#214
/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 3/11 17:28 (155)
タントラ・デュパ正師成就 1
★内容
オウム真理教に巡り合って三年目、クンダリニー・ヨーガの成就を果たしたタン
トラデュパ正師。霊的ステージが高く、瞑想体験豊富な正師に、どのようにして現
世の生活よりも修行の道を選び、クンダリニー・ヨーガの成就へ至ったのか語って
もらった。
解脱・悟り――この本を手に取っていらっしゃるあなたの心に、この言葉はどの
ように響くでしょうか。自分とは関係のない遠い世界のことと感じるか、それとも、
自分の中にそれを求める求道心のようなものを認めるか――。
わたしは、クンダリニー・ヨーガの成就によって解脱・悟りを得ました。八九年
十月末にオウム真理教に出家してから二年と四カ月目、オウム真理教、麻原尊師を
知ってから三年目のことです。
あれから二年――まだ二年しか経っていないのか! というのが今の正直な感想
す。オウム真理教と出会い、オウム真理教の中で生きるようになってから、外的に
も心の内面においてもあまりにも多くの出来事がありました。そして、そのどれも
が刺激的というのか、想像を絶しているというのか、とにかく良いことも悪いこと
も含めて、普通ではとても経験できないことが起こるのです。普通の人が何十年も
かかって経験することを、わずか二年で経験し、学び、考えたような気がします。
そして、その延長上にオウム真理教の極厳の修行があり、解脱・悟りがあったので
す――。
と、このように書くと、常に真理に対する、修行に対する確信があったように思
われるかもしれません。ところが、わたしは、つい二カ月前まで、
「いつ現世に戻ってもいい、現世なら現世なりに、わたしはうまくやっていけるん
だから。」
などと、不遜なことを考えて出家生活を送っていたのです。何ということを考えて
いたのだろうかと、今ではそのときの自分の愚かさに恐怖さえ覚えますが、わたし
の生き方、真理との出会いを振り返れば、二年でよくここまでに変わったと考える
方がいいのかもしれません――。
現世でのわたしは、全く宗教とは縁のない生活をしていました。編集者という職
業柄、様々な分野の大変多くの本を読みましたが、神秘世界・精神世界・宗教とい
った分野の本だけは読んだことがありませんでした。児童文学、マンガ、フェミニ
ズム、そしてこよなく愛していたのが映画でした。
大学を卒業してから勤めていた出版社を辞めて、フリーの編集の仕事をしながら、
子供の本や映画について研究し、それについて書く。近い将来は文筆業だけで生活
できることを目標にして、すごく自由というか、気ままな生活をしていました。や
りたいことがたくさんありましたから、最低生活していけるだけの収入を編集の仕
事で得て、あとの時間はすべて好きなことに費やしていました。出家する直前は、
十日間は食べるための仕事をして、二十日間は創作をしたり研究したりするという
恵まれた生活を送っていました。
わたしには三つ違いの兄がいるのですが、同じ東京に住んでいながらほとんど付
き合いはありませんでした。仲が悪いというのではなく、お互いが自分の生活をし
ていて、あまり共通項がないので、付き合いもないという感じでした。
その兄が、ある日電話をかけてきて珍しく長々と話し込むようになり、おかしな
ことを言い出したのです。
「水を四リットル飲んで吐いてみろ。気持ちいいぞ。」
そして数日後、段ボール箱にいっぱいのオウムの本がドーンと送られてきたので
す。これがわたしが麻原尊師とオウム真理教に出会った最初でした。
送られてきた本を見て、内心「困ったな」と思いました。わたしは、それまで自
分を信じて生きてきましたから、それ以外のものを信じるのは難しいし、今まで宗
教というものに縁はなく、これからもないだろうと考えていたからです。
ただ兄があまりに熱心に勧めるので、浄化法というヨーガの行法は一度やってみ
ることにしよう、一度やれば彼も納得するだろうと思って、ばかばかしいことと思
いつつやってみたのです。
すると、すぐに印象的な出来事が起こりました。
それは、水を呑んで吐くという行法をすました直後でした。水がうまく出せず、
思いがけず時間がかかり疲れてしまったので、横になって少しウトウトとなりかけ
たときのことです。
玄関のドアをコンコンと叩く音がしたので、ハッと気づいて起き上がり、玄関へ
行き、だれかなと思ってドアを開けました。
するとどうでしょう、そこにはパーッと一面輝く白銀の別世界が広がっているの
です。そして、やはり銀色に輝く身体を持った二人の子供――クリッと大きく見開
いた明るい瞳が愛らしい兄妹らしい子供――がにっこり笑って戸口に立っているの
です。
わたしは、ぎょっとして息を呑みました。二人の子供は、うれしそうに「やっと
来たね」と、普通の言葉ではなく、わたしの心にダイレクトに響く“言葉”をぶつ
けてきました。二人の顔をまじまじと見ながら、わたしは、今、見てはいけないも
のを見ていると思い、目の前の美しい世界を否定するように、目をぎゅっとつむり
パタンとドアを閉めてしまいました。
「これは夢に違いない。そう、夢なんだから早く寝てしまおう」と、先ほど横にな
っていた所へ戻りました。すると、そこにはわたしの肉体がちゃんと横になってい
ました……。
そんな不思議な体験をしましたし、兄に言われて瞑想の真似事をすれば、色々な
色や光が見え、それまであまり見なかった夢見が良くなりました。
「すごいな、おまえはやっぱり過去世で修行者だったんだよ。」
わたしの体験を聞くと、兄は自分のことのように喜び、輪廻転生も信じていない
わたしには、理解の及ばないことを言いました。
そのころ、既に熱心に修行をしていた兄には何の体験もないのに、まだ修行も始
めていないわたしが、そういう体験をし始めたのです。
ただ、わたしにとって神秘的な体験というものは、あまり意味がないというか、
あまり関心もありませんでした。ところが、兄はオウム真理教の大師といわれる解
脱した方に会うことを強く勧めるのです。兄の熱心さを考えると、会うまで毎日毎
日電話がかかってきそうでしたから、一度会えば彼もあきらめるだろうと、面談の
約束をしたのです。
本当に! 会うだけで入信するつもりは全くありませんでした。
ところが、入信するつもりはないと思っている自分とは、まるで別な自分がいる
ように、その日わたしは、オウム真理教に入信するに必要な金額を、銀行からおろ
してしっかりと準備しているのです。入信するつもりもないのに!
そして、結局はオウム真理教の道場へ行ったその場で入信してしまいました。や
ってみようとか、もしかしたらこれは真理かもしれないとか思ったわけではありま
せん。わたしの意志とは関係なく、何か、もうそのラインができ上がっているとい
う感じでした。そしてあれよあれよという間に、その六カ月後、わたしは何もかも
捨てて出家までしてしまったのです。
そんなつもりはなかったのに!
「三年もてばいいよ」「あなたは絶対麻原さんを信じることができなくて帰って
くる」「現実逃避だ」――出家にあたってさまざまなアドバイスを友人からもらい
ましたが、だれもがわたしの選択について否定的でした。
情けないことは、わたしの中にも確信があったわけではないということです。
「だめでもともと、でも修行によって少しでも自分が変わるならば儲けもの。オウ
ム真理教のいうところの解脱・悟りが何なのか体験してみても損はない。失敗して
も小説のいいネタになるだろう。」
そんな気持ちで出家したのです。ですから、出家してからのわたしの課題は、と
にかく信と帰依を培うことと、仕事柄ものすごい量のデータ(これらは修行におい
ては雑念として妨げとなるのです)を入れていたので、それを凌ぐだけの真理のデ
ータを入れるということがポイントになりました。
出家後、尊師に対しても、オウムに対しても好感を持っていたにもかかわらず、
なかなか信と帰依を培えなかった理由は、わたしにとっての自己実現の場は、オウ
ム以外にあるんじゃないかという、心の迷いが常にあったからです。それはとりも
なおさず、わたしの“慢”が障害となって真理が見えなかったということなのです
が……。
「こんなに何度も聖地へ来ていて搖れる人間も珍しいよな。デュパ。」
確か尊師とご一緒した三度目のインドでのことです。サキャ神賢(釈迦牟尼)ゆ
かりの地、ギッジャクータ山で笑いながら尊師はこうおっしゃいました。
“搖れる”というのは、出家修行者が煩悩に負けて現世へ戻ろうかと考えること。
心が修行と現世の間で搖れることです。
「尊師、わたしは搖れるという言葉は嫌いです。わたしは吟味しているのです」と
答えはしましたが、実際のところ尊師のおっしゃるとおりでした。インドどころか、
わたしはカメラマンという仕事柄、チベット、ラオス、スリランカと尊師の仏教探
求の旅にご一緒することができました。これはものすごく幸運なことで、そんな機
会に尊師を身近にすればするほど、尊師という存在の偉大さがわかるのです。皆に
うらやましがられても仕方ない仕事環境にいながら、現世的な仕事の欲求――わた
しには、幼い頃から「自分は物書きになるんだ」という、どこからともなくわいて
くる思いがあって、そのエゴと現世的な成功に対する欲求を捨てきれずにいたので
す。
#215
/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 3/11 17:34 (177)
タントラ・デュパ正師成就 2
★内容
一九九一年、出家生活二年目を過ぎて、わたしは出家後最大の危機を向かえてい
ました。
修行が進んでくると、わたしたち修行者はどんどん潜在意識があらわになります。
つまり心の奥底にある煩悩が出てきて、外から見たらとても我がままに見えるので
す。これは、自己の根本的な煩悩に振り回されている状態で、自分でも止めようが
ないものなのです。わたしの場合は、ワークに対する不満が高じてきました。
「嫌です、ワークやりません。帰らせていただきます。」
文章を書くことが自分のライフ・ワークだと思っていたわたしは、編集部から写
真デザイン部に転属されたころから、ワークをボイコットし始めたのです。特に細
かいことが大嫌いなわたしは、小さなリバーサル・フィルム一枚一枚の整理という、
面倒で手間のかかる仕事ができませんでした。もちろん、そういう自分の苦手な仕
事を、こつこつ成し遂げることこそ修行なのだ、ということは頭では十分わかって
いるのです。しかし、どうしてもそれができないために、できないことを正当化す
る思いが次々とわいてくるのです。
「わたしはこんなことをするために生きているんじゃない。もっと自分の能力を活
かした仕事をするべきである。そうだ、わたしは素晴らしい児童文学者になるとい
う長年の目標があったではないか。それを忘れて出家してしまったことがそもそも
の間違いなのだ。」
という思いが募ってきて、ますます仕事ができなくなるのです。
そして忘れもしない、十二月四日、この日わたしは写真の仕事と並行して担当し
ていた編集の仕事さえも拒否して、身の回りの整理をし始めました。
「こんな信のない弟子を、何かと指導してくださった尊師には申し訳ないけど、や
っぱりわたしを活かす道は他にあるに違いない。オウムには何の不満もないし、む
しろ世の中のどこにいるより居心地がいいけど、そこに安住しないで、もう一度現
世の荒波の中で、自分の能力を開花させることに挑戦してみよう。」
尊師は、支部の説法会に出かけられていて留守でしたので、荷造りだけしておい
て、お帰りになり次第ご挨拶をして現世に戻ろうと、わたしは、今までになく強い
強い決心を固めたのです。
決心を固めると、仕事をボイコットして法友に迷惑をかけているな、という申し
訳ない気持ちが出てきました。明朝、ちょうど雑誌の取材が予定されていましたか
ら、最後に、その仕事だけはやり遂げて行こうと思いました。
十二月五日早朝、わたしはオウムでの最後の仕事だと心に決めて、取材・撮影に
出かけました。オウムの広報技術部で開発した潜水艦の潜水実験のため、伊豆の海
へ出かけたのです。
埠頭に四トントラックを乗りつけて、トラックのクレーンを使って一人乗り潜水
艦を海へ降ろしていたときのことです。技術部の人たちは、トラックの周りで作業
をしていました。わたしは、潜水艦が着水するまでにはまだ時間がかかるようでし
たから、寒さに震えているよりはと、四トントラックの運転席で暖を取っていまし
た(言葉を換えればサボッていたのですが)。
そろそろ撮影をするために表に出ようかな、と思ったちょうどそのときです。ト
ラックの周りにいた人たちの間から「ああっ」という声が聞こえたと思う間もなく、
わたしが乗っていた四トントラックは、大きく横に傾いて横転し始めました。何が
どうなったのかわかりませんでした。座席から投げ出されそうになりながら、転覆
しかけているトラックをどうにか食い止められないかと思いましたが、四トントラ
ックは、そのまま車体の右側を下にして海に墜落していったのです。
トラックの右側が海面に当たったとき、ドアのガラスが割れて、足元から海水が
渦を巻いて迫ってくるのを見ました。そのとき、水に対する恐怖がわたしを襲いま
した。情けないことに、わたしは泳げないのです。初めて“死”という言葉が脳裏
に浮かびましたが、まさかと打ち消しました。埠頭に着いたときだれかが辺りの水
深は五メートルだと言っていたのを思い出しました。五メートルの海底に沈むこと
を考えると、この状況が夢であってほしい、悪夢なら醒めてほしいと願わずにはい
られませんでした。
しかし、水没するトラックの運転席は、あっという間に、容赦なく海水で満たさ
れてしまいました。わたしは、海水でいっぱいになったトラックの運転席に、完全
に閉じ込められてしまったのです。
水、水、水、四方八方が水です。体は浮き上がろうとして、今は横だおしになっ
たトラックの天井となっている左側ドアに、ヘばりつくような格好になっています。
心の準備もなく、いきなり水中に組み伏せられたようなものですから、すぐに息が
苦しくなりました。ドアが開けられないかと手探りをしてみましたが、普段使って
いる乗用車ではなく大きなトラックでしたから、勝手もわからず、薄暗い海底では、
偶然にもドアを開けることはできませんでした。それに、もう体を動かすほどの酸
素は、体内に残っていないようでした。
あまり突然の出来事で、自分の置かれた状況がまだよく理解できないでいたわた
しですが、呼吸のできないせっぱ詰まった苦しみが、最低・最悪の状況であること
を否応なく教えてくれます。
「尊師助けてください!」
苦しさから逃れるために、わたしは思いっきり尊師を思念しました。息を止めて
いる苦しさは、もう既に限界にきていました。
「ああ、死ぬんだな……」とわたしは思いました。
それにしても、なんて惨めな死に方だろうか。いったい、わたしのどういうカル
マによって、このような死を向かえることになったのだろうか。名も知らぬ土地で、
こんな苦しみを受けて死ぬなんて――わたしは何かだまされたような思いがしまし
た。しかし、冷静にこの状況を考えると、みじめな土左衛門になって水死するしか、
わたしに残された道はなさそうです。これが“わたしの死”なのだと、嫌でも納得
せざるを得ませんでした。
「いったい、わたしは今まで何をやってきたのだろうか……。」
死ぬと覚悟が決まったとき、今までの人生を振り返っている自分がありました。
「何にも意味のあることはやってこなかったな……。」
そんな苦い思いがしました。
そのとき、締め切られた車のドアの窓越し、海水の向こうに空が見えました。き
らきらと輝く、これまでに見たこともないような、鮮やかな青い青い空でした。
「ああ、なんて綺麗な青空だろう。」
明るくけがれない空の青さが心地良く目に映ります。
鼻からどんどん海水が体内に入ってくるのがわかります。
終わりかけている生を後悔しても手遅れだから、せめて目前に迫った死を良く死
のう、とわたしは思いました。
わたしは、尊師がわたしたちに説き明かしてくださった、人の死のプロセスを思
い起こしました。もちろんその全容は知りませんが、わたしにできることは、落ち
着いて死を向かえること。そうすれば、あとはグルが正しい道を指し示してくれる
はずだと思ったのです。とにかく、肉体的にも精神的にも苦しみもがいて死ぬこと
はあまり利益にならないような気がしたので、全身の力を抜いてリラックスし、呼
吸困難の苦しみを感じているこの肉体から意識を外そうと考えました。
海水が、鼻から胃へと入ってきていることにも抵抗せず、わたしは、顔面から足
の指先まで力を抜き、意識を飛ばそうとやってみたのです――。
そして、わたしは、とても明るい光の中へ入りました。よく瞑想中に射し込んで
くる白銀光の光とは違って、黄金色の勝った光の空間でした。そして、そこは遥か
遠くにある空間という感じがしました。
そのとき、わたしの背中をぎゅっとつかむ力強い二本の腕を感じました。技術課
のスバーフ師が、わたしの体を海上へ差し上げてくれています。「大丈夫か」と落
ち着いた師の声がします。どうやらわたしは助け出されたようです。
埠頭に上がって、もう息をしてもいいかなと思って、静かに息をしてみました。
不思議なくらい呼吸が落ち着いています。海水をだいぶ飲んだはずだと思って、二、
三度せき込んでみましたが、呼吸の乱れがないのと同じように、不思議と一滴の水
も出てきませんでした。
「どうやらわたしは助かり、何とか生きているらしい」と思いました。
喜びも何もわき上がってはきませんでした。ただ静かに一人で考えたいことがあ
りました。
それは、死ぬと覚悟したとき、わたしのこれまでの人生に意味がなかったという
思いがしましたが、いったいどのようなことを成し遂げていたなら、人生これでよ
しと思えて至福の状態で死ねるのだろうか、ということでした。
「たぶん……」と、わたしは思いました。
このわたしの生を他のために生きていたならば、他の魂を少しでも本当の意味で
幸福にしていたなら、満足して死を死ぬことができたんだろうな。
漠然とそんな思いがしました――。
「どうだデュパ、やっぱり現世がいいと思うか。」
道場ヘ帰って尊師にお会いすると、開口一番に言われました。荷造りずみだった
ことはもうご存じのようです。
「はあ……、現世がどうこうというより、生きていることそのものが、もう何とな
く今までのような意味がないような気がします……。」
そして事故の顛末をお話ししました。最後に海中で意識を飛ばしたことについて
尊師は、自分でサマディに入ったんだとおっしゃいました。
なぜそんなことができたのか、わたしにはわかりませんし、もう一度やれと言わ
れてもできそうにもありません。しかし、死を目前にしても一度も“死”に対する
恐怖というものがなかったことなどは、オウム真理教の修行や仏教教義を日々修習
していたおかげだと思います。死がすべての終わりだと考える人にとって、目前に
した死はものすごい恐怖でしょうが、わたしたちは死が一つのプロセスだと知って
いますから、何も恐れるものがないのです。
「何だかんだ言っても、デュパは神々に祝福されているなあ。」
と尊師はおっしゃいました。このような形で死と対じすることができたのは、修行
者としてやはり喜ぶべきことなのでしょう。事実、この後わたしは、心においても
霊性においても大きな変化を遂げるのです。
#216
/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 3/11 17:39 (166)
タントラ・デュパ正師成就 3
★内容
事故の後、わたしの中で、何かがすっかり変わってしまったのを感じていました。
まず、周りで起こっているどんな出来事も、自分から遠いという感じがしました。
自分の周りに透明な壁が一枚できたような感じで、現実がかつてほどリアリティを
持たなくなっているのです。例えば、食事をしても何か他人が食べているような感
じで、できれば食べたくないというのが本音でした。車を運転していても、心が現
実から離れていって、いったん車を止めて、少し瞑想しなくては走り続けられなく
なったり、座って瞑想をするだけで激しいダルドリー・シッディが起こるようにな
りました。
事故から一週間ほど経ったころ、関西方面へ取材に行った帰り、わたしは、高速
を運転しながら、わたしへの知らせが何か入ったのを察知しました。
「ん? 富士で何かわたしに知らせがあるな。何だろう。良いことか、悪いことか
…。ああ、修行に入れとの連絡だろう。」
これらのことがすんなりとわかってしまうのです。そして、富士へ戻るとやはり
クンダリニー・ヨーガ成就の修行に入れとの連絡があったとのことでした。
十二月十三日、わたしは、クンダリニー・ヨーガ成就のための極厳修行に入りま
した。
オウム真理教の極厳修行は、完全に解脱・悟りを目指したものです。一般的な感
覚からすると、非常に厳しいものだと思われるかもしれません。いや、普通の生活
をしている人には、全く信じられないことでしょう。
例えば、わたしたち修行者は、二十四時間の極厳修行に入ると、睡眠は取りませ
ん。もちろんウトウトしたり、意識がふと途切れることはあっても、横になって休
むということは絶対にありません。それが一カ月も二カ月も、場合によっては一年
も続くのです。
また、わたしは、今回の修行で三十一日間食事というものを取りませんでしたが、
食事を取っている他の修行者と同じ修行を支障なくこなしています。
「今回の修行では、神通力が使えて、煩悩捨断のできている成就者を出す。」
極厳修行に当たって、尊師はこうおっしゃいました。その言葉のとおり、修行中、
わたしは多くの神秘的な体験をさせていただき、それとともに刻一刻と自分が人間
から離脱していっているという実感がありました。
解脱とは、人智の進歩です。
わたしの修行中の記録から、特にクンダリニー・ヨーガのプロセスをたどってみ
ましょう。
今日から修行に入る。尊師が選ばれた四十人の修行者が、クンダリニー・ヨーガ
の成就を目指して極厳の修行に挑戦する。幸運にも、わたしもメンバーに入ること
ができた。決まった以上全力でやろう。なぜかわたしは、普段の修行はおろそかに
するくせに、こういう極厳修行というと断然やる気になる。
場所は、第二サティアンの二階。尊師がいらっしゃる三階のすぐそばで修行でき
るなんてうれしい。恵まれた環境が与えられたことを感謝しよう。
荷物を携えて道場に来てみると、もう既にワークの引き継ぎを終えた人たちが修
行に入っていた。
正悟師から修行スケジュールについて説明を受ける。今回の二十四時間の極厳修
行は、一日四時間の経行、六時間のヴァヤヴィヤ・クンバカ・プラーナーヤーマ、
三時間の究竟の瞑想、一時間の食事時間をとって、残る十時間はひたすらツァンダ
リーの瞑想の詞章を唱えるというものだ。
午前三時半修行スタート。
午前四時の経行――手が凍えてカウンターが持てない。上九一色村の冷え込みは
厳しい。寒いときには、氷点下十九度まで下がるそうだ。水のタンクも凍っていて
使いものにならない。
朝方、尊師が来られる。とにかく、速く速くマントラを唱えること。マントラが
遅いのは自己の中に煩悩的なけがれがあるせいであり、このマントラのスピードが
成就のスピードとなるということ。
クンダリニー・ヨーガの成就の決め手について、尊師よりアドバイスがあった。
喜覚支をすること。雑念に集中せず、ひたすらなすべきことをなす。離愛著・現世
捨断をすることが大切とのこと。
この現世捨断というのは、食べること・飲むこと・眠り・怠惰などをも捨て断つ
ことを指すという。そして眠りをシャットアウトすれば、変化身の体験が起こるは
ずであるとのこと。
結局、成就って死の体験をすることなんだと思う。わたしがあの伊豆の海で経験
した死の経験――あのときはわずか四、五分の経験だったけど、あの経験を今回の
修行でもう一度、今度は時間をかけてたどることが解脱への道なんじゃないだろう
か。
もうわたしは死ぬのは恐くない。不放逸に徹して、早く修行の結果を出そう。そ
のために明日からは食事と水を抜いてみよう。そうすれば早く死の体験ができるだ
ろう。
瞑想中、座法を組むといきなり身体がフワフワ浮き上がるような感覚があり、す
ぐにこの肉体の感覚がなくなってしまう。そして、内側に、非常に微細な快感その
ものといった、別の存在が感じられる。自分がなくなってしまったのではないかと
驚いて、自分の存在を確かめるために呼吸をしてみた。
息をすーっと吸い込むと、その内なる快感の身体――微細な身体がそれに呼応し
て微妙に震える。吸い込んでいる空気の感覚も通常と違い、喉から胸にかけてトロ
トロと何か濃いハチミツのような液体が流れ込んでくる感じがする。この瞑想状態
は、全体として今まで経験したことのないもので、自分が微細な快感そのものにな
ったという感じ。この肉体で経験するものとは明らかに異質であり、はるかに微細
な快感としか表現できない。
尊師にお伺いすると、第二静慮であるとのこと。そして、「あと一週間もしない
うちに成就するぞ」とおっしゃった。そしてその後、「しかし、修行は続けなくち
ゃならない、固めなくちゃ……」と独り言のようにおっしゃった。
断水の方は、四日目で一応ストップ。喉の渇きはないから、条件が違ったらもう
しばらく続けられそうだが、唇と口の中が乾いてマントラを唱えているとき気にな
ってきた。修行の妨げになるようなら飲む方がいいと思う。
尊師にお伺いすると、水分はとりなさいということ。食の方は食べたくなるまで
このまま断食を続けよう。
瞑想中、身体がフワフワするという、内側の風がよく感じられる状態が続いてい
る。身体にエネルギーが満ちているのがわかる。
尊師は、ほとんど毎日わたしたちの様子を聞きにきてくださり、一人一人の状態
を確認し、アドバイスや励まし、質問に答えてくださる。
なんて恵まれた修行環境だろう。
今日尊師は、「アストラルに飛ばされる人は情報に弱いんだという認識をしなさ
い」とYさんにアドバイスしていた。そして、修行の経験については、そこで止め
ないで修行を進めた者が早く成就するとおっしゃった。
とにかくわたしたちが目標とすることは、二十四時間の修行メニューをどこまで
完璧にできるかということ。それ以上もそれ以下もない。
今のわたしの状態は、意識も連続しているし、瞑想状態も悪くない。特に経行修
行の効果を感じている。一日二時間の経行を二回、このとき全力でやって、足の裏
から全身にトゥモ(熱のヨーガ)を起こし、その後、究竟の瞑想に入ったとき、色
々な体験がある。
やはり尊師の組まれたプログラムは、成就するための完璧なものであるに違いな
い。問題は、わたしたちがどれだけそれを消化できるかということだけだと思う。
夜中の経行のとき、寒さに負けて少し早目に帰ってきたりすることがある。注意し
よう。
瞑想中、左上方からぱーっと明るくなった。これが二度続く。瞑想中だけでなく、
普通に詞章を唱えていても左側がすごく明るい、はじめは、わたしの知らないうち
に部屋の蛍光灯を二つ三つ付け加えたのだと思ってしまったほどだ。
瞑想中、完全に自分の内側が充足した状態を体験する。エネルギーと微細な熱と
で満ち満ちているという感じ。内側の感覚が鋭くなり、内側の風の動きがよく感じ
られる。二十日の第二静慮と言われたときは、微細な快感そのものを感じたが、今
回は快感というより喜びが大きいという感じがする。
わたしたちは、瞑想によって内側の世界を知るわけだけど、この体験は、自分の
内側には自分の知らない自分があるのだと教えてくれるものだ。わたしが自分だと
思っているこの外側の自分以外の自分が、多層になって存在しているのではないか
と思う。わたしの中のわたしに出会う……そんな感じがする。しばらくすると聴い
たことのない音楽が上から降ってきた。
午後の瞑想中のこと、電話回線を通したような感じで人の話し声が聞こえる。ど
こでだれが話しているかもわかる。内容はサマナの他愛ない噂話。そのうちに音楽
が降ってくるように聞こえてきて、気がつくと究竟の時間が終わっていた。
このような人の話し声が聞こえる体験について、幻聴と天耳通との区別を尊師に
お伺いすると、天耳通の場合やはり音楽を伴うとのこと。神々の声が聞こえたり、
神々と自由に話ができるようになると完全な天耳通だという。まだまだ修行の先は
長い。
#217
/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 3/11 17:46 (196)
タントラ・デュパ正師成就 4
★内容
瞑想中、背中に意識を集中してエネルギーを上昇させる。するとエネルギーと共
に意識が上へ上へと上がっていき、自分の背丈の五倍くらいになる。上にいくほど
光があるようだ。右後方から光が射してきた。
ヴァヤヴィヤクンバカ・プラーナーヤーマ中、なかなかクンバカが限界まででき
なくて、こんなことをやっていてもし解脱できなかったらどうしよう、という思い
がわいてきた。これで解脱しないで、グルのいない世界へ行くことになったら……
と思うと涙が出て止まらなかった。絶対に解脱して尊師についていかなくてはなら
ない、と強く思う。
現世での長い生活を振り返る。よくもまあ、グルなしの世界にいたものだ。
二日ほど前、強い光が右側から射し込んできた。それが二度起こる。それからと
いうもの瞑想空間がただただ明るい。瞑想していない普段の状態でも辺りが明るい
のだが、今日になって、明るいなという感じと、ふっと暗いなあという感じの二つ
がある。
道場に来られた尊師が、「おや、デュパが無明に……」と指摘されたので、明る
さと暗さが見えることをお話すると、「その暗さが無明なんだよ」とおっしゃる。
「ああそうなのか、この無明がわたしたちが迷妄に陥る原因なんだな」と納得。
瞑想中、瞑想状態に入ったと思ったら一時間が終わってしまった。眠ってしまっ
たとは思えない。尊師は、無所有境であるとおっしゃった。
ここまで順調に修行を進めてきたと思う。ところが今日は、思いがけず大きな心
の乱れがあった。
修行をしているところへ、わたしにとってはわかりきったワーク上のことが質問
されてくる。以前二度答えたことなのに、また同じことを聞いてくるのは、わたし
の答えを信用していないせいだ。そう思うと腹が立ってくる。経行中もその感情に
とらわれて集中できない。それどころか、それに派生していろいろな悪感情が出て
くる。どうしても感情が波立ってしまう。ここまで修行を進めてきたのに、台無し
になってしまった。また最初からやり直しかと思うと、ヴァヤヴィア中、頭を抱え
て泣いてしまった。とても修行に力が入らない。
究竟の時間になったので、とにかく自分をとらえているこの感情について考察し
てみなくてはと瞑想に入った。
自己のプライド、怒りについて一つずつ考え、何とか脱却しようとする。すると、
その考えとは関係なく、今まで経験したことのないほど強烈なエネルギーが胸に昇
り立ってきた。エネルギーは胸の周囲に留まり、胸全体をぐいぐいと強く締めつけ
る。その状態がしばらく続き、次に内側に生起していた様々な感情――これは瞑想
中は視覚的には、黒い重りのようなものがぶら下がっているように見えた。これが、
エネルギーの締め付けによって、刃物でスパッと切り落としたように、一瞬より早
く、すべて落ちてしまった。
落ちてしまうと、波立っていた内側がピタリと治まり、そこには不動の自分があ
った。
尊師がいらっしゃったので、この経験についてお聞きすると、エネルギーによっ
て感情が変化するという、これはクンダリニー・ヨーガの一つの悟りの状態である
とのことだ。悟りというものは、何か漠然としたものであるかのように思っていた
が、このようにはっきりと認識できるんだな。
一九九一年も、もうおしまいだ。
世の中の人々は、忘年会だ正月だといって、付き合いや楽しみに明け暮れている
時期。わたしは、こうして極厳の修行をしている。確かに修行はつらいこともある
が、その結果得られるものは、何に代え難い。
修行によって、わたしは肉体的にも精神的にも大きく変化しているのがわかる。
そして、その変化は人間を超えていくものだから、変化というより、より高い存在
への脱皮といった方がいいだろう。
本当に、なんてわたしは恵まれているのだろうか!
わたしは、食べるために働く必要がない。世間的な付き合いということも一切必
要がない。尊師が修法された最高の食物を食べ、自己の霊性の向上と心の成熟だけ
を求めてひたすら修行できる。現世的な価値で計れば、お金も地位も名誉もないけ
れど、わたしたちは、すべてを持っているといえるだろう。
こんなに素晴らしい環境を与えてくださって、尊師、本当にありがとうございま
す。
瞑想中、いつもより強く身体が固定され、一面白っぽい光に包まれた。その数秒
後同じ体験。次には同じ光が今度は右側から押し寄せるようにやってくる。
光への没入と表現できる体験だ。
瞑想中、自分の肉体というか、外枠が突然パーンと音を立てるようにして破裂し
た。そして、内側の意識だけがふわーっと上昇する。上昇する間、視界というか、
周囲が非常にまぶしく明るい。
地下で修行していた他の二人が、捨断の瞑想を終えて二階へ戻った。
た
った一人で座っていると、心が寂静へととけ込んでいく。軽くて広い心の状態。
目を開けると、辺りがキラキラと輝いて見える。光に満ちた空間。
もう何もいらない――そんな気持ちがする。
雑念もなく、時間の流れも止まっている。
この延長に、ニルヴァーナ――゚ク槃があるとするならば、戻ってはきたくないと
思うだろうな、そんな気がする。
瞑想中、突然、強烈な光の渦巻いている空間に意識が投げ出された。
これまでの光の経験は、光が来て、光に包まれるというパターンだったが、今回
は、いきなり強い光の中に投げ出され、その光の渦に巻き込まれる。まるで、自分
が光の中にとけ込んでしまいそうで恐怖さえ感じた。光の色も、いつもは白い蛍光
灯の色だったのが、今回は、少し黄色、黄金色が混ざっていたと思うが、恐怖があ
ったため記憶に鮮明さがない。
尊師は、ラトナサンバヴァの光に没入している状態、と教えてくださった。
音楽が聞こえてきて、ヨーロッパの都市の広場の光景が広がる。以下、鮮明なス
トーリィが展開する。その中でわたしは明らかに一匹の犬だった。登場する人間は
人間として行動しているが、犬は、形状-容姿は犬で、人間がいないとき、犬同士
ときには人間の言葉を話す。ただし、わたしは自身は、犬のつもりは全くない。
瞑想中、意識がすっと上昇して肉体から抜ける。そして、抜けたところから、ま
たすーっと横へ抜けていく。すると次に明るい世界が見えてきて、二人の男が旅を
している場面。一人の男は、わたしだとわかる。何者かを追いかけているのだが、
詳しいことはわからない。
普通に修行している状態でも、視界が透明光で明るくなる。
瞑想中、空間が暗くてよく見えないなと思うと、わたしのアージュニァー・チァ
クラから、ピカーッと光が発射されて、辺りを照らし出したのには驚いた。
今日、一カ月と一日ぶりに食事をする。
三、四日前から食欲が生起しているのがわかって、食事をとった方がいいか、尊
師におうかがいすると、
「断食するための修行をしているわけではないから、だいたい一カ月が限度だよ、
欲しくなったらとりなさい。」
ということなので、食事をした。
一月五日に信徒さんが修行に入っていて、毎日、イニシエーションがあり、わた
しもそれを受けていたので、その期間は完全な断食ではない。しかし、それにして
も修行の力というのはすごいなと思う。ヨーガ行者の中には、何年間も食べない人
がいるという、かつては本当かなと疑っていたが、今ではそれを信じることができ
る。
人間は、食べなくても生きていけるのである。
これは、すごいことだ!
クンダリニー・ヨーガの霊的プロセスは、順調に進んでいました。ところが、こ
の修行中、出家修行者としての規定である六百時間の立位礼拝と、教学の十課まで
を終えるようにとの指示があったのです。わたしは、礼拝は、規定時間にあと二百
五十時間足りず、教学は六課までしか終わっていませんでした。これを終えるのに、
少なく見積っても二十日はかかります。
「みんなに遅れをとる。」
と思いました。このとき、わたしは修行進度では三番目にいました。それまでは、
気がつきませんでしたが、やはり成就の順番を争う気持ちがあったのでしょう。
「それだけ長く修行させてもらえることを感謝しよう。」
こう気持ちを切り替えて、その日から礼拝に入りました。
この立位礼拝は、完璧な行法であるだけに、とても厳しい行です。大きな声を出
す、すばやく五体を投地する、これを一日二十時間続けることは、本当に自分のエ
ゴとの闘いです。約十四日間の礼拝は、わたしにとって、やはりつらいものでした。
「空っぽの自分が欲しい。淡々と礼拝できる無私の自分が欲しい。」
何度もそう思いました。修行のつらさにやめようかと思ったこともありました。
ただ、修行をしていると、ほんの一瞬ですが、グルの世界、グルの持っている光に
ふれることがあるのです。そんなときは、心から敬けんな気持ちがこみ上げてきて、
過去の自己の悪業や、帰依のなさを、心から悔いる気持ちがわいてきます。
しかし、心というものは弱いもので、またすぐに目の前の苦しみから逃れようとす
る。わたしの十四日間の礼拝は、この繰り返しでした。
しかし、この間、地獄の世界を見るという、貴重な体験もしました。
瞑想に入ると、細かい黒い網点のようなものが見える。その網点の向こうに、何
かヴィジョンが見えるので、網をくぐって見ると、それは地獄の世界だった。
そこは、意外と明るいというか、地獄の住人の赤くただれた肌とかが細部までよ
く見えて、色も鮮明なために“明るい”と感じたのかもしれない。
今回は、地獄の世界の中には入らず、終始、上空から見ていた。
苦しみだけの世界――という表現があるが、本当にそのとおりだ。苦しみと痛み
の叫び、地獄の責め苦だけが、赤裸々に続いている世界。一般にいう地獄絵そのま
まの光景が広がっている。お寺で見る地獄絵は、長年そこに掛けられているせいか、
すすけたりして薄暗い印象があったけれど、現実の地獄はもっと鮮明だった。おそ
らく、苦しみも痛みも鮮明なことだろう。
わたしが見たのは、いろいろな形の責め苦を行なっている地獄だったが、それを
上空で見ていて感じるのは、その世界の何とも表現できない臭いだ。生臭いという
表現も違う――ちょっと表現できない臭いがしたが、これまで他の人の地獄を見た
体験で、この臭いにふれたものは読んだことがないので、わたしの体験が本当のも
のかどうか、尊師におうかがいした。
「臭いはあります。その体験は正しい体験です。その体験には二つの意味がある。
一つは、君の修行が進んで、死生智の智慧の一つを経験しているということと、も
う一つは、君が下向した場合に行く世界だということだね。」
十四日間の立位礼拝も、あとわずかというところにきて、なぜか苦しくて礼拝で
きなくなり、もうドロップアウトしようかと弱気になっていたのを、見事、尊師に
言い当てられてしまった。
#218
/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 3/11 17:49 (105)
タントラ・デュパ正師成就 5
★内容
二カ月に及ぶ修行も、終わりに近づいている感がありました。記憶修習するべき
瞑想も、グルヨーガ、大乗のツァンダリーと終わり、クンダリニー・ヨーガの判定
基準である四つの条件――意識の連続性、光への没入、化身の体験、空中浮揚も、
順調にクリアしてきたように思いました。
ところが二月に入って、わたしは、既に切れていると思っていた食の煩悩にさい
なまれ出したのです。三十一日間の断食の後、食事の量がどんどん増えていて、止
められない状態になっていたのです。
そんなとき、アンダーグラウンド・サマディに入れという指示がありました。
一月の状態と比べたら、貪りは出ているし、意識も外側に向いているしと、コン
デションは最悪。とても四日間のサマディなど考えられない状態でした。
「どうしよう。サマディになんてとても入れる状態じゃない……。でも、わたしの
今回の修行は、もう終わりのような気がする。また次のステージを目指すために、
早くワークに戻って徳を積みたい。まあ、グルが入れとおっしゃっているのだから、
何とかなるでしょう。」
こうして、わたしは、噴出していた食の煩悩を捨断できないまま、目をつむるよ
うな思いで、四日間のアンダーグラウンド・サマディに入ることになったのです。
地下に埋められたチェンバーの中――それは不思議な空間でした。
普通の暗い部屋にいるのとどう違うのか、と問われれば全く違うと答えるでしょ
う。やはり、そこは人間が死後体験するバルドーに近いのだと思います。
例えば、自分の中に内在するデータがありますが、それがチェンバーに入ると、
時速一五〇キロの剛速球をガツンと頭にぶつけられたようなショックで、自分に迫
ってくるのです。
「煩悩は、捨断しておいた方がいいわよ。」
サクラー正悟師も、ご自分の体験を踏まえておっしゃっていましたが、わたしの
チェンバー体験もその一言に尽きました。
まず最初に、膝の痛みで蓮華座が組めなくなりました。二カ月の修行で、座法は
安定し長時間蓮華座が組めていたのに、チェンバーに入った途端に組めなくなりま
した。それでも、何とか二日目までは、崩れながらでも座っていました。ところが、
二日目になって、楽しみのヴィジョン――わたしの場合スイスイとスキーで滑走し
ている場面が出てきて、その後、ものすごい怠惰になってしまったのです。眠気は
ないのに、「とにかく横になりたい」という欲求が出てきました。
「何てことだろう! 神聖なサマディのチェンバーの中で横になって寝たいなんて
情けないのを通り越して、驚きました。なぜなら、わたしは、修行に入るとすぐ
に、眠りたくない横になりたくないというのが普通だったからです。そのわたしが、
肝心要のサマディに入って、こんな欲求が出てくるなんて!
ところが驚くのは早すぎました。
動物のカルマで怠惰になっただけではなく、あれが食べたい、これが食べたいと、
現世で修習したいろいろな食べ物とお店が次から次へと出てくるのです。それも、
一五〇キロの剛速球の例えのとおり、迫ってくるデータの威力が普通ではないので
す。それは、苦しいものがありました。
結局、チェンバーの中で、わたしは自分の三悪趣のカルマを、身に染みて証智し
たのです。今生そんなに大きな殺生があるわけではないと、自分では思っていまし
た。ゴキブリも殺さないで逃げ回っていたほどなのに、地獄のカルマに苦しみまし
た。食についても、わたしは普通の人より食べることに頓着しない方で、できれば
食べないですませたいと思うタイプだったのです。
痛みという地獄のカルマと、横になって何もしたくないという動物のカルマ、そ
して食の貪りという餓鬼のカルマ――“三悪趣”とはよくいったもので、この三つ
はセットで出てきて、抜けられない仕組みになっていることを思い知りました。つ
まり、痛みに耐えて修行しようと思っても、動物のカルマである“妥協”の心によ
ってそれができない。貪りのカルマで食べ物のビジョンが出てきたとき、捨断する
べきなのに、やはり動物のカルマによって、出てくるビジョンを楽しんでしまうと
いった具合です。これでは、カルマから脱却できないのは当然です。
「ああ、これじゃあ、知り合いはみんな三悪趣だな……。」
自分のカルマを証智することは、他のカルマも理解できるということです。チェ
ンバーの中で、自己の三悪趣のカルマと対じして思ったことは、この人間界の魂の
ほとんどが、三悪趣に落ちるだろうということです。
「もう二度と、悪いカルマを積まないぞ。」
わたしは、心に誓いました。
そして、煩悩に苦しんだ四日間のアンダー・グラウンド・サマディも、やはり一
般の人よりは酸素消費量が少なかったらしく、無事チェンバーから出ることができ
ました。その日、わたしはクンダリニー・ヨーガ成就者として、オウム真理教の正
師として認められたのです。
今、わたしが死んだら、絶対に動物に転生するという確信があります。
このように、ありのままに自分を見つめられるということは、素晴らしいことで
す。解脱によって、わたしの心は、今、大きな楽を感じています。しかし、同時に、
何ともいえない哀しみも感じています。
人間という存在そのものが、哀しいものに思えるのです。
人は、みんな幸福になりたいと思って生きています。しかし、人間界は、何一つ
確実なもののない無常の世界だから、人間である限り幸福にはなれないのです。解
脱する以外に、人間を超える以外に、わたしたちが幸福になる道はないのです。こ
の地上の生き物すべてが、その生のからくりを知りません。
なんて哀れなんだろう。
まるで、夏の夜、明りにひかれて、飛び込んだ火に身を焼かれる虫たちのような
ものです。幸福を求めて生き、幸福だと思った幻影によって、最後は身を焼かれ苦
しまなくてはならない。これがわたしたちの生そのものなのだということを、多く
の魂に気づいてほしい。そして、早く早く、本当の幸福をつかんで欲しいと思いま
す。
信も帰依もない不肖の弟子を、ここまで見捨てずに導いてくださったグルには感
謝の言葉もありません。今後は、この偉大なグルの恵みを、一人でも多くの人に伝
えること、そして自己の修行に精進していきたいと思います。
#219
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/12 1:15 (194)
オウム真理教>説法>成就とは、そして私達の修行の目的1
★内容
解脱と悟り
そして、どのようにしたら幸福になれるのか説き明かします
1987年12年12日 東京ポア・セミナーにて
◎成就の証明--三明六通
で、あの、今日のね、説法の内容の、まず第一は、何をもって解脱とするか、
ね、あるいは何をもって悟りとするかという話が一つと、それからもう一つは、
あの現世的な話だね、どのようにしたら幸福になれるかという話と、まあ時間
があったら、この二つをやろうかと考えています。ただ、あのわたしの話とい
うのは、もともと智性があまり足りないから、あちこちへ飛ぶからね、最終的
にはどういう方向に行くかわからんけども。
まず、釈迦牟尼の時代、成就というものは、二つのプロセス、二つのパター
ンね、で、この二つの完成をもって成就という言葉を当てはめました。それは
何かというと、まずは三明といわれてる神通力ね、そして、六通といわれてる
神通力。この三明をもって成就する場合もあるし、あるいは六通をもって成就
する場合もあるというふうに一般的にいわれてるわけだね。で、この三明イコー
ル、ラージャ・ヨーガの成就と、それから六通イコール、クンダリニー・ヨー
ガの成就というふうにお考えになったらよろしい。
で、例えば、えー、ウッパラバンナ大師にしろ、あるいは、えー、ラクシュ
ミー大師にしろ、この三明を完全に得てらっしゃるわけだね。そして、シャン
ティー大師、あるいはケイマ大師は六通を得てらっしゃると。もちろん、えー
ラクシュミー大師は六通を得るプロセスに入っていて、まあ間もなく六通を得
ることになるだろう。
で、このいったい、三明六通といわれているものは何かというと、あなた方
のよく知っている、ね、天眼通、透視能力だね、天耳通、これ遠隔透耳能力、
ね、それから、宿命通、ね、これは、えー、自分の前生とか未来生を見る力ね
(現在では未来生を見る力は、死生智と言っている。麻原彰晃)、そして、他
心通、で相手の心を読み取ると、漏尽通、そしてあとは神足、空中浮揚という
ね、その六つの神通力が備わって、初めてクンダリニー・ヨーガ成就したんだ
よ、というふうに釈迦牟尼は規定してらっしゃったわけだ。
◎オウムの大師と数々の超能力
で、そのとおり、例えばシャンティーにしろ、ケイマにしろ、この六通を一
応お持ちだと。ただ、それが、あの、エネルギーの状態で、完璧であるかどう
かというのは、ね、完璧であるかどうかというのは、どういうことかというと、
えー、例えば百メートルも跳び上がるとか、千メートルも跳び上がるとかいう
ような完璧な、なものであるかどうかというのは、また別問題で、別問題とい
うのは、今から、まあそれは訓練していくことによって、なるだろうと。しか
し、一応その神通力の根っこみたいなものは、ね、得たと。
逆に、えー、ラクシュミー大師、ね、今、あの、ラージャ・ヨーガが成就し
て、次はクンダリニー・ヨーガのプロセスに入っていってる人達は、この三明
を得ているわけだね。だから、他心通(オウムでは三明といった場合他心通が
入るが、阿含経典では天眼通が入っている。麻原彰晃)、漏尽通、宿命通とい
うね。
で、あなた方が成就したしないも、もちろんこの三つの神通力、あるいは六
つの神通力というものが根本にあります。で、このあなた方が六つの神通力を
完全に得た段階で、「はい、あなた方は成就した」ということになる。で、こ
れが釈迦牟尼のお説きになった、ねえ、あるグループは三明を得ているグルー
プ、あるグループはろ、六通を得ているグループであるというグループ形成な
んだよ。
で今だよ、世界のあちこちを見渡して、こういうグループがあるかといった
ら、あなた方が今、ね、その入会していらっしゃるオウムしかないわけだ。
で、まあ今年はだいたい、二、三人成就すればいいなと思ってたら、まあ、
どういうわけか八人も、九人も成就してしまって、困ってるわけだけども。っ
ていうのは、来年ね、そうなると私は四十人成就させなきゃなんないんだよ。
ところがスタッフは六十何名しかいないと。そして、四十人成就さしてしまっ
たら、二十何名のスタッフと、ねえ、五十名ぐらいの大師ということになって
しまうからね、これは。まあバランスが取れなくてすごく困るわけだけども。
まあね、それは、あの、今跳んでる人達とか、いろいろいらっしゃるから、そ
の方々がスタッフとして応援してくだされば、まあ可能性があるとは考えてい
るわけだけだけどね、わたしとしては。
で、あなた方は、今世界でただ一つの真理に巡り合ってると考えてもいい。
もちろん、インドには優れた聖者がいらっしゃって、いろんな法を展開してい
らっしゃると。それも真理であると。しかし、私達が今の条件で、ね、真理に
巡り合うただ一つの、あなた方はチャンスをものにしてるわけです。ですから、
必ずこの真理の流れに入り、最終的には解脱、あるいは悟りを開いてほしいと
私は考えています。
◎真の成就者の証明
で、問題なのは、ね、ここで成就者達が出たと。そして、神通力もそれぞれ
お持ちであると。ところがね、世の中には変な人がいて、修行もしてない、成
就もしてないのに、その金儲けのためにコマーシャルをうって、ヨーガタント
ラのプログラムとか、いろいろやってらっしゃる方もいらっしゃるわけだ。で、
あるいは私は成就したと言ってらっしゃる方もいらっしゃるわけだね。
じゃあ、そういう方々に対して私達はどのように対処できるかといったら、
ただ一つの対処しかないわけだ。それは、証明だね。つまり、成就した場合に
はこれができますよ、という証明が必ずあるんだよ。
そこでね、あなた方の大好きなケイマ大師に、来年の三月十五日ね、富士火
山帯の一つのパートである、ひょっとしたら道場になるかもしれないけどね、
「アンダーグラウンド・サマディ」をやっていただこうと。もちろん失敗した
ら死だ。しかし、成就してるとわたしが言ってる以上は、死に、まあ死ぬこと
はないだろうと考えています。で、もちろん、ケイマ大師が亡くなったら、わ
たしも一緒に亡くなろうと考えてるね。しかし、それくらいやらないと、今か
らはね、その「ヨーガ」とか、 あるいは「解脱」とか、あるいは「悟り」と
いう言葉が氾濫すると思います。そして、オウム自体は、それを止めるつもり
はないんだよ。ね、で、成就の条件はこうであるとハッキリ打ち出しておかな
いと、私達は人類に対して大変な悪影響を与えることになるわけだ。だから、
今回のケイマ大師の「アンダーグラウンド・サマディ」は、ね、日本にとって、
いや世界にとって素晴らしい一つの金字塔をね、打ち立てるっていう形になる
だろう。だから、あなた方は誇りとしなさいよ。こういう真理の教えに巡り合
えたというカルマをね、誇りとしなさい。
そして、時期が来たら、あなた方と約束したとおり、私が水中サマディ、あ
るいは空中浮揚、あるいは透視、いろんな私の持っている神通力なるものをお
見せすることになるだろう。まあ、恐らく来年の終わりぐらいには、麻原がそ
れをやらなくても、オウムは真理だと皆さんがね、連呼なさるようになるだろ
う。まあそうなったら、もちろん、私はやらないけどもね。
◎悟り--突然訪れる解放感
そしてだ、はい今日のもう一つの課題、悟りについて。悟りというものはね、
どういうものかというと、ずーっとあるプロセスで追究すると、ラージャ・ヨー
ガだったら、ラージャ・ヨーガで、否定、否定、否定、否定、否定、否定、す
べて否定してしまって、追究して、ある瞬間ブツッと切れると。
例えば、まあラクシュミーの場合は、えー、マハー・ムドラー的な一種の悟
りをしたわけだけども、これは、グルが全く行かないと。で、いじめられて。
電話がかかってくるわけだ、たまに。「先生、私はもう自宅に帰りたいんです」
と。「修行しとうないんです」と。ね。それでも、「ああ、そうか、修行した
くないのか。で、どうするんだ?」「いや、私はもう、もともと修行なんか興
味はなかったんです」と、もう必死に、その今の苦しみから抜け出したいと、
いう電話がかかってくる。「ああ、わかった、わかった」で、そこで、私はう
まくだますわけだね、相手を。それを二回、三回とやっているうちに、ある日
突然ブツッと切れるわけだよ。で、今まで苦しみだったものが、パッと喜びに
変わり、喜びだったものがパッと苦しみに変わると。それを、ラクシュミーは
経験しているんだね。で、これは、マハー・ムドラー的な悟りだね。まあ、あ
のその悟りの、もう一歩、もう二歩、深さがあるわけだけども、それは今後、
おそらく達成なさるでしょう。
あるいは、ケイマ大師もそうで、これは、もうケイマ大師はジュニアーナ・
ヨーガ、大乗のヨーガに入らせなきゃならないと思って、徹底的にいじめてる
わけだよ。そうすると荒れ狂うわけだね。今度は荒れ狂う虎という感じだね。
で、この荒れ狂う虎を 、まあいろいろめ。なだめすかしながら教育していく
わけだけども。ところが、それも、時期が来て、ある日突然パッと変わっちゃ
うわけだね。これは、あの、二人の大師方に後で質問したらよろしい。突然変
わるからね。これが悟りです。だから、悟りというものは、学問とか、あるい
は経験を積み上げていったものではなくて、ある日突然バチッとくる。ね、だ
から、今ここにいらっしゃる大師方は、それぞれがそれぞれの悟りを、まあお
持ちなわけだ、ね。これが、まあ曖昧な表現だけども、一応、悟りのプロセス
と。
◎幸福への道--真理への帰依
そして、もう一つ。では、どういうふうにしたら幸福になれるかと。これは
ね、特に「ポア・コース」では関係があるわけども。もしだよ、この大師方が
三明六通をお持ちだとしたならば、オウムの今のスピードというものは、釈迦
牟尼が登場した以上のスピードで進んでいます。ということは何かというと、
このオウムの流れというものは、今の仏教教団のね、根源的なものとオーバー
ラップして考えてよろしいと。ね。
そうするとだよ、この仏教教団とオーバーラップして考えた場合、幸福にな
ることは簡単であると。それは、釈迦牟尼が説いた「阿含経典」の中でもね、
施戒天という、ね、布施をしなさい、それから持戒を守りなさいと、ね、それ
によって、あなた方は必ずや第四天界、兜率天、あるいは、第二天界、トウ利
天に行けますよという教えがあるわけだね。
じゃあ、あの布施とは何かというと、もう口を酸っぱくして言っている財施、
安心施、ね、それからもう一つは法施、そうだね。この三つだ。じゃあ、持戒
は? 天界に至るための。わずか五つしかないでしょ。まず、生き物達を慈しみ、
殺してはいけないと。ね。それから盗みをしてはいけない、施しなさいと。そ
して、愛のないセックスをしてはいけないと。そして、嘘をついてはいけない。
そして、酒を飲むなと。ね。
この二つのこと、もちろん、その、二つの背景には何がある、あるかという
と、私と、私を、ね、まあ背後から動かしていらっしゃるシヴァ神と、それか
ら大師方、ね。これは何かというと、仏陀と、ね、それから僧と、そして、私
が説いている法だね、仏法僧に帰依しなさいよと。これを帰依し、布施の実践
をし、持戒を守ったならば、あなた方は間違いなく天界へ行くことができるで
しょう。そうすると、あなた方が天界に行くとしたならば、その途中の段階で
は神々と同等の幸福感に浸ることができるようになるだろう。ね。
◎オウムと釈迦牟尼の教団
オウムとね、あの釈迦の教団で、もっとダブるところがあるんだよ。例えば、
あの「ミラクル・ポンド」といって、釈迦牟尼が入浴なさってた、ね、この体
を洗ってらっしゃった、そのみず、えー湖というか池があるわけだけども。そ
の水を飲むと、すごく精神が安定して、幸福な気分になってくると。
これは、あなた方の甘露水と似てるでしょう。現代に、例えば私がお風呂に
入って、「さあ、あなた方飲みなさい」と言ったら、「汚いから嫌だよ」と、
みんな思うでしょう。ところが甘露水だったら「ああ飲んでもいいや」とか考
えるよね。だから現代では甘露水なんだよ。
まあ、これは裏話だけど、オウムの、あのスタッフの特別イニシエーションっ
てすごいんだよ。私が歩き回るとね、髪の毛をこう狙ってるわけだ、みんな。
そして、髭を狙っているわけだ。……。そして、もうそれを得たときの、みん
なの嬉しそうな顔ね。ニコーッというよりも、ニターッとした顔してね。そし
て、それを一所懸命、煎じて飲んでると。で、気が上がった、何だかんだとやっ
てるね。
で、例えばね、スタッフのレベルの話をすると、まあ今デザイン班のリーダ
ーをやっている岐部君は、四十二・五度の熱が出てもワークを続ける人なんだ。
そうすると、四十二・五度というのは、現代の科学では死なんです、これは。
四十度ね、四十二度くらいになると、もうタンパク質が凝固するから、固まっ
てくるから、これは死です。ところが、平気でワークしている。これがオウム
のスタッフのレベルなんだよ。
つまり、オウムの人達は、その俗に言うところの神通力だけではなくて、強
靭な精神力と、強靭な体力と、強靭な、ね、気力を持っていると。だから、あ
なた方を支えてる人達というのは、みんなそれだけ徳の優れた、精神力の優れ
た人なんだ。で、あなた方は、それと巡り合って、今こうやって実践していらっ
しゃるということは、同じように徳の優れた人なんだね。だから、その徳を生
かし、そして、発展させ、ね、ある人は天界へ行きなさいよ。ある人は成就し
て救済する側に回りなさい。もちろんね、天界に行く人が、布施をし、あるい
はね、布施の中の、その財施、あるいは安心施、あるいは法施をすることによっ
て、ね、当然救済のお手伝いをするわけだから、それは同じように救済の側に
立ったということができるよね。それと同時に、持戒を守ることによって天界
に至る道があなた方にはあるわけだ。ね。そんなに難しい話じゃないよね。
(つづく)
#220
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/12 1:19 (139)
オウム真理教>説法>成就とは、そして私達の修行の目的2
★内容
◎数々の修行アップシステム
そして、大師方が登場するたんびに、一つの、何ていうかな、オウムの、あ
なた方を引き上げるための賞品みたいなものができあがっているわけだね、こ
れは。これは、シヴァ神から私達へのプレゼントです。はい次はこれだと。ど
んどんエネルギーアップするわけだよ。
例えば、初めはヒヒイロカネ一つだったと。で、甘露水ができたと。プルシャ
ができたと。この次は、匂いを使ったまあプルシャというか、プルシャ型の匂
いのイニシエーションができてる。そして、もう一つは特殊な甘露水ができて
ると。もう既に五つあるわけだよね。で、シヴァ神が意思してるのは、あとま
あ五つぐらいあるから、十個ぐらい。来年にはたぶん十個ぐらい。そのうち、
あなた方は、「さあ、私たちは、どれによって修行を進めようか」と考えるよ
うになるだろう。
すると、そうなった段階で、ね、大師方が別に苦労しなくても、シャクティー
パットとおんなじ効果があってクンダリニーが上がってしまうわけだ。ね。し
かも、あなた方がお布施をなさり、それから持戒を守られることによって心が
浄化して、ね、解脱、悟りのプロセスに入っていけると。だから徐々に徐々に、
あの、形が変わってきているという感じがします、わたしは。そして、これは
素晴らしいことだと思うね。
◎救済者の誕生、そしてマハーヤーナへ
大乗というものは必ず皆さんに何かを還元しなければならない。私はシャク
ティーパットという形で、あなた方に還元した。そして、ケイマ大師は、ね、
死を背景とする、「アンダーグラウンド・サマディ」という形であなた方に還
元なさるだろう。私はね、この二人、二人というか、私とケイマさんを比較し
て、私はなんと徳がないんだろうとよく考えます。そうでしょ。一所懸命肉体
的苦痛を味わいながらエネルギーを入れると。ね。ところがだよ、ケイマさん
は、このみんなの、もう何百人、何千人、何万人、たぶん集まるだろう。そう
いうやり方をするから。そのみんなが集中している中で、「アンダーグラ、グ
ラウンド・サマディ」に入られて、堂々とそれを完成なさって、また上がって
らっしゃると。大スターだね。一方の私を見てごらん。ただ、単にボロボロと
なって。このカルマの違いは何だろうね、いったいと、考えます。私は。。ね
え、前生での徳が、きっとケイマさんより、相当劣ってたんじゃないかなと考
えています。
このような形で大乗の成就者、あるいは大乗の修行者というのが誕生してい
くわけだね。それは、あの『マハーヤーナ・スートラ』、十二月二十五日にま
あ、会員にはあの、売り出しと。で、えー、一般には一月になるわけだけども、
おそらく出るでしょう。それ、よくお読みになったらわかるね。で、あなた方
の到達するマハーヤーナ・ステージというものがどれぐらいの道程かと。そし
て、その素晴らしさね。そして最後は、あなた方は何を得るのかと。それは不
死を得るだけではない。自由自在というものを得るね。自由って何かというと、
アストラルで生きることもできると。あるいはマハーヤーナで生きることもで
きると。あるいは、この現象界で生きることもできると。そういう自在性ね。
それからもう一つ、歓喜ね。いつも幸福な気分でいられると。ね。そして、不
滅だね。この三つを、あなた方は得ることができるわけだ。これはマハーヤー
ナ・ステージの特長だね。だから、ね、一生二生では普通不可能と言われてい
るね。千生、あるいは、かかる人は二千生かかると言われている。
◎我々の修行--天界か、成就を目指すか
で、オウムではだよ、その特殊な、まあタントラヤーナに近いわけだね、オ
ウムのやっていること。「タントラヤーナ」というのは、そのマハーヤーナ・
ステージの千生分を一生に集約して成就させようと考えてるわけだ。
そのためには当然何をやるかというと、ね、秘儀伝授、それからグルのエネ
ルギー移入。この連続でしょ。見てごらん。プルシャがそうでしょ、先程言っ
た。甘露水がそうでしょ。シャクティーパットがそうでしょ。特別イニシエー
ションがそうでしょ。それから特別な甘露水がそうでしょ。それから匂いの移
入もそうでしょ。すべて秘儀でしょう。ね。来年、四つぐらい登場して、あの、
来年、私のシャクティーパットとか特別イニシエーションは終わるわけだけど
も、その終わった後も私がシャクティーパットをやった人に関しては、最後ま
で責任を持とうと考えているね。特別なエネルギー移入の方法によって。そし
て、千回以上生まれ変わって成就するマハーヤーナ・ステージを、一気にタン
トラの修行やって、成就してしまうわけだ。ね。ということはだよ、言い方を
換えたら、そりゃ大変だね。わかりますね、大変だっていうのは。つまり、一
生を六十年、まあ、神々の世界も、あなた方にはあるだろうから、一生を二百
年と計算して、ね、二十万年分を一気に終わらせるわけだね、修行の。それは
大変だ。ね。だからあなた方も心してかからなきゃならない。私達は、五十六
億七千万分の一の確率で、真理に巡り合ったんだと。ね。そして、この機会を
逃したならば、私達は今後、真理には巡り合えないと。さあ、何はさておいて
も修行しようと、何はさておいても真理の修行をしようと。
あるいは、もう一つの考え方があるね。それは、私達は、ね、今の状態では
解脱することはできないと。それは周りのいろんな状況を考えて、ね、私が今
抜けると、解脱できる状態で、周りが困るんだと。だから、解脱できないんだ
と。その場合、先程言ったとおり、次の生でも真理に巡り合えるように、ね、
真理に対する供養と、それから持戒を守ると。これを実践しなさい。それによっ
て来世は兜率天に生まれ変わるだろうからね。特に、布施だけをやってる人は、
トウ利天にしか生まれ変わらないと考えなさい。布施をなし、しかも持戒をな
したならば、はじめて兜率天に生まれ変わるチャンスが出てくる。もちろん、
その上に忍辱の修行、精進の修行をやったならば、当然のことだね、これは。
そして、この四つの土台をね、ガッチリ固めたならば、その後のタントラヤー
ナのステージね、タントラ乗っていわれる、まあ、あの秘儀乗とかね、密儀乗
とかね、真言乗と言われてる、このステージに入って、一気にジャンプできる
んだよ。
そして、今生でね、ここにいらっしゃるグヤサマジャと同じように、ね、大
乗の仏陀となることができるわけだ。いいですか。
今日は、ちょっとね、成就についてまず話したよね。成就というのは三明を
根本とすると。それから、あるいは六通を根本とすると。
それから、もう一つ、悟りについて話したよね。悟りというのは積み上げる
ものではなく、積み上げるものだけども、ある段階でブツッとすべてが、おわ、
あの変わってしまうと。これが悟りであると。ね。
そして、幸福になるため、ための道を話したよね。それはオウム真理教自体
が真理だとしたならば、あなた方は単に布施の実践と、それから持戒の実践を
やるだけで、幸福になり天界に行けるんだよと、ね。
一つ、あの例を出そう。これは、あの、名前を挙げるとまずいんだけども、
あの詮索するとすぐわかる人なんだよね。前回のアストラル音楽で、あの、ま
あ弾き手の中の一人なんだけど、あの、すごく彼女で引っかかっていた子がい
るんだよ。それで、えー、結局、布施をし、えー、しそのバクティーを一生懸
命やったら、それは何とかなるよという話をしてて、で、結局彼女に振られた
わけだ、その子は。で、私は、あ、そうか、それは良かったなと、悪縁が切れ
てと。しかし、あなたには、必ず、あの、次の娘が出るよと。そしたら、なん
と、ショックを受け、ショックがね、えー、まあ、冷める間もなく、即彼女が
現われて、今は半分修行、半分、もうそちらにうつつを抜かしていると。ね。
これがだから、オウムが真理である背景だね。ある人は事業があの、てん、い
い方向に展開してきてるし、ね、ある人は、あの、すごく今までごたごたが起
きてたのが、ごたごたがなくなってると。
ただ、一つ言えることはだよ、そうではなくて、解脱を望んでいると、悟り
を望んでいる人は、私と同じように、必ずガタガタになるからね、すべてが。
それはなぜかというと、現世から離れなきゃならない、そのための準備として
ガタガタになります。なって当然だ、これは。だから、現世的にガタガタする
のはいやだという人は、悟りと解脱をあきらめて天界へ行きなさい。だから釈
迦牟尼もこう説いてらっしゃるね。
「汝らに法を与えたいと。しかし、その法を汝らが実践したとしても、最終地
点にまではいけない」と。
いいですか。だから在家には持戒と布施の実践を説いたわけだ。
ところがね、後世の、今度は、ね、成就者の中で、「じゃあ、在家の人間は
成就できないのか。解脱できないのか」という疑問が出てきた。で、そうじゃ
ないよという展開でスタートしているのがタントラ乗なんだよ。ね。だから矛
盾してるようだけども、もう一度説明するよね。
まず、在家で意志の力が弱い人間、これは天界へ行きなさい。在家で意志の
力が強く、しかも、ね、四つの極限――布施、それから持戒、忍辱、精進とい
う四つのプロセスのできる人はタント、タントラ乗へ進みなさいと。ね。そし
て、そうではなくて、在家では解脱したいんだけど、意志が弱くてできないと、
そういう人はオウムへ来て大乗の道を進みなさい。この三つの道があるからね。
で、それを向こうの言葉を使うならば、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、そしてタ
ントラヤーナという三つの、ね、修行プロセス、その言葉を向こうでは使って
るわけだ。いいですか。
もうあなた方の前には八人の成就者がいる。ね。そして、この成就者達は、
その人が謙虚であれば、おそらく今生でジュニアーナ・ヨーガ、ね、大乗のヨー
ガへと入っていくだろう。その人が謙虚でなく、ね、エゴの強い人だったなら
ば、ニルヴァーナに入ってしまうだろう。それは、どちらでも構わないことだ。
しかし、あなた方の前にはね、八人の成就者がいるんだよ。だから、あなた方
も不安を持たないで、堂々と修行し、ね、そして成就をしなさい、あるいは天
界へ行きなさい。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#221
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/12 15:15 (200)
オウム真理教>説法>世界救済に向けて
★内容
世界救済に向けて--
再認識すべき大師・シッシャとしての心構え
1989年11月13日 富士山総本部道場にて
そろった。よし。(オーム三唱)
今日は、三つの話をしたいと思います。二つは現実的な話、もう一つは大ぼ
らです。ですから、この大ぼらの内容については、あまり信用しないようにし
ておいてください。なぜ大ぼらを吹くない、吹くのかというと、ここで大ぼら
を吹かないと、オウムの未来ヴィジョンみたいものをあなた方に与えることが
できない。よって、私は大ぼらを吹きます。
イエス・キリストが詐欺師といわれたように、そして、仏陀釈迦牟尼がイン
チキといわれたように、麻原彰晃も、ね、その、詐欺師、インチキという両方
のレッテルを貼られました。これについて私は、大変な誉れであると考えてお
ります。
まあ、その件はいいとして、第一の話、第二の話、第三の話を通じて言いた
いことは、大師とはいったい何をなせばいいのか、シッシャとは何をなせばい
いのか、そして、救済とは何をなせばいいのかの話であるということを認識し
てほしい。
まず、その前に一つの報告があります。カッチャーヤナはもう出たか。出せ
出せ、もういいから。
私は現代の、現在のこのオウム真理教のシッシャ制度を見て、一つどうして
も、その、ね、考えなければならないことというのは、やはり、シッシャが多
くなってきた。そしてまあ、これは以前にもちょっと話したけども、精神レベ
ルが大変低いと。よって、シッシャ全体の精神レベルの低下というものを痛切
に感じざるを得ないと。
例えば食事のとき、ね、自分達は未来、菩薩となり、どのような活躍をした
らいいのかだとか、あるいは、自分達はどのようなワークをなせば、最も効率
的になるのかだとか、あるいは、今の問題点は自分達の目から見たらこうだか
ら、これをこのように改善したら、もっとシッシャ生活が、シッシャの活動が
うまくいくんじゃないだとかいうような話を聞くことはほとんどない。
だいたいまあ、もちろん、悩んでる人はこの全体の中の一割から二割だろう
けども、その人達の心の働きというのは全く現世的で、例えば恋愛がどうだと
か、食欲がどうだとか、現世に何が、現世に対して何を執着してるだとか、そ
のような話が多いと。そして、それに対する大師の態度も、た、は、はっきり
言って大変未熟なものであると。もし、私が君達全員の面倒を絶えず見ること
ができるならば、そのようなことはないのではないかと私は考えています。
これは、ケツン・サンポ・リンポチェという、ね、あのチベットのお坊さん
も言ったことだけども、グルというものは、まあ、チベットではラマというか
ら、これはどちらでも同じ言葉だと考えてください。グルというものは、遠く
で見れば綺麗であると。しかし、近くで見れば当然欠点も目立つと。それはちょ
うど、美しい花を遠くで見るようなものであると。その美しい花を近くで見る
と花弁の色、形、あるいはおしべ・めしべの形などで綺麗に見えないかもしれ
ないと。これが一般のレベルのグルであると。これは、チベットや中国でもそ
ういわれていると。そして本当のグルっていうものは、側に置いたときにその
人が心服すると、離れていてもその人が心服するというようなグルを本当のグ
ルだというわけだね。そして、それはやはり完璧な解脱をしていないと、それ
はできないと。
ということは、最終解脱まで至ってない大師が、果たして、ね、遠くで見た
ら綺麗であると、近くで見ても綺麗であるという状態まで見せることができる
かどうか。これは、単純に考えたら無理だということがわかる。しかし、遠く
で見たら綺麗なんだね。ここが問題なんです。凡夫は遠くで見ても汚いし、近
くで見ても汚いと。大師は遠くで見れば綺麗であると、近くで見れば綺麗な部
分もあるけども、汚い部分もあると。よって、失望を招くと。ということは、
大師は指導するとき、できるだけ、ね、接っさないように、綺麗な部分を見せ
て、自分のいいところを見せて指導するということがベストであると、ね。
そして次に、凡夫はどうかというと、凡夫は遠くで見ても近くで見ても欠点
だらけで濁ってるわけだから、ね、その、大師を近くで見て、この人はこうい
うところがいけないとか、ああいうところがいけないっていう、その汚い部分
だけを見て判断するのは、私は大変ナンセンスじゃないかと思う。
つまり、それは言い方を換えるならば、次のような形で表現できると。まず、
粗雑なものから微細なものに移行されるとき、その微細なものは完成はしない
けども、かなり微細になると。しかし、粗雑な部分が交じっていると。という
ことは、その粗雑な部分を、ね、粗雑な人達が見て、百パーセント粗雑な人達
が見て、何だあの人は私達と同じようにこういう粗雑な部分があるじゃないか
と。確かにそれはあると、ね。しかし、微細な部分もあるわけだから、遠くに
おいて眺めると、ね、要するに全体が見えるわけじゃないから、微細に見える
と。しかし、近くで眺めると粗雑な部分があると。で、そこは、尊敬を、ね、
得ることができないと。ところが、凡夫はどうかというと、すべてが粗雑だか
ら、当然粗雑な、ね、離れて見ても粗雑であると。近くで見ても粗雑であると。
そこに大師自身が気付き、自分を綺麗に見せ――これは格好をつけるという
ことじゃないよ――自分を綺麗に見せ、そして、その綺麗さを目標とさせて、
シッシャに修行させられるかどうかと。つまり、シッシャの一つの目標として
大師が存在できるかどうかというのは、言い方を換えれば、大師がシッシャに
対してどのような形でまみえるかと、どのような形で交わるかということでは
ないかと、私は思います。
当然、ね、現代のオウムのシステムでは、信徒さんは大師を一つの目安とし
て出家なさると。そして、信徒と大師との間には隔絶があるから、当然綺麗な
部分しか見ないと。見えなくて当たり前である、また。そして、その見えない
状態で出家し、ね、大師をそばで垣間見たとき、大師の欠点が見え失望すると。
じゃあ、失望させた大師はどうなのかといったら、これはやっぱり当然カルマ
になるわけだね。だからそうならないように、絶えず自分自身に気を付けると。
シッシャとくっ付き過ぎてはいないかなと、シッシャに対する法がグルのなし
ている、グルの話している根本的な法なのかどうかと、真理に基づいて話して
んのかなと。
逆にシッシャ生活に入ったならば、もうすべてはグルに集中されなければな
らない。なぜかというと、グルを根本とし、グルが解脱を与えるからであると。
そして、シッシャ生活をしている者は、次のように考えなければならない。
私の根本はグルであると。私の根本は真理であると。そして、私がシッシャ
生活を始めたのは、真理を実践するためであると。救済活動のお手伝いをする
ためであると。そして、さい、大師はその途中の点にすぎないと。したがって、
大師の長所・欠点それぞれ持ち合わせてらっしゃると。しかし、私達に比べれ
ば優秀な点がたくさんあると。それはエンライトンメントね、これは、ま、解
脱と訳する場合があるわけだけど、正確な訳は人智の進歩。つまり智慧の進歩、
つまり、自分達よりも智慧の高い人達が今大師になってるんだからと。
ここで考えなきゃなんないことは、この前話した「知識」「知能」「智慧」
の三つだね。少なくとも大師は、ね、いろんな体験をしてらっしゃると。そし
て、欠点を見つめるのではなく、長所を見つめて修行しようと。長所を目標と
しようと。欠点はどうでもいいんだと。そう考えられるかどうかによって、そ
の人がきちんと修行できるかどうか、今後エンライトできるかどうか、サーベー
ションできるかどうか、イマンスペーションできるかどうかということが決ま
るわけだね。
もちろん、一緒にいつもいて、尊敬されるような、ね、大師になれば、もう
その人は最終解脱が近いと言ってもいいかもしれない。なぜならば、本当の意
味で利他心が備わっているからである。いいですか、これは。シッシャの方も
いいかな。
だから、人の粗捜しをする、欠点を見つけるような、自己を低くするような
行為に走り、それを喜ぶという下劣な心の働きを持たないようにしよう。いい
ね。これが、私の話したかった第一の点であると。
そして、第二の点、それは、今オウム真理教は危機に瀕していると言えると。
じゃあ、いったいどういう危機なんだと。もちろん、オウムが崩壊するような
危機ではない。しかし、以前に比べ入信も少なくなってると。その理由は雑誌、
テレビの影響もそうであるけど、シッシャ、あるいは大師の自覚の不足、これ
が最も大きな原因であると私は考えています。もし、オウムが真理の法を展開
し、救済できなかったならば、世界に二十一世紀っていうものはない。なぜな
らば、今の現代の環境を見てわかるとおり、私達は物質的なもの、あるいは煩
悩的なものによって支配されようとしてるからである。そして、もう、その支
配の手は間近にきている。
それは例えば、今回の『サンデー毎日』、あるいはフジテレビ、テレビ朝日
などの内容を見てわかるとおり、彼らの、今日本を動かしている者達の心に、
本当の意味での宗教性、真理を肯定するといったような、そのような崇高な心
のかけらもないからである。そして、それを守ることができるのはだれかと言っ
たら、それは私達しかないんだといったことを認識しなければならない。
例えば、創価学会が救済できるかと。例えば立正佼成会が救済できるかと。
例えば、影の帝王と言われているフリーメーソンが救済できるかと。今、この
日本は、そして世界は、彼らの手によってつくられたものであるということを、
もう一度認識しなければならない。そして、その彼らの手によってつくられた
この世界が、いかに私達の煩悩をくすぐり、私達を三悪趣の道に至らしめよう
としてるかを認識しなきゃならない。そのために私は、現世的な今回選挙に打っ
て出た。
しかし、今オウム真理教はまだ現世的にぶつかり、そして、それを粉砕し進
むだけの力はない。かといって、ここまで展開した運動をやめるわけにもいか
ない。これは大きな選択である。私は、おそらく二兎を追うことになるだろう。
そして、救済を本当の意味で成功させるためには、もっともっと多くの成就
者を・
最終更新:2018年01月06日 20:00