前奏(プレリュード)の終わり。
 万能の願望器にそぐわぬ者。
 願い叶ふるに価しない者を剪定する為の演奏。
 それが幕を下ろすのに前触れも告知も不要だった。
 何故なら異界の聖杯に自我はない。
 構造不明、誕生の経緯もまた不明。
 有と無の境目は極めて曖昧。
 箱庭の内側で繰り広げられる全ての争いを歓迎し。
 箱庭の外側に抜け出さんとする全ての試みに否を与える。
 これはそういうものが統べ、観測する聖杯戦争。
 ただ一人の優勝者を。
 願い叶ふるに能う願いの徒を選定し未来に導くためのプロセニアム・アーチ。
 残された徒の数は二十四人と二十四体。
 合計四十八の魂を迎えて前奏は締め括られ。
 いざ演奏は次の段階へと移る。
 聖杯、輪唱。
 万雷の拍手に代わり贈られるのは、未来への片道切符。

「……」
 ビルの屋上。
 寒空の下に一人立つ。
 白雪の降り頻る中で同色の特攻服はよく映えた。
 闇に堕ち淀んだ瞳は街の彼方を見据えていて。
 視界になど決して写っていないにも関わらず、少年は自分にとっての運命がこの地を踏んでいる事を確信していた。
 来て欲しくはなかった。
 会った所で、今更何をするでもない。
 もう子供だった時代は終わったのだ。
 後ろに乗せてツーリングを楽しむような人並みの幸福はもう己の人生からは排除し切った。

「…来たか――タケミっち」
 きっとこの手は。
 この"衝動"は、感傷では止まっちゃくれないだろう。
 一度会えば殺す事になる。
 その時アイツの前に立つのが己であろうと"冬の女王"であろうと。
 何一つ結末は変わらない。
 かつての日常の残滓が一つ無慈悲に靴底で揉み消されるだけと決まっている。 

 なぁ。
 何で来た?
 いい未来だったろう。
 充分に満たされていただろう。
 何故立つ。
 何故オマエはいつも、そうやって。
 …そこで思考を打ち切り。
 破竹の勢いで東京を支配し。
 前奏期間に計十三の主従を屠り去った一軍。
 現世に再臨した冬の女王が指揮する兵隊集団"関東卍會"の総長――"無敵のマイキー"は感傷に背を向けて、郷愁を振り切った。

    ◆ ◆ ◆

「いけ好かない気配がするわ」
 郊外、廃墟。
 弁護士日車寛見は決してホームレスではない。
 自分の契約している部屋もあるし職場もある。
 後者は現在無断欠勤を続けているが、とにかくこんな根無し草めいた生活をしなければならない程困窮してはいないのだ。
 にも関わらず彼は好んでこの廃墟に寄り付き自堕落にも昼間から酒を呑んでいた。
 何でも堕落の味というのは一度味わうとなかなか病み付きになるものである、との事だ。
「知り合いか」
「…んー。知り合いっつーか此処まで来れば腐れ縁かもね。
 まぁ文字通り腐ってる連中って言ってもそう間違いじゃないわ」
 スーパーで一番安いウイスキーを割りもせず瓶から口に流し込み。
 日車は相方であるサーヴァント、バーヴァン・シーの言葉に耳を傾けた。
 赤く残酷な妖精騎士。
 激情のままに命を奪い罪を背負った男が双肩で背負うには重すぎる…呪われた忌み子。
「まず私が領域を展開する」
「は?」
「黙って聞け」
 ごくり。酒を嚥下する。
 はぁ…と酒臭い息を吐く。
「私の術式は標的の罪に応じた罰を与える。そうしてサーヴァントとしての宝具やスキルを一切合切没収する。
 場合によっては私の手には一撃必殺のリーサルウェポンも握られる。その状態を前提として」
「……」
「私の独力でそれらを葬る事は可能か?」
「あー、多分無理。流石にそれ罷り通るほど糞雑魚じゃないわよ、お母様がそんな連中に妖精騎士の号を与える訳ないわ」
 心底軽蔑しているような口振りでありながら、其奴らの実力についてはある程度評価しているらしい。
 意外に思ったが"お母様"の一語が出た事で納得した。
 彼女にとってかの者、冬の女王の存在は余りに大きい。
 どれ程気に入らなくとも認め難くとも。
 母が認めるならば無碍にはできないという方程式が彼女の中で成立しているのだろう。
「もう一つ良いか」
「質問ばっかりかよ。弁護士ってのはインテリちゃん御用達の職業なんだろ? だったらちょっとは自分で考えたら?」
「居るのは妖精騎士だけか?」
 嘲笑を浮かべていたバーヴァン・シーの表情が凍った。
 空気が張り詰める。
 まだ早かったか。
 日車は酒の残りを嚥下すると彼女の答えを待たずに埃塗れのソファを立ち上がった。
「直に本戦も始まるだろう。それまでに君に言っておこうと思っていた事が一つある」
 妖精騎士の集結。
 これは果たして偶然か運命か。
 騎士が集っているならば。
 彼女達にその称号を与え型に嵌めた張本人たる…妖精國の女王もまたこの地に顕れているのではないか。
 その推測の答えがどちらであろうと日車としては実の所構わなかった。
「聖杯に個人的な用向きはない。私が聖杯に辿り着いた暁には、君が願望器を使って願いを叶えろ」
 回游から溢れたこの生命この魂。
 元の理想を追う気は既にない。
 であればせめて。
 私の勝利は――君に捧げよう。
 バーヴァン・シー。罪深き子。そうすることでしか生きられなかったオマエに。
 その魂が今度こそ静かな安息に微睡めるように。

    ◆ ◆ ◆

「残り二十四組だそうだ。勿論、僕らを含めてね」
「…、うっそ。あたしまだライダー君以外のサーヴァントにお目にかかった試しがないんだけど」
「東京は広いからねぇ。目立つ真似をしないで日常に溶け込んでいたら、そうそう見つかることはないんだよ」
 宮薙流々は自分が来る所まで来てしまったという事を卓袱台の向かい側に座ったスメラギの口から聞かされた。
 湯気を立てている淹れたての緑茶を年寄りじみた仕草で口元に運びながら薄い笑みを浮かべる姿は、やはり歳相応のそれには見えない。
「今後も、本当ににっちもさっちも行かない状況になるまでは今まで通り君の日常を過ごしていて構わない。
 生き残っていく上で必要な事は幾つかあるが、そっちは僕の受け持つべき領分だ。君は大船に乗ったつもりでいるといいよ」
 流々の目から見て。
 スメラギという少年は不思議な相手だった。
 見た目は流々よりも下に見えるのに物腰も薀蓄の量も流々の知る同年代の友人達とは違いすぎる。
 千年を生きてきたという話は偽りなく本当なのだと、自然に納得してしまう深い智慧が彼の一挙一動に顕れていた。
 ただ…それはそれとして。
「ライダー君さ。無茶しようとしてないよね」
「僕が?」
「うん。ライダー君って何ていうか…平気な顔して残業するタイプに見えるから」
「はは、まぁ否定はできないな。過重労働(オーバーワーク)は26世紀の日本でも変わらず美徳とされていたからね」
「…マジ?」
「大マジ。マリファナやコカインの覚醒作用だけを抽出して依存性を取り除いた真の意味での合法ドラッグが経費で買える時代だったよ」
 日本の未来に思わず天を仰ぎたくなる流々。
 そんな彼女にスメラギは「話が逸れたね」と咳払いを一つして。
「心配ないさ。僕は気合や根性で覚醒できるタイプじゃないからね、後先考えない無茶はしない」
「約束だかんね。元の世界には帰りたいけど、その為にライダー君が割を食うのは無し! 分かった?」
「了解了解。君の場合、本当に令呪を使ってでも止めて来そうだ」
 流々の剣幕に肩を竦めるスメラギ。
 …本当に優しい少女だと思う。
 不合理を自分の心に従って合理に変えられる、そんな得難い善性と純粋さを併せ持った娘だ。
 既に生命を終え肉体を失った英霊など単なる使い走りの駒も同然だと考えるのが聖杯戦争では普通だというのに。
 彼女は己とサーヴァントを完全に対等な存在として見ている。
 その上で、尊重しているのだ。
 平凡と切り捨てるのは簡単。
 されどいざ実際にそれを貫ける人間が…一体どれ程居るだろうか。

「どうしたんだい、空なんか見て。洗濯物なら先刻取り込んでおいたけど」
「あ、うんありがとう。ちょっとね」
 窓際から空をぼんやりと見つめる流々はスメラギの言葉に小さく苦笑した。
「マグちゃ――あー、いや。元の世界の友達なんだけどね。私が居ない間も元気でやってるかなぁって」
 ごめんね。
 必ず帰るから、もうちょっと待ってて。
 そう小さく呟く少女の口元は朗らかに笑っていた。

    ◆ ◆ ◆

「どうしたの。さっきから空なんて見つめて」
 自室の窓際で黄昏れる破壊神に朝比奈まふゆは問いかける。
 くるりと振り返る姿はコミカルとチャーミングを重ね合わせた冗談みたいなそれだ。
 とはいえ一ヶ月も一緒に暮らしていれば流石にもう慣れた。
 破壊神マグ=メヌエクは異界東京都でのまふゆの日常の空白に我が物顔で転がり込み、今日もこうして伸びやかに久方ぶりの現世を謳歌している。
「何という事はない。只…少し昔の事を思い出していただけだ」
「昔の事……か。それってあなたがまだ生きてた頃の話?」
「貴様には話していなかったが、我は正しい形での滅びを経て此処に居るわけではない。
 我は自らに封印を科して現世を去ったのだ。今も我の玉体は深海の底で微睡んでいる」
「それって結構なイレギュラーじゃないの?」
「破壊神を見縊るな。我程の神格であれば、英霊の座の方からご機嫌取りを図ってくるのだ」
 英霊の座が機嫌を取ってくる云々は置いておくとして。
 彼という神の本体は今も何処かで眠っているという事実は驚きだった。
 その眠りを一つの区切りとして英霊の座に限定登録された、という事だろうか。
 まふゆは脳内に押し込まれたこの非日常に纏わる知識を使ってそう考察した。
「ふーん。マグちゃんって、本当に凄い神様なんだ」
 普段なら当たり前だと早口で返す場面だったが。
 今は返事の代わりに視線をもう一度空の向こうへと戻した。
 しかし話を打ち切ったわけではなく、彼はまふゆに続ける。
「我と不遜にも同じ屋根の下で暮らしたニンゲンが…過去にも一人居た」
 破壊神マグ=メヌエクは紛れもなく破格の神霊である。
 いや…"だった"と言うべきか。
 聖騎士団の封印と彼自身の精神性の変化によって、彼は現在の姿にまで零落を余儀なくされてしまった。
「愚かな娘だった」
 その人間がマグ=メヌエクを変えた。
 彼女は只一つの用途でしか、彼の破壊の力に頼らなかった。
「神を敬う心も無い上に口を開けば不遜と不敬が雪崩のように溢れ出す。
 この我を吊るして晒し者にした事も数知れぬ。知性も教養も押しなべて矮小な…そんなニンゲンだった」
 その気になれば世界をすら支配できる力を侍らせていながら。
 命の灯火が尽き果てるその時まで、彼女は只一つの用途でしか破壊神の力に頼らなかった。
「そっか」
 愚かで不敬で、底抜けに明るく。
 最期の最期まで平凡に生き…人間として死ぬ事を笑って受け入れた娘。
「マグちゃんは、その子に救われたんだね」
 …物語は続く。
 破壊神は新たな人間の許で暮らし。
 そしてこの地では大きな戦いが巻き起こっている。
 目覚めの時はまだ遠い。

“…ありがとね……キミはあたしの…孤独を壊してくれた……”
 脳内にリフレインするいつかの言葉。
 ――破壊神は空の彼方を見据えて。
「そうか」
 そして呟いた。
「ニンゲンはあれを救いと呼ぶのか」

    ◆ ◆ ◆

「…はぁ。とは言ったものの、実際どうすればいいんでしょう」
 前回までのあらすじ。
 吉田優子――まぞく名シャドウミストレス優子、俗称シャミ子――は決めた。
 自分が召喚してしまったサーヴァント。
 すごく偉そうで実際偉い感じがプンプンしていて、シャミ子が1なら1000くらいの強さは持っていそうな金髪のあの人。
 シャミ子は彼女を止めたいとそう願った。
 彼女が誰かを悲しませてしまわないように。
 そして彼女が、これ以上一人で悲しみ続けなくてもいいように。
 その決意はとても立派。
 しかし現実問題。
 シャミ子にはあのセイバーを…恐ろしくも麗しきキスショットを止める手立てが全くと言っていい程何も思いつかなかった。
『令呪に訴えても無理だったというのが厳しいな。重ねがけすれば或いは、だが…』
「あの時は咄嗟だったから…思わずれーじゅを使ってしまったんですけど。
 でも今あらためて考えると、やっぱり無理やり従って貰うのは最後の手段にするべきだなって思うんですよね」
 一発目の令呪は不発に終わった。
 それほどまでにキスショットの魔としての格、英霊としての次元は高位であるという事。
 とはいえ令呪は重ねて用いる事でその効き目を高められる。
 もう一画、二画と追加で令呪を注いで命令すればさしものキスショットもシャミ子の命令を無碍にはできなかったかもしれない。
 が、シャミ子としてはそれは本当の本当にどうしようもない状況になるまでは避けたい手段だった。
 単純に"ズルい"気がするというのもそうだったが理由はもう一つ。
「よっぽど上手くやらないと、最悪まぞくの三枚おろしが完成するかもしれないっていうか…」
『あー…。三枚におろされる程度で済んだら幸運かもしれんなぁ』
「私もこの若さでなめろうになりたくはないので、そういう意味でももうちょっといろいろ考えてみたいなって」
 とはいえ具体的にどう彼女を止めるのか。
 彼女の心に、迫るのか。
 どうやって自分の手を取ってもらうのか。
 答えは依然一つとして浮かばないままで。
 そんな焦燥感に溢れた停滞の中へ――事の当人。
 セイバー、怪異の王。
 キスショット。キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードその人が凱旋する。
「シケておる。もう一週二週早く現界できていれば、苦労なく獲物にありつけたろうに」
 シャミ子にとっては幸いな事に。
 キスショットは昨日今日と二日間連続で空振り続けていた。
 シャミ子がこの世界に足を踏み入れたのは予選終了の間際だった為、既に悪目立ちする馬鹿は競争の中で淘汰され切っていたのだ。
「あ、あの…セイバーさんっ! 今日こそ私とお話を――」
「要らぬ。儂は寝る」
「…そう、ですか……。えと、おやすみなさい。セイバーさん……」
 不幸中の幸いにして一線が踏み越えられる事はまだなく。
 さりとて主従の距離は一向に縮まる気配を見せないまま。
 頑張れシャミ子。
 少しずつ距離を縮めて、泣いてる女の子を救えるまぞくになるんだ。
「…はあ…」

    ◆ ◆ ◆ 

「不味いな。味が薄い」
「病院食なんてそんなもんだ。てか横取りしといて文句言うなよ」
 病院食のプリンを食べながら苦い顔をする男の容姿は前時代的だった。
 大砲のように太く雄々しい、二十年以上前の流行りである事を除けば立派なリーゼントヘア。
 一人部屋の病室の窓枠に凭れながら男は最後の一口を食べ終えて、空になった容器を屑籠に放り込んだ。
 男の名は石流龍。先日の某大手テレビ局ビル崩落事件から奇跡の生還を果たしたアイドル…斑鳩ルカによって召喚されたサーヴァントであり。
 そして先日テレビ局を吹き飛ばし、千人以上を瓦礫と爆風で抹殺した大量殺人犯でもある。
「怪我の方はもう良いのか?」
「元々大した怪我でもないからな。奇跡の生還って触れ込みだから病院も慎重になってるんだと思う」
 ルカの怪我は最初に局を襲撃したサーヴァントの攻撃に巻き込まれた事による軽度な打撲と擦り傷だった。
 骨も内臓も無事だし、今はもう健康体と断言できる容態にまで回復している。
 なのにまだ退院の許可が降りないのは"奇跡の生還者"に万一が無いようにしたいという病院の臆病なのだろう。
 とはいえルカにとっては都合が良かった。
 入院中の身であれば、体に包帯を巻いていても怪しまれない。
 ごく自然に右手の令呪を隠す事ができるのだから。
「本戦が始まった。此処からが本当の聖杯戦争だ」
「…あぁ知ってる。二十四組だったよな、確か」
「此処から先は今まで程楽な戦いじゃねえ。オマエもいつでも動けるようにしとけ」
 斑鳩ルカは聖杯を手に入れるつもりで動いている。
 元の世界に帰れればそれでいいなんて、そんな消極的な姿勢ではない。
 明確に聖杯を求めているのだ。
 それに頼らなければ叶えられない願いが…取り戻せない日々があるから。
「…"デザート"は食べられた?」
「愚問だろ。今の俺の顔が満たされてるように見えるか?」
 プリンを平らげるなり吸い始めた煙草。
 窓の外に紫煙が消えていく。
「オマエには言ってなかったと思うけどな。今の俺は全力を出せない状態だ」
「は? それって…まずいんじゃないの、色々と」
「普通にぶっ放すだけなら出力も燃費も問題無ぇよ。ただ…今のオマエじゃ俺を御し切れないらしくてな。
 "領域"――まぁ俺の切り札みたいなもんと思っといてくれ。兎に角、それが使えないんだ」
 それなのに。
「一度たりとも苦労しなかったよ。甘くねぇ…つまらねぇ戦いばっかりだ」
 石流の渇きは未だ満たされないままだった。
 不本意なスペックの劣化を苦々しく思わせてくれさえしない無味乾燥とした蹂躙劇。
 これでは彼の望むデザートとは程遠い。
 彼が欲しがっているのはもっと甘くまろやかで、病み付きになる程魅力的な誰か。
 それとの対面だけを石流は切望し続けている。
「…そっか」
 ルカはデザートをこぼしてしまった人間で。
 石流はデザートにありつけなかった人間だ。
 戦いの中に愉悦を見出す精神性はルカには全く理解できないそれだったが…甘いものが欲しくて堪らない"飢え"の辛さは、彼女にも分かった。
「デザート、食えるといいな。オマエも」
「お互い様だろ」

    ◆ ◆ ◆ 

 死亡者1043人。
 生存者4人。
 遺体の捜索作業は未だ難航している模様。
 そんなニュースの内容を見て小さく息を吐き。
 緋田美琴は部屋のテレビの電源を落とした。
 そろそろ休憩を終えて、またレッスンを始めなければならない。
 日に日に異様さを増していくこの異界東京都の中でも彼女は平常通りの生活を続けていた。
「消して良かったのか? 随分と見入っていたようだが」
「あんまり引きずっても仕方ない事だから」
 そんな美琴に声を掛けた男が一人。
 その男は日本人離れした銀髪の美丈夫だった。
 サーヴァント、アーチャー。
 真名をウィリアム・ベルグシュライン
 過去の称号は聖教国の騎士団長。
 そして今は、緋田美琴のサーヴァントである。
「…前にお世話になった事のある局だったから少し見入っちゃってただけ。
 前って言っても、それは元の世界での話だけど」
「そうか」
 某テレビ局の崩落事件。
 辛うじてテロと目されはしているものの、千人以上の人間が死亡した未曾有の悲劇の真相は未だ明らかになっていなかった。
 ビルの中には美琴の知る人間も少なからず居たのだろう。
 それもほとんど全て瓦礫の山に埋もれて死んでしまった。
 アイドル活動一筋の日常を過ごし続ける美琴ではあったが、流石にこの事態を受けて何の感慨も示さない程酷薄ではない。
 そしてそんな彼女に、ベルグシュラインは。
「十中八九サーヴァントの仕業だろう。崩壊の勢いが早すぎる。爆薬を用いた破壊工作ではこうはならん」
「ま…そうだよね。私もそうだろうなって思ってた」
 無造作な真実を突き付けた。
 しかし美琴は動じた様子もなくむしろ納得する。
 無理もない。
 偶然発生するにしては、件の事件はあまりに派手過ぎた。
「そう言えば、奇跡の生還者として取り沙汰されているアイドルが居たな」
「…ああ。それ私の知り合い。昔同じユニットだったんだよね」
 とはいえ美琴にとっては普段の日常を曲げる程大きな事でもなかった。
 心は痛むし思う所もある。
 だが、だからと言って歩みを止めるわけには行かない。
 強迫観念にも似たストイックな姿勢を今日も彼女は変わらず貫き続ける。
「もう会う事も無いだろうし、亡くなった人も居るのに不謹慎かなとも思ったけど」
 いつかこの世界を出られるその時まで。
 いや…この世界を出て元の日常に帰ったとしても。
「助かって良かったなって思ったよ」

    ◆ ◆ ◆ 

「関東卍會…」
 その少年は浅黒い肌をしていた。
 不良と呼ぶにはひ弱な体。
 眼鏡を人差し指で小さく動かし、眉間には皺を寄せている。
 関東卍會…無敵と称される不良集団。
 刃向かった暴力団が草の根残さず壊滅しただとか、警察でさえまともに手出しできないとか。
 今も現在進行形で活動し続けている組織でありながら既に伝説として語られつつある一軍。
 稀咲鉄太は確信していた。
 件の暴走族(チーム)の総長(テッペン)を務める男が――自分のよく知る彼であることを。
「東卍とは名ばかりの別物だな…オレを切り捨てて何を目指してやがる、マイキー」
 重ねて――稀咲は既に確信していた。
 関東卍會の総長を務めるその男。
 佐野万次郎は、マスターであると。
 自分と同じくこの世界に迷い込み…聖杯の恩寵を目指して戦わされている身であると。
「ほう、そういう事だったか。貴様も悲運な事だな」
「あぁ…そうだ。オレは関東卍會のトップ……"無敵のマイキー"に切り捨てられた身だ」
 今でもつい先刻の事のように思い出せる。
 自分に闇を任せてくれた筈のマイキー。
 彼に切り捨てられた事、クビを突き付けられた事。
 …結果自分は東京卍會を追い出され。
 黒川イザナを頼って関東事変を演出し――末路を迎えた。
「復讐でもするか? ならば力を貸すが」
「そんなしょうもない事をするつもりは無ぇ。だが…マイキーが居ると分かった事は前進だ」
 嗤うキャスターに苛立ちを覚えないと言えば嘘になる。
 だが稀咲は激情を起こさぬように自らを戒めつつ聡明な脳を回転させた。
 キャスターは気に入らない。
 この女は自分の神経を事ある毎に逆撫でする。
 しかし馬鹿と鋏は使いようと言うように…この女もまた自分に与えられた手札の一枚なのだ。
 であれば有効に使わなくては勿体ない。
 死という決定的な挫折と敗北を乗り越えて、稀咲は次のステージへとその足を掛ける。
「オレとマイキーが組めば百パーセント勝てる。組まない手はない」
「わざわざ近付くのか? 自分を切り捨てた相手に? 私が言えた事ではないが、お前もなかなかの好き者だな」
「戯言を抜かすな。オマエの阿呆に付き合ってる程、オレは暇じゃねぇんだ」
 終わってなるものか…あんな所で。
 橘日向を手に入れるまで止まれなどしない。
 仮に、このやり方では橘日向は振り向かないとしても。
 それならそれで、その理由を解き明かさなければ死んでも死に切れない。 
 死ねないのならば生きてやろう。
 どんな手を使ってでも…何に頼ってでも。
 稀咲鉄太――運命を弄ぶ黒幕だった筈の少年。
 その"二度目の人生"が…今此処に幕を開けた。
「今行くぜ…マイキー」

    ◆ ◆ ◆ 

 前奏段階の終了を知った衛宮士郎の心は凪のように静かだった。
 感慨はなく、あるのは実感のみ。
 正義の味方。
 それを貫くのみに特化した生涯。
 為すべき事を為して此処まで来た。
 聖杯戦争。
 歪んだ宴、怨嗟にも似た願望が渦巻く坩堝。
 鉄の心を胸に歩むは正義の味方。
 そして己と今だけ同じ道を歩く光の剣。
 今更心とそれを炉心に動く手足が誤作動を起こす道理はなく。
 よって少年は最大効率で以って己の使命を果たし…見事なまでに過去をなぞった。
「支障はないか?」
「無論だ。足を止めている暇はあるまい」
 黄金の光は幾度となくこの東京に迸り。
 英雄の光輝は何体もの英霊を焼き尽くし蒸発させた。
 逃れるマスターは"正義の味方"が狩り尽くす。
 鉄の心を持つ破綻者達は物哀しい程に盤石だった。
 鏖殺の旅路に果てはなく。
 彼らの前に一切の闇は栄える余地を持たない。
「幾らか悪目立ちしてる奴が居る。当面の獲物はそいつらだ」
 少なくともこれまでのように入れ食いもかくやの勢いで標的が現れてくれはしないだろう。
 この先は情報収集と如何にして誘き出すかが重要になってくる筈だ。
 もしくはサーヴァント同士の戦闘、乱戦に割り込んで一網打尽にするか。
 いずれにせよ彼…"悪の敵"の言う通り、足を止めている暇はない。
「それに…気になる連中も居る」
「例の愚連隊か」
「あぁ。奴らは下手なサーヴァントより"できる"し、何より数の多さが異常過ぎる。
 十中八九裏で糸を引いてる奴が…連中の強さの源泉になっている存在が居る筈だ」
「力を持てばどんな只人も一朝一夕で脅威に変わる。早急に潰しておくに越したことはないな」

 その道の先に安息はなく。
 その道の先にきっと救済はない。
 彼ら自身が誰よりもそれを理解している。
 理解した上で――まだだ、と歩むのだ。
 救いようのない抹殺の光が冷たい鉄に纏わり付いて、東京の寒空をどろりと溶かす。
「行くぞ、マスター。俺達の役割を果たすために」
「言われるまでもない。"正義の味方"を果たしに行こう、"悪の敵"」

    ◆ ◆ ◆

「思った程数を用立てられなかったな」
 キャスターのサーヴァント、夏油傑は球状に丸めた呪霊を飲み込んでから独りごちた。
 前奏の段階で脱落したサーヴァントの使い魔がイレギュラー的に生き残り、この異界東京都に定着していたのだ。
 人々を襲う怪物として俄に犠牲者を増やし始めていた所を夏油が目を付けた。
 呪霊操術によって取り込むのは楽な作業だったが…予定であれば前奏の間にもう少し多くの"英霊"を確保しておきたかった。
“悪霊や魍魎の類に、邪神や人間を逸脱し過ぎた反英霊…前奏の内にそれらをあと十体は取り込みたかった。
 集められたのは今の雑魚を含めても六体程度……この程度では戦力としての期待はできないな”
 手駒の確保が滞ったのは夏油やそのマスターの不手際というよりも純粋な巡り合わせの悪さが大きい。
 その事は夏油自身よく分かっている。
 だがそれでも、脳裏をチラつく苛立ちの種は寒色の髪の少女だった。
 神妙な顔をして椅子に座り夏油の事を見ている彼女。
 最悪の呪詛師と罵られた男をあろうことか救いたい等と宣った非術師は、何を言うべきか少し悩むような素振りを見せてからおずおずと口を開いた。
「それ…どんな味がするの?」
「床にぶち撒けたゲロを拭いた雑巾を丸呑みする様な味かな。君も味わってみるかい?」
「あ…っ、その……ごめんなさい」
「本気にするなよ。大丈夫、善良で無力な一般市民の君が味わう機会はきっと一生無いさ」
 …つまらない事をしているなと自分でもそう思う。
 相手の些細な発言を悪意で解釈して皮肉を返す、実に下らない嗜虐だ。
 これでは餓鬼だ。
 私は何をしている。
 自己への呆れにも等しい嫌悪が蛆のように心を這い回る。
 この少女を前にしているとどうしても心が苛立ち、胸が焼け付いた。
 これなら只の凡庸で月並みな猿に召喚されていた方がずっと楽だった。
 聖杯戦争も、それに臨む己の心も。
「…あのねキャスター。あれからわたしもわたしで、色々考えてみたんだけど」
 一瞬の沈黙。
「わたしはやっぱり……あなたに誰かを殺して欲しくない」
「話にならないね。どうしてもと言うのなら令呪でも使って命令するといい。
 ただし忘れるな。君が本格的に私を邪魔するようになったなら、その時は私も君の排除を視野に入れる」
 ちらりと視線を動かしてPCのモニターを見やる。
 そこに表示された譜面は、心做しか以前見た時よりも進んでいるように見えた。
「――あの、さ」
 その視線に気付いたのか。
 奏はぎゅっと自分の手を握りながら、また夏油に向けて言葉を紡いだ。
「まだこの曲は完成してないんだけど…わたしの作った曲を――聴いてみて、くれないかな」
「意味がない」
 嘆息と共に少女の願いを切り捨てて夏油は踵を返した。
 やはりこの娘は話にならない。
 生きるか死ぬかの状況でこの期に及んで曲作りに勤しんでいるような阿呆だ。
 これとまともに関わっていては自分まで馬鹿になる。
 …取るに足らない猿の言葉に、自らが毒されてしまう可能性を無意識の内に認めてしまっている"変化"には気付くことなく。
 霊体化して消え去った夏油の背中に、宵崎奏は確かな決意と共に言葉を投げた。
「じゃあ…意味があるって、言わせてみせるよ」

    ◆ ◆ ◆

「――どうだった、ランサー」
「それはどういう意味での問いかな」
「演奏が、止んだ…聖杯戦争が、進む。この前奏を経て、お前は此度の戦局をどのように見た」
 男の名前はハルゲントと言った。
 静寂なるハルゲント
 あるいは羽毟りと呼ぶ者も居るだろうか。
 そんな彼もまた今は黄都を離れ、異界の首都で万能の願望器を巡る争いに列席している。
 前奏が止んだその日。
 ハルゲントはしもべたる最強の竜、暗い沼の彼女へと問いを投げた。
 それに対しメリュジーヌはまず。
「そう言われてもね。君の決めた指針が指針だから、僕は片手で数え切れる程しか出撃していないんだけど」
「…所感で構わん。お前の見立てを、聞かせろ」
「実際に已む無く矛を交えた連中に限って言うなら……取るに足らなかった。
 たとえ彼らが纏めて襲い掛かってきたとしても脅威ではなかったろうね。彼らの主人にはお気の毒としか言えないけれど」
 ただ、とメリュジーヌ。
 その眼は屋外…視界の果ての果てまでもを見据えるようで。
「相当な使い手が複数生き残っているのは間違いない」
「…やはり、か」
「前奏とはよく言ったものだと思うよ。聖杯戦争という演奏の本番はこれから始まるというわけだ。
 それに……懐かしい気配もある。僕の素性を知っている英霊も、もしかしたら居るかもしれないな」
 そんなメリュジーヌの所感にハルゲントが覚えたのは納得だった。
 ハルゲントに強者の気配を感じ取り分析するような能力や経験はない。
 少なくともこの異界東京都に招かれた殆どのサーヴァントに対しては、彼が炯眼めいたものを発揮する事は無いだろう。
 にも関わらず彼がそう考えたのは前奏段階を挟むという聖杯戦争の形式に対する考察の賜物。
 前奏等と言えば聞こえはいいが要するにこれは"篩"なのだ。
 このシステムが正常に機能すれば必然、演奏が進む頃には頭抜けた強者と一部の幸運な者のみが残される事になる。
 メリュジーヌが否定してさえくれたなら…その嫌な推測も只の杞憂止まりで終わってくれたのだが。
「熟慮も度が過ぎれば悪徳だよ、マスター」
 ままならぬものだ。
 そう容易く聖杯の恩寵には、やはり与れぬか。
 厳しく顔を歪めて現実を噛み締めるハルゲントにメリュジーヌは優しく囁いた。
「そういうのは泥舟に乗った船乗りのやる事だ。君は違う。君が乗っているのは間違いなく大船さ――僕が保証する」
「…それと、これとはだな――」
「別じゃないよ。僕には力がある。そして今はやる気もある。
 これでもまだ不足だと嘆くのなら、それは欲張り過ぎというものさ」
 こうも力強く断言されてしまうとハルゲントとしても二の句が継げない。
 しかし事実として。
 ハルゲントが侍らせたこの竜は最強を名乗るに相応しい性能を備えた存在であり。
 正面での戦闘に限定するならば、余程の例外でもない限りは遅れを取りはしないだろう。

 …正面での戦闘であり。
 なおかつ、余程の例外でもない。
 その二つの要素が満たされている限りは。
「君は幸運な男だよ、ハルゲント」

    ◆ ◆ ◆

「駄目ね」
 高層ビルの最上階。
 眼下に広がる景色を一望できる其処が女の住処だった。
 彼女は別に努力をして此処まで成り上がったわけではない。
 戦って勝ち取ったわけでもない。
 ただ、此処だと目を付けたビルの城主の前に立ち。
 そして自分の持った力を行使し"平和的に"譲り受けたというだけの事。
 そこに争いはおろか一滴の流血すら存在してはいなかった。
「人間一人思い通りの姿に変えられないなんて。
 妖精國に居た頃に比べてあまりにも力が弱まってる」
「…そうなの? おれには、よく分からないけど……」
「"風の報せ"も生きていた頃程の広さで使うのは無理ね。
 あぁ――恥ずかしいわ。こんな姿、あの子達にはとても見せられない」
 妖精國はソールズベリーの城主"だった"女。
 名をオーロラというその妖精は今見る影もなく弱体化していた。
 とは言っても人間程度の精神ならば容易く溶かし、キャスタークラスのそれに匹敵する強度の結界を構築する事も可能。
 しかしながら、それでもかつての彼女に比べれば力もそして存在の強度も遥かに小さい。
「…"あの子達"っていうのは?」
「あっちでは側近も居たし…何があっても私を一番に守ってくれる、素敵な騎士も居たの」
「…へえ……。……じゃああんたは、偉い人だったんだ」
「ふふ。そう言ってもらえると嬉しいわ」
 だがそれはある意味では幸運だったろう。
 風の氏族の氏族長だった頃の強さであれば十中八九その存在はすぐに感知されていた。
 皮肉にもオーロラは弱くなったからこそ今日まで隠れ潜み、何の因果かこの異界東京都に集った妖精國の住人達の目に付かずに居られたのだ。
 …当然。"暗い沼"の彼女も、かつて全てを捧げた妖精(おんな)の存在にはまだ気付いていない。
 されど――
「感じるの」
「…何を?」
「今言ったでしょ? 私には素敵な騎士が居たって」
 オーロラの方は違う。
 彼女は目敏く感知した。
 あの美しき竜の存在を。
 かつて見送った、あの美しいものを。
「…じゃあ、あんたは。……そいつに、会いたいのかな」
「……」

 ――消えろ、消えろ。
 高く、高く。
 どこまでも……高く。
 祈りと共に見送ったあの日の面影を脳裏に浮かべて。
 どうしようもなく愚かな妖精はらしくない沈黙の末に口を開いた。
「…私は――」

    ◆ ◆ ◆

 少年を司るものは狂気だった。
 高校生そこらの餓鬼が持っていていいものではない稀有な資質。
 人間を殺傷する事にすら微塵の躊躇を覚えない異常者にして破綻者。
 裂けたような傷のある口元を笑みの形に歪めて、吊り上げて。
「時は来た。手土産はもう十分だろう」
 三途春千夜はこの世界を訪れてから既に十人以上の人間を殺害していた。
 無軌道な殺人ではない。
 交戦したサーヴァントのマスターと、そしてサーヴァントを失い彷徨っているマスター。
 それを悉く殺した。
 英霊と戦うのが自分の従える妖精騎士の仕事であるならば、力の無い要石を潰すのは自分の役割だとばかりに。
「居ると思ってたぜ。そして…やると思ってたよ」
 眼光を尖らせ爛々と輝かせる彼は既に知っていた。
 この異界東京都で跳梁跋扈する"最強"の暴走族。
 関東卍會――不良から半グレ、果てにはヤクザ者すら手出しできない破竹の勢力。
 その名を冠する組織を春千夜は知っていた。
 知っていた、どころではない。
 そこに身を置いていたのだから覚えがない筈がない。
 そして故にこそ――元の世界でのそれ以上の勢いを見せるチームの王が誰であるかは考えるまでもなく分かった。
 確信だった。
「悪いなガウェイン。王が居ると分かった以上は、オレの聖杯戦争は色が変わる」
「…構わん。元より私はそうまで切実に聖杯を欲しているわけではないからな」
「あぁ……そうだったな。けどよ、此処まで頑張って戦ってくれたんだ。オマエにも良い思いはさせてやるから安心しろよ」
 今の三途春千夜にとっての王。
 その存在が分かった以上は是非も無い。
 元より私欲での願いなど持たない身なのだ。
 この世界に王が存在するならば…後は全てを懸けて彼に尽くすのみだった。
「オマエ、言ってたよな。知ってる気配が幾つかあるとか何とか」
「それがどうした?」
「殺しちまえよ。此処で全員」
 嗤う春千夜と眉根を寄せる妖精騎士……バーゲスト
「それでオマエは解き放たれる」
「的外れだ。そんな事で…私は貴様の思い通りになどなりはしない」
「律儀だな。首輪はもう外れてるってのによ」
 バーゲストは過去の再現を望まない。
 それを拒み続けている。
 しかし春千夜は彼女が最も忌む姿をこそ望んでいる。
 黒い衝動に身を委ねて視界の全てを喰らい尽くす…おぞましい厄災を。
「オレはオマエを肯定するよバーゲスト。オマエの闇が…オレにはとても美しく見える」

    ◆ ◆ ◆

 使徒洗礼を受けたイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの戦いは、しかしルビーの危惧に反して実に静やかなものだった。
 その理由はごく…本当にごく明快なものである。
 イリヤが矢面に立つまでもなく、敵との戦いを全てセイバー…グレンファルトが片付けてしまったからだ。
 それは聖杯戦争としては実に当たり前の光景だったが。
 カレイドの魔法少女としていつも自分自身が前線で戦ってきたイリヤである。
 何処となくしっくり来ないものを感じながら、彼女はこの前奏段階を過ごしてきた。
「拍子抜けか?」
「あ…いや、そんなわけではないんですけど……。もうちょっと大変な思いをする事になるんじゃないかなって思ってたのはあるかも……です」
『今までがとんだブラック労働でしたからねー。イリヤさん的にはもっと馬車馬のようにこき使われるのを想像してたんでしょう』
「ははは。話には聞いていたが…本当に過酷な旅路を歩んできたようだな」
 爽やかに笑う彼は本当に強い男だった。
 誰であれ蹴散らした。
 少なくともイリヤが加勢しなければならないような事態は一度たりとて起きなかった。
 グレンファルトの命令通りイリヤは戦いの場から離れていて。
 次に彼女の前に彼が現れた時には、一度の例外もなく全てが終わっていた。
「時にだマスター。俺達の戦いが新たなステージに進んだ事は理解しているか」
「…はい。なんで分かったかは上手く言えないんですけど……なんかこう…とにかく、分かってますっ」
「其処の所は深く考えるだけ無駄だろう。監督も裁定者も存在しない無法の聖杯戦争だ、
 理屈は神のみぞ知るならぬ――聖杯のみぞ知ると言った所なのだろうさ」
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは聖杯を求めている。 
 だが彼女は人を殺す事を善しとせず。
 そして聖杯の獲得以外の帰還手段があるのならそれを優先する柔軟性も有していた。
 傍から見ればとんだ矛盾。
 しかしその話は既に済んだ事だ。
 イリヤが無理難題を貫こうとしている事はグレンファルトも、彼女に付き従う魔術礼装のルビーもとっくに承知している。
「此処から先も…俺はサーヴァントとしての本分を可能な限り果たす。君が戦闘の舞台に上らずに済むように努力する」
「……」
「だがこの先の戦闘は間違いなく過熱する。そうなれば俺も…それを貫き通せるとは限らない。
 君には負担を掛ける事になってしまうが、今の内にその覚悟を――」
「――大丈夫ですよ、そんなの。セイバーさんの言ってた通り、わたし…とってもしんどい戦いをいつもやってたんですから!」
 …イリヤは。
 とても善良な少女だった。
 だからこそ彼女はグレンファルトを疑うどころか。
 今まで自分を守ってくれた彼を助けたいと健気にそう考えてすらいた。
「そうか」
 神祖(カミ)は笑う。
 爽やかそのものの笑みに嘘はなく。
 嘘が無いからこそ、恐ろしい。
 その事をイリヤは未だ知らない。
 知る由もない。
 千年を生きて人を超え、神と呼ばれるようにまでなった男がどのような思考回路を有しているのかなど。
 知る由もないから…彼女の運命はこうしている今も現在進行形であらぬ方向へふらふらと歩み出していく。
「イリヤ。俺は…君がマスターで良かったよ」

    ◆ ◆ ◆

 夢を見るのはやめた。
 それからの時間は早かった。
 気付いた時には、室田つばめは。
 魔法少女『トップスピード』は前奏の終了を迎えていた。
「…これでいいんだ」
 小さく呟く声は麻酔ではない。
 麻酔が必要な程軟弱ならば彼女は此処まで生き残っては来られなかっただろう。
 そう、これでいい。
 魔法少女という遊びとわが子を幸せにするという義務。
 その二つを天秤に掛けて前者を取るような人間が居たとしたら…つばめはきっと悪感情を抱くに違いない。
 子供を作るべきではないと。
 母親になるべきではないと……そう思った事だろう。
 そしてつばめは取捨選択を間違わなかった。
 人助けを生業にする魔法少女『トップスピード』はあの瞬間に死んだ。
 室田つばめが選んだのは母親としての自分。
 誰かを助けるのではなく――自分の大切なものをこそ救う存在。
 そういう存在であることを、つばめは選んだ。
「? おかあさん、いま何か言った?」
「…いいや。何でもないよ、アサシン」
 なんでもない。少なくとも。
 子どもに聞かせるような話ではない。
 自分に今の道を"選ばせて"くれた彼女に。
 つばめは、人助けをしていた時のそれと変わらない朗らかな笑顔で笑った。
「もうすぐだね。おかあさん」
「ああ。もうすぐだ」
 声を弾ませて言うジャックに頷き返す。
 嘘は言っていない。
 気休めなどでは断じてない。
 暗黒の霧都が背負ったツケ。
 人類の負の側面の代表と言っても過言ではない彼女につばめは心から感謝していたし、彼女と共に戦い抜いてみせるとそう誓っていた。
「…なあ、アサシン」
「なあに?」
「聖杯戦争が本格的に始まった今だからこそさ。お前に言っておきたい事があるんだ」
 室田つばめは既に決めている。
 誰かを助ける魔法少女という夢と決別した彼女は揺るがない。
 この先何があろうとも、このアサシンと一緒に乗り越えていこうと彼女はそう決めた。
 自分一人ではきっとこの道を選ぶ事はできなかったろう。
 そう痛い程分かっているからこそつばめはジャックの目を見て、言った。
「――ありがとな、俺の所に来てくれて」

    ◆ ◆ ◆

「ライダー。お前、聖杯戦争に参加するのはこれが初めてか?」
 局面が変わるその日の夜。
 今後の戦況激化に臆するでもなく、七海龍水は自分のサーヴァントにそう質問した。
「生憎だけど君の欲しがるような話はできないよ。前の現界の記憶は基本的に英霊の座まで持ち越されないからね」
「そうか。これから始まる本番の食前酒代わりに話を聞きたい所だったが…惜しいな」
「まぁ一度や二度はあっても不思議ではないね。生憎それを、僕は覚えていないけど」
 七海財閥が所有する高級クルーザーの上でワインを呷りながら龍水は彼方の都市を見据える。
 きらびやかな宝石のように輝く百万都市のなんと美しい事だろう。
 そして遠くない未来、あの街並みに万能の願望器が降臨する。
 まさにこの戦争は現在進行形で綴られていく神話に等しかった。
「まずはマンパワーだ。志を同じくする人間…いや。この際呉越同舟でも一向に構わん。
 聖杯戦争を解明するに当たって、俺と同じ"サーヴァントを従える人間"の協力は必要不可欠だ」
「違いないね。マスターの財力と個人能力は大したものだと僕も思うけど、君のやろうとしている事を考えればそれでようやくスタートラインだ」
「ハッハー! 明日からは忙しくなるぞライダー。お前も知っての通り、俺は"欲しい"を一切妥協しない男だからな!」
 聖杯戦争の解明を以って未知の儀式を既知に貶める。
 聖遺物への冒涜にも等しい貪欲な探究心は、彼が科学王国の主に勝るとも劣らない傑物である事を如実に示していた。
 とんでもないマスターに呼ばれたものだとライダー…"キャプテン"ネモは小さく息を吐く。
 とはいえ自分は彼を船に乗せ続け、その欲望に付き合い続ける事になるのだろうと既に半ば確信してもいる。
 龍水はとても貪欲で無茶苦茶な男だったが――彼の眼に輝く好奇心の中に、ネモの嫌う非道の色は全く見られなかったから。
 そんなものを置いておく暇など無いとばかりに龍水の眼は無限の興味と無限の欲で埋め尽くされていた。
「…ところで、それは直ったのかい?」
「いや」
 龍水が片手で弄ぶ石化装置。
 メデューサあるいはDr.STONE。
 人類の仇にして新たなる希望。
「此処に連れて来られる際に破損したか、それとも異界と言うだけあって俺の居た世界とは微妙に環境が異なるのか…。
 電池切れ以前に内側の損壊が激しすぎる。俺の知る限りの手を尽くしはしたが、依然起動にまでは漕ぎ着けられないままだ」
 よしんばこの先修理が上手く行き、起動させる事ができたとしてもこの様子では使えて一度が限度だろう。
 回路の破損か完全な自壊か。
 広域への石化光線投射は暴発や空撃ちのリスクを鑑みるととてもではないが不可能だし、そもそも直せるかどうかも定かではない。
 文明世界を滅ぼし石の世界(ストーンワールド)を救った光を頼る事は現状できそうになかった。
「それでも笑うんだね、君は」
「当たり前だ。俺の心はこの世界に来てからずっと、一瞬たりとも休まず躍り続けている」
 唆るぞ、これは。
 あの日行った言葉は揺るがないままだ。
 ああ何故この世界にお前は居ないのだと。
 石の世界の救世主の不運を嘆かずにはいられない。
 此処には未知が溢れている。
 金銀財宝の山がくすんだガラス細工の群れに思える程のものが、此処には満ちている。
「全てを解き明かし、全てを手に入れ、全てを持ち帰る。それが――この俺の決定だ!」

    ◆ ◆ ◆

 激痛だけが満たす世界に青年は一人佇んでいた。
 見上げる星空は摩天楼の灯りにかき消されてお世辞にも綺麗ではなかったが。
 肌を刺す冬の寒さも仄かに降り頻る粉雪も、彼にとっては麻酔の代役だった。
 サーヴァントを従えているだけで無遠慮に痛覚神経が掻き鳴らされ。
 一つ戦闘が起きる度に発狂しそうな程の苦悶を抱える羽目になる哀れな死に損ない。
 名をヴィレム・クメシュという彼は当然のように今日の日を迎えている。
「ありがとな、ライダー。あんたのおかげで此処まで来れた」
 マスターとしてのヴィレムは不良債権の事故物件だ。
 癒える事のない傷に蝕まれた死に体。
 彼の許に召喚されたのがもしも並のサーヴァントならばまず間違いなくヴィレムは今此処に居ない。
 にも関わらず彼は勝ち残った。
 戦いを制し、死線を乗り越えて。
 次の演奏が始まるまでの微かな静寂の夜を生きられている。
「真の地獄はこの先だ」
 礼を述べたヴィレムに対して言葉を返したライダー。
 鋼の香りを醸した黒き騎士は、地の底で回転する錆びた歯車を思わす声をしていた。
 誰よりも地獄を知り。
 誰よりも戦場を知る英雄。
 死に損ないの宿業を抱いた、終焉の担い手(デウス・エクス・マキナ)。
「礼を言う暇があるなら備えておけ。次の戦場、次の戦争に」
「…はは。ブレないよなぁあんたは」
 血の通わない男。
 その冷たさがヴィレムには心地良く。
 そして、ありがたかった。
「あんたさ…俺に言ったよな。俺の死に意味をくれるって」
「それがどうした」
「俺じゃあんたは殺せない。この死に体で英雄様を討ち取るなんざ寝言が過ぎる。
 だからよ、せめて――」
 だからこそヴィレムが彼に恩を返す手段は一つだった。
 何故なら彼はたった一つの事を除いて何も願わない。
 未来永劫。その魂が完全に消滅して世界を去るまで。
 ヴィレムはそれを知っていた。
「あんたがちゃんと、今度こそちゃんと死ねるように」
 ――彼の名はマキナ。
 黒円卓の黒騎士(ニグレド)。
 唯一無二の終焉を望み永久に戦う運命の戦奴。
「俺も…あんたと一緒に戦うよ」
 死という概念を寄る辺に引き合った二つの魂。
 救われない、救われるべくもない魂。
 壊れ切った死に損ないの言葉にマキナは短く応えた。
「……抜かせ」

    ◆ ◆ ◆

 王の聖杯戦争は実に順当な形で節目を迎えた。
 常勝無敗は言うに及ばず、それどころか傷の一つも負ってはいない。
 にも関わらず彼はそれを誇るでもなく漏らすのだ。
「不自由なものだな…余に尽くしてくれる臣下が居ないというのは」
 王が居るのであれば、必然その周りには臣下が集う。
 彼の命令一つでどんな死地にでも飛び込み。
 寄越せと言われれば喜んで命をも捧げる。
 そんな臣下がかつては望まずとも周りに居てくれた。
 今になって分かる彼らのありがたみ。
 丸腰で玉座に座り生きる事の、何と不自由な事か。
「…優秀な奴らだったんだな」
「無論だ。プフ、ユピー、ピトー……いずれも余には過ぎた者達であった。
 奴らの内一人でも此処に侍ってくれていたならば、此の戦争は今より遥かに容易に進んでいただろう」
 孤独の王はとある少年によってこの異界東京都に召喚された。
 少年の名は千翼。
 生きる事、ただそれだけを願う呪われた生命。
 生存そのものが人類にとっての害となる彼の願いに王は同調し。
 彼にとってこの世の何事よりも尊い眠りを中断してまで、彼の戦争に力を貸している。
 王の苛烈さを知る者であったならば目を疑うような状況がかれこれ三週間は続いていた。
「戦力が足りないって言うなら、俺だって協力する。必要な時に命令してくれれば――」
「ならん。敵の目前に心臓を晒す馬鹿が何処に居る」
「……ッ」
「今の貴様は余の心臓だ。余を一時とはいえ従える栄誉に与っていながら、貴様はそれを無碍にするのか?」
 千翼は無力な存在ではない。
 彼には戦う力がある。
 だが王は彼が戦う事を善しとしなかった。
 それが…千翼にとっては歯痒く複雑だった。
「それよりもだ」
 王が彼を射抜くように見据える。
「そろそろ貴様は人を喰え。願いを叶えたいのなら、下らぬ美意識は捨てる事だ」
 人を喰わねば生きられない生き物。
 此処までの時間は、王に直接生命力を流し込んで貰う事でどうにか一線を越えずに済んでいる。
 だがそれももう限界だ。
 その事を千翼はよく知っていたし…王もまた、それを見抜いていた。
「恥じるな。面を上げて堂々と貪り喰え」
「でも…俺は、ッ」
「喰らう事は全ての生物に平等に与えられた権利だ。
 余や貴様にとってはその対象が偶々人間だったというだけの事」
 あまりに鋭く研ぎ澄まされた"正論"を胸に突き刺されながら。
 千翼はぐっと拳を握り締め――誤魔化しきれない空腹が音を立てるのを必死に堪えた。
「――余が王として肯定してやろう。胸を張って生きよ、千翼。貴様にはその権利がある」

    ◆ ◆ ◆

「な~んか、思ってたより普通だったわ」
 それが前奏を勝ち抜いたデビルハンターの少年、デンジの感想だった。
 彼に言わせれば此処までの戦いは普段の日常と何ら変わらないものだったから。
 最初この世界に呼ばれた時には、さぞかし息吐く暇もない地獄のような日常が繰り広げられるのだろうと思っていたのに。
 蓋を開けてみれば相方のセイバーと一緒に自由気ままなデビルハンターもといサーヴァントハンターライフ。
「まぁな。此処までの奴らは、そう大した奴らじゃなかったな」
「お前もそう思う? 正直俺が元の世界で殺してた悪魔共の方が手強かったかもしんねーわ」
「調子に乗んなよ。俺が助け船出さなかったらヤバかった所も結構あっただろ」
「え~そうだったかあ? 覚えてねえからそれナシで頼むわ」
「少なめの脳ミソで羨ましいよ。生きやすそうだ」
 チェンソーマンの名は既に東京中に知れ渡っている。
 悪魔を殺して人を助けるヒーロー。
 綺麗な女性は特に優先的に助けてくれるチェンソー頭の怪人。
 恐ろしく強い相棒を連れた正体不明の何者か。
 聖杯戦争の定石を知る者が聞いたなら正気を疑わずには居られないだろう目立ちぶり。
 しかし当人達は何に憚るでもなく、結局前奏の期間中を派手でよく目立つ人助けに費やした。
「てかお前何飲んでんだよ」
「あ? ビールだよ。お前も飲むか?」
「あ~…いいや。パワーと二人で暮らしてた頃に飲んだ事あるけど、何が美味いかさっぱり分かんなかったし」
「ガキ」
「ジジイよりマシだろ、幽霊野郎」
 1DKの安いアパートで流れる時間は何処かのんびりとしている。
 チェンソーマンことデンジ。
 そして彼のサーヴァント、セイバー。
 もとい真名をネロ。
 一人と一体の過ごす狭い部屋は牧歌的で、とてもではないが万能の願望器を争奪する戦争の一幕とは思えなかった。
「この先もずっとこうだといいんだけどな」
「そう上手くは行かねえだろうな。手出しはしなかったが、何度かヤバい気配を感じた事もあった。
 これからは前奏を勝ち抜いたよりすぐりの魑魅魍魎と殴り合う時間さ」
「うえ~……」
 民衆のヒーロー、チェンソーマン。
 しかし彼は聖杯を望んでいる。
 そのために戦っている。
 そこに伴う意味をどの程度理解しているかは彼のみぞ知る所であるが――閑話休題。
「ま、焦っても仕方ない。俺らに一番適した姿勢はこれまで通りだ」
「…だよな~! あんまりあれこれ考えたって仕方ねぇもんな!」
 チェンソーマンは強い。
 ネロも同じく、強い。
 だからこそあれだけ目立っておきながら此処まで生き残れた。
 これからも彼らは変わらない。
 少なくとも今の所は、変わる気などなかった。
「やべぇ奴らはやべぇ奴らで潰し合っててくれよな~! そしたら聖杯は俺のモンだぜ~~!」

    ◆ ◆ ◆

 生き残った。
 生き残れた。
 杜野凛世はその得難い感覚を抱き留めながら家路に着いていた。
 本当なら、仕事も学業も全て捨て去って何処かに籠もっているのが一番良いのだろう。
 所詮偽りの世界なのだから聖杯戦争が終わった後の事に配慮する必要はないのだし。
 そうして自閉しながら時を過ごすのが最適解であると凛世は理解していた。
 理解していたが…それでも彼女は、自分自身を偽れなかった。
 283プロダクションに所属するアイドル。
 放課後クライマックスガールズの一員。
 たとえこの世界が仮初めと偽りの産物だったとしても。
 自分が知るのと全く同じ顔をして繰り広げられる日常を蔑ろにする事はどうしてもできなかったのだ。
「申し訳ございません……市さま。ご迷惑を、おかけしました」
 彼女の呼びかけに応じるように剣士が像を結ぶ。
 その男は一見すれば僧にも見えた。
 坊主頭に薄汚い衣服。
 突いた杖、永久に閉ざされた瞼。
 旅の僧侶と言い張れば誰もが納得するだろう趣を湛えたその男こそが凛世のサーヴァント。
 彼女を今日の日まで守り通してきた盲目の"剣士(セイバー)"。
「あっしに頭を下げる必要なんざありませんよ」
 彼は人斬りだ。
 彼は、侠客(やくざ)だ。
 死んでも尚人を斬る運命から解放されなかった咎人だ。
 だが彼は凛世に召喚されて過ごす現世での日々を悪いものとは思っていなかった。
「凛世さんを守るのがあっしの役目でさぁ。命も未来も無ぇ人形が、お嬢さん一人守れないようじゃ恥でしょう」
「…市さまは……本当に、お優しい方なのですね」
「優しい? はは――馬鹿言っちゃいけません。あっしが本当に優しい人間だったなら、こうして凛世さんを守る役目を仰せつかってはいませんよ」
 二度目の生など望まない。
 誰かの屍を踏み付けにしてまで叶えたい願いなど無い。
 そんな彼には…"座頭市"には。
 誰かを守って未来へ送り届けるくらいが丁度良かった。
 仮に聖杯を求むマスターに召喚されていたとしたならば、彼は本領を発揮できては居なかっただろう。
「それでも…凛世は、市さまが好きですよ」
「はは。そうですかい、そうですかい。その言葉があっしにとっちゃ、値千金の報酬だ」
 凛世の心は変わらない。
 聖杯を求めず、奇跡に縋らず。
 ただ生きていく事をこそ望んでいる。
 外気はひどく寒くて、吐いた白い息が夜空に溶けて消えていった。
「これからも…凛世を、どうかよろしくお願いします……市さま」

    ◆ ◆ ◆

 昼下がりのような暖かさが降り注いでいた。
 少女と男はその中を二人並んで歩いている。
 おとぎ話の中から抜け出してきたような少女だった。 
 銀髪に白い肌、アンティークドールを思わせる華奢な手足と衣装。
 英雄譚の中から抜け出してきたような男だった。
 顔をフルフェイスで覆い隠し、無骨な鎧で身を覆っている。
 不釣り合いも過ぎればお似合いに変わる。
 ある種の物語性、エモーショナルを感じさせる二人の歩みは午後の散歩のように穏やかであった。
「なんだか遠くに来た気がするの」
「そうだな。しかし、まだまだ先は長いぞ」
 少女の名前はありすという。
 ありすが呟いた言葉に騎士は冷静にこう返した。
 更にそれだけでなく一言付け足す。
「それとも、もう疲れてしまったかね? アリス」
 するとありすはむっと頬を膨らませる。
 とても愛らしく、誰も彼もの心を和ませるだろう仕草だった。
「なんだか馬鹿にされた気がするわ」
「そう聞こえたなら謝ろう」
「あたし、疲れてなんかないわ。おにいちゃんに会うんだもの、足を止めてなんかいられない」
 それが少女のモチベーションであり生きる意味だった。
 "おにいちゃん"に会う。
 必ず帰ってくると誓ってくれたあの人が、もう一度自分の前に戻って来てくれるその日まで。
 あの人の手がもう一度自分の頭を撫でてくれるその日まで…どれだけ疲れても先が長くても、歩き通してみせるとありすはそう決めていた。
「これは失礼な事を言ってしまったな。非礼を詫びよう。
 とはいえ無理をして動けなくなっては元も子もない。本当に苦しくなったなら、こっそり私の手を引くといい」
「…むぅ。そんな事になりっこないわ。なりっこないけど……騎士様がそんなに強く言うんなら、考えとく」
「それでいい。私は君のサーヴァントだ。私は君を必ず守ろう。アリスよ」
 二人は二人で歩いていく。
 何処までも、何処までも。
 そう――何処までも。

 冬空の街。
 時刻は夜。
 暖かな光など射し込む筈もない夜の中で。
 彼は探す、高潔な騎士のあり方とは遥かかけ離れた愚かな男は。
 彼女は彷徨う、たった一つの想い以外全てを失くした哀れな迷子は。
 呪いそのものと成り果てながら…生き残ってしまった。
「繧繝ェ繧ケ縺ッ縺ォ縺薙ェ」
 さぁ、昼下がりの冒険を続けよう。

    ◆ ◆ ◆

 何故此処まで来られたのか分からなかった。
 東雲絵名は自分の所の以外のサーヴァントを一度たりとも見ていない。
 出くわすどころかその存在を感じた事すらない。
 それなのに、絵名は生きて今日の日を迎えている。
 何の不自由もなく迎えた今日は。
 しかしそれにしてはひどく無機質で味のしないものだった。
「…皆は、今何してんだろ」
 絵名は元の世界ではとあるグループに身を置いていた。
 彼女達と出会えて少しだけ世界に色が付いた気がしていた。
 なのにある日気が付けば別な世界。
 聖杯戦争、願いを叶える権利を巡っての殺し合い。
 お前の人生等知った事ではないと…世界にそう笑われたような気分になった。
 死にたいとは思わない。
 こんな訳の分からない世界で死んで堪るかとすら思っている。
 だけど絵名は今日まで何もしていない。
 そしてこれからも、何かが起きるまではこのまま過ごすのだろうなと漠然とそう確信していた。
「ぁ――マスター。まだ起きてたんですねぇ、エヘヘ」
 声を掛けたのは絵名のサーヴァントだ。
 人類史にその名を遺した画家。
 生きている内には名を挙げられず、死後に莫大な評価を浴びた遅咲きの天才。
 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホその人。
 只其処に居るだけで…只適当に絵筆を動かすだけで絵名の自尊心を木端微塵に破壊してしまう忌まわしい同居人だった。
「…あんたさ、毎日夜何処に出掛けてんの」
「え? あぁ…そう大した事ではないですよ。只の散歩です、散歩……」
「私の事馬鹿だと思ってる?」
 絵名とて流石に気付く。
 何しろ毎晩の事だ。
 彼女はサーヴァントとしての務めを果たしていたのだろう。
 絵名の知らない間に。
 絵名を、ずっと守っていたのだろう。
「……もういい。寝る」
 あぁ――私は何をしているんだろうか。
 自分を守ってくれた相手にお礼の一つも言えないままつまらない劣等感と意地を拗らせて。
 挙句の果てには不貞寝だなんて、これではまるで子供じゃないか。
 鬱屈とした心を無理やり睡眠の底に沈める絵名。
 彼女にはそうする以外、このささくれ立った感情と向き合う術が分からなかった。
 そんな彼女にゴッホはにへらと笑って只一言。
 その言葉を絵名はやはり、聞こえないフリをした。
「おやすみなさい…マスター。どうか……良い夢を」

    ◆ ◆ ◆

 …生の実感は薄かった。
 この日常は暁山瑞希にとってあまりにも普段通りのものだったから。 
 正しくはセカイに、そして皆に出会う前の日常。
 息苦しくて眩しい毎日がこの異界東京都でも流れていた。
 だから瑞希もいつものように暮らしてきた。
 聖杯戦争等とは言っても、瑞希が戦場に立たされるような状況は無く。
 ネットニュースで"それっぽい"事件や事故の記事をぼうっと眺める程度。
「案外何も変わらないんだね、日常と非日常って」
「そんなものよ。世界は意外と劇的じゃないわ」
 瑞希の感想に彼女のサーヴァント、アンジェはそう答えた。
「それこそ人類が大袈裟でなく絶滅する瀬戸際とかになったらまた話は別なのかもしれない。
 人間っていうのは、自分が当事者にならない限り危機意識を覚えない人が大多数だから」
「じゃあ…案外最後までこのまま平和だったり?」
「その可能性がゼロとは言わないけれど…そうはならないと思うわ」
 表面張力というものがある。
 器の許容量以上に水を注いだとしても、少しだけなら溢れる事なく持ち堪えられるのだ。
 でもそこに構わず水を注ぎ続けたなら?
 その先には小学生でも分かる結果が待っている。
「サーヴァントは一体一体がとても強力な戦術兵器のようなものよ。
 それを二十体も同じ街で戦わせ続けたら、マスターはどうなると思う?」
「…滅茶苦茶になっちゃうと思う」
「そういう事。それに、もう前兆は出ているわ」
 いつの間に確保したのか。
 アンジェは瑞希のものと同じ機種のスマートフォンを取り出すと、数週間前のテレビ局崩落事件の記事を見せた。
「こういう輩が今後はもっとゴロゴロ出てくる筈。この聖杯戦争には"やり過ぎた"輩を罰する仕組みが無いから」
「無法地帯だね」
「文字通りのね。暴れる事にリスクが無いんだもの、無理もないわ」
 つまりこの日常は仮初めで。
 そう遠くない内に大きな異変が起こるという事。
 そこからが本当の聖杯戦争。
 正真正銘――願いを叶える為の戦い。
“…この世界に、皆は居るのかな”
 だとしたら嫌だなと瑞希は思う。
 たとえ本物ではない作り物の"皆"だとしても。
 自分の大切な友達が誰かに無慈悲に壊されてしまうのは嫌だった。
“早く帰りたいな――うん。今更、ちょっとホームシックになってきたかも”

    ◆ ◆ ◆

「…この世界にはあの人が居る」
 異界東京都にやって来てすぐに気が付いた。
 関東卍會を名乗って勢力を拡大させ続けている不良集団。
 花垣武道の知る限り、その名を使える人間はたった一人だ。
 誰もが認める"無敵"、最強の不良。
 武道が幸福な未来に背を向けて助けに走り出した彼。
「マイキー君はきっと聖杯を手に入れようとしてると思う。今のあの人ならきっと…誰でも幾らでも殺しちまう」
 黒い衝動に囚われた彼は止まらないだろう。
 誰かが止めなければ、決して。
 自分で止まれるのならば彼はああはならずに済んだ筈だから。
 皆と一緒に未来の自分の結婚式で笑ってくれていた筈なのだから。
「ならどうする? 話し合って分かってもらうか?」
「駄目だ。それじゃあの人は止められない」
 武道は拳を握って前に突き出した。
 その方向には誰も居ない。
 只水平線だけが広がっている。
「…オレが――マイキー君をぶっ飛ばす。ぶっ飛ばして、止める」
 元の世界でも決めていた事だ。
 ゴールを動かすつもりはない。
 何も変わらない。
 花垣武道の目指す未来は、無敵の男を倒したその先にこそ広がっていると信じる。
「話せば分かってくれる筈だとか抜かしたらどうしてやろうかと思ったよ」
 オマエが勝てる未来は想像できねーけど。
 言いながら、彼のサーヴァントであるキャスター。
 現代最強の術師の称号を恣にした"異能"――五条悟もまた水平線の果てを見つめた。
「何だろうな」
「は?」
「妙な予感がすんだよね。六眼とか関係のない胸騒ぎだ。虫の知らせって奴かな」
 強者の気配は感じている。
 厄介な奴が大勢居るのは悟も既に分かっていた。
 だがこの感覚はそれとは違う。
 純粋な脅威度や危険性の話ではなく。
 何か己という人間にとって、無視する事のできないものが迫っているような。
「おいおい大丈夫なのかよ? 縁起でもねぇ…」
「誰に物言ってんだよ。自分の心配してな、タケミっち」
「――そのあだ名さ」
 武道は懐かしむように言う。
「マイキー君が最初に呼び始めたんだ。そして皆、オレの事をそう呼んでくれるようになった。
 だからオレのことを知らない筈のオマエが"タケミっち"って呼んだ時、本当にびっくりしたよ」
「……」
「なぁ。キャスター」
 彼は最弱。
 最弱の、ヒーロー。
 ある腐りゆく世界の最後の希望。
「オマエの事…頼ってもいいか?」
「クセえよ。男同士で乳繰り合う趣味はねぇ」
 おえ、とえずく真似をしてから。
 そんな彼に"最強"の呪術師は言った。
「雑魚なりに堂々としてろ。この僕が居るんだ、オマエが負ける事は絶ッ対(ゼッテェ)無ぇよ」

    ◆ ◆ ◆

「さて」
 冬の女王は只一人。
 演奏の止んだ異界東京都の街並みを見下ろして呟いた。
 手駒は凡そ数百人。
 "本来の"関東卍會よりも更に倍程度まで膨れ上がっているその集団は、今や紛れもない超人集団と化して久しい。
 予選期間をフルに費やして整備した城へと入るべく女王――モルガンは踵を返した。
「それでは始めましょう――聖杯戦争を」
 新しい一日がやって来るのと時を同じくして、新たな演奏が始まる。
 死と戦乱で以って奏でられるその曲が止む事は即ちこの物語の終結を意味していて。
 誰かが願いを叶えるか。
 もしくは聖杯戦争そのものが破綻するまで、静寂が訪れる事は無いのだと逆説的にそう証明していた。


Character name Next→001:Alive
三途春千夜
セイバー(バーゲスト)
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン
セイバー(グレンファルト・フォン・ヴェラチュール
吉田優子
セイバー(キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード)
デンジ
セイバー(ネロ)
杜野凛世
セイバー(座頭市)
日車寛見 002:名前のない怪物
アーチャー(バーヴァン・シー)
オーロラ
アーチャー(星馳せアルス
斑鳩ルカ
アーチャー(石流龍)
緋田美琴
アーチャー(ウィリアム・ベルグシュライン)
静寂なるハルゲント
ランサー(メリュジーヌ)
ヴィレム・クメシュ
ライダー(ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン
宮薙流々
ライダー(スメラギ)
七海龍水
ライダー(ネモ)
宵崎奏
キャスター(夏油傑)
千翼
キャスター(メルエム
花垣武道
キャスター(五条悟)
稀咲鉄太 001:Alive
キャスター(埴安神袿姫
室田つばめ(トップスピード)
アサシン(ジャック・ザ・リッパー
暁山瑞希
アサシン(アンジェ・ル・カレ
佐野万次郎 001:Alive
バーサーカー(モルガン)
朝比奈まふゆ
バーサーカー(マグ=メヌエク)
衛宮士郎
バーサーカー(クリストファー・ヴァルゼライド
ありす 002:名前のない怪物
バーサーカー("グリム"或いは"ルイス・キャロル"或いは"アンデルセン"、或いは"名も無き不死者")
東雲絵名
フォーリナー(ヴァン・ゴッホ)

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最終更新:2022年09月26日 22:39