ローランド・ラッツェンバーガー

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ローランド・ラッツェンバーガー - (2025/08/21 (木) 23:17:34) のソース

&font(#6495ED){登録日}:2014/05/06(火) 23:52:53
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#center(){&font(#0000ff){自身としては、セナよりラッツェンの死がショック。}}
#center(){&font(#0000ff){去年まで同じレースで戦った仲間だから…}}

#right(){―「日本一速い男」[[星野一義]]}

#center(){&font(#ff0000){ローランドとは親友だったが、セナとは会ったこともない!}}
#center(){&font(#ff0000){何故親友を無視して赤の他人の死を悲しまなければならない!?}}

#right(){―1997年F1ワールドチャンピオン ジャック・ヴィルヌーヴ}



ローランド・ラッツェンバーガーとは、オーストリア生まれのレーシングドライバー。
F1の他、ル・マン24時間耐久に参加するようなグループCカーなど様々な車に乗った。

▽目次
#contents()

**経歴
オーストリア・ザルツブルクに1960年に生まれる。5歳の時見たレースをきっかけにレーシングドライバーを夢見る。
その後はなかなかモータースポーツとはあまり縁のないまま暮らし、父の薦めで大学に通っていたが、夢への情熱を捨てることが出来なかったのか大学を中退しレースの世界に飛び込んだ。
それ故、父との関係は悪化し、終生完全な修復は出来なかったという。

1981年にレーシングスクールのメカニックとして業界に飛び込む。2年間メカニックとして働きお金を貯めて活動資金を作り、1983年にドイツのフォーミュラ・フォードに参戦を果たす。
メカニック出身故のマシン開発知見の多さや、穏やかな性格ゆえの人柄の良さが周囲から評価され、徐々にステップアップしF1への登竜門である[[イギリス]]F3や、ツーリングカーレースでもBMWワークスチームに参戦。
1989年になると、[[イギリス]]F3000に参加しながら日本の全日本プロトタイプスポーツカー耐久選手権にトヨタのセミワークスチームに招聘され参加。
後にTS010となるマシンの開発ドライバーとして期待されての招聘であり、契約内容にもその旨が記載されるなど彼の開発能力に対する期待がうかがえる。

翌年以降は日本に活動の軸足を移し、全日本F3000や全日本ツーリングカー選手権に参戦。
F1を目指し奮戦していたエディ・アーバイン(後にフェラーリのNo.2となり、F1通算4勝)やマウロ・マルティニ、ジェフ・クロスノフ、ジャック・ヴィルヌーヴ(1997年F1ワールドチャンピオン)、ジョニー・ハーバート(F1通算3勝)、ミカ・サロ(アーバインのチームメートとして一時期フェラーリに在籍)、ハインツ=ハラルド・フレンツェン(F1通算3勝)らと
[[星野一義]]ら国内勢がしのぎを削った日本国内レース黄金期であり、ここからF1に羽ばたく人材が数多く出た当時の全日本F3000で、ラッツェンバーガーは堅実な走りとドライバーとしては珍しい紳士的性格、開発能力を買われ徐々に立場を固めていった。
そして、アーバインやクロスノフとは無二の親友として日本で共に過ごし、国内のドライバーやファンからも先の性格ゆえにラッツェンさんと呼ばれ親しまれていた。

そして、1994年にはこの年から参戦となった新興チームシムテック・フォードからF1参戦が決まる。
プライベートではフィアンセとの結婚も決まりつつあり、前年にジョーダンからのスポット参戦という形でF1デビューしていてアーバインは、この年はレギュラードライバーとして契約することになっていた。
自分を支えてくれる人との関係も順調な上、鎬を削ったライバルと共にF1を走れることになったラッツェンバーガー。これが彼にとって一番良い時期だったであろう。
ただ、ラッツェンバーガーは持参金が少なかったからか、参戦するのは前半の4戦+鈴鹿の日本GPのみという契約であった。
開幕戦のブラジルGP(インテルラゴス・サーキット)では残念なことに予選落ちを喫するも、第二戦パシフィックGP([[岡山県]]・TIサーキット英田)では予選を突破すると11位完走を果たす。
新興間もなく、テールエンダー上等なチームとはいえ、憧れの最高峰の舞台で地道に活躍を始め、第三戦の[[サンマリノ]]GPから始まるヨーロッパラウンド(と言っても、契約上残りの参戦は[[サンマリノ]]とモナコだけだったが)に夢をふくらませていただろう。しかし…

**イモラの悲劇
1994年のF1は、前年まで多くのマシンが使用していたアクティブサスペンション、TCSなどのハイテクデバイスがほぼ全面禁止となった。その結果、各チームのマシンは空力技術やエンジンの大出力化によってコントロールが難しかったマシンを安定させていたデバイスが欠けたことで、ドライバーはこの年のマシンに手こずっていた。
ハイテク満載のマシンは、それを最も上手く活用していたウイリアムズの「レースが退屈になる程の」強さを実現していたのだが、同時に操縦性の向上などによる安全性の上昇にも貢献していたのである。
シーズン前の[[テスト]]でベネトンのJJ.レートが負傷し開幕からの二戦を棒に振り、ジャン・アレジも開幕戦後の[[テスト]]中にクラッシュして負傷し第二戦と第三戦を欠場するという、不穏な空気が漂うシーズンとなっていた。

予選初日、1994年4月29日。
ジョーダンの若きエースドライバールーベンス・バリチェロがシケインで縁石を踏んで吹っ飛び、金網に衝突。ノーズから地面に落ちてひっくり返る大クラッシュが発生。
幸いにも鼻を折る怪我で済んだものの、このレースの欠場が決まった。

翌日予選二日目、1994年4月30日。ラッツェンバーガーは予選突破に向けタイムアタックを敢行。しかしシケインで縁石に乗り上げてしまい、[[フロントウイング]]に僅かな損傷を受ける。
しかし、これを軽度の損傷と見たラッツェンバーガーはアタックを続行した。これが金のある強豪チームのエースだったなら、念のためウイングを換装して立て直すという選択を取れたかもしれない。
しかし、シムテックは弱小チームであり、ラッツェンバーガーは33歳でようやくF1に持参金付きでたどり着いた立場のあまり強くないドライバーだったからか、その選択を取らなかった。ウイングだって安くはないのだ。
しかし、この選択が命取りとなってしまう…。

次の周のヴィルヌーヴコーナーで[[フロントウイング]]が脱落。コントロールを失ったラッツェンバーガーのマシンはコンクリートバリアに300キロ以上の高速で激突。惰性で次のコーナーであるトサコーナーまで滑ってくるほどのすさまじい衝撃を受けたラッツェンバーガーのマシンは、モノコックが破砕されて大穴が開いていた。
ラッツェンバーガーはすぐにマーシャルにマシンから出されて応急処置を受け病院で手当を受けたが、頚椎骨折や内臓の破裂など即死級の怪我を負っており、その日のうちに死亡が発表された。享年33。
F1のレースウィークとしては1982年のリカルド・パレッティ、[[テスト]]も含めると1986年のエリオ・デ・アンジェリス以来の死者となってしまった。
恋人との結婚を目前に控え、F1参戦権が切れた後は親友のマルティニ、クロスノフと組んでトヨタのマシンを駆り、ル・マン24時間耐久レースに参戦する予定であった。

そして、1994年5月1日。スタートでいきなりJJ.レートのマシンにペドロ・ラミーのマシンが突っ込んで飛び散ったパーツで観客が負傷する事態になってもなお、レースを強行した結果
[[アイルトン・セナ]]がタンブレロコーナーでステアリングシャフトの破断に伴う操作不能に陥り300キロオーバーで壁に激突、死亡という悲劇を生み出してしまった。
&color(whitesmoke){そして、セナという巨星堕つ週に被ってしまったが故に、ラッツェンバーガーの死がやや霞んでいった…}


**その後
第四戦モナコGPでは一番グリッドにセナのブラジル[[国旗]]、二番グリッドにラッツェンバーガーのオーストリア国旗があしらわれ、追悼された。
しかし、そのモナコでもラッツェンバーガーと同じくオーストリア出身の若手であるカール・ヴェンドリンガーが危うく死ぬところであった大クラッシュを起こし才能を失い、次のスペインGP前の[[テスト]]ではペドロ・ラミーが全治1年の重症を負い、さらにスペインGP予選ではラッツェンバーガーの後釜に座ったアンドレア・モンテルミーニがクラッシュして負傷するなど、クラッシュの連鎖は続き、結局異例のシーズン途中にマシンに関するレギュレーションの変更を余儀なくされた。


そしてラッツェンバーガーがル・マンで駆る予定でだったトヨタのマシンには、代打としてF1にレギュラー参戦していたアーバインを起用。前述の通りアーバインもラッツェンバーガーの親友であり、日本で共にレースをした間柄。彼ら3人が乗るマシンには、ラッツェンバーガーの名前が入られた。
ル・マンでは優勝を狙える快走を見せるが、トラブルで後退。ここまでかと思われたが、アーバインが終盤猛烈にプッシュし優勝を狙ったが、わずかに届かず2位に入った。
レース後のアーバイン曰く「ラッツェンバーガーがいたら楽勝だった」とのことである。

アーバインはその後も2002年の引退までF1ドライバーとして活躍することになるが、その一方でクロスノフはラッツェンバーガーの事故から2年後に故郷のアメリカに帰国しCART(現インディカーシリーズ)に参戦。しかし、その年のトロントで開催されたCARTレース中に、今度はクロスノフが事故死してしまった。

ラッツェンバーガーの死後も日本でレースを続けていたマルティニは、そこから立ち直る前にクロスノフを失ったことで、レースの世界から身を引く決断をした。

ローランド・ラッツェンバーガーは、史実の歴史からセナに比べれば華もないし、所詮弱小チームの泡沫ドライバーだったのかもしれない。
しかし、“もしも”彼が生きていれば鈴鹿での活躍や、次なるF1への参戦、上位チームへのレギュラードライバーの座も得ていたと思うと実に残念である。
そんな今を生きるモータースポーツファンは日本から大志を遂げた努力家の彼のことを少しでも覚えておいてほしい。



#center(){&font(#ff0000){いつもジェフやローランドと、六本木でバカ騒ぎするのがお決まりだった。}}

#center(){&font(#ff0000){でもローランドはもう居ない。}}

#center(){&font(#ff0000){そしてジェフも、もう居ないんだ…}}

#right(){―エディ・アーバイン}



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#openclose(show=▷ コメント欄){
#areaedit()
- 愛を感じる項目だな。この人も間違いなく一流のドライバーだった  -- 名無しさん  (2014-05-07 01:40:16)
- 同じくザルツブルク出身のハプスブルク選手の哀悼コメントで知ったが、凄い選手がいたもんだ  -- 名無しさん  (2022-05-28 18:06:04)
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