千葉重太郎

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&font(#6495ED){登録日}:2025/04/16 Wed 15:09:32 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 5 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- 千葉重太郎とは、幕末~明治時代の人物である。 生没年:1823~1885(文政七~明治十八) 出身地:江戸桶町 親族:千葉定吉(父)・千葉さな子(妹) #openclose(show=▽目次){ #contents() } *生涯 文政7年(1824年)、北辰一刀流桶町千葉道場((当時は本家筋の玄武館道場と区別するため「小千葉」と呼ばれた))の創設者・千葉定吉の長男として生まれた。 妹のさな子とともに父親から北辰一刀流剣術を学んでおり、嘉永6年(1853年)のペリー来航の折に父・定吉が鳥取藩の剣術師範に就任し、道場主が不在の状態となると、新道場主として勤務する。 同年、[[坂本龍馬]]が千葉道場に入門しており、主に重太郎が兄弟子兼師範役となって龍馬に剣術を手ほどきしている。 重太郎の剣技の腕前は、それについて記された直接的な史料が発見されていないため、結論付けるのはどうしても難しいが、重太郎が道場主に就任してからも千葉道場に教えを乞う者が多かったことからして、かなりの実力があったものと思われる。 万延元年(1860年)、重太郎は鳥取藩に仕官した。藩士として江戸政界に関わる最中、[[勝海舟]]の開国論に反感を抱く。 そうしてその二年後に龍馬を誘って海舟の邸宅を訪ね、客人のふりをして海舟を暗殺しようとしたが、海舟から&font(b,#3cb371){「俺を斬るんなら斬ったってかまわねえが、話を聞いてからでも遅かぁねえよ」}と諭され、開国の重要性を説かれ、攘夷の限界を感じ取ったのか、暗殺を思いとどまる。 …と、従来は「龍馬と重太郎が海舟暗殺を計画した」という説が主流であったが、実際には龍馬はそれよりも前に松平春嶽の紹介状で海舟のことを知っており、龍馬が海舟を暗殺する動機が存在しえなかったことが近年の研究で分かっている。&br()そもそも、龍馬は郷里・土佐にてかつて中浜万次郎から教えを受けた開明派の絵師・河田小龍に面会し、西洋文明やアメリカでの政治制度についての話を聞いているので、海舟の開国論に反感を抱く理由もない。&br()この点から、龍馬が重太郎を伴ったのは当初は攘夷派だった重太郎を説得するためとすら言われている。 文久4年(1864年)正月には、前年10月に勃発した生野の変((但馬国(兵庫県)生野で福岡藩出身の尊王攘夷派・平野國臣が総帥に公卿・沢宣嘉をまつり上げて挙兵。総帥の沢が脱走してからは統率が取れなくなり、その他の浪士たちも戦死してしまい、逃亡、捕縛された。。この挙兵の首謀者である平野は逮捕され、禁門の変の際に獄中で幕吏に殺害された))で敗走した尊王攘夷派の志士である&bold(){&ruby(きたがきしんたろう){北垣晋太郎}}((維新後に「国通」と改名))と&bold(){&ruby(はらろくろう){原六郎}}((当初は「進藤長政」と名乗っていたが、匿われた直後に幕府の追及を逃れるため「原六郎」と改名している。以降は「原六郎」名義で解説する))が逃亡するさなかに、重太郎は彼らを千葉道場に匿った。 ほどなくしてこのことが幕府の耳に入り、調査が始まった。重太郎は道場にいた者を皆外に出し、自身は捕吏が探索のために同情を訪ねてくるのを待った。 そこに、老中・&bold(){&color(#3B4EF0){&ruby(いたくらかつきよ){板倉勝静}}}が救いの手を差し伸べる。板倉は重太郎の性格を知っていたので、 「&color(#3B4EF0){千葉重太郎は素行不良の人物ではない。もし本当に重太郎が志士たちをかくまっていたとしたら、この私が直々に彼を説得する。それに、もし彼を追捕することになれば、彼は剣客だから、全力でやり合えばただでは済まないだろう}」 と重太郎を擁護した。 戊辰戦争では菅軍の兵士として同じ鳥取藩士の河田左久馬とともに参戦し、原六郎とともに志願農兵隊・山国隊の指導に当たり、上野戦争においても同隊を率いて官軍の勝利に貢献した。 維新後は太政官入りし、明治五年(1872年)には北海道開拓使に任官。その後、北海道の七重村に赴任した。 かつて重太郎が命を助けた北垣も太政官入りし、北垣は京都府知事・北海道庁長官などを務めた。&br()原は1871年(明治四年)にアメリカに留学して経済学・金融学を学んだのち、1873年(明治六年)にイギリスに渡って経済学・社会学・銀行学を学んだ。そうして1877年(明治十年)に帰国してからは実業家として成功した。&br()北垣も原もかつて重太郎から受けた恩義は決して忘れず、重太郎やその家族を支援した。 一方で彼が切り盛りしてきた道場も継承者が次々と早世したため運営に難儀した玄武間とは異なりうまくいき武芸を奨励した北垣や資金面での援助をした原のおかげで順調に運営することができた。 1880年(明治十三年)には父・定吉が病死。その翌年、北垣が京都府知事を務めたのに従い、自らも妹・さな子とともに京都に移住した。京都では警察本署に出仕するが、1885年(明治18年)に同地で亡くなった。享年63歳であった。 *千葉重太郎の登場する作品 基本的に坂本龍馬を題材とする作品にしばしば登場し、たいてい「明朗快活な好青年」という描写がなされている。 **漫画 -黒鉄ヒロシ『坂本龍馬』 -武田鉄矢原作・小山ゆう作画『お~い!竜馬』 -みなもと太郎『雲竜奔馬』 -〃『風雲児たち幕末編』 -村上もとか『JIN-仁-』 **小説 -司馬遼太郎『竜馬がゆく』 **[[NHK大河ドラマ]] -『竜馬がゆく』(1968年、演:市川男女蔵) -『勝海舟』(1974年、演:原田大二郎) -『龍馬伝』(2010年、演:渡辺いっけい) 追記・修正お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,0) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 修羅の刻二巻で「桶町の龍」と称される名剣士だと言うことを知った(戦うシーンなかったけど) -- 名無しさん (2025-04-16 18:23:20) - このころの剣豪としては周囲の意見もちゃんとも耳に傾け人を見る目もある理知的なイメージ。 -- 名無しさん (2025-04-16 18:40:58) - 「竜馬におまかせ!」の千葉重太郎は相手がどんなトンデモ過激派であろうとすぐに心酔してしまう人間だった -- 名無しさん (2025-04-17 16:46:36) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2025/04/16 Wed 15:09:32 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 5 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- 千葉重太郎とは、幕末~明治時代の人物である。 生没年:1823~1885(文政七~明治十八) 出身地:江戸桶町 親族:千葉定吉(父)・千葉さな子(妹) #openclose(show=▽目次){ #contents() } *生涯 文政7年(1824年)、北辰一刀流桶町千葉道場((当時は本家筋の玄武館道場と区別するため「小千葉」と呼ばれた))の創設者・千葉定吉の長男として生まれた。 妹のさな子とともに父親から北辰一刀流剣術を学んでおり、嘉永6年(1853年)のペリー来航の折に父・定吉が鳥取藩の剣術師範に就任し、道場主が不在の状態となると、新道場主として勤務する。 同年、[[坂本龍馬]]が千葉道場に入門しており、主に重太郎が兄弟子兼師範役となって龍馬に剣術を手ほどきしている。 重太郎の剣技の腕前は、それについて記された直接的な史料が発見されていないため、結論付けるのはどうしても難しいが、重太郎が道場主に就任してからも千葉道場に教えを乞う者が多かったことからして、かなりの実力があったものと思われる。 万延元年(1860年)、重太郎は鳥取藩に仕官した。藩士として江戸政界に関わる最中、[[勝海舟]]の開国論に反感を抱く。 そうしてその二年後に龍馬を誘って海舟の邸宅を訪ね、客人のふりをして海舟を暗殺しようとしたが、海舟から&font(b,#3cb371){「俺を斬るんなら斬ったってかまわねえが、話を聞いてからでも遅かぁねえよ」}と諭され、開国の重要性を説かれ、攘夷の限界を感じ取ったのか、暗殺を思いとどまる。 …と、従来は「龍馬と重太郎が海舟暗殺を計画した」という説が主流であったが、実際には龍馬はそれよりも前に松平春嶽の紹介状で海舟のことを知っており、龍馬が海舟を暗殺する動機が存在しえなかったことが近年の研究で分かっている。&br()そもそも、龍馬は郷里・土佐にてかつて中浜万次郎から教えを受けた開明派の絵師・河田小龍に面会し、西洋文明やアメリカでの政治制度についての話を聞いているので、海舟の開国論に反感を抱く理由もない。&br()この点から、龍馬が重太郎を伴ったのは当初は攘夷派だった重太郎を説得するためとすら言われている。 文久4年(1864年)正月には、前年10月に勃発した生野の変((但馬国(兵庫県)生野で福岡藩出身の尊王攘夷派・平野國臣が総帥に公卿・沢宣嘉をまつり上げて挙兵。総帥の沢が脱走してからは統率が取れなくなり、その他の浪士たちも戦死してしまい、逃亡、捕縛された。。この挙兵の首謀者である平野は逮捕され、禁門の変の際に獄中で幕吏に殺害された))で敗走した尊王攘夷派の志士である&bold(){&ruby(きたがきしんたろう){北垣晋太郎}}((維新後に「国通」と改名))と&bold(){&ruby(はらろくろう){原六郎}}((当初は「進藤長政」と名乗っていたが、匿われた直後に幕府の追及を逃れるため「原六郎」と改名している。以降は「原六郎」名義で解説する))が逃亡するさなかに、重太郎は彼らを千葉道場に匿った。 ほどなくしてこのことが幕府の耳に入り、調査が始まった。重太郎は道場にいた者を皆外に出し、自身は捕吏が探索のために同情を訪ねてくるのを待った。 そこに、老中・&bold(){&color(#3B4EF0){&ruby(いたくらかつきよ){板倉勝静}}}が救いの手を差し伸べる。板倉は重太郎の性格を知っていたので、 「&color(#3B4EF0){千葉重太郎は素行不良の人物ではない。もし本当に重太郎が志士たちをかくまっていたとしたら、この私が直々に彼を説得する。それに、もし彼を追捕することになれば、彼は剣客だから、全力でやり合えばただでは済まないだろう}」 と重太郎を擁護した。 戊辰戦争では菅軍の兵士として同じ鳥取藩士の河田左久馬とともに参戦し、原六郎とともに志願農兵隊・山国隊の指導に当たり、上野戦争においても同隊を率いて官軍の勝利に貢献した。 維新後は太政官入りし、明治五年(1872年)には北海道開拓使に任官。その後、北海道の七重村に赴任した。 かつて重太郎が命を助けた北垣も太政官入りし、北垣は京都府知事・北海道庁長官などを務めた。&br()原は1871年(明治四年)にアメリカに留学して経済学・金融学を学んだのち、1873年(明治六年)にイギリスに渡って経済学・社会学・銀行学を学んだ。そうして1877年(明治十年)に帰国してからは実業家として成功した。&br()北垣も原もかつて重太郎から受けた恩義は決して忘れず、重太郎やその家族を支援した。 一方で彼が切り盛りしてきた道場も継承者が次々と早世したため運営に難儀した玄武間とは異なりうまくいき武芸を奨励した北垣や資金面での援助をした原のおかげで順調に運営することができた。 1880年(明治十三年)には父・定吉が病死。その翌年、北垣が京都府知事を務めたのに従い、自らも妹・さな子とともに京都に移住した。京都では警察本署に出仕するが、1885年(明治18年)に同地で亡くなった。享年63歳であった。 *千葉重太郎の登場する作品 基本的に坂本龍馬を題材とする作品にしばしば登場し、たいてい「明朗快活な好青年」という描写がなされている。 **漫画 -黒鉄ヒロシ『坂本龍馬』 -武田鉄矢原作・小山ゆう作画『お~い!竜馬』 -みなもと太郎『雲竜奔馬』 -〃『風雲児たち幕末編』 -村上もとか『JIN-仁-』 **小説 -司馬遼太郎『竜馬がゆく』 **[[NHK大河ドラマ]] -『竜馬がゆく』(1968年、演:市川男女蔵) -『勝海舟』(1974年、演:原田大二郎) -『龍馬伝』(2010年、演:渡辺いっけい) 追記・修正お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,1) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 修羅の刻二巻で「桶町の龍」と称される名剣士だと言うことを知った(戦うシーンなかったけど) -- 名無しさん (2025-04-16 18:23:20) - このころの剣豪としては周囲の意見もちゃんとも耳に傾け人を見る目もある理知的なイメージ。 -- 名無しさん (2025-04-16 18:40:58) - 「竜馬におまかせ!」の千葉重太郎は相手がどんなトンデモ過激派であろうとすぐに心酔してしまう人間だった -- 名無しさん (2025-04-17 16:46:36) #comment #areaedit(end) }

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