簡易軌道(殖民軌道)

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簡易軌道(殖民軌道) - (2024/09/05 (木) 22:55:02) のソース

&font(#6495ED){登録日}:2012/09/27 Thu 22:58:18
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簡易軌道とは、かつて[[北海道]]各地に存在した線路幅762mmの鉄道…&bold(){ではない。}
はたまた路面電車のような軌道でもない。それらとは別の「交通機関」である。
どういう事なのか、この項目で説明しよう。


&bold(){◎簡易軌道/殖民軌道とは?}

明治以降、未開の地[[北海道]]は各地で続々と開拓民が入植、開拓事業が行われていた。
だが、地面の状態が劣悪でとても道路など建設できない場所も多かった。しかしそれでは物資も運べず、人々も遠くへ向かう事が出来ない。
そこで、こういった地盤が悪い所の交通機関として、&font(#ff0000){線路}が用いられる事となった。
1924年に根室半島に初投入されたこの鉄路は、後に釧路地方や宗谷地方などでも投入されていく事となる。

…そう、これらは本来&bold(){「道路」}として建設されたのである。
これが、「殖民軌道」、後に「簡易軌道」と名を改める交通機関である。


&bold(){◎名称}

簡易軌道の名称は少々ややこしい。
多くが各地の町や村が運営し、「○○村営軌道」もしくは「○○町営軌道」という名前を持っていたが、
それに加えて「簡易軌道○○線」という正式名称も併せ持っていた。
これは、簡易軌道の路線そのものの維持や復旧は[[北海道]]の役所を通じて農林水産省が行っていた事に由来する。
その管理用として「○○線」という名前が与えられていた。
一方、その車両や運営に関しては北海道開発局を通じて沿線の町や村が管理していた。二つの行政が絡み合っていたのである。
実際の路線においては、開発局の指示で作った路線やら自治体独自の車両やら、もっと複雑な管理体制があったとか。

少々事情は異なるが、現在で言う「京浜東北線」や「[[埼京線]]」「JR京都線」「[[JR神戸線]]」のように、
路線の正式名称とは別に名称を持っていたと考えて頂ければありがたい。

なお、これらは戦後に決まった運営方法で、戦前は簡易軌道(当時は殖民軌道)を利用する人が使用料を払うという「運行組合」と呼ばれる方法を使っていた。
まさしく有料道路に近いシステムだったのだ。


&bold(){◎運用}

そんな戦前の簡易軌道(殖民軌道)は、大半が馬を動力とする馬車鉄道の形態を取っていた。
当時はまさしく道路として扱われ、沿線の人々が各自それぞれ馬と車両を有し、
線路で鉢合わせをした時は荷物が軽い方が線路から車両を下ろして道を譲っていたそうである。
戦争を経て、なんと昭和30年代までこのような馬が引っ張る路線が存在したと言う。

その一方で、戦後近代化が進んだ路線も多く存在していた。
前述のような町や村に運営が委託された簡易軌道の多くはディーゼル機関車や気動車が投入され、運行ダイヤも設けられた路線もあった。
それらの一部は全国区の時刻表にも記載されている。
実現はしなかったが、本当の鉄道である「地方鉄道」への転換を計画していた路線もあったと言う。

…ただ、その施設や運用に関しては結構アバウトであった。
・駅舎があればかなり立派な方で、大半の中間駅は盛り土があって駅を示す板があるだけの簡単なもの。&br()中には駅っぽいのが一切ない「駅」があれば、駅で無い場所に定期的に停車したりと、まさに地域密着型であった。
・ダイヤと関係なしに試運転を行い、危うく正面衝突しそうになった事もあったらしい。
・道路との交差点に道路に使う信号機が設置された路線もあった。当然線路側が&font(#ff0000){赤信号}なら車両も一旦停止する。
・連結器の高さが合わないと言う事で&font(#ff0000){無理やり折り曲げた}例もあったと言う。


&bold(){◎車両}

前述の通り、戦後は近代化が進み、各地でディーゼル機関車や気動車が投入された。
雪が多い[[北海道]]の大地を走ると言う事で、[[機関車]]に除雪機が取り付けられた除雪車も数多く投入されている。

簡易軌道では、気動車は「自走客車」、客車は「牽引客車」と呼ばれていた。
それら(特に自走客車)は国の規格によって基本形状が定められていたが、メーカーや各地の路線は前面のスタイルや塗装で個性を出していた。
ただ、中には珍車もあり、初期の自走客車は車体の一方にしか運転台が無く、いちいち方向転換が必要だった。
この方法、昔は[[北海道]]を含めて日本各地にあったのだが…



#center(){&font(#ff0000){\「えーマジ単端式?」「キモーイ」「単端式が許されるのは終戦直後までだよねー」「「キャハハハハ」」/}}


…と言う事で時代遅れもいいところだったのだ。
さらには、僅か定員15名という超小型の車両も製造されていた。
そもそも15名すら乗れるかどうか怪しいほどの小ささや、窓が開かないわエンジンは低出力だわと言う事もあり、すぐに物置と化したらしい…。
さすがにその後製造された自走客車は両方に運転台を有し、多くのお客さんを乗せる事が出来る。

それ以外の車両としては、ミルクを輸送するミルクゴンドラ車やミルクタンク車を走らせていた路線もある。
乳牛が多く飼育されていた[[北海道]]ならではの光景である。
各地の乳製品の生産工場への専用線も多くあった。


&bold(){◎廃止、その後}

しかし、昭和40年代に入るとさすがにこういった場所でも道路整備が進み始め、[[自動車]]が主役の座に躍り出た。
さらに、これまで経営を支えてきた国からの補助金も1970年に打ち切られる事となり、その年までに大半の路線が力尽きた。
浜中村営軌道は乳製品輸送などもあってその後も経営を続ける予定だったが、整備された道路には勝てず、1972年に営業運転を終了。
これをもって、全ての簡易軌道が廃止となった。


法律上「鉄道」では無く「道路」と言う事から、現役当時は大半の鉄道ファンからそっぽを向かれており、記録や写真が全然残っていない路線も数多い。
しかし、地域で愛されたこれらの路線の車両たちは、現在も一部が各地に保存されている。
また、鶴居村営軌道で活躍していたディーゼル機関車はその後工場で使用された後、丸瀬布いこいの森にて動態保存され、
主役であるSL「雨宮21号」と共に現在も活躍を続けている。

機会があれば、皆様もぜひ一度独特の車両たちに会いに行ってはいかがだろうか。


追記村営軌道・修正線

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- 初めて知った、何とも牧歌的で良いね  -- 名無しさん  (2014-02-19 07:20:01)
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