天保義民事件

登録日:2022/11/03 Thu 12:07:28
更新日:2025/03/20 Thu 23:39:47
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百姓 不二君(ひゃくしょうといえどもにくんにつかえず)







天保(てんぽう)義民(ぎみん)事件とは、江戸時代の天保年間に、出羽国庄内藩の転封に反対して行われた民間の政治運動である。








概要

天保11(1840)年11月、江戸幕府は出羽国庄内藩、武蔵国川越藩、越後国長岡藩を治める各大名家に転封を言い渡した。
すなわち、
  • 庄内藩の酒井家を長岡藩に移封
  • 川越藩の松平家を庄内藩に移封
  • 長岡藩の牧野家を川越藩に移封
することにより三家の領地を交換する「三方国替え」である。

しかしながらこれは、財政逼迫していた川越藩松平家による、経済的に豊かな庄内藩への入部*1を狙って企図されたものであるという裏事情があった。
このため、庄内藩では転封に対する領民の反対運動が巻き起こった。

詳細はこれより述べるが、この反対運動は結実し幕府が転封を撤回するという前代未聞の結末を迎えることとなった。



関係者

庄内藩

  • 酒井忠器(ただかた)
天保11年の三方国替え時点での庄内藩の藩主。
この頃は国元の鶴ヶ岡城(現:山形県鶴岡市)におり、嫡男の忠発(ただあき)が神田の江戸藩邸にいた。
徳川四天王である酒井忠次を先祖に持ち、庄内藩成立から数えると8代目の藩主である。
文化6年(1809)6月に家臣の坂尾儀太夫(さかおぎだゆう)が仙台藩内で平民を惨殺し、事件を仙台藩と庄内藩に届け出て帰国。
庄内藩は無礼討ちでしょ、と木で鼻をくくる対応をしたが、仙台藩は勝手に領民殺してんじゃねーよ、キチンと出頭して裁きを受けんかい!とブチ切れて一触即発の事態になり、最終的に幕府が仲裁に入り、庄内藩側に坂尾が家禄召し上げ、無期限の蟄居と宿屋に慰謝料を支払う様に裁定、酒井家は20両を支払ったが宿屋側は遺憾の意を示し、慰謝料を拒絶した。
翌年の参勤交代で関駅を通過すると聞いた忠器は事件を思い出して、参勤交代の経路を変更した。本来は幕府の許可が必要なのだが、無許可で経路を変更し、幕府の怒りを買い、重臣二人が御役御免で責任を取った。
それ以来、幕府に面従腹背な姿勢を持つ。
  • 大山庄太夫
三方国替え時点での庄内藩の江戸留守居役だった藩士。
江戸における藩の国替え反対工作を主導していた。

  • 本間(ほんま)光暉(こうき)
庄内酒田の豪商である本間家の5代目の当主。
三方国替えに際しては、主に資金面で反対運動を支援していたというのが定説。

  • 本間辰之助
庄内藩領内の農村の指導者層に属していた人物。
農民による嘆願運動を主導していた。

  • 文隣
庄内藩領内の玉龍寺(現:山形県飽海郡遊佐町(あくみぐんゆざまち))の僧侶。
農民による嘆願運動を主導していた。

  • 佐藤藤佐(とうすけ)
庄内出身で江戸在住の公事師*2
江戸で三方国替えへの反対運動に関わっていた。


川越藩

  • 松平斉典(なりつね)
川越藩4代藩主*3
結城秀康の五男である松平直基(なおもと)の子孫。

  • 松平斉省(なりさだ)
徳川家斉の二十五男。
文政8(1825)年に松平斉典の養子となり、川越藩松平家の跡継ぎに定められる。
天保12(1841)年5月に世を去った。


長岡藩

  • 牧野忠雅(ただまさ)
越後長岡藩10代藩主。
三方国替えの当事者のひとりだが、イニシアチブを発揮して賛同もしくは反対していたとは見なされていない。


幕閣

  • 徳川家斉
江戸幕府の第11代将軍
家慶に将軍職を譲った後も、大御所として政治の実権を握り続けていた。
天保12年閏1月に世を去った。

  • お以登の方
徳川家斉の側室のひとりであり、松平斉省の生母。

  • 徳川家慶
江戸幕府の第12代将軍。
天保8(1837)年に父、家斉から家督を譲られる。

  • 水野忠邦
いわゆる「天保の改革」で知られる人物。
天保10(1839)年に老中首座となり、三方国替えも彼が中心となって行われた。

  • 矢部定謙(さだのり)
堺奉行、大坂西町奉行、勘定奉行などを歴任した旗本。
天保12年4月には江戸南町奉行に就任する。
ちなみに、彼と同時期の北町奉行が『遠山の金さん』や『江戸を斬る』などの時代劇作品で知られる遠山景元である。



事件の推移

川越藩松平家の窮乏と策謀

天保11年の三方国替えの前に、背景事情として川越藩松平家(詳細は後述するが直基系越前松平家とも)が転封を画策するに至った経緯について説明しておきたい。

松平斉典は川越藩の藩主なのだが、もとは結城秀康の五男である松平直基から始まる家系で、当初は越前国勝山藩に領地があった。
ところがこの松平家ではやたらと転封が多く、越前勝山藩から武蔵川越藩に落ち着くまでに5代で11回もお引っ越しをしているのである。
お引っ越しと言っても、統治者として格式やら何やらに縛られ家臣団を抱える大名家の領地の移動はたいへん費用がかかり、松平家では莫大な債務を負うことに相成った。
同家には約24万両の借金が積み上がっており、その返済や利息に充てるために毎年4万両もの新規借入が必要だったという。

かくして家督と同時に負債も相続した斉典は領内の殖産興業や農村復興政策に取り組むことになるのだが、それとは別により豊かな領地への転封も狙っていた。
はじめは播磨国姫路藩への転封を願って幕閣への工作を行っていたが、主立った対象である老中の水野忠成(ただあきら)が天保5(1834)年に急逝したことで頓挫する。
すると今度は養子の斉省の関係者に狙いを絞り、将軍家斉の側近や、斉省の母であるお以登の方の筋から大奥にも接待&進物攻勢(まあようするに賄賂ですね)をかけ、工作を継続したのである。

なお、徳川家斉には少なくとも53人の子があり、養子縁組や縁談を経て各大名家に送り込まれていた。
そして、幕府は家斉の子を迎え入れた大名家には官位や加増などの面で特別に便宜を図っていた。
これゆえに、松平斉典が斉省を養子に取り、実子を廃嫡までして世継ぎに据えたのも好適地への転封を実現するための計画のうちであると考えられている。


三方国替えの命下る

かくして松平斉典は幕閣工作に励み、ついに天保11年11月、庄内藩酒井家、川越藩松平家、長岡藩牧野家にそれぞれ転封が言い渡される。

当時の庄内藩は川越藩松平家が目をつけるだけあって、経済的には豊かな土地であった。
米どころの庄内平野と地域有数の貿易港である酒田を有する恵まれた立地に加え、代々の酒井家藩主、特に先代の酒井忠徳が10万両とも20万両とも言われた藩の借金返済*4を目指した藩政改革の一貫として、本間家など民間資金をも活用して産業を育成していた。
このため、酒井忠器の頃には表高14万石に対し、実高は20万石とも言われるほどになっていたのだ。


天保4(1833)年に始まるいわゆる「天保の大飢饉」にあたっては、こうした農業生産力の向上に加えて酒井家が備蓄食糧を放出するなどして救荒に努めたため、庄内藩では被害は比較的軽微にとどまっていた。

さらに言うと、譜代の庄内藩は蝦夷や東北の外様諸藩に対する「北の抑え」という位置付けで、初代藩主である酒井忠勝の入部より一度も転封による藩主家の出入りがなかった。
その環境下で酒井家による経済振興や災害対応がなされてきたため、領民と藩主および家臣の間には強い連帯の意識があった。
ゆえに、国替えの話が降って出ると領内は上から下まで蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
とくに、農民たちの間では、以下のような不安が頭をもたげ始める。
  • 「転封には莫大な費用がかかるから、出ていく酒井の殿様にも入ってくる松平の殿様にも年貢をきびしく取り立てられるんじゃないか?」
  • 「川越の松平の殿様は台所が火の車って話だから、殿様が変わったらずーっと年貢をきびしく取り立てられるんじゃないか?」
  • 「年貢の他にも、貸付の返済をきびしく取り立てられるんじゃないか?」*5
……現金といえば現金なものだが、農民たちにとっては切実な問題である。
それに、数年前の飢饉の影響だって(余所に比べればマシだったとはいえ)まだ癒えきってはいないのだ。
ここに国替えの混乱と負担まで加われば、潰れて死ぬ百姓が大勢出ることは目に見えている。
かくして、庄内藩の農民たちは領地を出ていこうとする殿様を慰留するという、未だかつてなかった運動に身を投じることになる。


嘆願の広がり

庄内藩の農民たちは本間辰之助や文隣といった指導者のもと、「百姓と(いえど)も二君に仕えず」のスローガンを定めて転封の差し止めを実現すべく行動し始める。
彼らのとった手段は、基本的には幕政に影響力がある幕閣の要人などに直訴を行い、藩主酒井家を庄内に留め置くよう嘆願するというものである。
だがしかし、農民たちのこの行動は、藩主酒井家との間に奇妙な対立構造を生み出すことになった。

そもそも実際のところ、酒井家だって馴染んだ領地を離れ、多額の費用を負担してまで表高7万4千石の越後長岡藩に移りたいわけではない。
すなわち、庄内藩酒井家と領民たちは利害が一致しており、勝ち取りたい目的も同一のものである。
そして、今回の国替えには、実入りのよい土地を求めた川越藩松平家が幕閣に賄賂をばらまいてねじ込んだ裏事情があることも察しがついている。
つまり幕命とはいえもともとの発端が無理筋ということであり、酒井家では酒井家でそこを衝いて転封の撤回、あるいは善後策として移封先での加増を実現すべく工作を行っていた。
当時、藩主の酒井忠器は参勤交代の都合で国元にいたため、江戸では嫡男の忠発や留守居役の大山庄太夫らが抗命の中心となった。

そこまでだけを見れば「庄内藩は身分の上下を問わず転封差し止めのために戦った」とまとめてしまえそうなのだが、藩の上層部は領民が野放図に行動することを危険視していた。
なぜならば、農民たちの行動がエスカレートして大規模な騒動ということにもなれば、それは領主の領民に対する監督不行き届きと見なされ、処罰に足る理由になってしまうためである。
このあたりは改易の項目に詳しいのだが、統治下の領民に一揆を起こされた大名にはお家取り潰しや大名本人の切腹といった重い仕置きが下されることもままあった。
それゆえ、庄内藩の武士たちにとっては、領民が問題行動を起こせば本来は難癖に近かった転封を正当化させてしまうことになるため、彼らには出過ぎたことをしてほしくなかったのだ。
(なお三方国替えの当事者である長岡藩牧野家は新潟港における密貿易の取り締まりに不手際があり、庄内藩の民の行動が領内監督不行き届きと認定されていれば両藩主家が懲罰転封となって川越藩松平家の一人勝ち、という結果にもなりえた。)

直訴のために庄内を発った農民たちの最初の一団は、江戸市中で藩の取り締まりに遭い目的を果たすことができなかった*6
だが次に江戸に入った農民たちは、天保12年1月に、幕府の大老や老中への駕籠訴*7に成功する。
古来より民草の嘆願といえば「うちの殿様はおらたちを苦しめてるからどうか改めさせてくだせえ!」というのが相場であるが、庄内農民の訴状は「うちの殿様はおらたちに善くしてくれるからどうか余所に行かせないでくだせえ!」という真反対の内容であった。
これが江都に知れ渡ると、江戸っ子たちや武士の中にも農民たちの行動に感心する者たちが現れ、庄内藩に同情または贔屓する空気ができていった。

一方、酒井家中は領民の直訴はまだ続くと判断し、江戸市中ならびに庄内から他領につながる主要な街道の警備を強化する。
それでも農民たちは、藩の監視をすり抜けて江戸や近隣の他の藩に嘆願を敢行した。
結果、
  • 庄内藩と国境を接する仙台藩や会津藩が幕府に国替えを批判する書状を提出する*8
  • 水戸藩では「国替えが強行されれば庄内藩の領民が何をしでかすかわからない」という意見が藩主に進言される
  • 複数家の外様大名が「川越藩だけ領地の希望を優遇するのはいかがなものか」といった内容で幕府に批判的な書状を提出する
等々、他の大名家までもが国替えに否定的な意見を表明するまでになったのである。


大御所の死

話は多少前後するが、庄内の農民がはじめての直訴を成功させたのと同じころ、天保12年の閏1月に徳川家斉はこの世を去った。
大御所なき後に幕政の実権を握ったのは筆頭老中の水野忠邦であり、彼により家斉の側近は罷免もしくは左遷され中央から追いやられた。

政権の中枢で甘い汁を吸っていた連中がいなくなったのはよいとして、今度は諸大名家の不満が表面化してきた。
これまで幕府は将軍家斉の子女を引き取った家をいろいろ優遇してきたのが、その最高権力者がいなくなったことで縁故政治の埒外にいた家の不満が噴出したというかたちである。
川越藩松平家は家斉の二十五男を養子に取りそのコネで庄内への転封を計らっていたので、もろにこのパターンである。
いくつもの大名家が三方国替えに批判的な書状を出したことは、庄内領民の働きかけの他にも、幕閣におけるパワーバランスの変化が背景にあった。

さらに天保12年5月、家斉の二十五男、川越藩松平家の養子であり跡継ぎであった松平斉省が家督を継承することなく夭逝する*9
賄賂政治&縁故政治を否定する流れの中でも、斉省が存命であれば大御所の遺志を推して国替えを押し通すことができたかもしれないが、とにもかくにもそうはならなかった。

かくして三方国替えは推進者の多くが死ぬか政権を追われ、一方で傍観的立場だった大名家が反対色を明らかにするという展開を迎える。
ことの可否は、いちど下った幕命を翻すことが沽券に関わるという、幕府の権威の問題へと変質していった。


町奉行の報告

徳川家斉の乱脈政治の一環として持ち上がった三方国替えは、大御所なき今や強行しても得るものはないかのように思われた。
だが時の老中首座であり、国替えの決定にも関わっていた水野忠邦は、幕府の権威を堅持するために国替えを断行すべきだと考えていたようである。
そうは言っても、将軍家の意向による後押しは大きく後退し、反対派の突き上げが続く中でことを進めるにはまた別の大義名分が必要になる。
たとえば前述したような、庄内農民の大規模な行動を庄内藩酒井家の領内監督不行き届きとして懲罰の口実にできないか、といったぐあいである。

そういった算段があってのことであるかは定かではないが、公事師の佐藤藤佐が国替え反対に庄内領民を焚きつけた疑いで町奉行の取り調べを受けることになった。
これを担当したのは南町奉行の矢部定謙である*10

実際のところ、町奉行の調べによって庄内藩酒井家の不手際を認定できれば三方国替えの紛糾にひと息に決着をつけることもできたのであろうが、事態は思いもよらぬ方向に進展した。
矢部奉行が佐藤藤佐を召喚して知っていることを喋らせたところ、藤佐は国替えの発端のそもそもの裏事情からぶちまけた。
すなわち、川越藩松平家が窮乏して庄内への転封を望み、大御所家斉の周辺に大枚の音物(いんもつ)*11を費やして実現にこぎ着けたというところから、である。
そして矢部定謙はそれを余すところなく調書にまとめ、老中が集まる会議で述べ立てたのである。

はたして水野老中の胸中はいかばかりであったろうか。
閣老会議に上がってきた調べは三方国替えの正当性を真っ向から完全否定する内容であり、これまでに大御所家斉の周囲が関与してきた醜聞が幕閣の最高機関で暴かれたのだ。
そして、国替えの決定において中心的な立場にあり、裏の事情を知りながら推進してきたのは他ならぬ水野忠邦その人なのである。


幕命覆る

矢部定謙の報告を老中たちは重く受け止め、水野忠邦のいない場でふたたび国替えの是非を会議にかけた。
そして、将軍徳川家慶の決裁により、庄内藩酒井家、川越藩松平家、長岡藩牧野家の領地はそれぞれ据え置き、つまり三方国替えは撤回とすることが最終的な結論となったのだ。
ときに天保12年7月のことである。

江戸城で国替え撤回を申し渡された大名が下城し、江戸屋敷から発った急使によって庄内藩の国元にもこの知らせがもたらされた。
知らせが広がると、庄内藩領内は上を下への大騒ぎ──もちろん天保11年の11月とは異なる、勝利と安堵の喜びによるものである──になった。
町や村では酒や餅や赤飯が振る舞われ、武士も領民も盛大に殿様の居座りを祝ったという。
お祭り騒ぎの町角には、ござを抱えて「接待、接待」と呼び歩く女まで現れたらしい。


その後

主な関係者のうち、事件終結後にも特筆すべき事績がある人物について述べる。

庄内藩

  • 酒井忠器
天保13(1842)年に嫡男の忠発に家督を譲り、嘉永7(1854)年に世を去った。
隠居した後も藩政に影響力を保持していたようである。

  • 大山庄太夫
事件後も引き続き藩政に参与するが、数年もすると新藩主となった酒井忠発の廃立の企てに加担するようになる。
これは忠器と忠発との間に政治的な主張の違いがあり*15、忠器に近い派閥が巻き返しを画策し庄太夫もこれに乗った、ということであるらしい。
だがこの計画は成就せず、酒井家中の前藩主派はまとめて監禁もしくは謹慎の処分を受けることになり、庄太夫も慶応2(1866)年に自宅での監禁下にて自刃し生涯を閉じた。
死後も自刃した遺体を改めて処刑しろくすっぽ墓も作られないというかたちで徹底的に否定され、再評価がなされるまでには長い時間がかかった。

  • 佐藤藤佐
藤佐は事件後も江戸に住んでいたようだが、蘭方医をしていた息子の佐藤泰然(たいぜん)は天保14(1843)年に佐倉藩に招聘される。
彼が開設した医院は、のちの順天堂大学のもとになった(東京都中央区の薬研堀不動院には、泰然を順天堂大学の始祖とする記念碑がある)。

  • 領民たち
庄内の領民で、国替えの反対運動に参加したことにより重い罪に問われた人物は知られていない。
もしかしたら幕閣には庄内領民への処罰が必要だと考えていた者がいたかもしれないが、幕藩体制は封建制なので直接の統治権を持つ庄内藩酒井家が動かなければ庄内の民を罰することはできないのである。

庄内藩はその後も明治維新まで国替えが起こらず、酒井家が藩主としてずっと治めていた。
そのため領民と藩主、藩士との団結も維持され、戊辰戦争にあたっては庄内領民から多数の志願兵が出るなど際立って連帯的な行動があったことが知られている。

川越藩

  • 松平斉典
三方国替えが沙汰止みになった後、川越藩松平家は2万石の加増を受けた。
早逝していた世子の斉省の後には斉典の四男である典則(つねのり)が据えられ、嘉永3(1850)年の父の死に伴って家督を継承した。

長岡藩

  • 牧野忠雅
天保14年に老中となるも、前後して新潟港を幕府に召し上げられてしまい、一応代わりの土地は貰えたとは言え貿易に関連する収入を失ったことで藩財政は大打撃を受けた。
これは直接的には天保年間に同港であった抜荷(密貿易)の摘発に不手際があったことによるもの*16だが、「天保の改革の一環として、海防強化のために主要な港湾を幕府直轄とする構想があった」「寛政年間に牧野家が水野忠邦と対立していたことに対する報復」という説もある。
ちなみに新潟港での密貿易の主犯は薩摩藩だったのだが、将軍徳川家斉の正室が薩摩藩出身だったので取り締まりや事後対応がやりにくかったらしい。
このあたりのできごとについて詳しく知りたい方は「唐物抜荷事件」で調べていただきたい。
そして安政4年(1857年)に老中を辞し翌年他界。三河西尾藩松平家からの養子牧野忠恭が跡を継ぐことになる。

幕閣

  • 水野忠邦
いちど正式に出された国替えが撤回されるという異例の事態となったが、忠邦は老中の地位を保った。
天保の改革の政策実行に着手することになるが、同時に三方国替えの関係者への報復とみられる行動にも取りかかった。
具体的には、庄内藩に対して多額の費用がかかる印旛沼開発*17*18の手伝普請、および酒井家が江戸城中で使用する詰所の格下げの措置をとった。
さらに町奉行の矢部定謙に対しては天保12年12月に奉行職を解任し、幕政から追い落とすと同時に彼の死の原因を作った。

結局のところ印旛沼開発は失敗裏に終わり*19、天保の改革の諸政策はかえって社会を混乱させたとされ、幕府の統率による経済や行政の立て直しは達成できなかった。
忠邦はその強硬路線ゆえに、矢部定謙の他にも部下や同僚とたびたび衝突し、離反されたり報復したりを繰り返しつつ失意のうちに幕閣を去った。
弘化2(1845)年には、諸々の責任を問われるかたちで大名家の当主の座からも引き下ろされることになった(家督は長男の忠精(ただきよ)が継承することを許された)。
さらに同年には出羽国山形藩に転封を命じられ、領地が庄内藩のご近所になってしまった。
山形藩は幕閣でやらかした大名家が左遷されてくる土地でもあったのでそれだけでは何とも言えないのだが、幕末になると奥羽越列藩同盟に組み込まれて庄内藩とともに新政府軍と戦うというもっと皮肉な運命が待っていた。

  • 矢部定謙
奉行職の解任は名目上は過去の不正によって、であったが、実際は水野忠邦と対立したことによる策略であるとみられる。
その後無実を訴えたことでさらに心証が悪くなり、最終的には謹慎中の天保13年7月に世を去った。
抗議のため自ら食を絶ったことによるといわれている。
当時から矢部の罪は重すぎるという声はあり、そのうち罪は消えると言われており、絶食は短気に過ぎるとその死が惜しまれた。

庄内藩にとって矢部は三方国替えでの居座りに決定的な貢献をした恩人であったため、遺族を支援したり領内に彼を祀った神社を建立したりしたという。



天保義民事件を題材にした作品

  • 夢の浮橋
三方国替えが撤回で終結した後、庄内藩領内で記録のために作られたとされる絵巻物。
致道博物館(山形県鶴岡市)に所蔵されているほか、文化庁の文化遺産オンラインでも閲覧することができる。

  • 義民が駆ける
藤沢周平による歴史小説。
事件について幕閣や荘内藩*20の指導者層のほか、国替え反対運動に参加した農民たちの目線と訛りで描写されている。
「これでは百姓は旗ささね(立ち行かない)ぞ」「黙って見でいれば(まま)()えねぐなるさげのう」「俺は越訴さ、()()る」

  • 北風の軍師たち
中村彰彦による歴史小説。
事件について幕閣や庄内藩の指導者層のほか、国替えを推進する川越藩士たちの目線で描写されている。
隠密の任務を帯びて庄内に潜入した彼らは、領民を煽動する「天狗」と対決することになるが……?



余談

  • 引っ越しゼロ大名
庄内藩では初代藩主の入部から明治維新に至るまでいちども転封による大名家の出入りがない。
江戸幕府の長い統治の間にたいていの大名は転封を経験しているので、これは実はレアケースである。
酒井家を庄内に封じたのは酒田港を守り周辺の外様大名に対抗するという名目があったようなので、これが江戸時代の終焉まで守り抜かれたということになるだろうか。
もしかしたら、川越藩松平家が庄内への転封を望んだときも、「こっちは何度も何度も移転させられてるのにアイツは……!」みたいな感じで庄内藩酒井家に思うところがあったのかもしれない。

  • 語り継がれる記憶
庄内地方ではこの三方国替え反対運動について長く語り継がれてきたが、(社会情勢の要請もあってか?)大正年代にもなるとコテコテの美談になっていったらしい*21

  • もうひとつの天保義民
「天保義民」という言葉が使われる別のできごとに、天保13年10月に起こった近江天保一揆がある。
これは近江国で年貢の負担増に反対して農民が大規模に蜂起したもので、幕府側の対応も苛烈であり多くの死者を出した。
一連の一揆で犠牲になった者たちのことを近江天保義民、もしくは天保義民と称している。

  • 銘菓「きつねめん」
この天保義民事件に由来するという、鶴岡の伝統菓子。小豆粉と砂糖を混ぜ、の顔を並べた型に入れて固めた落雁の一種。
国替え撤回により藩主が「お居成り」となったことを祝い、城下のとある菓子屋が「稲荷」に掛けて狐の面を象った打ち菓子を作り献上したのが始まりとされている。
現在は「きつねめん」「おきつねはん」などの名称で鶴岡市内の複数の菓子店から販売されており、香ばしく素朴な味わいで親しまれている。





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最終更新:2025年03月20日 23:39

*1 領主が治めるべき土地に赴任すること

*2 当時の訴訟の手続きや書類作成の代行を行う職業。すごく乱暴に言うと江戸時代の弁護士事務所のようなもの

*3 斉典の父祖が川越藩に入部してから4代目、の意味

*4 忠徳は特に祖父忠寄の頃から積み上がったこの借金のせいで家督相続の際の帰国費用すら捻出出来なかった…という逸話が残る

*5 年貢とは別に藩や本間家などが農民に貸し付けている債務のこと。酒井家は転封で出ていく予定だし、地元の商人も貸付先が倒れる可能性があるから融資を回収しようとしてそれぞれ返済を迫ってくるんじゃないだろうか、という理屈

*6 取り締まりとはいっても、直訴のために出府した農民を見つけたら藩邸などに留め置き、説得して国元に返すというきわめて穏便なもの

*7 要人が乗った駕籠などに接近して直接訴状を渡す直訴のスタイル。ちなみに、桜田門外の変で襲撃者が井伊直弼の行列に近づいたときもこれを装っていた

*8 とくに仙台藩伊達家の書状は「こんなん続いたらお隣で騒動起きるかも知れんくて心配だからウチは国元に帰りますわ」というなかなか激越なもの

*9 徳川家斉の子は短命であることが多かったのだが、斉省も例外ではなかったということになる

*10 このとき北町奉行は庶民派目線の人物で知られる遠山景元だったので、彼が庄内藩に同情的な調べを上げてくることを懸念して矢部定謙に担当させた、とする見解もある

*11 贈り物や進物といった意味だが、時代劇用語としては大抵の場合わいろのこと。イ○モツとは違うからな!

*12 松平定信庶子で真田家養子

*13 正睦の堀田家の前に佐倉を治めていた堀田正信の改易の切っ掛けとも言われる(直接の原因は正信自身の問題行動だが)伝説的な義民、佐倉惣五郎の出身地。ただし惣五郎は為政者の非を訴えるタイプの義民だった

*14 日本で初めて雪の結晶を観察した人物としても知られている

*15 幕末の思想体系でいえば酒井忠器は勤皇派、忠発は佐幕派であった

*16 そもそも長岡藩が三方国替えの対象になったこと自体が密貿易の取り締まり不備への懲罰とする見方もある

*17 利根川の水が印旛沼に流れ込むように改良したせいで多発する水害対策と人口が増える江戸の食料事情改善のための農地増加。過去にも田沼意次が計画するも田沼の失脚で失敗に終わっている

*18 また国外事情の悪化で「外国船が江戸湾を封鎖する」事態も予想されるようになったため「印旛沼から江戸までの水路を作る」ことで「江戸湾を通らない水運」の強化も目論まれていたという

*19 上知令の断念とあわせて「水きれて印旛は沼のふちとなり十里四方は元の木阿弥」という狂歌で風刺された。なお印旛沼開発の実現は1960年代の放水路建設と干拓地生成による沼の敷地減を待つこととなる。

*20 『義民が駆ける』では一貫して荘内藩表記。荘内は庄内の表記ゆれのようなもの。現存する地名としては荘内神社(山形県鶴岡市)などがある

*21 『義民が駆ける』中公文庫版あとがきより。作者の藤沢周平は山形県鶴岡市出身