ローマ帝国

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ローマ帝国 - (2016/11/16 (水) 14:18:05) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2010/02/21(日) 00:01:38
更新日:2023/11/23 Thu 20:10:56
所要時間:約 6 分で読めます




注意

ここで示すのは前753年のラテン人ローマ建国から476年の西ローマ帝国滅亡まで。

尚、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)及び神聖ローマ帝国の内容は割愛する。



世界史に慣れていない人にもわかりやすくするため極力人名は抑えて有ります。
ご了承ください。




歴史

前段


日本ではまだ稲作をしていて、正確な歴史が存在していなかった頃のこと。

紀元前753年
イタリア人の一派ラテン人がイタリア半島のテヴェレ川周辺に都市国家ローマを建国。
(しかしあくまでこれは伝説で、実際の年号は不明)当時は国というより小さな村。

エトルリア人の支配が約200年続く。だが、前509年にエトルリア人の王を追放、初期の共和制を樹立する。

ここからローマの歴史は始まる。


共和政ローマ


当時の政治は貴族(パトリキ)300人からなる元老院と、任期一年の執政官(コンスル)二名で行っていた。

だが、政治形態は時代と共にかわり、軍の主力となる農民の地位が上がるにつれて、『リキニウス=セクスティウス法』『ホルテンシウス法』等が制定され、
農民は法の下で平等になった。

だが、実際には貴族などが新しい支配層(ノビレス)などを構成したので、アテネのような民主制は実現しなかったことを頭に入れて欲しい。

まぁ要は貴族と農民の平等は最後まで実現しなかったってこと。
まあギリシャもギリシャで奴隷国家だったけどね。


さて、国が安定してくると対外戦争を行うようになる。

前272年:ピュロスの戦い
→イタリア半島統一

前264年:ポエニ戦争
→シチリア島、イベリア半島(現在のスペイン、ポルトガル)、小アジア(現在のトルコ)、ギリシア、カルタゴ(アフリカ北西部)獲得。
実際には属州。

ローマ軍は当時最強だった。



帝政ローマ


対外戦争が続くと国内は乱れ始める。

前107年~前27年:「内乱の一世紀」
前91年:同盟市戦争
前73年:スパルタクスの乱

などが相次いで起こる。


こんな時、元老院が指導する共和制が最早十分に機能してないことを見抜き、民衆の人気を背景に独裁を目指したのがカエサルである。

カエサルはたった三人で政治を行う第一回三頭政治を実現。顔ぶれはカエサルの他、クラッススとポンペイウスである。

しかしクラッススが戦死した事で三頭政治のバランスが崩壊し、
当時ガリア遠征中であったカエサルと本国ローマにいたポンペイウスの間に勢力争いが発生、内乱にまで発展した。

敗れたポンペイウスは国外に脱出するが、亡命した先で暗殺されてしまう。こうして三頭政治は崩壊し、カエサルが全ての実権を握った。

しかしそんな時、カエサルは共和制に固執する元老院保守派により、数人がかりで全身めった刺しにされ、殺されてしまう。

余談だがカエサルに付けられたこの23ヵ所の刃傷のうち、致命傷となったのはたった一つだけだったという……


カエサルが暗殺されたのち、彼の養子であるオクタウィアヌスが台頭し、第二回三頭政治を行う。

オクタウィアヌスの三頭政治では一人が早くに失脚。もう一人、カエサルの部下でもあったアントニウスは、かの有名なエジプトの女王クレオパトラと手を結んだ。

これに激怒したオクタヴィアヌス。
ローマ軍を率いてエジプトに侵攻、加えてエジプト側も軍を率いて対抗。これがかの有名な『アクティウムの海戦』である。

アクティウムの海戦でエジプトを破ったオクタウィアヌスは独裁を達成。『尊厳者』 (アウグストゥス)の称号を得る。

オクタウィアヌスは元老院と共同統治の形をとる元首政と呼ばれる政治を開始したが実際は数々の役柄を兼任し、特権や権威を与えられていたため、
実質「帝政」と呼べるものだった。

実際にこの時代を「元首制」ではなく「前期帝政」と呼ぶ学者もいる。


オクタウィアヌスが独裁者となった前27年から、後に記す五賢帝までの時代の約200年を、
比較的安定した国政、ローマの最盛期として『パクス=ロマーナ』(ローマの平和)と呼ぶ。

この頃、今現在にも影響している、重要な出来事が起こった。

そう、イエス=キリストの誕生である。

ローマとは関係がないので今は省くが後にキリスト教が生まれ、世界史を動かし続けることになる。



話を戻す。


オクタウィアヌス(アウグストゥス)の後はティベリウス帝→カリグラ帝→クラウディウス帝→ネロ帝が即位。

更にネロ帝暗殺後、一年に渡る内乱を経てウェスパシアヌス帝が即位した。ちなみにかの有名なコロッセウムはこの時代に作られている。

そして、ウェスパシアヌス帝の息子二人も皇帝として即位し、更にその後五人の皇帝は善政を行なったので五賢帝と呼ばれる。


五賢帝

Ⅰネルウァ
Ⅱトラヤヌス
Ⅲハドリアヌス
Ⅳアントニヌス=ピウス
Ⅴマルクス=アウレリウス=アントニヌス


五賢帝二番目の皇帝、トラヤヌスはアルメニア(カスピ海付近)とダキア(黒海の西)を獲得、ローマ帝国最大版図を作り上げた。

地中海と黒海付近の領土全部、今では考えられない大きさである。



東西ローマ


この五賢帝の時代が終了した後、ローマは分裂へと繋がっていく。

次のカラカラ帝以降は、皇帝が何人も入り乱れた軍人皇帝時代が訪れる。


もはや一人では維持できない。

キリスト教を国教としたテオドシウス帝は息子二人に帝位を相続する際、
帝国をラヴェンナを首都とする西ローマ帝国、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に分割し、ローマ帝国はほぼ分裂。

しかしこの政策もうまく機能したとは言い難く、西側は衰退の一方を辿った。
軍事も完全に弱体化しており、『蛮族』の攻撃を防ぐのに『蛮族』出身の傭兵や将軍が主力となって活躍する始末だった。
……ハッキリ言ってこの頃には西の経済・文化も弱体化が進行し風俗も乱れ切っており、
もはやゲルマン人たちを『蛮族』と笑うことはできるような状態ではなかったのである。

地方に至ってはローマ帝国の権威などとっくの昔になくなっており、より実力のあるゲルマン人たちによる支配が行われていたのも当然のことだった。

そして最後の皇帝であるロムルス帝は傭兵隊長オドアケルにより退位させられ、
その後釜に据えられた皇帝もいなかったことで西ローマ帝国は滅亡した。

一方、東ローマ帝国はイスラムのオスマン帝国に1453年滅ぼされた。



ローマ軍

初期のローマ軍は決して強いというわけではなかった。むしろアマチュアの集団に近かったのである。そんな彼らが世界を制することができた理由はというと、
彼らがアマチュアの集団であることを自覚し、それを最大限に突き詰めた「究極のアマチュア」とも言える軍団を作り上げたからである。
個々の能力は高くなくとも、平均的な能力を持った大兵力を供給し続ける兵站システムこそが彼らの強みだった。
ポエニ戦争当時、敵であるカルタゴ軍が10数万人というところ、ローマは75万もの大軍団を動員できた*1
「レギオン」という言葉をご存知のアニオタ諸君も多いだろうが、「数の暴力」の象徴ともいうべきこの言葉はローマ軍団の構成単位からきているのである。



ローマの文化


ローマ文化の特徴を一つだけあげよ、というならば、それは「寛容」であろう。
異文化を積極的に取り込み、吸収し、自分たちのものとして昇華する。
敗者さえも取り込むこの姿勢こそが大帝国を作り上げていったのだと言い切って良い。

すべての道はローマに通ず


有名な言葉であるが、ローマの土木技術は当時世界に抜きんでたものだった。広大な領土の主要拠点ほとんどが丁寧に施工された街道で結ばれた。
その中には2000年を経た現在でも使われているものも少なくない。

ギリシャ・ローマ神話


表題のように並び称されるほど、ギリシャ神話とローマ神話には共通点が多い。どうも先達であるギリシャ神話に憧れたローマ人は、これを自分たちに取り込んでしまったということらしい。


すべての追記・修正はローマに通じる。

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