&font(#6495ED){登録日}:2012/01/06(金) 00:27:14 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 6 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- #Contents() &bold(){安賀両家}(あんがりょうけ)とは陰陽道の宗家である&bold(){安倍氏}と&bold(){賀茂氏}の総称。 平安時代において、陰陽寮内部の陰陽・天文・暦・漏刻部門のうち安倍氏は天文道、賀茂氏は暦道を独占した。 そして現代において著名な陰陽師は安賀両家の人間が殆どである。 しかし、安倍氏、賀茂氏ともに元々は陰陽道を生業としていたわけではない。 ここでは陰陽道における安賀両家成立過程を歴史的な面から簡単に追っていく。 *【陰陽道参入前の安倍氏】 安倍氏(当初は「阿倍」であった)は孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族とされる。 宮廷儀礼の中でも饗応を統轄する氏族であったとされ、「アベ」という氏は「饗(アエ)」に由来する可能性が指摘されている。 宣化天皇(在位536年~539年)の下で大夫とされた阿倍大麻呂以降、所謂「大化改新」に関わった左大臣阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)、 『[[竹取物語]]』の登場人物のモデルとなった右大臣阿倍御主人などの高官を輩出した有力氏族であったが、藤原氏の台頭により衰退、 800年代頃には議政官(政策決定機関)に人員を送ることはなくなった。 808年に安倍真勝、824年に安倍吉人、825年に安倍大家が陰陽頭(陰陽寮の長)となっているが、 陰陽道の専門家としてではなく、組織の責任者として登用されたにすぎなかった。 *【陰陽道参入前の賀茂氏】 賀茂氏は大物主の子である大田田根子の孫大鴨積を始祖とする地祇系氏族とされる。 当初は鴨君姓であったが壬申の乱において鴨蝦夷が功を立てたことで684年に賀茂朝臣姓を賜与された。 遣唐使に参加した賀茂吉備麻呂以降、外記(太政官に属し、詔勅の訂正、上奏文の起草、先例の勘考、儀式の執行などを担当した職)に補された後、 国司(地方官)に転任する者が殆どで、位階も五位が限界であった。 役小角という賀茂氏の出身とされる修験道の開祖がいるが、陰陽道との関係は皆無に等しかった。 *【陰陽道参入】 両氏が本格的に陰陽道に関わるのは、優れた陰陽師として『今昔物語集』などに登場する賀茂忠行の子である賀茂保憲と、 弟子の[[安倍晴明]]が登場した900年代半ば以降のことである。 保憲は、941年に暦生(暦について学ぶ学生)でありながら造暦の宣旨を受け、本来暦博士が行う暦の作成に携わる。 その後暦博士となった保憲は大陸から新しい暦を輸入、宿曜道(密教の一分野の占星術)と連携、暦道における地位を確立。 陰陽頭にまで出世し、さらに天文博士にも就任。 陰陽師としては異例の従四位下に叙され、陰陽、暦、天文を究め「三道博士」と称された。 晴明は970年頃保憲の後任の天文博士となり、977年に保憲が没して以降急速に陰陽師としての声望を高め、皇族や摂関家の信頼を得ることに成功。 従四位下に叙され「道の傑出者」と称された。 *【安賀両家成立】 賀茂氏は保憲の子光栄が暦道独占を画策し、宿曜道との連携の継続に加え自らの血統による暦道の世襲を推進、 光栄の曾孫の道清・道言がそれぞれ暦博士・権暦博士の地位にあった1065年頃以降、暦博士の地位を独占することに成功する。 安倍氏は晴明の子吉平・吉昌がそれぞれ陰陽博士・天文博士に就任。 吉昌没後は吉平の血統が天文道を継ぎ、吉平の子の章親・奉親がそれぞれ天文博士・権天文博士の地位にあった1035年以降、天文博士の地位を独占することに成功する。 また、陰陽博士は1063年以降、陰陽頭は1065年以降、安倍氏と賀茂氏以外から起用されることはなくなった。 陰陽道で確固たる地位を築いた安賀両家は、後年安倍氏が「土御門家」、賀茂氏が「勘解由小路家」と名乗り、公卿に列することとなる。 *【フィクションにおける安賀両家】 陰陽師は平安時代から現代に至るまで創作の格好の題材とされ、安賀両家は陰陽師の代名詞として様々な作品に登場してきた。 特に安倍晴明は数多くの説話(その多くは官吏であった陰陽師が私的な占いを行うようになった院政期以降の成立らしい)の影響から英雄的、超人的な描かれ方をされてきたが、背景には晴明以降の安倍氏が晴明を顕彰することで地位の向上を図るという思惑があった。 陰陽道が絡む作品では土御門や勘解由小路、倉橋、幸徳井といった後年安賀両家が用いた名乗りを登場人物の姓として設定する例が見受けられる。 *【安賀両家の人々】 ・&bold(){賀茂忠行} 保憲と晴明はわしが育てた。 天皇の御前で占いを披露したり、対平将門最終兵器「白衣観音法」の使用を進言したりしたが、陰陽寮で官職に就いたという信頼できる史料はない。 息子に昇進の機会を譲ってもらうなど、評価のわりに出世はできなかったらしい。 フィクションでは晴明や保憲の良き理解者として描かれることが多い。 ・&bold(){賀茂保憲}(917~977) 業績は上述した通り。 フィクションにおいては常識人であったりやり手であったりする。 慶滋保胤は弟。 三人いる息子のうち唯一陰陽道に進まなかった光輔は上半身裸で当時の摂政藤原道隆の邸に突入し無双乱舞した武勇伝の持ち主。 ・&bold(){賀茂光栄}(939~1015) 暦博士。 安倍晴明と対立したとされ、フィクションでも仲が悪い場合が多い。 弟である光国の任官機会を奪ったり、一条天皇中宮藤原彰子の出産日にボサボサの頭、ボロボロの服で現われ、懐から虱を取り出して殺したりした。 しかし実力は確かで、藤原行成に神認定される。 ・&bold(){[[安倍晴明]]}(921~1005) 天文博士。 「母親が[[狐>信太の狐(伝承)]]」「妻が[[NTR>寝取られ]]」「[[美男子]]」「好々爺」「化生」など好き勝手に設定がなされている陰陽師の代表格。 神秘的かつ超然としたイメージで描かれることが多いが、実際には保憲の功績を恰も自分のものであるかのように語るなど、俗に塗れた人間だった。 ・&bold(){安倍吉平}(954~1027) 晴明の子。陰陽博士や陰陽助を歴任。 『御堂関白記』にかなり登場している。 藤原実資も絶賛。 怨霊と対決したり緊急地震速報を流したりした。 ・&bold(){安倍泰親}(1110~1183) 晴明から数えて5代目。陰陽頭。 占いの的中率が高く「さすの神子」と呼ばれた。 『[[平家物語]]』や『源平盛衰記』に登場。 雷が直撃しても平気だったり、[[白面金毛九尾の狐]]と対決したりした。 「悪左府」藤原頼長にいろいろと重用された。 自身が頼長と[[アッー!]]な関係であったかは定かではない。 *【非安賀両家の人々】 最後におまけとして、安賀両家の陰に隠れてしまった陰陽師たちを紹介する。 ・&bold(){大春日益満}(活動期間950年頃~1000年頃) 活動期間前半は暦博士として20年以上、後半は陰陽頭として20年以上在任し、全盛期の賀茂保憲・安倍晴明と同時代を生きたが、 保憲と論争したことくらいしか話題がない。 ・&bold(){惟宗是邦} 権天文博士。 日本史の教科書で取り上げられる「尾張国郡司百姓等解」において、藤原元命とともに不法行為を働いた人間として名指しされる。 ・&bold(){惟宗文高}(活動期間1000頃~1030頃) 1010年から20年以上陰陽頭をつとめた。 藤原実資に「80過ぎてんのにピンピンしてるなんておかしくね?」と日記に書かれた。 富樫倫太郎の小説「陰陽寮」シリーズ(トクマ・ノベルズ)で賀茂光栄の弟子として登場しているが、ことあるごとに「光栄には及ばない」と言われる。 追記・修正よろしくお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,2) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - ぬら孫の御門院の元ネタか -- 松永さん (2013-08-11 16:57:56) #comment #areaedit(end) }