徳川軍に肉薄するも戦死。
長尾家
長尾景春
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
85 | 79 | 88 | 41 | 68 | 不屈・遁走・怒髪 | B | A | B | S | C | C | 1443 | 1514 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 | 2/5 | 5/5 |
【ナガオカゲハル】
室町時代の武将。関東管領を務めた山内上杉家を補佐する白井長尾家の出身。
父、長尾景信の死後、権力を巡って主家と対立し、武蔵鉢形城を起点に反乱を起こす。
上杉氏に不満を持つ千葉氏、豊島氏らと結びついて一時期関東を席巻したが、扇谷上杉家の太田道灌の
活躍により徐々に勢力を縮小。最終的に武蔵国を追われた。その後鎌倉公方の足利成氏に仕え雌伏していたが
やがて太田道灌が粛清されると再度反乱を起こし、扇谷上杉家の上杉定正らと手を組んだ。
しかし扇谷上杉家が降伏してまたも反乱は頓挫。自身も山内上杉家に降伏して出家した。
ところが、山内上杉家が長尾為景討伐に向かうと、三度反乱を起こし、白井城の奪還を試みる。
この後も甲斐に転進して挙兵するが、結果的に反乱は全て失敗に終わった。その後亡命先の駿河で客死。
室町時代の武将。関東管領を務めた山内上杉家を補佐する白井長尾家の出身。
父、長尾景信の死後、権力を巡って主家と対立し、武蔵鉢形城を起点に反乱を起こす。
上杉氏に不満を持つ千葉氏、豊島氏らと結びついて一時期関東を席巻したが、扇谷上杉家の太田道灌の
活躍により徐々に勢力を縮小。最終的に武蔵国を追われた。その後鎌倉公方の足利成氏に仕え雌伏していたが
やがて太田道灌が粛清されると再度反乱を起こし、扇谷上杉家の上杉定正らと手を組んだ。
しかし扇谷上杉家が降伏してまたも反乱は頓挫。自身も山内上杉家に降伏して出家した。
ところが、山内上杉家が長尾為景討伐に向かうと、三度反乱を起こし、白井城の奪還を試みる。
この後も甲斐に転進して挙兵するが、結果的に反乱は全て失敗に終わった。その後亡命先の駿河で客死。
上杉輝虎(謙信)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
87 | 98 | 75 | 70 | 92 | 神将・猛者・富豪 | S | A | B | S | C | C | 1530 | 1578 | 剛胆 | 威厳 | 普通・長or維持・長(統率・武力) | 5/5 | 1/5 |
※壮年(35歳以降)ver
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
95 | 98 | 80 | 77 | 92 | 神将・疾走・洞察 | S | A | A | S | B | B | 1530 | 1578 | 武田信玄 | 剛胆 | 威厳 | 普通・長or維持・長(統率・武力) | 5/5 | 1/5 |
【ウエスギテルトラ(ケンシン)】
戦国時代の大名。日本の戦国七雄の1人に数えられる。
長尾為景の四男として生誕。兄の後を受けて長尾家の当主になる。
その後関東管領である上杉憲政を迎え入れ、その養子として上杉家も継承した。
武田信玄や北条氏康らと度々争い、領土を拡張。
北陸地方でも戦線を伸ばす織田軍の伸長を食い止め有利な展開を進めた。
関東制圧に向かう直前に病死。実子はおらず、死後養子たちの当主を巡った争いが発生した。
戦国時代の大名。日本の戦国七雄の1人に数えられる。
長尾為景の四男として生誕。兄の後を受けて長尾家の当主になる。
その後関東管領である上杉憲政を迎え入れ、その養子として上杉家も継承した。
武田信玄や北条氏康らと度々争い、領土を拡張。
北陸地方でも戦線を伸ばす織田軍の伸長を食い止め有利な展開を進めた。
関東制圧に向かう直前に病死。実子はおらず、死後養子たちの当主を巡った争いが発生した。
※その他候補となった特技:連戦・白馬・長駆・洞察・騎神・闘神
村上義清
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
59 | 93 | 62 | 56 | 51 | 槍神・沈着・猛者 | S | B | C | S | C | C | 1501 | 1573 | 剛胆 | 維持・長 | 3/5 | 3/5 |
【ムラカミヨシキヨ】
戦国時代の人物。北信濃の戦国大名。
北信濃を領し、武田信虎と協力して海野氏、真田氏と抗争を続け領土を拡大した。
しかし、武田信虎が追放され武田信玄が当主となると、武田家との対立が表面化。上田原の戦いや
砥石城の戦いで武田信玄の軍を打ち破り、武田家武将を数多討ち取っている。しかし、武田家に仕官していた真田幸隆の
離反工作にあい、砥石城を失陥。一度奪回するも、勢威を回復することはなく、上杉謙信を頼って落ち延びた。
以後は上杉家臣として武田信玄と三度対立。川中島の戦いでは信玄の弟である武田信繁を討ち取っている。その後、
上杉謙信に重用されたが、自身はついに本領回復することなく、越後で病没した。
戦国時代の人物。北信濃の戦国大名。
北信濃を領し、武田信虎と協力して海野氏、真田氏と抗争を続け領土を拡大した。
しかし、武田信虎が追放され武田信玄が当主となると、武田家との対立が表面化。上田原の戦いや
砥石城の戦いで武田信玄の軍を打ち破り、武田家武将を数多討ち取っている。しかし、武田家に仕官していた真田幸隆の
離反工作にあい、砥石城を失陥。一度奪回するも、勢威を回復することはなく、上杉謙信を頼って落ち延びた。
以後は上杉家臣として武田信玄と三度対立。川中島の戦いでは信玄の弟である武田信繁を討ち取っている。その後、
上杉謙信に重用されたが、自身はついに本領回復することなく、越後で病没した。
柿崎景家
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
82 | 95 | 60 | 64 | 78 | 騎神・疾走・急襲 | S | B | A | S | C | C | 1513? | 1574 | 剛胆 | 維持・長 | 4/5 | 3/5 |
【カキザキカゲイエ】
戦国時代の人物。「越後七郡に、合ふ者はあるまじき」と言われた猛将。
始め越後守護であった上杉家、その家臣上条家に仕えていた。守護代の長尾為景が躍進すると
一族内紛の末にこれに従う。黒田秀忠の乱の際に長尾景虎に味方し、以後謙信の重臣として躍進に貢献。
北条家、武田家との戦争に従軍し、小田原攻めや川中島合戦で活躍。川中島では武田本隊に大損害を与えた。
また軍事だけではなく内政、外交にも貢献し、越後における奉行職や越相同盟締結にも貢献した。1574年病没。
戦国時代の人物。「越後七郡に、合ふ者はあるまじき」と言われた猛将。
始め越後守護であった上杉家、その家臣上条家に仕えていた。守護代の長尾為景が躍進すると
一族内紛の末にこれに従う。黒田秀忠の乱の際に長尾景虎に味方し、以後謙信の重臣として躍進に貢献。
北条家、武田家との戦争に従軍し、小田原攻めや川中島合戦で活躍。川中島では武田本隊に大損害を与えた。
また軍事だけではなく内政、外交にも貢献し、越後における奉行職や越相同盟締結にも貢献した。1574年病没。
甘粕景持
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
67 | 92 | 60 | 52 | 62 | 騎将・運搬・勇将 | A | C | S | S | C | C | ? | 1604 | 剛胆 | 維持・長 | 4/5 | 1/5 |
【アマカスカゲモチ】
戦国~江戸時代初期の武将。上杉家家臣。上杉四天王の1人と言われる。初名は「長重」。遠縁に甘粕景継がいる。
上杉謙信に仕え、武田北条との戦いで活躍。川中島合戦では謙信と別れて戦い、武田軍を大いに苦しめた。
その後も謙信に忠誠を貫くが、謙信が死去すると上杉景勝を支持。その後景勝に仕え
新発田重家討伐に従軍し、敵将を数多討ち取る大功を立てる。その後は直江兼続と協力して
米沢の統治を請け負った。関ヶ原合戦後の1604年に死没。
戦国~江戸時代初期の武将。上杉家家臣。上杉四天王の1人と言われる。初名は「長重」。遠縁に甘粕景継がいる。
上杉謙信に仕え、武田北条との戦いで活躍。川中島合戦では謙信と別れて戦い、武田軍を大いに苦しめた。
その後も謙信に忠誠を貫くが、謙信が死去すると上杉景勝を支持。その後景勝に仕え
新発田重家討伐に従軍し、敵将を数多討ち取る大功を立てる。その後は直江兼続と協力して
米沢の統治を請け負った。関ヶ原合戦後の1604年に死没。
斎藤朝信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
80 | 84 | 81 | 92 | 87 | 騎神・仁政・風水 | B | B | A | S | C | C | 1527 | 1592 | 剛胆 | 維持・長 | 5/5 | 1/5 |
【サイトウトモノブ】
戦国時代の武将。上杉家家臣。「越後の鍾馗」の異名をとった名将。
上杉四宿老の1人と言われ、長尾為景・晴景・景虎・景勝と4代に渡って長尾上杉家に仕える。
上杉家の関東・信濃・越中戦線において常に軍功を上げ、また内政面にも優れ謙信は
占領地の統治はほぼ彼に一任していたと言われている。一方で上杉家軍事の中枢も担い、
織田信長との抗争の際には柴田勝家と北陸で凌ぎを削った。謙信没後は景勝に仕え、
御館の乱でも軍功を上げたが、本能寺の変の前後に隠居した。
戦国時代の武将。上杉家家臣。「越後の鍾馗」の異名をとった名将。
上杉四宿老の1人と言われ、長尾為景・晴景・景虎・景勝と4代に渡って長尾上杉家に仕える。
上杉家の関東・信濃・越中戦線において常に軍功を上げ、また内政面にも優れ謙信は
占領地の統治はほぼ彼に一任していたと言われている。一方で上杉家軍事の中枢も担い、
織田信長との抗争の際には柴田勝家と北陸で凌ぎを削った。謙信没後は景勝に仕え、
御館の乱でも軍功を上げたが、本能寺の変の前後に隠居した。
本庄繁長
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
81 | 90 | 55 | 61 | 68 | 騎神・猛者・鉄壁 | A | A | C | S | C | C | 1540 | 1614 | 剛胆 | 維持・長 | 2/5 | 4/5 |
【ホンジョウシゲナガ】
戦国~江戸時代初期の武将。揚北衆のち上杉家家臣。
子供のころから勇猛さを鳴らし、叔父を破って家督を相続した。上杉謙信に従い
各地を転戦するが、一方で独立意識が高く、たびたび謙信と敵対して苦しませたという。
謙信の死後は一転、上杉景勝を支持して御館の乱を戦い、以後は上杉景勝に仕えた。最上家・伊達家などとの
戦いで活躍。関ヶ原の戦い以後は米沢上杉家の中核を担った。
戦国~江戸時代初期の武将。揚北衆のち上杉家家臣。
子供のころから勇猛さを鳴らし、叔父を破って家督を相続した。上杉謙信に従い
各地を転戦するが、一方で独立意識が高く、たびたび謙信と敵対して苦しませたという。
謙信の死後は一転、上杉景勝を支持して御館の乱を戦い、以後は上杉景勝に仕えた。最上家・伊達家などとの
戦いで活躍。関ヶ原の戦い以後は米沢上杉家の中核を担った。
神余親綱
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
46 | 41 | 90 | 87 | 59 | 論客・富豪・徴税 | C | C | C | C | C | C | 1526? | 1580 | 冷静 | 維持・長 | 4/5 | 2/5 |
【カマナリチカツナ】
戦国時代の武将。上杉家臣。
上杉家の奉行衆、外交官として活躍し、主に京都で活動した。
越後の青苧など特産品を売買し、上杉家の軍事費及び莫大な経済力の礎を担う。
朝廷交渉にも長け、上杉謙信を後奈良天皇に引き合わせることに成功した。
また将軍足利義輝とも昵懇であった。謙信没後の御館の乱では上杉景虎を支持。
最後まで景勝の勧誘を拒否して敗死した。
戦国時代の武将。上杉家臣。
上杉家の奉行衆、外交官として活躍し、主に京都で活動した。
越後の青苧など特産品を売買し、上杉家の軍事費及び莫大な経済力の礎を担う。
朝廷交渉にも長け、上杉謙信を後奈良天皇に引き合わせることに成功した。
また将軍足利義輝とも昵懇であった。謙信没後の御館の乱では上杉景虎を支持。
最後まで景勝の勧誘を拒否して敗死した。
上杉景勝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
77 | 75 | 74 | 67 | 72 | 強運・白馬・騎将 | B | B | C | S | C | C | 1556 | 1623 | 冷静 | 維持・長 | 3/5 | 2/5 |
【ウエスギカゲカツ】
戦国~江戸時代初期の武将。上杉謙信の甥にあたる。上田長尾家出身。
謙信存命期から上杉家一門と目され早くから重用された。謙信の没後は
上杉景虎と跡目を争い、辛辣冷静な手腕で協力勢力を募りながら景虎を追い詰めた。その後は自らの直臣である
上田衆を重用するが、新発田重家の離反や織田信長・伊達輝宗らの侵攻を招いた。本能寺の変で九死に一生を得ると
織田家で台頭する羽柴秀吉に接近。のちに豊臣政権で五大老となった。関ヶ原合戦では西軍に属し、またもや
窮地を得るが所領を減少させながらも上杉家の命脈を保った。剛胆な性格で、織田信長によって窮地に立たされていた際も
彼に味方する六十余州を相手に抵抗することは本望である、と佐竹義重に宛てている。
戦国~江戸時代初期の武将。上杉謙信の甥にあたる。上田長尾家出身。
謙信存命期から上杉家一門と目され早くから重用された。謙信の没後は
上杉景虎と跡目を争い、辛辣冷静な手腕で協力勢力を募りながら景虎を追い詰めた。その後は自らの直臣である
上田衆を重用するが、新発田重家の離反や織田信長・伊達輝宗らの侵攻を招いた。本能寺の変で九死に一生を得ると
織田家で台頭する羽柴秀吉に接近。のちに豊臣政権で五大老となった。関ヶ原合戦では西軍に属し、またもや
窮地を得るが所領を減少させながらも上杉家の命脈を保った。剛胆な性格で、織田信長によって窮地に立たされていた際も
彼に味方する六十余州を相手に抵抗することは本望である、と佐竹義重に宛てている。
直江兼続
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
73 | 60 | 86 | 87 | 89 | 深謀・百出・屯田 | B | B | A | B | A | C | 1560 | 1619 | 冷静 | 維持・短 | 5/5 | 4/5 |
【ナオエカネツグ】
戦国~江戸初期の武将。上杉景勝の腹心として軍事・政治両面で活躍した。
その才格は豊臣秀吉からも高く評価され、「豊臣」の姓を贈られたという逸話も残る。
優れた戦略家であり、関ヶ原の戦いでは石田三成と共謀。戦いの発端となる「直江状」で徳川家康を
挑発しておびき寄せ三成の挙兵を助けた。その後、東軍に所属した隣国・出羽に大軍を率いて
攻め入るも、最上家の名将・志村光安が寡兵で籠る長谷堂城を8倍の兵力を以てしても抜く事が出来ず、
西軍が敗北した事も相まって撤退を決意。その時の采配は際立っていたと伝わる。
戦後は主君と共に家康に謝罪。上杉家の存続は許されたが出羽米沢へ減移封となった。
長く上杉家を窮地に陥れた奸臣とされたが、上杉鷹山の時代に再評価され現在に至る。
妻とは仲睦まじく、側室を持たなかったと言われる。それが裏目に出てか直江家は彼の死後間もなく断絶した。
戦国~江戸初期の武将。上杉景勝の腹心として軍事・政治両面で活躍した。
その才格は豊臣秀吉からも高く評価され、「豊臣」の姓を贈られたという逸話も残る。
優れた戦略家であり、関ヶ原の戦いでは石田三成と共謀。戦いの発端となる「直江状」で徳川家康を
挑発しておびき寄せ三成の挙兵を助けた。その後、東軍に所属した隣国・出羽に大軍を率いて
攻め入るも、最上家の名将・志村光安が寡兵で籠る長谷堂城を8倍の兵力を以てしても抜く事が出来ず、
西軍が敗北した事も相まって撤退を決意。その時の采配は際立っていたと伝わる。
戦後は主君と共に家康に謝罪。上杉家の存続は許されたが出羽米沢へ減移封となった。
長く上杉家を窮地に陥れた奸臣とされたが、上杉鷹山の時代に再評価され現在に至る。
妻とは仲睦まじく、側室を持たなかったと言われる。それが裏目に出てか直江家は彼の死後間もなく断絶した。
荻田長繁
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
58 | 77 | 59 | 64 | 61 | 猛者・掃討・昂揚 | A | B | B | A | C | C | 1562 | 1641 | 剛胆 | 維持・長 | 3/5 | 2/5 |
【オギタナガシゲ】
戦国~江戸初期の武将。上杉家臣、のち松平家臣。
若年の頃から上杉謙信に仕えた。謙信の没後は上杉景勝に仕え、御館の乱では
上杉景虎側の有力者であった北条景広を暗殺し、乱の帰趨を決した。その後上杉景勝に重用されたが、
息子が豊臣秀吉の不興を買ったとして追放処分にあう。その後豊臣秀次、松平秀康に仕官。
以後越前松平家の家臣として大坂の陣にも参戦し、軍功を立てた。のち秀康の孫であった松平光長に従い、越後へ移動。同地で死没した。
戦国~江戸初期の武将。上杉家臣、のち松平家臣。
若年の頃から上杉謙信に仕えた。謙信の没後は上杉景勝に仕え、御館の乱では
上杉景虎側の有力者であった北条景広を暗殺し、乱の帰趨を決した。その後上杉景勝に重用されたが、
息子が豊臣秀吉の不興を買ったとして追放処分にあう。その後豊臣秀次、松平秀康に仕官。
以後越前松平家の家臣として大坂の陣にも参戦し、軍功を立てた。のち秀康の孫であった松平光長に従い、越後へ移動。同地で死没した。
真田家
真田信綱
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
73 | 90 | 58 | 66 | 82 | 猛者・乱戦・白馬 | A | A | B | S | C | C | 1537 | 1575 | 剛胆 | 維持・長 | 4/5 | 2/5 |
【サナダノブツナ】
戦国時代の武将。真田幸隆の長男。
弟の昌幸、信尹らとともに武田信玄に側仕えし、
川中島合戦では父の幸隆とともに別働隊で奮戦。父の幸隆が上州方面へ向かうと
家督を譲られ、真田本領を支配。1568年の駿河攻めでは先鋒を務め、1569年の
三増峠の戦いでは内藤昌秀とともに殿で奮戦した。三方ヶ原でも先方衆として活躍するが、
1575年の長篠合戦で首級16を取るも、織田徳川連合軍の鉄砲により落命。
戦国時代の武将。真田幸隆の長男。
弟の昌幸、信尹らとともに武田信玄に側仕えし、
川中島合戦では父の幸隆とともに別働隊で奮戦。父の幸隆が上州方面へ向かうと
家督を譲られ、真田本領を支配。1568年の駿河攻めでは先鋒を務め、1569年の
三増峠の戦いでは内藤昌秀とともに殿で奮戦した。三方ヶ原でも先方衆として活躍するが、
1575年の長篠合戦で首級16を取るも、織田徳川連合軍の鉄砲により落命。
真田昌幸
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
81 | 58 | 93 | 78 | 90 | 鬼謀・詭計・反計 | S | A | C | A | C | C | 1547 | 1611 | 冷静 | 維持・長 | 2/5 | 4/5 |
【サナダマサユキ】
戦国時代の武将。真田幸隆の三男。
武田信玄に重用され、奥近習として側近くに仕えた。
2人の兄が長篠合戦で戦死すると、真田家の家督を相続。勝頼政権下でも
上野を攻撃し、謀略をもってして安定させたが、天目山の戦いで武田家は滅亡。
以降織田家、北条家、徳川家、上杉家と家名存続のために何度も主家を鞍替えした。
第一次、第二次と徳川軍相手に籠城戦を展開し、上杉家などの連携を取って所領を防衛。
しかし関ヶ原の戦いの戦後、改易され紀伊九度山に蟄居。そのまま同地で没した。
戦国時代の武将。真田幸隆の三男。
武田信玄に重用され、奥近習として側近くに仕えた。
2人の兄が長篠合戦で戦死すると、真田家の家督を相続。勝頼政権下でも
上野を攻撃し、謀略をもってして安定させたが、天目山の戦いで武田家は滅亡。
以降織田家、北条家、徳川家、上杉家と家名存続のために何度も主家を鞍替えした。
第一次、第二次と徳川軍相手に籠城戦を展開し、上杉家などの連携を取って所領を防衛。
しかし関ヶ原の戦いの戦後、改易され紀伊九度山に蟄居。そのまま同地で没した。
※その他候補となった特技:機略・築城
真田信繁
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
80 | 91 | 73 | 31 | 86 | 飛将・疾走・猛者 | A | A | A | S | C | C | 1567 | 1615 | 早熟・短 | 5/5 | 2/5 |
※晩年(48歳以降)Ver.
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
76 | 98 | 80 | 15 | 96 | 飛将・疾走・猛者 | A | A | S | S | C | C | 1567 | 1615 | 早熟・短 | 5/5 | 1/5 |
【サナダノブシゲ】
戦国時代の武将。後世に幸村の名で知られる。
信州上田の国主・真田昌幸の次男として生まれ、上杉家、豊臣家の人質として育った。
関ヶ原の戦いで西軍に属した事が切掛で、父親と九度山に蟄居。
大坂の陣が始まると豊臣家の要請で大坂城入し、豊臣軍の主力武将の一人として活躍した。
大坂冬の陣では堅牢な出城・真田丸を築き、押し寄せる関東の大軍を度々撃破。
大坂夏の陣の道明寺の戦いで伊達政宗を破る功績をあげる。
敗色濃厚となった天王寺の戦いでは、武士の意地を示すために3千の兵を率いて徳川家康本陣を急襲。
総員玉砕し信繁も打ち取られたが、家康をあと一歩の所まで追い詰めたと伝わる。
その卓越した武功は諸侯や朝廷貴族からも絶賛を受け、島津忠恒は「真田日本一の兵」と彼を讃えている。
戦国時代の武将。後世に幸村の名で知られる。
信州上田の国主・真田昌幸の次男として生まれ、上杉家、豊臣家の人質として育った。
関ヶ原の戦いで西軍に属した事が切掛で、父親と九度山に蟄居。
大坂の陣が始まると豊臣家の要請で大坂城入し、豊臣軍の主力武将の一人として活躍した。
大坂冬の陣では堅牢な出城・真田丸を築き、押し寄せる関東の大軍を度々撃破。
大坂夏の陣の道明寺の戦いで伊達政宗を破る功績をあげる。
敗色濃厚となった天王寺の戦いでは、武士の意地を示すために3千の兵を率いて徳川家康本陣を急襲。
総員玉砕し信繁も打ち取られたが、家康をあと一歩の所まで追い詰めたと伝わる。
その卓越した武功は諸侯や朝廷貴族からも絶賛を受け、島津忠恒は「真田日本一の兵」と彼を讃えている。
※その他候補となった特技:藤甲
真田信之
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
68 | 54 | 79 | 86 | 80 | 洞察・待伏・詭計 | B | B | A | A | B | C | 1566 | 1658 | 晩成・長 | 4/5 | 2/5 |
【サナダノブユキ】
戦国時代の武将。真田昌幸の嫡男。弟に真田信繁。のち徳川家康の家臣。
父に従い武田家滅亡後の真田家躍進に貢献し、徳川家康の養女を娶った。
主に外交で活躍し石田三成や本多忠勝らと交渉を務め、真田家安泰に尽力。
関ヶ原合戦の際は父と弟と別れて東軍につき、戦後信濃上田藩を領した。
大坂の陣では病床にあって出陣できず、息子2人を派遣している。
のち信濃松代に加増転封されるも、明治に至るまで真田家の祖として基礎を築きつつ晩年まで重きをなした。
戦国時代の武将。真田昌幸の嫡男。弟に真田信繁。のち徳川家康の家臣。
父に従い武田家滅亡後の真田家躍進に貢献し、徳川家康の養女を娶った。
主に外交で活躍し石田三成や本多忠勝らと交渉を務め、真田家安泰に尽力。
関ヶ原合戦の際は父と弟と別れて東軍につき、戦後信濃上田藩を領した。
大坂の陣では病床にあって出陣できず、息子2人を派遣している。
のち信濃松代に加増転封されるも、明治に至るまで真田家の祖として基礎を築きつつ晩年まで重きをなした。
備考:
真田十勇士
【関東地方】
後北条家(伊勢北条家)
伊勢盛時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
82 | 57 | 91 | 90 | 87 | 虚実・待伏・論客 | A | A | B | B | C | A | 1456 | 1519 | 剛胆 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 | 3/5 | 4/5 |
【イセモリトキ】
室町時代の武将。父親は伊勢盛定。「北条早雲」とも言われるが、彼自身そう名乗ったことはない。
室町幕府政所執事を務めた伊勢氏の出であり、9代将軍である足利義尚に仕えた。
のち、細川政元が明応の政変を起こして関東公方出身の足利義澄を将軍に擁立した際、
これに反対する義澄の異母兄であった足利茶々丸の討伐を命じられ、今川氏親とともに
これを討伐すべく軍事行動を行い、5年後に茶々丸を殺害して伊豆を平定した。
この間には今川家の武将として遠江に赴く一方、相模にも手を伸ばし大森藤頼を討って小田原城を奪取した。
足利将軍に奉公しつつ、独自の戦略で関東での勢力拡大に成功したことから後北条氏の祖と言われる。
また太田道灌とも親交があったと言われ、長尾景春を絶賛したという逸話もある。
室町時代の武将。父親は伊勢盛定。「北条早雲」とも言われるが、彼自身そう名乗ったことはない。
室町幕府政所執事を務めた伊勢氏の出であり、9代将軍である足利義尚に仕えた。
のち、細川政元が明応の政変を起こして関東公方出身の足利義澄を将軍に擁立した際、
これに反対する義澄の異母兄であった足利茶々丸の討伐を命じられ、今川氏親とともに
これを討伐すべく軍事行動を行い、5年後に茶々丸を殺害して伊豆を平定した。
この間には今川家の武将として遠江に赴く一方、相模にも手を伸ばし大森藤頼を討って小田原城を奪取した。
足利将軍に奉公しつつ、独自の戦略で関東での勢力拡大に成功したことから後北条氏の祖と言われる。
また太田道灌とも親交があったと言われ、長尾景春を絶賛したという逸話もある。
北条氏康
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
80 | 83 | 92 | 98 | 96 | 富豪・米道・待伏 | S | C | B | A | C | B | 1515 | 1571 | 冷静 | 威厳 | 普通・長 | 3/5 | 3/5 |
【ホウジョウウジヤス】
戦国時代の大名。北条氏綱の嫡男。祖父に伊勢盛時。
古河公方を擁しながら父親同様関東での拡大路線を継承。
里見、今川、武田、上杉と時に結び時に対立しながら領土を拡大する。
子供を養子に送って手堅い領国戦略を築きながら、
内政では領民の声をよく聞き、村々に至るまで徹底した政治体制を敷いた。
北条氏の滅亡後、その緻密な政治体制は徳川家康が参考にしたと伝わっている。
戦国時代の大名。北条氏綱の嫡男。祖父に伊勢盛時。
古河公方を擁しながら父親同様関東での拡大路線を継承。
里見、今川、武田、上杉と時に結び時に対立しながら領土を拡大する。
子供を養子に送って手堅い領国戦略を築きながら、
内政では領民の声をよく聞き、村々に至るまで徹底した政治体制を敷いた。
北条氏の滅亡後、その緻密な政治体制は徳川家康が参考にしたと伝わっている。
※その他候補となった特技:乱戦・仁政・指導・金剛・鉄壁・明鏡
北条氏直
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
71 | 59 | 52 | 68 | 72 | 急襲・強行・掎角 | A | C | B | A | C | C | 1562 | 1591 | 小心 | 丁寧 | 維持・長 | 3/5 | 2/5 |
【ホウジョウウジナオ】
戦国時代の大名。北条氏政の次男。祖父に北条氏康。後北条家最後の当主。
兄の夭折により後継者に早くから指名され、1577年に初陣を飾る。1580年には
織田信長の娘を正室に迎え入れることで恭順の意を示し、1582年の武田征伐も織田方として参戦した。
だが、次第に関東で影響を強める織田家に不信感を募らせ、1582年の本能寺の変を境に織田と断交。
滝川一益の軍を敗退させ、信濃方面に大軍を率いて攻撃したが上杉景勝、徳川家康の軍勢に苦戦し、織田信雄・織田信孝の和議によって
徳川家康の娘を正室に迎え入れた。以後は親徳川派として行動、小牧長久手の戦いの際も親羽柴方であった佐竹・宇都宮氏と抗争している。
勢力を伸ばす秀吉に対し、当初は恭順の意を示していたが、父の氏政の方針により豊臣家と対立。小田原征伐を招いた。
戦後高野山に入り、秀吉に許されるがまもなく病没。実子はなく、家督は叔父の北条氏規が継いだ。
戦国時代の大名。北条氏政の次男。祖父に北条氏康。後北条家最後の当主。
兄の夭折により後継者に早くから指名され、1577年に初陣を飾る。1580年には
織田信長の娘を正室に迎え入れることで恭順の意を示し、1582年の武田征伐も織田方として参戦した。
だが、次第に関東で影響を強める織田家に不信感を募らせ、1582年の本能寺の変を境に織田と断交。
滝川一益の軍を敗退させ、信濃方面に大軍を率いて攻撃したが上杉景勝、徳川家康の軍勢に苦戦し、織田信雄・織田信孝の和議によって
徳川家康の娘を正室に迎え入れた。以後は親徳川派として行動、小牧長久手の戦いの際も親羽柴方であった佐竹・宇都宮氏と抗争している。
勢力を伸ばす秀吉に対し、当初は恭順の意を示していたが、父の氏政の方針により豊臣家と対立。小田原征伐を招いた。
戦後高野山に入り、秀吉に許されるがまもなく病没。実子はなく、家督は叔父の北条氏規が継いだ。
松田康郷
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
70 | 93 | 64 | 19 | 76 | 勇将・明鏡・強行 | S | A | A | S | C | C | 1540 | 1609 | 剛胆 | 剛胆 | 維持・長 | 4/5 | 1/5 |
【マツダヤスサト】
戦国時代の武将。北条家の家臣。重臣であった松田憲秀の甥。
「鬼孫太郎」と呼ばれたほどの猛将で、北条家の主要な合戦に常に従軍していた。
1566年には白井胤治と協力し、上杉謙信の大軍を相手に奮戦、大戦果をあげて撃退し
主家の関東攻略に大きく貢献。北条氏政から感状を与えられた。
小田原征伐の際には寡兵で山中城に籠るも、豊臣軍の大軍相手に落城。
主家滅亡後の晩年には、家康次男の松平秀康に仕えた。
戦国時代の武将。北条家の家臣。重臣であった松田憲秀の甥。
「鬼孫太郎」と呼ばれたほどの猛将で、北条家の主要な合戦に常に従軍していた。
1566年には白井胤治と協力し、上杉謙信の大軍を相手に奮戦、大戦果をあげて撃退し
主家の関東攻略に大きく貢献。北条氏政から感状を与えられた。
小田原征伐の際には寡兵で山中城に籠るも、豊臣軍の大軍相手に落城。
主家滅亡後の晩年には、家康次男の松平秀康に仕えた。
佐竹家
佐竹義重
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
86 | 89 | 80 | 87 | 84 | 富豪・猛者・論客 | A | B | S | A | C | C | 1547 | 1612 | 剛胆 | 丁寧 | 維持・長 | 4/5 | 3/5 |
【サタケヨシシゲ】
戦国時代の大名。北関東、常陸の佐竹家当主。「鬼義重」「坂東太郎」の異名を取った。
1562年に家督を継承し、主に上杉謙信と協力して北関東の制圧を実行。
南関東を中心に関東に覇を唱える北条家と激しく争い、北条軍を何度も悩ませた。
また宇都宮氏、那須氏などと同盟を結び、天下に覇を唱えていた織田信長、豊臣秀吉と外交交渉を行い
特に豊臣秀吉との連携を蜜にした。北条氏政、伊達政宗の二正面作戦にも果敢に抵抗し、一時は伊達政宗を
窮地に陥らせたが、自身も勢力を伸ばす北条家の勢いを抑えきれず、結果的に政宗の息を吹き返させてしまい、
同盟国の蘆名家が滅ぼされたことで窮地に陥った。しかし豊臣秀吉の小田原征伐で一気に好転、周辺諸勢力も統合し常陸54万石の領主となる。
秀吉の死後は徳川家康の接近を唱えるが、当主となった実子の佐竹義宣と対立、結果的に中立となり出羽20万石に減封された。
以降も大御所的存在として佐竹家を監督しつつ、1612年に死去。伊達政宗が後年、義重との戦いを生涯の大戦として将軍家光に語ったと言われている。
戦国時代の大名。北関東、常陸の佐竹家当主。「鬼義重」「坂東太郎」の異名を取った。
1562年に家督を継承し、主に上杉謙信と協力して北関東の制圧を実行。
南関東を中心に関東に覇を唱える北条家と激しく争い、北条軍を何度も悩ませた。
また宇都宮氏、那須氏などと同盟を結び、天下に覇を唱えていた織田信長、豊臣秀吉と外交交渉を行い
特に豊臣秀吉との連携を蜜にした。北条氏政、伊達政宗の二正面作戦にも果敢に抵抗し、一時は伊達政宗を
窮地に陥らせたが、自身も勢力を伸ばす北条家の勢いを抑えきれず、結果的に政宗の息を吹き返させてしまい、
同盟国の蘆名家が滅ぼされたことで窮地に陥った。しかし豊臣秀吉の小田原征伐で一気に好転、周辺諸勢力も統合し常陸54万石の領主となる。
秀吉の死後は徳川家康の接近を唱えるが、当主となった実子の佐竹義宣と対立、結果的に中立となり出羽20万石に減封された。
以降も大御所的存在として佐竹家を監督しつつ、1612年に死去。伊達政宗が後年、義重との戦いを生涯の大戦として将軍家光に語ったと言われている。
※その他候補となった特技:勇将・強行
小田氏治
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
33 | 17 | 63 | 60 | 79 | 強運・遁走・不屈 | C | C | C | C | C | C | 1534 | 1602 | 小心 | 丁寧 | 維持・長 | 2/5 | 3/5 |
【オダウジハル】
戦国時代の武将、大名。藤原氏の出身。「小田天庵」とも。
もとは小田家の大名で、佐竹氏、結城氏、北条氏らと何度も戦った。居城を追われることも多かったと言われる。
一時期上杉謙信と同盟するが、すぐに対立関係となり、謙信と戦うが大敗。
再起をはかり小田城を奪還するも、またしても大挙してきた上杉謙信に敗北する。
北関東の雄となった佐竹義重とも戦い、徹底抗戦を行ったが北条、佐竹の圧力は如何ともしがたく、
1583年に佐竹氏に降伏。しかし独立の志向はあったようで、1590年には北条について佐竹氏と再び争った。
豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が降伏すると、北条派と見なされ領地改易の憂き目にあい、以後結城秀康の客分として余生を過ごした。
名家ゆえか器量ゆえか、彼のもとには優れた家臣も多かったと言われている。
戦国時代の武将、大名。藤原氏の出身。「小田天庵」とも。
もとは小田家の大名で、佐竹氏、結城氏、北条氏らと何度も戦った。居城を追われることも多かったと言われる。
一時期上杉謙信と同盟するが、すぐに対立関係となり、謙信と戦うが大敗。
再起をはかり小田城を奪還するも、またしても大挙してきた上杉謙信に敗北する。
北関東の雄となった佐竹義重とも戦い、徹底抗戦を行ったが北条、佐竹の圧力は如何ともしがたく、
1583年に佐竹氏に降伏。しかし独立の志向はあったようで、1590年には北条について佐竹氏と再び争った。
豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が降伏すると、北条派と見なされ領地改易の憂き目にあい、以後結城秀康の客分として余生を過ごした。
名家ゆえか器量ゆえか、彼のもとには優れた家臣も多かったと言われている。
【東北地方】
伊達家
伊達政宗
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
84 | 71 | 92 | 91 | 85 | 不屈・言毒・米道 | C | C | S | A | C | B | 1567 | 1636 | 剛胆 | 維持・長 | 2/5 | 5/5 |
【ダテマサムネ】
伊達家当主。伊達輝宗の嫡男。先祖の大膳大夫政宗と同名。
幼少期に失明で右目の視力を失ったが、父である輝宗の期待は高く
17歳で伊達家当主の座を継承。前後して田村氏から正室を娶る。
家督相続後は強硬策をもって領国を広げ、佐竹蘆名最上といった有力勢力と争いを続けた。
摺上原にて蘆名氏を破り100万石近くの領国を手に入れるが、天下統一間近の秀吉に対し
臣下の礼を取り、以後は豊臣徳川両政権を独特の処世術で生き抜いた。
天下人への野心は生涯忘れなかったと言われている。
伊達家当主。伊達輝宗の嫡男。先祖の大膳大夫政宗と同名。
幼少期に失明で右目の視力を失ったが、父である輝宗の期待は高く
17歳で伊達家当主の座を継承。前後して田村氏から正室を娶る。
家督相続後は強硬策をもって領国を広げ、佐竹蘆名最上といった有力勢力と争いを続けた。
摺上原にて蘆名氏を破り100万石近くの領国を手に入れるが、天下統一間近の秀吉に対し
臣下の礼を取り、以後は豊臣徳川両政権を独特の処世術で生き抜いた。
天下人への野心は生涯忘れなかったと言われている。
※その他候補となった特技:疾走・百出
片倉景綱
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
64 | 67 | 89 | 72 | 82 | 明鏡・論客・深謀 | C | C | A | B | C | C | 1557 | 1615 | 冷静 | 維持・長 | 5/5 | 1/5 |
【カタクラカゲツナ】
伊達家家臣。伊達三傑の一人。鬼庭綱元とは義理の兄弟にあたる。
姉の喜多に育てられ、遠藤基信の推挙で伊達政宗に仕えた。若くして当主となった政宗を助け、
その智謀から「知の小十郎」と呼ばれた。大森城代、亘理城代を歴任し、
秀吉による天下統一後も政宗からも重く用いられ、外交に力を発揮した。
伊達家の主要な合戦にも従軍したが、病のため大坂の陣には出陣することはできず、翌年病没。
伊達家家臣。伊達三傑の一人。鬼庭綱元とは義理の兄弟にあたる。
姉の喜多に育てられ、遠藤基信の推挙で伊達政宗に仕えた。若くして当主となった政宗を助け、
その智謀から「知の小十郎」と呼ばれた。大森城代、亘理城代を歴任し、
秀吉による天下統一後も政宗からも重く用いられ、外交に力を発揮した。
伊達家の主要な合戦にも従軍したが、病のため大坂の陣には出陣することはできず、翌年病没。
伊達成実
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
72 | 89 | 68 | 65 | 80 | 猛者・急襲・不屈 | B | B | A | S | C | C | 1568 | 1646 | 猪突 | 維持・長 | 4/5 | 3/5 |
【ダテシゲザネ】
伊達家家臣。伊達三傑の一人。伊達実元の子であり、伊達政宗とは従兄弟同士。
1579年に政宗を烏帽子親にして元服、若くして当主となった政宗を助けた。人取橋の戦いでは
味方が潰走する中踏みとどまり、政宗の撤退を助けている。摺上原の戦いでも、伊達軍が劣勢となる中奮戦し
勝利を呼び寄せたことから、「武の成実」として伊達家の双璧と言われた。秀吉の天下統一後に一度伊達家を
出奔するが、関ヶ原の戦いを機に帰参。以後は政宗に変わらず忠誠を貫いた。妻子は早くに病没しており、政宗の子を養子とした。
伊達家家臣。伊達三傑の一人。伊達実元の子であり、伊達政宗とは従兄弟同士。
1579年に政宗を烏帽子親にして元服、若くして当主となった政宗を助けた。人取橋の戦いでは
味方が潰走する中踏みとどまり、政宗の撤退を助けている。摺上原の戦いでも、伊達軍が劣勢となる中奮戦し
勝利を呼び寄せたことから、「武の成実」として伊達家の双璧と言われた。秀吉の天下統一後に一度伊達家を
出奔するが、関ヶ原の戦いを機に帰参。以後は政宗に変わらず忠誠を貫いた。妻子は早くに病没しており、政宗の子を養子とした。
鬼庭綱元
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
68 | 70 | 77 | 89 | 74 | 補佐・指導・築城 | B | C | A | A | C | B | 1549 | 1640 | 冷静 | 維持・長 | 4/5 | 2/5 |
【オニニワツナモト】
伊達家家臣。伊達三傑の一人。片倉景綱とは義理の兄弟にあたる。
伊達家の重臣であった鬼庭左月の嫡男として生まれた。父の隠居に伴い若干30代半ばにして
伊達家の重役を任され、以後内政面を中心に政宗を補佐した。一度政宗と対立して1595年に出奔するが
数年後に帰参し、以後は政宗を補佐し続けている。各地の合戦に従軍しつつ、家康の天下統一後は
伊達家内政の中核を担い、宇和島藩の藩政をも主導した。政宗の臨終を看取り、のち92歳で死没。
伊達家家臣。伊達三傑の一人。片倉景綱とは義理の兄弟にあたる。
伊達家の重臣であった鬼庭左月の嫡男として生まれた。父の隠居に伴い若干30代半ばにして
伊達家の重役を任され、以後内政面を中心に政宗を補佐した。一度政宗と対立して1595年に出奔するが
数年後に帰参し、以後は政宗を補佐し続けている。各地の合戦に従軍しつつ、家康の天下統一後は
伊達家内政の中核を担い、宇和島藩の藩政をも主導した。政宗の臨終を看取り、のち92歳で死没。
松林永吉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 | 義理 | 野望 |
24 | 98 | 35 | 26 | 81 | 洞察・猛者・指導 | A | C | C | C | C | C | 1593 | 1667 | 冷静 | 威厳 | 維持・長 | 4/5 | 1/5 |
【マツバヤシナガヨシ】
江戸時代の剣豪。上杉家臣であった松林永常を父に持つ。またの名を蝙也斎。
若年の頃に上杉家を出奔して諸国を行脚。のち浅間山で修行を積み夢想願流を創始した。
壮年の頃になると伊達忠宗に招聘され、伊達家の剣術指南役となり道場を開いた。
徳川家光に江戸城で剣技を披露した際は空中を舞い、家光から「蝙蝠の如し」と言われる。
ここから蝙也斎と名乗った。老いてもなお盛んで死の間際まで剣を振って修行をしていたと言われ、超人的な逸話も多い。
江戸時代の剣豪。上杉家臣であった松林永常を父に持つ。またの名を蝙也斎。
若年の頃に上杉家を出奔して諸国を行脚。のち浅間山で修行を積み夢想願流を創始した。
壮年の頃になると伊達忠宗に招聘され、伊達家の剣術指南役となり道場を開いた。
徳川家光に江戸城で剣技を披露した際は空中を舞い、家光から「蝙蝠の如し」と言われる。
ここから蝙也斎と名乗った。老いてもなお盛んで死の間際まで剣を振って修行をしていたと言われ、超人的な逸話も多い。
※日本有数の剣豪の1人。作る場合は是非とも
Te-PersonEditor
などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
最上家
最上義光
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
66 | 89 | 93 | 88 | 84 | 機略・乱戦・築城 | S | C | B | A | C | C | 1546 | 1614 | 剛胆 | 維持・長 | 1/5 | 4/5 |
【モガミヨシアキ(モガミヨシミツ)】
最上家当主。最上義守の嫡男。伊達政宗の叔父。父との対立から家督を継承し、
謀略や合戦で出羽を統一。婚姻関係を持ちながら伊達輝宗やその子であった
伊達政宗とも争った。上杉景勝らとも争いながら、豊臣秀吉、徳川家康らに臣従。
江戸時代の最上藩57万石の藩祖となった。しかし晩年は駒姫の非業の死や
嫡男であった最上義康との対立、不自然死など気を病むことが多かったという。
1614年死没。「智仁勇の三徳を兼ね、その誉れ世に高し」と評される。
最上家当主。最上義守の嫡男。伊達政宗の叔父。父との対立から家督を継承し、
謀略や合戦で出羽を統一。婚姻関係を持ちながら伊達輝宗やその子であった
伊達政宗とも争った。上杉景勝らとも争いながら、豊臣秀吉、徳川家康らに臣従。
江戸時代の最上藩57万石の藩祖となった。しかし晩年は駒姫の非業の死や
嫡男であった最上義康との対立、不自然死など気を病むことが多かったという。
1614年死没。「智仁勇の三徳を兼ね、その誉れ世に高し」と評される。
最上義忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
43 | 41 | 77 | 72 | 79 | 指導・風水・屯田 | C | C | B | C | C | C | 1588 | 1665 | 冷静 | 維持・長 | 3/5 | 4/5 |
【モガミヨシタダ】
最上家の武将。最上義光の四男。「山野辺義忠」とも。
関ヶ原の戦いの際に徳川家康の人質となり、戦後山野辺の約2万石を領して
治水、建築、城下町の開拓に力を注いだ。しかし1617年に兄で当主でもあった家親が
死去すると、甥である義俊の不行跡を理由に後継候補に祭り上げられ、最上騒動を引き起こし
最上家改易の一因となった。備前岡山の池田家に幽閉後、その才を惜しんだ徳川家光によって
水戸藩お抱えとして取り立てられ、徳川頼房の家臣となった。晩年は徳川光圀の教育係となり、子孫は水戸藩家老となった。
最上家の武将。最上義光の四男。「山野辺義忠」とも。
関ヶ原の戦いの際に徳川家康の人質となり、戦後山野辺の約2万石を領して
治水、建築、城下町の開拓に力を注いだ。しかし1617年に兄で当主でもあった家親が
死去すると、甥である義俊の不行跡を理由に後継候補に祭り上げられ、最上騒動を引き起こし
最上家改易の一因となった。備前岡山の池田家に幽閉後、その才を惜しんだ徳川家光によって
水戸藩お抱えとして取り立てられ、徳川頼房の家臣となった。晩年は徳川光圀の教育係となり、子孫は水戸藩家老となった。
蘆名家
蘆名盛氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
83 | 81 | 74 | 69 | 77 | 威圧・名声・強行 | A | C | A | S | C | C | 1521 | 1580 | 剛胆 | 早熟・短 | 3/5 | 4/5 |
【アシナモリウジ】
蘆名家当主。蘆名盛舜の嫡男。伊達稙宗の娘婿。
元は伊達氏に従属する勢力であったが、独自の勢力拡大を続け、
天文の乱では稙宗、晴宗にそれぞれ従属し、伊達氏と肩を並べる勢力にのし上がった。
その後は積極的に軍事、内政、外交を展開し、田村氏、二階堂氏を従属させ、
上杉氏、佐竹氏らに軍事介入を続けたが、1580年死去。
晩年は度重なる遠征もあり、国力が衰亡していたという。
蘆名家当主。蘆名盛舜の嫡男。伊達稙宗の娘婿。
元は伊達氏に従属する勢力であったが、独自の勢力拡大を続け、
天文の乱では稙宗、晴宗にそれぞれ従属し、伊達氏と肩を並べる勢力にのし上がった。
その後は積極的に軍事、内政、外交を展開し、田村氏、二階堂氏を従属させ、
上杉氏、佐竹氏らに軍事介入を続けたが、1580年死去。
晩年は度重なる遠征もあり、国力が衰亡していたという。
富田隆実
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
71 | 88 | 55 | 60 | 64 | 長駆・勇将・不屈 | S | C | C | S | C | C | ? | ? | 剛胆 | 早熟・短or維持・長 | 4/5 | 2/5 |
【トミタタカザネ】
蘆名家重臣。「富田将監」とも言われる。
父の跡をついで蘆名家重臣となり、当初は主に外交で活躍。
蘆名家継嗣問題では、伊達政宗の弟である伊達小次郎を推した。その後蘆名義広のもとで
対伊達家との戦いに参加。父が離反する中、蘆名家に踏みとどまり、摺上原の戦いでは
獅子奮迅の働きをみせ、片倉景綱らを破る活躍を見せたが、衆寡敵せず敗退。
その後は佐竹家に仕えたとも、相馬家に仕えたとも言われている。
蘆名家重臣。「富田将監」とも言われる。
父の跡をついで蘆名家重臣となり、当初は主に外交で活躍。
蘆名家継嗣問題では、伊達政宗の弟である伊達小次郎を推した。その後蘆名義広のもとで
対伊達家との戦いに参加。父が離反する中、蘆名家に踏みとどまり、摺上原の戦いでは
獅子奮迅の働きをみせ、片倉景綱らを破る活躍を見せたが、衆寡敵せず敗退。
その後は佐竹家に仕えたとも、相馬家に仕えたとも言われている。
- 信玄や謙信は、一般的には「信長より強い」などと言われてるけど、実際にはゲームでいう、盤面支配の能力に欠けてるんだよな。信玄は三方原で家康をボッコボコにしたけど、致命傷を与えるには至らず徳川に挽回、逆転を許したし、上杉謙信は北条への関東遠征で連戦連勝だったが、結局関東の覇権を北条に奪われてしまった。戦国大名が戦争するのは、何も人殺しゲームや勝率稼ぎをするためではないからね。 -- (名無しさん) 2015-10-06 01:34:08
- そこ行くと信長は桶狭間では義元および重臣を討ち取って致命傷を与え、朝倉には供回りの追撃で朝倉滅亡を誘引した。信長と敵対して敗れた大名が、尽く滅亡ないし衰退の憂き目にあっている。まさに「将略有り、戦えば勝ち攻めれば取る」の段階にいる -- (名無しさん) 2015-10-06 01:37:24
- それに関してはもう信長の戦争観が違ったとしか。武田信玄や上杉謙信の戦い方は、当時の基本を抑えていて、犠牲が嵩む前に講和したり、兵を引き上げたり、相手を融和的に降伏させるやり方。一方の織田信長は決戦志向が強く、基本的には相手が干からびるまでボコボコに叩く。(降伏させることもあるけどね。)桶狭間といい、志賀の陣といい、刀根坂といい長篠といい天王寺といい、とにかく一戦交えて雌雄を決しようとして、相手を完膚なきまでに叩く傾向がある。だから粘り続けた本願寺には苦戦したのだろう。 -- (名無しさん) 2015-10-28 13:46:16
- 「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」 という武田信玄の有名な句。1人1人は劣るところあれど、集まれば天下に強固な軍団ができる。自分の場合は作成するときこれを想定して武田の武将の能力を作っている(他の人は知らないが) -- (名無しさん) 2016-09-25 04:18:30
- 斎藤龍興なんですが、生年がおかしいです。あと伝承として生存説もあるを追加して頂けないでしょうか -- (名無しさん) 2017-04-17 23:22:51
- 加筆しておきました -- (名無しさん) 2017-04-18 00:01:21
- 2017-04-17 23:22:51です ありがとうございます -- (名無しさん) 2017-04-20 01:21:05
- https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2719.html 人数調整のため、一部の武将をそのままこちらに移転しました。 -- (名無しさん) 2017-08-01 06:16:02
- こんな昔のゲームのコメント欄であれですが、飯富兄弟は個人の武勇の逸話というより精鋭部隊の赤備えの隊長として有名なので、武勇より統率が高くて然るべきだと思うのですが… -- (名無しさん) 2018-01-14 17:11:05
- 三國志11は武力に部隊攻撃力としての強さもある。統率は防御力オンリー -- (名無しさん) 2018-01-22 07:38:39
(size=50,vsize=3,num=10,logpage=みんなの新武将/倭・日本(中世)/戦国時代(日本)/コメント)