「北条義時」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
北条義時 - (2025/08/30 (土) 11:39:34) のソース
&font(#6495ED){登録日}:2022/10/30 Sun 23:23:23
&font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red)
&font(#6495ED){所要時間}:約 40 分で読めます
----
&link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧
&tags()
----
#center(){&sizex(4){&bold(){&color(white,black){今ハ義時思フ事ナシ。}}}}
#center(){&sizex(4){&bold(){&color(white,black){義時ハ果報ハ王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。}}}}
#center(){&sizex(4){&bold(){&color(white,black){義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生レタリケル。}}}}
#right(){~『承久記』より~}
&bold(){&ruby(ほうじょう){北条}&ruby(よしとき){義時}}(1163年~1224年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
伊豆国(現在の[[静岡県]]伊豆半島)の豪族・北条氏の一門(([[戦国時代>戦国時代(日本)]]関東一帯を支配した北条早雲を開祖とする北条氏とは別の家系。区別のためにあちらは「後北条氏」と呼ばれている。))。
1185年(所説あり)に創設された、史上初の完全独立の武家政権「鎌倉幕府」、その黎明期において中心的な位置に立った人物。
――そして、後にも先にも唯一と言っていい「ある偉業」を成し遂げた事で、&color(gold,black){&bold(){日本史上最大最強の「朝敵」}}として歴史に名を残す人物である。
**◆前提
義時、そして彼が生きた時代を語る上で欠かせない史料として挙げられるのが『&bold(){&font(u){&ruby(あづまかがみ){吾妻鏡}}}』。
鎌倉幕府草創期から中期までの各種経緯や歴史を記す書物である。
同時代を検証する上で非常に重要な一線級の史料……なのだが、一部怪しい点もあったりする。
というのも、この『吾妻鏡』、義時の子孫にして鎌倉幕府の最高権力者たる北条一族寄りの記述が多い。
つまりは、過去の出来事を記す上で、北条一族にとって&bold(){都合のいい形で&font(#ff0000){脚色・修正}を行っている}感ありありなのだ。
さらに、記述が[[中途半端]]な時期で終わっている点や、成立してからかなり早くに散逸してしまい、現在に至っても欠損箇所が多いという点から、
重要な史料であることは疑いようがないのだが、その記述の正確さ・適切さについては議論の余地を残すものとなっている。
かといって、『吾妻鏡』を「北条家(一族)を称賛するためのプロパガンダ」と断ずるのも間違いと言える。
というのも、北条家に滅ぼされた武家、とくに畠山重忠を&bold(){絶賛}したり、北条家の陰謀を&bold(){わざわざ記述}したり、挙句義時自身を&bold(){陰謀の黒幕}とほのめかすなど、
「&bold(){筆者はどっちについてんだ}」とツッコミたくなる程、北条家への厳しい記述も散見されるからである((そもそもどんな歴史書も、それが執筆された時期における政治的・社会的影響は何かしら受けるものである以上、『吾妻鏡』に不正確な点があるからと行って、すなわち「価値がない」と言うことにはならない。それは、史記や明史といったほかの歴史書も皆同じである。))。
他に同時代を検証する上で使われるのは、藤原摂関家出身で天台座主((延暦寺の住職で天台宗のトップ。明治初期まで太政官に任命される公職でもあった))も務めた僧、慈円が記した『&bold(){&font(u){&ruby(ぐかんしょう){愚管抄}}}』がある。
こちらは初代天皇から鎌倉時代初期の順徳天皇までに関する歴史について記されおり、どちらかと言うと朝廷における各種事情が中心となって記されている。
こっちもこっちで同時代の重要情報は多数記述されているが、何せ京に身を置いた人物の記録なので遠く鎌倉の事情は精度が粗くなりがちで、ほかの日記等との食い違いもままある。
その他にも、項目冒頭の文の元である軍記物語『&bold(){&font(u){&ruby(じょうきゅうき){承久記}}}』((鎌倉中期に成立、作者不詳。))など、この時代を読み解く文献はいくつかあるが、本項目では原則『吾妻鏡』に準拠しつつ、必要に応じて出典の補足を加えていく。
**◆来歴
***〇青年期~伊豆の倅から将軍の側近へ~
1163年、義時は伊豆国に在する豪族・&bold(){&ruby(ほうじょう){北条}&ruby(ときまさ){時政}}の次男として生まれる。
後に娘婿の源頼朝と、彼による源氏復権・鎌倉幕府成立を大いに助け、初代執権の立場に付いたとされる父の時政だが、
義時が産まれた時点ではこれといった官位も持たず、北条一族もまた、交通の便の良い場所に拠点を持ってはいたものの、
取り立てて高い権力や地位があったわけではなかった(一応、有力領主・伊東祐親と縁戚関係にあった)。
……というか、この時期の北条一族に関する文献が碌に残っていないので「よくわからない」と言うのが実情。
逆に言えば「当時の文献に書かれない程度の存在だった」とも言え、この時点ではあくまで一介の地方在住の豪族に過ぎなかったのだ。
さらに言えば、この頃は時政の後を継ぐのは長男であり、嫡子であった&bold(){&ruby(ほうじょう){北条}&ruby(むねとき){宗時}}であると見なされており、
今でこそ義時は「北条義時」の名で知られているが、『吾妻鏡』でも、江間に移住してから任官するまで「江間義時」と記されている。
おそらくこの時点では、義時自身もまさか後々自分が北条家を継ぐことになるとは思っていなかったと思われる。
一介の地方の豪族の子、さらにその嫡子でもないとなれば、当然義時にそこまで権力や地位があるわけでもなし。
「このまま何もなければ、一介の地方の豪族として終わっていた」とも考えられる程度の存在だった。
そんな彼――ひいては北条一族の転機は、義時が15、6歳の頃。
1159年に起きた「平治の乱」に敗れ、伊豆に流刑となった若武者・&bold(){&ruby(みなもとの){源}&ruby(よりとも){頼朝}}と縁を結ぶ事から始まる。
流人として伊豆に来た頼朝は、先の乱で没した父祖を弔いながら同地で過ごす内、ある女性と出会い、婚姻関係を結ぶ。
その女性こそ、時政の娘であり義時の姉にあたる&bold(){&ruby(まさこ){政子}}&footnote(教科書などでは「北条政子」と記される事が多いが、実は各種文献において「頼朝の正室」の名前を正確に記した物は無い(当時女性に限らず、人前で本名を明かす事はほとんど無かった)。「政子」という名前自体、後年に官位を受ける際の書面に「父・時政から一字取って」記された物が根拠で、実名の可能性は低い。ましてや「北条」という家の姓を名乗る事は当時の通念上考えにくいとされている。)であった。
図らずも北条時政とその一族は、源氏の嫡流たる頼朝と姻戚関係を結ぶ事になった。
が、当時は平清盛率いる平家一門の全盛期。
&bold(){「平家にあらずんば人にあらず」}とまで称された時代において、反逆者たる源氏の嫡流・頼朝と繋がりを持つというのは、ある種の自殺行為に等しいとも言えた&footnote(軍記物の一つ「曾我物語」では、『当時頼朝は政子とは別の女性と子供を作っていたが、それを知ったその女性の父親が激怒して子供を殺し、娘は別の男へ嫁に出した』と言う逸話があり、「源平盛衰記」では『婚姻に大反対した時政が政子を別の男へ嫁に出すも、直後に政子が頼朝の元へ遁走し失敗した』と記されている。)。
ところが、頼朝と政子が結ばれて少し経った頃の1180年。
時の最高権力者・後白河法皇の皇子である&bold(){&ruby(もちひとおう){以仁王}}が、平家追討の命令を全国の源氏へ発し、自らも挙兵を画策した事で事態は急転する&footnote(当時平家一門は朝廷内部に武士階級としては初めて食い込んでいたのだが、その結果生じた政治的対立により貧乏くじを引く者も少なくは無く、その筆頭が以仁王であったのが挙兵理由とされる。)。
以仁王自身は挙兵に失敗し程なく追討されたが、この事態が自身への危機につながると判断した頼朝は呼応する形で挙兵を決定。
伊豆国を含めた&ruby(ばんとう){坂東}(現在で言う関東一帯を指す)の豪族に協力を呼びかけ、勢力を集め始めた。
その豪族――坂東武者たちの中には、頼朝の舅である時政も含まれていた。
如何なる判断があったかは定かではないが、時政は頼朝の挙兵という大博打に、一族を挙げて乗っかる事を決めたのだ。
そして義時も、父に従う格好で義兄の打つ大博打に乗るハメになった。
当然その行動は、平家及び平家側の豪族にとっては討伐の対象であり、挙兵後程なくして両者が激突した「石橋山の戦い」において、手勢に劣る頼朝側は&bold(){完膚なきまでにボロ負け}した&footnote(当時集めていた勢力自体は少なくなかったのだが、悪天候によって参集しきれていなかった所に急襲を受け大敗した。)。
義時も兄・宗時を失った上での逃走を余儀なくされ、源氏再興は夢と消え……たりさせなかったのが、頼朝の豪運のなせる業か。
かろうじて逃げた頼朝一行は安房国(現在の房総半島南部)で再度勢力を結集させ、先の敗戦時からは比べ物にならない軍勢を確保&footnote(「石橋山の戦い」直前では300騎ほどだったが、この時点で万単位の勢力確保に成功したという。)。
一方義時は父・時政と共に甲斐国(現在の山梨県)へ向かい、同地で頼朝と同じく挙兵した甲斐源氏の武田信義&footnote(ご存知「甲斐の虎」こと武田信玄のご先祖様にあたる)と合流。
双方が合流し大軍勢をとなった源氏の一軍は、「富士川の合戦」において平氏の軍勢を&bold(){戦わずして撤退に追い込む}&footnote(『吾妻鏡』などでは「平家が夜中に『水鳥が飛び立つ音』にビビッた末に遁走した」とか言われてたりするが、真偽は微妙なところ。もっとも当時の平家の軍勢の練度が「こんな逸話が生まれるレベルの案配だった」というのは間違いない模様)など、情勢は完全に頼朝ら源氏側へと逆転していた。
時期を同じくして、頼朝は父・源義朝が住んでいた地「鎌倉」へと入り、以後同地を拠点とした勢力――のちの「鎌倉幕府」の基礎を築いていく事になる。
……なお、石橋山の敗戦からここまでの間、ものの&bold(){&color(red){一ヶ月ちょい}}。
とんでもない復権ペースである。
義時もそんな義兄にして主君・頼朝に随行する形で鎌倉に入り、側近として活動していく。
頼朝の寝所の護衛に選ばれたり、壇ノ浦で平家を滅亡させた追討軍、奥州藤原氏の征伐軍に従軍して武功を立てるなど、着実に功績を立てていた。
また、姉の政子が引き起こした「後妻打ち」の一件(亀の前事件)で父・時政が激怒し、一族を引き連れて一時期伊豆国に戻った時には、
義時は父に従わずに鎌倉に留まり、これによって頼朝から称賛されてますます側近として重用されることとなった。
#openclose(show=余談:ブチ切れ政子の後妻打ち){
「&ruby(うわなり){後妻}&ruby(う){打}ち」とは、簡単に言うと&bold(){「離婚した元夫の再婚相手に対して、元妻が突撃をかけて家を破壊する行為」}。
おっかないにも程がある話だが、平安時代から江戸時代前期頃までは、わりと珍しくもない風習だったりする。
より時代が下った江戸時代頃においてはルールめいた事まで定まってたらしく、
・条件は「離婚から再婚までの期間が一ヶ月以内の場合」
・事前に「何月何日の何時に突撃する」と告知する
・単身でなく徒党を組んで向かうも良し。相対する後妻側も同様に応戦して良し
……などなど、やってる事は物騒極まりないが、妙に律儀な面もある慣わしだったりする。
もっとも、古い時代においてはそんな律儀な事を毎度やっていたわけではないらしく、加えて離婚していなくても夫の妾や愛人の家へ妻が襲撃をかます、というのもあったりしたという。
……とまぁ、「後妻打ち」についての説明はこの辺で止め、政子の後妻打ちに話を戻すと、
そもそもの話として、彼女の夫である頼朝は、鎌倉幕府の創始者であり稀代の大英雄であるのは間違いないのだが、同時に&bold(){かなりの&color(hotpink){女好き}}でも有名だった。
ただ、&color(hotpink){「英雄色を好む」}のは洋の東西を問わずよくある話な上、当時は子供が成人前に亡くなることは珍しくなく、
従って、「確実に後世に血を残す」という意味でも、正妻の他に愛妾などを持つことは、自分の“跡”を考えるなら(頼朝の視点では)当然と言えた。
問題は、政子が(当時の価値観に於いてはかなり際立って)その手の話に&bold(){敏感}だった事にある。
……早い話、政子は&font(#ff0000,u){&bold(){かなり嫉妬深かった}}のだ。
もっともこれは、正室と言えど政子の出自が「一介の地方豪族の娘」という、かなり貧弱な物だった事も考慮すべき話ではある。
夫・頼朝は河内源氏という確固たる名家の嫡男にして、武家の棟梁。
それこそ嫁の来手など数知れずである。
頼朝の父の義朝も正妻に尾張の名門神社、熱田神宮の大宮司の娘を迎え、他にも三浦や波多野といった関東で名の通った豪族の娘を側室としている。
万が一側室に名家の女性が入り、しかも後継者たる男児を産もうモノなら、正室であってもその威厳や立場はあっという間に崩れ去る。
そうした危機感と、政子本人も結構気性が荒いというか豪胆というか、性格面でのアレコレが相まって、この一件に繋がった。
事が起きたのは、1182年。
当時頼朝は「亀の前」と呼ばれる女性と懇意になっており、足繁く通い詰めていた。
当然、政子にバレない様にこっそりと、しかもわざわざ自宅から少し離れた部下の邸宅に亀の前を預けたうえで、である&color(gray){(ヲイ)}。
が、程なくしてこの話は義母を通じて政子の耳に入ってしまう。
しかも政子、この直前に(鎌倉関係者待望の)&bold(){長男を出産したばかり}という、&color(red,black){&bold(){「火に油」}}どころか&color(gold,red){&bold(){「山盛りのダイナマイトにガソリンかけて火をつける」}}が如き状況。
(つまり頼朝、まさかの&bold(){「身重の妻がいる中で別の女と浮気」}という、現代における&bold(){&font(#ff0000,u){クズ男ムーブメント全開の所業}}をやらかしていた。)
かくして政子の怒りは&color(gold,red){&bold(){怒髪天}}。
「後妻打ち」の決行を決意する。
だが自身が直接カチコミかけるわけにはいかず(出産して間もないのだから当然だが)、政子は義母の兄((「義母の父」とする説もある))である&bold(){&ruby(まきむねちか){牧宗親}}に「後妻打ち」を命じた。
鎌倉の最高権力者の妻、所謂「御台所」の指示とあっては逆らう理由もなし。
かくして、牧宗親とその郎党により(政子の意向が&bold(){適切に反映された}のか&bold(){加減を間違えた}のかは図りかねるが)亀の前が住む邸宅は&bold(){盛大に破壊された}のだった。
(注:邸宅は前述の通り、頼朝の&bold(){家臣の所有物です})
なお、亀の前並びに邸宅所有者は命からがら逃げおおせたという&color(gray){(容赦ねえ)}。
後日それを知った頼朝はというと、こっちもこっちで&bold(){&color(red){大激怒}}。
宗親本人を呼びつけ大叱責をかました。
&font(#808080){「いや、全面的にお前が悪いだろ」とか言ってはいけない。&font(l){いや言いたくもなるが。}}
ただ、理由はどうあれ、自身の膝元たる鎌倉の地での打ち壊しという狼藉を行った上に、
妻=御台所の指示とはいえ、主君たる自分に事前に報告など一切しなかったという所業を頼朝は看過できなかった。
そこで頼朝は、牧親宗への罰として&bold(){「宗親の&ruby(もとどり){髻}&footnote(当時の武士の髪型。大雑把に言えば「伸ばした髪をひとまとめにして結い上げた」もの。所謂「ちょんまげ」とは異なり、頭部前面から頭頂部までを剃る事はしない。)を切り落とす」}という行為に及んだ。
そもそも「髻」に馴染みがない現代人目線では「罰が髪を切るだけ?軽くない?」と思うだろうが、
当時において髻は人目には晒さない(通常「冠」と呼ばれる被り物を頭に乗せて隠す)ものであり、
他者のコレを無理矢理人目に晒すどころか切り落とすというのは、現代風に言えば&color(yellow,black){&bold(){「公衆の面前でズボンどころかパンツも下ろして晒す」}}に等しい。
つまり、身体や財産に明確なダメージこそ負わないが、メンタル面においては&bold(){かなりヒドい処罰}を下したのだった。
が、この処遇に怒ったのが北条時政。
時政にとって宗親は妻の兄、つまり義兄に当たる人物であった。
娘の指示を受けて行動しただけの義兄が娘婿にとんでもない恥辱を与えられたばかりか、
その理由も元を辿ればその娘婿の女癖の悪さにあったとあれば、流石に時政も黙ってはおられず、
その抗議の意志を込め、自分のみならず一族揃って伊豆国へ立ち退くという行動に出たのであった。
その後の顛末についてだが、現存する『吾妻鏡』において、翌1183年に関する記述が欠落しているため、詳細は不明となっている&footnote(そもそも書かれていないのか、歴史の中で散逸したのかも不明。退去した時政にしても、後年鎌倉に戻っているのは確定なのだが、それが何時なのかはこれまた分からない状況である。)。
現状分かっているのは、1182年末時点で
・亀の前は別の御家人の屋敷に移った(以後の消息は不明)。
・頼朝は相変わらず亀の前を寵愛した&color(gray){(懲りねえのかヲイ)}
・更にキレた政子の命で、打ち壊された家の所有者である御家人が流罪になった&color(gray){(ヒデェ)}
といった事である。
え? 大体頼朝が悪いって?
&bold(){ご も っ と も} &color(white){まさに全部&s(){大泉}頼朝のせい}
}
また私生活においても、長男・&bold(){&ruby(やすとき){泰時}}を授かり、幕府の女官だった比企家の令嬢(姫の前)と猛アプローチの末結婚するなど、順風満帆であった&footnote(義時の妻については、正室として名越(なごえ)流の開祖・北条朝時の母となった『姫の前』、後妻として北条政村の母となった『伊賀の方』、他にも出自不明の側室がいたとされており、泰時はこの側室との子とされる。)。
そして1192年、頼朝が朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、ここに頼朝こと「&bold(){&ruby(かまくらどの){鎌倉殿}}」と、その部下となる武将たち「&bold(){&ruby(ご){御}&ruby(け){家}&ruby(にん){人}}」による新たな統治機構が確立された。
……もっとも、この時点での義時は、数多くいる御家人の一人、という立ち位置に過ぎなかった。
先にも触れたが、各種文献においてこの時期の義時は「北条義時」ではなく「&font(u){&ruby(えま){江間}&ruby(よしとき){義時}}」ないし「&font(u){&ruby(えま){江間}&ruby(こし){小四}&ruby(ろう){郎}}」と書かれていた事が多かった。
「江間」は義時が拝領した土地の名前(現在の[[静岡県]]東部の一部)で、「小四郎」は通称。
この時代、親の姓を堂々と名乗れるのはもっぱら嫡男、ないし本家筋と認められた人間に限られており、
義時もこの時点では、「江間」という北条分家の筆頭に過ぎなかったとされている&footnote(時政は妻(宗時・義時の生母)に先立たれた後に別の女性を迎えており、そちらとの間に男児・政範を授かっていた。長男・宗時亡き後はこちらが「北条家の正当な跡取り」という立場にあったとされている。)。
が、無論ここで終わるのが彼の人生ではない。
今日において彼が「江間小四郎」ではなく「北条義時」として歴史上で語られる所以は、ここからが&bold(){本番}である。
***〇壮年期~はじまりの十三人、そして頂へ~
1199年。初代鎌倉殿である頼朝は、年明けから突如体調を崩し、程なく&bold(){急死}((死因に関しては諸説あり、死の直前に遭った落馬事故によるものとする説が多いが、それだけでも「打ちどころが悪かった」等の落馬事故が原因とするものと、「乗馬中に脳卒中を起こして落馬した」等の「落馬する前に致命的な疾患を発症、あるいは患っていた」とするものなど、多くの説が唱えられている。中には政子、あるいはそれ以外の何者かに暗殺されたという説もあるが、こちらは根拠が乏しい。近年には『猪隈関白記』に「飲水の病を患っていた」という記述があることから、現在で言うところの「糖尿病」か「尿崩症」が死因ではないかとする説が浮上しており、『鎌倉殿の13人』ではこの説を取ってか、頼朝がしきりに水を飲む「飲水の病」を患っている描写が取り入れられている。))。
頼朝と政子の長男・&bold(){&ruby(よりいえ){頼家}}がその跡を継ぐ事になる。
当時の鎌倉幕府の政治機構は、最高権力者である鎌倉殿が直接的に政治上の判断・決定を下す「親裁」であった。
だが頼家就任からわずか数か月後、この直接裁断は事実上停止。
政治上の各種判断については、御家人の中から選抜された「宿老」十三人による合議を踏まえて決定する事とされた&footnote(合議制設立の理由は所説あり、「頼家の前例や実態を無視した裁決に御家人が反発したことが契機」や「就任時まだ18歳と歳若く、経験も足りない頼家を補佐するため」などがある。)。
そしてその「&font(u){&bold(){十三人の合議制}}」のメンバーには、時政と共に義時もその名を連ねており、事実上この父子が鎌倉における最高意思決定機関の一翼を担う事になった。
かくして統治機構が次なる形へと変わりだす一方、新たに沸き起こりつつある問題があった。
鎌倉の創始者にして絶対的な権威として君臨していた頼朝は、御家人たちにとって尊敬と共に畏れも抱く存在――謂わば御家人に対する「行動の抑制役」も担っていた。
それが突然喪失し、跡に就いたのは、生前頼朝が後継に定めていたが、年若く場数も踏んでいない頼家。
保身にしろ野心にしろ、元来自身の領土確保を絶対としていた御家人たちにとって、揺れ動く情勢は必然的に様々な行動を起こさせる。
結果、それは互いと、ないし大勢と干渉し、せめぎ合い、
そして、ぶつかり合う。
平家が壇ノ浦の海に消えてから、およそ15年。
外に敵が居なくなった組織で生じる必然的問題――内側での&bold(){権力闘争}が、鎌倉の御家人同士ではじまりを告げたのだ。
必然、義時も御家人の一人、そして十三人の宿老の一員として、幕府中枢での権力闘争を生き抜く事を余儀なくされる。
手始めは、頼家が鎌倉殿に就任した年、1199年の末&color(gray){(早っ)}。
通称&bold(){「&ruby(かじわらかげとき){梶原景時}の変」}から始まった。
まず、事件の名前にあがった「&bold(){梶原景時}」という人物について説明しよう。
梶原景時は、頼朝の配下になった時期こそ少々遅い&footnote(「石橋山の戦い」では頼朝に敵対する側として平家方の有力豪族・大庭景親に仕えていたが、後に頼朝が捲土重来を果たし鎌倉に入った頃には頼朝に従属していたとされる。なお、その「石橋山の戦い」において、敗走して洞窟に隠れていた頼朝とその配下を山狩り中の景時が発見するも、景時は味方に発見の事実を伝えるどころか「洞窟には誰もいなかった」と虚偽の報告を行い、この時点では敵でありながら頼朝を見逃したという逸話が伝わっている。)が、教養の深さや事務・実務能力の高さから頼朝の信頼厚く「&bold(){一の郎党}(一番の家臣)」と称された人物であった。
このため、頼朝の没後も引き続き頼家の側近として重用される事になったのだが、そんな彼の鎌倉における仕事は、御家人たちの勤務審査や取り締まりといった、現代でいう&font(red){監査部門}であった。
が、組織においてこの手の内部監査業務、悪い言い方をすれば「&font(#ff0000,u){人の仕事にケチをつける事が仕事}」の人間が好まれないのは、古今東西同じ。
加えて景時は、ちょっとでも言動が怪しかったりすると「アイツは謀反でも企んでるのでは」と勘ぐったり、
他人の仕事のダメっぷりを&bold(){オブラートゼロ(むしろ若干誇張込み)}でまとめ上げ、しかもそれらを&bold(){忖度無しのドストレートに}頼朝へ進言する事が度々あった&footnote(その最たるものが、平家討伐に従軍した景時が、戦場における義経のブレーキが壊れたバーサーカーっぷりと恨みつらみを頼朝に報告した「梶原景時の讒言」であり、一説ではこれがきっかけで頼朝と義経の関係は悪化したとされる。)。((また、頼朝の生前は、彼の平家打倒などに大きな貢献をした上総広常を、謀反の疑いにより頼朝の命で暗殺したことでも知られる。))
無論、彼の立場からすれば、疑惑の芽を潰したり問題行動のある者について報告するというのは至極当然なのだが、当人の言動も相まって御家人からは心よく思われない状態。
結果&bold(){&color(red){「仕事自体は有能だが、同僚からの印象はすこぶる悪い」}}という立ち位置にあった。&color(gray){まあようするに[[こいつ>石田三成(戦国武将)]]みたいなもの}
――そんな人物が、急激に動き始める情勢下で真っ先にターゲッティングされたのは、必然と言えた。
事件の発端は御家人の一人、&ruby(ゆうき){結城}&ruby(ともみつ){朝光}の&color(brown){ボヤき}にあった。
彼もまた頼朝に従い挙兵した一人であったが、頼朝の死後、始まった鎌倉幕府の不穏さ加減に、
&color(brown){「『忠臣二君に仕えず』というが、自分もそれに倣いあの時(頼朝の死後)出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」}
と口にした。
現代風に言えば&color(brown){「経営者が変わった結果会社の空気が険悪化した事に辟易してる古参サラリーマンの愚痴」}レベルの一言なのだが、これがよりによって梶原景時の耳に入ってしまう。
先の&color(brown){ボヤき}を&color(white,black){景時フィルター}に通すと、
「&color(brown){忠臣二君に仕えず}=&color(white,black){仕えるべきなのは先代であって当代の頼家様ではない}」
「&color(brown){今の世はなにやら薄氷を踏むような思い}=&color(white,black){頼家様の治世に不満がある}」
という感じで変換された結果、景時はこれを&bold(){「鎌倉殿(頼家様)への誹謗である」}と断じ、朝光の処罰を求めたのだ。
ところが、この景時の対応は、ある女官を通して朝光本人に伝わり、困った朝光が他の御家人に相談。
話は更に御家人の間へ伝播していき、同時にその理不尽さ加減と、これまで積もり積もった景時への&bold(){不平不満が相まって&color(red){大・爆・発}}。
結果、&bold(){御家人&color(red){66名}による「景時への糾弾・排斥」を記した連判状}が作成され、鎌倉殿の手元へ挙げられる事になった。
頼家からこの連判状を見せられ説明を求められた景時だが、特に抗弁をすることも無く、自所領に一族を連れて退去する自主謹慎的な対応を取った。
一方頼家にとって景時は、父の代から仕え自分も重用していた側近であったが、多数の御家人がこうも反発している現状で彼を庇いきる事は出来ず、結果涙を呑んで&bold(){鎌倉からの&color(red){追放}}という処分を下すのだった。
そして、年が明けて1200年。
景時は突如一族を率い出立。
一路京を目指して進み始める。
『吾妻鏡』では「&font(u){京に上洛し九州の勢力を集め、別の人物を将軍に立てて反乱を企てた」}とされるが、その道中、駿河国(現在の静岡県静岡市付近)にて在地の武将らに発見され、交戦。
最終的に景時以下、梶原一族は同地にて命を落とし、&bold(){&color(white,black){滅亡}}する事になった。
さて、ここまで読んで&color(deepskyblue){「本件と義時関係なくね?」}と思われたかもしれない。
確かに景時排斥の理由となった「66名による連判状」に義時及び北条一族の名前は無く、深く関与したと思しき記述も無いのだが、
一方で本件の背後では&bold(){北条一族が暗躍していたのでは}、という推測もある。
何しろ、本事件のきっかけとなった「景時が朝光を処罰しようとしている話」を朝光本人に告げたとされる女官は、北条時政の&bold(){娘}であり、義時の&bold(){異母姉妹}に当たる「&bold(){&ruby(あわ){阿波}&ruby(のつぼね){局}}」だったのだ。
更に梶原一族が滅んだ駿河国の守護&footnote(各地域における軍事・行政を管理する立場。)を当時務めていたのは、北条時政。
そもそも梶原景時自身、時政・義時と共に「&font(u){&bold(){十三人の合議制}}」の一人に加わっており、
同じ立場に居た北条親子が本件に全く感知していないというのは考えにくく、時政ないし義時が暗躍していた可能性もぬぐい切れないのが実情である。
さてはともかく、&color(gray){(設立からたった一年で合議制のメンバーが一人抜けたが)}事件は決着し、ひとまず鎌倉は平穏に……
#center(){&big(){&bold(){&color(red){ならなかった}&color(gray){(知ってた)}。}}}
梶原一族の滅亡から3年後&color(gray){(だから早くね?)}、次なる騒乱&bold(){「&ruby(ひき){比企}&ruby(よしかず){能員}の変」}の幕が上がる。
二代目鎌倉殿となった頼家には、後見の立場として北条と並ぶ豪族の一つ・&bold(){&ruby(ひき){比企}家}がついていた。
その当主が「&bold(){比企能員}」。
彼もまた「&font(u){&bold(){十三人の合議制}}」の一人である。
彼の母は先代将軍・頼朝の乳母であり、自身は頼家の乳母父、そして娘は頼家の妻と、北条家と同様に将軍外戚としての地位を固めつつあった。
加えて1198年に娘が頼家との間に嫡男・&bold(){&ruby(いちまん){一幡}}を産んだことで、その権勢は否が応でも増していった。
この状況は、頼朝の外戚であった北条家当主・時政にとっては非常に危機感を抱くものであり、
実際鎌倉殿が代替わりして以降、北条一族は「&font(u){先代鎌倉殿の外戚}」というなんとも微妙な状況に陥っていた((一応、時政は頼家にとって祖父にあたるが、頼家は血縁関係がある北条一族よりも、後見人である比企一族の方を頼りにしていたと伝わる。))。
さらに、北条氏に近かった&bold(){&ruby(あの){阿野}&ruby(ぜんじょう){全成}}法師(&color(#F54738){生前の頼朝による粛清を免れた唯一の弟})((ちなみに、義経の同母兄でもある。))が頼家の命令で処刑される((のちに子息の頼全も処刑されているが、これで阿野家は断絶したというわけではなく、のちに後醍醐天皇の寵姫にして後村上天皇の生母・阿野廉子(あのれんし)を輩出している))など立場は悪化の一途をたどった。
が、頼家就任から4年後の1203年、転機が起こる。
かねてから体調不良が続いていた頼家の病状が悪化、8月には&bold(){危篤状態}に陥ったのである。
これを受けて御家人たちは急ぎ今後に関する協議を始めるのだが、ここで&bold(){「誰を後任の『鎌倉殿』にするか」}で、比企と北条が対立する。
比企側は頼家の嫡男である一幡を後継と考えた一方で、北条側は頼家の弟(頼朝と政子の次男)である&bold(){&ruby(せんまん){千幡}}を後継に据えようと画策。
……双方ともに&bold(){「自分が外戚として振る舞える人物を後釜に」}という(わかりやすすぎる)思惑がモロに出た後継者選出議論は当然紛糾。
譲歩案として北条から「&font(u){西と東それぞれを分割して相続する}」という案も出されたが、比企はこれに反発。
事態に決着が見えない中、9月になって北条時政とその一族が取った手段、それは、
&bold(){仏事を理由に自宅に呼び寄せた比企能員を、}
&bold(){&color(red){完全武装}した状態で待ち構え、}
&bold(){その場で&color(red){誅殺}したのである。}
……道理もへったくれもない&bold(){&font(#ff0000,u){&color(red){超絶強硬手段}}}であるが、『吾妻鏡』においては、
・分割相続に反発した比企能員が、病床に伏した頼家に北条時政追討の許諾を求める
・これをたまたま政子が障子の影から立ち聞き&color(gray){(&font(l){家政婦}政子は見た)}し、時政に連絡&footnote(ただ、「障子の影から盗み聞き」というのは概ね史書・野史で「悪党たちの所業」とされやすい描写(一例としては「[[曹操]]を噂すれば曹操が出る」と言うことわざや、三国演義での[[劉表]]の妻が盗み聞きしていたり、というものがある)で、『吾妻鏡』も何かしら含みを持たせている。)
・時政はこれを理由に比企能員討伐を決め、自宅に呼び寄せた上で誅殺
と、「やられそうになったからやりかえした」的な理由を上げている((ちなみに、NHKの歴史番組『歴史探偵』で、立ち聞き場面の再現VTRを録るついでに実際に障子の影に立たせた政子役の演者が密談する頼家・能員の声が聞こえるか試してみたところ、「二人がかなりの大声で喋るか、ものすごく近くまで行かないと密談の内容までは聞き取れない」という結果が出ている。なお、この番組の司会の一人は大河ドラマ『[[鎌倉殿の13人]]』で当事者の一人・比企能員を演じた佐藤二朗氏である。))。
&color(gray){(にしてもその対処はないだろ、と突っ込みたくなる所業だが)}
が、ここで話が終わらないのが鎌倉の&font(l){[[サツバツ>ニンジャスレイヤー]]}御家人。
能員に随行していた従者が逃げおおせた事で、比企一族は事態を把握。
前後策の協議か、はたまた応戦のためかは不明瞭だが、一幡が住む屋敷に一族で集結し立て籠もったのだ。
それを知った時政はその対応を&bold(){「謀反」}と断じ、討伐を決定。
義時を筆頭に配下の御家人に出動を命じ、戦力差も相まって比企の一族は悉く討ち取られた。
――比企能員が時政邸に赴いてから、ここまでわずか&bold(){&color(red){一日足らず}}。
将軍外戚として権勢を誇った比企一族は、あまりにも呆気なく&bold(){&color(white,black){滅亡}}するに至った&color(gray){(またかい)}。
……が、この話、まだここでは終わらない。
それは、&bold(){頼家}と&bold(){一幡}の事である。
先の通り、比企一族は一幡の屋敷に集結し、討伐軍と応戦の末討ち死にした。
では、屋敷に住んでいた一幡(当時6歳)はどうなったかというと、
&bold(){比企一族討伐の過程で&color(red){命}を落としている。}
しかもその顛末も複数の話があり、
『吾妻鏡』では、
「&bold(){義時}を大将とする軍勢に攻められ、もはやこれまでと判じた比企側が&bold(){&color(red){屋敷に火を放ち}自決}」&br()「一幡も炎の中に消え、着ていた服の一部が焼け跡から発見され&bold(){死亡が確定}した」
と書かれる一方、
『愚管抄』においては更に酷い話で、
「そもそも時政らは&font(#ff0000,u){&bold(){&color(red){一幡を殺す}}}目的で軍勢を送り込み、比企一族がそれに応戦した」
「一幡は母が屋敷から連れ出して逃走するも、数ヶ月後に&bold(){義時}の配下に発見され&font(#ff0000,u){&bold(){&color(red){殺された}}}」
という、最早救いもへったくれもない有り様。
ついでに言うと、しれっと義時が「&font(u){直接的に介入している}」事も留意すべき点である。
流石にこんなことをしては比企家の人間と夫婦関係を続ける訳にもいかず、戦後に姫の前と離婚。失意のうちに彼女は4年後、この世を去った。
……だが、輪をかけて残酷な事態になったのは、頼家であった。
事の発端は8月に頼家が危篤に陥った事であるが、実はその後、&bold(){奇跡的に&color(blue){回復}を遂げている}。
ただし、&bold(){比企一族が&color(white,black){滅亡}した数日後に}、であるが。
しかも、それに前後する形で鎌倉側は「&bold(){頼家が&color(white,black){病死}したので次の将軍に千幡を据えたいのでよろしくお願いします}」という通知を朝廷へ送っている。
この時点で頼家は&bold(){危篤ではあった}が&bold(){&color(blue){生きていた}}のに、である&footnote(一応フォローするなら、当時と現代では医療技術において天と地の差があり、病気の原因究明はおろか治療もままならない、なんて話は珍しくもない。加えて、頼家の父・頼朝も突如として命を落としている点から、「頼家が頼朝と同様に急死してしまうかも」と考える事自体は変でもない。……不条理感ハンパない話ではあるが)。
オマケと言うかとどめと言うか、この「頼家病死につき将軍交代を願う」通知、なんと&bold(){比企家討伐の前日、遅くとも当日早々に発送されていた}と言う記録もある。
コレが正しいのなら、&bold(){比企家の討伐}と&bold(){頼家の死亡届提出}は、&bold(){&font(u){最初から既定路線だった}}事になる。
&color(gray){(死体蹴りにも程がある。&font(l){いや頼家死んでないけど})}
頼家からすれば、一時期意識不明で臥せっていた病床から[[目を覚ましてみれば>ヴェノム・スネーク]]、
&bold(){「いいですか、あなたが眠っている間にあなたの舅とその一族は皆殺しになりました。そして妻とお子さんも巻き添えで命を落とし、将軍職は弟さんが継ぐ事が決定しました」}
と、起き抜けに言われたようなもんである&footnote(文中では「危篤」と表現しているが、実際頼家が本当に意識不明の状態に陥ったのかは定かではなく、『愚管抄』に至っては「体調不良の頼家が「自分は病気だから後を一幡に継がせよう」と述べた事を時政が聴きつけて対処に及んだ」と書かれている(=頼家が意識不明レベルに陥ったとは書かれていない)など、謎というか強引さ加減が尋常ではない。)。
その後、一連の事態を知った頼家は当然大激怒。首謀者である時政の&bold(){&color(red){討伐}}を御家人達に命じる。
……が、その命令に応じる御家人はロクに居なかった&footnote(仁田忠常とその兄弟が応じたとされるが、いずれも北条側から返り討ちに合っている。)。
後見たる比企一族は既に亡く、将軍職も弟に移譲される事が決まってしまった現状では、もはや頼家に勝ちの目が無い事は、御家人の誰もが理解するところであった。
結局頼家は、有無を言わさぬ形で&bold(){出家}させられた上で、身柄を鎌倉から伊豆の修禅寺に移送される。
事実上の&bold(){追放}、そして&color(white,gray){幽閉}という憂き目にあった頼家は、その翌年、失意の内に&bold(){同地で&color(white,black){没する}事になる}。
その死の顛末も、『吾妻鏡』では&bold(){「死の報が届いた」}、『保暦間記&footnote(鎌倉時代より後、南北朝時代において記された歴史書。鎌倉時代について『吾妻鏡』の欠落を補完しうる重要な文献である。)』では&bold(){「入浴中に殺された」}と簡潔に記すのみだが、
『愚管抄』においては&bold(){「義時が送った配下によって&color(red){暗殺}された」}と記されている&footnote(その死に様も、「首に紐を巻き付けた上で、ふぐり(早い話が、男性のシンボル)を押さえて身動きを封じて刺し殺した」という酷いもの。物理玉ヒュンってレベルじゃねーぞ!)。
とまあ、あんまりにもあんまりな展開ではあるが、騒動は決着し&color(gray){(また一人合議制のメンバーが減ったが)}、鎌倉殿には千幡改め&bold(){&ruby(みなもとの){源}&ruby(さねとも){実朝}}が着任。
ようやく鎌倉も安定期に突入……
#center(){&big(){&bold(){&color(red){しなかった}&color(gray){(やっぱり。)}}}}
比企の族滅以後、北条一族はその権勢を否が応でも増していく。
特に将軍外戚にして当主たる時政の勢いはめざましく、実朝がまだ若すぎる(就任時点でまだ11歳)事も手伝って、
将軍実朝の補佐という名目の下、鎌倉の政治を差配する立場になった。
この「&bold(){鎌倉殿の補佐を直接的に行う}」立場は、後年「&bold(){&ruby(しっけん){執権}}」と呼ばれる事になり、鎌倉幕府の&bold(){事実上のNo.2}、御家人の中でも最高の地位を指すものとなった。
が、権力が強まれば強まるほど、周囲と軋轢が生じるのはどこも同じ事。
それは仲間や同僚のみならず、親族間ですら起こりうる。
比企能員の変から2年後の、1205年&color(gray){(相変わらず年代が近い)}。
勃発した&bold(){「&ruby(はたけやま){畠山}&ruby(しげただ){重忠}の乱」}が、時政と義時親子の大いなる分岐点となる。
題に上った人物(つまり今回の犠牲者)、「&bold(){畠山重忠}」。
武蔵国(現在の東京・埼玉及び神奈川の一部)を治める御家人の一人であり、武勇の高さと人望などから「&bold(){坂東武者の鑑}」と称された傑物であった&footnote(なお、項目冒頭で述べた「『吾妻鏡』で絶賛された武将」とは彼の事である。つまり……)。
彼とその一族も梶原景時と同様、少し遅れる形で頼朝に臣従したが、鎌倉方の先陣として戦場に立つ武勇から頼朝からも信頼厚く、
「自分亡き後はその子孫を守護せよ」との遺言まで残されるほどだった。
頼朝の没後は北条氏と同調する立場を取り、先の二つの変においてもそれは同様だった&footnote(そもそも彼の妻は、他ならぬ時政の娘であったのだから、共同歩調も必然と言えた。)。
が、比企一族滅亡後から、両者の関係は急激に悪化する。
背景には、重忠の勢力圏である武蔵国へ、時政が支配権を伸ばしてきた事にあった。
元々武蔵国は、朝廷から「国司」に任命された人物が支配する地域であった。
国司は同地に常任・常駐という訳ではなく、不在や空席の場合は在地の武将が管理を代行するのだが、
重忠はその代行職の内、武蔵国の武士団を統括する仕事を請け負ってきた。
一方、武蔵国の国司に当時任ぜられていたのが「&bold(){&ruby(ひらが){平賀}&ruby(ともまさ){朝雅}}」。
彼も重忠同様、時政の娘婿に当たるのだが、比企の一件の直後に京都守護の任も与えられ上洛。
その朝雅の職務代行を名目として、時政が武蔵国の行政権を掌握し始めたのだ。
とはいえこれは取っ掛かりに過ぎず、乱の契機は1204年。
将軍・実朝の妻をお迎えするべく、京へ鎌倉御家人の一団が到着した際の事。
その一団には重忠の息子・&bold(){畠山&ruby(しげやす){重保}}が加わっていたのだが、到着後に開かれた酒宴において、臨席していた平賀朝雅と口論になった。
その場は取りなされたものの、後日朝雅はこの一件を時政とその妻・牧の方へ「&bold(){重保から悪し様に言われた}」と伝えたのだ。
加えて、京へ向かった一団には、時政と牧の方の嫡男・&bold(){&ruby(まさのり){政範}}も加わっていたのだが、なんと在京中に&bold(){&color(red){急死}}してしまう。
愛息の死と、娘婿への誹謗の話。
この二つを同時に聴かされた時政と牧の方は「&font(u){重忠ら畠山一族は謀反を企てているのでは}」との疑心を抱き、加えて前述の武蔵国管理に関する対立も相まって、例の如く&bold(){討伐}を画策する&color(gray){(またかい)}。
だが、父の判断に義時は反発。
弟の&bold(){&ruby(ときふさ){時房}}&footnote(義時の異母弟。後の鎌倉幕府初代連署)と共に「&font(u){重忠は謀反を起こす男ではない}」と反対するも、父と義母に逆らいきれず最終的に同意。
更に時政の娘婿・&bold(){&ruby(いなげ){稲毛}&ruby(しげなり){重成}}が重忠の謀反を訴え出た(無論入れ知恵元は時政)事で、大義名分は成立。
畠山重忠とその一族を&bold(){謀反人}として討伐すべく、御家人が集結した。
まず、鎌倉にいた重保が「謀反人討伐の指令が下りたので集まるように」との[[命で呼び出されたところ>騙して悪いが(AC)]]を&bold(){&color(red){誅殺}}される。
一方の重忠は、当時自領の武蔵国に居たが「鎌倉で騒ぎがあるのですぐ集まれ」との知らせを受け、130余りの手勢を引き連れ出発した。
だが二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区付近)に来た彼が見たのは、義時を総大将とした総勢1万近く(諸説あり)の軍勢。
事ここに至って全てを悟った重忠は、しかし逃げる事無く正面から戦う事を決意し、数時間にわたる攻防の末、重忠は&bold(){&color(red){討死}}。
(※なお、『[[鎌倉殿の13人]]』では、演じる中川大志の熱演や義時役の小栗旬の提案もあって、重忠最期の戦いは大河史に残る名場面となっている。詳しくは当該記事へ)
従った者も悉く斃れ、畠山一族は&bold(){&color(white,black){滅亡}}となった&color(gray){(何度目だよ)}。
だが、この一件は義時にとっては甚だ不本意であったという。
義時は「重忠の手勢が少数であり、謀反を画策する程の人員を集めていない=&bold(){重忠は無実である}」という事を見抜いており、
実際多くの御家人は、重忠の謀反について疑惑が噴出し始めた当初から半信半疑だった。
にもかかわらず、半ば強引に事を進めた父に対して義時は対立を深め、一方の時政もこの一件で御家人達からの信頼を急速に失っていく事になった。
おまけにこの乱の直後、重忠の謀反を訴えた稲毛重成が「&bold(){讒言によって畠山重忠を陥れ、死なせるに至った}」との罪科を受けで&bold(){&color(red){誅殺}}されている。
お手本のような&color(gold,black){スケープゴート}、しかも暗に「&bold(){畠山一族の討伐は間違いだった}」と示すこの始末は、余計に時政への不信を周囲に抱かせる事になった&footnote(ちなみに稲毛重成の誅伐は「批判の矛先を変えようとした時政の策」とする説と「魂胆見え見えの生贄を生み出す事で、周囲の時政への不信感をより強める為の義時・政子の策」とする説がある。どっちにしろ稲毛重成は泣いていい。)。
そして、同年閏7月。
その後の義時の立場を決定づける&bold(){「&ruby(まきし){牧氏}の変」}が起こる。
先述の通り、時政には後妻として迎えた女性がおり、この女性の出身が&bold(){「牧」}という家だった事からこの名がついた。
その名の通り彼女が犠牲になった……&bold(){のではなく}、犠牲となったのは、先ほども名前が出た時政の娘婿、&bold(){平賀朝雅}。
この人物、元を辿れば頼朝と同様源氏の主家の血を引く家系であり、源氏将軍家の一門を指す「門葉」に居並ぶ人物であった。
そんな彼を、なんと牧の方及び時政は、&bold(){実朝の次の将軍}に据えようと画策したのだ。
それも、実朝が就任してから&bold(){わずか数年後}のこの時期に。
……要するに、「&bold(){当代の鎌倉殿である実朝をその地位から追い出して、自分たちに都合のいい人材を後釜に据えようとした}」のである。
「&bold(){&color(gray){またかよ}}」と思いたくなる事態だが、輪をかけて問題なのは、
頼家の方はあくまで「&bold(){将軍が病気になり、将軍を続けられるか分からなくなった}」という大義名分があったのに対し、
こちらは現役バリバリで健康な実朝を、特に理由も無く地位から追い出すという、&bold(){大義名分もへったくれもない}身勝手なものだったのだ。
そんな謀反同然の行為に、他の御家人たちが従う訳も無し。
どころか息子の義時、そして娘の政子までも反旗を翻し、時政の邸宅に居た実朝の身柄を保護する措置に出る。
結果、完全に権威と信用を失った時政は、出家の後に故郷・伊豆国へ&bold(){流罪}。
妻も同様に伊豆国へ送られた。時政は以後鎌倉に戻ることはなく、生涯を閉じた((妻も生涯鎌倉には戻っておらず、のちに家族の伝手で京に帰っている))。
そして、もっぱら京において朝廷との対応についていた平賀朝雅は、鎌倉からの達しを受けた西国の御家人により、謀反人として&bold(){&color(red){討ち取られた}}。
&color(gray){本人ほとんど直接何もしてないのに、哀れ。}
父を事実上追放した義時は、その跡を継ぐ形で鎌倉殿の補佐役となり、将軍に次ぐ権力を持つ役職「&bold(){執権}」――すなわち、数多いる御家人の中でも、&bold(){事実上最高の地位に就く}事になった&footnote(ただ、そもそも「執権」という役職自体がいつ生まれたのかはっきりしていなかったりする。一説では誕生は1203年、義時の就任は1209年頃とされている。一方で義時の時代には「執権」という名称は無く、彼の後を継いだ泰時以降の時代に「執権」の名がつけられ、その際にかつて同じ立場にいた時政・義時らも遡って「初代・二代執権」とされたのではないかという意見もある。)。
――頼朝の挙兵から、およそ25年。
伊豆の豪族の若者は、ついに御家人の頂へと至った。
***〇晩年期~三度の危機、そして最強の「朝敵」へ~
こうして、「執権」という事実上鎌倉幕府・坂東御家人の頂点に就くことになった義時であるが、
以降の彼が執権として強権を振るったり、権力をほしいままにしたり……といった行動を取ったことは&bold(){そんなに無かった}とされる。
例えば「自身の部下を御家人扱いにしてもらえないか」と実朝に求めるも、「道理に合わない」と論破されて&bold(){却下}されたり、
各地の守護を終身制ではなく交代制にしようとするも、有力御家人の大反発を喰らって&bold(){断念する}など、
後世の「悪人」イメージの権力者が行いそうな、強権全開の政治を行ってはいなかったと見られている。
もっとも何も騒動が無かったかと言えば、&bold(){そんな訳はない}。
むしろ、鎌倉後期の仏教説話集「雑談集」にて「&bold(){生涯、三度の難}」と称されたほどの、人生最大級の騒乱の連発が義時には待ち構えていた。
&color(gray){(もう充分すぎる程あっただろ、とか言うのは禁句)}
&bold(){一度目の難}の発端は、1213年。
「二代将軍頼家の遺児を担ぎ上げ、それを利用して義時を排除・打倒しよう」という御家人の企みが露見する。
主導者及び賛同者は悉くが捕縛されたのだが、その中には幕府草創期からの重鎮「&bold(){&ruby(わだ){和田}&ruby(よしもり){義盛}}」の子と甥も含まれていた。
#openclose(show=補足:和田義盛とは){
和田氏は元々相模国(現在の神奈川県付近)の豪族・三浦氏の分家筋に当たり、義盛は初代当主であった。
彼もまた頼朝の挙兵に呼応した者の一人であり、最前線で戦った有力御家人でもあった。
ちなみに、一次資料には登場しないために実在が疑われているが、世間一般では&ruby(きそ){木曾}&ruby(よしなか){義仲}の愛妾の女傑として有名な&bold(){&ruby(ともえごぜん){巴御前}}に関して、
義仲没後に落ち延び、頼朝によって鎌倉に召された彼女を義盛が妻として迎えたという記述が『源平盛衰記』に存在する。この説話は大河ドラマ『[[鎌倉殿の13人]]』にも採用されている。
鎌倉幕府設立後は「侍所別当」と呼ばれる、各種警護や軍事面における最高指揮官としての地位に就き、
以後自身が没するまで(途中で梶原景時と交代する事もあったが)その地位に就き続けた。
また頼朝没後発足した「&font(u){&bold(){十三人の合議制}}」にもその名を並べ、
以後頻発した御家人間での騒乱においては、一貫して北条側としての立ち位置にあり続けた。
結果、多くの有力御家人が(主に)北条家によって族滅される中、義盛とその一族はその勢力を維持し続ける事が出来たのだが、
皮肉にもこうして「&bold(){生き残ってしまった}」が故に、北条一強体制となりつつある鎌倉においては数少ない「&bold(){北条に抗しうる存在}」として目立つようになった。
}
この事態に義盛は親族の赦免を将軍・実朝に懇願。
彼の長年の功績に免じて子供は赦免されたが、甥の&bold(){和田&ruby(たねなが){胤長}}に限ってはそうはいかず、義時は彼を事件の張本人であるとして赦免を許可しなかったばかりか、
一族を引き連れ再度の嘆願のために御所に参じた義盛の前に、&bold(){胤長を縛り上げた姿で引き立てる}という行為に出る。
更には胤長が所有していた屋敷についても、義盛がその管理を任されたのだが、後になって義時はこれを却下して別の人間をあてがった&footnote(当時罪を犯した御家人の邸宅などは、その親族が管理する事が通例だったのだが、義時はこれを意図的に無視した。)。
義盛にしてみればこの一連の事態は「&bold(){自身の面子丸つぶしの上に、一族を公衆の面前で侮辱された}」という、義時からの明確な&bold(){挑発行為}に他ならず、
ついに一族を上げての挙兵を決心するに至る。世に言う&bold(){「和田合戦」}の勃発である。
和田一族のみならず、近縁や本家筋の三浦一族まで集めた義盛は、夕刻に義時及び大江広元(幕府中枢の御家人)の邸宅、並びに大倉御所(将軍の邸宅)を相次いで襲撃。
先の畠山重忠の乱とは異なる、&bold(){鎌倉の中心地で&color(purple){市街地戦}が展開される}という&bold(){&color(red){大騒乱}}が巻き起こった。
なお義時というと、和田一族蹶起の報が届くと、慌てず騒がず悠然と支度を整え御所に向かい、関係者の安全確保や護衛といった対処を指示したという&color(gray){(謀反慣れし過ぎじゃね?)}。
一方の和田勢力はというと、御所に&bold(){&color(red){火を放ち}}警護の武士と交戦するなど攻勢を続けたが、
蹶起の直前に本家筋である三浦家当主・&bold(){&ruby(みうら){三浦}&ruby(よしむら){義村}}が翻意した事による兵力不足や、幕府側から続々と来る援軍も手伝って劣勢に陥る。
日暮れに合わせて後退した後、翌朝には再度の攻撃を仕掛けるも、他の御家人が幕府側についたことも手伝い敗北。
義盛らは討ち取られ((一説に、義盛の三男・朝比奈義秀は安房まで逃げ延びたが、その後の消息は不明であるといわれる))、和田一族は&bold(){&color(white,black){滅亡}}。
騒乱は終結するに至った。
&color(gray){(はいそこ、またかよとか言わない)}
なお、発端である義時が義盛とその一族に向けた一連の挑発的対応の理由は判然としていないが、
もともと義盛が就いていた「侍所別当」の地位を合戦後に義時が自分のモノとしている事から、
自身の権力強化を図る義時が義盛ないし和田一族を暴走させるためにあえて仕掛けたのでは、とする意見もある。
またも&bold(){&color(red){御家人同士}での激突}、しかも今度は&bold(){&color(black){鎌倉中心地}}での&bold(){&color(purple){武力衝突}}という大事件であったが、
この一件の決着は、同時に&bold(){北条に対立し得る御家人が軒並み居なくなった}事を意味した。
逆に言えば、これ以上の騒乱が起きる懸念材料もひとまずは無くなったという意味でもあり、
このまま鎌倉の情勢が落ち着き、安定した統治の末に次の代へ受け継がれていく……かと思われた。
しかし、&bold(){二度目の難}は、あまりにも突然に、そして想定外の方向から訪れた。
1219年、雪が降り積もる日。
三代将軍・実朝が、鶴岡八幡宮に参拝し帰途につこうとした、その時。
同地に身を置いていた先代将軍頼家の実子・&bold(){&ruby(こうぎょう){公暁}}の襲撃を受け、&bold(){実朝が&color(red){殺害}される}事件が起こる((ちなみに、公暁は実朝に太刀持ちとして同行する予定だった義時も標的としていたが、義時が参拝直前で体調不良を訴え、後鳥羽上皇の側近で実朝の懐刀であった源仲章に太刀持ちの役目を代わってもらったため、結果としてその仲章が義時の身代わりとなる形で殺害されたとされる。その顛末から、義時は公暁たちによる実朝襲撃を事前に察知していたか、あるいは襲撃の黒幕だったのではないかとする説も唱えられている。))。
現役将軍の暗殺、しかも実行犯はその甥である先代将軍の子&footnote(ついでに言うと、実朝は公暁を自分の猶子(養子と同様、血縁の無い人物を自身の子として扱う事の意。ただし、厳密には「養子」は親子が同居する関係を指すが、「猶子」は親子が同居しない形であるという点で区別する)として迎えており、実朝は自分の子供に殺された形にもなった。)、というだけで&bold(){前代未聞を通り越した大事件}だが、問題はもう一つあった。
というのも実朝、この時点で正室(当代の上皇との血縁者)と結婚してから十数年経っていたのだが、&bold(){子供が一人も居なかった}。
加えて側室も一人として迎えておらず((以上二点から、実朝を同性愛者として見る向きも存在する))、&bold(){直系の子が誰一人として存在しない}状態だった。
さらに、実朝以外に頼朝、あるいはその兄弟の血を継ぐ者が、過去の権力闘争と内紛によってほぼ死に絶えた状態になっていたため、
この事件で実朝が凶刃に斃れ、その下手人である公暁と関連を疑われた彼の兄弟(=頼家の子)も殺されてしまったということは、
それすなわち、初代将軍頼朝から受け継がれてきた&bold(){源氏の棟梁直系の&color(red){血筋}が文字通り&color(white,black){断絶した}事}も意味していた。
#openclose(show=補足:頼朝の血脈){
頼朝は正室・政子を含め、女性との間に何人かの子供をもうけていた。
また二代将軍・頼家にも同様に子供がいた上、そもそも頼朝本人にも異母弟がいた……のだが、各員の顛末を列挙すると、
****●頼朝の弟(鎌倉幕府成立時点で存命組)
・源範頼:頼朝から反逆の嫌疑をかけられ追放((富士の巻狩りで頼朝が曽我兄弟の襲撃を受け、混乱の最中「鎌倉殿、死去」の誤報が政子にもたらされた際、「私がおりますからご安心ください」と発言したことが「反逆」とみなされてしまったようである))。以後の消息は不明だが、誅殺説が濃厚
・阿野全成:頼家の就任後に謀反の嫌疑を受け捕縛・誅殺
・源義経:ご存知九郎判官。頼朝と対立した末に奥州で藤原泰衡に裏切られ自刃
****●頼朝の子(実朝以外)
・頼家:二代将軍。病床の間に起きた政変の結果、職を追われて憤死
・大姫:木曾義仲の嫡男・義高と婚姻関係を結ぶも、頼朝の命令で義高が処刑されたことに悲観し、20歳で早逝(子は無し)
・貞暁:政子以外の女性との間に生まれたが、それを知った政子の逆鱗に触れ、人目から隠すように育てられた果てに7歳で仏門入り。以後世俗からは断絶状態(勿論子は無し)
・乙姫:頼朝の死から半年後、14歳で病没(独身)
****●頼家の子
・一幡:比企能員の変において、巻き添えを食う形で6歳にして死亡
・善哉:父の失脚と死の後、出家し&bold(){公暁}と称する。そして実朝の暗殺を実行し、直後に討伐される
・栄実:泉親衡に大将軍として擁立され、義時暗殺に加担させられるがこれがバレ、京都で幕府勢に襲われ自害
・禅暁:公暁と同様に出家していたが、実朝の暗殺に加担したと嫌疑を受け、翌年に誅殺
・鞠子:存命だが当時は独身。その後第4代将軍・藤原頼経の妻となり男児を妊娠するも死産に終わり、彼女自身も難産死してしまう
……うん、&bold(){こ れ は ヒ ド イ}
しかも大半が鎌倉における権力闘争や騒乱が原因というあたり、因果は巡るにしてもアレすぎる話である。
}
無論、政子や義時を始め、実朝の周囲がその後継者問題に無頓着だったなどということはなく、
暗殺事件の前年頃から、朝廷と「上皇の皇子を将軍の後継として迎えられないか」と調整を始めていた。
その矢先の実朝の死を受け、鎌倉は急ぎ朝廷に先の要望を伝えるも、時の最高権力者・&bold(){&ruby(ごとば){[[後鳥羽>後鳥羽天皇]]}&ruby(じょうこう){[[上皇>後鳥羽天皇]]}}はこれに難色を示す&footnote(皇子を将軍にする事で事実上日本が二つに割れてしまう事を危惧した、皇子の将軍就任は朝廷と繋がりの深かった実朝が後見人となる=実朝が存命していることが前提の話だったため、等と考えられている。)。
それでもと再三要請すると、今度はその引き換えに自身の寵姫の領地における地頭廃止という、幕府にとっては到底了承できない要求((その領地の地頭職にあったのは義時。了承出来る訳がない。))を出したため、
義時は弟の時房に&bold(){1000の騎兵を預けて京への交渉に向かわせる}という&bold(){&color(red){強硬策}}に出る。
それでも話が進展することはなく、結局上皇から「皇子でなく摂関家&footnote(朝廷において、摂政・関白への被任命権を有する5つの家系(近衛・九条・鷹司・一条・二条)の事。いずれも藤原道長の子孫であり公家の頂点と言える血筋。)からであれば後釜に据えても構わない」という妥協案が示され、義時らもこれを承諾。
摂関家の内、初代将軍頼朝との血縁関係がある「&bold(){&ruby(くじょう){九条}&ruby(よりつね){頼経}}」&footnote(当時の幼名は三寅(みとら)。両親が頼朝の異母妹の孫であり、遠縁ではあるが源氏将軍家とは繋がりがあった。)が新たな鎌倉殿に据えられることになった。
が、この時点で頼経は、2歳になるかという&bold(){幼児}。
当然政務なぞできるわけなく、そもそも将軍職を任ぜられる年齢でもないため、政子がその職務を代行し、義時が執権として補佐をする政治形態を取る事でひとまず決着。
これは結果的に「&bold(){将軍は事実上のお飾りで、政治の実務は執権にて執り行なう}」体制――「&bold(){&ruby(しっけん){執権}&ruby(せいじ){政治}}」と呼称される政治体制の始まりでもあった((余談として、この「宮将軍」九条頼経も数十年後、北条家によって放逐され、京に帰って失意のうちに若くして世を去る。))。
だが、この一件を契機に、元々微妙なバランスで成り立っていた朝廷と幕府の関係は急激に悪化する形となり、
実朝の死から2年後、それは義時の人生最後にして最強の刃――&bold(){第三の難}として振るわれる事になる。
1221年5月。
後鳥羽上皇は催事を口実に京都近隣の武将・兵を招集すると、京に居る親鎌倉派を軒並み&bold(){粛清}。
続けて全国の御家人・守護・地頭に対して院宣を下した。
内容は「&bold(){謀反人・&color(red){北条義時}を討て}」。
かの有名な&bold(){「[[承久の乱]]」}の始まりである。
下した直後の京方では楽観視する者が多く、「義時に味方する者は千人も居まい」と言う者までいたという。
それほどまでに、当時の朝廷、そして上皇の下す命令は&bold(){「&color(gold,black){絶対}」}であった。
加えて、確実に義時を打倒すべく、有力な御家人には個別で院宣を送るなどの手を打っていたため、その余裕もある種必然ではあった。
が、在京の親鎌倉派の生き残りが、辛うじて事態を鎌倉へ伝達する事に成功。
これを受けて警戒を強めた結果、朝廷から東国各地の御家人達へと送られた使者の捕縛にも成功した。
また、個別に院宣及び密書を受け取った有力御家人の一人・三浦義村&footnote(弟である三浦胤義(みうらたねよし)が京にて上皇側についていた。)は、これをそのまま義時ら鎌倉の首脳陣へ開示。
一連の事態は思いのほか早く鎌倉方に伝わる事になった。
とはいえ、事態は最悪に近い状況。
義時はかつての平家一門と同様の「討伐対象」となっており、下手な対応は義時どころか鎌倉全体が壊滅しかねない。
御家人たちは色めき立ち、一説では義時本人は自分が討たれる事も受け入れていたという。
が、そうはさせじと動いたのが、姉であり当時「&bold(){尼将軍}」の異名で呼ばれた政子。
動揺する御家人たちに対し、初代将軍頼朝の功績とその恩を訴え、上皇の軍を討つ事でそれに報いるようにと一喝。
鎌倉を守るために結集するよう呼びかけたのである&footnote(『吾妻鏡』の文章を意訳・抜粋すると、「頼朝公が鎌倉を築き、皆に位や褒章を与えてきたその恩は計り知れないものがある」「しかし今、上皇は逆臣の讒言に基づき義時追討の命を下し、ひいては鎌倉を滅ぼそうともしている」「己が名誉を重んずるのなら、ただちに逆臣たちが率いる上皇の軍を打ち破り、三代将軍実朝が遺業、鎌倉の守護の任を全うせよ」)
&font(#0000ff,u){&font(#ffffff){……追討対象は「義時個人」なのに、さりげなく追討の矛先が「鎌倉全体である」と誤認するよう誘導しているのは内緒。}}
&font(#0000ff,u){&font(#ffffff){とはいっても、ここで義時まで討たれてしまえば鎌倉が空中崩壊しかねないのでやむ無しともいえるが。}}
この説得により、鎌倉旗下の御家人は上皇との対決姿勢を鮮明にして結束する事になり、
更に首脳陣の会議の結果「京方の軍勢が此方に攻めてくるを迎え撃つ」のではなく、「&bold(){御家人を総動員して京へと出撃する}」という積極策を選択。
義時本人は鎌倉に留まり、息子である泰時や朝時、弟の時房といった側近らを大将とした軍勢を、東海道・東山道・北陸道の三方向から出陣させた。
この積極策は功を奏し、各地の武将・御家人達も鎌倉側に同調・合流する事で軍は膨れ上がり、最終的には&bold(){総勢&color(red){19万}の大軍勢}となっていた。
ちなみに義時、出陣に合わせて、先述の「京都から自身追討の宣旨を持ってくるも捕らえられた」人物に、返答の文を持たせて京都に返しているのだが、その内容は、
「私は今日まで上皇に忠義を尽くしてきたのに、今や罪人として扱われています」
「なので、弟の時房や長男の泰時を始めとした、19万の軍をそちらにお送りします」
「それでも考えが変わらないのであれば、私自ら20万の軍を率いてそちらに向かうので、そのつもりで」
といった感じ。&color(gray){この義時、煽りおる。}
また、進軍に際しては「&bold(){一人残らず、 山狩りしてでも敵を討ち取れ。功を急いで討ち漏らしたまま京に入る事の無いように}」と、積極的かつ慎重な進軍を指示している。
このように、対外的には上皇やその軍勢相手に強気な姿勢で臨んでいたように見える義時だが、内心「朝敵とみなされた」ことに思うところはあったらしく、
軍勢が鎌倉を発した直後、自宅に&color(gold,black){落雷}が落ちて死者が出た際は「&bold(){これは朝廷に逆らった自分と幕府が滅びる前兆か}」と不安がったり、
泰時から「もし上皇自ら兵を率いてきたらどうすべきか」と問われて「&bold(){その時はすぐさま武装解除し、下馬して降伏しろ}」と返すなど、
承久の乱では積極策を採った義時であったが、彼個人としては当時禁忌とされていた「&bold(){朝廷に弓を引く}」行為に思う所はあった模様。
一方、先の返答文や各所の報告により、義時が討たれるどころか自分たち目掛けて軍勢が大挙して来ることを知った京側は&bold(){大慌て}。
急いで迎撃態勢を取ろうとするも、幕府の想定外の進軍速度から後手に回る形となり、集められた数は&bold(){&color(red){1万数千程}}と&bold(){圧倒的に不利}。
オマケに戦略ミス&footnote(彼我の戦力差が圧倒的なのに、迎撃の為に自勢力を分散配置する事で余計に局所的な戦力差を広げるという愚策を犯した。)も手伝ってロクな迎撃が出来ない始末。
結果、幕府側は&bold(){その悉くを撃破}し進撃。
京側が最終防衛ラインとしていた京都・宇治川をも&bold(){突破}。
その日の夜には京へ鎌倉軍がなだれ込み、&bold(){&color(white,black){勝敗は決する事}}になった。
敗北が決定的となった後鳥羽上皇は、ここに来て義時追討の院宣を&bold(){撤回}し、全ては家臣らの&bold(){謀議}であると弁明する。
……が、鎌倉で&bold(){&color(red,black){血で血を洗う権力闘争}}を繰り広げてきた義時に、そんな言い逃れが通用する訳も無し。
後鳥羽上皇は隠岐島へ、協力した&ruby(じゅんとく){順徳}上皇は佐渡島へそれぞれ&bold(){&font(u){&color(black){流罪}}}、追討に反対していた&ruby(つちみかど){土御門}上皇も土佐国へ&bold(){&font(u){&color(black){配流}}}された。((土御門上皇の配流は「父も弟も流刑となったのに自分だけが京に居るのは忍びない」と自ら望んだものであり、幕府も後に土御門の配流先を京により近い阿波に変更、さらにその地に土御門のための宮殿を建てるなど様々な配慮をしている。))
後鳥羽上皇の皇子らも同様に配流され、さらに順徳上皇の息子たる当代の天皇は&bold(){&font(u){廃位}}され((践祚(せんそ。天皇の位につく事)したばかりで「即位の礼」と言った必要な祭祀が成されておらず、結果呼名たる「尊号」が贈られる事も無かった。没後は長らく他界した家の名字を取って「九条廃帝」と呼ばれていたが、明治時代に「仲恭天皇」と諡された。))、
後鳥羽上皇の甥が新帝として建てられるなど、後鳥羽上皇とその一党は軒並み&bold(){京から追われる}格好となった。
もっともこれでもまだ「ゆるい」方で、上皇側に就いた公家や御家人たちへの処断は更に&bold(){容赦がなかった}。
武士たちは大半が&bold(){&font(u){&color(red){斬首}}}され、貴族も&bold(){&color(red){処刑}}や&bold(){&color(red){流罪}}、&bold(){&color(red){失職}}のオンパレード。
合わせて、彼らが持っていた所領もそのすべてが幕府に&bold(){没収}された上、鎌倉側の武士たちに恩賞として与えられる事になった。
更に京都及び西国の監視として「&bold(){&ruby(ろく){六}&ruby(はら){波羅}&ruby(たんだい){探題}}」が設置されるなど、鎌倉幕府の影響力は&bold(){京を含めた&font(u){日本全域}}へ広がり、
同時に幕府と御家人――引いては「武士」という階級の有り様も大きく変動する事になった。
……それは、絶大な影響力を持つ鎌倉の中心に居る義時が、文字通り&bold(){&color(red){日の本の中心的存在}}になっていることも示していた。
――上皇が義時追討の宣旨を出してから、鎌倉の軍勢が京に辿り着くまで、その間&bold(){わずか一ヶ月}。
一介の豪族に過ぎなかった男は、ついに&bold(){&color(red){日の本の頂点}に座する存在}を墜とすまでに至った。
項目冒頭の一文は、『承久記』において、まさにこの勝利の報を聴いた際に義時が述べたという科白&footnote(全文訳すると「今の私に思い残す事は無い。私が現世において受ける幸運は、王(上皇)の幸運に勝っていたのだ。ただ前世での善行が一つ足りなかったがために、低い身分に生まれたのだろう」。)。
「&bold(){自分が現世において受ける幸運は、上皇のそれに勝っていたのだ}」という、彼なりの&bold(){&color(red){勝利宣言}}であった。
だが、乱からわずか3年後の1224年、義時は62歳でこの世を去る。
脚気と暑気あたりによるものとされるが、急死であったらしく、一部では&color(purple){毒殺説}まで語られる事もあったという。
義時の没後、北条家の家督と政治的地位は長男の泰時が継承。
また、五男の北条政村は生母・伊賀の方が自身を祭り上げて引き起こした「伊賀氏の変」(後述)により、本来ならば処罰されてもおかしくない立場にあったが、
寛大にも何らの御咎めも受けることはなく、晩年、後の8代執権北条時宗(泰時の曾孫)の後見として7代執権を務める事になる。
以後、義時を祖とする「&bold(){北条&ruby(とくそう){得宗}}」一門による鎌倉幕府の統治が進められていき、
その体制と栄華は1333年に鎌倉幕府が崩壊するまで、約100年以上に渡って続いていく。
**◆家族・子孫
***両親・夫人
父は前述のとおり北条時政。母の名前は不明だが、伊豆の有力武士であった伊藤祐親の娘と伝わっている。
夫人のうち名前が残されているのは泰時の母である&bold(){阿波局}、比企朝宗の娘で朝時・重時らの母である正室の&bold(){姫の前}、
そして伊賀朝光の娘で政村らの母である継室の&bold(){伊賀の方}の三人。
姫の前は大変な美人であり、義時は&bold(){恋文を1年以上送り続ける}という&s(){ストーカーじみた}熱烈なアピールを行ったものの&s(){案の定}一向になびかず、
見かねた頼朝が義時に「絶対に離縁しない」という起請文を書かせて間を取り持ったという。
しかし、比企氏の乱の後に結局離縁することになってしまい、その後は京都で公家の源具親と再婚したことが記録に残っている。
一方、継室の伊賀の方は義時の死後、&bold(){伊賀氏の変}という事件を起こしたとされる。
彼女は兄の伊賀光宗、有力御家人の三浦義村と手を結び、息子の政村を執権、娘婿の一条実雅を将軍にしようとしたが、
不穏な動きを察知した政子に先手を打たれ、義村も不支持に回ったため頓挫。
政村は許されたものの、彼女を始めとする関係者は流罪となった……というのが事件のあらまし。
ただ、光宗らを始めとする伊賀氏が謀反に及んだという明言は『吾妻鏡』内に&bold(){全くなく}、関係者も比較的寛大な処分がされたため、
&bold(){「自らの影響力の低下を恐れた政子が牧氏の変と同様の構図で伊賀の方らの勢力を削るために陰謀をでっち上げたのでは?」}という説も有力である。
また、歌人・藤原定家の日記内に『[[承久の乱]]の首謀者の一人である僧侶、尊長が捕らえられて尋問を受けたとき、
彼は『早く首を斬れ、さもなくば&bold(){義時の妻が義時に飲ませた薬を使って私を殺せ}』と叫んで周囲を驚かせた』という記述があり、
上述の&bold(){毒殺説の犯人}ではないかという疑いもある。ただこちらも確たる証拠はなく、真相は闇の中である。
なお、義時の後を継いで第三代執権となった泰時の母、阿波局に関しては出自はおろか、生没年すら不詳と完全に謎。
義時の正室は前述の姫の前と伝わっているため、おそらくは側室であり、泰時は庶長子の立場であったと思われる。
彼女の詳細について、歴史学者で義時を主役とした[[NHK大河ドラマ]]『[[鎌倉殿の13人]]』の時代考証も務めた坂井孝一氏は、
「証拠などは全くない、あくまで推論」として「源頼朝の最初の妻であった八重姫と同一人物ではないか」という仮説を唱えており、
これを受けてか、『鎌倉殿の13人』では八重(姫)が義時の最初の妻(=阿波局)になっている。
ちなみに、同じ時代を扱った1979年の大河ドラマ『草燃える』では、[[オリジナルキャラクター]]の『茜』(作中では「大庭景親の娘」という設定)が事実上阿波局の立場にあり、
「元々義時の妻だったが、頼朝に夜這いされた上に、その直後に泰時を妊娠してしまう」設定になっていて、泰時の実の父親が頼朝なのか義時なのかはぼかされている。
『鎌倉殿の13人』でも、金剛(泰時)を褒める際に頼朝が「ワシに似てないか?」と笑えないボケをかますシーンがあったが、『草燃える』の方はもっと笑えない設定であった。
***子息
義時には多くの子息がいたが、ここでは子孫が鎌倉幕府の要職を歴任していくことになっていく人物5人を挙げておくことにする。
・北条泰時
鎌倉幕府第三代執権で、義時の後継者。
戦国時代に至るまで武士の基本法として運用された『&bold(){御成敗式目}』を制定。寛大かつ質実剛健なその人柄は&bold(){武士の鏡}として後世まで評された。
ただし、『吾妻鏡』内の彼の供述には露骨な曲筆や顕彰も多いのは注意が必要。
もっとも同時代の公家などからも高く評価されており、優れた人物であったことは確かだと思われる。
北条家の主流となった&bold(){得宗家}は彼の子孫にあたる。
・北条朝時
姫の前の子で、&bold(){名越流北条氏}の祖。
&bold(){女性問題でやらかして}実朝・義時の怒りを買い勘当されるという憂き目を見たが、
和田合戦で呼び戻され、そこで活躍したことで許される。[[承久の乱]]では北陸道の部隊を指揮して活躍した。
庶子である兄泰時に対し、正室の生まれである朝時は主流意識が強かったとされ、泰時が設置した評定衆を即座に辞任するなど対立的な関係だったとされる。
泰時の死の前後にもいくつかの暗闘があったという。
彼の子孫である名越流も得宗家と&bold(){たびたび対立}し、宮騒動、二月騒動などを引き起こす。そのため、執権や六波羅探題といった要職に就くものはいなかった。
娘の一人が足利氏に嫁ぎ、男子を出産。その子孫が室町幕府の管領家の一つ斯波家を興す。
・北条重時
姫の前の子で、&bold(){極楽寺流北条氏}の祖。
六波羅探題を17年勤め、後に執権北条時頼の要望によって補佐役である&bold(){連署}に就任した。
民衆をいたわる「&bold(){撫民}」を政治の基礎とし、その姿勢は&bold(){「御家人の政権」}から&bold(){「全国政権」}へと変化した幕府の政治姿勢に大きく影響したとされる。
名越流と違って極楽寺流は得宗家と大きく対立することはなく、執権も北条長時をはじめ、極楽寺流から3人輩出している。余談だが、足利尊氏の高祖父である。
・北条政村
伊賀の方の子で、&bold(){政村流北条氏}の祖。&s(){のちの伊東四朗}
伊賀氏の変でまつり上げられたものの、泰時の計らいにより許される。&s(){泰時でなければ即死だった}
その泰時の死後、後に第八代執権となる北条時宗が得宗家を若くして継いだ際には、中継ぎとして第七代執権に就任。
時宗が成長すると彼に執権の座を渡し、以降は連署として彼を支えた。
和歌や典礼に通じる教養人であり、京都の公家からも敬愛されたという。
・北条実泰
こちらも伊賀の方の子で、&bold(){金沢流北条氏}の祖。
同母兄の政村と同様、伊賀氏の変では泰時の計らいにより許された…が、実泰はそれがかえって重荷になってしまったのか、
若くして病にかかってしまい、引退してしまうことになってしまった。
実泰の後を継いだ彼の子・実時は鎌倉北条氏を代表する文人として知られ、
所領としていた武蔵国金沢(現・横浜市金沢区)に収集した書物を所蔵した。これが金沢文庫の始まりである。
**◆功績と後年の評価
鎌倉幕府における支配体制、所謂「執権政治」の基礎を築いたのは紛れもない事実である。
義時以降、北条家は鎌倉幕府における中心的地位を独占し続ける事となり、その先駆けたる義時は北条家の始祖として顕彰される事になる((一方で、地方の一豪族でありながら自身の代で北条家を坂東の御家人の頂へと導く足掛かりを作った初代執権・北条時政については、実朝を将軍の座から引き摺り下ろそうとしてクーデターを企み、追放されてその晩節を汚したためか、その孫である三代執権・北条泰時は事あるごとに鎌倉幕府の祖廟として頼朝・政子・義時の墓参りをしていたが、時政は謀反人と断じて仏事を行わず、存在を無視していたという。))。
人物面においても、近い時代においては高く評価されており、承久の乱の直後に生まれた日蓮僧侶(日蓮宗の開祖)は「&font(i){嘘をつかない人}」と文献に記した。
また業績面においても、鎌倉幕府滅亡後に室町幕府を築いた足利尊氏は、泰時と共に「&bold(){その行いは近代の師であった}」と評している。
加えて、各種文献において、彼が積極的に権力確保・収奪に動いたという記述はそこまで多くない。
主君たる源氏・将軍から実権を奪い取り、以降彼とその末裔が執権として鎌倉幕府を動かしたことから、野心的で冷酷な策謀家と認識されがちな北条義時だが、
実際のところ、彼にそこまで明確な野心や権力欲があったのかは定かではない。
少なくとも、晩年の少しでも野心を見せれば兄弟でも粛清した頼朝の近くに居ながら生き残った時点で、
頼朝が亡くなるまでは野心をさほど持っていないか、持っていても猜疑心に苛まれる主に見抜かれないほどに上手く隠していたのだろうと推測できる。
むしろ、なまじ頼朝に近い立場にいたばかりに、源氏や北条家、御家人や朝廷といった周囲の野望・行動に巻き込まれる形で関わってしまい、
それらから自分や家族、仲間と組織を守るために奔走し、時に武力と謀略を持って立ち向かっていった結果、
いつの間にか最高権力者の座に上り詰めてしまった、と言った方が正確ではないか……とする説もある。
だが一方で、「&bold(){主君や同僚を次々と罠にはめて滅ぼしていき、最後には天皇家にまで弓引いた不忠者・策謀家}」とする評価もまた古くから存在した。
そうした「義時の裏切り」を、最も早く最も体系立てて論述したのは、他ならぬ『&bold(){吾妻鏡}』である。
何しろ三代将軍・実朝の暗殺について、『吾妻鏡』は&bold(){義時こそが暗殺の黒幕だとほのめかしている}のだ。
#openclose(show=実朝暗殺に関する『吾妻鏡』の記述について){
『吾妻鏡』によれば、
「実朝が鶴岡八幡宮にいざ参詣するという際に、&bold(){義時は急に腹が痛くなり}、実朝と同行するはずだった自分の役職を別の実朝側近である源仲章に代わってもらった。その結果、実朝は仲章共々殺された」
としている。
しかし『愚管抄』では、「義時は実朝の命令もあって、最初から参詣しない役だった」とあり、「仲章は義時と間違えられて斬られた」としている。
さらに『吾妻鏡』には、この他にも「実朝が『自らが暗殺されること』を予期・確信し、遺言のような詩を残した」などと記されている。
これはいずれも、実朝暗殺を「歴史上の事実」として知る後世の人物があえて曲筆したと推測されるのだが、
問題はその曲筆が&bold(){「急に腹が痛くなったなどと、子供騙しのような策略を義時が仕掛けた」}と記述されている点である。
おまけに先述の遺言じみた詩も、&bold(){「学問の神様にして怨霊」}と謳われたかの&bold(){菅原道真}が、冤罪で左遷される際の詩のもじりである辺り、相当な意志もうかがえる((なにせ源実朝は当代一の歌人武士で、また時の天皇に忠誠を誓い、それがただでさえ菅原道真の属性と被っているというのに、その上道真は「陰謀と冤罪で滅ぼされた」「死後は怨霊になり、それを鎮めるため神に祀られた」と来ていて、その遺言の詩を実朝に言わせるのだから、いかにも「察しろ」と言わんばかりである。))。
少なくとも『吾妻鏡』の作者は、実朝暗殺の黒幕は北条義時、と見なしていたことになる。
実際の義時がどうであったかは別として、そういう記述がはびこるほどには、当時既にそういう見方が広まっていた事が読み解けるのだ。
}
その実朝が三代将軍となるきっかけになった、二代将軍・頼家が急病で倒れ、一時は危篤状態と見なされた時にも、
まだ頼家はもちろん、その後ろ盾の比企能員もまだ存命にも関わらず「頼家死亡につき弟に交代させる許可を」という公式嘆願書を出す((しかもこの出典は当時の記録である『愚管抄』である。))辺り、
北条家が積極的に頼家から実朝への将軍交代を策謀していたのは間違いない。
そしてこれら北条家の策略に、その中核的メンバーである義時が全く関与していなかったというのは考えにくい((頼家在位時、義時は分家・江間氏の当主とされ立場が弱かったと言われるが、実は「江間家の義時」とすることによって「十三人の合議制」のうち2人を北条家で占有できる、という事情もあった模様。また少なくとも、北条時政を追放した際には義時も姉政子とともに力を発揮している。))。
畠山重忠についてその粛清には反対しながらも、死後にはその遺族に対して便宜を図ろうとはしなかったこと、
和田義盛を反乱に追い込むべくあからさまな挑発をしかけていることからも、義時は周囲に巻き込まれる形で状況に対処していただけでなく、
明確かつ作為的な&bold(){意志}を腹の内に抱いて行動していた証左と言える。
そうした明暗分かれる義時の評価は、時代が下るとますます&bold(){暗い方へ}傾いていく。
江戸時代においては、将軍家を筆頭とした「主君・目上に対する忠誠」を重んずる&bold(){[[儒学>儒教]]思想}が根づいたこともあり、
執権として政治を主導した行為が「&bold(){主君たる将軍から実権を奪い取った}」とみなされ、&bold(){不忠の臣下}として見做されるようになった。
さらに進んで時代が明治に移ると、承久の乱における「&font(u){&bold(){三上皇の配流}}と&font(u){&bold(){現天皇の皇位廃止}}」という処断が当時の&bold(){&color(red){尊王・皇国史観}}とモロにぶつかる形となった。
結果、江戸時代以前の好意的評価は消え去り、「&bold(){非道の逆臣}」「&bold(){稀代の朝敵}」として批判的に扱われるようになった。
この印象は太平洋戦争後も根強く残り続け、「&bold(){&color(blue){冷酷無比}な策謀家}」のイメージが大衆に定着していった。
オマケに歴史教育において「鎌倉時代の北条氏の代表」と言えば姉・政子の名前が教科書に載る一方、
実際に政治を取り仕切った義時について記される事は&color(gray){ほとんどない}事も手伝い、その有り様や立ち位置、功罪が見直されるのは21世紀以降になってからであった。
だが、日本の歴史的に見れば彼の行い、特に承久の乱に勝利した事の影響は&bold(){&font(#ff0000,u){絶大}}の一言に尽きる。
それまでの&bold(){「朝廷・公家>武士」}という絶対的な上下関係・社会通念を、義時は乱の勝利によって&bold(){完全にひっくり返す}事に成功した。
この結果、日本における武家政権、ひいてはその頂点に立つ「&bold(){武家の棟梁}」は事実上の&bold(){「日本の統治者」}としての意味を獲得。
その構成員たる「武士」という存在が、以後の日本の歴史を作っていく契機となったのだ。
この状態は鎌倉幕府が滅んでも尚変わる事は無く、以後の室町時代から江戸時代に至るまで継続。
明治維新によって天皇を頂点とした新たな政治体制が形成されるまでの、実に&bold(){&color(red){約600年}}もの長きに渡って続いた。
しかもその明治においても、初期において政治に参与した者の多くが過去に武士階級であった以上、
義時の勝利は、今の日本を形作る上で&bold(){決して欠かすことのできない&color(white,black){ターニングポイント}}であったと言える。
伊豆出身の豪族の次男坊から始まり、降りかかる火の粉を払い続け、あるいは振り巻き、いつしか日本の武家の頂きにまで辿り着いた男・北条義時。
彼が数多の犠牲と策謀、はたまた苦悩と選択の果てに築き上げた北条一族の栄華は、鎌倉幕府の終焉と共に歴史上から消え去った。
だが、彼が選び、歩み、そして踏み固めた道は、現代の日本を形作る上で決して欠かすことのできない礎となって、今日に至るまで存在し続けている。
**◆大河ドラマで北条義時を演じた主な俳優
・西田敏行(新・平家物語)
・松平健(草燃える)
・小栗旬([[鎌倉殿の13人]])※主役
追記・修正は鎌倉の御家人の方々がお願いします。
#include(テンプレ2)
#right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/
#vote3(time=600,29)
}
#include(テンプレ3)
#openclose(show=▷ コメント欄){
#areaedit()
- 乙 -- 名無しさん (2022-10-31 00:03:47)
- 時政が義時を晩年失脚したとはいえ育て上げて義時自身も御成敗式目を作り上げた泰時を育てていたの見ると、主君というか幕府というみこしに乗っかっていたことで権威示してた頼朝って何だったんだろうと思う(頼家実朝の末路は言わずもがな、自身の血脈はあっさり断絶、全成の子孫の阿野氏は残っているとはいえ細々、最終的に河内源氏の嫡流というか本家は足利に持っていかれる) -- 名無しさん (2022-10-31 01:03:45)
- やたらカラフルですね -- 名無しさん (2022-10-31 01:07:23)
- 北条義時が好きなら永井路子の小説「炎環」は必読。大河ドラマ「草燃える」の原作なんだっけ? -- 名無しさん (2022-10-31 01:09:56)
- 鎌倉の将軍家は、朝廷と交渉役をやってたお飾りだったと思っている。頼朝はそれでも顔が利いたからよかったが、代がかわれば顔も聞きにくいだろうし、逆に朝廷に懐柔されかかったから、消されたのだと踏んでいる。「消したのが誰か」はともかくね。 -- 名無しさん (2022-10-31 01:29:36)
- 生きていたら嫡子頼家の政敵になる可能性もゼロとは言い切れなかった異母兄弟たちを朝廷に -- 名無しさん (2022-10-31 07:42:44)
- ↑続き圧力かけて始末した頼朝が北条一族の踏み台に自身や自身の子供諸共踏み台にされて、今度はその北条一族も同じ源氏の先祖を持つ足利氏の踏み台にされたという真の勝者というか鎌倉中心の関東での争いに限れば最終的な勝者は北条一族ではなく実は足利氏だったのではという -- 名無しさん (2022-10-31 07:46:41)
- 最初の上下2色になってるのちょいちょい見かけるが、読みづらいだけなんだよなマジで -- 名無しさん (2022-10-31 07:57:09)
- 誰でもいいからマーキングは統一してほしい。色のせいで台無しだ -- 名無しさん (2022-10-31 15:29:18)
- すごくよくわかりやすく書けていてとてもありがたいんだが目ェ痛い… -- 名無しさん (2022-10-31 15:44:46)
- 歴史苦手な自分が一息に読んでしまった。建て主に感謝。 -- 名無しさん (2022-10-31 19:59:39)
- 嫡子泰時は鎌倉幕府の祖廟として頼朝、政子、義時を事あるごとに参詣していたが、一方で祖父時政に関しては仏事すら行わず完全に黒歴史扱いしていたという -- 名無しさん (2022-10-31 20:02:51)
- 乙 改めて見ると地獄以外の何物でもねぇな? -- 名無しさん (2022-10-31 22:56:33)
- フィクションでの出番…ってなるとだいたい北条政子の出番が多くてあんま見ないかな? -- 名無しさん (2022-10-31 23:38:28)
- 意外と知られていないけど、足利尊氏の妻は北条氏(最後の執権の妹)。京の幕府、鎌倉府ともにその子孫が代々トップに就いたから、北条の血はそういう意味では長く続いていたりする。 -- (2022-11-01 18:53:26)
- これはあんまりにもアレだから教科書に載せれなかったのかな?それにしても最初のやつすごく怖い -- 名無しさん (2022-11-01 22:41:02)
- 朝敵になった中で真っ向叩き伏せて勝ったのはこの人くらい?後の尊氏(義満まで)はこっちが本当の天皇(北朝)と矛先反らすトリック使ってるし -- 名無しさん (2022-11-02 11:31:39)
- いやぁ読み応えあった。しかしまあ北条義時にこれまでライトが当てられなかったのも頷けるというか……エグいなぁ北条家 -- 名無しさん (2022-11-02 16:01:33)
- 鎌倉殿の13人以前の創作物だと、そもそも歴史ものでも戦国や幕末などに比べて鎌倉時代を扱ったものは少ない感じだし、あっても源平合戦や元寇なんかの方にスポット当たること多いからどうしても影薄くなるわなぁ。自分が知ってる奴だとコーエーの蒼き狼シリーズで日本の史実将軍として登場していることくらいか。 -- 名無しさん (2022-11-03 00:54:44)
- 色々と過少評価されがちだけど、頼朝すら越える大政治家じゃないかと思えるほどスーパードロドロ勝ち残って、朝廷も屈服するガチ天下人になったのは厳然たる実績だと思う -- 名無しさん (2022-11-07 02:07:16)
- ↑戦の総大将でバリバリ戦果上げたとかじゃないから地味になっちゃいがちなんだよね。知れば知るほど面白い人だと思う。 -- 名無しさん (2022-12-19 00:40:12)
- 実際大河以前だと泰時の父親程度の扱い多かったな -- 名無しさん (2022-12-20 16:37:59)
- 実質的な鎌倉幕府の二代目将軍 -- 名無しさん (2023-01-01 06:09:51)
- 間接的にとはいえ甥(姉の子)の頼家をタヒに追いやった感じとはいえ、その頼家が仮に有能な人物だったとしてもどの道末路変わらなかった言われてるし、寧ろ北条時政義時親子を念には念を入れて排斥しなかった頼朝のせいでもありそうな頼家の末路 -- 名無しさん (2023-04-16 21:03:19)
- 死に際して盛大な加持祈祷は行われたが「医者が派遣された記録」は無い。…怖いね -- 名無しさん (2023-05-22 17:19:17)
- 徳川家康を更に醤油で煮詰めたような人物だからなあ。まぁ、一般ウケはしないだろう -- 名無しさん (2024-07-09 20:13:17)
#comment(striction)
#areaedit(end)
}