二宮の変(三国志)

登録日:2014/12/02 Tue 17:45:13
更新日:2025/05/04 Sun 07:59:16
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二宮の変(にきゅうのへん)とは三国志の時代、241年頃から呉で勃発した政治闘争のことである。
二宮事件とも呼ばれ、10年近くおよんだこの事件により呉は有能な人材を多く失い、その命脈を削ることとなった。
ちなみに正史には記載されているが、三国志演義では省かれている。


概要

早い話が呉の後継者争いと、それに伴う重臣たちの政治争いである。
長男にして皇太子だった孫登が病死したため、孫権はその次の兄弟孫和を新たな皇太子としたが、
よりにもよってその弟孫覇を同等に扱ってしまう。
そのため重臣たちが孫和派孫覇派に分かれてしまい、孫権に対する諫言・讒言合戦が行われてしまうこととなった。
孫家の後継者争いなだけあって孫姓の人がたくさん出てくるため、慣れないうちはわけが分からなくなる。


登場人物


孫家


孫権(そんけん)
ご存じ呉の初代皇帝にして全ての元凶。
晩年老害化が目立つとされる孫権だが、この事件は恐らくその所以にして彼の人生最大の汚点。
最後の最後に一番とんでもないことをやらかしてしまった。
やはりDQNの血は伊達ではなかった…

孫登(そんとう)
孫権の長男。当初は皇太子とされていたが病により孫権より先に死んでしまった。
孫登は孫和と仲がよかったため、孫和を後継者とするように遺言を残していたが…。

孫和(そんか)
孫権の三男。孫登の死後、前述の遺言と次男の孫慮が既に亡くなっていたこともあり、新たな後継者として擁立される。
しかし、その後孫権からの寵愛が薄れていき、弟の孫覇が寵愛されるようになる。その裏にはある女の影が…。
悪名高い孫皓の父でもあるが、彼自身は学問が好きで、臣下の諍いを良い形で仲裁するなどまともな人物だった。

孫覇(そんは)
孫権の四男。孫権により魯王に封じられ、兄孫和と同等の扱いを受ける。そのため両者の間で後継者争いが激化していき…。
余談だが似た立場であった魏の曹丕と曹植は、あくまで重臣たちの勢力争いで本人たちはさほど嫌い合っていなかったとする説もあるが、こいつは積極的に後継ぎの座を狙っていた。

孫亮(そんりょう)
孫権の七男。詳しくは後述するが、結局2人の兄のどちらでもなく彼が跡を継ぐことになった…。
が、皇太子に指名された当時はなんと8歳孫権が死んで皇帝に即位した時点でもわずか10歳
孫権ェ…。

孫魯班(そんろはん)
孫権の娘。姉の方。三国志大戦では字の大虎として登場。大流星の儀式で覚えている人も多いのでは?
二宮の変では孫和と対立して孫覇に組する。妹さえも死においやる悪女っぷり。だがそれがいい。

孫魯育(そんろいく)
孫権の娘。妹の方。三国志大戦では字の小虎として登場。もうしょうこをいじめないで……
夫の朱拠が孫和派に属していたため、二宮の変が幕を引いたあとに謀殺されることに…。

重臣's


孫和派

陸遜(夷陵の放火魔。当時の陸遜は丞相でもあり、言わずもがなの建国功労者)
吾粲(孫和の後見人。陸遜と並ぶ孫和派の先鋒)
朱拠(孫魯育の夫)
顧譚(丞相を務めた顧擁の孫)
張休(呉の内政の大重鎮、張昭の息子。孫和の妻の叔父でもある)
諸葛恪(諸葛瑾の子で諸葛亮の甥。才気があり過ぎて身を滅ぼすと父に予言された)
その他多数

孫覇派

全琮(孫魯班の夫)
歩隲(驃騎将軍。孫魯班、孫魯育の母・歩夫人を同族に持つ)
呂岱(齢九十六まで生きた呉の長老)
呂拠(呉の高官・呂範の子)
楊竺
その他多数


孫登の死~孫和孫覇の対立


孫権は当初、長男の孫登を皇太子として後継ぎに指名していた。
しかし孫登が病により早逝したため、孫権孫和を新たな皇太子に立てる。
この時後継者の相次ぐ死から「王を立てるべき」と言う意見が広がっている。*1
当初孫権は拒絶するも、242年に孫覇を魯王に封じている。

さらに、孫和の生母である王夫人を皇后に立てようと、重臣たちが孫権に働きかけた。

が、それが気に食わない女が一人……露伴ちゃん、もとい孫魯班である。
実は魯班ちゃんの母、歩夫人はかつて皇后になれなかったという過去があり、他の女が皇后になることが許せなかったのである。(歩夫人本人が固辞していたんだけどね)
そこで魯班ちゃんは王夫人を皇后にさせないために、孫権にあることないこと吹聴するようになる。

例えば、ある時孫権が病床に臥せってしまい、孫和が宗廟で快復祈願をすることになった。
その際にちょこっと席を外して妻の叔父である張休の下に立ち寄ったのだが、それを聞いた魯班ちゃんはそれを誇張して、



孫魯班「孫和は父上がご病気なのに、宗廟で祈らず叔父と謀議ばかりしております」

さらに

孫魯班「王夫人は父上の病気を喜んでおります」


と讒言した。
これを聞いた孫権は大激怒し、王夫人を皇后に立てることを取りやめ、孫和を疎んじるようになる。
その後も魯班ちゃんは讒言を繰り返し、孫権の寵愛は孫和から孫覇に移っていくようになる。
やがて孫覇孫和とほぼ同等の扱いをされるようになり、家臣たちの間で太子廃立が行われるのでは?と囁かれるようになる。


重臣たちの勢力争い


これに目をつけたのが呉政権の非主流派たちである。
元々呉は地方豪族の寄り合い所帯みたいなものであり、言わば連立政権のようなものであった。
陸遜など政権の主流派が孫和派に属していたわけだが、ここで孫覇が後継ぎとなれば非主流派の自分たちが政権の中枢へ行けると考えたわけである。
しかも陸遜は政権のトップである丞相という地位を与えられながらも、それまでの職務であった荊州統治を引き続き行うため荊州に駐屯している。
中枢で最も権力を持つ人物が、孫権のいる建業にいないことが常態化してしまっていた。


非主流派's「「「これは…チャンスやん?」」」


これに危機感を抱いた陸遜は度々孫権に対して長幼の序を大切にして孫和を擁護する文書を送り、さらに建業に出向いて直接孫権を説得しようとした。
それに対して孫覇派孫権に讒言し、楊竺に至っては陸遜に関する20カ条もの疑惑事項を告発するという有様だった。
これを真に受けた孫権陸遜に何度も問責の使者を送った上に、吾粲を処刑したり顧譚張休らを左遷してしまった。


孫権「とりあえず左遷」

陸遜「そんな馬鹿な……」

あまりに執拗な追及を受け、失意の中陸遜は病を発して死去。
刑死させたわけではないが、実質的には孫権が死なせたようなものである。

こうして孫覇派が一度は主導権を握るものの、全琮歩隲が相次いで死去してしまう。
これに乗じて孫和派が一転攻勢!汚名挽回!
……と思いきや、この機会を活かすことができず、結局状況はさらに混迷化し、泥沼の様相を呈してしまう。
ちなみに孫権は、この頃になると自分が元凶のくせに2人の息子の争いに嫌気が差していた


喧嘩両成敗


結局孫権孫和を廃立し、孫覇には自害を命じ、当時8歳だった七男孫亮を皇太子とした。
さらに孫覇派で積極的に工作に参加した者たちを片っ端から誅殺し、孫和派の方も孫和の廃立に反対した者たちがばんばん処刑された。

唯一の救いとなるエピソードは、孫権が後に陸遜に対する誤解を解いたことである。
陸遜死後、陸遜の子陸抗は連座されておらず官職についたが、孫権陸抗に対しても楊竺の発した陸遜への疑惑を詰問させた。
だが、陸抗が整然と答えると孫権はようやく陸遜に対する誤解を解いた。
陸抗が任地に行くため孫権の下を離れるときは「自分は愚かにも讒言を信じ、君の父上の信義を裏切り、君にも悪いことをしてしまった。自分が父上に送った詰問の手紙を焼き捨ててくれないか」と泣きながら謝ったという。
その後陸抗が呉の大黒柱となり、死ぬまで斜陽の呉を支えたことを考えると、孫権にもまだ人を見る眼は残っていたのかもしれない。


その後


この政権争いは、幕引き後も呉に悪い意味で大きな影響を残している。

彼が左遷した臣下たちは呉の建国に大功のあった重要な人材やその子たちである。
それを内輪揉めで次々左遷したり処刑したりしたため、呉の屋台骨は一発でガタガタになってしまったのである。

孫権の死後、当時わずか10歳の孫亮が皇帝に即位した。
孫亮自身は聡明で知られていたものの、この年齢では政治は臣下任せにならざるをえない。
結果として側近の諸葛恪が実権を握ることとなった。
……が、その諸葛恪が魏への遠征に大失敗。多大な損害を出して失脚した諸葛恪を、今度は元孫覇派だった孫峻がクーデターを起こし誅殺。さらに孫和を自害させた。

これでやっと落ち着いた…と思いきや、今度は孫登の子である孫英が孫峻を暗殺しようとして失敗。
孫峻の権力は従兄弟の孫綝へ引き継がれる。が、この頃には即位時は幼かった孫亮も大人になり、自分で政治をとり行おうとする。
意のままにならない孫亮が邪魔になった孫綝は孫亮を廃し、孫権の六男孫休を擁立するが、その孫休に孫綝が殺され……と、内紛は長い間続くことになった。


当時魏では、249年の高平陵の変の後司馬一族を中心とした政治体制になり、これに対する反乱が多発していたが、政治体制そのものは全く揺らいでいなかった。
蜀は呉とは仲がよく意気軒昂ではあったが、呉と比べても国力が小さすぎた(現に姜維の北伐は成果をほとんど挙げられていなかった)。また蜀の国内情勢も、姜維を抜きにしても支離滅裂のひどすぎる有様で、外地の姜維が一番真面目、というぐらいだった。
元々魏は呉の3倍近い国力を持っていただけに、この争いは呉が魏に勝つかすかな可能性を封じてしまったとさえ言われているのである。

また、三国志最悪の暴君として知られる孫皓は、父を大変敬愛していたようで帝位についたあと何度も父を祀っていたという。
孫皓が暴政に走ったのは、父孫和が一度は皇太子として立てられながらも理不尽に廃立され、無残な最期を遂げてしまったことが原因であるとも言われている。



三国志で後継者争いといえば、後継ぎに悩む曹操に賈クが例として挙げた袁紹劉表が有名であるが、この二人は残された者たちが勝手に争い始めたに過ぎなかったと言われている。
だがこちらは存命中の孫権があっちにフラフラ、こっちにフラフラした結果であり、孫権がその気になれば避けられたトラブルであった点で、タチの悪さはこちらの方がはるかに上である。
しかし、演義では省略されているので、ある意味優遇と言えるのかもしれない。
呉の地味さに拍車がかかっているとか言ってはいけない。


陰謀論

しかし、この二宮の変、孫権はわざと放置していたという陰謀論がある。

呉は孫家以上にその土地で影響力のある一族を配下として抱えている面があった。
孫家は家格の低さ、正統性の乏しさ、大豪族の寄合連合政権の盟主でしかない等の理由から
国家運営には彼らとの協力が必要であったが彼らに主導権を奪われるようなことがあってはならなかった。

当時、江東の豪族、特に陸家の勢力は大きくなりすぎていた。
だから孫権はわざと10年間も後継者争いを放置して主流派と非主流派を争わせて喧嘩両成敗で力を削った、
というものである。
実際、顧家等が没落している。

まあもっとも、豪族を削ろうとした結果として国家自体が崩れたんだから、やはり孫権の謀略としても大失敗だったと言えよう。
だいたい、それをするならもうちょっと気力と体力のある若い時期にするべきだったのではないか。もしこの内紛中に孫権が病床に伏したり逝去したりすれば、もう本当に止めようがなくなる。
後継問題という、国の将来を左右する問題を、こんな謀略に使うというなら、それは極めて危険な策略である。

考えなしに放置した結果なら論外。考えたうえで引き起こした結果なら愚策。やはり孫権の過ちとしか言いようがない。




追記・修正は後継ぎをちゃんと指名して、扱いを別格にしてからお願いします。

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最終更新:2025年05月04日 07:59

*1 ちなみに孫権に寵愛されていた次男の孫慮すら侯止まりであり、呉は相当後継者争いに敏感だったことが見て取れる。なお、孫慮は232年に没している