利用者の皆様には申し訳ないが、今回は少し形式を変更させて頂きたい。
リンク元にもあるように、今回のテーマは「猿飛佐助」である。
そのため、猿飛佐助について語るうえで少し前提条件を確認しておきたいのである。

それは、猿飛佐助はあくまで架空の人物だということである。
勿論、モデルとなった人物の存在は指摘されているが、恐らくこの構造自体が揺らぐことはないであろう。

そして、そこから生じざるを得ない、歴史上の人物との関係性である。
創作は無論自由であるべきだが、戦国時代を題材とした作品における架空の人物は、
歴史上の人物との無関係にその存在を安定させるのは困難である。
そのため、何らかの著名な歴史上の人物と直接間接いずれかの関係性が必要となるわけである。

猿飛佐助(ひいては彼がリーダー格を務める「真田十勇士」達)にとって、
その関係を担保する人物こそが、真田信繁(幸村)であることに異議のある方は居ないであろう。
と同時に、多くの真田幸村の物語において、佐助ら十勇士は不可欠の脇役陣としての地位を確立しており、
両者は、「物語上の存在としては表裏一体」であると言えよう。

この事を踏まえたうえで、以下の引用記事に当たって頂きたい。

--まずは猿飛佐助が登場した経緯を教えてください!
山本:真田幸村をメインキャラクターの1人に考えたとき、一緒にいる忍者が必要だな……と思ったんです。
それで、知名度のある猿飛佐助を入れてみました。
キャラクターの性格としては、武田家の2人がボケ役だったので、ツッコミ的なポジションも必要かなと(笑)。

今回、冒頭で前提条件を確認したのは、まさにこの記述のためである。
そもそも、同作中にすでに真田幸村が存在しているというのに、
「猿飛佐助が登場した経緯」が戦国ものにおいて必要とされるであろうか。
これは、『三国志演義』であるならば劉備が居るのに関羽・張飛の両者が登場することを疑問に思うようなものではないのか。
或いは、『水戸黄門漫遊記』において、水戸黄門の左右に助さん・格さんが登場するのを訝るのと同じであろう。
本稿冒頭で述べたように、幸村が出るならば当然佐助も出るだろうというのが常識的な思考の筈である。
(その意味では、B公式が佐助を出したこと自体には何ら問題が無く、別の箇所にこそ問題がある)

続けよう。
「一緒にいる忍者が必要」という発言も奇妙である。
初代の時点では政宗にすら周囲を固めるキャラが居ないという状況であるのに、
何故、一方の(それも副主人公格の)幸村の側にだけは忍者が必要になると思えるのであろうか。
付け加えると、そもそも忍者であるという必要性の問題も疑わしい。
武士たる真田幸村の存在を際立たせるための脇役・相方分の職掌は、必ずしも忍者とは限らないからである。

更に、「入れてみました」という発言も同じである。
何度も繰り返すが、佐助と幸村は表裏一体の関係にあり、
取捨選択の問題はこの両者については基本的に無いのであるから。

以上のように、この両者の対話は本来想定されるような内容・構成が一切欠如している。
これは、一体何を意味するか。

過去のインタビューを振り返って頂きたいのだが、
そもそも公式は真田幸村の存在を知らなかったと述べている。
このことから、幸村とは表裏一体の関係にある佐助の事も公式は当然知らなかったと考えねばならない。
勿論、猿飛佐助は忍者の中でも極めて知名度の高い部類であり、彼の名は数多くの作品で用いられているが、
名前ぐらいは知っていても、それが戦国時代の真田家所縁の人物であることまでは知らなかったのかもしれない。
勿論、名前くらいなら知っているということは、「知っている」範囲には入らないであろう。

少し長くなったので、箇条書き形式で纏めてみたい。
  • 何故、公式はそもそも猿飛佐助を出そうと思ったのか。
    • 真田幸村を知らない以上、彼と表裏一体の関係にある佐助の事を知っている筈はない。
    • 作中の人間関係・勢力関係からしても不自然と言える。
      • 伊達と比較すれば、人選にかなりの偏りが出る。
      • 上杉と比較すると、大名+忍者の構図は均等になるが、その場合は肝心の幸村が余計になってしまう。
  • 何故、その経緯も不透明なのか。
    • 勉強したのであれば、そもそも上記の通り経緯自体が不要となる筈である。
    • 武士の相棒分としての忍者という設定の場合、必ずしも忍者である必要はない。
      • 軍師・僧侶・商人・姫君など、相棒役のカテゴリーは多様である。
  • 知名度の問題だが、佐助に勝るとも劣らない霧隠才蔵や三好政海入道は名すら全く挙がっていない。

疑問だらけ、矛盾だらけの内容であるが、これに対して統一的な回答を出せる、
ある一つの極めて特殊な仮説を用意することが出来る。
それは、「B公式は『真田幸村の傍らに猿飛佐助ではない忍者が存在する作品』の影響下にある」というものである。
あまりにも異様な仮説であると思われるかもしれないが、これによってすべてに矛盾なく説明が出来る。
この仮説によって、
  • 真田幸村のそばに忍者が存在する必要性を、猿飛佐助の名前・存在を介さずに確保可能となる
    • その忍者が作中で重要な活躍をしているとなおよい
  • その「猿飛佐助ではない忍者」の所に「猿飛佐助」の名前・存在を後から代入することが可能となる
  • 必然性ではなく、知名度の面から猿飛佐助を選ぶことが可能となる
  • その作品の構造をトレスすることで、作品内部とは別の構造を強引ながら持ち込むという判断が可能となる

と言う訳である。
さて、『真田幸村の傍らに猿飛佐助ではない忍者が存在する作品』などという都合のいいものが、
果たして本当にこの世に存在するのだろうか?
もし、ご存知の方がいらっしゃったら、是非とも引用者に紹介して欲しいものである。

--シリーズを追うごとに、武田家の中での重要さというか、人物としての重さが深まってきた印象です。
山本:それは、武田家と言うのが大きかったと思います。
幸村が悩んだりするとき、やっぱりそれを支えるのは佐助なんですよね。
『3』で信玄が病になってうじうじした幸村を、そばで叱咤したのはやっぱり佐助ですし。
幸村が成長するための時間を稼いでいるわけですね。
三枚目っぽくもあるけど、実は心に忍びらしさを持っているというのが彼の魅力かなと。

どこかで聞いたような話。
良くある話と言うレベルではなく、既視感があるというレベルの話である。

--ほかのキャラクターに比べて、リアリスト的な描写が多いですよね。
山本:はい。
とくに『宴』だと、純粋な忍者の仕事の部分であるとか、裏の仕事の部分を見せられたと思っています。

何というか、リアリスト(笑)であろう。
作品自体がリアリズムとは程遠いというのに。

--かすがとの関係性は報われないまま終わるのでしょうか?
山本:そこは曖昧にしてるんですよね。
佐助にとってかすがは見ていてハラハラする、同郷の妹ぶん的な感情もあります。
本気で好きなのか、妹ぶんへの心配なのか。
そこはお茶を濁してますね(笑)。

本作品の総責任者であるプロデューサーからして男女の機微に対する理解が絶無なのだから、
この両者の関係もまともなものになる筈はないと思われる。
勿論、この手の話を蛇蝎の様に嫌う層がメインと言う商業上の要請もあるのだろうが。

--山本さんの忍者に対するイメージってどのようなものでしょうか?
山本:僕は白土三平さんのマンガを読んだので、史実よりもマンガ的な忍者の印象が強いですね。
あとは『伊賀野カバ丸』とか。
こちらもマンガですけど(笑)。

氏の読書(?)遍歴について。
氏の年齢を考えると、不自然な選出ではないと言えるが、ここで白土三平の名を挙げるのには疑問がある。
白土三平の忍者マンガと言えば、まず『カムイ伝』に指を屈さねばならないだろうが、
Bという作品内外の動きからしてそんな様子はどこにも見られない。
純然たるラブコメである後者は兎も角、前者の作品を読んでゲーム内容があの有様なのだろうか。

--白土三平から入ると、佐助のようなリアリストな忍者になりますね……。
そしておちゃらけ忍者成分と(笑)。
山本:佐助は一見ひょうきんなキャラクターですが、忍者としてのシビアな部分を強く持っている人物です。
そこは皆さんに見てもらいたい部分ですね。
『宴』だと、自分の生い立ちをおとぎ話風に語るシーンがあるのですが、『戦国BASARA』の佐助の生き様が深く感じられる部分だと思います。
そこは是非プレイしてみてください。

締めの箇所。
これまた、どこかで聞いたような話である。
勿論、剽軽さのある人物が、シリアスな場面では厳格な側面を見せるというのはよくある話ではあるが、
それを差し引いても既視感が拭えない。
最初から最後まで、新鮮さの欠如した内容であった。

『戦国BASARA』の猿飛佐助はこんな武将!
  • 真田忍隊のクールな隊長
  • そして武田軍のツッコミ役担当
  • 幸村を厳しく諌める現実主義者

最後の三行紹介。
何故か、今までの中で最もまともな類である。
架空の人物がまともな紹介で、実在の人物が駄目だというのは、公式の倒錯ぶりの表れだろうか。
最終更新:2013年08月04日 21:58