勝海舟

登録日:2025/04/01 Tue 20:12:04
更新日:2025/05/12 Mon 15:21:44
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(かつ)海舟(かいしゅう)とは、江戸時代末期の幕臣~明治時代初期の政治家の一人である。

生没年:1823~1899(文政六~明治三十二)
出身地:江戸本所
両親∶旗本男谷小吉と勝元良の娘、信の長男。
幼名∶麟太郎


出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 *1(https://www.ndl.go.jp/portrait/)




生涯

家庭環境

父・小吉は旗本家の三男坊。
酒や博打はやらないが、吉原と道場破りをして回るのが大好き。勝家の婿養子になっても息子が生まれても趣向は変わらず、「麟太郎が三歳になったら隠居して家督を譲って、オレは気ままに暮らしてえ」と願っていたりする。

この不良旗本によって困窮を極める生活*2を養父は咎めるも、幕府が役職を与えるわけがない。
そのため小吉は趣味の喧嘩と道場破りをしながら、刀剣の売買などをして家計を支え、旗本として弱者に救いの手を差し伸べる町の顔役のような事をしていた。

幼少期

麟太郎少年は剣豪の従兄弟*3・男谷信友(精一郎)の一番弟子として剣術を習い、その熱心な稽古ぶりは小吉の代から親交があった中津藩出身の剣豪・島田虎之助にも認められ、免許皆伝の腕前となった。

九歳の時に道場から帰る途中、野犬に睾丸を噛まれ、出血多量で生死の境をさ迷った*4経験から、晩年まで大小種類にかかわらず犬を苦手にしたという(まあ無理もない……)。


青年期


剣術の師・島田は常日頃から次のように説く。

将来列強との合戦になった場合、銃火器を用いる列強の軍勢には、刀槍ではとうてい太刀打ちできない。剣術を学びながら、西洋の学問を学び、そこから兵術と呼べるものを広く学びなさい」と。

海外に対抗できる兵術を学ぶため、島田の紹介で蘭学の大家である岡山藩の箕作阮甫(みつくりげんぽ)に学ぼうとするが、阮甫は「せっかちな江戸出身の君には蘭学は向いていない。それに私も忙しいから君に教えている暇もない」と拒絶*5
それでもなお、蘭学修行を志す海舟は永井青涯(ながいせいがい)に入門。貧窮にもめげず、蘭医の赤城玄意から当時最新の蘭和辞典『ドゥーフ・ハルマ』を年10両*6で借り受け、1年がかりで2部写本*7。1部は借り賃と生活費のため売却したが、もう1部は生涯愛用したとされる。

勝「海舟」誕生

嘉永3(1850)年、江戸赤坂で蘭学の私塾を開塾。

麟太郎は諸藩の求めに応じて知識を教授するかたわら*8威力の高い大砲を製造するために試行錯誤し佐久間象山*9から砲術の手ほどきを学ぶ。
ある日、象山は麟太郎が気に入っていた自身の「海舟書屋」を譲渡。これを喜んだ麟太郎は自身を「海舟」と号するようになる。


以降は「海舟」名義で解説する。


黒船来航

嘉永6年(1853年)、浦賀沖の黒船来航に伴い、老中の阿部正弘が意見を公募した。

結果、集まった意見は次のとおりである。

  1. 有無を言わず砲撃
  2. 板前に偽装して乗り込み、警戒心を解け
  3. 乗組員たちに料理をふるまって警戒を解け
  4. そのまま刺身包丁で乗組員をズブリ
………etc
この正気の沙汰ではない非現実的な意見の山の中で、海舟は自国の将来を見据えた開明的思想を述べた。

  1. 海軍設立
  2. そのための資金作り
  3. 最新知識を持った若い人材の育成
  4. そのための欧米諸国との外交樹立

安政2年(1855年)。幕府は、大久保一翁(いちおう)とその同僚の岩瀬忠震の推薦で幕臣となった海舟らに対し、オランダ人・カッテンディーケの航海技術を学ばせるため、永井尚志を監督として長崎に送る。

後の「長崎海軍伝習所*10となる伝習所において、海舟はリーダー格として航海技術習得に努め*11、安政6年(1859年)1月に新設の軍艦教授所、その教授型頭取として任命されたが、このタイミングで安政の大獄が発生。

「次期将軍に一橋慶喜を推挙すべし」とする大老・井伊直弼に異を唱えた大久保と岩瀬に謹慎命令が下されたことで、頼りにしていた友人と後ろ盾を失うこととなった。
安政7年(1860年)、日米通商条約批准の使節団がポーハタン号に乗り出発*12。井伊直弼が日本人でも太平洋を横断出来るという士気高揚の策として咸臨丸をアメリカに派遣。万が一、ポーハタン号の使節団が遭難した時に備えて、外交官として提督を設けて木村芥舟(かいしゅう)を任命し、通訳に中浜万次郎を任命した。*13

前日まで体調を崩して寝ていた海舟は、当日の朝、妻子に「ちょいと品川まで行ってくらぁ」と言い残し、艦長として太平洋に乗り出した海舟はひどい船酔いで何もできずにこもっていたという。
そのため、提督の木村芥舟(かいしゅう)や米国人・ブルック*14らが行った指導にプライドを傷つけられ、鬱屈としていた*15が、現地で西洋の文物に触れることで開国思想を強めていった

帰国後は、蕃書調所頭取助・講武所砲術師範役に就任*16するも、保守的な安藤信正・久世広周(くぜひろちか)の下では海軍強化もロシア軍艦対馬占領事件に関する建策も採用されず、鬱屈とした日々を過ごす。

文久2年(1862年)、一橋慶喜を将軍貢献職に、福井藩主・松平春嶽を政事総裁に据えた『文久の改革』で大久保一翁*17が復帰
海舟は軍艦操練所頭取として軍艦奉行並に抜擢される。
しかし、軍艦操練所頭取時代、咸臨丸での失敗談が広まり、教官連中から「おめーの席ねぇから!」とストライキを喰らっている。

坂本龍馬との出会い

海舟は将軍・徳川家茂*18絶対の忠誠を誓っていたが、自身が「おそろしい奴」と評する横井小楠(しょうなん)の「諸藩や幕府などを取り払った新政府創設」に共鳴し、幕府はもう終わりだという考えを抱くようになる。

そんな「海舟が国を列強に売り払おうとしている」噂を耳にした土佐藩脱藩浪人千葉重太郎が邸宅を訪れる。海舟は落ち着き払った様子で「俺を斬るんなら斬ったってかまわねえが、話を聞いてからでも遅かぁねえよ」と一切咎めず、むしろ世界情勢を語って聞かせてみせたことで、二人が弟子入り*19

関西に赴任した海舟は、龍馬を通じて松平春嶽に海軍創設準備のための資金支出を依頼。5000両*20もの大金を得た海舟は攘夷派の多い長州藩出身者や公家の姉小路公知にも海防の重要性を説く。
その成果もあって、将軍・徳川家茂がこの意見を聞き入れたことで、同年3月に神戸海軍操練所が創設を認められた。同時に事前教育として幕府の金で私塾を開設し、若き精鋭たちに航海術を教えた*21

またこのころ、海舟暗殺を懸念した龍馬の推薦で、土佐藩士岡田以蔵が海舟の護衛につく。
京で夜襲を仕掛けた刺客を以蔵が刺客を斬り捨てた様子に海舟が、「以蔵君、お前さんはあんまり人殺しをしない方がいいよ」と忠告したが、以蔵の「もし私がここにいなかったら先生の首が飛んでいましたよ」との返事には返す言葉もなかったという。

海軍操練所の開業当時に公武合体政権が樹立。
島津久光・松平春嶽らは攘夷主義者・孝明天皇の意向を立てて政権運営を行う一橋慶喜松平容保らと対立。9月に薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との面会で

「今の徳川家にゃいい人材がほとんどいませんから、もう保たねえでしょう。ですから、あんたのところがほかの藩と『雄藩連合』を成し遂げて、よくお考えになった方がいいとあたしゃ思いますね」

と忠告。西郷はこの予想外の回答と海舟の未来を見据えた姿勢や人柄に惹かれたという。

文久4年(1864年)、長州の三家老の国司信濃・益田右衛門介・福原越後が禁門の変の責任を取って自害し、長州征伐は戦闘に発展しなかった*22が、「幕臣の勝が反幕府勢力を育成している」という疑い*23で、慶喜と老中・阿部正外の不興を買った海舟は軍艦奉行を免職となり、慶応元(1865)年3月に神戸海軍操練所も閉鎖
操練所閉鎖で行き場をなくした龍馬や陸奥陽之助(宗光)、菅野角兵衛(千屋寅之介)などを西郷に預け、強制的に江戸で謹慎させられることになる。

保守派は長州を征伐することで地に落ちた評判を回復しようと躍起になっていたが、龍馬による薩長同盟締結*24に勢いづいた長州藩軍に連戦連敗。
追い打ちをかけるかのようにに将軍・徳川家茂が弱冠20歳でまさかの病死
自らを理解してくれる主君の急逝に、海舟は日記に「徳川家、今日滅ブ」と書き残している。

戦局を回復させようと徳川慶喜は目論んでいたが、老中兼唐津藩世子・小笠原長行の逃亡でもはや継戦不能。謹慎生活を続ける海舟は、長州藩出身者の停戦交渉役を打診され、広島・宮島での交渉に臨む。
足許を見る長州側の広沢真臣と「征長軍撤退の際は追撃しない」約束を交わして再交渉も仄めかしたが、慶喜が勝手に幕長間の勅命を引き出したことでそれも潰え、腹を立てた海舟は辞表を提出し、江戸に帰ってしまった。

幕府瓦解

慶応四(1868年)正月、戊辰戦争の初戦である鳥羽・伏見の戦いに幕府軍はまさかの敗北。

戦意を喪失し、海路で江戸に逃げ帰った慶喜*25を代表とする「官軍への恭順派」と小栗上野介*26を代表とする「官軍との徹底抗戦派」に分かれる。

官軍の東征に対し、徳川家は川勝広道、服部常純を若年寄に任命し、大久保一翁を最高責任者としたが、交渉下手と自覚する大久保一翁は、苦肉の策として老中・板倉勝静陸軍総裁に起用した海舟に「軍事取扱」*27としての権限と自由裁量を与える。

同年2月15日、有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍が京都を出発。

「日本を維持し、欧米列強の食い物にされないためには、江戸城への攻撃中止が肝心」と考えた海舟は古屋佐久左衛門らを信州へ派遣し、大久保一翁は近藤勇ら新選組*28を「新政府軍鎮圧」を建前に甲州に派遣*29

反恭順派らを江戸から引き離したうえで、東征軍の参謀西郷吉之助には山岡鉄太郎(鉄舟)を送ることで「島津の御殿様(斉彬)が、幕府と同じ立場にあるとしましょう。さすれば、先生はご自身が敬愛する殿様を見殺しにするのですか?」と説得。

さらに英国大使館でアーネスト・サトウと面会し、ハリー・パークスを通じて「交渉に応じなければ、イギリスとフランスの代理戦争になるぞ(が日本を戦場にするぞ)」と圧力をかけつづけた海舟の努力は実を結び、江戸城総攻撃が中止*30
後世で「江戸城無血開城」と呼ばれる交渉が三月十四日に成立することになる。

維新後の海舟

戊辰戦争終結後は静岡藩にて藩政補翼に就任し、藩政の再建にあたっていた。

明治二年(1869年)に外務大丞に就任して以降、兵部大丞・海軍大輔・参議・海軍卿・元老院議官を歴任し、1887(明治20)年には伯爵位を授かった。
とはいえ、海舟本人は政府への仕官に気が進まず、それぞれの役職には短期間務めたのちすぐ辞職するということを繰り返しており、元老院議官を辞して以降は中央政府に出仕していない。

なお、短期間ながらも政府に出仕していたことで福沢諭吉から『痩我慢の説』で名指しで批判されているが、海舟はこれに対して特に気にする様子は見せていない。*31

維新後は徳川家や旧幕臣と新政府を結びつけるパイプ役を担い、徳川家の名誉回復や旧幕臣、例えば渋沢栄一や西周(にしあまね)、榎本武揚や山岡鉄舟などの新政府への仕官を斡旋していった。
これは新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用し、幕藩体制崩壊に伴う混乱や反乱を鎮静化するため、維新直後から30余年にわたって続けられた。
その一環として、静岡の徳川慶喜家と東京の徳川宗家の後見役も担った。この努力が実を結び、慶喜の「朝敵」の汚名は雪がれ、公爵位を得させる事ができた。
慶喜と海舟の交流はこれ以降も続き、子どもたちの不幸が重なった晩年の海舟は慶喜の十男・(くわし)を自らの養子とし、勝家を継がせている。


その傍ら、西南戦争直後には逆賊として扱われることとなった西郷隆盛の名誉回復に努めた。
海舟が西郷の人柄を高く評価していたことも理由の一つであるが、西郷が江戸城無血開城の提案を受け入れ、旧主・徳川慶喜の命を救ってくれたためでもある。
「濡れ衣を 干そうともせず 子供らが 為すがまにまに 果てし君かな」という短歌が知られているが、これは、海舟が西南戦争で命を落とした西郷を悼んで詠んだ歌である。

これらの顕彰活動の最中、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『吹塵録』をはじめとして、明治維新の戦火や静岡への移封で失われた江戸幕府の記録史料の収集・編纂に尽力した。


晩年は東京・氷川の邸宅で都合3人くらいの女性に手を付けながら叙述に専念した。
鹿鳴館政策日清戦争など、政府の政策については歯に衣着せぬ批評を行っていた。これらの批評は、「氷川清話」や「海舟語録」に詳しく記載されている。

明治二十二年(1899年)一月十九日、海舟は風呂から上がり、トイレに寄った後で昏倒した。そうして、侍女に生姜湯を持ってこさせようとしたが、「間に合わない」ということで持ってこられたブランデーを飲み、そのまま脳出血により意識が途絶え、息を引き取った。享年77歳であった。
最期の言葉は「コレデオシマイ」と伝わっている。
その遺体は遺志により「洗足軒」といわれる別荘(現代の洗足池公園の近くにあった)に葬られ、墓が建立されている。




海舟が登場する作品

NHK大河ドラマ

「勝海舟」(1974年)(演:渡哲也→松方弘樹【主演】)
「翔ぶが如く」(1990年)(演:林隆三)
「徳川慶喜」(1998年)(演:坂東三津五郎)
「新選組!」(2004年)(演:野田秀樹)
「篤姫」(2008年)(演:北大路欣也)
「龍馬伝」(2010年)(演:武田鉄矢)
「八重の桜」(2013年)(演:生瀬勝久)
「西郷どん」(2018年)(演:遠藤憲一)


漫画

水木しげる『星をつかみそこねる男』
小山ゆう『お〜い!竜馬』
みなもと太郎『風雲児たち・風雲児たち幕末編』
黒鉄ヒロシ『新選組』
辻真先/石川賢『勝海舟』
さいとう・たかを『幕末工作人からす』
寺沢大介『ミスター味っ子幕末編』






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最終更新:2025年05月12日 15:21
添付ファイル

*1 勝海舟の肖像写真。明治2年撮影とされる

*2 長旅から江戸に戻った際には養父に座敷牢に入れられるほど

*3 年齢は男谷の方が上なのだが、系図上は男谷は小吉の甥にあたる

*4 父親の懸命な看病や水垢離により回復した

*5 のちに海舟が長崎海軍伝習所のリーダー格として航海技術習得に努める最中、箕作は海舟に再会して実力を認め、かつての非礼な態度を謝罪している

*6 約120〜130万円に相当

*7 滲みにくいインクや羽根ペンを自作している

*8 『蛮社の獄』で投獄され、火災のどさくさに紛れて脱獄した蘭学者・高野長英との対話記録が『氷川清話』にある

*9 後に麟太郎の妹が佐久間に嫁いだことで「年下の義兄」関係になった

*10 五代才助(友厚。薩摩藩出身)などの幕臣や明治政府の重鎮が在籍。幕臣・中島三郎助や、中島を慕う(榎本釜次郎(武揚)とは反りが合わなかったという。

*11 薩摩藩藩主・島津斉彬と面会している

*12 このメンバーの中に、小栗忠順がいる。

*13 木村の従者に福沢諭吉がいる。

*14 ブルックはアメリカ海軍で艦長を務め、冬の北太平洋航路を熟知した人物で、木村が水先案内人として乗り込みをお願いした。

*15 中浜は海舟の素直さを気に入っていたために関係は良好だったが、福沢は木村に八つ当たりする海舟の様子に憤りを憶え、海舟と福沢の関係は決して良いといえるものではなかったという

*16 上申したのは木村芥舟。船酔いと体調不良で乗組員の命を預かる咸臨丸艦長として乗り込んだ事を艦長不適格と判断した。

*17 かつて自身を引き立ててくれたもう一人の先輩格・岩瀬忠震は「安政の大獄」の最中、自宅で亡くなっている

*18 子供時代の遊び相手で幼くして病死した一橋家の跡取り・初之丞の面影がある

*19 龍馬はジョン万次郎(中浜万次郎)の世話をした画家の河田小龍から学んでいたためはじめから弟子入りするつもりだったので、龍馬が重太郎を伴ったのは当初は攘夷派だった重太郎を説得するためという説がある。余談だが、海舟の正妻である勝民子はどえらい美人。殺気を漲らせた2人が「応対に出た民子の顔に毒気を抜かれてしまった」説もある

*20 現在の金額に換算しておよそ10億円

*21 龍馬は海舟の手足となって働き、文久3年(1863年)10月には勝の私塾で塾頭に就任。翌年2月には土佐への帰国延期を申請するも、土佐藩庁が拒否したので再び脱藩し、塾長として私塾を切り盛りしていく

*22 海舟の説得を受けた西郷が、長州藩の処分を寛大にしようとした動きがあった

*23 海舟の学生で元土佐勤王党の北添佶磨、望月亀弥太が池田屋事件に参加して死亡。勝海舟は日記で北添、望月を死なせた新選組に憤る。土佐藩士・安岡金馬が長州軍として禁門の変に参加していたことも発覚したことで疑惑は増していった

*24 大久保一蔵(利通)が様々な理由をつけて出兵を拒否したので幕府が気付く由がない。

*25 上野・大慈院に隠棲。宗家当主の座を田安家出身の家達に譲っていた

*26 フランスは本国の外相が英仏協調派に代わり、徳川家に入れ込んでいるのは出先のロッシュ公使やフランス軍事顧問団のみである。軍事顧問団も失敗して帰国したら無能の烙印を押され、キャリアに傷が付く。彼らも必死ではある。

*27 若年寄(合議制)>、取扱(海舟)>陸軍総裁&海軍総裁&会計総裁>etc……

*28 同時期に会津武士、桑名の徹底抗戦派、幕府陸軍の一部も江戸を出ている。

*29 永倉新八の「新撰組顛末記」のせいで新選組の甲州派遣は海舟によるものとされ、近藤勇を題材とする作品では海舟が悪役として描かれがちであるが、海舟からすれば「大事の前の小事」。海舟は「知らない」と断言しているし、大久保一翁は越前藩の人間に「新選組を派遣したのはをオレ」と話しているし、近藤勇も甲州派遣は大久保一翁からと谷干城に答えている。

*30 慶喜は静岡で謹慎することになったが徳川家の存続を許された

*31 福沢は事前に勝と榎本武揚に文章を見せて、批評された後、木村芥舟と栗本鋤雲に見せて10年間封印した。その後、この文章が漏洩していまい、公開された。福沢は勝に経営難時代の慶応義塾を助けてくれた借りと、佐久間象山の子供を勝から預かって慶応義塾で面倒を見たことがある。榎本の助命嘆願に福沢も協力し(福沢と榎本の奥さんの実家が血縁関係にある。)、獄中の榎本から石鹸作りの本を送ってくれと送ると、榎本から本のレベルが低いと酷評された。そのことを福沢が根に持っていたという説はある。