カラカラ帝

登録日:2014/12/21 (日) 20:41:44
更新日:2024/02/24 Sat 19:13:22
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概要


カラカラ帝(188年4月4日-217年4月8日)とは、ローマ帝国の第23代皇帝である。在位:209年-217年

セウェルス朝の君主としては第2代当主。
本名はルキウス・セプティミウス・バッシアヌスという。
しかし、大多数の日本人、いや、大多数の歴史家、というか当時の人間からはカラカラという風に呼ばれる。

全属州民にローマ帝国の国民としての権利と市民権を与えるアントニヌス勅令を決定し、帝国内での差別を撤廃した有能。
……かと思いきや、それ以上に数々の滅茶苦茶な行為を行ったローマ帝国屈指の暴君。というか無能。そもそも上記勅令自体も有能とは言い難い。

見過ごせない業績を上回る無能っぷりと死亡理由は今なおネタとなっている。


出生


セウェルス朝の初代君主ルキウス・セプティミウス・セウェルスの長男として世に生まれる。

母親は、セウェルスの後妻である巫女ユリア・ドムナである。
ついでに言うと、カラカラはラテン人とフェニキア人の混血であるというだけではなく、母親がシリアの出自を持っていた。

実弟はプブリウス・セプティミウス・ゲタというカラカラの被害者。

父親が皇帝になると、マルクス・アウレリウス帝の子孫を詐称するなどこの頃から彼の香ばしさが分かる。この時自称した名前はマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサル。

だが名前を変えても周りの人間に効果は無く、殆どの人からカラカラと呼ばれていた。
カラカラとは、彼が好んで着ていたガリア地方独特の服装のこと。幼少期の頃から好んで着ていたらしい。


ちなみに余談だが、セウェルス朝は蛮族との戦いの最中に皇帝一家を「理想的な家庭」として喧伝していた。実際はどのような結果かは後述のとおり。
このことから彼のみならず、家族全体が微妙にネタ要素が強いのかもしれない…


皇帝への道


弟と皇帝に


209年、父から弟と共に共同皇帝としての指名を受ける。しかし、実質的な権限はまだ持ってはいなかった。

その父親はカレドニア遠征中に属州ブリタニアのエボラクムで病没した。

父の遠征に同行していたカラカラは同じ立場であった弟ゲタと父の遺言に従うこととなった。一緒に実権を掌握して、本格的な統治を開始することとする。

ついでに言うと、父親の死に際での遺言は『兄弟仲良くせよ。兵士に金を与えろ』といった内容だったという。
うーん…なんともまあ………兵士に金は与えたけどさぁ……

この兄弟は即位後に戦争を辞めてとっととローマに帰った。


弟殺し


しかしローマに戻った兄弟はさっそく喧嘩。

兄弟でありながら激しく帝国の主導権を争った。内乱すら引き起こし、二人は帝国を二分して統治する計画を立てる始末。

だが、帝国の分裂は母親の努力で何とか防がれる。そんなことをしている最中にも兄弟の対立は深まっていく一方だった。



211年、遂にカラカラ帝は弟を殺す決意を固めた。

近衛兵団を抱き込み、母が用意した和解の場で弟を殺害するという凶行に及んだ。親の前で兄弟殺すって…

さらに言うと当初ゲタはカラカラに殺されるのを恐れ、カラカラからの誘いは断っていた。
だがカラカラは、ゲタを殺すために母親を利用し、和解の場を持たせることで殺害を実行させたのである。ゲタは母親からの提案に安心したため、館に向かったのだった。

ゲタ帝は駆けつけた母親の腕の中で息絶えたと伝えられている。この時のゲタは母親の胸の中で必死に助けを叫んだとも言われる。
この光景に兄弟の和解を求めていたマリアは無念であっただろう。しかしカラカラは、


弟から身を守った。生きるため仕方なかった


と彼なりの弁明をした。
しかしこの時の状況は、誰がどう見てもカラカラの側が先に仕掛けたのは明白だった。


カラカラ帝の憎悪は凄まじく、弟を殺しただけでは飽き足りなかった。

ゲタ帝とカラカラ帝を共に描いていた通貨や絵画からは全てゲタ帝の姿を削り取る。トロツキーを写真から消すことに懸命になったスターリンおじさんを思い出すね。
今でも父親が作らせた、家族が描かれたものからゲタの顔が削り取られた通貨が残っている。

ゲタ帝に好意的であった貴族や元老院議員も粛清。数多くの人間を処刑した。


ちなみにこの時の一連の流れは、アレクサンドリア市の住民に批判をされたと言われる。…が、彼はこの批判に対してとんでもない弁明を行う。後述。


政策


経済政策


蛮族の侵入に伴い増大する軍事力、肥大化する軍事費。
カラカラ帝は資金確保に躍起になる。

手っ取り速いのは貨幣価値の切り下げ。カラカラはさっそく貨幣価値削減の行動を起こす。
当時流通していたデナリウス銀貨に含まれていた銀量を56.5%から51.5%にまで減らし、代わりに他の金属を混ぜ込むことによって価値を引き下げようと試みる。

また新しい通貨として『アントニニアヌス銀貨』を採用。
2デナリウス*1相当の価値に設定した。実際の銀の含有量はデナリウス銀貨の1.5倍程度であった。
さらに造幣するたびに銀の含有量は減っていき、3世紀末にはほぼすべて青銅のものまで造幣されていた。

これらの努力もむなしく彼の行動は失敗。
帝国内では貨幣価値の全体的な低下が進行。インフレーションが巻き起こり、経済は見事に悪化した。


軍事面


世界で余だけが金を持てばよい、そして、余は金を兵士らに与えたい。

カラカラ帝は軍権力を重視した父セウェルスの政策を踏襲して軍事費の増加や兵士の給与増を推進。
軍団兵の年俸は高まり、兵士は豊かになった。また自ら兵士達と食事を取ったり陣地建設で資材を運ぶなどのパフォーマンスで、兵士から親しみを持たれた。

なお、カラカラは多くの胸像を作ったが、その殆どはそれまでの皇帝が好んだ「哲学者風」の装いと柔和な表情ではなく、短髪で厳しい顔つきの物を作らせている。
これも軍人達の人気を考えて作ったものである。学校の芸術の授業などでもおなじみだろう。

カラカラは軍の力を味方に付ける事に成功。これには、民衆や貴族を弾圧し権力基盤を整えるという狙いもあった。

だが軍事費の著しい増大は父親の頃よりも悪化。ただでさえインフレが起きていた帝国の財政にさらにダメージを負わせる。


カラカラの時代に起きた戦争面ではどうだったか。

この頃、西方国境では異民族の侵入が激化。カラカラ帝は属州ゲルマニア・スペリオルのアグリ・ディクマテスに親征を行った。
同地でカラカラ軍は侵攻するアレマンニ軍に勝利。しかしアレマンニ族の本拠地は落とせないという泥沼状態に。

戦争の長期化を嫌ったカラカラ帝は蛮族と講和を結ぶ。
講和は蛮族への和解金・同地からの撤退をという屈辱的な内容だった。なのだが、一応決着をつけたことは評価され、元老院から『ゲルマニクス・マキシムス』の称号を与えられる。

アントニヌス勅令


212年、カラカラは「アントニヌス勅令」を発布。

これにより属州民とローマ市民の間の身分階級が消滅する。ひとまずこれにより『民族・人種による出自差別』は消え去るという功績を生み出した。
文面だけならば、優しい世界を築き上げたこの件はカラカラの数少ない大きい成果に見える。
しかし良い評価をされることは少ない。何故か。

当時のローマ帝国は、正規の国民には相続税や奴隷解放税の納税を義務づけられる点から、この勅令は主に税収の拡大を狙ったとされる。
言い方は悪いが『金目当ての政策』ではある。ただ金目当てであるのは仕方ない。軍事費の増大は現実の問題だったのだから。

だが、一番の目的である『金策』がどうも上手く確保できなかったようである。

ローマの重要な財源であった属州税*2が身分制度撤廃により廃止。それは特別税や相続税、奴隷解放税などでは到底埋めきれなかった*3
このため国庫収入は増大するどころか却って減少することになり、カラカラの目論見は外れる。それを補うために以降のローマ帝国は臨時税を乱発することになった。


さらにこの勅令は皮肉にも、ローマ市民と属州民にすれ違いを起こさせたのだ。
勅令以前にも「軍務について全うする」などの方法で一生を賭せば獲得できていた。
しかしこの勅令により全ての自由民に市民権が付与されてしまった結果、ローマ市民権の価値が低下。
その結果「ローマ市民と非ローマ市民」という努力により超えることのできていた身分差は、「ホネスティオレス(上層民)とフミリオレス(下層民)」、「元々の市民権所持者と元属州民」という、個人ではどうしようもないものへと変化してしまった。

旧来の市民権所有者と勅令以降の市民権保有者の間に対立構造を作り上げる。この結果、再び身分差別的な意識が勃発するのである。これらは社会全体の活力を低下させ、帝国の国力を衰えさせていった。

この勅令は結果的にローマ帝国が混乱する『軍人皇帝時代』への間接的な要因になったとされる。


虐殺の繰り返し


カラカラは属州で暴れまくった。
東方属州へ移住した213年からその行動はエスカレートしていく。彼の皇帝時代の末期はここでの虐殺と略奪に費やした。

カラカラの暴れっぷりは尋常では無かった。
彼はそこらじゅうに自分の別荘などを作りまくった。この時に資金が無くなると、そこら辺の裕福な人に言いがかりをつけ財産を没収した。

この暴挙に一部の民衆は不満を爆発。

アレクサンドリアの住民は、カラカラがかつて行った弟殺しを批判した。そして、弟殺害の際のカラカラの言い訳をネタにして遊び始めたのである*4

この噂を聞きつけたカラカラ帝はアレクサンドリアへと赴く。

カラカラ「正当防衛ではなく保身のために余の弟を余が殺したなどという余のことを誤解させるような発言が多数なされている!」

彼が言うには、民衆の誤解を解きたいとのことだった。意外に寛大な行動を見せたカラカラ帝に民衆は感心して皇帝の弁明を聞くことにする。しかし彼は

集まった無抵抗の民衆を兵士に命じて虐殺させた。

さらに集会を見物しに来た民衆を殺しただけでは怒りが収まらないカラカラ。
彼は数日間にわたってアレクサンドリア市内を徹底的に破壊して民衆を殺戮。カッシウス・ディオの記録が語るには、犠牲者は二万人ほどとされる。


カラカラ浴場建設


カラカラ浴場の建設は、多分彼の一番の功績である。

カラカラの作ったこの浴場は、多くのローマ市民に入浴の楽しみを感じさせた。
風呂だけでなく水風呂、サウナ、更にはジムのようなものまであったらしい。
水を加熱するためのシステムは1500年以上使われていた。彼の作った浴場の恩恵はローマ帝国が滅亡した後も残ったのである。

ちなみにこの浴場を作った理由は、カラカラが後の世にも名を残すためだったとされる。確かにこの目論見に関しては見事に成功している。ぶっちゃけ基本残ったのは様々な行いによる悪名高さだが

さらに言うと、この浴場には入浴以外の目的もあった。
この時代では男性間の同性愛行為がごく自然な性行為と見なされていた。そのため、ハッテン場としての役割もあったらしい。

…………やっぱりホモじゃないか(呆れ)
流石にケツを差し出すような相手はカラカラ帝にはいなかったと思われるが、カラカラ帝の子孫にはわざわざ女装してまで売春をしに出掛けた超絶変態皇帝がいたそうな

暗殺


暴政を繰り広げたカラカラ。

ついに彼にも絶命の時が訪れる。しかし、その死に際はある意味衝撃的な物(100%確証の取れた話ではないが)だった。

遠征準備の為、エデッサに入城したカラカラ。
彼は軍列を途中で引きとめた。すると彼は


道端で失禁立ちションをしだした。

そんなカラカラを見ていた男がいた。ユリウス・マルティアリスという近衛兵である。彼は呑気に放尿しているカラカラの刺殺に成功した。

カラカラを刺した直後、マルティアリスは馬を奪って逃げようとしたが、他の衛兵が放った矢に倒れたと伝えられる。
なお、マルティアリスがこの行動に移った理由はローマの平和を願ってのもの…ではなかった。「数日前に同じ近衛兵であった親族が無実の罪で処罰された」事に対する復讐からの行動だったらしい。

カラカラは立ちション中に暗殺されるというローマ皇帝の歴史の中でも異様といえるあっけない最期だった…


評価


後世での評価は最悪である。

歴史家エドワード・ギボンには『人類共通の敵』とまで称されている。まあ実際それくらい言われてもしょうがないことをしでかしているのだが。
インフレを起こさせたり、民衆を虐殺したり…普通に考えたらとんでもない無能な皇帝である。

だが、一方で評価すべき点もないわけでは無い。
カラカラ浴場建設はアントニヌス勅令とは違い優しい世界に貢献したため、彼の数少ない業績だろう。また銀貨の改鋳も評価されることがある。なんだかんだで民族差別を撤廃させた点も評価されている。まあ現実の結果はアレだが…

この点から、一部の歴史家はカラカラの行いを評価している。


さて、我らが日本ではどのような認識か。

カラカラは、世界史を学ぶ際には名前が出てくる。そのため、ローマ皇帝の中では名前が知られている方である。

しかし、教科書などではカラカラの数少ない業績が記載されている程度にとどまっている。
カラカラ浴場の件もあり、歴史家の間で言われているような無能扱いはされていない印象がある。

だが、歴史を奥深く学んだ人からは、やはり無能扱いをされている。







追記・修正は放尿している最中に殺されてからお願いします。

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最終更新:2024年02月24日 19:13

*1 当時は1デナリウスが一日の労働賃金くらいだった

*2 収入の10%を納める。

*3 そもそも毎年安定して納める属州税と極稀にしか発生しない相続税や奴隷解放税では到底釣り合うものではないのだが。

*4 揶揄する歌が流行した