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#159/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 2/17 12:34 (198)
オウム真理教>色別恋人判定法1 J.HOSHI
★内容
光を超えて----えんじょい・はぴねす
VOICE OF BUDDHA 色別恋人判定法 -1-
文/麻原彰晃 尊師
人間として生まれた場合、二つの正しい生き方がある。その二つの中で
最も正しい生き方は、人間としての普通の生き方を経験し、ありのままに
経験を見つめ、超越する。そして、人間としての経験の意味合いをすべて
理解した後、人間の社会を超越するために出家し、心を傾注し、人間界以
上の世界である意識堕落天、行為戯れ堕落天、神聖天、神聖天より高い世
界、非形状界の世界等の一つ一つの世界を経験し、観察し、分析し、超越
し、そして、大到達真智完全煩悩破壊世界へと至ることである。
そして、第二の選択は、この人間世界にありながら、人間世界の要素(
カルマの法則)を学び、検討し、分析し、理解して、よりよい正しい選択
をする生き方である。
『えんじょい・はぴねす』の読者の方々には、この後者の道を示し、そ
の道を皆さんが理解することによって、皆さんによりよい楽しい幸福な人
生を歩いていただきたいと考え、今月からわたしが様々な経典理解と神通
によって経験し精通した、不思議な、そして、ためになる話をしたいと思
う。
それでは、今月は、異性の洋服の色による、「色別恋人判定法」につい
てお話ししよう。
わたしには七百名の出家した内弟子がいる。この内弟子たちは、マスコ
ミでいわれているように未成年の男女がほとんどではなく、成人した、立
派な男女が様々な人生模様を経験した後に、出家してきている。そして、
彼らの人生模様と、彼らが発している心の光とは全く一致するのである。
この相手の発している心の光や、それより少し次元は落ちるが、彼らの
持っている、彼らの習得した知識の光の二つを正確に天眼により見ること
ができるなら、この講話を読む必要はない。
しかし、そのステージに到達するためには、大変楽しいが長い時間をか
けた修行が必要だ。よって、ここではイラストを利用して皆さんの即理解
できる正しい異性の見分け方を話したいと思う。
しかし、いくらこの色彩による正しい異性の選び方の法則を理解してい
たとしても、皆さんの運命というのは、特別な意識レベルの変化がない限
り、カルマの力の方が勝つ。その点はご了承願いたい。
◎光沢は人生の方向を決める
人生の歩き方については、大きく分けて二つのタイプがある。その第一
のタイプは、上昇志向型であり、もう一つは安定型、または堕落型である。
この現象の世界=欲六界(地獄・動物界・餓鬼界・人間界・意識堕落天・
行為戯れ堕落天)において、光や光沢というものは、その人の生きざまを
表わす。例えば、ここに、一人の貧しい若者がいたとして、彼が光る衣装
を身に着けていたり、光沢のある衣装を好むという傾向があった場合、そ
の時点での彼を評価するべきではないのである。なぜならば、彼は、「燕
雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや(小人物には、大人物の心中は到底わか
るはずがない)」タイプの人物であり、生きることに大いに希望を持ち、
自己拡大欲求、上昇志向、そのためには努力をいとわないといったタイプ
だからである。
したがって、このタイプの青年は、あなたが豊かな生活や権力を有した
生活、名誉ある生活といったものを求めるタイプであるとするならば、そ
の願望をかなえてくれる異性としての第一の関門は通過したこととなる。
しかし、このタイプの青年には、当然欠点も存在している。
その青年は、物事を考える場合、一般には連続的思考が最も良いとされ
ているのであるが、その思考ペースから外れ、飛躍的なものの考え方を行
なう。そして、ムラ気であり、快楽型であり、このタイプと結婚を考える
場合、浮気の十や二十は覚悟しておいた方がよい。
また、彼がどの道をたどってこの世において成功しようと志すかについ
ては、彼の好みの色を知る以外に術はないことになる。
◎黒は地獄?それとも欲界の魔王?
黒は最も光を吸収する色である。光を吸収するということは、光の反対
側のものということを意味している。つまり、この黒色は、あらゆる面で
の煩悩的欲求の象徴なのである。そして、これも同じように光を放つ黒(
光沢のある黒)、光を放たない黒の二種類に分類することができる。
光を放つ黒は、煩悩を周りに拡散する。つまり、いろいろな欲望の対象
を周りにばらまき、その欲望の対象に引き付けられたものは、その対象に
よって支配したいと欲しているのである。
ところで、仏教においても、キリスト教においても、マーラ(悪魔)の
存在を経典や聖書によってうかがい知ることができる。わたしは何度もこ
の悪魔の軍勢と対決し、勝ったり負けたりしたものである。
ここで悪魔の本当の正体を皆さんにお話ししたい。この悪魔の正しい意
味は、欲界の王なのである。欲界の王の性質は、自分自身は功徳を積み、
そして高い世界を志向し、そこへ至る。しかし、周りの者の善行や功徳に
対しては、嫉妬し、ねたみ、邪魔をするのである。なぜかというと、彼は、
この欲六界の構成をよく知っており、もし自分以上の功徳を積む者が現わ
れたら、その者の力は強大となり、自分の地位が危うくなるからなのであ
る。
よって彼は自分の配下の魂に対して、いろいろな煩悩を満たすことを約
束し、充足させることによって、その配下の魂を使い、徳を積もうとして
いる魂の邪魔をしたり、あるいは自己の地位を脅かそうとする魂を攻撃す
るのである。
このことからもわかるように、光沢のある黒を好んだり、着用したりす
る青年は、支配欲が強く、権力志向が強く、支配のためには、あらゆる手
段を使うタイプなのである。
ゆえに、一生強い人に依存し、物質的に、あるいは煩悩的に満足のいく
生活を営なみたいと考える人にとっては、この色と光沢を兼ね備えた人は
最高ということになる。
しかし、この光沢のある黒を好む人は愛がなく優しさがない。大変冷た
いのである。よって心の平静と平安はこの青年からは一生得られないであ
ろう。
ところで、一昔前の会社の重役や代議士等が乗る大型乗用車の色が、な
ぜ光沢を放つ黒であったかご理解いただけたと思う。つまり、あの車の色
こそ、欲望世界における支配者の色だったのである。
次に光沢のない黒についてお話ししよう。まず初めに、光沢のない黒を
選ぶ人は、この世で“えんじょい・はぴねす”したいと考えている人にとっ
て天敵である。つまりこの人は死魔にとりつかれ、生命エネルギーが弱く、
物質的傾向が強く、暴力的、排他的であり、大変邪悪な心を有している。
しかし、この人の心は大変平静である。なぜならば、この世において何
の目的も希望もないからなのである。
そして、この黒色こそ、地獄から射し込んでくる光なのである。
ところで、葬式には喪服がつきものである。そして、その喪服は黒と相
場が決まっている。しかし、これは日本だけである。仏教伝来の地インド
においては、お坊さんさえもそのような格好をしないし、また喪に服して
いる人もそのような服を着ない。ではなぜ喪服の色は黒なのだろうか。
これには二つの理由がある。それは昔の霊能者が人の死を見る際、死ぬ
人が闇に入り、黒い光に包まれていくのを千人中九百九十九人見たからに
他ならない。これはほとんどの魂が地獄に落ちることを意味している。
つまり、この喪服の色は最も縁起の悪い色なのである。
◎虹色はエネルギーの強さのバロメーター
読者の皆さんは虹の色が順番にエネルギーの強さを表わしていることを
ご存じだろうか。そして、これは、ヨーガ理論におけるエネルギーの強さ
とも密接に関係しているのである。
それでは、そのエネルギーの強さにおける色の順番をお教えしよう。次
のとおりである。
赤 橙 黄 緑 青 藍 紫(青紫→赤紫)
そして、これは、尾てい骨に眠る根元的生命エネルギーの光、赤。その
光が第二番目のスヴァディスターナ・チャクラにおいて性エネルギーに一
次変換された橙色、その性エネルギーが食事の消化で使われるために、マ
ニプーラチャクラにおいて黄色と変化し、黄色い、消化のために使われて
いるエネルギーが、アナハタ・チャクラにおいて三次変換され、生体活動
エネルギーとして使われる緑色に変化する。そして、神秘的な世界に至る
ためのエネルギーとして、青藍紫と喉で変化するのである。
ただし、一般的には、この順番だけで判断することは大変危険なことで
ある。それは例えば、同じ緑でも、動物界に象徴される妥協の緑と生体活
動エネルギーの緑は、全く別のものであるからである。
◎赤、それは慈愛から怒りまでを表わす
赤には、大きく分けて四つのタイプがある。光を放つ透明な赤、光を放
つ濁った赤、暗いが透明な赤、暗くて濁った赤である。
それでは、これから、この四つのタイプの一つ一つについて説明しよう。
インド仏教の僧衣は赤を基調としている。これは、チベット仏教の教え
がアミターバ(阿弥陀如来)によってとかれたものであるとされ、そして、
チベット仏教の最高の悟りの状態は、アミターバと合一することであると
されているからである。
アミターバのシンボル・カラーは光った透明な赤であり、その意味合い
は、純粋な知性と、慈愛である。つまり、透明な光った赤は、すべての魂
に対する心からの慈しみの心----愛と慈しみ、そして、それを支える知性
ということになる。よって、この色の服を好む人は、知的で優しいから、
安心してついてゆけるタイプということになる。
しかし、この光は、形状界(色界)と密接に関係があるので、結婚して
もいつその人が現世を出離し、出家するかわからないということを付け加
えておこう。
◎光を放つ濁った赤
この光と色彩を好む人は、大変知的ではあるが、性欲の強い人というこ
とになる。このタイプの人との付き合いは、濃厚なセックスだけが二人を
つなぐ強いきずなであり、また、その相手も強いセックス・アピールを有
している。しかし、この人は欲界に属し、感情の揺れが激しく、愛著と嫌
悪といったような両極端の性質を備えているのである。したがって、うま
くいくときは愛著優位になるがゆえにそれでもよいが、いったん関係が壊
れそうになると大変な恐怖を味わうこととなる。
一般に、この色と黒の両方の色を好む場合、刃傷沙汰が多いのである。
◎暗い透明な赤
このタイプの人は大変知的である。しかし、ここでいう知的というのは、
知識コレクター的な知的なのである。しかし、彼には、知識を完全に使い
こなせるだけの徳性は存在しないのである。つまり完全な秀才型が多い。
そして、このタイプは光が強くならない限り、決して出世は望めない。つ
まり、学校で優秀なだけである。もし、こういう彼を持っていたら、でき
るだけ一流企業に就職させるべきである。そこで一つのパートを担当する
のに向いているからである。
◎暗く濁った赤
この色は、まさに性欲の色である。このタイプの色を好む人は誘惑に弱
く、そして無智である。無智であるとは、知的優秀性が存在しないことを
意味しているのである。それゆえに、考えることもできず、情報に流され、
性欲のことだけをいつも考えているのである。したがってこれをお読みの
あなたが、真面目な人であるなら、このようなタイプの人を恋人として選
ぶべきではない。
●
このような形で、各色について四段階に分けて、しっかりと分析してい
くならば、よりよい人生が待っているはずである。他の色については引き
続き来月号でお話することとする。
----以上 えんじょい・はぴねす 91年9月号より
ID:QAA11022 J.HOSHI
#160/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 2/17 12:38 (179)
オウム真理教>色別恋人判定法2 J.HOSHI
★内容
光を超えて----えんじょい・はぴねす
VOICE OF BUDDHA 色別恋人判定法 -2-
文/麻原彰晃 尊師
◎今生はぴねす、来世もはぴねす四天界
仏教には、いろいろな天界の分類法が存在している。その中の一つの分
類法は、天界を四つに分ける方法である。この四つとは、下から順に少光
天・無量光天・汚光天・清光天である。
現代の日本人には、あまり聞き慣れないこの四つの天界の分類法は、サ
キャ神賢の弟子の中で”天眼第一””来世を見る力第一”と称され、サキャ
神賢の大完全煩悩破壊(゚ク槃)のとき、ただ一人サキャ神賢の煩悩破壊の
プロセスを透視し、神々の意向を理解し、それをサキャ神賢の弟子たちに
伝えて実行させた大聖者アヌルッダの分類した方法である。
この四つの天界の意味合いは、
(1)少光天
人間界より高い世界ではあるが徳の差は人間界とあまり変わらな
い神々が住んでいる世界である。この世界の魂の寿命は、煩悩的で
あるか、禁欲的であるかによって違ってくる。煩悩的である場合は
寿命が短く、禁欲的である場合は寿命が長い。
(2)無量光天
この世界の神々は、大変な徳の持ち主である。サキャ神賢が生ま
れたとき、アシタ仙人が、「この魂は、転輪聖法王になり四つの大
陸を統治するか、あるいは真理勝者となり大救世主となる」と予言
したが、アシタ仙人の見た光は、まさにこの無量光だったのである。
しかし、あくまでも光は徳を表わすのであって、その無量光の魂が
どのような生き方をするかは、その光が煩悩的であるか、あるいは
清澄であるかによって違ってくるのである。もし、煩悩的な光であ
れば、転輪聖法王としてその生を活躍するであろうし、もし清澄な
無量光であれば、真理勝者として多くの魂に煩悩破壊させるであろ
う。アシタ仙人がサキャ神賢に教えを乞いたいと真に思ったのは、
アシタ仙人が光の強さは見て理解することができても、光の性質に
ついては、見て理解することができないステージだったからである。
(3)汚光天
天界へ至るためには偉大な徳さえ積めればよい。そして、その汚
光天は煩悩を満たしながら偉大なる徳を積んだ魂の行く神々の世界
なのである。したがって、汚光天の特徴は、功徳の消耗が激しいと
ころである。
(4)清光天
この天界には、真面目な真理に基づいた戒律を遵守する魂が住ん
でいる。また、ここは最も高い天界なのである。なぜならば、魂が
清らかだということは、現象を正確に映し出すことができるという
ことに等しいのである。そして、それは、現象を正確に自己の心の
中に映し出すということであり、その背景に潜む真理の法則を使い
こなすことができるということに他ならない。つまり、真理の法則
にのっとって生きることこそ、最上の天界への道なのである。『転
輪獅子吼経』によると、転の輪宝(この輪宝の所有者は四大陸を統
治することができるといわれている)の意味合いは”利益を引き起
こす最高のものとして、真実を見極める目をもたらす”とある。つ
まり、すべての世界を通して最高のものは、真実を見極める叡智な
のである。そして、この天界の魂は、それを有しているのである。
わたしが、ここで四つの天界の説明をしたのは、色別恋人判定法と深い
関わり合いがあるからである。つまり、天界という上向傾向の世界の魂に
も四つのタイプがあるということなのである。そして、心の清らかな人こ
そ現世においても最高の伴侶となるのだということはいうまでもない。
◎欲界の色、それは橙(オレンジ)
この橙色には大別して光を放つ透明な橙色、光を放つ濁った橙色、暗い
が透明な橙色、暗くて濁った橙色の四種類がある。
この橙色は、純粋に生まれつきの生命エネルギーを表わしており、その
人が性的にどのような生き方をするかを見ることができるのである。
◎光を放つ透明な橙色
インドへ行くと、この橙色の透明感のあるルンギーとガムチャというシ
ルクの布を体に巻き付けている聖者に出会うことがある。この光を放つ透
明な橙色というのは、ヨーガ修行者の到達地点を示しており、これは、本
誌の「宗教は一つの道」の中に書かれている戯れ堕落天の中で、ほんの少
しだけ煩悩を有している魂に相当するのである。
つまり、結婚して楽しい家庭を築きたいあなたにとって、この色を好き
な異性はあまりそういうことに興味がないので要注意ということになる。
しかし、この色は、精力もまた表わしている。性エネルギーを昇華し、
インド・ヨーガの目的であるクンダリニー・ヨーガの成就をするためには、
絶大な性エネルギーが必要なのである。
これは、恋人を性的に十二分に満足、いや飽和状態にさせてくれるほど
の精力と性欲の持ち主だといってもいい過ぎではないほどである。
したがって恋人としては最高だが、結婚相手としては不適格ということ
になる。
また、この色は活動力を表わすから、この異性は活動的、積極的、仕事
熱心と見てよいだろう。
◎光を放つ濁った橙色
前号でもお話ししたとおり、わたしには七百名以上の出家した弟子がい
る。当然これだけの人数がいるわけだから、戒律をしっかり守る人がいる
反面、戒律をあまり守らない人がいても不思議ではない。
そして、戒律をあまり守らない成就者のタイプがこの色を好み、また彼
ら自身この色を放っているのである。彼らは、大変真面目に行を行ない教
団に対する奉仕活動も一生懸命行なう。しかし、もともとこの性欲のエネ
ルギーである橙色に濁りがあるため、完全なる昇華、そして光へと還元す
るプロセスがうまくいかないのである。
よって、活動的ではあるが、性エネルギーを智慧へと還元することがで
きず、知性において欠落が生じるのである。
この光り輝く濁った橙色を好む異性は、精力絶倫、性的に遊び上手、浮
気型異性に優しい、知性はそれほど高くないがプライドは高いなどの特徴
を持っている。
わたしがなぜここで浮気型という言葉を使ったのかというと、実際に浮
気をするというより、イメージの世界においていろいろな異性と交わるこ
とを楽しむタイプなのだからである。
この色を好む異性は一見マイホーム型であり、子供に対する執着も強い
のである。したがって、良き伴侶となる異性に見えがちだが、今述べたよ
うに彼や彼女の行動とイメージが別々に進行しているのだから、行動だけ
を見て安心したら青天のヘキレキの結果を招きかねない。
なお、このタイプの異性に対しては、絶えず綺麗で上品な言葉を語り、
ムードを作ることに心がけるならば、素晴らしい恋愛、素晴らしい結婚生
活が約束されるだろう。
◎暗い透明な橙色
この暗い透明な橙色を好む異性は、性的に潔癖で、禁欲生活を好んだり
恋愛をしたとしても一人の人に集中する。また、平凡な恋愛や結婚生活を
考えている読者諸氏にとって最高の相手なのである。
ただこのタイプは性的に大変淡泊で、体もあまり強くなく、仕事につい
ても、決められたこと以上を望むことは難しいのである。まさに、家を守
る貞節な妻、貞節な夫という感が強い。
このタイプの異性と交際するためには、ただ真面目に、誠意をもって接
するのが一番である。
◎娼婦の色----それは暗く濁った橙色
わたしは今まで十万に近い数の人の相談を受けた。その中には当然会社
の社長もいれば水商売の仕事に従事している方もいた。水商売の中でも特
に娼婦を職業としている人は、決まってこの暗く濁った橙色を放っている
のである。そして、この職業に付きものの堕胎を行なっている人は、その
堕胎した数によって鈍い黒色を放っているのである。
つまり、この暗く濁った橙色は、性的に汚れた色、あるいは、みだらな
色と言い換えることができる。
そして、当然この暗く濁った橙色を放つ異性の生命力は弱く、そのため、
そのエネルギーが昇華され叡智へと還元されることがないため、人生にお
ける直感的判断が鈍り、決して幸福になれないことは確かだろう。
わたしは進路の相談をシークレット・ヨーガという形で受けている。あ
るとき、相談にきたS子さんは、マントル嬢として働き、この十年間、月
に三百万ほど稼いでいたそうであるが、全くお金はたまっていなかった。
わたしは彼女のバルドー(放っている色)を見、彼女のバルドーが暗く
濁ったオレンジ色であることを知ったので、
「あなたは必要のない物を衝動的に買い、それを使わないでため込んでい
るでしょう。」
という話をした。彼女はわたしの言葉によって、ストレスによって衝動的
に物を買い、それによって少しも貯金できないのだということを認識した。
これからもわかるとおり、この色を好む人は、衝動的であり、ストレス
が多く、決して幸福になれないのである。
しかし、娼婦の色イコール暗く濁った橙色でもわかるように、単に性欲
を満足させるための恋人や妻を望むのなら、この色を好む異性でも十分で
あろう。ただ、この異性によって、少なくとも晩年の生活は、何度となく
破局に近い状態が待っていることを疑う余地はない。
智慧ある読者は濁の意味合いについて理解できたはずである。つまり、
この濁りこそはその人のなした経験であり、例えば、暗く濁った橙色といっ
た場合、お金をもらうことが第一の目的の性的サービスを経験としてなし
た。つまり、肉体の快楽をお金のために売ったという経験の蓄積によって
暗く濁った橙のバルドーの色を娼婦の方々は呈するのである。
では現代の一部のフィリピン人の娼婦や江戸時代、借金の肩代わりで遊
廓に身を売らねばならなかった人たちのバルドーの色はどうなのであろう
か?
それは、その人たちの心が父母に対する愛情や、あるいは、自己の利益
にならない娼婦としての生活だっただろうから、この暗く濁った橙色を呈
することはない。あくまでも、自己の金銭的、物質的欲望を満たすために
体を売った人のバルドーの色が暗く濁った橙色なのである。
最後に、この色を好む異性との付き合いにおける注意点をいうなら、彼
や彼女が自己の利益のために身を売ったり裏切ったりするのは当然である
と納得した上で付き合うべきであるということである。
----以上 えんじょい・はぴねす 91年10月号より
ID:QAA11022 J.HOSHI
#161/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 2/17 12:43 (200)
オウム真理教>色別恋人判定法3 J.HOSHI
★内容
光を超えて----えんじょい・はぴねす
VOICE OF BUDDHA 色別恋人判定法 -3-
文/麻原彰晃 尊師
◎光を放つ透明な黄色
成功の背景には、この透明な光る黄色が不可欠である。必ず大事業を成
し遂げた人はこの光を発しているのである。この光の意味合いは、強靭な
意志を持ち、財物の布施を限りなくなしたということを表わしている。
ところで、仏教のシンボル・カラーは黄色である。この黄色は仏教の出
家修行者たちが過去世において強い意志を持ち、大いなる財物の布施をな
したということと、その結果として仏弟子となったときに黄色い衣を羽織
り、強靭な意志を有し、前世の布施の果報として布施を受けるに値するこ
とを表わしている。
また、この光を放つ透明な黄色は、密教部においても、五仏の一つであ
るラトナサンバヴァを象徴する色に数えられている。ラトナサンバヴァは
宝生----つまり、宝を生む仏として礼拝の対象となっている。
したがって、透明な光る黄色を好んで着る人は、意志力が強く、未来に
おいて必ずあなたを成功した事業家の妻にしてくれるんだと確信を持って
いいだろう。
◎光を放つ濁った黄色
光を放つ濁った黄色を着ている人は、気前はいいが貪りの強い、しかも
自己主張の強い人が多い。
もともと、この光を放つ濁った黄色はエゴの象徴として用いられる色で
あり、心の内なる要素を透視すると、確かにエゴは黄色い、少し濁った光っ
た輪として見ることができる。
今から五年前、ある弟子に強烈なイニシエーション(霊的なエネルギー
移入)を行なったことがある。その弟子はもともと貪りが強く、たいへん
自意識が強かった。頭頂からエネルギーを入れると、濁ってどんよりとし
た黄色い輪がずっと見え続けていたのである。
彼は、そのエンパワーメントによって解脱を得ることができた。しかし、
解脱をした後、シャクティーパット(イニシエーションの一種)を信徒に
対して行なった彼は、また煩悩を生起させ、貪りによって現世へと落ちて
いってしまったのである。
ただし、この色は貪り=愛着の象徴であるから、自分自身の気に入った
者に対しては、徹底的に尽くすはずである。したがって、物欲主義的な人
生観を大切にしている人たちにとっては、格好の相手だと思われる。
◎暗いが透明な黄色
この暗いが透明な黄色を好む人は、布施をしない代わりに物欲もなく、
意志の力が強い人である。心には否定的想念が多い。ただし、自分の専門
分野に対しては大変強いものである。
インド・ヨーガの修行者の衣に、ルンギとガムチャと呼ばれるものがあ
る。ルンギにしろガムチャにしろ、一枚の衣で作られており、それをうま
く上半身と下半身に巻きつけて衣とするのである。
このルンギとガムチャの色が、ステージを表わしているんだということ
を、わたしはインドへ行ったときに聞いたことがある。そして、暗いが透
明な黄色は、まさに出家修行者の入門者が着る色なのである。
これはなかなか興味深い。なぜならば、現代のインド・ヨーガの王とい
われているものはラージャ・ヨーガであり、これはまさに精神集中=意志
のヨーガなのである。
そして、入門者が物欲を捨てて出家したこと、また、徳がまだ備わって
いないがゆえに布施を受けられないことを考えると、まさにこの色がぴっ
たりであるといわざるを得ないのである。
よって質素な夫婦生活を営みたいと考えているあなたにとって、この相
手は最適かもしれない。
しかし、この相手は自制だけでなく、他人に対しても制約を加える可能
性が高いことを知っておく必要があるだろう。
つまり、禁欲的な生活を望む相手として最適なのである。
◎暗くて濁った黄色----まさに霊能者の色
暗くて濁った黄色の説明に関連して、愛欲界(欲六界)の構成について
触れておかなくてはならない。なぜならば、現代の仏教徒が、あまりにも
無智なるがゆえに、結果的に諸現象の説明ができないという哀れな状態を
作り出しているからである。
例えば、今週号の『月間宝石』にオウム真理教と幸福の科学に対する批
判記事が載っているのを見た。結局わたしが興味あるところは、オウム真
理教に対する批判内容であったわけだが----まあ、その批判内容は取るに
足らない内容なのでここでは書かないが----ここで登場した佐伯真光氏(
湘南工科大学教授)、浅見定雄氏(東北学院大学教授)の仏教に対する無
智について少し説明したいと思う。
もちろん、浅見氏は旧約聖書学を専攻しているらしいから、仏教の門外
漢であるといわざるを得ないので彼の発言はさておき、問題なのは佐伯氏
の発言である。彼は真言宗の僧侶であり、大学教授であり、仏教徒である
というのに、霊の問題について、
『霊とは何か』(大法輪閣)という本に五十~六十人の宗教学者、仏教
学者がそれぞれ答えを書いているわけです。みんな違うことを言ってい
る。定説はない。結局、仏教は霊というものについては不可知論です。
私もこの意味では不可知論者ですけれども、ただわからないと言ってい
る懐疑論ではなく積極的不可知論者。
と語っているが、これは大きな過ちである。
もともと日本の仏教には餓鬼という言葉があるが、この餓鬼はサンスク
リット語でプレータと表現され、低級霊域を表わしているのである。
彼は、仏教学者として、僧として、そしてインテリゲンチアの代表とし
て、このような発言をしたのだろうが、彼の過ちは大変大きなものであり、
この雑誌を読んだ多くの人に正しくない仏教観を植え付けてしまったであ
ろうことは間違いない。
なぜこの頁においてこの問題を取り上げたかというと、まさに暗くて濁っ
た黄色が餓鬼、すなわち低級霊域の色だったからである。
また、ここで愛欲界の説明をきちんとしておくことにより、完璧な真理
を体現なさったサキャ神賢(仏陀釈迦牟尼)が、いかに正確な言葉を使っ
ていられたかということを皆さんに知っていただきたかったからである。
次にわたしが述べる内容は、わたしの体験が仏典どおりだったというこ
とから、その正確さを裏付けるものである。
今から一年以上前、サマディ(三昧)に入り、死生智に没入していると
き、マハー・ケイマ正大師が第一天界の女神として転生し、わたしの弟子
の一人が餓鬼として転生して彼女に仕えているヴィジョンを見た。
そこでわたしには一つの疑問が生じた。というのは、第一天界の神と餓
鬼とが同じ世界に存在していたからである。
わたしは、常々、仏典の翻訳が完全になされるに従って、わたしのサマ
ディ体験はすべて説明がつくと考えていたが、この体験についても今年に
なってその回答を得ることができたのである。
つまり、わたしが、彼女が第一天界の女神だと、見て直観したのは正し
く、彼女は第一天界の人喰い鬼神の女神だったのである。なぜならば、パ
ーリ仏典のプレータの説明において、”このプレータは低級霊域に存在し、
第一天界の人喰い鬼神に仕える”と述べられていたからである。
ところで、マハー・ケイマ正大師も、昨年の終わりだったか、今年の初
めだったか、自分自身が大変大きな身体を持ち、人を食べる経験をしたと
話していたものである。つまり、わたしの見たものと彼女の経験も一致し
ていたのだ。
また、今から五、六年前の話であるが、わたしの妻であるヤソーダラー
の霊界には、たくさんの俗にいうところの、”かわいい猫”が存在してお
り、彼女の心が乱れているとき、決まってわたしはその猫たちにかまれた
のである。
わたしは彼女の来世を見て、彼女が修行しなければ、来世は猫神様、つ
まり成長天の侍神に転生すると話していたわけだが、それも今年の仏典研
究によって間違いなかったという確信を得たのである。
これからもわかるとおり、まさしく日本の仏教でいわれている餓鬼の世
界こそ霊の世界であり、低級霊界は存在するのである。
そして、それはとりもなおさず、オウム真理教で説いている三界の構造
(図参照・注:すいません本などをご参照ください^_^;)が正しいことを
意味しているのである。つまり、この低級霊域こそ、低位アストラルなの
だ。
したがって、佐伯真光氏のいっている「仏教徒は霊に対して不可知論を
唱える」というのは真っ赤なウソということになる。
また、これはこのような人が僧侶であり、また教授として社会の評価を
得ている日本の実情、つまり仏典研究の遅れにこそ大きな問題があるので
ある。
では、この低級霊域に転生した魂はどうなるのかというと、この魂はい
ずれ地獄、動物界、人間界等へ転生するのである。
仏教は心の表れである。そして、この愛欲界もすべて心の働きというこ
とで説明がつく。
例えば、地獄は正確に訳すと激苦地獄と表現され、これは大きく分けて
三つのパートに分類することができる。
もちろん、これをより細分化することもできるが、それはこの論題と反
するので、この三つの分類法にとどめておく。
第一番目の地獄は、邪悪心を背景とした地獄である。現代的な言葉を使
うならば、激しい憎しみの集積の世界がこの世界であり、これが熱による
激しい苦しみの世界として表現されている。
第二番目の地獄は、冷淡さの集積によって形成されている世界である寒
冷地獄である。この寒冷地獄へ至る魂は。例えば堕胎を平気で行なう女性
だとか、人を冷酷な策略によって陥れる人が行く地獄である。そして、こ
の地獄では寒冷によって激苦を受けるのである。
第三番目は、激しい憎しみや冷淡さはないが、生計を立てるために多く
の生き物を殺す人たちの行く地獄である。この地獄は、剣や針などといっ
た金属の刃物で激苦を味わう地獄なのである。
そして、地獄全体の様相は、これら三つのヴァリエーションで成り立っ
ているのである。
下から二番目の世界は、動物の世界である。わたしがサキャ神賢を偉大
だと感じるのは、動物の世界へ転生すると言わず「動物としての発生」と
いう言葉をサキャ神賢は使っていらっしゃるのである。
この動物としての発生は、動物として生まれ出るということであり、わ
ざわざ魂が人間として生まれる人間世界と区別しているのである。つまり、
同じこの愛欲界に生まれ出るにしても、動物の方がより粗雑であるという
ことを言外に含めているのである。
現代の生物学においても、発生という言葉を使っているのは興味深いこ
とである。
ところで、この動物としての発生へと至る心の機序は、根本的無智を背
景としている。つまり、低級霊域にいた魂が、より具体的満足を得ようと
してこの動物の世界へと発生するのである。
下から三番目の世界が低級霊域である。この低級霊域は、二つの魂の構
成から成り立っている。
第一のパターンは、愛欲を有している魂で、具体的な、例えば動物とし
ての発生とか、人間界とか、はっきりと特徴が固定されていない場合であ
る。
第二のパターンは、具体的な世界よりイメージの世界を好む魂で、愛欲
を有している場合である。前者の方が後者よりこの低級霊域から他の世界
へ転生するスピードは速い。
さて、第四番目の世界は人間界である。よってこれは説明の必要もなか
ろう。
第五番目は意識堕落天である。この意識堕落天は別名巨人族ともいい、
子宮転生である。この世界は、現代の人間世界の理想的なモデルケースと
もいえる世界であり、また宇宙人イコール意識堕落天としても構わない。
愛欲界の最高位に属するのが戯れ堕落天である。この世界は大きく分け
て六つあるが、その一つ一つの説明を詳しくしてもここではあまり意味が
ないので、それぞれの欲望に応じた最高の世界という定義にとどめておき
たいと思う。
例としては、徳を積み、性的欲望を満足させたいと願う魂はナーガ(龍
王)へと生まれ変わり、徳を積み音楽へとふける魂はガンダッパ(鳥人)
へと生まれ変わり、徳を積み食にとらわれている者は人喰い鬼神として生
まれ変わり、徳を積み舞踏を好む人は妖精へと生まれ変わるのである。
さて話を元に戻すが、これらの話からもわかるとおり、濁った暗い黄色
は低級霊域の象徴であり、決して恋や結婚の対象として選んではいけない
相手なのである。
----以上 えんじょい・はぴねす 91年12月号より
ID:QAA11022 J.HOSHI
#162/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/17 22:26 (101)
オウム真理教 七科三十七道品 ウパティッサ
★内容
七科三十七道品
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
梳桎j・ ・ ・ 身は不浄なり ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 受は苦なり ・
・1.・ 四つの記憶修習述 ・・・・・・・・・・・・ 消極的実践
・ ・ ・ 心は無常なり ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 法は無我なり ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 現在悪業断 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 未来悪業断 ・
・2.・ 二正断二正勤 ・・・・・・・・・・・・中程度の積極的実践
・ ・ ・ 現在善業勤 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 未来善業勤 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 信の潜在性 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 精進の潜在性 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・3.・ 五つの潜在性 ・ 記憶修習の潜在性 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ サマディの潜在性 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 智慧の潜在性 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 積極的確立 ・
・ ・ ・ 信の能力 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 精進の能力 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・4.・ 五つの能力 ・ 記憶修習の能力 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ サマディの能力 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 智慧の能力 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 記憶修習覚醒段階 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 検討覚醒段階 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 精進覚醒段階 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・5.・ 七つの覚醒段階 ・ 喜覚醒段階 ・ 覚醒への確定
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 静寂覚醒段階 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ サマディ覚醒段階 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 無頓着覚醒段階 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 正見解 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 正思惟 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 正語 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 正行為 ・
・6.・ 聖なる八段階の道 ・・・・・・・・・・・・ 成就者としての
・ ・ ・ 正生活 ・ フォームを
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 正奮闘 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 正記憶修習 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 正サマディ ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ (正精通) ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ (正離解脱) ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 決意如意の基礎 ・
・ ・ ・・・・・・・・・・・・
・ ・ ・ 精進如意の基礎 ・
・7.・ 四つの如意の基礎 ・・・・・・・・・・・・ 完璧なるタントラ・・
・ ・ ・ 思念如意の基礎 ・ブッダ、あるいは
・ ・ ・・・・・・・・・・・・ーヤーナ・ブッダ
・ ・ ・ 観慧如意の基礎 ・てのフォームの完
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前生からの経験があるから、一概にこの順番で行なわなければならないとい
うことではないが、一応はこの順番で行なえば失敗はないといわれる。
前生で既に途中までのプロセスを終わっている人もいるであろうが、今生の
けがれがあるから、四つの記憶修習述から始めた方が無難ではある。もちろん
前生のステージまでは速やかに修行が進むであろう。そこからが本当の修行の
スタートである。
参考文献 実践真理
蓮華の心
仏教真理・八正道
尊師、聖地インドを行く
#163/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/18 11:12 (115)
オウム真理教 四つの記憶修習述 ウパティッサ
★内容
四つの記憶修習述
“身”“受”“心”“法”の四つにおいて、観察してとどまり、熱心に証智
し記憶修習を持って、世間における貪りと憂いを調伏するのが四つの記憶修習
述である。つまり、心の働きを超越する修行法だ。
この四つの記憶修習述によって、五つの障害を取り除いていくことができる。
例えば愛欲の興奮による障害。身に対する愛欲の興奮については、「身は不浄
なり」で解けるし、感覚の愛欲の興奮については、「受は苦なり」で解ける。
例えば害心に付いては、「法は無我なり」あるいは「心は無上なり」で解ける。
興奮と後悔による障害については、「心は無上なり」あるいは「法は無我なり」
で解ける。疑念による障害・頑固と愚鈍による障害については、この四つの記
憶修習述全体を修行することによって解ける。心が透明になって行くし、自分
でも真実の体験をして行くからである。
四つの記憶修習述のやり方には色々あって、大きく分ければ、単純に否定す
る場合と、否定も肯定もしないで観察する場合と、完全に肯定してそれを超越
する場合という、全く違った三つのやり方に分かれるのだが、そのどれを実践
するかということは、レベルによって違ってくる。ここでは一般的な「否定」
で話を進めて行きたい。
身は不浄なり
この身体はたいへん汚い物である。例えば、我々の体を切り開けば内臓が出
てくる。そして例えばここには心臓があって、肝臓があって、腎臓があって・
・・・ということを、正確に記憶修習するのである。
また、私たちは毎日のように体を洗っているから肉体を綺麗なもののように
感じているが、実際は例えば一カ月もお風呂に入らなかったら体は臭くなり、
垢やふけが出てくる。これはこの肉体がもともと汚い物だからである。
また、普通汚い物と言われる大小便などもこの肉体から出てくる。大小便が
汚いのだったらこの肉体も汚いのは当然である。膿、鼻水、唾液、目やに、耳
かすなどみんな同じである。
そしてそれは自分だけではなく、どの人も同じである。いかに魅力的に見え
る異性の身体も、そのように不浄な物なのだ。
このようなことを記憶修習することによって、自分や他人の身体に対する執
着から離れなければならないのである。
受は苦なり
これは、感覚そのものは苦、楽、不苦不楽という三つの要素があるわけだが、
このどれにとらわれたとしても、私たちの苦というものは増大する。なぜなら
ば、楽という感情の生起が強ければ強いほど、苦という感情の生起は強いんだ
ということが言える。よって、一切の感覚というものに対して検討し、この感
覚から離れるということが第二番目の課題になってくる。
この受とは、単なる感覚のことを言っているのではない。感覚と感覚対象と、
それから生じる心の働きを含んでいるのである。したがって、この受というの
は、まさに五妙欲のことを表わしているのだと言える。
心は無常なり
イメージや意思といったものは、無常を根本としている。
よって、それは必ず苦につながる。よって、それは本当の自分ではない。心
でさえも本当の自分ではないのだから、執着してはいけないのである。
もちろん、他人の心も無常である。よって、それにとらわれないようにしな
ければならない。
法は無我なり
第四番目は、私たちが識別をしっかりなさなければならない対象である、法
則である。この宇宙の法則そのものは、すべては苦しみを生起させるための法
則である。
例えば、この地球にしろ、宇宙にしろ、必ず破壊される。よって、この地球
や宇宙に執着していることは、いずれ破壊を招くわけだから苦であると。ある
いは、それは戯忘の天界にしろ、憤怒の天界にしろ、神聖天界にしろ、同じよ
うに破壊される。よって、そこにとらわれることは、やはり苦しみである。
あるいは、妻や子供に対して愛着すること、一般的には、道徳的には、倫理
の観点から行くと、それは素晴らしいことになっているが、しかしそれも、例
えば子供は巣立ち、例えば妻の心というものは、必ず変化する。これは夫も同
じだと。よって、その法則も苦しみであると。あるいは、父母はどうであろう
かと。父母も同じように愛着すればするほど、父母がなくなったとき大きな苦
しみを受けなければならないと。
このような形で、社会的な一つ一つの法則に対して検討を加える。検討を加
えることによって、それが苦であり、自己本来のものではないことを理解する。
「無我」とは真我(アートマン)ではないということである。
この場合の法則とは、十二の条件生起の段階の、下へ落ちる法則のことであ
る。
つまり、真我の性質は絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜なわけだから、苦しみ
を生起させる法則は当然無我なのである。
参考文献 尊師、聖地インドを行く
えんじょい・はぴねす
#164/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/18 19: 7 (112)
オウム真理教 二正断二正勤 ウパティッサ
★内容
二正断二正勤
少なくとも今いる人間の世界より、意識堕落天や、戯れ堕落天の世界の方が
幸せは多いはずである。意識堕落天や戯れ堕落天よりも、もう少し高い、例え
ば神聖天の方が幸福は多いはずである。例えば、神聖天の世界より、光音天の
世界の方がもっと幸せは多いはずである。光音天の世界より、超越童子天の世
界の方がもっと幸福は多いはずである。
じゃあ、そこへ到達するためには何を為せばいいのか。それは善法を増大さ
せ悪法を減少させればいいのである。
現在悪業断
今捨断できる悪法に対して、しっかりと捨断する。例えば今私は小さな生き
物を殺している。物を盗んでいる。これらに関しては、今日この瞬間を境に、
きっぱりとやめてしまおうと、心に誓い、実践するのである。
未来悪業断
今、捨断できない悪法に対して、捨断できなくても、捨断しようと心に思念
する。
この二正断には自力のものと他力のものとがある。自力の根本を為すものは、
懺悔の瞑想であり、日々自己の身・口・意に対する反省を行なうことである。
このうちの懺悔の瞑想は、未来に生じる悪業の芽をつみとるのに役立つ。また、
何故に懺悔が必要なのかということを知る土台を培う。
日々の真理にかなった反省は、私たちが前生から積んで来ている悪業の力を
弱め、最終的には完全に今生じている悪業を断じ尽くしてくれる。
ところで、もし自己の欠点というもの、あるいは自己の要素の蓄積の組成と
いうものを完全に理解しているなら、自力の修行、つまり懺悔と反省だけでも
要素の蓄積は完全に消滅するはずである。なぜならば、自己の悪業と要素の蓄
積の組成のすべてを懺悔と反省がカバーし尽くすからである。
しかし、これは最終解脱を得るまでは私たちの手中に収めることのできない
手法である。だとするならば、出来るだけ自力の部分でカバーをし、残りを今
の自分のステージよりも高い人にカバーしてもらう以外、完全なる悪業の要素
の蓄積の消滅はないのである。
ところで、カルマを分類するとしたら、何通りに分けられるだろうか?それ
は、大きく分けて三通りである。つまり、身業・口業・意業の三種類である。
身業の要素の蓄積落としの自力的方法としては、「ヴァジラヤーナの帰依」
が最適である。他力的方法としては、グルに与えられた加行を精一杯行なうこ
とによって身体に負担をかけるならば、ある程度解決されよう。
ここである程度という曖昧な言葉を使った理由は、部分的に個人差があるか
らである。その個人差については、一人一人口頭伝授を受ける以外に、あるい
は、直接要素の蓄積落としをしてもらう以外に方法はない。
言葉における二正断の自力的方法は、虚言・軽薄語・悪口・中傷に対する懺
悔及び反省である。
そして、他力的方法は、虚言については、他人の虚言が返ってきたときに、
それを自己の内側に存在する要素の蓄積の現れであるととらえて認める訓練を
するということである。
自分自身の内側に、軽薄語のカルマが多くある場合、物事が現象化しなかっ
たり、遅れたり、あるいは言葉と現象に大きなズレが生じる。これらの現象が
起きたときに、それは自己の内側に軽薄語の要素の蓄積があって、それが顕現
しているんだということを認め、それについて心を動かさない訓練をする--
それが軽薄語の他力的消滅法である。
第三番目の悪口になると、これは直接的である。つまり、直接他人から面と
向かって非難される。非難されたときに非難し返すと何にもならない。せっか
く自己の徳によって自己の要素の蓄積が顕現し、修行者としての心を持ってい
るうちに悪口が返ってくるという最高の条件で要素の蓄積が消滅しようとして
いるのだから、心を動かさないようにして、じっと要素の蓄積の消滅を待つべ
きである。
中傷の要素の蓄積が顕現するとき、必ず他人を介してその情報が自分自身に
伝わってくる。よって、他人を介しての悪口、あるいは仲たがいさせる言葉が
伝わってきたとき、これもまた自己の内側の中傷のカルマが単なる現世果報を
生じたものと認め、喜びこそすれ、その言葉の内容で心を乱すべきではない。
意における愛着、邪悪心、迷妄については他心通を持ったグルの適切なアド
バイスなしには、完全に消滅させることは出来ない。よって、グルとの縁を深
く結ぶ修行をするとともに功徳を全力で培うべきである。そうすることによっ
てのみ、完全な心の浄化が起きるのである。
現在善業勤
今為せる功徳の実践を行なう。
未来善業勤
今なす事のできない功徳に対して、一生懸命その功徳が為せますようにと思
念し続ける。
ヴァジラ ナマ マハーグル アサハラ シヴァ サティアン
参考文献 マハーヤーナ
真理の芽
えんじょい・はぴねす
マハーヤーナ・スートラ
番号またはコマンド<FM>(M,S,F,H,Q,RBn,SCn,+n,-n,W,RP,RV,RT,TLn,AP,PF,J)=RB169-269
#169/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/19 11:19 ( 61)
オウム真理教 五つの潜在性と五つの能力 ウパティッサ
★内容
五つの潜在性と五つの能力
善法を増大し悪法を減少させれば確かにそれは来世高い世界へと導いてくれ
る。しかし次の生の保証はない。さらにそこからジャンプするためにはどうし
たらいいのか。それは広大な真理の体系、絶対的な自由・幸福・歓喜を与えて
くれる真理の体系に対して、しっかりと縁を作ることである。
この潜在性と能力の関係とは何なのかというと、ポテンシャルとアビリティ
ーの関係である。例えば信といっても、最初は小さな信しか持てない。そして
何の結果も得られない。しかし、その信の度合いがある一定のラインを超える
と、それが信の能力へと変化し、様々な果報を生み出すこととなるのである。
信の潜在性と信の能力
まず第一に信の土台、潜在性を作ることである。そして、次の生も、次の生
からその次の生へ転生するときも、その信の能力によって、しっかり転生でき
るくらいの土台固めをするのである。
精進の潜在性と精進の能力
次は、その得た信を帰依に変え、その教えをできるだけ実践する。努力する。
記憶修習の潜在性と記憶修習の能力
そして、その教えを学び、検討し、努力するだけではなくて、教えを繰り返
し繰り返し記憶修習する。そして、記憶修習した後に記憶実践する。
サマディの潜在性とサマディの能力
そして次には、その記憶修習、記憶実践したものを土台として毎日しっかり
思索し、そして最終的にはその思索のない状態で色々な世界を経験し、色々な
考え方を経験し、自分の視野を広める。
私たちは普通は人間界と動物界を検討することしかできない。しかし、サマ
ディに入ることによって、私たちは、地獄、動物、餓鬼、そして意識堕落天、
戯れ堕落天、神聖天、あるいは神聖天以上の世界を検討することが出来るはず
である。
智慧の潜在性と智慧の能力
サマディで生じた色々な智慧を土台として、自分の人生をはっきりと決定す
る。この段階では、ある程度神秘的な力が備わり出す。
参考文献 尊師、聖地インドを行く
マハーヤーナ
マハーヤーナ通信
#170/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/19 20:11 (120)
オウム真理教 七つの覚醒段階 ウパティッサ
★内容
七つの覚醒段階
これは自分達の目覚めつつある覚醒状態をよりいっそう確定させていくため
の修行である。例えば、この前の五つの潜在性と五つの能力というものは、覚
醒のドアを少し開いた段階に相当する。
よって、これを完全な形で開くためには、七つの覚醒段階の修行に入らなけ
ればならない。それは、その覚醒そのものが自分自身をダメにする、あるいは
自分自身をなくすのではなく、自分の本質的な部分に到達するんだということ
をしっかりと認識した上で行なわなければならない。
七つの覚醒段階のベースは、戒を守ることである。ゆえに、七つの覚醒段階
は、「戒により、戒に立つ」といわれるのである。
そして、この戒をベースに、各覚支を修習することによって、三つのグナを
シャットアウトしていくのである。
心の本性というものは、それぞれ真理勝者の本質を持っているわけで、心の
覆いをいかに取り除いていくかということが、仏教的修行である。心の覆いを
取り除いてビビッドな状態、リアリティーに心を持って行くのである。そのた
めに五つの障害を一つ一つ外して行くのが七つの覚醒段階なのである。
七つの覚醒段階を聖なる八段階の道と絡めて繰り返し修行するならば、すご
い力となるに違いない。
七つの覚醒段階は、真理に基づいて作意するということがポイントである。
記憶修習覚醒段階
まず、しっかりと覚醒に対する記憶修習の徹底を行なう。
今まで行なってきたのは、智慧に到達するための記憶修習であった。
しかし、次に行なうのはそうではなく、完全なる覚醒に至る為の記憶修習で
ある。
検討覚醒段階
その場、その時間、あるいは条件に合わせて、どのダンマを実践するのかと
いうことをしっかりと理解しなければならない。
例えば、奉仕行の時はそれにあったダルマを実践しなければならないし、極
厳修行の時はそれにあったダルマを実践しなければならないし、リトリート(
独房)修行の時はそれにあったダルマを実践しなければならないし、あるいは
在家の場合は在家にあったダルマを実践し、出家の場合は出家にあったダルマ
を実践しなければならない。あるいは、ステージに応じてもダルマを変化させ
なければならない。よって、ダルマというものは多く知っていなければならな
いし、多く定着させておかなければならない。これが二番目の覚醒段階の要素
である。
精進覚醒段階
次はその決めたダルマに対して徹底的に努力する、いかなることがあっても
努力すると思い、それを実践することである。
喜覚醒段階
そして第四番目は、それを実践するとき、必ず実践する前に大いに喜び、実
践しながら喜び、実践が終わったあとも、またやるぞと喜ぶ。ここは特に大切
である。何故大切かと言うと、その覚醒しかかっているドアを完全に開くのか、
あるいは閉じてしまうのかは、この四番目、五番目で決まってしまうからであ
る。そこにもし喜びの修行というものがなければ、恐怖のあまりそのドアを閉
めてしまうだろう。しかし、この喜びの修行がしっかり定着していれば、それ
をしっかり開くはずである。
私たちの行動というのは、常に心が喜びを感じる方向へと向かう。この喜覚
醒段階と静寂覚醒段階の修行によって、私たちの方向性を規定させるのである。
静寂覚醒段階
これも同じである。そのダルマの実践によって、心に静寂がもたらされるん
だというデータを常に入れ続ける。そして実際にたいへん静かな心の状態が訪
れることによって、よりいっそう修行が好きになって行くわけである。そして、
長いサマディに導かれるようになってくる。
サマディ覚醒段階
そして、ここまで来ると、次は私たちのナーディーのしっかりした浄化、そ
して覚醒を安定させるという修行に入っていく。
そして、このナーディーの浄化、覚醒を安定させる修行にはいると、おのず
と第四のサマディに入り、そして空間無辺境、識別無辺境、無所有境、非認知
非非認知境、そして経験の滅尽へと心は向かうのである。
無頓着覚醒段階
そこでなされているサマディにおいて、一切頓着してはならないし、それか
ら恐怖をしてもならない。これは、自然と経験させられていくプロセスだから
である。
参考文献 尊師、聖地インドを行く
マハーヤーナ
真理の芽
蓮華の心
マハーヤーナ通信
約束の大地
タターガタ・アビダンマ 第一誦品
#171/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/21 14: 2 (143)
オウム真理教 聖なる八段階の道1 ウパティッサ
★内容
聖なる八段階の道
聖なる八段階の道の実践は、私たちの五つの集積(形状-容姿、感覚、表象、
経験の構成、識別)の形成に大きな影響を与え、そして未来際において覚者と
して生まれ変わるための土台を作り、五つの集積を変化させていく。
覚者サキャ神賢の教えというのは、一つの事象を縦横無尽に斬って、それを
弟子達に分かりやすく説いている。例えば、正しい見解というのは、四預流支
の第二番目のひたすら学ぶ、多学の弟子になるという意味である。第二番目の
正しい思索は、四預流支の中の三番目、真理にのっとり考えるということであ
る。そして、それから先の正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい奮闘、
そして正しいサマディというのは、これは全て真理の実践、第四番目の預流支
ということになる。
また、七科三十七道品において、「記憶修習」、「精進」などだぶる言葉が
ある。これは、同じ意味合いであるとも言えるし、また段階的なレベルの違い
があることも事実である。
また、七科三十七道品は一般には小乗の修行と言われるが、実際には大乗、
秘密金剛乗的なものも存在する。オウム真理教はすべての乗を含んでいるため、
説明の中にも大乗的・秘密金剛乗的なものが含まれていることをご了承頂きた
い。
正見解
これは正しい見解を具足するということである。この正しい見解を具足する
とはどういうことかというと、私たちが生まれてから修行に入るまで培って来
た正しくない見解、つまり俗にいわれる現実的な見解を離れ、真理にのっとっ
たデータを入れるということである。それは、私たちを真に苦しみから解放す
るデータということになる。
ヨーガ派と仏教の違いはここにある。ヨーガ派は、自分の考えというものを
重んじる。よって、ずれることがあるし、魔境に落ちることも多い。
しかし、仏教というのは覚者、過去の覚者等がお説きになった偉大なる教え
を記憶する。それによって、次の正しい思索が出来るようになる。
これはちょうど、正確な図面を記憶し、その図面にのっとって何かを作り上
げるというのと似ている。確かに試行錯誤することによって作り上げた物は、
その努力というプロセスにおいて価値は存在するかも知れない。しかし、でき
上がった物がベストであるかどうかは別問題であるし、時間もかかる。
もし、今まで多くの人達が練り上げた最高の図面というものがそこに存在す
るとするならば、それを使って作り上げた方がより早く、よりいいものが出来
るはずである。よって、正見解の土台には教学をおかなければならないのであ
る。
正思惟
第二番目に、正見解に基づいて正思惟する。
この正思惟においては、愛著・邪悪心・迷妄といった三つの要素をできるだ
け減少させるように努め、慈愛・聖哀れみ・聖称賛・聖無頓着といった四つの
要素を培う。これを日々修習しながら、第三段階の正語の実践に入っていく。
例えば、私は今日これこれの喜びを持った。しかし、この喜びが強まれば強
まるほど、それをやめなければならないとき苦しまなければならないんだと思
惟する。これは愛著に対する捨断の瞑想である。
私はこれこれに嫉妬した。しかし、この嫉妬は他を傷つけようとする心の働
きから出ている。これは当然、自己の心を傷つけることになるし、それによっ
て発されるヴァイブレーションによって相手を傷つけるようになるだろうと思
惟する。これは邪悪心の捨断である。
例えば、私は今日教学をせず、ぼんやりとテレビを見ていた。しかし、この
テレビは私たちに何の利益を与えるわけではない。しかし、真理の教えの教学
は私たちに正しい見解を与え、私たちの知性を向上させるんだと考える。これ
は迷妄の捨断である。
このように愛著・邪悪心・迷妄といった三つを完全に捨断すること。そして
四つの無量心の要素を培うこと。それを日々行なう、これが「正思惟」である。
正語
この正語は、虚言・軽薄語・悪口・中傷という四つの口のカルマを積まない
ということである。四つの口のカルマを積まないことによって、喉のプラーナ
を左でも右でもなく、中央の気道に導くということである。例えば、悪口、中
傷といった怒りを含んだ言葉を連発していると、喉の右の気道が炎症を起こす。
熱優位となり、そこで詰まるのである。ちょうどそれは、ゴムがあり、そのゴ
ムが熱され、それがピッタリとくっついた形を考えたら分かる。そこでナーデ
ィーは完全に詰まってしまう。逆に、虚言や軽薄語といったタマス傾向の言葉
を発すると、左の気道のプラーナの流れがゆっくりゆっくり流れるようになり、
必要なエネルギーが満たされないということになる。そして、愛をもって真実
を正しく語るなら、プラーナは中央の気道をスムーズに流れるようになる。こ
れが正語の意味合いである。
正行為
この正行為とは、殺生を離れ、窃盗を離れ、愛欲における邪悪な行為を離れ
る。例えば、我々が誰かと触れあったり喋ったりすると、そこでデータの入れ
変えが起きる。これと同じで、例えば殺生をすると、相手の苦しみのデータを
受けることになる。窃盗、愛欲における邪悪な行為についても同じである。と
いうことは、結局この殺生を離れ、窃盗を離れ、愛欲における邪悪な行為を離
れるということは、まず私たちが苦しみのデータを自分の五つの集積に蓄積し
ないということを意味している。そして、生き物を慈しみ、人にものを施す心
を持ち、そして愛欲における邪悪な行為を離れ、真に人を慈愛する事が出来る
ならば、そこには喜びのデータの蓄積が始まるのである。
正生活
この正しい生活とは、日々七つの覚醒段階の実践を行なうこと。つまり、ひ
たすら真理のデータを入れ、ニルヴァーナへ向かってベクトルを向けるという
ことである。例えば修行を為していて苦しいと考えるのではなくて、楽しいと
考える。経典を読んでいて、嬉しいと思う。つまりこれは喜覚醒段階である。
あるいは、普段からリラックスし、修行において心身の軽快さを感じる。これ
は静寂覚醒段階である。あるいは、今何が出来るのかということを絶えず考え、
その時と場所にあった真理の実践を行なう。例えば、奉仕活動の時は奉仕活動
に集中し、例えばマントラが唱えられるときはマントラに集中し、教学できる
ときは教学に集中するという実践を行なう。これが検討覚醒段階である。ある
いは、ひたすら一つの記憶を入れ続ける。これは記憶修習覚醒段階。つまりデ
ータの入れ替えである。そして、どんなに辛くてもひたすら努力し続けるとい
う精進覚醒段階。
これらは、すべてサマディに導かれる。そして、いかなる状況であろうとも、
頓着しない心を身につける。今苦しんでいることは、過去と過去世の幻影であ
るということを理解し、今にとらわれず、今にとらわれず、今なさなければな
らない修行に没頭する。この七つの覚醒段階の修行を日々行なうこと。これが
正生活である。
在家の場合は、ここに七つの善行がくる。
七つの善行とは、
1.生き物を殺さず慈しむ
2.物を盗まず施す
3.愛欲における邪悪な行為をせず、真愛を持って人に接する
4.嘘をつかず、正しく優しい言葉のみを語る
5.一日一食で過ごす。
6.粗末な寝床に寝る
7.貪らない
#172/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/21 14: 5 ( 89)
オウム真理教 聖なる八段階の道2
★内容
正奮闘
゚ク槃しがちになる自己の意識を叩きながら、よりいっそう努力をし、すべて
の生命体のために自己がここに存在し、そして全ての生命体のために真理の実
践を行なうんだということを心に思念し続けながら、第六番目が始まる。
これは、今自分の出来ない事柄に対してよりいっそう努力する、奮闘する修
行である。これによって完全に悪法を断じ、善法を増大させて、正記憶修習へ
と入っていく。
正記憶修習
この正記憶修習というのは、例えば自分が為さなければならない瞑想を、十
万回、あるいは100万回といったレベルで、何度も何度も記憶する。なぜ何
度も何度も記憶するのかというと、これが一定の回数になると、私たちの表層
意識から潜在意識に入り、そして潜在意識から超潜在意識へとデータが流れて
行くからである。そして、この正記憶修習を為して、私たちが深い意識へ到達
したとき、その正記憶修習を為したものが、乗り物となり、私たちを色々な神
秘の世界へと案内するのである。ということは、正記憶修習のなされないよう
な瞑想というのは、私たちに利益を与えないということになる。あるいは、単
に勤行だけにいそしんで、つまり読経だけをしている場合は、これはその後の
寂止、正観の正サマディというものがないから、これも正確に観察できないと
いうことになる。つまり、詩章、あるいはマントラ修行というものがあって、
始めてその次の寂止、正観のサマディに入ることが出来るわけである。そして、
このマントラ修行、詩章の修行だけではなく、日々の生活において、心・言葉
・行為の統御をする。
つまりこれは、より諸現象の実態を正確に捕まえるということである。それ
は例えば四つの記憶修習述がそうであり、色々な瞑想がそうであり、詩章やマ
ントラがそうであり、あるいは天界に対する思念や、人間界に対する思念や、
解脱に対する思念がそれである。
そして、実際ここでの記憶修習は、よりいっそう高い段階での記憶修習であ
る。つまり、サマディとはなにか、あるいは世界とは何か、あるいは止滅とは
何かといったような、最後の最も高い記憶修習の段階に入り、そしてそれに基
づいてサマディに入る。
正サマディ
正記憶修習により、その世界を経験するのが八番目の正サマディである。
しかし、サマディというのは決してかっこいいものではない。それは、日々
その人が修習している要素が現れるに過ぎないからである。よって、その前の
正記憶修習によって、高い世界のデータを根付かせることが大切になって来る
のである。
正精通
日本の仏教は正サマディ(正定)までしか説かないが、実際はその先は当然
存在する。なぜなら、サマディは結果ではなく、入口なのである。つまり、サ
マディによって如実に経験するのである。これが正精通である。
自然と呼吸が止まり、静止し、そこから色々な体験が始まる。例えば、歓喜
・喜・静寂・楽・サマディというプロセス、あるいは神足・天耳・他心・宿命
・天眼・漏尽という六つの神通力。これらのものを経験していくこと。これが
「正精通」である。
正離解脱
正精通によって、全ての世界、全ての原則の真の意味合いを理解し、すべて
の現象が苦であることを本当に体得し、そしてその原則から離解脱するのであ
る。
これが聖なる十段階の実践である。
これらの実践は一見難しい。しかし、日頃の少しずつの蓄積によって、少し
ずつ少しずつ変化し、そして気付いたときには大きな変化を来たしているので
ある。
参考文献 尊師、聖地インドを行く
約束の大地
真理
仏教真理・五蘊無我
#173/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/21 20:38 ( 85)
オウム真理教 四つの如意の基礎 ウパティッサ
★内容
四つの如意の基礎
この四つの如意の基礎というのは、この世を意のままに生きて行くための私
たちの乗り物である。この四つの如意の基礎を実践するならば、この現象にお
いて、意にかなわないことは一つもない。
解脱のプロセスとしては、離解脱した後、自分がどのようなタイプのブッダ
として本格的な救済を始めるかのフォーム形成のプロセスということになる。
決意如意の基礎
これは、対象に対して決意する。例えば自分自身はこのような救済者になろ
うと決意する。例えばある人は、私は解脱をしたい、私は解脱をしますと思念
する。ある人は、私は神通を得たい、私は神通を得るぞと決意する。ある人は、
私は大いに功徳を積んで、素晴らしい結婚をしたい、私大いに功徳を積んで、
素晴らしい結婚をしたいと思念する。ある人は、私は大事業家になりたい、私
は大事業家になりたいと思念する。これが決意である。
精進如意の基礎
この精進には、四つのカテゴリーがある。第一は、今為している、智慧を増
大させるための修行--これをよりいっそう実践する。
例えば、布施の実践を行なっている人は、私は布施の実践をするぞ、私は布
施の実践をするぞ、もっともっと布施の実践をするぞと思念する。例えば、奉
仕の実践を為している人は、私は奉仕の実践をするぞ、私は奉仕の実践をする
ぞと思念する。例えば、真理施を為している人は、私はもっと多くの真理施を
するぞ、私はもっと多くの真理施をするぞと思念する。
そして第二番目のカテゴリーは、今自分の為していないものに対して、未来
に対して思念を加える。例えば、今私は財施の実践をしている。しかし、奉仕
の実践をしていない。よって、奉仕の実践をしようと。あるいは、今私は布施
と奉仕の実践をしている。しかし、真理施の実践をしていない。よって、功徳
を増大させるために、真理施の実践をしようと考える。
そして、例えば、布施は自己の貪りの心を取り払い、結婚相手も貪りのない、
自分を自由にしてくれる素晴らしい相手に巡り会うはずであると考える。ある
いは、煩悩と神通は表裏であるから、布施により貪りが消え、功徳が増大した
なら神通が現れるだろうと、こう考えながら実践する。
そして次は、為してはいけないことを捨断する。例えば、私は今殺生はして
いない。しかし、盗みをしてしまう。これを捨断する。あるいは、私は愛欲に
おける邪悪な行為でエネルギーを漏らしている。このエネルギーを漏らさない
ようにしようと、そこでピタッとやめる。あるいは、私は殺生、窃盗、愛欲に
おける邪悪な行為、虚言はやっていないんだけど、軽薄語が多い。よって軽薄
語をやめようと実践する。
これが、四つのカテゴリーである。そして、第一番目の決意に合わせて、こ
の四つを実践する。
思念如意の基礎
次は、日々集中し続け、完全に確定させる。
たとえば、私はこれだけの財施・奉仕・真理施・戒律の遵守を行なっている
と。よって、私の目的は絶対に達成する。これはグルの祝福、シヴァ大神の祝
福があって当然であると、こう思念し続ける。この思念も、例えば一万回、五
万回、十万回と思念する。
観慧如意の基礎
そして最終的には、自己の今の状態と目的とのギャップを検討しながら、観
慧によって完成させる。
これは、自分自身の修行を振り返り、それを経典にのっとり考える。例えば、
私は確かに決意・精進・思念の修行をしてきた。しかし、もう一歩ハイレベル
の修行にはまだ没入していない。それは、例えば執着が存在しているからであ
ると。では、どのようにしたらいいかと、それについて経典を探し、あるいは
正悟師や師に相談し、その部分を解決するようにする。
要するに観慧とは、智慧によって現象を観察し、それを解き明かすというこ
とである。
参考文献 マハーヤーナ
真理
実践真理
#174/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/24 20:21 ( 76)
オウム真理教 六つの徹底≠P ウパティッサ
★内容
六つの徹底
六つの徹底は、段階的な修行です。まず布施の徹底が出来なければ次の持戒
の徹底は出来ませんし、布施・持戒の徹底が出来なければ次の忍辱の徹底はで
きません。逆に言えば、何の障礙もなく持戒が守れるという人は、既に布施の
徹底を成就しているということが言えるわけです。
これは、在家に最適な解脱法と言われています。
布施の徹底
帰依・慚愧・善なる布施の法則
これらを善き人は求める。
これは天の道と言われ、
これによって天界に赴く。
「ダーナ・ヴァッガ」より
私たちが修行をする上で、まず修めなければならないのが、布施のステージ
です。
布施には財施、安心施、真理施の三つの布施があります。
財施とはお金や物などの物質的な布施。また、奉仕作業などもこれに入りま
す。この物質的な布施とよく似た言葉に献金というのがありますが、献金と布
施の違いは、献金というのは「これこれのために使って下さい」と目的を指定
して施すわけですが、布施というのはその使い道は全て相手に任せます。
もっとも功徳になる財施は、三宝に対する財施です。
次に、貧しい人に対する財施が来ます。
間違った教えに対して財施をした場合、それは功徳になるどころか逆に悪業
になってしまいます。
安心施とは、安心を布施する。これは、苦しんでいる人の話を聴いてあげて、
その苦しみを取り除いてあげるということです。つまり精神的な布施です。そ
してこれは五戒と表裏ということが出来る。つまり五戒を守ることによって相
手にも精神的な安らぎを与えることが出来るということです。
真理施とは真理を布施すること。つまり、まだ真理を知らない人に、真理は
ここにありますよと示してあげることです。
これも、真理ではない教えを広めた場合は、かえって大きな悪業になってし
まいます。
布施というのは、エネルギーを強める働きがあります。例えば布施をすれば
相手は喜ぶ。そうすると、その喜びのヴァイブレーションがこちらに伝わって
くる。それは時や空間を隔てていても喜びのヴァイブレーションは伝わってく
るのです。その喜びのヴァイブレーションというのは自分の心を豊かにしてエ
ネルギーを強めるわけです。
つまり、布施というのは結局は自己利益につながるわけです。
実際、布施の効果というものは想像以上にものすごいものです。オウム真理
教においては、布施した途端に物事がうまく運ぶようになったとか、障害が取
り除かれたとか、そういった例はもう枚挙に暇がありません。そして、この布
施の効果というものは、雪だるま式に大きくなっていきます。
また、布施は私たちの貪りの心を滅する上でも大きな意味があります。
#175/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/25 10:37 (196)
オウム真理教 六つの徹底 2 ウパティッサ
★内容
持戒の徹底
布施でエネルギーを強めても、それを漏らしてばかりいたのでは何にもなり
ません。持戒を守ることによって、エネルギーを漏らさないようにします。
ここでは、代表的な在家の五戒と出家の十戒をご紹介しましょう。
五戒
1.殺生をしてはならない
向煩悩滅尽多学男達よ、殺生を行ない、修習し、何度も繰り返して実践
するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、
殺生の結果、たいへん速やかに、人間は短命へと導かれるのである。
「ダーナ・ヴァッガ」
これにはもちろん、殺生だけではなく、暴力なども含まれます。
もちろん、小さな虫なども同様です。これは地獄に導かれる因となります。
まず、殺生という行為の背景にある心の働きについて考えてみて下さい。必
ず邪悪心からくる怒り、あるいは冷酷な心があるはずです。また、殺された方
は、どんなに小さな虫でも、あるいは動物でも、死ぬときに恐怖や苦痛を味わ
うことは間違いありません。
そのことを確認した上で、「要素の蓄積の法則」に当てはめて考えてみまし
ょう。こういう場合に、どういう要素の蓄積が返ってくるか、ということにつ
いてです。
生きている間に、カルマが返ってくるとしたら、それは為したことが返るの
ですから当然苦痛、痛み、肉体を傷つけられることとして返ってくるのだとい
うことはわかりますね。例えば自己で怪我をしたりとか、メスで体を切り刻ま
れたりということによって。それから、怒り--これは熱エネルギーですから
火傷をしたり、反対に冷酷な心の現れとして、凍傷になったりということの起
こる可能性もあります。
そして、「類は友を呼ぶ」--その言葉通り、殺生の要素の蓄積のある人の
周囲には、同じように殺生の要素の蓄積を持ち殺伐とした心を有している人間
が集まるものなのです。ですから、安らぎのない悲惨な人生を歩まざるを得ま
せん。
このような殺生は、殺生を為した本人を様々な苦痛の中に放り込むのです。
けれども、生きているうちに返ってくるのは、まだ幸せな方だと言えるでし
ょう。死んでからだとしたら、地獄へと落ちてしまうのですから。
一般的に「地獄へ落ちる」と言いますが、実は、これは地獄へと生まれ変わ
るということなのです。ここでも「類は友を呼ぶ」--同じ要素の蓄積を持つ
魂が集まって地獄という世界を形成しているのです。
地獄は決して“お話”の中にだけある世界ではありません。修行ステージに
よっては、自分でそこに行って確かめることが出来るのです。したがって高い
世界への転生を望む人、解脱を望む人、幸福に生きたい人は、決して殺生をし
ないように気をつけましょう。もちろん暴力もです。
では、もし既に殺生の要素の蓄積を積んでしまっていたとしたら、一体どう
したらよいのでしょうか?
そこで出てくるのが、懺悔をする事なのです。しかし、懺悔によって、要素
の蓄積はめでたく消滅するのか、といったら、残念ながらそうではありません。
要素の蓄積は必ず返ってきますし、それを無頓着に受けるしかないのです。た
だ、要素の蓄積の返り方が違ってきます。それは、本人がつぶれてしまわない
ような、修行に何らかのプラスになるような形で返ってくるのです。その理由
としては、懺悔を受けた成就者が要素の蓄積の一部を背負ってくれることや、
懺悔をするという心の働きが、殺生の背景となっている邪悪心、冷酷さという
ものを弱めてくれるということなどが考えられると思います。既に殺生の要素
の蓄積をつくってしまっている人は、出来るだけ早く、心からの懺悔をするよ
うにして下さい。
なお、殺生をしないというだけではなくて、反対にすべての生き物をやさし
く慈しむなら、これは功徳となります。功徳は高い世界へと飛翔するための大
きな力であり、修行を進めるためのエネルギーとなるものですから、殺生をし
ないということともに、すべての生き物をやさしく慈しむという実践もしまし
ょう。他の生き物のために。そして、他ならぬ自分自身のために。
2.窃盗をしてはならない。
向煩悩滅尽多学男達よ、窃盗を行ない、修習し、何度も繰り返して実践
するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、
窃盗の結果、たいへん速やかに、人間は財産の損失へと導かれるのである。
「ダーナ・ヴァッガ」
窃盗という行為の背景には、当然愛著という心の働きがあります。また、窃
盗によって愛著という心の働きは強められます。そしてその行為と心の働きは、
餓鬼界に落ちる因となります。
この世においても、窃盗は財産の損失を招きます。
人の心というものは、必ず、その人の所有している物に対して愛着している。
ということは、他の者の所有物を盗むということは、その人に、その執着から
くる苦しみを与えることになる。よって、窃盗をした段階で、その持ち主の苦
しみが伝わってくることになる。そして、これは、逆に自分の物を奪われると
いう形で苦しまなければならないのである。よって、他に対して物を施し、盗
まないということは、これは誰の利益でもなく自己の利益なのである。
3.愛欲における邪悪な行為をしてはいけない。
向煩悩滅尽多学男達よ、愛欲における邪悪な行為を行ない、修習し、何
度も繰り返して実践するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界
に導かれる。そして、愛欲における邪悪な行為の結果、たいへん速やかに、
人間は敵の恨みへと導かれるのである。
「ダーナ・ヴァッガ」
在家の場合、配偶者、もしくは本当に愛している者との性的行為は認められ
ていますが、配偶者以外との性的行為、もしくは単に愛欲による性的行為は悪
業となります。オナニーもダメです。
性欲にとらわれている場合、必ず人間界以下に生まれ変わります。
性欲により、他の同姓に対して邪悪心を持っていた場合、地獄に生まれ変わ
ります。
性欲プラス食欲に翻弄されていた場合、餓鬼界に生まれ変わります。
性欲と恐怖心は関係があります。性欲が出る度に妥協し、性的行為を行い、
エネルギーを漏らすことによって恐怖心を生起させていると、妥協と恐怖の世
界である動物界に生まれ変わります。
これらの要素がなく、純粋に性欲だけにとらわれている場合、人間界に生ま
れ変わります。
4.虚言をしない
向煩悩滅尽多学男達よ、虚言を行ない、修習し、何度も繰り返して実践
するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、
虚言の結果、たいへん速やかに、人間は偽りへの中傷へと導かれるのであ
る。
「ダーナ・ヴァッガ」
嘘をつくと、タマス(迷妄)のエネルギーが強まります。3グナ(ラジャス
・タマス・サットヴァ)のエネルギーというのは、ラージャ・ヨーガを成就す
ると実際に視覚的に見えるようになるわけですが、このエネルギーはたいへん
美しいのです。そのため、嘘を付く人はタマスのエネルギーによって非常に綺
麗に見え、その人の本質が外部からは見えません。しかし、外部から中が見え
ないのと同様に、その人自身も外部のことを正確に理解することが出来なくな
ってしまいます。
また、ものを覆い隠したいと考える心の働きが増大されることによって、私
たちの要素の蓄積の顕現化は遅くなります。要素の蓄積の現象が遅れると、要
素の蓄積の理法が理解できなくなり、悪業を多く積むようになります。そして、
結局その悪業が現象化するときには、取り返しのつかないような要素の蓄積の
精算となっているというわけです。
よって、真実を語るということはすべてのものの現象が、はっきりとありの
ままに見えるということなのである。
また、心は非形状界、言葉はアストラル世界、行為、実際の現象は現象界と
深い関係がありますが、嘘をつくと、この三つがバラバラになります。つまり、
常に言葉と行為、あるいは言葉と心、心と行為がずれた状態で安定してしまう
のです。そうなるとその人が心に思ったこと、口に出したことが一切かなわな
くなります。
逆に、常に正しい言葉のみを話していると、心と言葉と現象が常に一致する
ようになります。そうなると、その人が心に思ったこと、口に出したことが即
現象化するようになります。これは一種の超能力です。
5.飲酒をしない
向煩悩滅尽多学男達よ、飲酒を行ない、修習し、何度も繰り返して実践
するならば、地獄に導かれ、動物界に導かれ、餓鬼界に導かれる。そして、
飲酒の結果、たいへん速やかに、人間は発狂へと導かれるのである。
「ダーナ・ヴァッガ」
これは、飲酒だけではなく、タバコ・コーヒーなどの嗜好品・マリファナや
LSDなどもいけません。インドのヨーガの一部のグループは、神秘体験をす
るために麻薬を利用しているところもありますが、それはアストラル界(潜在
意識)のいらぬデータを増やす結果となり、潜在意識のデータを浄化していく
本来の修行の目的とは相反する結果となります。
最終更新:2016年05月28日 19:50