お稲荷さま

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お稲荷さま - (2022/03/25 (金) 10:45:06) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2016/12/31(土) 00:44:08
更新日:2024/01/13 Sat 15:26:35
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お稲荷さまとは日本の神である「正一位稲荷大明神(しょういちいいなりだいみょうじん)」、あるいはその神を祀る神社を指す言葉である。
またそれらへのお供え物から生まれたと言われる寿司の名前としても有名。これについてはこちらを参照。
あとお稲荷さまと関係の深い狐に関しては、こちらの項目も参照してほしい。


【概要】

「お稲荷さま」は神としては「稲荷神」を指す。稲荷神は本来、中国から渡来した神である。
その名の通り稲と稲作の神で、五穀豊穣の神ともされた。

神社としての「お稲荷さま」は稲荷神を中心として、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)など神道の神々や、密教の荼枳尼(ダキニ)など仏教の神々らをともに祀っている。

神道・仏教の神々とともに祀られる「お稲荷さま」は、五穀豊穣からさらに発展して生産活動全般の守護者となり、
現代では日本で最も広く信仰されている神となっている。



【来歴】

「稲荷神社」は稲の神「稲荷神」を中心として、時代ごとにさまざまな神を取りこんできた。
ここではその神々とともに、お稲荷さまの来歴について説明する。


○稲荷神

いまでこそ日本全土で信仰されている稲荷神だが、本来は渡来系の豪族秦氏(はたうじ)の氏神*1であった。

イナリ」の名は「稲生り」から来ていると言われており、その姿を稲を(にな)う老人として表されたことから「稲荷」の字を当てられたという。*2
土木業や繊維業などの優れた技術と高い政治力を持った秦氏はめきめきと頭角を現し、和銅4年(711年)には自分たちの神・稲荷神を、山城国の山中に社を建てて祀った。
これが「伏見稲荷神社」であり、すべての稲荷神社のいしずえとなった最初の一社である。*3


○宇迦之御霊神

中国から渡来した人々に信仰されていた稲の神がいたように、瑞穂の国日本にももちろん稲の神がいた。
その代表的な一柱が宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)である。

宇迦之御魂神は伊弉諾命(いざなぎのみこと)伊弉冉命(いざなみのみこと)の娘とも、素戔嗚命(すさのおのみこと)神大市比売(かむおおいちひめ)の娘ともいわれ、
「倉稲魂命」とも書かれるように稲魂・稲倉の神であり五穀豊穣をもたらす神としてあがめられた。

その名の「ウカ」とは穀物・食物を表す言葉である。
人々の生きる糧である食べ物の神である宇迦之御霊神はしばしば女神とされ、また同じ意味の言葉である「ウケ」「ケ」を名に持つ神々・・・
古事記、日本書紀によっても異なるが体内から取り出した食物で素戔嗚命(すさのおのみこと)をもてなそうとして斬られた大気津比売神(おおげつひめのかみ)をはじめ、
同じように月読命(つくよみのみこと)をもてなそうとしたら無礼討ちにされた保食神(うけもちのかみ)*4豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)若宇迦乃売神(わかうかのめのかみ)ら食と食物の神々とともに
御饌津神(みけつかみ)」(御食津神)として人々から信仰された。


そして彼ら御饌津神は、同じく稲の神である稲荷神と習合されともに稲荷神社内でまつられるようになったのだ。


○三狐神

稲荷神は宇迦之御霊神をはじめとする御饌津神(みけつかみ)を取りこむことにより、
現代に至るまでの神性のもととなった決定的な変化を遂げることになる。

日本には記紀神話以前より、山の動物たちを信仰の対象とする汎霊説(アニミズム)的信仰が存在した。
そしてその中でも、稲荷神などと同じように稲の守護者としてが崇拝されていた。

狐は米を食い荒らし田圃に穴を空ける稲と稲作の大敵ネズミたちを、直接狩るのはもちろんその強烈な体臭で追い払うこともできた。
それを知った古代人たちは、稲倉の周囲にキツネを餌付けしたりキツネの尿を撒いたりしていたのである。

さらに「狐」はもともと、その鳴き声から「ケツ」と呼ばれていた。*5
そのため狐たちは「ケツ」の名と同じ音、そして狐と同じく稲に関わる神々御饌津神(みけつかみ)」(御食津神)たちの遣いとされた。
特に狐たちが稲倉の守り神であったため、同じく稲倉の神である宇迦之御霊神と深く結びつき
宇迦之御霊神に限って「ミケツカミ」の名に「三狐神」の字が当てられるようになったのだ。

そしてそれはそのまま御饌津神(みけつかみ)らとともに稲荷神社にも取り入れられ、
狐信仰が盛んになった平安時代ころ*6には狐たちは稲荷神の眷族として定着したのである。


○荼枳尼天

○羅刹女から天女へ

都が平安京に移され平安時代の幕開けとなると、この地を地盤としていた秦氏はますます勢力を伸ばしそれに伴い稲荷社も日本各地に広まっていくこととなった。
そして政治的な才覚にもすぐれていた秦氏は、さらに自分たちの勢力を伸ばしていくために仏教勢力と手を結ぶことを思いたつのである。

その相手として選んだのは、唐の国から当時の最先端文化・技術を得て帰国し宗教的な分野にとどまらず教育や灌漑など多方面にわたって活躍し功績を残した
真言密教の祖であるスーパーエリート弘法大師こと空海であった。

秦氏は東寺建立の際、稲荷山から材木を切り出して供出するという形で協力した。
それに応えて空海は稲荷社側に本社の移転を勧めて援助するなど、互いに交流を図った。*7
そして真言宗側は稲荷神を受け入れ、稲荷神社側では密教の神である荼枳尼(ダキニ)を受け入れて祀るようになったのである。

荼枳尼(ダキニ)は仏教の鬼神、羅刹女(ラクシャーシー)であり大黒天の眷族である。
人喰いの魔物であった荼枳尼(ダキニ)は大黒天に調伏されて仏道に帰依した。それでも人喰いの本能だけは変えられなかった彼女たちは、
死すべき運命にある人間の心臓のみを、持ち主を加護して彼が死すべき日まで何としてでも生きながらえさせるのを条件に喰らうことを許されたのである。

中国から空海により伝承された直後は人喰いの魔物としての性格が強かったが
稲荷社に取り入れられると白狐にまたがった美しい女性として描かれるようになり
一族名だった「荼枳尼(ダキニ)」からひとりの独立した神である「荼枳尼(ダキニ)」として信仰されるようになったのである。

●荼枳尼の光と闇

こうして真言宗とがっちりタッグを組んだ稲荷神社は、日本全国津々浦々までその勢力を伸ばした。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて日本仏道に世代交代の波が押し寄せ、古来からの多くの寺社が貴族たちの後ろ盾を失い廃れていくなか
稲荷神社もその影響は受けたものの、数多くの庶民からの信仰によって支えられ苦境を乗り切ったのである。
現世での利益をあらたかにもたらし、また「救う人を選ばない」とされた荼枳尼天は武家や商家はもちろん博徒や遊女といったアウトローにも篤く信仰された。
江戸時代には産業全体の守護者として商家を中心に信仰を集め、「流行神(はやりがみ)」「伊勢屋稲荷に犬の糞」なんていう言葉まで生まれた。
さらに稲荷の社は申請すれば比較的容易に建てることができたためどこの家でも守り神としてお稲荷さまを祀るようになったのである。

また荼枳尼天らとともに空海が唐よりもたらした密教の奥義の中には、狐の霊を使ったさまざまな秘術が存在した。
彼らは狐の霊を自らに憑りつかせることで神の声・神託を得ようとしたり、逆に人に憑りついた悪しき狐を落としたりしてきたのだ。
人々に恐れられた「狐憑き」に対抗できる存在として、密教そして稲荷神社は人々から大いに信仰を集めたのである。

しかし、この荼枳尼天との交わりが、後の「お稲荷さま」に暗い影を落とすことになる。
荼枳尼は本来鬼神であり、その説話にもある通り現世利益をもたらす力が強いかわりにその代償も大きく、扱いを間違えれば祟るとされていた神である。
また民間の密教の修行者である山伏(修験者)たちは悪しき狐を落とすことができると同時に、
やろうと思えば悪しき狐を相手に憑けることもできる存在として恐れられてもいた。

これら狐の悪しきイメージは「お稲荷さま」に影のようにつきまとい、
近代の政策である神仏分離により多くの稲荷社から荼枳尼天が切り離されてもなおその暗い一面はぬぐいきれなかったのである。
現代においても「お稲荷さま」は、狐の善なる面と悪しき面両方をイメージさせる存在となっている。


【現代の「お稲荷さま」】

現代日本で「お稲荷さま」という言葉は、宗教・文化の枠を完全にとびこえ日本人の生活と一心同体と言ってもいいほどになっている。
それはもちろん最もポピュラーな神社としてであり、また最も有名な寿司の名としてでもあるだろう。

○神社としての「お稲荷さま」

今現在、「稲荷神」「宇迦之御霊神」らを祭神とする「お稲荷さま」は日本で最も分社数の多い神社である。
天照大御神八幡神をも大きく上回り、企業や民家にあるものまで含めると文字通り無数にあるといって差し支えない。

そのご利益は本来の稲作や蚕業といった農業はもちろん、そこから発展して商業や産業
また当然のように家内・交通などでの安全祈願や後述する浄瑠璃・歌舞伎との結びつきによる芸能分野といった
日本の生産活動全般に及ぶ。
とりあえず何か拝みたいことがあればここに来てしまえばだいたい間違いないだろう。

そんな稲荷神社だが、他の神社と大きく変わる点は基本ない。
参道を通って鳥居をくぐり、手水屋で身を清めて拝殿で二礼二拍一礼。
機会があれば本殿や奥宮・上宮にも参って、絵馬を納めておみくじを買う。
神社ごとに多少の差はあるが、境内のつくりも参拝の作法も他の神社とそう変わらない。
それでも目につく違いを挙げれば、以下のようになるだろうか。

赤い

他の神社全体でも多く用いられているが、稲荷神社はとにかく赤い色が目立つ。
鳥居や社屋などの建造物といった大きなものから、灯篭や狐の像・その装飾品など小さなものまでことごとく赤い。
「赤」は古来より魔除けの色とされており、また木材などの防腐剤として用いられていた()*8の色でもあった。

また稲荷社においてのこれらは特に、狐らが身につけている宝珠とともに炎の象徴であるとも言われている。
稲の神・米の神である稲荷が、米を飯に変える(かまど)の神と結び付けられたのであろうか。

あと稲荷神社では無数の赤鳥居が連なる風景、千本鳥居が印象的。
これは江戸時代ごろに広まった、願いが成就した折に赤鳥居を稲荷社にお供えする風習によるものである。
「鳥居」という言葉自体の由来が「通り入る」だという説があり、そこから発展して「(願いが)通る、通じる」ことを願ったものだと言われている。

「お稲荷さま」自体が狐の代名詞であるように、稲荷神社は狐とは切っても切れない関係にある。
稲荷神社の狐は「白狐」という白毛の狐であり、これは人の目に見えざる存在であることを表現しているという。
白狐は二匹一組で向かい合うように立ち、稲荷神社の境内いたるところでにらみを利かせている。
阿形の獅子・吽形の狛犬代わりに出入口に据えられているのはもちろん絵馬の中にも描かれており、
また赤鳥居と同様稲荷神社に奉納する品としても二匹一組の白狐像がメジャー。

彼らは「宝珠」と呼ばれる玉を口にくわえたり尾を巻き付けたりしている。
これは鳥居と同じく炎の象徴だとされている。
また鍵をくわえていることもあり、これは富・財産の象徴だという。

さらに稲荷神社では、境内の構造もまた狐に関係するものとなっている。
稲荷神社はそれ自体が「お山」と呼ばれ、またその中に数多く点在する祠は「お塚」と呼ばれる。
また他の神社で奥宮・上宮とされる場所は「お穴」と呼ばれていることがあり、これはみな狐の生息域を示す言葉なのだ。

「山」は言うに及ばず、「塚」とは巣穴の前のうず高い土山、「穴」とはそのまま巣穴を指す。
特に稲荷社で「お穴」と呼ばれる場所では、かつて文字通りにそこで狐を餌付けして棲みつかせていた

稲荷神社で行われる祭祀も、狐の生態と深く関わっている。
狐に限らず「田の神」と呼ばれるものたちは本来「山の神」であり、冬の間は山に住んでいる神だった。
彼らは春になると山から降りてきて里に住まい、収穫の秋をすぎると山に帰っていくとされた。
これはそのまま春になると田んぼの周りで巣をつくり子供を育て、秋になると山に帰っていって冬ごもりをするキツネの生態に符合する。
彼らキツネは田の神=山の神の来訪をいち早く知らせる先駆けの役割を担っているとされたのだ。
そのため田の神の遣いである狐たちは「ミサキ(御先)」とも呼ばれた。

稲荷神社で行われる祭祀も、この田の神・山の神、そしてその御先(みさき)である狐たちの行き来にあわせたものとなっている。
初春である2月最初の午の日は伏見稲荷大社に宇迦之御霊神が降りた日とされ、「初午祭り」が行われる。
旧暦の2月は現在の3月で、農作業の準備に取り掛かる時期であり同時に長い冬を越えたキツネたちが里へと下りてくる時期だった。

そして実りの秋になると抜穂(ぬきほ)祭、火焚(ひたき)祭、新嘗(にいなめ)が執り行われ一年の収穫に感謝が捧げられる。
落ち穂を拾い稲わらを燃して田んぼをきれいに片付けるのは、キツネたちの山帰りを促す意味合いもあったのだろう。
大寒になると寒施行(かんせぎょう)といって、キツネたちの巣穴や稲荷神社に彼らの餌となる小豆飯や油揚げを置く風習があった。
こうして人々は次の年もキツネたちがすこやかに里に下りてくることを願ったのである。


稲荷神社は稲と稲を作る人々、そしてそれらを守る狐らとともにありつづけてきた。
それは野生のキツネが人里から姿を消した現在でも変わらない。
「お稲荷さま」はそのたたずまいや執り行う祭祀の中に、いまなお彼らへの親愛と敬意を残し伝え続けているのだ。



○神としての「お稲荷さま」

前述の通り、稲荷神社は日本で最も多くの分社数を誇る神社である。どこの街にも村にも、それこそ深山幽谷だろうが都会のど真ん中だろうが彼らはいる。
たとえ見慣れた街角にあろうとも、宝珠をくわえた狐がにらみをきかせる数々の赤い鳥居のなかをくぐっていけば、
そこにあるのはうっそうと茂る山林のただ中に鎮座する社である。
建物の中の小さな祠であっても、そこに祀られた赤い鳥居と二匹の狐の前で手を合わせ目を閉じれば、心中に広がるのは神の住まう森だろう。

日本の神でここまで人々とよりそいその暮らしとともにあるのは、あとはお地蔵さま観音さましかいない。
インドにルーツを持つ「仏」である彼らと同じ位置に日本古来の「神」がいることの意味はけして小さくはない。
稲荷神は日本で最も身近な神なのだ。

しかし、稲荷神・・・というより「狐」にまつわる暗いイメージは、いまでもお稲荷さまにまとわりついている。
一度拝んだら一生拝み続けないと祟る」というのもそのひとつだろう。
これは鬼神である荼枳尼天の性質でありかならずしも稲荷神とイコールではないのだが、
お稲荷さま自体をそういう「祟る神」と認識している人は多い。

また「狐憑き」をはじめとした「悪しき狐」のイメージも、いまだお稲荷さまにはつきまとっている。
一時期騒動となった「コックリさん」では、台紙の上にお稲荷さまの象徴である赤い鳥居が描かれた。
そしてこれで呼び出されるのは悪しき狐の霊であるとされた。
このイメージは子供たちの心の奥底に恐怖を呼び起こし、単なる迷信にとどまらない明らかな実害をもたらしたのである。

そういう悪しきものにしろ良きものにしろ「お稲荷さん」という存在は「身近な神秘」であるということは言えるだろう。
人から恐れられ、また畏れられもする人ならざる存在。
これらに初めて触れたのが「お稲荷さま」「コックリさん」という人は少なくないのではなかろうか。
二匹の狐と鳥居の奥にあるのは、人里に最も近しい神域であり異界なのである。


+ ○余談

●お稲荷さまは「お参りしづらい神さま」か?

お稲荷さまは日本最もポピュラーな神社だが、同時によりつきづらいイメージも抱えている。
「一度拝んだら死ぬまで拝み続けないといけない」というのはその最たるものだろう。
ただこれは前述の通り密教の荼枳尼の性質であり、稲荷神そのものの性質とは考えづらい。

またその荼枳尼にしろ、密教の荼枳尼と日本の荼枳尼天は別物と考えてしまっていいだろう。
インドでは人食いの鬼女であった荼枳尼も、日本では美しい天女。日本と中国における日本鬼子ほどの差はある。
多少すねるくらいはあるかもしれないが、死ぬまで拝み続けなければいけないということは多分ない。
稲荷神の魅力は、いろいろな分野のさまざまな要素を肯定的に取り入れる融通無碍さにあるのだから。



【創作文化の中の「お稲荷さま」】

日本人にとってもっとも身近な神域であり異界である「お稲荷さま」は、当然のように創作の世界でも多々取り上げられている。
それこそはるか昔から物語の中に登場する「神社」といったらほとんど稲荷神社である。
身近・有名だというのはもちろん、狐や無数に連なる赤い鳥居といったビジュアル面で強い印象を残せるといった点もあるだろう。

なので稲荷神社は中世からすでに葛ノ葉」や「義経千本桜」などといった
歌舞伎や浄瑠璃・能や神楽の演目のモチーフ、そしてそれらの主催者として重要な役割を果たしてきた。

それは現代の漫画・アニメなどでも変わりなく、それこそ背景として出てくるだけなら無数にあると言っても過言ではない。
ただお稲荷さまを主題とした現代の作品として特筆すべきものはいなり、こんこん、恋いろは。だろう。

いなり、こんこん、恋いろは。(よしだもろへ)

京都・伏見を舞台にした、人間の少女と神々との間で繰り広げられる哀しくも心温まるストーリー。
この作品において特筆すべきは、アニメ化にあたって伏見稲荷大社の全面的なバックアップを得られたということである。
伏見大社の監修のもと実現した緻密な描写は、観ている人をたやすくちょっとした京旅行に連れていってくれる。

伏見稲荷大社のこの姿勢は、影響力のある存在であればジャンルや新旧を問わず積極的に手を結んできたという
秦氏による設立以来一貫している稲荷神社のスタンスをそのまま示しているようで興味深い。





追記・修正はお稲荷さまへお参りしてからお願いします。

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