本来ならば理想郷で更新するべきかとは思うが、まずはこちらで完結させる予定。ニクシア達二期生が入学してくるまでのエウセピアと無名の関係に決着をつけて、初めてミッシングリンクが繋がるので。
圧倒的な存在感。否、絶対的な重圧。
夜闇に暗い廊下の奥に立つその者は、まさしく昏い死そのものの具現であった。窓から入るわずかな明かりがつくる暗がりの中に、虹色の虹彩に縁どられた青い双眸が魔力を帯びてにぶく輝いている。その視線の重い殺気に、エウセピアは、胃の腑が縮み上がり膝から力が抜けそうになる感覚を戦っていた。
そのまま恐怖に負けて廊下にうずくまってしまいそうになるのに抗い、歯を食いしばって自身の眼に力をこめてにらみ返す。
みしり、と、空気が殺気にきしんだように思える。
怖い。
恐い。
畏い。
エウセピアの脳裏が、怯え一色に塗りつぶされてゆく。悲鳴すら上げることができない。
背筋をべっとりとした脂汗がつたい、手の平が震えるのを止められない。
心が折れそうになるのを、必死になって支える。今ここで逃げてしまえば、もう言い訳はできない。二度と戦う事はできない。
だからエウセピアは、何度も何度もその人の名前を心の中で呼んだ。
あの人の傍にいたいから。
あの人と一緒に歩みたいから。
クラウディア。
その名前を唱えるだけで、くじけそうになる心に力が戻る。
崩れそうになる心が支えられる。
ぎちり。
奥歯を噛み鳴らし、拳を握る。視線に力をこめて、青い双眸をにらみ返す。息を整え、下半身に力を入れ、両足で踏んばる。
ぞわり、と、心の中から何かが目覚める。
黒く、昏いそれが、鎌首を持ち上げ、声をあげる。
「がああああああああああああああああッッ!!」
吼えた。
吼えた。
吼えた。
それに合わせるように、青い双眸が、にぃっと笑ったように見えた。
「あの、何かありました?」
「?」
「いえ、最近調子悪そうだなって」
夜、談話室で互いに帳面を見せ合いながら授業の予復習をしていたウェーラが、ふと顔をあげてエウセピアに問いかけた。
「学院」の授業は基本的に午前中だけである。当然それゆえに講義の内容は非常に濃いものであった。板書を書き写すだけではなく、口頭での解説も把握しないとならない。講義内容を全て記憶した上で理解を深めておかないと、四半期ごとの口頭と筆記での試験に合格する事はできないのだ。当然のことながら教科書を読むだけでは済まず、講義内容に関係した書籍を少なくない数読み込まないといけない。授業の予復習のために友人同士でこうして一緒に勉強するのは、男女の別なく学院では当たり前の光景でもあった。
今はエウセピアと同席しているのは同じ聖歌隊に所属しているウェーラであるが、他にもクラウディアやセレニア、アリア、アウレリアといった友人らと一緒に勉強する事も多い。皆熱心な読書家で、修道院で育ったために俗世の学問にうとい彼女にとっては、本当に助けになる友人達であった。
親友の質問にわずかに眉を寄せたエウセピアは、少し考えるそぶりを見せてから首を左右に振った。だがその仕草に、なんとはなく無理を感じたウェーラは、指先を額に当てて少しだけ考えてから身を乗り出して顔を近づけた。
「でも、今日も練習中、何度か音程を外したでしょう? もしかして疲れているとか?」
つめよられて困った表情になったエウセピアは、ふるふると首を左右に振ってウェーラの疑問を否定してみせた。
確かにこの数日、歌に集中できていないと自覚する時がある。だがそれが、疲れによるものではないと彼女には判っていた。第901大隊での教導は、とても密度の濃いものである。だが教官らは、エウセピアら生徒達に無理はさせても無茶はさせないように気を遣っていた。大隊でも学院でも十分な食事を摂っているし、訓練日の夜には十分に睡眠をとるように心がけてもいる。この数ヶ月の訓練で体力もついてきたのか、身体の調子は悪くないし、眠りも深く目覚めは爽快であった。
だからエウセピアは、自分が何故歌に集中できないでいるのか、はっきりと自覚できないまでもおぼろげながら心当たりをつけることはできていた。そして、それについて口にするつもりも当然無かった。
そんな友人の頑なな態度にウェーラは、それ以上は追求する気にもなれず、エウセピアの両手をとって言葉を続けた。
「わたし、できる限り力になりますから。だから、いつでも話をしてくださいね」
ウェーラの表情の迫力にエウセピアは、気圧された表情で首を縦にこくこくと振るしかできなかった。
「さっきはどうしたの?」
エウセピアが私室に戻ると、先に帰ってきていたクラウディアが、開口一番そう問いかけてきた。
寮の私室には、同室する二人それぞれのための本棚と机と寝台、そして衣装箪笥が据えられている。家具は樫の木で作られた頑丈なもので、これからの長い年月を多くの学生とともに過ごすであろうと思わせるものがあった。その机に向かって魔道光を点して革表紙の厚い本を読んでいた親友の表情から、先ほどのウェーラとのやりとりに気づいていてくれたらしい事がエウセピアにも見てとれた。
友人の気遣いが嬉しかったのかエウセピアは、それまでのふさいでいたような表情が嘘のようにぱっと明るい笑顔を浮かべて、何でもありません、とでもいうように小首をかしげてみせた。その仕草にクラウディアは、よかった、と表情で答える。
そんなエウセピアに安心したのか、クラウディアは、また本に向き直った。
互いに黙ったまま、静かな刻が流れてゆく。
時折、クラウディアがめくる頁の音がするだけの静寂が満ちた時間。
エウセピアは、自分の寝台のふちに腰を下ろすと、そのまま友人の背中に視線を向けた。
自分よりも頭半分高い上背の、腰まである真っ直ぐな黒髪の少女。同じ年頃の少女らと比べて広い肩幅。その背中が頼もしくて、見つめているだけで心が軽くなってゆくように思える。
だがクラウディアは、エウセピアの視線を感じているのかいないのか、ずっと本に集中している。
彼女の机の上には革表紙の分厚い本が山積みとなっていて、そのどれもが著名な古典か、当代一流の学者の書いた非常に高度な内容の名著ばかりで、クラウディアの学問への造詣がどれ程深いものか物語っていた。エウセピアと同様に、第901大隊で教導を受けている身でありながら、学年主席の成績を保ち続けているのは伊達ではないのだ。
当の本人は、講義をしっかり聞いているだけだよ、と笑っているだけである。けれどもそれがどれだけ大変な事かは、授業についてゆくだけでも一生懸命なエウセピアにとっては嫌というほどはっきりと理解できていた。
そのまま会話が途切れてしまったのがつまらなくて、エウセピアは、ころんと寝台の上に転がった。しばらくそうやって転がって、クラウディアの背中を見つめ続ける。読書に集中している相手に声をかけるような無作法は、してはならないと判っている。それでもやはり、振り向いて欲しいし、声をかけて欲しい。
けれども、クラウディアはエウセピアの視線に気づいているのかいないのか、ずっと本に集中している。
結局クラウディアが振り向いてくれないのが判ったのか、エウセピアは、身体を起こすと寝巻きに着替えて毛布の中にもぐりこんだ。
クラウディアは、消灯点呼の時間になるまで本から顔を上げることはなかった。
第901大隊でのエウセピアの訓練教程は、機卒に搭乗しての戦列運動から、機神「マグヌス・カエサル・ユリウス」に搭乗しての戦技教育に移っている。とりあえず機体を走らせ、武器を振り回す事ができるくらいには慣れた。それでも、素人よりはまし程度の錬度でしかなかったが。
だが、魔道を用いた戦技については、まがりなりにも形になってきていると教官からは評価されていた。実際、ただ機体を氷で覆ったり、闇雲に氷塊を飛ばしたりするのではなく、周囲に結界を張ってその空間内の気温を操作したり、複数の氷の盾を浮遊させて速成の戦列を組み、その盾の間から氷礫を雨霰と飛ばして射撃戦を行ったり、といった戦い方ができるようになってきている。教官のナタリアからは、帝國軍制式戦列機装甲の「青の三」の中隊戦列を相手にして、その第一戦列を撃破できる程度の戦闘力はあるだろう、と、講評で評価されたこともあった。
もっとも、機体を機動させながら魔道を行使できるわけではないこともあって、第二戦列の接近を許し、これに撃破されてしまうであろう、という結論を下されたわけでもあったが。それでも、最初にクラウディアと模擬戦を戦った時のように、ただ突っ立っているしかできなかった頃に比べれば格段の成長ではあった。
『機装甲大の標的に確実に命中させられるのは、八〇〇呎が限界か』
機神「黒の龍神(ニグレド・ドラクデア・ウヌム)」に搭乗したナタリア教官が、エウセピアが機装甲大の目標に向かって氷槍を打ち込むのを観測しつつ、そう評価する。
エウセピアと同じ「水」の属性の魔道戦士でもあるナタリアが泥濘を凍らせて作った目標は、魔道の力で強度が増され、実際の機装甲の装甲に等しい防御力を有している。その目標に氷槍を命中させ、突き刺させるようになるのが、その日の訓練内容であり目標であった。
『次、目標数を三つに増やす』
『はい、教官殿』
『撃ち方用意。始め』
二〇〇〇呎先に機装甲大の標的が三つ現われ、頻繁に左右斜めに方向を変えつつ早足くらいの速度で近づいてくる。
エウセピアは、即座に氷槍を六個空中に氷結させると、標的が一〇〇〇呎にまで近づいたところでまず三個を撃ち込んだ。氷槍はそれぞれ弧を描きながら標的に向かって飛ぶ。氷槍が目標に命中する直前、標的は向きを変え駆け足に移った。
その急な方向転換に氷槍の誘導がついてゆけず、氷槍は三個ともあさっての方向へと飛び去ってしまった。
エウセピアは慌てて残り三個の氷槍も撃ち出すが、これも避けられてしまう。急いで新しい氷槍を氷結させて撃ち出そうとした時には、猛然と駆け寄る標的に接敵され、手持ち武器の間合いにまで近づかれてしまっていた。
盾を掲げて立ちすくんでしまっているエウセピアに、ナタリアが淡々とした声で指摘する。
『魔道を用いた射撃戦を行う時には、目標が避ける事を前提に、その移動範囲を包み込むように弾体を撃つ必要がある。初弾命中は困難であるという前提で射撃を行う事。もう一度最初から』
『はい、教官殿』
『撃ち方用意。始め』
エウセピアが、わずかな時間差をつけて撃ち出した九発の氷槍は、二発が命中した。
エウセピアは、それから何度も何度も繰り返し射撃を行い、三つの移動目標全てを撃破できるようになるまで訓練は続いた。
いかに魔術の才能があるエウセピアであっても、九発の氷槍を全て個別に操るのは無理があった。彼女は、何度も繰り返しナタリアの指摘と指導を受けつつ、最終的には三発を一群とした三群を誘導するという形で目標を射弾散布界に収め、最終段階の誘導だけ個別の氷槍を操作する事で命中弾を出せるようになった。さすがにそのコツを会得する至る頃には、彼女の気力も尽き果てかけていて、視界もぼやけるくらいに疲れきってしまっていた。
訓練が終わってからエウセピアは、更衣室で長椅子に座ってしばらく休憩をとり、息が整ったところで着替え始めた。いくら機神に乗るのにも慣れてきたとはいえ、繊細な操作が必要とされる誘導射撃を繰り返し行ったのだ。文字通り気力を根こそぎ使い果たしたといってもよい。
こんな時にクラウディアがそばにいてくれたらいいのに。
のろのろとした手つきで着替えつつ、エウセピアは、心のうちでそんなことを思った。
そのクラウディアは、エウセピアよりも先に今日の分の訓練教程を終わらせ、ずっと前に着替えて食堂に移動してしまっている。他の二人も、エウセピアよりも先に着替え終わってしまっていて、今ここには彼女だけしかいない。
薄暗く肌寒い部屋に一人きりでいるのが何よりも切なくて、寂しさに目頭が熱くなる。
なぜそばにいてくれないの。
それが理不尽な要求である、という事は、エウセピアにも判ってはいる。
だが、疲れきっていて心が弱くなっている彼女にとっては、クラウディアにそばに居て優しく声をかけて欲しいという想いは、なによりも甘い感傷であった。何度もまぶたをしばたかせ、涙がこぼれないようにこらえるので精一杯なのである。
そんな自己憐憫に浸りながら更衣室を出たエウセピアの視界に、窓際でぼんやりと外を眺めているクラウディアの姿が映った。
やっぱり彼女は、私の事をこんなにも大切に思ってくれている。
一瞬前までの不満が胡散霧消し、今度は嬉しさにまぶたが熱くなる。
エウセピアは、そんな自分の心の動きをクラウディアに悟られたくなくて、思わずそのまま彼女に気がつかないふりをして横を通りすぎようとした。
「エウセピア、遅いか……」
「遅い、ぜっ!」
クラウディアが、自分を無視して歩いてゆこうとするエウセピアに声をかけようと身体を向けた瞬間、突如物陰から何者かが彼女の腰に飛びついた。
その小柄な誰かは、そのまま両腕をクラウディアの腰に回し、勢いのままに彼女を廊下に押し倒す。
「うわっ! 無名ってば!」
「あはははははっ! 迎えにきてやったぜ!」
クラウディアを床に転がし、その右腕をつかんで脚をからめて寝技を決めようとしているのは、つい先日この部隊に配属された鬼族の双性者である無名であった。
クラウディアは、右腕の肘を全力で曲げ続けつつ、左手でからめてきている無名の両足をこじあけようとする。だが相手は、臂力の強さを特徴とする鬼族の上、並の者の数倍の体力を持つ双性者である。
右腕をつかまれ脚をからめられた時点で、あとはクラウディアの右腕の筋力と、無名の両腕の筋力の力比べになってしまっているのだ。当然の結果として、片腕ではそう長いこと抵抗し続けることは難しい。
「痛い! 痛いってば!」
「お前ってば、本当に寝技は駄目だな」
がっちりと間接を決められ、肩から先を伸ばされたクラウディアは、左手で無名の足を叩いて降参の意思を表すしかできないでいた。
そんな二人のやりとりを、エウセピアは、呆然としたまま見ているしかできないでいた。物陰に無名が隠れていたのに気がつかなかったし、二人が何をしているかも理解できない。そもそも生身の人間が闘う姿さえ、ほとんど見たことがなかったのだ。
痛む右腕をさすりながら立ち上がったクラウディアに甘えるように両腕を首に回した無名の姿を見て、エウセピアの感情は即座に沸点を超える。
今のやりとりは、エウセピアから見れば、無名による一方的な暴力にでしかない。
思わず彼女が一歩を踏み出したところで、無名の視線がエウセピアへと向けられる。
「!」
瞬時に背筋を冷たいものが駆け上り、沸きあがった感情が凍りつく。
ただ見つめられているだけなのに、それ以上前に出ることを身体が拒否している。
向けられた相手の面には何の感情も浮かんでいないのに、言葉を発することはおろか、口をひらくことさえできない。
「無名!」
「なんだよ」
「脅したら駄目じゃないさ」
固まっているエウセピアの姿を見てとったクラウディアが、無名に向かって声を荒げた。
クラウディアに叱りつけられた無名は、つまらなさそうな表情になると、相手の首から両腕を外して、すっと二人から距離をとった。
「悪いのは俺じゃない」
「そんな殺気を浴びせられたら、誰だって怯える」
クラウディアが本気で怒っていると理解したのか、無名は傷ついた表情を浮かべると、くるりと背を向けて歩き去った。
「これくらいで怯えるなよ」
無名の最後の一言に、エウセピアは、ようやく思考を動かすことができるようになった。そして自分が、ひと睨みされただけで身がすくんでしまったことを理解し、どうしようもない挫折感に打ちのめされた。
「気にする事はないから。あんな殺気を浴びせられて、平静でいられるなんて無理だからさ」
「……………」
クラウディアのそんな慰めの言葉も、今のエウセピアの心には届きはしなかった。
最終更新:2012年05月03日 23:49