葉隠武士道 昭和17年

https://www.youtube.com/watch?v=miNomnUqnD4
心を落ち着けて家宝の刀を磨く。無意識のうちに、炉のような鋭い目でどんな小さな曇りも見逃さない。うの目鷹の目で見つけたほどの小さな錆も丁寧に落とす。何度も何度もこうして心は刀剣と一体となり、邪念や雑念は一切ない。完全な無心の境地で、静かに鍔元から切先まで見つめると、武士の魂が響き渡り、心が満たされる。すでに偉大な将軍や英雄の心に通じるものを感じる。ああ、日本よ、この美しさ、この誠実さ。これに勝るものは何も存在しない。鞘に納めて目を閉じ、数分間深い息を吐く。悟りが訪れるのは、これが日本人としての大きな喜びだからだ。これこそが神の国の音調であり、太古の先祖から受け継いだ霊感そのものだ。静かに一礼して、剣を元の場所に置く。新たになった心は、ただひたすらに中正の一年に突き進むことができる。しかし、この日本列島がいかに古くから徹底して磨かれてきたのかを考えると、もし一点の曇りに曖昧な態度を示し、これを拭い去るための真摯な誠意がなかったならば、今の民族的大転換を遂げた日本列島は存在しなかっただろう。神聖なる日本列島、夏でも寒さを知らず、修羅の道で何を無言で失ってきたのだろうか。何時でも徹底せよ。天台の教訓は、こうして我々の行動に貫き通されるのだ。そうだ、我々は徹底しなければならないのだ。徹底しないことが、いかに理屈を超越して我々の憎むところであるのかは、室町時代の守護大名でありながら、利欲に迷って続伸となった赤松満祐に知られるではないか。法華一揆におけるつい準kas(追従者)に知られるではないか。関ヶ原の天下分け目の戦において、金吾中納言小早川秀秋の裏切りで知られるではないか。彼らは千代の後まで逆賊であり不審であり、売国者であるとして知られている。これは我が国民の性情が不徹底と相容れないからだろう。河和の青線においても、銃が折れれば剣を振り、剣が折れれば腕を振り、腕が折れれば足で、足も傷つけばその胴体で、肉片一つでもあれば、その肉や骨の一節まで敵に叩きつけて戦った壮絶な話は、私たちを何度も涙させたことだろう。そうだ、徹底することには絶大な力が存在する。徹底することで、光栄は凛として輝くのだ。世には、柳に飛びつく蛙の姿、風に小枝に巣を張る小さな雲雀の姿がある。これらの姿は、修行の徹底を教えるためのものだ。小野篁は柳に飛びつく蛙を見て、自分の下手な書道でも修行すれば名筆になるに違いないと悟り、結果的には天下の名筆となったのも、この徹底の心理を感じたからだろう。「心ざしあれば道あり」と古人は言った。心ざしがあれば道があると言っても、ただぼんやりと心ざしを持ち続けるだけでは、決して道は発見されない。心ざしがあればとは、それを徹底することで道が開けるということだ。その志を貫こうと願い、一途に徹底することで必ず道は完成される、と予告しているのだ。

さて、もう一つお伝えしたいことがある。世には「足るを知る」という言葉がある。これは往々にして逆用悪用されている。足りることを知るということは、自分の欲望を抑えることだ。しかし、それを誤解して、大いに成すべき自分さえも「私なんかは」と委縮させ、行動を起こさなくなることがある。これは、この言葉の誤用であり、どれだけの人々の可能性を阻害していることだろうか。さらにそれ以上に害毒を流しているのは、諦めの宗教だ。病気は元々気から発生するものだが、一人の医者が「もう手の施しようがない」と言った途端、周囲が諦めてしまい、それを受け入れてしまうことがある。これは本末転倒だ。人は最後の一瞬まで病と戦うべきだ。周囲の人々も、その戦いを支えるべきだ。これが人間の道であり、武士道であるのだ。しかし、もはや治療費がないから諦めてくれ、という無情な言葉を実際に耳にしたことがある。これは、金銭が人命よりも尊いと考える外来思想の影響だろう。たとえ治療費を使い果たしても、生命を取り戻し、健康を回復し、一日でも国家に尽くすことができれば、それが何よりも良いことだ。資産は働けば生まれるものであり、人間は資産の奴隷ではないはずだ。資産は、国家のために尽くす便宜であるに過ぎない。本末を転倒することはもってのほかだ。病人も周囲も、徹底した治療こそが必要なのだ。この詳細は、交渉派の中に述べているが、戦えば健康になれる身を諦めてしまうという馬鹿な話があったものではない。公生の安楽を願うなどと、分かりもしない来世のことなどに捉われて現実の世界を諦めて、どうするべきだろうか。軍神、広瀬中佐もそうであった。孝軍の戦没者はことごとくそうであり、御国の臣民もことごとくそうでなくてはならない。見よ、戦場にあっぱれ、強烈なる死を遂げられた人々は、靖国神社に護国の英霊として永遠に生きているではないか。自分は安全だと言って、国の進展に気を配らず、自己のみの安寧をむさぼるような、無駄に生きる人は一人だってあってはならない。そのような者の感じる安全は、真の安全ではないのだ。私欲なく国家の安寧を願い、全力を上げてそれぞれの立場で徹底的に励む。そこに初めて絶対の安全があるのだ。これを徹底してどこまでも成し遂げる。ありったけの力を絞って国に報いるという一年でなければならない。父の死は、その魂がこの心の中に溶け込んだものだ。母の死は、その魂がこの細胞の中に移り住んだのだ。次に来るべきもののために、今の命は存在する。種が次に良い花を咲かせるようなものだ。人間の死も、言わば発展的機会であり、自分を捨てて他に生きることだ。易々と諦める弱さ、これが日本人にあってはならない。死は、永遠に生きるものへの一過程である。

不徹底は臆病の証である。不徹底はこのように「足るを知る」こと、諦めを誤解したものは、徹底することで生まれる力を殺してしまう、徹底を妨げるものである。これは自己反省の糧とすべきであり、決して臆病や躊躇、不徹底の自己弁護に使うべきではない。男らしさも女らしさも、日本の男性の生き方に徹底することであり、日本の女性の美しさに徹底することである。男らしい武士は、体に矢が立っても背中に矢は立てないと、その勇気を貫いた。鎌倉の豪傑、御家人、岡本義実(おかのもとよしざね)は16歳の若さで、53回の戦で大いに活躍し、敵に右目を射られた。義実はその矢を折り、敵を追って射殺し、帰還して仰向けに倒れた戦友、三浦平太郎胤次(みうらへいたろうたねつぐ)が、それを見て義実の顔に足をかけて矢を抜こうとした。義実は大いに怒り、「弓矢で死ぬのは武士の本懐である。足で顔を踏まれるのは武士の恥である」と言い、戦友の親切であっても武士の面目に反することは断固として拒否し、謝罪させてから改めて腰を折らせて矢を抜かせた。このように面目そのものを貫いたからこそ、若くして歴史に名を残すことができたのである。また、高倉宮の侍である馳新年(はせのよしとし)は、弓矢を取る身として、仮にも名誉を惜しむべきであるが、敵を恐れて逃げることは武士としての恥であると言って、ただ一人で宮の中に泊まり、目覚ましい働きを見せ、敵を十数人斬り伏せた。しかし、刀が折れたため、今度は素手で敵に向かい、ついに六波羅に捉えられた。宮の場所を尋問された時、「侍として一度言わないと決めたことは、どんな責めにあっても言わない」と気概として「知らない」と一言答えた後は、どんな質問にも一言も発しなかった。そのため、兵士も彼の気概に感動し、ついに許したと伝えられている。これらは、言わないと決めたその意志を貫き、その気高さが敵の心を震えさせ、称賛させたものである。些細な病苦に屈して弱音を漏らすようなことは、それは武士道に反するのである。研究においても同じである。竹中平米地が武道研究会を開いた時、息子がトイレに立ったのを見て大いに叱りつけ、「武道の話に夢中になってそこで便を漏らしても恥ではない。途中で席を立つとは何事だ」と言ったのは、徹底の本質を示したものであり、そうあるべきである。そのうち機会があったら学ぼうなどというものに、学が成立するはずがない。「思い立ったが吉日」である。心志すところへその場で立ち上がる。それが勉学であり、そして一度勉学に心志したならば、それに徹底しなければ、会得することはできないのだ。徹底するところに力があり、徹底するものに美がある。徹底は真実を掴むからである。過去の徹底した人々は、いずれも美しいではないか。徹底によって発せられる光があるからだ。徹底した生活は、すっきりとした人生だ。人間が曖昧でぼんやりした存在であっては価値がない。特に日本国民は、その生活態度において常に明確で一貫したものを持たなければならない。明確なもの、それは強靭な繊維を持つものだ。植物で言えば竹だ。強靭な繊維を持つものは、美しく伸びて、しかも力強い。雑草はどんなに得意げにはびこっても、冬が来れば枯れてしまう。しかし、雑草が枯れた中に埋もれていた地味な山茶花が元気に育っているのを見ることができる。毒キノコは、どんなに美しくても人はそれを避ける。しかし、松竹はその強靭な繊維で素晴らしい香りを放ち、人々に愛される。思えば、私たちは毒キノコのように見える、ぐにゃぐにゃした繊維の文化に、どれほど毒されてきたか考えると恐ろしいものがある。今や、秋の爽やかさを思わせる松竹の素晴らしさに蘇っている。日本人の特質は、松竹の香りであり、その明確で強靭な繊維だ。質実であり、言葉にできない美しさ、それが日本人の特質だ。「花は桜木、人は武士」と言う。これは明確な生活の美しさを称賛した言葉だ。桜は咲くべき時に咲き、散るべき時に何の躊躇もなく散る。武士も同じだ。死ぬべき時に死ななければ、死ぬよりも恥ずかしいというのは武士の心情を表している。従って、武士は理由を必要としない。武士道に徹するのみだ。すっきりして明確だ。日本が古くから言葉にしない国と言われるのはそのためだ。理論を必要としない。公明正大で大義に生きる国民だ。理屈を必要としない。結局、理論を必要とするのは、多くの場合そのものへの弁護だ。見苦しい自己弁護だ。弁解を必要としない凛とした制度を言う必要がない美しさ、それが日本国民の姿だ。理屈は、不徹底で曖昧なものにこそ必要だ。徹底した人生、生きる道が明確な日本国民は、それを必要としないのは言うまでもない。日本は神の国だ。剣心の思想は理屈から生まれたものではない。剣心の思想は、皇室への中正から生じている。だから剣心に理屈はない。しかし、仏教はその巧妙な理屈から発展した。他の宗教も同様だ。我が国の歴史を見ても、この理屈の優れたことによって一般的に仏教は信じられたが、それだからと言って、京神の念には少しも変わりはなかった。京神の念は岩のように存在した。時には、その仏教の巧妙な理論がかえって剣心の念を深めるのに役立った。仏教は、京神の念を巧みに利用して、その普及を図ったのではないだろうか。日本国民の偉大な点は、心に徹しているところから生じている。最も尊いもの、最も敬うべきものは、理論などではなく、私たちの心に直接響くものだ。共感し合うものだ。共に生きる中で生まれる、古くから変わらない尊い道が導きだ。尊い道が武士道です。

武士道は日本国民の性格なり。武士道は日本人の性格そのものである。それは古代から現代に至るまで日本という国の中心的な精神であり、未来永劫にわたって輝き続けるべきものである。日露戦争の大勝利の後、文学博士の矢は武士道は日本の国体そのものであると叫んだ。当時、文学博士の松本愛長も武士という名称は中世から生まれたものだが、武士道は日本の武を尊ぶ気風から生まれたものであり、日本民族固有の性格であると述べた。その通り、武道の精神は武道という名称が存在する以前から、すでに日本の建国当初から発揮されており、武家時代以降に武士道と呼ばれるようになったに過ぎない。それにも関わらず、武士道は武士のものであり、武家時代以降に発達したとする誤解が今なお存在するならば、それは完全に西洋的な見方であり、日本の国民性を冒涜するものである。

「ば水は高き山へ、巌は深き谷にこそ、しめ返りは世辞」これはまさに武士道の本質を表した歌であり、武士道とは言い換えれば永遠に変わらない忠誠の道である。この忠誠の道を実践するものこそが日本国民と言えるのである。だから武士道は武士や剣を持つものだけの道であってはならない。武士道の精神は農業や工業、商業にも生かされるべきものである。この武士道の精神が生かされていれば、それはすぐに公益優先となる。今更、公益優先が解かれるのは、かつて明治維新後に王政復古の風潮に感染し、毒キノコのように害を及ぼした町人哲学が残っているからである。この町人哲学は個人主義、自由主義、さらには社会主義となり、我が国の国体とは相容れないものである。この残滓はどうしても取り除かなければならない。これがあると、明るく清らかで合理的な日本国民の生活を混乱させるからである。そこで、この残滓を取り除くために今一度公益優先が解かれている。考えてみれば武士道的に見て悲しいことである。日本国民として恥ずかしい限りである。武士道の精神を実践するものが日本魂である。だから、日本は不撓不屈である、徹底的である。震動はこの徹底がなければ成り立たない。死んでも死なないという精神、一年を凝らして石に穴を開けるという精神、それが震動である。大楠公、楠木正成の七生報国、後醍醐天皇への忠誠はそれである。徹底するには強靭な精神力が必要である。七転び八起きの精神である。一度倒れても諦めるものなど問題にならない。あらゆる発明や研究は失敗に失敗を重ねた上で成し遂げられるものであることはよく知られている。倒れるたびに勇気を奮い起こすのである。財産を失うたびに奮起するのである。それでこそ徹底することができるのである。山中鹿之助は三日月に向かって、私に七つの困難と八つの苦難を与えてくださいと祈りました。辛いことがさらに積み重なっても、限りあるこの身の力を試してみたい。これが日本の本懐である。徹底的な鍛錬である。こうしてこそ徹底の醍醐味が感じられるのである。

女性にしても同じである。関西で十数回の結婚を経て、ついに日本女性として母となる幸せを得た人がいた。もちろん女性は結婚したら夫に従いそれに徹底すべきだが、この女性はそうしたくても行く先々で離婚されてしまった。一度離婚されると、それで終わりだと思い込み諦めて一生を無駄にしてしまうような女性では日本女性とは言えない。なぜそうした辛い目にあったのかを反省し、今度こそ立派な日本女性として母の役割を果たしたいと努力し続けた結果、この女性は幸せを手に入れたのである。何事も徹底しなければならない。そして徹底するには確かな心の根幹が必要である。この確かな心の根幹、それが武道である。武道は徹底するところに効気がある。すなわち徹底させるものが武道であり、武道はまた徹底するものでなければその効気を発揮できない。この因果関係を忘れてはならない。そのことを極めて丁寧に徹底的に解いているのが葉隠であり、葉隠の精神を具現化したものが葉隠武道である。

武士道は日本国民の性格なり。武士道は日本人の性格そのものである。それは古代から現代に至るまで日本という国の中心的な精神であり、未来永劫にわたって輝き続けるべきものである。日露戦争の大勝利の後、文学博士の矢は武士道は日本の国体そのものであると叫んだ。当時、文学博士の松本愛長も武士という名称は中世から生まれたものだが、武士道は日本の武を尊ぶ気風から生まれたものであり、日本民族固有の性格であると述べた。その通り、武士道の精神は武士道という名称が存在する以前から、すでに日本の建国当初から発揮されており、武家時代以降に武士道と呼ばれるようになったに過ぎない。それにも関わらず、武士道は武士のものであり、武家時代以降に発達したとする誤解が今なお存在するならば、それは完全に西洋的な見方であり、日本の国民性を冒涜するものである。

「ば水は高き山へ、巌は深き谷にこそ、しめ返りは世辞」これはまさに武士道の本質を表した歌であり、武士道とは言い換えれば永遠に変わらない忠誠の道である。この忠誠の道を実践するものこそが日本国民と言えるのである。だから武士道は武士や剣を持つものだけの道であってはならない。武士道の精神は農業や工業、商業にも生かされるべきものである。この武士道の精神が生かされていれば、それはすぐに公益優先となる。今更、公益優先が解かれるのは、かつて明治維新後に王政復古の風潮に感染し、毒キノコのように害を及ぼした町人哲学が残っているからである。この町人哲学は個人主義、自由主義、さらには社会主義となり、我が国の国体とは相容れないものである。この残滓はどうしても取り除かなければならない。これがあると、明るく清らかで合理的な日本国民の生活を混乱させるからである。そこで、この残滓を取り除くために今一度公益優先が解かれている。考えてみれば武士道的に見て悲しいことである。日本国民として恥ずかしい限りである。武士道の精神を実践するものが日本魂である。だから、日本は不撓不屈である、徹底的である。震動はこの徹底がなければ成り立たない。死んでも死なないという精神、一年を凝らして石に穴を開けるという精神、それが震動である。大楠公、楠木正成の七生報国、後醍醐天皇への忠誠はそれである。徹底するには強靭な精神力が必要である。七転び八起きの精神である。一度倒れても諦めるものなど問題にならない。あらゆる発明や研究は失敗に失敗を重ねた上で成し遂げられるものであることはよく知られている。倒れるたびに勇気を奮い起こすのである。財産を失うたびに奮起するのである。それでこそ徹底することができるのである。山中鹿之助は三日月に向かって、私に七つの困難と八つの苦難を与えてくださいと祈りました。辛いことがさらに積み重なっても、限りあるこの身の力を試してみたい。これが日本の本懐である。徹底的な鍛錬である。こうしてこそ徹底の醍醐味が感じられるのである。

女性にしても同じである。関西で十数回の結婚を経て、ついに日本女性として母となる幸せを得た人がいた。もちろん女性は結婚したら夫に従いそれに徹底すべきだが、この女性はそうしたくても行く先々で離婚されてしまった。一度離婚されると、それで終わりだと思い込み諦めて一生を無駄にしてしまうような女性では日本女性とは言えない。なぜそうした辛い目にあったのかを反省し、今度こそ立派な日本女性として母の役割を果たしたいと努力し続けた結果、この女性は幸せを手に入れたのである。何事も徹底しなければならない。そして徹底するには確かな心の根幹が必要である。この確かな心の根幹、それが武士道である。武士道は徹底するところに効気がある。すなわち徹底させるものが武士道であり、武士道はまた徹底するものでなければその効気を発揮できない。この因果関係を忘れてはならない。そのことを極めて丁寧に徹底的に解いているのが葉隠であり、葉隠の精神を具現化したものが葉隠武道である。

葉隠の極意は徹底主義。昭和3年の東方会議は、日本が大陸にどう対処すべきかを決める重要な会議でした。その時、参謀本部は3つの案を用意し、関東軍司令官の武藤信義元帥に見せました。武藤司令官は第1案を見て「非常に良い」と言い、第2案を見ても同じく「非常に良い」と答えました。第3案を見せても同じ反応でした。幹事長が「何もかもとはどういうことですか」と問うと、武藤司令官は「どの案も徹底してやれば良い。案の長所や短所、善悪は二の次です」と答えました。この答えに皆が感心しました。武藤信義元帥は葉隠の精神を持つ人物であり、葉隠の教えは徹底主義です。葉隠武道では、中興は一体であり、中が座(すわ)れば光です。葉隠は念仏業者が呼吸の間にも仏を忘れないように、常にと様、と様を整えるように教えています。また、人に忠告する際も徹底主義でなければなりません。意見をする際は、その人が受け入れるかどうかを見極め、自説を考え、まず良いところを褒めてから意見を述べるべきです。そうしなければ、ただの悪口になってしまいます。葉隠の精神は全てに対する徹底主義です。老人も七度せねば本物でないといい、七転びを解いています。人生は今この一瞬、一瞬を重視し、それを重ねて一生を作り上げるものです。本当に現在が全てです。現在と現在が重なり合って未来を形成するのです。無駄に将来を夢見るな。ただ今、自分は何をしているのか、何を考えているのか。これが積み重なって未来となり、一生となるのです。ある医学者は言いました。「フグの毒素は蓄積するのではないか」と。この蓄積された毒素が、結局中毒に導くのではないかと。このフグの説には、私は門外漢だから何とも言えませんが、世の中には蓄積された毒素で、結局潰れる人が非常に多いのです。一つの嘘は百の戒めを生むと言います。そして、結果においては嘘の害が身に及ぶことは、「狼と子供」の童話でも知られることです。反対に、一つの信用がだんだん蓄積して、その人の未来を輝かしくした例は数えきれないほどあります。端的に今が一番大切であると、葉隠では生涯は究極、一瞬に分解できるというのです。「思い立ったが吉日」と言い、学問を始めるのに年はないと言い、あらゆる宮はも、この端的に今の思想を持っています。「時は金なり」も、「高い夜の衣」も、皆その意味の根源であることに違いありません。しかし、この葉隠のように、端的に今の「一瞬」より他はこれなく、そうと喝破したのは、さすがにこれが永遠に武士道の指導書たるべき価値を実証するものです。しかも、生涯を端的に今の「一瞬」よりなしと断定するに至っては、何という徹底ぶりでしょう。葉隠の精神は、中途半端や生ぬるさを極端に排撃しています。あくまで徹底です。「やり直す」、これが葉隠全体に通じた大動脈です。


死の哲学。日中戦争は、日本国民の精神の心髄を明らかにした。外来の思想が注入され、かつては自由主義の毒花が咲き、個人主義の醜さが街頭に溢れ、生きる希望を失った若者たちがデカダンスやナンセンス、グロテスクなものに溺れ、ジャズの音楽の陰で暗い日曜日の感傷に浸り、果ては見原山に心の王国を築くような状況だった。誠に嘆かわしいことであった。混沌とした思想界はどうなるのかと危惧された。しかし、日中戦争の勃発とともに、今まで萎えていた身体が活力を取り戻し、本来の姿を取り戻して人前と輝き出した。そして、中友無双の我が兵士たちは、歓呼の声に送られて戦場に赴き、鬼人をも泣かせる壮烈な働きをし、あっぱれなる戦士ぶりを示すのである。「人道主義の時代の王者であった」とルソーは正に何を掴んだのか。トルストイの悩みは結局、死の恐怖であった。しかし、日本国民には国家のため、大義のためならば死の恐怖はない。むしろ、死の大歓喜が約束されているのである。世界の文豪が極端に悩んだ問題は、日本ではすでに解決済みの問題である。もしトルストイが日本に生まれていたならば、彼の芸術は明るく輝かしいものになっていただろう。これを思うと、日本の国柄の有難さが一層感じられる。さて、このような日本精神が発揮されるのは、日本に武士道があり、その武士道が我々の骨の髄まで染み込んでいるからである。自由主義、個人主義が一時的に栄えたのは、明治維新以後、町人哲学が時の思想を支配したかに見えたからである。しかし、今や人々は超人哲学から覚め、武士道精神へと回帰したのである。そして、今回の日中戦争の栄誉ある勝利の連続があったのである。葉隠はこの死の問題について、最も果敢に徹底的に語っている。「武道を守るべきことは珍しくないが、皆油断しているように見える。その理由は武道の体位を問われた時に即答できる人が稀だからである。」武士道とは死ぬことと見つけたり。2つの選択肢がある場面で、早く死ぬ方を選ぶだけである。別に理由はない。胸を据えて進むだけである。犬などということは、武士道の体位である。2つの選択肢がある場面で常に死ぬ方を選ぶのは難しい。我々は生きる方が好きで、多分生きる方に理屈をつけるだろう。戦いに負けて生き残ったら恥である。戦いに負けて死んだら式違いであるが、恥にはならない。これが武士道である。まやさゆ死を覚悟して生きることで、武道に自由終え、一生落ち度なく職務を全うすることができる。武士道とは死ぬことであると断言し、「犬などというのは武士の口にすべきことではなく、君のためには大いに対峙せよ」というのである。二つに一つという場合に、思うようにしようとするのは無理である。しかし、人がも生きる方が好きで、そういう場合には多分生きる方に理屈をつけたいものである。だから、もし思うようにならずに生きていたならば、それは腰抜けで、思うようにならないで死んだならば、あるいは人は犬とか、気が違ったとか言ったとしても、これは武士道として恥にはならず、これがすなわち武士道でいうところの丈夫であると喝破している。従って、まやさゆ国のため、君のために死に、改めて死に、常に死ぬことを念願として、常に死に身になって尽くすことによって初めて武道に自由燃えられ、一生落ち度もなく職務を全うすることができるのである。全く、死を鴻毛の軽気において、死の恐怖の影など少しもない。これは、自己を全部没却して大義に捧げる徹底ぶりである。こうしてこそ、この国柄の有難さが分かるのである。方向人は主君を大切にすることが最も重要であり、大々名誉ある主君の家に生まれ、先祖代々の恩に感謝し、身も心も捧げて主君を大切に思うべきだと解いている。その上で知恵や芸能があり、それに応じた役割を果たすことができれば幸せだが、たとえ何の役にも立たない不器用なものであっても、ただ一心に主君を大切に思う心があれば、それが信頼できる武であり、嫌いであるとしている。知恵や芸能だけで役に立つのは最低のことであると言っている。この考えを現代に解釈すると、日本国民はただ天皇陛下と日本国のために尽くすことが最上の国民である。先祖代々から天皇の恩寵を受け、今日に至ったことに感謝し、身も心も捧げて一心に国に報いるべきである。その上で学問や才能があり、それに応じた国家の役に立つことができれば幸せだが、たとえ何の役にも立たないものであっても、ただただ国に報いる心があれば、それで立派な日本国民である。学問や芸能だけで役に立つのは最低のことであると解釈できる。さらに主君の見方として、善悪を問わず身を捧げる。鶏技に例がない数人いれば、ご所方が暗くなる。長く世間を見ていると、上手くいっている時は知恵や分別、芸能で役に立ち褒めきまるものが多いが、主人が隠居したり亡くなったりすると、すぐに日の当たる方に取り入るものが多く、思い出しても汚らしい。耐震、小心、知恵深い人、芸のある人こそ役に立つが、主人のために命を捨てる段になると、ヘロヘロとなる。香ばしいことは少しもない。何の役にも立たないものが、いざという時には一人で千人分の働きをするのは、兼ねてから命を捨てて主人と一心同体であるからだと言っている。つまり、まやさゆ死ぬことを覚悟し、死に改めて、ただ今、忠誠の一年に凝り固まった徹底者にならなければならないと教えている。いざという時に役立たず、命を捨てられないものは、どんなに才能があっても鳥にも足らないというのが、葉隠の真髄です。


縁の下の力持ち。これについて、日露戦争中の日本海大海戦での大勝利に葉隠精神が発揮されたこと。海軍少将の向田金一閣下は、海軍戦史の一君和集の中で述べています。平学校時代に、展覧室で収容に関する書物を読んでいる時に、サロンゴと呼ばれる葉隠を見て、徳川時代の武士道の華やかな時代に、君の前で巧妙を立てることが真の武士道精神を堕落させると強調していたり、時と場合によっては犬にすることが本懐だと強調していたのに深く感銘を受けました。これが頭にこびりつき、このことを五箇条の誠の精神と結びつけて考えていました。日露戦争の時、私は威物二番分隊士として、ウルさを機械戦などに参加しましたが、私の戦闘配置は上カッパで、いつも戦闘の状況を見ることができて非常に爽快で、また幸福に思っていました。ある時、ミッドウォッチで私は当直商工である、第五分隊長、堀江長吉大尉の副官に立ちました。第五分隊長は弾薬庫分隊長で、戦闘の時はいつも下カッパで、敵の状況を見ることができません。その時に、堀江大尉が「私は戦闘の時、その場面を見ることはできないが、私のような縁の下の力持ちがいないと、一艦の戦闘力が発揮できないと思って勤めている」と述懐されましたが、これは葉隠の精神と一致していると感じました。明治37年の暮れに、私は第19艦隊の幹に転勤し、第2艦隊に属して千島海峡の哨戒に従事しました。その時の司令は松岡中佐で、私は先任商工でした。哨戒勤務も密輸入する商船を監視するのが主で、敵艦に合うこともなく、華々しくはありませんでした。その時、司令が「直接、大敵行動をするでもなく、ほとんど後方勤務をしているのはつまらない話だが、誰かがやらねばならぬ。やるものがつまらぬと思えば、そこに欠陥ができるから、我々は一生懸命にやらねばならぬ」と言われました。堀江大尉と同じことを言われたのです。さて、ますますバルチック艦隊が来航してくるので、連合艦隊では迎撃作戦がなされ、その中にXXXなるものが計画されました。それは浅間艦長、八代大佐が艦隊を率いて、敵の前衛を訳し、白昼に白して敵主力との戦闘を威嚇しようというものでした。その時に、川司令の第9艦隊が選ばれましたが、その魚雷が良くないというので、第19艦隊の幹に魚雷交換を命じられました。私は非常に不満でした。せっかく調整した、しかも自信のある魚雷を他人に渡して、手柄を立てさせるというのは、面目上もよろしくないと非常に不満でしたが、交換することになりました。それを思い出したのが、前に述べた葉隠のこと、出雲の堀分隊長の話、それに司令の教訓でした。「全体のために犠牲になる、これもやむを得ない」と。第19艦隊も、もちろん日本海海戦に参加しましたが、これという手柄もありませんでした。しかし、27日の夜は敵を求めて戦場を駆け巡り、28日、ウルラ島の沖で三笠にあって戦況を伺いました。そして、27日から28日にかけての戦闘において、日本全艦隊の将士が分に応じ、性能に応じ、全力を発揮したことを涙がましく感じ、自ら慰めるところがありました。昔から抜け駆けの手柄を戒めています。抜け駆けの手柄は個人的には爽快かもしれませんが、全体の作戦を誤るものです。日本海海戦においては、哨戒隊、接触隊、戦闘線隊、巡洋艦戦隊、駆逐隊、停滞はもちろん戦場掃除隊まで完全無欠に任務を果たしたと思います。尊氏のいわゆる、「古くよりよく戦うものは、地名もなし、勇名もなし」と。日本海軍全体が、統合長官の唐突の下に、全ての期間が適所にあって全力を尽くしましたから、初めて神命の加護もあるのです。大和魂は、日本国体の淵源にする日本精神です。日本国民は建国の初めから、一眼となり、全て指針を持たなかった。この精神は物部の御子の、「大味の人の間、間に聞くともぞ」という歌に現れています。日本の武人は、事故の手柄などは二の次で、国家のため、国の為、有事には全てを捧げて尽くすのだということが、日本海海戦で見事に発揮されたと思います。この精神は、折に触れ、時に触れて色々な形で現れています。両下賃の三有子の精神は、日本国民全てに通じた精神の一つの表現で、その根本は祖先から伝わった日本魂であり、これを親切に教えられた五直教であると思います。収容は、五箇条の精神を得得するところに、その心髄が得られると思います。この所感という題名で、縁の下の力持ちとして述べられています。

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最終更新:2025年02月04日 10:15