巻二 本紀第二

唐書巻二

本紀第二

太宗


  太宗文武大聖大広孝皇帝は、諱を世民といい、高祖の次子である。母は太穆皇后竇氏といった。生まれから沈着であった。四歳になったとき、書生がいて高祖に謁して、「公の吉凶を占ってみますと、貴人となりますが、しかし必ず貴い子がいるでしょう」と言い、太宗に会うと、「龍鳳の姿、太陽の表情、その年齢がいくばくもすれば冠たるものとなり、必ず世を救い民を安泰できるでしょう」と言い、書生は去っていくと、高祖はその語が漏洩するのを恐れ、人を遣わして追跡して殺そうとしたが、どこに行ったのかわからず、そのため神だと思った。そこでその言った言葉を採用し、名を世民とした。

  大業年間(605-618)、突厥が煬帝を雁門に包囲すると、煬帝は包囲の中から木に詔書を縛り付け、汾水に投じて流し、兵と救援を募った。太宗は当時十六歳で、募集に応じて行き、将軍の雲定興の配下となり、雲定興に向かって「敵があえて我らが天子を包囲したのは、救援がないと思ってのことです。今、我が軍の前後数十里にわたって、昼は旌旗を見させ、夜は鉦鼓を鳴らして聞かせるなら、大軍だと思って、そうすれば攻撃せずとも逃げるでしょう。そうでなければ、我々の虚実を知ることになり、勝敗はどうなるかわかりません」と言うと、雲定興はこの発言に従った。軍は崞県にやって来ると、突厥の斥候の騎兵がその軍がやって来て途絶えないのを見て、果たして急いで始畢可汗に「救援軍は大軍です」と報告すると、遂に引き揚げた。高祖が歴山飛を攻撃したが、包囲されてしまい、太宗は軽騎兵で急行して高祖を救い出し、遂に奮戦して攻撃し、大いに打ち破った。

  太宗の人となりは聡明英武で、大志があったが、身分の下の者であってもへりくだることができた。当時天下は乱れ、盗賊は惹起し、隋は必ず滅亡すると知り、そこで財産を使って士を養い、豪傑と結びついた。長孫順徳劉弘基らは、全員事件のため亡命してきたから匿った。また晋陽県令の劉文静と非常に親しく、劉文静は李密の事件に連座して獄に繋がれていたが、太宗は夜に獄中に行って面会し、一緒に大事を謀った。当時、百姓が賊を避けて多く入城してきており、城中は一万人になろうとしており、劉文静は晋陽県令となってから長く、その豪傑を知り、そこで共に分けて任命した。計略が定まると、裴寂を通じて高祖に報告した。高祖は当初聴さなかったが、後に許可した。

  高祖が挙兵すると、大将軍府を設置した。太宗は兵を率いて西河をめぐり、その郡丞の高徳儒を斬った。右領軍大都督に任ぜられ、燉煌郡公に封ぜられた。唐兵が西に向かい、霍邑に到達しようとした時、たまたま天から長雨が降り、兵糧が尽きようとしていたから、高祖は謀って兵を太原に戻そうとした。太宗は諌めて、「義軍は天下のために起こしたのです。直ちに咸陽に入って、天下に号令すべきです。今戻って一城を守ったところで、これは賊のためになるだけです」と言ったが、高祖は受け入れなかった。太宗は軍門で慟哭すると、高祖は驚き、呼び寄せて問いただすと、「軍が退けば、前では兵が散り散りとなり、後ろから敵が追撃してくれば、たちまちに滅亡して死に絶えます。悲しまずにいられましょうか」と答え、高祖は悟り、「この事を起こして成功すれば、それはお前のお陰だ。そして失敗してしまうのもただお前が原因だ」と言った。その時、左軍はすでに先に退却をはじめており、そこで隴西公李建成とともに手分けして追いかけた。夜半、太宗は道を見失って山谷に入り、その乗馬を捨て、歩いてその兵を発見し、一緒に戻ってきた。高祖はそこで前軍を率いて、夜明けに霍邑に到着した。しかし宋老生は出撃せず、太宗は数騎を従えてその城に取り付き、鞭を指し示して部下に指図し、包囲しようとしているかのようにした。宋老生は怒って、出て、城を背にして陣どった。高祖李建成を率いて城の東におり、太宗柴紹は城の南にいた。宋老生の兵は東陣に迫り、李建成は落馬し、宋老生はこれに乗じたから、高祖の軍は退却した。太宗は南原から駆けつけて救援し、兵を分けて敵軍を分断して二つにし、その陣の背後に出たから、宋老生の兵は敗走し、遂に斬られた。進撃して涇陽に行き、胡賊の劉鷂子を攻撃し、これを破った。唐兵が長安を攻撃すると、太宗金城坊に陣を敷き、その西北を攻撃し、遂に勝利を収めた。義寧元年(617)、光禄大夫・唐国内史となり、秦国公に移封され、食邑は一万戸となった。薛挙が扶風を攻めると、太宗はこれを撃破し、斬首すること一万あまりにおよび、遂に攻略して隴右に到達した。義寧二年(618)、右元帥となり、趙国公に移封され、兵十万を率いて東都(洛陽)を攻め、勝たずして軍をかえし、三王陵に三カ所の伏兵を設け、隋将の段達の兵一万人を破った。

  武徳元年(618)、尚書令・右翊衛大将軍となり、秦王に進封された。薛挙が涇州を寇すると、太宗は西討元帥となり、位を雍州牧に進めた。七月、太宗が病気となると、諸将は薛挙に敗れた。八月、太宗の病状がよくなると、再び高墌城に駐屯し、互いに対峙すること六十日以上となった。後に薛挙が死ぬと、その子の薛仁杲がその軍を率いて戦いを求めたが、太宗は兵をおさえ、攻撃の機会を待ち、薛仁杲の兵糧が尽きると、軍は次第に離反していったから、太宗は「いいぞ」と言い、そこで行軍総管の梁実を派遣して浅水原に陣地を築いた。薛仁杲は将軍の宗羅睺を派遣して梁実を攻撃させ、太宗は将軍の龐玉を派遣して梁実を救援させたが、龐玉の軍は何度も敗れたから、太宗は兵を率いてその背後に出て、宗羅睺は敗走し、太宗は追撃して、その城下に到達すると、薛仁杲はそこで出て降伏した。軍が帰還すると、高祖李密を派遣して駅伝で急派して、太宗を豳州で労わせた。李密は太宗に面会すると、あえて凝視することができず、退いて「真の英主である」と感嘆した。勝利を太廟に献じ、右武候大将軍・太尉・使持節・陜東道大行台尚書令に任ぜられ、詔により蒲・陜・河北の諸総管の兵はみなその節度を受けた。

  武徳二年(619)正月、長春宮に鎮し、左武候大将軍・涼州総管に進んだ。この時、劉武周は并州に拠り、宋金剛は澮州を陥落させ、王行本は蒲州に拠り、夏県の人の呂崇茂が県令を殺して劉武周に呼応した。高祖はおそれて、諸将に河東を放棄して関中を守るよう詔した。太宗は河東の放棄の不可を上奏し、兵三万を得られるなら賊を破ることができると願い出た。高祖はここに関中の全ての兵を徴発して太宗の軍に増やした。十一月、龍門関を出て、柏壁に駐屯した。

  武徳三年(620)四月、宋金剛を柏壁で撃破した。宋金剛は介州に逃れ、太宗はこれを追い、一昼夜で二百里を馳せ、雀鼠谷の西の原で宿した。軍士はみな飢えたが、太宗は食わざること二日、浩州にいたって食を得ると、宋金剛の将の尉遅敬徳尋相らはみな来降した。劉武周はおそれて、突厥に逃れ、その将の楊伏念が并州を挙げて降った。高祖蕭瑀を軍中に派遣して太宗を益州道行台尚書令に任じた。七月、王世充を討ち、これを北邙で破った。

  武徳四年(621)二月、竇建徳が兵十万を率いて王世充を救援し、太宗竇建徳を虎牢で破り、これを捕らえ、王世充はそこで降った。六月、凱旋し、太宗は金の甲冑を着用し、鉄騎一万・兵士三万を並べ、前後に軍楽の鼓吹を鳴らし、太廟に捕虜を献じた。高祖太宗の功績が高く、古代の官号では称するのに不足であるとし、天策上将を加号し、司徒・陜東道大行台尚書令を領して、位は王公の上にあることとし、食邑戸は三万になり、袞冕・金輅・双璧・黄金六千斤を賜い、前後の鼓吹は九部の楽とし、虎皮の剣を持った護衛は四十人とした。

  武徳五年(622)正月、劉黒闥を洺州で討ち、これを破った。黒闥既降、已而復反。高祖は怒って、山東の男子の十五歳以上のものを捕らえてことごとく穴埋めにし、子どもや婦女を追い立てて関中に送るよう太子の李建成に命じた。太宗は厳しく諌め、その不可を上奏したから、ついに沙汰止みとなった。さらに左右十二衛大将軍を拝命した。

  武徳七年(624)、突厥が辺境を寇すと、太宗は豳州で突厥と遭遇し、百騎を従えて突厥可汗と語り、そこで盟約して去らせた。

  武徳八年(625)、中書令に位を進めた。かつて、高祖が太原で決起したが、それは本意ではなく、決起の事は太宗から出たことであった。天下を取ると、宋金剛王世充竇建徳らを破り、太宗の功はますます高く、高祖はしばしば太子とすることを認めようとしていた。太子の李建成は廃されることをおそれて、斉王李元吉とともに太宗を害そうと謀ったが、実行できなかった。

  武徳九年(626)六月、太宗は兵を玄武門に入れ、太子の李建成と斉王李元吉を殺した。高祖はおおいに驚き、太宗を皇太子とした。
  八月甲子、東宮顕徳殿で皇帝位についた。裴寂を派遣して南郊で発表させた。大赦をおこない、武徳年間(618-626)に流罪となった人は帰還させた。文武の官に勲・爵を賜った。関内および蒲州・芮州・虞州・泰州・陜州・鼎州の六州の二年間の租を免除し、また天下に一年間の免税とした。民の八十歳以上のものに粟・帛を賜り、百歳のものに版授を加えた。潼関以東の黄河に近い諸関を廃した。癸酉、宮女の三千人あまりを解放した。丙子、妃の長孫氏を立てて皇后とした。癸未、突厥が便橋を寇した。乙酉、突厥の頡利可汗と便橋で会盟した。
  九月壬子、私家での妖神淫祀や、亀・易・五兆以外の占卜を禁じた。
  十月丙辰朔、日食があった。癸亥、中山郡王李承乾を立てて皇太子とした。庚辰、蕭瑀陳叔達が宰相を退いた。
  十一月庚寅、宗室の郡王で功績のない者の爵位を降格させて県公とした。
  十二月癸酉、囚人を再審した。
  この年、子の長沙郡王李恪を進封して漢王とし、宜陽郡王李祐を楚王とした。

  貞観元年(627)正月乙酉、改元した。辛丑、燕郡王李芸が涇州でそむいたので、処刑した。
  二月丁巳、詔して民間の男で二十歳以上、女で十五歳以上で夫や家がない者は、州県が礼によって娶せた。貧しく自立できない者は、郷里の富人および親戚から財産を贈らせた。独り身の夫で六十歳以上、寡婦で五十歳以上、婦人で子があって守節を守って再婚しない者には強いてはならないものとした。
  三月癸巳、皇后が親蠶(自ら養蚕)した。丙午、詔して、「北斉の僕射の崔季舒・黄門侍郎の郭遵・尚書右丞の封孝琰が厳しい諌言によって殺され、崔季舒の子の崔剛・郭遵の子の郭雲・封孝琰の子の封君遵は全員宮刑となったが、内侍とするのを免除し、褒め称えて正規の官に叙せよ」と述べた。
  閏月癸丑朔、日食があった。
  四月癸巳、涼州都督・長楽郡王李幼良に罪があり、処刑した。
  五月癸丑、勅して、中書令・侍中の朝堂で訴訟の文章を受け、陳状があったならば全て上封させた。
  六月辛丑、封徳彝が薨去した。甲辰、太子少師の蕭瑀が尚書左僕射となった。
  この夏、山東で旱害があり、この年の租を免除した。
  七月壬子、吏部尚書の長孫无忌が尚書右僕射となった。
  八月、河南・隴右の辺州で霜が降りた。宇文士及が涼州都督を検校した。戊戌、高士廉が左遷されて安州大都督となった。
  九月庚戌朔、日食があった。辛酉、使者を派遣して、諸州の損田に行かせ、下戸に賑給させた。御史大夫の杜淹が吏部尚書を検校し、朝政に参議した。宇文士及が宰相を退いた。辛未、幽州都督の王君廓が突厥に逃れた。
  十月丁酉、年来の飢饉のため膳を減らした。
  十一月己未、子弟の年十九歳以下に父兄の赴任地に行くことを許した。
  十二月壬午、蕭瑀が宰相を退いた。戊申、利州都督の李孝常と右武衛将軍の劉徳裕が反乱を計画し、処刑した。

  貞観二年(628)正月辛亥、長孫无忌が宰相を退いた。兵部尚書の杜如晦が侍中を検校し、東宮の兵馬の事を総監した。癸丑、吐谷渾が岷州を寇し、都督の李道彦がこれを破った。丁巳、李恪を徙封して蜀王とし、李泰を越王とし、李祐を燕王とした。庚午、刑部尚書の李靖が中書令を検校した。
  二月戊戌、外官で考課が上考の者に禄を給付した。
  三月戊申朔、日食があった。壬子、中書門下五品以上および尚書に死罪を議決させた。壬戌、李靖が関内道行軍大総管となり、薛延陀に備えた。己巳、使者を派遣して関内を巡覧させ、金や宝を出して飢えた民が子女を売ったのを贖って帰させた。庚午、旱害のため自ら責め、大赦をおこなった。癸酉、雨が降った。
  四月己卯、隋の人で死体が遺棄されていたのを埋葬した。壬寅、朔方の人の梁洛仁梁師都を殺して降った。
  六月甲申、詔して官家の食事の給付をその家に出させた。庚寅、子の李治が生まれたから、この日生まれた子に粟を賜った。辛卯、辰州刺史の裴虔通が隋の煬帝を弑したため爵位を削られ、驩州に流された。
  七月戊申、莱州刺史の牛方裕・絳州刺史の薛世良・広州長史の唐奉義・虎牙郎将の高元礼は、宇文化及の党として、みな除名され、辺境にうつされた。
  八月甲戌、朝堂で冤罪の再審を行った。辛丑、二王後(北周・隋)の廟を建て、国官を設置した。
  九月壬子、豊作のため、民間に三日の宴会を賜った。
  十月庚辰、杜淹が薨去した。戊子、瀛州刺史の盧祖尚を殺した。
  十一月辛酉、南郊を有事摂祭した。
  十二月壬辰、黄門侍郎の王珪が侍中を代行した。癸巳、五品以上に市に行くことを禁じた。

  貞観三年(629)正月丙午、旱害のため正殿を避けた。癸丑、官で上下の考課を得た者に、禄一年分を給付した。戊午、太廟で享した。癸亥、藉田を耕した。辛未、裴寂が宰相を退いた。
  二月戊寅、房玄齢が尚書左僕射となり、杜如晦が右僕射となり、尚書右丞の魏徴が秘書監となり、朝政に参与した。
  三月己酉、囚人を再審した。
  四月乙亥、太上皇大安宮に居をうつした。甲午、初めて太極殿に御した。戊戌、孝義の家に粟五斛、八十歳以上に二斛、九十歳以上に三斛を賜い、百歳に絹二匹を加え、婦人で正月以来子を産んだ者に粟一斛を賜った。
  五月乙丑、周王李元方が薨去した。
  六月戊寅、旱害のため囚人を再審した。己卯、大風で木が抜けた。壬午、文武官に詔して政事に関する意見を言上させた。
  八月己巳朔、日食があった。丁亥、李靖を定襄道行軍大総管とし、突厥を討伐させた。
  九月丁巳、華州刺史の柴紹が勝州道行軍総管となり、突厥を討伐した。
  十一月庚申、并州都督の李世勣が通漠道行軍総管となり、華州刺史の柴紹が金河道行軍総管となり、任城郡王李道宗が大同道行軍総管となり、幽州都督の衛孝節が恒安道行軍総管となり、営州都督の薛万淑が暢武道行軍総管となって、突厥を討伐した。
  十二月癸未、杜如晦が宰相を退いた。
  閏月癸丑、戦死した者のために浮屠祠(仏寺)を立てた。辛酉、囚人を再審した。
  この年、中国人で塞外から帰る者および四夷から州県の人となった者は百二十万人あまりにおよんだ。


  貞観四年(630)正月丁卯朔、日食があった。癸巳、武徳殿の北院で火事があった。
  二月己亥、温湯に幸した。甲辰、李靖が突厥と陰山で戦い、これを破った。丙午、温湯から到着した。甲寅、大赦し、民間に五日の宴会を賜った。御史大夫の温彦博が中書令となり、王珪が侍中となった。民部尚書の戴冑が吏部尚書を検校し、朝政に参与した。太常卿の蕭瑀が御史大夫となり、宰臣とともに朝政に参議した。丁巳、旱害のため詔して公卿に政事の意見を上奏させた。
  三月甲午、李靖が突厥の頡利可汗を捕らえて献上した。
  四月戊戌、西北の君長が上に「天可汗」と号するよう請願した。
  六月乙卯、兵を発して洛陽宮を改修させた。
  七月甲子朔、日食があった。癸酉、蕭瑀が宰相を退いた。甲戌、太上皇が病となったため、朝議を廃した。辛卯、病が癒えたから、都督・刺史・文武官および民間で年八十以上・孝子で郷里に表彰された者に賜い物すること、等級に差があった。
  八月甲寅、李靖が尚書右僕射となった。
  九月庚午、長城の南の隋人の晒された骸を埋葬した。己卯、隴州にいった。壬午、古代の明君・賢臣・烈士の墓での放牧を禁じた。
  十月壬辰、岐州・隴州の二州で赦し、この年の租賦を免除し、咸陽県・始平県・武功県の死罪以下を許した。辛丑、貴泉谷で狩猟した。甲辰、魚龍川で狩猟し、大安宮に獲物を献じた。乙卯、武功県のこの年の租賦を免除した。
  十一月壬戌、右衛大将軍の侯君集が兵部尚書となり、朝政に参議した。甲子、隴州から到着した。戊寅、背を鞭うつ刑を除いた。
  十二月甲辰、鹿苑で狩猟した。乙巳、鹿苑から到着した。
  この年、天下で死罪となった者が二十九人であった。


  貞観五年(631)正月癸酉、昆明池で狩猟した。丙子、昆明池から到着し、獲物を大安宮に献じた。
  二月己酉、弟の李元裕を封じて鄶王とし、李元名を譙王とし、李霊夔を魏王とし、李元祥を許王とし、李元暁を密王とした。庚戌、子の李愔を封じて梁王とし、李貞を漢王とし、李惲を郯王とし、李治を晋王とし、李慎を申王とし、李囂を江王とし、李簡を代王とした。
  四月壬辰、代王李簡が薨去した。
  五月乙丑、以金や絹で隋の人で突厥に身が陥った者を購い、家に帰還させた。
  八月甲辰、高麗に使者を派遣し、隋の人で戦没した者を祭った。戊申、大理丞の張蘊古を殺した。
  十一月丙子、南郊を有事摂祭した。
  十二月丁亥、詔して、「死刑に決した者は、京師は五度覆奏し、諸州は三度覆奏せよ。その日に尚食は酒肉を膳にすすめてはならない」とした。壬寅、温湯に幸した。癸卯、驪山で狩猟し、新豊県の高年齢のものに帛を賜った。戊申、温湯から到着した。癸丑、関内で赦した。

  貞観六年(632)正月乙卯朔、日食があった。癸酉、静州の山獠が叛き、右武衛将軍李子和がこれを破った。
  三月、侯君集が宰相を退いた。戊辰、九成宮にいった。丁丑、雍州・岐州・豳州の三州の死罪以下に一等を降し、民八十歳以上のものに粟・帛を賜った。
  五月、魏徴が侍中を検校した。
  六月己亥、酆王李元亨が薨去した。辛亥、江王李囂が薨去した。
  七月己巳、天下に詔して郷に行って飲酒させた。
  九月己酉、慶善宮に幸した。
  十月、侯君集が宰相に復帰した。乙卯、慶善宮から到着した。
  十二月辛未、囚人を再審して、死罪を許して家に帰還させた。
  この年、諸羌で内属する者が三十万人におよんだ。

  貞観七年(633)正月戊子、宇文化及の党人の子孫を退け、官職につかせることを禁じた。辛丑、京城で三日の宴会を賜った。
  二月丁卯、土が雨となって降った。
  三月戊子、王珪が宰相を退いた。庚寅、魏徴が侍中となった。
  五月癸未、九成宮にいった。
  六月辛亥、戴冑が薨去した。
  八月辛未、東西の洞獠が辺境を寇し、右屯衛大将軍の張士貴が龔州道行軍総管となってこれを討った。
  九月、囚人を臨時に釈放すると戻ってきたから、みなこれを赦した。
  十月庚申、九成宮から到着した。乙丑、京師で地震があった。
  十一月壬辰、開府儀同三司の長孫无忌が司空となった。
  十二月甲寅、芙蓉園に幸した。丙辰、少陵原で狩猟した。戊午、少陵原から到着した。

  貞観八年(634)正月辛丑、張士貴が獠と戦い、これを破った。壬寅、使者を派遣して天下を査察させた。
  二月乙巳、皇太子が元服を加えた。丙午、死罪以下に一等を降し、五品以上の子で父の後継者となる者に爵一級を賜い、民に三日宴を賜った。
  三月庚辰、九成宮にいった。
  五月辛未朔、日食があった。
  この夏、吐谷渾が涼州を寇し、左驍衛大将軍の段志玄が西海道行軍総管となり、左驍衛将軍の樊興が赤水道行軍総管となって、これを討伐した。
  七月、隴右山が崩れた。
  八月甲子、ほうき星が虚・危を通過した。
  十月、永安宮を作った。甲子、九成宮から到着した。
  十一月辛未、李靖が宰相を退いた。己丑、吐谷渾が涼州を寇し、行人で鴻臚丞の趙徳楷を捕らえた。
  十二月辛丑、特進の李靖が西海道行軍大総管となり、侯君集が積石道行軍総管となり、任城郡王李道宗が鄯善道行軍総管となり、膠東郡公李道彦が赤水道行軍総管となり、涼州都督の李大亮が且末道行軍総管となり、利州刺史の高甑生が塩沢道行軍総管となって、吐谷渾を討伐した。丁卯、太上皇に従って城西で閲兵した。

  貞観九年(635)正月、党項羌が叛いた。
  二月、長孫无忌が宰相を退いた。
  三月庚辰、洮州の羌が刺史の孔長秀を殺し、吐谷渾についた。壬午、大赦をおこなった。乙酉、高甑生が羌人と戦い、これを破った。
  閏四月丙寅朔、日食があった。
  五月、長孫无忌が宰相に復帰した。庚子、太上皇が崩じ、皇太子が聴政した。壬子、李靖が吐谷渾と戦い、これを破った。
  七月庚子、塩沢道行軍副総管の劉徳敏が羌人と戦い、これを破った。
  十月庚寅、太武皇帝を献陵に葬った。
  十一月壬戌、特進の蕭瑀が朝政に参与した。

  貞観十年(636)正月甲午、聴政を復した。癸丑、李元景を移封して荊王とし、李元昌を漢王とし、李元礼を徐王とし、李元嘉を韓王とし、李元則を彭王とし、李元懿を鄭王とし、李元軌を霍王とし、李元鳳を虢王とし、李元慶を道王とし、李霊夔を燕王とし、李恪を吳王とし、李泰を魏王とし、李祐を斉王とし、李愔を蜀王とし、李惲を蒋王とし、李貞を越王とし、李慎を紀王とした。
  三月癸丑、諸王を京師から出して都督とした。
  六月壬申、温彦博が尚書右僕射となり、太常卿の楊師道が侍中となった。魏徴が宰相を退いて、特進・知門下省事・参議朝章国典となった。己卯、皇后が崩じた。
  十一月庚寅、文徳皇后を昭陵に葬った。
  十二月、蕭瑀が宰相を退いた。庚辰、囚人を再審した。

  貞観十一年(637)正月丁亥、李元裕を移封して鄧王とし、李元名を舒王とした。庚子、飛山宮を作った。乙卯、雍州のこの年の租賦を免除した。
  二月丁巳、九嵏山を造営して陵とし、功臣や近い親戚に陪葬地および副葬品を賜った。甲子、洛陽宮にいった。乙丑、民間の百歳以上に侍五人を賜った。壬午、鹿台嶺で狩猟した。
  三月丙戌朔、日食があった。癸卯、洛州の囚人や現在の徒に服役する者を一等降し、一年間の租・調を免じた。辛亥、広成沢で狩猟した。癸丑、洛陽宮にいった。
  六月甲寅、温彦博が薨去した。丁巳、明徳宮に幸した。己未、諸王を代々封じて刺史とした。戊辰、功臣を代々封じて刺史とした。己巳、李元祥を移封して江王とした。
  七月癸未、大雨があり、穀水・洛水が氾濫した。乙未、詔して百官に政事の意見を言上させた。壬寅、明徳宮の玄圃院を廃止し、水害に遭った家に賜った。丙午、亳州の老子廟・兗州の孔子廟の廟戸にそれぞれ二十を給付して祭祀を行い、また涼の武昭王の近墓戸二十を守衛とした。
  九月丁亥、黄河が氾濫し、陜州河北県を決壊し、河陽の中潬城を破壊した。白司馬坂に行幸して査察し、河にせまって水害に遭った家に粟帛を賜った。
  十月癸丑、先朝の謀臣・武将および親戚で亡くなった者に献陵への陪葬を賜った。
  十一月辛卯、懐州にいった。乙未、済源麦山で狩猟した。丙午、洛陽宮にいった。

  貞観十二年(638)正月乙未、叢州で地震があった。癸卯、松州で地震があった。
  二月癸亥、河北県にいき、厎柱(陝県東北の山。形が柱に似る)を観た。甲子、巫州の獠がそむき、夔州都督の斉善行がこれを破った。乙丑、陜州にいった。
  丁卯、塩池を観た。庚午、蒲州にいった。甲戌、長春宮にいった。朝邑のこの年の租賦を免除し、囚人の罪を一等降した。乙亥、河浜で狩猟した。
  閏月庚辰朔、日食があった。丙戌、長春宮から到着した。
  七月癸酉、吏部尚書の高士廉が尚書右僕射となった。
  八月壬寅、吐蕃が松州を寇すると、侯君集が当弥道行軍大総管となり、三総管の兵を率いてこれを討伐した。
  九月辛亥、闊水道行軍総管の牛進達が吐蕃と松州で戦い、これを破った。
  十月己卯、始平県で狩猟し、高年齢のものに粟・帛を賜った。乙未、始平県より帰還した。鈞州の山獠がそむき、桂州都督の張宝徳がこれを破った。
  十一月己巳、明州の山獠がそむき、交州都督の李道彦がこれを破った。
  十二月辛巳、壁州の山獠がそむき、右武候将軍の上官懐仁がこれを討った。
  この年、滁州・豪州の二州の野蚕が繭をつくった。

  貞観十三年(639)正月乙巳、献陵を拝し、三原県および行従を赦し、三原県の人の今年の租賦を免除し、宿衛陵邑郎将・三原県令に爵一級を賜った。丁未、献陵より帰還した。
  二月庚子、刺史の代々の封を停止した。
  三月乙丑、ほうき星が畢・昴を通過した。
  四月戊寅、九成宮にいった。甲申、中郎将の阿史那結社率がそむき、処刑した。壬寅、雲陽の石が燃えた。
  五月甲寅、旱害のため正殿を避け、詔して五品以上に政事の意見を言上させ、膳を減らし、賦役を罷め、囚人を再審し、貧民に賑給すると、すると雨が降った。
  六月丙申、弟の李元嬰を封じて滕王とした。
  八月辛未朔、日食があった。
  十月甲申、九成宮から到着した。
  十一月辛亥、楊師道が中書令となった。戊辰、尚書左丞の劉洎が黄門侍郎・参知政事となった。
  十二月壬申、侯君集が交河道行軍大総管となり、高昌を討伐した。乙亥、子の李福を封じて趙王とした。壬辰、咸陽で狩猟した。癸巳、咸陽から到着した。
  この年、滁州で野蚕が繭をつくった。

  貞観十四年(640)正月庚子、役人に時令を読ませた。甲寅、魏王李泰の邸宅に幸し、雍州長安県で赦し、延康里でこの年の租賦を免除した。
  二月丁丑、釈奠を国学にて観た。大理・万年県で赦し、学官の成績優秀者に生帛を賜った。壬午、温湯に幸した。辛卯、温湯から到着した。乙未、梁の皇偘・褚仲都、周の熊安生・沈重、陳の沈文阿・周弘正・張譏、隋の何妥・劉焯・劉炫の後裔を探し求めた。
  三月、羅・竇二州の獠がそむき、広州総管の党仁弘がこれを破った。
  五月壬寅、李霊夔を徙封して魯王とした。
  六月、滁州の野生の蚕が繭をつくった。乙酉、大風で木が抜けた。
  八月庚午、襄城宮を作った。癸酉、侯君集が高昌で勝利した。
  九月癸卯、赦高昌部および士卒の父子で死罪・流罪の罪を犯した者は、大功は徒刑、小功は緦麻での杖刑とし、すべて赦した。
  閏十月乙未、同州にいった。甲辰、尭山で狩猟した。庚戌、同州から到着した。
  十一月甲子、南郊で有事摂祭した。
  十二月丁酉、侯君集が捕らえた高昌王を献上し、民間に三日の宴会を賜った。癸卯、樊川で狩猟した。乙巳、樊川から到着した。

  貞観十五年(641)正月辛巳、洛陽宮にいき、温湯に行った。衛士の崔卿・刁文懿が反乱を計画し、処刑した。
  三月戊辰、襄城宮にいった。
  四月辛卯、詔して来年二月に泰山を有事摂祭させることとした。乙未、洛州のこの年の租を免除し、戸を移したため一年の免税を、民間の八十歳以上に物を、独り身の夫、寡婦、病気で自立できない者に米二斛を賜った。囚人を再審した。
  六月己酉、ほうき星が太微を通過した。丙辰、泰山での封をやめ、正殿を避け、膳を減らした。
  七月丙寅、北周・隋の名臣と忠烈の人物の子孫で貞観以後に配流された者を許した。
  十月辛卯、伊闕で狩猟した。壬辰、洛陽宮にいった。
  十一月癸酉、薛延陀が辺境を寇し、兵部尚書の李世勣が朔州道行軍総管となり、右衛大将軍の李大亮が霊州道行軍総管となり、涼州都督の李襲誉が涼州道行軍総管となり、これを討伐した。
  十二月戊子、洛陽宮から到着した。庚子、三品以上の嫡子に命じて東宮に仕えさせた。辛丑、囚人を再審した。甲辰、李世勣が薛延陀と諾真水で戦い、これを破った。乙巳、戦没した将兵に官を三階級特進した。

  貞観十六年(642)正月乙丑、使者を派遣して西州を安撫した。戊辰、西州を防衛する者を募り、前に配流や死亡を偽装した者は、自首して応募することを許した。辛未、天下の死罪の囚人を西州に移した。中書舎人の岑文本が中書侍郎となり、もっぱら機密をつかさどった。
  六月戊戌、太白(金星)が昼に見えた。
  七月戊午、長孫无忌が司徒となり、房玄齢が司空となった。
  十一月丙辰、武功県で狩猟した。壬戌、岐山の南で狩猟した。甲子、通過した場所の六県にて高年齢で一人者や病気の者に毛布・粟・帛を賜った。慶善宮に行幸した。庚午、慶善宮から到着した。
  十二月癸卯、温湯に幸した。甲辰、驪山で狩猟した。乙巳、温湯から到着した。

  貞観十七年(643)正月戊辰、魏徴が薨去した。代州都督の劉蘭が反乱を計画し、処刑した。
  二月己亥、囚人を再審した。戊申、功臣を凌煙閣に描いた。
  三月壬子、葬送の儀礼が令式と違うことを禁じた。丙辰、斉王李祐がそむき、李世勣がこれを討った。甲子、旱害のため使者を派遣して囚人を再審して結審させた。乙丑、斉王李祐が処刑され、斉州に一年免税とした。
  四月乙酉、皇太子を廃して庶人とし、漢王李元昌侯君集らを処刑した。丙戌、晋王李治を立てて皇太子とし、大赦をおこない、文武官および五品以上の子で父の後継者である者に爵一級を賜り、民間の八十歳以上に粟帛を賜い、三日宴を賜った。丁亥、楊師道が宰相を退いた。己丑、特進の蕭瑀が太子太保となり、李世勣が太子詹事となり、ともに同中書門下三品となった。庚寅、李承乾の過ちを太廟に謝した。癸巳、魏王李泰を降封して東莱郡王とした。
  六月己卯朔、日食があった。壬辰、隋の恭帝を葬った。甲午、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、京官で五品以上に詔して政事を意見させた。丁酉、高士廉が同中書門下三品・平章政事となった。
  閏月丁巳、皇太子に詔して左右の屯営兵を司らせた。丙子、李泰を徙封して順陽郡王とした。
  七月丁酉、房玄齢が宰相を退いた。
  八月庚戌、工部尚書の張亮が刑部尚書となり、朝政に参与した。
  十月丁未、諸州の邸を京城に建てた。丁巳、房玄齢が宰相に復帰した。
  十一月己卯、南郊を有事摂祭した。壬午、民間に三日の宴会を賜り、涼州で瑞石を獲たため、涼州で赦した。
  十二月庚申、温湯に幸した。庚午、温湯から到着した。

  貞観十八年(644)正月乙未、鍾官城にいった。庚子、鄠にいった。壬寅、温湯に幸した。
  二月己酉、零口にいった。乙卯、零口から到着した。丁巳、突厥・高昌部の人で諸州に属する者に二年間免税とした。
  四月辛亥、九成宮にいった。
  七月甲午、営州都督の張倹が幽州・営州の兵と契丹・奚を率いて高麗を討伐した。
  八月壬子、安西都護の郭孝恪が西州道行軍総管となり、焉耆を討伐した。甲子、九成宮から到着した。丁卯、劉洎が侍中となり、岑文本が中書令となり、中書侍郎の馬周が中書令を代行した。
  九月、黄門侍郎の褚遂良が朝政に参与した。辛卯、郭孝恪が焉耆と戦い、これを破った。
  十月辛丑朔、日食があった。癸卯、雍州の父老と上林苑で宴し、粟帛を賜った。甲寅、洛陽宮にいった。己巳、天池で狩猟した。
  十一月戊寅、囚人を再審した。庚辰、使者を派遣して鄭州・汝州・懐州・沢州の四州の高年齢の者を巡問し、宴を賜った。甲午、張亮が平壤道行軍大総管となり、李世勣馬周が遼東道行軍大総管となり、十六総管の兵を率いて高麗を討伐した。
  十二月壬寅、庶人李承乾が亡くなった。戊午、李思摩の部落が叛いた。

  貞観十九年(645)二月庚戌、洛陽宮にいき、高麗を討伐した。癸丑、武徳北山で虎を射た。乙卯、皇太子が定州で監国した。丁巳、通過した場所の高年齢で一人者や寡婦に粟帛を賜った。比干に太師を追贈し、忠烈と諡した。
  三月壬辰、長孫无忌に侍中を、吏部尚書楊師道に中書令を摂領させた。
  四月癸卯、軍と幽州で盟約した、大いに軍と宴した。丁未、岑文本が薨去した。癸亥、李世勣が蓋牟城を落とした。
  五月己巳、平壌道行軍総管の程名振が沙卑城を落とした。庚午、次遼沢、瘞隋人戰亡者。乙亥、遼東道行軍総管の張君乂に罪があり、処刑した。丁丑、馬首山に駐屯した。甲申、遼東城に勝利した。
  六月丁酉、白巌城に勝利した。己未、高麗に安市城の東南の山で大敗し、左武衛将軍の王君愕がここに死んだ。辛酉、民間に三日の宴会を賜った。
  七月壬申、官に仕えて死んだ者を葬り、爵四級を加え、一子に襲封させた。
  九月癸未、軍を撤退させた。
  十月丙午、営州に行き、太牢の祭によって死んだ者を祭った。丙辰、皇太子が臨渝関で出迎えた。戊午、漢武台に行き、石に刻んで功績を記録した。
  十一月癸酉、軍を幽州で大饗宴した。庚辰、易州に行った。癸未、平壤道行軍総管の張文幹に罪があり、処刑した。丙戌、定州に行った。丁亥、楊師道を左遷して工部尚書とした。
  十二月戊申、并州に行った。己未、薛延陀が夏州を寇すると、左領軍大将軍の執失思力がこれを破った。庚申、劉洎を殺した。

  貞観二十年(646)正月辛未、夏州都督の喬師望が薛延陀と戦い、これを破った。丁丑、使者二十二人を派遣し、六条黜陟を天下に伝えた。庚辰、并州で赦し、挙兵時の編戸に三年間免税を、後に付した者に一年間免税した。
  二月甲午、高麗討伐に従って功績がなかった者に、全員に勲一等を賜った。庚申、通過した場所の高年齢の一人者・寡婦に粟を賜った。
  三月己巳、高麗から到着した。庚午、帝の病のため、皇太子が聴政した。己丑、張亮が反乱を計画し、処刑された。
  閏月癸巳朔、日食があった。
  六月乙亥、江夏郡王李道宗李世勣が薛延陀を討伐した。
  七月辛亥、帝の病が快癒した。李世勣が薛延陀と戦い、これを破った。
  八月甲子、孫の李忠を封じて陳王とした。己巳、霊州に行った。庚辰、涇州に行き、高年齢の一人者・寡婦に粟帛を賜った。丙戌、隴山関を越え、瓦亭に行き、馬牧を観た。丁亥、陪陵の者の子孫に従葬を許した。
  九月辛卯、使者を派遣して嶺南を巡察させた。甲辰、鉄勒諸部が上に「可汗」と号するよう請願した。辛亥、霊州で地震があった。
  十月、蕭瑀を左遷して商州刺史とした。丙戌、霊州から到着した。
  十一月己丑、詔して「祭祀・上表・上疏、藩客・兵馬・宿衛、魚契・給駅の実行、五品以上への官および叙任、死罪の決定は、すべて上奏せよ。ほかは皇太子に委ねる」と述べた。

  二十一年(647)正月壬辰、高士廉が薨去した。丁酉、詔して翌年二月に泰山を有事摂祭するとした。甲寅、鉄勒諸部を州県とし、京師で三日の宴会を賜った。囚人を再審し、死罪以下を一等降した。
  二月丁丑、皇太子太学で釈菜した。
  三月戊子、左武衛大将軍の牛進達が青丘道行軍大総管となり、李世勣が遼東道行軍大総管となり、三総管の兵を率いて高麗を攻撃した。
  四月乙丑、翠微宮を作った。
  五月戊子、翠微宮に幸した。壬辰、百官に命じて皇太子に決事させた。庚戌、李世勣が南蘇・木底城を落とした。
  六月丁丑、使者を派遣して、鉄勒諸部で中国人が奴に陥った者を贖った。
  七月乙未、牛進達が石城を落とした。丙申、玉華宮を作った。庚戌、翠微宮から到着した。
  八月、泉州で津波があった。壬戌、泰山での封禅をやめた。
  九月丁酉、子の李明を封じて曹王とした。
  十月癸丑、褚遂良が宰相を退いた。
  十一月癸卯、李泰を進封して濮王とした。
  十二月戊寅、左驍衛大将軍の契苾何力が崑丘道行軍大総管となり、三総管の兵を率いて亀茲を討伐した。

  貞観二十二年(648)正月庚寅、馬周が薨去した。戊戌、温湯に幸した。己亥、中書舎人の崔仁師が中書侍郎となり、機密を司らせた。丙午、左武衛大将軍の薛万徹が青丘道行軍大総管となり、高麗を討伐した。長孫无忌が中書令を検校し、知尚書・門下省事をつとめた。戊申、温湯から到着した。
  二月、褚遂良が宰相に復帰した。乙卯、京城の父老に面会し、労い、この年の半租を、畿内の県は三分の一を取り除いた。丁卯、詔して遼水を渡って功績があるにも関わらずまだ勲功に報いていないのに罪を犯してしまった者は、共に同じく官位を与えた。乙亥、玉華宮に幸した。己卯、華原で狩猟した。崔仁師を連州に流した。
  三月丁亥、宜君県で大赦し、宜君県の人で玉華宮の苑中から移転させられた者に三年間免税とした。
  四月丁巳、松州蛮が叛き、右武候将軍梁建方がこれを破った。
  六月丙寅、張行成に河北に従軍した者の家に存問させ、州県に営農させた。丙子、薛万徹が高麗と泊灼城で戦い、これを破った。
  七月甲申、太白(金星)が昼に見えた。壬辰、華州刺史の李君羨を殺した。癸卯、房玄齢が薨去した。
  八月己酉朔、日食があった。辛未、執失思力が薛延陀の余部を金山で討伐した。
  九月庚辰、崑丘道行軍総管の阿史那社爾が、薛延陀余部の処月・処蜜と戦い、これを破った。己亥、褚遂良が中書令となった。壬寅、眉・卭・雅三州の獠がそむき、茂州都督の張士貴がこれを討った。
  十月癸丑、玉華宮から到着した。己巳、阿史那社尓が亀茲と戦い、これを破った。
  十二月辛未、長安・万年県の徒罪以下に一等を降した。
  閏月癸巳、囚人を再審した。

  貞観二十三年(649)正月辛亥、阿史那社尓が亀茲王を捕らえて献上した。
  三月己未、冬から旱で、ここに雨が降った。辛酉、大赦をおこなった。丁卯、重病となり、皇太子に命じて金液門にて聴政させた。
  四月己亥、翠微宮に行幸した。
  五月戊午、李世勣を左遷して畳州都督とした。己巳、皇帝が含風殿で崩じ、年は五十三であった。庚午、大行の御馬輿を奉って京師に帰還した。礼部尚書の于志寧が侍中となり、太子少詹事の張行成が侍中を兼ね、高季輔が中書令を兼ねた。壬申、喪を発し、諡を文といった。上元元年(674)、文武聖皇帝と改諡した。天宝八載(749)、文武大聖皇帝と諡した。十三載(754)、文武大聖大広孝皇帝と増諡した。


  賛にいわく、なんということだろうか、治世の君主が不世出であることは。禹に天下がわたると、十六代の王に伝わり、少康は中興の業があった。湯王に天下がわたると、二十八代の王に伝わったが、非常に盛んであったから、号して三宗(太宗太甲・中宗太戊・高宗武丁)と称えたのである。武王に天下がわたると、三十六代の王に伝えられ、成王・康王の治世は、宣王の功績とともにし、その他は称えるようなところはなかった。『詩』や『書』に載せられていて、当時は欠略があったとはいえ、それでも三代(夏・殷・周)千七百年あまり、七十あまりの君主に伝えられているが、その中で抜きん出て後世にあらわれる者は、これは六・七人の君主だけである。ああ、治世の君主は得難いと言うべきであろう。唐に天下がわたると、二十代に伝わり、その中で称えるべき者は三君で、玄宗憲宗は二人とも終わりをとくしなかったが、盛なるかな、太宗の勢いは。隋の乱を除くことは、湯王・武王に相当する。優れた統治は、ほとんど成王・康王に近いものがある。古より功績と徳治が両方盛んになることは、漢より以来今までなかったことである。寵愛する者を多く引き連れ、また仏寺を建立し、大を好んで功績を喜び、軍を遠征させるにいたるのは、これは平凡な君主がよくやることである。しかし春秋の法により、常に賢者を備えて責めさせ、これによって後世の君子で人の称賛を得たいと思う者は、これに歎息しない者はいなかったのである。


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最終更新:2025年01月03日 22:30
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