#228
/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 3/14 10:37 (127)
ナンダマーター
★内容
増支部経典七節 第五 大犠牲祭品
五〇 ナンダマーター
一 このようにわたしは聞いた。
あるとき、聖者サーリプッタ(次に来る子供)と聖者マハーモッガラーナ(偉大な
る乗り物の軌道)はダッキナーギリ(南の山岳)において、大向煩悩滅尽多学男出家
教団と一緒に動き回って生活しながら旅行していた。
ところでそのとき、ヴェールカンタキー・ナンダマーター(とげのある竹のような
喜悦の母)帰依信女は、夜の明け方に起床し、『最高の要点』を声を出して唱えてい
た。
ところでそのとき、守庶民外傷天の大王はまさに何かの職務のために、北の方角か
ら南の方角へ行き、実に守庶民外傷天の大王は、ヴェールカンタキー・ナンダマータ
ー帰依信女が『最高の要点』を声を出して唱えているのを聞いた。聞くと、話の終わ
りを待ってとどまった。直ちに、ナンダマーター帰依信女は『最高の要点』を声を出
して唱えることを終えて、黙った。直ちに、守庶民外傷天の大王はナンダマーター帰
依信女の話の終わりを知り、大いに喜んだ。
「素晴らしいことだ、姉妹よ。素晴らしいことだ、姉妹よ」と。
「ところでだれですか、その顔が神の恩恵をもたらす人よ」と。
「姉妹よ、わたしはあなたの兄弟である守庶民外傷天の大王だ」と。
「素晴らしいことです、その顔が神の恩恵をもたらす人よ。少し前このわたしによっ
て話された、この法則の要点、これがあなたへの接待となりますように」と。
「素晴らしいことだ、姉妹よ。そして、まさにこれはわたしへの接待となろう。明日、
サーリプッタとマハーモッガラーナを長とする向煩悩滅尽多学男出家教団が、朝食を
行なわずにヴェールカンタカ(とげのある竹のようなもの)に来るだろう。そして、
その向煩悩滅尽多学男出家教団に給仕して、わたしに寄贈を捧げよ。そして、まさに
これがわたしへの接待となるに違いない」と。
二 直ちに、ナンダマーター帰依信女は、その夜が経過してから、自分自身の所で、
極妙の硬い食べ物と軟らかい食べ物を用意させた。なおまた、サーリプッタとマハー
モッガラーナを長とする向煩悩滅尽多学男出家教団は、朝食を行なわずにヴェールカ
ンタカに入った。直ちに、ナンダマーター帰依信女はある下男に呼びかけた。
「来なさい。いいかい、下男よ、あなたは大庭園に行って、向煩悩滅尽多学男出家教
団に時を告げなさい。
『尊者よ、奥様ナンダマーターの所で食事の用意ができました。時間です』」と。
「わかりました、奥様。」
と、実にその下男はナンダマーター帰依信女に対して承諾し、大庭園に行って、向煩
悩滅尽多学男出家教団に(食事の)時を告げた。
「尊者よ、奥様ナンダマーターの所で食事の用意ができました」と。
直ちに、サーリプッタとマハーモッガラーナを長とする向煩悩滅尽多学男出家教団
は、早朝正装し、上衣と鉢を持って、ナンダマーター帰依信女の所に行った。行くと、
用意された座に座った。直ちに、ナンダマーター帰依信女はサーリプッタとマハーモ
ッガラーナを長とする向煩悩滅尽多学男出家教団に、極妙の硬い食べ物と軟らかい食
べ物によって、自らの手で満足させ、存分にもてなした。
なおまた、聖者サーリプッタが食べてしまって、手で鉢を置いたとき、ナンダマー
ター帰依信女はそばに座った。そばに座ると、実に聖者サーリプッタはナンダマータ
ー帰依信女にこう言った。
「ところで、ナンダマーターよ、だれがあなたに向煩悩滅尽多学男出家教団の到着を
告げたのか」と。
「尊者よ、ここにわたしは、夜の明け方に起床し、『最高の要点』を声を出して唱え
終え、黙りました。直ちに、尊者よ、守庶民外傷天の大王がわたしの話の終わりを知
って大いに喜びました。
『素晴らしいことだ、姉妹よ。素晴らしいことだ、姉妹よ』と。
『ところでだれですか、その顔が神の恩恵をもたらす人よ』と。
『姉妹よ、わたしはあなたの兄弟である守庶民外傷天の大王だ』と。
『素晴らしいことです、その顔が神の恩恵をもたらす人よ。少し前このわたしによっ
て話された、この法則の要点、これがあなたへの接待となりますように』と。
『素晴らしいことだ、姉妹よ。そして、まさにこれはわたしへの接待となろう。明日、
サーリプッタとマハーモッガラーナを長とする向煩悩滅尽多学男出家教団が、朝食を
行なわずにヴェールカンタカに来るだろう。そして、その向煩悩滅尽多学男出家教団
に給仕して、わたしに寄贈を捧げよ。そして、まさにこれがわたしへの接待となるに
違いない』と。
すなわち、この布施の功徳と利益は守庶民外傷天の大王の楽となりますように」と。
三 「素晴らしいことだ、ナンダマーターよ。格別なことだ、ナンダマーターよ。全
く、このように大いなる如意とこのように偉大なる能力のある愛欲神の息子、守庶民
外傷天の大王と直面して共に話したからだ」と。
「実にわたしにとって、尊者よ、素晴らしく格別な法則はこれだけではないのです。
わたしには他にも素晴らしく格別な法則があります。
尊者よ、ここにわたしには、ナンダ(喜悦)という名前の親愛で愉快な一人の劣等
の息子がいましたが、まさに何かの報いを受けて、国王たちが彼を力ずくで連れ去り、
生命を奪おうとしていました。しかし、尊者よ、実にわたしは子が捕らえられたとき、
あるいは捕らえられているとき、あるいは殺害のとき、あるいは殺されているとき、
あるいは攻撃されたとき、あるいは攻撃されているときに、心に対して(真理の教え
に対する)意見の食い違いを証智することがなかったのです」と。
四 「素晴らしいことだ、ナンダマーターよ。格別なことだ、ナンダマーターよ。全
く心の起因も欠点をなくさせているからだ」と。
「実にわたしにとって、尊者よ、素晴らしく格別な法則はこれだけではないのです。
わたしには他にも素晴らしく格別な法則があります。
尊者よ、ここにわたしには、逝って、ある人食い鬼神の子宮に転生した主人がいま
したが、彼はまさにその以前の姿をわたしに現わしました。しかし、尊者よ、実にわ
たしはこれによって、心に対して(真理の教えに対する)意見の食い違いを証智する
ことがなかったのです」と。
五 「素晴らしいことだ、ナンダマーターよ。格別なことだ、ナンダマーターよ。全
く心の起因も欠点をなくさせているからだ」と。
「実にわたしにとって、尊者よ、素晴らしく格別な法則はこれだけではないのです。
わたしには他にも素晴らしく格別な法則があります。
尊者よ、わたしは若い主人のまさに若い妻として連れてこられたときから、意識に
よっても浮気をすることがなかったのです。したがって、身によっては、どこに浮気
することがあるのでしょう」と。
六 「素晴らしいことだ、ナンダマーターよ。格別なことだ、ナンダマーターよ。全
く少しの心の起因でさえも欠点をなくさせているからだ」と。
「実にわたしにとって、尊者よ、素晴らしく格別な法則はこれだけではないのです。
わたしには他にも素晴らしく格別な法則があります。
尊者よ、わたしが帰依信女としてザンゲするときはいつも、何も教えの真相に意志
して逸脱したことを証智することがないのです」と。
七 「素晴らしいことだ、ナンダマーターよ。格別なことだ、ナンダマーターよ」と。
「実にわたしにとって、尊者よ、素晴らしく格別な法則はこれだけではないのです。
わたしには他にも素晴らしく格別な法則があります。
尊者よ、ここにわたしは極限に願うのです。種々の愛欲からまさに遠離して、種々
の不善の法則から遠離して、有熟考有吟味にして、遠離から生じる喜と楽とがある、
第一の静慮を達成してとどまります。
種々の熟考と吟味を静止し、心の中を落ち着かせ、心が一点に集中し、無熟考無吟
味にして、サマディから生じる喜と楽とがある、第二の静慮を達成してとどまります。
喜をもって、そして種々の離愛著と無頓着としてとどまり、記憶修習し正智して、
そして身によって楽を覚え、ちょうど、聖人たちが『無頓着にして記憶修習がある楽
の時を過ごす』と明かす、第三の静慮を達成してとどまります。
楽の捨断と苦しみの捨断から、まさに以前の種々の幸福と落胆の全滅から、不苦不
楽にして、無頓着と記憶修習による純粋とがある、第四の静慮を達成してとどまりま
す」と。
八 「素晴らしいことだ、ナンダマーターよ。格別なことだ、ナンダマーターよ」と。
「実にわたしにとって、尊者よ、素晴らしく格別な法則はこれだけではないのです。
わたしには他にも素晴らしく格別な法則があります。
尊者よ、世尊が指し示された、これら五つの下位に結び付けるきずなは、わたしは
自分自身において、それらの何も捨断されていないのを認めないのです」と。
「素晴らしいことだ、ナンダマーターよ。格別なことだ、ナンダマーターよ」と。
直ちに、聖者サーリプッタはナンダマーター帰依信女を、法則の話によって悟らせ、
鼓舞し、目覚めさせ、誉め称えて、座から立って帰った、と。
#229
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/14 19:49 (160)
オウム真理教>説法>天へ行く者、悪趣へ行く者1
★内容
天へ行く者、悪趣へ行く者
1991年2月3日
◎求め続けた法が今・・・・・
わたしたちが欲六界の構成を理解することは、何をなせばどうなるのかという、
つまり原因と結果の正確な把握につながるわけである。この正確な把握をしない限
り、わたしたちは正しくない実践、つまり邪明見解の実践を行なうこととなる。
まずわたしたちが、この三界をクリアに理解するためには、身・口・意の浄化が
必要である。この身・口・意の浄化とは何かというと、まず土台としてなされる布
施、そして持戒の徹底に尽きると。その上に、カルマを落とされる忍辱、そしてそ
の浄化された器をより一層浄化する二正勤二正断と。この四つのプロセスをしっか
りと通過した者が正確に瞑想に入ればサマディ、サマディに導かれ、そして智慧へ
と到達するのである。
この智慧によって得た三界の経験、この三界の経験をもとにいろいろな仏典が説
かれているわけである。ということは、この仏典の内容が大ざっぱに書かれている
理由は、一つ一つを、例えば西洋の神秘学者、あるいは西洋の哲学者、あるいは西
洋の霊能者といった者たちが書いている細かな描写をするならばあまりにも膨大に
なり過ぎるがために、簡単に描写されているのである。これはどういうことかとい
うと、つまりベースになっている基本的世界観の違い――基本的ち、世界観の違い
とは、西洋的な世界観がその東洋的世界観の一部であるということを踏まえるなら
ば、よくわかるはずである――つまり、小さな器の内容を細かく説明して大量の本
を出している、あるいは大量の、大量の表現をしているのが西洋的な神秘世界の内
容であり、あまりにも大きいがためにその説明を簡単に述べている、それでいても
膨大なのが要するに仏教観ということになる。
今わたしは、やっと天界について説き出した。この天界について説き出した理由
というのは、前回の東京の説法でも述べたとおり、多くの疑問が解けてきてるから
である。そして、この多くの疑問が解けてきてる背景には、ここにいる信徒の皆さ
んがこの無明の日本の中にあって真理を求め、一生懸命功徳を積んでらっしゃると。
その功徳に対しては、しっかりとしたサットヴァの答えを提供することによって、
つまり皆さんの求めている世界観を提供することによって、カルマの法則というも
のは成立するということを理解していただければよくわかるはずである。
ということは、今やっと天界の話が始まったわけだから、この中のまた一部の方
が一生懸命修行なさり、そしてその光が広大となれば、わたしの説く法も当然色界
のもっと高いレベルの話、そして無色界の高いレベルの話を詳細に説くこととなろ
う。それがわたしの役目だからなのである。この天界の話のポイントは、何をなせ
ばどの天界へ生まれ変わるか、何をなせばあるいは三悪趣へ生まれ変わるかという
ことなのである。
◎カルマはこのようにして返る
まず、その前にお話をしなければならないことがある。それはカルマの理法とい
うものは、自作でないということなのである。自作とは何かというと、自分のなし
た行為、その行為がダイレクトに結果を招くのではないということである。その行
為の条件、そして対象、この三つが絡み合って初めて正確な結果を招くのである。
これは例えば、大変憎しみの強い人がいたとして、その人を思いっきり殴ったと。
もう一人は無智のためにボーッとしてる人がいたとして、思いっきり殴ったと。も
う一人は修行者でカルマを落とされたいと思っている人がいたとして、思っきり殴
ったと。この三者においては、三者のカルマの返り方があるということなのである。
例えば、第一の例の憎し、憎しみの強い人は、殴ったがために身のカルマだけで
はなくて、相手の憎しみという強烈なカルマを受けてしまう。第二のパターンは、
殴ったがためにその殴られたと、殴ったというカルマだけではなく相手の無智を受
けることになる。第三のパターンは、殴ったがために殴ったという行為と同時に殴
られた対象がもし、「ああ、カルマ落とされてありがとうございました」という思
念をしたならば、それと同じように今度殴られることによって自分自身の修行が進
むというカルマを積むことになる。この三者は三様で違うということである。
これは、例えば善業である布施に対しても同じである。相手の四無量心が広大で
あれば、その対象に対して布施をなせば、当然それは広大な形で返ってくる。ある
いは相手が大変商売のうまい人であれば、当然商売がうまくなるという形で返って
くる。相手が知性が高ければ、当然知性が高いという形で返ってくる。相手が解脱
に向かっていれば、当然解脱に向かうという形で向かってくる。しかし、なした布
施、この布施の行為は同じであるということである。
このような形で現象を分析するならば、なぜ同じ行為を行なっているのに、結果
が違うのかということが如実にわかるはずである。これを土台として経典を読んで
いくならば、例えば前回の『布施品』ね、ま、今月号かな、あの『布施品』につい
ての、あの経典があるわけだけどその内容がよく理解できるはずである。そして、
この一つ一つの現象を正確に分析するならば、何を持てば第一天界へ生まれ変わり、
何をなせば第二天界へ生まれ変わり、何をなせば第三天界へ生まれ変わり、どうい
う修行をなせば第四天界へ生まれ変わり、いかに成就すれば第五天界へ生まれ変わ
り、ということが理解できるはずである。そして、功徳と瞑想の修習によって第六
天界へ生まれ変わるんだということも理解できるはずである。
◎天へ赴く
まず、この第一天界の条件は、ある意味で現世的な功徳というものが優位になっ
てくる。その第一は、例えば会社、あるいは組織、あるいは国を堅固に統治し、す
べての人に幸福を与えようと願い、努力し続けた者の行く世界。この第一天界は、
例えば日本、例えばアメリカ、例えばイギリス、例えば中国といった一つ一つの国
に一人一人担当官が存在している。担当神がと、存在していると。そしてその国が
順調に運べるように、運営ができるようにと統治をしている天界である。第、うん、
第一天界の第二番目は、これは、すべての魂が物理的にしっかりと成長するように
ということを管理している天界である。例えば今のように、木が切られ、砂漠化す
ると。あるいは生き物が大量に殺されるといったのは、この第一天界の成長を担当
する神々にとっては大変な悲しみであり、怒りを招くことになる。そして、もし生
き物を慈しみ、殺生を離れ、修行し続けるならば、この四大天王の一人として生ま
れ変わることができるのである。第一天界の第三番目、これは天空を司っている天
界である。ここは、龍を支配している。そして例えば五穀豊饒の祭りを行なうとか、
あるいはすべての魂のために、例えば気候が平静であってほしいと願うとか、ある
いは実際に環境汚染の問題を解決するとか、そういうようなことをなす人、この人
が来世第一天界のこの四大天王に生まれ変わるのである。そして、第一天界の四番
目、これは名医が、特に外科的な名医が転生する世界である。この世界は、庶民が
怪我をしないように、外傷に遭わないようにということを管轄している天界である。
もちろん、これは来月に出てくる『パーヤーシ経』にも詳しく載っているが、布施、
そして持戒の厳守、この二つがこの天界で優位となる条件となる。
第二てんか、天界は有能神の天界である。この有能神の天界とは何かというと、
もともと知性の高い人が、その知性を生かし、大いに救済に役立った場合、行ける
天界である。例えば、商売のうまい人がその商売を利用して得た利益を布施すると、
布施することによって救済計画が大いに進むと。あるいは、例えば何らかの特殊な
技能を持っている人がその技能を提供すると。つまり奉仕活動に入ると。それによ
って救済活動が成功すると。この例えば第二番目の例は、絵を書く人が例えば救済
計画に参加し、マンダラを描き、そのマンダラによって多くの人を救済したと。こ
のような場合、行く世界、これが第二天界なのである。
そして、第三天界は、これは、ま、この世界は、わたしは若干くわ、この世界か
ら上はちょっと若干詳しいんだけど、第三天界は、まず、あのここへ生まれ変わっ
た者は体が切れてもすぐ元に戻るとか、そういう決められた生命の間は死なない天
界であると。あるいは傷ついてもその傷が即座に癒えてしまうという特殊な天界な
のである。そして、この天界は空を飛ぶことが自在であり、目的地、目的に対して
は瞬時に移動できるという天界である。で、ここの天界へ生まれ変わるためには、
まず、真理、つまり死、生、このし、生と死、この生と死を超越する教えに多くの
者を導く。例えば、ま、今あの横浜では、す、ね、数人、何人も導いてらっしゃる
方がいるが、こういう人たちは第三天界のカルマを作っていると言える。これはな
ぜかというと、この現世的な価値ではなく、死後の価値というものを提供すること
になるからである。そして、ここの王に生まれ変わるためには、ポアに熟達した魂
が王として生まれ変わることになる。つまり、この第三天界は完全に死と生を知り
尽くしてる者、あるいはその死に対して奉仕をなしてる者、この死に対して奉仕を
なしてると、とはどういうことかというと、人間の短い生だけではなく、長い長い
死に対して、そして、次の生を決定する死に対して、しっかりと功徳を積んでる者
の行く世界、これが第三天界なのである。
では、第四天界、この第四天界は除冷淡天と言われているわけだが、この第四天
界とはどういう天界だろうかと。この天界はまず、嫌悪を滅尽し、博愛の心を持っ
ている者、慈愛の心を持っている者。あるいは貪りを離れ、布施の心を持っている
者。そして、この現世的な価値ではなく、しっかりと真理に作意し、教学をしてい
る者。この三つの条件を備えた者が行く世界。しかも一、二、三を同時に内在して
いる人。この人が行く世界である。
例えば仏典ではアナータピンディカ長者やあるいはマリッカー、という王妃ね、
これはあのパセーダ、パセーナディー王の王妃ですが、こういう方々が行く世界で
ある。行った世界である。そしてここには、マイトレーヤ如来が存在し、二千五百
年前の仏陀釈迦牟尼の弟子たちが多く存在している。そしてここはまた、一来果の
魂の行く世界であると言われています。
ということは、だいたい見当がついてきたと。第一天界は、ベーシックな生き方
をしっかり行なえばいいんだなと。つまり観念的な生き方を行なえばいいんだなと。
第二天界へ至るためには、とにかく自分の持っている才能をフルに生かして救済活
動の手伝いをすればいいんだなと。第三天界へ至るためには、とにかく導き、そし
て真理を、あの、死に対してね、しっかりと理解することが必要なんだなと。第四
天界に生まれ変わるためには四無量心の実践が必要なんだなと、いうことになる。
そして、第五天界はこれは創造満足天といわれていて、いろいろな物を自分で作
り出してそこで満足する世界である。ここはまあ一種の神通の世界であると。しか
し、ここで作り出、作り出される世界は煩悩である。
では、第六天界はどうかというと、その煩悩に加えて功徳を有する魂が行く世界
である。つまりどういうことかというと、他人があるいは他の魂が自分を満足さし
てくれると。そ、その大きな功徳と同時にその人もあるいは周りの人も瞑想の力が
あって、そしてその神秘的な力によって満足さしてくれると。この世界が第六天界
である。
そして、この上にある神聖天、この神聖天は、ま、今までオウム真理教の出版物
では梵天といわれていた、この梵天を、ブラフマンを正確に訳すならば神聖、神の
聖の天ということになります。この天界へ至るためには、まず煩悩を離れ、そして
ひたすら瞑想を修習すると。これは仏教徒でなくても行ける、真理の実践者でなく
ても行ける世界である。それは煩悩さえなければ、行ける世界であると。
そして、これらの世界観、つまり、どの世界に行くためにはどういう修行が必要
である、どの世界に生まれ変わるためには何々がもく、あの、必要であるというこ
とをしっかりと理解して修行を続けるならば、それを思念し続けるならば、必ずや
来世その世界へ生まれ変わるはずである。それはちょうど、例えばスカイラインを
買うために金額を知り、そしてその金額のためにひたすら努力をし、そしてそれを
購入する。あるいは、アメリカ旅行するためにひたすらまずアルファベットから学
び、そして英会話のテープを買い込み、一生懸命英会話の練習をし、アメリカへ行
き成功するというのと同じである。つまり、すべては原因があり結果があるわけだ
から、何を努力すればいいかをしっかりと把握すればよろしい。
(つづく)
#230
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/14 19:53 ( 78)
オウム真理教>説法>天へ行く者、悪趣へ行く者2
★内容
◎落下!地獄・餓鬼・動物への転生
では、そのための土台は何かというと、それは布施、そして持戒なのである。で
は、その布施、持戒を確実にしていくためには何をなせばいいのかというと、それ
は四つの預流支なのである。では、この四つの預流支をなさなければどうなるのか
というと、それは三悪趣へ落ちるのであるということである。
なぜならば、地獄は完全に自と他の区別のはっきりした空間である。例えば、こ
こに一つ、ね、理解していただきたいことがある。それは、わたしたちがお風呂に
入ると。そして三〇度から、ま、四〇度ぐらいまでお湯は気持ちいいと感じると。
しかし、二〇度、一〇度になると冷たいと感じると。もちろん、五度、三度となる
と大変冷たいと感じ、入るのが苦痛である。あるいは、四二、三度まではいいかも
しれないから、が、四五度、五〇、六〇となるともうそれは大変な苦痛であると。
これはわたしたちのカルマがちょうど三〇度から四〇度の間に存在してるというこ
とを意味している。
ところがもし、嫌悪の強い人がいたらどうなるだろうかと。熱い、寒いという感
覚が強ければ、その三〇度から四〇度の空間が例えば三五度から三八度の空間へと
狭め、狭められてしまう。すると、三〇度、三一度、三二度といった快適な温度も、
その魂にとっては大変な苦痛になる。地獄はこれと同じなのである。嫌悪の心を修
習し続け、修習し続けるがために、その世界へ落ちると。そうすると、その激烈な
苦しみというのは、その人の嫌悪によって増大された激烈な苦しみなのである。よ
って、この嫌悪を滅するということは、たとえ地獄へ転生してもその苦しみが軽減
されると。あるいは、地獄へ転生しないカルマをつくることになる。
貪りも同じである、これは。この貪りというものはとめどもない。例えば、しっ
かりと瞑想してれば一日一食で、しかもそんなに量を多くとらなくても体は安定す
る。しかし、貪りの心があるとどんどん食べ、プラーナをそこに消耗させると。あ
るいは、物をどんどん集め、心をどんどんどんどん貪りのこ、心に支配させてしま
うと。
ということは、例えば餓鬼の世界に物がないのかというと、そうではなくて若干
はあるのである。しかし、そのある物質に対して心が満足せず、それより例えば量
を求め、あるいは質を求めるがゆえにそこから餓鬼の世界というのは苦しむことに
なっているのである。
動物の無智も同じである。例えばわざわざ天敵のいる、つまり自分自身の身体を
傷つけられる対象の側へ行き、恐怖し、おびえ、逃げると。あるいは、そこで殺さ
れてしまうと。もし、動物が無智でなければ、そういう恐怖のないところにまずし
っかりと様子を見、例えば上から様子を見、下から様子を見、そして獲物を捕りに
行き、そしてまた自分の空間へと帰れば恐怖はないはずである。ところが動物は無
智なるがゆえに、その対象をしっかりと認識せず、そしてその苦しみの空間へと身
体を運んでいってしまい、そしてその動物連鎖の恐怖に苦しむのである。
◎五蘊を神々の状態に
これらのことを理解すれば、わたしたちが嫌悪、貪り、無智から解放されること
は、しいては自分自身が楽になることであり、そして自分自身が幸福になることで
あることが理解できるはずである。
このような形で地獄、餓鬼、動物を知り、あるいは天を知ることによって、この
人間の生き方が決定されてくる。そして、この人間の生き方の最も理想的な生き方
は、四つの預流支を背景として生きることである。四つの預流支を土台として生き
ることである。では、この四つの預流支とは何であろうかと。
これは根本的なグル、あるいは仏陀、シヴァ大神に対して絶対的な信を持つこと。
第二番目の、第二番目は真理に対して絶対的な信を持つこと。第三はサンガに対し
て、つまりオウム真理教では教団に対して信を持つこと。これが第一グループの預
流支である。
そして、第二グループの預流支は、多学の弟子になることである。多学の弟子に
なることとは、例えば送られてくる『マハーヤーナ』、『真理の芽』、説法テープ、
こういう説法会等を利用し、何度も何度も記憶修習をすること、そしてその記憶が
パッと出てくるまで努力すること、これが第二グループの預流支である。そして、
第三グループの預流支は何かというと、これはその記憶修習したものにのっとり思
索をすることである。これが第三グループの預流支である。そして、第四グループ
の預流支はその思索した結果、身・口・意にのっとり実践することである。
ということは、この第二グループの記憶修習、この多学というものは正しい見解
を身につけるということになる。つまり聖なる八支の実践の中の第一の道というこ
とになる。そして、第三のそれに基づき考えるということは、正思惟、つまり正し
く思索をするということになる。これは聖なる八支の実践の中の第二番目になる。
そしてそれにのっとり身の行ないを統御し、口の行ないを統御し、心の働きを統御
するということは、聖なる八支の正語、そして正行為、正生活、そして正精進、正
記憶修習、そして最後の正サマディということを意味してるのである。ということ
は、この四つの預流支は、聖なる八支の実践のもっともっとそれをね、コンパクト
にしたものなのである。
このような形で考えれば、何をなせば天へ行き、何をなせば悪趣へ生まれ変わる
のか、何をなせば幸福になり、何をなせば不幸になるのかが一目瞭然である。そし
て、時間をかけ、わたしたちのこの五蘊を少しずつ少しずつ神々の状態に変えてい
くこと、これが修行なのである。わたしも皆さんと同じようにできるだけ長く生き、
この五蘊をより一層完全な形にしたいと考えています。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#232
/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 3/15 9:23 (187)
麻原尊師説法 三乗の修行とグルのステージ
★内容
三乗の修行とグルのステージ
1990年3月31日 富士山総本部道場にて
はい、今日の、あの講話は少し難しいかもしれないけども、まあ君達は今一生懸
命教学をやっているわけだから、しっかりと理解するようにしなさい。
それは、あの、よく質問がある、えー、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・
ヴァジラヤーナ、これとラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ、マハー・ムド
ラーと。で、あの、チベット仏教では、このラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨ
ーガ、マハー・ムドラーのプロセスを、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤー
ナに当てはめているという話を私はよくするわけだけども。で、まあこの詳しい話
を少ししなければいけないと。そしてそれと同時に、もう一つは、師匠の三つのス
テージと。まあ、師匠、あのグルの三つのステージというものについても、今日は
話したいと思います。
え、まず、ラージャ・ヨーガの原則は否定であると。そして、ヒナヤーナの原則
も否定であると。これはよくわかるはずだ。ということは、ヒナヤーナの中に、の
中心はラージャ・ヨーガと言えないことはないと。そして、マハーヤーナの原則は
否定も肯定もしないことであると。クンダリニー・ヨーガの原則も否定も肯定もし
ないことであると。ということは、クンダリニー・ヨーガの要素を持っている人は、
大乗の要素、これを持っていると言えないことはないと。同じように、マハー・ム
ドラーの修行というものは、これは、苦というものを創造する、あるいは煩悩とい
うものを肯定すると。そして、それを課題として修行を進めていくと。タントラ・
ヴァジラヤーナのタントラの修行、このタントラの修行は、人間の持っている煩悩、
楽というものを中心に修行を進めていくと。ヴァジラヤーナの本質は、逆に苦とい
うものを見つめ、修行を進めていくと。
ということは、ラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ、マハー・ムドラーの
中に、修行のヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナの基本的修行
体系というものは内在されていると考えて間違いない。
では、なぜラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ、あるいはマハー・ムドラ
ーが小乗の部類に入るのかと。この三つの修行には四つの無量心というものが欠け
ているからである。つまり何を言いたいかというと、このラージャ・ヨーガ、クン
ダリニー・ヨーガ、マハー・ムドラーという修行、この修行法は、すなわちヒナヤ
ーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナに通じるわけだけども、そこに四
つの無量心、つまり大乗的背景というもの、あるいは救済として、救済者としての
意識というものが根付いているかどうかということが、ここにおけるポイントとな
ってくる。
もう少し詳しく説明しよう。ここにラージャ・ヨーガがあると。このラージャ・
ヨーガはすべてを否定する。例えば、煩悩も否定する。例えば、現世的な生きるこ
とも否定する。そして、すべてを否定した段階で現われてくる集中、この集中をも
とに修行を進めていくということになる。
では、次のクンダリニー・ヨーガは、そのクンダリニーの覚醒から、サハスラー
ラにエネルギーが至るまでのプロセスにおいて起きるいろいろな心の働きというも
のを放っておいて修行すると。よって、これは現世的に修行することも可能である
と。しかし、当然そこで引っかかるから、もし次の生グルに巡り合えなければ、落
ちてしまうと。でも、一千生、あるいは二千生、あるいは三千生とかかる大乗の修
行、これとクンダリニー・ヨーガのプロセスというものは大変よく似てると言わざ
るを得ない。
次は、マハー・ムドラー、あるいはジュニアーナ・ヨーガであると。ジュニアー
ナ・ヨーガというものは、例えば煩悩について、あるいは苦について、あるいは楽
について、今まだ生じていないもの、過去に生じたもの、これを課題として考え、
思索し続ける。ということは、経験をしていないのに、心の働きにおいてはそれを
あたかも経験したかのような形になると。
マハー・ムドラーについて言うならば、これはグルがいて、その人の最も引っか
かっている部分に課題を絞り、そしてその課題を瞑想修行の中心として置くと。そ
して、それを乗り越えさせると。もちろんそれは、その修行者の引っかかっている
部分だから、当然その課題を乗り越えると修行ステージというものは飛躍的に進歩
することになるだろうと。
そして、もちろんラージャ・ヨーガの到達点に限界があるように、ヒナヤーナの
到達点に限界があると。
クンダリニー・ヨーガは多くの経験をするというメリットがある代わり、その完
成に至るまでの道はものすごく長い長い道のりということになる。これは同じよう
に、マハーヤーナも、ものすごく長い長い道のりを歩いて、最終のマハーヤーナ仏
陀に到達することになる。
では、ヴァジラヤーナはどうかと言うと、その人の気付かない潜在的な煩悩、あ
るいは思考のプロセスというものに対してグルが完璧にそれを見抜き、そしてそれ
を瞑想課題として突き付けると。当然突き付けられるわけだから、その人は苦しい
だろうと。その苦しみというものは、百生分かもしれない、あるいは二百生分かも
しれないけど、その苦しみを乗り越えたとき、その人は二百生分ジャンプしたこと
になる。あるいは、煩悩の喜びというものがあって、その煩悩を突き付ける。例え
ば、今君達が行なっているツァンダリーなんかは、その一つの例だ。もし、これを
アストラル世界において、瞑想体験において体験することができるならば、その歓
喜というものは、君達が実際、生身の体でセックスをするその比ではないはずだ。
それを実際に経験することによって、そしてその煩悩を昇華させることによって、
一生分、五生分、十生分といったその歓喜を経験し、それを昇華さしていくと。と
いうことは、この経験は、当然大乗の仏陀に到達するスピードを速めることになろ
う。
そして、三つの修行法がある。もちろん、これに合わせて、三つのグルのタイプ
がいる。師匠のタイプがいる。まずその第一は、ラージャ・ヨーガの指導者である。
この人は現世否定、そして行中心、そして自分の経験した霊的タイセン、体験を相
手に伝えることができると。当然その弟子も現世否定、行中心、そしてそのグルの
得た経験を聞き、自分がそのグルの経験の今、どの段階にいるのかを確認しながら
進んでいくと。
第二のタイプのグルは、マハーヤーナタイプのグルである。このタイプのグルは、
現世あるいは厭世――つまり世を離れた生活――この両方に通じ、そして多くの教
義を理解し、そしていかなる問題点に対しても答えることができると。しかし、そ
れはあくまでも顕現されたカルマの状態を理解するだけであって、その人の煩悩の
本質というものにはまだ理解が及ばないと。
そして第三番目のタイプ、この第三番目のタイプの、AとBというのがいて、こ
のAは、タントラヤーナのグルであると。このタントラヤーナは、弟子のどういう
欲求を持っているかということを素早く見抜き、それをうまく与えながら導き、そ
して解脱させると。
あるいは、Bのタイプがいる。これは、弟子の苦の状態を見抜き、そしてその苦
をぶつけ、その苦に対して乗り越えさせ、解脱させると。
この三番目のグルは、本質的に煩悩というものの状態、そして煩悩というものの
本質、これを完璧に見抜いていなければならない。もちろん、この三番目のグルは、
Aの場合もあるし、Bの場合もあるし、あるいはA、B兼ね備えている場合もある。
そして、このヒナヤーナのグル、マハーヤーナのグル、タントラ・ヴァジラヤー
ナのグルという三種のグルがいるということを理解しなければならない。そして、
三種の修行があるんだということを理解しなければならない。そして、その三種の
修行、三種のグル、このどの修行を行ない、どのグルに付くかということが修行の
すべての要素となる。つまり、その人が高い世界へ行けるのか、行けないのかとい
う問題である。
例えば、もしその人が本当の意味での自由、そして大いなる救済を考えていて、
ヒナヤーナのグルに付いたとしよう。ヒナヤーナのグルは大変綺麗である。なぜ綺
麗かというと、それは世を離れているからである。しかし、世を離れて離れている
グル、このグルの心には、ただ自己の世界の完成だけあり、他の人の本当の意味で
の幸福・自由を考えた生き方というものは存在しない。
では、早く結果を出したい、早く解脱をしたいと考えている人がここにいたとし
よう。この人がもし、教義中心、そして出てきた煩悩についてはその教義を背景に
解明することのできるグルに付いた場合、どうなるであろうかと。
人間の進化というものは、魂の進化というものは、修行に入り、そして何千生、
あるいは途中で失敗がある場合、何万生、何十万生、何百万生とかかる。例えば、
仏典を読めばわかるとおり、一つの過ちによって五百生をふいにするとかいうのは、
ざらである。ということは、早く解脱をしたい、早く結果を出したいという場合、
このマハーヤーナのグルに付くということは時間的大きなロスをすることになる。
しかし、このマハーヤーナのグルというものは、人格的には優れている。それは徳
を持っているからだ。そしてそれだけではなく、四つの無量心というものを実践し
ている途上にある人だから、大変心も豊かである。しかし、ちょっとゆったりした、
のんびりした雰囲気を与えることになるだろう。
そして第三番目のパターン、これはタントラ・ヴァジラヤーナのグルである。こ
のグルは、当然ヒナヤーナについて、マハーヤーナについて、完全に修めていなけ
ればならない。そしてそれだけではなき、それだけではなく、弟子の煩悩を完全に
見抜き、そしてその煩悩を揺さぶりつつ、その弟子に気付かせると。そして、その
煩悩を完全につぶさせる瞑想、あるいは生活の仕方を強いるグルということになる。
ということは、このグルは最も大変と言わざるを得ない。そしてそれだけではなく、
憎まれることもある。そして、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤ
ーナのグルの中で、この三番目のグルのみが逆縁を利用できるグルである。
今オウム真理教は、ヒナヤーナ、マハーヤーナを通過し、そしてタントラ・ヴァ
ジラヤーナの世界に入ろうとしている。しかし、本来これは一対一の真剣勝負とい
うことになる。いや、言い方を換えるならば、一対弟子全員という形になる。そし
て、それをこなせるかどうかが、グルの弟子に対する愛であり、あるいは弟子のグ
ルに対する帰依ということになる。
しかし、弟子の資質の中には、ヒナヤーナタイプの弟子もいる、あるいはマハー
ヤーナタイプの弟子もいる。その場合、無理をしてタントラ・ヴァジラヤーナの世
界に足を突っ込むと、とんでもない目に遭う。
そして、私がなぜ今日この話をしたかというと、このけがれ切った世界の中で、
本当の自己を見いださない限り、あなた方に本当の意味での幸福、あるいは自由、
あるいは歓喜といったものはあり得ないんだということを、ここに理解しなければ
ならないということだ。それ以外は、すべて幻影である。それ以外は、すべて価値
のないことである。なぜならば、無常というものを根本としているからである。
そして、その無常の心の流れ、無常の身の行ない、ミジョウ、無常の言葉の力と
いうものを完全に克服し、それを越えることができたとき、あなた方は、その三つ
から完全に解放される形をとることになる。
そして私は、あなた方が勇気を出して、自己のマハー・ムドラー、大いなる心の
働きに挑戦し、そしてそれを打ち砕き、乗り越えることを期待してやまない。その
ためには、強い意志の力、しっかりとした教義の理解、そして、修行を進めること
ができ るように大いなる功徳を積むと、この三つの柱を大切に修行を進めてもら
いたいと思う。
#233
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/17 2:54 (183)
オウム真理教>今、忍び寄る”柔らかなファシズム”とは?1
★内容
「ファッショは始まっている」(青山吉伸著)の巻末特別企画より、中京大
学社会学部教授・池田昭氏が語る「今、忍び寄る”柔らかなファシズム”とは
?」を、ここにアップさせていただきます。
-------
池田昭(いけだ あきら)・・一九二九年生まれ。東京大学大学院宗教学宗教史
学博士課程単位取得。和歌山大学教授を経、現在、中京大学社会学部教授。宗
教社会学専攻。編著書に『ウェーバー宗教社会学の世界』(勁草書房)、『ひ
とのみち教団不敬事件関係資料集成』(三一書房)、『大本史料集成』全三巻
(三一書房)、『天皇制と八瀬童子』(東方出版)など。翻訳書に、R・N・
ベラー著『日本近代化と宗教倫理』(共訳、未来社)、B・ウィルソン著『宗
教セクト』(恒星社厚生閣)、M・ウェーバー著『アジア宗教の救済理論』(
勁草書房)など。
◆信教の自由が侵される理由
(青山弁護士・・以下青山)現在信教の自由が侵されていると思うんですが、池
田先生は、戦前からずっと、国家権力の動きを鋭く見つめてきてこられたと思
いますので、その時代背景についてのお考えをお聞かせください。
(池田教授・・以下池田)今の自民党政府による国家権力が、かなり国民の統合
能力を弱めてきている、ないしはそれ自身動揺を来しているということが、い
わゆる信教の自由が弾圧される、否定される、その背景だというふうに思うん
です。
(青山)戦前の弾圧との共通項というと、どのあたりになるのでしょうか。
(池田)ですから、政権を執っている政府が内外の政策を実行するにあたって
国民の諸勢力が自分の方に集合してきている、収斂してきているということで
あれば問題ないんですけれども、宗教というものは特に自立性を持っている団
体、ないしは勢力なんですよ。
そこで国家権力はこれを内外政策の遂行の上で本質的に異質的な敵対的な、
要素だというふうに見がちになるんです。そういうところが、今度のオウムの
問題にはっきり出てきていると思います。
特に通常の社会制度を拒否する出家制度ですね。そういうところから、権力
というものが、そろそろ新宗教に弾圧の矛先を向けて来たというようなことが
いえるんじゃないですかね。
(青山)ただ、一般の人からしますと、マスコミのいろんな情報がありますよ
ね。そのためにそういう問題性っていうのは、なかなか認識できない状況にあ
ると思うのですが。
(池田)そうそう。まさにマスコミが新宗教を取り上げる際に「邪教」という
イメージづくりをする、そういう状況というものが最近、特にあるのじゃない
ですかね。
◆弾圧はすべての人に
(青山)オウム真理教の問題というのは、一般には自分の権利とか自由とか自
分の人権に関わりのある問題だとは全然思わない、という人が多いと思うんで
す。
池田先生はそうじゃなくて、オウム真理教の問題というのは今の国家権力の
あり方、それからこれからの日本の行方にも関わってくるような問題だとお考
えでしょうか。
(池田)そう考えています。自分の基本的人権が守られなければならないとい
うことは同時に、他人の基本的人権が守られなければならない、ということと
同じだと思うんですね。
他人の人権が無視された場合には、やがて自分の基本的人権が無視されるっ
てことはいくらでもあり得ることです。
昔は共産主義者、あるいは左翼の労働者というものが、まず、弾圧の対象に
なったわけですね。つまり、一つの思想運動体の自由というものが否定されて
きたんです。そうした後で、本格的に今度は宗教に関する基本的人権を侵害す
るような弾圧のようなことが起こったわけです。その典型が”大本教”であり、
”ひとのみち”だというふうに思われるんです。
ところが、今の人たちは難しい言葉でいえば、プライバイターゼーションに
陥っています。私化。政治学では三十年代。今、社会学でもそんなことが問題
になっています。
つまり自分の世界だけに閉じこもってしまう。自分の世界といっても、マイ
ホーム的なね、個人的な世界のことだけに関心を持ってしまって、自分の置か
れている政治状況、国家状況、そういうものに対しては関心を持たなくなって
きているという傾向があるわけです。で、そうであると自分の人権はもちろん
のこと、ますます他人の人権なんていうのは侵されようと侵されまいと、関心
がないと。
で、加えて、いわゆる日本の宗教的風土というものを考えなきゃいけないと
思うんですよ。日本の宗教的風土というのは徳川時代から権力によって宗教が
縛られていた。さらに、明治以後においても明治政府の国家神道政策によって
コントロールされてきたと、そういうような背景があるんですね。
で、ことわざでよくいわれてますように、『坊主と乞食は三日やったらやめ
られない』というような、いわゆる新宗教を含めて既成宗教も蔑視される傾向
というものが、強くその中から作り出されていったのですね。
ですから、新宗教に関して面白おかしくマスコミが報じている限り、その人
たちの基本的人権云々ということはもう大衆の関心からはかなり離れてしまう
というところに、今日の新宗教に対する基本的人権の侵される、大きな問題が
あるというふうに思うんです。
◆問題があるマスコミのあり方
(青山)なるほど。今から戦前を振り返ると、戦前にはひどい弾圧があったと。
国家権力による不当な宗教弾圧があったと、そう評価されているわけですけれ
ども、その当時の民衆の意識では全くそういうものはなかったんでしょうか。
(池田)全く今日と同じようなもので、大本教が弾圧されたときに擁護に回っ
た言論っていうのは、中外日報という宗教界の新聞しかなかったんですね。他
のマスコミは、もう権力のいうとおりに号外を出したり、報道記事を載せてい
たんですね。当時のインテリゲンチャーでも知識人でも学者でも関心がなかっ
た。
そして、戦後になってみて改めて自分たち自身がどうであったかと、そうい
うことから、一部の学者が取り上げるようになってきたんです。当時としては
全く政府の、またはそれに従ったマスコミの言いなりになっていたといっても
よろしいんですね。
ですから、皆さんご存じないと思うんですけど、大本教が治安維持法と不敬
罪で弾圧されまして、それらの法律でも本来できるはずがないのに、建物だと
か敷地だとか、みんな放棄せざるを得なくなってしまってですね。そして、一
審の判決はね、無期懲役だったんですね。出口王仁三郎っていう指導者が。二
審においては何とまあ、治安維持法は無罪なんですね。
当時の権力やら、マスコミやらは、そういう弾圧をされたときには、もう権
力側に立って大々的に報道してましたけど、二審のときになりますと、新聞記
事のわずかなスペースを割いてね、報道されていただけだったんです。そうい
うことなども、今日の宗教に関心のある知識人でもあんまり知らないんじゃな
いですかね、
まあ、それほど当時は宗教運動に対して国家権力、あるいはまたマスコミが
対処していた仕方については迎合してたといってもよろしいんですね。ですか
ら、民衆も不当な弾圧などと意識しなかったのですね。で、そういう状況とい
うものが現代にも十分あり得るということが、今日的な問題かと思うんです。
(青山)オウム真理教に関しましては、『サンデー毎日』を皮切りとして、坂
本弁護士失踪事件に関する報道、それから波野村に関する報道などについて、
週刊誌、テレビ、新聞などいろんなマスメディアを通じて徹底的にオウム真理
教が反社会的であるかのようにアピールされてきたと思うんですが、そのマス
コミのあり方については、池田先生の目から見てどういうふうに感じられてま
すか。
(池田)基本的には、戦前からの新宗教の蔑視観というものが、今でも生きて
いるんじゃないかということが一つ挙げられますね。大衆の情感に訴えて新宗
教を面白おかしく報道しています。
二番目には、マスコミの権力に対するあり方が問題だと思います。マスコミ
は権力と新宗教との関係については、ほとんど目をふさいでいるということが、
坂本弁護士問題の場合にもはっきり出ていて、例えば、坂本弁護士が権力によっ
た不当な労働行為の問題についてタッチしていたということは、ほとんど報道
されてない。専らバッジのことが取り上げられて、オウムに犯人を帰着させて
いるという誤りがあります。そういうような態度が今でもあって、公平な報道
としては問題があるんじゃないかというふうに思いますね。
◆根強い新宗教への蔑視感
(青山)信教の自由ということについては、池田先生も、非常に真剣に取り組
んでおられると思うんですけれども、一般の人は信教の自由というものが憲法
に規定されていながら、もうひとつ、大事な権利であるというふうな認識がな
いと思うんですね。そのあたりはどうなんでしょうか。
(池田)ええ。信教の自由に関しては二つの側面があると思いますね。一つは
国家が特定の宗教に対してお金を出すというようなことと、今一つは逆に国家
権力が新宗教に対して迫害するという二つの側面があると思うんですよね。
そして、前者のことについては、マスコミ陣というインテリは問題にするん
ですね。ところが後者の新宗教への迫害に対しては、マスコミ陣つまりインテ
リというものは、先程も申し上げたように新宗教について蔑視感を強く持って
るんですね。ですからほとんど後者のことについては信仰や思想の問題として
取り上げないと。
それから、宗教改革があり、同時に権力と宗教の激しい対立があって、信仰
は大切であるという経験が、日本にはないわけですね。
(青山)信教の自由っていうのは精神的自由の中核であって、その社会で他の
人権、いろんな人権について、どれだけ守られているかを測るバロメーターだ
というような表現が、学者等でなされているわけですよね。
まあ、そういう教科書的な説明で、信教の自由が大切だということはわかる
んですけれども、それを一般の人にわかりやすく、信教の自由の大切さという
ものを理解してもらうためには、どういうふうな観点から見ていけばいいんで
しょうか。
(池田)それは、現代社会は戦前と比べましてね、非常に難しいんですね。戦
前の場合には、出版法違反だとか新聞紙法違反だとかね、そういう法律があっ
て、そしてそれに対する取り締まりっていうのが厳しかったんです。ですから
言論の自由の弾圧だとか、そういうものがわかりやすかったんですね。
現在はマスコミを見ててもおわかりのように、いろんな意見が表面的には出
されているんです。民衆も普段、いろいろおしゃべりできるんですね。しかし、
だからといって民衆の持っている要求だとか、考えというものが今は表面的に
は出ないんですね。
しかし、そういったことから、国民が自分たち自身の基本的な思想の自由が
あるかどうかということを、気が付かないようにさせられているというような
側面があると思うんですね。
で、ここが戦前の場合と、かつての日本ファシズム時代と、現代の新しいファ
シズム時代との大きな違いがあるというふうに、いってみることができると思
うんです。
(つづく)
#234
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/17 2:58 (187)
オウム真理教>今、忍び寄る”柔らかなファシズム”とは?2
★内容
◆現代は”柔らかなファシズム”
(青山)この新しいファシズムっていうのは、ちょっと難しいのですが、具体
的にはどういう内容を持ったものなんでしょうか。
(池田)つまり、今まで話してきたことからわかりますように、現在は以前の
ような弾圧の法律によって、直接に権力を行使するっていうことが、一般化さ
れていないんですね。
しかし事実としては、個々の労働者の権利だとか、あるいは個々の新宗教の
信教の自由とか、今ある法もしくは非合法によって弾圧されているんですね。
かつてのファシズムというものを、わたしは古典的ファシズムと言いたいと
思うんです。で、その古典的ファシズムというものは、はっきりした言論弾圧、
あるいは集会禁止の装置をちゃんと整えてると。現代ではそういうものはない
んだけれども、しかし現実においては、個々のいわゆる言論人の圧迫というも
のは、もう数限りなく起ってきているんです。
例えばこの間、家永三郎さんがですね、教科書問題で権力によって統制され
ていることに対し自分の思想を主張しているんですけれども、いわゆる右翼だ
とかその他の言論人からの圧力で、そういう言論を言わせないというような状
況がつくられているんですね。非合法的な形でも、言論を圧迫するような形が
現在は出てきていると。
その他に最近、右翼の暴力によって、会場が平和裡にできないという口実で、
例えば教職員組合の集会の自由が奪われたという問題が、この間、三鷹市にお
いても起っているんですね。地方権力というものが、集会の自由を守る意思が
ない。そういうことで教職員組合の集会の自由がなくなってしまう。そういう
状態というものを、わたしは「柔らかなファシズム」というふうに思うんです。
◆被害者の意見が取り上げられない
(青山)わたし自身の実感として、マスコミの役割っていうのは非常に大きい
と思うんですね。例えばある問題があって、オウム真理教側は「実際はこうな
んですよ」と一生懸命説明するわけですね。
ところが、実際になされる報道というのは、オウム真理教側の説明というの
は、ほとんど載せられずに一方的に偏見に基づいた情報が大きく出されてしま
うと。
それが一社だけじゃなくて、すべてのマスコミについて、そういうことがい
えたんですね。ですから今マスコミが発達していて、多様な情報が正確に伝え
られるかのようなそういうイメージがあるんですけれども、実際はそうじゃな
くて一方的な情報が選択されて流されてしまっているというのを、わたし自身
実感してるんですけれども。
(池田)それはもうマスコミ研究者が指摘していることですが、一九七二年に
はいわゆる記者会見というものが、一方的に開かれてまして、権力側の一方的
な情報しか新聞記者に流さないと。
で、記者自身もそれに甘んじて自分で事実を確かめようとせず書いていると
いう傾向が強くなってるんですね。ですから、いわゆる被害者の方の意見って
いうものが、そこに反映できなくなるようなシステムがあると。これはわたし
なども今度のオウムの問題でいろいろな記者に接してますけれどもね、強く感
じられるところですね。
(青山)池田先生のおっしゃる意見が、個々の担当者のレベルでわかっても、
マスメディアに載せるというところまでいかないということなんでしょうか。
(池田)そういうことですね。結局、現場の記者と、いわゆる本社のデスクと
いうものとの間に大きな距離がもうできてきていると。まあ、これも一つの現
代社会、一般の官僚機構のあり方と全く軌を一にしていると思うんですよね。
そういう傾向がもう一九六五年以降から日本の社会に生じてきているんです。
記者世界のメカニズムがそんな状態だから、被害者の方の意見っていうものが
なかなかマスコミに載らないということになってしまうんですね。
◆警察が事件を誘導した
(青山)ところで、オウム真理教問題というのはいろんな問題があって、複雑
なところもあると思うんですが、池田先生の目から見られて、一番ここが問題
だと、特に国家権力による宗教弾圧だと感じられるポイントを少し説明してい
ただきたいと思うんですが。
(池田)それはもう、一番わたしもびっくりしたことですけれども、民主主義
といわれている今日、私的な商取引に警察というものがタッチするということ
はおかしいということ、このことは常識になっていることなんですね。
オウムの人が、熊本の波野村に道場を求めに、まず、その地主と不動産屋と
一緒に現地に行ったときに、もう私服刑事が同行して内偵するというようなこ
となどがあるわけです。それから、警察が、以前からオウムの情報を得ておい
て地主に土地を売らないように、村の行政権力に勧める。そういうものを契機
にして事件を引き起こすという、一種の誘導みたいなですね、挑発とはいえな
いまでも誘導というような形をとっていたということに、もう典型的に宗教弾
圧が現われていると思うんですね。
信教の自由というのは憲法にある言葉どおりですけれども、簡単にいいます
と、権力というものは宗教に関しても、あるいはまた、教育に関しても中立で
あるということですね。いわゆるノイトラルということは、俗に解釈されてい
るような左でもない右でもないということではなく、国家権力が、特に警察権
力が宗教問題だとかあるいはまた教育思想だとかそういうことにタッチしては
ならないということなんですね。
で、第二番目にわかったんですけれども、警察権力が現地のPTAだとか、
そういうところに行ってオウムのことについて誤った情報を云々しているとい
うことなど、もう基本的な信教の自由を否定している考えが現われていると思
いますね。そういう動きが実際あるっていうことは非常に怖いなということを
感じます。
第三番目に、まして警察だけではなくて、村の立法機関、あるいはまた行政
機関、それから県の立法機関、行政機関も旧憲法の原則に従って平気でオウム
追い出しを図っています。そういうことが最も信教の自由に抵触する問題であ
るというふうに思うわけですね。
(青山)そうですね。村の議会がオウム真理教関係者は公序良俗に反する団体
であるから住民として認めないという決議をしましたね。まあ、あれは一つの
典型的なケースだと思うんですが。
(池田)昔ははっきり公序良俗というようなことを掲げて新宗教を弾圧していっ
たんですね。ですから公序良俗に反するとか、醇風美俗に反するという言葉を
聞くと、わたくしなど新宗教を研究している者は、怖い感じがするんですね。
で、そういう問題がもう民衆のレベルにおいても出てるし、あるいはまたマ
スコミの報道においてもそういうことがもういわれているということなんでしょ
うね。もうこうした事柄は危険な兆候だというふうに思うんですね。
◆今の権力は危険
(青山)あとは例えば村の広報紙で、まさに誹謗中傷といえる内容を出してい
ますね。
(池田)もうこれなどは、ふとどきといってもよろしい。およそ常識がない。
民主主義のABCのわからない村の行政権力の考え方ですね。
(青山)そして、国土法、森林法に関する告発。その後の強制捜査等も大きな
問題をはらんでいると思うんですけれども。
(池田)そうですね、先程申したように、ともかく最初から警官が、オウムが
土地を求めに行く際にタッチしたということ。
さらに他の警官が村に行きまして、その日以前からも周到にいろいろなオウ
ム関係の情報を手にしている。それを持って行政権力のところに行って土地を
売るなという趣旨の話やメモを置いている。
一種の行政指導をしたということで、それを受け入れた村の行政権力の人々、
あるいはまたその周辺の行政権力の担い手が、地主に向かって土地を売るなと
いう圧力をかけているというようなことになって、自然な取引が行なわれなかっ
たんじゃないかと。そういう先程申し上げたような挑発行為とはいえないまで
も、警察官が土地取引を阻害するように誘導をしていたということは、とても
怖いなというふうに思うんですね。
それはあたかも国鉄の労働者を首切りするという場合においても鉄道公安官
と国鉄当局とが手を組んで挑発し、そして罪をでっち上げたというようなプロ
セスと非常に似ているということができます。
そういうことからも今の警察のあり方が、あるいはまた国家権力、地方権力
の当局者が非常に怖いなという感じがするわけですね。
◆マスコミが植え付けた先入観
(青山)それから、住民票がいまだに認められていないと。もう一年以上放置
されたままで、救済の道も閉ざされている状況ですね。
(池田)民衆が住民票問題を判断する前提としまして、オウムは邪教だと、そ
ういう先入観念がマスコミによって植え付けられたということがあって、そう
いう宗教に対して、警察やら行政当局は、何をやってもいいんじゃないかとい
うような動きが出てきたと思うんです。そういうことがわたしは非常に問題だ
と思うんですね。住民票不受理なんていうのはだれも聞いたことがない問題な
んです。
ところが彼らの住民票不受理の理論は何であるかというと、オウムそのもの
を、旧憲法時代の感覚で認めないということなんです。そういう理論ができ上
がっているということに最大の問題があると思うんですね。
ですから、その人たちの基本的人権云々よりも、その宗教に対するイメージ
で物事を判断してしまうというところに、今日の大きな信教の自由だとか、あ
るいはまた居住権という一つの基本的な問題が無視されてしまうという、そう
いう動きがあるんじゃないかと思うんですね。これを司法機関も追認している
わけです。
◆親と子のギャップ
(青山)今回、親が子供の信教の自由を侵害してしまったと。で、その背景に
はやっぱりマスコミのいろんな情報があって、親御さんとしては子供が大変な
宗教に走ってしまったという誤解をきっかけとして非常に不幸な事態が起こっ
たんですけども、まあそれに対しても警察が、子供が----子供といってももう
二十六歳の成人なんですけど----監禁されているという違法行為が確実に行な
われているのにかかわわらず、全くそれに取り合わないという事態だったわけ
なんですが、それについてどういうふうに思われますか。
(池田)子供の主張するいわゆる信教の自由と、警察ないしは親が考える宗教
集団、あるいは子供の個人的思想に対する見方の大きなギャップがそこにある
と思うんですね。これは国際的に通用しない、非常に特殊で日本的な現象じゃ
ないかと思うんですね。
つまり、日本は敗戦までかなり家族制度というのが強かったんですね。で、
戦後日本でも、形は違っても家族意識というものが強くあるんじゃないかと思
うんですね。特に、よく一家心中というようなことが見られるように、親の意
識で子供の考え方を拘束してしまうと。そういう意識が何かまだ温存し、かつ
再編成されているという動きがあるんじゃないかと思うんですね。
また、警察官の国民の思想に対する中立の考えもないですね。そこに大きな、
子供の自由の問題と警察ないしは親の考え方とのギャップが出てきていると、
こういうふうに思うんですね。
で、最近では特に新中間層の親の意識が保守化してきて、自分たち自身の意
思に従って子供の考え方をコントロールしようと、あるいはまた将来をコント
ロールしようということが、日本社会全体の流れの中で強くなってるというふ
うに思うんですね。そこのギャップといいますかね、それがそういう問題に表
われているんじゃないかと思うんです。
(つづく)
#235
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/17 3: 0 ( 84)
オウム真理教>今、忍び寄る”柔らかなファシズム”とは?3
★内容
◆日本の未来は・・・・
(青山)池田先生の目から見てこれからの日本はどうなっていくんでしょうか。
(池田)うーん。二十一世紀を迎えても、日本において新しいペレストロイカ
が起こらない限りは、今のような状態は続くんじゃないかと思いますが。
(青山)今の状況は危険な状況だとお考えですか。
(池田)ええ、もちろん思っています。先程触れたように労働者の基本的人権、
宗教のそれが直接権力によって侵されていますからね。それと、社会やマスコ
ミや親がそれを黙認し、抵抗しないからです。
(青山)あと、言葉の問題なんですが、新しいファシズムと柔らかなファシズ
ム、これは同じと考えてもよろしいんですか。
(池田)そうそう。柔らかなファシズムっていうふうに規定した方がわかりや
すく、いいと思うんですね。
(青山)非常にいい言葉だと思いますけど。
(池田)これは西ドイツであった学者が、今のドイツに対して使用している言
葉なんですね。
(青山)まあ、これは一般の人はなかなか理解できないんじゃないかと思うん
ですね。
(池田)他のアメリカの学者も「笑顔のファシズム」というような表現を使っ
ているんですけども、まあ同じような意味で理解してもいいと思いますね。
現代の社会というのはごく一部のエリートが、パワーエリートっていうんで
すけれども、それがほとんど政治的にコントロールを行なっていて、いわゆる
民主主義なんていうものは全く形骸化して、国民の意思が十分に反映されない
という、そういう時代になっていると思うんですね。
(青山)非常に巧妙にやってきているというか。
(池田)国民の意思を無視することについては、非常に巧妙になってると思う
んですよね。
ともかく戦前の古典的ファシズムと一九七〇年以降にでき上がった柔らかな
ファシズムとの大きな相違というのは、いわゆる弾圧する、基本的人権を侵害
する法律というものは戦前でははっきり確立してるんですね。現在はそれは確
立してない。そういうところに大きな違いがあると思うんですよね。
しかし、実質的には個々に権力の方針で基本的人権が破られるということは
今日でも同じだということですね。
(青山)国民の意見が反映されないということも同じですね。
(池田)ええ。表面的には重要な事柄について民主的な討論がマスコミによっ
て流されますけれども、実際はなかなかこれがいざ立法の段階になると実行さ
れないと。
現在、消費税問題で、参議院では自民党は過半数を割ってますから、野党の
一部を取り込んで自民党の方針どおりにしていこうと思っていますが、これは
政権として不安な状態にあるわけです。そこで、非常に危機感を持ってるんで
すね。で、再び絶対多数を両議院で持とうと思って小選挙区制を施行しようと
してるんです。
例えば、そういうふうな、政治的状況っていうのがわたしは「柔らかなファ
シズム」だといってもいいと思うんです。
(青山)今そういう時代だってことは多くの人に理解していただきたいと思い
ますね。
(池田)そうですね。全く理解していただければいいんだけれども、日本の政
治状況または庶民の政治意識の面から見ると、非常に悲観的ですなあ。ほんと
ですよ。
(青山)まあ、わたしたちは宗教的な修行で、固定的な観念から自分自身を解
放していくという修行をしているので、非常に自由な発想ができる立場にある
と思うんです。
(池田)だけども、こういう自由な発想というものは国民全体の中では、なか
なかできない状況に今なってるんですね。そこが問題ですね。
でも、世の中には現況を肌に感じている人もいますから、そういう人々と少
しずつ、ネバリ強く手を結んで自由を求めていくことが大切ですね。皆、自由
を求めていることに変わりないですからね。
(青山)今日はどうもありがとうございました。
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以上 真理の弁護士がんばるぞ!! PART3
「ファッショは始まっている」より
聖称賛磨蔵
#236
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/20 14: 1 (141)
オウム真理教>説法>四預流支--喜びと安らぎを1
★内容
四預流支--喜びと安らぎを
1991年2月8日 千葉市民会館にて
◎オウム真理教の教えとは?
初めての、千葉での説法会。この千葉県という地は、まあ、わたしにとっても大
変縁のある地であり、そして、オウム真理教にとっても、大変縁のある地であると
言えます。特に、この地では、例えば、マハー・マーヤ正悟師、まあ、今はホーリ
ー・ネームをマハー・マーヤからヤソーダラーというふうに、えー、変わりました
けども、正悟師、そして、ウッパラヴァンナー正悟師、メッタジ、えー、メッタジ
師、チェータナー師等、多くの成就者を輩出し、そして、まあ、わたしも、この千
葉県で、の船橋というところで、す、数年間生活をしたという大変い、いわれの多
い地です。この地で第一回目の説法会が開かれたということは、近い将来において、
この千葉にオウム真理教の道場が建つことは疑いないでしょう。
実際、まあ、いろいろなマスコミのオウム・バッシング等の中、一九九一年の一
月は、二百六十五名の新しい信徒の方が入信なさり、教団もまた発展の方向へとベ
クトルの向きを変えていっている次第です。これも一重に、弟子たち、そして信徒
の皆さんの精進のたまものだと思います。
しかし、いくら器が大きくなったとしても、実体の伴わない宗教であるならば、
それは存在する価値がない。これが、わたしと、そしてオウム真理教の教えである
といえます。これはどういうことかというと、ただ単に拝む宗教、あるいはただ単
に一時的な心をだます宗教であっては仕方がないんだというのが、このオウム真理
教の発足の動機だからです。
オウム真理教の教義は、原始仏典、そして北伝系のタントリック、あるいはヴァ
ジラヤーナといった修行体系、そして原始ヨーガの系統を組み入れています。しか
し、このシステムは、別に新しいわけでも何でもなく、実際二千五百えん、年前、
仏陀釈迦牟尼が同じような方法によって、弟子たちを成就させたという記述が南伝
系のパーリ仏典には記されています。
◎真理--幻影を超える幸福の法
実際、この現実の世界、つまりこの人間の世界というものは、わたしたちをマー
ヤへと取り込みます。このマーヤとは何かというと、生まれ、そして死にゆく間、
いかにもそれは真実で、そして絶対的に壊れないかのようにわたしたちを惑わしま
す。しかし、実際は、多くの示唆をこの人生の中で与えられているはずです。それ
は例えば仏典にも、閻魔大王が登場し、そしてこの世で悪業をなした者に対して、
お前は四人の召し使いを見なかったのかと、あるいは、三人の召し使いを見なかっ
たのかという言葉によって、生・老・病・死という四つを表わし、それが実際わた
したちにとってこの現実の世界が実際はマーヤ、幻影なんだよということを表わし
ているんだということを説いています。つまり、真剣にわたしたちの周りの人たち
を観察することにより、あるいは周りの生き物たちを観察することにより、わたし
たちがいくらそれを考えたくないと考えても、そこには生・病、そして老・死とい
う四つは存在するんだと。そして、それを避けることはできないし、逆にそれをし
っかり知り、そして、その死を超越した意識状態によって、死後の世界、あるいは
この人間界以外の世界を理解することこそ、わたしたちにとっては、本当の幸福な
んだよということを説いている教え、これが真理なのです。
◎四預流支の実践--絶対的な不動の境地へ
そして、その真理に対するアプローチは、例えば五根五力という形で著されたり、
あるいは七覚支という形で著したり、あるいは聖なる八支の実践という形で著され
たりします。しかし、それを総合的に見るならば、いずれも四つの預流支の中に抱
合されると。この預流支という言葉は、ちょっと聞きなれない難しい言葉のように
見えますが、この預流支というのは、その流れに預かる、つまり流れに身を任せる
という意味です。
ではいったい、何の流れに身を任せるのかというと、この人間界から、上向きの
流れに身を任せると。そして、欲望の天界を打ち破り、欲望のない天界に入り、そ
して形のない天界に入り、最終的には絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地へ到達
すると。その流れが存在し、その流れに身を任せることが、預流者なんだというこ
とです。
では、これは何にたとえられるでしょうか。例えば、高速道路と一般道路を考え
てみましょう。高速道路は、八十キロ以内はスピードの出し放題、あるいは百キロ
以内は、スピードの出し放題といった空間があります。この空間、このエリアは、
百キロ以内で走行することは可能です。つまり、九十九キロまで出すことができま
す。ところが一般道路になると、六十キロ、あるいは四十五キロといった低速運転
をしなければならない。この六十キロ、あるいは四十五キロといったときに、九十
九キロのスピードを出せば、当然違反として逮捕され、そして罰金を払わされます。
これは何を意味するかというと、同じ道路であったとしても、その条件によって
運行の仕方が変わるのだということ。同じ道路であってもこれだけ変わるわけです
から、わたしたちが、この世というものと、あのゆ、あの世というものを比較した
場合、当然、その運行の仕方は変わると言わざるを得ません。
そして、この世、あの世をとおして、いかにしたら幸せに、そして間違いのなく
生きることができるのかということが、この預流支の実践です。もちろん、この預
流支の実践は、この現代、けがれた社会においては、大変生きづらくなる面がある
かもしれません。しかし、これをしっかり実践することにより、心は安定し、絶対
的な不動の境地へと到達し、そしていかなる条件であろうとも、堂々と自分の生き
たいようにいけると、生きることができるということがいえます。
◎何をもって預流支というのか
では、何をもって預流支というのでしょうか。この預流支の第一は、三宝に対す
る帰依です。では、三宝とは何かというと、オウム真理教においては、グル、そし
て真理、そして教団ということになります。いや、そうではない。仏教では仏・法・
僧といっているとおっしゃるかもしれない。この仏・法・僧の仏とは、覚者、ある
いは 供養値魂、あるいは調御丈夫、あるいは天人師といわれた、要するに法に長
けた者、法に精通した者、法を悟った者という意味です。そして第二番目の真理と
は、これは、まあ、さー、あの、サンスクリット語やパーリ語ではサ、サッチャ(
転載者注:文末参照)というんですが、絶対的な真理と。では、絶対的な真理とは
何かというと、生・老・病・死を超越する法ということになります。そして、サン
ガとは何かというと、これは、まあ中国の言葉では僧ギャといわれていますが、つ
まり僧の集い、つまりこれは教団ということになるわけです。
そして、第一番目の預流支は、この三宝に対する帰依を表わします。帰依とは何
かと。それは、その三宝に対して布施や奉仕の実践を行なうということです。これ
が第一の預流支です。
そして、第二番目の預流支は何かと。これは、記憶修習です。いったい何を記憶
修習するんだと。それは、説法を何度も何度も聴き、法を記憶する。あるいは、
『マハーヤーナ』その他の書籍を何度も何度も読むことによって、その法を記憶す
ると。その記憶をするときには、一切自分の考え方を入れないと。これが第二番目
の預流支です。
では、第三番目の預流支とは何かと。それは、その記憶修習したものをもとに、
自分自身の身の行ない、口の行ない、心の働きについて分析すると。そして、ザン
ゲするところはザンゲし、あるいは励みとするところは励みとすると。例えば、例
を挙げるならば、自分自身が功徳を積んでれば、法を何度も何度も記憶修習し、そ
れにのっとり考えることにより、「よし、このまま修行を続ければ、自分は間違い
なく預流者になれる」と。あるいは、身・口・意において悪業があるとするならば、
「よし、これは戒める対象である」と、そして「悪業を積まなくするぞ」と。これ
が第三番目の預流支です。
◎真理の教えを自分のものに
そして、第四番目の預流支は何かというと、これは、その思索したものを実際に
実践すると。つまり、身の行ない、口の行ない、そして心の働きについて、それを
実践するということです。もちろん、この身の行ない、口の行ない、心の働きにつ
いて実践するおおざっぱな目安はあります。それは何かというと、殺生を離れ、偸
盗を離れ、邪淫を離れ、周りの者に対して慈しみのある態度で接すると。妄語、綺
語、悪口、両舌を離れ、親和な言葉を話すと。そして、心に貪・瞋・癡を離れ、四
無量心によってその心を形成すると。まあ、真理というのは、言うなれば、この身・
口・意に対する三つのアプローチしか存在しません。しかし、その、例えば四無量
心とは何かと。それは、愛・哀れみ・称賛、そして無頓着、平等に見つめることで
あると。では、愛とは何だと。わからないと。哀れみとは何だと。わからないと。
称賛とは何だと。わからないと。無頓着とは? わからないと。いや、それは国語
辞典を見ればわかるじゃないかと。しかし、実際、例えばこの四無量心の愛一つ取
っても、相当多くの経典があり、これをもって愛となすという教えがあります。そ
ういう教えを一つ一つ確実に自分のものにしていくこと、これが預流支なのです。
預流支の支とは何かというと、その自分自身の魂を人間界からまず欲天を貫き、
欲のない天界を貫き、形のない天界を貫き、そしてマハー・ニルヴァーナに至るた
めの支えであるということです。この四つの支えさえあれば、必ずどんな魂でも、
最終的にはマハー・ニルヴァーナへと到達できると。これが預流支なのです。
転載者注:「麻原彰晃の世界 第一巻」には「サッチャ」と出ていましたが、オウ
ム真理教ネットにあったものには、「ササッチャ」と書かれていました。
これはなるべく、説法で語られた言葉を、ダイレクトに伝えるために
あえて市販の本に載せるときのように編集(校正)はせず、そのまま書
いたものだからだと思います。
その他の説法にも多少そのようなところがあり、初心者の方は読みづ
らい点もあろうかと思いますが、そこの所は御了承ください。
また、読めない所などありましたら、お気軽にメールでお問い合わせ
ください。
(つづく)
#237
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/20 14: 3 ( 89)
オウム真理教>説法>四預流支--喜びと安らぎを2
★内容
◎老・病・死を超えて
人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けらんない。そして、死だけではなく、
病、あるいは老い、これも避けることはできない。この避けることのできないもの
に対して、目をつぶるのではなく、しっかりと見つめ、どのようにしたら病を克服
し、老いを克服し、死を克服できるのかと。それを説いているのが真理なのです。
例えば、皆さんにお届けしてある、『真理相応』。この『真理相応』の中には、
何をなせば三悪趣へ生まれ変わり、何をなせば天へ生まれ変わるかの教えが説かれ
ています。あるいは、『預流相応』では、いかに現実の、例えば転輪聖王であった
としても、三悪趣から脱却できないんだと。それよりも、法を、真理の法を具足し、
それを実践して初めて本当の幸福な道を歩くことができるんだと説かれています。
これからもわかるとおり、現実は現実としてある程度踏まえ、そして必ず死ぬ、病
む、老いるというこの三つに対して、しっかりと学び、アプローチし、それを越え
ると。もし、これを越えることができるならば、本当の意味での安らぎ、あるいは
幸福、あるいは歓喜といったものを体験することができるでしょう。
実は、現在、ヤソーダラー正悟師は、極厳修行に入っています。これは、三月二
十日からシャクティーパットが始まるための準備です。つまり、信徒の皆さんをい
かに高いステージへ引き上げるかと、そのために、まあ、ヤソーダラー正悟師は四
十日間の極厳修行に入ったわけです。で、これは何かというと、まあ、彼女はかな
りの神秘的な力を持っていますが、そのレベルより、もっともっとステージを上げ、
そして皆さんに、その神聖なエネルギーを振りまき、それによって皆さんに高い経
験をしていただきたいと。これは、わたし、それからヤソーダラー正悟師、それか
ら教団一同の願いです。
このように、しっかりとした教義、そして実践があってこそ、初めて宗教という
ものは存在する価値があると考えています。
◎高い世界への転生の条件
では、信徒であるあなた方は、いったい何をすればいいのかと。実際、四預流支
の実践とは何かと。あるいは、どの世界へ生まれ変われるんだと。これは、横浜、
東京の説法でも述べたとおり、まず現実のせけ、生活においてしっかりとした態度
で生きると。そして、自分の与えられたパートをしっかりと演じると。そして、多
くの才能を救済のために役立たせると。これらの条件が、第一天界、あるいは第二
天界の条件であると。もちろん、この第一天界、第二天界へ生まれ変わるためには、
布施、そして持戒の実践が必要です。では、第三天界へ生まれ変わるためには、ど
のようにしたらいいのかと。これは、多くの真理と縁のない人を真理と結び付け、
そして死・老・病という三つを根付かせると。そして、中間状態に入ったときに、
その人が苦しまないように導いてあげると。これが、第三天界へと至る道です。で
は、第四天界へ至るためには、どのようにしたらいいのかと。これは、教義を多く
記憶修習し、しっかりと理解し、その法を説くと。つまり説法すると。そして、心
に四無量心を根付かせると。この魂が第四天界へと生まれ変わります。では、第五
天界へとは、どのようにしたら生まれ変わるのかと。これは、修行をなし、実際神
通力を身につけ、それによって救、救済した者、これが第五天界へと転生します。
では、第六天界へとは、どうかと。これは、その神通を個のためではなく、もっと
もっと多くの者のために実際に役立てた者、これが第六天界へと転生します。
しかし、これら第一天界から第六天界までは、欲の天界です。つまりまだ貪りが
存在しています。そして、この貪りを離れ、サマディに入り、もっと高い色界、つ
まり欲のない形状のある世界へと転生した者、これを神聖天といいます。そして、
有、つまり、形のあるものに対して全く頓着が生じなくなったときに、無色界へと
転生します。無形状界(現在では“非形状界”と言っている。麻原彰晃)へと転生
します。そして、その魂が、多くの魂を、その形状のない世界へと導いたとき、そ
の魂はマハー・ニルヴァーナへと転生するわけです。
◎自己を利する生き方を
ということは、まず第一天界、第二天界を目指し、頑張るぞと。そして、多くの
人を真理へと導き、第三天界へと転生するぞと。そして、多くの法を記憶修習し、
記憶修習した法によって、その法を説き、だん、第四天界へと転生するぞと。余力
があれば、一生懸命修行し、神秘的な力を得て、それを個のため、あるいは多くの
魂のために使い救済することによって、第五天界、第六天界へと転生するぞと。貪
りを離れることによって、神聖天へと転生するぞと。このように考え実践すること、
これが聖なる魂の、あるいは智慧ある魂の生き方です。
そんなこと言ったって、この人間の世界は楽しければいいんだと、ね、こう考え
られる方がたくさんいらっしゃるかもしれない。しかし、この世の寿命と、それか
ら天の寿命とでは、まるっきり違います。この短い間を精進することによって、長
い生を経験することができるわけです。
例えば、虫の寿命と人間の寿命を比較した場合、当然人間の寿命の方が長い。こ
れは、徳の差を如実に表わしています。そして、自由の度合いも違います。これと
同じように、人間の世、世界と天の世界を比較した場合、当然天の世界の寿命は、
人間の世界より相当に長いと。仏典によって記述は統一されていませんが、第一天
界では、九万年とも、あるいは九百万年ともいわれています。そして、第二天界で
は、三千六百万年と。第三天界では、約一億年の寿命が保証されてるといわれてい
ます。もちろん、これらの天界においても、その徳の差により、その寿命は変化し
ます。よって、皆さんがここで努力をすること、真理の実践を行なうこと、そして
記憶修習することは大いに皆さんに利益を与えるはずです。
最後に、この現世の欲望というものは、わたしたちにとめどのない欲求を持たせ
ます。それによって、わたしたちは、逆に欲望を満足させようと思えば思うほど、
苦しまなければなりません。ところが真理の与えてくれる平安というものは、逆に、
それを求め、修行すればするほど心を安ら、安らがせてくれます。これは、前者が
邪見解であり、後者が正見解であることを表わしている一つの証明だと思います。
人の寿命は、いつ尽きるかわかりません。今日、この瞬間を境に、もう一度四預
流支の実践を心に根付かせ、実践してください。
それでは、大乗の発願、苦の詞章を唱えた後、オウム三唱し、その後質問を五つ
取りましょう。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#238
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/20 16:55 (197)
オウム真理教>説法>転生を見すえた修行の土台
★内容
転生を見すえた修行の土台
1991年2月17日 東京本部道場にて
◎魂の落下のプロセス
魂が落下していくプロセス、これが十二縁起の法である。
十二縁起のプロセスを簡単に説明すると、まず、真我が三グナに干渉される。こ
こで無智、あるいは無明という煩悩の最も根本的な働きによって、一部の魂はそこ
から落下する。そして本来自分に備わっているはずの絶対自由・絶対幸福・絶対歓
喜という三つの条件をかなぐり捨て、外的なものに対して、それよりももっと素晴
らしいものがあるんじゃないかなといって、落下が始まる。そして、その結果、名
色が生起する。この名色とは何かというと、自と他の区別である。そして、この自
分と外界、対象に対して、その差異によって楽しみを求めるようになる。これが仏
教的な言葉を使うならば愛である。そして、その楽しみを何度も何度も修習するよ
うになる。修習することによって貪りが生じる。そして、執着、つまり取著が生じ
る。この取著が生じることによって、対象に対して、これは我がものであると、こ
れはわたし自体のものである、よって、このわたしのたい、わたしの得ようとして
いる対象を傷付けるものは何人たりとも許さないと。ここで嫌悪が生起する。そし
て、完全な形での分離が生じ、有、つまり、欲界・色界・無色界のどこかの世界へ
転生し、そして、生が生じる。
未熟な魂はこの生を楽しむ。実際は楽しむということは正しくなくて、求め続け
ると言った方が正しい。おかしい、おかしい、わたしの求めている楽しみはいった
いどこにあるんだと。これでもない、これでもないといって楽しみ続ける。そして、
その背景にある、苦しみに少しずつ少しずつ気付くようになり、自分自身が楽しみ
だとおも、思っていたものは、実際は苦しみだったんだということに気付くわけで
ある。
◎苦から解脱へ
ここでのポイントは、この苦しみであるということを認識した後、真我が独存位
に即帰れればいいんだが、その前の十二のプロセスが弊害となり悪戦苦闘が始まる。
そしてまず、苦しみを取り除くために、今まで落下したプロセスの逆向きの道、つ
まり求める方向から引っ込める方向へと思索が始まる。
そして、ある人は仏教に、ある人は原始ヨーガへと傾倒していく。ここでしっか
りしたグルにつくことができるならば、しっかりとした信が持て、そしてクンダリ
ニーが覚醒する。クンダリニーが覚醒することによって、悦、つまりエクスタシー
が生じる。このエクスタシーはわたしたちをこの現象界へと縛り付けている、例え
ば味覚による喜び、あるいは性的な喜びといったものよりも、強いエクスタシーを
与える。よって、まず、この性的な喜びや、あるいは食物を食べることによって得
られる喜びからの解放が始まる。
なぜ、ここで解放が始まるのかというと、わたしたちはこの性的な喜びや、ある
いは食物による喜びを何度も何度も修習しているから、瞑想によるエクスタシーが
たとえ生じたとしても、その本当の価値と、それから自分たちが抱いてきた幻影の
価値との比較、この比較が正確にできないわけである。
しかし修行が続き、クンダリニーが覚醒し、そのエクスタシーが頂点に達し、体
が痺れるような最高の喜悦の状態が生じると、わたしたちは性的な喜びや、あるい
は食物による喜びから解放される。
そして、このエクスタシーはわたしたちの心に大変なる喜び、しかもそれは実体
のない喜びを提供する。普通、魂は対象を得たときに喜びが生起するが、その対象
がない状態で喜びが生起するということは、もともとそれこそが、本当のわたした
ちの求めていた一つの要件であったことに気付くからである。
つまり、外的対象による喜悦より、内的エネルギーが生み出す喜悦こそが真我の
求めていた喜びだから、それによって本当の喜びは生起するわけである。そしてそ
れにより、いろいろなストレスから解放される。なぜならば、ストレスは対象と、
それから魂との間によって生じる一つのギャップによって、ストレスが生じるわけ
である。ということは対象なくして喜悦、喜びという二つの条件が備わった段階で、
心身が大変軽快となる。そして、魂は対象に対して一切心が動かないで、そして内
側が充実した状態、楽を経験する。この状態に入ると、外的刺激に対して反応しな
くなり、内側の世界の散策が始まる。これがサマディである。
そして、今までの自分の邪悪見解、あるいは謬見解に気付き、如実智見となる。
如実智見となるがゆえに食よか、食欲や性欲だけではなく、いろんな要素に対して
貪りを離れる。そして貪りを離れることにより独存位の境地、つまり解脱が生じる
わけである。
これが小乗仏教のすべてである。しかし、このような内容は講話で聴くべきもの
ではない、本来は。本来はあなた方が自分たちの修行によって、あるいは記憶修習
によって経験しなければならないものである。
オウム真理教の前身である「オウム神仙の会」、そしてオウム真理教の初期の当
時は、わたしが信徒の皆さんの修行の指導に当たり、そして多くの神秘的な体験を
その場で与えていた。そして今年の三月から、まあ、例えばね、三月の超能力セミ
ナーあたりから、少しずつ以前と同じような皆さんに神秘的な体験を、まず、して
いただこうかなと考えています。
まず、手始めとしては超能力セミナー。この超能力セミナーに実際出て、この六
時間の、まあ厳しい修行の間に、皆さんに真実の体験というものをね、していただ
きたいと。これは、わたしたちが苦から解脱へ至るための第一歩である。
◎真我を成長させるためのプロセス
では、この無明から始まり解脱に至るプロセスは、なぜ必要かというと、無智を
取り払うためなのである。あるいは無明を取り払うためなのである。つまり、大い
なる経験、そして経験によって、経験そのものが苦であるということを認識する、
そして解脱するという、真我を成長させるためのプロセスなのである。
では、この解脱に至るプロセスは、どのようにしたら認識できるのかと。それは、
まず、この現象の成り立ちについて、わたしたちは小さいときからいろいろな教え
を受けている。しかし、そのような謬見解にとらわれるのではなく、本質的な教え
を繰り返し繰り返し記憶し、それにのって考えると。これが必要なのである。
では、基本的な考えとは何かというと、まず、わたしたちの身・口・意における
善業を増大させ、そして悪業を滅することである。では、その根本となすものは何
かというと、すべてを認めるということである。ではいったい何を認めるんだと。
それはすべての魂の生存、すべての魂の安らぎ、そして、すべての魂の至福という
ものを認めるということである。そして十戒にしろ、あるいは三つの布施にしろ、
そこがポイントになっている。
例えば例を挙げてみよう。殺生、これは魂に大変な苦痛を与える。よって、なし
てはならない。偸盗、これは盗まれた方にやはり大変な苦痛を与える。よってなし
てはならない。邪淫、これは盗まれた異性の対象に対して大変な苦痛を与える。よ
ってなしてはならない、となる。
しかし、いにしえの聖者方は単純にそう説かず、その時代、その時代の観念に合
わせ、その時代の人が実践しやすいような風潮をつくったわけである。
もともと、この世は心がつくり出した幻影である。そして、この幻影を打ち砕く
ためには、以前わたしたちと同じように苦しみ、そして上流の流れ、つまり欲界・
色界・無色界へと至る流れに乗り、最終の解脱を果たした多くの魂の道しるべを、
一つ一つ確認しながら進むということが大切なのである。
◎叡智へと至る六つの道しるべ
では、その一つ一つの道しるべとは何かと。あるいは何を根本とすればいいのか
と。それは、出家においては聖なる八支の道であり、在家においては六つの極限で
ある。
ここで、六つの極限のメリットを少し話をしたい。六つの極限の第五番目。これ
は正サマディということになる。この正サマディの徹底は、わたしたちが布施の徹
底から二正勤二正断の徹底に至るまでの実践を行ない、それを実際に究竟の瞑想に
よって理解するプロセスである。
究竟の瞑想とは何かというと--ここで言うね--無思考の状態に入り、そして
わたしたちのバルドーがいったいどのような形成状態にあるのかと。要するに、そ
れまでの布施の徹底ができてるかと、あるいは持戒の徹底ができてるかと、あるい
は忍辱の徹底ができてるかと、あるいはそれをチェックするための、精進の徹底は
できてるかということを見ること、これが第五番目の正サマディの徹底である。
例えば例を挙げるならば、最終の解脱をすると、色界の光と、そして欲界の光、
この二つの光が絶えず自分自身を包んでいる。そして黄色い光の色界の光が、例え
ば自分を包んでいる場合、「ああ、わたしは貪りのカルマがまだ強くて布施の心が
できてないんだな」と、「もっと布施の徹底をやるべきである」と。あるいは情報
の光が、例えば白い光であるならば、「わたしはヴァジラサットヴァの功徳は積ん
でいるが、まだヴァイローチャナには至っていないんだな」と。あるいは、この欲
界や色界の光のバックに黒い光が存在すれば、「わたしの無明は、まだ完璧に止滅
しているわけではないんだな」と。これが正サマディの徹底である。
そして、自分自身の修行をそれにより修正し、最終的には叡智の徹底ということ
になる。この叡智には二通りの意味合いがある。第一の意味合いは神秘的な力、こ
れを有するということである。その基本は六神通、六つの神通ということになる。
そして第二の叡智は、これは素晴らしい思索力。つま、つまりすべての現象を見抜
き、そしてそれを動かすということである。
◎六つの徹底の完成のために
では、この六つの徹底を完成するためには、何をなせばいいのだろうかと。それ
は四預流支の実践である。では、四預流支とは何かというと、まず三宝に対する帰
依である。この三宝とは、まず覚醒者、真理、そして、真理に集う者に対する帰依
となる。オウム真理教においてはグル、そして真理、そして教団ということになる。
これが第一番目の預流支である。
この預流支という言葉の意味合いは、先程も述べた、欲界から色界、そして無色
界をぶち抜き、最終の解脱をする流れに身を投じる、身を投じるための支え。これ
が預流支である。
では第二の預流支とは何かというと、これは正記憶修習ということになる。つま
り真理のデータをいかに多く根付かせるか。なぜならば、わたしたちは小さいとき
から正しくない見解をたくさん学んできている。それに対して、真理のデータを同
じぐらい入れないと、正しくフェアーに判定することはできないと。そういう意味
で第二番目の預流支、これは正記憶修習ということになる。
では第三番目の預流支は何かと。これは、その正記憶修習したものにのっとり、
わたしたちの身・口・意について熟考する。あるいは諸現象について熟考するとい
うことである。これによって教義の理解が深まり、そして苦蘊からの解放が始まる。
では第四の預流支は何かと。これは三で考えた身・口・意に対する熟考、諸現象
に対する熟考を実際に実践するということである。
つまり、この四預流支とは、まず、何をなすかの規定をなす、これが第一番目の
預流支であると。二番目は、その帰依をした、あるいは規定、この規定に対してし
っかりと知識を根付かせると。三番目はその知識を十分に分析し、使いものにする
ようにすると。四番目は使いものになった、その思索レベルを実践段階に移行する
と。
実はこれは、この現実の社会において生きる上においても大きな利益を与えてく
れる考え方である。例えば、自分自身がどのような生き方をするのかと、ね。例え
ば、それは自由主義にしろ、あるいは共産主義にしろ、あるいは、その自由主義で
も共産主義でもない政治的な考え方にしろ、まず、その根本的な土台となる本、あ
るいは人に対して傾倒すると。二番目はその人の政策、これを何度もなん、何度も
読むと。三番目はそれを自分の生活に当てはめてみると。四番目は実践すると。そ
れをなすならば、例えば日本にいても共産主義の実践ができるし、あるいはアメリ
カにいても共産主義の実践ができるし、あるいはソビエトにいても自由主義の実践
ができるということになる。
そして、いかなる邪悪な空間にあったとしても、この四預流支を繰り返し、繰り
返し実践するならば、わたしたちは真理から外れることなく、必ずや上流に至る、
至り、アカニシタ天、つまり色究竟天へと転生し、マハー・ニルヴァーナへと入る
のである。
◎堅固な修行の土台を
ところで、オウム真理教は一九九一年に入り、ベクトルが下降から上昇、つまり
発展の方向へと向かい出した。これはひとえに、一生懸命マスコミや権力がオウム
真理教を叩いていて、その叩かれている間に、わたしの出家した弟子たち、あるい
は信徒の皆さんが一生懸命、教学、瞑想といった修行の土台を固めていた結果に他
ならない。
これはちょうど次の比喩にたとえることができる。ここに二本の杭を考えてみよ
う。一本目は十メーターの杭、二本目は六メーターの杭と。一本目の杭を五メータ
ー打ち込むと。二本目の杭を一メーター打ち込むと。ね。そしてこの杭の大きさを
同じだとしようと。わたしたちが視覚的に見ることのできる長さは五メーターであ
り、杭の大きさは同じである。しかし、この杭に対して横から力を加えた場合、十
メーターの杭は安定し、なかなかもぎ取れるということはないであろう。ところが
第二番目の六メーターの杭は案外あっさりともぎ取ることができるであろうと。こ
れは何を意味してるかというと、記憶、そして記憶修習の違いを意味しているので
ある。
わたしたちが、この人間の生、そして死、そして中間状態、これを正確に正しく
生きるためには、それほど深く真理を根付かせなければならないということなので
ある。そして、これだけ深く真理を根付かせるならば、いかなる魔の軍勢に攻め込
まれたとしても、平然とそれをはねのけ、最高の至福、最高の歓喜、最高の自由を
得ることができるはずである。
はい、それではね、大乗の発願を十三回、そして苦の詞章を十三回唱えた後、オ
ウム三唱し、質問を七つ取りましょう。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#239
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/21 2: 0 (175)
オウム真理教>説法>四預流支、世界観
★内容
四預流支、世界観
1991年2月10日 名古屋支部道場にて
◎生と死を超越した絶対的な価値観
救済の成功には、二つのパートが存在する。その一つは、教勢の拡大、あるいは
教団が大きくなること。そしてもう一つは、その済度された方々の、実際に法に触
れる回数が増え、そして真理を深く実践させるということ。この二つである。そし
て、一九九一年の一月、このオウム真理教は、新しい信徒さんを二百六十五名入信
させ、まあ、全盛期に比べると半分ぐらいまで回復してきてると。しかし、まだま
だ、実際真理の実践に至っては、例えば瞑想、例えば奉仕の実践等、全盛期の頃に
比べたら、三分の一、四分の一ぐらいの、まだパワーしか発揮されてないように見
える。
これは、どういうことかというと、一重に、わたし、そして、弟子たちの努力不
足であると。なぜならば、もし、この時期に、真理とは何かと、そして、その真理
があなた方にどのような恩恵をもたらすのかということをしっかりと根付く、根付
かせるならば、あなた方の心には歓喜が生じ、そして全力で修行しようという気持
ちが芽生えるはずだからである。
例えばラッタパーラ経、あるいはガティーカーラ経に見られる、要するに真理と
の縁が深まれば、それだけで最高のエクスタシーを感じることができるんだという
ことの現われである。もちろん、ここにいるウッパラヴァンナー正悟師などもその
経験を何度も何度も経験している。そして、このような形状なき楽、形状なきエク
スタシーを色界への道しるべと言っている。
もともと禅定には、第一ステージから第四ステージまであり、その中の第二ステ
ージ、これが喜悦の状態である。では、いったい、この喜悦とは何かというと、真
我本来が持っている、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の中の、歓喜の状態である。
つまり、真我が今なしている身・口・意の行為に対して、最高に歓喜している状態、
それが喜悦なのである。そして、真我と最も近い形のある世界、色界へ転生する条
件なのでもある。
この愛知県は、そして名古屋支部の管轄区域には、多くのオウム真理教の成就者
を輩出している。例えば、ミラレパ正悟師、あるいはジェーンティー師等々である。
そして、ここにいる、まあスブーティ師も、その一人である。これらの成就者が、
この名古屋支部管轄の地域に存在しているということは、この地域が救済の対象、
そして教勢拡大の対象になっているということでもある。そして、今ここで修行し
ているあなた方一人一人が、全力で修行なさり、先程述べた真我本来の絶対自由・
絶対幸福・絶対歓喜という三つの特性を早く備えると。そして、もう一歩進めて、
心の広大さ、あるいは意識の広大さといったものを瞑想的に体験すると。これをな
すことによって、この世の中が幻影であり、実態のないものであり、そして生も死
も超越した意識状態が存在するんだということを認識できるはずである。
人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けらんない。そして、原始キリスト教も
そうであったし、仏教もそうであったし、あるいは原始イスラム教もそうであった
のと同じように、そこに成就者が存在し、そして成就者の説く法は、生と死を超越
した絶対的な価値観である。
では、なぜ、絶対的な価値観を説くのであろうかと、この世だけでいいではない
かと考えるかもしれない。ここで、例えば日本とアメリカの規則を考えてみよう。
日本は人が右側を歩き、そして車は左側を走ると。ところがアメリカでは、車が左
側を、あ、右側を走り、人が左側を歩くと。つまり、交通法規という名のもとに、
日本とアメリカでは逆なのである。これは、何を意味しているかというと、生の理
論と、つまり生きている間の理論と、それから死の理論とは、逆転するのである。
例えば、この世で大いに生命を傷付け、生命を殺した人がいたとしよう。この生
命を殺した人は、中間状態に入り、その対象を認識し、対象を認識するということ
はどういうことかというと、例えば猫嫌いで、猫を見たらすぐ川に投げ込んでしま
うというような人が、人がいたら、そこへねと、猫が登場すると。このやろうと思
ってその猫を追っかけると。で、追っかけた先が、捕まえようと思った瞬間に、追
っかけた先が地獄であると。このような形で、中間状態、つまり死の状態というの
は、この現象界の裏腹の世界、心が即欲六界につながる世界なのである。そして、
それを熟知し、経験していれば、そういう不幸から免れることができる。
そういう話をするとね、こう言う人がいるかもしれない。この世が楽しければい
いじゃないのって。何でわざわざ真理の実践をする必要があるんだと。あなた方の
言ってることはわかるけども、わたしはこれでいいのよと。しかしね、ここで考え
なければならないことは、例えば生きた貝を海から取ってき、そしてそれを鍋にほ
うり込んでグツグツ煮てると。煮られている、例えば貝は、わたしたちはこれで良
かったのよと言うであろうか。あるいは、考えるであろうか。それと同じように、
例えば釜ゆでの刑に遭っている来世のわたしたちかもしれない魂が、そこでわたし
たちはこれで良かったのよと言うであろうかと。
◎不放逸と慚愧の念
もともと苦楽の生起というのは、意識を根本としています。よって、地獄では、
死がありません。死がないとはどういうことかというと、何度も何度も肉体が壊れ
ては生じ、壊れては生じ、苦しまなければなりません。それと同じように、この人
間の世界においても、よくそれを見つめればね、同じ苦しみを何度もなりとも体験
しています。
例えば、ある女性が異性に振られると。その振られるときも、大変不幸な形で振
られると。しかし、また次に異性を追い求め、またお付き合いし、また振られると。
これを何度も何度も経験すると。意識は、この人間の世界というのは、執着の幻影
によって形成された世界ですから、その執着による苦しみを何度も何度も経験させ
ます。これと同じように、動物の世界においては、無智、つまり、もう少し智慧の
ある態度で振る舞うならば苦しまなくていいのに、智慧がないがために、何度も何
度も恐怖をしなければならないと。餓鬼の世界において同じように、貪りというも
のが対象となり、貪らなければ苦しまなくていいのに、貪ることによって何度も何
度も苦しまなければなりません。地獄は嫌悪を背景とした苦痛の世界です。これも
同じように、何度も何度も、熱地獄、あるいは寒冷地獄、あるいは痛み優位の地獄、
あるいは現代では堕胎地獄といったね、ようなものが存在し、そこで何度も何度も
苦しまなければなりません。
ということは、これはすべて意識の世界ですから、意識が完全に浄化され、カル
マが落ちてしまえば、当然その地獄・動物・餓鬼・そして人間の苦しみから脱却で
きるわけです。
では、それをなすためには、どのようにしたらいいのかと。それは、不放逸とザ
ンキの念を持つべきであると。不放逸とは何かというと、これは要するに、怠惰な
く修行を続けなさいよということです。では、ザンキとは何かというと、これは自
分の内側に対して絶えず反省する心を持つと。そして、外側に対しても同じように
謙虚な心で接すると。これがザンキの念です。この不放逸とザンキというのは、仏
教の根本であり、最初であり、最後であるといわれています。
では、このザンキの念と、それから不放逸を土台とし、何を実践するのかと。そ
れは、四預流支です。四預流支とは何かというと、まず第一は三宝に対する帰依で
す。つまり、自分自身の修行を三宝に委ねると。では、この三宝とは何かというと、
オウム真理教においては、グル、あるいはシヴァ大神と、そして緒々の仏陀と。こ
れが、第一。第二は、その法、つまり真理です。そして第三は、その法に集う者、
これは仏教教団ではサンガと称しています。ここでは、教団ということができます。
つまり、グル、真理、教団、この三つに対する帰依、これが第一の預流支です。
では、第二の預流支とは何かというと、その真理を絶えず聴き、つまりこういう
説法会に参加し、聴き、そして『マハーヤーナ』等を読み、記憶を何度も何度も行
なうと。記憶修習をするということです。これによって今まで、二十年間、三十年
間、四十年間、五十年間、六十年間と培ってきた、この人間世界の考え方、観念で
はない、もう一つ別の聖なる考え方をデータとして入れるということ。これが第二
番目の預流支です。
では、第三番目の預流支とは何かというと、これはその記憶修習したものにのっ
とり、考え、自分自身の身の行ない、口の行ない、そして心の働きについて、検討
し、分析し、そしてザンゲするものはザンゲし、逆に肯定し、積極的に拡大してい
くものは、拡大させると。これが第三番目の預流支です。
では、第四番目の預流支は何だろうかと。実際に考え、分析し、ザンゲするもの
はザンゲし、それを発展させて考えるものは発展させて考えた、そのものを実際に
実践すると。例えば、身の行ないについて言うならば、殺生を離れ、生き物を慈し
むと。偸盗を離れ、布施の心を持つと。邪淫を離れ、人に親和な態度をもって接す
ると。妄語を離れ、真実をか、語ると。真実を堂々と語ると。綺語を離れ、必要の
ない言葉を話さないと。悪口を離れ、人に優しい言葉、優しい言葉で語ると。両舌
を離れ、人と人とを和合させるように語ると。そして、心に貪り・嫌悪・無智とい
うものを持たず、四無量心で接すると。これが、第四番目の預流支です。
◎人間の世界から上の世界へ
では、預流支とは、どういう意味なのかと。この預流支の預というのは、預金の
預であり、つまり預けると。何に預けるのかというと、流、流れに預けると。じゃ
あ、この預流とは何かというと、これは、この人間の世界から上の世界、つまり憤
怒天、戯忘天をぶち抜いて、そして色界をぶち抜いて、無色界に入り、マハー・ニ
ルヴァーナへと至る、その流れに自分自身を預けるということです。では、支とは
何かというと、それを支えるもの、支える土台、これが支です。
つまり、この三宝帰依、そして記憶修習、そして記憶修習にのっとり思索すると、
そして最後の思索したものを実践するというこの四つをなす人は、必ず未来際にお
いて、等覚、そしてニルヴァーナへと到達すると。
では、この世界の恩恵とは何かと。もちろん、人間の生においては、少しずつ少
しずつカルマが落ち、変化し、豊かんなり、発展すると。そして、もっと大きな功
徳を積んだ人は、天の道へ至ることができると。もちろん、ここで言う功徳とは、
漠然としたものです。それをより具体的に述べるならば、まず、例えば会社の経営
者、あるいは国家の運営に携わっている人が、そのパートを一生懸命なすことによ
り多くの人たちに利益を与えるならば、第一天界へと至ります。あるいは、今医師
の仕事をしていて、心を込めて患者を治している人。この方々も、第一天界へと至
ります。あるいは、呪術的な方法により天候を左右し、そして穀物が栄えると、穀
物が繁栄するように祈り、そしてその実際に結果を出せる人。この方も第一天界へ
と至ります。あるいは、生命を慈しみ、例えば、木々についてもそうだし、あるい
は動物についてもそうだけども、優しい心をもって接し、傷付けない実践をなす人
がいたら、この方も第一天界へと至ります。もちろん、その土台には、布施、そし
て持戒という二つの土台が必要です。
では、第二天界へはどのようにしたら行けるのかと。それは、この現世で磨いた
才能を生かし、救済のお手伝いをした人。この方々は、第二天界へと至ります。で
は、第三天界へは、どのようにしたら至るのかと。第三天界へ至る人は、要するに
真理、つまり生死を超えた絶対的なものを持っている教団に対して、多くの人を導
いた人。あるいは、実際にそこで修行し、ポアの技術をマスターし、多くの人を救
済した人。この魂が、第三天界へと生まれ変わります。では、第四天界へは、どの
ようにしたら生まれ変わるのかと。これは、その三つの条件の、第一天界は四つ条
件がありますから、そのうちの一つと、そして第二天界の要素と、第三天界の要素
を持ちつつ、四無量心の心を持って多くの人に真理の法を説いた人。この方は、第
四天界へと生まれ変わります。第五天界へ生まれ変わるためには、その上に神秘的
な力を有し、個人個人の済度をなした人。この方々が第五天界へと生まれ変わりま
す。そして、第六天界は、多くの衆生を一気に救済すると。神秘的な力によって一
気に救済した人。この方々が第六天界へと生まれ変わります。
そして、この第一天界から第六天界までの要素に加えて、貪りというカルマを滅
した人。この魂は、神聖天、つまり今までのオウム真理教の言葉を使うならば、梵
天の世界へと生まれ変わります。
そして、形のあるもの、つまりこの肉体についてすら愛着し、しなくなった場合、
非形状界、つまり無色の世界へと生まれ変わります。そして、心が広大無辺、深遠
の状態を、へと到達した魂はマハー・ニルヴァーナへと到達するわけです。
そして、その法こそ、真理です。そして、その法を実際に自分に当てはめ、思索
し、検討し、実践すること、これが預流支の実践です。
つまり、この四預流支の実践とは、別の言い方をすれば、八支の聖なる実践であ
るし、あるいは七覚支であるし、あるいは二正勤二正断であるし、あるいは四如意
足であるし、あるいは五根であり、五力であるということができます。
今日のわたしの法が、皆さんの心を歓喜させ、そしていずれかの生において、皆
さんが仏陀にならんことを。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#240
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/21 2: 6 (195)
オウム真理教>説法>高い世界へのデータの具足を
★内容
高い世界へのデータの具足を
1991年3月10日 名古屋支部道場にて
◎たった一つの正しい道
この人生をどのように生きたらいいか、そしてその正しい答えを見い出すこと、
これが真の智慧ある魂の生き方である。このような質問をすると、「多くの生き方、
多くの道があっていいはずだ」と答える人も多いかもしれない。しかし、実際は、
たった一つの正しい道しか存在しない。それは、どのような生き方かというと、正
しいものを具足する、正しいものを身につける生き方ということになる。
この「正しい」という言葉の定義をしっかりと行なわないと、ただ単にいろいろ
な書物に出てくる、例えば正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定
といったような、言葉のトリックにごまかされがちである。よってここで、正しく
「正しい」という言葉を定義しよう。ここでいう「正しい」とは、地獄・動物・餓
鬼というわたしたちを不幸の世界へいざなう、そういう世界へ生まれ変わらないた
めのデータを取り除き、そして、少なくとも人間、あるいは人間以上の怒りの天界、
そして戯忘の天界、そして神聖天といったような天界のデータを根付かせていくと
いうことである。
◎「具足」とは?
例えば例を挙げよう。小さいときからいろいろな情報を入れ、そして結婚の適齢
期へと入っていくと。このとき、男性にしろ女性にしろ、対象となる結婚相手を探
す。ある人はスタイルのいい人、ある人はグラマーな人と。あるいは、ある人は知
的な人、ある人はお金持ちの人がいいといったような形で規定してくると。これは
どういうことかというと、その人が小さいときからいろいろな情報を収集し、そこ
で喜んだり悲しんだりという繰り返しを行ないながら、その人の性格的な傾向が決
定されていっている、そしてその延長上に対象となるものが現われてくるわけであ
る。
例えば、現代のように性的な情報が氾濫している場合、当然、性的な喜びを与え
てくれる対象ということでその対象が限定されよう。そして、まあ、例えば女性が
お金によって喜ばせてくれるということでお金持ちを選んだ場合、そのお金持ちの
性格がねじ曲がっていたら、当然、お金による幸福は得られるかもしれないが、そ
の他にその対象から与えられる苦しみというものによって苦しまなければならなく
なる。同じように、小さい頃から性欲のデータを繰り返し繰り返し入れ、そして中
学、高校、大学と進み、そして性的遊びに翻弄し、翻弄され、対象となるものと結
婚すると。当然その対象は性的なもの、外見が優位となろう。そこで与えられてく
れるものは性的快楽であり、そして、その対象となる女性の持っている悪い性格に
よって苦しまなければならなくなると。
このような傾向の決定、これが仏教の言葉を使うならば「具足」なのである。具
足とはどういう意味かというと、備わり付け足されたもの、つまり、魂の本質では
なく、その人の傾向によって備わってきたものということになる。
もっと他の例を挙げよう。例えば、ある魂が生まれ、その魂の周りの環境がブル
ー一色であったと。あるいは父や母、兄弟たちがブルーを好んだと。当然、その魂
もブルーという色に対して喜びを感じ、そしてそれを何度も何度も修習することに
よって、愛著、つまりブルーに対する執着が決定すると。それによって、例えばそ
の人の使う色はブルーであると。その人の着る洋服の色はブルーであると。あるい
は、その人の買う車の色はブルーであるということになる。これが具足なのである。
そして、この具足を人間界以上の世界へと規定していくこと、これが、この人生
を正しく生きる生き方なのである。では、そのためには何をどうなさなければなら
ないのかと。それはまず人間界、憤怒天、あるいは戯忘天といった世界を正確に知
り、そこでの神々はどのような特質を備えているかということを理解し、そして完
全に自分のものになるまで修習、つまり繰り返し繰り返しそれをデータとして根付
かせることである。それをなすことによってのみ、わたしたちはその世界へ生まれ
変わることができる。これはちょうど、全く泳ぎのできなかった者が、水泳のうま
い人のフォームを見、呼吸の仕方を見、そして、それをまねて泳げるようになるの
と同じである。つまり、高い世界へ至った魂が、どのような生き方をし、どのよう
な考え方を持ち、そして、どのような実践をしたかということを正確に理解するこ
とにより、そして、それをまねることにより、わたしたちも高い世界へ生まれるこ
とができるわけである。
また、これと同じように、仏陀、つまり目覚めた人、この欲界それから形状界、
そこから非形状界という、この三つの世界を完全に知り自在となるためには、同じ
ようにどのような知識を得、どのような傾向を持ち、そして、どのような修習をな
したらいいかということ、これをしっかりと学び、実践することにより、同じよう
に覚者の境地へと到達するわけである。
◎二つの土台--布施・持戒
では、高い世界へ生まれ変わるためにはいったいどのようにしたらいいのかと。
まず仏典をひも解いてみよう。これは信徒の皆さんには『マハーヤーナ』にも載っ
ていたとおり、まず福田である聖なる八支の道、あるいは十の徹底、あるいは六つ
の徹底といったようなものを徹底的に行なっている者たちに対しての布施、奉仕、
そしてわたしたちを悪趣へと至らせないための持戒を守るということ、この二つが
土台となろう。
ではこの二つはいったいどのような形でわたしたちを上の世界へ結び付けてくれ
るのかというと、まず、布施の徹底というものは、わたしたちの心における貪り、
この貪りの傾向を弱めるがゆえに餓鬼の世界への転生をなくすということになる。
そして、奉仕の徹底は自己の利益、他の利益という小さな枠組ではなく、大きな枠
組でものを見ることができるようになるという心を培い、形成することになり、こ
れも同じように餓鬼の世界への転生を捨断することになる。
では、持戒についてはどうだろうかと。例えば、殺生をしないという持戒がある。
この殺生をしないという持戒は、その殺生の背景にある邪悪な心、この邪悪な心を
捨断する。邪悪な心を捨断するがゆえに、当然、地獄への道をシャットアウトする
ことになる。
では、偸盗についてはどうであろうか。この偸盗、盗みというのは先程も述べた
貪りの心を増大する。貪りの心というものが背景となると。よってこれをシャット
アウトすることにより、餓鬼の世界への転生はなくなる。
では、意味のないセックス、これについてはどうであろうかと。これは動物の世
界を見ればよくわかることだが、要するに盛り、つまりエネルギーの変化による盛
り、これに感応し対象はどうでもよくなり、お互いにオスとメスが求め合うと。そ
して交わると。人間界においても同じことが言えていて、性欲のデータを入れると。
それに刺激され交わると。このような傾向を強めていると、来世は動物へ落ちると。
よって、愛のない性的交わりを捨断すると。これは動物の世界への転生を防ぐ道で
あると。
では、次の妄語、つまり嘘、これについてのシャットアウト。これはわたしたち
にどのような傾向を与えてくれるだろうかと。これは、嘘というものはもともと自
己の心に覆いをかぶせる作業である。この嘘の修習をすることにより対象に対する
認識の仕方が甘くなり、対象をにんしつ、認識できないだけではなく、自分自身も
認識できなくなると。よって、この傾向をシャットアウトすることは、本質的な無
智である動物の世界のシャットアウト、そして意図的な無智である天界のシャット
アウトということになる。
では、最後の酒を飲まない、あるいはタバコを吸わない、あるいはマリフアナを
吸わない、LSDをやらない、シンナー遊びをやらないといったような、薬物によ
る心を散乱にするものから解放するということはいったいどういうことであろうか
と。これはわたしたちの集中力を強め、そして思念の力を強め、思念優位である怒
りの天界、あるいは戯忘の天界へと転生し、あるいは貪りが完全になくなることに
よって神聖天へと転生することになると。この布施・奉仕・持戒の実践は、よって
わたしたちを高い世界へと導くことになる。
◎貪・瞋・癡からの解放--開かれる天への道
では、これらの土台をもっと強くするためには、あるいは、これらの土台をもっ
と大きくするためにはどのようにしたらいいのかと。それは正記憶修習であると。
では、いったい何を記憶修習するんだと。それは、この欲六界の構成をしっかりと
知ること、そして、自分が生まれ変わりたい世界を規定し、そこに思念を加え、そ
してそのデータを何度も何度も取り込むことと。
例えば仏陀に至るためには、まず迷妄。迷妄をシャットアウトするためには六識
をシャットアウトすると。六識をシャットアウトするためには名色をシャットアウ
トしなきゃなんないと。名色とは何かというと五蘊であると。五蘊をシャットアウ
トするためには、当然、六つの感覚器官、これをシャットアウトしなきゃなんない
と。六つの感覚器官をシャットアウトするためには、当然、外界とシャットアウト
しなけきゃなんないと。これらをなすことにより、まず好むという感情が止滅する
と。好むという感情が止滅することにより、とらわれの心が止滅する。とらわれの
心が止滅するがゆえに、貪りが止滅し、あるいはその対称である嫌悪が止滅すると。
そしてこの対象である貪り、嫌悪が止滅するがゆえに欲界の転生がないと。欲界で
の転生がなくなればどうなるかと。心は神聖となり、三昧に入り、そして神聖天へ
と転生することになる。神聖天へと転生した場合、心の乱れが生じない限り、その
神聖天でね、永遠に近いぐらい長きにわたって幸福な時を過ごすことができると。
例えばこのように十二縁起の理法一つを繰り返し繰り返し行なうだけで自分自身
の心に生じてくる迷妄、これは無智だね、要するに。嫌悪、これは邪悪な心だね。
そして愛著、つまり対象に対する必要以上の情熱、これはまあ貪りとも、の、まあ
裏表であるわけだけども、このような感情を生起させることが、つまり、起き上が
らせることが自分にとって決してプラスではないんだということが認識できるよう
になる。そして、認識できるようになれば徐々にその傾向は弱まり、止まっていく
と。止まっていくがゆえにこの貪・瞋・癡の最も強い地獄、これは嫌悪だね。動物、
これは迷妄、無智だね。そして貪りという餓鬼、この三つから解放され、おのずと
人間、憤怒天、戯忘天、神聖天、あるいは光音天、あるいは色究竟天、あるいは非
形状界、そしてマハー・ニルヴァーナへと入っていくことになると。
◎「正記憶修習」こそ到達点への早道
では、具体的にどのようなものをしっかりと具足すれば、到達点を、は、その到
達点に早く到達できるのかと。これは、まず第一は乗り物の選択ということになる。
つまり、自分達を真理によって、あるいはタントラ・ヴァジラヤーナの仏法によっ
てその乗り物に乗っかり、悪業をできるだけ早く消滅していただき、早く対象とな
る世界へと没入するんだと考える人はまず帰依の修行から始めなければならない。
当然、この帰依の修行のやり方には、帰依マントラやあるいは立位礼拝もあると。
しかし、それはあくまでも、私はその船に乗りたいと、私はその船に乗りますとい
う宣誓であって、実際乗ったことにはならないと。では何をもって乗ったことにな
るかと。これは実際その対象の教えをしっかりと学び、そして奉仕・布施の実践を
行なうことによって、その乗り物に乗ったということになる。これはどういうこと
かというと、その乗り物の構造がどういうものであって、そして、その乗り物はど
ういうふうな方向によって、対象である天界や、あるいはマハー・ニルヴァーナへ
と導いてくれるかというマップを、地図をね、しっかりと理解すると。そして、お
布施というのは、要するにチケットを買うと、結び付きを強めるということが目的
となると。
そして、そこヘ乗ったならば、次はその乗り物のスピードを加速すると。では、
どのようにしたら乗り物のスピードを加速することができるのかと。これは、その
教えを何度も何度も記憶するということである。よく「私は八正道を知ってるよ」、
よく「私は七覚支を知ってるよ」と言う人がいる。言ってごらん。「正見解、正思
惟、正語、正行為、正生活、ね、正記憶修習、正精進、それから正サマディです」
と。ああそうかと、よく知ってるねと。ではその意味は? 「意味ですか? 正
うんぬん」と。「正思惟、うんぬん」と説明をなされると。実践できてるのかなと。
「いや実践はできてないです」と。「実践しようと思ってるんだけどできないんで
す」と。この「知ってる」から「実践しようと思ってるんだけどできないんです」
までの距離、これはかなりのものがある。
ではどのようにしたらその距離を縮めることができるのかというと、そこで登場
するのが正記憶修習である。つまり、データを一度入れ記憶するのではなく、何度
も何度もそのデータを入れ、自分のものにしてしまうと。そして、もう一歩進めて
自分自身の傾向を分析し、その正記憶修習のデータと自分自身の身の行ない、口の
行ない、心の働きとの、対照し、そして自分の傾向を完全に弱め、高い世界への道
筋へとベクトルの向きを変えると。そして最終的には、その記憶修習し、思索した
ものを土台とし、身・口・意における実践を行なうと。これをなすならば、必ずや
いかなる人でも、今、今生においてどんなに悪業を積んだ人でも、時間さえかけれ
ば、怒りの世界、あるいは戯忘の世界、あるいは神聖天の世界へと転生することが
できるはずである。
◎四預流支から具足、そして救済へ
人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けらんない。特に、今オウム真理教の教
団が大きくなってきて、救済の対象が死に行く人、あるいは大変重たい病にかかっ
ている人等に対象が移ってきてるように思われる。その際、しっかりと教義を皆さ
んがね、根付いてたならば、その教義をその方々に説いてあげるだけで大きなる、
大いなる功徳を積むことになろう。
よって、今日この日を境にね、しっかりと正記憶修習、そして、それによ、のっ
とりしか、思索、そして実践というプロセスを歩いていただきたいと思います。そ
して、高い世界へのデータを具足する。今日はこの四預流支から具足と、ここのぶ、
部分だけをね、皆さんが理解し記憶していただいたら、今日の講話の目的は十分に
果たせたと思います。それでは、大乗の発願十三回、そして苦の詞章を十三回唱え
た後、オウム三唱し、質問を六つ取って終わりにしましょう。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
最終更新:2018年01月06日 20:02