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小話「北の穂先族」

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第6章・『北の穂先族』

6-2 小話「北の穂先族(仮)」

 この山脈を支配する絶え間なき吹雪は、かつて古の詩人たちによって『原始の巨人の怒号の如き』と形容されたという。この地に適応した山の獣でさえ、本格的な冬の到来にいたっては、ただ身を丸くして塒(ねぐら)に潜む以外にない。
 しかし今、この雪原に、三つの騎影があった。これより強い風、あるいはふとしたきっかけで起こりうる雪崩によって、彼らの姿は素早く白銀の中にかき消され塗り込められるだろう。
 それでも彼らは、ただひたすら、吹き付ける突風に対して真っ向から頭を入れていく。乗り手もその下の獣も、装備のゆえかあるいは肉体のゆえか、いずれにせよ丸々としていた。
 獣は、熊羊という。名のとおり巨大な体躯に豊かな体毛をまとわりつかせた北部独特の生物である。その小山ほどの背には、朴訥としているが緻密に組まれた鞍がしつらえてあり、その上に騎手がはりつくように手綱を繰っていた。
 熊羊の全長は馬ほど、幅はその倍はある。分厚い体毛に埋もれると、角度によっては乗り手がいるかどうかもわからなくなることすらある。
 普段は温和な瞳が、しかし今は、体躯に見合う威圧感と獰猛さをもって、乗り手を先へと導いていく。
 乗り手たちは、必ずしも己の意思によってこの雪中行を行っているのではなかった。
 その日の朝、熊羊たちが鳴いた。それが、彼らが今この吹雪の中を進む理由である。
 熊羊は戦のとき以外けっして鳴かない。しかしその日に限って、部族の飼っているすべての熊羊が同じ方角を見据え、同じ調子でめいめいに鳴いていた。特に気性の荒いものは、放っておけば柵を破ってでも駆け出しそうな勢いである。
 辺境の多くの部族の例に漏れず、この部族にもことの吉祥を占う者がいた。この老婆の言に従うなら、これは熊羊たちが〈おおいなる波〉を感じたがゆえの畏怖の叫びであり、またそれと戦わんとする雄叫びということであった。
「駆けさせるのだな」
 枠つきの板に敷いた土に複雑な文様を描きながら、占い師の老婆は言った。凍土に住まう者どもにとって貴重な"白い土"は、彼女たちの大事な"商売道具"でもある。
「いずれその〈波〉はわれらの元にも来よう。そうなる前に、あの子らはお前たちに〈波〉のすがたを知らせようとしておるのやもしれん──もっとも、すでに“それ”と戦おうという気なのかもしれぬがの」
 そこで、熊羊の中で最も力強く勇敢な三頭の綱を解き、気のままに駆けさせることになった。乗り手は構成員すべてが戦士とされるこの部族の中でも指折りの猛者ばかりである。乗り手を選ぶ性質のあるこの従順かつ獰猛な生き物に認められるということは、それだけ善き戦士であるということの証でもある。
 この部族──"北の穂先族"は元来永久凍土の上に生活の居を持つ者たちである。生活の糧はほぼ熊羊に頼る。毛皮から血の一滴まですべて使う。その熊羊は凍土の上に生えるある種の苔を食すが、一つの地域では限りがある。自然、彼らは遊牧民族である。
 彼らはまた、他の部族との生存領域を巡る争いの中で研磨されてきた戦闘民族でもある。北限で彼らに適う者はいない。いかに槍投げが上手かろうと、弓使いが巧みであろうとも、熊羊と戦士の人羊一体の突進を防ぐことは極めて困難である。
 その恐るべき戦士たちが、いまは股の下の家畜に、ただ従っている。
(何かが起きている──しかし、いったい何が?)
その疑問だけが騎手たちの思考を支配していた。
 そろそろ森林地帯に入る。彼らにとっては異人である法王庁の地図を見れば、この広大な森林地帯には"ミルズ大森林"という名称がついていることを知るであろう。
 しかし彼らは、ただ"森"と呼んでいる。それで十分なのである。

「父上!」
 左翼に位置する騎手が、中央の騎手に呼びかけた。若い声だった。
 ヤタカの草の実の汁で重ね染めすることで得られる鮮やかな紺の皮鎧を纏い、その中に熊羊の毛を詰め込んだ耐寒服を着込んでいる。腰周りの皮袋から意匠を凝らした短剣の柄が出っ張り、がっちりと収められていた。
「ゲッフエイレの足が!」
弱まってきました、と言いたいがそこまで続かない。怒涛の吹雪の中、ほぼ絶叫である。
 ゲッフエイレは彼の熊羊の名であり、彼らの古い言葉で"強き角"という意味がある。名づけたのは彼自身である。相手の表情を見るために上げたフードの中から、黒髪の青年の顔がのぞく。鷲鼻のはじまりから下唇の下まで刺青がある。
「引き返すか」
 中央の、父上と呼ばれた男が返答した。こちらは語尾もかき消されぬ堂々とした声である。
 この男の熊羊は他より一回りは大きいが、乗り手もそれに負けない巨躯である。赤と白の複雑な文様に染め上げた皮布を羽織り、染めた麻糸を織りこんだ草紐で首周りや腰周りを縛っている。その中に同系だが鮮やかさを抑えた皮鎧、その下に防寒服である。フードに隠れて顔は見えない。
「許さんぞ」
 右翼の騎手が声をあげた。声は中央の男にではなく、左翼に向かってのものだった。
 こちらはフードから金色の頭髪が漏れている。やはり若い。装備は彼が呼んだ男とほぼ同じだが、左腕に二つ折りの可動弓を取り付け、布で厳重に巻いてある。背には密封した矢筒がくくりつけてあった。
 男は続けた。
「ここで退けば我が一族の恥と知れ、ブラン! そうですね、父上」
 父の言葉を待たず、ブランは相手に負けじと吼えた。
「承知も承知だ!退くものか!」
「ならば!」「だが、」ブランは相手のことばを遮ったものの、声の調子は暗くなっていた。「ゲッフエイレは別だ。帰りも考えれば無理はさせられん」
 父が問う。
「では、どうする」
 一瞬の間があり、ブランは応えた。
「ここに留め、俺が歩く」
 笑い声──相手が笑ったのだった。この目を開けることもままならぬ、吹雪の中である。
「"雌鹿の足"を使うのか! 保たんぞ」
「このときでなくていつ使う!」
「あれは疲れる上に遅い。やめておけ」
 長い自然との闘いの歴史の中で、彼らは獣たちの能力の幾つかを模倣することができるようになっていた。筋肉のひとすじひとすじを精密に操作するこれらの能力は、しかしながら、当然肉体に莫大な負担をかける。アスガルド鉄道が開通したいまでは、彼らの部族以外で使う者は少ない。
 ブランは負けじと嘲りの笑い声をあげた。
「お前のラギーよりは早かろうさ! イオラット、お前こそ己が肉体の貧しさを悟れ。真の狩人は、お前の弓の腕に加えて獣と素手で戦える肉体を持つものだ」
 イオラットという名のこの右翼の騎手は、そこではじめて吼えるように声を出した。ラギーはその熊羊の名である。嘶(いなな)く雷を意味する。
「なんだと。我が従僕を侮辱するは、それに加護を与え給う雷神リウヌを侮辱するということだぞ!」
「そこでリウヌ神の名を出したところで、この場はもはや氷狼トーオの領域だ!どんな祈りが通じるものかよ」
 吹雪はやむ気配はない。まさに彼らの伝承に伝わる氷狼トーオが、八万の精霊に一声怒喝し、すべての静寂を恐怖と狂気に置き換えたかのごとき情景である。
「ゲッフエイレを寄せよ」
 中央の男──二人の父が言った。その言葉でブランの激昂は目に見えて引き、左翼の熊羊は中央のそれとぴったり寄せ合うように並んで走り出した。
「トーオ神が恐れるはただ我らが触れることなき大地の神のみだ。しかしそれは必ずどこかにいるのだ」男はそこでことばを切った。ブランが、そしてイオラットが彼を見上げると、彼は二人の目をフードごしに見つめた後、「私も、それをいつも感じている。始祖オイマイレが"大氷河"を渡るときにいつでもそれを感じていたように」と言った。
 男は左手を伸ばし、ブランの上背に触れた。父親の大きな手のひらの感触。
(あたたかい── この分厚い毛皮越しに?)
 ブランが疑問を感じたとき、ゲッフエイレが小さくいなないた。
 直後、その挙動に変化が起きた。目に見えて歩みに力強さが戻ってきた。
「だ、大丈夫なのかお前‥‥」
「弱まっていたのは熊羊ではない。お前だ」
「俺、が?」
 ふと、背筋を伸ばす。軽い。さきほどまで凍り付いていたも同然の四肢が動く。全身で叫ばずとも声が通る。
 父はことばを続けた。
「我らが頼むは実にやさしき獣だ──乗り手を一度信頼したならば、どこまでも乗り手に従うのだ。己が主の疲労を案じずに行軍を続けるような真似ができようはずがない」
「父上」イオラットがたずねる。「いまのが──触れざる大地の神の?」
 彼らはいく度か見ている。彼らの偉大なる父が、常ならぬ者どもと心を通わせ、その力を貸し与えられる姿を。
 姿勢を戻した父は、ただ前を見た。
「本当のところは──触れざるがゆえに、私にもわからぬ」
 しかし、彼にも思うことがあった。触れざる神、それが熊羊たちを動かしているのではないか。始祖オイマイレが触れざる神を知ったのは、熊羊たちと生を共にすることを決意してからという。この神を知ったがゆえに北の穂先族は繁栄したのだと、彼らの祈祷師は伝えている。
 彼らは知らないが、法王庁の人々──特に知恵ある錬金術師や神蹟記録官たちはその神の名を、運命と呼ぶ。彼らにとっての神は運命をも作り給いし存在であるから、運命それ自体を神の座に並べることは彼らが許さなかったのである。
 ともあれ、彼らは導かれていた。
 これから起こる惨劇の傍観者として、そしてその後の物語の、運命の糸の一つとして──

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