来歴
幼少期
東大卒業後、
農林省に入省。畜産局配属後、乳製品や食肉鶏卵の国内流通を専門とし、畜産行政に長く携わることになる。特に、東海地区の畜産行政に携わり、
静岡県庁時代には、地域振興や第1次産業の独立を目指し、農家経営的な独立をサポートした。1979年4月から、前年12月に
浜松市市長に初当選したばかりの
神原豊(後の
参議院議員・
静岡県知事)から、「農村地域の経営的独立」を求められて副市長に就任。任期の3年を経て、
農林省へ帰任。農村経営の中でも、農地の改良を担当。本省の課長職ののち、地元九州での地方勤務を長らく経験。
宮崎県庁への出向を経て、最終的に
政策立案統括審議官として本省へ復帰。1993年7月、経営局長に就任。
政界進出
1995年3月、49歳で
農林省を退官。政界への転身を考える中、
神原豊(
参議院議員)の知遇を受けて
社会党へ入党。神原事務所の政策サポーター、社会党
政策調査局のメンバーとして活動。同年12月には、地元の
宮崎県選出
参議院議員がいないことなどから選挙区調整を受け、
参議院南洲選挙区の公認候補者としてリスト入り。社会党宮崎県連合の推薦などを受けて、「社会党参議院南洲選挙区支部第4支部長」に就任。次期参院選での出馬が決定した。
農林省退官後の1995年4月から1年間
天神都市大学客員教授を務める。
第35回衆議院総選挙(2009年5月10日)で4選目。社会党・
共立党で衆院過半数を確保。党内では、常任幹事会において首班候補の一本化に関する議論が行われることになる。規定上、衆院選後、10日以内に首班候補を指名する必要があった。紛糾する議論の中で、党規に基づき
委員長以外の人物から首班候補を指名する必要があった。結局、「社会党政権構想会議」の閣僚名簿を踏襲することを条件に、影の官房長官の地位にあった日吉が首班候補となる。
第44回
臨時会において、
第35回衆議院総選挙の結果、198議席を獲得した
社会党の首班候補として、第62代
内閣総理大臣に指名された。5月20日に
天皇陛下のもとで
親任式が行われた。初の
宮崎県出身の内閣総理大臣となった。閣僚名簿は、
社会党から示された「社会党政権構想会議」に準拠した。5月30日の閣議で内閣の基本方針として社会党が長年掲げてきた「新しい人間中心型経済」を内閣の基本方針に定めた。
社会党
幹事長時代のメインの仕事は、
第22回参議院通常選挙だった。この選挙では、獲得64議席を果たし、社会党結党以来の大勝利に貢献した。選挙区調整では、立候補73名を発表。地方での政治経験を持つ若手を擁立したことで、多くの人材を発掘することとなった。
政治資金問題の発覚
2011年12月、
週刊あさひ日系が「
共生会政治資金不正受領事件」を発表。この事件には、
吉川翔平(
内閣総理大臣)の談合疑惑と
黒木陽子(元
市民社会担当相)が深く関与していることが挙げられた。この報道を受けて、日吉は、「党内監査委員会」の設置を発表。十分に審議するとした。
結果的に、吉川総理は、2012年の
通常会において野党からの集中砲火を浴び、退陣を表明。
黒木陽子も、「市民連携NPO法人の設立認可を許可する見返りを受け取っていた」ことを認め議員辞職。日吉は、自身の内閣においてこのような事実があったことを猛省するとして幹事長を辞職。
幹事長辞任
「自責の念に駆られた」という言葉を残して、
幹事長を辞職。幹事長辞職後、総理経験者の立場から地方を視察。地域振興や地方創生の原点を探ることになる。新総理の
篠原颯人は、無派閥中立・自由解放という
社会党内部では非常に珍しい「中道右派」の論客だった。篠原は、日吉の衆院当選同期だった。篠原新首相は、日吉に入閣を打診していたが、「地方の情勢を学ぶべきだ」という持論の下、固辞する。
入閣
不祥事
2013年11月、「
被災地再建資金流用事件」が
市民報道ネットワークの報道によって明らかになる。この事件は、被災地復興を名目とした
復興まちづくり交付金が、架空計上されている可能性を指摘したものだった。篠原総理の元
政策秘書である
天野和人と同人が執行役員を務める
新日本環境都市機構は、都市計画コンサル業者として、復興交付金事業計7件を受注し170億円規模の再委託事業を仕切っていたことが発覚。収益の一部が、
篠原颯人総理が代表を務める政治資金団体へ流入していた可能性が指摘された。
元秘書という点から関与を否定していた篠原首相であったが、12月には会食の写真などが週刊誌などで報じられ内閣支持率も急落。翌年の
通常会では、野党からの批判にさらされることになった。
内閣総理大臣(2期目)
2014年の
通常会終幕後、
篠原颯人総理は、自身の健康問題を理由に退陣を表明。閣内に次期総理候補を求め、
社会党での投票を経て、日吉が次期首班候補として指名される。3月27日、
衆議院において首班候補者として指名され、翌28日に
第2次日吉内閣を組閣。目の前に迫っていた
第23回参議院通常選挙に向けた選挙対策に注目が集まった。内閣発足当初から、支持率の急落を防ぐために党幹部や現役閣僚を全国に積極的に派遣。
亡国の王
2014年12月の地方統一選挙では、メディア各社の世論調査に反して、擁立した43県知事中29名が勝利。選挙で進退を決すると考えていた
社会党内部でも安心感が一気に広がることになる。このまま、翌2015年の
通常会では、「
1億総活躍社会促進基本法」を与野党協議の末衆参両院で可決。与野党一致法案の成立などで、通常低迷の一途をたどる内閣支持率はわずかながらの上昇の兆しを見せていた。
大敗
通常会で争点となった「基本増税方針」を巡り、反対を明確に主張する
自由党は、震災関連予算の成立で恩のある
社会党に対して衆院解散を迫る。日吉は、首相としての意見よりも党としての意見を尊重するとして、判断を
中村直子(
党委員長)に委ねることを決定。党内の一部から「責任逃れ」という批判が巻き起こるも最終的に、党による解散という判断を承認することになる。
2015年8月2日、投開票を迎えた
衆議院総選挙は、社会党が過半数を割り込んで下野濃厚となった。総選挙後の
臨時会において、再び社会党の首班候補者となるも第一党を獲得した
自由党に政権を譲った。総選挙後の8月31日、
全国社会党大集会を開催。「社会党反省会」を題して、次の与党を狙う
社会党を目指すこととした。
社会党再生の第一人者として、
中村直子(
党委員長)の続投を強硬に主張。自身は、反対されれば「
共存の会」を中心に離党することも視野に入れると主張した。当時、所属国会議員の3割に及ぶ49名の離党に警戒感を示した党の長老から引き留めを受け離党を踏みとどまる。結果的に、火中の栗とされ避けられていた
幹事長に再任。社会党政権中の選挙戦略について、再検討の余地があるとして「
社会党選挙戦略検討会議」を幹事長の直属として設置した。新人議員や若手・女性議員を中心に登用した。
党の長老
第24回参議院通常選挙(2017年6月11日)において、改選58議席を割り込む37議席まで議席を落とす。参院選での大敗の責任を受け、幹事長を辞職。社会党の再建を若い世代に増させるべきだという意見が出てきたことから、当選3回の
有熊平蔵が後任の幹事長に就任。自身は、社会党顧問の役職に収まり権力の第一線から退く一方、地方選挙などの応援依頼が殺到。
第19回地方統一選挙(2018年12月)で社会党の擁立した候補がある程度の成績を残す中、
中村直子委員長のお膝元である、
富山県知事選挙で社会党候補が落選。中村委員長は、自らの年齢不安説などから辞任の道を選ぶこととなった。新委員長に就任したのは、議員辞職後も党の長老としての地位にある
吉川翔平(元首相)らがバックアップをしていた
遠藤慎太郎(党
団体運動本部長)であった。党顧問の地位にあったものの、
宮崎3区で後任候補があれば、すぐに政界引退をする意向すら示していた。2019年1月、元秘書で全国最年少市長の
斐川壮介(
延岡市市長)が後任候補として立候補の意向を示したことから、次期
衆議院総選挙への立候補を辞退。
社会党本部の公認決定よりも早くに、「社会党衆議院宮崎3区支部長」を辞職した。
通常会終幕直後の2019年4月に、正式に斐川が新3区支部長に就任。支部長就任に伴って、市長を辞職した。この後任を選択する
延岡市市長選挙には、日吉の孫にあたる
日吉隆一(
宮崎県庁職員)が無所属で立候補、当選を果たす。
再選
落選議員の会
2021年8月の
第39回衆議院総選挙で
社会党が再び下野すると、落選議員らからなる「社会党落選議員の会」に顧問として招かれ、社会党に対する施策提言などを行う立場になる。一方、社会党の造反組に多くの
共同の会元メンバーがいたことに対して陳謝するとともに、政界への復帰を宣言する。2022年5月「社会党参議院南洲選挙区支部第4支部長」に就任。
2023年6月11日の第25回参議院通常選挙で、
新党日本の候補者1名を落選に追い込むなど活躍し、
南洲選挙区からトップ当選で国会に復帰。当選後、
社会党最高顧問に就任。
同年10月に衆議院が解散すると、衆院への鞍替えを行うために当選早々の
参議院議員を辞職。党内外や世論からの批判があったものの、社会党空白区になってしまった
宮崎3区の支部長に転向。参議院の繰り上げ当選で
社会党所属議員が半年遅れで当選した。衆院選では、
小選挙区単独立候補となった。選挙戦は、かつて自身が後継に指名した現職の
斐川壮介(
社会党、
新党日本を経て
日本民主党)が選挙区で対立候補として立候補。師弟対決、泥棒選挙と言われるほど選挙区の世論を二分にした。最終的に、
ゼロ打ちが当たり前とされていた日吉の選挙では珍しく、夜10時を回って日吉に軍配が上がった。2000票差の決着となり、
斐川壮介は、
惜敗率で
九州西南比例区において重複立候補者中のトップ比例復活を果たす。
衆院選後、元首相としては異例であったが、
衆議院経済財政委員会委員長に就任。党の役職は、かわらず最高顧問であった。
2026年8月、81歳の政界最高齢候補として、
衆議院総選挙に小選挙区で単独立候補。前回の選挙と打って変わって、終始優勢という情勢により、
宮崎3区において衆院8選目(参院を加えると10選目)を果たす。対抗馬の
斐川壮介も比例復活を果たすが順位は大きく下がった。当選後、
衆議院地方創生総合戦略調査会会長に就任。
2028年6月、日本初の女性総理として
神庭美紀子総理が誕生。就任直後、与党の
日本民主党を中心に内閣支持率上昇を契機とした解散案が噴出。その勢いの乗った与党を中心に解散風が流れたため、自身も選挙区入り。第42回衆議院総選挙(2028年10月)でも、地元
宮崎3区から出馬。
斐川壮介が2連続比例復活のため、支部長一時解任という事態に陥るなど日本民主党の選挙戦略に大きな影響を及ぼすことになる。日吉は、小選挙区単独立候補になり、衆院9選目という盤石な選挙基盤をフルに生かすことになる。
2030年10月に体調不安説が流れて以来、長い間病床に臥したままとなっていたが、
通常会にも出席できない状況で、
社会党内部からは、世代交代論が出ていた。そのような中、2031年4月に
衆議院議長、
衆議院事務局に対して議員辞職を表明。議員辞職後、
社会党を離党した。議員辞職から1か月ほどで急逝。
お別れの会には、
篠原颯人(元首相)や
神庭美紀子(首相)をはじめとする与野党の盟友が参列した。
経歴
1968年3月_
東京大学農学部農学科・卒業
1968年4月_
農林省入省(
行政科採用)
1968年4月_
畜産局乳製品課
1969年10月_畜産局食肉鶏卵課
1970年4月_畜産局食肉鶏卵課主務
1973年10月_
東海農政局生産部畜産課長
1975年4月_
静岡県庁へ出向
1975年4月_農林局畜産課長
1976年7月_(併任)産業総局食農推進室長
1977年4月_産業総局地域営業課長
1979年4月_
浜松市副市長
1982年4月_農林省へ帰任
1982年4月_
経営局土地改良課課長補佐
1983年10月_経営局土地改良課長
1986年4月_
九州西南農政局延岡事務所長
1987年10月_九州西南農政局地域部長
1989年4月_
宮崎県庁へ出向
1989年4月_生産局長
1990年4月_農林省へ帰任
1990年4月_九州西南農政局長
1992年4月_
大臣官房政策立案統括審議官
1993年7月_経営局長
1995年3月_退官
選挙結果
親類
最終更新:2025年07月09日 15:33