巻三 本紀第三

唐書巻三

本紀第三

高宗


  高宗天皇大聖大弘孝皇帝は、諱を治、字を為善といい、太宗の第九子である。母は文徳皇后長孫氏といった。始め晋王に封ぜられ、貞観七年(633)、并州都督を遥領した。貞観十七年(643)、太子李承乾が廃されると、魏王李泰が次に立てられるべきところ、また罪に落とされたため、子の李治を立てて皇太子とした。太宗はかつて皇太子に命じて習射を遊観させたが、太子は習射を好まなかったから辞退し、至尊たる身体の安全となるよう願い、膝下に額づいた。太宗は大いに喜び、そこで寝殿の側に別院を営み、太子に居住させた。太宗が朝廷で政務を視るたびに、皇太子は常に侍り、政務の雑務を決済させた。

  貞観二十三年(649)、太宗が病となり、皇太子金液門で聴政させるよう詔があった。
  四月、従って翠微宮に幸した。太宗が崩ずると、緊急文書によって六府の完全武装の兵士四千人を発して、皇太子を守って京師に入った。六月甲戌、柩の前で皇帝の位についた。大赦をおこない、文武の官に勲一転を賜り、民間で八十歳以上に粟帛を、雍州およびこの年の軍に給付した所に一年の免税を賜った。癸未、長孫无忌が太尉となった。癸巳、検校洛州刺史の李勣が開府儀同三司となり、機密に参掌した。
  八月癸酉、河東で地震があった。乙亥、また地震があった。庚辰、使者を派遣して河東に被害状況を視察され、二年間の免税とし、圧死者に絹三匹を賜った。庚寅、文皇帝を昭陵に葬った。
  九月甲寅、荊王李元景が司徒となり、呉王李恪が司空となった。乙卯、李勣が尚書左僕射・同中書門下三品となった。
  十一月乙丑、晋州で地震があった。左翊衛郎将の高偘が突厥を討伐した。
  この冬、雪がなかった。

  永徽元年(650)正月辛丑、改元した。丙午、妃の王氏を立てて皇后とした。張行成が侍中となった。
  二月辛卯、子の李孝を封じて許王とし、李上金を𣏌王とし、李素節を雍王とした。
  四月己巳、晋州で地震があった。
  五月己未、太白(金星)が昼に見えた。
  六月、高偘が突厥と金山で戦い、これを破った。庚辰、晋州で地震があり、五品以上の官に詔して政事の意見を言上させた。
  七月辛酉、旱によって囚人を再審した。
  八月戊辰、五品以上で解官した者に侍者を充てがい禄の半分を給し、加えて帛を賜った。庚午、死罪以下に罪一等を降した。
  九月癸卯、高偘が捕らえた突厥の車鼻可汗を献上した。
  十月戊辰、李勣が左僕射を辞任した。
  十一月己未、褚遂良を左遷して同州刺史とした。
  十二月庚午、琰州の獠が辺境を寇し、梓州都督の謝万歳がここに死んだ。

  永徽二年(651)正月戊戌、義倉を開いて民にふるまった。乙巳、黄門侍郎の宇文節と中書侍郎の柳奭が、同中書門下三品となった。乙卯、瑤池都督の阿史那賀魯が叛いた。
  四月乙丑、役人に命じて肉を食膳に進めることを禁止し、五月までで終わった。
  七月丁未、阿史那賀魯が庭州を寇し、左武衛大将軍の梁建方と右驍衛大将軍の契苾何力が弓月道行軍総管となってこれを討伐した。
  八月己巳、高季輔が侍中となった。于志寧が尚書左僕射となり、張行成が右僕射となり、ともに同中書門下三品となった。己卯、白水蛮が辺境を寇し、左領軍将軍の趙孝祖が郎州道行軍総管となってこれを討伐した。
  九月癸卯、同州の苦泉牧地を貧民に賜った。
  十月辛卯、晋州で地震があった。
  十一月辛酉、南郊を有司摂祭した。癸酉、犬・馬・鷹・鶻を進上することを禁止した。戊寅、忻州で地震があった。甲申、木に氷が降った。この月、竇州・義州の蛮が辺境を寇し、桂州都督の劉伯英がこれを破った。趙孝祖が白水蛮と羅仵候山で戦い、これを破った。
  十二月乙未、太白(金星)が昼に見えた。壬子、処月の朱邪孤注が招慰使の単道恵を殺して、叛いて阿史那賀魯についた。
  この冬、雪がなかった。

  永徽三年(652)正月癸亥、梁建方が処月と牢山で戦い、これを破った。甲子、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、囚人の罪を一等降し、徒以下は許した。己巳、褚遂良が吏部尚書・同中書門下三品となった。丙子、太廟に享した。丁亥、藉田を耕した。
  三月辛巳、土が降った。宇文節が侍中となり、柳奭が中書令を代行した。
  四月庚寅、趙孝祖が白水蛮と戦い、これを破った。甲午、彭王李元則が薨去した。この月、兵部侍郎の韓瑗が黄門侍郎・同中書門下三品となった。
  五月庚申、北斉の侍中の崔季舒・給事黄門侍郎の裴沢・隋の儀同三司の豆盧毓・御史中丞の游楚客の子孫を求めさせ、これらを官につけた。
  七月丁巳、陳王李忠を立てて皇太子とし、大赦をおこない、五品以上の子で父に後嗣となっている者に勲一転を賜い、民に三日の宴会を賜った。
  九月丙辰、北周の司沐大夫の裴融と尚書左丞の封孝琰の子孫を求めさせ、これを官につけた。この月、中書侍郎の来済が同中書門下三品となった。
  十二月癸巳、濮王李泰が薨去した。

  永徽四年(653)二月甲申、駙馬都尉の房遺愛薛万徹柴令武高陽公主および巴陵公主が反乱を計画し、処刑された。荊王李元景・呉王李恪を殺した。乙酉、宇文節を桂州に流した。戊子、蜀王李愔を廃して庶人とした。己亥、徐王李元礼が司徒となり、李勣が司空となった。
  四月壬寅、旱によって囚人を再審し、使者を派遣して全国の獄を裁決させ、殿中・太僕の馬の粟を減らし、文武官に詔して政事の意見を言上させた。甲辰、正殿を避け、膳を減らした。
  六月己丑、太白(金星)が昼に見えた。
  八月己亥、馮翊に十八個の隕石があった。
  九月壬戌、張行成が薨去した。甲戌、褚遂良が尚書右僕射となった。
  十月庚子、温湯に幸した。甲辰、新豊県で赦した。乙巳、温湯から到着した。戊申、睦州の女子の陳碩真がそむき、婺州刺史の崔義玄がこれを討った。
  十一月庚戌、陳碩真が処刑された。癸丑、兵部尚書の崔敦礼が侍中となった。丁巳、柳奭が中書令となった。
  十二月庚子、高季輔が薨去した。


  永徽五年(654)正月丙寅、旱のため文武官・朝集使に詔して政事の意見を言上させた。
  三月戊午、万年宮にいった。乙丑、鳳泉湯に行った。辛未、岐州および通過した場所の徒刑の罪以下を赦した。
  六月癸亥、柳奭が宰相を退いた。丙寅、河北が大洪水となり、使者を派遣して囚人を再審した。
  八月己未、麟游県・岐陽県のこの年の課役と、岐州および供頓県の半年分の課役を免除するよう詔した。
  九月丁酉、万年宮から到着した。
  十月癸卯、京師の外郭城を建造し、楼観を九門に起工した。

  永徽六年(655)正月壬申、昭陵を拝し、醴泉県および行き従った者を赦し、醴泉県のこの年の租・調を免除し、陵所の宿衛に爵一階を進級し、令・丞に一階を加えた。癸酉、少牢によって陪葬者を祭った。甲戌、昭陵より帰還した。庚寅、子の李弘を封じて代王とし、李賢を潞王とした。
  二月乙巳、皇太子が元服を加え、死罪以下に一等を降し、宴三日間を賜い、五品以上で父の後嗣となる者に勲一転を賜った。乙丑、営州都督の程名振と左衛中郎将の蘇定方が高麗を討った。
  五月壬午、高麗と貴端水で戦い、これを破った。癸未、左屯衛大将軍の程知節が葱山道行軍大総管となり、阿史那賀魯を討伐した。壬辰、韓瑗が侍中となり、来済が中書令となった。
  七月乙酉、崔敦礼が中書令となった。この月、中書舎人の李義府が中書侍郎・参知政事となった。
  九月庚午、褚遂良を左遷して潭州都督とした。乙酉、洛水が氾濫した。
  十月、斉州で黄河が氾濫した。己酉、皇后を廃して庶人とした。乙卯、宸妃武氏を立てて皇后とした。丁巳、大赦をおこない、民の八十歳以上のものに粟・帛を賜った。
  十一月己巳、皇后が太廟で朝見した。戊子、諸州の珠の貢納を停めた。癸巳、詔して吏が酷法を行うこと、および名を隠して投書することを禁じた。
  この冬、皇后王庶人を殺した。

  顕慶元年(656)正月辛未、皇太子を廃して梁王とし、代王李弘を立てて皇太子とした。壬申、大赦をおこない、改元し、五品以上の子で父の後継者となる者に勲一転を賜い、民間に三日の宴会を、八十歳以上のものに粟・帛を賜った。丙戌、胡人が幻戯者となるのを禁じた。甲午、宮人を放った。
  三月辛巳、皇后が自ら養蚕を行った。丙戌、戸部侍郎の杜正倫が黄門侍郎・同中書門下三品となった。
  四月壬寅、詔して五品以上で老いて病み、罪人ではないものに致仕させた。壬子、矩州の人の謝無零がそむき、処刑された。
  七月癸未、崔敦礼が太子少師・同中書門下三品となった。
  八月丙申、崔敦礼が薨去した。辛丑、程知節が阿史那賀魯の部の歌邏禄・処月と榆慕谷で戦い、これを破った。
  九月庚辰、括州で津波があった。癸未、程知節が阿史那賀魯と怛篤城で戦い、これを破った。
  十一月乙丑、子の李顕が生まれたため、京官・朝集使に勲一転を賜った。八月からこの月まで霜が下りなおかつ雨が続いた。
  この年、亀茲の大将の羯獵顛が阿史那賀魯についたので、左屯衛大将軍の楊冑がこれを討伐した。


  顕慶二年(657)閏正月壬寅、洛陽宮にいった。庚戌、右屯衛将軍の蘇定方が伊麗道行軍総管となり、阿史那賀魯を討伐した。
  二月癸亥、洛州の囚人の罪を一等降し、徒刑以下は赦し、民の一年の租・調を免じ、百歳以上の者に毛氈・衾・粟帛を賜った。庚午、子の李顕を封じて周王とした。壬申、李素節を移封して郇王とした。
  三月戊申、舅・姑が公主に拝すること、父母が王妃に拝することを禁じた。癸丑、李義府が中書令を兼ねた。
  五月丙申、明徳宮に幸した。
  七月丁亥、洛陽宮にいった。
  八月丁卯、韓瑗を左遷して振州刺史とし、来済を台州刺史とした。辛未、衛尉卿の許敬宗が侍中となった。
  九月庚寅、杜正倫が中書令を兼ねた。
  十一月戊戌、許州にいった。甲辰、使者を派遣して通過した場所の州県の囚人を再審した。乙巳、滍南で狩猟した。壬子、新鄭で武を講じ、鄭州で赦し、一年間の租賦を免除し、八十歳以上のものに粟・帛を賜り、かつて高祖に仕えて佐・史に任じられた者の名を上聞した。
  十二月乙卯、洛陽宮にいった。丁巳、蘇定方が阿史那賀魯を金牙山で破り、これを捕らえた。丁卯、洛陽宮を東都とした。

  顕慶三年(658)正月戊申、楊冑が亀茲の羯獵顛と泥師城で戦い、これを破った。
  二月甲戌、東都から到着した。戊寅、囚人の再審を行った。
  六月壬子、程名振が高麗と赤烽鎮で戦い、これを破った。
  十一月乙酉、杜正倫を左遷して横州刺史とし、李義府を普州刺史とした。戊子、許敬宗が権検校中書令となった。甲午、蘇定方が捕らえた阿史那賀魯を献上した。戊戌、許敬宗が中書令となり、大理卿の辛茂将が侍中を兼ねた。

  顕慶四年(659)三月壬午、崑陵都護の阿史那弥射が西突厥の真珠葉護と双河で戦い、これを破った。
  四月丙辰、于志寧が太子太師・同中書門下三品となった。乙丑、黄門侍郎の許圉師が同中書門下三品となった。戊辰、長孫无忌を黔州に流した。于志寧が宰相を退いた。
  五月己卯、許圉師が中書侍郎・同中書門下三品となった。丙申、兵部尚書の任雅相と度支尚書の盧承慶が参知政事となった。戊戌、涼州都督長史の趙持満を殺した。
  七月己丑、旱害のため正殿を避けた。壬辰、囚人を再審した。
  八月壬子、李義府が吏部尚書・同中書門下三品となった。
  十月丙午、皇太子が元服を加え、大赦をおこない、五品以上の子孫で父や祖父の後嗣である者に勲一転を賜い、民間に三日の宴会を賜った。
  閏月戊寅、東都にいき、皇太子が監国した。辛巳、詔して通過した場所で飲食の提供を行った場所の今年の租賦の半ばを免除し、民間の八十歳以上に毛氈・衾・粟・帛を賜った。
  十一月丙午、許圉師が左散騎常侍となり、侍中を検校した。戊午、辛茂将が薨去した。癸亥、阿史那賀魯の部の悉結の闕俟斤である都曼が辺境を寇したので、左驍衛大将軍の蘇定方が安撫大使となり、これを討伐した。盧承慶が同中書門下三品となった。

  顕慶五年(660)正月癸卯、蘇定方が捕らえた悉結の闕俟斤である都曼を献上した。甲子、并州にいった。己巳、長平に行き、父老に布帛を賜った。
  二月丙戌、并州および通過した州県で赦し、義旗が初めて掲げられた時に任じた五品以上の者で并州に葬った者を祭り、さらに功臣を助けて食封を別とした者には子孫に二階を、大将軍の府・僚・佐で生存者に一階を、民間で年八十歳以上には刺史・県令を版授し、民間に三日の宴会を賜った。甲午、旧宅を祭った。
  三月丙午、皇后が親族・隣里の者と朝堂で宴し、命婦を内殿に会した。従官で五品以上・并州長史司馬に一転を賜った。婦人で八十歳以上に郡君を版授し、毛氈・衾・粟・帛を賜った。己酉、城西で武を講じた。辛亥、左武衛大将軍の蘇定方が神兵道行軍大総管となり、新羅王の金春秋が嵎夷道行軍総管となり、三将軍と新羅兵を率いて百済を討伐した。
  四月癸巳、東都にいった。
  五月辛丑、八関宮を造営した。戊辰、定襄都督の阿史徳枢賓が沙磚道行軍総管となり、契丹を討伐した。
  六月庚午朔、日食があった。
  七月乙巳、梁王李忠を廃して庶人とした。丁卯、盧承慶が宰相を退いた。
  八月庚辰、蘇定方が百済と戦い、これを破った。壬午、左武衛大将軍の鄭仁泰が悉結・抜也固・僕骨・同羅と戦い、これを破った。癸未、神兵道大総管以下の軍士およびその家を赦し、民間に三日の宴会を賜った。
  十一月戊戌、蘇定方が捕らえた百済王を献上した。甲寅、許州にいった。
  十二月辛未、安楽川で狩猟した。己卯、東都にいった。壬午、左驍衛大将軍の契苾何力が浿江道行軍大総管となり、蘇定方が遼東道行軍大総管となり、左驍衛将軍の劉伯英が平壤道行軍大総管となり、高麗を討伐した。阿史徳枢賓が奚・契丹と戦い、これを破った。

  龍朔元年(661)正月戊午、鴻臚卿の蕭嗣業が扶余道行軍総管となり、高麗を討伐した。
  二月乙未、改元し、洛州に赦した。
  四月庚辰、任雅相が浿江道行軍総管となり、契苾何力が遼東道行軍総管となり、蘇定方が平壤道行軍総管となり、蕭嗣業が扶餘道行軍総管となり、右驍衛将軍の程名振が鏤方道行軍総管となり、左驍衛将軍の龐孝泰が沃沮道行軍総管となり、三十五軍を率いて高麗を討伐した。甲午晦、日食があった。
  六月辛巳、太白(金星)が天を通過した。
  八月甲戌、蘇定方が高麗と浿江で戦い、これを破った。
  九月癸卯、皇后とともに李勣許圉師の邸宅に幸した。壬子、李賢を移封して沛王とした。
  十月丁卯、陸渾で狩猟した。戊辰、非山で狩猟した。癸酉、東都にいった。鄭仁泰が鉄勒道行軍大総管となり、蕭嗣業が仙㟧道行軍大総管となり、左驍衛大将軍の阿史那忠が長岑道行軍大総管となり、鉄勒を討伐した。

  龍朔二年(662)二月甲子、大いに官名を変えた。甲戌、任雅相が薨去した。戊寅、龐孝泰が高麗と蛇水で戦い、ここに死んだ。
  三月庚寅、鄭仁泰が鉄勒と天山で戦い、これを破った。乙巳、河北県にいった。辛亥、蒲州にいった。癸丑、同州にいった。
  四月庚申、同州から到着した。辛巳、蓬莱宮を作った。
  六月癸亥、宗室・外戚が華美な織物や彫り物を献上することを禁じた。
  七月戊子、子の李旭輪が十カ月で生まれたので、大赦をおこない、民間に三日の宴会を賜った。右威衛将軍の孫仁師が熊津道行軍総管となり、百済を討伐した。戊戌、李義府が宰相を退いた。
  八月壬寅、許敬宗が太子少師・同東西台三品となった。
  九月丁丑、李義府が宰相に復帰した。
  十月丁酉、温湯に幸し、皇太子が監国した。丁未、温湯から到着した。庚戌、西台侍郎の上官儀が同東西台三品となった。
  十一月辛未、許圉師を左遷して虔州刺史とした。癸酉、子の李旭輪を封じて殷王とした。
  この年、右衛将軍の蘇海政が䫻海道行軍総管となり、亀茲を討伐した。蘇海政は崑陵都護の阿史那弥射を殺した。

  龍朔三年(663)正月乙丑、李義府が右相となった。
  二月、百官の一か月の俸給を減らし、雍州・同州等の十五州の民の銭に賦税を課し、これによって蓬莱宮をつくった。乙亥、駙馬都尉の韋正矩を殺した。庚戌、囚人を再審した。
  四月戊子、李義府を巂州に流した。
  五月壬午、柳州蛮が叛き、冀州都督長史の劉伯英が嶺南の兵をもってこれを討伐した。
  六月、吐蕃が吐谷渾を攻め、涼州都督の鄭仁泰が青海道行軍大総管となってこれを救援した。
  八月癸卯、彗星が左摂提に出現した。戊申、詔して百寮に政事の意見を言上させた。按察大使を十道に派遣した。
  九月戊午、孫仁師が百済と白江で戦い、これを破った。
  十月辛巳、皇太子に詔して五日に一度、光順門にて諸司の奏事を監させて、小事を決済させた。
  十一月甲戌、木に氷が降った。
  十二月庚子、翌年を改めて麟徳元年とし、京師・雍州の諸県の死罪以下を一等減じた。壬寅、安西都護の高賢が行軍総管となり、弓月を討伐した。

  麟徳元年(664)二月戊子、福昌宮にいった。癸卯、万年宮にいった。
  四月壬午、道王李元慶が薨去した。
  五月戊申、許王李孝が薨去した。丙寅、旱害のため正殿を避けた。
  七月丁未、詔して麟徳三年正月に泰山で有司摂祭することとした。
  八月己卯、旧邸宅に幸し、万年県の死罪以下を減じた。壬午、万年宮から到着した。丁亥、司列太常伯の劉祥道が右相を兼ね、大司憲の竇徳玄が司元太常伯となり、左相を検校した。
  十二月丙戌、上官儀を殺した。戊子、庶人李忠を殺した。劉祥道が宰相を退いた。太子右中護の楽彦瑋と西台侍郎の孫処約が同知軍国政事となった。
  この冬、雪がなかった。

  麟徳二年(665)二月壬午、東都にいった。
  三月甲寅、司戎太常伯の姜恪が同東西台三品となった。戊午、遣使して京都諸司および雍州・洛州の二州の囚人の再審を行った。
  閏月癸酉、日食があった。
  この春、疏勒・弓月・吐蕃が于闐を攻め、西州都督の崔智弁と左武衛将軍の曹継叔がこれを救援した。
  四月丙午、桂・広・黔三都督府で赦した。丙寅、邙山の南で武を講じた。戊辰、左侍極の陸敦信が右相を検校し、孫処約楽彦瑋が宰相を退いた。
  七月己丑、鄧王李元裕が薨去した。
  十月壬戌、帯方州刺史の劉仁軌が大司憲兼知政事となった。丁卯、泰山にいった。大有年。

  乾封元年(666)正月戊辰、泰山で封をおこなった。庚午、社首で禅をおこない、皇后が亜献を行った。壬申、大赦をおこない、改元した。文武の官に階・勲・爵を賜った。民間の年八十歳以上に下州の刺史・司馬・県令を、婦人に郡君・県君を版授した。七十歳以上で八十歳までは、古爵一級を賜った。民間に七日の宴会を、女子百戸に牛酒を賜った。通過した場所はこの年の租賦を免除し、斉州は一年半・兗州は二年免税とした。辛卯、曲阜に幸し、孔子を祠り、太師を追贈した。
  二月己未、亳州にいき、老子を祠り、太上玄元皇帝と追号し、県人の宗姓(李氏)の者を一年間免税とした。
  四月甲辰、亳州から到着した。庚戌、陸敦信が宰相を退いた。
  六月壬寅、高麗の泉男生が内附を請い、右驍衛大将軍の契苾何力が遼東安撫大使となり、兵を率いてこれを救援した。左金吾衛将軍の龐同善・営州都督高偘が遼東道行軍総管となり、左武衛将軍の薛仁貴・左監門衛将軍の李謹行が後援となった。
  七月乙丑、李旭輪を徙封して豫王とした。庚午、劉仁軌が右相を兼ねた。
  八月辛丑、竇徳玄が薨去した。丁未、始州刺史武惟良と淄州刺史武懐運を殺した。
  九月、龐同善が高麗と戦い、これを破った。
  十二月己酉、李勣が遼東道行台大総管となり、六総管の兵を率いて高麗を討伐した。

  乾封二年(667)正月丁丑、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、囚人を再審した。
  二月丁酉、涪陵郡王李愔が薨去した。辛丑、工人や商人が乗馬するのを禁じた。
  六月乙卯、西台侍郎の楊武戴至徳、東台侍郎の李安期、司列少常伯の趙仁本が、ともに同東西台三品となった。東台舎人の張文瓘が参知政事となった。
  七月己卯、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、使者を派遣して囚人を再審した。
  八月己丑朔、日食があった。辛亥、李安期が宰相を退いた。
  九月庚申、服薬のため、皇太子が監国した。辛未、李勣が高麗と新城で戦い、これを破った。
  この年、嶺南洞の獠が瓊州を陥落させた。

  総章元年(668)正月壬子、劉仁軌が遼東道副大総管兼安撫大使・浿江道行軍総管となった。
  二月丁巳、皇太子が国学で釈奠した。戊寅、九成宮にいった。壬午、李勣が高麗を破り、扶餘・南蘇・木底・蒼巌城に勝利した。
  三月庚寅、大赦をおこない、改元した。
  四月乙卯、顔回に太子少師、曾参に太子少保を贈った。丙辰、彗星が五車より出たから、正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめ、内外の官に詔して政事を言上させた。庚申、太原のもとより西府に従った功臣を二等とし、第一功の後裔の官で五品がない者は、その子もしくは孫一人に、四品・五品までの者に二階を加え、三品以上の者に爵三等を加えた。第二功の後裔の官で五品がない者は、その子もしくは孫に従六品を一人に授け、五品までの者に一階を加え、六品は二階、三品以上は爵一等とした。辛巳、楊武が薨去した。
  八月癸酉、九成宮から到着した。
  九月癸巳、李勣が高麗王高蔵を破り、これを捕らえた。
  十二月丁巳、捕らえた高蔵を献上した。丁卯、南郊を有事摂祭した。甲戌、姜恪が左相を検校し、司平太常伯の閻立本が右相を代行した。

  二年(669)二月辛酉、右粛機の李敬玄が西台侍郎となり、張文瓘が東台侍郎となり、ともに同東西台三品となった。
  三月丙戌、東台侍郎の郝処俊が同東西台三品となった。癸巳、皇后が自ら養蚕した。
  四月己酉、九成宮にいった。
  六月戊申朔、日食があった。
  七月癸巳、左衛大将軍の契苾何力が烏海道行軍大総管となり、吐谷渾への援軍となった。
  九月庚寅、括州で津波があった。壬寅、岐州にいった。乙巳、岐州で赦し、高年のものに粟・帛を賜った。
  十月丁巳、岐州から到着した。
  十一月丁亥、李旭輪を移封して冀王とし、輪と改名した。
  十二月戊申、李勣が薨去した。
  この冬、雪がなかった。

  咸亨元年(670)正月丁丑、劉仁軌が宰相を退いた。
  二月戊申、囚人を再審した。丁巳、東南で音がして、雷鳴のようであった。
  三月甲戌、大赦をおこない、改元した。壬辰、許敬宗が宰相を退いた。
  四月癸卯、吐蕃が亀茲の撥換城を陥落させた。安西四鎮を廃した。己酉、李敬玄が宰相を退いた。辛亥、右威衛大将軍の薛仁貴が邏娑道行軍大総管となり、吐蕃を討伐した。庚午、九成宮にいった。雍州で大いに雹が降った。高麗の首長の鉗牟岑が叛き、辺境を寇し、左監門衛大将軍の高偘が東州道行軍総管となり、右領軍衛大将軍李謹行が燕山道行軍総管となり、これを討伐した。
  六月壬寅朔、日食があった。
  七月甲戌、雍州・華州・蒲州・同州の四州が旱魃となったため、使者を派遣して囚人を再審し、中御府の諸厩馬を減らした。戊子、李敬玄が宰相に復帰した。薛仁貴が吐蕃と大非川で戦い、敗れた。
  八月庚戌、穀物価格の騰貴のため酒を禁じた。丁巳、九成宮から到着した。甲子、趙王李福が薨去した。丙寅、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。
  九月丁丑、雍州・華州・同州・岐州・邠州・隴州の六州に一年間免税とした。
  閏月癸卯、皇后が旱魃によって皇后位を退くことを願い出た。甲寅、姜恪が涼州道行軍大総管となり、吐蕃を討伐した。
  十月庚辰、文武官に詔して政事の意見を言上させた。乙未、趙仁本が宰相を退いた。
  十二月庚寅、官名を復した。
  この年、大飢饉があった。

  咸亨二年(671)正月乙巳、東都にいき、皇太子が監国した。
  二月辛未、使者を派遣して諸州を慰問させた。
  四月戊子、大風で、雹が降った。
  六月癸巳、旱魃によって囚人を再審した。
  九月、地震があった。丙申、徐王李元礼が薨去した。
  十月丙子、礼楽に詳しい士を求めた。
  十一月甲午朔、日食があった。庚戌、許州に行き、使者を派遣して通過した場所の病人・老人・一人者・寡婦を慰問させ、囚人を再審した。
  十二月癸酉、昆陽で狩猟した。丙戌、東都にいった。
  この年、姜恪が侍中となり、閻立本が中書令となった。

  咸亨三年(672)正月辛丑、姚州蛮が辺境を寇し、太子右衛副率の梁積寿が姚州道行軍総管となって、これを討伐した。
  二月己卯、姜恪が薨去した。
  四月壬申、洛水のほとりで演習を行った。
  九月癸卯、李賢を徙封して雍王とした。
  十月己未、皇太子が監国した。
  十一月戊子朔、日食があった。甲辰、東都から到着した。
  十二月、金紫光禄大夫として致仕した劉仁軌が、太子左庶子・同中書門下三品となった。

  咸亨四年(673)正月丙辰、鄭王李元懿が薨去した。
  四月丙子、九成宮にいった。
  閏五月丁卯、簗をつくって魚を捕らえること、囲い罠で獣をとることを禁じた。
  八月辛丑、不豫のため皇太子に詔して諸司の申し事を決裁させた。己酉、大風のため太廟の鴟尾が落ちた。
  十月壬午、閻立本が薨去した。乙未、皇太子が妃を納れたから、岐州で赦し、民間に三日の宴会を賜った。乙巳、九成宮から到着した。

  上元元年(674)二月壬午、劉仁軌が雞林道行軍大総管となり、新羅を討伐した。
  三月辛亥朔、日食があった。己巳、皇后が自ら養蚕した。
  八月壬辰、皇帝が天皇を称し、皇后が天后を称した。六代の祖の宣簡公を追尊して宣皇帝とし、妣の張氏を宣荘皇后といった。五代の祖の懿王を光皇帝とし、妣の賈氏を光懿皇后といった。高祖太宗および后の諡を増やした。大赦をおこない、改元し、民間に三日の宴会を賜った。
  十一月丙午、東都にいった。己酉、華山曲武原で狩猟した。
  十二月癸未、蒋王李惲が自殺した。

  上元二年(675)正月己未、雍州・同州・華州・岐州・隴州の五州に一年間免税とした。辛未、吐蕃が和を請うた。
  二月、劉仁軌が新羅と七重城で戦い、これを破った。
  三月丁巳、天后が自ら養蚕した。
  四月辛巳、天后周王顕妃趙氏を殺した。丙戌、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめ、百官に詔して政事の意見を言上させた。己亥、天后皇太子を殺した。
  五月戊申、皇太子を追号して孝敬皇帝とした。
  六月戊寅、雍王李賢を立てて皇太子とし、大赦をおこなった。
  七月辛亥、𣏌王李上金が免官され、封邑を削られた。
  八月庚寅、孝敬皇帝を恭陵に葬った。丁酉、詔して、婦人で宮中女官となっている者に一年に一度その親に会わせた。庚子、張文瓘が侍中となり、郝処俊が中書令となり、劉仁軌が尚書左僕射となり、戴至徳が右僕射となった。
  十月庚辰、雍州で雹が降った。壬午、彗星が角・亢より出た。

  儀鳳元年(676)正月壬戌、李輪を移封して相王とした。丁卯、納州の獠が辺境を寇した。
  二月丁亥、汝州の温湯にいき、使者を派遣して汝州の軽微な罪で投獄されたものを赦した。
  三月癸卯、黄門侍郎の来恒と中書侍郎の薛元超が同中書門下三品となった。甲辰、東都にいき、汝州でこの年の半分の租を免除し、民の八十歳以上のものに帛を賜った。
  閏月己巳、吐蕃が鄯州・廓州・河州・芳州の四州を寇したので、左監門衛中郎将の令狐智通がこれを討伐した。乙酉、周王李顕が洮河道行軍元帥となり、左衛大将軍の劉審礼ら十二総管を領して、相王李輪が涼州道行軍元帥となり、契苾何力らの軍を領して、吐蕃を討伐した。
  四月戊甲、東都から到着した。甲寅、中書侍郎の李義琰が同中書門下三品となった。戊午、九成宮にいった。
  六月癸亥、黄門侍郎の高智周が同中書門下三品となった。
  七月丁亥、彗星が東井より出た。乙未、吐蕃が畳州を寇した。
  八月庚子、正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめ、食を減らして粟を馬の秣とし、囚人を再審し、詔して文武官に政事の意見を言上させた。甲子、南北の中尚署・梨園・作坊院を廃止し、少府の雑匠を減員した。この月、青州で津波があった。
  十月乙未、九成宮から到着した。丙午、郇王李素節を降封して鄱陽郡王とした。
  十一月壬申、大赦をおこない、改元した。庚寅、李敬玄が中書令となった。
  十二月戊午、来恒薛元超が河南・河北道大使となった。

  儀鳳二年(677)正月乙亥、藉田を耕した。庚辰、京師で地震があった。
  四月、太子左庶子の張大安が同中書門下三品となった。
  五月、吐蕃が扶州を寇した。
  八月辛亥、劉仁軌が洮河軍鎮守使となった。
  十月壬辰、李顕を移封して英王とし、名を哲とあらためた。
  十二月乙卯、関内・河東の猛士を募り、吐蕃を討伐させた。
  この年、西突厥と吐蕃が安西を寇した。冬、雪がなかった。

  儀鳳三年(678)正月丙子、李敬玄が洮河道行軍大総管となり、吐蕃を討伐した。癸未、使者を派遣して河南・河北の猛士を募り、吐蕃を討伐させた。
  四月丁亥、旱害のため正殿を避け、囚人を再審した。戊申、大赦をおこない、翌年を改めて通乾元年とした。癸丑、涇州の民が異なる体に連なった心をもつ子を生んだ。
  五月壬戌、九成宮にいった。大いに長雨が降った。
  九月辛酉、九成宮から到着した。癸亥、張文瓘が薨去した。丙寅、李敬玄劉審礼が吐蕃と青海で戦い、敗れ、劉審礼がここに死んだ。
  十月丙申、剣南・隴右の歳貢を停止した。丙午、密王李元暁が薨去した。
  閏十一月丙申、雨木に氷が降った。壬子、来恒が薨去した。
  十二月癸丑、通乾の年号をやめた。

  調露元年(679)正月戊子、東都にいった。庚戌、戴至徳が薨去した。
  四月辛酉、郝処俊が侍中となった。
  五月丙戌、皇太子が監国した。戊戌、紫桂宮を作った。
  六月辛亥、大赦をおこない、改元した。吏部侍郎の裴行倹が西突厥を討伐した。
  九月壬午、裴行倹が西突厥を破り、その可汗の都支を捕らえた。
  十月、突厥の温傅・奉職の二部が辺境を寇し、単于大都護府長史の蕭嗣業がこれを討伐した。
  十一月戊寅、高智周が宰相を退いた。甲辰、礼部尚書の裴行倹が定襄道行軍大総管となり、突厥を討伐した。

  永隆元年(680)二月癸丑、汝州の温湯にいった。丁巳、少室山にいった。乙丑、東都にいった。
  三月、裴行倹が突厥と黒山で戦い、これを破った。
  四月乙丑、紫桂宮にいった。戊辰、黄門侍郎の裴炎崔知温と中書侍郎の王徳真が、ともに同中書門下三品となった。
  五月丁酉、太白(金星)が天を通過した。
  七月己卯、吐蕃が河源を寇した。辛巳、李敬玄が吐蕃と湟川で戦い、敗れた。左武衛将軍の黒歯常之が河源軍経略大使となった。丙申、江王李元祥が薨去した。突厥が雲州を寇し、都督の竇懐哲がこれを破った。
  八月丁未、東都にいった。丁巳、李敬玄を左遷して衡州刺史とした。甲子、皇太子を廃して庶人とした。乙丑、英王李哲を立てて皇太子とし、大赦をおこない、改元し、民間に三日の宴会を賜った。己巳、張大安を左遷して普州刺史とした。
  九月甲申、王徳真を宰相から罷免した。
  十月壬寅、曹王李明を降封して零陵郡王とした。戊辰、東都から到着した。
  十一月壬申朔、日食があった。

  開耀元年(681)正月乙亥、突厥が原州・慶州の二州を寇した。辛巳、京官の九品以上に三日の宴会を賜った。癸巳、裴行倹が定襄道行軍大総管となり、突厥を討伐した。己亥、殿中・太僕の馬を減らし、地方からの貢献を省き、雍州・岐州・華州・同州の四州で二年間税を免除し、河南・河北の一年の調を免除した。
  二月丙午、皇太子が国学で釈奠した。
  三月辛卯、郝処俊が宰相を退いた。
  五月乙酉、常州の人の劉龍子が反乱を計画し、処刑された。丙戌、定襄道副総管の曹懐舜が突厥と横水で戦い、敗れた。己丑、黒歯常之が吐蕃と良非川で戦い、これを破った。
  六月壬子、永嘉郡王李晫が有罪となり、処刑された。
  七月己丑、太平公主が降嫁したため、京師で大赦があった。甲午、劉仁軌が左僕射を辞任した。
  閏月丁未、裴炎が侍中となり、崔知温薛元超が中書令を代行した。庚戌、服薬のため、皇太子が監国した。庚申、裴行倹が突厥と戦い、これを破った。
  八月丁卯、河南・河北が大洪水のため、使者を派遣して食料欠乏の者に賑給し、家々が破壊された者に一年間免税とし、溺死者に贈物し、一人あたり三段とした。
  九月丙申、彗星が天市から出た。壬戌、裴行倹が捕らえた突厥の温伝可汗と阿史那伏念を献上した。乙丑、改元し、赦定襄軍および諸道で突厥を征伐するために官吏・兵の募集を赦した。
  十月丙寅朔、日食があった。
  十一月癸卯、庶人李賢を巴州にうつした。

  永淳元年(682)二月癸未、孫の李重照が十カ月で生まれたので、大赦をおこない、改元し、民間に三日の宴会を賜った。この月、突厥の車薄・咽麪が辺境に侵攻した。
  三月戊午、李重照が立って皇太孫となった。
  四月甲子朔、日食があった。丙寅、東都にいき、皇太子が監国した。辛未、裴行倹が金牙道行軍大総管となり、三総管の兵を率いて突厥を討伐した。安西副都護の王方翼が車薄・咽麪と熱海で戦い、これを破った。丁亥、黄門侍郎の郭待挙・兵部侍郎の岑長倩・秘書員外少監の郭正一・吏部侍郎の魏玄同が、ともに中書門下同承受進止平章事となった。
  五月乙卯、洛水が氾濫した。
  六月甲子、突厥・骨咄禄が辺境を寇し、嵐州刺史の王徳茂がここに死んだ。この月、蝗が大発生し、人があい食んだ。
  七月、万泉宮を作った。己亥、奉天宮を作った。庚申、零陵郡王李明が自殺した。
  九月、吐蕃が柘州を寇し、驍衛郎将の李孝逸がこれを討伐した。
  十月甲子、京師で地震があった。丙寅、黄門侍郎の劉斉賢が同中書門下平章事となった。

  弘道元年(683)正月甲午、奉天宮に幸した。
  二月庚午、突厥が定州を寇し、刺史の霍王李元軌がこれを破った。
  三月庚寅、突厥が単于都護府を寇し、司馬の張行師がここに死んだ。庚子、李義琰が宰相をしりぞいた。丙午、彗星が五車に出現した。癸丑、崔知温が薨去した。
  四月己未、東都にいった。壬申、郭待挙郭正一が同中書門下平章事となった。甲申、綏州の部落の稽の白鉄余が辺境を寇し、右武衛将軍の程務挺がこれを破った。
  五月乙巳、突厥が蔚州を寇し、刺史の李思倹がここに死んだ。
  七月甲辰、李輪を移封して豫王とし、旦と改名した。薛元超が宰相を退いた。
  八月乙丑、皇太子が東都で朝し、皇太孫が京師を留守した。丁卯、滹沱河が氾濫した。己巳、黄河が氾濫し、河陽城が破壊された。
  九月己丑、太平公主の子が生まれたため、東都で赦した。
  十月癸亥、奉天宮に幸した。
  十一月戊戌、右武衛将軍の程務挺が単于道安撫大使となり、突厥を討伐した。辛丑、皇太子が監国した。丁未、東都にいった。戊申、裴炎劉斉賢郭正一が東宮平章事を兼ねた。
  十二月丁巳、改元し、大赦をおこなった。この夕、皇帝貞観殿で崩じ、年は五十六歳であった。諡は天皇大帝といった。天宝八載(749)、天皇大聖皇帝と改諡した。天宝十三載(754)、天皇大聖大弘孝皇帝と増諡した。


  賛にいう。「小雅」に「赫赫たる宗周、褒姒これを滅ぼせり」とあるが、これは周の幽王の詩である。この時、幽王は滅びたといっても、太子の宜臼が立って、これが平王となった。しかし詩人はこれを滅びたと言ったのは、文王・武王の業がここに蕩尽されたからであり、東周がまだあったとはいえ、復興することができなかったのである。「小雅」に滅びたといっていたのは、非常にこの言葉を憎んでいたからであった。武氏が政治を乱すと、唐の宗室は殺害されてほとんど尽きてしまい、賢人・士大夫で免れた者は十人中、八・九人にすぎなかった。太宗の治によって、その遺徳・功業は人々にとってはまだ遠い過去のものではなかったが、しかししばらくして遂に絶え、その悪事をなすことはどうして褒姒一人と比べられようか。太宗の明敏さをもってしても、子を知ることについては暗く、廃立の際には、自分で決定することができず、遂には暗愚な子を用いてしまったのである。高宗は臥所での愛に溺れ、厳寒の前の霜を踏むように、少しでも災いの予兆があれば避けるべきところを戒めず、毒を天に流し、国家を災いに落としたのであった。嗚呼、父子・夫婦の間は、難しいものであるというべきであろうか。まことに慎まなければならない。


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最終更新:2024年11月26日 02:50
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