#241
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/21 2:12 (133)
オウム真理教>説法>七覚支1
★内容
七覚支
1991年3月8日 和歌山支部にて
◎貪・瞋・癡
今、お聴きになった曲、これは一曲目が「未来へ」の編曲、そして二回、二曲目
が「カルマ・ヘルカ」、三曲目が「シャンバラの歌」、そして四曲目が「ニルヴァ
ーナ」です。で、まあこの中の一曲目と四曲目の、えー、主旋律、これはわたしが
もうすべて作ったものであり、で、三曲目と、え、二曲目と四曲目は、これはアス
トラルから音を引っ張り出し、それを、まあ、ウルヴェーラ・カッサパ師、あるい
は、あのうAEIのメンバーが、えー、編曲したと。つまり、編んだという曲です。
で、一曲目、それから四曲目は、平和の神々のときに登場する曲です。で、二曲
目、それから三曲目は、恐怖の神々のときに登場する曲です。で、まあ、あの、実
際、えー、平和と恐怖だけで十三曲、で、その他に、あの、欲界のバルドーで、ま
あ約十曲、まあ、その他に数曲ありますから、約二十六曲か七曲くらいの曲が出る
はずです。で、それだけではなくて、まあ、あの、アストラルで使われているマン
トラですとか、あるいは、えー、詞章、その他が出ます。
で、じゃあ、なぜ今この時期にというと、まあ、いよいよ世の中は、あ、どんど
んどんどん乱れ、そしてわたしたちもいつ死ぬかわからないと。で、その場合、ま
あ確かに、あの書物として皆さんに死の世界をアピールすることはたやすいことだ
けども、それではどうしても視覚的経験、あるいは聴覚的経験というものにのっと
った場合、大変弱いと。よって、視覚的、聴覚的、あるいは嗅覚的に体験させてあ
げようと。それを一回なしていることによって、その類似体験が、死、そして中間
状態に入ったときの恐怖をやわ、和らげてくれるだろうと。
もともと、わたしたちは三グナの干渉により、つまり日本の古典仏教の言葉を使
うならば、貪・瞋・癡、正確な言葉を使うならば、迷妄、そして邪悪心、そして愛
著(アイチョ)、愛著(アイジャク)ね。この、あのう、三つの意味を正確に言う
ならば、まず、あの、貪・瞋・癡の癡というのは、迷妄、まさに、あのう、何が真
理であるか、あるいは何が真理でないかわからない状態と。何が善であるか、何が
悪であるかわからない状態と。これは、あのう、ヨーガの言葉を使うとタマスと言
います。そして、邪悪心というのは、これは例えば、嫌悪がその筆頭であると。要
するに、他を排斥したいと、自分の空間を作りたいと。これはラジャスと言います。
そして、もう一つは、対象に対する情愛、情熱、あるいは執着といったようなもの。
これは、まあ、愛著、愛著というのは、愛するという字に、あのう草冠に、あのう
者ね、つまり、あのう、著しいという字を書くんだけど、これは、あのサットヴァ
という性質があるわけですけど、この三つのグナの働きにより、わたしたちは、こ
の世に縛り付けられてしまったと。
しかし、もしわたしたちがこの三つのグナの干渉を受けないですんだならば、わ
たしたちそのものは、この肉体からも自由だし、そして魂の本質は歓喜、それから
幸福であるから、歓喜・幸福であったはずであると。
で、もちろん肉体をなくした状態、つまり死、そして次の生の中間状態というの
は、本来輪廻転生にとって、あるいは、そのう、解脱にとって最も絶好のチャンス
であると。つまり、最も変形しやすい時期であるといえますと。例えば、それはち
ょうど、夢を見ていて自分の意志によってその夢を変えることができるならば、同
じように中間状態に入り、その空間を変え、自分の輪廻転生がコントロールできる
という、まあ、これはちょっと、かなりね、タントリックな高度なヨ、ヨーガにな
るわけだけれども。で、まあ、その前哨、前段階として、ま、このような、死と転
生のイニシエーションをね、皆さんにお応えたいと考えたわけです。ですから、相
当本腰を入れて皆さん、はの、今回のイニシエーションについて見ないと。それか
らもう一つは、ひ、多くの人々にその利益をね、還元してあげるように努力してい
ただきたいと思います。
◎七つの覚醒を支える土台
では次に、その三つのグナ、貪・瞋・癡、あるいは迷妄、そして邪悪心、それか
ら愛著という、この三つから解放されるためには、いったいどのようにしたらいい
んだと。ね。このためには、七つのブッディを支える、つまり覚醒を支える土台が
ありますと。
もともと真理と、それから真理でない他の宗教との違いというものは何であるか
と説明すると、まず、あのう、真理というものは、ありのままに現象を見ることか
らスタートします。よって、偏った、例えば信仰をいたしません。偏った信仰をし
ないとはどういうことかというと、その実体が、いいとも悪いともわからないのに、
その実体から、例えばエネルギー、エネルギーをもらうだとか、あるいは、その実
体の教えを信じるということをいたしませんと。いや、でも仏教の中には三宝帰依
といって、しっかりとそのエネルギーをもらい、教えを受けるというのがあるじゃ
ないかと。いや、それはちょっと違いますと。何かというと、仏教の教えというの
は、もともと、自分自身のいろんな煩悩を落としていくための教えであると。つま
り、これをこうすれば、例えば、何かがよくなりますよという教えではなくて、こ
れをこうすれば、はっきりと現象を見極めることができますよという教えであると。
だから言い方を換えるならば、アンチ洗脳であると。ところが、一般の宗教はそ
うではなくて、一つのことを思い、思い込ませるわけだから、当然洗脳ということ
になると。
じゃあ、この二つは、どのように違ってくるのかと。一つは、すべての現象を明
々白々と理解できるようになっていくプロセスであると。もう一つはそうではなく
て、思い込みによって、より一層その世界へと没入する教えということになる。
では、土台となっている、その先程言った七つのブッディを支えるもの、つまり
仏教的言葉を使うならば、七覚支といわれるわけだけれど、これはいったい何だと
いったならば、まず、第一番目は、正記憶修習であると。正記憶修習とは何かとい
うと、例えば、わたしたちがまず幻影の中にいるんだということを認識するための
教え、これを何度も何度も記憶すると。あるいは、わたしたちがその現象を把握す
るために発する光を強めるためにはどのようにしたらいいかという教え、これを何
度も何度も記憶修習すると。あるいは、対象を正確に見つめるために、心を静める
ためには、どのようにしたらいいかという教え、これを何度も何度も記憶修習する
と。これがまず一番目にくる、わたしたちがすべての現象をありのままに見つめる
法、つまりダルマということになる。
◎択法覚支
では、二番目は何かと。これは択法覚支。この択法覚支というのは、どういうこ
とかというと、いろいろな世の中の観念や、あるいは宗教的儀式、あるいは宗教的
な法が存在していると。この宗教的な儀式、観念、宗教的な法に対して、これは黒
法であると、これは白法であると、これは邪法であると、これは真理であると、そ
れを正確に認識し、選択し、自分の実践を決めるという、これが第二番目の択法覚
支ということになる。これをなすことによって、法のあや、あやまちが存在しなく
なると。
では、どのようにしたら、その択法覚支、覚支をね、なすことができるのかと。
それは、わたしたちを色着けするもの、これは黒法であると。わたしたちの色を取
っ払うもの、これは白法であると。わたしたちの煩悩を増大させるもの、これは邪
悪法であると。わたしたちの煩悩を減少させるもの、これは真理であるということ
になる。
◎精進覚支
では、三番目の精進覚支とは何であろうかと。これはまさにわたしたちの心を静
め、そして対象を正確に認識するための、大いなる功徳の光を増大させる法である
と。
まず、今なしている大いなる功徳、つまりわたしたちの対象を認識するための、
光を強めるための、大いなる功徳を増大させると。例えば、布施の実践や、奉仕の
実践に勤しんでいれば、その布施や奉仕をもっともっと増大させると。あるいは、
例えば、生類、生き物を慈しんでいれば、それをもっともっと増大させると。この
ようなこと。あるいは、経典を日々読み、例えば一日一時間と決めていたら、これ
を二時間に増やすとかね。これが第一番目の、今なしている善法を増大させるとい
うことである。
では、第二番目の、今まだなされていないけども、未来においてなさなければな
らない善法を増大させるように思念するという教えがくると。これは何かというと、
要するに、例えば、まだ信や帰依が揺らいで、イニシエーション、その他を受けら
んないと、ね。この場合、しっかりとした土台を固めて、本当にこの教義でいいの
かと、自分自身が今生だけではなく、来世幸福になれるのかどうかの確信をしつつ、
未来においてしっかりとイニシエーションを受けるぞと、あるいは自分の周りに苦
しんでる人たちがいたら、その人たちに安らぎの布施を行なうことにより、真理に
導き入れるぞという思念をすると。これが二番目の、今まだ自分自身はなしていな
いが、未来においてなさなければならないメリット、功徳について増大させる法で
あるということになる。
では、三番目の今なしている不善法、つまり悪業を断じるという法は何であろう
かと。例えば、小さな生き物をね、その小さな生き物にも真我が存在していると、
小さな生き物も苦しみがあるんだということを知らず、平然と殺生してしまうよう
な心を捨断すると。シャットアウトすると。あるいは、自分の周りのものが、いろ
んなものを持っていると。それに対してそねみや妬みを持ち、嫉妬心を持つと。あ
るいは、実際に盗んでしまうと。そういう心をシャットアウトすると。これが、今
生じている悪法、不善の法を捨断するということであると。
(つづく)
#242
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/21 2:16 (121)
オウム真理教>説法>七覚支2
★内容
◎喜覚支
そして、教義をしっかりと記憶修習することにより、自分の性格を見極め、今ま
だ切ることができないけど未来において絶対に切ろうと。この悪業は切らなきゃな
んないというものに対してアプローチし、そしてそれを思念し続けるということ、
これは第四番目の法ということになる。例えば、例を挙げるならば、浮気をしてる
と。で、その浮気の対象との間には、愛着が生じていると。でも、その浮気そのも
のが真理に触れるわけだから、今は切れないけども、これから半年後には切るぞと
いって努力し、そしてシャットアウトしてしまうと。
これら四つの実践、これが覚醒に到達する土台としての、第三番目の法であると。
では、第四番目の法とは何かと。それは真理の実践。例えば、布施について、例
えば奉仕について、例えば戒律を守ることについて、あるいはカルマ落としについ
て、それを大変喜ぶと、大いに喜ぶと。例えば、布施を受けていただいた、これは
うれしいことであると。例えば、奉仕をさせていただいた、これはうれしいことで
あると。例えば、今までなせなかった戒律を今日守ることができたと、これはうれ
しいことであると。例えば、Aさんが自分のカルマを落としてくれたと、これはう
れしいことであるといって、自分の環境に対して、あるいは自分の行為に対して、
それが真理にのっとっていたならば、それを大いに喜ぶという。この大いに喜ぶと
いうことは、わたしたちの傾向を決定します。つまり、わたしたちが例えば食べ物
があると。その食べ物を食べて喜ぶならば、次にまた同じ対象の食べ物を食べたく
なるだろう。同じように、ここに真理があり、そのじ、真理の実践をなすことによ
り、それを喜ぶならば、その傾向はどんどん強まり、功徳を積み、悪法を断ずる方
向へと心は向かう。これが四番目の覚支である。
◎静寂覚支
では五番目の覚支とは何かと。五番目の覚支とは、これはわたしたちの修行がリ
ズミカルで規則正しいものであり、そして先程も述べたとおり、わたしたちの心を
柔軟にし、軽快にしていくということを思念し、それは結局、心身の軽快につなが
るんだということを思念し続けると。これが、第五番目の、わたしたちのブッディ
を支えるものとなる。
では、なぜこの五番目に心身を軽快としなきゃならないのかと。これは、つまり
わたしたちが解脱や悟りを、に到達するためには、完全に肉体の停止、心の停止が
必要である。肉体の停止、心の停止とは、座法を組み、完全に心が止まり、目の前
を流れる、例えば天眼の世界、あるいは天耳の世界に心が集中し、対象を理解し、
そして三界を見極めると。この経験をなすときに、もし座法が乱れれば、体が動け
ば、そこで瞑想はシャットアウトされてしまうと。ストップすると。よって、心と
体を軽快にし、そしてその座法が安定し、揺れがなく、不動な状態を作り上げてい
くということが必要なのである。そのためには、心身軽快が必要ということになる。
これが第五番目のわたしたちのブッディを支える覚支ということになる。
◎サマディ覚支
では、第六番目、これは何だと。これは、サマディ覚支であると。サマディとは
何かというと、完全に心が止まり、対象を認識し、そしてその対象の認識が止まっ
ているがゆえに、正確にはっきりとわかると。なぜ、ここで止まらなければならな
いのかというと、もしわたしたちの心が動いていれば、対象を正確に認識すること
はできない。それは、ちょうど対象を見るときに、色眼鏡を付けて見るのと同じで
ある。
では、この対象を見ることができないとどうなるかというと、サマディの後にく
る、如実智見というものができなくなると。例えば、対象があり、それに愛着が生
じるならば、当然その愛着によって対象に引きずり込まれてしまうだろう。そうす
ると、そこで当然如実智見ができなくなると。
では、なぜ如実智見が必要なのかというと、先程の述べた、この現象界のすべて
は、迷妄、邪悪心、そして愛著という、この三つが根本となっているから、当然こ
れから遠離、離貪しなければ解脱できないし、仏陀の境地、覚者の境地に到達でき
ないはずである。これが第六番目の土台であると。
◎無頓着覚支
では、第七番目の土台は何であろうか。これは聖無頓着の修行である。聖無頓着
の修行とは何かというと、例えばわたしはこれこれの功徳を積んだから、このよう
な現象が起きて当然であると。たしかに功徳を積めば、その対象として良い現象が
現われる。これは、事実である。しかし、例えば過去世の因に頼り、あるいは過去
の行為の因に頼り、それとだぶり、自己にとって不利益の現象が起きる可能性もあ
る。そういうものに対して、よって頓着しないと。そして、ひたすら善を実践し、
悪を止滅すると。そして、徳を積み、悪業を減少させると。正確に対象を認識し、
謬見解を捨てると。そのためには、今、行な、起きて、起き上がってきている現象
に対して、無頓着でなければならないわけである。これが仏陀に至るための七つの
土台ということになる。
つまり、真理のおと、教えというものは何かというと、要するにわたしたち一人
一人が最終的には自分の内側ですべてを知り尽くすための教えであると、つまり与
えられるものではなく、そぎ落とし、そして対象を認識する教えということになる。
そして、解脱した後に、神秘的な力、天耳、他心、宿命、死生智、漏尽という五つ
の神通力を身につけることになる。
◎七つの土台の実践、四預流支
ではいったい、これら七つの土台、これはどのようにしたら実践できるのかと。
それは四つの預流支である。では、四つの預流支とは何かと。まずこれは三宝に対
する帰依である。では、三宝とは何かと。これはシヴァ大神の化身である、あるい
は諸々の仏陀のすべての智慧を集積した象徴であるグル、グルに対して帰依をする
ことである。そして、第二番目は、そのグルの教えに対して帰依をすることである。
あるいは、いにしえの仏陀の教えに対して帰依をすることである。ここでいういに
しえの仏陀とは、仏陀でないものの教えは含まないと。例えば、仏典と書かれてい
ても、それが仏陀の教えではなかったら、それは含んではならないということにで
ある。そして、向煩悩滅尽多学男や、向煩悩滅尽多学女、これはどういうことかと
いうと、煩悩滅尽に向かっている、真理を多く知り実践している男性や女性の出家
修行者に対して帰依をするということである。これはオウムでいったら、師、ある
いは正悟師、正大師ということになるだろう。これらの者に対する帰依というのは
何かというと、奉仕をし、布施をし、教えを受けるということである。
そして、第二番目の預流支とは何かというと、その受けた教えを何度も何度も記
憶修習するということである。ということは、この記憶修習は先程述べたブッディ
に到達する第一番目の記憶修習とだぶってくると。
では、第三番目は何かというと、その記憶修習したものにのっとり、しっかりと
思索をするということである。じゃあ、なぜ初めから記憶ではなくて修習なのかと。
これは記憶というのは、例えばわたしたちが日ごろ培っている食欲、あるいは性欲、
あるいは嫌悪といった情報、これと同レベルで、もし真理のデータを入れるならば、
当然わたしたちが生活している時間の中で、真理を実践している時間は短いから、
負けてしまうと。よって、しっかりと、まず、真理のデータを根付かせるという意
味での記憶修習なのである。そして、それにのっとり現象を見つめるならば、わた
したちの身・口・意における苦しみの因がどこにあり、そして何をなせばその苦し
みから解放できるかよく理解できるはずである。
そして、第四番目の法、これは実際に記憶修習し、思索したものを実践するとい
うことである。そして、自分自身の心をまず地獄の嫌悪や暴力的空間から解放し、
動物のむやみな動き、妥協、煩悩的な単純な動きから解放し、必要ない物以上の物
を求め、対象に対して愛を与えず、あるいは対象に対して布施をしないという餓鬼
の空間から解放し、必要以上の情熱、この情熱の空間である人間の世界から解放し、
そして天へと至るのである。そして、最後は先程もの、述べた、迷妄、邪悪心、そ
して愛著という、この三つから解放し、真我独存へと到達し、自由で幸福で平安な
世界へと入っていくのである。
これが仏教のすべてであり、真理のすべてである。
皆さんは今日、この覚支、覚支からの預流支と、この三つの、二つだね、二つの
法をお聴きになったわけだから、必ずや未来において、これを実践なさるだけで、
仏陀の境地へと到達できるだろう。はい、それでは大乗の発願十三回、苦の詞章十
三回唱えた後、オウム三唱をし、質問を四つ取って終わりにしましょう。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#243
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/21 2:23 (130)
オウム真理教>説法>四預流支と五蘊無我1
★内容
四預流支と五蘊無我
1991年2月28日 新東京本部道場にて
◎修習と成就
バケツに透明な水を入れる。そして、その透明な水に墨汁を一滴、二滴、三滴と
落としていく。いったいこれは、どうなっていくだろうか。この水の色は、薄い黒
から徐々に徐々に濃い黒へと至っていく。逆に、こけに、ここに透明な水があり、
その透明な水がバケツに入っていると。この透明な水に牛乳を一滴、二滴、三滴と
入れていくと。いったいこれはどうなるだろうかと。薄い白から、徐々に徐々に濃
い白へと移行していく。そして、これが修習であり、成就なのである。
もし、わたしたちが悪法を日々の糧とし、食らい生活するならば、それはちょう
ど墨汁が透明な水に溶け込んでいくのと同じように、少しずつ少しずつ、その黒味
を増し、そして気付いたときには、墨汁とほとんど変わらないぐらいの濃度の黒い
色を呈している。逆に、わたしたちが善法を牛乳と同じように一滴、二滴、三回、
三滴、つまり一回、二回、三回と修習を続けていくうちに、バケツの水は、徐々に
徐々に牛乳と同じぐらい濃い白を呈するのと同じように、わたしたちの心も善法に
完全に浸されることになる。
◎悪法を取り除くには
では、この悪法はどのようにしたら取り除くことができるのだろうかと。それは、
濾過する以外に方法がない。しかも、その濾過する方法は、水分子を通し、それで
いて墨汁の分子を通さないと。このようなものが存在し、そして、それによって漉
すことができるならば、またもとの透明な水と、そして墨汁とにわかれることがで
きるだろう。つまり、純粋な心と、そして悪業とに分離できるはずである。この濾
過紙とは何かというと、これはわたしたちの微細な意識状態におけるザンゲであり、
そして透明な水は、わたしたちの純粋な心を表わしている。もちろん、墨汁は悪業
を表わしていることは言うまでもない。
この状態で、つまり透明な状態で、わたしたちが白い水になっていくこと。つま
り、善法を何度も何度も繰り返し修行すること。これによってのみ、わたしたちは
純粋に白、純粋に功徳の状態を顕現化することができるのである。
では、いったい、悪法とはいかなるものがあるのだろうかと。それは、わたした
ちの煩悩を増大させるものである。では、なぜ煩悩を増大させてはならないのだろ
うかと。これは、わたしたちが、もし煩悩を増大させ、その煩悩に限りがあるなら
ば、それは増大させたとしてもわたしたちに苦しみというものは、生起しないはず
である。しかし、煩悩には際限がない。そして、その際限ない煩悩なるがゆえに、
わたしたちは苦しまなければならない。よって、煩悩を増大させるようなすべての
行為、すべての言葉、そしてすべての心の働きを止滅するべきなのである。
では、善法とは何であろうか。これは、煩悩を弱め、少なくし、そして最終的に
は滅尽すると。そして、心を広大に、無辺に、そして深遠に、上と下のないぐらい
の大きな心を作り上げていくこと、これが最高の善法である。
◎苦しみの因--五蘊における修習
では、煩悩を増大させるものには、いったい何があるのだろうか。それは、五蘊
における修習である。五蘊における修習とは何であろうかと。まず、我身我なりと。
この肉体を我と感じ、そしてその肉体に多大な期待と、多大なと、多大な投資を行
なうと。これがまず、第一に、わたしたちがなしてはならないことである。なぜな
らば、この色、肉体というものは、無常を根本とし、この無常を根本とするという
ことは、わたしたちがそれにとらわれればとらわれるほど、この肉体が死滅すると
きに、大きな苦しみを味わわなければならないからである。
では、第二の悪魔、第二の悪法とは何であろうかと。これは感覚を増大させるこ
とである。例えば、わたしたちが美しさに対して執着するならば、その反対の嫌悪
も当然増大する。例えば、わたしたちが快楽に対して心を向けるなら、当然、その
反対側の苦痛というものにも敏感になり、苦しまなければならない。例えば、わた
したちが素晴らしい音に対して執着をするならば、わたしたちの心を乱す音に対し
て、当然苦しまなければならない。このような形で感覚を増大させること、イコー
ル苦しみなのである。よって、仏教やヨーガの修行においては、制感、つまり感覚
を制するプラティヤハラ、プラティヤハラをね、最もいいステージの一つと、素晴
らしいステージのひと、一つに数え上げているわけである。
◎五蘊の統御を
では、イメージについては、いったい何が言えるだろうかと。このイメージは、
わたしたちに肉体的悪業を積ませないで、いろんな経験をさしてくれる。例えば暴
力のシーン、例えばセックスのシーン、例えばグルメのシーンと。これは、目で見
る喜びという形で、この現代の日本では、大いに称賛をされている。しかし、この
けがれなるがゆえに、わたしたちは、心の傾向というものを一つの方向に向けられ
てしまう。それはちょうど、動物における学習と同じである。この動物における学
習とは何かというと、ここに犬を用意してね、その犬に食事を出すと。そのとき必
ずベルを鳴らすと。しまいには食事を出さなくても、ベルを鳴らすだけでよだれが
出てくると。これと同じように、例えば異性を見たら、心をお互いに磨き上げる対
象として見るのではなく、性的な対象としか見れなくなると。例えば、お金イコー
ル美しい衣服を買う、あるいはおいしい食べ物を食べるといったパターン的な、パ
ターン化された心しか持てなくなってしまうと。これは表象のけがれなるがゆえに
起きる現象である。よって、表象については十分に注意しなければならない。
では、四番目の行、意志はどうであろうか。この意志は、一見わたしたちを幸福
にしてくれる。なぜならば、ものを達成するとき、そこには当然その人の願望とい
うものがそ、存在しているし、その願望を満足させることは、当然大きな利益をそ
の人に一見与えるかのように見える。しかし、この意志も結局カルマの制約を受け
ているわけである。よって、達成できること、あるいは達成できないことという二
つの面が出てくる。達成できる面については、この意志は先程も述べた大変幸福を
もたらしてくれるが、達成できないことに関しては、大いなる苦しみを与えてくれ
る。よって、行蘊、つまり意志から離れるべきなのである。
では、最後の意識、データはどうであろうかと。このデータは、一見、白でも黒
でもない。しかし、このデータが、例えば意志ど、意志と結び付き、例えば表象と
結び付き、例えば感覚と結び付くことによって、あるいは肉体と結びち、付くこと
によって、多くの苦しみを生起させるわけである。例えば、例を挙げるならば、決
めたことをじっきゅ、実行できないとき、それは挫折感であると。その挫折感は、
苦しみの原因であるという教えがあったとしよう。このデータのみでは、わたした
ちに苦しみも、あるいは楽しみも与えてくれない。しかし、このデータが強く根付
いていると、例えば、何かを達成しなきゃならないとき、それができなかったとき
の苦しみといったら、それはもう想像を絶する苦しみである。あるいは、Aという
感覚は、大変わたしたちに素晴らしいフィーリングを与えてくれると。例えばそう
いうだ、データがあったとして、そのデータをもとにそれを実践すると。ところが、
それが得られなかったとき、それはやはり心は大変大きな失望を味わうことになる。
よって、この意識も統御する必要があるわけである。
◎現世を超えた価値観をもとに
ところが、巷の宗教や、あるいはものの考え方は、この現世をいかに楽しく生き
るか、いかに楽に生きるかの法が説かれている。もちろんオウム真理教においても
現世の幸福というものに対するアプローチは当然行なっている。しかし、それは原
則として仏陀釈迦牟尼の素晴らしい法、あるいはインド聖者の説いてきた素晴らし
い法、あるいはわたし自体が体験した素晴らしい法がベースにあり、そのベースを
もとに展開されているわけである。よって、現世だけではなく、もう一つの現世を
越えた世界の価値観をもとに現世を分析しているから、その現世、例えば現世に対
して成功したとしても、そこで没入することはないはずである。ところが一般はそ
うではないと。そして、仮にその宗教により恩恵を受けようものなら、それは大変
な縁を作ってしまう。そして、大変な縁を作るがゆえに、そこから苦しみが増大す
る。苦しみが増大するがゆえに、その人は、より一層大きな不幸をしょわなければ
ならなくなる。
例えば、例を挙げよう。あまり努力をしないで大学受験に合格したと。これは、
これこれ宗教のお蔭であると。しかし、わたしはそこで説きたい、問いたい。でも、
あなたの目的は大学なのかと。結局大学に入れば、また多くの試験があり、そして
卒業後、社会に通用するようなやはり知識が必要である。しかし、そこまで考えて
いるわけではない。ポイント、ポイントを通過すればいいんだという、日和見的な
ね、思考がそこにはあると。
オウム真理教の教えはそうではなく、きちんと土台を固め、そして功徳を積み、
思索力を増すと。ということは、例えば、そこで仮に徳によって合格したと、努力
をしないで。としても、その人の知性は修行し続ける限り増大するわけだから、ア
フターケアについても十分目的を達成することができるであろう。そして、これか
ら先の世の中は、もっともっと大きな揺れが起きてくるだろう。その大きな揺れが
起きたとき、不動心を持ち、真理の実践ができるかどうか、そして自分自身を見失
わないでいられるかどうかということは、これもすべて日々の皆さんの修行の結果
と言わざるを得ない。
(つづく)
#244
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/21 2:29 ( 89)
オウム真理教>説法>四預流支と五蘊無我2
★内容
◎絶対的な自由・幸福・歓喜の法
では、いったい、何をなせばわたしたちは絶対的な自由・幸福・歓喜を味わい、
そしてこの現世において楽を享受し、来世において安定を得、苦を完全に離脱する
ことができるのであろうかと。それは、四つの預流支なのである。つまり、しっか
りとした設計図、図面ね、未来における図面、あるいは今生における図面を与えて
くれる三宝に対して、信を持ち帰依をすることと。ここで言う三宝とは、オウム真
理教では、シヴァ大神の化身である、あるいは諸々の仏陀の化生身である、グルと。
第二番目は、その真理と、その法。そして第三番目は、その法に集っている者に対
して、信や帰依を持つことである。
第二番目、これは記憶修習である。つまり、何を考えどうするのかということを、
今まで自分自身で培ってきた考えにとらわれるのではなく、教義にのっとり考えを
す、することであると。そのためには、正記憶修習、つまり経典を何度も何度も読
み、記憶することが必要である。この段階では、決して自分の考え方を入れてはな
らない。自分の考え方を入れれば、必ず心に乱れというものが生じるは、生じるか
らである。
第三番目、これは、その真理のデータにのっとり考えることである。それは自己
の苦しみについて考える、あるいは自己の行為について考える、自己の言葉につい
て考える、自己のこと、心について考える、あるいは周りの人の苦しみや、周りの
人の痛みについて考えると。これが、第三番目の預流支である。
そして、第四番目の預流支は、それに基づき実践するということである。今まで
なしてきた、例えば黒法、つまり悪法については、きちんとそれをシャットアウト
し、そして善法に切り替えていく作業、自分自身の身・口・意を完全にこの悪趣の
データから人間に移し替え、人間から天界へと移し替えていく作業、これが四番目
の実践なのである。
◎五蘊を浄化するためのアプローチ
実は、オウム真理教には、真理学園という考え方があります。そして、まあ信徒
の皆さんには、一旦この考え方は消えたかのように見えてるかもしれないけども、
オウム真理教の研究スタッフは、着々とその研究を進め、例えば数学においては、
まず、あの代数と幾何にわけ、その代数の部分は約二時間で一年間で通過できると
いうね、六百九十数時間で、まあ、あ、通過できるようなプログラムを今作ってい
ます。そして、これは、まあ小学校から高校までの全体系の代数、つまり数を知ら
ない子が、微分積分を解けるようなレベルになるまでの、まあプログラムを作って
いると。これも先程述べた、要するに子供たちを楽にしたいと。つまり、不用なこ
とを一切省き、そして楽々この現世の問題点を解決さしていきたいと考える現世の
幸福に対するアプローチの一つです。
あるいは、先程述べた、表象、イメージのけがれに対して対抗するために、映画
のカメラを買い、そしてアニメチームを作り、もう実際には七分三十秒の、まあ、
えーアニメーションができあがり、次には、あの「超越神力パート1、天耳通」と
いう、これはあの、なかなか面白い内容だけれども、このセル画もほとんどできあ
がり、おそらく三月中にはね、この二本とも皆さんの前に見せることができるんじ
ゃないかと思います。
あるいは、皆さんにもっと視覚、聴覚、嗅覚、これを使って、実際の死、あるい
は死の世界というものを経験していただくために、「死と転生」というこれはまあ
あの、オペレッタ、つまり音楽、そして舞踏、そして詞章、マントラ等をね、使っ
た、まあいわ、これは広大なイニシエーションなんだけども、これを大阪を皮切り
に、全国でまず五カ所やりたいと考えてます。
これらのことはすべて五蘊を悪法から離脱させ、善法に切り返させるための手段
である。もちろん、まあ、これは、あの、一つ一つのイベント、内容を見ていただ
いたらわかるとおり、すべて皆さんの納得できるようなね、ものとして提供するこ
とができるようになると思います。それは、これらすべてを使い、皆さんの魂を浄
化し、向上させたいと考えているからです。
もう少し、ちょっと立ち入った話をするならば、オウム真理教の内部には、AF
I、アストラル・フード・インスティチュートというのがあります。で、これによ
って例えば、乳酸菌を使った豆腐の開発だとかね、あるいは、そうだね、あの、き
な粉を使った羊羹だとか、あるいはオウム食をドライ、えー、ドライにするだとか
ね。あるいは、あの、豆乳をま、完全に、その、イニシエーション化しちゃうだと
か、そういう研究も進み、まあ、これもたぶん三月中には、形になるんじゃないか
と考えています。
こういう研究、これはもちろん味覚を使い、皆さんの五蘊を浄化しようと考えて
いるわけだけど、こういう研究を進めていくためには、皆さんのね、やはり協力と、
そして意識の変化が必要です。そして、強い意志が必要です。
◎広大な真理の光のために
では、いったいどういう意識の変化と強い意志が必要なのかと。まず、意識の変
化については、自分自身の問題点をもっと科学的に考え、そしてこういう問題点を
どう解決したらいいのかというサットヴァのね、やはり心を絶えず持ち続けるとい
うこと。そして、他の宗教とオウム真理教とを比較し、いかにオウム真理教が純粋
で、真面目で、科学的に法を実践してるかということをね、何度も何度も認識し、
修習を繰り返すということ。その皆さんの帰依の心が必ずやこの世の中の、悪法を
ね、止滅する方向に向かうはずです。また、強い意志が必要とは何かというと、今
皆さんの周りにいる悪法によって苦しんでらっしゃる方々を、何としてでも救済し
なきゃなんないと。自分は今生のガティーカーラで、であると、ね。自分は必ず今
生、在家において色界の四禅定の第一禅定、だに、第二禅定を経験するぞと。最高
のエクスタシーをけん、けい、経験するぞと。ね。そう考え、日々の生活を行なう
こと。これらのことをね、実践なされば、真理の光は広大となり、強くなり、そし
て、この日本を、そして地球を、そして太陽系を、宇宙全体を照らし出し、無明の
闇をはらい、多くの魂をマハー・ニルヴァーナへと導くことができるようになるは
ずです。しっかりと頑張っていただきたいと思います。
それでは、大乗の発願を十三回、苦の詞章を十三回唱えた後、オウム三唱をし、
質問をね、七つ取って終わりにしましょう。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#245
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/22 2:34 (127)
オウム真理教>説法>いつの日か覚醒するために1
★内容
いつの日か覚醒するために
1991年1月22日 阿蘇シャンバラ精舎にて
◎真理にのっとりデータを入れる
聖なる八支の実践。これがわたしたちの五蘊形成に大きな影響を与え、そして未
来際において仏陀として生まれ変わるための土台を作り、五蘊を変化させていくと
いうことを君たちは知っているだろうか。
この聖なる八支の実践。これは正しい見解を具足するということ。この正しい見
解を具足するとはどういうことかというと、わたしたちが生まれてから修行に入る
まで持っている正しくない見解、つまり俗に言われる現実的な見解を離れ、真理に
のっとりそのデータを入れるということである。この正しい見解とは何を意味する
のかというと、これは、わたしたちを苦しみから真に解放するデータということに
なる。
例えば、愛着は喜びであると一般的にいわれています。なぜならば、愛着する者
が喜べば自分も喜ぶと。あるいは、愛着するものが多ければ多いほど、その人生は
楽しいと。しかし、ここで考えなければならないことは、その愛着する対象が強け
れば強いほど、あるいは多ければ多いほど、リタッチするとき、つまり離れるとき
に、苦しまなければならないという実態です。この苦しまなければならないという
実態を超越できるのは、ただ一つ、グルと弟子の関係だけであると。これは、どう
いうことかというと、グルのステージがたいへん高く、そして弟子のステージがた
いへん高ければ、輪廻転生を越え、いつでもどこでも一緒についていくことができ
ると。しかし、そうではない関係においては、必ず死というものを境に、その苦し
みは必ずやっていくということです。
◎ひたすら法を学べ
人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けらんない。どんなに大きな家に住んで
いても、どんなに大金持ちであっても、多くの恋人を有していても、あるいは一人
の愛する妻を持っていても、あるいはどんなに高い地位に就いていても、どんなに
権力を有していても、人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ。その死を境に苦しまなけれ
ばならない。
そして、そのリタッチの際、つまりあいた、愛着から離れる際に、苦しまなくて
いい法があると。その法を学ぶこと、その法に基づいて考えること、これが正しい
見解を具足するということです。
よくサマナの中で、わたしは揺れていますと言う人がいます。その揺れてますと
言う人の話を聞くと、生まれてからこの方の苦しみを因とするものの考え方に立脚
し、その修習を行なっていると。例えば、オウムでは、オウム食だけしか食べらん
ないと。外ではラーメンがおいしかった、そばがおいしかった、あるいはアイスク
リームがおいしかったと、あるいはチーズケーキがおいしかったと、ね。しかし、
これらのおいしいといったもの、このおいしいといったものとも、必ず死を境に離
れなければならない。ところが、出家し、その記憶修習を一生懸命行なっていると。
あそこのラーメンはどうだった、ここのそばはどうだったと。もし、ここで正しい
見解を具足するならば、そのような執着、そのような味覚に対するとらわれという
ものは苦しみであると。しかも、それは、何々によって、どのような結果を招くと
いうことがしっかりと理解できるはずである。こういうとき、悩まないで、ひたす
ら教学をする。その教学も、同じものを三度、五度、十度、十五度と読み続けると。
例えば、わたしの一本の説法を五回、十回、十五回と読むと。これをなすことによ
り、不思議と心が安定し、平安な気持ちを経験できるものである。
◎正しい思索とは
第二は、正しい思索ということになる。この正しい思索は四預流支の中の、まず
しっかり学ぶと、その後に、それにのっとり思索するという教えがあるが、これと
全く同じ。聖なる八支の道、聖なる八支の実践においての第二番目は、四預流支の
第三番目ということになる。
仏陀釈迦牟尼の教えというものは面白いもので、一つの事象を縦横無尽に斬って、
それを弟子たちにわかりやすく説いてらしゃる。例えば、今言ったとおり、正しい
見解というのは、第二番目のひたすら学ぶ、多学の弟子になるという意味であると。
第二番目の正しい思索。これは、四預流支の中の三番目、真理にのっとり考えると
いうことであると。そして、それから先の正しい言葉、正しい行為、正しい生活、
正しい記憶修習、正しい精進、そして正しいサマディというのは、これはすべて真
理の実践、第四番目の預流支ということになる。つまり、この四預流支は、聖なる
八支の実践を含んでいるのであるということである。
わたしは正月のセミナーにおいて、八正道と六つの極限が同じであるということ
を話しました。そして、今日は、四預流支と聖なる八支の実践というものが同じで
あるということを話しているわけです。
◎愛をもって真実を語れ
では、この三番目の正語。これはいったい何を意味するのかと。ちょっとサマナ
用説法だから難しい部分に立ち入りましょう。まず、この正語は、妄語・綺語・悪
口・両舌という四つの口のカルマを積まないということです。この三つのカ、えー、
四つの口のカルマを積まないということはどういうことかというと、喉のプラーナ
を左でもない、右でもない、中央の気道に導くということです。ちょっとタントラ
的な表現だけどね、例えば、悪口・両舌といった怒りを含んだ言葉を連発している
と、右の気道、喉の右の気道のナーディが炎症を起こします。熱優位となり、そこ
で詰まると。ちょうどそれは、ゴムがあり、そのゴムが熱され、そして、それがピ
ッタリとくっついた形を考えたらわかる。そこでナーディは完全に詰まってしまい
ます。逆に、妄語や綺語といったタマス傾向の言葉を発すると、左の気道、この左
の気道のプラーナの流れがゆっくりゆっくり流れるようになり、必要なエネルギー
が満たされないことになります。そして、愛をもって真実を正しく語るなら、それ
は中央の気道をスムーズにプラーナが流れるようになります。ま、これが正語の意
味合いです。
◎心に喜びを蓄えよ
では、次に正行為とは何でしょうか。この正行為とは、殺生を離れ、偸盗を離れ、
邪淫を離れると。今日、今子供たちがね、まあ、わたしの子供たちが無智な動きを
しているけど、これはまさに、今日着いて何をやったかというと、動物を見にいっ
て、動物を触ったと。この影響によって、説法のときに動物的な動きをしてると。
これは、データの入れ換えが起きたわけだね。これと同じで、例えば殺生をすると、
相手の、他の魂の苦しみのデータが入れ換わると、ね。というのは、この欲界の苦
しみの総量は一定だから、AがBに対してなした行為によって、相手が甘受したカ
ルマの清算は、そのなした者に移行します。これは、わかるね。同じように、偸盗、
邪淫についても言えるわけです。ということは、どうなるかというと、結局この殺
生を離れ、偸盗を離れ、邪淫を離れるという行為は、まず、わたしたちが苦しみの
データを自分の五蘊に蓄積しないことを意味しています。そして、心において生き
物を慈しみ、人にものを施す心を持ち、そして取引関係によるセックス、邪行を離
れ、真に人を慈愛することができるならば、その心には喜びのデータの蓄積が当然
始まるはずです。
◎七つの覚支の実践
そして、第五番目の実践、正生活ということになる。この正しい生活とは何かと
いうと、これは日々七覚支の実践を行なうことと。つまり、ひたすら真理のデータ
を入れ、そしてニルヴァーナに向かってのベクトルを向けるということであると。
このニルヴァーナに向かってのベクトルを向けるとはどういうことかというと、例
えば修行をなしていて、苦しいと考えるのではなくて、楽しいと考える。経典をな
して、経典を読んでいて、うれしいと思うと。これは、もう、みんなよく知ってい
る、喜覚支だね。あるいは、普段からリラックスをし、修行において心身の軽快さ
を感じると。これは、軽安覚支だね。あるいは、今何ができるのかということを絶
えず考え、その時と場所に合った真理の実践を行なうと。例えば、ワークのときは
ワークに集中し、例えばマントラが唱えられる、唱えられるときはマントラに集中
し、教学できるときは教学に集中するという実践を行なう。これが、択法覚支だね。
例えば、これは聖なる八支の実践の第一番目にもあるわけだけど、ひたすら一つの
記憶を入れ続けると。これは、正念といわれている、まあ正記憶修習、つまりデー
タの入れ換えだね。そして、どんなにつらくてもひたすら修行し続けるという精進
覚支だね。
これらは、すべてサマディに導かれます。そして、いかなる状況であろうとも、
頓着しない心を身につけると。それは、前回の説法であったとおり、今苦しんでる
ことは、過去と過去世の幻影であるということを理解し、今にとらわれず、今なさ
なければならない修行に没頭すると。この七つの覚支の実践を日々行なうこと。こ
れが正生活です。
(つづく)
#246
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/22 2:36 ( 94)
オウム真理教>説法>いつの日か覚醒するために2
★内容
◎四つのチェックの修行
そして、次はチェックに入ると。チェックとは何かというと、今なしている善行、
これをもっと増大したいと、ね。どこをどうしたら増大できるんだろうかというチ
ェックに入ると。まだ、今徳が足りないけども、未来において徳が積めるとき、そ
の徳を達成しようと願うこと。例えば、例を挙げるならば、今ワークを実践してい
ると。よって、ワークで徳を積もうと。どうしたら、もっと集中して徳を積めるだ
ろうか、どうしたらもっと多くの徳を積めるだろうかと考えること。そして、例え
ば、極厳修行に入ったら、思い切って二十四時間修行できるように頑張るぞと。そ
れを日々考えること。これが二正勤です。そして、例えば、今、ね、身の行ないと
心の働きはいいんだけど、口のカルマを積んでしまうという人がいたら、よし、そ
れをやめようと。特にわたしは悪口が多いからやめようと、あるいは、わたしは必
要のない言葉をよくしゃべるから、これをやめようと考えること。そして、それを
じっ、実行すること。これが、断の一つだね、断つ一つ。そして、未来において、
例えば師になって、ね、師を見ると、ああプライドの修習をしてるなと。私はプラ
イドの修習をしないように心がけようと。これが、随護断といわれている未来の悪
業をシャットアウトする修行。
この四つのチェック、つまり今なしている善業を増大し、未来における善業を願
望し、今なしている悪業をシャットアウトし、未来において生じるかもしれない悪
業を、悪業の種をまかないようにするということ。この四つのチェックの修行を行
なうこと。これが、第六番目にくる、正精進といわれているものです。
◎すべてを経験し、理解する
そして、第七番目は、ひたすら、データの入れ換えを行なうと。しかもそれは、
一つのことに絞ってデータの入れ換えを行なうと。例えば、「オーム、アー、フー
ム、金剛心をもってグルとシヴァ大神に帰依いたします。金剛心をもって真理に帰
依いたします。金剛心をもって自己の霊性より少しでも高い人に帰依いたします」
こういうのは、まさに、この正念に入るわけだけどね。正記憶修習に入るわけだけ
ど。これを、五回、十回、千回、一万回、十万回と繰り返すと。そうすると、心の
中心の部分は、そのデータが中心になってくると。これが、正記憶修習であると。
そして、それに基づきサマディに導かれると。つまり、こういう七つの実践がし
っかり行なわれないと、なかなかサマディには導かれないんだと。
では、それはなぜであろうかと。サマディに必要なのは、心の寂静と、そして光
です。つまり、正観です。この寂止、正観という、この二つを得るためには、大い
なる功徳と、それから煩悩の滅尽が必要です。そして、この大いなる功徳と、煩悩
の滅尽により、わたしたちは、わたしたちの内側を、そしてこの世界の構成を、そ
してすべてを経験し、理解することができます。
◎覚者の見る世界
例えばね、例を挙げるならば、まあ、今波野村にいて世界の情勢を知らない人も
いるかもしれないから少し話すけど、今イラクとそれから国連軍、多国籍軍といわ
れている軍隊が戦争をしています。これは、一月の十七日に始まったそうだけども。
まあ、一つナンセンスなことがあると。それは何かというと、もう日本軍は既にか
なりの金額を、この多国籍軍に、まあ要するに献金し、これからまた一億、あ、一
兆数千億円のね、献金をするという話だけれど。例えば、この波野村道場の用地を
検察側が言うとおり計算するならば、約二千億、あ、ごめん、二百億平方メートル、
この土地の値段でいったら買えるんだね。で、この二百億平方メートルといったら、
どういうことかというと、まあ、だいたい百キロ、二百キロの、まあ、土地が買え
るということになると。この百キロ、二百キロといったら、おそらく四国より大き
いと思います。そして、もちろん、土地の値段は、今のクウェートよりも、日本の
方が当然高いでしょうから、世界が費やしているお金を、すべてクウェートに、例
えば投資したならば、そのクウェートは、十分に買える値段であると考えられます。
ところが、こういうことを考えるのは、麻原しかいないんだね。つまり、価値を
転換し、そして何が正しくて何が正しくないのかと、いったい今は、世界で何が行
なわれているのかというのを考える、そういうその、そうだね、普通の人と違った
視点で見る魂というのは、おそらくわたししかいないと思います。みんな、だいた
い情報に翻弄され、そして目をつぶったまま突っ込んでいくと。これは、まさに、
わたしが真理の実践を今まで行なってきた結果得られている、一つの力だとわたし
は考えています。
このようなかたちで、現象を冷静に分析し、見つめ、そして、正しい生き方をす
ること。これが、聖なる八支の実践です。そして、ここに出家し集っている魂は、
その実践ができる数少ない魂であると思います。
人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ。しかし、その死というものは、コーザルに意識
が到達するならば、すべて見ることができ、聞くことができ、匂うことができ、触
れることができる。そして、感じることができるものです。皆さんも、早くその境
地へと到達してください。はい、それでは質問を受けましょう。
資料は十分に君達に提供してあるはずだ。それは、わかるよね。あとは、それを
経験でどうやって裏付けていくかということじゃないのか。その経験で裏付けるた
めには、当然修行、それから日々の自己における観察が必要なんだよね。わかるよ
ね、言っていることは。それから、今、あの疑問と言ったのは、先程私が初めにも
述べたとおり、自己の生まれてから今までの観念で修習をするということだ。これ
は、解脱の上においてマイナスです。だから、疑問を持つなというんではなくて、
その疑問に対する答えを必ず教学によって得ようとする努力、これが必要だと思い
ます。いいね。
(サマナ達)はい。
(尊師)で、少なくとも、五回、十回、十五回は『マハーヤーナ』を読み通してく
ださ い。いいね。
(サマナ達)はい。
(尊師)しかも、あの、『マハーヤーナ』の中には、必要のない項目がいろいろあ
りますから、必要のない項目は一切シャットアウトして、今、あの正悟師として成
就している人の文章。あるいは、それ以上のステージの文章、まあ正大師の文章と
か、あるいは私の文章、あるいは経典のね、その本質だけを読んで、後は読まなく
てもいいよ。いいね。
(サマナ達)はい。
(尊師)はい、それでは、これから、大乗の発願、タントラヴァジラヤーナの発願、
苦の詞章といきましょう。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#247
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/22 4: 6 (111)
オウム真理教>説法>願望をかなえ、願望を超える
★内容
願望をかなえ、願望を超える
1991年1月19日 札幌支部にて
◎幻影を打ち砕け!
人間のものの考え方というものは、まさに幻影の中にどっぷりと浸かっていると
言わざるを得ません。それは外的、いろいろなインフォメーション、つまり情報だ
けではなく、内的情報に左右されてると言えます。
例えば、典型的な例では「導き」。ま、わたしは昨年の十二月からこの札幌へ二
度目 の足を運んだことになるわけだが、中心的な支部、つまり東京、大阪、名古
屋、福岡といった主だった支部については、十月の終わりから、つまり二カ月前、
この札幌より早く足を運び、信徒の皆さんに法を説いてきました。その結果が一月
になってやっと現われ、ま、全盛期の半分ぐらいの入信者数、つまり、そうですね、
だいたい月に二百名前後の入信者数に復活しつつあります。これは何を意味するか
というと、皆さんが例えばマスコミでオウム真理教が叩かれてる、あるいは社会的
にオウム真理教が批判されてるという観念、この観念が幻影であることを意味して
います。
例えば東京本部の例を挙げるならば、もう既に今月は四十七名の人が入信し、先
月をはるか三倍のスピードで進んでいると。これは現象を動かす心の働きが内側の
障害、つまり自分自身の心の弱さに感応し、そして現象を動かせないということを
現わしています。
これは導きだけではなく、自分自身のぜん、人生を精一杯生きると。そしてそこ
で大いに経験をし、その経験によってそれが苦であると認識するというプロセス、
この認識するプロセスについても同じことが言えると、わけです。例えば、恋愛を
したい人がここにいたとして、自分自身の顔が悪いからモテないとか、あるいは足
が短いからモテないとかいうナンセンスな思考をしてしまう。これも同じで結局内
的情報に左右され、自己の人生を暗い方向へと導くということになります。
いったいこれらはどうして起きるのかというと、それはその人の真我が無明に覆
われ、真実をありのままに見つめ分析することができないからであると言わざるを
得ません。わたしたちがもし、真理に本当の意味で目覚め、そして真理の実践をす
るならば、そのような多くの幻影、これを打破し、打ち砕き、そして、何をなせば
自己に利益があり、何をなさなければ自己が不利益を被るのかということを如実に
理解することができるようになるでしょう。
◎真理の実践--四預流支
では、真理を理解するためには、あるいは真理を実践するためには何をなせばい
いのかということになります。これはまさに四つの預流支の実践ということになる
でしょう。この四つの預流支の実践については、多くのわたしの説法がありますか
ら、ここでは簡単に触れ、では、それを現実にどのように生かしていくかという話
に転化していきたいと思います。
まず、この四つの預流支というのは、皆さん方の教師であるグル、そして真理、
そしてその真理を実践してい集い、つまり集団、これに対して帰依をすること。帰
依をするとは、その教えを学び、そして実践し、供養し、つまり布施、奉仕の実践
を行なうということですね。これが第一であると。
第二は、その真理の教えを何度も何度も学ぶということ。これはちょうどわたし
が、ここに到着する前後、マハー・マーヤ正悟師の方が皆さんに説き示していた教
学の内容、これと全く同じです。つまり、本を何度も読み、データを入れ換え、そ
の後にじっくりと自分に当てはめ考えると。あるいは、説法テープを何度も何度も
聴き、自分に当てはめ、当てはめ、そして考えると。これが二番目、あるいは三番
目の預流支ということになります。
よく、焦って一回目から考えてしまうと。そして否定的になると。なぜ否定的か
というと、真理のデータより自己を苦しめるデータの方が多いと。で、まだデータ
が根付いていないのに、初めから考えてしまうと。すると、ま、オウム真理教の教
えというものは大変高度だから、難しいから、その言葉を理解することすら大変な
わけですから、そこでつまづいてしまうと。ではなくて、初めはしっかりとデータ
を根付かせなきゃなんないと。そのために二度、三度と読み返すという必要がある
でしょう。そして、三番目にそれに基づき考えると。そして四番目は考えたことを
実践すると。当然、これは真理の何たるかを理解し、実践するわけですから、大変
な効果をその人にもたらすはずです。
◎徳の方向付けをしっかりと
そして、例えば在家の修行の土台である、布施、あるいは奉仕、あるいは戒めを
守るといったようなことを実践するならば、大いなる徳が皆さんに宿るはずです。
そして、この徳を現世のある事象に傾け、この事象がこうなってほしいなと、例え
ばすてきな恋人が現われてほしいなと。例えば事業で成功したいなと。あるいは、
来世、人間界へ生まれ変わり、豊かな家庭に生まれ変わり、そして豊かな生活をし
たいなと。このような思いをなす人は、必ずやそれが現象化するはずです。これは
多くの信徒さんが経験していること。
いや、それよりもう少し、心のプロセスを進めて、来世、天界へ生まれ変わるた
めに、特に第一天界に生まれ変わるために、そしてそこで豊かな食生活の中に没入
し、この上ない味覚を楽しむと、そう思念する人は第一天界へ生まれ変わるでしょ
う。あるいは、美しい美女にかしずかれ、大いに享楽を満足し、そして自己の異性
における享楽の欲求をすべて満たしたいなと考える人は、三十三天の世界へ生まれ
変わるでしょう。あるいは、大いにプライドを満足し、悪を裁きたいと考える人は
夜摩天へと生まれ変わるでしょう。あるいは、天の享楽を満足し、それだけではな
くて、もっともっと多くのダルマを学びたいなと考える人は都史多天へと生まれ変
わることとなるでしょう。あるいは、多くの神変、多くの神通を経験したいと考え
る人は、第五天界である楽変化天へと生まれ変わることとなるでしょう。あるいは、
多くの神変、そしてこの上ない享楽を求めている人は、他化自在天へと転生するこ
ととなるでしょう。そういう貪りを持たず、ひたすら徳を積み、持戒を守り続ける
人は色界、梵天の世界へと生まれ変わることとなるでしょう。
◎最終的にはマハー・ニルヴァーナへ
つまり、ポイントはまず真理を根付かせると。そして、次に真理に基づき、徳を
根付かせると。そしてそのエネルギーを一方の方向へ流すと。
よくこういう人がいる。功徳を積んだのになかなか修行が進まないと。よく聞い
てみると、たくさんの願望を持っていると。しかもその願望を達成するにしては徳
が足りないと。よって、すべてが曖昧に現象化すると。
悪業の返り、これも十倍、あるいは百倍程度です。ということは、善業の返りも
同じように十倍、あるいは百倍程度と考えるのが妥当であると。ということは、こ
の法の実践を行なうことにより、皆さんの修行においていかに素晴らしい結果を招
くかということは、皆さんが自分自身が徳を積み、エネルギーを漏らさないように
戒律を守り、そして一つの方向に思念すればいいんだなということをご理解いただ
けたはずです。
そして、それを励みとし、最終的には煩悩を滅尽し、そして梵天の世界へと転生
し、梵の神々に生まれ変わると、これが仏教の第一の達成です。そして、十七色天、
つまり十七色界には、ま、天の順位があるわけですが、この十七色天を経験し終わ
り、四無色天を経験し終わり、そして最終的なマハー・ニルヴァーナへと到達して
いただくこと、そのお手伝いをすることがわたしの役割だと考えています。
皆さんは、皆さんの心の内側にあるいろんな障害、心の外側にある皆さんを苦し
める情報に惑わされず、しっかりと功徳をお積みになり、教学をなさり、戒律を守
り、そして皆さんの願望をかなえ、願望を超え、最終的にマハー・ニルヴァーナに
入っていただきたいと思います。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#248
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/22 17: 3 (196)
オウム真理教>説法>至福への道、天への道1
★内容
天界転生を確実にする究極の秘儀伝授!!
「至福への道、天への道」
1991年3月20日 富士山総本部道場にて
◎人間より高い世界の存在
この人間界以外に多くの世界がある。この多くの世界の下の世界、例えば、餓鬼
の世界や動物の世界については、わたしたちはある程度、例えばアフリカ、あるい
は、動物界を観察することにより、それを検討、理解することができる。しかし、
上の世界については、わたしたちはなかなか理解することはできない。
今日、これから話す内容の第一は、わたしのバルドー体験の、まあ近ごろ生じて
いるものである。そして後半では、君たちに、何をなさなければならないかの講話
をしたいと思います。
◎憤怒天--知的で、美しい世界
まず、この人間の世界より少し上の世界は、地上よりやや足の離れた世界という
世界がある。この地上よりやや足の離れた世界とは何かというと、これは人間、い
や、正確に言うと、そこへ住んでいる生命体が、若干大地から離れている世界なの
である。
で、インド神話などでは、これを第二天界と呼んでるが、これは真っ赤なでたら
めで、実際これはわたしたちの喉のチァクラと大変関係があり、まあ、憤怒の世界、
あるいは、知的闘争の世界ということができる。ここの生命体はなかなか知的な顔
をしており、なかなか美しいと。そして寿命も長い。
ここでの乗り物は四角い箱である。この箱の上に乗っかり、そして、持ち綱を、
その、箱から出ている持ち綱を持ち、この箱は若干地上より浮いていると。つまり
イメージとしては、そうだね、あの、ホバークラフトのイメージである。で、必ず
カタッ、カタッっていう音がするんで、おそらく、何らかのエンジンのようなもの
を使っているんではないかと思われる。ただ、ここに住んでいる生命体も大地に足
を下ろすことはない。
で、ここから輪廻転生してきたのが、例えば、金井君の妹である涼子ちゃんとか
ね、まあ、これは、もうじき出家する予定でいるけども、まあ、このような人たち
であると。
◎人食い鬼神の天界
では、次に、これより若干上の、これは、あの、例えば、皆さんもよく知ってい
るアナータピンディカ長者、まあ、本名スダッタというわけだけども、スダッタを
守護し、サキャ神賢に巡り合わせた人食い鬼神の天界がある。これは第一天界に属
する。
この天界は、例えば、今で言うならばケイマ正大師やミラレパ正悟師、マンジュ
シュリー正悟師などが、ま、転生した世界であるが、まず、空間そのものの明るさ
は、先程述べた世界よりも明るいと。そして、ここでのペットは餓鬼が飼われてい
る。
で、まあ、この、ここでの世界は正義即殺生という世界である。つまり、もし、
その人が邪悪な心を持ったならば、即そこで食べられてしまうという世界である。
で、この世界の寿命は、もちろん、先程述べた天の世界よりも長い。もちろん、例
えば、ミラレパ正悟師やケイマ正大師、マンジュシュリー正悟師は、この他にも高
い天界の世界をいろいろと転生しているから、ま、一概に、一概にというか、この
世界の転生であると断定できないけども、ま、一応そのように認識しておいてほし
いと。
◎羽の生えた神々
次にこれよりも上の、上、これよりも、いや、これと並行だね。並行の、もう一
つ天界の世界があると。ここの侍者は、えー、体に羽が生えている。で、その体に
羽が生えていて、自在に飛び回ることができる。
で、これはキサーゴータミー正悟師が、今生一生懸命修行を続けた場合行く世界
である。で、この世界は、遊びによる喜びが存在している。それと同時に、ここで
は完全に不殺生の戒が守られている。
◎テレポーテーションの世界
次に、これよりも少し高い天の世界がある。この世界は宮殿があり、そして、そ
の宮殿の主はわたしと同じような長髪、髭を生やしていると。そしてマントを翻し
た瞬間、テレポーテーションを行なうような空間である。ここでは、ある程度の真
理を悟るための、真理の実践が行なわれている。この前生は、例えば、ヤソーダラ
ー正悟師やアパーヤージャハ正悟師である。言わずもがな第二天界である。
◎生死を司る第三天界
これより上の世界がある。これより上の世界は、生死を検討する。生死を、ある
いは、司る天である。一般には地獄にこの世界があるというふうに言われてるが、
実際はそうではない。天の世界に存在している。
そして、ここでの生命体の体は、仏像的な体付きをしている。そして、例えば、
手がもぎ取られたら手が生起し、足がもぎ取られたら足が生起し、頭がもぎ取られ
たら頭が生起する。つまり、肉体そのものが幻影であるということが、はっきりわ
かる天の世界である。
そして、この世界は外的条件によって死が存在しない世界である。ここでの死は
ただ一つ、カルマによってのみ死が成立する世界である。
ま、まず君たちは、この第一天界から第三天界までを理解しておけばよかろう。
第四天界以上はマハー・ムドラーを達成し、大乗の修行に入り、そして、本当の意
味で嫌悪、邪悪心だね。それから迷妄、そして貪り、この三つを完全に止滅した場
合に行く世界である。
そして、この第三天界までの輪廻転生を繰り返す魂、しかも、それで真理の実践
を行なってる魂を預流者という。第四天界にいったん入り、バックしてくる魂を一
来者という。そして、神聖天に転生し、帰ってこない魂を不還という。
なぜ、わたしがこのような話をし出したかというと、実は、まあ、わたしは皆さ
んも知ってのとおり、今肝硬変という、ま、現代医学で言ったら死病、必ず死なな
ければならない病に侵されていると。で、当然わたしとしては、ま、こんな肝硬変
は、ね、時間さえあればあっさり治してしまう自信もあるし、実際そのつもりでい
るわけだけども、ま、これは一つのカルマの変化によって、まあ、わたしのバルド
ーもいろいろ変化してき、そして、まあ、えー、昨年からためた経験の一部をね、
君たちに話したいと考えたわけである。それによって君たちの修行がより一層励む
だろうからである。
◎五つのポテンシャルと五つのアビリティ
ではいったい、このような天へ至るためには何を実践すればいいのかという話に
なる。これは、仏典の言葉を借りるならば、五根五力を実践すべきである。わたし
の言葉に置き換えるならば、五つのポテンシャルと五つのアビリティ、これを培う
べきであると言えよう。
なぜ、この五根五力を、ポテンシャルとアビリティという言葉に置き換えたかと
いうと、この五根五力という言葉が、漢訳になった段階であまりにもわかりづらい
からである。実際にこれは、ポテンシャルとアビリティという言葉で表現すること
が、最も適当だとわたしは考えたわけである。
では、五つのポテンシャルとは何であろうか。これは帰依におけるポテンシャル、
そして精進におけるポテンシャル、記憶修習におけるポテンシャル、サマディにお
けるポテンシャル、智慧におけるポテンシャルである。
そして、これらの五つのポテンシャルは、の一部がアビリティ、アビリティとし
て表現される。一般には五根イコール五力であるという表現をしているが、これは
正しい表現ではない。隠されてる要素、これが五根である。つまり隠されてる要素
イコール五つのアビリティーと。そして発現している要素イコール五つ、あ、あの、
五つのポテンシャルね、申し訳ない、そして発現している要素イコール五つのアビ
リティというふうに考えることが妥当であると思われる。
◎蓄えられるデータ
では、それはなぜであろうかと。例えば、ここに帰依をなしている者がいて、こ
の人が一生懸命奉仕をなし、布施をなし、あるいは持戒を守ったとしようではない
か。ここでこの人は、その恩恵すべてを受けられるわけではない。そのデータは当
然、その人の五蘊にデータとして蓄積されると。そして、その五蘊にデータとして
蓄積されるということは、どのようなことになるかというと、その人の五蘊がどん
どん変化していくことになる。
例えば、わかりやすい例を挙げるならば、以前は性欲だけを追っかけていた視覚
が、そのうち、性欲ではなく苦悩を追っかけるようになる。あるいは、苦悩の裏側
にある苦悩の生起、あるいは滅尽を追っかけるようになってくる。同じ視覚でもこ
のように変わると。
聴覚についても同じで、以前は楽しい音楽――ま、楽しい音楽といっても、煩悩
を満足させる音楽と言った方がいいだろう――を求めていた耳が、例えば経典を、
あるいは、もっと高い世界のナーディの音を追っかけるようになる。このような形
で五蘊はけい、あの、変化していくわけである。
◎時間のかかるデータの入れ替え
しかし実際は、その変化の途上、この変化の途上においては、実際自分自身の修
行の奉仕、あるいは布施、あるいは持戒といったようなものの力が理解できない、
効果が理解できない状態が長い間経験される。
わたしが実際、自分の本当の神通力として確信を得たのは、ちょうどケイマ正大
師、サクラー正悟師、あるいは、キサーゴータミー正悟師がわたしの弟子になった
ころからである、本当の意味ではね。それまでの長い期間は、まあ、功徳を一生懸
命積み、あるいは過去の悪業により、その因により、悪業をその余韻によって積ん
でいた部分もあるであろう。そして、そのバランスが逆転し、五蘊が逆転し、人間
の五感から徐々に神々の五感に変わっていく段階において、少しずつ神秘的な体験
が始まり、そして、神通力というものが身につくわけである。この途中の段階を帰
依根、あるいは帰依のポテンシャルを培ってる段階ということができる。
現代人は、即効果のないものを飽きてしまう。よって、本当の意味での効果がな
ければ、この帰依根、帰依のポテンシャルから帰依の力、帰依のアビリティに至る
までには、相当の時間がかかると考えた方がよかろう。
そして、帰依とは何かというと、これはグルを絶対的に信じ、そして、グルに対
して奉仕、あるいは供養、あるいはグルの説いた戒、これは戒は禁戒、勧戒両方あ
るわけだけど、これを実践するということである。
◎悪業を断ずる精進
では、第二番目の精進のポテンシャルとは何であろうか。例えば、ある悪業の傾
向があるとして、その悪業の傾向をシャットアウトするために、記憶修習を始める
と。
例えば、まあ、一番わかりやすい例で言うならば食欲である。食欲がものすごく
出たと、それに対して、食を滅するぞ、食を滅するぞ。あるいは大量な食を取らな
いぞ、大量な食を取らないぞ。あるいは、食によって破戒しないぞ、食によって破
戒しないぞというような、思念をすると。
これもある段階までは、効果が全くないように感じられる。しかし、そのデータ
は徐々に徐々にわたしたちの潜在意識へと植え付けられ、そして、その植え付けら
れたデータ、これをもとに、ある日突然今まで耐えられなかった食が耐えられ、食
を大量に食べることが耐えられるようになってくる。これが要するに精進力の断、
悪業を断ずる断ね。この断のポテンシャルからアビリティへと変化した段階を表わ
すわけである。これが、第二番目の精進のポテンシャルと、精進のアビリティであ
る。
同じように未来について、こういう煩悩が生起するんじゃないかということにつ
いて、前もってデータを入れておくと。これが精進における、未来における悪業を
断ずるポテンシャルの蓄積ということになろう。
◎善業増大の精進
では精進における勧、つまり増大させる方のポテンシャルとは何であろうかと。
この増大させる方のポテンシャルとは、例えば、今自分自身がなしている修行。例
えば、帰依マントラだったら、帰依マントラ。これを一日千回唱える人がいて、こ
れを二千回に増大したいと。ね。それを毎日考えると。わたしは二千回に増大する
ぞ、二千回に増大するぞと。
しかし、それはある段階に到達するまで、その人を二千回に持っていくための力
にならないだろう。これが勧におけるポテンシャルということになる。そして、あ
る段階を超えると、必ず二千回到達できるようになってくる。これがポテンシャル
からアビリティに変化したということである。
同じように例えば、未来において、今積むことのできない大きな功徳を積もうと
決心すると。例えば、今まだ師ではないから説法できないと。しかし、未来におい
て説法したいと。ね。説法することによって多くの人が、煩悩滅尽に向かえばいい
なと、そう考えて、いつも考えてると。
すると、それは潜在意識の中にどんどん根付かれていくと。そして、それはその
人の一つの傾向を決定する。つまり善法を流布するという傾向を決定することにな
る。それで、それがその人の修行のお手伝いをした形になり、師として成就し、そ
して、素晴らしい説法をできるようになると。この説法をできるようになった段階
が、ポテンシャルからアビリティへと変化した段階を意味するわけである。
(つづく)
#249
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/22 17:10 (200)
オウム真理教>説法>至福への道、天への道2
★内容
◎真理の法を自分のものとするために
では、三番目の記憶修習、これはどうであろうかと。この記憶修習については、
例えば説法を一回読んだ、二回読んだ、三回読んだと。同じ説法を読んでも、記憶
にそれは残ってるように一見見えないと。すぐ忘れてしまうように見えると。とこ
ろがその記憶修習も五回、十回、十五回となると、それが自然と口をついて出るよ
うになると。これがポテンシャルからアビリティへと変化した段階を表わす。
では、この記憶修習によって何が得られるのかと。言葉に出るようになった、自
然と普通の会話と同じようなレベルで言葉に出るようになった場合、その説法その
ものが自分のものとなり、自分の防御となり、そして、その人の身・口・意の、ま
あ、正確な言い方をすれば身の行ない、それから言葉、そして心の働き、この三つ
に対しての傾向を決定することになる。
よく、「わたしは教学してるんだけども結果が出ない」と言う人がいる。こうい
う人は教学の仕方がまずいんではなく、教学の時間が短いのである。つまり、ポテ
ンシャルとしては持っているのに、それがその人の傾向を決定するに値しないわけ
である。
◎サマディ--すべてを知るために
これはサマディについても同じである。初めは虚空三昧のサマディから入る。こ
のサマディは何も見えない、何も聞こえない、感じない、気絶であると。しかし、
そのうちにしっかりと内側が理解できるようになってくる。これも同じように、サ
マディのポテンシャルからサマディのアビリティに移行した段階である。つまり、
初めからすべてを知るだけのサマディに到達することはあり得ないのである。
◎人々を利する素晴らしい叡智
そして、最後に智慧である。この智慧も、先程述べた一から四までの土台が備わ
って、そして、わたしたちの五蓋が滅されていく段階で徐々に徐々に現われ出るも
のである。この智慧というのを、別の言い方をすれば「天才」と言ってもいい。同
じ言葉である、これは。要するに五蓋が滅され、透明になった段階で、アーカシッ
クレコードからいろいろなデータを取り出すことができる。
じゃ、その、智慧のポテンシャルとは何かというと、五蓋を滅されていく段階で、
いろいろ浮いてくる雑念のようなもの、これが智慧のポテンシャルである。そして、
その智慧のポテンシャルが徐々に研ぎ澄まされ、本当に人々を利することのできる
素晴らしい叡智というものがわき出てくる。これが五根であり五力である。
◎四つの預流支--天へ至る流れに乗って
では、この五根であり五力。これを、別の言い方をすれば、どのような形で表現
することができるのだろうかと。これは四つの預流支によって表現することができ
る。
例えば、第一番目の帰依のポテンシャル、あるいは帰依のアビリティについては、
預流支の中の第一番目三宝に対する帰依である。ここでいう三宝とはしっかりと理
解しておかなきゃならないわけだけども、それはまず君たちの場合、シヴァ大神の
化生身である、あるいは、諸々の仏陀の化生身であるグルに対して、絶対の信頼を
持ち、そして布施、奉仕、あるいは言われたことの実践を徹底的に行なうというこ
とである。
第二はその説かれた法に対して、絶対的な信頼を持つということである。
そして第三番目は、ここは問題です。君たちと同じ法友の中で向煩悩滅尽多学男
女に対して帰依をするということである。ここで問題なのは、向煩悩滅尽多学男女
であるかどうかである。別の言い方をすれば、自己の霊性よりも少しでも高く、し
かも多学であるということ。ね。この二つの条件を備えた者に対して帰依をすると
いうことである。
つまり、例えば、出家した先輩だったとしても、その先輩が煩悩に、ものを滅尽
に向かわない魂であれば帰依をする必要はない。あるいは多学でなければ帰依をす
る必要がないわけである、これは。この三宝に対する帰依、これが第一番目の帰依
ということになる。つまり、これは先程の五つのポテンシャル、五つのアビリティ
の一番目とオーバーラップすることになる。そうだね。
◎学び、考え、実践する
それから二番目、これは記憶修習である。記憶修習は当然三番目の記憶修習にお
けるポテンシャルと、記憶修習におけるアビリティと、これとダブります。よって
これは同じであると見てよろしい。
では三番目、記憶修習に基づいて、自己を、ね、反省する、あるいは自己の善業
を増大させるというプロセスがある、心においてね。これは二番目の精進における
アビリティの増大と、それからポテンシャルの増大、これとダブります。
四番目、記憶修習し、そして、それに対してしっかりと思索したもの、これを実
際実践するという段階が四番目にきます。この四番目の段階は、ここがポイントで
す。いいですか。これは実際には例えば当然、その煩悩の滅尽、およびサマディ、
およびサマディから得られる智慧という三つを含むわけだから、当然これとダブる
と考えてよろしい。ということは、この四預流支の中に五つのポテンシャル、五つ
のアビリティが含まれてると考えるべきである。
◎覚醒者となるための七つの階段
では、もっと別の見方をしたらダブりがあるのだろうかと。当然それは存在する
と。それは何だと。それは七つの覚支である。
まず第一番目の記憶修習覚支。これは四預流支の二番目、あるいは五つのポテン
シャル、五つのアビリティーの三番目とダブりますと。
第二番目のちゃく、えー、検討覚支。これは、どの真理が今実践するのが素晴ら
しいか、あるいはこれは真理であろうか、なかろうかと考えるわけだけども、これ
については四預流支の中の三番目とダブりますと。
次は精進覚支。この精進覚支については四預流支の三番目、そして五つのポテン
シャル、五つのアビリティの中の二番目とダブりますと。ね。
で、まあ、この七覚支についてダブらないのは三、えーっと、四番目の喜覚支、
五番目の軽安覚支という言葉があると。この喜覚支とは何かというと、すべての真
理の実践に対して、心から喜ぶということである。なぜ、ここで心から喜ばなけれ
ばならないのかというと、これはその傾向、つまり、喜びによって、その人の行動
パターンを規定するという性質があるわけだが、その行動パターンの規定を変更さ
せるわけである。
次の五番目の軽安覚支は、この真理の実践が、自己の煩悩の滅尽をすることによ
り心身が軽安になると。それを絶えず思念するということにより、これは一つの心
と体の傾向をやはり決定するわけである。これも同じように三番目、四預流支の三
番目、四番目と当然ダブることになろう。
そしてその次の六番目のサマディ覚支は、これはまさに五つのポテンシャルの中
の四番目、ね、五つのアビリティの中の四番目とオーバーラップすることになる。
◎無頓着--仏陀になるための最後の実践
そして七覚支の中の最終の無頓着覚支は、これは四預流支の中の最後の記憶修習、
そして実際それにのっとり考える、そして、ま、随法行だね。「法にのっとり実践
する」の、その「法にのっとり実践する」とオーバーラップするわけだけども、こ
の無頓着覚支がなぜ仏陀に至る道なのかというと、例えば、この今の状態というの
は過去、あるいは過去世のわたしたちの善業と悪業の集積が、単に現象化してるに
すぎない。もちろん、これが現象化する場合、その人がタマスであるか、あるいは
ラジャスであるか、あるいはサットヴァであるかによって、その現われるスピード
やあるいは形は変わってくる。しかし、いずれにしろラジャス・タマス・サットヴ
ァそのものもカルマであるから、今わたしたちが経験してる、苦しみ、喜び、ある
いは苦しみでも喜びでもないものすべてはカルマの幻影であると。
だとするならば、今ここでそういったような感情にとらわれているのは、まさに
時間の無駄であると。今なさなきゃならないことは、未来のわたしたちの五蘊形成
を神々から最終的には如来へと、つまり、供養値魂にね、するために、作り変えて
いくべきときなのである。そうなると、この現実に対して頓着すべきではない。そ
してこれが仏陀に至る、覚支の中の最後に置かれてるというのはなかなかわたしは
深淵なものがあると考えている。
そして君たちがこのような形で五つのポテンシャル、五つのアビリティ、あるい
は四つの預流支、あるいは七つの仏陀に至るための土台、これを実践することによ
り、君たちは確実に仏陀へと至るであろう。
◎自己のけがれを知り、捨て断つ
では、これを要約すると、いったいそれはどういうことになるであろうかと。そ
れは証智・捨断・現証・修習という四つに置き換えることができるであろう。
では証智とは何であろうか。これはわたしたちの五蘊がどのような傾向を持って
いるか、あるいは、どのようなデータによって蓄積されているかということをまず
知るべきである。これを知ることにより、次にその煩悩に対して捨断を加えると。
実はね、前回東京で、この前の日曜日だね、東京で、あの「超能力セミナー」を
行なったとき、わたしはある試みを行ないました。このある試みとは何かというと、
マントラを唱えさせ、浮いてきた煩悩をメモさせると。あるいはプラーナーヤーマ
を行なわせ、浮いてきた煩悩をメモさせると。これは第一段階と、これは証智であ
ると。
そうすると第二段階でそれを厭逆させると、これ捨断であると。するとね、九割
の人が、約九割の人がだよ、呼吸が延びたんだね。つまり、生命に対する愛着が弱
まったということになるんだよ。
これは、まさに、このし、あの、修行の順番でいったならば、証智、捨断、現証、
そして修習という、この四つのプロセスなんだなということの証明だと思います。
では、この証智、ね、この証智が何で、証智が何であるかといったら、今言った
とおり五蘊であると。では、その五蘊に対して捨断しなければならないものは何で
あるかと。ね。これは一つは欲愛であると、欲に対する愛着であると。それからも
う一つは現実であると。現実とは飯を食ってうまい、セックスをしたら楽しい、ね
え。ま、この中で破戒してる人もいるみたいだから、少し話をしたいけども、セッ
クスをしたら楽しい、あるいはいらぬ本を読んだら楽しいと。いらぬ音楽を聴いた
ら楽しいという、ね、そういう、その現実がある。
この現実を捨断することによって、捨断というのは捨て絶つことによって、ね、
次に、あの、わたしたちは別のわたしたちをこの世において証明することができる
ようになる。あるいはこの世において現わすことができるようになると。
◎寂止と正観--離解脱と神秘力の完成
では、どのようなわたしたちが現われてくるのかと。それは離解脱したわたした
ち。それからもう一つは神秘力を有したわたしたちと。つまり神通力を有したわた
したちが現われると。ところが、えてしてそういう煩悩的な人っていうのは神通力
を持ちたがるんだね。でも持てるはずがないと。なぜかというと、この煩悩と神通
力というのは表裏であるからである。いいですか。これが三番目の証智です、あ、
ごめん、現証です。ね。
そして、この神秘力、あるいは離解脱を完成させるためには、何を行なえばいい
のかというと、寂止と正観であると。これは修習である。じゃ、寂止はどうすれば
いいのかと。これは四念処であると。あるいは正観はどのようにすればいいのかと。
これは功徳の増大であると。これが仏教のすべてであり、仏教の初めであり、仏教
の終わりであり、真理の初めであり、真理の終わりである。そして、この実践をな
す者は五蘊が徐々に徐々に形成を変化していくことになる。
わたしは東京のセミナーで、あるいは、横浜のセミナーで、来世は巨人軍のエー
スであるという話をしたことがある。この巨人軍のエースであると言ったのは、実
は今から約二年前から、その傾向が現われていたわけである。これは、わたしが小
さいときから修習してきた野球のデータの結果であろうと思う。そして、それと功
徳が相まって、来世を決定したんだと思う。
ところが、そのカルマが完全に止滅し、今は先程述べた、ほっておけば憤怒の世
界、あるいは第一天界の世界へと転生することになろう。そして、今わたしは実際、
その転生すべく、バルドーの光が射していると。
しかし、わたしが、この今の病を克服したころには、次にはおそらく第二天界、
第三天界、第四天界という固定された光が現われてくるはずである。もちろん、わ
たしは解脱者であるから、死の瞬間、中間状態に入り、そして、自分のフォームを
変えてしまうことは可能である。
しかし、先程も述べたとおり、聖無頓着の修行は、真理の実践者において最もな
さなければならないことだから、おそらくそれについてはなさないであろう。
はい、今日の話はどうだったかな、面白かったかな、それとも難しかったかな。
どうだ?
はい、付記ね。あの、大乗仏教でいわれている阿修羅の世界の描写を少ししたい
と思います。大乗仏教でいわれている阿修羅の世界は、実際に、あの広大な湖とも
海ともいえるところに大きな、蓮華の花が咲いています。そして、その大きな蓮華
の花の上から出入りする場合と、あるいはその下にある、まあ、阿修羅の世界があ
るわけだけども、その世界に出入りす、する場合と二つの入り口があります。そし
て、阿修羅の世界の支配階級の人たちは、下から出入りします。つまり、水の中を
平然と移行するということだね。まあ、この生において、この世界は、あの、なか
なか統制の取れた、本当に、その綺麗な、まあ空間なわけだけど、この生において、
あの、マンジュシュリー正悟師は相当に大きな活躍をしています。まあ、このよう
な世界を、そのうちに時間があれば描写したいなとは思っているんだけどね。そう
すると、欲六界がどういう世界であるか、あるいは、梵、あの、神聖天がどういう
世界であるか、あるいは、色究竟天がどういう世界であるか、あるいは光音天がど
ういう世界であるか、あるいは無色界がどういう世界であるか、皆さんによくご理
解いただけると思います。だから、逆の言い方をすればだよ、決して自分たちの周
りにいる人を、バカにしないようにしなさいよ。っていうのは、その人たちがどれ
ほどのポテンシャルを有しているかわからないわけだから。今、自分が優位に立っ
ているのは、アビリティーがね、その、表面化してるだけであるというふうに認識
しなさい。いいね。はい、じゃあ終わりましょう。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#250
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/24 12:57 ( 81)
オウム真理教>説法>四預流支
★内容
四預流支
1991年1月13日 福岡支部道場にて
◎四預流支
人間の寿命は、どんなに頑張ったとしても百歳を超えることはなかなか難しい。
この百歳の寿命は、それを歩く前に百年間のことを考えると、大変長いように感じ
ることができる。しかし、百年間を振り返ってみると、決して長くは感じないであ
ろう。これは例えば、今六十代を歩いてる人、あるいは七十代を歩いてる人も、そ
れは同感できる考えではないかと思います。
この短い人生の中に多くの経験をし、そしてその多くの経験は、わたしたちを地
獄、動物、餓鬼といった悪趣の世界へと転生させるか、あるいは人間、阿修羅、天
界、梵天界といった高い世界へと転生させるのか、その分かれ道は特別な作業を行
なうのではなく、日々の身の行ない、口の行ない、そして心の行ないの総合、蓄積
によってすべては決まるんだということは、皆さんもよく知ってるはずである。
これはちょうど、日々お金を少しずつ蓄えて、気付いたときには大金持ちになっ
たという、いう例と大変似ている。もちろん、一獲千金の特別なものがないわけで
はない。それは、例えば現代でも多くのばくち、例えば競輪や競馬あるいはボート
といったようなもの。で、そのばくちによって、大金を当てた人、これも若干はい
るかもしれない。しかしそれは、この日本の人口、一億一千万の中のほんの一かけ
らであるとしか言わざるを得ない。
これと同じように、特別な技法によって瞬間的に意識を移し変える、これは大変
難しい作業である。この難しい作業のテクニックは、皆さんにイニシエーションと
いう形で伝授されてるはずである。ところがおそらく皆さんは、そういうイニシエ
ーションの類いを自己の実践をしなければならない課題として見つめ、見つめるの
ではなく、一種のイベントとして捉え、そしてお祭り的にそれを消化しようとして
いるのではないだろうか。
わたしたちの経験は、梅とそれから漬けられるものの関係と大変よく似ている。
ここに青梅があると考えてほしい。この青梅を例えばアルコールの中に漬けると、
例えばしそと塩の混じったものの中に漬けるとしましょう。一日、二日と漬けてい
けば漬けていくほど、この青梅は酒漬けの場合、どんどんどんどん酒に浸り、しそ
漬けの場合、どんどんその赤みを増すということになるでしょう。
これと同じように、わたしたちが日々、例えば身の行ないにおいて、殺生しない、
偸盗しない、あるいは愛のないセックスをしないという実践をするならば、あるい
は口の行ないにおいて、嘘をつかない、必要のない言葉をしゃべらない、悪口をし
ゃべらない、人と人とを仲たがいさせるような言葉をしゃべらないという実践をす
るならば、あるいは心において貪りを離れ、嫌悪を離れ、そして真理を否定せず、
真理のデータを入れるという実践を繰り返すならば、ちょうどそれは青梅が酒に漬
けられ、少しずつ少しずつその青梅の中に酒を浸透させるのと同じように、あなた
方の五蘊は少しずつ少しずつ神々に向かって変化していくはずである。
ところが、あなた方が例えば自己を保全するために、殺生をなし、偸盗をなし、
あるいは愛のないセックスをなし、あるいは酒やタバコにうつつを抜かすと。ある
いは口の行ないについて、嘘を平気でつき、必要のない言葉を語り、悪口をしゃべ
り、人と人とを仲たがいさせるような言葉を平気で語ると。あるいは心の働きによ
って、貪りを肯定し、嫌悪を肯定し、そして真理でないものを肯定するといったよ
うな生き方をするならば、ちょうどそれは、しその赤みが梅にどんどん浸透してい
くように、あなた方の五蘊は三悪趣へと向かうはずである。
では、あなた方が人間、憤怒天、天界、あるいはそれ以上へ生まれ変わるために、
いったい何を日々行なえばいいのかと。それはもう皆さんもよく知ってのとおり四
つの預流支である。この四つの預流支というのは、まず第一は三宝に対する帰依で
ある。それはあなた方の心の本質に到達する、本質と同等であるグルに対して帰依
をすること、そのグルに対して布施や奉仕の実践を行なうこと。あるいは、グルの
説く法、真理に対して、あるいは昔から真理といわれてるものの、ものに対してし
っかりそれらを学び、広めるという帰依の実践を行なうこと、これが第二である。
あるいは、その真理を実践している教団に対して布施を行なうこと、奉仕を行なう
こと、その教えを奉じ、実践すること。これが第三であると。これを三つまとめて
第一の預流支といいます。
そして、第二の預流支は何かというと、この二番目、あるいは一番、三番の口か
ら出た教え、これらのものに対してしっかりと学び、研究し、記憶すると。これが
第二番目の預流支です。そして第三番目は、その学び、研究したものをもとに自分
の人生に当てはめ考えると。そして深く熟考すると。これが第三番目の預流支です。
そして第四番目の預流支は、この考えたことを実際に具体的に実践すると。これが
第四番目の預流支です。
そして、皆さんがこの一番から四番目の実践を行ない、十の戒めを守り、実践す
ることにより、皆さんのこの形ある肉体、あるいは感覚、イメージ、意志、意識と
いう五つの集まりは、必ずや酒が梅に浸透するのと同じように、あなた方の五蘊に
浸透し、五蘊が変わり、悪趣を脱出し、善趣へと生まれ変わるでしょう。
在家の修行のポイントは布施、持戒であるといわれています。三宝に対して布施
をし、持戒を守らない場合、人間界からだいたい阿修羅の世界へ生まれ変わるとい
われています。真剣に布施をなし、そして戒律を守った場合、その魂は戯忘天界へ
生まれ変わるといわれています。
今まで積んだあなた方の悪業は、いくら後悔しても仕方のないこと。それはしっ
かりとザンゲし、落し、これからあなた方がしっかりと功徳を積み、実践するなら
ば、必ずやあなた方の未来は光に満ちたものとなるでしょう。
はい、それではこれから質問を受けましょう。
はい、それではね、しっかりと修行に励んでください。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#251
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/24 13: 1 (126)
オウム真理教>説法>八正道、その真の意味合い
★内容
八正道、その真の意味合い
1989年4月12日 富士山総本部道場にて
◎八正道、その真の意味合い
それでは今日はね、八正道について少し語ろう。
わたしは以前『イニシエーション』の中で、過去の遺物であると八正道を説いて
いる。その理由は、この現代において八正道を行じることが、あまりにも難しいか
らだと。しかし、これだけの出家の修行者が集うオウム真理教では、その八正道の
ね、まず一部を取り入れて、取り入れられないことはない。そのためにね、今日こ
のようにして八正道を説こうと考えた。
八正道という言葉はみんな知ってるかな。どうだ。パタンジャリ、じゃあ八正道
を言葉と、それから漢字、これをみんなに話してくれ、全部。意味というよりも、
言葉と漢字です。
まず、正見とは何だと。いいかな、まず正しく見る正見とは何だと、ね。これは
四諦であると、四つの真理であるということができる。この世の中を、すべては苦
であると、そして、その苦というものは、ね、必ずわたしたちを苦しめるものなん
だと、ね。そしてその苦を滅するために、滅することはできるんだと。そして、そ
の滅するための方法があるんだと、これが正見である、ね。
だから、仏陀釈迦牟尼の法というものは、いいかな、決して中途半端なものでは
ない。中途半端なものではないとはどういうことかというと、そしてもう一つは、
抽象的ではないと。抽象的ではないとはどういうことかというと、一切の曖昧さが
ないということだ、ね。ところが、例えば正見、正しく見ると、世の中を正しく見
るためには云々という話があるとするならば、何を基準として正しく見るのかわか
らないと。わかるね、言っていることは。
ところが、例えば正しく見るイコール、四諦であるといったらどうだ。はっきり
わかるよね。この世の中を必ず苦として見なさいと。その苦というものは、必ずわ
たしたちに巻き付いてくると。そして、それは滅することができるし、滅する道が
あるんだと。どうだ、これは。はっきりしてるだろう。
では次、正思惟とは何ぞやと。正思惟とは、縁起の法であると。いいかな。縁起
の法であるとはどういうことかわかるか。まず、無明というものを根本としている
と。わたしたちがコーザルとつながってないということを根本としていると、ね。
そこから行が生じ、識が生じ、きょう、これはね、次回の、つまり明日になるか
あさってになるかわからないけども、そのときの講話でもっと詳しく述べるつもり
でいるけども、そこで行が生じると、行によって識、名色、六処、触、ね、受、愛、
取、有、生、老、死、愁、悲、苦、憂、悩と、ね、が生じると。そして、この苦を
根本として、ね、智慧ある者は信が生じると。信が生じて修行に入り、クンダリニ
ーの覚醒を行なうと、ね。そして、悦、喜、軽安、楽、三昧、ね、如実知見、ね、
遠離、離貪、解脱のプロセスを歩くと。
これが、正思惟であると。これについて深く考えること、あるいは苦の内容につ
いて深く考えること、四諦について深く考えること、これが正思惟であると。
では、正語とは何ぞやと、ね。正語とは、嘘をつかず真実の言葉を語ると、ね。
そして悪口を言わず、人に優しい言葉を語ると、ね。そして必要のない言葉を語ら
ず、ね、要件を足すに足る、ね、言葉を語ると。互いを和合させる言葉を語り、ね、
決して仲たがいをさせる言葉を語らないと。いいかな。これが正語であると、ね。
正語、正しく語ると、よくいわれているけど、その内容はわからないと、ではない
んだよ。これは、十戒の中の四つのことを指していると。いいね。
では、正業とは何ぞやと、ね。これは、瞬間瞬間を、ね、瞬間瞬間というのは、
行為の瞬間瞬間を精神を集中して、ね、生きると。例えば、動作の一挙手一投足に
ね、精神を集中するわけだ。ね、これが、正業であると。いいかな。じゃあ、この
一挙手一投足に精神を集中するということは、いったいどういうプラスがあるだろ
うかと。さあどうだ。わたしたちの成就は、まず第一には何からくるか。精神集中
から生じるラージャ・ヨーガだったね。どうだ。そうすると、一挙手一投足に集中
していると、ラージャ・ヨーガの成就は起こるか起きないか。これが正業のもとも
との意味合いだと。
そして、正命というのは、正しい、ね、一生という意味であると。正しい一生と
はどういうことかというと、わたしたちのこの生というものは、瞬間かそれとも永
遠のものか。もし大いなる生命の流れがあって、その流れの瞬間がこの人間の世界
だとするならば、わたしたちは未来際にわたる福のために、この瞬間を利用するこ
とは、ね、智者の行為だと思うか、それとも愚者の行為だと思うか。智者の行為だ
ね。よって、この正命の背景にあるものは、この一生というものを、いいかな、そ
の未来際の福のために、未来際の平安のために使おうと、ね。
では、無智、凡夫、愚者はどういうふうに考えると思うか、それに対して。ああ、
少しの徳があると。この徳を使って、使い果たしてしまおうと考えないか。どうだ。
智者はどう考えるか。この喜びはたか、高い世界の喜びに比べたら愚者の喜びであ
ると。そして、今わたし自身は真理に巡り合っていると。そうだな。そしてこの短
い期間を、真理に費やすとするならば、少なくとも高い世界へ生まれ変わると。そ
してそれだけではなく、゚ク槃することだってできると。どうだ。そう考え生きる、
これが正命だ。だからこの正命の命というのは、生きるという意味があるんだね。
いいかな。
そして、わたしたちがこのようにして五つの過程をマスターしたならば、六つ目、
正精進、この正精進とは何だ。正しい修行ということになる。ね。つまり、生活規
範がしっかりしたならば、そのあと正しい修行に入っていくわけだね。いいね。
では、この正精進とは何かというと、例えばワーク、これはもう君たちの今のプ
ロセスだ。これは正精進だよ。例えばマントラ、例えば瞑想、ね。このようなもの
に対して精神を集中し、限界まで行なうと、ね。だから、どういうことかというと、
精進イコール、努力だと置き換えてよろしい。いいね。だから正しい努力と。つま
り君たちが高い世界へ生まれ変わるための、あるいは神秘的な力を付けるための正
しい努力と。これが正精進だ。いいかな。
じゃ、正念とは何ぞやと。正念というのは、ね、まずオウムの成就というのは小
乗から入っていくか、大乗から入っていくか。つまり四念処がね、根本なんだよ。
いいかな。四念処とは何かというと、はい、“我身これ不浄なり”と、ね。男の肉
体も女の肉体も糞尿の製造機であると。それ以外の何物でもないと。そして、わた
したちはこの肉体があるがために苦しまなきゃなんないと。あるいは、幻影を味わ
わなきゃなんないと、ね。こんな不浄の肉体が離れなきゃなんないと、ね。よって、
この肉体が滅びたとしても、それに対して苦悩を味わう必要はないと。これが、ね、
“我身これ不浄なり”だよ。
じゃ、“受は苦なり”とは何だと。すべての感覚器官のお蔭によって、わたした
ちは苦楽を味わっていると、ね。そして楽は楽しいけども、苦は苦しいと。そうだ
な。よって、苦を離れなきゃなんないと。
“心は無常なり”と、ねえ。自分の心の無常さ、これわかるよね。絶えず心は変化
すると。どうだ。そして、自分の心が変化すると同時に、ね、自分の愛する者の心
も変化すると、ね。よって、この自分の心の、ね、無常さ、あるいは他の心の無常
さからも離れなきゃならないと。
“法は無我なり”と。これは観念そのものが、自分自身ではないと。わかるね。
しかし、わたしたちは小さいときから培った観念を自分のものと思い、勘違いする
と。じゃあ、その典型は何かといったら、まず現代人の宗教観だ。現代人の価値観
だ。これは、十人が十人そう考えてるよね、だいたい。どうだ。ということは、わ
たしたちは他にそういう宗教観、価値観をたたき込まれたと考えていいんじゃない
か。どうだ。じゃ、それは何から来ているんだ。学校教育、それから雑誌、そして
新聞、そしてラジオ、そしてテレビと、ね。あるいは、それを真に受けている大人
たちと、いいかな。しかし、それはわたしたちを正しい方向に、わたしたちを真理
に導くものか、導かないものか、ね。よって、“法は無我なり”と。これがし、正
念だ。念というのは何かというと、正しい集中ということになると。つまり、四つ
を絶えず思うと。集中し続けると。そして、それを完全にマスターした後に、正定
に入っていくと、ね。正定て正しい瞑想だね。オウムでは、マントラ瞑想、あるい
はツァンダリーの瞑想、グル・ヨーガの瞑想、いろいろあるから、これがこの正定
に当たるだろうと、ね。
よって、八正道の真の意味とは、こういうことだ。理解できたかな。ということ
は、出家行者である君たちは、この八正道を行じることは……できるよね。在家行
者であるわたしは、この修行を修行することはどうだ。難しいことだね。
一般の人はどうだ。例えば、奥さんがここにいると。“我身これ不浄なり”とね。
ああ、わたしの妻は糞尿の製造機であると。あるいは、旦那さんを奥さんが見て、
ああ、この人は糞尿の製造機だと。家庭はどうなるか。よって、方便が生じるわけ
だ。方便という意味わかるかな。方便というのは、要するに条件に合わせて真理を
ね、変えていくんだよ。だから、在家には在家の修行法があると。出家には出家の
修行法があると。そして、より厳しい方を取れば取るだけ、解脱は早いか遅いか、
わかるね。はい、それでは今日の復習をしよう。今日はわたしは何を話したかな。
他には、うん、では、これをきちんと守っていこう。はい、終わりましょう。
はい、全力で頑張んなさい。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#252
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/24 20:54 (113)
オウム真理教>説法>三つの救済1
★内容
「 三 つ の 救 済 」
『マハーヤーナ』NO.1より
◎三つの救済とは
「三つの救済が必要です」
私は、折あるごとに三つの救済について話す。三つの救済とは、すなわち、
(1)人々を病苦から解放する。
(2)この世の幸福をもたらす。
(3)悟り・解脱へと導く。
ということである。一つ一つの詳しい説明は後に譲るとして、
「一生、三つの救済をし続けよう。」
と、私が決意するに至った経緯をお話ししよう。
私は、1977年から修行生活に入ったんだ。もう十年も前のことになる。
仙道・ヨーガ・仏教・密教と色々な修行に手を出し、そのよいところを取り入
れてきた。目指すは悟り、そして解脱。経典だけを頼りに一人っきりで修行に
打ち込んだ。そして、ついにヒマラヤの聖なるヴァイブレーションに包まれて、
悟りを開き、最終解脱をする事が出来たんだ。ちょうど一年前のことだった。
こうして、私は自らの修行を成就することが出来たんだが、悟りと解脱に到
達した私に、どういう状態が訪れただろうか。
--絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜--
私はこれらを手にいれた。また、死後『マハーヤーナ』に入る資格も得たし、
方法も知った。この肉体を捨てることも、その時期を選ぶことも自由に出来る。
それに加えてシッディ(超能力)も得た。つまり、私はこの上もない幸福に浸
れるはずだったのだ。
ところが、これだけでは私の魂は満足しなかった。どう言ったらいいだろう
か。つまり、私だけが幸せで、他の人が苦しみの世界にいると言うことに耐え
られなかったんだね。
「この身を引き換えにしてでも、人々を救済しよう。」
次第にこう思うようになり、私の内で、それが自分の使命なのだと感ずるに至
った。私は釈迦牟尼と同じ道を歩もうとしているのだ。
釈迦牟尼--。皆さんもこの方のことはよくご存知だろう。七年に及ぶ苦行
の後に、菩提樹の下で悟りを開いたという方である。釈迦牟尼が悟りだけでは
なく、解脱もしていたということも、紛れもない事実である。というのも、釈
迦牟尼の神通力(超能力)がそれを証明しているのだ。解脱のプロセス(クン
ダリニー・ヨーガ)では、必ず神通力が身につくのである。
釈迦牟尼が、このように悟りと解脱を得ていたのなら、釈迦牟尼自身は絶対
幸福の中にあったはずなのだ。しかし、彼は自分一人の幸福にとらわれず、仏
教を広め救済活動に生涯を費やしたのである。だから、私も釈迦牟尼と同じ道
を歩もうとしている--と言ったのだ。
さて、私の場合に戻ろう。まずは救済活動をする決意をしたわけだ。そして、
その救済活動の具体的な手だてを考えるに至って、先に挙げた三つの救済が必
要であることに気付いたのだった。したがって、この三つの救済こそ、これか
ら私が展開していく救済活動なのである。
◎人々を病苦から解放する
〔1〕人々を病苦から解放する
ストレスから、難病・不治の病まで、私たちの周囲には病気があふれんばか
り。その病気の数だけ苦しんでいる人がいる、あるいは、命を落としてしまう
人がいる、ということになるのだから、これはもう大変なことだね。あなたの
身近な人が病気で苦しんでいるというケースもあることだろう。ひょっとした
ら、あなた自身が重大な病を苦にしているかも知れない。救済活動には、病苦
からの解放を入れなければなるまい。
さて、その方法となると、次のものを列挙することが出来よう。
◎ヨーガ行法などの指導
◎インド神秘医学理論の普及
◎神秘的な力、超能力によって病気を治す。
◎アストラル世界(異次元)から、そこの医療を持ち込んで治療する。
まず、最初に挙げた、ヨーガ行法などの指導は、自分で治してもらうことに
なる。日本でのヨーガのイメージからすると、これでは頼りないと思われるか
も知れない。しかし、私が指導するヨーガはヒマラヤ・ヨーガの秘伝なのだ。
まあ、一例として次の文を読んでもらいたい。
『アレルギー性鼻炎とアレルギー性結膜炎で、毎年二月から四月の間は、鼻は
ずるずる、眼はしょぼしょぼとひどく、時には、一日でティッシュペーパー一
箱がなくなるときもあった。しかし、今回初めて『ぬるま湯のネーティー』を
やったら、四日目で、完全ではないが眼症状はほとんど気にならなくなり、鼻
もときどきかむ程度にまで改善した。ヨーガには、一般人にとっては未知の、
不思議と思える力があるようだ。』
これは、京都の堀口雄一さんが書いてくれた体験談の一部である。驚くこと
なかれ、彼はれっきとした医師なのだ。現代医学に失望し、「真の医療とは何
か?」ということを追求し続けている熱意ある人なのである。その彼がこのよ
うにヨーガを評価してくれたというわけだ。
インド神秘医学の普及が方法の一つにはいるのは、それが真理の確信をつい
た素晴らしい医学だからである。欧米諸国では、その優れた奇跡とも言える医
療効果に驚いた人々が、
「神秘医学は魔法か魔術だ」
と言い出すこともあるほどなのだ。しかし、決して魔法でも魔術でもない。仏
教理論や宇宙哲学を取り入れた『唯心的理論物理学』に基づいた医学なのであ
る。この現代医学の先を見越したような医学を広めなくては、と思う。
神秘的な力、超能力によって病気が治せるというのも疑いのない事実なのだ。
私のような解脱者は、この方法で人の病気を治すことが出来る。
私はまず霊眼を使って霊視をする。すると、病んで“気の流れ”が停滞して
いるところが黒く見える。(特に癌や喘息は、真っ黒になっている。)その部
分を私の霊的なエネルギーを入れることによって治すのである。軽い病気はこ
れだけで治ってしまう。ただ、重い病気は本人にも修行してもらわなければ完
全治癒は難しい。
次のアストラル世界から医療を持ち込む、というのは、ちょっと面白いと思
うだろう。超能力者(修行によってだれでも超能力を持てるのだが)は、アス
トラル・トリップというのができるのである。人間のへそにあるマニプーラ・
チャクラに『変化身』と呼ばれるもう一人の自分がいるのだが、その変化身が
アストラル世界へと飛んでいくことが出来るのだ。一言にアストラル世界と言
っても、異次元の多種多様な世界が存在している。そして、それらの世界の医
療が、私たちの世界で役立つこともあるのだ。私が会員の方々に無料で貸し出
している『ヒヒイロカネ』という霊的な石も、私のアストラル・トリップがヒ
ントになっている。
また、アストラル世界の音楽で心の病気を治すとか、アストラル世界の医療
を用いる病院を設立するとか、私も色々な構想をもっている。
(つづく)
#253
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/24 21: 9 (111)
オウム真理教>説法>三つの救済2
★内容
◎この世の幸福をもたらす
〔2〕この世の幸福をもたらす
この世に生きている誰もが幸せになって欲しい--わたしはこう願っている。
愛情問題、交友関係、経済問題・・・・・挙げればきりがないが、私たちが生
きていく以上、何回も不幸に直面するものである。しかし、不幸をよせつけず、
幸福だけをよぶことが出来たら、こんなに嬉しいことはないだろうね。信じら
れないことかも知れないけれど、私はあなた方に幸福になる方法を教えてあげ
ることができるんだよ。
次は、私がシャクティーパット(霊的エネルギーの注入)をしてあげた人の
体験談だ。運がよくなった鈴木伸幸君の場合--。
『まず、シャクティーパットを受けて全体的に言えることは“運”がどんどん
よくなると言うことです。運といっても、仕事運、金銭運、恋愛運などたくさ
んありますが、私の場合、三番目の恋愛運が爆発的かつ即効的に効果があらわ
れました。』
鈴木君は恋愛だけでなく、学問運もよくなったという。
『先生に教わった頭のよくなる・・・・・・特に記憶力のよくなる修行法を毎
日とはいえないまでも出来るだけ続けて、結果は志望大学(慶應)合格!(中
略)今考えてみても、わずか数カ月の受験勉強!よく合格したと、不思議にさ
え思います。』
私は彼にシャクティーパットだけでなく修行法も教えたのだった。その他現
世利益として現れた結果として、次のように報告してくれた。いかにも学生ら
しいね。
◇ 自分に取ってマイナスになる人達との決別、反対にプラスになる人達との出
会い
◇ 第六感といわれるカンのよさ(人の気持ちが今まで以上によくわかる)
◇ 一枚しか買わなかった宝くじの当選
◇ 90%近い、パチンコ、麻雀の勝率
早川紀代秀さんも次のように言っている。
『日常生活においても、円滑化現象とでもいうようなことが起こるようになり
ました。例えば、「この約束流れてくれると助かるのになあ。」と思っている
と、考えられないような理由で先方からキャンセルして来たり、「これはもめ
るだろうなあ。」と覚悟を決めていると、驚くほどスムーズにことが運んだり、
「欲しいけど予算がないなあ。」と思っていると、滅多にない中古品が手ごろ
な値段で出ているのに巡り会ったり、「本当にこれでいいのかなあ。」と思う
ことしばしばです。』
このような体験談が、私の手許にたくさん寄せられている。すべてはとても
載せきれないので、最後に病苦からの解放とも関係している中山浩子さんの体
験談を載せてこの項は終わろう。
『主人の身(主人もオウムの会員です)に起きたことですが、自分のこと以上
に嬉しかったので書かせて頂きます。
まず、40年間ほとんど失明に近かった右目の手術に成功し、0.3までの
視力回復にこぎ着けました。あちらこちらの眼科医から見込みなしと宣言され
ていただけに、この成功は大きな喜びでした。暗闇から光の世界を獲得できた
喜びに、三日も男泣きしていた主人を忘れることは出来ません。現在、左右(
左0.08)のアンバランスを解消するためにリハビリを続けています。』
◎解脱・悟りへと導く
〔3〕悟り・解脱へと導く
私がいちばん力を入れたい救済は何といってもこれである。先に述べた『病
苦からの解放』も『この世の幸福』もいわば前哨戦だったのだ。どういうこと
かというと、『病苦からの解放』と『この世の幸福』を得ることのできた人は、
私の言うことを身を持って体験し、信じてくれるだろう。そういう人は、私が
提唱している真理とか悟り・解脱に興味を持ってくれるだろう。そして、いず
れはそれを目指して修行を始めてくれるだろう、ということなのである。悟り
・解脱と現世的な幸福や病苦からの解放は一見矛盾している。しかし、あえて
それらを一緒にして『三つの救済』としたのは、このような理由からなのだ
もっとも、中には私の前生からの弟子がいて、いきなり悟りと解脱を求めて
私の許に集まってくるという事例もある。
例えば、私は山田泰明君に初めて会ったときにこう言った。
「君は前世で僕の弟子だったのだよ。」
と。彼は涙を流し、身体を震わせた。そして、しばらくのち、一歩退き土下座
して私に言った。
「前世で悪いことをしたため、途中で止まっていました。」
こんな話を聞いたら、人間が生まれ変わるってことを信じていない人など、
びっくり仰天だろうね。山田君は今も私のそばで修行をしながら仕事を手伝っ
てくれているよ。広田君とか、上祐君とか、新実君とか、杉浦君とかね。私の
身近にいる弟子達はほとんど前世でも私の弟子だった人達だ。
さて、こういう前世からの弟子にも、先に述べたように他のことから興味を
持ってくれている人達にも、私は悟りと解脱を得て、真の幸福を手に入れても
らいたいと思っている。そう、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜ね--。そして、
死んでからも今の人間界などの苦界に転生することなく、マハーヤーナに入れ
るということね。これが真の幸福だ。
この無上のステージに至るための理論とテクニックを私は指導している。そ
して、私のシャクティーパットは、修行の進歩を促進するために使われている
んだ。
ちょっと、そのテクニックに触れておこうか。中心になっているのは、ヨー
ガ技法の中の『無上ヨーガ』のシステムである。内容が全部瞑想という、ヨー
ガの最高位に君臨するヨーガである。また、この無上ヨーガは強い精神集中力
が必須条件なので、精神集中力をつける修行を基礎としてとりいれている。例
えば、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの極限の修行、プラーナー
ヤーマ(調息法)、ムドラー(クンダリニー覚醒の技法)等である。まあ、私
が作ったプログラム通りに消化して行けば、必ず成就するだろう。私は前生で
も解脱した経験があったので、自分一人でやってきたが、経験のない人は私の
プログラムに沿ってやるしかないよ。また、前世で解脱したにも関わらず人間
界に生まれて来たのは、私がそれを望んだからである。人々を救済するために
--。
ところで、話は変わるが、日本中に私の前世の弟子がまだまだたくさんいる
はずなんだ。前世で修行者だったわけだから、今の日本の普通の生活が会わず、
苦しみ悩んでいると思う。そんな人、私になるべく早く連絡しなさい。別に自
分の前世を覚えてなくてもいいよ。確信が持てなくてもいいよ。でも自分の魂
が私に会うのを望んでいるような気がしたら、私に連絡しなさいね。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#254
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/25 2:48 (129)
オウム真理教>説法>徳の差について
★内容
徳の差について
1989年3月29日 富士山総本部道場にて
例えば、この世には悪いことを、ねえ、しても平気な人もいると。あるいは、少
し悪いことをしただけで捕まってしまう人もいると。これはみんな分かるよね。そ
うでしょ。どうだ。じゃあ大変な悪いことをしても捕まらないで、少し悪いことを
しただけで捕まると。これはいったい何だと思うか。だれか答えられるかな。何だ
と思うか。うん?例えば、君たちの中ではこれから殺生をしたり、あるいは嘘をつ
いてもね、あるいは盗みをしたって地獄に落ちない人もいるだろうと。あるいは逆
に、ちょっとした悪業をなしただけで、例えば嘘をついたりね、盗みをしたり、あ
るいは殺生をしただけで地獄に落ちる魂もあると。なぜだと。功徳? 功徳の働
の差?心の働きの差? どういうことかな、もっと詳しく聞きたいね。うん、うん
ちょっと待ってね、真理のためになっていなくても地獄に落ちない人もいるんだよ。
そうだよ。それはなぜだと。そして君たちが今の生活を続けるならば、君たちがま
あ少しぐらいの悪業をなしたとしても大して悪い世界へ転生することはないだろう
と。なぜだと。
功徳と悪業と言うものは混ざり合っている。これは分かるかな。そして功徳にし
ろ、あるいは、ね、悪業にしろ、ま、功徳という言葉を使うから、えー功徳じゃな
い、悪業という言葉を使うから善業にしようね、善業という言葉にしろ、あるいは
悪業という、ね、あの言葉にしろ、あるいは善業という心の働きにしろ、あるいは
悪業という心の働きにしろ、あるいは善業という行為にしろ、あるいは悪業という
行為にしろ、これはエネルギーなんだよ、それは分かるかな。どうですか。どうか
な、わかるか。
そして功徳を積んでいけば心は安定し、悪業をなして行けば心は暗くなっていく
と。これはどうだ。
はい、ではちょっと考えてみようね。ここに功徳の容器があると。で、例えば、
マンジュシュリーミトラ大師の功徳の容器というのは、ね、大海ほどの大きさの功
徳の容器であると。ところが、わたしの容器というのはコップね、小さなコップほ
どの功徳、善業の容器であると。どうだこれは。そして例えば殺生をなしたとしよ
うね、いいですか。例えば、殺生をなしたと。わたしとマンジュシュリー大師が殺
生をなしたとしたら、殺生という悪業に対して、ね、そのデータというものは一定
だよね。わたしがなそうとマンジュシュリー大師がなそうと、どうだ。これを一つ
まみの泥と考えようじゃないか、どうだ。そうするとわたしが、例えばこう、ね、
ひとつまみの泥、これをわたしは善業はコップ一杯しかないんだから、それをわた
しのコップの中に入れたと。マンジュシュリー大師も同じことを行なって、そして
大海に放り込んだと。そのとき、コップの水と大海の水の色、あるいは状態とはど
のように変化するだろうかと、どうだ。うん、大海の方は変わらないね。それと同
じなんだよ。だから君たちが、徳を積むことによって、あるいは、ね、徳を積むこ
とによってね、君たちは少しぐらいの悪業というものが君たちの次の生を決定しな
い要因になると、ね。
例えば、九百九十九人、ま、九十九人という説もあるけど、これはどちらでもい
いと思うね、要するにたくさんの人間を殺生した魂がここにあったとして、その魂
が徹底的な善業をなしたならば、その魂は、ね、器をどんどん大きくしていくわけ
だ、そうすると初め、泥の量は同じだとするよ。コップ一杯の水に泥を放り込んだ
と。
ねえ、そうすると、まあマンジュシュリー大師はちょっとひねくれてるから、こ
れコップ一杯に泥を入れたら水がこぼれるじゃないかという、まあジョークが出る
かもしれないけど、まあ、それは別にしてね、ちょうど泥を放り込んだ量がコップ
一杯だったとしよう。このコップ一杯が次は洗面器一杯の水にね、なるように移さ
れたと、コップ一杯の水が。それがプール一杯となり、そして川一杯となり、そし
て海一杯となったら、わたしたちのなしてた悪業の量は同じでも、その悪業の苦し
みというのは大した量じゃないよね、どうかなこれは。わかるか言ってることは。
では、いったい次に善業とは何かと、あるいは悪業とは何かという話になると。
修行者にとって最高の善業というのは、まず、ね、君たちのグルに帰依をすること
であると。これはわかるね、これは仏陀に帰依をするのと同じだ。そして君たちの
実践している真理に帰依をすることであると、これはわかるね。で、帰依というの
は学ぶだけではなくて、実践をすることであると、ね。そしてその帰依は君たちの
場合は出家といっても、例えばお小遣いとかもらってるわけだから、できるだけお
布施をすると。例えば、出家していながら在家の者と同じ楽しみを味わっていたん
では、どうなるかな、いっこうに悪業は消滅しませんよということになると、いい
かな。
そして、十の戒めを守ること、ね。それからね、四月からは、月の、月がね、満
月のときと、それからえー、全く、えー、最もね月が欠けているときね。これはあ
のマンジュシュリーすぐわかるよね。そのときに、あの、ザンゲの会を開こうと考
えている。ね。その理由というのは十の戒めの中のわたしたちの貪り、それから嫌
悪、そして無智といったこの三つのカルマを浄化するための第一の方法、それはザ
ンゲなんだね。
ね、そして、じゃあ次に功徳とは何かといったら、まず殺生をしないで生き物を
慈しむことと。もし殺生をする場合は、ポアできる状態で殺生を行なうと、いいか
なこれは。次は盗みをしないで真理に対する徹底的な布施を行なうことと。いいね、
これは。そして、君たちは出家をしてるわけだから、邪淫を行なわないと、いいね。
返事が小さい。そして、自分を守るための嘘をつかないと、いいね。それから、他
人の悪口を言わないと、いいね。そして必要のない言葉をしゃべらないと、いいね。
そして心においては、人のものが欲しい、あれが欲しい、これが欲しいという貪り
の心を離れなければならないと。それから自分を守るための嫌悪、ね、あいつは嫌
だとか、こいつは嫌だとかいう嫌悪の心を捨てなければならないと、いいね。そし
て真理を真理として認め、そして心をけがすものをけがすものとして認め、けがす
ものから離れ、真理の実践を行なうと、いいね。
そしてこれを行ない、そして君たちの場合は自分たちに返ってこないワークとい
う功徳を積んでるわけだから、功徳を積むと。
ところでだ、これだけでも君たちは第一天界から第六天界に生まれ変わることが
できるんだよ。そして、仏道の修行者はそれを背景として、ね、真理の修行者はそ
れを背景として、もっともっと瞑想に熟達すると。それによって、この欲六界を離
れ、上位アストラル、ね、上位コーザルをぶち抜いて、マハー・ニルヴァーナに入
ることだってできるんだ。いいですか。
仏陀釈迦牟尼のたとえの中にはこのようにいわれていると。ソビエトの書記長、
あるいはアメリカの大統領、あるいは中国の、ね、議長ね、つまり最も偉くなった
人と、あなた方がこれから十の戒めを守り、そして真理の実践を行なうと、功徳を
積むということとの対比はどれほどのものであろうかと、ね。それはちょうど、大
統領、例えばまあレーガンだったらレーガン、ね、今の大統領知らんけど、わたし
は、その大統領の十六倍の、ね、楽しみを味わうことができると、功徳があるんだ
よといわれてるんだよ。そして君たちはその他に、瞑想という心に功徳を生じさせ
る実践を行なっているわけだから、ね、来世は間違いなく天界、あるいはニルヴァ
ーナ、あるいはマハーヤーナ、あるいはマハー・ニルヴァーナといったものが約束
されるだろう。ね。
ではいったい第一天界の四天王、第二天界のトウ利天、ね、第三天界の夜摩天、
第四天界の兜率天、第五天界の楽変化天、ね、第六天界の他化自在天、他化、他化
自在天といったこの六つの世界はいったいどれほどの寿命があるのだろうかと、ど
れほどの享楽を味わうことができるのだろうかと。例えば第一天界の四天王につい
ては、神々の一昼夜は人間の五十年といわれていると、ね、いいですか。
なんかみんなぼーっとして、あー関係ないなーと思って聞いてるんじゃないか、
どうだ。君たちにとって神々というのはあまり関係ない世界か、やめるか。ん、少
ないよね。今日はあまりあの心から欲してない、ないみたいだからやめることにす
るよ。ま、ともかく、君たちの、ね、今の功徳、今の功徳ではダメだよ。今から君
たちが実践して、きちんと戒を守り、そして瞑想に励み、そして功徳を積むと、そ
して智慧の実践を行なうならば、必ず素晴らしい世界が開けることになるだろうと。
それは先程も言ったとおりね、大海の中のほんのひとにぎりの悪業が、君たちが
今までなしてきた悪業になってくるんだよということだ。
……そしてステージが上がってくると、オ、特にオウムの大師方っていうのは心
がどんどん強くなっていくよね。それはどうだ。なぜ心が強くなってくるかという
と、功徳の量が増してくると心は安定し強くなるよね、いいですか。
はい。ではね、えーと、今日は一応これくらいにして、明日ね、あの、地獄の世
界から餓鬼、動物、人間、阿修羅、天界とね、いった、その構造について、そして
それとね、人間世界との対応、これは今までだれもやってないんだけどね、どうい
う要素のもとにどの世界に生まれ変わるかについて、ね、話したいと思います。い
いですか。はい、では終わりにしましょう。
以上 オウム真理教ネットより転載
聖称賛磨蔵
#255
/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 3/25 15:27 (106)
オウム真理教>説法>苦しみを超越する真理の原則1
★内容
苦しみを超越する真理の原則
1991年10月8日 サキャ神賢、初転法輪の地にて
◎真理勝者から真理勝者へ受け継がれる法の輪
これから七十八億年後のこのヴァーラーナシーは、この様相とはまたかなり変わ
って、もっと近代的、そしてそれでいて華麗、そして寂静といった三つの要素を備
えている土地となるであろう。
この、もともと場所は、偉大なる真理勝者であられる、また十力者であられるサ
キャ神賢が、初転法輪を転じられたところである。その初転法輪の内容とは何かと
いうと、苦、苦の生起、苦の滅尽、苦の超越に至る八段階の道と。それと、十二縁
起の法をお説きになった所である。もともとこの地には、偉大なる真理勝者方がよ
くいらっしゃり、そして法をお説きになった。例えば、ヴィパッシー真理勝者がそ
うであり、そしてカッサパ真理勝者がそうであり、先程述べたサキャ神賢真理勝者
がそうであると。そして、これから七十八億という未来際にわたって、マイトレー
ヤ真理勝者がここで同じように法輪を転じるであろう。
で、なぜその法輪を転じることができるのであろうかと。それは、ここに一筋の
データ、つまり真理を説き明かすためのデータが存在しているからである。では、
なぜそれを、今説き明かしてはいけないのかと。それは、現代のわたしたちが、例
えばその法を聴いたとしても、それについて理解・
最終更新:2018年01月06日 20:02