以下、『歴史魂』vol.12より。

--まずは宗茂が誕生した経緯を教えてください。
山本:初代『戦国BASARA』で話題になった武将の1人が本多忠勝でした。
あんなぶっ飛んだキャラをまた作るとしたら、誰をモチーフにすればいいだろと考えて、
史実で本多忠勝と並ぶほどの武将だった立花宗茂を取り上げたんです。
ちょうど『3』のタイミングで新武将として大友宗麟を出すということもあって、
その宗麟に苦労させられる「中年の悲哀」をテーマにしました。

長々と転載を続けてきたが、今回で本連載は最終回となるため、当該頁が最後となる。
理由はただ単に、掲載紙が休刊になったためであるのだが。

最後の冒頭部。
立花宗茂が、「忠義・剛勇鎮西一」を謳われた猛将の中の猛将であり、
東の横綱・本多忠勝と双璧を成す武将であるというのはよく知られたことであろう。
しかし、ここに挙げられるような「中年」のイメージが宗茂にあるかというとそれは疑わしい。
何故ならば、立花宗茂は伊達政宗・真田幸村(信繁)と同年の生まれであり、
B作中で両者が若者として描かれる以上、彼もまた若手として描かれなければ一貫性に欠くからである。
勿論、そんなものを考慮する必要はないという見方もあろうが、みすみす人気の出そうな話を見逃すというのは、
余りにも愚かな話ではないか。
また、大友宗麟との関係であるが、宗麟の横暴に対して諫言をおこなったのが義父の立花道雪である以上、
無論宗茂の方が宗麟よりも年下である。
君臣・親子といった関係の年齢を等閑視することが、如何なる暴挙であるか、
更には今後の話の破綻を招くかということは今更他言を要すまい。

--宗茂と言えば内心のつぶやきです。
山本:最初は有名な奥さん、立花誾千代をちょっと使いたかっただけなんです。
宗茂も怖がる最強の人物として(笑)。
そのつぶやきがうまくいったこともあって、今では真っ先に“つぶやき”のイメージが出てくる武将になりました。
内心は愚痴ばかりなんですが、ほかの武将から見ればつぶやきは聞こえず、
“物静かな武士の鑑”としか見られない。
そのあたりのギャップも上手くいったのかなと。

立花宗茂夫人が、戦国時代を代表する女傑・誾千代姫であることは確かに知られている。
ただし、これはあくまで昨今の話でしかない。
何故ならば、彼女の知名度を一気に向上させたのは、他ならぬBの教科書である、
『戦国無双シリーズ』の功績に他ならないからである。
彼女について言及したいのであれば、当然その名を挙げてしかるべきであろう。
これは、紙幅の問題では無い筈である。

勿論、B公式にそのような礼節や誠意、知性を求めること自体が酷であるのは先刻承知である。
やはり、問題とすべきはこの“つぶやき”の件であろう。
日々ぶつぶつと愚痴を、他人から聞こえないようにつぶやく人間が、周囲からは一体どのようにみられるか。
良くても詰まらない人間であろうと評されるであろうし、最悪ならば狂人の類として扱われるであろう。
このような人物像を、戦国時代最高級の人物に当て嵌めること自体が悪質な侮辱であろう。
それだけではない。
この矮小な設定が、冒頭部にある「ぶっ飛び」とどのように整合するのであろうか。

--チェーンソーのような武器“雷切”も強烈なインパクトがありました。
山本:最初は雷のイメージで七支刀にしようと思っていたのですが、
でもそれだと忠勝のインパクトには勝てない。
そこで、刃を増やして回転させてチェーンソーに進化しました(笑)。

公式がまたもや無思慮な一発屋気質を露呈している場面。
なお、この七支刀についても、既にBの教科書である『戦国無双シリーズ』で実装済みであり、
インパクトなど絶無であるし、そもそも祭器・霊的装備である七支刀に雷のイメージは無い。
進化を僭称しているとの感しかない。

--すごい進化ですね……! では、史実の宗茂で好きなエピソードは?
山本:関ヶ原の戦いの後に浪人したところですね。
この人に恥をかかせまいと、家臣たちがみんなで頑張って。
本当に愛されていた人で、戦国時代の中でも、みんながこんなに大切にしていた血脈というのは珍しいのではないでしょうか。

浪人(牢人)は原文ママ。
関ヶ原の後に宗茂は一時牢人生活に入るわけだが、ここで彼が露呈したのが、
戦にのみ生きてきたサラブレッドらしい、壮絶な世間知の欠如であったということは知られている。
この件は、まさしく宗茂の人間としての個性や愛らしさを示す話の筈である。
さて、「本当に愛されていた人」が、グチグチと下らない“つぶやき”をするような人であるなどということは、
あり得るのだろうか。
正反対の方向へ人物像を創作する、いや、歪曲するなど許しがたい話ではないか。

--『3宴』で宗麟から追放されていましたが、元ネタは浪人の話ですか?
山本:それもあります。
あとは、史実の関ヶ原の戦いで島津義弘と一緒に帰ってきたという話から、船に乗らせてみようかなと(笑)。
使いたかった史実のネタとしては、宗茂は豊臣秀吉をすごく敬愛していたというのがあるんですよ。
ゲーム中で石田三成とそのあたりの交流があっても面白かったかもしれません。
どの武将も史実を調べていくと面白いエピソードが多いので、これからもしっかり話を作っていきたいですね。

この、島津・立花両雄の関ヶ原帰国譚について、少しその経緯や内容を確認してみたい。
関ヶ原の敗戦後、甥の豊久を失いつつも満身創痍で西軍の残存勢力に合流した義弘ら島津軍。
彼ら島津軍を迎えた宗茂にとって、かつて岩屋城で父・高橋紹運を失わせた島津軍は父の仇敵である。
つまり、この時、宗茂は敵討ちの絶好の機会を得たと言えるわけである。
だが、宗茂はそのような詰まらない真似はしなかった。
亡父の仇を、疲弊した友軍を裏切るという卑劣な形で討つことを潔しとはしなかったわけである。
この時、宗茂は父・紹運の遺志を確かに継承し、また、父の存在を真の意味で乗り越えたといえるであろう。
父の遺志は無事次の世代に伝えられ、岩屋城の玉砕はあらゆる意味で無駄にならなかったのである。

余談ながら、この挿話は何の因果か教科書たる『戦国無双シリーズ』最新作の『4』でも採り上げられているので、
興味がある方はそちらも参照してほしい。

話は横に逸れたが、このような武人として以上に一個の人間として優れた度量を見せた宗茂を、
何故あのような矮小な人間として描くことが可能なのか。
そもそも、この話は船である必要は実はなく、馬上や馬車でも十分成り立つ話であって、
船に乗っているか否かは些末な話でしかない。
趙高・王莽に匹敵する公式の感性の劣悪ぶりは、まさしく史書に残すべき代物である。

なお、「これからもしっかり話を作っていきたい」と言った矢先のB4の内容が、
劣悪極まる内容であったというのは、ある意味では納得の帰結であった。
最後の最後まで無責任な内容の対談(勿論、対談形式の独白の可能性もあるが)であったとはいえる。

『戦国BASARA』の立花宗茂はこんな武将!
  • 恐妻家
  • 大友宗麟のワガママに振り回されっぱなし
  • (外から見たら)武人の鑑

最後の三行紹介。
これだけを見れば、英雄どころか小人にしか見えない。
史実を蹂躙する小人物の狂宴。
ある意味、最終回にして最もBの本質を語る内容と言えるのかもしれない。
最終更新:2014年06月29日 18:43