&font(#6495ED){登録日}:2014/12/02 Tue 17:45:13 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 10 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- &b(){二宮の変}(にきゅうのへん)とは三国志の時代、241年頃から呉で勃発した政治闘争のことである。 二宮事件とも呼ばれ、10年近くおよんだこの事件により呉は有能な人材を多く失い、その命脈を削ることとなった。 ちなみに正史には記載されているが、三国志演義では省かれている。 *概要 早い話が呉の後継者争いと、それに伴う重臣たちの政治争いである。 長男にして皇太子だった孫登が病死したため、&color(#bf9000){孫権}はその次の兄弟&color(#0000ff){孫和}を新たな皇太子としたが、 よりにもよってその弟&color(#ff0000){孫覇}を同等に扱ってしまう。 そのため重臣たちが&color(#0000ff){孫和派}と&color(#ff0000){孫覇派}に分かれてしまい、&color(#bf9000){孫権}に対する諫言・讒言合戦が行われてしまうこととなった。 孫家の後継者争いなだけあって孫姓の人がたくさん出てくるため、慣れないうちはわけが分からなくなる。 *登場人物 **孫家 [[&font(b,#bf9000){孫権(そんけん)}>孫権]] ご存じ呉の初代皇帝にして全ての元凶。 晩年老害化が目立つとされる&color(#bf9000){孫権}だが、この事件は恐らくその所以にして彼の人生最大の汚点。 最後の最後に一番とんでもないことをやらかしてしまった。 やはり[[孫>孫堅]][[家>孫策]][[D>孫夫人/孫尚香]][[Q>孫皎]][[N>孫皓]]の血は伊達ではなかった… &b(){孫登(そんとう)} &color(#bf9000){孫権}の長男。当初は皇太子とされていたが病により孫権より先に死んでしまった。 孫登は&color(#0000ff){孫和}と仲がよかったため、&color(#0000ff){孫和}を後継者とするように遺言を残していたが…。 &font(b,#0000ff){孫和(そんか)} &color(#bf9000){孫権}の三男。孫登の死後、前述の遺言と次男の孫慮が既に亡くなっていたこともあり、新たな後継者として擁立される。 しかし、その後孫権からの寵愛が薄れていき、弟の&color(#ff0000){孫覇}が寵愛されるようになる。その裏にはある女の影が…。 悪名高い[[孫皓]]の父でもあるが、彼自身は学問が好きで、臣下の諍いを良い形で仲裁するなどまともな人物だった。 &font(b,#ff0000){孫覇(そんは)} &color(#bf9000){孫権}の四男。&color(#bf9000){孫権}により魯王に封じられ、兄&color(#0000ff){孫和}と同等の扱いを受ける。そのため両者の間で後継者争いが激化していき…。 余談だが似た立場であった魏の曹丕と曹植は、あくまで重臣たちの勢力争いで本人たちはさほど嫌い合っていなかったとする説もあるが、こいつは積極的に後継ぎの座を狙っていた。 &b(){孫亮(そんりょう)} &color(#bf9000){孫権}の七男。詳しくは後述するが、結局2人の兄のどちらでもなく彼が跡を継ぐことになった…。 が、皇太子に指名された当時はなんと&b(){8歳}!&color(#bf9000){孫権}が死んで皇帝に即位した時点でもわずか&b(){10歳}! 孫権ェ…。 &font(b,#ff0000){孫魯班(そんろはん)} &color(#bf9000){孫権}の娘。姉の方。三国志大戦では字の大虎として登場。大流星の儀式で覚えている人も多いのでは? 二宮の変では&color(#0000ff){孫和}と対立して&color(#ff0000){孫覇}に組する。妹さえも死においやる悪女っぷり。だがそれがいい。 &font(b,#0000ff){孫魯育(そんろいく)} &color(#bf9000){孫権}の娘。妹の方。三国志大戦では字の小虎として登場。&s(){もうしょうこをいじめないで……} 夫の朱拠が&color(#0000ff){孫和派}に属していたため、二宮の変が幕を引いたあと&color(#ff0000){姉}に謀殺されることに…。 **重臣's ***&color(#0000ff){孫和派} [[&color(#0000ff){陸遜}>陸遜]](夷陵の放火魔。当時の陸遜は丞相でもあり、言わずもがなの建国功労者) &color(#0000ff){吾粲}(孫和の後見人。陸遜と並ぶ孫和派の先鋒) &color(#0000ff){朱拠}(孫魯育の夫) &color(#0000ff){顧譚}(丞相を務めた顧擁の孫) &color(#0000ff){張休}(呉の内政の大重鎮、張昭の息子。孫和の妻の叔父でもある) &color(#0000ff){諸葛恪}(諸葛瑾の子で[[諸葛亮]]の甥。才気があり過ぎて身を滅ぼすと父に予言された) その他多数 ***&color(#ff0000){孫覇派} &color(#ff0000){全琮}(孫魯班の夫) &color(#ff0000){歩隲}(驃騎将軍。孫魯班、孫魯育の母・歩夫人を同族に持つ) &color(#ff0000){呂岱}(齢九十六まで生きた呉の長老) &color(#ff0000){呂拠}(呉の高官・呂範の子) &color(#ff0000){楊竺} その他多数 *孫登の死~&color(#0000ff){孫和}・&color(#ff0000){孫覇}の対立 &color(#bf9000){孫権}は当初、長男の孫登を皇太子として後継ぎに指名していた。 しかし孫登が病により早逝したため、&color(#bf9000){孫権}は&color(#0000ff){孫和}を新たな皇太子に立てる。 この時後継者の相次ぐ死から「王を立てるべき」と言う意見が広がっている。((ちなみに孫権に寵愛されていた次男の孫慮すら侯止まりであり、呉は相当後継者争いに敏感だったことが見て取れる。なお、孫慮は232年に没している)) 当初孫権は拒絶するも、242年に&color(#ff0000){孫覇}を魯王に封じている。 さらに、&color(#0000ff){孫和}の生母である王夫人を皇后に立てようと、重臣たちが&color(#bf9000){孫権}に働きかけた。 が、それが気に食わない女が一人……露伴ちゃん、もとい&color(#ff0000){孫魯班}である。 実は&color(#ff0000){魯班ちゃん}の母、歩夫人はかつて皇后になれなかったという過去があり、他の女が皇后になることが許せなかったのである。(歩夫人本人が固辞していたんだけどね) そこで&color(#ff0000){魯班ちゃん}は王夫人を皇后にさせないために、&color(#bf9000){孫権}にあることないこと吹聴するようになる。 例えば、ある時孫権が病床に臥せってしまい、孫和が宗廟で快復祈願をすることになった。 その際にちょこっと席を外して妻の叔父である&color(#0000ff){張休}の下に立ち寄ったのだが、それを聞いた&color(#ff0000){魯班ちゃん}はそれを誇張して、 #center(){ &font(#ff0000,b){孫魯班「孫和は父上がご病気なのに、宗廟で祈らず叔父と謀議ばかりしております」} さらに &color(#ff0000){&b(){孫魯班「王夫人は父上の病気を喜んでおります」}} } と讒言した。 これを聞いた&color(#bf9000){孫権}は大激怒し、王夫人を皇后に立てることを取りやめ、&color(#0000ff){孫和}を疎んじるようになる。 その後も&color(#ff0000){魯班ちゃん}は讒言を繰り返し、&color(#bf9000){孫権}の寵愛は&color(#0000ff){孫和}から&color(#ff0000){孫覇}に移っていくようになる。 やがて&color(#ff0000){孫覇}は&color(#0000ff){孫和}とほぼ同等の扱いをされるようになり、家臣たちの間で太子廃立が行われるのでは?と囁かれるようになる。 *重臣たちの勢力争い これに目をつけたのが呉政権の非主流派たちである。 元々呉は地方豪族の寄り合い所帯みたいなものであり、言わば連立政権のようなものであった。 &color(#0000ff){陸遜}など政権の主流派が&color(#0000ff){孫和派}に属していたわけだが、ここで&color(#ff0000){孫覇}が後継ぎとなれば非主流派の自分たちが政権の中枢へ行けると考えたわけである。 しかも&color(#0000ff){陸遜}は政権のトップである丞相という地位を与えられながらも、それまでの職務であった荊州統治を引き続き行うため荊州に駐屯している。 中枢で最も権力を持つ人物が、&color(#bf9000){孫権}のいる建業にいないことが常態化してしまっていた。 #center(){&font(#ff0000.b){非主流派's「「「これは…チャンスやん?」」」}} これに危機感を抱いた&color(#0000ff){陸遜}は度々&color(#bf9000){孫権}に対して長幼の序を大切にして&color(#0000ff){孫和}を擁護する文書を送り、さらに建業に出向いて直接&color(#bf9000){孫権}を説得しようとした。 それに対して&color(#ff0000){孫覇派}は&color(#bf9000){孫権}に讒言し、&color(#ff0000){楊竺}に至っては&color(#0000ff){陸遜}に関する20カ条もの疑惑事項を告発するという有様だった。 これを真に受けた&color(#bf9000){孫権}は&color(#0000ff){陸遜}に何度も問責の使者を送った上に、&color(#0000ff){吾粲}を処刑したり&color(#0000ff){顧譚}、&color(#0000ff){張休}らを左遷してしまった。 #center(){ &font(#bf9000,b){孫権「とりあえず左遷」} &font(#0000ff,b){陸遜「そんな馬鹿な……」} } あまりに執拗な追及を受け、失意の中&color(#0000ff){陸遜}は病を発して死去。 刑死させたわけではないが、実質的には孫権が死なせたようなものである。 こうして&color(#ff0000){孫覇派}が一度は主導権を握るものの、&color(#ff0000){全琮}、&color(#ff0000){歩隲}が相次いで死去してしまう。 これに乗じて&color(#0000ff){孫和派}が一転攻勢![[汚名挽回!>ジェリド・メサ]] ……と思いきや、この機会を活かすことができず、結局状況はさらに混迷化し、泥沼の様相を呈してしまう。 ちなみに&color(#bf9000){孫権}は、この頃になると自分が元凶のくせに2人の息子の争いに&b(){嫌気が差していた}。 *喧嘩両成敗 結局&color(#bf9000){孫権}は&color(#0000ff){孫和}を廃立し、&color(#ff0000){孫覇}には自害を命じ、当時8歳だった七男孫亮を皇太子とした。 さらに&color(#ff0000){孫覇派}で積極的に工作に参加した者たちを片っ端から誅殺し、&color(#0000ff){孫和派}の方も&color(#0000ff){孫和}の廃立に反対した者たちがばんばん処刑された。 唯一の救いとなるエピソードは、&color(#bf9000){孫権}が後に&color(#0000ff){陸遜}に対する誤解を解いたことである。 &color(#0000ff){陸遜}死後、&color(#0000ff){陸遜}の子&color(#008cff){陸抗}は連座されておらず官職についたが、&color(#bf9000){孫権}は&color(#008cff){陸抗}に対しても&color(#ff0000){楊竺}の発した&color(#0000ff){陸遜}への疑惑を詰問させた。 だが、&color(#008cff){陸抗}が整然と答えると&color(#bf9000){孫権}はようやく&color(#0000ff){陸遜}に対する誤解を解いた。 &color(#008cff){陸抗}が任地に行くため&color(#bf9000){孫権}の下を離れるときは&font(#bf9000,b){「自分は愚かにも讒言を信じ、君の父上の信義を裏切り、君にも悪いことをしてしまった。自分が父上に送った詰問の手紙を焼き捨ててくれないか」}と泣きながら謝ったという。 その後&color(#008cff){陸抗}が呉の大黒柱となり、死ぬまで斜陽の呉を支えたことを考えると、&color(#bf9000){孫権}にもまだ人を見る眼は残っていたのかもしれない。 *その後 この政権争いは、幕引き後も呉に悪い意味で大きな影響を残している。 彼が左遷した臣下たちは呉の建国に大功のあった重要な人材やその子たちである。 それを内輪揉めで次々左遷したり処刑したりしたため、呉の屋台骨は一発でガタガタになってしまったのである。 &color(#bf9000){孫権}の死後、当時わずか10歳の孫亮が皇帝に即位した。 孫亮自身は聡明で知られていたものの、この年齢では政治は臣下任せにならざるをえない。 結果として側近の&color(#0000ff){諸葛恪}が実権を握ることとなった。 ……が、その&color(#0000ff){諸葛恪}が魏への遠征に大失敗。多大な損害を出して失脚した&color(#0000ff){諸葛恪}を、今度は&color(#ff0000){元孫覇派}だった&color(#ff0000){孫峻}がクーデターを起こし誅殺。さらに&color(#0000ff){孫和}を自害させた。 これでやっと落ち着いた…と思いきや、今度は孫登の子である孫英が&color(#ff0000){孫峻}を暗殺しようとして失敗。 &color(#ff0000){孫峻}の権力は従兄弟の孫綝へ引き継がれる。が、この頃には即位時は幼かった孫亮も大人になり、自分で政治をとり行おうとする。 意のままにならない孫亮が邪魔になった孫綝は孫亮を廃し、&color(#bf9000){孫権}の六男孫休を擁立するが、その孫休に孫綝が殺され……と、内紛は長い間続くことになった。 当時魏では、249年の高平陵の変の後司馬一族を中心とした政治体制になり、これに対する反乱が多発していたが、政治体制そのものは全く揺らいでいなかった。 蜀は呉とは仲がよく意気軒昂ではあったが、呉と比べても国力が小さすぎた(現に[[姜維]]の北伐は成果をほとんど挙げられていなかった)。また蜀の国内情勢も、姜維を抜きにしても支離滅裂のひどすぎる有様で、外地の姜維が一番真面目、というぐらいだった。 元々魏は呉の3倍近い国力を持っていただけに、この争いは呉が魏に勝つかすかな可能性を封じてしまったとさえ言われているのである。 また、[[三国志]]最悪の暴君として知られる[[孫皓]]は、父を大変敬愛していたようで帝位についたあと何度も父を祀っていたという。 孫皓が暴政に走ったのは、父&color(#0000ff){孫和}が一度は皇太子として立てられながらも理不尽に廃立され、無残な最期を遂げてしまったことが原因であるとも言われている。 三国志で後継者争いといえば、後継ぎに悩む[[曹操]]に賈クが例として挙げた[[袁紹]]、[[劉表]]が有名であるが、この二人は残された者たちが勝手に争い始めたに過ぎなかったと言われている。 だがこちらは存命中の孫権があっちにフラフラ、こっちにフラフラした結果であり、&bold(){孫権がその気になれば避けられたトラブルであった}点で、タチの悪さはこちらの方がはるかに上である。 しかし、演義では省略されているので、ある意味優遇と言えるのかもしれない。 &s(){呉の地味さに拍車がかかっているとか言ってはいけない。} *陰謀論 しかし、この二宮の変、孫権はわざと放置していたという[[陰謀論]]がある。 呉は孫家以上にその土地で影響力のある一族を配下として抱えている面があった。 孫家は家格の低さ、正統性の乏しさ、大豪族の寄合連合政権の盟主でしかない等の理由から 国家運営には彼らとの協力が必要であったが彼らに主導権を奪われるようなことがあってはならなかった。 当時、江東の豪族、特に陸家の勢力は大きくなりすぎていた。 だから孫権はわざと10年間も後継者争いを放置して主流派と非主流派を争わせて喧嘩両成敗で力を削った、 というものである。 実際、顧家等が没落している。 まあもっとも、豪族を削ろうとした結果として国家自体が崩れたんだから、やはり孫権の謀略としても大失敗だったと言えよう。 だいたい、それをするならもうちょっと気力と体力のある若い時期にするべきだったのではないか。もしこの内紛中に孫権が病床に伏したり逝去したりすれば、もう本当に止めようがなくなる。 後継問題という、国の将来を左右する問題を、こんな謀略に使うというなら、それは極めて危険な策略である。 考えなしに放置した結果なら論外。考えたうえで引き起こした結果なら愚策。やはり孫権の過ちとしか言いようがない。 追記・修正は後継ぎをちゃんと指名して、扱いを別格にしてからお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,24) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - なるほどね。よく分かりましたよ魯班おじさん -- 名無しさん (2014-12-02 18:08:41) - 汚名挽回しちゃいかんだろww -- 名無しさん (2014-12-02 19:02:20) - 孫権が何もかも悪い。若い頃は曹操や劉備と互角以上に渡り合ったのになぁ 晩年は劉禅以下 -- 名無しさん (2014-12-02 19:52:21) - 裴松之も袁紹、劉表の件とは問題にならないほど酷いと評している。 -- 名無しさん (2014-12-02 21:23:53) - 淫夢語録交える必要性ないだろ気色悪い -- 名無しさん (2014-12-02 22:14:16) - こんなことでは孫皓もやさぐれてしまうわけだ -- 名無しさん (2014-12-02 22:16:17) - この後継者争いに近いのってあとは上杉謙信の跡目争いぐらいか。 -- 名無しさん (2014-12-03 00:27:25) - 蜀漢の滅亡とか作ってくれないかな -- 名無しさん (2014-12-03 11:12:50) - あまりにgdgdすぎてめまいがしてきたw -- 名無しさん (2014-12-04 21:07:46) - 陸遜はこの事件の影響で死亡し、朱然も結論が出される一年前の249年に病死したので孫権はこの事件を経て孤独になったと言える -- 名無しさん (2014-12-04 21:46:15) - ↑4むしろ信親死後の長宗我部家のが近いかと。 -- 名無しさん (2014-12-04 21:47:29) - こりゃ演義で省かれるわ・・・グダグダすぎてやばいもん。 -- 名無しさん (2014-12-04 22:58:13) - 歩隲も全琮も陸遜もみんな江南の名家の看板を背負う人物だから、皇帝権を確立しなきゃいけなかったのに最後の仕上げである後継者指名でこういう行為をやってしまう孫権ってやっぱり -- 名無しさん (2014-12-07 14:20:04) - ↑7 上杉は天下統一の致命的な出遅れにはなったものの何だかんだ収束はしたし、陸遜ポジの兼続がその後長生きしたからお家もそこまで酷く落ちぶれなかったし・・・ -- 名無しさん (2015-01-11 13:44:43) - こうみると、きちんと長子に相続させられた曹操、劉備との対比が目立つなw -- 名無しさん (2015-01-23 14:08:29) - ↑ 何気に司馬一族も跡目はちゃんとしてたよな。 -- 名無しさん (2015-03-15 14:48:56) - ↑3天下統一どころか、越後以外の領地全喪失ーの、反乱おこされーので、本能寺というミラクルが無ければ滅亡秒読みまで衰えたんですが…。 -- 名無しさん (2015-03-15 17:22:54) - この孫権だれ? 俺、こんな孫権知らないんだけど・・・ -- 名無しさん (2015-04-01 01:20:53) - 呉での豪族間のつながりがあーっけなく崩れましたね。 これだから孫家DQNはいかんですなぁ。 第一基地外娘の意見を聞いて陸遜の意見を聞かないとは、誠にDQNだ。 -- 名無しさん (2015-04-01 11:02:16) - 孫権はまあ老衰もあるし強大な国力を持つ魏に対して自国は人不足に常に悩まされて気が滅入ってたのもあるんだろうけどそれでも晩年の政治は目に余るものがあるよね -- 名無しさん (2016-01-28 08:20:47) - 陸遜が政権の主流とは寡聞にして聞かぬな -- 名無しさん (2017-05-20 00:16:27) - ↑4 ちゃんと現実を見ようww -- 名無しさん (2017-08-16 17:15:09) - ニコニコでコーエー三国志の顔グラつかったこの騒動の創作動画あったな -- 名無しさん (2018-03-08 00:23:58) - びっくりするぐらい世紀末的だった・・・ -- 名無しさん (2018-05-18 15:58:27) - 孫魯班が諸悪の根源なのだが、歩皇后が好きすぎて娘を疑えなかったのだろうか。となると妹のほうがもうちょっと諌めていたら違ったのかな? -- 名無しさん (2018-10-11 18:06:38) - 長男の孫登が早死にしなければ逆転は無理にしてももう少し持ちこたえられたのかな? -- 名無しさん (2019-05-11 09:35:00) - 全琮歩隲は身内に甘すぎるところがある。そんな孫覇派に呂岱と呂拠がいることを悲しく思う -- 名無しさん (2019-06-21 21:31:31) - 晩年の孫権は劉禅より酷かったのか・・・ -- 名無しさん (2019-06-21 22:01:37) - いや、劉禅は降伏後に後継者で揉め事の種蒔いてるから蜀が後五年ぐらい続いてたらやばかった。後、歩隲呂岱呂拠辺りは漠然と連名されてるだけで実際何をしたかの記録に乏しくて正直本当に関わりあったか怪しい。 -- 名無しさん (2019-06-22 02:12:37) - これも晩年に至って自分の死後豪族が再び力を取り戻して実権を握るようなことを恐れ、有力者を間引こうとしたんだろうけど、娘が想定以上に性悪だったのもあって収束に失敗したって感じ -- 名無しさん (2019-07-09 11:25:45) - 全琮もそんな積極的に動いていたかというと妻に引っ張られていた感じが…… -- 名無しさん (2019-11-14 13:21:26) - というか孫英は蚊帳の外か…普通順番通りに行けば嫡孫が継ぐよね? -- 名無しさん (2019-11-24 02:22:45) - 孫和の母親は無力だったんかね?あるいはすでに死んでいたか -- 名無しさん (2020-08-23 17:09:37) - 晩年の耄碌していた孫権の陸遜に対する疑念を晴らした陸抗はすごいな。 -- 名無しさん (2021-02-14 11:09:15) - 何故このタイミングで魏は攻めなかったのやら。陸遜が死んだ時に仕掛ければ袁家のようにアッサリ滅ぼせただろうに。 -- 名無しさん (2021-02-14 13:04:05) - 曹爽と司馬懿で権力争い真っ最中だったんで軍事的実績を欲しがった曹爽が出兵してボロ負けしたぞ -- 名無しさん (2021-02-14 13:19:00) - ↑1 蜀の侵攻に失敗した挙句絶賛内紛中の呉にもボコされるとか曹爽ってこの時期の孫権よりも無能すぎるやんけ… -- 名無しさん (2021-02-14 21:05:38) - 呂壱のように低い身分から取り立てた人物で豪族たちに対抗しようとしたが両者との間で板挟みになって非業の死を遂げた。 -- 名無しさん (2021-02-20 21:35:02) - ↑ 孫晧も岑昏て寵臣がいたけど結局士気上げのためにとりあえず血祭りにされるっていうね -- 名無しさん (2021-02-20 21:53:04) - 日本の戦国時代も甲斐みたいに国人衆の強い国もあった。信虎も力で国人衆を支配しようとしたが反発して晴信を当主に立てて信虎を追放した。 -- 名無しさん (2021-02-20 22:09:15) - ↑6孫権死後に魏が大軍を率いて攻め込んだが諸葛恪らに撃退された。諸葛恪は周囲の反対を押し切って魏を攻めたが大敗を喫し失脚した。 -- 名無しさん (2021-02-21 00:58:38) - ↑2 もあった、というかどこも基本そう -- 名無しさん (2021-02-21 06:32:08) - 諸葛恪も司馬師のように敗戦の責任を引き受けていれば暗殺されることもなかっただろう。 -- 名無しさん (2021-02-21 11:39:25) - 諸葛恪は天才肌な代わりに細やかな配慮に欠ける人物だったくさい。成果を上げてるうちは皆不承不承でも素直に従っただろうが、一発大失敗すれば即アウトなタイプ。叔父さんは北伐失敗の時自分も降格処分にしたりしてたのにね。 -- 名無しさん (2021-02-21 12:06:30) - 諸葛恪は親父からは頭が良すぎて家滅ぼすかもや陸遜からその傲慢な性格をどうにかしろと言われるほど人間性に問題があった。タイプ的には鍾会や馬謖に近い人間。 -- 名無しさん (2021-02-27 21:41:19) - 長子相続と言うと現代人の目から見ると非合理に思えるけど跡目争いを防ぎ国力を温存するには最も合理的な制度なんだよな。 -- 名無しさん (2021-02-27 21:56:03) - ↑ ただし長子に何かあった場合に即アウトになりやすい。それが困るから側室を設けて子どもが沢山出来て結局はドンパチが起こる。 -- 名無しさん (2021-03-15 11:38:05) - 正確に言うと生まれた順相続ね。均等相続だと家の力が分散されるし、能力で選ぶと選ばれなかった人間が不満を持つから。 -- 名無しさん (2021-03-15 12:14:41) - ちなみに中には新しい王が即位したらそれ以外の兄弟や甥は皆殺しっていう素敵な制度のある王朝もあったらしい。まあ、具体的にどの王朝かは知らないんで都市伝説かも知れないけど -- 名無しさん (2021-03-15 12:19:50) - ↑それを穏当にした形が足利氏の「後継以外出家させる」なのかもしれない(ただし↑3のメリットとデメリットが両方そのままになる)。清の「皇帝の死後に後継を公開する」はうまくやったかなと思うね -- 名無しさん (2021-07-03 16:02:20) - 孫権に長幼の序を説く陸遜も悪い気がするんだよな。孫権は兄・孫策の子に家督を返してないし、さらに遡れば孫堅の兄・孫羌の一族がいる。陸遜の発言は孫権の存在否定に他ならない。 -- 名無しさん (2022-11-23 10:06:43) - そもそも論でいうなら、諮問されたわけでもないのに勝手に君主(それも皇帝)の後継者選定に嘴を突っ込んでくる臣下サイドにもだいぶ問題がある。特にターニングポイントを作った陸遜は、もう少しやり方を選んでいればここまでコトがこじれなかった可能性も大いにある。 -- 名無しさん (2023-03-07 23:24:12) - あの賢妻で有名な歩夫人の娘がこれってのが↑4 -- 名無しさん (2023-05-31 16:41:17) - ↑5即位したら王様の兄弟皆殺しはあのオスマン・トルコだな -- 名無しさん (2023-05-31 16:42:02) - 大体の出典が後世のものだし記事内でどっからとったのかの引用すらない…… -- 名無しさん (2023-05-31 17:22:27) - 後に玄武門の変を起こした唐の太宗はこの事件を教訓にしたんじゃないかな?彼は玄武門の変を自分ちの問題として政争にせずに処理してるし -- 名無しさん (2023-06-03 20:21:00) - この件だって別に孫権は継承問題をよそに広げようとしたわけではないし、むしろ臣下の干渉を勅で禁じてるんだけど、孫呉は豪族の力が強くて結局勝手に口をはさんでくるし政治抗争も始めちゃうからね・・・ -- 名無しさん (2023-06-03 21:10:54) - 陸遜も孫権に対してズケズケと主張しすぎで君主の顔を立てる配慮はできなかったのか -- 名無しさん (2024-02-15 09:19:40) - 孫覇は父の孫権から自害を命じられた時かなりショックを受けたんだろうな。だって今まで自分を可愛がってきた父からいきなり「死んでくれ」って言われたようなもんだし -- 名無しさん (2024-06-22 15:33:14) - 多分だけど呉に賈クのような人物がいたらこの事件は起きなかったかもしれないな -- 名無しさん (2024-08-05 08:09:24) - かつて魏と蜀に天下統一が望めないほどの大損害を与えた呉だけどこっちもこの事件のせいで天下統一の可能性を潰してしまってるな -- 名無しさん (2024-09-07 09:43:50) - ここに一番いてほしかったのは諸葛瑾だった。ただ彼すらそっぽ向く呂壱事件で孫権の信望が失墜したのがそもそも痛すぎた。 -- 名無しさん (2024-09-16 16:22:41) - 孫権は本来ナンバー2とかのほうが生きた気質だったってことだと思う。若い頃に父兄は亡くなったが、周瑜を筆頭に年上の有能配下がいたし、張昭という頑固な説教役もいた。でもみんな年上はいなくなった。一番年上の世代になってしまった。それが孫権の不幸だったと思う。老害というのは本人の能力の低下もあるかもしれないが、それ以上に目上の人がいるからこそ安定するタイプの人間が、目上がいなくなることで、不安定になる。もしくは自分が一番年上だから頑張らないという頑張りが、結果として裏目を引いているのもあると思う。 -- 名無しさん (2024-10-26 03:15:01) - 当然といえば当然だが無双シリーズなどでは再現されてない やるとしたら戦国無双4の三成失踪事件(三成襲撃事件)みたいにアレンジした形になるかな やらんだろうが -- 名無しさん (2025-03-15 18:42:29) - 自分達の都合で散々魏と蜀を邪魔してきたツケを清算されたもんじゃないのか? -- 名無しさん (2025-05-04 07:59:16) - ↑3 二宮の変で同年の朱然が亡くなってから決着つけにかかったと思うと孤独と喪失感えぐかったろうな… 呂壱事件で豪族からの信望も失ったタイミングで諸葛瑾亡くなるし -- 名無しさん (2025-05-17 10:19:35) #comment #areaedit(end) }