ローマ帝国

登録日:2010/02/21(日) 00:01:38
更新日:2021/06/17 Thu 12:23:33
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注意

ここで示すのは前753年のラテン人ローマ建国から476年の西ローマ帝国滅亡まで。

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)及び神聖ローマ帝国の内容は割愛する。



世界史に慣れていない人にもわかりやすくするため極力人名は抑えて有ります。
ご了承ください。




歴史

前段


日本では史書が残されず、正確な歴史がわからない頃のこと。
中国では春秋時代が始まってしばらくした頃。

紀元前753年
(今で言う)イタリア人の一部であるラテン人が、イタリア半島のテヴェレ川周辺に都市国家ローマを建国。
(しかしあくまでこれは伝説で、実際の年号は不明)当時は国というより小さな村。

王政ローマ

ローマを建国したグループのリーダーであったロムルスは王となり、王政を始めた。

初期はラテン系の王による統治が約150年、後期はエトルリア人出身の王による支配が約100年続く。だが、前509年に7代目の王を追放する*1

こうして王政は終わり共和制に移行することとなる。
王政への反省、及び7代目の王が何度も復帰しようとしたことから、ローマ人は「王政への拒否感」が刷り込まれることとなる。


共和政ローマ


当時の政治は貴族(パトリキ)300人からなる元老院が、任期一年の執政官(コンスル)二名を決めるという形になった。

だが、軍の主力となる平民(プレブス)の地位が上がるにつれて、『リキニウス・セクスティウス法』『ホルテンシウス法』等が制定され、
農民は法の下で平等になった。
そもそも元老院自体が平民に向けても開放されており、平民であろうとなることが出来た。まあそのためには選挙で選ばれなければならず、
そのための選挙資金は貴族でもなければそうそう用意できるものでなかったのだが。

その後も利権を維持しようとするパトリキ、それを手に入れようとするプレブスの間で権力闘争や政治闘争が行われるなど身分間のしこりは残ったものの、
全体的には調和をしていった。
裕福なプレブスなどは元老院議員、果ては執政官クラスの職に就き、新貴族(ノビレス)と呼ばれるようになっていく。


さて、国が安定してくると対外戦争を行うようになる。

前272年:ピュロスの戦い
→イタリア半島統一

前264年:ポエニ戦争
→シチリア島、イベリア半島(現在のスペイン、ポルトガル)、小アジア(現在のトルコ)、ギリシア、カルタゴ(アフリカ北西部)獲得。
実際には属州。

ローマ軍は当時最強だった。
また完膚なきまでに敗北しても決して諦めなかった。


帝政ローマ


こうして覇権国となったローマ。
しかしあまりにも大きな成長は国内にひずみを生み出していく。

前107年~前27年:「内乱の一世紀」
前91年:同盟市戦争
前73年:スパルタクスの乱(スパルタクスら剣闘士による大規模な反乱)

などが相次いで起こる。


こんな時、元老院が指導する共和制が最早十分に機能してないことを見抜き、民衆の人気を背景に新しいシステムによる統治を目指したのがユリウス・カエサル(英語読みではジュリアス・シーザー)である。

しかし依然として元老院の力は強かった。そこでカエサルは当時のローマの有力者三人で密約を組み、元老院に対抗して政治を行う第一回三頭政治を実現。
顔ぶれはカエサルの他、ローマ随一の資産家でカエサルに金を貸しまくっていたクラッススと東方で活躍した将軍ポンペイウスである。

しかしクラッススが東方でパルティアとの戦争のさなかに戦死した事で三頭政治のバランスは崩壊。
当時ガリア遠征中であったカエサルと本国ローマにいたポンペイウスの間に勢力争いが発生、内乱にまで発展した。

緒戦で破れたポンペイウスは国外に脱出。その後ギリシャでの決戦で敗北し、亡命したエジプトはプトレマイオス13世とクレオパトラ7世の姉弟の共同統治が崩壊し絶賛内戦状態。
ここでローマに介入されてはたまらない、とプトレマイオス13世と側近はポンペイウスを暗殺してしまう。
こうしてカエサルが全ての実権を握った。

かくしてカエサルは終身独裁官となったのだが、そんな時、カエサルは共和制に固執する元老院保守派により、数人がかりでプギオにより全身めった刺しにされ、殺されてしまう。

余談だがカエサルに付けられたこの23ヵ所の刃傷のうち、致命傷となったのはたった一つだけだったという……


カエサルが暗殺されたのち、彼の養子であるオクタウィアヌスが台頭し、他のカエサルの側近らと共に国家再建のために委員会を設置。第二回三頭政治である。なおあくまで秘密協定であった第一回と違いこちらは公式。

彼らはフィリッピの戦いでカエサル暗殺犯ら共和派の粛清に成功するも、そのうちの一人が早くに失脚。もう一人、カエサルの部下でもあったアントニウスは、クレオパトラ7世と手を結んだ。

これに激怒したオクタウィアヌス。
アントニウスがエジプトに肩入れし過ぎたことでローマ市民からも支持を得たオクタウィアヌスはローマ軍を率いてエジプトに侵攻。エジプト側も軍を率いて対抗。これがアクティウムの海戦である。

アクティウムの海戦でエジプトを破ったオクタウィアヌスは独裁を達成。『尊厳者』(アウグストゥス)の称号を得る。

オクタウィアヌスは元老院と共同統治の形をとる元首政と呼ばれる政治を開始したが実際は数々の役柄を兼任し、特権や権威を与えられていたため、
実質「帝政」と呼べるものだった。

実際にこの時代を「元首制」ではなく「前期帝政」と呼ぶ学者もいる。

というより、そもそもヨーロッパ圏の「エンペラー」、つまりロマンス語圏における皇帝の語源は、ラテン語の「インペラトール」。
その意味はローマ軍団の指揮権限保有者
つまり、ローマ皇帝が"皇帝"たらしめていたのは「国家の安全を担うローマ軍の指揮権を牛耳っていた」ことにある。
その為、歴代の帝国が神聖ローマを名乗ったり、ローマ教皇に戴冠してもっているのも、単に宗教的意味ではなく、"世界の守護者であったローマ皇帝の継承者"という意味が強いから。
共和制までは指揮権は形だけとはいえ、元老院が官職にあるもの、ないし元官職に与えられるものだったのに対し、オクタウィアヌスはそれを常時権限としたことで、実質的帝政といわれるようになったのである。

オクタウィアヌスが独裁者となった前27年から、後に記す五賢帝までの時代の約200年を、
比較的安定した国政、ローマの最盛期として『パクス=ロマーナ』(ローマの平和)と呼ぶ。

この頃、今現在にも影響している、重要な出来事が起こった。

そう、イエス=キリストの誕生である。

ローマとは関係がないので今は省くが後に新興宗教キリスト教が生まれ、世界史を動かし続けることになる。



話を戻す。


オクタウィアヌス(アウグストゥス)の後はティベリウス帝→カリグラ帝→クラウディウス帝→ネロ帝が即位。

更にネロ帝暗殺後、一年に渡る内乱を経てウェスパシアヌス帝が即位した。ちなみにかの有名なコロッセウムはこの時代に作られている。

そして、ウェスパシアヌス帝の息子二人も皇帝として即位。更にその後五人の皇帝は善政を行なったので五賢帝と呼ばれる。


五賢帝

Ⅰネルウァ
IIトラヤヌス
IIIハドリアヌス
IVアントニヌス=ピウス
Vマルクス=アウレリウス=アントニヌス


五賢帝二番目の皇帝、トラヤヌスはアルメニア(カスピ海付近)とダキア(黒海の西)を獲得、ローマ帝国最大版図を作り上げた。
地中海と黒海付近の領土全部、今では考えられない大きさである。

ちなみに俗説として、五賢帝は優秀な人物を養子として育てて後継者とした開明的な君主だったといわれるが、ぶっちゃけ「子供が生まれるような歳じゃなかったorみんな早世とかで継げなかった」だけ。

むしろまだこのときは元首政で「神君カエサルとその養子たるオクタウィアヌスの子孫(所謂、神の子)」という権威と多数の民主的権力の統合によって統治されていたため、できれば血筋が繋がっていたほうが統治的に都合が良かった。(特にエジプトとか、神権的な文化が残ってる地域はとくに)
ただまあ、オクタウィアヌスも自分の子孫に関してはかなり、というか危うく血筋が絶えかねるレベルで苦労しており、アジアやヨーロッパの島国といい、皇室・王室とは古今東西、こういった問題は大変なようで・・・・


東西ローマ


この五賢帝の時代が終了した後、ローマは衰退の道を歩んでいく。

何人かの皇帝を経た後のアレクサンデル・セウェルス帝以降は、皇帝が何人も入り乱れた軍人皇帝時代が訪れる。
そもそも先述したとおりローマ皇帝という官職が明確にあるわけではないので選出基準が明確でなく、くわえてローマ皇帝の座は「死ぬまで続く終身位であること」「軍の司令官と国家の指導者を兼任すること」といった要素がある。

それゆえ「指揮官、あるいは国家指導者として能力不足だったら非合法に引きずりおろすしかない」「戦死や暗殺といった急死などで空位となると属州を統治する総督らがその座を狙い内乱となる」といった問題を抱えていた。
というか、何度も言うがあくまで"ローマ市民によって民主的に選ばれた、ローマ共和国を率いる元老院やローマ軍団のトップ"というのが皇帝という立場であるため、名目的にでも元老院さえ味方につければ誰でも多少無理すれば皇帝という権威を握れてしまうのである。

ここに加えてアウグストゥスが置いた皇帝の近衛兵であるプラエトリアニが自身の思惑で政治的な行動をしだすようになる。
これらの構造的欠陥はカリグラやネロの統治と暗殺で早くも表面化していたが(というかまともに機能したのがアウグストゥスの時ぐらい)、この頃になると自分の率いる軍団の力を背景にクーデターを起こし皇帝の座と称号を元老院に認めさせることが相次ぐようになったのだ。

こうなってしまっては広大な領土を維持していくことは出来ない。

3世紀後半のディオクレティアヌス帝は帝国の東西にそれぞれ正副4人の皇帝を置き、4世紀後半にキリスト教を国教としたテオドシウス帝は息子二人に帝位を相続する際、
帝国をラヴェンナを首都とする西ローマ帝国、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に分割する。
これらの政策でローマ帝国はほぼ分裂。

しかしこの政策もうまく機能したとは言い難く、歴代皇帝が比較的豊かであった帝国の東側を重視したこともあり西側は衰退の一方を辿った。
軍も完全に弱体化しており、410年には西ゴート族がローマ市に侵入し略奪する事件まで発生。『蛮族』の攻撃を防ぐのにゲルマン人など『蛮族』出身の傭兵や将軍が主力となって活躍する始末だった。
……この頃には西の経済は衰退が酷く、軍団を維持することも傭兵を雇うこともできなかった。そもそも自分たちの食べる分の小麦を作ることすらままならない状態。
もはやゲルマン人たちを『蛮族』と笑うことはできるような状態ではなかったのである。

地方に至ってはローマ帝国の権威などとっくの昔になくなっており、より実力のあるゲルマン人たちによる支配が行われていたのも当然のことだった。

そして、東ローマ皇帝と縁戚関係のあったネポス帝が反乱により逃亡し、最後の西ローマ皇帝であるロムルス帝も475年にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより退位させられる。
東ローマ帝国はロムルス帝の即位を認めず、ネポスを西ローマの皇帝と扱っていたが、そのネポスも480年に暗殺。
その後釜に据えられた皇帝もいなかったことで西ローマ帝国は滅亡した。
そしてこれを機に文化が停滞し資料も少なくなったりしたため、ルネサンス前ぐらいまでを後々俗に暗黒時代などと呼ばれるようになっていった。

ただし、これはある側面(カトリックに対するプロテスタント視点やローマ人視点)に過ぎないため、暗黒時代という蔑称で表すべきかは微妙であり、注意が必要である。
それにガリアではガリア皇帝が僭称できるほどローマ文化が根付いており、元々高い技術を保持していたゲルマン・ガリアはそこまで停滞してなかったとも。
ただまあ、明らかに異質な文化や民族流入、小氷河期の混乱で従来通りの生活を維持できなかったのも事実である。
西ローマに大規模な国家が再び成立するのはカール大帝、イタリア半島にいたっては近世まで待たないとならない。

ちなみに西ローマだが、「西ローマ正帝が居なくなった」に過ぎず、元老院を軸とする西ローマの政治体制や行政機構そのものは存続し続ける。
そして一応550年にはローマを含むイタリアを蛮族から「奪還」するも、しかしそれを維持するだけの力は無かった。
なにせ経済的にも文化的にもひどい傷を追ったローマにはわずか500人ほどしか残っていなかったと言われるほどなのだから。
西ローマが完全に崩壊したのは6世紀ごろの東ローマを含む周辺勢力による、イタリア半島の戦乱によるものであった。


一方の東ローマ帝国はしばらく(ローマを喪ったのに)ローマ元老院に選ばれた皇帝が存続し続けたが、次第に皇室による専制君主化が始まり、元老院は官職としてのみ生き残る。そして1453年イスラムのオスマン帝国に滅ぼされた。
ヨーロッパのアングロサクソン視点では、これを中世の終りと定義づけている。

ローマ軍

初期のローマ軍は決して強いというわけではなかった。むしろアマチュアの集団に近かったのである。
そんな彼らが世界を制することができた理由はというと、
彼らがアマチュアの集団であることを自覚し、それを最大限に突き詰めた「究極のアマチュア」とも言える軍団を作り上げたからである。
アマチュア、つまり市民軍といえばギリシア軍だが、それをさらに昇華したのがローマといっていい。
なにせこの時代にマニュアル化(つまり手法・技法が何時でも誰でも同じように統一)された要塞や陣地設営、軍団の訓練など、他国よりも未来を生きている。
その後軍政改革により職業軍人化していくも、長い間その強さを誇り続けた。
そしてそれに立脚した、個々の能力は高くなくとも平均的な能力を持った大兵力を供給し続ける兵站システムこそが彼らの強みだった。
ポエニ戦争当時、敵であるカルタゴ軍が10数万人というところ、ローマはその数倍の75万もの大軍団を動員できた*2
「レギオン」(軍団)という言葉をご存知のアニオタ諸君も多いだろうが、「数の暴力」の象徴ともいうべきこの言葉はローマ軍団の構成単位からきているのである。


ローマの文化


ローマ文化の特徴を一つだけあげよ、というならば、それは「寛容」であろう。
異文化を積極的に取り込み、吸収し、自分たちのものとして昇華する。
奴隷でも有能で人柄が悪くない、と認められれば他の地域よりも遥かに簡単に市民権を得られた。
例として軍事では、敵対していたケルト人が使っていた鎖帷子を導入し自分達の装備として使うなど、
敗者を容赦なく奴隷にしていたゲルマンやギリシアと違い、敵や敗者さえも取り込むこの姿勢こそが大帝国を作り上げていったのだと言い切って良い。
そもそもあのカエサルが生まれたユリウス一族も、そういった敗者から吸収された貴人由来の一族である。

その一方で、有名なコロッセウムのような剣闘士といった良く言えば尚武、悪く言えば血生ぐさい文化体系でもあった。
市民がやたら軍事慣れしてるのもこの辺りの影響が強い。
プロレスを好んでいたローマ北方のエトルリア人と慰霊の為に剣闘士競技を行っていた南方のカンパニア人の文化が混じった結果と言われている。

また、エトルリアから「勤勉」の精神も受け継いでおり、奴隷頼みになるにつれて労働意欲が低下していったギリシャ系と比べると労働に対する拒否感は薄かった。
ただし、現代人と比べると「自営業者」尊重の価値観は強く、「他人に使われて給金を貰う」プロレタリアートは一段格下扱いを受けていた。
共和制末期から帝政前期まで軍が貧民の就職先として人気があったのも、退役に当たって農地か起業資金を得られるという理由も大きい。

すべての道はローマに通ず


有名な言葉であるが、コロッセオなどに代表されるローマの土木技術は当時世界に抜きんでたものだった。広大な領土の主要拠点ほとんどが石とコンクリートで丁寧に施工された街道で結ばれた。
その中には水道橋など2000年を経た現在でも使われているものも少なくない。
余談だが、この技術もまたローマ固有ではなく、上述の寛容によって取り込んだエトルリア由来の技術と言われている。

ギリシャ・ローマ神話


表題のように並び称されるほど、ギリシャ神話とローマ神話には共通点が多い。どうも先達であるギリシャ神話に憧れたローマ人は、これも自分たちに取り込んでしまったということらしい。(なんかこんなんばっかだな)

コンクリート

街道や水道橋などの建築物に石灰と火山灰などを使ったローマン・コンクリートが使われていた。これは現在のコンクリートよりもはるかに耐久寿命が長く、現在の技術で再現しようと研究が行われている。
流石にこれはローマ固有の技術と言われている。たぶん。

ガラス

吹きガラスが普及し、ガラス製の容器がある程度量産できるようになり、また窓ガラスも作られるようになった。
…うん、これもまあヘレニズム国家由来の技術なんだが。
でもローマ帝国は西ヨーロッパ+地中海全域だからローマでいいよね!

すべての追記・修正はローマに通じる。

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最終更新:2021年06月17日 12:23

*1 元々人望が厚かった叔父で義父の先代を殺した最後の王の評判は悪かったが、息子が『真面目で夫婦仲が良いのが妬ましい』という理由で親戚の妻をレイプして自殺に追い込むという不祥事を起こした事で遂に国民が我慢の限度を超えてしまった、とされている。

*2 無論、それほどの大軍団を一つの戦場に集結させるのは補給に難がありすぎるし、そもそも根こそぎ動員したら色々と問題がある。しかし勝っても勝っても次の戦いで、それまでと同じ質・量のローマ軍が眼前に待ち構えているというのは、敵から見れば悪夢としかいいようがないだろう。