S〓3 2 0 8 6 8 9 2〓3こ
特 264 359詳譯譯評全
て居た〓言たが昭和十一年二月二十六日に突發した大事件所謂二·二六事件に依りて、岡田內閣は引退し、色々の紆餘曲折を經て、三月九日廣田內閣が成立した。僕は所屬政黨たる立憲政友會總裁鈴木博士の推薦によりて、此內閣の閣僚となり農林大臣に就任した。廣田內閣は庶政一新を標榜して、可なり多くの仕事を爲し、又色々の仕事を計劃したが、本年の一月二十一日第七十議會會議再開劈頭の施政方針演說の直後、對議會策に關する閣內意見の不一
二致から突如として總辭職を決行する事となつた、其時僕は此一年弱の在官時代の思ひ出の種として豫て政黨政治家の讀物の隨一再寧ろ〓典と考へて居る十八史略の刊行を思ひ付いたを爲し、又僕が十八史略を初めて讀んだのは、數へ年で八ツか九ツの時であつたろう。ソレが其頃の小學校の〓科書であつたかドウか、ソレは今記憶にないが美濃紙判のカヘリの付いた原文であつた無論ソレは唯だ素讀する丈けの事で、文章の意味などの解ろう筈はない。ソレから其時ソノ本は五册か七册かであつたが、ソレを仕舞ひまで讀んだかドウか、ソレも今では全然記憶して居ない。ヨソノ頃、僕の家は、非常に貧乏て、當時八十歲位イの高齡の祖母と僕と二人キりの暮して、一ト月か二タ月置きに九州の方へ出稼ぎに行つて居る叔父さんから、僅かづつの送金があるのと、年寄りではあるが非常に元氣な祖母が木綿の手機を織つて少し位イ收入を得て居たらしい、ツノ收入とで、ドウやらコウやら平和に生活を立てゝ居た樣な有樣で、仲々上の學校へ這入れる事情ではなかつたのであつたが、一旦實家へ歸つて更に再緣をして居た母の心配で、山口縣で代言人をして居た母方の叔父母の弟から學資が出る事になり、ソノ關係から十歲であつたか十一歲で三
あつたかに山口縣の萩の叔父の家へ行く事になり、ソコデ萩學校といふ中學程度の學校へ入學する樣になつた。ソノ萩學校の入學試驗の準備の爲めに、堀内といふて士族屋敷のある街の益田といふ老人の漢學先生の私塾へ暫く通ふて居たが、ソノ時〓はつた漢文の本の一ツが矢張り十八史略であつた。ソレが僕が十八史略を讀んだといふか、讀まされたといふか、兎に角十八史略を讀んだ第二回目である固より其時も素讀である。少しは講義も聞いたかも知れぬが勿論意味などを味ふ力などのある筈はない天皇氏がドウの、地皇氏がドウの、兄弟何人各一萬八千歳など所謂荒唐無稽な夢の樣な文章や文字を、唯だ文章として文字として、御經を讀む樣に棒讀みにした以外の何ものでもなかつた。或はソノ時には何か意味も少しは解つた積りで讀んで居たかも知れぬが、ソレは唯だソレキリの事で、今に於てソノ時にソレをドウ云ふ具合に解釋して居たかの記憶などは全然ないのが眞實であつて、若し强いて記憶を喚起していふならば、益田の老先生から、一尺も有る樣な大きな箸の樣な煤竹で拵らへた竹の棒で一字一字指し示しながら、昨日〓はつた所を讀まされて、二字も三字も忘れて居て、柔和な優しい眼ではあつたが、ソレも忘れたかといつて叱
られるのの苦しかつたといふ事位イである。今アノ先生の顏はドウいふ顏であつたか、又何歳位イであられたか、ドウしても思ひ浮べられず、白髪雜りの太い長い眉毛と優しい眼と丈けが彷彿するのみである思へば人の記憶などといふものは隨分儚いものではある。併し、古人の傳記など讀んで見ると、六歲にして詩を賦したとか立派な文章を作つたとかいふ樣な事が書いてあるアレは、其人が偉い人であつたといふ事を現はす爲めに後人がイヽ加減に書いた賴朝公御十三歲の時の頭骸骨の類のものではあるまいか然らざれば僕の如きは隨分の鈍骨であつたといはねばならぬ。何れにしても僕が小供の時に旣に前後二回十八史略を讀んだ事のある丈けは事實であると同時に、其二回共に全く無我夢中で唯讀んだといふ記憶丈けが殘つて居るといふ事も事實である其後中學時代、高等學校時代、大學時代には全然十八史略などは思ひ出した事もなかつた。S&消天使の然るにイツの頃の事であつたか、又何處であつたか、又如何なる機會であつたか、又ソレが原文であつたか、和譯であつたか全然記憶はないが、妙な機會に十八史略のドコかを讀んで、何だ
か大變面白いと思ふて、ソレを友人と雜談の時の話の種子にして何度も〓〓話した事があつて、ソレから、又ドコか外の場所を讀んで又話の種子にしい〓〓した樣であつたが、其中に、之も何時であつたとも、何處であつたとも覺えぬが、久保天隨の假名雜りに譯した十八史略の袖珍本を手に入れて、ソレを始めから終りまで讀んで、非常に興味を感じて、無論、不勉强で有名な程の僕の事であるから、一氣に讀破するなんどいふ事は出來もせず、又しようともしなかつたが、丁度ソレが袖珍本でポケツトに入れて歩行くのに適して居つたので、イツも〓〓夫れを持つて歩行いて、思ひ出しては讀み、暇さへあれば讀みして、トウ〓〓ソノ本の綴お目がボロ〓〓になつた。落したか、ソレから其本をドコへやつたか-忘れたか、の間にか其本は失つて仕舞つたが、其後になつて、大正六年に衆議院の議員團の一員として、後にシヤムの公使になつた故政尾藤吉博士を團長とする一行に加はつて、故望月小太郞君、故山根正次君及び植原悅二郞君等と共にアメリカへ行つた時に旅行中の讀物の一つとして持つて行つたのが矢張り久保氏の和譯十八史略の袖珍本で、ソレは日本橋の至誠堂で發行したものであつた。九
一〇ソノ本はソノ時の旅行中から、歸朝後にかけ、大正十二年の大震災の時迄で持つて居て、慥か十一囘位イ讀んだかと記憶して居る讀み始める時には、必ず本の第一頁の餘白に大正······年···月···日始むと書き、讀み終つた時には又必ず···年···月···日讀了と記す樣にして居たから、今ソレがあれば、少くとも自分丈けには、好個の記念品である譯だが、惜しい事に、アノ大震火災で、他の屋財家財と共に一括鳥有に歸せしめて仕舞ふた。震災後勿忙の際、ドコで手に入れたか、當時既に十八史略愛讀者といはんよりは寧ろ十八史略信者といふ程になつて居た僕は又久保天隨氏譯十八史略袖珍本の携行者となつて居て、一昨々年の暮頃迄、例の通り、···年···月·日始む年十一月日讀了と記しつゝ十一囘の中途の頃、尾籠な話で恐縮であるが朝の行事の一つてある用便中不覺にもソノ本を便器の中へ落して仕舞つた。實はソノ本には、單に讀始讀了の年月日の記入許りでなく、欄外ヘイロ〓〓所感樣の事柄をも記入して居たので、惜くて仕樣がなかつたが、ドウする事も出來ず、ナニアノ本なら至誠堂へ行けば又得られるからと簡單に思ふて諦めたのであつたがサテ至誠堂へ電話をさせて見ると、何ぞ計らん、至誠堂といふ書
三店はモウ餘程以前に廢業して居たので、心當りの古本屋で捜して見たが生憎と仲々手に入らず、ソノ内に、凡そ四五種の袖珍本十八史略を購入したが、何れも久保氏の分の樣にないので、少からず失望して執着を禁じ能はず、兎もすれば知友との雜談中に其話をして、若し久保氏譯の袖珍本を見付けでもしたら知らして貰ひ度いナドいつて居た所、一昨年の五月十一日風月堂の常連の楕圓テーブルで、津村秀松博士がソノ本なら二三日前に大學正門前の古本屋で見たといはれたので、食後直ぐに其本屋へ行つて、第三册目の久保氏譯袖珍本十八史略を入手し得て、故人に廻り遭ふた思ひをして早速ソノ歸りの車の中から讀み始め、爾來第二囘目を本年一月二十日議會再開の前日に終つた次第で、中途何囘であつたかは記憶せぬが小供時代の二囘を合すれば記憶に存して居る丈けで、實に前後二十三囘半以上讀んだ譯である古人の諺に讀書百遍意自ら通ずとあるが、如何に鈍物の僕でも、是れ丈け讀んだら、人から十八史略博士などと冷評されるのも强ち理由なき事ではあるまい。ト同時に少くとも、十八史略について僕が一家言を有し、又ソレを書き若くは語つたからといふて强ち僣越とも云はれまいと思ふ一三
画宋初の名臣趙普は朝に大議ある每に必ず戶を闔ぢて一室に籠り自ら一篋を啓き一書を取り出して之を閱讀した。家人が不思議に思ふて其死後に其篋を開けて見たら、ソレは論語であつたといふ、彼れは甞て大宗皇帝に謂ふのに臣に一部の論語があります、其半部を以て御父太祖を佐けて天下を定め、其半部を以て陛下を佐けて太平を致しますといふたとある論語は聖人の問答錄であるから爲政家の〓科書として適當たる事勿論である。併し論語は所謂論語で理窟が多い寧ろ理窟許りである。理窟許りで事實の記述がない。ソコに行くと十八史略は記述である支那幾千年間の出來事の記述である。事實の記載であるから隨分無駄の處もある又馬鹿々々しい事もある。中には所謂白髮三千丈式で事實とは信ぜられぬ事も澤山あるあるけれども又ソコにいふにいはれぬ、理窟では解かれぬ理外の理も澤山にある孔夫子が千萬歲に師表として世界に君臨する大家でありながら時の政治現實の政治家として鄭の子產にも及ばなかつた所以、又之を後世としては論語崇拜の趙普自身にも及ばなかつた所以は十八史略を見て始めて知る事が出來る孔子になつて信者を後世に求め、治國平天下の理論を宣布せんとする者は論語を讀むべきである若し志三
天を當世に存じ眼前の社會を平和に安定に致さんとする者は十八史略を讀むべきである。之れが僕の愚見である。十八史略は讀んで字の如く史記漢書以下十八の史書の抄略である。故に著者會先之も編といふて、著とも述ともして居ない。從つて其歷史書としての價値とか抄略の仕方とかについて議論すれば隨分議論もあろうと思ふ、併し上下四千年に亙る大民族の政治的の動きを簡略に叙述した著作としては世界を通じて恐らく十八史略に及ぶものはなかろう。殊に其重點を各時代に活躍せる重要人物に置き、其言行性格を描出するに努めたる點は他の追隨を許さゞる所であるぶんてち解らは解きも知れ僕の郷國の大森といふ所に、五百羅漢の御堂がある五百體あるかドウか數へた事はをいが可なり澤山の羅漢像が安置してある其羅漢堂に參拜して見て居るとキツと、其中に自分の叔父さんとか何とか會ひ度いと思ふ近親の者が居るといはれて居る。十八史略を讀むで居ると自分の知つて居る政治家がキツと居る。忠臣も居る、良臣も居る逆臣も居る、破廉恥漢も居る、馬鹿も居阿呆も居る、而して英雄も居る、豪傑も居る、學者あり、哲人あり、奇入あり、變人あり、凡そ考へ得る如何なる種類の人間
〓でも其の見本が皆出て來る。豈に啻に五百羅漢堂に於ける叔父さんや祖父さんのみならんやであるソコに十八史略の値打があり、ソコに十八史略の妙味がある例へば嚴島神社の社殿の廻廊に揭げてある八方睨みの鹿の畫の如く、見る人見る人に異なりたる印象と感銘とを與へる。併し僕の經驗では-一體名著とか傑作とかいふものは皆なソウであるが十八史略は何度も〓〓讀まねば眞味が解らぬ樣である古人は熟路百遍名山を知らずといふたソウであるから、論語讀みの論語知らず-何遍讀んでも解らぬものは解らぬかも知れぬが、十八史略丈けはソウでないと思ふ。讀む度に味が違ひ、讀むに從つて面白くなるから-ソレがウソと思ふなら試みに始めて見られよ、此ポケツト用の袖珍本こそ僕が其意味其目的から特に思ひ付いて作つたのであるから、是非々々御勸めする次第である昭和十二年三月二十三日譯評者識一九
に思ひ付いて作ったのてゐるから、る大第てあて見られよト用の袖必本的から特むに從つて面みに始め1本『改訂版』序内閣も妙な行うかと更閣實は本書の初版は昭和十二年の四月に出來上つたのであるが、用紙の撰擇を誤つた爲め、製本して見ると少し部厚となり、提携に不便な感じがしたので、遣り直しする事にして、ソレが出來上つたのが其年の十一月三日であつた。其時は丁度今次事變勃發後間もなくで、北支方面の局部的出來事が漸く、中支方面に擴大して、行
く先きドウなるかを思はしむるモノがあり聞一般國民をして、第六感的に、今度は簡單には片付かないかも知れぬといふ樣に感ぜしめて居る時であつたので、折角出來上つたけれども、發賣の方は暫く差し控へる事にして居る內に、第一次の近衞內閣は更迭し,平沼內閣。阿部內閣から米内内閣になつて、.圖らずも自分は再び臺閣の人となるに至つたが、版その米內內閣も妙な行きサツから更迭して、現內閣-第一一次近衞內閣となつた。其間三年有餘足掛け五年の間に於ける内外の形勢を見ると、眞に文字通り走馬燈の如くで、常識では到底想像さべも出來ぬ程の大變化を眼前に見る事となつた。有爲轉變は世の習ひとは云ひながら、凡そ此四五年間の變轉こそは、(七七ノの勢ひとは申せ所謂オ釋迦樣でも御存じない所であらう。神功皇后の三韓征伐、北條時宗の元寇擊退、豐太閣の朝鮮征伐から、數百年にわたる倭寇の中南支沿岸侵略山田長政、呂宋助左衞門等々大和民族の大陸進出の
史實は隨分澤山あるが、軍紀嚴肅なる百萬皇軍の陸の大部隊が、北支蒙彊から支那四千年の歷史的事象の中心たる所謂中原の要地を押へ、更に南支一帶に亘りて-支那本部の殆ど全部を其勢力下に置くのみならず、幾十萬噸の海の精銳が全支那海から南洋一帶に及ぶ幾千海里の封鎻線を劃して、蟻の這ひ入る寸隙をも餘さぬといふやうな大規模の作戰が成し遂げられやうとは神ならぬ人間がドウして豫知し得たであらうか。驚きはソレ許りではない二十年前の戰敗國獨逸が、僅々七八ケ年のナチス政權の治下に-如何にヒツトラーがエライ男だといふたとて、イツの間にか、底の知れぬ程の軍備を整へ、右の手にソ聯を押へながら、左の手では、電擊又電擊老英帝國を完全に歐洲大陸からノウクアウトし、强豪フランスを蹂躪して、思ひ出多きコンペーユの森の同じ場所の同じ列車の中で、休戰條約に調印せしめて、吳越勝敗の史實を碧眼獨裁のヒ總統とぺタン首席將軍との主演でデビ五
六ユウーしやうなどと誰れが夢にでも見得る者があつたであらう。知つたか振り先生達の中には、イヤ俺はソノ位イの事にはなると思ふて居たとか、現に何時何處でコウいふ事を話した事があるではないかなどといふ輩もないではあるまいが、ソレは皆ソウいふ癖や病的の頭腦の持主達の事で、苟くもノーマルコングイシヨンの君子人としては、實に世界開闢以來未だ曾てなき大變轉といふの外はない乃ち其變轉たるや內にも外にも、。日支の關係に於ても、世界の情勢に於ても、眞に所謂前代未聞の大事變大爭亂ではあるが其縮圖ともいふべき幾多の實例がチヤンとコノ十八史略記する所の支那の歷史上の出來事の上に見る事が出來るのは、又實に不思議な位未である。日年午年變らがよ對支根本策の研究者巻案著中日獨伊三國同盟、對蘇對英、對米、對バルカン諸邦對南洋諸屬領課凡そ是等の關係を〓究檢討せんと欲する者は、退いて先づ數時間を割愛して、周末秦初-春秋戰
國數百年間の起伏の經緯を讀んで見られよ。更に、支那事變の落着-蔣介石の處置占領地域內の宣撫工作、新中央政府關係-大和民族として漢民族を如何に遇すべきかの問題-百年千年變らざる對支根本策の〓究者考案者達は、少くとも晋末に於ける五胡十六國の興亡史と、宋末、元初 契丹、女眞から蒙古族の勃興に至る經過を一讀再讀するの必要がある。古來揚子江は外來民族を溶解する漢民族の坩堝といはれて居る。他民族は勢ひよく侵入するが、侵入して武漢から南京一帶揚子江沿岸に本據を安堵する時が、イツでも彼等が、漢民族化される時で其漢民族化された時が、卽ち次の新興勢力に代られる時である。蒙古族の生んだ最大の武將にして大政治家であつた元の世祖忽必烈が、全支那に蒙古字學を建設して、蒙古魂を漢人の頭腦に植付けんとしたのは、千古曾てなき卓越せる治漢策と思はれたが、彼等蒙古人の勢力は今何處に殘つて居るか女眞族の北支に侵入するや中國九
一〇の難治を知りて、ロボツト皇帝劉豫を北京に擁立し、所謂以漢治漢の方策を採用した。而して劉豫は亦相當の男であつた。併し其結果は果して如何であつたか。遠交近攻は支那人の發明した外交策であつたことを知らねばならぬ彼等は數千百年前から夫れを實地に每度行つて居る。合縱連衡も支那人の考案である。本家は彼等である。孫子も吳子も蘇秦も張儀も、老、孔、孟、莊、皆支那人である。漢民族である。司馬溫公も、王安石も、程子も朱子も、王陽明も陸象山も皆支那人であり漢民族である。始皇も高祖も、項羽も、韓信も、張良も、范增も、玄德も、曹操も、孔明も、仲達も、關羽も、張飛も李世民も、朱元璋も岳飛も、文天祥も皆漢人である。更に遠くは堯舜禹湯、武王も周公も大公望も皆漢人であるから、漢語を話し、漢文を書き漢文を讀んだ者許りである。ソレ等の歷代の英雄傑士の感化が現在の漢民族-現在の支那人に、如何に深く浸透して居るかを
三十二分に呑み込んでの上でなくて、ドウして支那人を扱支那人と交り、中華民國と永く交誼を續け得る事が出來やうか。ソレは恰も天孫降臨から、神武の御創業御歷代聖天子の下に幾千年撫育せられ、日本武尊や武內宿禰や鎌足や〓麿や義家や賴朝や弘法や親鸞や日蓮や時宗や正成や義貞や信玄や謙信や信長や秀吉や家康や光圀や子平や松蔭や西〓や、木戶や、大久保や等々の、日本語を話し、日本語を書き、日本語を讀む日本人=大和民族の生んだ英雄傑士等の、言行、行狀に感化せられ、育成せられた、此大和民族の日本魂を解得せずして、日本人を扱はんとするのと同樣である。日本人を知らんとする者は何を措いても日本の歷史を知らねばならぬ如く支那人を知り支那人を扱はんとする者は、何を措いても、支那の歴史を知らねばならぬ。而してソレには第一番の早途は、此十八史略を讀む事である。少なくとも支那を知る手引と三
西して-縱の支那を知る道案內として、十八史略以上のものはない之れが自分の確信である。事變關係で支那大陸へ行つた人、行く人は無數である。併しながら、夫等の人々は皆横の支那-平面の支那を見得る丈けである。橫の支那-平面に支那を知つた丈けでは支那を知つたとは申されぬタトヘ簡單でも縱の支那を知るにあらざれば、對支の大計長策は立たぬ筈である。卽ち茲に拙者が用紙不自由なる現下の出版界に於て敢て此書を改訂出版して大方有志に薦むる味噌がある。自分もモウ本年六十五歲である。相當頑健の方ではあるが實は餘命幾何かあるである。又之れから大陸に渡りて何をする事も出來やうとは思はれぬが、自分の推薦に從つて本書を讀む人-殊に靑壯有爲の人達の中には、必ずや對支政策-萬代不易の對支政策を案出し、日滿支團結東亞共榮圈確立、而して大東亞新秩序の建設、因て以て世界永遠の平和樹立に貢献して、八紘一宇の大理想五
六の顯現を成就するの機緣に遭遇し得る人が出て來る事を確信する次第である皇紀二千六百一年紀元節の夜識了譯評者硯堂學注意ヶ専門的登容一、〓言に於て述べて居る通り興味を本位として、原文の儘では讀み惡いので便宜之を和文に譯したのであるから、成るべくスラ〓〓讀める樣に譯した積りであるが、併し矢張り譯文であつて講義ではないから、可なり意味の不明瞭と思はるゝ點のある事は免れない11一、從て數ケ所欄外に註解を加へても見たが何分袖珍本で餘白が少いので思ふ樣に出來なかつたのはドウも遺憾である。十八評言もモ少し詳しく且つ多く書き加へたかつたけれども、ヤヽもすれば獨りヨガリになり却て讀者の眼ザワリになるかも知れぬと思ふてワザ
と遠慮した次第である。是れ迄僕の見た十八史略には皆色々と序文外にも前置が載せられて居る例へば十八史とは史記と漢書と何と何とであるとか、十八史略の原本はドウであるとか、編者曾先之とは如何なる人であるとかいふが如きの類である。併し僕はソレ等の類のものは一切省略する事にした。は〓言中にいふた如く、僕は十八史略を絕好の讀み物として政治家諸君に勸めたい爲めに特にコンなポケツト用に仕立てさせた位イで、之を歷史學の參考書といふ樣な意味に考へなかつたからである。于併し一旦大方の翻讀に供した後、モツと色々專門的詮穿を加へるのがヨイとなれば或は他日付け加へるかも知れぬ。評譯十八史略目次卷之太古三皇太昊伏義氏四炎帝神農氏五黃帝軒轅氏七五帝少昊金天氏七七顳項高陽氏
春周殷夏秦燕楚韓魏趙田齊陳晉鄭衞魯宋曹蔡吳秋氏后帝舜有虞氏帝堯陶唐氏帝嚳高辛氏齊戰國氏三二一一〇六101一〇〇九ル宅空尭尭毛四七四五·四五·四五完·二五一八九
卷卷東西秦孝孝之孺孝孝孝孝孝之世祖光武皇帝·孝孝孝孝始孝太祖高皇帝二章明三子平哀成元宣昭武景文惠世皇二皇皇漢皇皇皇皇皇皇皇皇皇皇漢皇帝帝嬰帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝五四三〇七三〇一二六九二六九二六〇晃二五八二五三二四七二二八二二三111一九九九一八九一四三三三三二三三
卷東西漢三之顯宗成皇帝孝孝孝後肅宗明皇帝中宗元皇帝世祖武皇帝昭孝孝孝孝孝附魏吳二僣國孝孝孝孝四愍懷惠烈獻靈桓質冲順安殤和皇晉皇皇皇晉皇國皇皇皇皇皇皇皇皇皇帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝七四一〇四〇六三九七三九七三九五三九三三八二〓〓奏三五五三五四三五四三四〇三三四二三三三三三二一三一八昌三〇九
卷唐之南肅梁齊宋恭安簡睿中烈宗孝武皇帝高太宗文武皇帝·陳帝玄宗明高祖神堯皇帝隨哀康五北孝宗穆宗宗宗宗文皇皇皇皇皇皇皇皇朝皇帝皇帝·帝帝帝帝帝帝奕帝皇帝帝九五六五五五一五四九五三九五三六五一三五〇一五〇一穿異四八〇四六七四六三四五〇四四九買圖四三二四三一四二九四二九四二〇四一九
卷五唐梁之哀昭僖懿宣武文敬穆憲順德代潞閔明莊均太六宗宗宗宗宗宗宗宗宗宗宗宗宗宗祖皇代皇皇皇皇皇皇皇皇皇皇皇皇皇皇皇帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝帝王帝帝帝王帝二一〇〓六四四六四二六三五六三五六三一六二五六二五六二五六二三츳六一三六一一六〇七六つ一五九六五九六五九五五八九五八八五七七五七一
卷南宋宋欽徽哲之神英仁眞太太周漢晉宗宗宗七宗宗宗宗宗祖恭世太隱高出高宋皇皇皇皇皇皇皇皇皇宗祖祖祖帝帝帝帝帝帝帝帝帝皇皇皇皇帝帝帝帝帝帝帝一三三八〇七七九七麦夫夫七三七七三五七一八七〇七六九六六七〇六七〇六六九六六二六五九〓六五六六五四六五三六五〇六四六〓
評譯兄弟十二人、太【地皇氏】火德を以て王たり。【天皇氏】木德を以て王たり。十八帝端理孝恭懿聖皇帝度寧光孝高古宗宗宗宗宗宗宗太皇皇皇皇皇皇皇各一萬八千歲。史略昺帝帝帝帝帝帝帝古元卷之一歲攝提より起る。としせつてい兄弟十二人、島曾田先各一萬八千歲。俊無爲にして化す。む之雄 譯評一四以編上九三三九二六九一七九〇四八六四會八四七八四〇八〇七
十八史略卷之一註九【人皇氏】兄弟九人、揚竟州とは冀、、青、分つて九州に長たり。凡そ一百五十世、合せ徐、、荊、て四萬五千六百年。豫、業界上雍)卽ちにいうそうしかまつ全體なり部人皇以後【有巢氏】といふものあり、すゐじんしひうちき木を構へて巢を爲り、くわしよく木實を食ふ。しよけい始火食の始家族生活の以前に在り。いぜん【燧人氏】に至り、年代國都、始めて燧を鑽つて、攷ふべからず。かんが人に火食を〓ふ。書契皇太昊伏義氏料漁餘文占始始始始始たいかうふくぎしふうせいすゐじんしじやしんじんしゆ【太昊伏義氏】風姓。燧人氏に代つて王たり。蛇身人首。始めて八くわくしよけいけつじようせいかしゆれいひ卦を畫し、書契を作り、以て結繩の政に代ふ。嫁娶を制し、儷皮をれいもうこてんぎよぎせいやしなはうちうもち以て禮となす。網罟を制して佃漁を〓へ、犧牲を養ひ庖廚を以ふ。はうぎりようずゐりようし木故に庖犠といふ。龍の瑞あり、龍を以て官に紀す、龍師と號す。とくちん德の王たり。陳に都す。はうぎほうちよくわししやうくわう音樂の始庖犠崩ず。【女媧氏】立つ。亦風姓、木德の王たり。始めて、笙簧きようこうししゆくゆう戰亂の始を作る。諸侯に共工氏あり、祝融と戰ひ、勝たずして怒る。乃ち頭ちゐかしきしふしうざんほうてんちうくぢ五色の石天柱折け地を不周山に觸れて崩ず。天柱折け、地維缺く。女媧、乃ち維缺くおぎながうたろくわいを鍊りて以て天を補ひ、驚の足を斷ちて以て四極を立て、蘆灰を聚とうすゐめて以て、滔水を止む。是に於て、地平かに、天成つて、舊物を改めず。じつ女媧氏沒す。【共工氏】【太庭氏】【柏皇氏】【中央氏】【歷陸氏】【驪皇三
十八史略卷之一四葛天氏連氏】【赭胥氏】【尊虚氏】【混沌氏】【昊英氏】【朱襄氏】【葛天氏】【陰康氏】【無懷氏】あり。風姓相承くるもの、十五世。炎帝神農氏つ【炎帝神農氏】姜姓人身牛首。風姓に繼で立つ。火德の王たり。畊木を斷つて耜となし、商醫祭農始始始始木を揉げて耒となし、始めて畊を〓へ、蜡の業藥神祭を作す。··赭鞭を以て草木を鞭ち、百草を甞めて、始めて醫藥有り。人をして、日中に市を爲し交易して退かしむ。陳に都し、曲阜に徒る【帝承】【帝臨】【帝則】【帝百】【帝來】【帝襄】【帝楡】に傳ふ。姜姓、凡そ八世、五百二十年。黃帝軒轅氏【黃帝】公孫姓、又曰く姫姓。名は軒轅、有熊國の君、少典の子な上はり母大電の北斗の樞星を繞るを見、感じて帝を生む。炎帝の世以て不衰へ、諸侯相侵伐するや、軒轅、乃ち干戈を用ゆるを習ひ、簒奪の始享を征す。諸侯咸く之に歸す。炎帝と阪泉の野に戰ひ、之に克つ。上霧を作す。蚩尤、亂を作す。其人、銅鐵の額、能く大軒轅、指南車を作り、量尤と泳鹿の野に戰つて之を禽にし、遂に炎帝に代つて運輸交通の天子となる。土德の王たり。雲を以て官に紀し、雲師となす。舟車始を作り、以て通ぜざるを濟す。風后を得て相となし、力牧を將とな三皇五
十八史略卷之一六かとうじつげつせいしんしやうせいくわんしだい甲子の始す。河圖を受く。日月星辰の象を見て、始めて星官の書あり。師大曆の始たうとけんうらなかふし(やうせいれきれいしゆさんすう算數の始撓斗の建を占うて、甲子を作る。容成は曆を造り、隸首は算數を音律の始伶倫は嶼谷の竹を取つて、れいりんかいこくりつとうせいほうめい作り、十二律の筩を制し、以て鳳鳴を聽ゆうめいしめいわうじききうりくりつりくりよく雄鳴六、雌鳴六、黃鐘の宮を以て、六律、以て氣六呂を生じ、おううかゞしやうごいんわの應を候ひ、十二鐘を鑄て、以て五音を和す。ひるいくわしよいぜんじとく嘗て、晝寢ね、夢に華胥の國に遊び、怡然として自得す。其後、ほとこと夢に華胥に遊ぶ天下大に治まり、幾んど華胥の若し。かなへいぜん世に傳ふ。こ黃帝、銅を采つて、鼎を鑄、鼎成るや、龍あり胡髯くだむかのぼこうきうを垂れて、下り迎ふ。帝、龍に騎して、天に上る。群臣後宮從ふ者のぼりようせんじひげぬおと七十餘人、小臣上るを得ず、悉く龍髯を持す。髯拔く。弓を墮す。いだなていこその弓を抱いて號く。後世。その處を名づけて鼎湖といひ、その弓うがう註世紀に日を烏號といふ。く黃帝在位百年黄帝、二十五子あり。その姓を得たるもの十四。西紀前二二五帝〇〇頃少昊金天氏せうかうきんてんしげんげうせいやう註世紀に日【少昊金天氏】名は玄囂、黄帝の子なり。亦た靑陽といふ。其立つく少昊在位ほうてうたまた八十四年や、鳳鳥適ま至る。鳥を以て官に紀す。顓項高陽氏五帝七
十八史略卷之一八註く韻項在位世紀に曰顳項高陽氏】昌意の子、黃帝の孫なり。少昊に代つて立つ。少昊七十八年きうれいとくの衰ふるや、九黎德を亂し、民神雜糅して、方物すべからず。顳項之を受け、乃ち南正重に命じ、天を司つて以て神を屬し、火正黎は地を司つて以て民を屬し、相侵し瀆すことなからしむ。始めて、曆爲す孟春を元とを作り、孟春を以て元となす。帝譽高辛氏註く帝譽在位世紀に日【帝譽高辛氏】玄囂の子、黄帝の曾孫なり。生まれて神靈。自ら其七十五年名を言ふ。顳項に代つて立ち、毫に居る。帝堯陶唐氏【帝堯陶唐氏】伊祁姓。或は曰く名は放動、帝譽の子なり。其仁、天の如く、其知、神の如し。之に就けば、日の如く、之を望めば、庭に生ず。雲の如し。平陽に都す。茆茨剪らず、土階三等。草あり十五日以前は、日に一葉を生じ、以後は日に一葉を落し、月小盡す旬朔の始れば、一葉厭して落ちず、名けて蓂莢といふ。之を觀て、旬朔を知評堯の舜にる、天下を治むる五十年。天下治まるか、治まらざるか億兆己を優る所以玆に在り戴くを願ふか、己を戴くを願はざるかを知らず、左右に問ふも知らす。外朝に問ふも知らず。在野に問ふも知らず。乃ち微服して康衢五帝九
十八史略卷之一一〇童謠の始に遊び、童謠を聞く。曰く、立我烝民。莫匪爾極不識不知。鼓腹擊壤順帝之則。と。老人あり、哺を含んで鼓腹し、壤を擊つて歌うて曰く、日出而作。日入而息。鑿井而飮。畊田而食。帝力何有於我哉。と。あ、聖人華に觀ぶ。華の封人曰く、嘻請ふ聖人を祝せむ。聖人をして、壽富にして、男子多からしめむ。堯曰く、辭す。男子多ければ則ち評支那獨特懼多く、富めば則ち事多く、壽なれば則ち辱多し。封人曰く、天、人生會觀と生觀萬民を生じ、必ず之に職を授く。男子多くとも、之に職を授くれば、何の懼か之あらむ。富むとも、人をして、之を分たしめば、何の事か之あらむ。天下道有れば、物と與に皆昌へ、天下道無ければ、德を修めて、間に就く。千歲世を厭はば、去つて上僊し、彼の白雲に乘じて、帝〓に至る、何の辱か之あらむと。堯立つて七十年、九年の水あり。縣をして、之を治めしむ。九載績あらず。堯、老いて、勤に倦む。四嶽舜を擧げて、天下の事を攝行せしむ。す丹朱不肖な堯の子、丹朱、不肖なり、乃ち舜を天に薦む。堯崩ず。舜、位に卽讓位の始く帝舜有虞氏:帝舜有虞氏】姚姓。或は曰く名は重華。瞽瞍の子、顳項六世の孫五帝
十八史略卷之一三なり。父、後妻に惑ひ、少子象を愛し、常に舜を殺さむと欲す。舜?舜の德孝悌の道を盡し、烝烝として父めて姦に格らしめず。歷山に畊すや民皆畔を讓る。雷澤に漁するや、人、皆居を讓る。河濱に陶するや器、苦窳せず。居る所、聚を成し、二年邑を成し、三年都を成す。堯、之が聰明を聞き、吠畝に擧げ、妻はすに、二女を以てす。娥黃女英娥黃女英といふ。媽〓に釐降す。遂に堯に相として、政を攝す。驩兜を放ち、共工を流し、鯀を殛し、三苗を竄し、才子、八元八愷を(3く擧げ、九官を命じ、十二牧に咨り、四海の內、咸な舜の功を戴く。五弦の琴を彈じ、南風の詩を歌ひ、而して、天下治まる。詩に曰ふ、南風の詩南風之薰兮。可以解吾民之慍兮。南風之時兮。可以阜吾民之財兮。時に景星出で、卿雲興る。百工相和して歌うて曰く、卿雲爛分。禮縵縵分日月光華。旦復旦兮。と+商均不肖舜の子商均、不肖なり。乃ち禹を天に薦む。舜南に巡狩し、蒼梧の野に崩ず。再.位に卽く。夏后氏人おと以て心とな有馬治水【夏后氏禹】姒姓。或は曰く名は文命。縣の子、顳項の孫なり。鯀洪水を湮ぐ。舜、禹を擧げて縣に代らしむ。身を勞し、思を焦し、外に居ること十三年家門を過ぐれども入らず。陸行には車に乘り、水行には船に乘り、泥行には橇に乘り、山行には樺に乘り、九道を夏后氏三
十八史略卷之一画註治五千年たの來水支は那通じ、九澤を陂し、九山を度り、その成功を〓ぐ。舜、これを嘉し政治り中心課題百官を率ゐて、天下の事を行はしむ。舜、崩ず。乃ち位を踐む。聲は律と爲り、身は度と爲る、準繩を左にし、規矩を右にす。一饋評湯堯德舜各異禹に十たび起ち、以て天下の民を勞す。出でて、罪人を見る車を下ら準備む之時ハり、問うて泣いて曰く、堯舜の人は、堯舜の心を以て心となす。を世 (寡る也人君となるや、百姓各自ら其心を以て心となす。寡人これを痛むと酒の始古體酪あり禹の時に至つて、儀狄、酒を作る。再、飮んで之を甘しとす。曰く後世必ず酒を以て國を亡ぼす者あらむと。遂に儀狄を疏んず。九鼎を鑄る九牧の金を收めて、九鼎を鑄、三足は三德に象り、以て上帝鬼神を享す。諸侯を塗山に會す。玉帛を執る者萬國。命を天に受禹江を濟る。黄龍、舟を負ふ。舟中の人懼る。禹、天を仰いで、生は寄なり歎じて曰く、吾.命を天に受け、力を竭して、萬民を勞ふ、生は寄死は歸なりなり、死は歸なりと。龍を視ること、猶ほ蝘蜓のごとく、顏色變せず。龍.首を俛し、尾を低れて逝く。南巡して、會稽山に至つて崩ず。す子【啓】實なり。能く、禹の道を繼ぐ。再.嘗て、益を天に薦むリ謳歌し、朝覲する者、益に之かずして、啓に之く。曰く、吾が君の夏后氏玉
十八史略卷之一天子なりと。啓、遂に立つ。有扈氏、無道なり。啓、與に甘に戰ふ。啓、崩ず。子【太康】立つ。盤遊して返らず。有窮の后羿、其弟【仲康】を立て、其政を專らにす。義和、義を守つて服せず。羿、王命を假り、胤侯に命じて、之を征す。仲康崩ず。子【相】立つ。羿、相を逐うて自立す。嬖臣寒浞、又羿を殺して自立す。相の后は、有仍少康)國君の女なり。興族田すに一方に娠めり、有仍に奔つて【少康】を生む。其後 少し成て衆復一康田一成、衆一旅あり。夏の舊臣靡に因つて、兵を擧げ、浞を滅して、禹の績を復す。少康以來、【王将】【王統】【王池】【王不降】【王鳳】主唐】を歴onedaて【王孔甲】に至る。鬼神を好み、淫亂を事とす。夏の德衰ふ3층天、二龍を下す、雌雄あり。陶唐氏の後、劉累といふ者あり龍を擾すを學び、以て孔甲に事ふ之に姓を賜うて御龍氏といふ。龍一雌死す。潛に醢とし、以て孔甲に食はしむ。復た之を求む。累、懼れて逃る。桀と末喜孔甲の後、【王皐】【王發】【王履癸】を歷、號して桀となす。貪虐評女色滅國なり。力能く鐵鉤の索を伸ぶ。有施氏を伐つ。有施、末喜を以て女肉はす。寵あり、言ふ所皆從ふ。傾宮瑤臺を爲り、民財を殫くす。肉山脯林山脯林、酒池以て船を運すべく、糟堤以て十里を望むべく、一鼓し酒池糟堤て牛飮する者三千人。末喜、以て樂となす。國人大に崩る。政治革命の始湯、夏を伐つ。桀、鳴條に走つて死す。夏、天子たること、一十夏后氏モ
十八史略卷之一六有七世、凡そ四百三十二年。殷湯王殷王成湯】子姓、名は履。其先を契といふ。帝譽の子なり。母は西紀前)七六〇簡狄、有城氏の女。玄鳥の卵を墮すを見、之を呑んで契を生む。唐-し虞の司徒となり、商に封ぜられ、姓を賜ふ。昭明、相士、冐若、曹圍に傳へ冥といひ、振といひ、微といひ、報丁、報乙、報丙、主壬、主癸といふ。主癸の子天乙、これを湯となす。始めて、毫に居り、先王の居に從ふ。人をして、幣を以て、伊尹を莘に聘せしめ、これを夏桀に進む。用ゐず、尹湯に復歸す桀、諫むる者關龍ミ諫者關龍逢逢を殺す。湯、人をして、之を哭せしむ。桀怒り、湯を召して、夏臺に囚す。已にして、釋さるるを得たり。[太甲湯出づ。網を四面に張つて之を祝するものあるを見る。曰く、天より降り、地より出で、四方より來る者は、皆、吾が網に罹れと。あ評湯の至言、湯曰く、嘻これを盡せりと。乃ちその三面を解き、改め、祝して彼が政聖たる所以曰く、左せむと欲せば左せよ、右せむと欲せば右せよ、命を用ゐざる者は、吾が網に入れと。諸侯、之を聞いて曰く、湯の德、至れり、禽獸に及ぶと。伊尹、湯に相として、桀を伐ち、之を南巢に放つ。諸侯、湯を尊んで天子となす。殷元
十八史略卷之一흐大に旱すること七年、太史これを占して曰く、當に人を以て禱るべしbb湯曰く、吾が、爲に請ふ所の者は民なり。若し必ず人を以て禱るならば、吾請ふ、自ら當らむと。遂に齋戒して、爪を剪り、髪を斷ち、素車白馬、身に白茆を嬰け、身を以て犠となし、桑林湯六事をの野に禱り、六事を以て自ら責めて曰く、政節あらざるか。民以て自ら責職を失へるか。宮室、崇きか。女謁盛なるか苞直行はるるか讒夫、昌なるかと。言未だ已まざるに、大に雨ふること、方數千里。湯崩ず。太子【太丁】早く卒す。次子【外丙】立つ。一一年にして崩ず。弟【仲壬】立つ。四年にして崩ず。太丁の子【太甲】立つ。不明なり。評人同年十體壓のは伊尹、之を桐宮に放つ憂に居ること三年過を悔い、自ら責む。か、尹、乃ち奉じて、毫に歸し、德を修む。諸侯、これに歸す。太甲より【沃丁】【太庚】【小甲】【雍己】を經て、【太戊】に至る。毫に祥あり。桑と穀と朝に共生し、一日の暮に、大さ拱なり。伊陟曰妖不勝德く妖は德に勝たず。君、それ德を修めよと。太戊、先王の政を修む。二日にして、祥桑枯死す。殷道復た興る。號して、中宗と稱す。遷都太戊より【仲丁】【外王】を歷て【河亶甲】に至る。水患を避けて桐に遷る。【祖乙】に至り、耿に居る。又耿に圮らる。【祖辛】【沃甲】【祖丁】【南庚】【陽甲】を歴、【盤度】に至り、耿より復た毫に遷る。殷道復た興る。殷
十八史略卷之一三盤庚より【小辛】【小乙】を歷て【武丁】に至る。夢に良弼を得たり。說といふ說胥靡の爲に傅巖に築く。求めて、之を得、立てて相と爲す。武丁、湯を祭る。飛雉あり、鼎に昇つて唯く。武丁懼れて、己に反る。般道復た興る。號して、高宗と稱す。武丁より【祖庚】【祖甲】【原辛】【庚丁】を歷て【武乙】に至る。無道なり。偶人を爲つて、之を天神といひ、之と博し、人をして、爲に行はしめ、天神勝たざれば、乃ち之を慘辱し、革囊を爲つて、血を盛り、仰いで之を射、命づけて天を射るといふ出でて獵するや、暴雷の爲に震死す。紂王【太丁】【帝乙】を歷て【帝辛】に至る。名は受、號して紂となす。言は以て非を資辯捷疾、猛獸を手格す。智は以て諫を拒ぐに足り、飾るに足る。始めて、象箸を爲る。箕子歎じて曰く、彼象箸を爲玉杯象箸る必ず盛るに土簋を以てせず、將に玉杯を爲らむとす。玉杯象箸必ず藜藿を羹にし、短褐を衣て、茆茨の下に舍らず。則ち錦衣九重、高臺廣室之に稱うて、以て求むれば、天下も足らずと。妲巳紂、有蘇氏を伐つ。有蘇、妲巳を以て女はす、寵あり。其言、皆苛歛誅求從ふ。賦稅を厚くし、以て鹿臺の財を實たし、鉅橋の粟を盈たす。酒池肉林爲沙丘の苑臺を廣め、酒を以て池となし、肉を懸けて林となし、長夜長夜飮の飮をなす。百姓怨望し、諸侯畔く者あり。紂、乃ち刑辟を重くす。銅柱を爲り、膏を以て之に塗り、炭火の上に加へ、罪ある者をして發雪
十八史略卷之一画上つ子之に緣らしむ。足、滑にして、跌いて火中に墜つ。妲巳と之を觀て炮烙之刑徵子比干大に樂む。名づけて炮烙の刑といふ。淫虐甚し。庶兄微子、數ば評今紂稀王諫むれども、從はず。之を去る。比干諫めて、三日去らず。紂怒「ここに見てけ.古る所而つて曰く、吾聞く、聖人の心には七竅ありと。割いて、其心を觀至胸し七聖りをて竅人て割比あの七竅る。箕子佯狂して奴となる。紂之を囚ふ。殷の大師、其樂器祭器を持して周に奔る。に言語周侯昌及び九侯、しす鄂侯、紂の三公たり。紂、九候を殺す。鄂侯、爭ふ〓せて之を脯にす。昌、聞いて歎息す。紂昌を差里に囚ふ昌の臣散宜生、美女珍寶を求めて進む。紂大に悅び、乃ち昌を釋す。昌、退いて德を修む。諸侯多く紂に叛いて之に歸す。昌、卒す。子發立ち、諸侯を率ゐて紂を伐つ。紂牧野に敗る。寶玉を評てや紂な人得所自寶のな謂ら玉亡る自焚をぶ衣衣て、自ら焚死す。般亡ぶ。業死自すも殷の男箕子、後周に朝す。故の殷の墟を過ぎ、宮室毀壞して禾黍を生性的る所ミを顯はすもずるを傷む。哭せむと欲す。不可なり。泣かんと欲す。爲婦人にのといふべひいでゝぜん〓〓たり近し。乃ち麥秀の歌を作つて曰く、麥秀漸漸兮。禾黍油油兮。彼麥秀之歌狡童兮。不與我好兮と。殷の民、之を聞いて皆流涕す。殷天子たること三十一世、六百二十九年。周西紀前一一二〇【周武王】姫姓、名は發、后稷十六世の孫なり。后稷、名は棄。棄間三
十八史略卷之一天きようげんていこくの母を姜嫄といふ。巨人の跡を見、こゝろきんぜんふ帝譽の元妃たり。野に出で、ふしやう心欣然として、あいかう之を踐み、棄を生む。以て不祥となし、之を隘巷に棄ふうつおたまたつ馬牛避けて踐まず。·徒して、山林に置く。適ま林中、人多きにうつふくよく會す。之を氷上に遷す。じとききつ鳥之を覆翼す。以て神となし、遂に之を收む。いうぎしゆじゆ兒たる時、屹として、巨人の志の如し。その游戯するや、種よろしきみかしよく樹を好む。たうたうぐか成人に及ぶや、能く地の宜を相る。だい民に稼穡を〓へ、陶唐虞夏の際に興る。べつこうしよく農師となり部に封ぜらる。其姓を別にし、后稷と號す。卒す。こふしゆつたミヽふしゆつ子不宙立つ。じゆうてき夏目に、政衰ふるや、不宙、其官を失ひ、戎狄のはしきくたこ間に奔る。こうりうた不密卒す。ま子鞠立つ。鞠卒す。子公劉立つ。復た后稷のかうしゆなづこけいせつた業を修めて、畊種を務む。百姓之に懷く。公劉卒す。子慶節立ちひんこうぼくしんふつきゅこうひかうぎよあぎよこうしゆくそ豳に國す。皇僕、參弗、毀險公非、高圍、亞圍公叔鉏を歷て、こうたんほひんしつしよれうざんこ古公亶父に至る。くんいく獵鬻之を攻む。幽を去り、漆阻を渡り梁山を踰きざんしうひんじんいはえ、岐山の下に邑して居る。〓人曰く仁人なり失ふべからずと。老たすたらしばうこくを扶げ、純米吟醸以て從ひ、他の旁國、皆之に歸す。ちやうしたいはくちうひたいきようぜうしきれき古公の長子太伯、次は虞仲。その妃太姜、少子季歷を生む。季歷たいにんめとしやうせいずゐきれき太任を要り、昌を生む。聖瑞あり。太伯、虞仲、古公が季歷を立てけいばんだんはつぶんしん以て昌に傳へむと欲するを知り、乃ち〓蠻に如き、斷髪文身以て季こうきたせいはく歷に讓る。古公卒し公季立つ公季卒し昌立つ。西伯と爲る。西伯ぜいた文王聖德德を修め、諸侯、之に歸す。虞芮田を爭ひ、決する能はず。乃ち周周元
十八史略卷之一元に如く、界に入つて、畊者を見るに、皆畔を遜り、民俗、皆、長に讓る。二人慙ぢて、相謂つて曰く、吾が爭ふ所は、周人の恥づる所乃ち西伯に見えずして還り、なりと。倶に其田を讓つて取らず。漢南西伯に歸する者、四十國皆以て受命の君なりと爲す。天下を三分して、その二を有つ太公望呂尙といふ者あり。東海上の人。窮困して年老い、(3漁釣して、周に至る西伯將に獵せむとす。之をトす。曰く、龍に非ず、影に非ず、熊に非ず羆に非ず、虎に非ず、貔に非ず、獲る所は覇王の輔ならむと。果して、呂尙に渭水の陽に遇ふ與に語て大に悅で曰き吾が先君太公より曰ふ、當に聖人ありて周に適くべし、周、く因を一つて以て興らむと。子は眞に是れか。吾が太公、子を望むこと久しとと故に之を號して太公望といひ、載せて與に倶に歸り立てて師となす、これを師尙父といふ。武王武德西伯卒して、子發立つこれを【武王】となす。東兵を觀して、盟津に至る。白魚、王の舟中に入る。王俯して取り、以て祭る。ざすでに渡る、火あり、上より下に復し、王の屋に至り、流れて烏となる。其色赤く、其聲魄。是時、諸侯期せずして會する者八百。皆曰く、紂、伐つべしと。王可かずして、引き還る。紂悛めず。王乃ち紂を伐ち、西伯の木主を載せて以て行く。伯夷、叔齊、馬を叩伯夷叔齊へて諫めて曰く、父死して葬らず、爰に干戈に及ぶ、孝といふべき周元
十八史略卷之一三〇か。臣を以て君を弑す、仁といふべきかと。左右、之を兵せむと欲す。太公曰く、義人なりと。扶けて之を去らしむ。王すでに殷を滅して、天子となり、古公を追尊して、太王となし、公季を王季となし、西伯を文王となす。天下、周を宗とす。伯夷、叔齊之を恥ぢて、周の粟を食はず、首陽山に隱れ、歌を作つて曰く、登彼西采薇之歌山兮采其微矣。以暴易暴兮不知其非矣。神農虞夏忽焉沒兮我安適歸矣。于嗟徂兮命之衰矣と。遂に餓えて死す周公武王崩ず。太子誦立つ。之を【成王】となす。成王幼なり。周公、評所謂周公家宰に位して、政を攝す。管叔、蔡叔、流言して曰く、公、將に孺流言飛語之時子に利あらざらむとすと。武庚と亂を作す。武庚は武王立つる所、紂の子祿父、殷の後たる者なり。周公東征して、武庚管叔を誅し、蔡叔を放つ。王、長ず。周公政を歸へす。初め、武王、鎬京を作る。之を宗周といひ、之を西都となす。將に洛邑に營まむとして未だ果さず。王、武王の志の如くせむと欲す。召公、遂に宅を相る。周公、洛に至つて、王城を築き、之を東都となす。洛を天下の中と爲す。四方入貢の道里均しきを以てなり。王、西都に居り、諸侯を東都に朝會す。周公召公、成王を相けて、左右の人となる。陝より以西は、召公これを主り、陝より以東は、周公これを主る。交趾の南に越裳氏あり、三譯を重ねて來り、白雉を獻じて曰く、周三
十八史略卷之一三「中國」の起源吾命を國の黄者に受く。天に烈風淫雨なく、海、波を揚げざる三年意ふに、中國に聖人あるかと。周公、王に歸し、宗廟に薦む。指南車使者、歸路に迷ふ。周公之に賜ふに駢車五乘を以てす、皆、指南の制を爲す。使者、之に載り、扶南林邑の海際より、期年にして、國に至る。故に、指南車、常に先導をなし、遠人を服して、四方を正すを示す。刑錯而四十餘年不用成王崩ず。子【康王到】立つ。成康の際、天下安寧、刑錯いて、四十餘年用ゐず。康王崩ず。子【昭王瑕】立つ。昭王、南に巡狩して、楚に至る。膠舟を以て、之を載す。溺れて返らず。上造父善く馬を御す子【穆王滿】立つ。造父といふ者あり、善く御するを以て、王に幸せらる八駿馬を得て、天下を遊行し、將に、皆車轍馬跡あらしめむとす。王、西巡す。世に傳ふ、王、この時を以て、西王母に瑤2-池の上に觴し、樂んで歸るを忘ると、徐の偃王、亂を作す。造父、ぎ王に御とし、長驅して、歸つて、亂を救ひ、楚に〓げて、徐を伐たしむ。徐敗る。王、將に犬戎を征せむとす。祭公謀父、諫めて曰く、先王、德を輝かして、兵を觀さずと。王、聽かずして、之を征し、四白狼、四白鹿を得て歸る。是より、荒服の者至らず、諸侯睦じからず。崩ず。子【共王緊扈】立つ。崩ず。子【懿王轄】立つ。崩ず。弟【孝王辟方】立つ。崩ず。子【夷王變】立つ。堂を下つて諸侯を見る。楚、始めて、僭して王と稱す。周三三
十八史略卷之一画れ夷王崩ず。子【属王胡】立つ。無道にして、暴虐侈傲なり。衞の巫を得、國人の謗る者を監せしむ。以て〓ぐれば、之を殺す。道路、目を以てす。王喜んで曰く、吾、能く謗を强むと。或ひと曰く、是評路しぐぐ民ゝよはのの喪塞古り川口い今甚ををれ障ぐなり民の口を防ぐは、川を防ぐより甚し。水壅がつて潰ゆ言だ防防れば、人を傷ふこと、必ず多からむと。王聽かず。是に於て、國人もををしざでる國は相與に畔く。王〓に出奔す。二相、周召ともに國事を理め、共和なといふもの、十四年。而して、王、〓に崩ず。子【宣王靜】立つ。賢に任じ、能を使ふ召穆公方叔、尹吉甫、仲山甫等あり。政を內外に爲し、王化復た行はれ、周室中興す。崩ず。子【幽王宮涅】立つ。はじめ、夏后氏の世、二龍あり、庭に降つて曰く、予は褒の二君なりと。トして、其〓を藏し、夏般を歷て、敢て發くなし。周人、之を發く。際化して、電となる、童妾、これに遇うて孕む。女を生む。之を棄つ。宣王の時、童謠あり、曰く緊弧箕服實に周國を亡さむと。適ま、この器を鬻ぐ者あり。宣王これを執へしむ。その人。逃る。道に於て棄女を見。その夜號を哀んで。之を取り、褒に逸す幽王の時に至つて、褒人罪ありこの女を王に入る、是を褒姒となす。王之を嬖す。褒姒、笑ふを好ます。王、その笑はむことを欲す。萬方すれども、笑はず。王、諸侯と約し、寇あれば、烽火を擧げ、その兵を召して、來り援けしむ乃ち故なくして、火を擧ぐるや、諸侯、悉く至り、而して寇なし。周〓
十八史略卷之一〓評周祚傾く褒姒一笑褒姒、大に笑ふ。こ はくふく王、申后及び太子宜臼を廢し、褒姒を以て后となし、その子伯服を太子となす。宜臼、申に走る。王、之を殺すを求むれども得ず、申を伐つ。申侯、犬戎を召して、王を攻む。王烽火を擧げて、兵を徵せども、至らず。犬戎、王を驪山の下に殺す。諸侯、宜臼を立つ。之を【平王】となす。西都の戎に逼るを以て、徒つて、東都の王城に居る。諸侯强は弱を井せ、時に、周室衰微、齊楚秦晉、始めて强大なり。平王の四十九年は、卽ち魯の隱公の元孔子春秋を修む年なり。其後、孔子春秋を修むる、ここに始まる。平王崩ず。太子の子【桓王林】立つ。崩ず子【莊王佗】立つ。崩ず。子【釐王】齊齊】立つ。齊の桓公、始めて霸たり。釐王崩ず。子【惠王(3)聞立つ。崩ず。子【襄王鄭】立つ。晉の文公、始めて霸たり、襄王崩ず。子【頃王壬匡】立つ。崩ず。子【匡王班】立つ。崩ず。弟【定王かた、をて華て鼎はの人む重し瑜】立つ。楚の莊王、人をして、鼎の輕重を問はしむ。王孫滿れを卻く。定王崩ず。子【簡王夷】立つ。吳始めて僭して王と稱す。簡王崩孔子生るず。子【靈王泄心】立つ孔子、其時に生る。靈王崩ず。子【景王貴】立つ。崩ず。子【悼王猛】立つ。庶弟子朝、之を弑す。晉人、子朝を孔子發す攻めて【敬王丐】を立つ。孔子、其時に歿す。敬王崩ず。子【元王仁】立つ。崩ず。弟【貞定王介】立つ。崩ず。子【哀王去疾】立つ弟【思王叔帶】襲うて、之を弑して自立す。少弟【考王嵬】又攻めて思王を周三七
十八史略卷之一元殺して自立す。崩ず。子【威烈王午】立つ。晉の趙氏、魏氏、韓氏、に5はじめて侯たり。周は、東遷より以來、ここに及ぶまで、二十世に春秋戰國して愈よ微、諸侯兵を用ゐて、强を爭ひ、號して、戰國となす。威烈王崩ず。子【安王驕】立つ。齊の田氏、始めて侯たり。安王崩ず。子【烈王喜】立つ。崩ず。弟【顯王扁】立つ。諸侯、皆僭して王と稱す。顯王崩ず。子【愼観王定】立つ。崩ず。子【赧王延】立つ。五十九年、諸侯と從を約して、秦を攻む。秦の昭王、周を攻む。報に王秦に奔り、頓首して、罪を受け、盡く其邑を獻ず。秦、獻を受けて、赧王を周に歸し、以て卒す。周、天子たること、三十七世はじめ、夏の亡ぶるとき、九鼎殷に遷り、般亡びて周に遷る成王、「鼎を郊鄙に定め、トして曰く、世を傳ふる三十、年を歷る七百と。是に至つて、乃ち其歷を過ぐ。凡そ八百六十七年。春秋戰國西紀前自七七〇一至二二周の平王以後を春秋の世となす。其列國、周と同姓なる者、魯といひ、衞といひ、晉といひ、鄭といひ、曹といひ、蔡といひ、燕といひ、吳といひ、其周と異姓なる者、齊といひ、宋といひ、陳といひ、楚といひ、秦といふ。是れ、其大なる者。餘き春秋に書する所の杞、の小國、許、膝、薛邾莒、江黃の屬の如きは、盡く述ぶ可からず。十二列國の中に於ては、齊の春秋戰國-吳-ニル
十八史略卷之一四〇桓公、宋の襄公、晉の文公、秦の穆公、楚の莊王、五霸の事跡あり若し、春秋諸國の終始を論ぜば、未だ戰國に及ばずして先づ亡ぶる者あり、旣に戰國に及びて後に亡ぶる者あり、各其〓を擧ぐ。周の威烈王以後を戰國の世となす。則ち、秦、楚、燕齊趙魏韓の七大國のみ。秦楚、燕は、猶ほ春秋の舊國たり。田齊、趙魏韓は、戰國の新國なり。凡そ、春秋戰國の間、周の諸侯に繫ると雖も、而かも國ごとに、政を異にこと〓周の下方に附見す。して、實は周に繫らず。盡く載せ難し、其時、各、先後あり。觀る者之を詳にせよ。【吳】姫姓、太伯仲雍の封ぜられし所なり。十九世、壽夢に至つて、始めて王と稱す。壽夢の四子、幼を季札といふ。札.賢なり三子をして、相繼いで立たしめ、以て札に及ばむと欲す。札、義と延陵の季子して、可かず。延陵に封ぜられ、號して、延陵の季子といふ。上國んに聘して、徐を過ぐ。徐君、其寶劍を愛す。季子、心に之を知る。使して、還るとき、徐君すでに歿す、遂に劍を解いて、其墓に懸けて去る。伍子背壽夢の後、四君にして、闔盧に至る。伍員を擧げて、國事を謀らしむ。員、字は子胥、楚人、伍奢の子なり。奢、誅せらる。吳に走へ、り吳兵を以て郢に入る。吳、越を伐つ。闔盧、傷いて死す。子夫復讎夫差臥薪志差立つ。子胥、復た之に事ふ。夫差、復讎を志し、朝夕、薪中に臥春秋戰國-吳-四
十八史略卷之一四三なん七し、出入に人をして呼ばしめて曰く、夫差、而越人の而が父を殺せしを忘れたるかと。周の敬王二十六年、夫差、越を夫椒に敗る。上越王勾踐、餘兵を以て會稽山に棲み、請ふらく、臣となり、妻は妾とならむと。子胥言ふ、不可なりと。太宰伯語、越の賂を受け、勾踐嘗膽雪に。會稽恥夫差に說いて越を赦す。勾踐國に反るや、膽を坐臥に懸け、卽ち膽を仰いで、之を嘗めて曰く、女、會稽の恥を忘れたるかと。國政を擧げて、大夫種に屬し、而して、范盡と兵を治め、吳を謀るを事とす。太宰語、子胥を譜し、謀の用ゐられざるを恥ぢて、怨望すといふ。夫差、乃ち子胥に屬鏤の劍を賜ふ。子胥、其家人に告げて吾が目を抉麺6上つきには、曰く必ず吾が墓に橫を樹えよ、價は材とすべきなり。吾が目を抉つて、東門に懸けよ、以て越兵の吳を滅すを見むと。乃ち自到す。註白の蘇夫差、其屍を取り、盛るに鴟夷を以てし、之を江に投ず。吳人、化麥は古詩舊苑荒臺楊之を憐み、祠を江上に立て、命づけて胥山といふ。柳新、菱勝花〓唱不越十年生聚し、十年〓訓す。周の元王四年、越吳を伐つ。吳春)唯惟王月今有田三たび戰つて三たび北ぐ。夫差、姑蘇に上り、亦た成を越に請ふ曾昭吳宮裏人范蠡可かず。夫差曰く、吾、以て子胥を見るなからむと。幎冐を爲評獨し今ら共與にて頸長にしりか其ざににす患烏越ら人るす安べ難喙つて、乃ち死す。豈乏古かをも共ずに者べ樂きを越すでに吳を滅すや、范蠡、之を去る。大夫種に書を遣つて日く越王、人と爲り、長頸鳥喙ともに患難を共にすべきも、ともに安樂を共にすべからず。子、何ぞ去らざると。種疾と稱して朝春秋戰國-吳-豐
十八史略卷之一圖王のざん吳みな越なのらけんたまんやせず。或ひと種を讒し、まさに亂を作さむとすといふ。劍を賜うて瓶座-きにな鑑しはんれいそのけいほうしゆぎよくよそほしじうふねこうこぜうむ十六死す。范蠡、其輕寶珠玉を裝ひ、私從と舟に江湖に乘じ、海に浮びりせいヘしいしひふしさんおさすう評は天て、齊に出で、姓名を變じて鴟夷子皮といひ、父子產を治めて、數下の范に奇姦せんまんせいじんそのけんきしやうぜん在才れいきたんリ越りな千萬に至る。齊人、其賢を聞き、以て相となす。蠡喟然として歎てて軍りはて宰に吳師いへ位相在をといはゐいたくわんゐけいしやういたこれほなじて曰く、家に居ては千金を致し、官に居ては卿相を致す、之布衣り滅てしきよくそんめいふしやうしやういんかへにとしとなの極なり、そのざいさん久しく尊名を受くるは不祥なりと。ぢうほうふところかんかうたうとじ乃ち相印を歸し、みづかたうしゆこう悉而人か臣淡然く其財を散じ、重寶を懷にして間行し、陶に止まり、自ら陶朱公ととししきよまんかさろじんいとしじゆつれいいはる野菜を開発ててじがらいひ、貲鉅萬を累ぬ魯人猗頓、往いて術を問ふ。蠡曰く、五将をてゝ朱を公棄かねんしわうこうとなて貨畜へと、乃ち大に牛羊を猗氏に畜ふや、十年の間、貲、王公に擬す。巨萬累ぬゆたうしゆとん其秘故に天下富を言ふ者、陶朱、猗頓を稱す。死ぎにて當して能せい慚は遂めりきさいちうほうさいしゆくくわくりん【蔡】姫姓、蔡仲の封ぜられし所なり。周公、蔡叔を郭鄰に放つや、そのこことくしたがおこなひまさいほうこうせいしゆんじうはざ其子胡、德に率ひ、行を改めて、復た蔡に封ぜらる。後世、春秋のすゑそけいわうるに足る末に至り、楚の惠王の爲に滅ぼさる陶朱猗頓そうしゆくしんたくほうそのこうせいしゆんじう【曹】姫姓、武王の弟曹叔振鐸の封ぜられし所なり。其後世、春秋ちうさう中に至り、宋の爲に滅ぼさる。しせいしやうちうしよけいびけいほう【宋】子姓、商紂の庶兄微子啓の封ぜられし所なり。後世、春秋にじやうこうどほしよこうはほつそ宋襄の仁至り、襄公玆父といふ者あり。諸侯に霸たらむと欲し、楚と戰ふ。こうしもくいぢんくん公子目夷、其未だ陣せざるに及んで之を擊たむと請ふ。公曰く、君やくるしそよわらそうじやう子は、人を阨に困めずと。遂に楚に敗らる。世、笑うて、以て宋襄じんの仁となす。春秋戰國-蔡-豐
十八史略卷之一異景公名言其後、景公といふ者あり、榮惑かつて其時を以て心を守る。心はに宋の分野なり。公之を憂ふ。司星子韋曰く、相に移すべし。公曰相は吾が肱股なり。曰く、民に移すべし。公曰く、君は民を待つ。曰く、歲に移すべし。公曰く、歲饑うれば、吾誰が爲にか君たらむ。子韋曰く天は高くして卑きに聽く。君、人に君たるの言、三あり。宜しく動くこと有るべしと。之を候するに、果して、一度を徙る。數世を歷て、康王偃に至る。雀あり、驅を生む。之を占すれば、曰く必ず天下に霸たらむと。偃喜び、齊、楚、魏を敗り、ともに桀宋敵國となる。偃淫虐、天下之を號して桀宋といふ。周の愼靚王の時、齊の滑王、楚魏と與に宋を伐ち、之を滅して、其地を分つ。【魯】姫姓、周公の子、伯禽の封ぜられし所なり。周公、成王を誨評王過あれふ.王、過あれば則ち、伯禽を撻つ。伯禽、封に就く。公之を戒めば則ち伯禽の子、を撻つて曰く、我は文王武王の弟、今王の叔父なり。然れども、我握髪吐哺一沐に三たび髮を握り、一飯に三たび哺を吐き、起つて、以て士を待ち、猶ほ天下の賢人を失はむことを恐る。子、魯に之かば、愼んで、國を以て人に驕ることなかれと。太公齊に封ぜられ、五月にして、政を報ず。周公曰く、何ぞ疾きや。曰く、吾、其君臣の禮を簡にし、其俗に從ふと。伯禽、魯に至り、三年にして政を報す。周公曰く、何ぞ遲きや。曰く、其俗を變じ、其禮を革め、喪は春秋戰國-魯-國七
十八史略卷之一兇ご三年にして後に之を除く。周公曰く、後世、それ北面して齊に事へ評公太望むか。夫れ政は簡ならず易ならざれば、民近づく能はず、平易にした答と公周の政だ3つり興味て民を近づくれば、民必ず之に歸すと。津治問周公、太公に問ふ、何を以こうせいかならて齊を治むる。曰く、賢を尊んで功を尙ぶ周公曰く、後世必ず簒玄ニ弑の臣あらむと。太公、周公に問ふ、何を以て魯を治むる。曰く、賢を尊んで親を親とす。太公曰く、後寝く弱からむと。春秋の始となす。伯禽より十三世にして、隱公に至る。隱公の弟を桓公といふ。桓公の子は莊公。莊公庶弟三人あり。曰く慶父其後を孟孫氏となす。曰く叔牙、其後を叔孫氏となす。曰く季友と其後を季孫氏となす。之を三桓となす。世、國命を執る。子班、閔公、僖公、文公、宣公、成公、襄公を經て、昭公に至り、季氏を伐;つ三家共にこれを伐つ。公、乾候に奔り、以て卒す。孔子を以て中都の宰と弟定公立つ孔子を以て中都の宰となす。一年にして、四方、なす皆、之に則る。中都より司空となり、進んで、大司寇となり、定公を相けて、齊侯に夾谷に會す。孔子曰く、文事ある者は、必ず武備あり、請ふ左右の司馬を具へて、以て從はむと。すでに會するや、が、齊の有司請うて、四方の樂を奏す。是に於て、旗旄劍戟、鼓躁して至る。孔子、趨つて進んで曰く、吾が兩君、好をなす、夷狄の樂、ニ何すれぞ此に於てすると。齊の景公、心に作ぢ、之を摩く。齊の有司、請うで、宮中の樂を奏す。優倡 侏儒 戯れて前む。孔子趨つて春秋戰國-魯-乳
十八史略卷之一吾進んで曰く、匹夫にして諸侯を榮惑する者は、罪當に誅すべし。請ふ、有司に命じて、法を加へむと。首足處を異にす。景公懼る。か、歸つて、其臣に語つて曰く、魯は君子の道を以て其君を輔く、しかるに、子は獨り夷狄の道を以て寡人に〓ふと。是に於て、齊人、乃ち侵せし所の魯の鄲、汝陽、龜陰の地を歸へし、以て魯に謝す。孔子、定公に言ひ、將に三都を墮ち、以て公室を强くせむとす叔孫法~氏、先づ郡を墮ち、季氏、費を墮つ孟氏の臣、成を墮つを肯んぜず。之を圍む。克たず。孔子、大司寇より、相事を攝行し、七日にして、政を亂せし大夫少正卯を誅す。居ること三月、魯、大に治まる齊人、之を聞いて懼れ、乃ち女樂を魯に歸る。季桓子、之を受けて政を聽かず。郊して、又腦爼を大夫に致さず。孔子、遂に魯を去る。子哀公立つ。定公卒す。越を以て、三桓を伐たむと欲す克たず。悼公、元公を歷て、繆公に至る。子思を尊ぶを知れども、用ゆる能はず。共公康公を歷て、平公に至る。かつて、孟子を見むと欲せしが果さず。文公を歷て、頃公に至り、楚の考烈王の爲に滅ぼさる。魯は、周公より、頃公に至るまで、凡そ三十四世。孔子傳孔子、名は丘、字は仲尼、其先は、宋人なり。正考父といふ者あり宋に佐たり。三たび命ぜられて、ます〓〓恭し。其鼎銘に云ふ一命而僂再命而傴三命而俯循墙而走。亦莫余敢侮春秋戰國-魯-孔子-五
十八史略卷之一吾體於是。粥於是。以餬予口。と孔氏、宋に滅び、其後魯に適叔梁く紇といふ者あり。顏氏の女と尼山に禱つて、3/3孔子を生む。兒たるとき嬉〓するに、常に爼豆を陳ね、禮容を設く。長じて、季氏の吏となり、料量平かなり嘗て、司機の吏となる。育蕃息す。周に適いて禮を老子に問ふ。反つて、弟子、稍益進む。〓すゝ齊に適く齊の景公、將に待つに季孟の間を以てせむとす。か、孔子、魯に反定公、る之を用ゐて終へず。衞に適く將に陳に適かむとす。匡匡人、を過ぐ。かつて陽虎に暴せらる。孔子の貌、陽虎に類す。之を止む。すでに免れて衞に反る。靈公の爲す所を醜として、之を去曹を過ぎ、宋に適き、り弟子と禮を大樹の下に習はす。桓難其孔子の風采樹を伐り拔く。鄭に適く。鄭人曰く、東門に人あり、其顯は堯に似、其項は皐陶に類し、其眉は子產に類す。要より以下、禹に及ばざるるゐ〓〓ぜんこと三寸、纍纍然として喪家の狗の若しと。陳に適き、又衞に適酉き、將に、趙簡子を見むとす。河に至る。竇鳴犢舜華が殺されて死せしを聞き、河に臨んで、歎じて曰く、美なるかな水洋洋乎たり、丘の渡らざる、これ命なりと。衞に反り、陳に適き、蔡に〓適き、薛に如き、蔡に反る。楚、人をして之を聘せしむ。陳蔡の大夫謀つて曰く、孔子、楚に用ゐらるれば、陳蔡危しと。相ともに徒を發して、之を野に圍む。孔子曰く、詩に云ふ、児に匪ず、虎に寶匪ず、かの曠野に率ふと。吾が道、非なる邪。何すれぞ、是に春秋戰國-魯-〓
十八史略卷之一画おいしこういはふうしみちしだいてんかよいながんくわい於てする。子貢曰く、夫子の道、至大、天下能く容るる莫し。顏囘いはなんやしかのちくんし容れられざるも、そ曰く、せうわうしおこ何ぞ病まむ、むかすなは然る後に、そいた君子を見ると。まさほう楚の昭王、師を興して、之を迎へ乃ち楚に至るを得たり。將に封ずしよしやれいいんしせい書社の地七百里を以てせむとす。こうしるに、令尹子西、可かず。孔子、ゑいかへきかいしむかろあいこうせいつひ衞に反る。家康ナ、迎へて、魯に反る。哀公、政を問ひしが、終にもちあたしよじよかみたうぐしもしんぼく用ゆる能はず。こし乃ち書を序し、上は唐虞より下は秦繆に至る。古詩けづへんげんかれいがく三千を刪つて、三百五篇となし、皆、之を絃歌す。禮樂、此れよりばんえきよろこたんしやうけいじせつくわぶんげん述ぶべし。·晩にして易を喜び、じよ象象繫辭、說卦、文言を序す。韋編三たびえきゐへんたろしきしゆんじうつく絕つ易を讀むや、韋編三たび絕つ。魯の史記に因つて、春秋を作る。いんあいよでくわくりんた隱より哀に至るまで、十二公。筆を獲麟に絕つ。筆すべきは則ち筆けづしかとじさんあたていしし、削るべきは則ち削る。子夏の徒、一辭を賛する能はず。弟子三そつりくげいつう子千人。身、六藝に通ずる者、七十有二人、年七十三にして卒す。はくぎよはやしききふあざなししちうようつくまうし子思鯉字は伯魚、早く死す。孫仮、字は子思、中庸を作る。孟子は、教重番もんじんかろきうそんのらすううじ三菱之その門人なり。名は軻、魯の孟孫の後、鄒に生まる。幼にして、慈せんをしへかうむちやうげふしもんみちつう母三遷の〓を被り、長じて、業を子思の門に受く。道すでに通ずせいりやうあそもちばんしやうとなんぎたふるや、齊梁に遊びしが、用ひられず。退いて、萬章の徒と難疑答もんへん問して、七篇を作る。らうしそけんひとせいじあざなはくやうあざな老子傳老子は、楚の苦縣の人なり。李姓、名は耳、字は伯陽、又曰く字しゆざうしつらうしつたん周の守藏室の吏たり。しうこうし評良賈深藏は聃孔子問ふ。老子、之に〓げて曰く、若虚君子有りやうこふかずつむなごとくんしせいとくようばうぐごと愚盛德容貌若良賈は深く藏して虛しきが若く、君子は盛德あつて容貌愚なるが若春秋戰國-魯-堊
十八史略卷之一美しと。孔子、去つて、弟子に謂つて曰く、鳥は吾その能く飛ぶを知上上る。魚は吾その能く游ぐを知る。獸は吾その能く走るを知る。走るものは、以て網を爲すべく、游ぐものは、以て綸を爲すべく、飛ぶ寺ものは、以て繪を爲すべし。龍に至つては、吾知る能はず、その風雲に乘じて、天に上ればなり。今、老子を見るに、其れ猶は龍の如きかと。老子、周の衰へたるを見、去て、關に至る。關令、尹喜曰く子、將に隱れむとす。我が爲に書を著せと。乃ち道德五千餘言を著して去る。その終る所を知る莫し。その後、鄭人列禦寇、蒙人列子莊子莊周あり、亦た老子の學を爲す。莊周、書を著し、孔子を侮つて、諸子を請る。【衛】姫姓、武王の母弟康叔封の封ぜられし所なり。後世、春秋にこくわい〓至ー、靈公の夫人南子の亂あり。子蒯職、南子を殺さむと欲して果さず、出奔す。公卒し、蒯職の子軏を立つ。蒯職入る。輒.これを拒ぐ。子路其難に與かる太子の臣、戈を以て子路を擊ち、纓を斷纓を結ん評子路の面つ。子路曰く、君子は死するも、冠を免がずと。で死す。目躍如たり衞人、子路を醢にす。孔子、之を聞いて命じて、醢を覆さしむ。戰國の時、子思、衞に居る。言ふ苟變、將とすべしと。衞君曰く變かつて吏となり、民に賦して、人の二雞子を食ふ、故に開業大臣用ゐずと。子思曰く、聖人の人を用ゆる、猶ほ匠の木を用ゆるが如し用ゆ多の森本く其長とする所を取り、其短とする所を棄つ。故に杞梓連抱にしが如春秋戰國-衞-毛
十八史略卷之一天以二卵棄干て、數尺の朽あるも、良工は棄てず。今、君、戰國の世に處つて、城之將而かも、二卵を以て、干城の將を棄つ、これ鄰國に聞こえしむべか評阿諛詔侫;)國を亡ぼすらざるなりと。衞侯の言、計、是に非ずして、群臣和する者、一大豆腐漿からず口に出づるが如し。子思曰く、君の國事、將に日に非ならむとす。あ、君、言を出して自ら以て是となし、而かも、卿大夫、敢て其非を矯むるなし。卿大夫、言を出して、自ら以て是となし、而かも、士庶人敢て其非を矯むるなし。詩に曰ふ、ともに予を聖なりといふも、烏の雌雄誰か鳥の雌雄を知らむやと。周の諸侯、唯、衞のみ最も後れて亡ぶ。秦天下を併せて帝となるに至り、二世始めて君角を廢して、庶人となす。【鄭】姫姓、周の宣王の庶弟桓公友の封せられし所なり。桓公の子子產武公、其子莊公と、並に周の司徒たり。數世、聲公に至り、子產を相とす。子產は、公族、國氏、名は僑。孔子、鄭を過ぐるや、子產と兄弟の如しといふ。穆襄より以來、鄭年として、晉楚の兵を被らざるなし。子產、之を受くるに、禮を以てして、自ら固うし、晉楚の暴と雖も、加ふる能はず。鄭は、周の威烈王の時に至つて、君乙、韓の哀侯に滅ぼされ、韓、徒つて之に都す。【晉】姫姓、成王の弟唐叔虞の封ぜられし所なり。成王幼なるとき、桐葉を削つて圭となして曰く、叔虞と戯れ、之を以て若を封ぜむと史佚、日を擇ばむを請ふ。王曰く、吾之と戯るるのみ。佚曰春秋戰國-鄭-晉-弄
十八史略卷之一六〇天子無戯言く天子に戯言なしと。遂に唐に封ず。文公後世、文公に至つて、諸侯に霸たり。文公、名は重耳、獻公の次ii子なり。獻公、驅姫を嬖し、太子申生を殺して、重耳を蒲に伐つ重耳、出奔し、十九年にして後に、國に反る。かつて、曹に餒ゆ。か、介子椎、股を割いて以て之に食はしむ。歸るに及びて、從亡の者、し すゐ狐偃、趙衰、〓韻、魏犨を賞し、子椎に及ばず。子椎の從者、書を宮門に懸けて曰く、有龍矯矯。頃失其所。五蛇從之。周流天下。龍饑乏食。一蛇割股。龍返於淵。安其壤土。四蛇入穴。あ皆有處處。一蛇無穴。號于中野。と公曰く噫、寡人の過なりと。人をして、之を求めしむ。得ず。綿上の山中に隱る。其山を焚く。子椎死す。後人、之が爲に寒食す。文公、綿上の田を環らして、之を封じ、號して介山といふ文公卒す。其後、遂に、世、霸たり。襄公、靈公、成公、景公、属公を歷、悼公に至つて、霸業復た盛なり。又平公、昭公、頃公を歷公室益々弱し。而して、六卿、范氏、知氏、中行氏、趙氏、魏氏韓氏、皆、大なり。定公を歷て、出公に至り、知氏、趙魏韓氏と與に、范、中行氏を分つ。公怒る。四卿、反つて、公を攻む。公、出奔して死す。哀公立つ。韓、趙魏氏、又知氏を滅して、之を分つ。出公立つ。晉、ひとり、絳曲沃を有するのみ。餘は、三晉皆、韓、趙魏氏に入る。號して、三晉となす。烈公立つ。三卿、春秋戰國-晉-陳-齊-츠
十八史略卷之一叁せいこう!周の威烈王の命を以て侯となる。又孝公を歷て、靜公に至り、魏の죽武侯、韓の哀侯、趙の敬侯、共に靜公を廢し、家人となして、その地を分ち、晉絕えて、祀らず。【陳】媽姓、虞舜の後、胡公滿の封ぜられし所なり。周の武王、求めて、之を封ず。後世、春秋に至り、公子完といふ者あり、出奔して、齊に仕ふ陳後に楚の惠王に滅ばさる而して、完の後、遂に齊に大なり、田氏となす【齊】姜姓太公望呂尙の封ぜられし所なり。後世、桓公に至り、五霸諸侯に霸たり、五霸、桓公を始となす。名は小白兄襄公、無道なり。群弟、禍の及ばむことを恐る。子糾は魯に奔り、管仲これに傅ましたり。小白は莒に奔り、鮑叔、之に傅たり。襄公、弟無知に弑せられ、無知も亦た人に殺さる。齊人、小白を莒より召ぶ。而して、さ、魯も亦た兵を發して糾を送る。管仲、かつて、莒の道を遮り、小白すを射て帶鉤に中つ。小白先づ齊に至つて立つ。鮑叔牙、管仲を薦めて政を爲さしむるや、公、怨を置いて、之を用ゆ。管仲鮑叔仲字は夷吾。かつて、鮑叔と賈し、利を分つに多く自ら與ふ。鮑叔、以て貪れりとなさず、仲の貧なるを知ればなり。嘗て、事を一謀つて窮困す。鮑叔、以て愚となさず、時に利不利あるを知ればなり嘗て、三たび戰つて三たび走る。鮑叔、以て怯となさず、仲にれ老母あるを知ればなり。仲曰く、我を生む者は父母なり、我を知る春秋戰國-齊-査
十八史略卷之一〓者は鮑子なりと。桓公、諸侯を九合し、天下を一匡す、皆、仲の註に才ず才答桓°をふ公不てに間管謀なり一にも則ち仲父、二にも則ち仲父といふ。仲、病む。桓唯以るのて公問ふ。群臣誰か相とすべき。易牙は如何。仲曰く、子を殺して以し止をま排するて君に食はしむ、人情に非ず、近づくべからず。開方は如何。曰くる惜い哉親に倍いて以て君に適ふ、人情に非ず、近づくべからずと。蓋し、開方は、衞の公子にして來奔せる者なり。豎〓は如何。曰く、自ら宮して以て君に適ふ、人情に非ず、近づくべからずと仲死す。な公、仲の言を用ゐず、卒に之を近づく。三子權を專らにす。公、內六寵夫人の如きもの六皆子あり。公薨ず五公子立つを爭ひ、相攻む。公の尸床に在り殯歛するなきもの六十七日。尸蟲戶より出づ。註晏子の御桓公より八世、景公に至る晏子といふ者あり、之に事ふ。名は者は所謂虎狐なの威を借るり世間嬰字は平仲節儉力行を以て、齊に重んぜらる。一狐裘三十年、其類例に乏しからず豚肩、豆を掩はず。齊國の士、待つて以て火を挙ぐる者、七十餘家。そのをつと註豆とは祭晏子出づ。其御の妻、門間より窺ふ。其夫大蓋を擁し、駟馬に策器なりち意氣揚揚として、自得せり。旣にして歸るや、妻去らむことを請ふ。曰く、晏子は、身、齊國に相として、名、諸侯に顯はる。其志を觀るに、嘗に以て自ら下るあり。子は人の僕御となつて、自ら以て足れりとなす。妾、是を以て去るを求むるなりと。御者、乃ち自ら抑損す。晏子、怪んで之を問ふ。實を以て對ふ。薦めて、大春秋戰國-齊-田氏齊-〓
十八史略卷之一奏夫となす。あんししんしゆくかうしお公、晏子をして、晉に之かしむ。叔向と私語す、以爲へぜいちんしらく、齊の政は、必ず陳氏に歸せむと。其言の如し。けいこうのちかうこうでんくわしうあんわうめいうニ景公の後五世、康公に至り、田和、周の安王の命を受けて侯となかいひんうつきやうしまつり、康公を海濱に遷し、以て死せしむ。姜氏、遂に絕えて、祀らず。ぎせいちんれいこうだこくわんせいはし【田氏齊】もと婚姓、陳の属公佗の子完の後なり。完、齊に奔つて、ちんしでんしくわんせいくわんこうつか陳氏となり、後、又、陳を以て田氏となす。完齊の桓公に事へて、こうせいけいちうおくりなりしきつせいけいこう工正となる。卒す。敬仲と證す。五世、釐子乞に至り、齊の景公にたいふそのふぜいたみせうとこれ評職權を濫事へて、大夫となる其賦稅を民より收むるに小斗を以て之を受用し私惠をそのぞくたみあただいともつしけいたみ特別支付き以て徒黨をけ、其粟を民に予ふるには、;)きん大斗を以てし、せいしゆう大私惠を民に行ふ。きつもつば而か第四章段なも公、禁ぜず。是に由て、齊の衆を得たり。乞、政を專らにす。りそつこせいしこうかんこうしいへいこうたほういうは卒す。子成子恆、簡公を弑して、平公を立つ。封邑、公の食む所よこうそつじやうしばんたかんてうぎつかひつうけだりも大なり恆卒す。襄子盤立つ韓趙魏と使を通ず。蓋し、しんさう三家は且に晉を有せむとして、田氏は齊を有せむとすればなり。莊しはくたいこうくわつひしうあんわう;子白を歷て、太公和に至り、遂に周の安王の命を以て候となる。卒こくわんこうごたるわういんせいたをさしよこう威王因齊す。子桓公午立つ。卒す。子威王因齊立つ。始め、治まらず、諸侯みなきたうそいはこせいくはじゆんうこん淳于髡皆來り伐つ。八年、楚大に兵を發して、齊に加ふ齊、淳于髡をすくひてうきんひやくきんもたして、救を趙に請はしむ。金百斤、車馬十駟を齎らさしむ。髠、天あふわらを仰いで、大に笑ふ。王曰く、先生、之を少しとするか。髪曰く、だうばうたいのとんていさけしゆく臣、道傍に田を複る者を見るに、一豚蹄と酒一壺とを取り、祝して註甌宴は畑おうろううやそのは田な好邪なり、曰く、〓〓滿篝。汗邪滿車五穀蕃熟。穰穰滿家。と。臣、其春秋戰國-田氏齊-〓
十八史略卷之一炎ぢすくなほつおごみわら持する所の狹くして欲する所の者れるを見、故に之を笑ふと。王わうごんせんいつはくへきさうしやばひやくしまえ乃ち黃金千鎰、白壁十雙、車馬百駟を益す。髠、乃ち行く。時に、ほとふるわうすなはそくぼくたいふめこれかた齊國、幾んど振はず。王乃ち卽墨の大夫を召して、之に語つていはそくぼくゐきげんひゞいたしか曰く、子の卽墨に居るや、毀言日に至る然れども、吾人をしてでんやひらじんみんきふくわんぶじとうはうやす漸干見卽墨を視せしむるに、田野辟け、人民給し、官無事にして、東方寧さいうつかもつたすけ:加子同害し。是れ、子が吾が左右に事へて以て助を求めざればなりと。之をばんかいあたいふめかたあまも萬家に封ず。阿の大夫を召して、之に語つて曰く、子の阿を守りし上げんひゞいたしかあより、譽言日に至る。然れども、吾、人をして阿を視せしむるにでんやひらじんみんひんだいてうけんせしすくゑいせつれう田野辟けず、人民貧餒。趙の郵を攻むるや、子救はず。衞の薛陵をとしししへいあつさいうつかほまれ取るや、子知らず。是れ子が幣を厚うし、吾が左右に事へて以て譽もとひあたいふほにぐんを求むればなりと。この日、阿の大夫と嘗て譽めし者とを烹る。群しんしようくあへしよくさせいをさしよこうあへまへい臣聳懼して、敢て飾詐するなく、齊、大に治まり、諸侯敢て復た兵いたを致さず。るわうけいわうかうくわいでんけいわういはせいたから評威王霸王威王、魏の惠王と郊に會田す。惠王曰く、齊に寶ありや。王曰く、の風采ありくわじんせういへどなけいすんたまくるま有るなし。くに惠王曰く、寡人の國、小なりと雖も猶ほ徑寸の珠車ぜんごかくじやうてまいるわういはくわじんの前後各十二乘を照らすもの十枚あり。威王曰く、寡人の寶は王とことなたんしそあへこう異る吾が臣に檀子といふ者あり、南城を守らしむ、楚、敢て寇をしじやうしよこうみならいてうべんしかうたうまじ泗上に爲さず、十二諸侯、皆來朝す。盻子といふ者あり、高唐を守てうじんあへひがしかぎよきんふじよしうまもらしむ、趙人敢て東して河に漁せず。黔夫といふ者あり徐州を守えんじんほくもんきつてうじんせいもんしゆしゆらしむ、則ち燕人北門に祭り、趙人西門に祭る。種首といふ者あり、春秋戰國-田氏齊-究
十八史略卷之一さ盜賊に備へしむ、道に遺ちたるを拾はず。この四臣は、將に千里を照らさむとす、豈に特だ十二乘のみならむやと。惠王、慚づる色あり子宣王立つ。威王卒す。文學游說の士を喜び、驕衍淳于髠田駢、愼到の徒、七十六人、皆上大夫たり。是を以て、齊の稷下學士の盛、且に數百千人ならむとす。然り而して、孟子至れども、而かも用ゆる能はず。孫臏と龐涓魏韓を伐つや、韓、救を齊に請ふ。齊、田忌をして、將として、以て韓を救はしむ。魏の將龐涓、嘗て、孫牘と與に兵法を學ぶ。涓魏の將軍となり、自ら所能の及ばざるを以て、法を以て、其兩足をBefか、斷つて、之に黥す。齊の使、魏に至り、竊に載せて以て歸る。是に消至つて、牘、齊の軍帥となり、直に魏都に赴く。韓を去つて歸る牘齊軍の魏地に入る者をして、十萬の竈を爲らしめ、明日は(五萬の竈を爲り、又明日は二萬の竈を爲る。涓大に喜んで曰く我、固より齊軍の怯なるを知る。吾が地に入つて三日、士卒亡る者、過半なりと。乃ち日を倍し、行を〓せて、之を逐ふ牘其行を度いるに、暮に當に馬陵に至るべし。道陋くして旁に阻多く、兵を伏すべし。乃ち大樹を斫り、白うして書して曰く、龐涓、此樹下に死せむと。齊師の善く射る者をして、萬弩道を夾んで伏せしめ、期す、ひ。暮に火の擧がるを見て發せよと。涓、果して、夜、斫りたる木の下春秋戰國-田氏齊-セ
十八史略卷之一〓はくしよみてらばんどはつしに至り、白書を見て、火を以て之を燭すや、萬弩ともに發す。魏師大にあひしつけんじけいじゆしななせい評亂れて相失す。涓自到して曰く、遂に豎子の名を成すと。を在庫県きしょうゆうしょう子齊る自るをやぶたいししんとりこ大に魏師を破りに大所成太子申を虜にす。侮びんわうたせいくわくくんでんえいせんわうしよていせつほう宣王卒して滑主立つ。靖郭君田嬰は、宣王の庶弟なり、薛に封ぜぶんしよくかくすうにんめいせいしよこうきがう孟嘗君好客らる。子あり、文といふ。食客數千人、名聲諸侯に聞こえ、號して、まうしやうくんしんせうわうそのげんきちせい孟嘗君といふ秦の昭王、其賢を聞き、乃ち先づ質を齊に納れて、みいたとどとらころまうしやうくんひと以て見るを求む。至れば則ち止め囚へて之を殺さむとす。孟嘗君人せうわうかうきいたともといにねがをして、昭王の幸姫に抵つて解かむことを求めしむ。姫曰く、願はきみこきうけだまうしやうくんけんくは、君の狐白裘を得むと。蓋し、孟嘗君嘗て以て昭王に獻じ、たきうよたうしんざうちうきう他裘なし。客に能く狗盜を爲す者あり、と秦の藏中に入り、裘を取りけんためいゆるすなははさき卽ち馳せ去り狗盜鷄鳴以て姫に獻ず。せいめいへんや姬はん爲に言うて、かんこくくわん釋さるるを得たり。くわんはふとりなまさかた姓名を變じ、夜半、函谷關に至る關法鷄鳴いて方に客を出す。しんわうのあこれおおそかくけいめいな秦王の後に悔いて之を追はむを恐る。客に能く鷄鳴を爲す者あり、なつひでんはつしよくけいおはたいた鷄盡く鳴く、遂に傳を發す。食頃にして、追ふ者、果して至る。まうしやうくんしんうらかんぎかんこくくわんい及ばず。孟嘗君、歸つて、秦を怨み、韓魏と之を伐つて函谷關に入しろさわまうしやうくんしやうわうそしえ或ひと之を王に毀る秦城を割いて和す。孟嘗君、齊に相たり。すなはしゆつぼんる乃ち出奔す。せいえん註定價金壹拾參びんわうそうほうぼおごえんせうわう滑王、宋を滅して驕る。燕の昭王、齊、嘗て燕を破りし故を以せえんぐんりんしびんわうきよ天下七年はかりごとて、諸侯と謀を合して齊を攻む。燕軍、臨淄に入る。滑王、莒にそしやうだうしせいすくびんわうころえんともせいしん走る。楚將淖齒、齊を救ひ、反つて滑王を殺して、燕と共に齊の侵春秋戰國-田氏齊-〓
十八史略卷之一占領うわうそんかびんわうきよしたがしつ地を分つ。ところなんぢあした王孫賈、ばん滑王に莒に從ひ、きたわれもん而かも王の處を失す。のぞなんぢくれ其母曰く、汝朝に出でて晩に來れば、吾は門に倚つて望み、汝暮に出でか、りよのぞいまわうつかて還らざれば、吾は間に倚つて望む。はし汝、今、王に事へ、王、走つところしなかへかだうして、汝、處を知らず。汝、尙ほ何ぞ歸ると、賈、乃ち淖齒を攻めびんわうこはふしやうもとたきよたもて、之を殺し、滑王の子法章を求めて之を立て、莒を保つて、以てえんかうせいじやうきよそくぼくそくぼくひとでん燕に抗す。時に、齊城、惟だ莒と卽墨とのみ下らず。卽墨の人、田たんむしやうぐんみはんそう田單火牛のとしそつこうわかさい計單を推して、將軍となす。身、版飾を操つて、士卒と功を分ち、妻せうかうごへんじやうちうをさうしせんよかうそうい〓妾は行伍に編す。城中を收めて、牛千餘を得たり絳繪衣を爲り、さいりうもんゑがへいじんそのつのつかあぶらそあしをつか五彩の龍文を畫き、兵刄を其角に束ね、脂を灌ぎ葦を尾に束ねて内容美发そのはしやしろすうせんうがよるうしはなさうしそのうしろしたが其端を燒き、城に數千の穴を鑿ち、夜牛を縱ち、壯士其後に隨をねついかえんぐんはしふこと〓〓ししやう3.0.牛、尾熱し、怒つて燕軍に奔り、觸るる所、盡く死傷す。而しじやうちうこさうこれしたがこゑてんちふるえんぐんはいそうて、城中鼓譟して、之に從ひ、聲、天地に振ふ燕軍敗走し、七十みなませいじやうわうきよむかたんあんへいくん餘城、皆復た齊となる。襄王を莒より迎へ、單を封じて、安平君とてきつきかろちうれんいはしやうぐんそくぼくなす。單、狄を攻む。三月克たず。魯仲連曰く、將軍卽墨に在るそうべうほろしやうぐんしこゝろゆ士評成や、曰く、徃くべきなし、宗廟亡びぬと將軍死の心あつて、する死大 (在覺をり悟そつせいきなんだふひぢふるたゝかひす卒、生の氣なく、泣を揮ひ、臂を奮つて、戰を欲せざるなし。今、しやうぐんひがしやいふほうにししじやうたのしみわうごんおびよこた將軍東に夜邑の奉あり、西に溜上の娛あり。黄金帶に橫はつて、註溜しめんあひだはせいたのしみゆゑか各に共に川の溜灑の間に騁す。生の樂あつて、死の心なし。故に勝たざるなりたんめいじつきはげしろめぐしせきとてろたはうと單、明日氣を厲まし、城を巡つて矢石の所に立ち、枹を援つてきじんすなはて之を鼓す。狄人、乃ち下る。春秋戰國-田氏齊-七五
十八史略卷之一美襄王、旣に立つ。而して、孟嘗君、中立して諸侯となり、屬する馮驩所なし。王、之を畏れ與に連和す。初め、馮驩孟嘗君の客を好むを聞いて、來り見え、傳舍へ置かるること十日。劍を彈じて歌うて曰く、長鋏歸らむか、食に魚なしと。之を幸舎に遷す、食に魚あり又歌うて曰く、長鋏歸らむか、出づるに興なしと。之を代舍に遷す、出づるに輿あり。又歌うて曰く、長鋏歸らむか以て家を爲すなしと。孟嘗君悅ばず。時に邑入、以て客に奉ずるに足らず、人をして、錢を薛に出さしむ。貸者多く息を與ふる能はず。孟嘗·君、乃ち驩を進めて、之を責めむことを請ふ。驩徃き、與ふる能はせつみんざる者は其劵を取つて之を燒く。孟嘗君怒る。驩曰く、薛民をして、君に親ましむと。孟嘗君竟に薛公となり薛に終る。襄王卒す。子建立つ。母、君王后、賢なり。秦に事へて謹み、諸候と信あり。君王后卒す。齊客、多く秦の命を受けて、反間し、王ミ총に勸めて秦に朝せしめ、攻戰の備を修めず、五國を助けて秦を攻めミ〓評說客策士ず。秦王政、旣に五國を滅し、兵臨淄に入る。王建、遂に降る。財務省讀現金共に遷して、之を松柏の間に處いて死せしめ、齊を以て郡となす。にす齊人、是を歌うて曰く。松邪柏邪住建共者客邪日曰【趙】の先は、本秦と同姓、蜚廉を祖とす。子季勝あり。其後、造父といふ者あり、周の穆王に事へ功を以て、趙城に封ぜらる。是に由つて、趙氏となる。春秋の時趙夙といふ者あり、晉に事ふ。春秋戰國-趙-七
十八史略卷之一大夙成子衰を生み、衰、宣子盾を生む。人曰く、趙衰は冬日の日な冬日可愛夏り。趙盾は夏日の日なり。冬日は愛すべし。夏日は畏るべしと。盾日可畏1こ、朔を生む。大夫屠岸賈、朔の族を滅す。朔、遺腹の子武あり。賈評白程嬰と杵是れ義之を索むれども得ず、朔の客、程嬰公孫杵臼、相與に謀つて曰く1/3士の標本孤を立つると死すると、孰れか難き嬰曰く、死は易く、孤を立つるは難きのみ。杵臼曰く子は其難きを爲せと。杵臼、它兒を取つて山中に匿る嬰出で、謬つて曰く、我に千金を與へば、吾趙氏の孤の處を告げむと。賈喜び、乃ち人をして嬰に隨はしめて、杵ミ白及び孤を殺す。而して、趙氏の眞の孤在り。嬰、後に武と與に賈を滅し、竟に武を立てて自殺し、以て下宣孟及び杵日に報じたり。武卒す。文子と號す。文子、景叔を生み、景叔、簡子鞅を生む。簡子、臣あり周舍といふ。死す。簡子、朝を聽くごとに、悅ばず千羊の皮は一瓜の腋に如かず。評千羊之皮して曰く、諸大夫の朝する、徒に唯不如一狐之腋唯を聞いて、周舎の鄂鄂を聞かざるなりと簡子の長子を伯魯といひ、幼を無恤といふ。訓戒の辭を二簡に書し、以て二子に授けて曰く、謹んで之を識るせと。三年にして、之を問ふ。伯魯は其辭を擧ぐる能はず、其辭を求むれば、旣に之を失ふ無恤は、其辭を誦して、甚だ習ひ、其簡を求むれば、之を懷中より出して之を奏す。是に於て、無恤を立てて後となす。簡子、尹鐸をして、晉陽を爲めしむ。請うて曰く、以て繭絲を爲さむか、以春秋戰國-趙-尤
十八史略卷之一♂て保障を爲さむか。簡子曰く保障なるかなと。尹鐸其戶數を損す。簡子、無恤に謂つて曰く、晉國、難あらば、必ず晉陽を以て歸となせと簡子卒す。無恤立つ。之を襄子となす。智伯、地を韓魏に求む。皆、之を與ふ。趙に求む。與へず。韓魏の甲を率ゐ、以て趙を攻む。襄子出でて晉陽に走る。三家園んで之に灌ぐ。城浸さざる三板、沈竈.畫を產すれども民に叛意なし。襄子、陰に韓と約し、共に智伯を敗り、智氏を滅して其地を分つ。豫讓襄子、智伯の頭に漆し以て飮器となす。智伯の臣豫讓之が爲に仇を報いむと欲す。乃ち佯つて刑人となり、ヒ首を挾んで、襄子の宮中に入つて厠を塗る。襄子、厠に如く。心動く。之を索めて、え讓を獲たり。曰く、子、嘗て范、中行氏に事へざる乎。智伯、之をか、評滅す。子、爲に讐を報いず、反つて、質を智伯に委す。智伯死す。りす者己は豫るのを所讓も爲信謂ののにず士如き子、獨り何すれぞ仇を報ゆるの深きや。曰く、范、中行氏は、衆人をな死るは以て我を遇す。我、故に衆人を以て之に報ず。智伯は、國士を以て我を遇す。我、故に國士を以て之に報ず。襄子曰く、義士なり。之を舍せ、謹んで避けむのみと。讓、身に漆して属となり、炭を呑んで啞となり、行いて市に乞ふ其妻、識らざるなり、其友、之を識つて曰く、子の才を以て、趙孟に臣事せば、必ず近幸を得む。乃ち爲さむと欲する所を爲せ。顧るに、易からずや。何ぞ、乃ち自ら苦春秋戰國-趙-스
十八史略卷之一全むことかくの如き。讓曰く不可なり。旣に質を委して臣となり、又之を殺すを求むれば、是二心なり。凡そ吾が爲す所のものは、極評豫讓の言めて難きのみ。然れども、此を爲す所以のものは、以て、天下後世行眞に後世む者二を しかしお食べ人臣となつて二心を懷く者を愧かしめむとするなりと。襄子出づ;3讓橋下に伏す。襄子の馬驚く。之を索めて讓を得、遂に之を殺す。襄子、伯魯の孫浣を立つ。是を獻子となす。獻子烈公籍を生む。)周の威烈王の命を以て、候となる。武公、敬公、成侯を歷て、肅侯に至る秦人、諸侯を恐喝して、地を割かむことを求む。洛陽の人評の策蘇秦合從蘇秦あり、秦の惠王に游說して用ゐられず。乃ち往いて、燕の文侯に說き、趙と從親す。燕之に資し、以て趙に至らしむ。肅侯に說いて曰く、諸侯の卒、秦に十倍す。力を〓せて、西向すれば、秦必ず破れむ。大王の爲に計るに、六國從親、以て秦を擯くるに若く雞口となるも牛後となる勿れはなしと。諺を以て、肅侯、諸侯に說いて曰く、乃ち之に資して、むしろ、以て諸侯と約せしむ。鷄口となるも牛後となるな蘇秦、鄙かれと。是に於て、六國從合す。蘇秦は、鬼谷先生を師とす。初め、出游し、困んで歸るや、妻機を下らず、嫂爲めに炊がず、是に至りて、從約の長となり、〓せて、六國に相たり。行いて洛陽を過ぐ。車騎輜重、王者に擬す。昆さ弟妻嫂、目を側てて敢て視ず。俯伏して、侍して食を取る。蘇秦うや!笑つて曰く、何ぞ前には倨つて後には恭しきや。嫂曰く、季子の位春秋戰國-趙-〓
十八史略卷之一公評蘇家の亞正人情一高く金多きを見ればなりと。秦喟然として歎じて曰く、是れ一人の機微の身、富貴なれば、親戚之を畏懼し、貧賤なれば、之を輕易す。況んや、衆人をや、我をして、洛陽負郭の田二頃を有せしむれば、豈に能く六國の相印を佩びむやと。是に於て、千金を散じ、以て宗族朋友に賜ふ。旣に從約を定めて趙に歸るや、肅侯、封じてい武安君えとなす。其後、秦犀首をして、趙を欺かしめて、從約を敗らむと欲す齊魏趙を伐つ蘇秦恐れて趙を去り、而して、從約解くさ肅侯の子武靈王胡服して、騎射を招いて胡地を略し、中山を滅し、南秦を襲はむと欲して果さず子惠文王に傳ふ惠文嘗和氏の壁て、楚の和氏の壁を得たり、秦の昭王、十五城を以て之に易へむことを請ふ。與へざらむと欲すれば、秦の强を恐れ、與へむと欲すれ簡相如ば、欺かれむことを惡る。藺相如、璧を奉じて往かむことを請ひ、城入らざれば、臣請ふ、璧を完うして歸らむと。旣に至る。秦王城を償ふに意なし。相如、乃ち給いて、璧を取り、怒髪冠を指し、柱下に卻立して曰く、臣の頭、璧と與に碎けむと。從者を遣し、璧か、ぜうわうを懷にし、聞行して先づ歸らしめ、身、命を秦に待つ。秦の昭王賢として、之を歸す。外評秦應際折趙す情現のの交國曲べ勢時秦王、趙王に約して、澠池に會す、相如從ふ。酒を飮むに及び、適しに秦王、趙王に請うて、瑟を鼓せしむ。趙王、之を鼓す。相如、復た春秋戰國-趙-全
十八史略卷之一朵が、秦王に請うて、缶を擊つて、秦聲を爲せといふ。秦王、肯んぜず。そ相如曰く、五步の內、臣、頸血を以て、大王に機ぐを得むと。左右、之を刄せむと欲す。相如、之を叱す。皆靡く。秦王、爲に一たび缶を擊つ。秦終に趙に加ふるある能はず。趙も亦た盛に之が備をなす。秦敢て動かず。廉頗趙王歸り、相如を以て上卿となす。位廉頗の右に在り。頗曰く、評相敬文武恪運し相干我、趙將となつて、攻城野戰の功あり。し〓相如、素より賤人徒に口大蒜頭飯店り基國舌を以て、我が上に居る。吾之が下なるを羞づ。我相如を見れ本家則なば、必ず之を辱しめむと。相如、之を聞き、朝する每に、常に病と稱して、共に列を爭ふを欲せず。出づるとき、望み見れば、輒ち車を引いて避け匿る。其舍人皆以て恥となす。相如曰く、夫れ秦の威を以てするも、相如、之を延叱して、其群臣を辱かしむ。相如、駑なりと雖も、獨り、廉將軍を畏れむや。顧みて念ふに、强秦の敢て兵を趙に加へざるは、ただ吾が兩人の在るを以てなり。今、兩虎と評國家の急もに鬭はば、其勢、共に生きず。吾が此を爲す所以は、國家の急をを先にす先にして、私讐を後にするなりと。頗之を聞き、肉袒荊を負ひ、刎頸の交門に詣つて、罪を謝し、遂に刎頸の交をなす。惠文王の子孝成王立つ。秦韓を伐つ。韓の上黨、趙に降る。秦く趙を攻む。廉頗、長平に軍し、壁を堅くして出でず。秦人、千金を行うて、反間をなして曰く、秦獨り、馬服君趙奢の子括の將たる春秋戰國-趙-全
十八史略卷之一灸評はら於豈て其も疊世趙んてに笑のの水俗括やの兵ふ愚に鍊に談み家べにしな所兵を畏るるのみと。王、括をして、頗に代らしむ。相如曰く、王、名なにきしてる謂を以て、括を使ふ。柱に膠して瑟を鼓するが如きのみ。括徒に能く其父の書を讀むも、變に合するを知らざるなりと。王、聽かず。括、少より兵法を學び、以へらく、天下能く當るなしと。父奢と言にふ難ずる能はざるも、以て然りとなさず。括の母、故を問ふ奢曰く、兵は死地なり。而かも、括は易く之を言ふ趙もし括を將とせば、必ず趙の軍を破らむと。括の將に行かむとするに及び、其母、上書して言ふ、括は使ふべからずと。括軍に至り、果して、秦將白起に射殺せられ、卒四十萬、皆降り、長平に坑にせらる。平原君趙相平原君公子勝食客常に數千人。客に公孫龍といふ者あり、辯堅白同異之堅白同異の辯をなす。秦趙の部鄲を攻む。平原君、救を楚に求めむとし、門下の文武備具する者二十人を擇んで、之を倶にせむとす。す毛遂十九人を得たり。毛遂自ら薦む、平原君曰く、士の世に處する、錐の嚢中に處るが若く、其末、立どころに見はる。今、先生門下に處ること三年、未だ聞こゆるあらず。遂曰く、遂をして囊中に處るを得しむれば、乃ち穎脫して出でむ、ただ、末の見はるるのみに非ずと。平原君、乃ち以て數に備ふ、十九人、之を目笑す。楚に至つて、從を定めて決せず。毛遂、劍を按じ、歷階して升つて曰く、從の利害は、兩言にして決せむのみ、今、日出より言うて、日中まで決せざるは何ぞや。楚王怒り叱して曰く、胡ぞ下らざる。吾、而の春秋戰國-趙-分
十八史略卷之一칭もうすゐけんあん1君と言はむ。汝、何する者ぞと。毛遂、劍を按じて前んで曰く、王評十步の内すゐしつゑんそしゆう四十五郎の遂を叱する所以は、楚國の衆を以てのみ。今十步の內、楚國の衆むぎのきくたのめいすゐてかいきやうを恃むを得ざるなり。王の命は遂の手に懸れり。楚の强を以て、あたはくきせうじゆしえんえいあ天下能く當るなし。白起は、小豎子のみ一戰して、鄢郢を擧げ、れうせんじんはづうらみ再戰して夷陵を燒き、三戰して王の先人を辱かしむ。是れ百世の怨てうはがつしようそためてうあら趙の差づる所なり。合從は、楚の爲にして、趙の爲に非ざるなり。いせんせいげん言の若し。つゝししやしよく王曰く、唯唯、まことに先生の謹んで社稷を奉じて、以したがすゐいはけいくはちきたどうばんきひざまづて從はむ。遂曰く、雞狗馬の血を取り來れと。銅盤を捧げて、跪すまさちすししようつぎわいて進めて曰く、王當に血を歌つて從を定むべし。次は吾が君、すゐはんちまねちだうか次は遂と、す左手に盤を持し、右手に十九人を招いて、血を堂下に歌こうらろくういはよこと評家電壓車事らしめて曰く、公等碌碌、謂ゆる人に因つて事を成す者なりと。平痛毛を人因成に향이의すて原君、げんくん從を定めて歸る。しよう曰く、もうぜんせい毛先生、一たび楚に至つて、趙をしてうしゆんしん又爽きうていたいりよて、九鼎大呂より重からしむと。遂を以て上客となす。楚、春申くん〓てうぎしんれうくんまくわい君を將として、趙を救ひ、魏の信陵君も、亦た來つて趙を救ふに會しんぐんかんたんもとし大に秦軍を邯鄲の下に破る。かうせいわうたうじやうわうたれんはもちしやう孝成王の子悼襄王立つ。復た廉頗を用ゐて將となさむと思ふ。時ははしぎみあだくわくに頗奔つて魏に在り。人をして、之を視せしむ。頗の仇、郭かいししやそしほんとべい開、使者に金を與へて、之を毀らしむ。頗使者を見、一飯に斗米1-きんかふかうむか、肉十斤、甲を被つて馬に上り、以で用ゆべきを示す。使者、還つてれんしやうぐんはんざ曰く、廉將軍なほ善く飯す。然れども、臣と坐し、しばらくして、春秋戰國-趙-れ
十八史略卷之一九二三たび遺失すと。王以て老いたりとなし、遂に召さず。楚人、頗評を魏より迎ふ。頗楚將となつて功なし。純を情一とを曰く、我、趙人を用ゐむ用ひを語一ことを思ふと。尋いで卒す。Billの涙得ず趙李牧を得て將となす。さきに、北邊に居り、匈奴を破る。悼明治卅年年半額襄王の子幽繆王遷立つ。秦王政、兵を遣して趙を攻む。牧大將となつて、之を敗る。秦、反間を縱つて言ふ、牧、將に反せむとすと遷、之を誅す秦兵至つて、遷を虜にす。趙の士大夫趙嘉をす、立てて王となす。代に王たり。秦、進み攻めて、嘉を破り、遂に趙を滅して郡となす。【魏】の先は本、周と同姓、文王の子畢公高の後なり。國絕ゆ、苗裔あり、畢萬といふ。晉に事へて、魏に邑す。數世にして、絳といふ者あり。絳の後四世、桓子といふ者、韓趙とともに、知氏を滅して之を分つ。桓子の孫に文候斯といふ者あり、周の威烈王の命を以ニて、侯となり、ト子夏、田子方を以て師となし、段干木の閭を過ぐるに必ず式す。四方の賢士、多くこれに歸す。文侯の子擊、子方に道に遇ひ、車より下つて、伏して謁す。子方、禮を爲さず。擊怒つて曰く、富貴なる者人に驕るか貧賤なる者人に驕るか。子方曰く亦た貧賤なる者、人に驕るのみ。富貴なる者、安んぞ敢て人に驕らむ。國君にして人に驕れば、其國を失ひ、大夫にして人に驕れば、其家を失ふ。夫れ、士の貧賤なる者、言用ゐられず行合は春秋戰國-魏-〓
十八史略卷之一〓評ざれば、履を納れて去らむのみ、安に往くとして貧賤を得ざらむや是をと安阿に與れ得しく者てり人ら貧往李克に謂つて曰く、ん賤と擊、之を謝す。文侯、先生、嘗て寡人に〓人 の の 人ふ、家貧なれば良妻を思ひ、國亂るれば良相を思ふと。今相とする是れ幇間な所魏成に非ざれば翟璜、二子如何克曰く、居ては其親む所を李克名言視富みては、其與ふる所を視、達しては、其擧ぐる所を視、窮しては、其爲さざる所を視、貧なれば、其取らざる所を視る。五者以て之を定むるに足れりと子夏、田子方、段干木は、成の擧ぐる所なり、乃ち成を相となす。吳起衞人吳起といふ者あり。始め魯に仕ふ。魯、起をして、齊を擊たしめむと欲す。然るに、起は、齊の女を要る。之を疑ふ。起、妻を評萬元起來殺して、以て將たらむことを求め、大に齊師を破る。或ひと曰く、これ數に二位上げて此す武く得し今あての箇人心果る這起は殘忍薄行の人なりと。起、罪を得むことを恐れて、魏に歸す。か文侯、以て將となし、秦の五城を拔く。起士卒と衣食を同じうす。は卒に疽を病む者あり、起、之を吮ふ。卒の母、聞いて哭して白く、往年吳公其父を吮ひ、踵を旋さずして敵に死す。今、又其子を吮ふ妾、其死所を知らずと。ミ文候卒して、子擊立つ、之を武侯となす。武侯、西河に浮んで下評す國顧みて吳起に謂つて曰く、山河の固、ずざら在る家を保り中流にして、美なる哉、障りも險のと德に是れ魏國の寶なり、起曰く、德に在つて險に在らず。往古、三苗氏か知にらら在るざべる洞庭を左にし、彭蠡を右にし、再.之を滅す。桀の居、河濟を左に春秋戰國-魏-九五
十八史略卷之一染し、泰華を右にし、伊闕その南に在り、羊腸その北に在り、湯.之を放つ。紂の國孟門を左にし、太行を右にし、恒山その北に在り、太河その南を經。武王、之を殺す。若し德を修めざれば、舟中の人、皆、敵國たらむ。武侯曰く、善しと。武侯卒して子惠王營立つ。東は齊に敗られ、將軍龐涓、太子申とに共に皆死し、南は楚に敗られ、西は地を秦に喪ふ乃ち辭を卑うし、幣を厚うし、以て賢者を招く。孟子至りしが用ゐず。子襄王立つ。評張藝曰く孟子、去つて齊に之く。唐吉にり視やよ尙ほ在しん、と當世の張魏人に張儀といふ者あり。蘇秦と師を同じうす。嘗て、楚に遊儀何れに在したリび、楚相に辱めらる妻慍つて、語あり。儀曰く、吾が舌を視よ、5尙ほ在りや否やと。蘇秦の從を約する時、儀を激して、秦に入らしむ。儀曰く、蘇君の時、儀何ぞ敢て言はむやと。蘇秦、趙を去もつばつて、從解く。儀專ら橫をなし、六國を連ね、以て秦に事へしむ。秦の惠王の時、儀嘗て秦兵を以て、魏を伐つて一を得たり。復た以て魏に與へ、而かも、魏を欺き地を割いて以て秦に謝せしむ。歸つて、秦の相となり旣にして出でて魏の相となり、實は秦の地を爲す。襄王の時、復た歸つて秦に相たり。旣にして、復た出でて魏に相として卒す。信陵君無忌魏の安釐王立つ。公子無忌を封じて、信陵君と爲す。無忌、人をあ、愛して、士に下り、食客三千人。秦趙を攻む、魏王、晉鄙をし春秋戰國-魏-れし
十八史略卷之一次て、之を救はしむ。秦の昭王、兵を移して、先づ救ふ者を擊たむと〓さ欲す。王、恐れて、晉鄙の兵を止めて、鄴に壁せしめ、又、新垣衍をして、趙に說かしめ、共に秦を尊んで帝となさむとす。魯仲連、往いて、衍を見て曰く、かの秦は、禮義を棄てて首功を上ぶの國なり。若し肆然として天下に帝たらば、連東海を踏んで死するあらむのみ。衍再拜して曰く、先生は天下の士なり。吾、敢て復た秦六を帝とするを言はずと。趙の平原君の夫人は、無忌の姉なり。趙き急なり。使者、冠蓋相望み、救を無忌に請ふ。無忌、王に請ひ、賓客をして、游說萬端せしむ。客候贏、無忌に〓へて王の幸姫に禱とはしめて、晉鄙の兵符を竊み得、且つ力士朱亥を薦めて、與に倶にせしむ。謂ふ、音鄙符を合せて疑はば、擊ち殺して其軍を奪へと。一に羸の言の如くし、兵を得て以て進み、大に秦兵を破つて、邯鄲の園を解く。無忌、敢て魏に歸らず。는秦魏を伐つ。魏之を患ひ、人をして、無忌を請はしむ。歸るを肯んぜず。客、毛公、薛公、見えて曰く、魏急なり。而かも、す公子恤はず。一二、秦、大梁に克つて、先王の宗廟を夷ぐれば、公子、何の面目あつて、天下に立たむやと。無忌、駕を趣して還る。諸侯無忌の魏將となりしを聞き、皆、救を遣す。無忌、五國の兵を率ゐて、秦兵を河内に敗り、追うて、函谷關に至つて還る。無忌卒す。春秋戰國-魏-九九
十八史略卷之一一〇〇卒十八年にして、魏王假立ち、後二年、秦王政、兵を遣して魏を伐ち、王假を殺し、魏を滅して郡となす。【韓】の先は、本周と同姓、武王の子韓侯の後なり。,國絕ゆ。其後裔晉に事へて韓氏となる。韓武子の三世をといふ厭の五世、康子に至り、趙魏と共に知氏を滅す。又二世を景候虔といふ。周の威烈王の命を以て侯となる。刺客轟政と韓相俠累、其姉濮陽の嚴仲子と惡むことあり。仲子、〓人聶政の勇を聞き、黄金百鎰を以て、政の母の壽をなし、因つて、仇を報いむと欲す。政曰く、老母在り。政の身、未だ以て人に許すべからざるな母卒するに及び、りと。仲子、乃ち政をして之を圖らしむ。俠累、方に府に坐し、兵衞甚だ嚴なり。政直に入つて、之を刺し、因つて、自ら面を皮はぎ、眼を抉る。韓人、其 尸を市に暴して、購問すれども、能く識るなし、姉榮、往いて、之を哭して曰く、是れ深評世界の一明治卅年前轟政は義井里の聶政なり。妾が在るを以ての故に、重く自ら刑し、じ以て蹤を絕つ。妾、奈何ぞ、身を沒するの誅を畏れて、終に賢弟の名を沒せむやと。遂に政の尸の傍に死す。景侯より四世、哀侯に至つて、徒つて鄭に都す。哀侯より二世、申不害黃老昭侯に至る。鄭人申不害、黃老刑名の學を以て、昭侯の相となり、刑名之學國治まり、兵强し。昭侯、弊袴あり、命じて、之を藏せしめ、以て左右に賜はらず。侍者曰く、君も亦た不仁者なり。昭侯曰く、明主春秋戰國-韓-三
十八史略卷之一一〇二明主愛一噸一笑は一噸一笑を愛む。噸すれば爲に噸する者あり、笑へば爲に笑ふ者あり。今、袴は、啻に噸笑のみならむや。吾必ず有功の者を待たむと。昭侯卒して、子宣惠王立つ。三世にして、桓惠王に至る。韓の上黨の守、趙に降り、趙秦兵を受くるを致して、長平の敗あり、又、一世にして、王安に至り、秦王政、將を遣して、安を虜にし、遂に韓を滅ぼして郡となす。【楚】の先は韻項より出づ。顳項の子は、高辛の火正たり、命づけむ祝融といふ。て、與細胞復た其職に居る。吳囘より二世、季連といふ者あり。芋姓を得たり。季連の後に鬻熊あり。周の文王に事ふ。成王、其子熊繹を丹陽に封ず。夷王の時に至つて、楚子熊渠といふ者、僭して、王となる。十一世にして、春秋に至り、武王といふ者あり、益す强大文王に至つて、始めて、郢に都す。成王、齊後に晉の文公の桓公と召陵に盟ひ、尋いで、宋の襄公と霸を爭ひ、莊王と城漢に戰ふ。穆王を歷て、莊王に至る。位に卽いて三年。令を出さず。日夜樂をなし、國中に令し、敢て諫む者は死せむといふ。伍き大鳴三鳴かず、是れ何の鳥ぞや。評蜚ば莊ず王所にか年擧曰く、鳥あり、阜に在り、三年蜚ばず、れずりぶ是王曰く、三年飛ばざるは、飛べば將に天を衝かむとすればなり。三な學두亦年鳴かざるは、鳴けば將に人を驚かさむとすればなりと。蘇從、た入つて諫む。王、乃ち左に從の手を執り、右に刀を抽いて、以て春秋戰國-楚-一〇三
十八史略卷之一一〇四鐘皷の懸を斷ち、明日、政を聽き、伍擧、蘇從に任ず。國人、大に孫叔敖悅ぶ。又、孫叔敖を得て相となし、遂に諸侯に霸たり。共王、郊敖、康王、靈王、平王、昭王、惠王、簡王、聲王、悼王、せんわう肅王、宣王、威王を經て、懷王に至る。秦の惠王、齊を伐たむと欲と〓楚の與に從親するを恐れ、す。乃ち張儀をして楚王に說かしめて曰く、王、關を閉ぢて齊に絕たば、請ふ、商於の地六百里を獻せむせいわうと。懷王、之を信じ、勇士をして、北、齊王を辱しめしむ。齊王大に怒つて、秦と合す。楚の使、地を秦より受けむとす。儀曰く、地は、某より某に至るまで、廣袤六里と。懷王、大に怒つて、秦を伐つて、大に敗る。秦の昭王、懷王と黃棘に盟ひ、旣にして、書を懷王に遣り、願はくは、君王と武關に會せむといふ屈平可かず。す楚人、子蘭、王に勸めて、行かしむ。秦人、之を執へて以て歸る。親戚を悲其子頃襄王を立つ。懷王、秦に卒す。楚人、之を憐んで、評黑莓雞腿むが如し。初め、屈平、懷王に任ぜらる、讒を以て疏ぜらるるや、約束です。江又、譖を以て、離騒を作り、以て自ら怨む。頃襄王の時に至り、楚、陳に南に遷され、遂に泪羅に投じて以て死す。秦郢を拔く。徒る。頃襄王卒して、考烈王立つ。又、壽春に徒る。春申君黃歇春申君黃歇相の事を行ふ。其時に當つて、齊に孟嘗君あり、客を好む。皆、魏に信陵君あり、趙に平原君あり、楚に春申君あり、春申君、食客三千餘人、平原君、人を春申君に使し、楚に夸らむと春秋戰國-楚-一〇五
十八史略卷之一一〇六欲し、玳瑁の簪を爲り、刀劍の室、飾るに珠玉を以てす。春申君の上客、皆、珠履を躡んで、以て之を見る。趙の使大に慙づ。趙人荀荀卿卿楚に至る。春申君、以て蘭陵の令となす。李園、妹を以て、春申君に獻ず。娠むあつて後に、之を考烈王に納れ、幽王を生む。園、盜をして春申君を殺し。以て口を滅せしめ以て、楚の政を專らにす。幽王卒す。弟哀王、楚人の弑する所となる其庶兄負芻を立つ秦王政、將を遣して楚を破り、負芻を虜にし、楚を滅して郡となす。【燕】姫姓、召公奭の封ぜられし所なり。三十餘世、文公に至り、嘗て、蘇秦の說を納れ、六國に約して從をなす。文公卒す。易王噲立つ。十年、國を以て、其相子之に讓り、南面して、王の事を行はしめ、而して、噌老いて政を聽かず、顧みて臣となる。國大に亂る。齊、燕を伐つて、之を取り、子之を醢にして噌を殺す。死を弔ひ、生評郭以て隗之を昭王となす。而をて五昭か買死百王燕人、太子平を立てて君となす。金を馬のを問ひ、辭を卑うし、幣を厚うし、以て賢者を招く。郭隗に問うてはし話曰く、齊、孤の國亂るるに因つて、燕を襲ひ破る。孤、極めて、燕萬金も尙ほ得易かるの名士ならざの小にして以て報ずるに足らざるを知る。まことに、賢士を得て孤の願なり。先生、可な國を與にし、以て先王の恥を雪がむこと、る者を視よ、身、之に事ふるを得む。隗曰く、古しへの君、千金を以て、涓人をして千里の馬を求めしむる者あり、死馬の骨を五百金春秋戰國-燕-一〇七
十八史略卷之一一〇八に買うて返る。君、怒る。涓人曰く、死馬すら、之を買ふ。況んや、え其方の生けるものをや、馬、今至らむと。碁年ならずして、千里の馬至始めよ請ふ隗よりるもの三。今、王、必ず士を致さむと欲せば、先づ隗より始めよ、)況んや、隗より賢なる者をやと。是に於て、昭王、隗の爲に宮を改築して、之に師事す。是に於て、士、爭つて、燕に趨く。樂毅は魏樂毅より往く。以て亞卿となし、國政を任ず。旣にして、毅をして、齊評戰國の世を伐たしめて、臨淄に入る。齊王、出でて走る。毅勝に乘じて金屋駅前な願めに臣行、め名に將爲六月の間に、齊の七十餘城を下し、惟だ莒と卽墨とのみ下らず。昭極禍みて遇ふ者王卒す。惠王立つ。惠王、太子たりし時、旣に毅に快からず、田る多しベき單、乃ち反間を縱つて曰く、毅新主と隙あり、敢て歸らず。齊を伐つを以て名となす。齊人、惟だ他將來つて、卽墨殘れむことを恐ると。惠王、果して、毅を疑ひ、乃ち騎劫をして、代つて將たらしめて毅を召す。毅趙に奔る。田單、遂に燕を破るを得て、齊さ城を復す。惠王の後、武成王、孝王あり。王喜に至る。喜の太子丹、秦に質しんわうせいたり。秦王政、禮せず。怒つて、亡げて歸り、秦を怨んで、之に報ぜむと欲す。秦の將軍樊於期、罪を得て、亡げて燕に之く。丹、受評壯士荊軻けて、之を舍す。丹、衞人〓軻の賢を聞き、辭を卑うし、禮を厚うせ後蓋試のる所句風して、之を請ひ、奉養至らざるなし。軻を遣さむと欲す。軻樊於奮起むを秦に獻せむこ期の首及び燕の督亢の地圖を得て、とを請ふ丹、於春秋戰國-燕-一〇九
十八史略卷之一一一〇ず期を殺すに忍びず。軻.自ら意を諷して曰く、願はくは、將軍の首kを得て、以て秦王に獻せむ。必ず喜んで臣を見む。臣、左手に其袖きを把り、右手に其胸を堪せば、將軍の仇、報じて、燕の恥、雪がむにテと於期、慨然として、遂に自刎す。丹、奔り往いて、伏して哭す。乃ち函を以て其首を盛り、又嘗て天トの利匕骨を求め、藥を以て、之を炸くす、以て人を試るに、血縷の如く、立どころに死す。乃風蕭蕭之歌ち軻を裝遣す。行いて、易水に至り、歌うて曰く、風蕭蕭兮易水寒。白虹日を貫壯士一去分不復還と時に白虹日を貫く。燕人、之を畏る。軻咸陽に至る。秦王政、大に喜んで、之を見る。軻.圖を奉じて進む圖窮まつて、匕首見はる。王の袖を把つて、之を堪す、未だ身に及ばず。王、驚き起つて、袖を絕つ。軻.之を逐ふ。柱を環つて走る。秦の法、群臣、殿上に侍する者は、尺寸の兵を操るを得ず。劔を負へ左右、手を以て、之を搏つ。且つ曰く、王、と。遂に劍を拔いて、其左股を斷つ。軻匕首を引いて、王に適つ中らず。遂いに體解して徇ふ。秦王、大に怒り、益々兵を發して、燕を伐つ。喜丹を斬り、以て獻ず。後三年、秦兵、喜を虜にし、遂に燕を滅して郡となす。【秦】の先は、本顳項の裔。大業といふ者、栢翳を生む。舜姓を羸氏と賜ふ。其後に蜚廉あり。蜚廉の子を女防といふ。女防の後に非子あり。馬を好む。周の孝王の爲に、馬を〓渭の間に主り、馬、春秋 戰國-燕-秦-
十八史略卷之一三て附庸となし、大に蕃息す。土を分つ之を秦に邑せしむ、二世を閱し、秦仲に至り。始めて大なり。莊公を歷て、襄公に至る。犬戎、幽王を殺すや、襄公、周を救うて功あり、封じて諸侯となし、賜ふに岐西の地を以てす。繆公と百里文公、寧公、出子、武公、德公、宣公、成公を歴て、繆公に至る。僕百里僕といふ者あり。故の虞の大夫なり。繆公の夫人の勝となり、り)秦を亡げて宛に去る。楚人、之を執ふ。繆公、其賢を聞き、五殺羊の皮を以て、之を贖ひ得たり之に政を授け、號して、五殺大夫といふ。百里僕、其友蹇叔を進む。以て上大夫となす。繆公、晉の惠ミ公を送つて晉に歸へす。既にして、秦に倍き、韓に合戰す。繆公、'晉軍に圍まる。岐下嘗て公の馬を食ふ者、三百人あり。馳せて音の軍を冒す。晉、圍を解き、遂に繆公を脫して、以て反る是より先、吏"繆公、善馬を亡ふ。野人共に得て之を食ふ。)逐ふて得たり。之を法にせむと欲す。公曰く、善馬を食ふ者酒を飮まざれば、人を傷ると。皆、酒を賜ふて、之れを赦す。是に至り、秦晉を擊つと聞き、皆、從はむことを願ひ、鋒を推し、死を爭うて、以て德に報晉の文公を送つて、ず。繆公、後、又、國に歸へす。立つて、諸侯に霸たり。晉の文公卒す。秦、孟明を遣して、鄭を襲はしめ、因つて、滑を破る。晉の襄公、之を崤に破る。繆公、孟明を替てず。國政を修めしむ。後、晉を伐つて、志を得、遂に西戎に霸たり。春秋戰國-秦-一一三
十八史略卷之一一一四かうこうきようこうくわんこうけいこうあいこうけいこうたうこうれいこうきようこうさうこう康公、共公、桓公、景公、哀公、惠公、悼公、厲公、共公、躁公、くわいこうれいこかんこうけいこナしゆつしけんこうかうこうかざんい懷公、靈公、簡公、惠公、出子、獻公を經て、孝公に至る。河山以とうきやうこくてきしんぐうしりぞしよこうめい東、强國六、小國十餘、皆、夷狄を以て秦を遇し、擯けて諸侯の盟あづかかうこうれいひんかくぐんしんけいしん孝公に與らしめず。孝公、令を下す、賓客群臣、能く奇計を出して、秦つよくわんたつとぶんどを强うする者あらば、吾、其れ官を尊くし、之に分土を與へむと。ゑいこんそんあう評道く者鞅王三商の帝へいじんけいかんまみとていだう覇別衞の公孫鞅、秦に入り、嬖人景監に因つて、以て見え、說くに帝道、を說を而かわうだうへんにだうのちきやうこくじゆつ知王道を以てし、三變して霸道となり、然る後に、强國の術に及ぶ。らもを稍王家獨商ず皇はふへんおのれぎ評今得比安な步鞅は古公、大に悅び、法を變せむと欲するも、天下の己を議せむことを恐後法制肩石りのあういはともはじめおもんばともせいたのしる。鞅曰く、民は與に始を虞かるべからず、而かも、與に成を樂るり世すあつひじふごあひしうしむべしと。卒に令を定め、民をして、什伍をなさしめ、相收司してれんざかんえうざんかんつてきき連坐せしめ、姦を〓げざる者は腰斬し、かんか、てきくだ姦を告ぐる者は敵を斬るとばつぐんこうしやう軍功ある賞を同じうし、姦を匿す者は、敵に降ると罰を同じうし、おの!りつしやくしとうけいぢう以て那者は、各、率を以て爵を受け、私闘を爲す者は、各、輕重をだいせうちからあはかうしよくほんげふぞくはくいたせらる大小力を戮せて、畊職を本業とし、粟帛を致すこと多きそのみばつりミおこたあ者は、其身を復し、末利を事とし、及び怠つて貧しき者は、擧げてしうどれいそなしじやうきミ以て收拏となす。しなんもんた令、たみ旣に具はつて、つの未だ布かず。うつ三丈の木を國きん都の市の南門に立て、民を募り、あやし能く北門に徒す者あらば、あへうつ十金を上うつあた能く徒與へむといふ。民、之を怪んで、敢て徒すなし。復た曰く、あたすなはす者には、五十金を予へむと。一人あり、之を徒す。輒ち五十金すなはれいくだはふをかあういはを予ふ。乃ち令を下す。太子、法を犯す。鞅曰く、法の行はれざる春秋戰國-素-一二三
十八史略卷之一二六かみなかほどこそのは上より之を犯せばなり。君の嗣は、刑を施すべからずと。其こうしけんそのしこうそんかげいおもむ傅公子虔を刑し、其師公孫賈を黥す。秦人、皆、令に趨く。之を行みちおたうぞくいへきふひとたふこと十年、道に遺ちたるを拾はず、山に盗賊なく、家給し、人足たみこうせんゆうしとうきよきやういふたり、民、公戰に勇にして、私鬭に怯に、郷邑大に治まる始め、令ふべんいあういはみなはふみだの不便を言ひし者、來つて、令の便を言ふ。鞅曰く、皆、法を亂ることしへんうつたみあへの民なりと盡く之を邊に遷す。民敢て議するなし。民をして、父どうしつないそくきんせいでんはいせんはくひらあらた子兄弟、同室內息する者を禁となし、井田を廢し、阡陌を開き、更ふぜいはふ〓しんじんふきやうあうしやうおいふめて、賦稅の法を爲る。秦人富强。鞅を商於の十五邑に封じ、號ししやうくんかうこうこうけいぶんわうたこうしけんあうはんて商君といふ孝公薨ず。惠文王立つ公子虔の徒、鞅の反せむとほつしゆつばうかくしやとじしやじん欲するを告ぐ。鞅出亡して、客舍に止まらむと欲す。舍人曰く、しやうくんはふけんやどざたん評商鞅法を商君の法、人の驗なき者を舍せば、之に坐す。鞅歎じて曰く、法〇三、三〇、ミいたうぼすお前の下さいを爲すの弊、一に此に至れるかと。去つて魏に之く。魏受けず、しんいしやれつとなこく之を秦に入る。秦人、車裂して以て徇ふ。鞅法を用ゆること酷。ほしやく歩、六尺に過ぐる者は、罰あり。灰を道に棄つる者は、刑せらる。ゐのぞしうろんゐすゐことん嘗て、渭に臨んで囚を論ずるや、渭水盡く赤し。けいぶんわうこううぶわうたかんもかん評甘茂名言惠文王薨ず。子武王立つ。武王、甘茂をして、韓を伐たしむ。茂ぎやうたいけんそのじつぐんすうけんそむ曰く、宜陽は大縣、其實は郡なり。今、數險を倍いて、行くこと千ろじんそうさん里、之を攻むること難し。魯人曾參と姓名を同じうする者あり。ころそのははゝおじぢやく人を殺す。人、其母に〓ぐ、母織ること自若たり。三人、之を告ぐちよかきはししんけんるに及び、母、杼を投じ、機を下り、墻を踰えて走る。臣の賢は、春秋戰國-秦-一一七
十八史略卷之一一一八曾參に及ばず、王の臣を信ずる、又其母に如かず。臣を疑ふ者、ただ三人のみに非ず。臣、大王の杼を投ぜむことを恐る。魏の文侯、樂羊をして、中山を伐たしむ。三年にして、後に之を拔く。反つて、功を論ず。文侯、之に謗書一篋を示す。再拜して曰く、臣の功に非ず、君の力なりと。今、臣は霧旅の臣なり、樗里子、公孫奭、韓を挾んで譏らば、王必ず之を聽かむと。王曰く、寡人聽かずと。乃ち息壤に盟ふ。茂.宜陽を伐つ、五月にして拔けず。二人、果しいて、之を爭ふ。武王、茂を召して、兵を罷めむと欲す。茂曰く、息と壤彼に在りと。乃ち悉く兵を起し、茂を佐け、遂に之を拔く。武王力あり、戯を好む。力士任鄙、烏獲、孟說、皆、大官に至る。王、孟說と鼎を擧げ、脈を絕つて死す。り雖評范す氣部人稷立つ。魏人范唯といふ者あり、嘗て、須賈に從つと爲表人一の弟昭襄王飲の物質て、齊に使す。齊王、其辯口を聞いて、乃ち之に金及び牛酒を賜ふ。ト賈雕が國の陰事を以て齊に〓げしを疑ひ、歸つて、魏の相魏齊に告ぐ。魏齊怒つて、唯を答擊し、脅を折り、齒を拉く。唯、佯つて死す。卷くに簀を以てし、〓中に置き、醉客をして、更る之に溺せしめ、以て後を懲らす。唯守者に〓げて、出づるを得、姓名をso更めて、張祿といふ。秦の使者王稽、魏に至る。潛に載せて、與にき評總經理事歸り、昭襄王に薦め、以て客卿となす。〓ふるに、遠交近攻の策を新鮮な事業夷以てす。時に穰侯魏冉、事を用ゆ。唯王を說いて、之を廢し、代春秋戰國-秦-一一九
十八史略卷之一一二〇つて、丞相となり、應侯と號す。魏須賈をして、秦に聘せしむ。よ唯、敝衣間步、徃いて之を見る。賈、驚いて曰く、范叔まことに恙なきかと。留坐飮食せしむ。曰く、范叔一寒、かくの如きかと。綿袍を取つて、之に贈る。遂に賈の爲に御して、相府に至る。く我、君が爲に、先づ入つて相君に通ぜむと。賈、其久しくして出でざるを見、門下に問ふ。門下曰く、范叔といふ者なし。〓の者は吾が相張君なりと。賈、欺かれしを知り、乃ち膝行して、入つて罪を謝す。唯坐して、之を責讓して曰く、爾の死せざるを綿袍戀戀得る所以のものは、綿袍戀戀として、なほ故人の意あるを以てのみと乃ち大に供具して、諸侯の賓客を請ひ、莖豆を其前に置いて、之を馬食せしめ、歸つて、魏王に告げしめて曰く、速に魏齊の頭を斬つて來れ。然らざれば、且さに大梁を屠らむとすと。賈、歸つ評一飯の德て、魏齊に〓ぐ。魏齊。出走して死す。唯旣に志を秦に得、飯も必償の というひ睚眦の德も必ず償ひ、睚眦の怨も必ず報ず。には必あ君ずら子報ずのずる事王、旣に唯の策を用ゐ、歲ごとに、兵を三晉に加ふ。斬首數萬や周の赧王、恐れ、諸侯と從を約して、秦を伐たむと欲す。秦周を攻む。赧王、秦に入り、頓首して罪を請ひ、其邑三十六を獻ず。周ほほ亡ぶ。秦將武安君白起、范雎と隙あり廢して士伍となし、劍を賜評蔡澤日四うて、杜郵に死す。王、朝に臨んで、歎じて曰く、內に良將なく時之序成功者去外に强敵多しと。唯、懼る。蔡澤曰く、四時の序、功成る者は去る春秋戰國-秦-
十八史略卷之一一二二と。唯、病と稱し、澤、之に代る。昭襄王薨じ、子孝文王柱立つ。薨ず。子莊襄王楚立つ。薨ず。嗣いで王たる者は政なり。遂に六國を〓す、之を秦の始皇帝となす。黃帝より以來、天下、百里の國を列する萬區。中國より、以てだ四裔に達す。中國の制、王制に攷ふべきもの、九州。千七百七十三國。古しへの候を建つる、各其國に君として、各其民を子とし、而かも、天子を宗主とす。夏殷を歷て周に至り、强は弱を併せ、大は小を呑み、春秋十二國の外、存するもの幾もなし。戰國存するもの六七、是に至つて、遂に秦に併せらる、譯新十八史略卷之二秦西紀自前二四六至二〇【秦始皇帝】名は政。始め、邯鄲に生る。昭襄王の時、孝文王柱六呂不章太子たり。庶子楚あり。趙に質たり。陽翟の大賈呂不韋、趙に適き、評奇貨可居之を見て曰く、是れ奇貨居くべしと。乃ち秦に適いて、太子の妃不姉に因つて、華陽夫人の以て妃に說き、楚を立てて適嗣となす。韋、因つて、邯鄲の美妃を納る。娠むるあつて、楚に獻じ、政を生む。實は呂氏なり。孝文王、立つて三日にして薨ず。楚立つ、之を秦-始皇帝-二三
十八史略卷之二一二四莊襄王となす。四年にして薨ず。政生れて十三歲。遂に立つて王と不韋、なる。母を太后となす。莊襄王の時に在つて、旣に、秦の相ミ國たり。是に至つて、文信侯に封ぜらる。太后、復た不韋と通ず。王、旣に長ず。不韋、事覺はれて自殺す。太后、廢せられて、別宮初の如し。に居る。茅焦、諫む。母子、乃ち復た秦の宗室大臣、議して曰く、諸侯の人、來つて仕ふる者は、皆、其主の爲に游說するのみ。請ふ、一四、之を逐はむと。是に於て、かくけいり評ベ論李し大斯味說大に索めて、客を逐ふ。客卿李斯、上書して曰く、むかし、穆公、ふ客)由余を戎に取り、百里僕を宛に得、蹇叔を宋より迎へ不豹、公孫枝を晉に求め、國を〓すこと二十、遂に西戎に霸たり。孝公、商鞅の法を用ゐて、諸侯親服し、今に至つて治强なり。惠王、張儀の計を用ひて、六國の從を散じ、之をして、秦に事へしむ。昭王、范雎を得て、公室を强うす。此の四君、皆、客の功を以てす。客何ぞ秦に負かむや。泰山は土壤を擇ばず、故に大なり。河海は細流を擇ばず、故に深し。今、乃ち點首を棄てて、以て敵國を資け、賓客を郤けて、以て諸侯を業く。謂ゆる寇に兵を藉して、盜に糧を齋らすなりと。王、乃ち李斯に聽いて、其官を復し、逐客の令を除く斯は楚人、嘗て、荀卿に學ぶ。秦、卒に其謀を用ゐて、天下を〓す。上韓非子韓非といふ者あり、刑名に善し。韓の爲に秦に使す。因つて上書す。王、之を悅ぶ。斯、疾んで、之を聞し、遂に吏に下す。斯之に藥秦-始皇帝-一二三
十八史略卷之二三天おくじさつを遣つて自殺せしむ。ないししようかんほろぼわうせんてう十七年、內史勝、韓を滅し、十九年、王翦、趙を滅し、二十三年、わうほんわうせんそえん王賁、魏を滅し、二十四年、王翦、楚を滅し、二十五年、王賁、燕せいしんわうあはを滅し、二十六年、王賁、齊を滅し、秦王、始めて、天下を〓す。みづかおもとくくわうかニーていすあらたがう自ら以へらく、德は三皇を兼ね、功は五帝に過ぎたりと。更め號評號とにねは始壯べ其しし過功三皇朕皇ぎは皇自氣と帝た五をらくわうていめいせいれいせうみづかしようちんして皇帝といひ、命を制となし、令を詔となし、自ら稱して朕といとり帝兼德せいしおこなひおくりなちぎふ制して曰く、死して行を以て諡となすは、乃ち是れ、子、父を議しんきみはなはいはれしはふので稱す稚し、臣、君を議するなり、甚だ謂なし。今より以來證法を除かむ。愛すとくす其ちんしくわうていこうせいもつかずはか意し氣朕を始皇帝となし、後世以て數を計らむ。二世三世より萬世に至り、ベむきうつた之を無窮に傳へむと。いをさかんやうあつせつしやうきよきんじん(天下の兵を收めて、咸陽に聚め、銷して、以て鐘鑛金人十二を爲おもおつて〓せんせきる。重さ各千石がうふかんやううつまんこじようしやうわうくわんらえん天下の豪富を咸陽に徒すこと十二萬戶。丞相王舘等言ふ、燕てうけいらとほわうおしづ趙、〓は地遠し、王を置かざれば、以て之を鎭むるなからむ。請ふ、しくわうていゐりしいはしうぶわう諸子を立てよと。始皇、この議を下す。廷尉李斯曰く、周の武王おほそゑんぞくあひこうげきの封ぜし所、子弟同姓、甚だ衆し。後、疎遠に屬するや、相攻撃すきうしうへいかしんれいよとうること、仇讐の如し。今、海內、陛下の神靈に賴り、一統して、皆、ぐんけんしよしこうしんおほやけぜいしやうした郡縣となる。諸子功臣、公の賦稅を以て、之に賞賜せば、甚だ足ついいあんねいじゆつおて、制し易からむ。天下、異意なくむば、安寧の術なり。諸侯を置ふべんしくわういはまたまくにくは不便なり。始皇曰く、天下、始めて定まり、又復た國を立つる秦-始皇帝-一二七
十八史略卷之二元たそのねいそくかたは、是れ兵を樹つるなり。而かも、其寧息を求む、豈に難からずていゐぐんしゆゐかん分天下爲三や。廷尉の議、是なりと。天下を分つて、三十六郡となし、守尉監十六郡を置く。しくわうめぐすうえきざん二十八年、始皇、東、郡縣を行り、鄒嶧山に上り、石を立てて、こうげふしようたいざんほうしし功業を頌し、泰山に上り、石を立てて、封じて祠祀す。旣に下るやふううにはかじゆかいこそのまつたいふれうほ風雨暴に至る。樹下に休ふ。其松を封じて、五大夫となす。梁父にぜんつひかいじやうあそはうしせいじんぢよしらじやうしよどうなん禪す遂に東して、海上に遊ぶ。方士齊人徐市等、上書して、徐業行市場業家童男のに藥行求不む死どうにようみいほうらいはうじやうえいしう童女と海に入つて、蓬萊方丈、瀛洲、三神山の仙人及び不死の藥しらしくわうを求めむことを請ふ。其言の如くし、市等をして行かしむ。始皇、しやうざんわたほと博士に江に浮んで湘山に至る。大風、幾んど渡る能はず。問うて曰しやうくんこたげうぢよしゆんつまく湘君は何の神ぞ。對へて曰く、堯の女、舜の妻と。始皇、大にそのきしや怒り、其樹を伐り、其山を赭にす。かんじんちやうりやうせいかんしやう評要素食品韓人張良、五世韓に相たりしを以て、韓の亡ぶるや、爲に仇を小麦秸香を白浪沙中しくわうとういうはくらうしやちうりやうりきしに擊たし報ゐむと欲す。始皇東遊して、博浪沙中に至る。良力士をして、む社氣一日後巳 事 詩てつすゐとしくわうあやまふくしやあだしくわうおどろ鐵椎を操つて、始皇を擊たしむ。誤つて、副車に中る。始皇驚き、影響小 1900ーもと)求むれども得ず、天下に令して、大に索む。らふあらたかい十二金金如人何三十一年、臘を更めて嘉平となす。外、猶有民しくわうほくへんめぐはうしろせいかとしよ間鐵未銷三十二年、始皇、北邊を巡る方士盧生、海に入つて還り、圖書そうろくしんほろまうてんつかは評萬里長城を奏錄す。曰く、秦を亡ぼす者は胡ならむと。始皇、乃ち蒙恬を遣を築く詩はつけうどちやうじやうきづりんてうあり祖し、兵三十萬人を發し、北、匈奴を伐たしむ。長城を築き、臨洮よ秦-始皇帝-三元
十八史略卷之二一三〇個性格式何太り起り、遼東に至る。延袤萬餘里、威、匈奴に振ふ。平墙不特別推薦虚起蕭三十四年、丞相李斯、上書して曰く、異時、諸侯並び爭ひ、厚く内く里築防胡日萬游學を招く。今、天下旣に定まり、法令一に出づ、百姓家に當らば城秦又特製作品)長則ち農工に力め、士は法令を學習すべし。今、諸生、今を師とせず蕃戎不敢過臨洮)焉知して、古を學び、以て當世を非り、黔首を惑亂し、令の下るを聞け萬里及連雲勢、不堯ば、各、其學を以て、之を議し、入つては心に非とし、出でては巷階三尺高史官の秦焚書坑儒。に議し、群下を率ゐて、以て謗を造す。臣請ふ、記に非ざ上海大众るは、皆、之を燒かむ。博士官の職とする所に非ずして、詩書百家消帝業虛の語を藏する者あらば、皆、守尉に詣つて、雜へて之を燒かむ。詩關阿方面元東灰祖龍居坑亂未冷書を偶語する者は、棄市せむ。古しへを以て今を非る者は族せむ。劉項山やくぼくぜいしゆ〓〓來不讀書。去らざる所の者は、醫藥ト筮種樹の書若し、法令を學ばむと欲す又曰く難除謗聲易弭怨·秦法るあれば、吏を以て師となさしめむ。制して曰く、可なりと。殿雖亦甚亡げ三十五年、候生、盧生、相與に始皇を議議し、因つて、て去疎)猶孺夜子半)橋燒人邊書間呼有未る始皇、大に怒つて曰く、盧生、吾、尊んで之に賜ふこと、甚だ厚し。今乃ち我を誹謗す。諸生の咸陽に在る者、吾、人をして廉問せしむるに、或は妖言をなして、以て黔首を亂ると。是に於て、御こと〓〓史をして、悉く案問せしむ。諸生傳へて、相告別し、乃ち自ら除す。禁を犯す者、四百六十餘人。皆、之を咸陽に坑にす。長子扶蘇、お諫めて曰く、諸生、皆孔子を誦法す。今、上皆法を重くして之を1/3繩す。臣、天下安からざらむことを恐ると。始皇怒り、扶蘇をし秦-始皇帝-三一
十八史略卷之二一三二きたまうてんぐんじやうぐんかんて、北、蒙恬の軍を上郡に監せしむ。しくわうおもせんわうきうていせう始皇以爲らく、てう咸陽は人多くして、先王の宮庭小なりと。乃ち朝きうろなんじやうりんゑんちうえいさくまぜんでんあばう宮を渭南上林苑中に營作す。ほ先づ前殿を阿房に作る。東西五百歩、,ざしたじやう南北五十丈。はたた上には萬人を坐せしむべく、下には五丈の旗を建つべしうちかくだうつくでんかいたいたじきし。周馳して、閣道を爲り、殿下より、直に南山に抵る南山の ヘけつつくふくだうつくるかんやうに表して以て闕を爲る。複道を爲り、阿房より渭を渡り、之を咸陽ぞくてんきよくかくだうかんたえいしついたかたどに屬す。以て天極の閣道、漢を絕つて營室に抵るに象る。阿房宮、れいめい大ら阿房宮未だ成らず、成らば、更に合名を擇ばむと欲す。天下、之を阿房宮といふ。ひとながうれいみづかもちことだいせう始皇、人と爲り剛戾自ら用ゐ、事大小となく、皆、上に決む、かうせきしよはかにちやていけんせい評の始い休息するを得ず權勢を一帝豪主は°仁壓其り第陸の英皇衡石を以て書を量るに至り、日夜程あり、哉者中に氣代の大字眞むさぼ貪る、斯の如きに至る。武惜人王しんじんいかへへきちさづゝな秦人出でて使する者あり。還る時、人の壁を持して之を授くるに慈に政あためかうちくんおくそりう續しにくて威を過明年、祖龍死せむと。永ず堵缺ぎ斷遇ふ曰く、吾が爲に、滴地君に遺れ、じようしやうしせうしこがいくわんじやてうかうしたがず基ん民業ぜ心三十七年、始皇出遊す、丞相斯、少子胡亥、官者趙高從ふ始せて安しやきうへいだいほうひはついつはみことのりう皇、沙丘の平臺に崩ず。秘して、喪を發せず。詐つて詔を受くとたまをんりやうしやちうのなし、胡亥を立て、扶蘇に死を賜ふ。始皇を〓〓車中に載せ、一石はうぎよそのしうみだかんやういたはつこがいの飽魚を以て、其臭を亂し、咸陽に至つて、始めて喪を發す。胡亥そくゐせいくわうてい卽位す、之を二世皇帝となす。こがいぐんけんめぐてうかう【二世皇帝】名は胡亥。元年、東、郡縣を行る。趙高に謂つて曰く、秦-始皇帝-二世皇帝-一三三
十八史略卷之二言ち〓吾、耳目の好む所を盡し、心志の樂を窮め、以て吾が年を終らむと刑を刻にし、欲す。高曰く、陛下法を嚴にし、盡く故臣を除いて、しん·評暗二更めて親信する所を置けば、枕を高うし、志を肆對房作乃主世のは標是にせむと。二の皇本れ(宮る父始世、之を然りとし、更めて法律を爲り、務めて益す刻深にす。公子阿帝と所好一大臣、多く膠死す。陽城の人陳勝、字は渉、少にして人の與に傭耕す。畊を輟めて、隴上に之き、悵然之を久しうして曰く、苟くも富貴なれば、相忘る陳勝吳廣るなからむ。傭者笑つて曰く、若、傭畊をなす、何ぞ富貴ならむや。燕雀安んぞ勝大息して曰く、ああ燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らむやと。是鴻鵠の志を知らんやに至つて、吳廣と共に兵を〓に起す。時に間左を發して、漁陽に成す。勝廣、屯長たり。大雨に遇うて、路通ぜず。乃ち徒屬を召して曰く、公等、期を失す、法、當に斬らるべし。壯士死せざれば已む、王金大臣死すれば、大名を擧げむ。王侯將相 雪ぞ種あらむやと。衆皆之である。に從ふ。乃ち詐つて公子扶蘇、項燕と稱し、大楚と稱す。勝、自3つ立して將軍となり、廣は都尉となる。大梁の張耳、陳餘、軍門に詣つて上謁す。勝大に喜び、自立して王となり、張楚と號す。諸郡縣秦法に苦み、爭つて、長吏を殺し、以て涉に應ず。謁者東方より來り、反者を以て聞す。二世怒り、之を吏に下す。後に使者至る。上、之に問ふ。曰く、群盜、鼠竊狗偸憂ふるに足らざるなりと。上悅ぶ。秦-二世皇帝-一三五
十八史略卷之二三大陳勝、善き所の陳人武臣を以て、將軍となし、耳餘を校尉となし、と1)趙の地を徇へしむ。趙に至つて、武臣、自立して趙王となる。劉季字邦沛人劉邦、沛より起る。父老、爭つて令を殺し、迎へ立てて沛公蕭何曹參となす。沛邑の掾主吏、蕭何、曹參、爲に沛の子弟を收めて、三千人を得たり。項藉字羽項梁は楚將項燕の子なり。嘗て人を殺し、兄の子籍と仇を吳中に避く。籍、字は羽。少時、書を學べども成らず、去つて劍を學べど書は姓名をも、又、成らず。梁怒る。籍曰く、書は以て姓名を記すれば足る。記すれば足劍は一創作人の敵のみ、學ぶに足らず。願はくは、萬人の敵を學ばむ人の敵のみと梁乃ち籍に兵法を〓ふ。會稽の守殷通、兵を起して、陳涉に應ぜむと欲し、梁をして將たらしむ。梁、籍をして、通を斬らしめ、其印綬を佩び、遂に吳中の兵を擧げて、八千人を得たり。籍、裨將となる時に年二十四。齊人田儋、自立して齊王となる。趙王武臣、將、韓廣をして、燕の地を略せしむ。廣、自立して燕王となる。3)楚將周市、魏の地を定め、梁の公子咎を迎へ、立てて魏王となす。二年、吳廣、其下の爲めに殺さる。陳勝、其御莊賣の爲めに殺さる。以て秦に降る。秦將章邯、魏を撃つ齊楚、之を救ふ。齊王儋、魏王咎、周市と秦-二世皇帝-三
十八史略卷之二一三八皆敗死す。趙王武臣、其將李良の爲めに殺さる。張耳、陳餘、趙歇を立てて王となす。范增居鄴の人范增、年七十、奇計を好む。往いて、項梁を說いて曰く、陳勝、事を首めしが、楚の後を立てずして自立す。其勢長からず。今、君、江東より起り、楚の〓起の將、爭ふて君に附く者は、君が世世、楚の將にして、必ず能く楚の後を復立せんと以へばなりと是に於て、項梁、楚の懷王の孫心を求め得て、立てて楚の懷王となし、以て民の望に從ふ。趙高、丞相李斯と隙あり。高、二世に侍し、燕樂して、婦人前評十貳集装る邪に居るに方り、人をして、丞相斯に、事を奏すべしと告げしむ。(小惑星)ゝ〓ね此途に依る斯、上謁す。二世、怒つて曰く、吾嘗て閒日多し。丞相、來らず。陷る趙高李斯を吾、方に燕私すれば、丞相輒ち來る。高曰く、丞相の長男李由、三川の守となり、盜と通ず、且つ丞相外に居て、權陛下より重し、はと。二世、之を然りとし、斯を吏に下し、五刑を具へて、咸陽の市に腰斬す。斯出づる時、顧みて、中子に謂つて曰く、吾、若と復た黃犬を牽き、共に上蔡の東門を出でて、狡兎を逐はむと欲するも、5豈に得べけむやと。遂に父子相哭して、三族を夷せらる。評趙高鹿を中丞相趙高、秦の權を專らにせむと欲し、群臣の聽かざるを恐指して馬と謂はしむる。乃ち、先づ驗を設く。鹿を持して二世に獻じて曰く、馬なり秦-二世皇帝-一三九
十八史略卷之二一四〇眞に馬鹿のと。二世笑つて曰く、丞相誤れるか、鹿を指して馬となすと。左骨頂じ、右に問ふ、或は默し、或は言ふ。高、陰に諸の鹿と言ひし者に中つるに法を以てす。後、群臣、皆、高を畏れて、敢て其過を言ふなし。しんしやう〓〓かん項梁、秦將章邯と戰つて敗死す。宋義、先づ其必ず敗るるを言ふ。梁、果して敗る。秦、趙を攻む。楚の懷王、義を以て上將となし、羽、之を斬つて、其兵を項羽を次將となし、趙を救ふ。義、驕る。〓かん秦將章邯、董領し、大に秦兵を鉅鹿の下に破り、王離等を虜にし、緊司馬欣を降し、羽、諸侯の上將軍となる。是れより先、趙高、數ば云ふ。關東の盜、能く爲す無しと。秦兵の數ば敗るるに及び、高、二世の怒を恐れ、遂に婿闇樂をして、二世を望夷宮に弑せしめ、公子嬰を立てて、秦王となす二世の兄の子なり。嬰、旣に立つて、趙高を族殺す。始め、楚の懷王、諸將と約す、先づ入つて關中を定むる者は、之に王たらむと。當時、秦兵强く、諸將、先づ關に入るを利とする15 )うなし。獨り、項羽、秦が項梁を殺せしを怨み、奮つて、沛公と共に先づ關に入らむことを願ふ。懷王の諸老將、皆曰く、項羽、人と爲り、慓悍猾賊。獨り、沛公は寛大の長者、遣すべしと。乃ち沛公を遺す。豐〓其高陽の人鄙食其。沛公麾下の騎士に謂つて曰く、吾聞く、沛公は秦-二世皇帝-一二一
十八史略卷之二一四二慢にして人を易り、大略多しと。是れ、眞に吾が從游を願ふ所なり。騎士曰く、沛公、儒を好まず。客、儒冠を冠して來る者は、沛公、卽ち其冠を解いて、其中に洩溺す、未だ儒生を以て說くべからざるなりと。食其、騎士をして第だ入つて言はしめて曰く、人皆、食其を狂生といふ。生自ら謂ふ、我は狂士に非ずと。沛公、高陽の傳舍に至り、生を召して入らしむ。沛公、方に床に踞し、兩女子をして、足を洗はしめ、而して生を見る。生、長揖して、拜せずして曰く、足下、必ず無道の秦を誅せむと欲せば、宜しく倨して長-者を見るべからずと。是に於て、沛公、洗ふを輟め、起つて、衣を攝し、生を上座に延いて、是に謝す。生、沛公の爲に說いて、陳留を下す。後、常に說客となる。張良、沛公に從つて西す。評すず數創を世出のてを而ての始き由者治亡出が國英皇滅でもを養不沛公、大に秦軍を破り、關に入つて、霸上に至る。秦王子嬰素後し歲め以車白馬頸に繫くるに組を以てし、出でて、〓道の旁に降る。秦は、始皇二十六年、天下を併せてより、二世三世にして亡び、帝と稱す國り究しに志すなを宜る止だ十有五年。く緣む漢西紀自前二〇五至紀元【漢太祖高皇帝】堯の後。姓は劉氏。名は邦、字は季。沛の豐邑中二三陽里の人なり。母媼、大澤の陂に息ひ、夢に神と遇ふ。時に大雷雨、西漢-太祖高皇帝-一
十八史略卷之二〓晦冥なり父太公、往いて、交龍を其上に見る。既にして劉季を生りようがん隆準龍顏む。隆準にして龍顏、美鬚髯あり、左の股に七十二の黑子あり。寬仁にして人を愛し、意豁如たり。大度あり、家人の生產を事とせ咸陽に絲役し、秦皇ず。壯なるに及び、泗上の亭長となる。嘗て、帝を縱觀して曰く、嗟乎、大丈夫、當に此の如くなるべしと。單父の人呂公、好んで人を相す。劉季の狀貌を見て曰く、吾、人を相すること多し、季の相に如くはなし。願はくは、季、自愛せよ。吾に息女あり、願はくは、箕箒の妻となさむと。卒に劉季に與ふ。卽ち呂后呂后なり。秦の始皇、嘗て曰く、東南に天子の氣ありと。是に於て、東游して、以て之を厭當す。劉季芒陽山澤の間に隱る。呂氏、人と倶に求むるに、常に之を得たり。劉季、怪んで之を問ふ。呂氏曰く、季のう居る所、上に雲氣あり、故に從つて往き、常に季を得たりと。劉季喜ぶ。沛中の子弟、之を聞いて、附かむと欲する者多し。亭長たりし時、竹皮を以て冠となし、貴に及ぶも、常に冠す。謂ゆる劉氏冠なり劉季、縣の爲に徒を驪山に送る。徒多く道より亡ぐ。自ら度るに、至る比には、盡く之を亡はむと。豊西に到るや、止まつて飮み、夜、乃ち送る所の徒を解縱して曰く、公等、皆去れ、吾も亦た此より逝かむと。徒中の壯士、從ふを願ふ者十餘人、季、酒を被西漢-太祖高皇帝-豆
十八史略卷之二奧劍を拔いてり、夜、澤中を徑る。大蛇あり、徑に當る。季、劍を拔いて、之を大蛇を斬る斬る。後、人、來つて、蛇の所に至る。老嫗あり、哭して曰く、吾が子は、白帝の子なり。今、赤帝の子、之を斬ると。因つて忽ち見えず。後、人、劉季に〓ぐるや、劉季、心に獨り喜んで、自負す。諸の從ふ者、日に益す之を畏る。は陳涉の起るや、劉季も亦た兵を沛に起し、以て諸侯に應ず。旗幟皆赤し。楚の懷王、沛公を遣す秦を破り、關に入り、秦王子嬰を降す。旣に秦を定め、還つて、霸上に軍し、諸縣の父老豪傑を召し、(謂つて曰く、父老、秦の苛法に苦む久し。吾、諸侯と約し、先づ關中に入る者は、是に王たらむと。吾、當に關 中に王たるべし。父に·す法三章を約老と法三章を約せむのみ。人を殺す者は死す。人を傷け及び盜すれば罪に抵らむ。餘は悉く秦の苛法を除き去らむと。秦民、大に喜評ぶ。け所鴻目謂門の度た靑る沛此ど如范時ふのな劇下會はの失羽合の天の分項羽、諸侯の兵を率ゐて、西、關に入らむと欲す。或ひと、沛公に天り的宕をに項 の在に下。合磊遇於羽然言り此を項 人說いて、關門を守らしむ。羽、至る。門閉づ。大に怒つて、之を攻の在に下に正)め破り、進んで、戯に至り、旦に沛公を擊たむと期す。羽の兵四十增者態つ落すてのれの萬.百萬と號す。鴻門に在り。沛公の兵十萬、霸上に在り范增、會もし項羽を說いて曰く、沛公、山東に居りし時、財を貪り、包含むり今、豪公竹塹草關に入つて、財物取る所なく、婦女幸する所なし。是れ其志小に家庭は武骨在らず。吾、人をして其氣を望ましむるに、皆、龍と爲つて、五采西漢-太祖高皇帝-一四七
十八史略卷之二愛是れ天子の氣なり。急に擊つて、失ふ勿れと。羽の季父以絕羽な高憾發を爲す、な揮眞くし面後て目キ世遺を國心項伯、素より張良に善し。夜馳せて、沛公の軍に至り、良に〓x2x12げ、呼んで與に倶に去らむとす。良曰く、臣、沛公に從ふ、急あつきのえる所て亡ぐるは、不義なりと。入つて、具に告げ、因つて、伯を要し項評て私登范し天阿情しし伯て、入つて沛公に見えしむ。巵酒を奉じて、壽をなし、約して、婚のをき姪て下哉は姻をなして曰く、吾、關に入つて、秋毫も敢て近づく所あらず、吏む府庫を封じて、增子なり〇四五民を籍し、將軍を待つ、關を守る所以のものは、他盜に備ふるなり。願はくは、伯、具に臣の敢て德に倍かざるを言へ。伯許諾して曰く、且日蚤く自ら來り謝せざるべからずと。伯去つて、具に以て羽に〓げ、且つ曰く、人大功あり、之を擊つは不上義なり。如かず、因つて、善く之を遇せむにはと。沛公旦に百餘騎を從へて、羽を鴻門に見、謝して曰く、臣、將軍と力を戮はせて、秦を攻め、將軍は河北に戰ひ、臣は河南に戰ふ。自ら意はざりき、先づ關に入つて、秦を破り、復た將軍を此に見るを得むとは。今、小人の言あり、將軍と臣とをして隙あらしむ。羽曰く、是れ沛公のとC左司馬曹無傷の言なりと。羽、沛公を留めて、與に飮む。范增、數ば羽に目し、佩ぶる所の玉玦を擧ぐるもの三たび、羽、應ぜず。す、增、出で、項莊をして、前んで壽を爲さしめ、劍を以て舞はんことを請ひ、因つて、沛公を擊たしむ。項伯も、亦た劍を拔いて起つて舞ひ、常に身を以て沛公を翼蔽す。莊、擊つを得ず。張良出で西漢-太祖高皇帝-一九元
十八史略卷之二一五〇て、樊噲に〓ぐるに、事の急なるを以てす。喰、盾を擁して直に入こと〓評鴻壯號 3700士噌にはし寔り、目を瞋らして、羽を視る。頭髪上り指し、目皆盡く裂く。羽てに合席上の主の 曰く、壯士なり。之に厄酒を賜へと。則ち斗巵酒を與ふ。之に〓肩役たり高島屋(左圓次)を賜へと。乃ち生〓肩なり。噌立ちながら飮み、劍を拔き、肉を切の項羽五代目(菊五郞)つて、之を唱ふ。羽曰く、能く復た飮むか。噌曰く、臣、死だも且の沛公九代目(團十郞)つ避けず。巵酒安んぞ辭するに足らむ、沛公、先づ秦を破つて、咸た物のまたに10/10陽に入る、勞苦して功高きこと、此の如く、未だ封侯の賞あらず。然るに、將軍細人の說を聽いて、有功の人を誅せむと欲す、是れ亡秦の續のみ、切に將軍の爲に取らざるなり。羽曰く、坐せよと。噌、良に從つて坐す。須臾にして、沛公起つて〓に如き、因つて、と噌を招いて出で、間行して霸上に趨る。良を留めて羽に謝せしめて相勺に勝へざるも、曰く、沛公、辭する能はず。臣、良をして、白璧一雙を奉ぜしめ、再拜して將軍の足下に獻ず。玉斗一雙、再拜して、亞父の足下に奉ず。羽曰く、沛公安にか在る。良曰く、將軍、之を督過するの意ありと聞き、身を脫して、獨り去る。旣に軍に至あらむと。亞父、劍を拔いて、玉斗を撞つて、之を破つて曰く、咲、豎子謀るに足らず、將軍の天下を奪ふ者は、必ず沛公ならむと。沛公、軍に至るや、立どころに、曹無傷を誅す。居ること數日。羽、兵を引いて、西、咸陽を屠り、降王子嬰を殺し、秦の宮室を燒「。火三月絕えず。始皇の家を掘り、寶貨婦女を收めて東す。秦民、西漢-太祖高皇帝-一三一
十八史略卷之二一五二大に望を失ふ。韓生、羽に說く、關中は山を阻て、河を帶び、四塞の地、肥饒なり。都して、以て霸たるべしと。羽、秦の殘破を見、評言且つ東歸を思うて曰く、富貴にして、故〓に歸らざれば、繡を衣て所フ人なのが機誠が衣ざ故富後微に如てれ郷貴項人し夜ばにに羽〓彼情と行繡歸しのて的と曲れのはくをらて夜行くが如きのみ。韓生曰く、人言ふ、楚人は沐猴にして冠すと、果して然りと。羽、之を聞いて、韓生を烹る。羽ゆ.人をして、命を懷王に致さしむ。王曰く、約の如くせよ。羽)立世何以ア物り大り多し劇物怒つて曰く、懷王は、吾が家の立つる所のみ。功伐あるに非ず。なンときぞ約を專主するを得むと。乃ち陽り尊んで、義帝となし、江南に徒し、郴に都せしむ。天下を分て諸將を王とし、羽、自ら立つて西楚の霸王となる。乃ち曰く、巴蜀も亦た關中の地なりと。沛公を立てて漢王となし、巴蜀漢中に王とし、而かも關中を三分し、秦の降將三人を王とし、以て漢の路を距塞す。漢王、怒つて、羽を攻めむと欲す。蕭何、諫めて曰く、願はくは、大王、漢中に王とし、其民を養ひ、以て賢人を致し、巴蜀を收用し、還つて三秦を定むれば、天下圖るべきなりと。王、乃ち國に就き、何を以て丞相となす。漢の元年、五星東井に聚まる。韓信始め、淮陰の韓信、家貧にして城下に釣す。漂母あり、信が饑ゑび、たるを見て、信に飯せしむ。信曰く、吾、必ず厚く母に報ゐむ。母怒つて曰く、大丈夫、自ら食する能はず。吾、王孫を哀んで、食を進む、豈に報を望まむやと、淮陰屠中の少年、信を侮る者あり、衆西漢-太祖高皇帝一貫
十八史略卷之二書はづかに因つて、之を辱しめて曰く、若長大にして、好んで劍を帶ぶと雖も、中情怯るるのみ。能く爲せば、我を刺せ。能くせざれば、我す韓信勝下よが胯下より出でよと。信。之を熟視し、俛して胯下より出でて蒲伏り出づぶす。一市の人、皆、信の怯を笑ふ。項梁、淮を渡るや、信、之に從ひ、又數ば策を以て、項羽を干す。用ゐられず。亡げて漢に歸し、治粟都尉となる。數ば蕭何と語る。何之を奇とす。王、南鄭に至るや、將士皆謳歌して歸るを思ひ、多く道より亡ぐ。信、度るに、何、旣に數ば言ふも王用ゐずと。卽ち亡げて去る。何、自ら之を追ふ。人曰く、丞相何亡ぐと。王怒つて、左右の手を失ふが如し。何來り謁す。王、罵つて曰く、若亡げしは何ぞや。何曰く、韓信を追ふ。王曰く、諸將亡ぐる、十を以て數ふ。公、追ふ所なし。信を追ふとは、詐ならむ。何曰く、諸將は得易すきのみ。信は國士無雙。王必ず長く漢中に王たらむと欲せば、信を事とする所なし。必ず天下を爭はむと欲せば、信に非ずむば、與に事を計るべき者なし。王曰く、吾、亦た東せむと欲するのみ、安んぞ能く鬱鬱として、久しニく此に居らむや。何曰く、必ず東するを計らば、能く信を用ゐよ。信卽ち留まらむ。然らざれば、信終に亡げむのみ。王曰く、吾、公の爲に以て將となさむ。何曰く、留まらず。王曰く、以て大將となさむ。何曰く、幸甚し、王素より慢にして禮なく、大將を拜するき小兒を呼ぶが如し。是れ信の去る所以なりと。乃ち壇場を設け、禮西漢-太祖高皇帝-一五五
十八史略卷之二要を具ふ。諸將、皆喜び、人人自ら以て大將を得むとなす。拜するに至れば乃ち韓信なり。一軍皆驚く。王、遂に信の計を用ゐて、諸將を部署す。蕭何を留めて、巴蜀の租を收めて軍に粮食を給せしむ。信.兵を引いて、故道より出で、雍王章邯を襲ふ。邯敗死す。塞王司馬欣、翟王董翳、皆、降る。(う)漢の二年項籍、義帝を江中に弑す。陳平始め、陽武の人陳平、家貧にして、書を讀むを好む。里中の社に、ひ平、宰たり。肉を分つこと、甚だ均し。父老曰く、善し、陳儒子の宰たるや。平曰く、嗟乎、平をして、天下を宰するを得しむれば、亦た此肉の如くならむと。始め、魏王答に事ふ。用ゐられず。去つて、項羽に事ふ。罪を得て亡ぐ。魏無知に因つて、漢王に見えむことを求め、拜して、都尉參乘典護軍となす。周勃、王に言つて曰く平美、冠玉の如しと雖も、其中、未だ必ずしも有らざるなり臣聞く、平、家に居て其嫂を盜み、魏に事へて容れられず、亡げて楚に歸し、又容れられず、亡げて漢に歸す。今、大王、軍を護せしめ、諸將の金を受く。願はくは、王之を察せよと。玉、魏無知を讓む。無知曰く、臣の言ふ所のものは能なり。大王の問ふ所のものは行なり。今、尾生孝已の行ありとも、成敗の數に益なくむば、大王、何の暇あつて之を用ゐむやと。王、平を護軍中尉に拜とし、盡く諸將を護せしむ。諸將、乃ち敢て復た言はず。西漢-太祖高皇帝-毛
十八史略卷之二〓漢王、洛陽に至る。新城の三老董公、遮つて說いて曰く、德に順ふ者は昌へ德に逆ふ者は亡ぶ。兵出づるに、名なければ、事、故に成らず。其賊たるを明かにすれば、敵乃ち服すべし。項羽、無道にして其主を放弑す、天下の賊なり。夫れ、仁は勇を以てせず、ず力て仁を以をサは第て税込さ義は力を以てせず。大王、宜しく、三軍の衆を率ゐ、之が爲に素服し、以て諸侯に告げて之を伐つべしと。是に於て、漢王、義帝の爲に喪を發し、諸侯に〓げて曰く、天下共に義帝を立つ。今、項羽、こと〓〓ー)之を放弑す。寡人、悉く關中の兵を發し、三河の士を收め、南、江漢に浮んで下る。願はくは、諸侯王に從つて、楚の義帝を弑せし者を擊たむと。漢王、五諸侯の兵五十六萬を率ゐ、楚を伐つて、彭城に入り、其寶貨美人を收めて、置酒高會す。項羽、方に齊を擊つ之を聞くや、自ら精兵三萬を以て、還つて漢を擊ち、大に漢軍を唯水の上に破る。死者二十萬人。水、之が爲に流れず。漢王を圍むこと三匝、會ま大ら風雨、北より起り、木を折り、屋を發き、沙石を揚げて、晝晦し、王、乃ち數十騎と遁るるを得たり。審食其、太公、呂氏に從つて閒行す。楚軍に遇ふ。楚の爲めに獲らる。常に軍中に置いて質となす。漢王、榮陽に至る。諸敗軍皆會す。蕭何、亦た關中の老弱を發して、悉く榮陽に至らしむ。漢軍、復た大に振ふ。評蕭何戎後の功漢をし蕭何、關中を守り、宗廟社稷縣邑を立て、事は便宜に施行し、關西漢-太祖高皇帝-〓
十八史略卷之二荅にて天下を得中の戶口を計り、轉漕して、兵を調し、未だ嘗て乏絕せず。しむ魏王豹、叛す。漢王、韓信を遣して、之を擊たしむ。豹、柏直を六以て大將となす。王曰く、是れ口尙ほ乳臭、安んぞ韓信に當るを得むと。信、兵を伏せて、夏陽より木器を以て軍を渡し、安邑を襲うて、豹を虜にす。信、旣に魏を定め、兵三萬人を請ひ、願はくは、以て、北、燕趙を擧げ、東齊を擊ち、南.楚の糧道を絕ち、西大王に榮陽に會せむと。王、張耳を遣して、與に倶にせしむ。三年。信、耳、兵を以て、趙を擊ち、兵を井陘口に聚む。趙王歇、せいけ李左車、成安君陳餘、之を禦ぐ。餘に謂つて曰く、井陘の道、車軌を方ぶるを得ず。騎、列を成すを得ず。其勢糧食必ず後に在らむ。願はくは、奇兵を得、閒道より、其輜重を絕たむ。足下、す溝を深くし、壘を高くし、與に戰ふ勿れ。彼前むも鬭ふを得ず、か退くも還るを得ず、野掠むる所なく、十日ならずして、兩將の頭、い麾下に致すべしと。餘は儒者、自ら義兵と稱し、奇兵を用ゐず。信喜び、閒して之を知り、大に乃ち敢て下る。未だ井陛口に至らずして止まり、夜半、輕騎二千人を傳發し、人ごとに赤幟を持し、閒道よりして趙軍を望ましめ、戒めて曰く、趙我が走るを見ば、必ず壁を空しうして我を逐はむ、若、疾く趙壁に入り、趙の幟を拔いて、韓信背水之漢の赤幟を立てよと。乃ち萬人をして先づ水を背にして陣せしむ。陣せいけいこうヘ平旦に、大將の旗鼓を建て、鼓行して、井壓口を出づ。趙壁を開西漢-太祖高皇帝-三
十八史略卷之二一六二いて、之を擊つ。戰ふこと、良や久しうして、信、耳、佯つて、鼓ヘ旗を棄てて、水上の軍に走る。趙果して。壁を空しうして、之を逐ふ。水上の軍、殊死して戰ふ。趙軍、既に信等を失ひ、壁に歸る。赤幟を見て、大に驚き、遂に亂れて遁走す。漢軍夾擊、大に之を破いり、陳餘を斬り、趙歇を禽にす。諸將賀す。因つて問うて曰く、兵法は、山陵を右倍し、水澤を前左すと。今、水を背にして勝つは何評李此と左處てと信ぞや。信曰く、兵法に日はずや、之を死地に陷れて、而して後に兵と生かし、之を亡地に置きて、而して後に存すと。諸將、皆、服す。餘方必を備ずしるめ陳相ら信、募つて、李左車を得、縛を解いて、之に師事し、其策を用ゐ、に事のみ辯士を遣して書を燕に奉ぜしむ。燕風に從つて靡く隨何隨何、九江王黥布に說き、楚に畔いて、漢に歸せしむ。既に至るや、漢王、方に床に踞して、足を洗ふ。布を召して、入つて見えしむ。布、悔い、怒つて、自殺せむと欲す。出でて舍に就くに及で、帳御食飮從官、皆、漢王の居の如し。又、大に喜び望に過ぎたりと。酈食其、漢王に說く。六國の後を立てよと。王曰く、趣に印を刻せよ。張良、來り謁す。王方に食す。具に良に〓ぐ。良曰く、請ふ、前箸を借り、大王の爲に之を籌らむと。遂に八難を發す。其七に曰く、天下の游士、親戚を離れ、墳墓を棄て、大王に從て遊ぶ者は、徒.尺寸の地を欲望すればなり。今、復た六國の後を立つれば、游士各歸つて、其主に事へむ。大王、誰と共に天下を取らむや。西漢-太祖高皇帝-查
十八史略卷之二一番つよまぜうしたがいづく且つ楚より惟れ彊きはなく、六國復た撓して之に從はば、大王、焉しんごはかりごとたいじさんぞ得て之を臣とせむや。まことに、客の謀を用ゆれば、大事去しよくほはのゝしじゆ〓ほとだいこうらむと。漢王、食を輟め、哺を吐き、罵つて曰く、豎儒幾んど乃公つかすみやかいんけの事を破らむとすと。趣に印を銷さしむ。そかんわうけいやうかこちんべいてんかふんぶんいづれ楚、漢王を榮陽に圍む。漢王、陳平に謂つて曰く、天下紛紛、何ときこうわうこつかうあふはいすうにんかんの時にか定まらん。平曰く、項王骨硬の臣、亞父輩數人のみ。間をうたがひつひ行うて、以て其心を疑はしむれば、楚を破ること必せりと。主、平わうごんまんぎんそのしゆつにふとはんかんはなに黃金四萬斤を與ふ。其出入を問はず、平、多く反聞を縱つ。羽、あほうたががいこつそはい范增疽發背大に亞父を疑ふ骸骨を請うて歸り、疽背に發して死す。死かんわうますまきしんいは楚漢王を圍むこと、益す急なり。紀信曰く、事急なり。請ふ、あざむくるましよくつ楚を誰かむと。乃ち漢王の車に乘じて、東門より出づ。曰く、食盡じやうとうみきて、漢王出で降ると。楚人、皆、城東に之いて觀る。漢王、乃ちせいもんこううきしんせうさつ西門より出でて去るを得たり。項羽、紀信を燒殺す。かんわうせいくわうぐんかにのがきたか漢王、成皇に軍す。羽之を圍む。王、逃れ去る。北、河を渡り、あしたてうへきかんしんうばてうへいせい晨に趙壁に入り、韓信の軍を奪ひ、信をして、趙兵を收めて、齊をう擊たしむ。れきいけいやうがうそうだいよせいくわうけん酈食其、王に說き、榮陽を收め、敖倉の粟に據つて、成皇の險をふさ塞がしむ。王、是に從ふ。ためとくわいてつ酈食其、漢王の爲に、齊王を說いて、之を下す。蒯徹、韓信に說ぜいかんしいて曰く、將軍、齊を擊つ。然るに、漢、獨り間使を發して、之を西漢-太祖高皇帝-金
十八史略卷之二奏下す。寧ろ、詔あつて、將軍を止めたるか。酈生、軾に伏し、三か、寸の舌を掉ふて、七十餘城を下す。將軍、將たること數歲、反つて)う一豎儒の功に如かざるかと。四年。信襲うて齊を破る。齊王、食其を烹て走る。{漢、楚と皆廣武に軍す。羽、高爼を爲り、太公を其上に置き、漢王に〓げて曰く、急に下らざれば、吾、太公を烹む。王曰く、吾、ふん、若と倶に北面して、懷王に事へ約して兄弟となる。吾が翁は卽ち若の翁なり。必ず而の翁を烹むと欲せば、幸に我に一杯の羹を分てと。羽、王と挑戰せむと欲す。王曰く、吾、寧ろ智を鬭はしめむ、ま力を鬭はしめずと。因つて、羽の十罪を數ふ。羽.大に怒り、弩を伏せ、王を射て、胸を傷つく。楚、龍且をして齊を救はしむ。龍且曰く、韓信は與し易きのみ。漂母に寄食し、身を資くるの策なく、辱を胯下に受く。人を兼ぬするの勇なしと。進んで、信と灘水を夾んで陣す。信、夜、人をして、砂を嚢にして水の上流を壅がしめ、旦に渡つて且を擊ち、詐り敗れて、還り走る。且、之を追ふ。信、水を決せしむ。且の軍、大半渡るを得ず。急に擊つて、且を殺す。信、人をして之を漢王に言はしめ、假王となつて、以て齊を鎭せむことを請ふ、漢王大に怒り、ゐ之を罵る。張良、陳平、足を躡み、耳に附いて語る。王、悟る。復た罵つて曰く、大丈夫、諸侯を定む。卽ち眞王たらんのみ。何ぞ假西漢-太祖高皇帝-一六七
十八史略卷之二天を以て爲さむと。印を遣し、信を立てて、齊王となす。項羽、龍且の死せしを聞き、大に懼れ、武渉をして信に說かしめ、共に連和して、天下を三分せむと欲す。信曰く、漢王、我に上將軍の印を授け、衣を解いて我に衣せ、食を推して我に食はしめ、言聽かれ、計用ゐらる。我、之に倍くは不祥なり、死すと雖も易らKinsenずと。爾級亦た信に說く。信、聽かず。漢黥布を立てて、淮南王となす。項王、助少く。食盡く。韓信、又兵を進めて、之を擊つ。羽、乃?ち漢と約し、天下を中分して、鴻溝以西を漢となし、以東を楚となし、太公、呂后を歸へし、解いて、東に歸る。漢王、亦た西歸せむと欲す。張良、陳平曰く、漢、天下の大半を有ち、楚兵饑ゑ疲る。今、釋して擊たざれば、是れ虎を養うて、自ら患を遺すなりと。王之に從ふ。五年。王、羽を追うて固陵に至る。韓信、彭越、期して至らず、す張良、王に勸め、楚地、梁地を以て、兩人に許さしむ。王、之に從垓下之一戰ふ皆、兵を引いて來る。黥布、復た會す。羽、垓下に至る。兵少く食盡く。信等、之に乘ず。羽、敗れて、壁に入る。之を圍む數重。羽、夜.漢軍の四面皆楚歌するを聞き、大に驚いて曰く、漢皆旣に楚を得たるか、何ぞ楚人の多きやと。起つて帳中に飮み、虞美人に命じて起つて舞はしむ。悲歌慷慨、泣數行下る。其歌に曰く、西漢-太祖高皇帝-一六九
十八史略卷之二一五拔山蓋世力拔山分氣蓋世。時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何。虞兮虞兮奈若何と。騅は、羽が平日乘りし所の駿馬なり。左右皆泣いて、評敢て仰ぎ視るなし。羽、乃ち、夜、八百餘騎を從へ、圍を潰して南四朝支五那浙千二末な路口項羽のに出で、淮を渡る。迷うて、道を失ひ、大澤の中に陷る。漢の追ふな男味し如俊果是包家く学社好みきき者、之に及ぶ。東城に至つて、乃ち二十八騎あり。羽、其騎に謂つらにの收漢|男る意て曰く、吾兵を起してより八歲、七十餘戰、未だ嘗て敗れざるな是れ天の我を亡ぼすなり、戰の罪に非ず、|敗に烏り眞今、卒に此に困む。り勝詩のな今日、固より死を決す。願はくは、諸君の爲に決戰し、必ず圍を潰男羞未ミ)し將を斬り、諸君をして之を知らしめむと。皆、其言の如し。此に可知忍恥弟多兒、才江子)於て、東、烏江を渡らむと欲す。亭長舟を艤して、待つて曰く、江捲土重來未東小と雖も、亦た以て王たるに足る。願はくは、急に渡れ。羽曰れ可ど知) -然項羽ら彼重なをフ以死もく籍、江東の子弟八千人と江を渡つて西し、今、一人の還るなはを其後壯烈ずの來り致アての世多きにすンし。縱ひ、江東の父兄、憐んで、我を王とするも、我何の面目あものつて、復た見む。獨り、心に愧ぢざらむやと。乃ち刎て死す。に寧捲土はあろ柄楚地、悉く定まる。獨り、魯のみ下らず。王、之を屠らんと欲す。城下に至る。尙ほ絃誦の聲を聞く。其禮義を守るの國にして、主の爲に節に死せんとするが爲なり。羽の頭を持して、之に示す。乃ち降る。王、還る。馳せて、齊王信の壁に入り、其軍を奪ひ、信を立てて、楚王となし、彭越を梁王となす。漢王、皇帝漢王卽位の位に卽く。西漢-太祖高皇帝-七一
十八史略卷之一一七二洛陽の南宮に置酒す。上曰く、徹侯諸將、皆言へ吾が天下を得る所以のものは何ぞ、項氏が天下を失ひし所以のものは何ぞや。高起、王陵、對へて曰く、陛下、人をして城を攻め、地を掠せしめ、上評天以下因つて、之に與へ天下と其利を同じうす。項羽は、然らず。有功はを -如にる王 天王の者は、之を害し、賢者は、之を疑ひ、戰勝つも、人に功を予へず、)言の得の如人に利を與へず。其一を知つて其二を知人一を國る興ふりへす羽天三在と廢地を得るも、上曰く、公、う、否とにらず。夫れ籌を帷幄の中に運らし、勝を千里の外に決するは、吾、リなを固ゐ范得得劉り失よ終增項て邦傑のを を子房に如かず。國家を塡め、百姓を撫し、餽餉を給し、粮道を絕た所天ずら一下ら用ざるは、吾、蕭何に如かず。百萬の衆を連ね、戰へば必ず勝ち、攻以下むれば必ず取るは、吾、韓信に如かず。此の三人は、皆人傑なり。吾、能く之を用ゆ。是れ吾が天下を取る所以。項羽は、一の范增あれども、用ゆる能はず。是れ我に禽にせられし所以なりと。群臣、悅服す。故の齊の田横、其徒五百餘人と海島に入る。上之を召して曰く橫來れ。大なるは王とせん、小なるは侯とせむ、來らざれば、且に兵を擧げて誅せむと。橫二客と傳に乘じ、洛陽の尸〓に至つて自〓す。二客自剄して、王禮を以て之を葬る。之に從ふ。五百人、島中に在る者、之を聞いて自到す。季布始め、季布、項羽の將となり、數ば帝を窘む。帝、布を購求し、あ、敢て匿す者は、三族を罪せむといふ。布、乃ち髪鉗して奴となり、西漢-太祖高皇帝-一七三
十八史略卷之二一四自ら魯の朱家に賣る。朱家、心に其布たるを知る。洛陽に之いて、勝公に見えて曰く、季布、何の罪かある。臣、各其主の爲にするのみ。布の賢を以て、漢之を求むること急なれば、北、胡に走らざれば、南、越に走らむのみ。是れ壯士を棄てて、敵國を資くるなりと。滕公、上に言ひ、乃ち布を赦し、召して、郞中に拜す。丁公不忠丁公、項羽の將となり、嘗て、逐うて帝を彭城の西に窘め、短兵を以て接す。帝、急なり。顧みて曰く、兩賢豈に相厄せむやと。丁公、乃ち還る。此に至つて謁見す。帝、軍中に徇へて曰く、丁公、て不忠、臣となつ項王をして、天下を失はしむと。遂に之を斬る。曰く、後の人臣たる者をして、丁公に效ふことなからしむと。齊人婁敬、上に說いて曰く、洛陽は天下の中、德あれば以て興り易く、德なければ以て亡び易し。秦の地は、山を被り、河を帶び、四塞以て固となす。陛下、秦の故を案ぜば、是れ天下の亢を〓して其評張良は賢臣中賢背を打つなりと。上、張良に問ふ。良曰く、洛陽は四面に敵を受く、臣、名臣中の名臣武を用ゆるの國に非ず。)以起勇を以て關中は殺函を左にし、隴蜀を右にし、三面備彼保な功始以功智ふせに身しあ終てしを)を成を阻てて守る。敬の說、是なりと、上、卽日、西のかた關中に都す。しとて工名て貫る仁)り一終byミと留侯張良、)病を謝し、穀を避く。)曰く、家、世、韓に相たり。完夫哲失韓、亡びて、韓の爲に讎を報ず。今三寸の舌を以て、帝者の師となべり於り、萬戶侯に封ぜらる。是れ布衣の極。願はくは、人間の事を棄てて赤松子に從つて遊ばむのみと。良、少時、下邳の圮上に於て、老西漢-太祖高皇帝-一七五
十八史略卷之二二三、人に遇ふ。履を圮下に墮し、良に謂つて曰く、孺子、下つて履を取れと。良、之を毆たむと欲す。其老いたるを憫み、乃ち下つて履を取る。老人、足を以て之を受く。曰く、孺子、〓ふべし。後五日、我と此に期せむと。良、期の如く往けば、老人旣に先づ在り。怒つて曰く、長者と期して後るるは何ぞやと。復た、五日を約す。往くに及びて、老人、又先づ在り、怒つて復た五日を約す。良、旅エト往く。老人至る。乃ち喜び、授くるに、一編の書を以てして曰く、黃石公之を讀めば、帝者の師となるべし、異日、濟北穀城山下の黄石を見いば、卽ち我なりと。旦に之を視れば、乃ち太公の兵法なり。良之を異とし、晝夜習讀す。旣にして、上を佐けて、天下を定む。功臣をせ封ずるや、良をして、自ら齊の三萬戶を擇ばしむ。良曰く、臣始め)3陛下と留に遇ふ、是れ、天、臣を以て陛下に授くるなり。留に封ぜらるれば、足れりと。後、穀城を經るに、果して、黄石を得たり、之を奉祠す。六年。人上書して、楚王韓信反すと告ぐる者あり。諸將曰く、兵を發して、孺子を院にせむのみと。上、陳平に問ふ。平、之を危んで曰く、古しへ巡守して諸侯を會することあり。陛下、第だ出でて僞つて雲夢に遊び、諸侯を陳に會し、因つて、之を禽にせば、一力士の事のみと。上、之に從ふ。諸侯に〓げ、陳に會せよ、吾將に雲夢に遊ばむとすと。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて、信西漢-太祖高皇帝-一七七
十八史略卷之二天15を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果して人の言の若し。狡兎死し評소幣만큼て走狗烹られ、飛鳥盡きて良弓藏れ、敵國破れて謀臣亡ぶ。天下旣恃せりをデ術を完いふ哉に定まる、臣、まことに當に烹らるべしと。遂に械繫して以て歸り、をが何を謀敵良飛走狡な對ぞ知臣國弓鳥狗兎さ處豫ら亡破藏盡烹死ぶれさきらし若赦して、淮陰侯となす。上嘗て、從容として、信に諸將能く兵に將たるの多少を問ふ。上曰く、我の如きは、能く幾何に將たる。信曰く、陛下は十萬の將ボば之たるに過ぎず。上曰く、君に於ては如何。曰く、臣は、多多益す辨ざのめる途ず。上笑つて曰く、多多益す辨ずれば、何を以て我に禽にせられたる。曰く、陛下は兵に將たる能はざるも、而かも、善く將に將たり。是れ信が陛下に禽にせられし所以なり。且つ、陛下は謂ゆる天授、人力に非ざるなりと。符を剖いて、功臣を封ず。劃侯蕭何、食邑最も多し。功臣皆曰く臣等、堅を被り、銳を執り、多き者は百餘、少なき者は數十合。蕭何、未だ嘗て汗馬の勞あらず、徒に文墨を持して議論するのみ。〓顧ふに反つて、臣等の上に居るは何ぞや。上曰く、諸君、獵を知れ広りや。獸を逐殺するものは狗なり發縱指示するものは人なり。諸上君は、徒能く走獸を得たるのみ、功狗なり。蕭何の如きに至つては、功人なりと。群臣、敢て言ふなし。上旣に大功臣を封ず。餘は功を爭つて決せず。上、複道の上よ沙上偶語り望み見るに、諸將往往にして、沙中に坐して偶語す。上、張良に西漢-太祖高皇帝-一元
十八史略卷之二合問ふ。良曰く、陛下、是の屬を以て天下を取る。今、封ぜし所は、皆故人親愛、誅せし所は、皆、平生の仇怨。是の屬、盡く封ぜらるる事能はざるを畏れ、又平生の過失を疑はれて誅に及ばんことを恐る。故に相聚まつて叛を謀るのみ。上曰く、奈何せむ。良曰く、陛下の平生僧む所にして、群臣の共に知る所、誰か最も甚しき。上日く雍齒。良曰く、急に先づ齒を封ぜよと。是に於て、齒を封じて、什方侯となし、而して、急に丞相御史を趣がして功を定め、封を行はしむ。群臣、皆喜んで曰く、雍齒すら侯たり。吾が屬、患なしと。詔して、元功十八人の位次を定む。丞相何に賜ひ、劍履殿に上り、入朝趨らざらしむ。太公を尊んで、太上皇となす。帝、秦の苛法に懲りて、簡易を爲す。群臣、酒を飮んで功を爭ひ、叔孫通醉うて或は妄呼し、劍を拔いて柱を擊つ。叔孫通、上に說いて曰く、儒者は、共に進取し難きも、共に守成すべし。願はくは魯の諸生を徵し、共に朝儀を起さむと。上、之に從ふ。魯に兩生あり、行くを肯んだぜず。曰く、禮樂は、德を積んで後に興すべきなりと。通、徵せし所及び上の左右と、弟子百餘人と、縣絶を野外になして之を習はす。七年、長樂宮成る。諸侯群臣、皆、朝賀す。謁者、禮を治め、諸侯王以下吏六百石に至るまでを引いて、次を以て奉賀す。振恐肅敬せざるなし。禮畢つて、法酒を置き、御史法を執り、儀の如くな西漢-太祖高皇帝-八一
十八史略卷之二一八二らざるものを擧げて、輒ち引き去らしむ。朝を竟へ、酒を罷むるまで、敢て諠譁して禮を失ふ者なし。上曰く、吾、乃ち、今日、皇帝たるの貴きを知ると、通を拜して太常となす。匈奴、邊に寇す。帝、自ら將として、之を擊つ。冐頓單于が代谷に居るを聞き、兵三十萬を悉くして、北、之を逐うて平城に至る。か、は冐頓の精兵四十萬、帝を白登に圍むこと七日陳平の祕計を用ゐ、聞を遣して、厚く關氏に遣らしむ。冒頓乃ち圍を解いて去る。平、帝に從つて征伐し、凡そ六たび奇計を出す。輒ち封邑を益す。九年。劉敬を遣し、匈奴に使して和親せしむ。家人の子を取つて公主と名づけて、單于に妻はす。だ十年、代の相國陳豨反す。帝、自ら將として、之を擊つ、淮陰侯ん評韓信漢(5 D白一條終韓信の舍人の弟、變を上り、信が陰に稀と謀るを告ぐ。呂后、蕭ずりを克くせ)無人も何と謀り、詐つて、豨.旣に敗死すといひ、信を給いて、入つて賀ベきかなせしめ、武士をして、信を縛して之を斬らしむ。信曰く、吾、悔ゆらくは、蒯徹の謀を用ゐず、乃ち兒女子に詐らると。遂に信の三族5を夷す。十一年。帝、豨を破つて還り、詔して、蒯徹を捕へて至らしむ。曰く、秦其鹿を失ひ、天下共に逐ふ。高材疾足の者、先づ之を得評2017年7月19日、一言)を英雄たり。當時、臣、獨り韓信を知るのみ、陛下を知るに非ず。天下、道破すふべし陛下の爲す所を爲さむと欲する者、甚だ衆し、力能はざるのみ、又西漢-太祖高皇帝-一八三
十八史略卷之二否盡く烹るべからざるかと。帝、之を赦す。さ梁王彭越の太僕、其將扈輒、越に勸めて反せしむと〓ぐ。上、人をして、越を掩うて、之を因にせしむ。反形、旣に具はる赦しての.蜀に處らしむ。呂后曰く、是れ自ら患を遺すなりと。遂に之を誅して、三族を夷す。陸賈を遣して、南海の尉佗を立てて、南粤王となす。佗臣と稱なして、漢の約を奉ず。賈歸つて報ず、太中大夫に拜せらる。賈時に前んで詩書を說く。帝、之を罵つて曰く、乃公、馬上に天下を得たり、安んぞ詩書を事とせむ。賈曰く、陛下、馬上を以て之を得たるも、寧んぞ、馬上を以て之を治むべけむや。文武竝び用ゆるは長久の術なり、秦をして、天下を〓せ、仁義を行ひ、先聖に法らしむれば、陛下、安んぞ、之を有するを得む。帝曰く、試に我が爲に、秦の失ふ所以、吾の得る所以、及び古しへの成敗を書に著はせと賈、書十二篇を著はす。奏する毎に、善と稱す。號して、新語といふ。淮南王黥布、帝の韓信を殺し、彭越を醢にせしを見、同功一體の人なるを以て、自ら禍の及ばむことを疑ひ、遂に反す。帝、自ら將として之を擊つ。ど十二年。布を破つて還り、魯を過ぎ、大牢を以て孔子を祠る。沛を過ぎて置酒し、宗室故人を召して飮ましめ、酒酣にして、
最終更新:2022年09月05日 22:07