奇貨居(お)く可し
秦始皇帝名政、始生邯鄲。昭襄王時、孝文王柱爲太子。有庶子楚、爲質于趙。陽翟大賈呂不韋適趙、見之曰、此奇貨可居。乃適秦、因太子妃華陽夫人之姉、以説妃、立楚爲適嗣。不韋因納邯鄲美姫。有娠而獻于楚。生政。實呂氏。孝文王立。三日而薨。楚立。是爲莊襄王。四年薨。政生十三歳矣。遂立爲王。母爲太后。不韋在莊襄王時、已爲秦相國、至是封文信侯。太后復與不韋通。王既長。不韋事覺自殺。太后廢處別宮、茅焦諌、母子乃復如初。
秦始皇帝、名は政、始め邯鄲に生まる。昭襄王の時、孝文王柱太子と為る。庶子楚有り、趙に質(ち)と為る。陽翟(ようたく)の大賈(たいこ)呂不韋(りょふい)趙に適(ゆ)き、之を見て曰く、此れ奇貨なり居(お)く可しと。乃(すなわ)ち秦に適き、太子の妃華陽夫人之姉に因(よ)って、以て妃に説き、楚を立てて、適嗣(てきし)と為す。
不韋因(よ)って邯鄲の美姫を納(い)る。娠(はら)める有って楚に献ず。政を生む。実は呂氏なり孝文王立つ。三日にして薨(こう)ず。楚立つ。是を莊襄王と為す。四年にして薨ず。政生まれて十三歳なり。遂に立って王と為る。母を太后と為す。不韋、莊襄王の時に在って已(すで)に相国たりしが、是に至って文信侯に封ぜらる。太后復た不韋と通ず。王既に長ず。不韋事覚(あら)われて自殺す。太后廃せられて別宮に処(お)りしが、茅焦(ぼうしょう)諌めて、母子乃(すなわ)ち復(また)初めの如し。
秦の始皇帝名は政、邯鄲に生まれる。かつて昭襄王の時に孝文王柱が太子となった。昭襄王には妾腹の子で楚という者が居て、趙に人質になっていた。そのころ、陽翟に住む豪商の呂不韋という者が趙に行き、楚を見るなり、「これは良いものを見つけた、手に入れておこう、後々きっと莫大な利益を生むに違いない」と言った。そこで不韋は秦に行き、太子柱の妃華陽夫人の姉に頼んで、華陽夫人を口説いて楚を太子柱の後継ぎにした。不韋は邯鄲の美姫を娶り、妊娠すると楚に献じて妃とした。そして政を生んだ、つまり政の本当の父親は呂不韋と言う訳である。昭襄王が薨じ孝文王柱が立ったがわずか三日で亡くなった。その後楚が立って莊襄王と為った。四年後莊襄王がみまかると政が十三歳にして王となり、母は太后となった。不韋は、莊襄王の時にすでに秦の宰相になっていたがこの時に文信侯に封ぜらた。王の母太后と呂不韋の密通が発覚し不韋は自殺させられ、太后も廃せられて別宮殿にいたが、茅焦の諌めがあって元に戻った。
華陽夫人に取り入った経緯は史記の呂不韋列伝に詳しい。
不韋は小遣いとして五百金を子楚に渡し、食客たちと交際させ、さらに五百金で献上物を買って秦に旅立つ。華陽夫人の姉に面会して進物を夫人に託しがてら、こう言わせた。
「吾これを聞く、色を以て人に事(つか)うる者は、色衰うれば愛弛む、と。今、夫人は太子に事(つか)え、甚だ愛せらるるも、子なし。この時を以て蚤(はや)く自ら諸子の中の賢孝なる者と結び、挙立して以て適となし、これを子とせざるや。中略 繁華の時を以て本を樹てずんば、即ち色衰え愛弛むの後、一語を開かんと欲すと雖も、尚お得べけんや。今、子楚は賢にして、自ら、中男なれば、次として適と為るを得ず、其の母も又幸せららるを得ざるを知り、自ら夫人に附く。夫人、もし此の時を以て、抜きて以て適と為さば、夫人は則ち世を畢(お)うるまで秦に寵あらん」と。
適 あとつぎ
秦宗室大臣議曰、諸侯人來仕者、皆爲其主游説耳。請、一切逐之。於是大索逐客。客卿李斯上書曰、昔穆公取由余於戎、得百里奚於宛、迎蹇叔於宋、求丕豹・公孫枝於晉、并國二十、遂覇西戎。孝公用商鞅之法、諸侯親服、至今治強。惠王用張儀之計、散六國從、使之事秦。昭王得范睢、強公室。此四君者、皆以客之功。客何負於秦哉。泰山不譲土壌、故大。河海不擇細流、故深。
秦の宗室大臣、議して曰く、諸侯の人来って仕うる者は、皆其の主の為に游説するのみ。請う、一切之を逐(お)わん、と。是に於いて大いに索(もと)めて客を逐(お)う。客卿(かくけい)李斯(りし)上書して曰く、昔穆公、由余を戎に取り、百里奚を宛に得、蹇叔(けんしゅく)を宋に迎え、丕豹・公孫枝を晋に求めて、国を併すこと二十、遂に西戎に覇たり。孝公、商鞅の法を用いて、諸侯親服し、今に至るまで治まって強し。恵王、張儀の計を用いて、六国の従(しょう)を散じ、之をして秦に事(つか)えしむ。昭王は范睢(はんすい)を得て、公室を強くす。此の四君は、皆客の功を以てす。客何ぞ秦に負(そむ)かんや。泰山は土壌を譲らず、故に大なり。河海は細流を択ばず、故に深し。
秦の一門の人や大臣が相談して言うには、諸侯の国から来て仕えている者は、皆自分の元の主人の為に説いて廻っているだけだ、一人残らず追放したらよかろう。他国から来ている李斯が書を奉って言うには、昔穆公、由余を戎から取り、百里奚を宛から得、蹇叔を宋から迎えて、丕豹・公孫枝を晋から求めて、結果二十カ国を併合して西の覇者になられました。また孝公は商鞅の法を採用して、諸侯が親服して、今に至るまでよく治まって兵も強い。また恵王は、張儀の計略を用いて合従を破り、六国を秦に仕えさせました。又昭王は范睢を得て、公室を強くしました。この四君は皆よそから来た者の力によって成功されました。ですから他所から来た者だからといって、何で秦に背きましょうか、あの泰山は僅かの土でも削らせません、だから大きいのです。黄河や大海はどんな細い流れでも択びません、だから深いのです。 続く
今乃棄黔首、以資敵國、卻賓客、以業諸侯。所謂籍寇兵、而齎盗糧者也。王乃聽李斯、復其官、除逐客令。斯楚人。嘗學於荀卿。秦卒用其謀併天下。有韓非者。善刑名。爲韓使秦、因上書。王悦之。斯疾而之、遂下吏。斯遺之藥令自殺。
今乃(すなわ)ち黔首(けんしゅ)を棄てて、以て敵国に資し、賓客を卻(しりぞ)けて以て諸侯を業(たす)く、いわゆる寇(あだ)に兵を籍(か)し、盗に糧を齎(もたら)す者なり、と。王乃ち李斯に聴いて其の官を復し、逐客(ちくかく)の令を除く。斯は楚人なり。嘗て荀卿に学ぶ。秦其の謀を用いて天下を併す。
韓非という者あり。刑名を善くす。韓の為に秦に使し、因って上書す。王之を悦ぶ。斯、疾(にく)んで之を間し、遂に吏に下す。斯、之に薬を遺(おく)って自殺せしむ。
今人民を敵国に追いやり、客を逐って、敵国、諸侯を利することは、いわば敵に武器を貸し、泥棒に食糧を施すようなものです、と。王は李斯の意見を取り入れ、李斯の官位を元に復し、異国人の追放令を取り消した。
李斯は楚の人で、かつて荀子に学んだ。秦は其の策を用いて天下を併合した。
韓非という者が居た。やはり荀子に学び、刑名の学説に通じていた。ある時、秦に使いして秦王に書をたてまつった。王は喜んだが、李斯に憎まれて、離間され、獄吏の手にゆだねられた。そして李斯はひそかに毒薬をおくって韓非を自殺させてしまった。
黔首 人民 荀卿 荀子、性悪説 韓非 韓の公子、韓非子を残した 刑名 刑は形に通じ、名称とその形が一致すること、言行一致。
十七年、内史勝滅韓、十九年、王翦滅趙、二十三年、王賁滅魏、二十四年、王翦滅楚、二十五年王賁滅燕、二十六年、王賁滅斎。秦王初并天下、自以、兼三皇、功過五帝。更號曰皇帝。命爲制、令爲詔、自稱曰朕。制曰、死而以行爲謚、則是子議父、臣議君也。甚無謂。自今以來、除謚法、朕爲始皇帝、後世以計數、二世三世至萬世、傳之無窮。
収天下兵、聚咸陽、銷以爲鐘・鐻・金人十二。重各千石。
徙天下豪富於咸陽、十二萬戸。
十七年、内史の勝、韓を滅し、十九年王翦(おうせん)趙を滅し、二十三年王賁(おうほん)魏を滅した、二十四年、王翦楚を滅し、二十五年王賁燕を滅し、二十六年王賁斎を滅ぼして、秦王初めて天下を併せた。自ら以(おも)えらく、徳は三皇を兼ね、功は五帝を過ぐ、と。更め号して皇帝と曰う。命を制と為し、令を詔と為し、自ら称して朕と曰う。制して曰く、死して行を以て謚(おくりな)と為すは、則ち是れ、子父を議し、臣君を議するなり。甚だ謂(いわれ)なし。今より以来、謚法(しほう)を除き、朕を始皇帝と為し、後世以て数を計り、二世三世より万世に至り、之を無窮に伝えん、と。
天下の兵を収めて、咸陽に聚(あつ)め、銷して以て鐘・鐻・金人十二を為(つく)る。重さ各おの千石(せき)なり。天下の豪富を咸陽に徒(うつ)すこと、十二万戸。
命を制と為し・・ 命を制と、令を詔と言い替えた
死して行を以て謚(おくりな)と為す・・・王の死後子や臣らが業績等を評価しておくりなをするのは不遜であるから、謚法(しほう)を廃す
兵を収めて 武器を回収して
千石 石は百二十斤
丞相王綰等言、燕・齊・荊地遠。不置王無以鎭之。請立諸子。始皇下其議。廷尉李斯曰、周武王所封子弟同姓甚衆。後屬疎遠、相攻撃如仇讐。今海内頼陛下神靈、一統皆爲郡縣。諸子功臣、以公賦税、賞賜之、甚足易制。天下無異意、則安寧之術也。置諸侯不便。始皇曰、天下初定。復立國、是樹兵也。而求其寧息、豈不難哉。廷尉議是。分天下爲三十六郡、置守・尉・監。
丞相王綰等言う、燕・齊・荊は地遠し。王を置かずんば以て之を鎮むる無し。請う諸子を立てん、と。始皇其の議を下す。廷尉の李斯曰く、周の武王封所の子弟同姓甚だ衆(おお)し。後疎遠に属し、相攻撃すること仇讐の如し。今海内(かいだい) 陛下の神靈に頼(よ)って、一統して皆群県と為る。諸子功臣、公の賦税を以て之を賞賜せば、甚だ足って制し易からん。天下異意無くば、則ち安寧の術なり。諸侯を置くは不便なり、と。始皇曰く、天下初めて定まる。又復国を立つるは、是れ兵を樹つるなり。而して其の寧息を求むるは、豈難からずや。廷尉の議是なりと。天下を分って三十六郡と為し、守・尉・監を置く。
丞相王綰等は燕・齊・荊は都から遙かに遠く、治めるのは困難であります、どうか皇子を諸侯に封じて下さい、と言った。始皇帝が評議にかけたところ、司法長官の李斯が言うには、「昔周の武王の子弟王族を多く諸侯に封じたが、後には疎遠になって、仇のように攻め合うようになった。今や国内は皇帝の威光により、統一されて郡県となりました。皇子様や功臣達には、租税をあてて賞すれば、充分足りるでしょう。天下に二心無ければこれこそ天下安泰、諸侯を置くのは利便がございません」と。そこで始皇帝は「天下は初めて定まった。又諸侯を置くのは戦乱の世をまねくようなものだ。天下の無事を求めるのはなんとむつかしいことである。廷尉の李斯の意見を採る。」それで天下を分って三十六郡とし、守・尉・監の役人を置いた。
復国を立つるは 諸侯を立てるのは
守・尉・監 守は郡の長官、尉は守を助けて兵事を司る官、監は監察を司る官。
方士齊人徐市等、上書、請與童男童女入海、求蓬莱・方丈・瀛洲三山仙人、及不死藥。如其言遣市等行。始皇浮江至湘山。大風、幾不能渡。問博士曰、湘君何。對曰、堯女舜妻。始皇大怒、伐其樹赭其山
方士の齊人徐市(じょふつ)等、上書して童男童女と海に入り、蓬莱・方丈・瀛洲の三山の仙人、及び不死の薬を求めんことを請う。其の言の如く市(ふつ)等をして行かしむ。
始皇、江に浮んで湘山に至る。大風あり、幾(ほと)んど渡ること能わず。博士に問うて曰く、湘君は何のぞ、と。対(こた)えて曰く、堯の女(むすめ)にして舜の妻なり、と。始皇大いに怒り、其の樹を伐ってその山を赭(しゃ)にせり。
方士 神仙の術を行なう者。徐市 徐福とも。 海に入り 海に出て。 湘君 君は鬼神の尊称、娥黄・女英の二人。 赭 赤土、禿山。
韓人張良、以五世相韓、韓亡欲爲報仇。始皇東遊、至博浪沙中、良令力士操鐡椎撃始皇。誤中副車。始皇驚、求弗得。令天下大索。
三十一年、更臘爲嘉平。
三十二年、始皇巡北邊。方士盧生入海還、奏録圖書。曰、亡秦者胡也。始皇乃遣蒙恬發兵三十萬人、北伐匈奴、築長城。起臨洮至遼東。延袤萬餘里、威振匈奴。
韓人張良は五世韓に相たるを以て、韓亡んでより為に仇を報いんと欲す。始皇東遊して、博浪沙の中(うち)に至りしとき、良、力士をして鉄椎(てっつい)を操(と)って始皇を撃たしむ。誤って副車に中(あ)つ。始皇大いに驚き、求むれども得ず。天下に令して大いに索(もと)む。
三十一年、臘(ろう)を更(あらた)めて嘉平と為す。
三十二年、始皇北辺を巡(めぐ)る。方士盧生、海に入って還り、録図書を奏す。曰く、秦を亡ぼす者は胡ならんと。始皇乃(すなわ)ち蒙恬(もうてん)をして兵三十万人を発して、北のかた匈奴を伐ち、長城を築かしむ。臨洮(りんとう)より起り遼東に至る。延袤(えんぼう)万余里、威匈奴に振るう。
韓人張良は五代に亘り韓の大臣をつとめていたので、韓が亡ぼされた後仇を報いようと、機会を窺っていた。始皇帝が巡察して博浪沙に着いたとき、張良は力士を使って鉄のつちを投げさせたが、副車にあたってしまった。始皇帝驚いて探させたが見つけられず、天下に令して捜索させたが、捕えることが出来なかった。
長城 汪遵
秦長城を築いて鉄牢に比す
蕃戎敢えて臨洮に逼(せま)らず
焉(いず)くんぞ知らん万里連雲の勢
及ばず堯階三尺の高きに
三十一年、臘(臘月、師走)を更めて嘉平と為す。(嘉平は年号ではなく、12月の別称)
三十二年、始皇帝は北の国境を巡察した。神仙の術を行う方士の盧生と言う者が、予言の書を奉じて秦を滅ぼすのは胡であるとした。(北方のえびすと、二世皇帝の胡亥と両方にとれる)始皇帝は蒙恬(もうてん)を将軍として三十万の兵を派遣して、匈奴を伐ち、その上長城を築かせた。臨洮(りんとう)より起り遼東に至る。延袤(長さ)万里あまり、匈奴に威を振るった。
焚書
三十四年、丞相李斯上書曰、異時諸侯竝争、厚招遊學。今天下已定。法令出一。百姓當家、則力農工、士則學習法令。今諸生不師今、而學古、以非當世、惑亂黔首。聞令下、則各以其學議之。入則心非、出則巷議、率羣下、以造謗。臣請、史官非秦記、皆焼之、非博士官所職、天下有蔵詩書百家語者、皆詣守尉、雑焼之。有偶語詩書者棄市。以古非今者族。所不去者、醫藥・卜筮・種樹之書。若有欲學法令、以吏爲師。制曰、可。
三十四年、丞相李斯上書して曰く、異時諸侯並び争い、厚く遊学を招く。今天下すでに定まり、法令一に出づ。百姓(ひゃくせい)家に当っては、則ち農工を力(つと)め、士は則ち法令を学習す。
今諸生、今を師とせずして、いにしえを学び、以て当世を非(そし)り、黔首(けんしゅ)を惑乱す。令の下るを聞けば、則ち各々其の学を以て之を議す。入っては則ち心に非とし、出でては則ち巷に議し、群下を率いて、以て謗りを造(な)す。
臣請う、史官の秦の記に非ざるものは、皆之を焼き、博士の官の職とする所に非ずして、天下詩書百家の語を蔵する者有らば、皆守尉に詣(いた)り、雑(まじ)えて之を焼かん。詩書を偶語する者有らば棄市せん。古を以て今を非(そし)る者は族せん。
去らざる所の者は、医薬・卜筮・種樹の書のみ。若し法令を学ばんと欲するもの有らば、吏を以て師と為さんと。
制して曰く、可なり、と。
前回の説明文です。
三十四年に宰相の李斯が書を奉って言うには「昔天下の諸侯が並び立って争った時代には手厚く遊学の士を招いたものですが、今天下は平定され、法令の出る所は一箇所です。ですから人民は、家にあっては農工につとめ、宮仕えをしているときは法令を学習していればよいのです。ところが昨今の書生は今を手本としないで昔の学問を学び、政治を謗(そし)り人心を惑わしています。法令が下ったとなれば、各々自分の学んだ昔の学問で議論をし、朝廷の中では心の中で非として口には出しませんが、朝廷を出ると町なかで公然と議論し、門人をひきいて政治を非難しています。そこで皇帝にお願いしたいことは、史官の蔵書のなかで、秦の記録以外の書は皆焼き捨てます、博士官以外に詩経や書経、諸子百家の書を蔵するものがあれば郡の守や尉の役所に集めて焼き捨てましょう。また詩経や書経のことを話し合う者がいたら処刑して市にさらしましょう。さらに昔の学問をもって今の政治を非難する者は一族皆殺しにしましょう。ただし、医薬・卜筮・農事の書は残すことにしたら良いでしょう、もし法令を学びたい者には官吏を派遣して師として学ばせましょう」と。
すると始皇帝は制(みことのり)を下して、「よろしい」と言った。
百姓(ひゃくせい) 一般市民
黔首(けんしゅ) 庶民、黒い首 冠をつけず髪を出していたから
坑儒
三十五年、侯生盧生、相與譏議始皇、因亡去。始皇大怒曰、盧生等、吾尊賜之甚厚。今乃誹謗我。諸生在咸陽者、吾使人廉問、或爲妖言、以亂黔首。於是使御史悉案問。諸生傳相告引、乃自除。犯禁者四百六十四人、皆坑之咸陽。長子扶蘇諌曰、諸生皆誦法孔子。今、上皆重法縄之。臣恐天下不安。始皇怒、使扶蘇北監蒙恬軍於上郡。
三十五年、侯生・盧生、相與に始皇を譏議(きぎ)し、因(よ)って亡(に)げ去る。始皇大いに怒って曰く、盧生等、吾之を尊賜甚だ厚し。今乃(すなわ)ち我を誹謗す。諸生の咸陽に在る者、吾人をして廉問せしむるに、或いは妖言を為して、以て黔首を乱る。是に於いて御史をして悉く案問せしむ。諸生伝えて相告引し、乃ち自ら徐す。禁を犯す者四百六十四人、皆之を咸陽に坑にす。長子扶蘇諌めて曰く、諸生皆法を孔子に誦す。今、上(しょう)、皆法を重くして之を縄(ただ)す。臣、天下の安からざるを恐る、と。始皇怒り、扶蘇をして北のかた蒙恬の軍を上郡に監せしむ。
三十五年、侯生と盧生はともに始皇帝を非難して、秦から逃げ去った。皇帝は怒って「二人にはいつも手厚く待遇していた。にもかかわらずわしをそしっている、ほかにも咸陽に居る書生どもを調べさせたところ、悪いことを言いふらして市民を惑わす者がいる」と。さらに検察官に詳しく取り調べさせたところ、書生たちは密告し合って自分の嫌疑を逃れようとした。かくして上を謗る者四百六十四人を数えたが、全員咸陽に生き埋めにしてしまった。長男の扶蘇が「あの者達は孔子の言葉をとなえて手本としています。ところが陛下は法を厳重にして彼等を処刑しました。私はこれから天下が不安にならないかと心配でなりません」と諌めた。始皇帝は怒って扶蘇を北方の蒙恬軍の監督に追いやった。
譏議(きぎ) そしる、批判する。
廉問、案問 共に取り調べること。案問がより厳しい。
告引 他人を引き合いにして告訴すること
上郡 陜西省の地名
始皇以爲、咸陽人多、先王宮庭小。乃營作朝宮渭南上林苑中、先作前殿阿房。東西五百歩、南北五十丈、上可坐萬人、下可建五丈旗。周馳爲閣道。自殿下直抵南山。表南山之顛以爲以闕、爲復道、自阿房渡渭、屬之咸陽。以象天極閣道絶漢抵營室也。阿房宮未成。成欲更択令名。天下謂之阿房宮。
始皇以爲(おも)えらく、咸陽人多くして先王の宮庭小なりと。乃(すなわ)ち朝宮を渭南の上林苑中に営作し、先ず前殿を阿房に作る。東西五百歩、南北五十丈、上には万人を坐せしむべく、下には五丈の旗を建つべし。周馳(しゅうち)して閣道を為(つく)る殿下より直(ただち)に南山に抵(いた)る。南山の頂に表して以て闕となし、復道を為(つく)り、阿房より渭を渡り、之を咸陽に属す。以て天極閣道、漢を絶(わた)って営室に抵(いた)るに象(かた)どるなり。阿房の宮未だ成らず。成らば更に令名を択ばんと欲す。天下之を阿房宮と謂う。
始皇帝が思うに、咸陽は人が多く先王の宮殿や庭園は狭いので、渭南の上林苑の中に百官の朝見する宮殿を造営すべく、まず前殿を阿房に東西五百歩、南北五十丈の規模で作った。殿上には万人が座れるほど広く、殿下には五丈の旗を立てるほどであった。回廊を廻らして、直接南山にいたることができた。その南山の頂には楼門を輝かせ、上下二段の廊下は上を帝が下を臣下が通り、阿房より渭を渡り咸陽の宮殿に通じた。あたかも天極星から閣道星が天漢(あまのがわ)をわたって営室星に至る、天体に象(かたど)ったものであった。この阿房宮が出来上がったときに、ふさわしい名をつけるはずだったが、完成の前に始皇帝が死んだので、天下の人々はこれを阿房宮を呼んだ。
閣道 高所に架け渡した回廊
天極閣道絶漢抵營室 天極、閣道 営室はそれぞれ星の名
始皇爲人、天性剛戻自用、天下事無大小、皆決於上。至以衡石量書。日夜有程、不得休息。貪於權勢至如此。
秦有出使者。還、遇人持璧授之。曰、爲吾遺滈池君。明年祖龍死。
三十七年、始皇出遊。丞相斯・少子胡亥・宦者趙高從。始皇崩於沙丘平臺。秘不發喪。詐爲受詔、立胡亥、賜扶蘇死。載始皇轀輬車中、以一石鮑魚亂其臭。至咸陽始發喪。胡亥即位。是爲二世皇帝。
始皇人と為(な)り、天性剛戻(ごうれい)にして自から用い、天下の事大小と無く皆上(しょう)に決す。衡石(こうせき)を以て書を量(はか)るに至る。日夜程(てい)あり、休息するを得ず。権勢を貪ること此の如きに至れり。
秦に、出でて使いする者有り。還るとき、人の璧を持って之に授くるに遭う。曰く、吾が為に滈池の君に遺(おく)れ。明年祖龍死せん、と。
三十七年始皇出遊す。丞相斯・少子胡亥・宦者(かんじゃ)趙高従う。始皇沙丘の平臺に崩ず。秘して喪を発せず。詐(いつわ)って詔を受くと為して、胡亥を立て、扶蘇に死を賜う。始皇を轀輬車(おんりょうしゃ)の中に載せ、一石の鮑魚を以て其の臭を乱(みだ)り、咸陽に至って始めて喪を発す。胡亥、位に即く。是を二世皇帝と為す。
始皇の人となりは、強情で自分の思い通りにして他人の説を用いない。皆自身で決裁する。そのため書類を秤で昼の分、夜の分と量をきめて裁決し、休む暇さえ無く、権勢欲がこれほどまでに至った。
秦の人で、他国に使いする者があった。帰る時に、壁を託して「私に代わって、滈池の水神に奉じておくれ。明年には祖龍が死ぬのだから」と奇妙なことを言った。
三十七年始皇帝が視察の旅にでた。丞相李斯・末っ子胡亥・宦官の趙高が従った。だが途中沙丘の平台で亡くなった。李斯・趙高等は喪を秘して、始皇帝の詔勅と偽って、胡亥を立てて皇太子とし、長子の扶蘇を自殺に追いやった。
始皇の遺骸は轀輬車に乗せ、塩づけの魚を一石積み込んで臭気を紛らした。咸陽に還り、直ちに喪を発し胡亥が即位し、二世皇帝となった。
滈池 咸陽近くの池の名 祖龍 祖は始祖、龍は天子の象徴つまり、始皇帝のこと。
轀輬車 車上に調節の窓をつけた車。 鮑魚 くさやの様なひしお漬け魚、あわびとは無関係、
前回、鮑の字について我が国と中国の違いを言ったが、以前博物館で瓢鮎図(ひょうねんず)という絵を見たがひょうたんとなまずでありました。中国で鮎はナマズなのです。他にも、鮭はフグのこと、ふぐは鮐とか河豚とも書きます。日本のふぐは鰒と書きますが中国ではアワビのこと。なんともややこしいことです。
二世皇帝名胡亥、元年、東行郡縣。謂趙高曰、吾欲悉耳目之所好、窮心志之樂、以終吾年。高曰、陛下嚴法刻刑、盡除故臣、更置所親信、則高枕肆志矣。二世然之、更爲法律、務益刻深。公子・大臣多僇死。
二世皇帝名は胡亥、元年、東の方郡県を行(めぐ)る。趙高に謂って曰く、吾耳目の好む所を悉(つく)し、心志(しんし)の楽しみを窮めて、以て吾が年を終(お)えんと欲す、と。高曰く、陛下、法を厳にし刑を刻にし、尽く故臣を除いて、更(あらた)めて親信する所を置かば、則ち枕を高うし志を肆(ほしいまま)にせられん、と。二世、之を然(しか)りとし、更めて法律を為(つく)り、務めて益々刻深にす。公子・大臣多く僇死(りくし)す。
僇死 刑罰によって殺されること、戮におなじ。
燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや
陽城人陳勝字渉。少與人傭畊。輟畊之隴上、悵然久之曰、苟富貴無相忘。傭者笑曰、若爲傭畊、何富貴也。勝大息曰、嗟呼、燕雀安知鴻鵠之志哉。至是與呉廣起兵于蘄。
陽城の人陳勝、字は渉。少(わか)うして人と傭畊(ようこう)す。畊を輟(や)めて隴上(ろうじょう)に之(ゆ)き、悵然(ちょうぜん)之を久しうして曰く、苟(いやし)くも富貴とならば相忘るること無けん、と。傭者笑って曰く、若(なんじ) 傭畊を為す、何ぞ富貴とならん、と。勝大息して曰く、嗟呼(ああ) 燕雀安(いず)くんぞ鴻鵠の志を知らんや、と。是に至り呉廣と兵を蘄(き)に起こす。
陽城の人陳勝、字を渉といった。若いとき人に雇われて畑を耕していた。あるとき、耕すのをやめて、小高い丘にいってしばらくため息をついていたが、やがて仲間に向かって「もし私が富貴になったら、お前達のことを忘れないだろう」と言った。仲間の雇われ人が笑って「雇われ人のお前が富貴になぞなれるものか」とあざけった。陳勝は大きなため息をついて、「ああ、燕や雀になんでおおとりやくぐい(白鳥)の志がわかってたまるものか」とうそぶいた。天下の乱れを感じ取った陳勝は呉広と共に、兵を蘄の地に起こした。
傭畊 雇われて耕作する 悵然 志を得ないで嘆く 蘄 安徽省の地名
続き
時發閭左戍漁陽。勝・廣爲屯長。會大雨、道不通。乃召徒屬曰、公等失期。法當斬。壮士不死則已、死則擧大名。王侯将相、寧有種乎。衆皆從之。乃詐公子扶蘇・項燕、稱大楚。勝自立爲将軍、廣爲都尉。大梁張耳・陳餘、詣軍門上謁。勝大喜、自立爲王、號張楚。諸郡縣苦秦法、爭殺長吏以應渉。
時に閭左を発して漁陽を戍(まも)らしむ。勝・廣屯長と為る。大雨に会いて道通ぜず。すなわち徒属を召して曰く、公等期を失う。法斬に当す。壮士死せずんば則ち已む、死せば則ち大名を挙げんのみ。王侯将相、いずくんぞ種有らんや、と。衆皆之に従う。乃ち詐(いつわ)って公子扶蘇・項燕と称し、大楚と称す。勝は自立して将軍と為り、広は都尉と為る。大梁の張耳・陳餘、軍門に詣(いた)って上謁す。勝大いに喜び、自立して王と為り、張楚と号す。諸郡県、秦の法に苦しむもの、争って、長吏を殺して以て渉に応ず。
その頃、村の左側に住む賦役免除の貧民まで徴兵して漁陽の守備に当らせた。陳勝と呉広は駐屯隊長となった。漁陽に向う途中に大雨にあって、行く手を塞がれた。そこで部下を集めて言うには、「お主たちはもう到着期限に遅れた、軍法では死にあたいする。壮士が、身を捨てなければそれまでだが、死んだ気になれば名をあげることもできる。王となり、大名となり、大将となり、大臣になる、なにも特別な種族があるわけではないぞ」と。部下は皆この言葉に従った。そこで二人は秦の公子扶蘇と楚の大将項燕と偽って、国名を大楚と称した。陳勝は自ら立って将軍となり、呉広は都尉となった。時に大梁の張耳と陳餘が陣営に来て目通りを求めた。陳勝は大いに喜んで、ついに自から立って王となり、国号も張楚と改めた。するとあちこちの郡や県で、秦の酷法に苦しんでいたものが、われ先にと、長官を殺して陳勝渉に呼応した。
閭左 閭は村の入り口の門、その左には貧民を住まわせ賦役を免除していた
公子扶蘇と楚の大将項燕 二人とも国民に尊敬されて今なお生きていると言い伝えられていた。
中略
沛人劉邦起於沛。父老爭殺令、迎立爲沛公。沛邑掾・主吏、蕭何・曹參爲収子弟得三千人。
項梁者、楚將項燕之子也。嘗殺人、與兄子籍、避仇呉中。籍字羽、少時學書不成。去學劔。又不成。梁怒。籍曰、書足以記姓名而已、劔一人敵、不足學。學萬人敵。梁乃教籍兵法。會稽守殷通、欲起兵應陳渉、使梁爲將。梁使籍斬通、佩其印綬。遂擧呉中兵、得八千人。籍爲籍裨將。時年二十四。
沛の人劉邦沛(はい)に起る。父老争うて令を殺し、迎え立てて沛公と為す。沛邑の掾(えん)・主吏、蕭何・曹參、爲に沛の子弟を収めて三千人を得たり。
項梁は、楚の将項燕の子なり。嘗て人を殺し、兄の子籍(せき)と、仇を呉中に避く。籍、字は羽(う)、少時書を学んで成らず。去って剣を学ぶ。又成らず。梁怒る。籍曰く、書は以て姓名を記するに足るのみ、剣は一人の敵なり、学ぶに足らず。万人の敵を学ばん、と。梁乃ち籍に兵法を教う。
会稽の守、殷通(いんとう)、兵を起こして陳渉に応ぜんと欲し、梁をして将と為らしむ。梁、籍をして通(とう)を斬らしめ、其の印綬を佩(お)ぶ。遂に呉中の兵を挙げ、八千人を得たり。籍、裨将(ひしょう)と為る。時に年二十四。
沛の人劉邦は沛に兵を挙げた。沛の人たちは先を争って長官を殺し、劉邦を迎えて沛公と仰いだ。沛の町の獄官の属吏蕭何と獄官長の曹參とが沛の若者をあつめて三千人を得た。
項梁は、楚の将項燕の子である。嘗て人を殺して、兄の子の籍と仇を避けて呉にいた。
籍、字を羽といい、若い時字を学んだが、成就しなかった。止めて今度は剣を学んだが、これも上達しなかった。叔父の項梁が怒った。すると項羽は「文字は自分の姓名を書くのに役立つだけだ、剣術は一人の敵を相手にするに過ぎない、自分は万人もの敵を相手にして勝つ術を学びたい」と言った。そこで梁は籍(項羽)に兵法を教えた。
会稽の太守の殷通(いんとう)が、兵を起こして陳渉を応援しようとして、項梁を大将に任命した。ところが梁は籍に殷通を殺させ、官職を奪って自ら太守となった。ついに呉の兵を集めて八千人の部下を得た。籍は副将となった。時に籍は歳二十四であった。
掾 獄官長か?
裨将 裨はおぎなう。
齊人田儋、自立爲齊王。
趙王、武臣、使將韓廣略燕地。廣自立爲燕王。
楚將周布、定魏地、迎魏公子咎、立爲魏王。
二年、呉廣爲其下所殺。
陳勝爲其御莊賈所殺。以降秦。
秦將章邯撃魏。齊楚救之。齊王儋・魏王咎、與周布、皆敗死。
趙王武臣、爲其將李良所殺。張耳・陳餘、立趙歇爲王。
齊の人田儋(でんたん) 自立して齊王と為る。
趙王武臣、將の韓廣(かんこう)をして燕の地を略せしむ。廣自立して燕王と為る。
楚の將周布(しゅうふつ)、魏の地を定め、魏の公子咎(きゅう)を迎え、立てて魏王と為す。
二年、呉廣其の下(しも)の殺す所と為る。
陳勝、その御(ぎょ) 莊賈(そうか)の殺すところとなる。もって秦に降る。
秦の将章邯(しょうかん)、魏を撃つ。斉楚之を救う。斉王儋(たん)・魏王咎(きゅう)、周布(ふつ)と皆敗死す。
趙王武臣、其の将李良の殺す所と為る。張耳・陳餘、趙歇(あつ)を立てて王と為す。
齊の人田儋、自ら立って斉王となる。趙王の武臣は韓広に燕を攻略させたが、韓広は自ら燕王となってしまった。楚の将周布は、魏を平らげて、公子咎を迎えて魏王とした。
二世皇帝の二年、呉広は部下に殺された。陳勝はその御者荘賈に殺され、秦への手土産にされた。秦の将章邯が魏を襲うと、斉と楚が救援したが、敗れて田儋、魏王咎、周布共に死んだ。趙王武臣は李良に殺され、張耳と陳餘が歇(あつ)を立てて王とした。
居巣人范、年七十、好奇計。往説項梁曰、陳勝首事。不立楚後而自立。其勢不長。今君起江東、楚蠭起之將、爭附君者、以君世世楚將、必能復立楚之後也。於是項梁求得楚懐王孫心、立爲楚懐王、以從民望。
居巣の人范(はんぞう)年七十、奇計を好む。往(ゆ)いて項梁に説いて曰く、陳勝事を首(はじ)む。楚の後を立てずして自ら立つ。其の勢い長からじ。今君江東に起こり、楚の蜂起の将、争って君に附く者は、君の世よ楚の将にして、必ず能(よ)く復た楚の後を立てんことを以(おも)えばなり、と。是(ここ)に於いて項梁は楚の懐王の孫、心(しん)を求め得て、立てて楚の懐王と為し、以て民望に従う。
居巣(きょそう)の人范は奇抜な計略を好んだ。項梁に説いて言うには「陳勝は始めて秦に謀反をおこしたが、楚王の子孫を立てないで自ら立って楚王となったが、長くは、続きますまい、今、君が江東より起こり、楚の将たちが群がりたって、我先に君に馳せ参じておりますわけは、君の家が代々楚の大将で、きっと楚王の子孫を立ててくれるだろうと思うからでございます」と。そこで項梁は楚の懐王の孫、心という人を探し出し、立てて懐王とした。かくして楚の人たちの望む通りにした。」
趙高與丞相李斯有隙。高侍二世、方燕樂婦女居前、使人告丞相斯、可奏事。斯上謁。二世怒曰、吾嘗多日、丞相不來。吾方燕私、丞相輒來。高曰、丞相長男李由、爲三川守與盗通。且丞相居外、權重於陛下。二世然之、下丞相吏具五刑、腰斬咸陽市。斯出獄、顧謂中子曰、吾欲與若復索黄犬、倶出上蔡東門、逐狡兔、豈可得乎。遂父子相哭。而夷三族。
趙高、丞相李斯と隙(げき)あり。高、二世に侍し、燕楽(えんらく)して婦女前に居るときに方(あた)って、人をして丞相斯に告げしむ、事を奏す可し、と。斯、上謁す。二世怒って曰く、吾嘗て日(かんじつ)多し、丞相来たらず。吾方(まさ)に燕私すれば丞相輒(すなわ)ち来る、と。高曰く、丞相の長男李由、三川の守と為り盗(とう)と通ず。且つ丞相外に居て、権、陛下より重し、と。二世之を然りとし、丞相を吏に下し、五刑を具(そな)えて、咸陽の市に腰斬(ようざん)す。斯獄を出づるとき、中子に謂いて曰く、吾、若(なんじ)と復(また) 黄犬を索(ひ)き、倶(とも)に上蔡(じょうさい)の東門を出でて、狡兔を逐わんと欲するも、豈得可(うべ)けんや、と。遂に父子相哭す。而して三族を夷(い)せらる。
燕楽 燕は宴に通ず 燕私は奥向きでくつろいだ酒宴 三川 郡名、河南省にある
五刑 墨 いれずみ、 劓 はなきり、 刖 足切り、 宮 去勢、 大辟 死刑、
黄犬 猟犬 上蔡 地名李斯の出身地 夷三族 父母妻の血族を亡ぼすこと。
趙高は、丞相李斯と仲が悪かった。二世皇帝が酒宴をして婦人たちを前にしているとき、趙高は人を遣わして李斯に、今のうちに政務を奏上するのが良いでしょう、と言わせた。李斯が上謁すると二世は怒って、「わしが暇の時に来もしないで、こうして酒宴を楽しんでいるときに来る。不届きである」と。すかさず趙高が「丞相の長男李由は、三川の大守でありながら、盗賊と気脈を通じています。その上丞相は、朝廷のそとにあっては、陛下よりも強い権力を振るっております」と。二世皇帝はこれをもっともだとして、獄吏に引き渡し、入れ墨、鼻切り、などの刑を施し、最後に咸陽の市中に引き出し、腰切りの刑に処した。李斯は牢を出される時、次子に向かって、「そちと今一度猟犬を引きつれて、上蔡の東門を出て、兎狩りをしようと思っても、それが出来ようか、出来なくなってしまったなあ」と言った。そして父と子は声をあげて哭いた。その後三族ことごとく殺されてしまった。
白文
中丞相趙高、欲專秦權、恐群臣不聽。乃先設驗、持鹿獻於二世曰、馬也。二世笑曰、丞相誤邪、指鹿爲馬。問左右、或默、或言。高陰中諸言鹿者以法。後群臣皆畏高、莫敢言其過。
訓読文
中丞相趙高、秦の権を専(もっぱら)にせんと欲すれども、群臣の聴かざるを恐る。すなわち先ず験(けん)を設け、鹿を持(ぢ)して二世に献じて曰く、馬なり、と。二世笑って曰く丞相誤れるか、鹿を指して馬と為す、と。左右に問うに、或いは黙し或いは言う。高、陰(ひそか)に諸々の鹿と言う者に中(あ)つるに法を以てす。後群臣皆高を畏れ、敢て其の過ちを言うもの莫(な)し。
通釈文
中の丞相趙高、秦の権力を独占したいのだが、群臣が承知しまいと思った。そこで群臣をためそうと思い、鹿を二世に献上して、馬でございますと言った。二世皇帝は笑って言った「丞相間違っておるぞ、鹿を馬と言うとは、」と。左右の者に尋ねると、ある者は黙り、ある者は鹿ですと答えた。趙高は後でひそかに鹿と言った者を無理に法律に当てて厳罰に処した。こののち群臣は皆趙高を恐れて、過ちを指摘する者が居なくなった。
中丞相 趙高は宦官で禁中にも出入りできたから
白文
項梁與秦將章邯戰敗死。宋義先言其必敗、梁果敗。秦攻趙。楚懐王以義爲上將、項羽爲次將、救趙。義驕。羽斬之領其兵、大破秦兵鉅鹿下。虜王離等、降秦將章邯・董翳・司馬欣。羽爲諸侯上將軍。
訓読文
項梁、秦の将章邯と戦って敗死す。宋義先づ其の必ず敗れんことを言いしが、梁果して敗れん。秦、趙を攻む。楚の懐王、義を以て上将と為し、項羽を次将と為して、趙を救わしむ。義、驕る。羽、之を斬って其の兵を領し、大いに秦の兵を鉅鹿(きょろく)の下に破る。王離等を虜にし、秦將章邯・董翳(とうえい)・司馬欣を降す。羽、諸侯の上将軍と為る。
通釈
項梁は、秦の将章邯と戦って敗れ死んだ。宋義は、項梁が必ず敗れるだろうと予言したが果してその通りになった。
秦が趙を攻めた。楚の懐王は宋義を総司令に、項羽を副司令官にして趙を救わせた。ところが宋義が驕りあなどったので、項羽は宋義を斬り殺し、その兵を自分の指揮下にいれた、そして秦軍を鉅鹿の城下で打ち破り、王離等を虜にし、章邯・董翳・司馬欣を降参させた。
項羽は諸侯の総司令官になった。
十八史略 趙高、二世を弑(しい)す
白文
先是、趙高數言、關東盗無能爲。及秦兵數敗、高恐二世怒、遂使婿閻樂弑二世於望夷宮、立公子嬰爲秦王。二世之兄子也。嬰既立、族殺趙高。
訓読文
是より先、趙高数々(しばしば)言う、関東の盗、能く為すこと無し、と。秦の兵数々敗るるに及んで、高、二世の怒りを恐れ、遂に婿の閻楽(えんらく)をして二世を望夷宮に弑(しい))せしめ、公子嬰(えい)を立てて秦王と為す。二世の兄の子なり。嬰既に立ち、趙高を族殺(ぞくさつ)す。
通釈
これより先、趙高がしばしば関東に起こった盗賊は何をする力もありませんと言っていたが、秦の兵が度々敗れると、二世が怒って、自分が責められることを恐れて、遂に女婿の閻楽に命じて二世を望夷宮で殺させてしまった。そして公子嬰を立てて秦王とした。嬰は二世の兄扶蘇の子である。嬰は帝位に就くと趙高の三族を皆殺しにした。
十八史略 関中を定むる者は之に王たらん
2009-09-03 11:40:17 | Weblog
初楚懐王與諸將約。先入定關中者王之。當時秦兵強。諸將莫利先入關。獨項羽怨秦殺項梁、奮願與沛公先入關。懐王諸老將皆曰、項羽爲人、慓悍猾賊。獨沛公寛大長者。可遣。乃遣沛公。
訓読文
初め楚の懐王諸将と約す。先ず入って関中を定むる者は之に王たらん、と。当時秦の兵強し。諸将先ず関に入るを利とするもの莫(な)し。独り項羽は秦が項梁を殺ししを怨み、奮って沛公と先ず関に入らんことを願う。懐王の諸老将皆曰く、項羽の人と為り、慓悍猾賊(ひょうかんかつぞく)。独り沛公は寛大の長者なり。遣わす可し、と。乃ち沛公を遣わす。
通釈
初め楚の懐王は。先ず関中に入って平定した者を王としようと、諸将と約した。しかし当時は秦兵は強かったので、諸将は誰一人として関中に入ろうとする者がいなかった。ただ項羽だけは、秦が叔父の項梁を殺したのを怨み、奮い立って沛公と先ず関に入ることを願った。懐王の老将達は皆、項羽の人柄は、慓悍猾賊、荒々しく強く、悪がしこい。それに比べて沛公は寛く大きくて、長者の風格を備えている、沛公を遣わすのがよい、と言った。そこで沛公を遣わすことになった。
諸將莫レ利二先入一レ關 諸將一莫六利五先二入四關三の順に読む。
奮願下與二沛公一先入上レ關 奮一願七與三沛公二先四入六關五の順に読む。
関中 秦の地、今の陜西省
十八史略 酈食其(れいいき) 1
2009-09-05 11:58:32 | Weblog
白文
高陽人酈食其、謂沛公麾下騎士曰、吾聞沛公慢而易人、多大略。此眞吾所願從游。騎士曰、沛公不好儒。客冠儒冠来者、沛公輒解其冠、溲溺其中。未可以儒生説也。食其令騎士第入言之曰、人皆謂食其狂生。生自謂我非狂生。
訓読文
高陽の人酈食其(れいいき)沛公の麾下の騎士に謂って曰く、吾聞く、沛公慢(まん)にして人を易(あなど)り、大略多しと。此れ真に吾が従游を願う所なり、と。騎士曰く、沛公、儒を好まず。客の儒冠を冠して来る者は、沛公輒(すなわ)ち其の冠を解き、その中に溲溺(しゅうじょう)す。未だ儒生を以て説く可からざるなり、と。食其、騎士をして第(ただ)入って之に言わしめて曰く、人は皆、食其(いき)を狂生なりと謂う。生は自ら謂う、我は狂生に非ず、と。
高陽 河南省の地名 麾下 旗本 大略 遠大な計略 従游 付き従ってゆく 溲溺 小便 第 ともあれの意
十八史略 れいいき(1)
2009-09-08 08:56:47 | Weblog
酈食其(れいいき)が沛公直属の騎馬武者に言うには、「私の聞く所では沛公は高慢で人を軽んずるところがあるが、遠大な計略に富む人であると。これこそ私が従いたいと願う方です」と。騎馬武者は、「沛公は儒者を好まない、儒者の冠をかむって来る者があると、冠をぬがせてその中に小便をする。だから儒者のあなたが沛公に説くことなどとても出来っこない」と言った。酈食其は騎士に頼んで、ともあれ中に入ってこのように言わせた。「世間の人は皆、酈食其を狂人だと言っていますが、彼自らは気違いではないと言っています。(変わった男です、お会いになってみてはいかがでしょう)」と
十八史略 酈食其(2)
2009-09-10 10:27:41 | Weblog
酈食其2
沛公至高陽傳舎、召生入。沛公方踞床、使兩女子洗足而見生。生長揖不拜、曰、足下必欲誅無道秦、不宜倨見長者。於是沛公輟洗、起攝衣、延生上坐謝之。
生爲沛公、説下陳留。後常爲説客。
沛公高陽の傳舎に至り、生を召して入らしむ。沛公まさに床に踞(きょ)し,両女子をして足を洗わしめて生を見る。生長揖して拝せず、曰く、足下必ず無道の秦を誅せんと欲せば宜しく倨(きょ)して長者を見るべからず。是に於いて沛公洗うを(や)め、たって衣を摂(せつ)し、生を上坐に延(ひ)いて之を謝す。
生、沛公の為に、説いて陳留を下す。後、常に説客(ぜいかく)と為る。
沛公は高陽の旅舎に着いてから酈食其を呼び入れた。沛公はその時、床几に座り、二人の女子に足を洗わせながら酈食其に面会した。酈食其は両手を組んで上下する礼をしただけで、拝礼をしないで言った。「あなた様がどうしても無道の秦を亡ぼしたいと願うなら、足を投げ出したまま年長者に面会するものではありません」と。そこで沛公は洗うことを止め、起って衣服を整え、上座に引き入れて、非礼を詫びた。
酈食其は沛公の為に、陳留県の人々を説いて服従させた。その後は常に諸国を説いて廻る説客となった。
伝舎 旅館 揖 両手を組んで上下させる礼 倨 足を投げ出して座ること
摂 整える 説客(ぜいかく) 遊説のひと
十八史略 子嬰、頸に繋(か)くるに組(そ)を以ってす
2009-09-12 14:38:58 | Weblog
秦滅ぶ
張良從沛公西。
沛公大破秦軍、入關至覇上。秦王子嬰、素車白馬、繋頸以組、出降軹道旁。秦自始皇二十六年併天下、二世三世而亡。稱帝止十有五年。
張良、沛公に従って西す。
沛公大いに秦軍を破り、関に入って覇上に至る。秦王子嬰、素車白馬、頸に繋(か)くるに組(そ)を以ってし、出て軹道(しどう)に降(くだ)る。
秦は始皇の二十六年に天下を併(あわ)せてより、二世、三世にして亡びぬ。帝と稱すること止(ただ)十有五年のみ。
張良は、沛公に従って西方の秦に向った。
沛公は大いに秦の軍を破り、函谷関に入って覇水のほとりに至った。秦王の子嬰は白木の車を白馬に引かせ、これに乗って頸には組紐をかけて、軹道という駅亭のそばに来て降伏した。
始皇帝が即位して二十六年目に天下を統一し、二世三世で亡んだ。皇帝を称したのはたった十五年に過ぎなかった。
頸に繋(か)くるに組(そ)を以ってし 組は印璽を帯びる組み紐、死の覚悟を表明すること。
最終更新:2023年01月01日 09:29