巻一百一十九 列伝第四十四

唐書巻一百一十九

列伝第四十四

武平一 李乂 賈曾 至 白居易 行簡 敏中


  武平一は、名は甄で、字(あざな)で世に知られた。潁川郡王武載徳の子である。博学で『春秋』に通じ、文章を巧みにした。武后の時、禍を恐れてあえて武氏と事を共にせず、嵩山に隠れて仏教を修行し、しばしば詔があったが応じなかった。中宗が復位した時、武平一は母の喪に服していたが、迫まられて召還されて起居舎人に任じられ、喪に服することを願ったが、聞き入れられなかった。景龍二年(708)、修文館直学士を兼任した。当時の天子は暗愚で君主の器ではなく、韋后は密通乱交し、外戚の勢いは盛んであった。武平一は重ねて直言して過失を責め、そこで自ら母系の一族郎党を抑えることを願い、上言した。「去年、熒惑が羽林に入り、太白が天を再度めぐり、太陽が欠け、月が大角を犯しました。臣は、災害というのはむやみに生じるわけではなく、上を見れば下は必ずそれに応じており、信は影や響きが形や声に応じるようなものだと聞いています。詩経に、「文王は慎み深く細かいことにも気を配り、天の神につかえ、その結果、周に多福をもたらした」とあります。陛下の資質は孝行で慈愛があり、外戚は外家に属しているのに、恩恵はあまねく獲得することになりました。臣もそのうちの一宗族で、階は三等にのぼり、家はしばしば侯となり、王侯貴族が乗る豪華な車に乗り、許氏・史氏・梁氏・鄧氏といった漢代の外戚ら遠い時代よりもさらにその恩恵が深いのです。恩崇は批評を重ねることになり、位が厚ければひび割れるのも速く、そのため月が満ちれば必ず欠け、太陽は日中に移動し続け、時は二度とやってこず、栄えるのは難しいのにしばらくすれば凋落するのです。昔、永淳年間(682-683)以降、王室は多難で、先聖は権に従い、そのため臣の家は宗室の子であるという理由によってひそかに分封を禄としていました。今上陛下が復辟され、本来なら退いて家や庭を守るべきであったのですが、再び恩寵をいただき、爵封ははじめのようになり、高位高官となって、遂に極みを超えたのです。だから陰気は陽をなぞらえ、黄河や洛河が氾濫したのです。昔、漢の王氏一族はおごりたかぶった時、梅福は上書しました。竇氏が専横を極めると、丁鴻は諫言を奉りました。また后妃の家は、恩寵は過分にも深く、一朝にして覆没させてしまえば、遂に生きている人間はいなくなってしまいます。願くば謙譲の時宜、長期の策を思い、長い時間をはかるのなら、親戚は全うするでしょう」と述べた。帝は慰めはげましたが、許さなかった。考功員外郎に遷った。

  当時、太平公主安楽公主はそれぞれ党派をたてて互いに排斥しあっており、貴族もせめぎあっていた。帝はこれを憂い、あつく和させたいと思い、武平一を訪ねた。そこで上書した。「病には四体があり、表面で跡が判明すれば対処はたやすく、内臓にあれば、症状が突然あらわれるから治すのが難しいのです。刑罰や政務が乖離していれば、それは四股の病と同じなのです。親族が権力を握れば猜疑心がおきてわだかまりがあり、内臓の病気と同じなのです。『書』に、「よく徳に優れた者を引き立て任用され、かれらを使って九族の間の親睦を計られた。九族がなごやかになると、次いで百姓の間を和らげた」とあり、『詩経』に、「隣人と仲良くつとめれば、親戚大いに楽しまん」とあります。これによって親族は和睦するのが最善であることを知るのです。この頃権力者や貴顕は疑って警戒しあい、表面上は融和しているようにみえてその内実は離間しており、怨みは親類に結び、疑っては骨肉に争いが生じるのです。栄達を求める者は、偽って忠誠を示しています。饒舌の輩たちは、いやしくも讒言や謀略をつくすのです。邸宅の中では敬い恐れるようにしながら、媼や宦官の側で私語しているのです。そのため訪問者は絶え、嫌疑を構えられ、親愛の情にそむき、党派が発生するのです。霜のような小さなものでも、積もると大きな氷になるのですから、小さな禍でも見過ごすことはできません。願わくばことごとく近親の貴人を召集し、内殿にて宴会し、和睦の意思を告げ、慈愛と慰労を仰せになられて、奸人を退け、讒言の道を塞ぐのです。もしそれでもなお止まなければ、そこで近きを棄てて遠きをはかり、慈愛を抑えて厳を示しされるのは、陛下のご命令なのです」と述べた。帝はその忠節をよしとしながらも、ついに用いることはなかった。

  それより以前、崔日用は『春秋左氏伝』を諸侯や官僚に講義していた。ある日、学士を大いに集まったが、崔日用は武平一を責めて、「君の文章はもとより優れているが、もし経を述べたのなら、駄目なのだろう」と言った。その時崔湜張説はもとより武平一がこれらを学んでいることを知っていたから、問答することを勧め、武平一はそこで疑っているところを言うよう求めた。崔日用は、「魯の三桓、鄭の七穆とはなんだ」と聞くと、「慶父・叔牙・季友が、桓公の三子である。孟孫氏は仲孫彘に到るまでおよそ九世で、叔孫舒・季孫肥まではおよそ八世だ。鄭の穆公には十一子あり、そのうち子然および子孔・士子孔の三族は滅び、子羽は卿にはならなかったから、だから七穆というのであり、子罕・子駟・子良・子国・子游・子印・子豊がそれである」と答えたから、一坐は驚き敬服した。武平一は崔日用に、「あなたは斉の桓公・楚の荘王の時のことを言っているが、諸侯が斉もしくは楚に属していたのはどれくらいであったのか。平公・霊王の時、諸侯が晋や楚に属していたのはどれくらいであったのか。晋六卿や、斉・楚の執政はどれくらいの人がいたのか」と問うと、崔日用は謝って、「私は知りません。あなたは知っているのですか」と聞くと、武平一はすべて答えて言って、言葉はとどまることはなかった。崔日用は、「私に弟子の礼をとらせてください」と言ったから、そこにいたすべての人が大笑いした。

  後に両儀殿で宴し、帝は武后の兄の光禄少卿の武嬰に命じて監酒とした。武嬰は滑稽かつ敏捷で、学士に詔してこれをからかわせたが、武嬰はよく数人をあしらった。宴も盛り上がって酩酊となる中、胡人の襪子・何懿らが「合生」と唱えたが、歌声は浅くかつ穢わしく、そのため傲慢で気まま勝手となり、司農少卿の宋廷瑜の賜魚を奪い取ろうとした。武平一は上書して、「楽は天の和で、礼は地の秩序です。礼は地に配び、楽は天に応じるのです。そのため音は心を動かし、声は物を形作り、心によって楽は哀みとなり、物に感じて変化に応じるのです。楽が正しければ人民の風化は正しく、楽が誤っていれば政治や祭祀が誤っているので、先王たちが興廃に通じていた理由なのです。伏して考えてみますに、胡楽は声律をめぐらせ、もとより四夷の数を備えていますが、この頃日増しに放浪し、変わった曲や新しい唄は、哀しみを思いおこし淫靡に耽溺させます。王公から巷の人々に及ぶまで、妖しい伎をつかう胡人、街ゆく童や市井の子、あるいは妃や公主の容貌をいい、王公の名実を列挙するといい、歌を詠い舞き踊るのを、「合生」といっているのです。昔、斉が衰えると、「伴侶曲」が流行し、陳が滅びようとするとき、「玉樹後庭花」の曲がありました。急にはしって志を労したり、罪を軽んじて志を奢らせるような音楽は、すべて亡国の音なのです。礼において減損して進まなければ消衰し、楽が流れて本にかえらなければ放縦となるのです。臣が願いますところは、放蕩で速い音楽を退け、慎み深い音楽を崇ぶのなら、だいたい胡楽は、四夷の外にあるのですから、すべてなくなることでしょう。ましてや両儀殿・承慶殿は、陛下が朝政をとられ訴えを聴かれるところで、群臣を大饗するならまだしも、芸人どもによって荘重さが失われて国法を汚すのを受け入れることができません。もし聴政の暇に、いやしくも耳目を弄ばれるのでしたら、私の奏上の後に後宮でなされるとよいでしょう」と諌めたが、受け入れられなかった。

  玄宗が即位すると、蘇州参軍に左遷され、金壇令に移された。武平一は中宗に寵愛され、当時宴にあずかったとはいえ、かつて詩頌によって戒めたが、しかしひときわ抜きん出ているのに自ら引き去ることができなかったから、流謫されたのである。流謫されても名声は衰えなかった。開元年間(713-741)の末に卒した。孫の武元衡武儒衡は別伝がある。


  李乂は、字は尚真で、趙州房子の人である。若くして父を失った。十二歳のとき、文章をつくるのに巧みで、中書令の薛元超が、「この子はまた海内に名をはせるだろう」と言った。進士・茂才異等に及第し、万年県の尉に任じられた。長安三年(703)、雍州長史の薛季昶に詔があって官吏で御史となるべく才能がある者を選ばせ、薛季昶は李乂を上聞したから、監察御史に抜擢された。弾劾奏上を忌諱することはなかった。景龍年間(707-710)初頭、葉静能が権勢をたのんでいるから、李乂はその邪なことを並べ立てたが、中宗は受け入れなかった。中書舎人・修文館学士に遷った。

  帝は使者を江南に派遣して、所在地の財貨を出して捕らえられた魚を贖って放生しようとした。李乂は上疏して、「江南の魚には、衣食を助けることができる利があります。江湖に生きる魚は果てしなく、府庫の財には限りがあり、魚を救おうとすれば、民間を憂慮させる結果となります。また魚を生かそうと彼らを利させたところで、金銭を受けて取っても網は使う範囲はだんだん大きくなり、これを施せば、百倍に利益を得ようとさせるだけになります。もし贖うところの財貨を他に回せば、困窮の徭役は減り、恩沢は多くなるでしょう。」と述べた。

  韋氏の変で、詔令が厳しく切羽詰まったが、多くは李乂が草稿を作成した。吏部侍郎に昇進し、知制誥となった。宋璟らとともに同典選事となったが、謁見を願い出て実行されなかった。当時の人は語って、「李下に蹊徑(小道)なし」と言った。黄門侍郎に改められ、中山郡公に封じられた。制勅に不都合があれば、ただちに反駁して糾した。寵臣が官位を求めた時に、睿宗は、「朕が物惜しみしているのではない。李乂に振り返ったときに越せないと思ったからだ」と言った。金仙観・玉真観の建立をやめるよう諌めたが、帝は従わなかったものの寛容であった。太平公主が政務に干渉すると、李乂を自陣営に引き込もうとしたが、李乂は深く拒絶した。

  開元年間(713-741)初頭、姚崇が紫微令となると、推薦されて侍郎となったが、表向きは人物に重みがあるため引き抜いたとされたが、内実は弾劾して誤りを糾す権を奪うためで、李乂を明白に恐れたからであった。しばらくもしないうちに刑部尚書に任命された。卒した時、年六十八歳であり、黄門監を贈られ、諡を貞といった。薄葬を遺言とし、郷里に戻ることはなかった。

  李乂は温厚かつ正直で、国を治める要領を識っており、当時の人は宰相の器があると称した。葬送の日、蘇頲畢構馬懐素は参列し、哭して、「公のために歎くのでなければ、誰に歎くというのだろうか」と言った。李乂は兄の李尚一李尚貞に仕えること、非常に孝順にして恭謹であり、またともに文章で名を現した。兄弟で一つの文集をつくり、『李氏花萼集』といい、李乂が著した部分が非常に多かった。李尚一は清源尉で、尚貞は博州刺史で終わった。


  賈曾は、河南洛陽の人である。

  父の賈言忠は、容貌魁偉で、母に仕えることは孝行者で知られ、万年県の主簿に任じられた。蓬莱宮の護役となったが、ある者がその厳格さに異議を申し立てたから、高宗は宮廷で詰問したが、弁舌は理路整然として詳細に述べたから、帝は優れた人物であると思い、監察御史に抜擢された。まさに遼東で事がおこり、使を奉って補給の任につき、帰還すると山川道里を奏上し、あわせて高麗を打ち破るべきの状を述べた。帝は、「諸将の人材はどうか」と聞くと、「李勣は旧臣で、陛下がご存知のところです。龐同善は闘将ではありませんが、軍律を厳に保っています。薛仁貴は剽悍なこと軍の筆頭であり、高偘は忠誠かつ果敢でありながら謀略にすぐれ、契苾何力の性格は冷静沈着で、前線を嫌うとはいえ、統率の才があります。しかしながら一日中心を細やかにして、身を忘れて国を憂いるのは、李勣に及ぶ者はおりません」と答え、帝はそうだと思って認め、多くの者も知見のある話だと思った。吏部員外郎に累進した。李敬玄が尚書を兼任すると、賈言忠は気概があり、選部をつかさどるにおよんで、部下となることはできず、邵州司馬に左遷された。武懿宗に嫌われると、獄に下されてほとんど死ぬ所であったが、建州司戸参軍に左遷されて、卒した。

  賈曾は若い頃から有名で、景雲年間(710-712)、吏部員外郎となった。玄宗が皇太子となると、宮僚に選ばれ、賈曾を舎人とした。太子はしばしば使者を派遣して采女楽を、率更寺につかせて練習させたが、賈曾は諫めて、「楽をつくって徳を崇ぶことは、人と神が和することにあります。韶・夏の音楽には容があり、咸・英の音楽には節がありますが、女楽はそれらの間と同じではありません。昔、魯で孔子が用いられるとしばらく隆盛となり、戎に由余という賢臣があらわれると強勢となりましたが、斉・秦が女楽を魯・戎に遣わすと、そのため孔子は出ていき、由余は出奔しました。本当に艶めかしく淫らな音楽は、意思を喪失させ、聖賢の病の最も甚しいものとなるのです。殿下は聖賢の道を渇望するという美名がいまだにあらわれていないのに、伎楽を好むという噂が先に聞こえてきており、殷の啓王や周の成王誦を追い、堯、舜の偉業を継ぐ理由とはならないのです。余暇の間に私的に宴したり、後宮で伎楽を楽しんだりすることは、古にもまたありましたが、秘匿すべきものであり、人に示すことはありませんでした。ましてやこれを役人に検閲させ、群臣に明示するなんてことはありましたでしょうか。願わくば俳優や女子を退けられ、諸使者に採用されることを、一切止められますように」と述べた。太子は手ずから嘉答された。

  にわかに中書舎人に抜擢されたが、職名(中書)が父の名(忠)と音が同じなのを避けたため任命を受けず、諫議大夫・知制誥に遷った。天子が親郊する際に、役人が皇地祇の位座を設けないことを議したが、賈曾は天地を合享し、古制のように従祀等の座を併設するように願った。睿宗は宰相・礼官議に詔して、すべて賈曾の願い出のようにさせた。開元年間(713-741)初頭、再び中書舎人に任命されたが、賈曾は固辞した。議する者が「中書」というのは曹司のことであり、官職名ではなく、名を避けても礼があれば憚りがないと言ったから、そこで職に就いた。蘇晋と同じく知制誥であったから、皆文章を称えて、当時の人は「蘇賈」と号した。後に連座して洋州刺史に左遷された。虔州・鄭州などの刺史を歴任し、礼部侍郎に遷って卒した。子は賈至である。


  賈至は、字は幼鄰で、明経科に選ばれて及第し、官職について単父県尉となった。玄宗に従って蜀に行き、起居舎人・知制誥を拝命した。帝が帝位を譲位すると、適宜冊書を撰し、草稿を奉った。帝は、「昔、先天年間(712-713)の誥命は、そなたの父が文辞をつくったのだ。今ここに冊書をつくるよう命じたが、またそなたがこれをつくったのだ。両朝の盛大な儀式は、そなたの家の父子の手から出たものだ。美を継ぐというべきだろう」と言ったから、頓首し、嗚咽して涙を流した。中書舎人に任命された。

  至徳年間(756-758)、将軍の王去栄が富平県令の杜徽を殺害したが、粛宗は新たに陝州を回復したばかりで、かつ王去栄の人材を惜しんだから、詔して死を聴し、流人として自ら贖わせることとした。賈至は諫めて、「聖人が乱を誅するのに、必ずまず法令を示し、礼義を崇びます。漢が始めて関内に入ると、法三章を約束し、殺人は死罪としましたが、古今普遍の基本法なのです。思うに将軍の王去栄は、朔方軍の偏将で、数千の兵士を率い、行列を整えることができず、私怨をはさんで県令を殺しましたのは、反抗不服従なのです。ある者は王去栄が防衛に秀で、陝州を新たに下したが、王去栄でなければ守ることは出来ないといいますが、臣はそうは思いません。李光弼は太原を守り、程千里は上党を守り、許叔冀は霊昌を守り、魯炅は南陽を守り、賈賁は雍丘を守り、張巡は睢陽を守っていますが、当初王去栄はいなかったのですが、賊が下すことができたとは聞いたことがありません。一つの才能だけで死を免れるのならば、彼は弓矢に卓越し、剣術は前に出る者はいませんが、能力をたのんで上官に背くのなら、どうやって彼を止めるのでしょうか。もしこの後で王去栄を棄てて、将来誅殺することがあれば、この法はただその一人だけのことではなく罪人を招くことになるのです。王去栄一人を惜しんで、十人の王去栄のような人材を殺すのなら、その傷は思うに大きくなるでしょう。その逆乱の人が、ここでは逆いているのにあそこで従うことがあるでしょうか。富平県で乱をおこして陝州で治めるなんてことがあるでしょうか。県令に背いているのに、君主に背かないということができるのでしょうか。律令は太宗の律令です。陛下は一人の士の小さな才能のために不可とするならば、それは祖宗の大法を廃することになるのです」と述べた。帝は群臣に議するよう詔し、太子太師の韋見素・文部郎中の崔器ら皆、次のように言った。「法は、天地の大典で、王者は敢えてもっぱらにすることはありません。帝王はほしいままに殺さず、小人がほしいままに殺すことができる者は、この権は人主に過ぎたるものなのです。開元年間(713-741)以前、あえてほしいままに殺すことはなかったので、朝廷を尊んだのです。今は国家が弱体している時なのです。太宗が天下を定めたように、陛下は王業を復活させようとしています。そのため王去栄は至徳の罪人ではなく、すなわち貞観の罪人なのです。その罪は祖宗が赦すところではありません。陛下はこれを変えるべきでしょうか」詔して裁可された。

  蒲州刺史は河東に賊軍が頻繁に出現したから、出城・家々の五千屋を撤去し、賊が集まって防衛させないようにしたが、民は大いに騒動した。詔して賈至を派遣して慰撫させ、官が造営を補助して完成させたから、蒲州の人はおさまった。微罪に連座して、岳州司馬に左遷された。

  宝応年間(762-763)初頭、召還されてもとの官職に復し、尚書左丞に遷った。楊綰が建言して古制によって、県令が孝廉を刺史に推挙し、刺史が天子・礼部に上奏する制度にするよう願い出た。詔して役人に議に参加させ、多くが楊綰の上言を肯定した。賈至が次のように議した。「晋から後、衣冠はさらに改められ、人は多く故郷を離れて客所におり、そのため官吏筋によって、その所在地に籍を入れられて定住しているのです。今、郷里によって人材を選抜してもまだ尽きることはありません。願わくば学校を広め、国子博士の数を増やし、十道大州に大学館を設置し、博士に詔してこれを掌握させ、生徒を招致したいと思います。故郷に居続ける者は、郷里が推挙します。流寓の者は、学校が推挙します」議ではさらに賈至の建議を付した。礼部侍郎、待制集賢院に転じた。

  大暦年間(766-779)初頭、兵部侍郎に遷った。信都県伯に封じられ、京兆尹に昇進した。大暦七年(772)、右散騎常侍の職で卒した。年五十五歳。礼部尚書を贈られ、諡を文という。


  白居易は、字は楽天で、先祖は太原の人である。北斉の五兵尚書であった白建が、その当時、功績を立てたので、韓城に田地を下賜されて、子孫は代々この土地に住んだ。また下邽に移った。父の白季庚は彭城の県令であったが、李正己が叛乱を起こした時に徐州刺史の李洧を説得して、朝廷側に帰順させた。次々と昇進し襄州別駕に抜擢された。

  白居易の頭脳鋭敏さは人の追随を許さず、文章を作るのがうまかった。まだ成年に達していない頃に顧況に面会した。顧況は呉の人で、自分の才能を鼻にかけ、めったに後進を認めない人物であった。が、白居易自作の詩文を見て茫然自失の態で、「私は文章の道はとっくに断絶したものと思っていたが、今再びあなたのような後継者ができるとは。」と言った。貞元年間(785-804)に、進士の試験、続いて吏部の書判抜萃科を受けて、両試ともみごと合格し、秘書省校書郎に任命された。元和元年(806)制挙の対策に第二位で及第し、京兆府の盩厔県尉に任ぜられ、集賢院校理となった。その月中に召し出され翰林院に入り学士となり、官は左拾遺に昇進した。

  元和四年(809)、憲宗は、大旱魃に見舞われたので勅を出し、税の免除をして災害を排除した。白居易は詔の文章がまだまだ周到でないと考え、天子に意見を申して、江淮両地方の課税を全面的に免除し、人民の流浪のうきめを救済することと、宮中の女官たちの解放とを乞うた。憲宗は快く意見を聴き入れた。この頃于頔が入朝して、自分がつれていた歌舞のできる女人全員を宮中に入れた。「これは普寧公主を息子の嫁にしたので献上したのだ」と、言う者もいた。于頔の寵愛の女ばかりであった。白居易は、「これらの女どもは本国に帰した方がよい。于頔に不正行為をやらせて天子にとり入るようなことをさせてはならない」との見解を表明した。李師道が自分の私有財産六百万銭を献上して、魏徴の孫の為にもとの邸を買い戻した。白居易は上奏して「魏徴は宰相に任命され、時の天子太宗は宮中用の材木を使用させ、魏徴の邸の正殿を建築されましたが、子孫は維持できませんでした。賢臣魏徴の子孫という理由で、陛下が買い戻しをされて下賜されるのが宜しいと存じます。李師道は臣下の者、手柄をさせるのは好ましくないと考えます」。天子は白居易の言葉に従った。河東節度使の王鍔が、宰相の位を授けられようとした。白居易は、「宰相は国家の人民の注目の的であり、重々しい人望と顕著な功績が無ければ任命するべきではありません。考えてみるに、王鍔は搾取の為にあらゆる手段をつくし、人民の疲弊も憐れまず、手にした財宝を税の「羨余」と称して献上しました。今もし天子が代償として官位を授与されますなら、国中の人はこれを聞いて、皆口を揃えて「陛下は王鍔の献金を受納されて宰相の位を与えられた」と、取りざたしましょう。諸道の節度使連中も、内密で計略をめぐらして、「王鍔などにひけをとってなるものか」と、先を争って人民から過酷な税を取りたてて、自分たちの欲望を達しようとするでしょう。所望する者全てに官位を与えれば国家の規律は大幅に破壊されますし、与えなければ不公平な行賞となりましょう。ものごとは一度失敗すると二度と取り返しがつきません」と考え、天子に申しあげたのであった。この頃、孫璹が宮中警備に功労があったということで、鳳翔節度使に抜擢された。張奉国が徐州を鎮定し、李錡を征伐して功績をたて金吾将軍に昇進した。白居易は天子に上言した。「孫璹を免職にして張奉国を昇進させることで、国家の忠臣たちの気もちを大いにひきしめていただきたい」。財務局関係で囚人となっている者があり、閺郷の獄に繋がれて、三度の恩赦にも浴さず、罪を許されなかった。白居易はまた上奏して、「父が死ぬとその子を閺郷の獄に捕らえ、夫が長く獄に繋がれていると妻は他家に再婚をしてしまって、これでは負債を弁償する時期など無く、拘禁の終わる期日も来ないというものです。こうした未決囚全員を赦免し釈放していただきたい」と上奏文を十数回提出し、ますます有名になった。

成徳節度使の王承宗が叛乱を興した時、天子は宦官の吐突承璀に詔を下し、軍隊を率いて出兵し叛乱軍の討伐を命じた。白居易は天子を諫めて、「唐朝の制度では、敵軍討伐の度毎に全権を将軍に委任し、事の成就を要求するのが恒例になっております。近年になって始めて宦官を都監として配置するようになりました。韓全義が西を討伐した時には賈良国が軍隊を監視し、高崇文が蜀討伐の時には、劉貞亮が軍隊を監視するといった状態です。また、国家が軍隊を動員しようとする大事の時に、宦官に専ら総軍隊を統轄させるなどという先例は、古来より無かったことです。禁軍である左右神策軍に行営節度使を設置していないとなると、吐突承璀は最高総指揮官であり、その上に諸軍招討処置使をも与えられました。これは実質的に全権委任の都統ということになりましょう。恐らく天下にこの真相が伝えられれば、必ずや朝廷を軽視するもとになります。後代にもまた、宦官を総指揮官に任命した事例は、陛下から始まったと伝えられましょう。陛下はおめおめとこの不名誉を蒙るのに耐えられましょうや。それはそれとして、劉済等やその他の諸将たちは、きっと吐突承璀の規律指揮の下に入るのを潔しとせず、心中面白くなくて戦功をたてようなどとはしないでしょう。これでは王承宗の姦邪を応援し、諸将の鋭気を殺ぐ結果になります」と。しかし天子は聴き入れなかった。

  すでに軍は疲弊したが勝敗は決することはなく、白居易は上言した。「陛下が討伐に際して、もともとは吐突承璀を頼りにされ、他は盧従史范希朝張茂昭を頼りにされました。今、吐突承璀は進軍しましたが、決戦もしていないのに、すでに大将を失い、范希朝・張茂昭は数ヶ月来、賊の境界に入りましたが、その勢いは、想像しても知ることができる程度で、空しく一県だけを得たところで、そのまま軍を進めようとしません。うまくいくことはないでしょう。しばらく出兵を中止すべきです。そしてその害は四つあります。今、国庫の財産器物、人民の汗の結晶を使って河北の諸侯を援助して、ますます彼らを富貴強大にしています。それが一つ目です。河北の諸将は呉少陽が節度留後に任じる命を受けたのを聞けば、王承宗の討伐を願い出るでしょう。このような上奏が再び来たら、許さないわけにはいかないでしょう。そうすれば河北は合従し、その勢いはますます堅固となります。与奪は諸将次第となり、恩義や信頼は朝廷から出なくなります。それが二つ目です。今や天のめぐりはとっくに熱くなり、戦乱の気運が蒸しあがっています。たとえ身を惜しまない気持ちでも、やはりその苦しさに耐えるのは難しいことであります。また神策軍はまちの人を募っていて、戦いに慣れておらず、なかには逃げ出すもののいる有様で、諸軍も必ず動揺します。これが三つ目です。回鶻・吐蕃は常に偵察を送っており、王承宗の賊軍を討伐するだけなのに冬から夏になるまで、まったくまだ勝利を収めていません。そうであれば兵力の強弱や、費用の多少を彼らに一々知られてよいのでしょうか。こちらの準備がないのに付け込んで攻めてきたら、うまくその始末をつけることはできません。戦いが続いて災禍が生じれば、何が起こってもおかしくありません。それが四つ目です。このような事態がおこってから止めたところで、権威や統治能力を失うことになるのですから、ただ予防すべきであって、追って後悔すべきではないのです」と述べた。またたまたま王承宗が罪を請うたから、出兵はついに止めた。

  後日、宮中で天子の面前において持論を頑強に主張し譲らなかった。天子はまだまだ納得しなかった。そこで白居易は天子の前に進み出て「陛下はまちがっておられます」と、申しあげたので、天子は顔色を変えてしまった。そして翰林学士の李絳に向かって、「あいつはこのわしが拾いあげて目をかけてやったのに、わしの意に従わず強引にかような事を申す。わしはもう我慢できぬ。きっとあいつを追放してやるぞ」と、仰せられたが、李絳は、「陛下は、言論の道を臣下のためにお開きになられました。だからこそ並み居る群臣どもが、思い切って政治の得失を論ずるようになったのです。もし今、白居易追放の処置をとられましたならば、それは臣下の言論の自由を禁止し、各自分で陰謀を計画させる結果となって、天子のご盛徳を輝かしいものとすることにはならないでしょう」と言上した。天子はやっと自分の誤ちに気づき、白居易に対する待遇は元通りであった。左拾遺の任期が終わり転任する時になって、天子は白居易の資産が乏しい上に家計も貧しいという理由で、白居易自身が次の任官の地位を選ぶことをされた。白居易は姜公輔の例に倣って学士のままで、京兆戸曹参軍を兼任して親への孝養を尽くしたいと願い出た。詔によって申し出が許可された。翌年、の喪に服するため解任されたが、また入朝して左賛善大夫を拝命した。

この頃、凶漢が宰相武元衡を暗殺し、都長安市中が震えあがるという事件が起きた。白居易はまっ先に上疏して、直ちに盗賊を逮捕して国の恥を雪ぐべきことを要請、必ずやり遂げることを期さねばならないとした。ところが時の宰相は、白居易が東宮官にありながらこのような発言をするのは、越権行為だと悪んで、いい顔をしなかった。そこへ突然、「白居易のは井戸に落ちて死んだのに、「新井篇」の詩を作ったりする奴で、言語は軽薄、実践行動の裏付けが無く、取るべきものがありません。」と、言い出す者があり、中央から出されて、州刺史になるはずであった。中書舎人の王涯が「一部を治めさせるなどもっての外です」と言上し、更に降されて江州司馬に貶謫の身となった。失意の身となったが、よく自分の境遇に順応して、仏教の道に心を預けて、身体のことなど忘れた境地にあるかのようだった。しばらく経って忠州刺史に転任し、また朝廷に入って尚書司門員外郎となり、次いで主客郎中の職にあって知制誥を兼任した。

穆宗は狩猟が好きであったが、白居易は「続虞人箴」をつくって批判した。「わが唐朝が天命を受けてより、すでに十有二代の聖天子を経たが、失敗をしないように戦々兢々として恐れ慎みつつ、歴代にわたって政務に心力を尽くしてこられた。従って、鳥は深く茂った林に生息することができ、敵も豊かに広がった草原で安住することができたし、春の狩猟や冬の狩猟など四季の狩猟にも、これら鳥獣の捕獲は王道にかなって行われた。その結果、鳥・獣や虫・魚は、それぞれにその生命を全うし、君臣や朝野も、やはり安らかな日々を送ることができた。ところで、むかし玄祖老子は、はなはだ明確にその教訓を述べている。「狩猟に駆けずり回る遊楽は、人間の心を発狂させるものだ」と。何によってこれを実証できるか、と言えば、夏の夷羿と太康とは、全くこの狩猟の遊びを自戒しなかったので、最後には滅亡してしまった。高祖が狩猟をしていた最中に、蘇世長は意見を言上して、「このたびの狩猟は、まだ十旬(百日)にも満たないので、とても躍り上がるほど楽しいとは思えません」と言ったところ、天子は胸中で直感的に自分の心の迷いに気付いて、これを契機として狩猟を中止された。また時代は降って宋璟の時に至り、やはり玄宗の狩猟を諌めたところ、玄宗は温顔をもって彼の諫言を聴き入れ、この臣下の忠言にも決して動揺立腹することはなかったが、やがて宋璟が恐縮して小走りに退出した時には、捕まえていた小鷹は掌中で窒息死していた。ああ、獣を野原で追いかけたり、馬に乗って路上を駆け抜けたりすることは、たしかに気持ちのよいことではあるが、しかし車馬がひっくりかえる危難は常に用心しておいた方がよい。国家の安全と危殆に深遠な思慮を行うのは、いにしえの賢聖の思いなのである。」

まもなく中書舎人に転任した。田布が節度使を拝命し、白居易は天子の使者として宣諭に赴いたが、田布は絹五百匹を贈り物にしたので、天子は詔を下し受納させようとした。白居易は辞退して、「田布は父の仇討ちもせず国家の恥をまだ雪辱しておらぬ身です。他人はかれに物質的援助をしてやるべきなのに、かえって田布から財物を受け取るのは道義に反することでとてもできかねます。諭問の使者がひっきりなしに来ますのに、もし誰にもかような贈り物をしていれば、逆賊どもが絶滅しないうちに、田布の財産は底をついてしまいましょう。」と。詔が下り、贈り物辞退の件が許可された。

  この頃、河朔地方でまた叛乱が勃発し、諸道の軍隊を連合して討伐に出たが、ぐずぐずして一向に戦果があがらなかった。賊軍は弓高を奪い取り、食糧輸送路を断った。深州の包囲は、ますます急を告げる状態となり、白居易は意見を言上した。「兵が多ければ用いることは難しく、将が多ければ指揮が統一されません。魏博・沢潞・定・滄の四節度に詔して、それぞれの境界を守らせ、度支からの軍事補給を省くべきです。各道ごとに精兵三千を出して、李光顔に率いさせます。李光顔はもとからの鳳翔・徐・滑・河陽・陳・許の軍およそ四万を率い、賊に肉薄し、弓高県の兵糧の道を開いて、下博県の諸軍に合流させ、深州の包囲を解いて、牛元翼と合流させます。裴度に招討使を復職させ、使悉太原の全軍を統率させて西から敵の境界に迫り、すきを見て挟撃させます。呼び寄せ諭して、その心を動かせば、全部殺戮してしまう前に、自分から変え改めるでしょう。また李光顔は長く戦を経験して、以前から名声があり、裴度は人柄が忠実で勇気があります。一方面にあたらせれば、二人に匹敵する者はおりません」その当時、天子は放縦不法の行為が多く、執政者も無能な程度の低い者ばかりであった。賞罰も妥当性を欠き、賊臣を目の前に見ているだけで為す術も無い状態で、白居易は忠告を進言したけれども聴されなかった。そこで地方勤務を願い出て杭州刺史に遷った。始めて堤防を築き銭塘湖の水を止めて水量をあつめておき、その湖水を千頃の田の灌漑用に役立てた。また以前に李泌が掘った六個の井戸さらえをし、州民はその汲み水を飲料用して大事にした。しばらく経って太子左庶子に任命され、洛陽に分司し、また蘇州刺史を拝命したが、病気のため免官された。

  文宗が即位し、秘書監として召され、次いで刑部侍郎に遷って、晋陽県男に封ぜられた。太和年間(827-835)初頭、李徳裕李宗閔の二李の朋党争いが始まり、讒言の巧みな者たちがこの機会を逃さず、たがいにその権力の座を奪い合った。出処進退や毀誉褒貶などは短期間のうちに目まぐるしく移り変わった。楊虞卿は白居易と姻戚関係にあり、李宗閔と親交があったので、白居易は党派に縁ある者として排斥されるのを嫌って、病気と申し立て、一旦隠退し、洛陽に帰って来た。太子賓客に任命され、洛陽に分司し、一年経って河南尹を拝命、再び太子賓客となり洛陽に分司した。開成年間(836-840)初頭に同州刺史に起用されたが辞退、太子少傅となり、馮翊県侯に封を進められ、会昌年間(841-846)初頭に刑部尚書で致仕し、六年に歿す。享年七十五歳。尚僕右僕射を贈られる。宣宗は詩を贈って白居易の死に対し衰悼の意を表した。遺言により簡素な葬式を行い、朝廷に諡を賜わることを願い出なかった。

白居易は憲宗に知遇を得ていた時、何事にも直言しないことはなかった。政治の得失や弊害をほじくり出して除去しようとし、その意見の多くは聞き届けられた。けれども時の権力者の反感を買ってしまい、遂に排斥される目に遭った。蓄積した才能を実行に移せず、自分の気持ちを詩文や酒に発散させた。再び朝廷に返り咲きはしたが、又何れも幼い天子ばかりが続き傲慢な態度をとるので、以前にましてますます気に染まず、職務をうけても病気届けを出して官界を去り、終には政界での出世を遂げる意志を無くした。弟の白行簡や従祖弟の白敏中と仲が好く、洛陽の履道里に住居し、邸の中に沼をひき樹木を植え石造りの建物を建てた。香山に八節灘の開鑿事業をしたり、「酔吟先生」と自分で号し、その伝記を書いた。晩年は仏道への傾倒が特にひどく、何か月も精進生活をして、自ら、香山居士と名乗った。以前に、胡杲・吉皎・鄭拠・劉真・盧真・張渾・狄兼謨・盧貞らと集まって会合をしたが、どの人物も皆高齢者で、朝廷に出仕していない者ばかりで、世間の人は彼らの行跡を敬慕し、「九老の図」を画いた。

白居易は文章を作るのに精細切であったが、時を作るのが特にうまかった。最初の頃は、極度に政治の是非を糾し諌める詩を作った。多くなると、それより低いものでは、世俗の好尚に合う詩を作り、数千篇を数える。当時の知識階級の人たちは競争で白居易の詩を伝え、鶏林(新羅)の貿易商までが自分の国の大臣に白居易の詩を売り付けて、大体一篇につき一金の代価が支払われた。大臣の方も白居易の詩のひどい偽作は即座に見分けることができたという。当初は元稹と詩の応酬をし、そのため「元・白」と呼ばれ、元稹が歿して後、また劉禹錫とも名声を同じくし、「劉・白」と呼ばれた。生後七か月の頃、書物を開くことができ、乳母が「之」と「無(无)」の二字を指さして教えたが、以後は数百回試験されてもまちがえなかった。九歳で声律を暗記して、その秀れた詩文作製の才能は、天性そのもののようであった。従祖弟の白敏中が宰相となり、白居易のために諡をその筋に願い出て、諡を文という。後年、履道里の邸宅は、遂に寺院になり、洛陽や江州の人は白居易のために祠を建立した。

  賛に言う。白居易は元和・長慶年間(806-824)にあって、元稹と並んで有名であった。特に詩に秀れており、その文章の方はまだ称讃を受けるほどではなく、作品の数の多いこと数千篇にものぼり、唐以来今までにこれほど多作の詩人はいなかった。自分で叙べてこう言っている。「賞賛あるいは諷刺に関係する時は、諷諭と呼び、人間の感情を詠いあげた作品を閑適と呼び、事物に触発されたものを感傷と呼ぶ。その他を雑律詩とする。」と。また非難もして、「世間の人が愛唱するのは雑律時ばかりで、彼らが尊重するのは私が軽視するものである。諷諭詩になると、考え方が激烈で表現が質朴であり、閑適詩は情緒が淡白で措辞が婉曲である。質朴と婉曲が重なれば人々から好まれないのも当然であろう。」と、今、彼の詩を見るとなるほど彼の言う通りである。そして杜牧はこう言っている。「繊細艶美で強さなどなく、思想厳正で高潔な人などの作るものではない。世間に流行しているのは、子の親たる者たちが口伝えに教えこむからで、こんな淫らな言葉が人の身体に浸透してしまったら、なかなか取り除けないであろうに」と。

一般の人が思いちがいをしている点を救うためには、一言ふれないわけにはいかない。白居易が政界に登場したての頃を回想してみるに、直言をすることで大いに気力旺盛であり、天子の面前でも誰憚ることなく論争し、功名を立てようと願っていた。中途で排斥されたこともあったが、初志は晩年になっても全然衰えなかった。李宗閔派全盛の時代、その日の出の勢いの如きものがあったが、とうとう最後まで李宗閔に属して立身出世をもくろむこともなく、節義を全うして、高潔そのものであった。それに反して元稹は、中途で危い橋を渡って宰相の地位を手に入れはしたが、名声の方はがた落ちになってしまった。それに比べて何と白居易は賢明だったことか。


  白行簡は、字は知退で、進士に選ばれたが、盧坦に招かれ剣南東川府に赴いた。辞職すると白居易とともに忠州から入朝し、左拾遺を授けられた。累進して主客員外郎となり、韋詞に代わって判度郎中に任じられた。長慶年間(821-824)、振武営田使の賀抜志が歳末の営田を過重に報告したため、詔によって白行簡が調査し、実態がないことを暴いたため、賀抜志は恐れて自ら刺して自殺した。白行簡は賢く文辞に優れ、後学が慕い尊敬した。宝暦二年(826)に卒した。


  白敏中は、字は用晦で、若くして家族を失ったが、親類の諸兄より学んだ。長慶年間(821-824)初頭、進士に及第し、義成節度使の李聴の幕府に招かれ、会見されると、深謀遠慮さを認められた。右拾遺に移り、殿中侍御史に改められ、符澈によって邠寧副使となり、符澈が卒すると政務に優れたことによって世に知られるようになった。御史中丞の高元裕の推薦によって侍御史となり、再び左司員外郎に転任した。武宗は白居易の名声を聞いて、召して用いたいと思った。この時、白居易は足が病気の後遺症で動けなかった。宰相の李徳裕が白居易が衰えて任にたえないと言い、そこで白敏中の文詞がその兄に類して、かつ見識があることから推薦した。そこで即日知制誥とし、翰林に召し入れて学士とし、承旨に昇進した。

  宣宗が即位すると、兵部侍郎、同中書門下平章事(宰相)となり、中書侍郎に遷り、刑部尚書を兼任した。李徳裕を貶しめるのに、白敏中が非常にその力にあったから、論じる者は譏り憎んだ。李徳裕は著書で「恩恵あるものに怨恨で報いるとは予測できたであろうか」と言っているが、思うに白敏中を指しているのであろう。尚書右僕射・門下侍郎を歴任し、太原郡公に封じられた。左司員外郎から、およそ五年で十三回昇進してこの地位に到った。

  崔鉉が政務を輔弼するとようになると一人で専任したいと思うようになったが、白敏中が右席にいた。当時、党項(タングート)がしばしば辺境に侵入したから、崔鉉は大臣を鎮撫に用いるべきであると言い、天子はその言を受け入れ、そのため白敏中は司空・平章事兼邠寧節度・招撫・制置使を兼任した。それより以前、帝は万寿公主を愛し、士人に降嫁させようと思った。当時、鄭顥が進士に及第し、門閥であったから、白敏中は彼をその選にあてた。しかし盧氏と結婚していたのが発覚し、夫人を授けられようとしたから盧氏との結婚を取りやめ、心中にはこのことを根に持ったのだった。白敏中が外部に行くことになると、鄭顥の讒言をおそれ、自ら帝に訴えた。帝は、「朕はずっとこのことを知っていたぞ。もし鄭顥の言を用いたとするなら、どうしてお前を宰相に任じたりするだろうか」と言うと、左右を振り返って書が入った一つの函を取り出し、開いて見てみると、すべて鄭顥の上書であり、白敏中は安心した。任地に赴任することになると、帝は安福楼に御して餞とし、璽書を頒布して尉に説諭し、通天帯を賜った。護衛として神策兵を派遣し、幕府を開いて士を招き、その礼遇は裴度が淮西を討伐したときのようであった。寧州に行くと、諸将はすでに党項を破っており、白敏中は軍を説諭したが、皆、兵を辞めて業に戻りたいと願った。そこで南山より并河まで陣地をととのえ、一周千里となった。また蕭関をただして霊威路に通じ、使用したのは農耕具や武器であった。翌年、検校司徒となり、剣南西川節度使に遷り、騾軍(馬が少ないため騾馬を使った騎兵)を増やし、関や防壁の工事を完成させた。蜀を統治すること五年、功により兼太子太師を加えられ、荊南に遷った。

  懿宗が即位すると、召されて司徒・門下侍郎に任命され、平章事(宰相)に返り咲いた。数ヶ月して足の病のため謁見にたえず、固く宰相の位を辞職することを求めたが許されず、宦官を慰労の使者として派遣し、別殿で対応させて、拝謁する必要はないとした。右補闕の王譜が奏上して、「白敏中の病は四ヶ月にもなり、陛下が朝廷に出御されて、他の宰相と語るも三刻もせず、ぼんやりとして天下の事を論じることができましょうか。願わくばその願いを許され、何もしない高官を寵愛するという譏りはなくなるでしょう」と述べたが、帝は怒り、王譜を陽翟令に排斥した。給事中の鄭公輿が救おうと上奏したが、聴されなかった。王譜は侍中の王珪の遠裔である。しばらくもしないうちに白敏中に中書令を加えられた。裴度より宰相は勲功によってその地位についたが、白敏中は恩沢によって昇進したのである。

  咸通二年(861)、南蛮が辺境を騒がし、白敏中を召集して議させたが、左右に助けさせて昇殿することを許した。もとより固く免職を求めたから、そこで地方に出して鳳翔節度使に任命した。三度奏上して帰って墳墓を守ることを願ったから、東都留守に任じたが、あえて拝命せず、太傅で致仕を許された。詔書が到着する前に卒し、冊して太尉を贈られた。博士の曹鄴は病気でありながら地位を固辞しなかったこと、また諫臣を放逐し、威をたのんでほしいままにおこなったことを責め、諡して「醜」とした。

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最終更新:2023年07月29日 22:43
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