鳥居耀蔵

登録日:2025/04/08 Tue 08:20:34
更新日:2025/04/15 Tue 09:47:35
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(とり)()耀蔵(ようぞう)(1796〜1873年)

耀蔵は通称、官職は甲斐(かい)(のかみ)、諱は忠耀(ただてる)
号は胖庵(ばんあん)


概説

江戸時代後期の幕臣。
天保の改革で町奉行として民衆の生活を取り締まり、「蝮の耀蔵」、官職の甲斐守に洒落て「妖怪(耀甲斐)」とあだ名され、忌み嫌われた。

誕生

寛政8年(1796)11月24日、幕臣で儒学の元締である(はやし)述斎(じゅつさい)と側室・八穂(やほ)の間に4男として生まれる。
父の述斎は大給松平家の流れを汲む岩村藩主の息子であったが、病弱で家督を継ぐことは叶わず、しかし儒学や漢詩の才能を高く評価されたことで、断絶した林家の復興を任された俊英だった。
正妻を娶らず、誕生した子供たちも母親は全て側室だった。
鳥居は幼少期どころか40歳くらいまで、逸話の無い地味な人物であり、数年間に残した話が後世に伝えられた人物である。
林家の出身として儒学はキッチリ昌平坂学問所で仕込まれており、後年、独学で漢方医学に目覚め、患者を診察して感謝された程。
甥(姉の子供)に幕末期、外交官として活躍した(ほり)利煕(としひろ)(いわ)()忠震(ただなり)がいる。

述斎の血筋ゆえかこの3人には共通して、いずれも頭脳明晰であり、弁論に長け、学があり、事務処理が巧みだった。
耀蔵が嫌いな人でも、人格や行動は批判するが、無能、臆病とは批判していない。
文化3年(1820)8月、旗本・(とり)()一学(いちがく)(諱は成純(なりすみ)、禄高2500石)の婿養子に入り、長女・登与(とよ)と結婚、翌年11月に養父・一学が居し、耀蔵が家督を相続した。

出仕

文政6年(1823)2月29日、中奥番(なかおくばん)となる。将軍が部屋にいる時の護衛役で、何もなければ暇な役職。これを天保3年(1832)1月1日まで務めた後、辞職している。
この間、定時出社、定時退社のホワイトな日々だった。

この後、天保5年(1834)6月8日に徒頭となった。これは将軍が外に出た時の先導役である。
天保7年(1836)9月4日に西の丸目付、天保9年(1838)閏4月2日に本丸目付となる。
目付は徳川幕府における出世の登竜門で、監察とも呼ばれ、仕事がキチンと行われているかを確認する。幕末期になると優秀な人材は目付に登用され、交渉役や仕事の段取りを決める仕切り役へと変化した。
その間、耀蔵はある人物と運命の出会いをする事になる。
遠江浜松水野家当主・(みず)()忠邦(ただくに)(6万石)という人物で西の丸老中や老中を歴任し、耀蔵の学識、教養を高く評価して抜擢するのだ。

抜擢、躍進へ

耀蔵が抜擢された最初の仕事は大塩(おおしお)平八郎(へいはちろう)を断罪する文章を作成し、それを世の中に広めた事だった。


天保8年(1837)2月19日、大坂町奉行元与力の大塩平八郎が米不足や物価高は幕府や豪商が生活弱者を顧みないからだ!として武装蜂起。蜂起は一日で鎮圧され、大塩親子は3月27日に潜伏先を突き止められ、自殺した。
耀蔵が抜擢される一番の要因は人の嫌がる仕事を率先して引き受け、そこで賛否両論ながら結果を残すトコロにあった。

まぁ、蛮社の獄における耀蔵の対応は、大げさに言えば文明の衝突というモノであった。
蘭学という夷狄の学問は、病原菌の様に日本を蝕み、やがて日本そのものを乗っ取るのではないかと文明的な侵略と受け止めた。
学問や技術の背後には思想があり、歴史があり、それも合わせて入ってくる。国や社会がそれに合わせて変化して相手の属国になるのだと、耀蔵は警鐘を鳴らす。
徳川幕府が朱子学を基本に文化や秩序を構築した以上、その後はキリスト教の侵略を鎖国という水際対策で切り抜け、外国人は出島という隔離施設に閉じ込め、自国民は海外に出ない事で天下泰平を掴んだというのが耀蔵の信念である。
蘭学や漂流民を運んできたモリソン号などは病原菌であり異端であり、嫌悪するモノであり、これを「塵一つ残さず、消滅させてやる…!」と辣腕を振るい、率先して異端排除に励んだ。要するに攘夷派の開祖である。
儒学者でも甥の岩瀬忠震はゴリゴリの開国論者だったし、(よこ)()小楠(しょうなん)(やま)()方谷(ほうこく)古賀(こが)茶溪(ちゃけい)など儒学者でも、バランス感覚に富んだ人物は存在するから、耀蔵が異質なのだろう。

天保の改革へ

天保12年(1841)12月28日、矢部(やべ)定謙(さだのり)に代わり、南町奉行に就任する。
ここから、耀蔵の無双劇が始まる。大衆には悪夢でしかないが。
ちなみに北町奉行はかの遠山景元

矢部、遠山ともに水野からみたら、飴であり太陽だ。どちらも嫌われ者を演じない為、大衆が政道を軽んじていると水野が危機感を露わにし、鞭であり北風であり、嫌われ者を進んで演じてくれる耀蔵を町奉行にして引き締めを行ったのだ。
耀蔵も改革は清浄な社会を実現する為に必要であり、その為なら厳罰は当然であるという上からの統治主義、権威主義者であった。
倹約を奨励し、贅沢を取り締まる為なら囮捜査も普通に行い、容赦なく締め付ける耀蔵の働きぶりに幕臣たちは当時の小普請奉行・曲渕(まがりぶち)甲斐守と区別する為に通称の耀蔵と官職の甲斐守を掛け合わせ、妖怪とあだ名し、それが世間に広まった。

もう一つ嫌われたのが、矢部定謙の件である。
天保義民事件で幕府内部にあって、水野の政策を潰したのが矢部だ。
矢部は良く言えば剛直な正論家、悪く言えばKYなトコロがあり、その部分が大衆には悪事を働く政府に抵抗する正義の味方、という感じで人気があった。

そんな矢部が天保13年(1842)3月21日に弾劾され、失脚した時の弾劾文を作成したのが耀蔵で、依頼者は水野であった。
それによると、矢部が勘定奉行や町奉行在職中、前任者が見逃した犯罪を矢部が追究しないのはおかしいとし、矢部が犯罪を幇助(ほうじょ)し、犯罪者を庇い立てしたと断罪。
最終的に矢部は改易、伊勢桑名松平家(11万石)預かりとなり、桑名で抗議の為に絶食、餓死した。
幕臣や大衆に人気のあった矢部をこんな形で死なせた事には、反発もあったが、水野と耀蔵には誰も逆らえなかった。

経済政策にも一枚噛んでおり、前政権の貨幣改鋳政策に批判的だった。

失脚

西洋学に対する締め付けは厳しく、天保12年(1842)、西洋砲術の大家・高島(たかしま)秋帆(しゅうはん)*1を長崎から呼び出し、長崎会所の統治がなってない事*2を理由に財産を没収し、武蔵岡部安倍家(2万石)に預けられた。
耀蔵は天保14年(1843)5月4日、改革に貢献したとして500石を加増され、3000石になる。

6月に水野が上知令*3を打ち出し、諸大名や旗本が反発すると、水野を裏切り、政敵の土井(どい)利位(としつら)(老中。下総古河8万石)に機密情報を譲り渡し、取り引きを行い、水野が上知令を取り下げ、失脚した後も町奉行に居座り、8月13日には勘定奉行を兼任する。*4
しかし、土井は天保15年(1844)5月10日に江戸城本丸で発生した大火に伴う修復費用を調達出来なかった事で12代将軍・徳川(とくがわ)家慶(いえよし)の不興を買い、自ら辞職し、代わりに6月21日、水野が返り咲いた。

耀蔵は9月6日、町奉行を解任されて寄合入り、弘化2年(1845)1月14日、清水口門番になり、今度は耀蔵とその取り巻きや部下が弾劾の対象となり、2月22日、判決が下された。
罪としては、
  • 自分の役職に関係無い者を使って仕事をさせた事。
  • 町奉行の権力を使い、政敵を調べた事。
  • 町奉行でありながら、長崎の件に手を出した事。
が挙げられ、最終的に讃岐丸亀京極家(5万2千石)に預かりとなり、鳥居家は改易となった。

10月28日に江戸を立ち、11月24日に丸亀に到着。屋敷の一室に禁錮となる。
この後、23年間、幽閉生活を送る事になる。

晩年

矢部も耀蔵も改易され、他家預かりになった、自分は正しい、無罪だと信じているのが共通している。
違うのは、矢部は死んでも正義を貫くという感じであり、耀蔵は死んだら負け、生きる事が戦いだ!と考えていた点だった。

耀蔵は日記を記していたが、舌に腫れ物が出たり、血尿が出たりするのを、自己診断で治療した。
自分の病気と服薬の状況を書き綴り、自分の身体を実験台にしながら、診断と投薬を繰り返す事が出来たのは、漢籍を通じて医学の知識に深いモノがあったからである。
最初の内は警護の家臣と口も聞かない程だったが、日が経つにつれ、この囚人の学識がずば抜け、漢方医学の知識に長けている事が分かり、禁錮も形だけとなり、散歩くらいなら許される様になった。
そのうち、「一切、医者から見捨てられた患者が、ここに来れば診察して治してくれる」という丸亀一の漢方医として名前が伝わる様になり、耀蔵が患者の記録を取る様にした万延元年(1860)〜明治元年(1868)までの間に診察した人数は5959人に達する。
診察しながら、治らない患者もいただろうが、完治した者は耀蔵を神として崇め、更に来る人が増えた。

しかし、徳川幕府の時代、耀蔵は最重要政治犯であった。将軍が変わろうと、老中が変わろうと、年号が変わろうと、赦免の話は一切無く、それだけ幕臣の中で耀蔵に対する警戒心は強く、憎しみやわだかまりがあったのかも知れない。

徳川幕府が滅び、天皇家による太政官が成立すると、耀蔵の扱いに変化があった。
鳥居本家の(とり)()忠宝(ただとみ)(壬生藩3万石)に引き渡す話が出て来た。
耀蔵はこれを断り、丸亀藩に話して、立ち去る事を申し出た。

明治元年(1868)10月16日、丸亀を立ち、途中、静岡藩の家臣になった自分の一族と23年ぶりに再会し、
11月25日渋谷宮益坂にある長男・成文(なりふみ)の邸宅を訪ねた。

成文は耀蔵の改易により、無収入となったが、嘉永2年(1849)改易が許され、慶応3年(1867)には300俵の旗本として小普請入りをした。
息子の家に厄介になりながら、耀蔵は24年ぶりの東京となった江戸を歩き、旧友との再会を行っていた。
アポ無し訪問なので、不在もあるが、再会出来た時はひたすら話し込んだ。
成文は明治3年(1870)2月に静岡藩に移住し、明治5年(1872)1月、再び東京に戻るのだが、その間、耀蔵は成文に従い、清水で生活している。

再び東京に戻っては親戚や旧友を訪ねていた。
幕府瓦解に関しては「俺の言うことを聞き入れないからこうなった」と見放した物言いをしている。
明治6年(1873)10月3日、耀蔵は78歳で死去した。

勝海舟は耀蔵の死を聞くと、
『この人監察(目付)の頃から、残忍酷薄甚だしく、各役人の恨みを一身に受けていたが、その豪邁果断信じて疑わず、身を投げ打ってかえりみる事無く、後、罪となり幽閉されて30年、悔いる事無く、老いて益々益荒男。幕臣でこんな人、観たことないよ。一丈夫と云うべき者か』
と記している。

メディアなど

天保の改革で水野忠邦の側近として働き、遠山景元や矢部定謙が陽だとすれば、耀蔵は陰であったので、遠山景元を主役に扱った時代劇『遠山の金さん』や『江戸を斬る』ではもっぱら敵役である。
みなもと太郎氏による「江戸時代を舞台にした群像劇」ともいうべき作品『風雲児たち』にも「だいたいこいつのせい」的な役割で「幼児性を引きずった」悪役として登場する。
アニメでは天保異聞 妖奇士、大江戸ロケットに登場し、演じているのは両方とも若本規夫氏である。





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最終更新:2025年04月15日 09:47

*1 長崎町年寄で長崎会所の責任者

*2 長崎会所は今の税関。貿易額をキチンと納めず中抜きが酷かった。

*3 大規模「幕府直轄地一元化計画」で幕府の力を強めようとしたら「土地を獲るな」という大名たちの反発で失敗した。

*4 10月17日に辞職している。