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Dグループ第八話『遺産』
今回予告
―デムーラン城砦を巡る攻防の後、セリスたちはつかの間の休息を手にしていた。だが、H271年10月にハーテン教徒がホウエン地方への南下を開始したことで、セリスたちは時代の激動へと巻き込まれていく。本格的に、ハーテン教徒との戦いが再開するのだ。その前に、セリスたちにはやるべきことがあった。ミリオットの母、リシアが用意した財産の回収である。だが、ハーテン教徒もその財産には気づいていた―
登場人物
※年齢は271年現在のものです
PC
- セリス・フィング(ヒューリン、男性、17歳)
- ミリオット(ヒューリン(ハーフアンスロック)、男性、17歳)
- 『ゼロ』レイ・クライスラー(ヴァーナ(アウリク)、男性、23歳)
- フルール・ローランサン(ヒューリン(ハーフアンスロック)、女性、15歳)
- アニムスディッセンバー(ヒューリン、男性、31歳)
- ルナ(ヒューリン(ハーフオルニス)、女性、20代前半/NPCとして参加)
セリス軍の関係者
- ジャンヌ・ボッツ(ヒューリン(ハーフフィルボル)、女性、17歳)
セインとモズメの娘。セリスやミリオットの幼馴染でバレー私塾『十傑』の一人。礫と馬の名手。父と同じく緑色が好き。
陽気で明るい性格。両親から譲られた緑色の布袋を腰から下げている。セリスと共に騎馬隊の編成を担当する。
陽気で明るい性格。両親から譲られた緑色の布袋を腰から下げている。セリスと共に騎馬隊の編成を担当する。
- 『緑衣』セイン・ボッツ(ヒューリン、男性、47歳)
ジャンヌの父でモズメの夫。リシア財団の役員で、シアルやユリアンヌの元同僚。
礫の達人。緑色が好きで、緑衣の外套を好んで身に付けている。戦線に復帰し、遊撃隊を編成する。
礫の達人。緑色が好きで、緑衣の外套を好んで身に付けている。戦線に復帰し、遊撃隊を編成する。
- ファイ・ラ(ヒューリン、女性、18歳)
タマムシ大学におけるミリオットの友人。爆破術の使い手。
大人しい性格だが、好敵手と認めたミリオットの前では対抗心を剥き出しにする。
大人しい性格だが、好敵手と認めたミリオットの前では対抗心を剥き出しにする。
- ラーチェル(エルダナーン、女性、19歳)
バレー私塾『十傑』の一人。クロエと同い年で親友。親友であるクロエに対し並々ならぬ思いを持っている。
クロエと共に訓練をこなすレイに突っかかることが多い。セリス軍の軍師となり、多忙を極める。
クロエと共に訓練をこなすレイに突っかかることが多い。セリス軍の軍師となり、多忙を極める。
- フェミナ(ヒューリン、女性、40歳)
騎馬隊の隊長。キッサキで妖魔との戦いを続けている。独身。
レイとは姉弟のような関係。十数年ぶりにデムーラン城砦へと戻り、騎馬隊の指揮を執る。
レイとは姉弟のような関係。十数年ぶりにデムーラン城砦へと戻り、騎馬隊の指揮を執る。
- フェルグス(ヒューリン、男性、23歳)
傭兵。金髪で、前髪を高く上げている。見事な剣技を持つが、レイと同じく北での任務を避ける。
女性と間違えてナルセスに告白し、アシェラをお茶に誘った過去を持つ。デムーラン城砦の歩兵部隊を担当。
女性と間違えてナルセスに告白し、アシェラをお茶に誘った過去を持つ。デムーラン城砦の歩兵部隊を担当。
- クロエ・ローランサン(ヒューリン(ハーフオルニス)、女性、19歳)
フルールの姉。ソレイユとキョウコの娘となっているが、実際はゲンとジェナーラの娘。バレー私塾『十傑』の一人。
金髪緑目、白い翼を持つ。闊達な性格。ミシロで指揮官の一人となっていたが、大将軍カタストの目に留まり、彼の下に向かう。
金髪緑目、白い翼を持つ。闊達な性格。ミシロで指揮官の一人となっていたが、大将軍カタストの目に留まり、彼の下に向かう。
- マッキンリー(ネヴァーフ、男性、36歳)
コトキ太守。青髪に青い髯を持っており、『青髭』と称されることも多い。
戦いは苦手としており、セリスやアニムスに全てを託している。
戦いは苦手としており、セリスやアニムスに全てを託している。
- メランヒトン(ヴァーナ(アウリラ)、男性、26歳)
アニムスの部下の旗手。膂力に優れ、逞しい腕を持っている。ただ、見た目に反し臆病で常識的な性格。
そのため、アニムスやかつての隊長だったセルジュに振り回され胃を痛めている時も多い。
そのため、アニムスやかつての隊長だったセルジュに振り回され胃を痛めている時も多い。
- セルジュ(ドラゴネット(メディオン)、女性、28歳)
元トバリの将校で、アニムスの同僚。桃色の髪を持つ大柄な女性。両耳に竜の特徴が出でおり、竜のような耳を持つ。
豪快な性格で、どこか反権力的な面を持つ。竜が好き。現在はコトキで歩兵隊を率いる。
豪快な性格で、どこか反権力的な面を持つ。竜が好き。現在はコトキで歩兵隊を率いる。
- オフィーリア(エルダナーン、女性、24歳)
シーキンセツに住んでいた神官。全盲で、普段は杖とコシュートの補佐を受けて生活している。
転移の術を取得している。現在はミシロに住む。
転移の術を取得している。現在はミシロに住む。
- コシュート(海獺、男性、年齢不詳)
オフィーリアの騎士を務める海獺。人語を介す。語尾に「ミジュ」とつけているが、意図的なのか勝手についてしまうのかは不明。
得物はシェルブレード。海産物全般が好物。
得物はシェルブレード。海産物全般が好物。
- グレゴリウス(ヴァーナ(アウリル)、男性、32歳)
キーナが率いていた騎馬隊の隊長の一人。ハーテン教徒の叛乱が起きる前はセリスの副官だった。
フォールの指示によりセリス軍に合流。騎馬隊を率いる。
フォールの指示によりセリス軍に合流。騎馬隊を率いる。
リシア財団の関係者
- 『月光』コダマ・リィ(ヒューリン(ハーフエルダナーン)、女性、33歳)
ゴサリンの年長の友人。金髪を長く伸ばしている。独特の口調と魔術師は格好よくあれとの信念の持ち主。
リシア財団の一員として、ハーテン教徒の動向を見張っている。
リシア財団の一員として、ハーテン教徒の動向を見張っている。
- ベオウルフ(ヒューリン、男性、56歳)
リシア財団の職員。デルムッドと呼ばれる息子がいるが、現在は出奔されている。
ヒロズ国の関係者
- カタスト・レイサイト(エルダナーン、男性、78歳)
ヒロズ国の大将軍。クロエの才能に目をつけ、セリスたちの下から引き抜く。
一万の寡兵でハーテン教徒本隊に戦いを挑み、勝利する。
一万の寡兵でハーテン教徒本隊に戦いを挑み、勝利する。
- 『氷帝』メビウス・ビッケンバイン(ヒューリン、男性、17歳)
『氷帝』を自称するバレー私塾『十傑』の一人。ミリオットの友人。
私塾卒業後は軍に入隊し、ツーマイの下で騎馬隊を率いている。
私塾卒業後は軍に入隊し、ツーマイの下で騎馬隊を率いている。
- ハインリヒ(ネヴァーフ、男性、34歳)
キーナが率いていた騎馬隊の隊長の一人。ハーテン教徒の叛乱が起きる前はジャンヌの副官だった。
セリス軍の関係者(新規)
- マデロ(ネヴァーフ、男性、35歳)
クロエの代わりとしてカタストの下から派遣された将校。歩兵隊長であり、堅実な戦いを得意とする。
その他(新規)
- ビリャ(ヒューリン、男性、18歳)
フルールと知り合いになった青年。冒険者であり、身のこなしが軽い。
セリス軍・リシア財団の関係者(戦病没者、没順)
- キーナ・ローランサン(ドラゴネット(アンスロック)、女性、享年42)
フルールとクロエの母。ソレイユの妻。金髪で非常に大柄。フォール軍の騎馬隊を率いていた。
傭兵団との戦いの中でナルセスを追い詰めるが、乱入したベルサリウスに倒される。
傭兵団との戦いの中でナルセスを追い詰めるが、乱入したベルサリウスに倒される。
- レイリア(エルダナーン、女性、享年49)
シアル軍の馬匹担当。コトキの近くで牧場を経営しており、現在もその時の仲間やリシア財団とは繋がりを持っている。
シアルやセインが乗っていた馬の子孫を放牧しており、セリスとジャンヌに譲る。
ハーテン教徒の襲撃を受け死亡。
シアルやセインが乗っていた馬の子孫を放牧しており、セリスとジャンヌに譲る。
ハーテン教徒の襲撃を受け死亡。
その他
- アントニナ(ヒューリン、女性、20歳前後)
コトキで記憶喪失となっていた所を発見される。赤髪、日に焼けたような肌の持ち主。
錬金術やからくりに対する造詣が深く、記憶を失う前はその知識を活かした職に就いていたと考えられている。
錬金術やからくりに対する造詣が深く、記憶を失う前はその知識を活かした職に就いていたと考えられている。
ハーテン教徒軍
- ベルサリウス(ヒューリン、男性、19歳)
トキワの森にすむ猟師。常人離れした体力と武術の腕を持つ。賊に追われていたフルールを助けた。
ナルセスに恩を返す中で、セリスたちと戦いになる。ナルセスの要請で騎馬隊の隊長になった。
ナルセスに恩を返す中で、セリスたちと戦いになる。ナルセスの要請で騎馬隊の隊長になった。
- 『黒刀』ナルセス(ヒューリン、男性、24歳)
猛安と呼ばれる傭兵団の隊長。桃色の髪を一つにまとめ、女性のような顔立ちをしている。刀の達人で、黒刀と呼ばれる細身の倭刀を巧みに操る。
キーナとの戦いで間一髪のところをベルサリウスに助けられた。ハーテン教の叛乱に協力することとなり、騎馬隊を編成する。
キーナとの戦いで間一髪のところをベルサリウスに助けられた。ハーテン教の叛乱に協力することとなり、騎馬隊を編成する。
- シモン・ド・モンフォール(ドラゴネット(メディオン)、男性、55歳)
アニムス、セルジュの上官。ハーテン教の教祖であるハーテンとも昔からの付き合いがある。
無実の罪を着せられたことがきっかけでヒロズ国を出奔。ハーテンの協力者としてヒロズ国に戦いを挑む。
無実の罪を着せられたことがきっかけでヒロズ国を出奔。ハーテンの協力者としてヒロズ国に戦いを挑む。
- ハーテン・ノール(ヒューリン、男性、53歳)
ハーテン教教祖。無意識のうちに人を惹きつける才能を持つ。
元はヒワダの街医者。布教活動を行いながら、叛乱の計画を練っていた。
元はヒワダの街医者。布教活動を行いながら、叛乱の計画を練っていた。
- アトラクサ(ドゥアン(オルニス)、女性、20代半ば)
金髪緑目。赤い斑点が混じった黒い翼と感情を持たないかのような表情と声色の持ち主。槍を得物とするが、体術を最も得意としている。
- リュー・ウマーイ(種族不明、男性、年齢不明)
ハーテンの副官。シモンと共にハーテン教徒の戦略を練る。
- ロージャ(ヒューリン(ハーフセラトス)、男性、34歳)
ドフトエフスキー傭兵団の隊長。眼帯をつけた大男。斧を操る。
背景
ついに、ハーテン教徒軍本隊で騎馬隊が編成されることとなった。これまでは、歩兵として信徒の隣に立って戦うことが優先されており、馬に乗る者はほとんどいなかったのである。そもそも、ハーテン教徒軍には馬そのものが足りないとの事情もあった。
編成された騎馬隊は一千騎ほどである。その隊長はナルセスが任されることになった。
騎馬隊の必要性を最も訴えていたのがナルセスだからであろう。与えたからには、結果を出して見ろとの意志も感じられた。
騎馬隊を任されたナルセスが最初にやったことは、特に腕のいい五十騎を選抜し、ベルサリウスに指揮を任せたことである。最初、ベルサリウスにそのことを告げると、困惑したような顔を向けてきた。
「しかし、あの傭兵団は」
「ロージャに任せろ。あいつだって、ドフトエフスキー傭兵団をまとめていた人間だ。二百程度の指揮なら経験している」
「だが、おれは兵を指揮したことなどないぞ」
「知っている。初めは分からないことも多いだろうから、経験を積んだ副官をつけよう。それでも分からない場合は、わたしに聞いてくれ」
「わかった」
その日のうちにナルセスは、猛安の隊員だった者をベルサリウスに付けた。ラズィーヤほど指揮に優れている訳ではないが、細かいところに目が届くので副官としては有能である。
もちろん、ベルサリウスとも面識があった。
「近いうちに、またヒロズ国と戦いがあるはずだ。その時までに、ある程度は騎馬隊を動かせるようにしてくれ」
「わかった」
ベルサリウスはあっさりと頷くと、肩を竦める。
「しばらく、他のことはできなさそうだな」
「アントニナに何かあったら、わたしの方で対応しよう」
ベルサリウスが連れてきた若い女だった。錬金術やからくりについての知識が豊富だが、ハーテン教徒がコトキを襲撃した際に記憶を失ったようで、自分が誰なのか分かっていない。
ただ、錬金術やからくりに触れていれば満足なようで、自分の記憶について頓着している様子はなかった。そのアントニナは、錬金術を利用した特殊な兵器を作り上げようとしている。
機械巨人とアントニナが呼ぶその兵器は、人の三倍ほどの大きさを持っていた。そして、体のあちこちを武装させている。左手で巨大な銃を、右手に巨大な槍を持って戦うのだとアントニナが真顔で告げたときは、何を言っているのか分からず、しばらく考えたほどだった。
ナルセスにはとても実用化できるとは思えなかったが、その話をどこからか聞きつけたハーテンが気に入ってしまったらしく、アントニナに支援を始めている。
「ナルセス。そろそろ出撃するぞ」
会議に出ると、シモンが話しかけてきた。ベルサリウスに五十騎を任せてから、五日が経っている。直接会ってはいないものの、かなりの訓練をしているとの噂が、ナルセスのもとにも入っていた。
会議の場には、欠席が目立っていた。無理もない。主要な教団員は他の地域の扇動に向かっており、ハーテン教本隊に所属する人間しか出席していないからだ。それでもハーテン本人とナルセス、シモンの他、副官のリュー・ウマーイと夜法軍を率いるアトラクサが出席している。
「相手はこの間お前が追い詰めたエスタックだ。今度は負けないと誓っているらしく、十万の軍を率いてくる」
そう告げるシモンの声には、まだ余裕があった。
「こちらは?」
「こちらは本隊が六万。それ以外に、信徒の軍が四万ほどだ」
「なるほど」
ナルセスが頷くと、シモンが現状について話してくる。ほとんど武器を持ったことがない信徒の軍が四万ほどいるとはいえ、互角かそれ以上にこちらが有利なようだった。
ただ、油断はできない。シモンもそれは感じているようで、アトラクサに現状を更に探るよう伝えている。それを聞いているとハーテンが話しかけてきた。
「ナルセス。騎馬隊は期待しているぞ」
「この前は、機動力が足りずにエスタックを逃がすこととなってしまいましたからね。それに、エスタック個人は猛将です。あまり突出されるとあわやと言うことになりかねません」
「なるほど、それは心しておこう」
ハーテンが頷く。実際にナルセスとベルサリウスが出発したのは、それから四日経ってからのことだった。シモン率いる歩兵隊は、既に先行している。途中で追い越すことになるはずだった。
「やっと、指揮になれてきたところだ」
駆けていると、隣にやって来たベルサリウスが話しかけてきた。ブケパロスと言う名の馬に乗っている。ハーテン教徒がコトキ近郊の牧から連れ出してきたという、白馬だった。目の下に赤い斑点があり、他の馬と比べると二回りは大きい。見るからに、抜きん出た力を持つ馬だった。ただ、相当な悍馬だったとは聞いている。
それを簡単に乗りこなせたのは、ベルサリウスの才能だろう。
「戦いになったら手助けはできないからな」
「逆に、お前が危機になっても助けられんぞ」
ベルサリウスが笑って言葉を返す。こんな状況でも、冗談を言う余裕はあるようだった。
戦場に到着する。敵味方合わせて二十万の軍は、壮観だった。この前、十五万の兵が戦うところにいたナルセスですらそうなのだ。ベルサリウスはもっと驚いているだろう。
「騎馬隊は、歩兵に歩みを合わせた方がいいのか?」
「その必要はないな、ベルサリウス。ただ、敵陣深く突っ込まれると助けにいけないが」
「それくらいは分かるさ」
相手の陣を見て思うところがあるのだろう。武術の腕だけでなく、戦機を掴む才能もあるようだった。
そして、それでこそ、騎馬隊の指揮官に向いている。ナルセスもまた、敵陣に隙を見いだしていた。
翌日には、戦いが始まった。相手は二万ずつ五つの隊に分かれると、ぶつかってくる。
ナルセスはその回りを上手く牽制しながら、弱いところを不意について二度ほど敵陣に突っ込んでいた。ただ、深入りはせずに反転している。
不意に、敵陣が乱れた。稲妻のようにベルサリウスが突っ込んでいる。ナルセスが感心するほど、鮮やかな一撃だった。
ベルサリウスの目指す先には、エスタックの旗が上がっている。慌てたように、エスタックの旗が下げられた。だが、もう遅いだろう。敵の乱れがより大きくなった。
「今だ。続け」
黒刀を振りかざし、部下に告げる。蜘蛛の子を散らすように、エスタック軍の兵士が逃げていく。大勝だった。
「これでいいんだよな?」
ナルセスのもとにやってきたベルサリウスが、背後を指さす。部下の一人が、エスタックの首を槍の穂先に掲げていた。
「そうだ。まさか、本当にやってしまうとは」
「おれに騎馬隊を任せたのは、そのためだろう。当然だ」
「それは、そうなんだがな」
ナルセスが苦笑する。ベルサリウスの口調は、ちょっと外へ行く程度のものだったからだ。
「しかし、将校ってものはよく分からんな」
「どうした?」
「強い人間が、必ずしもそれに見合った軍を率いているわけではないらしい」
今回のエスタックとこの前戦ったセリスたちを比べて言っているのだろう。
「だから、ヒロズ国は乱れてきているのだろう。ただ、戦いが進んでいくうちに敵も我々も洗練されてくるはずだ。強くて運が強い人間が生き残ってくる。お前はまた、セリスたちと戦いたいだろう」
「当然だ」
ナルセスの言葉に、ベルサリウスが頷いた。自らの過ちでラズィーヤを殺されたことが、彼の心の中で大きなものを占めているのだろう。
「いざというときに、復讐に拘りすぎるなよ。お前は知らんが、部下は死ぬ」
「気をつけよう」
不慣れな軍のことだからか、ベルサリウスはあっさりと頷いた。
「さて、ベルサリウス。ハーテンのところに報告しにいこう。喜ぶはずだ」
「そうか」
あまり興味がなさそうに、ベルサリウスが告げる。アントニナから聞いた話でもした方が、喜ぶのだろうか。
そう思いながらナルセスはベルサリウスを先導し始めた。それなりの速度だが、ベルサリウスは苦もなく後ろを駆けている。
編成された騎馬隊は一千騎ほどである。その隊長はナルセスが任されることになった。
騎馬隊の必要性を最も訴えていたのがナルセスだからであろう。与えたからには、結果を出して見ろとの意志も感じられた。
騎馬隊を任されたナルセスが最初にやったことは、特に腕のいい五十騎を選抜し、ベルサリウスに指揮を任せたことである。最初、ベルサリウスにそのことを告げると、困惑したような顔を向けてきた。
「しかし、あの傭兵団は」
「ロージャに任せろ。あいつだって、ドフトエフスキー傭兵団をまとめていた人間だ。二百程度の指揮なら経験している」
「だが、おれは兵を指揮したことなどないぞ」
「知っている。初めは分からないことも多いだろうから、経験を積んだ副官をつけよう。それでも分からない場合は、わたしに聞いてくれ」
「わかった」
その日のうちにナルセスは、猛安の隊員だった者をベルサリウスに付けた。ラズィーヤほど指揮に優れている訳ではないが、細かいところに目が届くので副官としては有能である。
もちろん、ベルサリウスとも面識があった。
「近いうちに、またヒロズ国と戦いがあるはずだ。その時までに、ある程度は騎馬隊を動かせるようにしてくれ」
「わかった」
ベルサリウスはあっさりと頷くと、肩を竦める。
「しばらく、他のことはできなさそうだな」
「アントニナに何かあったら、わたしの方で対応しよう」
ベルサリウスが連れてきた若い女だった。錬金術やからくりについての知識が豊富だが、ハーテン教徒がコトキを襲撃した際に記憶を失ったようで、自分が誰なのか分かっていない。
ただ、錬金術やからくりに触れていれば満足なようで、自分の記憶について頓着している様子はなかった。そのアントニナは、錬金術を利用した特殊な兵器を作り上げようとしている。
機械巨人とアントニナが呼ぶその兵器は、人の三倍ほどの大きさを持っていた。そして、体のあちこちを武装させている。左手で巨大な銃を、右手に巨大な槍を持って戦うのだとアントニナが真顔で告げたときは、何を言っているのか分からず、しばらく考えたほどだった。
ナルセスにはとても実用化できるとは思えなかったが、その話をどこからか聞きつけたハーテンが気に入ってしまったらしく、アントニナに支援を始めている。
「ナルセス。そろそろ出撃するぞ」
会議に出ると、シモンが話しかけてきた。ベルサリウスに五十騎を任せてから、五日が経っている。直接会ってはいないものの、かなりの訓練をしているとの噂が、ナルセスのもとにも入っていた。
会議の場には、欠席が目立っていた。無理もない。主要な教団員は他の地域の扇動に向かっており、ハーテン教本隊に所属する人間しか出席していないからだ。それでもハーテン本人とナルセス、シモンの他、副官のリュー・ウマーイと夜法軍を率いるアトラクサが出席している。
「相手はこの間お前が追い詰めたエスタックだ。今度は負けないと誓っているらしく、十万の軍を率いてくる」
そう告げるシモンの声には、まだ余裕があった。
「こちらは?」
「こちらは本隊が六万。それ以外に、信徒の軍が四万ほどだ」
「なるほど」
ナルセスが頷くと、シモンが現状について話してくる。ほとんど武器を持ったことがない信徒の軍が四万ほどいるとはいえ、互角かそれ以上にこちらが有利なようだった。
ただ、油断はできない。シモンもそれは感じているようで、アトラクサに現状を更に探るよう伝えている。それを聞いているとハーテンが話しかけてきた。
「ナルセス。騎馬隊は期待しているぞ」
「この前は、機動力が足りずにエスタックを逃がすこととなってしまいましたからね。それに、エスタック個人は猛将です。あまり突出されるとあわやと言うことになりかねません」
「なるほど、それは心しておこう」
ハーテンが頷く。実際にナルセスとベルサリウスが出発したのは、それから四日経ってからのことだった。シモン率いる歩兵隊は、既に先行している。途中で追い越すことになるはずだった。
「やっと、指揮になれてきたところだ」
駆けていると、隣にやって来たベルサリウスが話しかけてきた。ブケパロスと言う名の馬に乗っている。ハーテン教徒がコトキ近郊の牧から連れ出してきたという、白馬だった。目の下に赤い斑点があり、他の馬と比べると二回りは大きい。見るからに、抜きん出た力を持つ馬だった。ただ、相当な悍馬だったとは聞いている。
それを簡単に乗りこなせたのは、ベルサリウスの才能だろう。
「戦いになったら手助けはできないからな」
「逆に、お前が危機になっても助けられんぞ」
ベルサリウスが笑って言葉を返す。こんな状況でも、冗談を言う余裕はあるようだった。
戦場に到着する。敵味方合わせて二十万の軍は、壮観だった。この前、十五万の兵が戦うところにいたナルセスですらそうなのだ。ベルサリウスはもっと驚いているだろう。
「騎馬隊は、歩兵に歩みを合わせた方がいいのか?」
「その必要はないな、ベルサリウス。ただ、敵陣深く突っ込まれると助けにいけないが」
「それくらいは分かるさ」
相手の陣を見て思うところがあるのだろう。武術の腕だけでなく、戦機を掴む才能もあるようだった。
そして、それでこそ、騎馬隊の指揮官に向いている。ナルセスもまた、敵陣に隙を見いだしていた。
翌日には、戦いが始まった。相手は二万ずつ五つの隊に分かれると、ぶつかってくる。
ナルセスはその回りを上手く牽制しながら、弱いところを不意について二度ほど敵陣に突っ込んでいた。ただ、深入りはせずに反転している。
不意に、敵陣が乱れた。稲妻のようにベルサリウスが突っ込んでいる。ナルセスが感心するほど、鮮やかな一撃だった。
ベルサリウスの目指す先には、エスタックの旗が上がっている。慌てたように、エスタックの旗が下げられた。だが、もう遅いだろう。敵の乱れがより大きくなった。
「今だ。続け」
黒刀を振りかざし、部下に告げる。蜘蛛の子を散らすように、エスタック軍の兵士が逃げていく。大勝だった。
「これでいいんだよな?」
ナルセスのもとにやってきたベルサリウスが、背後を指さす。部下の一人が、エスタックの首を槍の穂先に掲げていた。
「そうだ。まさか、本当にやってしまうとは」
「おれに騎馬隊を任せたのは、そのためだろう。当然だ」
「それは、そうなんだがな」
ナルセスが苦笑する。ベルサリウスの口調は、ちょっと外へ行く程度のものだったからだ。
「しかし、将校ってものはよく分からんな」
「どうした?」
「強い人間が、必ずしもそれに見合った軍を率いているわけではないらしい」
今回のエスタックとこの前戦ったセリスたちを比べて言っているのだろう。
「だから、ヒロズ国は乱れてきているのだろう。ただ、戦いが進んでいくうちに敵も我々も洗練されてくるはずだ。強くて運が強い人間が生き残ってくる。お前はまた、セリスたちと戦いたいだろう」
「当然だ」
ナルセスの言葉に、ベルサリウスが頷いた。自らの過ちでラズィーヤを殺されたことが、彼の心の中で大きなものを占めているのだろう。
「いざというときに、復讐に拘りすぎるなよ。お前は知らんが、部下は死ぬ」
「気をつけよう」
不慣れな軍のことだからか、ベルサリウスはあっさりと頷いた。
「さて、ベルサリウス。ハーテンのところに報告しにいこう。喜ぶはずだ」
「そうか」
あまり興味がなさそうに、ベルサリウスが告げる。アントニナから聞いた話でもした方が、喜ぶのだろうか。
そう思いながらナルセスはベルサリウスを先導し始めた。それなりの速度だが、ベルサリウスは苦もなく後ろを駆けている。
ミシロでは落ち着いた日々が続いていた。
やはり、ハーテン教徒の目が中央を向いていることが大きい。
ただ、その間に他のホウエン諸都市を奪還できるほどセリス・フィングたちの兵力に余裕があるわけではなかった。兵力は、ようやく四千を超えたところである。
兵力の増加については、フォール・ラーデンのもとにいたハインリヒが千五百の騎馬隊を連れてきたことが大きい。騎馬隊は総勢で二千二百ほどになった。セリス軍の、およそ半分である。これは、ヒロズ国にある他の軍と比較しても珍しいことだった。機動力を要求される野戦では大きく力となるだろう。
反面、攻城戦や籠城戦では馬が使えず本来の力を出し得ないかもしれない。ただでさえ、寡兵なのだ。かといって、それをどう克服するかについては、誰も思いついていなかった。
強いて言えば、ハーテン教徒の目が中央を向いている間に、兵力を増やそうとしているくらいである。
「セリス殿下、なかなか思うようにいきませんな」
そう告げたのは、コトキ太守のマッキンリーだった。特徴的な青髭を右手で撫でながら、困った表情を浮かべている。ちょうど、状況報告も兼ねてコトキから出てきていた。
「なかなかどうも、兵を出してくれませんぞ。まあ、どこもハーテン教徒に備えなければいけないので、仕方のないところはありますが」
マッキンリーが肩を竦める。彼とフェミナは、ヒロズ国の主立った人物のもとに出向き、増援を要請していた。ただ、思うように兵は集まらない。マッキンリーの言うように、ハーテン教徒の叛乱が全土で起きていることも大きいだろう。ハーテン教徒に備えるため、多くの兵を割かなければならない。しかし、中には過剰とも思えるほど兵が配備されている都市がいくつも存在する。それらの多くは宰相ゲマ・エビルマ―にかかわりのある地であり、守備隊長を任されている人間もゲマ派の将校が多かった。
逆に、ハーテン教徒や妖魔との戦いの最前線にいるカタスト・レイサイトやフォール、マルティム・リアルンパにツーマイ・ガイと言った将軍職の経験者たちは、ともすれば自分たちが寡兵になりかねないにもかかわらず、戦略上重要だからと兵や将校をセリスたちに派遣している。
マルティムの下から来たフェミナやフォール配下だったハインリヒがそうであるし、近々カタストやツーマイのもとからもいくらかの兵と共に将校が一人やってくることになっていた。
「将軍たちは、皆ハーテン教徒や妖魔と戦っている中で、よく援軍に頷いてくれましたよ」
マッキンリーが告げる。本当にそうだった。マルティムは最北の街キッサキで妖魔の侵攻を防いでいるし、フォールはシンオウ南部でハーテン教徒と戦っている。
そして、大将軍のカタストに至っては、一万でハーテン教徒の本隊に立ち向かっていた。マデロと呼ばれる将校の到着が遅れているのは、この戦いが終わるまでは手が放せないかららしい。マデロは三十半ばほどのネヴァーフで、堅実な将校である。クロエ・ローランサンのような華々しさはないが、隙のない指揮をすると言われていた。
ただ、そんな中でもカタストは時間を見つけて一度セリスたちのもとにやってきていた。一通り軍を眺めた後、言及したことがクロエについてである。
臥龍。クロエについてセリスやマッキンリーの下でそう評したのである。そして、クロエを一時的にカタスト軍に加えさせたいと申し出てきた。もちろん、クロエの代わりにカタスト軍の下で訓練を積んだ歩兵の将校を派遣するとの条件でだ。
今のクロエが場所を得ていない、そうカタストは感じたのだろう。クロエやラーチェルも混ぜて話し合いが行われ、クロエはカタストの下へ向かうことが決まった。そして、二日前に旅立っている。
「湿気た顔してんなあ」
言いながら、セイン・ボッツが入ってきた。流石に暑いのか緑の外套を羽織ってはいない。代わりに、緑を基調とした服を着ていた。
「セリス、ラーチェルはどうした?」
セインが尋ねてくる。ラーチェルはしばらく、魂が抜けたような顔をしていた。
クロエがミシロから離れることが決まったからである。一昨日クロエが旅立つ際はまるで今生の別れのように泣き叫んでいたが、徐々に気持ちを取り戻しつつあった。
「この場にはいないかな」
セリスが答える。ラーチェルはデムーラン城塞に出向いていた。デムーラン城塞は、かつての三重の濠と城壁を再現すべく改修を始めている。出来上がれば、シダイナ河を越えての侵入はかなりのものが止められることになるのだ。
ユリアンヌが残したとされる日記をもとに組み上げようとしているが、ラーチェルが言うにはなかなか進んでいない。建築や石積みに詳しい人間がいないことが大きな理由のようだった。
「どこもかしこも人材不足ですな」
マッキンリーが髭を撫でながら告げる。セインが、にやりと笑った。
「そう言うと思ってな」
セインが後ろを向く。そこで初めて、セリスはその後ろに誰かがいることに気がついた。翼が生えているから、オルニスなのだろう。まだ若い女性だ。年齢は二十歳くらいだろうか。透き通るような白い肌に、黒い髪に黒い翼が対照的に栄えている。
「初めまして。ルナです」
丁寧な口調で告げると、頭を下げる。目があった。思わず顔が赤くなってしまうくらい、可愛らしい容姿をしている。
ただ、セリスはその顔に見覚えがあるような気がした。会ったことがないにも関わらずだ。
「セリス・フィングです。初めまして、ルナさん」
何故、見たことがあると思うのだろう。その疑問を胸に秘めながら、セリスは返事をする。
「ルナはリシア財団で働いていた。もともと軍学を学んでいたことがあり、頭も回る。だから、ラーチェルの仕事を減らせるだろうと思ってな」
セインが告げる。確かに、ラーチェルは忙しそうに働いていた。レイにかなり言われたらしく、六日に一度は休みを取るようにしているが、他の五日間はほとんど休まず働いている。
その負担を少しでも肩代わりできるなら、それに越したことはなかった。
「リシア財団の方は、大丈夫ですかな?」
マッキンリーが尋ねる。セインが頷いた。
「そっちはオドリックとアシェラがいるからな。それに、リシア財団はセリスたちに支援をすることで儲けようとしているらしい。だから、潰れられた方が困るんだろう」
「なるほど。リシア財団の好意を無駄にするわけにはいかないなあ。ルナさん、よろしくお願いします」
セリスが答える。ルナがまた、頭を下げてきた。
「セリスさん、こちらこそよろしくお願いします」
「さて、おれは訓練に戻るぜ。お前やジャンヌに年寄り扱いされたくないしな」
セインの遊撃隊は、二十騎ほどだが強力だった。娘であるジャンヌ・ボッツの部隊と訓練したときは、一騎も落とされずに完勝している。
逆にそこまで負けたジャンヌの気持ちが心配になるほどだったが、ジャンヌも落ち込む素振りは見せなかった。ただ、それ以来鬼のような訓練をしている。
「わたしはどうすればいいですか?」
ルナが尋ねてくる。丁寧そうな言葉遣いとは裏腹に、意志の強そうな瞳をしていた。下手な冗談は、通じないだろう。
「セリス殿下、ひとまず簡単に場所の案内でもしたらどうですかな?」
マッキンリーが告げる。渡りに船だった。
「そうだなあ。色々見て、憶えてもらうしかないかな」
「では、よろしくお願いします」
ルナを連れ、ミシロを歩き始める。一通り案内した後、城外に出た。ちょうど、ジャンヌの五十騎が、ハインリヒの指揮する九百騎と戦っている。ハインリヒの騎馬隊も、決して遅いわけではない。
だが、ジャンヌの五十騎に翻弄されていた。ジャンヌは五十騎を二隊、三隊に分けたりしながらハインリヒの騎馬隊の動きが僅かでも鈍いところをついていく。
ジャンヌとハインリヒがすれ違った。かと思えば、ハインリヒの姿は既に馬上にない。ジャンヌに落とされていた。
「先頭に立っている女の人がジャンヌで、騎馬隊の隊長だよ」
セリスが説明すると、ルナが納得したように頷いた。
「なるほど。あれが、ジャンヌさんの騎馬隊ですか。噂には聞いていましたが、流石セインさんの娘さんですね。動きが、速いです」
納得したように、ルナが頷く。セインがジャンヌの話をするところは想像つかなかったが、オドリックやアシェラと言ったリシア財団の関係者から話を聞いているのかもしれない。
「ただ速いだけじゃなくて、しっかり連携も取れるんだ。幼い時から、一緒にいることが多いからかな」
「そうなんですね。わたしは幼馴染のような人はいないので、羨ましいです」
二人で話していると、訓練がひと段落したようで、ジャンヌがこちらに走り寄ってくる。
「セリス、その人は?」
ジャンヌが尋ねてくる。どうやら、ジャンヌも彼女のことは知らないようだった。
「先ほどリシア財団からやってきたルナさんだよ」
「ルナと申します。リシア財団に所属していて、それなりには軍学の心得を持っています」
「これから軍師としてわたしたちに力を貸してくれるんだ」
「なるほど。頭をしっかり使える人はラーチェルさんしかいなかったからね。これで、ラーチェルさんも少しは楽になるのかな」
ジャンヌが納得したように頷く。その後、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それにしても、セリスが突然女の子と仲良く歩いているから、彼女でもできたのかと思ってびっくりしちゃったよ」
「そんなわけないよ」
その言葉にセリスが苦笑する。
「そうですよ、セリス殿下にはジャンヌ隊長がいるんだから」
急に、ハインリヒが会話に割り込んできた。三十をいくらか過ぎたネヴァーフのはずだが、軽い性格だ。休日に、女性を口説いていたところを見たと何人もの部下が証言している。そして、他人の男女関係にやたらと口を挟みたがるところがあった。
「そ、そんなわけないでしょ」
顔を真っ赤にしたジャンヌが思わずハインリヒの鳩尾に拳をめり込ませる。流石セインの娘と思わせるだけの速さだった。ハインリヒが身を躱せるわけもなく、その場に倒れる。
「あ、ハインリヒさん」
慌ててセリスとジャンヌがハインリヒに活を入れる。ハインリヒが、咳込みながら目を覚ました。顔を上げ、セリスを見る。
「隊長、両手に花だなんて。羨ましいですぜ」
その顔は、笑っていた。ジャンヌが見たらまた拳が飛んでくると察しているのだろう。ジャンヌが近づいてくると慌てて咳込んで誤魔化していた。
「ラーチェルさんはいつ戻ってきますか?」
場の空気を変えようとしたのか、ルナが尋ねてくる。
「今はデムーラン城砦にいるから、戻ってくるのは明日かなあ」
セリスが告げると、ジャンヌがルナを見た。
「ちょっと時間は空いちゃうから、今は休んでおけばいいんじゃない?」
ルナは複雑そうな顔をした。
「出来れば今日から仕事をしたいんですよね。セリスさん、何か仕事はありますか?」
太守のいないミシロにおいて、民政に関する仕事は多く残っていた。ラーチェルがある程度はこなしているとは言え、限界はある。
「分かりました。では、早速」
そう告げると、ルナは仕事場へと向かっていく。セリスとジャンヌは、ルナの姿を見送っていた。
「凄い、仕事熱心なんだね」
ジャンヌが感心したように呟く。その後、苦笑した。
「まあ、わたしは真似できないなあ。すぐに頭が爆発しちゃうよ」
ジャンヌがセリスを見る。
「ルナさんには悪いけどさ、遠乗りでも行かない? この前父さんに訓練で負けたことが、今でもむかついてて」
言葉とは裏腹に、ジャンヌの表情には笑顔が見えた。ある程度は吹っ切れているのだろう。
「そうだね。最近遠乗りしてなかったし。たまには一緒に行こうか」
「ありがとう。じゃあ、早速行こうよ」
ジャンヌが走り出す。相変わらず、その足は速かった。
やはり、ハーテン教徒の目が中央を向いていることが大きい。
ただ、その間に他のホウエン諸都市を奪還できるほどセリス・フィングたちの兵力に余裕があるわけではなかった。兵力は、ようやく四千を超えたところである。
兵力の増加については、フォール・ラーデンのもとにいたハインリヒが千五百の騎馬隊を連れてきたことが大きい。騎馬隊は総勢で二千二百ほどになった。セリス軍の、およそ半分である。これは、ヒロズ国にある他の軍と比較しても珍しいことだった。機動力を要求される野戦では大きく力となるだろう。
反面、攻城戦や籠城戦では馬が使えず本来の力を出し得ないかもしれない。ただでさえ、寡兵なのだ。かといって、それをどう克服するかについては、誰も思いついていなかった。
強いて言えば、ハーテン教徒の目が中央を向いている間に、兵力を増やそうとしているくらいである。
「セリス殿下、なかなか思うようにいきませんな」
そう告げたのは、コトキ太守のマッキンリーだった。特徴的な青髭を右手で撫でながら、困った表情を浮かべている。ちょうど、状況報告も兼ねてコトキから出てきていた。
「なかなかどうも、兵を出してくれませんぞ。まあ、どこもハーテン教徒に備えなければいけないので、仕方のないところはありますが」
マッキンリーが肩を竦める。彼とフェミナは、ヒロズ国の主立った人物のもとに出向き、増援を要請していた。ただ、思うように兵は集まらない。マッキンリーの言うように、ハーテン教徒の叛乱が全土で起きていることも大きいだろう。ハーテン教徒に備えるため、多くの兵を割かなければならない。しかし、中には過剰とも思えるほど兵が配備されている都市がいくつも存在する。それらの多くは宰相ゲマ・エビルマ―にかかわりのある地であり、守備隊長を任されている人間もゲマ派の将校が多かった。
逆に、ハーテン教徒や妖魔との戦いの最前線にいるカタスト・レイサイトやフォール、マルティム・リアルンパにツーマイ・ガイと言った将軍職の経験者たちは、ともすれば自分たちが寡兵になりかねないにもかかわらず、戦略上重要だからと兵や将校をセリスたちに派遣している。
マルティムの下から来たフェミナやフォール配下だったハインリヒがそうであるし、近々カタストやツーマイのもとからもいくらかの兵と共に将校が一人やってくることになっていた。
「将軍たちは、皆ハーテン教徒や妖魔と戦っている中で、よく援軍に頷いてくれましたよ」
マッキンリーが告げる。本当にそうだった。マルティムは最北の街キッサキで妖魔の侵攻を防いでいるし、フォールはシンオウ南部でハーテン教徒と戦っている。
そして、大将軍のカタストに至っては、一万でハーテン教徒の本隊に立ち向かっていた。マデロと呼ばれる将校の到着が遅れているのは、この戦いが終わるまでは手が放せないかららしい。マデロは三十半ばほどのネヴァーフで、堅実な将校である。クロエ・ローランサンのような華々しさはないが、隙のない指揮をすると言われていた。
ただ、そんな中でもカタストは時間を見つけて一度セリスたちのもとにやってきていた。一通り軍を眺めた後、言及したことがクロエについてである。
臥龍。クロエについてセリスやマッキンリーの下でそう評したのである。そして、クロエを一時的にカタスト軍に加えさせたいと申し出てきた。もちろん、クロエの代わりにカタスト軍の下で訓練を積んだ歩兵の将校を派遣するとの条件でだ。
今のクロエが場所を得ていない、そうカタストは感じたのだろう。クロエやラーチェルも混ぜて話し合いが行われ、クロエはカタストの下へ向かうことが決まった。そして、二日前に旅立っている。
「湿気た顔してんなあ」
言いながら、セイン・ボッツが入ってきた。流石に暑いのか緑の外套を羽織ってはいない。代わりに、緑を基調とした服を着ていた。
「セリス、ラーチェルはどうした?」
セインが尋ねてくる。ラーチェルはしばらく、魂が抜けたような顔をしていた。
クロエがミシロから離れることが決まったからである。一昨日クロエが旅立つ際はまるで今生の別れのように泣き叫んでいたが、徐々に気持ちを取り戻しつつあった。
「この場にはいないかな」
セリスが答える。ラーチェルはデムーラン城塞に出向いていた。デムーラン城塞は、かつての三重の濠と城壁を再現すべく改修を始めている。出来上がれば、シダイナ河を越えての侵入はかなりのものが止められることになるのだ。
ユリアンヌが残したとされる日記をもとに組み上げようとしているが、ラーチェルが言うにはなかなか進んでいない。建築や石積みに詳しい人間がいないことが大きな理由のようだった。
「どこもかしこも人材不足ですな」
マッキンリーが髭を撫でながら告げる。セインが、にやりと笑った。
「そう言うと思ってな」
セインが後ろを向く。そこで初めて、セリスはその後ろに誰かがいることに気がついた。翼が生えているから、オルニスなのだろう。まだ若い女性だ。年齢は二十歳くらいだろうか。透き通るような白い肌に、黒い髪に黒い翼が対照的に栄えている。
「初めまして。ルナです」
丁寧な口調で告げると、頭を下げる。目があった。思わず顔が赤くなってしまうくらい、可愛らしい容姿をしている。
ただ、セリスはその顔に見覚えがあるような気がした。会ったことがないにも関わらずだ。
「セリス・フィングです。初めまして、ルナさん」
何故、見たことがあると思うのだろう。その疑問を胸に秘めながら、セリスは返事をする。
「ルナはリシア財団で働いていた。もともと軍学を学んでいたことがあり、頭も回る。だから、ラーチェルの仕事を減らせるだろうと思ってな」
セインが告げる。確かに、ラーチェルは忙しそうに働いていた。レイにかなり言われたらしく、六日に一度は休みを取るようにしているが、他の五日間はほとんど休まず働いている。
その負担を少しでも肩代わりできるなら、それに越したことはなかった。
「リシア財団の方は、大丈夫ですかな?」
マッキンリーが尋ねる。セインが頷いた。
「そっちはオドリックとアシェラがいるからな。それに、リシア財団はセリスたちに支援をすることで儲けようとしているらしい。だから、潰れられた方が困るんだろう」
「なるほど。リシア財団の好意を無駄にするわけにはいかないなあ。ルナさん、よろしくお願いします」
セリスが答える。ルナがまた、頭を下げてきた。
「セリスさん、こちらこそよろしくお願いします」
「さて、おれは訓練に戻るぜ。お前やジャンヌに年寄り扱いされたくないしな」
セインの遊撃隊は、二十騎ほどだが強力だった。娘であるジャンヌ・ボッツの部隊と訓練したときは、一騎も落とされずに完勝している。
逆にそこまで負けたジャンヌの気持ちが心配になるほどだったが、ジャンヌも落ち込む素振りは見せなかった。ただ、それ以来鬼のような訓練をしている。
「わたしはどうすればいいですか?」
ルナが尋ねてくる。丁寧そうな言葉遣いとは裏腹に、意志の強そうな瞳をしていた。下手な冗談は、通じないだろう。
「セリス殿下、ひとまず簡単に場所の案内でもしたらどうですかな?」
マッキンリーが告げる。渡りに船だった。
「そうだなあ。色々見て、憶えてもらうしかないかな」
「では、よろしくお願いします」
ルナを連れ、ミシロを歩き始める。一通り案内した後、城外に出た。ちょうど、ジャンヌの五十騎が、ハインリヒの指揮する九百騎と戦っている。ハインリヒの騎馬隊も、決して遅いわけではない。
だが、ジャンヌの五十騎に翻弄されていた。ジャンヌは五十騎を二隊、三隊に分けたりしながらハインリヒの騎馬隊の動きが僅かでも鈍いところをついていく。
ジャンヌとハインリヒがすれ違った。かと思えば、ハインリヒの姿は既に馬上にない。ジャンヌに落とされていた。
「先頭に立っている女の人がジャンヌで、騎馬隊の隊長だよ」
セリスが説明すると、ルナが納得したように頷いた。
「なるほど。あれが、ジャンヌさんの騎馬隊ですか。噂には聞いていましたが、流石セインさんの娘さんですね。動きが、速いです」
納得したように、ルナが頷く。セインがジャンヌの話をするところは想像つかなかったが、オドリックやアシェラと言ったリシア財団の関係者から話を聞いているのかもしれない。
「ただ速いだけじゃなくて、しっかり連携も取れるんだ。幼い時から、一緒にいることが多いからかな」
「そうなんですね。わたしは幼馴染のような人はいないので、羨ましいです」
二人で話していると、訓練がひと段落したようで、ジャンヌがこちらに走り寄ってくる。
「セリス、その人は?」
ジャンヌが尋ねてくる。どうやら、ジャンヌも彼女のことは知らないようだった。
「先ほどリシア財団からやってきたルナさんだよ」
「ルナと申します。リシア財団に所属していて、それなりには軍学の心得を持っています」
「これから軍師としてわたしたちに力を貸してくれるんだ」
「なるほど。頭をしっかり使える人はラーチェルさんしかいなかったからね。これで、ラーチェルさんも少しは楽になるのかな」
ジャンヌが納得したように頷く。その後、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それにしても、セリスが突然女の子と仲良く歩いているから、彼女でもできたのかと思ってびっくりしちゃったよ」
「そんなわけないよ」
その言葉にセリスが苦笑する。
「そうですよ、セリス殿下にはジャンヌ隊長がいるんだから」
急に、ハインリヒが会話に割り込んできた。三十をいくらか過ぎたネヴァーフのはずだが、軽い性格だ。休日に、女性を口説いていたところを見たと何人もの部下が証言している。そして、他人の男女関係にやたらと口を挟みたがるところがあった。
「そ、そんなわけないでしょ」
顔を真っ赤にしたジャンヌが思わずハインリヒの鳩尾に拳をめり込ませる。流石セインの娘と思わせるだけの速さだった。ハインリヒが身を躱せるわけもなく、その場に倒れる。
「あ、ハインリヒさん」
慌ててセリスとジャンヌがハインリヒに活を入れる。ハインリヒが、咳込みながら目を覚ました。顔を上げ、セリスを見る。
「隊長、両手に花だなんて。羨ましいですぜ」
その顔は、笑っていた。ジャンヌが見たらまた拳が飛んでくると察しているのだろう。ジャンヌが近づいてくると慌てて咳込んで誤魔化していた。
「ラーチェルさんはいつ戻ってきますか?」
場の空気を変えようとしたのか、ルナが尋ねてくる。
「今はデムーラン城砦にいるから、戻ってくるのは明日かなあ」
セリスが告げると、ジャンヌがルナを見た。
「ちょっと時間は空いちゃうから、今は休んでおけばいいんじゃない?」
ルナは複雑そうな顔をした。
「出来れば今日から仕事をしたいんですよね。セリスさん、何か仕事はありますか?」
太守のいないミシロにおいて、民政に関する仕事は多く残っていた。ラーチェルがある程度はこなしているとは言え、限界はある。
「分かりました。では、早速」
そう告げると、ルナは仕事場へと向かっていく。セリスとジャンヌは、ルナの姿を見送っていた。
「凄い、仕事熱心なんだね」
ジャンヌが感心したように呟く。その後、苦笑した。
「まあ、わたしは真似できないなあ。すぐに頭が爆発しちゃうよ」
ジャンヌがセリスを見る。
「ルナさんには悪いけどさ、遠乗りでも行かない? この前父さんに訓練で負けたことが、今でもむかついてて」
言葉とは裏腹に、ジャンヌの表情には笑顔が見えた。ある程度は吹っ切れているのだろう。
「そうだね。最近遠乗りしてなかったし。たまには一緒に行こうか」
「ありがとう。じゃあ、早速行こうよ」
ジャンヌが走り出す。相変わらず、その足は速かった。
襲撃は、いつも突然だった。
もちろん、ミリオットとファイ・ラとの間である程度の取り決めはなされている。周りに人がいるときは避ける、人のものに被害は加えないなどだ。逆に言えば、その取り決めで認められた範囲であれば、例え深夜であろうとファイは襲撃を仕掛けてくる。
おまけに、爆発時に音の出ない爆球を作り出しており、よりその襲撃に隠密性が加わっていた。
今回、ファイが襲撃してきたのは、ミリオットがコダマの家を辞去した直後だった。コダマの家を出る時、コダマが楽しそうに笑っていたことを思い出す。それは、ファイの襲撃をコダマが察知していたためだと言うことを、ミリオットは理解した。性格の悪い師匠である。
最初の襲撃は、右からだった。三個の爆球が、ゆったりとミリオットに接近してくる。と、突然球の速度が速くなった。同時に、正面からも三つ。合計で六個の爆球だった。躱すのは難しい。だが、魔術で薙ぎ払うなら話は別だ。
ミリオットが炎渦竜巻を作り出す。爆球が二つ、三つと竜巻に突っ込み、音もなく爆発した。
だが、残った三つは竜巻を器用に避けながらミリオットへと接近してくる。ファイの新しい芸だろうか。ミリオットは竜巻を爆球にぶつからせる。一つ、また一つと爆球が消滅した。だが、残りの一つは消しきれない。
このままでは、ミリオットにぶつかる。だが、ミリオットは落ち着いていた。
後ろに下がると、展開している炎渦竜巻をすべて消しさり、爆球を覆う形で新しく作り直す。流石に抗いきれず、最後の爆球も消滅した。
「ふむ、新しく工夫を凝らしたんだが、まだまだのようだな」
爆球が消滅したのを見計らったように、栗毛の女性が姿を見せた。もちろん、ファイである。
「誘導式と設置式の爆球ができないかと考えているんだが」
ミリオットの都合は考えず、ファイの用件だけを伝えてくる。知り合って一年半ほどだが、慣れない人間からすれば本当に会話が通じているのか疑問に思うはずだ。幸い、ミリオットはその辺りを気にする人間ではない。
「ただ、どちらも燃費が悪いんだよ、ミリオット君。もう少し改良して、もっと高性能な爆球にしてみせるよ」
「まあ、魔術としては既にかなり高度だろうからな。おれもそろそろ危ないと思っている」
「ほう」
その言葉に、ファイが顔を上げた。挑戦的な目つきでミリオットを見てくる。
「それは今までのわたしの攻撃が、君からすれば取るに足らないものだと言っているのだな。舐めてくれるじゃないか、我が好敵手よ。だが、油断しているのも今の内だ」
そこで、ファイは言葉を止めた。ミリオットが歩き出したことに気付いたためだ。慌てて後ろからついてくる。
「なあ、ミリオット君。君はどこへ向かっているんだ?」
ミリオットは、自宅へと戻ろうとしているところだった。それを告げると、ファイが首を横に振る。
「だったらまず、わたしの家に来てくれ。なに、家の前まででいい。遠慮する必要はないぞ」
その妙に焦ったような話し方で、ミリオットは全てを理解した。つまり、ファイは自分の家まで戻れないのだ。もともと、妙に方向音痴なところがある人間だった。慣れたタマムシ大学ならまだしも、住み始めて一月も立っていないミシロでは分からないところだらけだろう。
「まあ、いいぞ。どうせ、暇だからな」
ミリオットは苦笑すると、ファイを先導するように歩き始めた。迷っているかとの問いかけには、顔を真っ赤にしながら、ものすごい勢いで首を横に振っている。
「それにしても、ミリオット君は何故魔術の道を志したんだ」
歩いている間は、暇である。珍しく、ファイが爆破術以外の問いかけをしてきた。
「君のお母さんは、優れた武人だったと聞くじゃないか」
「祝福だよ」
「祝福?」
気になったのだろう。ファイが聞き返してくる。ミリオットは頷いた。
「おれは女神の祝福を受けたんだ」
「そうか、女神の祝福か」
「ああ。三柱の女神がおれを祝福してくれている」
「三柱もか。なるほど。つまりわたしは、三柱もの神に挑むと言うわけか」
ファイが笑い始める。心底楽しそうだった。
「面白い、面白いぞミリオット君。流石我が好敵手。『英雄』と言われるだけの人間じゃないか」
話している間に、ファイの家がある長屋へと辿り着く。流石のファイも、自分の家の近くについたことに気付いたようだ
「遠回りをさせてしまったな。だが、お蔭で良い話を聞くことができた。また共に魔術の道を邁進していこう」
ファイは手を振ると、去って行く。ミリオットが帰ろうとした時、ファイの悲鳴が聞こえてきた。ファイが長屋の一室から出てくる。
「どうした?」
「見知らぬ男が、わたしの家に」
ファイが困った様子で部屋を指さす。ミリオットは見知らぬ男が部屋にいる原因が何であるか、即座に理解した。ファイが指さした先は、隣の家である。
困り果てた表情のファイを見ながら、ミリオットは無言で正しい家の扉を開ける。
「お前が見ているのは、幻想だ」
そう言いながら、ファイをくるりと振り向かせ、正しい家に送り込む。
「なるほど。確かにこれは正しい家だ。わたしは今、幻想を見ていたのか」
呟くように告げると、はっとしたようにミリオットを見る。
「まさか、これが女神に選ばれる第一歩なのか、ミリオット君」
それだけはない。そう思いながらミリオットは無言で部屋の扉を閉めた。怪訝な顔をして外に出てきた隣の家の住民に、頭を下げる。
平和な夜だった。
もちろん、ミリオットとファイ・ラとの間である程度の取り決めはなされている。周りに人がいるときは避ける、人のものに被害は加えないなどだ。逆に言えば、その取り決めで認められた範囲であれば、例え深夜であろうとファイは襲撃を仕掛けてくる。
おまけに、爆発時に音の出ない爆球を作り出しており、よりその襲撃に隠密性が加わっていた。
今回、ファイが襲撃してきたのは、ミリオットがコダマの家を辞去した直後だった。コダマの家を出る時、コダマが楽しそうに笑っていたことを思い出す。それは、ファイの襲撃をコダマが察知していたためだと言うことを、ミリオットは理解した。性格の悪い師匠である。
最初の襲撃は、右からだった。三個の爆球が、ゆったりとミリオットに接近してくる。と、突然球の速度が速くなった。同時に、正面からも三つ。合計で六個の爆球だった。躱すのは難しい。だが、魔術で薙ぎ払うなら話は別だ。
ミリオットが炎渦竜巻を作り出す。爆球が二つ、三つと竜巻に突っ込み、音もなく爆発した。
だが、残った三つは竜巻を器用に避けながらミリオットへと接近してくる。ファイの新しい芸だろうか。ミリオットは竜巻を爆球にぶつからせる。一つ、また一つと爆球が消滅した。だが、残りの一つは消しきれない。
このままでは、ミリオットにぶつかる。だが、ミリオットは落ち着いていた。
後ろに下がると、展開している炎渦竜巻をすべて消しさり、爆球を覆う形で新しく作り直す。流石に抗いきれず、最後の爆球も消滅した。
「ふむ、新しく工夫を凝らしたんだが、まだまだのようだな」
爆球が消滅したのを見計らったように、栗毛の女性が姿を見せた。もちろん、ファイである。
「誘導式と設置式の爆球ができないかと考えているんだが」
ミリオットの都合は考えず、ファイの用件だけを伝えてくる。知り合って一年半ほどだが、慣れない人間からすれば本当に会話が通じているのか疑問に思うはずだ。幸い、ミリオットはその辺りを気にする人間ではない。
「ただ、どちらも燃費が悪いんだよ、ミリオット君。もう少し改良して、もっと高性能な爆球にしてみせるよ」
「まあ、魔術としては既にかなり高度だろうからな。おれもそろそろ危ないと思っている」
「ほう」
その言葉に、ファイが顔を上げた。挑戦的な目つきでミリオットを見てくる。
「それは今までのわたしの攻撃が、君からすれば取るに足らないものだと言っているのだな。舐めてくれるじゃないか、我が好敵手よ。だが、油断しているのも今の内だ」
そこで、ファイは言葉を止めた。ミリオットが歩き出したことに気付いたためだ。慌てて後ろからついてくる。
「なあ、ミリオット君。君はどこへ向かっているんだ?」
ミリオットは、自宅へと戻ろうとしているところだった。それを告げると、ファイが首を横に振る。
「だったらまず、わたしの家に来てくれ。なに、家の前まででいい。遠慮する必要はないぞ」
その妙に焦ったような話し方で、ミリオットは全てを理解した。つまり、ファイは自分の家まで戻れないのだ。もともと、妙に方向音痴なところがある人間だった。慣れたタマムシ大学ならまだしも、住み始めて一月も立っていないミシロでは分からないところだらけだろう。
「まあ、いいぞ。どうせ、暇だからな」
ミリオットは苦笑すると、ファイを先導するように歩き始めた。迷っているかとの問いかけには、顔を真っ赤にしながら、ものすごい勢いで首を横に振っている。
「それにしても、ミリオット君は何故魔術の道を志したんだ」
歩いている間は、暇である。珍しく、ファイが爆破術以外の問いかけをしてきた。
「君のお母さんは、優れた武人だったと聞くじゃないか」
「祝福だよ」
「祝福?」
気になったのだろう。ファイが聞き返してくる。ミリオットは頷いた。
「おれは女神の祝福を受けたんだ」
「そうか、女神の祝福か」
「ああ。三柱の女神がおれを祝福してくれている」
「三柱もか。なるほど。つまりわたしは、三柱もの神に挑むと言うわけか」
ファイが笑い始める。心底楽しそうだった。
「面白い、面白いぞミリオット君。流石我が好敵手。『英雄』と言われるだけの人間じゃないか」
話している間に、ファイの家がある長屋へと辿り着く。流石のファイも、自分の家の近くについたことに気付いたようだ
「遠回りをさせてしまったな。だが、お蔭で良い話を聞くことができた。また共に魔術の道を邁進していこう」
ファイは手を振ると、去って行く。ミリオットが帰ろうとした時、ファイの悲鳴が聞こえてきた。ファイが長屋の一室から出てくる。
「どうした?」
「見知らぬ男が、わたしの家に」
ファイが困った様子で部屋を指さす。ミリオットは見知らぬ男が部屋にいる原因が何であるか、即座に理解した。ファイが指さした先は、隣の家である。
困り果てた表情のファイを見ながら、ミリオットは無言で正しい家の扉を開ける。
「お前が見ているのは、幻想だ」
そう言いながら、ファイをくるりと振り向かせ、正しい家に送り込む。
「なるほど。確かにこれは正しい家だ。わたしは今、幻想を見ていたのか」
呟くように告げると、はっとしたようにミリオットを見る。
「まさか、これが女神に選ばれる第一歩なのか、ミリオット君」
それだけはない。そう思いながらミリオットは無言で部屋の扉を閉めた。怪訝な顔をして外に出てきた隣の家の住民に、頭を下げる。
平和な夜だった。
フルール・ローランサンはミシロにあるアーケンラーヴの神殿に通うことが日課になっていた。
最も、神殿で何かをしているというわけではない。ただ、神殿の一室を借り、目を瞑って一日を過ごしている。
神官長をはじめとした神官たちは、そんなフルールを心配そうな瞳で見るだけだった。直接、何かを言ってくるわけではない。
彼女たちがフルールの現状を理解しているのは、耳に入った会話から察している。どうやら、亡くなった母のために祈っていると考えているようだった。
確かに、フルールが母のために全く祈っていないかと言えば、嘘になる。母を目の前で斬られた光景は、今でも目に浮かぶし、夢で再生されることもあった。
ただ、母のために祈り続けているわけではない。むしろ、何もしていなかった。何もしたくなかった。
時折、感情が振り切れたように視界が黒く染まりそうになる。心の中に、冷たい重石のようなものが潜んでいるのも分かった。
そして、それが怒りなのだろうと、その様子をどこか冷めた目で遠くから見ている自分も存在していた。
自分は人形のようなものだ、とフルールは考えている。自分の動きに、現実感がない。
また、ハーテン教徒との戦いが始まって欲しかった。父ほどではないが、フルールもかなりの神聖魔術を習得している。デムーラン城塞の防衛戦では砦を守ることにも貢献しており、今後もフルールの力を必要とする場面があることは想像がついた。
戦いさえ始まれば、現実感が帰ってくるかもしれない。何より、戦っている間なら何も考えないで良かった。
「おっと、嬢ちゃん。今日もお祈りか・・・ミジュ」
神殿から出ようとするフルールに、話しかけるものがいた。振り返ると、やや長身のエルダナーンの女性が穏やかな佇まいで立っている。その瞼は、閉じられていた。
「いつも熱心だが、ちゃんと飯は食べているか。なんなら、おれと一緒に飯でも食べようじゃないか・・・ミジュ」
もちろん、彼女が話し手でないことはフルールにもわかる。その隣にいる、小さな海獺がフルールに話しかけていた。確か、コシュートと呼ばれている。とって付けたような謎の語尾が他の海獺との違いを浮き立たせていた。
「コシュート。一緒に食べようにもあなたが食べるのは魚か海老か貝でしょう。彼女が食べられなかったら、どうするんですか」
「やれやれだぜ・・・ミジュ」
女性の言葉に、コシュートは肩を竦めた。
「全く持って悲しいことだな、オフィーリア。おれは蟹も好物だってのに、忘れちまったのかい・・・ミジュ」
「あっ、ついうっかり」
そこで、女性ははっとした表情になる。
「コシュート、今はあなたの好物について語っている時ではないでしょう。わたしが言いたいのは、彼女が食べられなかったらどうするのですか、と言うことです」
すみません、と頭を下げる。瞼は閉じられたままだった。コシュートと一緒にいる女性は目が見えていないとの噂があった。恐らく、彼女のことだろう。オフィーリアだとアニムスが話していたような記憶があった。
「ただ、コシュートもわたしも、あなたのことが心配なのは事実です。何か気になることがありましたら、遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとうございます。でも、わたしはもう、大丈夫ですから」
フルールが答える。オフィーリアは何かを言いたそうだったが、口を噤んでいた。コシュートが、にやりと笑う。
「そのうち、活きのいい帆立でもごちそうするぜ・・・ミジュ」
そう告げると、オフィーリアとコシュートは去っていく。杖をつくオフィーリアを、コシュートがさり気なく助けていた。
翌日も、フルールは神殿へと向かっていた。いつものように、翼をはためかせながら通りを進んでいる。角を曲がろうとしたときだった。
目の前に、人が見えた。避けきることが出来ず、正面からぶつかる。衝撃と共に、フルールは吹き飛ばされていた。体が地面につきそうになる。
「うわ、ごめん。君、大丈夫?」
男の声が聞こえる。痛みを堪えながら顔をあげると、申し訳なさそうな表情をしたヒューリンの青年が立っていた。年齢は、フルールよりいくらか上くらいだろうか。左手に食べかけの饅頭を持っている。
「本当にごめん。立てそう?」
手を差しのべてくる。その手を取ると、フルールは立ち上がった。
「こちらこそ申し訳ありません。心配までおかけしてしまって」
「いや、おれは大丈夫だよ。まあ、君も大丈夫そうで良かった」
青年は安心したように笑った。裏表のない性格なのだろう。
「おれ、ビリャ。今日はちょっと急いでいるからさ。もしよかったら、今度お詫びをさせてくれよ」
青年が去っていく。朝の爽やかな空気だけが、残っていた。
最も、神殿で何かをしているというわけではない。ただ、神殿の一室を借り、目を瞑って一日を過ごしている。
神官長をはじめとした神官たちは、そんなフルールを心配そうな瞳で見るだけだった。直接、何かを言ってくるわけではない。
彼女たちがフルールの現状を理解しているのは、耳に入った会話から察している。どうやら、亡くなった母のために祈っていると考えているようだった。
確かに、フルールが母のために全く祈っていないかと言えば、嘘になる。母を目の前で斬られた光景は、今でも目に浮かぶし、夢で再生されることもあった。
ただ、母のために祈り続けているわけではない。むしろ、何もしていなかった。何もしたくなかった。
時折、感情が振り切れたように視界が黒く染まりそうになる。心の中に、冷たい重石のようなものが潜んでいるのも分かった。
そして、それが怒りなのだろうと、その様子をどこか冷めた目で遠くから見ている自分も存在していた。
自分は人形のようなものだ、とフルールは考えている。自分の動きに、現実感がない。
また、ハーテン教徒との戦いが始まって欲しかった。父ほどではないが、フルールもかなりの神聖魔術を習得している。デムーラン城塞の防衛戦では砦を守ることにも貢献しており、今後もフルールの力を必要とする場面があることは想像がついた。
戦いさえ始まれば、現実感が帰ってくるかもしれない。何より、戦っている間なら何も考えないで良かった。
「おっと、嬢ちゃん。今日もお祈りか・・・ミジュ」
神殿から出ようとするフルールに、話しかけるものがいた。振り返ると、やや長身のエルダナーンの女性が穏やかな佇まいで立っている。その瞼は、閉じられていた。
「いつも熱心だが、ちゃんと飯は食べているか。なんなら、おれと一緒に飯でも食べようじゃないか・・・ミジュ」
もちろん、彼女が話し手でないことはフルールにもわかる。その隣にいる、小さな海獺がフルールに話しかけていた。確か、コシュートと呼ばれている。とって付けたような謎の語尾が他の海獺との違いを浮き立たせていた。
「コシュート。一緒に食べようにもあなたが食べるのは魚か海老か貝でしょう。彼女が食べられなかったら、どうするんですか」
「やれやれだぜ・・・ミジュ」
女性の言葉に、コシュートは肩を竦めた。
「全く持って悲しいことだな、オフィーリア。おれは蟹も好物だってのに、忘れちまったのかい・・・ミジュ」
「あっ、ついうっかり」
そこで、女性ははっとした表情になる。
「コシュート、今はあなたの好物について語っている時ではないでしょう。わたしが言いたいのは、彼女が食べられなかったらどうするのですか、と言うことです」
すみません、と頭を下げる。瞼は閉じられたままだった。コシュートと一緒にいる女性は目が見えていないとの噂があった。恐らく、彼女のことだろう。オフィーリアだとアニムスが話していたような記憶があった。
「ただ、コシュートもわたしも、あなたのことが心配なのは事実です。何か気になることがありましたら、遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとうございます。でも、わたしはもう、大丈夫ですから」
フルールが答える。オフィーリアは何かを言いたそうだったが、口を噤んでいた。コシュートが、にやりと笑う。
「そのうち、活きのいい帆立でもごちそうするぜ・・・ミジュ」
そう告げると、オフィーリアとコシュートは去っていく。杖をつくオフィーリアを、コシュートがさり気なく助けていた。
翌日も、フルールは神殿へと向かっていた。いつものように、翼をはためかせながら通りを進んでいる。角を曲がろうとしたときだった。
目の前に、人が見えた。避けきることが出来ず、正面からぶつかる。衝撃と共に、フルールは吹き飛ばされていた。体が地面につきそうになる。
「うわ、ごめん。君、大丈夫?」
男の声が聞こえる。痛みを堪えながら顔をあげると、申し訳なさそうな表情をしたヒューリンの青年が立っていた。年齢は、フルールよりいくらか上くらいだろうか。左手に食べかけの饅頭を持っている。
「本当にごめん。立てそう?」
手を差しのべてくる。その手を取ると、フルールは立ち上がった。
「こちらこそ申し訳ありません。心配までおかけしてしまって」
「いや、おれは大丈夫だよ。まあ、君も大丈夫そうで良かった」
青年は安心したように笑った。裏表のない性格なのだろう。
「おれ、ビリャ。今日はちょっと急いでいるからさ。もしよかったら、今度お詫びをさせてくれよ」
青年が去っていく。朝の爽やかな空気だけが、残っていた。
レイ・クライスラーがデムーラン城塞を任されてからひと月が経っていた。ミシロとコトキを奪還してから、デムーラン城塞周辺でハーテン教徒による大きな動きはない。
今、デムーラン城塞では、母であるユリアンヌ・クライスラーの残した日記をもとに、少しずつ城壁や濠を作り直している。城塞で使っていた罠についての克明な記録を母は残しており、それが城砦を再建する際の役に立っていた。
ただ、母の日記そのものはレイの手元にない。何かの役に立てばとラーチェルに貸しているのだ。なので、三日に一度の割合でラーチェルが城塞に来て、城壁や濠が再建されていく様子を伺っていた。
デムーラン城塞の兵は合計で一千ほどになっている。ハインリヒの騎馬隊がやってきたことで兵が増えたミシロに比べると、人数は少ない。ただ、堅牢な砦を守っているとの自負は兵の一人一人が持っていた。
「ラーチェルちゃん、よくこっちに来るね」
訓練が終わった後、フェミナが話しかけてきた。ラーチェルは今日も濠の様子を見ているはずなので、訓練している途中で見かけたのだろう。フェミナの笑顔に嫌な予感をレイは覚えた。
「そりゃあ、城砦の責任者はおれだから。色々相談しないといけないんだろう」
フェミナの顔中に笑みが広がる。レイの中での嫌な予感は、より一層大きいものになった。
「なるほどね。まあ、お姉さんは大人だからそう言うことにしておいてあげるけど、ちゃんと責任はとらなきゃ駄目だよ」
何かを勘違いしたような助言をしてくる。レイは思わず嘆息した。
「まだ手も何も出していないんだけど」
「まだ、ね」
フェミナの言葉に、レイは一瞬前の自分を呪いたくなった。先ほどの一言は、火に油を注ぐようなものである。
「そう言う姉ちゃんこそどうなんだよ」
深く追及されると面倒なことにしかならない。これまでの人生経験からフェミナの性質を深く理解しているレイは、即座に話を変えることにした。たいていの場合、フェミナに恋愛事情を聞くと語ってくれる。難点は、異様に長くなる可能性があることくらいだった。
「わたしはいつでも彼氏募集中なんだけどね」
案の定、話に乗ってきた。
「この前もフェルグス君を誘おうとしたら逃げられちゃうし。まあ、立て続けにあんなことがあったせいかな」
「ああ、あれは悲しい出来事だった」
レイが頷く。フェルグスは、可愛い女性と思って声をかけた人間が立て続けに男性だった経験から、謎の警戒をフェミナにしていた。
「まあ、彼がわたしのことを可愛いと思っているだけで良しとするか」
フェミナはひとりでに頷くと、レイを見る。
「それにしても、クロエちゃんはいなくなっちゃうし、新しい軍師さんは来るしで、ラーチェルちゃんが落ち込んじゃうんじゃないかって不安だったんだけど、大丈夫そうだね」
クロエが大将軍カタストのもとに赴き、ルナが軍師としてミシロに着任してから、二十日近く経っていた。ルナとは役割を決めて担当を分けているらしい。今のところ、民政を中心にルナに任せ、デムーラン城塞のことをはじめとした軍務をラーチェルが行っている。
大まかな戦略も、今はラーチェルが考えたように推移していた。ミシロ、コトキ、デムーラン城塞からなる三角地帯を守りながら、兵力の充実を図るのである。
ユリアンヌの日記に書かれていることが大本になっているのは間違いない。
現在のハーテン教徒の動きもラーチェルは詳細に考えていた。まず、中央を目指す。それがハーテン教徒の動きである。実際、シンオウ西部で基盤づくりをしているプラット・フォームの軍を除けばハーテン教徒の主要な軍は中央を目指している。次のカタストとの戦いが、一つの転機となるとラーチェルはレイに話していた。
ハーテン教徒が勝った場合、中央はほぼ陥落することが決まるだろう。その場合、ヒロズ国は南北に分断されることになる。北にはフォール、マルティムの二将軍の他、王女であるアキ・ロンがいた。なので、北はアキを中心にまとまろうとするだろう。その場合、南は同じく王族であるセリスを中心にまとまる必要がある。
ハーテン教徒が負けた場合についても、ラーチェルは自説をレイに伝えていた。ハーテン教徒はシンオウ西部、ヒワダ、そしてホウエン西部と長い棒のようにヒロズ国を分断し、北と南に基盤を持ち出そうとするらしい。その場合、南下してくるであろうハーテン教徒本隊との戦いが始まるはずだった。いずれにせよ、ハーテン教徒とカタスト軍との戦いが終われば、またレイたちは忙しくなる。
「クロエちゃんは元気にやっているのかしらね」
フェミナが呟く。ラーチェルからそれとなく状況は聞いていた。カタストから二百ほどの騎馬隊を預けられたらしい。そして、カタスト本人や将校たちと何度も訓練を行っている。カタストのクロエにかける期待が見えていた。
最も、ラーチェルはクロエがその期待に答えるのは当たり前だと思っているようである。しばらくフェミナと話すと、話に満足したのかフェミナは去っていった。
代わりにやってきたのは、そのラーチェルである。
「『ゼロ』。ようやく二重目の濠が完成しそうですの」
デムーラン城塞は、もともと三重の城塞と濠が用意されていた。ただ、ゲンの叛乱終結後に一番内側の城壁と濠を残し全てを取り壊されている。
しばらく砦の現状について話すと、ラーチェルはレイに笑みを向けた。
「そうそう。十分読み込みましたし、これはあなたにお返ししておきますわ」
ラーチェルが、鷹の装飾が施された冊子を渡してきた。レイの母、ユリアンヌの日記帳だ。ラーチェルがいたずらっぽく笑う。レイは日記を机の上に置くと、喉の渇きを癒すべく杯を手に取る。
「これは、あなたにとって大切なものでしょう、『ゼロ』。何しろ、あなたのお母様の日記なんですもの」
レイは思わず、飲んでいた水を吹き出しそうになった。驚きの表情を浮かべたレイを見て、またラーチェルが笑っている。
「大丈夫ですわ。わたくし以外の人は誰も気づいていないと思いますし、調べていることも気取られないように振る舞いましたの」
どうやら、影の軍にそれとなく調べさせていたらしい。それも、影の軍自身がそうと気づかぬような形でだ。あまりの衝撃に、レイが言葉を話せずに立っていると、ラーチェルが近づいてきた。目の前で、囁くように尋ねてくる。
「これからは、どちらの名で呼べばいいんですの、レイ・クライスラーさん?」
レイはラーチェルから顔を話すと、咽込んだ。どうにか平静を取り戻すと、小声で告げる。
「一対一の時はレイでもいいけど。後、フェミナ姉が隣にいる時も大丈夫だ」
「フェミナさんとあなたは、ずっと一緒に過ごしていたみたいですものね」
ラーチェルが納得したように頷く。ただ、どこか引っ掛かるものがある。レイは少し考えた後に、口を開いた。
「ああ。おれにとっては歳の離れた姉でもあり、母でもある敬愛すべき人だからな」
「あら、そうなんですの。仲が良くて羨ましいですわ」
からかうように告げてくる。にこりと笑うとラーチェルはまじめな表情になった。
「あなたがこの城塞に強い思いを抱いているのもわかりましたわ。ハーテン教徒に奪われないよう、共にがんばりましょう。あなたのお母様と、フェミナさんのためにも」
ラーチェルが告げる。その目は、まっすぐにレイを見据えていた。レイも頷く。
「ああ、もちろんだ」
今、デムーラン城塞では、母であるユリアンヌ・クライスラーの残した日記をもとに、少しずつ城壁や濠を作り直している。城塞で使っていた罠についての克明な記録を母は残しており、それが城砦を再建する際の役に立っていた。
ただ、母の日記そのものはレイの手元にない。何かの役に立てばとラーチェルに貸しているのだ。なので、三日に一度の割合でラーチェルが城塞に来て、城壁や濠が再建されていく様子を伺っていた。
デムーラン城塞の兵は合計で一千ほどになっている。ハインリヒの騎馬隊がやってきたことで兵が増えたミシロに比べると、人数は少ない。ただ、堅牢な砦を守っているとの自負は兵の一人一人が持っていた。
「ラーチェルちゃん、よくこっちに来るね」
訓練が終わった後、フェミナが話しかけてきた。ラーチェルは今日も濠の様子を見ているはずなので、訓練している途中で見かけたのだろう。フェミナの笑顔に嫌な予感をレイは覚えた。
「そりゃあ、城砦の責任者はおれだから。色々相談しないといけないんだろう」
フェミナの顔中に笑みが広がる。レイの中での嫌な予感は、より一層大きいものになった。
「なるほどね。まあ、お姉さんは大人だからそう言うことにしておいてあげるけど、ちゃんと責任はとらなきゃ駄目だよ」
何かを勘違いしたような助言をしてくる。レイは思わず嘆息した。
「まだ手も何も出していないんだけど」
「まだ、ね」
フェミナの言葉に、レイは一瞬前の自分を呪いたくなった。先ほどの一言は、火に油を注ぐようなものである。
「そう言う姉ちゃんこそどうなんだよ」
深く追及されると面倒なことにしかならない。これまでの人生経験からフェミナの性質を深く理解しているレイは、即座に話を変えることにした。たいていの場合、フェミナに恋愛事情を聞くと語ってくれる。難点は、異様に長くなる可能性があることくらいだった。
「わたしはいつでも彼氏募集中なんだけどね」
案の定、話に乗ってきた。
「この前もフェルグス君を誘おうとしたら逃げられちゃうし。まあ、立て続けにあんなことがあったせいかな」
「ああ、あれは悲しい出来事だった」
レイが頷く。フェルグスは、可愛い女性と思って声をかけた人間が立て続けに男性だった経験から、謎の警戒をフェミナにしていた。
「まあ、彼がわたしのことを可愛いと思っているだけで良しとするか」
フェミナはひとりでに頷くと、レイを見る。
「それにしても、クロエちゃんはいなくなっちゃうし、新しい軍師さんは来るしで、ラーチェルちゃんが落ち込んじゃうんじゃないかって不安だったんだけど、大丈夫そうだね」
クロエが大将軍カタストのもとに赴き、ルナが軍師としてミシロに着任してから、二十日近く経っていた。ルナとは役割を決めて担当を分けているらしい。今のところ、民政を中心にルナに任せ、デムーラン城塞のことをはじめとした軍務をラーチェルが行っている。
大まかな戦略も、今はラーチェルが考えたように推移していた。ミシロ、コトキ、デムーラン城塞からなる三角地帯を守りながら、兵力の充実を図るのである。
ユリアンヌの日記に書かれていることが大本になっているのは間違いない。
現在のハーテン教徒の動きもラーチェルは詳細に考えていた。まず、中央を目指す。それがハーテン教徒の動きである。実際、シンオウ西部で基盤づくりをしているプラット・フォームの軍を除けばハーテン教徒の主要な軍は中央を目指している。次のカタストとの戦いが、一つの転機となるとラーチェルはレイに話していた。
ハーテン教徒が勝った場合、中央はほぼ陥落することが決まるだろう。その場合、ヒロズ国は南北に分断されることになる。北にはフォール、マルティムの二将軍の他、王女であるアキ・ロンがいた。なので、北はアキを中心にまとまろうとするだろう。その場合、南は同じく王族であるセリスを中心にまとまる必要がある。
ハーテン教徒が負けた場合についても、ラーチェルは自説をレイに伝えていた。ハーテン教徒はシンオウ西部、ヒワダ、そしてホウエン西部と長い棒のようにヒロズ国を分断し、北と南に基盤を持ち出そうとするらしい。その場合、南下してくるであろうハーテン教徒本隊との戦いが始まるはずだった。いずれにせよ、ハーテン教徒とカタスト軍との戦いが終われば、またレイたちは忙しくなる。
「クロエちゃんは元気にやっているのかしらね」
フェミナが呟く。ラーチェルからそれとなく状況は聞いていた。カタストから二百ほどの騎馬隊を預けられたらしい。そして、カタスト本人や将校たちと何度も訓練を行っている。カタストのクロエにかける期待が見えていた。
最も、ラーチェルはクロエがその期待に答えるのは当たり前だと思っているようである。しばらくフェミナと話すと、話に満足したのかフェミナは去っていった。
代わりにやってきたのは、そのラーチェルである。
「『ゼロ』。ようやく二重目の濠が完成しそうですの」
デムーラン城塞は、もともと三重の城塞と濠が用意されていた。ただ、ゲンの叛乱終結後に一番内側の城壁と濠を残し全てを取り壊されている。
しばらく砦の現状について話すと、ラーチェルはレイに笑みを向けた。
「そうそう。十分読み込みましたし、これはあなたにお返ししておきますわ」
ラーチェルが、鷹の装飾が施された冊子を渡してきた。レイの母、ユリアンヌの日記帳だ。ラーチェルがいたずらっぽく笑う。レイは日記を机の上に置くと、喉の渇きを癒すべく杯を手に取る。
「これは、あなたにとって大切なものでしょう、『ゼロ』。何しろ、あなたのお母様の日記なんですもの」
レイは思わず、飲んでいた水を吹き出しそうになった。驚きの表情を浮かべたレイを見て、またラーチェルが笑っている。
「大丈夫ですわ。わたくし以外の人は誰も気づいていないと思いますし、調べていることも気取られないように振る舞いましたの」
どうやら、影の軍にそれとなく調べさせていたらしい。それも、影の軍自身がそうと気づかぬような形でだ。あまりの衝撃に、レイが言葉を話せずに立っていると、ラーチェルが近づいてきた。目の前で、囁くように尋ねてくる。
「これからは、どちらの名で呼べばいいんですの、レイ・クライスラーさん?」
レイはラーチェルから顔を話すと、咽込んだ。どうにか平静を取り戻すと、小声で告げる。
「一対一の時はレイでもいいけど。後、フェミナ姉が隣にいる時も大丈夫だ」
「フェミナさんとあなたは、ずっと一緒に過ごしていたみたいですものね」
ラーチェルが納得したように頷く。ただ、どこか引っ掛かるものがある。レイは少し考えた後に、口を開いた。
「ああ。おれにとっては歳の離れた姉でもあり、母でもある敬愛すべき人だからな」
「あら、そうなんですの。仲が良くて羨ましいですわ」
からかうように告げてくる。にこりと笑うとラーチェルはまじめな表情になった。
「あなたがこの城塞に強い思いを抱いているのもわかりましたわ。ハーテン教徒に奪われないよう、共にがんばりましょう。あなたのお母様と、フェミナさんのためにも」
ラーチェルが告げる。その目は、まっすぐにレイを見据えていた。レイも頷く。
「ああ、もちろんだ」
僅か、一万だった。対して、こちらは六万の軍勢に、四万の信徒の軍である。普通に考えれば、押し包んで一揉みに出来るはずだった。
だが、本当にそうなのだろうか。相手は、ヒロズ国の大将軍である。立ち昇っている闘気も、尋常ではない。
特に、三千ほどいる騎馬隊が厄介そうだった。カタスト本人が率いているという。アトラクサや闇法軍が忍び込んで詳しい情報を集めようとしているが、なかなか上手くいかなかった。
「気負うなよ、シモン」
後ろから、声が聞こえてきた。ハーテンが、ゆっくりと歩いてくる。
「気負っているつもりはないがな」
「そうか。ならいいんだが。ベルサリウスが猪肉を取ってきたらしい。一緒に食うか?」
ハーテンが屈託のない声色で尋ねてくる。ベルサリウスは、最近ナルセスのもとに加わった青年だった。ほとんど戦いの経験もないらしいが、ナルセスからはすぐに騎馬隊の隊長を任されている。
ナルセスが選んだ人間だから、そう間違いはないだろう。ただ、戦いの前に猟をしていると聞くと、本当にそれほどの人間なのだろうか、と思ってしまう。
最も、今はまだ開戦の気配は薄い。ベルサリウスもそのあたりに気づいて猪を狩ってきたのかもしれなかった。
「おれはいらんな。部下に振る舞ってくれ」
ハーテンに告げると、豪快に笑われた。
「そのあたりが気負っているのだ、シモン。普段のお前なら共に肉を食らうだろう」
そう言われると、シモンは堪えきれずに苦笑するしかなかった。
「しかし、この時期に狩猟か。大物なのか、ただの暢気な阿呆なのか」
「あの軍と戦えば、分かるだろう」
ハーテンが一万の軍を指さす。相変わらず、隙一つ見られない。
「お前は、あれがこの国の最も強い部分だと話していた。それに勝てればセキエイまで攻め入るのも夢やおとぎ話ではなくなる」
「そうだな」
シモンが頷く。ヒワダや各地で叛乱を起こした後、それらの軍が協力してヒロズ国の中心に位置する王都セキエイを速やかに落とすとの考えが、シモンやリューの出した策だった。当初から、ハーテン教徒はその考えに基づいて行動している。ただ、トキワにいたハーテン教徒はカタストによって即座に鎮圧され、カンナギの部隊も将軍の一人であるフォール率いる軍と戦いになり、自由に動けずにいる。プラット率いるミオの部隊だけはある程度動くことができたが、今はシンオウ西部の制圧に取り掛かっていた。結局、中央を攻められるのはハーテン率いる本隊だけである。
「まずは、戦って勝とう」
戦いが始まったのは、二日後のことだった。カタスト軍の騎馬隊のうち半数が、捕捉できなくなったのだ。およそ、千五百である。無視できるものではない。
ナルセスの騎馬隊に騎馬隊の捕捉を頼むと、シモンは自軍を前に進ませ始めた。七千ほどの歩兵が、矢を射かけてくる。大楯を前に出すように告げ、少しずつ前進を始めた。カタスト軍の残された騎馬隊は五百ずつ、三隊に分かれて行動している。煩く牽制してくるが、無視した。馬抗柵の中に居れば、相手も迂闊に突撃してこないからだ。馬杭柵を利用して慎重に進んでいると、伝令が届いた。ナルセスからである。
カタスト軍の騎馬隊を捕捉したので、戦いに入るとのことだった。カタスト本人も、そこにいるらしい。これで、行方の分からない騎馬隊はなくなった。歩兵同士がぶつかり始める。その時、冷や汗がシモンの背中を伝った。
五百ずつに分かれた騎馬隊のうち、二隊の行方が分からない。そう思ったとき、背後から混乱が伝わってきた。これが、カタスト軍の狙いだろう。絶妙だった。
慌てて歩兵の一部を対応に回す。後ろには、ハーテン本人がいる。ハーテンがやられてしまえば、この叛乱もそれまでだろう。それだけに、なんとしてでも止めなければならない。
シモンも後ろへと向かった。馬がないのがもどかしい。
一直線に、カタスト軍の騎馬隊は突っ込んできていた。その先には、ハーテンが歩兵と共にいる。しかし、僅かに五百ほどだった。
間に合わない。そう思ったとき、カタスト軍の騎馬隊は不意に左へ逸れた。右側から、ベルサリウスの五十騎が稲妻のように迫っている。後少し進んでいれば、横からの攻撃で崩せただろう。危なかったが、同時に惜しかった。シモンは首を振る。
その間に、カタスト軍の騎馬隊は信徒の群から脱していた。ただ、すぐ後ろから、ベルサリウスが迫っている。カタスト軍の精鋭と言えども、ベルサリウスが振るう二本の長剣を止めきれない。このままいけばと思ったとき、横から光の矢のように騎馬隊が迫っていた。先頭に、白い翼のオルニスが位置している。
長剣を見事に使いながら、ベルサリウスの騎馬隊を崩していく。ベルサリウスが反転した。ベルサリウスとオルニスがすれ違う。金属と金属がぶつかる音が、シモンにも聞こえた気がした。互いに反転する。そう見せかけてベルサリウスは立て直しつつあったカタスト軍の騎馬隊に突っ込んだ。
だが、オルニスの部隊がベルサリウスの部隊にまとわりつき、自由にさせない。
その間に、体勢を立て直しきったカタスト軍の騎馬隊が、背後からハーテン教徒を狙い始めた。同時に、爆音が鳴り響く。大砲だった。そう思ったときにはもう、前線が崩れ始めている。シモンやナルセスと言った戦いの経験がある人間はともかく、そうでない人間が大砲を見て混乱しないわけがない。
シモンは舌打ちした。せめて、事前に大砲があると分かっていれば対策のしようはあっただろう。だが、ここぞと言うときまで隠されていた。
信徒の軍が、酷かった。壊走を始めている。ほとんどが戦い慣れていないのだ。崩れ始めると、脆かった。それに引きずられるように、六万の軍も乱れ始めている。
「ヒワダへ」
ハーテンからの連絡が届く。シモンは戦場を見渡すと、頷いた。
敗北である。部下と共に、ゆっくりと後退する。一万ほどの軍が、ヒワダに帰って来なかった。信徒の軍は半分の二万ほどだ。
それでも、帰ってきた兵は多いと言っていいだろう。何しろ、カタスト軍が追撃してこなかったのだ。おそらく、追撃より優先すべき命令が来たのだろう。その辺りの機微を活かせないのが、ヒロズ国の欠点だった。
「負けたな、負けた」
三日ほどしてから、会議が開かれた。出席しているのはハーテン、リュー・ウマーイ、シモン、ナルセスにアトラクサの五人だった。ハーテンが豪快に笑う。
ハーテンはこの所、先頭に立って戻ってきた信者を励ましていた。ハーテンが信者になにを言っているのかシモンには想像もつかなかったが、その一言一言が水のように信者に染み込んでいくのを目の当たりにしている。
「笑っている場合ではないでしょう、ハーテン様。今後の展望を考えなければ」
「真面目だな、リューは。さて、展望だな。おれは、三龍将軍を置こうと思っている」
「はい?」
ハーテンの言っていることが分からないと言った風にリューが聞き返している。
「聞こえなかったか、三龍将軍だ。ヒロズ国には三人の将軍がいる。おれも対抗しようと思ったんだ」
「なるほど。しかし、今ですか?」
「今だ。おれがそう決めたからな。三龍将軍。格好いいではないか。こういうものは格好良さが大切だろう。今は負けた後だ。信者どもは希望を求めている。三龍将軍がそれぞれ、信者の希望となればいい」
ハーテンが頷く。
「そうと決まればだ、シモン。お前は『水龍』と名乗れ。リューが『鋼龍』、ミオにいるプラットが『霊龍』だ。おれは『天空龍』と名乗る」
「はあ」
リューが呆れたような声を出していた。ただ、意義は挟まない。こういうハーテンの意見が、不思議と人々の気持ちを掴むことを知っているのだ。
「いいじゃないか、リュー。信者たちは今、敗北に衝撃を受けている。三龍将軍の創設は、その衝撃を和らげるのに役に立つと思うぞ」
シモンが声をかけると、リューが首を捻りながらも同意する。
「そう言うものなんですかね、シモン殿。私はどうしても頭で考えてしまうので」
「まあ、ハーテンの考えは突飛だからな。意味が分からないときはおれも分からない」
「おいおい、シモン。人を頭がおかしい奴みたいに言うのは止めてくれよ。本当におれの頭がおかしいのかと不安になっちまう」
「たまにはなってくれ。お前につきあわされるのは大変なんだ」
シモンが告げると、ハーテンは楽しそうに笑っていた。
「それと、ハーテン。今後の展望だが。もはや中央に出ようとするのは危険だろう。まずは一度、地盤を作った方がいい」
「ヒワダではだめなのか、シモン?」
ハーテンの言葉に、シモンは頷く。
「一つの地盤だとは思うが、小さい。もっと広い範囲を目指すべきだ。幸い、その場所は比較的ハーテン教徒の影響力も大きい。アトラクサやナルセスとも話し合っている。」
「どこだ?」
ハーテンが尋ねる。
「ホウエンだ、ハーテン。まず、ホウエン全土をハーテン教徒のものにする。守りきれば、国になっている」
「なるほど」
ハーテンが頷いた。リューがハーテンを見た。
「そうしますか、ハーテン様?」
「そうだな」
それで、決まりだった。細やかなことを決め、会議が終わる。終わり際に、シモンはナルセスを呼び止めた。相変わらず、女性としか思えない見た目をしている。
「お前が見込んだやつは、やるじゃないか」
シモンの言葉にナルセスが笑う。腰から黒刀を二本差していた。夏に一本折れたようで、どちらかが鍛え直した新しい黒刀のはずだ。
「ああ。わたしの予想通りだ。ただ、今どうしていると思う」
「悔しがっている」
「その通りだ」
ナルセスがまた笑う。ベルサリウスは、カタスト軍の騎馬隊を崩しきれなかったことを悔やんでいた。
クロエ・ローランサンと呼ばれる指揮官が指揮していた騎馬隊が、ベルサリウスの騎馬隊に食らいついてきたせいである。クロエはついこの間まで、王族であるセリス・フィングと共にデムーラン城塞でハーテン教の信徒と戦っていたらしい。ベルサリウスとクロエは、二回直接ぶつかっている。二度、攻撃を受け止められたのは二人目だと話していた。一人目は、セリスである。
これからホウエンをハーテン教徒が抑える上で、強敵になる。セリスやクロエからはそんな気配が漂っていた。ただ、それくらいの敵を乗り越えられないようではハーテン教徒に明日はない。
「今度、上手い猪肉を食わせてくれと言っておいてくれ。この前は、食いそびれたからな」
「わかった。伝えておこう」
ナルセスが手を振ると去っていく。
『水龍』。ふと、先ほどハーテンによって決められた称号が思い出された。これからは、シモンがそう呼ばれる日も増えるのだろう。
ただ、シモンは水より火の方が好きだった。
だが、本当にそうなのだろうか。相手は、ヒロズ国の大将軍である。立ち昇っている闘気も、尋常ではない。
特に、三千ほどいる騎馬隊が厄介そうだった。カタスト本人が率いているという。アトラクサや闇法軍が忍び込んで詳しい情報を集めようとしているが、なかなか上手くいかなかった。
「気負うなよ、シモン」
後ろから、声が聞こえてきた。ハーテンが、ゆっくりと歩いてくる。
「気負っているつもりはないがな」
「そうか。ならいいんだが。ベルサリウスが猪肉を取ってきたらしい。一緒に食うか?」
ハーテンが屈託のない声色で尋ねてくる。ベルサリウスは、最近ナルセスのもとに加わった青年だった。ほとんど戦いの経験もないらしいが、ナルセスからはすぐに騎馬隊の隊長を任されている。
ナルセスが選んだ人間だから、そう間違いはないだろう。ただ、戦いの前に猟をしていると聞くと、本当にそれほどの人間なのだろうか、と思ってしまう。
最も、今はまだ開戦の気配は薄い。ベルサリウスもそのあたりに気づいて猪を狩ってきたのかもしれなかった。
「おれはいらんな。部下に振る舞ってくれ」
ハーテンに告げると、豪快に笑われた。
「そのあたりが気負っているのだ、シモン。普段のお前なら共に肉を食らうだろう」
そう言われると、シモンは堪えきれずに苦笑するしかなかった。
「しかし、この時期に狩猟か。大物なのか、ただの暢気な阿呆なのか」
「あの軍と戦えば、分かるだろう」
ハーテンが一万の軍を指さす。相変わらず、隙一つ見られない。
「お前は、あれがこの国の最も強い部分だと話していた。それに勝てればセキエイまで攻め入るのも夢やおとぎ話ではなくなる」
「そうだな」
シモンが頷く。ヒワダや各地で叛乱を起こした後、それらの軍が協力してヒロズ国の中心に位置する王都セキエイを速やかに落とすとの考えが、シモンやリューの出した策だった。当初から、ハーテン教徒はその考えに基づいて行動している。ただ、トキワにいたハーテン教徒はカタストによって即座に鎮圧され、カンナギの部隊も将軍の一人であるフォール率いる軍と戦いになり、自由に動けずにいる。プラット率いるミオの部隊だけはある程度動くことができたが、今はシンオウ西部の制圧に取り掛かっていた。結局、中央を攻められるのはハーテン率いる本隊だけである。
「まずは、戦って勝とう」
戦いが始まったのは、二日後のことだった。カタスト軍の騎馬隊のうち半数が、捕捉できなくなったのだ。およそ、千五百である。無視できるものではない。
ナルセスの騎馬隊に騎馬隊の捕捉を頼むと、シモンは自軍を前に進ませ始めた。七千ほどの歩兵が、矢を射かけてくる。大楯を前に出すように告げ、少しずつ前進を始めた。カタスト軍の残された騎馬隊は五百ずつ、三隊に分かれて行動している。煩く牽制してくるが、無視した。馬抗柵の中に居れば、相手も迂闊に突撃してこないからだ。馬杭柵を利用して慎重に進んでいると、伝令が届いた。ナルセスからである。
カタスト軍の騎馬隊を捕捉したので、戦いに入るとのことだった。カタスト本人も、そこにいるらしい。これで、行方の分からない騎馬隊はなくなった。歩兵同士がぶつかり始める。その時、冷や汗がシモンの背中を伝った。
五百ずつに分かれた騎馬隊のうち、二隊の行方が分からない。そう思ったとき、背後から混乱が伝わってきた。これが、カタスト軍の狙いだろう。絶妙だった。
慌てて歩兵の一部を対応に回す。後ろには、ハーテン本人がいる。ハーテンがやられてしまえば、この叛乱もそれまでだろう。それだけに、なんとしてでも止めなければならない。
シモンも後ろへと向かった。馬がないのがもどかしい。
一直線に、カタスト軍の騎馬隊は突っ込んできていた。その先には、ハーテンが歩兵と共にいる。しかし、僅かに五百ほどだった。
間に合わない。そう思ったとき、カタスト軍の騎馬隊は不意に左へ逸れた。右側から、ベルサリウスの五十騎が稲妻のように迫っている。後少し進んでいれば、横からの攻撃で崩せただろう。危なかったが、同時に惜しかった。シモンは首を振る。
その間に、カタスト軍の騎馬隊は信徒の群から脱していた。ただ、すぐ後ろから、ベルサリウスが迫っている。カタスト軍の精鋭と言えども、ベルサリウスが振るう二本の長剣を止めきれない。このままいけばと思ったとき、横から光の矢のように騎馬隊が迫っていた。先頭に、白い翼のオルニスが位置している。
長剣を見事に使いながら、ベルサリウスの騎馬隊を崩していく。ベルサリウスが反転した。ベルサリウスとオルニスがすれ違う。金属と金属がぶつかる音が、シモンにも聞こえた気がした。互いに反転する。そう見せかけてベルサリウスは立て直しつつあったカタスト軍の騎馬隊に突っ込んだ。
だが、オルニスの部隊がベルサリウスの部隊にまとわりつき、自由にさせない。
その間に、体勢を立て直しきったカタスト軍の騎馬隊が、背後からハーテン教徒を狙い始めた。同時に、爆音が鳴り響く。大砲だった。そう思ったときにはもう、前線が崩れ始めている。シモンやナルセスと言った戦いの経験がある人間はともかく、そうでない人間が大砲を見て混乱しないわけがない。
シモンは舌打ちした。せめて、事前に大砲があると分かっていれば対策のしようはあっただろう。だが、ここぞと言うときまで隠されていた。
信徒の軍が、酷かった。壊走を始めている。ほとんどが戦い慣れていないのだ。崩れ始めると、脆かった。それに引きずられるように、六万の軍も乱れ始めている。
「ヒワダへ」
ハーテンからの連絡が届く。シモンは戦場を見渡すと、頷いた。
敗北である。部下と共に、ゆっくりと後退する。一万ほどの軍が、ヒワダに帰って来なかった。信徒の軍は半分の二万ほどだ。
それでも、帰ってきた兵は多いと言っていいだろう。何しろ、カタスト軍が追撃してこなかったのだ。おそらく、追撃より優先すべき命令が来たのだろう。その辺りの機微を活かせないのが、ヒロズ国の欠点だった。
「負けたな、負けた」
三日ほどしてから、会議が開かれた。出席しているのはハーテン、リュー・ウマーイ、シモン、ナルセスにアトラクサの五人だった。ハーテンが豪快に笑う。
ハーテンはこの所、先頭に立って戻ってきた信者を励ましていた。ハーテンが信者になにを言っているのかシモンには想像もつかなかったが、その一言一言が水のように信者に染み込んでいくのを目の当たりにしている。
「笑っている場合ではないでしょう、ハーテン様。今後の展望を考えなければ」
「真面目だな、リューは。さて、展望だな。おれは、三龍将軍を置こうと思っている」
「はい?」
ハーテンの言っていることが分からないと言った風にリューが聞き返している。
「聞こえなかったか、三龍将軍だ。ヒロズ国には三人の将軍がいる。おれも対抗しようと思ったんだ」
「なるほど。しかし、今ですか?」
「今だ。おれがそう決めたからな。三龍将軍。格好いいではないか。こういうものは格好良さが大切だろう。今は負けた後だ。信者どもは希望を求めている。三龍将軍がそれぞれ、信者の希望となればいい」
ハーテンが頷く。
「そうと決まればだ、シモン。お前は『水龍』と名乗れ。リューが『鋼龍』、ミオにいるプラットが『霊龍』だ。おれは『天空龍』と名乗る」
「はあ」
リューが呆れたような声を出していた。ただ、意義は挟まない。こういうハーテンの意見が、不思議と人々の気持ちを掴むことを知っているのだ。
「いいじゃないか、リュー。信者たちは今、敗北に衝撃を受けている。三龍将軍の創設は、その衝撃を和らげるのに役に立つと思うぞ」
シモンが声をかけると、リューが首を捻りながらも同意する。
「そう言うものなんですかね、シモン殿。私はどうしても頭で考えてしまうので」
「まあ、ハーテンの考えは突飛だからな。意味が分からないときはおれも分からない」
「おいおい、シモン。人を頭がおかしい奴みたいに言うのは止めてくれよ。本当におれの頭がおかしいのかと不安になっちまう」
「たまにはなってくれ。お前につきあわされるのは大変なんだ」
シモンが告げると、ハーテンは楽しそうに笑っていた。
「それと、ハーテン。今後の展望だが。もはや中央に出ようとするのは危険だろう。まずは一度、地盤を作った方がいい」
「ヒワダではだめなのか、シモン?」
ハーテンの言葉に、シモンは頷く。
「一つの地盤だとは思うが、小さい。もっと広い範囲を目指すべきだ。幸い、その場所は比較的ハーテン教徒の影響力も大きい。アトラクサやナルセスとも話し合っている。」
「どこだ?」
ハーテンが尋ねる。
「ホウエンだ、ハーテン。まず、ホウエン全土をハーテン教徒のものにする。守りきれば、国になっている」
「なるほど」
ハーテンが頷いた。リューがハーテンを見た。
「そうしますか、ハーテン様?」
「そうだな」
それで、決まりだった。細やかなことを決め、会議が終わる。終わり際に、シモンはナルセスを呼び止めた。相変わらず、女性としか思えない見た目をしている。
「お前が見込んだやつは、やるじゃないか」
シモンの言葉にナルセスが笑う。腰から黒刀を二本差していた。夏に一本折れたようで、どちらかが鍛え直した新しい黒刀のはずだ。
「ああ。わたしの予想通りだ。ただ、今どうしていると思う」
「悔しがっている」
「その通りだ」
ナルセスがまた笑う。ベルサリウスは、カタスト軍の騎馬隊を崩しきれなかったことを悔やんでいた。
クロエ・ローランサンと呼ばれる指揮官が指揮していた騎馬隊が、ベルサリウスの騎馬隊に食らいついてきたせいである。クロエはついこの間まで、王族であるセリス・フィングと共にデムーラン城塞でハーテン教の信徒と戦っていたらしい。ベルサリウスとクロエは、二回直接ぶつかっている。二度、攻撃を受け止められたのは二人目だと話していた。一人目は、セリスである。
これからホウエンをハーテン教徒が抑える上で、強敵になる。セリスやクロエからはそんな気配が漂っていた。ただ、それくらいの敵を乗り越えられないようではハーテン教徒に明日はない。
「今度、上手い猪肉を食わせてくれと言っておいてくれ。この前は、食いそびれたからな」
「わかった。伝えておこう」
ナルセスが手を振ると去っていく。
『水龍』。ふと、先ほどハーテンによって決められた称号が思い出された。これからは、シモンがそう呼ばれる日も増えるのだろう。
ただ、シモンは水より火の方が好きだった。
兵力が、二千に達していた。
コトキの軍である。義勇軍としてやってくる人間も多いが、それ以上にミシロからハインリヒが五百の兵を連れやってきたことが大きい。
しかも、その五百は全員騎馬である。元々セリス、ジャンヌ、セイン、グレゴリウスとミシロには騎馬隊の隊長を務められる人材が多く、逆にコトキには騎馬隊が存在しなかった。そこで、ハインリヒがミシロにやってきた後、コトキに配属されることになったのだ。
元々、コトキの歩兵は層が厚い。アニムスディッセンバーとセルジュの二人が、それぞれ七百五十ずつを指揮している。更に、騎手のメランヒトンが二人の副官のように働いていた。
ミシロにはセリスとジャンヌを中心とした騎馬隊が千五百と、セインが率いる三十騎ほどの遊撃隊、そしてマデロが指揮する七百ほどの歩兵が存在する。デムーラン城塞はやや兵が少ないものの、レイとフェルグスが一千ほどの歩兵をまとめ、フェミナが二百もの騎馬隊を率いていた。
三地点をあわせると、合計で五千以上の兵が存在していることになる。ただ、三千いる歩兵のうち、半数近くは新兵だった。その新兵をどう訓練するかが、一つの課題である。
今は小康状態にあるハーテン教徒との戦いは、近いうちに再開すると考えられていた。カタスト軍と、ハーテン教徒との戦いが終わったのである。カタスト軍の、勝利だった。
ただ、本隊がカタスト軍との戦いに敗れヒワダに後退したとはいえ、依然としてハーテン教徒はヒロズ国の各地で信者の軍を作っている。その数、百万近い。特に力が強い場所が、ヒワダ周辺からホウエン西南部にかけてと、シンオウ西部だった。
当初はシンオウ東部とセキエイ近くのカントーで叛乱も起こしている。その場所も含めると、ハーテン教徒が最初に思い描いていた戦略も想像できた。
恐らく、ヒロズ国の中央を目指していたのだろう。ただ、叛乱が二つ潰されたことと、本隊が敗れたことで戦略を見直しつつある。シンオウ西部とホウエンに拠点を持つこと。それが、今のハーテン教徒の戦略だと考えることができた。実際、ハーテン教徒の指揮官となったシモンがハジツゲに向かったとの報告もある。
ハーテン教徒本隊との戦いが始まるまでに少しでも多くの兵を集め、鍛えておくことが今のセリス軍には必要なことだった。
「メランヒトン君」
訓練の後、アニムスは近くにいるメランヒトンを捕まえた。ハインリヒ率いる騎馬隊と訓練した後である。この後、アニムスはハインリヒと話し合いを行うことになっていた。
「どうしよう。ハインリヒとの会話が続かないんだけど」
アニムスがメランヒトンを困った顔で見る。
「いや、でもあなたの方が上官なんですから、気兼ねすることはないと思いますけど」
「でもさあ、おれみたいな叩きあげとは違って、ハインリヒは若い時から将校だったんだろ。心の中で見下されていたらどうしよう」
「そんなことないと思いますが」
「でも、変な命令出して揉めても困るし」
アニムスの言葉に、メランヒトンは首を振る。
「困ったら、走って決着付けてください」
「というと?」
「ほら、隊長は足に自信があるじゃないですか。ハインリヒ殿も騎馬隊の隊長ですし、困ったら足が速い方の言うことを聞くようにしておけばいいと思うんですよね」
「なんだかお前が頼もしく思えてきたよ、メランヒトン」
「子どもじゃないんですし、普通に話してくださいよ」
そう言いながら、セルジュが話に入ってくる。アニムスはメランヒトンと目を合わせた。
「おい、もっともなこと言われたんだけどどうしよう。おれには反論の余地が思いつかないぜ」
「ほら、ハインリヒ殿が待っていますよ」
セルジュがちらりと後ろを見る。ハインリヒがやって来ていた。
「アニムス殿、そろそろ先ほどの訓練について話し合いたいんですが」
「少し待ってくれ。今、心の準備が」
アニムスが大きく息を吸い込んだり吐いたりしている。
「そうです、隊長。そうやって心を落ち着かせて勇気を振り絞るんです」
「アニムス殿、早くしてください」
セルジュがアニムスを押し出す。目の前に、ハインリヒの顔があった。アニムスとそう歳が変わらないネヴァーフである。
「ええと、君がハインリヒ君だっけ。今までがどうだったかわからないけど、このコトキで今までのやり方は通用しないと思ってくれ」
「は、はあ」
ハインリヒが困った表情でアニムスとセルジュを交互に見ている。セルジュが呆れたと言わんばかりの表情になった。
「アニムス殿、偉ぶってないで真面目に話してください」
アニムスはそんなセルジュを非難するような目で見ると、ハインリヒを見た。
「じゃあ、話すか」
一度話し始めたら、何のことはなかった。アニムスもハインリヒもしっかりとした表情で感想を伝え合う。
「良い人だったな」
話し合いが終わった後、アニムスがメランヒトンとセルジュに告げる。
「そうですね、隊長」
メランヒトンが勢い込んで頷く。セルジュは、呆れたような目線を送って来るだけだった。
「そうそう、歩兵部隊のことですが」
ハインリヒが去った後、セルジュが告げる。コトキでの新兵の訓練は、彼女が中心となっていた。訓練は、厳しいらしい。特に、地竜のコスモファントムを兵の後ろから走らせる練習は、兵から怖れられていた。ただ、文句を言うものはほとんどいない。戦い慣れした兵たちが、その訓練が必要だと話しているからだ。
「現状の兵の分け方だと、わたしの部隊にもアニムス殿の部隊にも新兵が入ってきます。今、いくら訓練しているとは言え、新兵は新兵ですからね。やはり、咄嗟の動きには不安が強いです」
セルジュはシーキンセツで一度、デムーラン城砦を巡る戦いで二度、ハーテン教徒に追い詰められている。今のところ、その敗北を吹っ切っているように見えた。ベルサリウスによって真っ二つにされた斧も、直っている。
「新兵はわたしの部隊で引き受けたいと思います。もちろん、指示を出す隊長には新兵ではなく経験を積んだ兵を当てたいと思いますが。アニムス殿はメランヒトンと、経験を積んだ兵たちの指揮をした方が、自由に動けることになると思うんですよね」
「分かった、そうしてくれ」
アニムスが告げる。篝火に照らされたセルジュの顔は、くっきりと影が映っていた。
コトキの軍である。義勇軍としてやってくる人間も多いが、それ以上にミシロからハインリヒが五百の兵を連れやってきたことが大きい。
しかも、その五百は全員騎馬である。元々セリス、ジャンヌ、セイン、グレゴリウスとミシロには騎馬隊の隊長を務められる人材が多く、逆にコトキには騎馬隊が存在しなかった。そこで、ハインリヒがミシロにやってきた後、コトキに配属されることになったのだ。
元々、コトキの歩兵は層が厚い。アニムスディッセンバーとセルジュの二人が、それぞれ七百五十ずつを指揮している。更に、騎手のメランヒトンが二人の副官のように働いていた。
ミシロにはセリスとジャンヌを中心とした騎馬隊が千五百と、セインが率いる三十騎ほどの遊撃隊、そしてマデロが指揮する七百ほどの歩兵が存在する。デムーラン城塞はやや兵が少ないものの、レイとフェルグスが一千ほどの歩兵をまとめ、フェミナが二百もの騎馬隊を率いていた。
三地点をあわせると、合計で五千以上の兵が存在していることになる。ただ、三千いる歩兵のうち、半数近くは新兵だった。その新兵をどう訓練するかが、一つの課題である。
今は小康状態にあるハーテン教徒との戦いは、近いうちに再開すると考えられていた。カタスト軍と、ハーテン教徒との戦いが終わったのである。カタスト軍の、勝利だった。
ただ、本隊がカタスト軍との戦いに敗れヒワダに後退したとはいえ、依然としてハーテン教徒はヒロズ国の各地で信者の軍を作っている。その数、百万近い。特に力が強い場所が、ヒワダ周辺からホウエン西南部にかけてと、シンオウ西部だった。
当初はシンオウ東部とセキエイ近くのカントーで叛乱も起こしている。その場所も含めると、ハーテン教徒が最初に思い描いていた戦略も想像できた。
恐らく、ヒロズ国の中央を目指していたのだろう。ただ、叛乱が二つ潰されたことと、本隊が敗れたことで戦略を見直しつつある。シンオウ西部とホウエンに拠点を持つこと。それが、今のハーテン教徒の戦略だと考えることができた。実際、ハーテン教徒の指揮官となったシモンがハジツゲに向かったとの報告もある。
ハーテン教徒本隊との戦いが始まるまでに少しでも多くの兵を集め、鍛えておくことが今のセリス軍には必要なことだった。
「メランヒトン君」
訓練の後、アニムスは近くにいるメランヒトンを捕まえた。ハインリヒ率いる騎馬隊と訓練した後である。この後、アニムスはハインリヒと話し合いを行うことになっていた。
「どうしよう。ハインリヒとの会話が続かないんだけど」
アニムスがメランヒトンを困った顔で見る。
「いや、でもあなたの方が上官なんですから、気兼ねすることはないと思いますけど」
「でもさあ、おれみたいな叩きあげとは違って、ハインリヒは若い時から将校だったんだろ。心の中で見下されていたらどうしよう」
「そんなことないと思いますが」
「でも、変な命令出して揉めても困るし」
アニムスの言葉に、メランヒトンは首を振る。
「困ったら、走って決着付けてください」
「というと?」
「ほら、隊長は足に自信があるじゃないですか。ハインリヒ殿も騎馬隊の隊長ですし、困ったら足が速い方の言うことを聞くようにしておけばいいと思うんですよね」
「なんだかお前が頼もしく思えてきたよ、メランヒトン」
「子どもじゃないんですし、普通に話してくださいよ」
そう言いながら、セルジュが話に入ってくる。アニムスはメランヒトンと目を合わせた。
「おい、もっともなこと言われたんだけどどうしよう。おれには反論の余地が思いつかないぜ」
「ほら、ハインリヒ殿が待っていますよ」
セルジュがちらりと後ろを見る。ハインリヒがやって来ていた。
「アニムス殿、そろそろ先ほどの訓練について話し合いたいんですが」
「少し待ってくれ。今、心の準備が」
アニムスが大きく息を吸い込んだり吐いたりしている。
「そうです、隊長。そうやって心を落ち着かせて勇気を振り絞るんです」
「アニムス殿、早くしてください」
セルジュがアニムスを押し出す。目の前に、ハインリヒの顔があった。アニムスとそう歳が変わらないネヴァーフである。
「ええと、君がハインリヒ君だっけ。今までがどうだったかわからないけど、このコトキで今までのやり方は通用しないと思ってくれ」
「は、はあ」
ハインリヒが困った表情でアニムスとセルジュを交互に見ている。セルジュが呆れたと言わんばかりの表情になった。
「アニムス殿、偉ぶってないで真面目に話してください」
アニムスはそんなセルジュを非難するような目で見ると、ハインリヒを見た。
「じゃあ、話すか」
一度話し始めたら、何のことはなかった。アニムスもハインリヒもしっかりとした表情で感想を伝え合う。
「良い人だったな」
話し合いが終わった後、アニムスがメランヒトンとセルジュに告げる。
「そうですね、隊長」
メランヒトンが勢い込んで頷く。セルジュは、呆れたような目線を送って来るだけだった。
「そうそう、歩兵部隊のことですが」
ハインリヒが去った後、セルジュが告げる。コトキでの新兵の訓練は、彼女が中心となっていた。訓練は、厳しいらしい。特に、地竜のコスモファントムを兵の後ろから走らせる練習は、兵から怖れられていた。ただ、文句を言うものはほとんどいない。戦い慣れした兵たちが、その訓練が必要だと話しているからだ。
「現状の兵の分け方だと、わたしの部隊にもアニムス殿の部隊にも新兵が入ってきます。今、いくら訓練しているとは言え、新兵は新兵ですからね。やはり、咄嗟の動きには不安が強いです」
セルジュはシーキンセツで一度、デムーラン城砦を巡る戦いで二度、ハーテン教徒に追い詰められている。今のところ、その敗北を吹っ切っているように見えた。ベルサリウスによって真っ二つにされた斧も、直っている。
「新兵はわたしの部隊で引き受けたいと思います。もちろん、指示を出す隊長には新兵ではなく経験を積んだ兵を当てたいと思いますが。アニムス殿はメランヒトンと、経験を積んだ兵たちの指揮をした方が、自由に動けることになると思うんですよね」
「分かった、そうしてくれ」
アニムスが告げる。篝火に照らされたセルジュの顔は、くっきりと影が映っていた。
最初は、僅かなざわめきだった。少しずつ、その音が大きくなってくる。
どこか、懐かしいような響きだった。風に乗り、ミシロの外から聞こえてくる。
何故かは判らない。だが、不思議と心が震えるのだ。
ここまでミリオットの琴線に触れるようなものはそうなかった。
そこで、ミリオットは顔を上げた。心当たりがあったのだ。
扉を開け、城門へと歩き出す。その響きは、言葉の形を取り始めた。
「氷帝」
徐々にその声は大きくなっていく。ミリオットは思わず苦笑した。
やはり、想像通りの言葉だったからだ。
「氷帝」
「氷帝」
まもなく、見覚えのある人物が街道を駆けてくるのが見えた。
「ミリオットじゃないか。元気していたか?」
『氷帝』メビウス・ビッケンバイン。短い金髪をした伊達男で、セリスやジャンヌと同じくバレー私塾の同期で『十傑』の一人である。
「お前の噂は聞いているぜ。『英雄』、良い二つ名じゃないか。いつかおれみたいに、お前を『英雄』と呼ぶかけ声を聞かせてくれよ」
メビウスが笑いかけてくる。指を鳴らした。再び、かけ声が聞こえてくる。
「氷帝」
「氷帝」
「勝つのは氷帝」
メビウスがまた指を鳴らす。かけ声が静まった。ミリオットもまた、満足そうに頷く。
「おれが『英雄』と呼ばれていることを知っているとは、流石だな」
「お前たちの噂は、ツーマイ殿の下にも届いていたからな。お前は女神に導かれている。まさにその通りだと思ったぜ」
「そして導かれてお前もここに来たわけだろう。面白いな、『氷帝』」
ミリオットがにやりと笑う。メビウスも不敵な笑みを返してきた。
「ああ。おれもお前に負けてはいられないぜ、『英雄』。『氷帝』ここにありと示してやるさ。せっかくここに将校として派遣されることになったわけだからな。セリスたちにも挨拶しに行こう。どこにいる?」
恐らく、セリスはミシロの市庁舎にいるはずだった。
今のミシロは太守がいない。代わりに、セリスが事実上の指導者となっている。
本来なら武官であるセリスが指導者となることは許されていないが、コトキ太守であるマッキンリーがうまく立ち回ったようだった。
二人で市庁舎へと向かう。メビウスはツーマイのもとで騎馬隊を率いていた。
ツーマイはバレーが大将軍を務めていた頃の副官である。更に遡れば、セリスやジャンヌの父親と共にバレー軍『四天王』の一人だった。
歩兵隊を指揮するツーマイは他の三人と比べると地味で目立たないことが多いが、確かな実績は残している。
バレーが年齢を理由に引退した後、将軍職についていたこともあった。本人が器ではないと辞退したようだったが、それでも優れた実力の持ち主であることに変わりない。
「最近はこんな調子だから行けていないと思うが、大学はどうだったんだ?」
「想像通りだ。語るほどのことはしていないな」
「残念だな。お前の魔術がどれほど真髄に近づいていたか、知りたかったが」
そう告げたメビウスが左右を探るように目を動かした。首を振る。
「すまんな、ミリオット。何か、嫌な気配を感じたんだ」
ミリオットには全く感じ取れなかった。ただ、いつもの気配が近くから感じられる。誰とは言わないが、恐らく爆球でミリオットを襲撃しようとしていたのだろう。
「なるほど」
「何がなるほどなんだ?」
「見てれば分かるさ」
ミリオットは事もなげに告げる。メビウスは納得したように頷いた。
「わかった、楽しみにしていよう」
「ミリオット君」
二人で進んでいると、黒い服にすっぽりと身を包んだ女性が目の前に現れていた。ファイだ。少し、不機嫌そうな顔をしている。
「隣にいる人は誰だい。嫌に仲が良いじゃないか」
「おれの同期だ」
「『氷帝』メビウス・ビッケンバインだ。『氷帝』と呼んでくれ」
メビウスがファイに笑いかける。ファイは、驚いたようにミリオットの後ろへと回り込んでいた。ミリオットは、ファイが見知らぬ人間との会話が極端に苦手なことを思い出した。そもそも、今のように他人に自分から話しかけること自体が珍しい。大学にいた頃も、ミリオットやアクセナ以外の人間と少し話しただけで額に玉のような汗が浮かぶのである。
いや、今も浮かんでいた。おまけに、見るからに暑そうな黒い服を着込んでいる。
メビウスはそんなファイとミリオットを交互に見比べている。納得したように頷いた。
「なるほど」
「なにが、なるほどなんだい」
ファイがミリオットの後ろから顔だけ出して尋ねている。その両手は、ミリオットの腕を掴んでいた。
「いやいや、先ほどの視線だよ。君はおれが羨ましいんだろう」
「わ、わたしがどうしてお前なんかを」
「わかる、わかるぜ」
メビウスは得心が言ったとばかりに頷いている。動揺しているのか、ファイの表情が傍目にも分かるほど赤くなっていた。
「羨ましいんだろう。このおれの、『氷帝』と呼ばれるかけ声が」
メビウスが指を鳴らす。
「氷帝」
「氷帝」
「氷帝」
地響きのように、声が伝わってくる。メビウスが再び指を鳴らした。かけ声が、ぴたりと止む。
三人の間を沈黙が包み込んだ。ファイが、呆れ果てたような表情でメビウスを見る。
「は?」
ファイの言葉は、気のせいかいつもより低い。ただ、メビウスはそんなファイの様子を全く気にしていないようで、大きく頷いていた。
「いやいや、そんな恥ずかしがらなくてもおれにはわかる、わかるぜ。お前も欲しいんだろう、お前だけのこのかけ声が」
メビウスが指を鳴らす。再び、地響きのようなかけ声が伝わってきた。
「そうか」
「つれない反応だな」
肩を竦めるメビウスの前で、ファイは右手の人差し指をあげた。橙色の球体が、その先に生まれる。
音を立てることなく、その球は爆発した。自慢げな表情で、ファイがメビウスを見る。
「どうだ」
「凄いじゃないか。ミリオット、お前の魔術の友人か」
感心したようにメビウスがミリオットを見る。
「ああ、そうだぞ。魔術の腕ではおれと双璧をなす存在だ」
「違う」
急に大きな声で、ファイが否定してきた。
「いいか、『氷帝』君。君の勝手な妄想でわたしとミリオット君を友人にしないでくれ。わたしと彼は永遠の好敵手。言わば水と油の関係だ。魔術の腕も、今は双璧だがいずれはわたしが上回ってみせる」
「つまり、お前とミリオットは仲が良いってことだろう」
「違う」
ファイは顔を真っ赤にしながら否定している。対してメビウスは、いつも通りの自然な表情だった。
「『氷帝』、こいつもセリスのところに連れて行っていいのか?」
「別に問題はないだろう。ところで、ミリオット」
「どうした?」
「この人、名前は?」
「ファイ・ラだ」
「なるほど、ファイか」
メビウスが頷く。ファイを見た。
「どうだ、ファイ。良ければおれが二つ名をつけようか。『氷帝』と『英雄』の友なんだ。君だけ二つ名がないのはもったいないだろう」
メビウスの言葉に、ファイが呆れたような表情になる。
「『氷帝』、止めておけ」
「どうした、『英雄』」
「そう言うものは、自らの手で掴み取るものだろう。誰かから貰うものではない」
「確かに、その通りだ」
ミリオットの言葉に、メビウスは大きく頷く。
「思えば、お前の『英雄』も、おれの『氷帝』も自らの手で掴んだ名だ。ファイが相応しい名を得るまで、静かに待つしかないな」
三人で仲良く話しながらミシロを歩く。やがて、市庁舎にたどり着いた。
「あ、ミリオットさん。隣にいるのはメビウスさんですね」
ルナだった。どうやら、リシア財団に務めていたころにメビウスと面識があるらしい。
「確かに、おれはメビウス・ビッケンバインだ。ただ、おれのことは『氷帝』と呼んでくれ」
「わかりました、『氷帝』さん」
真面目に答えるルナの前で、メビウスは満足そうに頷いている。
「おれは、どうすればいい?」
「しばらくは、セリスさんやジャンヌさんと共にミシロで騎馬隊を率いてください」
「わかった」
メビウスが頷いたとき、後ろからセリスとジャンヌがやってきた。
「あ、メビウス。久しぶり!」
ジャンヌが駆け寄ってくる。その声には、懐かしさがあった。
「久しぶりだな。セリス、ジャンヌ。それから、おれのことは『氷帝』と呼んでくれと言っていただろう」
「ああ、はいはい。『氷帝』ね、『氷帝』」
無我の境地にたどり着いたかのような声でジャンヌが言葉を返している。かつて、毎日のように見た光景だった。
「後は、ナビリアが揃えば同期はみんなここに来たことになるな」
メビウスが告げる。セリス、ミリオット、ジャンヌ、メビウス、そしてナビリア。この五人はバレー私塾の同級生だった。
「あの頃が懐かしいね。みんな無事で何よりだよ」
ジャンヌが告げる。セリスも笑みを見せた。
「命あっての物種っていうからね」
「そう言えば、懐かしい顔ぶれだな」
ミリオットも頷く。
「ナビリアちゃんはどうしているの?」
「あいつはバレー私塾をまとめているらしい。トキワで一騒動あったからな」
メビウスが答える。ハーテン教の大規模な叛乱がトキワであったのだ。ただ、幸いにして大将軍のカタストが叛乱を即座に叩き潰しており、私塾に被害があったとの報告は入っていない。
「皆様は昔からの友人なんですね。わたしはそんな友人もいないので、羨ましい限りです」
ミリオットたちが騒いでいると、ルナがぽつりと呟いた。メビウスが肩を竦める。
「何言ってんだ、お前はセリスの友人だろう。セリスの友人なら、おれたちの友人。そうだよな、『英雄』」
「その通りだな、『氷帝』。ちなみに、どんな子どもだったんだ?」
ミリオットが尋ねると、ルナは複雑な表情になった。
「わたしの子どもの頃ですか。わたしは人に話せるような過去はないんですよね」
「まあ、話したくない過去は、みんなあるからな。無理に言う必要はない。聞いて悪かったな」
ミリオットの言葉に、ルナが首を横に振る。
「いえ、ミリオットさん。気にしないでください」
「それより、ルナ。お前もおれたちみたいな二つ名、欲しいだろう?」
メビウスが会話に入ってくる。ルナは、困り果てた目でセリスを見つめていた。セリスが苦笑する。
「昔からこういうやつなんだ、許してやってくれ」
メビウスが肩を竦める。ルナがほっとしたようにセリスを見た後、ミリオットに向き直った。
「あ、すみません。話を逸らしてしまいましたね。それから、ミリオットさん」
「どうした?」
「近いうちに、全体の会議であなたに頼むことができると思います。その時は、よろしくお願いしますね」
「わかった」
ミリオットが頷く。メビウスが肩を叩いてきた。
「流石『英雄』だな。どこでも頼られている。ま、おれも『氷帝』として美技を見せてやるぜ」
「本当に、変わらないね」
半ば呆れるように、ジャンヌが呟いていた。
どこか、懐かしいような響きだった。風に乗り、ミシロの外から聞こえてくる。
何故かは判らない。だが、不思議と心が震えるのだ。
ここまでミリオットの琴線に触れるようなものはそうなかった。
そこで、ミリオットは顔を上げた。心当たりがあったのだ。
扉を開け、城門へと歩き出す。その響きは、言葉の形を取り始めた。
「氷帝」
徐々にその声は大きくなっていく。ミリオットは思わず苦笑した。
やはり、想像通りの言葉だったからだ。
「氷帝」
「氷帝」
まもなく、見覚えのある人物が街道を駆けてくるのが見えた。
「ミリオットじゃないか。元気していたか?」
『氷帝』メビウス・ビッケンバイン。短い金髪をした伊達男で、セリスやジャンヌと同じくバレー私塾の同期で『十傑』の一人である。
「お前の噂は聞いているぜ。『英雄』、良い二つ名じゃないか。いつかおれみたいに、お前を『英雄』と呼ぶかけ声を聞かせてくれよ」
メビウスが笑いかけてくる。指を鳴らした。再び、かけ声が聞こえてくる。
「氷帝」
「氷帝」
「勝つのは氷帝」
メビウスがまた指を鳴らす。かけ声が静まった。ミリオットもまた、満足そうに頷く。
「おれが『英雄』と呼ばれていることを知っているとは、流石だな」
「お前たちの噂は、ツーマイ殿の下にも届いていたからな。お前は女神に導かれている。まさにその通りだと思ったぜ」
「そして導かれてお前もここに来たわけだろう。面白いな、『氷帝』」
ミリオットがにやりと笑う。メビウスも不敵な笑みを返してきた。
「ああ。おれもお前に負けてはいられないぜ、『英雄』。『氷帝』ここにありと示してやるさ。せっかくここに将校として派遣されることになったわけだからな。セリスたちにも挨拶しに行こう。どこにいる?」
恐らく、セリスはミシロの市庁舎にいるはずだった。
今のミシロは太守がいない。代わりに、セリスが事実上の指導者となっている。
本来なら武官であるセリスが指導者となることは許されていないが、コトキ太守であるマッキンリーがうまく立ち回ったようだった。
二人で市庁舎へと向かう。メビウスはツーマイのもとで騎馬隊を率いていた。
ツーマイはバレーが大将軍を務めていた頃の副官である。更に遡れば、セリスやジャンヌの父親と共にバレー軍『四天王』の一人だった。
歩兵隊を指揮するツーマイは他の三人と比べると地味で目立たないことが多いが、確かな実績は残している。
バレーが年齢を理由に引退した後、将軍職についていたこともあった。本人が器ではないと辞退したようだったが、それでも優れた実力の持ち主であることに変わりない。
「最近はこんな調子だから行けていないと思うが、大学はどうだったんだ?」
「想像通りだ。語るほどのことはしていないな」
「残念だな。お前の魔術がどれほど真髄に近づいていたか、知りたかったが」
そう告げたメビウスが左右を探るように目を動かした。首を振る。
「すまんな、ミリオット。何か、嫌な気配を感じたんだ」
ミリオットには全く感じ取れなかった。ただ、いつもの気配が近くから感じられる。誰とは言わないが、恐らく爆球でミリオットを襲撃しようとしていたのだろう。
「なるほど」
「何がなるほどなんだ?」
「見てれば分かるさ」
ミリオットは事もなげに告げる。メビウスは納得したように頷いた。
「わかった、楽しみにしていよう」
「ミリオット君」
二人で進んでいると、黒い服にすっぽりと身を包んだ女性が目の前に現れていた。ファイだ。少し、不機嫌そうな顔をしている。
「隣にいる人は誰だい。嫌に仲が良いじゃないか」
「おれの同期だ」
「『氷帝』メビウス・ビッケンバインだ。『氷帝』と呼んでくれ」
メビウスがファイに笑いかける。ファイは、驚いたようにミリオットの後ろへと回り込んでいた。ミリオットは、ファイが見知らぬ人間との会話が極端に苦手なことを思い出した。そもそも、今のように他人に自分から話しかけること自体が珍しい。大学にいた頃も、ミリオットやアクセナ以外の人間と少し話しただけで額に玉のような汗が浮かぶのである。
いや、今も浮かんでいた。おまけに、見るからに暑そうな黒い服を着込んでいる。
メビウスはそんなファイとミリオットを交互に見比べている。納得したように頷いた。
「なるほど」
「なにが、なるほどなんだい」
ファイがミリオットの後ろから顔だけ出して尋ねている。その両手は、ミリオットの腕を掴んでいた。
「いやいや、先ほどの視線だよ。君はおれが羨ましいんだろう」
「わ、わたしがどうしてお前なんかを」
「わかる、わかるぜ」
メビウスは得心が言ったとばかりに頷いている。動揺しているのか、ファイの表情が傍目にも分かるほど赤くなっていた。
「羨ましいんだろう。このおれの、『氷帝』と呼ばれるかけ声が」
メビウスが指を鳴らす。
「氷帝」
「氷帝」
「氷帝」
地響きのように、声が伝わってくる。メビウスが再び指を鳴らした。かけ声が、ぴたりと止む。
三人の間を沈黙が包み込んだ。ファイが、呆れ果てたような表情でメビウスを見る。
「は?」
ファイの言葉は、気のせいかいつもより低い。ただ、メビウスはそんなファイの様子を全く気にしていないようで、大きく頷いていた。
「いやいや、そんな恥ずかしがらなくてもおれにはわかる、わかるぜ。お前も欲しいんだろう、お前だけのこのかけ声が」
メビウスが指を鳴らす。再び、地響きのようなかけ声が伝わってきた。
「そうか」
「つれない反応だな」
肩を竦めるメビウスの前で、ファイは右手の人差し指をあげた。橙色の球体が、その先に生まれる。
音を立てることなく、その球は爆発した。自慢げな表情で、ファイがメビウスを見る。
「どうだ」
「凄いじゃないか。ミリオット、お前の魔術の友人か」
感心したようにメビウスがミリオットを見る。
「ああ、そうだぞ。魔術の腕ではおれと双璧をなす存在だ」
「違う」
急に大きな声で、ファイが否定してきた。
「いいか、『氷帝』君。君の勝手な妄想でわたしとミリオット君を友人にしないでくれ。わたしと彼は永遠の好敵手。言わば水と油の関係だ。魔術の腕も、今は双璧だがいずれはわたしが上回ってみせる」
「つまり、お前とミリオットは仲が良いってことだろう」
「違う」
ファイは顔を真っ赤にしながら否定している。対してメビウスは、いつも通りの自然な表情だった。
「『氷帝』、こいつもセリスのところに連れて行っていいのか?」
「別に問題はないだろう。ところで、ミリオット」
「どうした?」
「この人、名前は?」
「ファイ・ラだ」
「なるほど、ファイか」
メビウスが頷く。ファイを見た。
「どうだ、ファイ。良ければおれが二つ名をつけようか。『氷帝』と『英雄』の友なんだ。君だけ二つ名がないのはもったいないだろう」
メビウスの言葉に、ファイが呆れたような表情になる。
「『氷帝』、止めておけ」
「どうした、『英雄』」
「そう言うものは、自らの手で掴み取るものだろう。誰かから貰うものではない」
「確かに、その通りだ」
ミリオットの言葉に、メビウスは大きく頷く。
「思えば、お前の『英雄』も、おれの『氷帝』も自らの手で掴んだ名だ。ファイが相応しい名を得るまで、静かに待つしかないな」
三人で仲良く話しながらミシロを歩く。やがて、市庁舎にたどり着いた。
「あ、ミリオットさん。隣にいるのはメビウスさんですね」
ルナだった。どうやら、リシア財団に務めていたころにメビウスと面識があるらしい。
「確かに、おれはメビウス・ビッケンバインだ。ただ、おれのことは『氷帝』と呼んでくれ」
「わかりました、『氷帝』さん」
真面目に答えるルナの前で、メビウスは満足そうに頷いている。
「おれは、どうすればいい?」
「しばらくは、セリスさんやジャンヌさんと共にミシロで騎馬隊を率いてください」
「わかった」
メビウスが頷いたとき、後ろからセリスとジャンヌがやってきた。
「あ、メビウス。久しぶり!」
ジャンヌが駆け寄ってくる。その声には、懐かしさがあった。
「久しぶりだな。セリス、ジャンヌ。それから、おれのことは『氷帝』と呼んでくれと言っていただろう」
「ああ、はいはい。『氷帝』ね、『氷帝』」
無我の境地にたどり着いたかのような声でジャンヌが言葉を返している。かつて、毎日のように見た光景だった。
「後は、ナビリアが揃えば同期はみんなここに来たことになるな」
メビウスが告げる。セリス、ミリオット、ジャンヌ、メビウス、そしてナビリア。この五人はバレー私塾の同級生だった。
「あの頃が懐かしいね。みんな無事で何よりだよ」
ジャンヌが告げる。セリスも笑みを見せた。
「命あっての物種っていうからね」
「そう言えば、懐かしい顔ぶれだな」
ミリオットも頷く。
「ナビリアちゃんはどうしているの?」
「あいつはバレー私塾をまとめているらしい。トキワで一騒動あったからな」
メビウスが答える。ハーテン教の大規模な叛乱がトキワであったのだ。ただ、幸いにして大将軍のカタストが叛乱を即座に叩き潰しており、私塾に被害があったとの報告は入っていない。
「皆様は昔からの友人なんですね。わたしはそんな友人もいないので、羨ましい限りです」
ミリオットたちが騒いでいると、ルナがぽつりと呟いた。メビウスが肩を竦める。
「何言ってんだ、お前はセリスの友人だろう。セリスの友人なら、おれたちの友人。そうだよな、『英雄』」
「その通りだな、『氷帝』。ちなみに、どんな子どもだったんだ?」
ミリオットが尋ねると、ルナは複雑な表情になった。
「わたしの子どもの頃ですか。わたしは人に話せるような過去はないんですよね」
「まあ、話したくない過去は、みんなあるからな。無理に言う必要はない。聞いて悪かったな」
ミリオットの言葉に、ルナが首を横に振る。
「いえ、ミリオットさん。気にしないでください」
「それより、ルナ。お前もおれたちみたいな二つ名、欲しいだろう?」
メビウスが会話に入ってくる。ルナは、困り果てた目でセリスを見つめていた。セリスが苦笑する。
「昔からこういうやつなんだ、許してやってくれ」
メビウスが肩を竦める。ルナがほっとしたようにセリスを見た後、ミリオットに向き直った。
「あ、すみません。話を逸らしてしまいましたね。それから、ミリオットさん」
「どうした?」
「近いうちに、全体の会議であなたに頼むことができると思います。その時は、よろしくお願いしますね」
「わかった」
ミリオットが頷く。メビウスが肩を叩いてきた。
「流石『英雄』だな。どこでも頼られている。ま、おれも『氷帝』として美技を見せてやるぜ」
「本当に、変わらないね」
半ば呆れるように、ジャンヌが呟いていた。
思考は、曖昧なものになりがちだった。
例外なのは、錬金術について考えているときで、思考にかかっていた霧が晴れるかのように様々なことを思いつく。
もともと、自分はそういう性格だったのかもしれない。アントニナは最近、自身を顧みてそう思うようになっていた。
アントニナが記憶を失った状態で発見されてから、ふた月が経っていた。最初の頃は自分が誰か分からず不安だらけだったが、最近は気にすることも少なくなっている。
それもやはり、もともとの性格なのだろう。錬金術やからくりなどにしか、興味が向かないのだ。
それに、過去を思い返すようなものはなに一つとして持っていない。おまけに、アントニナが発見されたのはコトキの街内だったが、コトキに住んでいたわけでもなさそうだった。
今、アントニナはヒワダにやってきている。コトキでのベルサリウスと名乗る男との出会いがきっかけだった。
もともと狩人だったベルサリウスは、狩りの最中に傭兵隊長のナルセスに助けられたらしい。そして、その恩を返すべく傭兵隊に協力し始めていた。
その中で、コトキは危険だとしてヒワダに移動するよう頼まれたのである。アントニナはすぐに頷いた。正直、錬金術の研究ができるなら場所はどこでも良かった。ベルサリウスを変に心配させるのも申し訳ないと思うくらいには仲良くなっていたこともある。
ベルサリウスの代わりとしてやってきたナルセスに連れられ、アントニナはヒワダにやってきた。そこで、一人の男と引き合わされた。歳は、五十をいくらか過ぎたくらいだろうか。ただ、その目はどこか少年めいたものを感じさせる。そして、どこか人を惹きつけるものがあった。
「おれは、ハーテンという」
そう告げた男は、アントニナから錬金術の話を聞くと、感心したように頷いていた。そして、アントニナに資金援助を約束したのである。その金で、お前が考えた機械を作ってみろ。後日、資金を持ってきた女がハーテンの伝言として伝えてきた。もちろん、最初からそのつもりである。
からくりとは異なる、戦闘用の機械。それこそが、アントニナの求めるものだった。ただ、完全に自動化した機械をすぐに作ることは難しい。そこで、アントニナはまず強化装甲を作ろうと考えた。中に入った人間がそれを操作し、任務を行う。機械巨人、とアントニナは名付けていた。
「隠密行動はできるのか?」
ハーテンの伝言を告げてきた女が尋ねてきた。赤い斑点がいくつかある黒い翼を持ったオルニスで、名をアトラクサと言った。数日に一度、アントニナの様子を見に来ている。監視のためだと言っていたが、アントニナは気にならなかった。むしろ、無表情ながら機械巨人について多くのことを尋ねてくるので、ベルサリウスやナルセスと比べても話し甲斐のある相手だった。
「見ての通り金属を多く使うので、難しいですね。ただ、機動力は並の人間より格段に速いので、不意打ちならできるかもしれません」
「相手が並の人間なら、だろうな」
アトラクサの言葉に、アントニナは苦笑する。確かに、ベルサリウスやナルセス相手に不意打ち出来る気はしなかった。
「誰がそれを動かすんだ?」
「今のところ、わたしですね」
アトラクサが眉を顰めた。アントニナがヒワダに来てから、ひと月ほどしてからのことである。
珍しいことだった。何しろ、アトラクサは表情を変えない。彼女も機械なのではないかとアントニナは何度か思ったことがある。
「それは危険だな。お前、戦いの経験はないだろう」
「でも、まだ試作の段階ですからね。何かあったときに対応できるのは、わたしだけだと思いますし」
機械巨人は、このひと月の間にできあがりつつあった。今は金属らしい輝きを持っているが、この後赤く塗装する。武器は銃や大剣などを取り付ける予定であるが、なるべく操作が簡単なものにしようと決意していた。難しい武器は、アントニナが操作できない。
「他の人に、覚えさせるようにしておけ」
「考えておきます」
アントニナが頷く。気づけば、アトラクサはいなくなっていた。アトラクサとの会話は、いつもこんな調子である。
また、日が過ぎた。いつもの様に作業していると、ハーテンが工房に入ってきた。ハーテン教の教祖らしいが、身軽である。
「かなり完成してきたな」
機械巨人を見て、ハーテンが告げる。ちょうど、左腕の装甲を作り直している時だった。目をハーテンには向けず、アントニナは答えた。
「あくまで、試作品ですけどね。この後、装甲を赤く塗ります」
「赤くするのか、格好いいな。角なんかも生やしてみたらどうだ?」
「角、ですか?」
思わず、アントニナはハーテンを見た。その表情は、真面目そのものである。
「ああ、角だ」
ハーテンが頷いていた。
「赤くて角が生えている方が強そうに見えるだろう。三倍の速さで動き出しそうじゃないか」
「そうですかね」
真面目な表情をしているハーテンだが、その目の奥は輝いている、まるで、少年のようだった。機械巨人に関する話をいくつかすると、満足したように帰っていく。夕方に、また来客があった。アトラクサだ。
「試作品、あと数日で仕上げられるか?」
「仕上げるだけなら」
「そいつを一度、実戦で使いたい」
アトラクサが告げる。相変わらず、無表情だった。
「試しの時間が足りないので、いくつかはぶっつけ本番になると思いますが」
アントニナが答えると、アトラクサが頷く。
「結局、お前以外に乗り手はいないのか?」
「現状では」
「次までの、課題の一つだな。相手は強い。無理をするより、生き残ることを優先して戦ってくれ。戦っていく間に、他の課題も見えてくると思う」
「わかりました」
アトラクサは再び頷くと、踵を返した。
「アトラクサさん」
「どうした?」
アントニナの言葉に、アトラクサが振り向く。無表情のままだ。
「どうして、アトラクサさんはわたしに親切にしてくれるんですか?」
「親切にしているつもりはない」
「でも、ベルサリウスやナルセスさんと話した限りだと、わたしと話すときみたいに色々なことは話さないみたいじゃないですか」
たまたま、ベルサリウスたちと再会することがあった。そこで、アトラクサの話になったのだ。ベルサリウスはほとんどアトラクサが人と話しているのを見たことがないと驚いていたし、ナルセスも少し意外そうな表情をしていた。
「わたしの役目は、監視だからな。お前がわたしを不快に思いすぎても、逆に差し障りがあるだろう」
「でも、大体の監視ってそんなものだと思います」
アントニナは、アトラクサが次の言葉を話すのを黙って待っていた。アトラクサを見ていると、やがて諦めたようにアトラクサが口を開いた。ただ、表情は変わらないので、本当に諦めたのかは分からない。
「わたしも、昔の記憶はないんだ」
「そうなんですか?」
思わず聞き返す。アトラクサは頷いた。
「五年前、わたしはハーテンに拾われた。路上に倒れていたらしい。それ以前のわたしが、どこでなにをしていたか。未だに思い出せないのだ。人より武術の才能はあるから、おそらく戦いに関することをしていたのだろうとは思うがな」
「そうなんですね」
アントニナはそれ以上、何も言えなかった。ただ、アトラクサにこれまでに感じていた以上の親近感を自分が持っていると、認めないわけにはいかなかった。
「さて、わたしは戻る。いつもより、長く話したな」
アトラクサが去って行く。もう少し、話を聞きたかった。ただ、どうやってアトラクサを引き留めればいいか、アントニナには分からなかった。
「早く、完成させないと」
アトラクサが去り、しばらくしてからようやくアントニナは顔を上げた。また、話す機会はあるだろう。
それまで、二人が生きていればだが。
例外なのは、錬金術について考えているときで、思考にかかっていた霧が晴れるかのように様々なことを思いつく。
もともと、自分はそういう性格だったのかもしれない。アントニナは最近、自身を顧みてそう思うようになっていた。
アントニナが記憶を失った状態で発見されてから、ふた月が経っていた。最初の頃は自分が誰か分からず不安だらけだったが、最近は気にすることも少なくなっている。
それもやはり、もともとの性格なのだろう。錬金術やからくりなどにしか、興味が向かないのだ。
それに、過去を思い返すようなものはなに一つとして持っていない。おまけに、アントニナが発見されたのはコトキの街内だったが、コトキに住んでいたわけでもなさそうだった。
今、アントニナはヒワダにやってきている。コトキでのベルサリウスと名乗る男との出会いがきっかけだった。
もともと狩人だったベルサリウスは、狩りの最中に傭兵隊長のナルセスに助けられたらしい。そして、その恩を返すべく傭兵隊に協力し始めていた。
その中で、コトキは危険だとしてヒワダに移動するよう頼まれたのである。アントニナはすぐに頷いた。正直、錬金術の研究ができるなら場所はどこでも良かった。ベルサリウスを変に心配させるのも申し訳ないと思うくらいには仲良くなっていたこともある。
ベルサリウスの代わりとしてやってきたナルセスに連れられ、アントニナはヒワダにやってきた。そこで、一人の男と引き合わされた。歳は、五十をいくらか過ぎたくらいだろうか。ただ、その目はどこか少年めいたものを感じさせる。そして、どこか人を惹きつけるものがあった。
「おれは、ハーテンという」
そう告げた男は、アントニナから錬金術の話を聞くと、感心したように頷いていた。そして、アントニナに資金援助を約束したのである。その金で、お前が考えた機械を作ってみろ。後日、資金を持ってきた女がハーテンの伝言として伝えてきた。もちろん、最初からそのつもりである。
からくりとは異なる、戦闘用の機械。それこそが、アントニナの求めるものだった。ただ、完全に自動化した機械をすぐに作ることは難しい。そこで、アントニナはまず強化装甲を作ろうと考えた。中に入った人間がそれを操作し、任務を行う。機械巨人、とアントニナは名付けていた。
「隠密行動はできるのか?」
ハーテンの伝言を告げてきた女が尋ねてきた。赤い斑点がいくつかある黒い翼を持ったオルニスで、名をアトラクサと言った。数日に一度、アントニナの様子を見に来ている。監視のためだと言っていたが、アントニナは気にならなかった。むしろ、無表情ながら機械巨人について多くのことを尋ねてくるので、ベルサリウスやナルセスと比べても話し甲斐のある相手だった。
「見ての通り金属を多く使うので、難しいですね。ただ、機動力は並の人間より格段に速いので、不意打ちならできるかもしれません」
「相手が並の人間なら、だろうな」
アトラクサの言葉に、アントニナは苦笑する。確かに、ベルサリウスやナルセス相手に不意打ち出来る気はしなかった。
「誰がそれを動かすんだ?」
「今のところ、わたしですね」
アトラクサが眉を顰めた。アントニナがヒワダに来てから、ひと月ほどしてからのことである。
珍しいことだった。何しろ、アトラクサは表情を変えない。彼女も機械なのではないかとアントニナは何度か思ったことがある。
「それは危険だな。お前、戦いの経験はないだろう」
「でも、まだ試作の段階ですからね。何かあったときに対応できるのは、わたしだけだと思いますし」
機械巨人は、このひと月の間にできあがりつつあった。今は金属らしい輝きを持っているが、この後赤く塗装する。武器は銃や大剣などを取り付ける予定であるが、なるべく操作が簡単なものにしようと決意していた。難しい武器は、アントニナが操作できない。
「他の人に、覚えさせるようにしておけ」
「考えておきます」
アントニナが頷く。気づけば、アトラクサはいなくなっていた。アトラクサとの会話は、いつもこんな調子である。
また、日が過ぎた。いつもの様に作業していると、ハーテンが工房に入ってきた。ハーテン教の教祖らしいが、身軽である。
「かなり完成してきたな」
機械巨人を見て、ハーテンが告げる。ちょうど、左腕の装甲を作り直している時だった。目をハーテンには向けず、アントニナは答えた。
「あくまで、試作品ですけどね。この後、装甲を赤く塗ります」
「赤くするのか、格好いいな。角なんかも生やしてみたらどうだ?」
「角、ですか?」
思わず、アントニナはハーテンを見た。その表情は、真面目そのものである。
「ああ、角だ」
ハーテンが頷いていた。
「赤くて角が生えている方が強そうに見えるだろう。三倍の速さで動き出しそうじゃないか」
「そうですかね」
真面目な表情をしているハーテンだが、その目の奥は輝いている、まるで、少年のようだった。機械巨人に関する話をいくつかすると、満足したように帰っていく。夕方に、また来客があった。アトラクサだ。
「試作品、あと数日で仕上げられるか?」
「仕上げるだけなら」
「そいつを一度、実戦で使いたい」
アトラクサが告げる。相変わらず、無表情だった。
「試しの時間が足りないので、いくつかはぶっつけ本番になると思いますが」
アントニナが答えると、アトラクサが頷く。
「結局、お前以外に乗り手はいないのか?」
「現状では」
「次までの、課題の一つだな。相手は強い。無理をするより、生き残ることを優先して戦ってくれ。戦っていく間に、他の課題も見えてくると思う」
「わかりました」
アトラクサは再び頷くと、踵を返した。
「アトラクサさん」
「どうした?」
アントニナの言葉に、アトラクサが振り向く。無表情のままだ。
「どうして、アトラクサさんはわたしに親切にしてくれるんですか?」
「親切にしているつもりはない」
「でも、ベルサリウスやナルセスさんと話した限りだと、わたしと話すときみたいに色々なことは話さないみたいじゃないですか」
たまたま、ベルサリウスたちと再会することがあった。そこで、アトラクサの話になったのだ。ベルサリウスはほとんどアトラクサが人と話しているのを見たことがないと驚いていたし、ナルセスも少し意外そうな表情をしていた。
「わたしの役目は、監視だからな。お前がわたしを不快に思いすぎても、逆に差し障りがあるだろう」
「でも、大体の監視ってそんなものだと思います」
アントニナは、アトラクサが次の言葉を話すのを黙って待っていた。アトラクサを見ていると、やがて諦めたようにアトラクサが口を開いた。ただ、表情は変わらないので、本当に諦めたのかは分からない。
「わたしも、昔の記憶はないんだ」
「そうなんですか?」
思わず聞き返す。アトラクサは頷いた。
「五年前、わたしはハーテンに拾われた。路上に倒れていたらしい。それ以前のわたしが、どこでなにをしていたか。未だに思い出せないのだ。人より武術の才能はあるから、おそらく戦いに関することをしていたのだろうとは思うがな」
「そうなんですね」
アントニナはそれ以上、何も言えなかった。ただ、アトラクサにこれまでに感じていた以上の親近感を自分が持っていると、認めないわけにはいかなかった。
「さて、わたしは戻る。いつもより、長く話したな」
アトラクサが去って行く。もう少し、話を聞きたかった。ただ、どうやってアトラクサを引き留めればいいか、アントニナには分からなかった。
「早く、完成させないと」
アトラクサが去り、しばらくしてからようやくアントニナは顔を上げた。また、話す機会はあるだろう。
それまで、二人が生きていればだが。
ハーテンが、ヒワダを出た。ハーテン教徒本隊と共に、ゆっくりとハジツゲに向かっている。
影の軍からもたらされたこの知らせを受け、セリスたちは急遽会議を開くことになった。
ミシロからはセリス、ミリオット、フルール、ジャンヌ、ルナ、ラーチェル、セイン、そしてメビウスが、コトキからはマッキンリーとアニムスが、デムーラン城塞からはレイとフェミナが出席している。
本来ならばフェルグスも会議に参加する予定だったが、欠席していた。リシア財団に協力しているアシェラとその副官であるエマがやってくるのだから、誰かが残っていなければいけない。フェルグスはそう言っていたが、他の人間でも対応できなくはない。
フェルグスとアシェラの間に何かあったのかもしれないと邪推したかったが、女性のような顔立ちであってもアシェラは男である。フェルグスも、特に彼の到着が待ち遠しいと言った様子でもなかった。
「さて、会議でも始めるか」
マッキンリーの言葉で、会議が始まる。最初に立ち上がったのはラーチェルだった。その表情は、セリス軍の置かれている状況とは異なり誇らしげである。
「まず、現状を整理しますわ。先日、カタスト大将軍とハーテン教徒本隊との間で戦いが行われましたの。結果としましては、わたくしたちのクロエの活躍もありまして、カタスト大将軍の勝利に終わりましたの」
大好きなクロエが活躍して、ラーチェルからすれば嬉しかったのだろう。その声色にセインが苦笑していた。ラーチェルはその様子を意に介さず言葉を続ける。
「その結果、わたくしたちの予想通りハーテン教徒本隊は針路を南へと変更しましたわ。やはり、このホウエンの地を拠点のするつもりですの」
「幸い、信徒の軍と共に行動しているので、今のところの速度はそこまででもありません。ただ、いつ急に大きく動こうとするかは読めないので、いつでも臨戦態勢になれるようにしておくべきでしょう」
言葉を続けたのはルナだった。穏やかで丁寧な口調だが、その瞳からは意志の強さが感じられる。
「それから、資金のことです。現状、わたしたちがここで活動するための資金はリシア財団の資金から捻出されています。現在は問題ないのですが、今後も現状と同じように国からの支援が得られないようですと資金が枯渇する可能性が出てきます」
「いくらリシア財団が莫大な資金を持っているとは言え、財産は有限だからな」
レイが呟く。アニムスも頷いた。
「だとすれば、新しい稼ぎ方を考える必要があるな」
「なあ、セリス」
レイが真面目な表情でセリスを見た。
「何かいい考えでもあるのか?」
「馬の訓練のついでに、馬の速さを競わせ、それを賭けとして成り立たせるのはどうだ?」
「それはちょっと。馬に変な癖がつきそうだし」
セリスは首を振って断る。ジャンヌが面白そうな顔をしていたが、それも見なかったことにした。
「いい考えだと思うんだけどな。それに、他に考えもあるわけじゃないし」
「どうだろうね、『ゼロ』君。ここでわざわざ話すんだから、もうすでに頭の中で考えていることがあるのかもしれないよ」
「その通りです」
フェミナの言葉に、ルナが頷いた。
「ただ、そのためには何人かの人の力を借りる必要が出てきてしまいますが。ラーチェルさん、事情はわたしから告げてしまっても大丈夫ですか?」
「もちろんですわ。ルナさんはリシア財団の役員ですしね。わたくしに気兼ねせず話してくださる?」
「わかりました」
ルナが頷く。ラーチェルとルナは役割を分担していると聞いている。ラーチェルが軍務、ルナが民政だ。ただ、今回のように両方が入り混じる場合は微妙な状態になってしまうのだろう。
「リシア財団の会長でしたリシアさんは、万一に備え資金の一部をズイの遺跡に秘匿しました」
「隠すのが好きだな、財団は」
アニムスが苦笑している。確かに、シナト村でもリシア財団は財産を秘匿していた。
「安全に資金を置ける場所も、なかなかないですからね」
ルナも苦笑しながら答えると、皆を見渡した。
「その資金は、今のわたしたちの二年分の活動資金になります」
「それほどのものなのか」
マッキンリーが唸る。
「しかし、それはリシア財団で勝手に取りに行けないのか」
「難しいですね。まず、道中です。リシアさんとレヴィンさんが預けた遺跡は入る度に道中の構造が変わる特殊な遺跡になっています。このため、仕掛けられている罠などが予想できません。それから、古代の遺跡を守る番人たちの強さです。ジャガーノートと呼ばれる巨大な機械を中心に、一筋縄ではいかないような強力な敵が待ち構えています」
「なるほど、ジャガーノートか。『ゼロ』」
アニムスが笑ってレイを見る。レイも頷いた。
「ああ。射撃が鍵なんだろ。任せてくれ」
「だから、セリス殿たちの力を?」
二人のやり取りから何かを察したらしい。マッキンリーがルナを見る。
「それだけではありません」
ルナが首を横に振った。
「遺跡の最奥には特殊な合言葉と特定の人間でなければ開けられない扉が存在します。実は、かつてわたしやセインさんたちで最奥まで行ったのですが、このために引き返せざるを得なくなってしまいました」
「合言葉は分かっている。レヴィンがおれたちに教えてくれた」
セインが告げる。
「ただ、特定の人物がな」
「それは、誰なんだ?」
「決まっているでしょう。夜空に輝く星々が教えてくれているじゃない」
背後から、声が聞こえてきた。振りかえると、会議室の扉が開き、コダマとベオウルフが入ってきている。コダマが、真っ直ぐにミリオットを見た
「地上の煌めき、すなわち『英雄』よ」
「つまり、ミリオットだ」
ベオウルフが即座に通訳する。マッキンリーは合点が言ったように頷いた。
「確かに、ミリオットはリシア殿の息子だからな。息子だけに通じる何かを残していても不思議ではない」
「なので、ミリオットさん」
ルナが、ミリオットを見る。
「あなたの力が必要なのです。それからセリスさんたちも。道中のことを考えると共に来ていただけると助かります」
「共に?」
「わたしも行きますから。前線に立って剣を振るうことは得意ではありませんが、主に防御や支援の魔術を使うことができます」
事もなげにルナが告げる。セリスを見た。
「セリスさん、よろしいですか?」
「ああ」
セリスが頷くと、それで決まりだった。セリスたち五人にルナを加えた六人が向かうことになる。
「ルナさん、あなたには期待している」
アニムスが告げる。セリスが皆を見渡した。
「出発する前に、装備の問題があるからここで一度揃えようか」
「では、今日は準備にあてて明日にでも出発しましょう」
ルナが告げると、マッキンリーが頷いた。
「まあ、二三日でハーテン教徒がやってくることはないと思うが、早めに戻って来てくれ」
それで、会議は終わりだった。
影の軍からもたらされたこの知らせを受け、セリスたちは急遽会議を開くことになった。
ミシロからはセリス、ミリオット、フルール、ジャンヌ、ルナ、ラーチェル、セイン、そしてメビウスが、コトキからはマッキンリーとアニムスが、デムーラン城塞からはレイとフェミナが出席している。
本来ならばフェルグスも会議に参加する予定だったが、欠席していた。リシア財団に協力しているアシェラとその副官であるエマがやってくるのだから、誰かが残っていなければいけない。フェルグスはそう言っていたが、他の人間でも対応できなくはない。
フェルグスとアシェラの間に何かあったのかもしれないと邪推したかったが、女性のような顔立ちであってもアシェラは男である。フェルグスも、特に彼の到着が待ち遠しいと言った様子でもなかった。
「さて、会議でも始めるか」
マッキンリーの言葉で、会議が始まる。最初に立ち上がったのはラーチェルだった。その表情は、セリス軍の置かれている状況とは異なり誇らしげである。
「まず、現状を整理しますわ。先日、カタスト大将軍とハーテン教徒本隊との間で戦いが行われましたの。結果としましては、わたくしたちのクロエの活躍もありまして、カタスト大将軍の勝利に終わりましたの」
大好きなクロエが活躍して、ラーチェルからすれば嬉しかったのだろう。その声色にセインが苦笑していた。ラーチェルはその様子を意に介さず言葉を続ける。
「その結果、わたくしたちの予想通りハーテン教徒本隊は針路を南へと変更しましたわ。やはり、このホウエンの地を拠点のするつもりですの」
「幸い、信徒の軍と共に行動しているので、今のところの速度はそこまででもありません。ただ、いつ急に大きく動こうとするかは読めないので、いつでも臨戦態勢になれるようにしておくべきでしょう」
言葉を続けたのはルナだった。穏やかで丁寧な口調だが、その瞳からは意志の強さが感じられる。
「それから、資金のことです。現状、わたしたちがここで活動するための資金はリシア財団の資金から捻出されています。現在は問題ないのですが、今後も現状と同じように国からの支援が得られないようですと資金が枯渇する可能性が出てきます」
「いくらリシア財団が莫大な資金を持っているとは言え、財産は有限だからな」
レイが呟く。アニムスも頷いた。
「だとすれば、新しい稼ぎ方を考える必要があるな」
「なあ、セリス」
レイが真面目な表情でセリスを見た。
「何かいい考えでもあるのか?」
「馬の訓練のついでに、馬の速さを競わせ、それを賭けとして成り立たせるのはどうだ?」
「それはちょっと。馬に変な癖がつきそうだし」
セリスは首を振って断る。ジャンヌが面白そうな顔をしていたが、それも見なかったことにした。
「いい考えだと思うんだけどな。それに、他に考えもあるわけじゃないし」
「どうだろうね、『ゼロ』君。ここでわざわざ話すんだから、もうすでに頭の中で考えていることがあるのかもしれないよ」
「その通りです」
フェミナの言葉に、ルナが頷いた。
「ただ、そのためには何人かの人の力を借りる必要が出てきてしまいますが。ラーチェルさん、事情はわたしから告げてしまっても大丈夫ですか?」
「もちろんですわ。ルナさんはリシア財団の役員ですしね。わたくしに気兼ねせず話してくださる?」
「わかりました」
ルナが頷く。ラーチェルとルナは役割を分担していると聞いている。ラーチェルが軍務、ルナが民政だ。ただ、今回のように両方が入り混じる場合は微妙な状態になってしまうのだろう。
「リシア財団の会長でしたリシアさんは、万一に備え資金の一部をズイの遺跡に秘匿しました」
「隠すのが好きだな、財団は」
アニムスが苦笑している。確かに、シナト村でもリシア財団は財産を秘匿していた。
「安全に資金を置ける場所も、なかなかないですからね」
ルナも苦笑しながら答えると、皆を見渡した。
「その資金は、今のわたしたちの二年分の活動資金になります」
「それほどのものなのか」
マッキンリーが唸る。
「しかし、それはリシア財団で勝手に取りに行けないのか」
「難しいですね。まず、道中です。リシアさんとレヴィンさんが預けた遺跡は入る度に道中の構造が変わる特殊な遺跡になっています。このため、仕掛けられている罠などが予想できません。それから、古代の遺跡を守る番人たちの強さです。ジャガーノートと呼ばれる巨大な機械を中心に、一筋縄ではいかないような強力な敵が待ち構えています」
「なるほど、ジャガーノートか。『ゼロ』」
アニムスが笑ってレイを見る。レイも頷いた。
「ああ。射撃が鍵なんだろ。任せてくれ」
「だから、セリス殿たちの力を?」
二人のやり取りから何かを察したらしい。マッキンリーがルナを見る。
「それだけではありません」
ルナが首を横に振った。
「遺跡の最奥には特殊な合言葉と特定の人間でなければ開けられない扉が存在します。実は、かつてわたしやセインさんたちで最奥まで行ったのですが、このために引き返せざるを得なくなってしまいました」
「合言葉は分かっている。レヴィンがおれたちに教えてくれた」
セインが告げる。
「ただ、特定の人物がな」
「それは、誰なんだ?」
「決まっているでしょう。夜空に輝く星々が教えてくれているじゃない」
背後から、声が聞こえてきた。振りかえると、会議室の扉が開き、コダマとベオウルフが入ってきている。コダマが、真っ直ぐにミリオットを見た
「地上の煌めき、すなわち『英雄』よ」
「つまり、ミリオットだ」
ベオウルフが即座に通訳する。マッキンリーは合点が言ったように頷いた。
「確かに、ミリオットはリシア殿の息子だからな。息子だけに通じる何かを残していても不思議ではない」
「なので、ミリオットさん」
ルナが、ミリオットを見る。
「あなたの力が必要なのです。それからセリスさんたちも。道中のことを考えると共に来ていただけると助かります」
「共に?」
「わたしも行きますから。前線に立って剣を振るうことは得意ではありませんが、主に防御や支援の魔術を使うことができます」
事もなげにルナが告げる。セリスを見た。
「セリスさん、よろしいですか?」
「ああ」
セリスが頷くと、それで決まりだった。セリスたち五人にルナを加えた六人が向かうことになる。
「ルナさん、あなたには期待している」
アニムスが告げる。セリスが皆を見渡した。
「出発する前に、装備の問題があるからここで一度揃えようか」
「では、今日は準備にあてて明日にでも出発しましょう」
ルナが告げると、マッキンリーが頷いた。
「まあ、二三日でハーテン教徒がやってくることはないと思うが、早めに戻って来てくれ」
それで、会議は終わりだった。
琥珀色の瞳が、燃えていた。
それが怒りによるものだということを、ミリオットは知っている。ちょうど、ミリオットがセリスと共に遺跡探索に必要な消耗品の補充へと向かおうとしていたところだった。目の前で、ファイが怒りをぶつけている。相手は、アニムスだった。
「まあまあ、落ち着いてくれ。今回我々が行くところは、命のやり取りをする現場だ。それは違うだろう。ほら、そこにミリオット君もいる。今、彼に慰めてもらえばいい」
「慰めてもらうだと。わたしとミリオットはそんな関係ではない。どちらかと言えば、水と油で」
「わかった、わかった。そんな大声でがなり立てないでくれ。それからミリオット、助けてくれ。この若さにやられそうだ」
アニムスがミリオットを見る。
「どうした?」
ミリオットが尋ねる。胸の前で腕を組んだファイが、ミリオットを見てきた。
「簡単なことだ。この男はわたしが、実力不足だと言いたいんだよ。でなければ、君たちが行こうとする遺跡探索にわたしを連れていかない理由がない。爆破術が専門とはいえ、わたしが他の魔術を理解していることも知っているだろう。遺跡探索に伴わせてくれれば、必ず役に立つだろうに。ミリオット君、この男を説得してくれ」
ミリオットは思わず隣にいるセリスを見た。セリスは困った顔をしている。自分も同じような表情をしているはずだ。ただ、アニムスとてファイの実力を知らないはずがない。軍人であるがゆえに、アニムスはセリス軍やリシア財団に加わっていないファイを巻き込むべきではないと考えているのだろう。
ただ、そう言った斟酌が全く通用しない人間が、ファイだった。
「ちょっと待ってくれ、ファイ」
更に何か喋ろうとするファイをミリオットが制する。睨み付けるような目で、ファイがミリオットを見てきた。
「今回行くところに関しては、おれの両親が関わっているらしい。だから、おれは行かないといけない」
「でも、わたしが行ってはいけない理由にはならないだろう」
確かに、その通りではある。ただ、軍とも財団とも正式な関係がないファイを連れて行くことに抵抗を示す人間は多そうだった。
「まあ、おれとしては連れて行ってもいいとは思うが」
「だがな」
アニムスが何かを言いかけた時だった。扉が開き、先の部屋からレイとフェミナが顔を出した。アニムスもそれに気づいたらしい。振り返って、レイたちを見る。
「おお、ちょうどいいところに。『ゼロ』、フェミナさん」
「どうしたんだ?」
レイが尋ねてくる。アニムスが嘆息した。
「見ての通りだよ。この賢者様が遺跡について行きたいってね。軍の任務だから軍人じゃない人は駄目だって言っているんだけど、なかなか聞いてくれなくて」
「なるほどね」
フェミナが頷く。
「ただ、アニムス君の言葉にも一理あるんだけど、遺跡の探索は軍人の方が勝手が分からなかったりするしね。相手は兵じゃなくて昔の機械や魔獣だからさ。そう言った知識があるなら、いてくれると役に立つかもよ」
「そうですかね」
アニムスは頷いてこそいるが、納得はしていなさそうだった。半信半疑と言った様子でファイを見る。ミリオットは口を開いた。
「ファイ、君の得意なことは何だ?」
「そんな当たり前のことを聞くな、爆破術に決まっているだろう」
ファイの自慢げな表情に、ミリオットは頭を抱えたくなった。ただ、そうしていても事態は悪化するだけだろう。ミリオットは再び口を開く。
「そうじゃなくてだ。今回行く場所に、どういった技術があれば助かると思う?」
「一般論でいいなら、遺跡探索の技術かな。罠を見つけたり、知らない魔獣や機械に関する知識を持っていたり、隠された薬品や武具がどんなものであるかを見抜く力だったり。色々必要なものはあるよ」
ファイの代わりに答えたのは、フェミナだった。ミリオットはフェミナに礼を告げると、ファイを見る。
「君はタマムシ大学で魔術を学んでいただろう。古代の魔術に関する知識もそこで培ったはずだ。例えば、魔術の罠なんかが遺跡には仕掛けられていると聞く。そう言った魔術を探知し、得意の爆破術で破壊すればいい」
「確かに」
ミリオットの言葉に、何故かファイが納得していた。その後ろで、レイとアニムスが雑談に興じている。
「ちなみに、アニムスさんは何ができたっけ?」
「進む、倒す、進む。三つもできるぞ。『ゼロ』」
「今、同じ言葉を二回言わなかった?」
「最初の進むと次の進むは違う進むなんです」
「それにしてもアニムスさん。遺跡探索に必要な技能を持っているのがおれしかいない。特に、罠の探索が出来る人間がおれしかいないのは不味いんじゃないかな」
「つまり」
アニムスが急に真面目な表情になり、レイを見た。その肩に、手を乗せる。重々しい表情で告げた。
「『ゼロ』、お前に負担を強いることになるな」
「違う、そうじゃない」
レイが思わずと言った表情で突っ込みを入れていた。フェミナがにやにや笑っている。
「あら、残念ね。せっかくの格好いいところ、見せる相手がいないじゃない」
「フェミナさん。あなたもそうじゃない」
レイが頭を抱えている。セリスはと言えば、困惑した表情を浮かべているばかりだった。気を取り直したらしく、レイが皆を見る。
「ただ、魔術的なものが来てしまったら、おれもお手上げだよ」
「馬鹿野郎、おふくろさんに貰ったその頑丈な体は何のためにあるんだ?」
勢いの良いアニムスの発言に思わず皆が笑ってしまう。レイも苦笑しながら口を開いていた。
「あの、アニムスさん。遺跡の罠は死に至るものもあるんだ」
「大丈夫、お前は一般人じゃない。軍人だ」
任務でレイが死ぬ分には問題ない、言外にそう告げられているようにミリオットには感じられた。
「いや」
「でも、おれは嫌だし飲めないぞ。おれたちは一般人じゃないが、この子は一般人だ。おれたちと行動している最中に何かあっても責任が取れない」
「まあ、フルールの件もあるから、アニムスさんが頑なになるのも分かるよ。分かるけど、やはり魔術の罠に関する知識をおれたちが持ち合わせていない以上、魔術のことに詳しい人間を連れて行けるなら行きたい。それだけで皆が生き残れる可能性が大きく上がるんだ」
「いいや、それは違う。それで全滅するのがおれたちだけならただの犠牲だ。でも、無関係なこの子を殺したら、それはこの国の罪として永遠に残るんだ。極論、この子を巻き込むくらいなら、おれたちだけで死ぬべきなんだ。それが、軍人としての責務だろう」
「理屈は分かるが」
「リシア財団の任務として、考えることはできませんか?」
いつの間にか、ルナまでもが近くにやって来ていた。よほど、大きな声で話し合っていたらしい。
アニムスはしばし天井を眺めていたが、やがて首を捻りながらため息をついた。
「了解しました。ファイちゃん、よろしく頼むよ」
アニムスの言葉が想定外だったのか、ファイは一瞬呆けたような表情をした。その表情が、見る間に喜色が浮かんでいく。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
いつものファイからすると、信じられないくらい丁寧な仕草で頭を下げていた。
「頼りにしてるよ。なんせ、ここの軍人は前進しか選択肢がないからね」
「そうなんだよなあ」
アニムスの言葉に、セリスが思わず同意している。
「任せてくれ。そうと決まれば、早速準備だな。ミリオット君、手伝ってくれ」
ミリオットの腕を、ファイがしっかり掴んできた。有無を言わせぬ口調で、引っ張り始める。
「あ、手は繋ぐんだ」
思わずと言った口調で、アニムスが呟いていた。
それが怒りによるものだということを、ミリオットは知っている。ちょうど、ミリオットがセリスと共に遺跡探索に必要な消耗品の補充へと向かおうとしていたところだった。目の前で、ファイが怒りをぶつけている。相手は、アニムスだった。
「まあまあ、落ち着いてくれ。今回我々が行くところは、命のやり取りをする現場だ。それは違うだろう。ほら、そこにミリオット君もいる。今、彼に慰めてもらえばいい」
「慰めてもらうだと。わたしとミリオットはそんな関係ではない。どちらかと言えば、水と油で」
「わかった、わかった。そんな大声でがなり立てないでくれ。それからミリオット、助けてくれ。この若さにやられそうだ」
アニムスがミリオットを見る。
「どうした?」
ミリオットが尋ねる。胸の前で腕を組んだファイが、ミリオットを見てきた。
「簡単なことだ。この男はわたしが、実力不足だと言いたいんだよ。でなければ、君たちが行こうとする遺跡探索にわたしを連れていかない理由がない。爆破術が専門とはいえ、わたしが他の魔術を理解していることも知っているだろう。遺跡探索に伴わせてくれれば、必ず役に立つだろうに。ミリオット君、この男を説得してくれ」
ミリオットは思わず隣にいるセリスを見た。セリスは困った顔をしている。自分も同じような表情をしているはずだ。ただ、アニムスとてファイの実力を知らないはずがない。軍人であるがゆえに、アニムスはセリス軍やリシア財団に加わっていないファイを巻き込むべきではないと考えているのだろう。
ただ、そう言った斟酌が全く通用しない人間が、ファイだった。
「ちょっと待ってくれ、ファイ」
更に何か喋ろうとするファイをミリオットが制する。睨み付けるような目で、ファイがミリオットを見てきた。
「今回行くところに関しては、おれの両親が関わっているらしい。だから、おれは行かないといけない」
「でも、わたしが行ってはいけない理由にはならないだろう」
確かに、その通りではある。ただ、軍とも財団とも正式な関係がないファイを連れて行くことに抵抗を示す人間は多そうだった。
「まあ、おれとしては連れて行ってもいいとは思うが」
「だがな」
アニムスが何かを言いかけた時だった。扉が開き、先の部屋からレイとフェミナが顔を出した。アニムスもそれに気づいたらしい。振り返って、レイたちを見る。
「おお、ちょうどいいところに。『ゼロ』、フェミナさん」
「どうしたんだ?」
レイが尋ねてくる。アニムスが嘆息した。
「見ての通りだよ。この賢者様が遺跡について行きたいってね。軍の任務だから軍人じゃない人は駄目だって言っているんだけど、なかなか聞いてくれなくて」
「なるほどね」
フェミナが頷く。
「ただ、アニムス君の言葉にも一理あるんだけど、遺跡の探索は軍人の方が勝手が分からなかったりするしね。相手は兵じゃなくて昔の機械や魔獣だからさ。そう言った知識があるなら、いてくれると役に立つかもよ」
「そうですかね」
アニムスは頷いてこそいるが、納得はしていなさそうだった。半信半疑と言った様子でファイを見る。ミリオットは口を開いた。
「ファイ、君の得意なことは何だ?」
「そんな当たり前のことを聞くな、爆破術に決まっているだろう」
ファイの自慢げな表情に、ミリオットは頭を抱えたくなった。ただ、そうしていても事態は悪化するだけだろう。ミリオットは再び口を開く。
「そうじゃなくてだ。今回行く場所に、どういった技術があれば助かると思う?」
「一般論でいいなら、遺跡探索の技術かな。罠を見つけたり、知らない魔獣や機械に関する知識を持っていたり、隠された薬品や武具がどんなものであるかを見抜く力だったり。色々必要なものはあるよ」
ファイの代わりに答えたのは、フェミナだった。ミリオットはフェミナに礼を告げると、ファイを見る。
「君はタマムシ大学で魔術を学んでいただろう。古代の魔術に関する知識もそこで培ったはずだ。例えば、魔術の罠なんかが遺跡には仕掛けられていると聞く。そう言った魔術を探知し、得意の爆破術で破壊すればいい」
「確かに」
ミリオットの言葉に、何故かファイが納得していた。その後ろで、レイとアニムスが雑談に興じている。
「ちなみに、アニムスさんは何ができたっけ?」
「進む、倒す、進む。三つもできるぞ。『ゼロ』」
「今、同じ言葉を二回言わなかった?」
「最初の進むと次の進むは違う進むなんです」
「それにしてもアニムスさん。遺跡探索に必要な技能を持っているのがおれしかいない。特に、罠の探索が出来る人間がおれしかいないのは不味いんじゃないかな」
「つまり」
アニムスが急に真面目な表情になり、レイを見た。その肩に、手を乗せる。重々しい表情で告げた。
「『ゼロ』、お前に負担を強いることになるな」
「違う、そうじゃない」
レイが思わずと言った表情で突っ込みを入れていた。フェミナがにやにや笑っている。
「あら、残念ね。せっかくの格好いいところ、見せる相手がいないじゃない」
「フェミナさん。あなたもそうじゃない」
レイが頭を抱えている。セリスはと言えば、困惑した表情を浮かべているばかりだった。気を取り直したらしく、レイが皆を見る。
「ただ、魔術的なものが来てしまったら、おれもお手上げだよ」
「馬鹿野郎、おふくろさんに貰ったその頑丈な体は何のためにあるんだ?」
勢いの良いアニムスの発言に思わず皆が笑ってしまう。レイも苦笑しながら口を開いていた。
「あの、アニムスさん。遺跡の罠は死に至るものもあるんだ」
「大丈夫、お前は一般人じゃない。軍人だ」
任務でレイが死ぬ分には問題ない、言外にそう告げられているようにミリオットには感じられた。
「いや」
「でも、おれは嫌だし飲めないぞ。おれたちは一般人じゃないが、この子は一般人だ。おれたちと行動している最中に何かあっても責任が取れない」
「まあ、フルールの件もあるから、アニムスさんが頑なになるのも分かるよ。分かるけど、やはり魔術の罠に関する知識をおれたちが持ち合わせていない以上、魔術のことに詳しい人間を連れて行けるなら行きたい。それだけで皆が生き残れる可能性が大きく上がるんだ」
「いいや、それは違う。それで全滅するのがおれたちだけならただの犠牲だ。でも、無関係なこの子を殺したら、それはこの国の罪として永遠に残るんだ。極論、この子を巻き込むくらいなら、おれたちだけで死ぬべきなんだ。それが、軍人としての責務だろう」
「理屈は分かるが」
「リシア財団の任務として、考えることはできませんか?」
いつの間にか、ルナまでもが近くにやって来ていた。よほど、大きな声で話し合っていたらしい。
アニムスはしばし天井を眺めていたが、やがて首を捻りながらため息をついた。
「了解しました。ファイちゃん、よろしく頼むよ」
アニムスの言葉が想定外だったのか、ファイは一瞬呆けたような表情をした。その表情が、見る間に喜色が浮かんでいく。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
いつものファイからすると、信じられないくらい丁寧な仕草で頭を下げていた。
「頼りにしてるよ。なんせ、ここの軍人は前進しか選択肢がないからね」
「そうなんだよなあ」
アニムスの言葉に、セリスが思わず同意している。
「任せてくれ。そうと決まれば、早速準備だな。ミリオット君、手伝ってくれ」
ミリオットの腕を、ファイがしっかり掴んできた。有無を言わせぬ口調で、引っ張り始める。
「あ、手は繋ぐんだ」
思わずと言った口調で、アニムスが呟いていた。
市は賑わいを見せている。
ルナの提案もあり、セリスたちの遺跡探索は明日行うことになっていた。
そこで、ルナやアニムスが中心となり、ミシロの市庁舎では必要な物資が何かを検討している。多くの物資はリシア財団が揃えてくれる手筈になっているので、問題はない。
それにもかかわらずフルールがミシロの市へとやってきたのは、多くの商品を見ていることで何か追加で必要なものが見つかるかもしれないと思ってのことだった。
ミシロの人々の顔は、他の街の人々と比べると明るい。それは、驚くべきことだと影の軍の隊長が告げているのをフルールは聞いていた。
何しろ、ハーテン教徒による叛乱が、米や晩麦の収穫前である夏から発生したため、戦地となった場所の多くでは穀物の収穫が行えていない。
さほど戦いのなかったミシロ近郊はまだしも、コトキ近郊やデムーラン城塞からそう遠くない地域では、戦いや略奪により収穫物の大半を失ったものが多かった。
そのため、セリス軍が治めている地域では今年の租税を免除している。中央からは反発もあったようだが、コトキ太守のマッキンリーがうまく立ち回り、無事認められていた。
更に、穀物が壊滅したために冬を越せなさそうな地域ではリシア財団が穀物を格安で流通させている。
その甲斐もあって、人々の顔は他の地域より明るいようだ。
露店を眺めながら、フルールは先へと進んで行く。ふと、目に留まった店があった。
幌馬車を中心によくわからない品が並べられた店だ。馬車の先には馬ではなく、駱駝が繋がれている。そして、店員がいなかった。
いや、いる。ただ、フルールが最初、気づかなかったのも無理はない。見るものを不安にさせるような仮面と黒づくめの服装が、店員をまるで店の売り物のように見せていたのである。
店員が、独特な言葉遣いで話しかけてくる。仮面越しに聞こえる声は、いくらかくぐもっていたが可憐なものだった。恐らく、女性なのだろう。
「こちらの店には、どのようなものが売っているのですか?」
フルールが尋ねたものの店員はくすくすした笑いと共に、周りを見ろと言わんばかりの仕草しかしてこない。本当に、物を売る気があるのかわからない店だった。
何か買うものはあるのかと聞かれるが、特に役に立ちそうなものはない。
「あれ、お前」
そこで、話しかけられた。見覚えのある青年だ。記憶を探る。一月前に、フルールとぶつかった青年だった。確か、名前はビリャだ。
「この前はすみませんでした」
「こっちこそ、この前はごめんな」
フルールが頭を下げると、ビリャも慌てた様子で答える。
「それにしても、お前、何しているんだ?」
「ちょっと、周りに頼まれて買い物を」
「この店で?」
怪訝な表情でビリャが尋ねてくる。確かに、この店で物を求めるのは余程風変わりな人間くらいだろう。
「この店さ、品物は変だし、店員も変わっているよな」
「あまりそう言ったことは大声で言わない方が」
ビリャの言葉に、慌ててフルールが口を開く。確かに事実だとは思うが、店員が目の前にいるのだ。ビリャもフルールに制止されて気付いたらしい。
「あ、そっか。ごめんな、お前が変だとか別にそう言う気持ちで言ったわけじゃないからな」
ビリャが店員に取り成すような言葉をかけている。ただ、先ほどの発言も嫌な感じで言っているわけではなさそうだった。恐らく、ビリャは表裏がなく、思ったことをすぐに話してしまう性格なのだろう。
「お前はああいう店が好きなのか?」
店を出ると、ビリャがフルールに聞いてきた。
「いえ、たまたま近くを通りかかっただけです。特にめぼしいものはなかったので」
フルールの答えに、ビリャは納得したように頷く。
「そうなんだな。なにか、欲しいものでもあるのか?」
「そうですね。これからのことを考えると薬品類が大量に必要となるでしょう。それから」
フルールの言葉を一通り聞くと、ビリャが納得したように頷いた。
「お前、どっか冒険でも行くのか」
フルールの視線から驚きを感じ取ったのだろう。取り成すようにビリャが言葉を続ける。
「いや、おれはこう見えても冒険者だからさ」
確かに、言われてみればビリャの身のこなしは隙がない。それでいて、軽やかだった。
「ま、なんかあったら言ってくれよ」
ビリャが去っていく。また、どこかで会いそうな気がした。
ルナの提案もあり、セリスたちの遺跡探索は明日行うことになっていた。
そこで、ルナやアニムスが中心となり、ミシロの市庁舎では必要な物資が何かを検討している。多くの物資はリシア財団が揃えてくれる手筈になっているので、問題はない。
それにもかかわらずフルールがミシロの市へとやってきたのは、多くの商品を見ていることで何か追加で必要なものが見つかるかもしれないと思ってのことだった。
ミシロの人々の顔は、他の街の人々と比べると明るい。それは、驚くべきことだと影の軍の隊長が告げているのをフルールは聞いていた。
何しろ、ハーテン教徒による叛乱が、米や晩麦の収穫前である夏から発生したため、戦地となった場所の多くでは穀物の収穫が行えていない。
さほど戦いのなかったミシロ近郊はまだしも、コトキ近郊やデムーラン城塞からそう遠くない地域では、戦いや略奪により収穫物の大半を失ったものが多かった。
そのため、セリス軍が治めている地域では今年の租税を免除している。中央からは反発もあったようだが、コトキ太守のマッキンリーがうまく立ち回り、無事認められていた。
更に、穀物が壊滅したために冬を越せなさそうな地域ではリシア財団が穀物を格安で流通させている。
その甲斐もあって、人々の顔は他の地域より明るいようだ。
露店を眺めながら、フルールは先へと進んで行く。ふと、目に留まった店があった。
幌馬車を中心によくわからない品が並べられた店だ。馬車の先には馬ではなく、駱駝が繋がれている。そして、店員がいなかった。
いや、いる。ただ、フルールが最初、気づかなかったのも無理はない。見るものを不安にさせるような仮面と黒づくめの服装が、店員をまるで店の売り物のように見せていたのである。
店員が、独特な言葉遣いで話しかけてくる。仮面越しに聞こえる声は、いくらかくぐもっていたが可憐なものだった。恐らく、女性なのだろう。
「こちらの店には、どのようなものが売っているのですか?」
フルールが尋ねたものの店員はくすくすした笑いと共に、周りを見ろと言わんばかりの仕草しかしてこない。本当に、物を売る気があるのかわからない店だった。
何か買うものはあるのかと聞かれるが、特に役に立ちそうなものはない。
「あれ、お前」
そこで、話しかけられた。見覚えのある青年だ。記憶を探る。一月前に、フルールとぶつかった青年だった。確か、名前はビリャだ。
「この前はすみませんでした」
「こっちこそ、この前はごめんな」
フルールが頭を下げると、ビリャも慌てた様子で答える。
「それにしても、お前、何しているんだ?」
「ちょっと、周りに頼まれて買い物を」
「この店で?」
怪訝な表情でビリャが尋ねてくる。確かに、この店で物を求めるのは余程風変わりな人間くらいだろう。
「この店さ、品物は変だし、店員も変わっているよな」
「あまりそう言ったことは大声で言わない方が」
ビリャの言葉に、慌ててフルールが口を開く。確かに事実だとは思うが、店員が目の前にいるのだ。ビリャもフルールに制止されて気付いたらしい。
「あ、そっか。ごめんな、お前が変だとか別にそう言う気持ちで言ったわけじゃないからな」
ビリャが店員に取り成すような言葉をかけている。ただ、先ほどの発言も嫌な感じで言っているわけではなさそうだった。恐らく、ビリャは表裏がなく、思ったことをすぐに話してしまう性格なのだろう。
「お前はああいう店が好きなのか?」
店を出ると、ビリャがフルールに聞いてきた。
「いえ、たまたま近くを通りかかっただけです。特にめぼしいものはなかったので」
フルールの答えに、ビリャは納得したように頷く。
「そうなんだな。なにか、欲しいものでもあるのか?」
「そうですね。これからのことを考えると薬品類が大量に必要となるでしょう。それから」
フルールの言葉を一通り聞くと、ビリャが納得したように頷いた。
「お前、どっか冒険でも行くのか」
フルールの視線から驚きを感じ取ったのだろう。取り成すようにビリャが言葉を続ける。
「いや、おれはこう見えても冒険者だからさ」
確かに、言われてみればビリャの身のこなしは隙がない。それでいて、軽やかだった。
「ま、なんかあったら言ってくれよ」
ビリャが去っていく。また、どこかで会いそうな気がした。
北のズイ、西のアレフ。この二つの街は、ノームコプでも珍しいものを持っていた。
遺跡である。むしろ、遺跡が発見されたことで一攫千金を目論む冒険者たちがあつまり、街が作られるようになった。
規模が大きく、古くから発見されているのはアレフの方である。従って、探索する冒険者もアレフの方が多い。
しかし、ミリオットの両親であるリシアとレヴィンは、ズイの遺跡を好んで探索していた。理由は、分からない。リシアはミリオットが一歳の時に亡くなっているし、後を追うように数年してからレヴィンも亡くなっていた。何かを確認することは、もうできない。
「揃ったようだな」
ミリオットたちを見て、ベオフルフが告げる。彼らはリシアたちが資金を隠したとされる遺跡の近くへと、やってきていた。
「知っているとは思うが、一応この遺跡の注意点を伝えておこう」
ベオフルフは今回の探索には同行しない。歳だからな、とどこか寂しげな口調でミリオットたちに言っていた。
ただ、かつてリシアやレヴィンと共にこの遺跡を探索したことがあるため、遺跡の内情を話すためにやってきている。
「この遺跡は三十層からなる構造になっている。ただ、一層目と三十層目以外は入る度に構造が変わる特殊な仕掛けがなされている。従って、どこにどんなものがあるかを伝えることはできない」
ベオフルフはミリオットたちを見る。その表情は、落ち着き払っていた。
「ただ、分かりやすい傾向を伝えることはできるな。ジャガーノートが何体かうろついている。やつは危険だ。お前たちの親ならまだしも、お前たちが戦えばかなり苦戦するだろう。気をつけて立ち向かってくれ」
ジャガーノート。書物の中でその名をミリオットは聞いたことがあった。通った後には草一つ残らないと言われる太古の機械である。ただ、ミリオットの母であるリシアはそれを何体も屠ってきた。
「それから、この遺跡に階段はない。転移の術が施された魔方陣を利用して進んでいくことになる」
ベオフルフは懐から転送石を取り出した。
「これを渡しておこう。遺跡の中で使えば、この遺跡の目の前まで移動できる。遺跡以外の場所で使っても効果はないがな。万一の時はこれで戻ってきてくれ」
ベオフルフはにやりと笑うとミリオットたちを見る。
「ま、これを使わないで済むことを祈っているぜ。おれかリシア財団の誰かがこの近くにいる。後は任せた」
ベオフルフは片手を振るとミリオットたちから離れ、近くの石に腰を下ろした。
「セリスさん、皆さん。行きましょうか」
代わって口を開いたのはルナだ。無意識なのだろうが、セリスとの距離が近い。
ジャンヌがいなくて良かった、とミリオットは思った。ジャンヌがこの光景を見たら、間違いなく不機嫌になるだろう。
「どうやら、ようやくわたしの出番のようだな」
ミリオットの背後から声が聞こえてきた。ファイが、楽しそうな表情を浮かべている。その距離は、意外なほど近い。
ジャンヌがいなくて良かった。ミリオットは再び思った。
彼女がいたら、後でどんなからかいを受けるかわかったものではない。
「さあ、ミリオット君。行くぞ」
ファイの言葉を受け、ミリオットは遺跡の中へと入っていった。一層目と三十層目の構造は変わらないらしいが、念のためにとレイが皆の先頭に立ち、罠の有無を調べている。やはり、罠はなさそうだった。
短い通路を抜けると、大きな広間に辿り着く。その中央に、大きな魔方陣が描かれていた。それが、次の層へといく手段になっている。
レイが一通り罠を調べると、ファイが魔術を利用した特殊な仕掛けがないか調べ直している。
「どうやら、変わった仕掛けはない。ただ、ここからどこに行くか保証はできない」
「そういうものですからね。この遺跡は」
ルナが落ち着き払って答える。彼女の推論によれば、何千もの階層がこの遺跡には用意されているらしい。そして、魔方陣を使う度にその階層のどこかに転移させられる。
「可能だったらその法則性も理解したかったんですが、時間が回らなくて」
かつて、その法則性を理解しようとした人間がいた。ミリオットの父であるレヴィンだ。恐らく、彼はかなりのところまで理解していたのだろう。だが、彼は若くして病で亡くなってしまった。レヴィンの確立した理論も、彼の死と共に失われている。
「では、みなさん、行きましょう」
ルナの声と共に、ミリオットたちは魔方陣に乗る。次の瞬間、光が渦巻いたかと思うと、ミリオットたちは別の場所に転移していた。
遺跡である。むしろ、遺跡が発見されたことで一攫千金を目論む冒険者たちがあつまり、街が作られるようになった。
規模が大きく、古くから発見されているのはアレフの方である。従って、探索する冒険者もアレフの方が多い。
しかし、ミリオットの両親であるリシアとレヴィンは、ズイの遺跡を好んで探索していた。理由は、分からない。リシアはミリオットが一歳の時に亡くなっているし、後を追うように数年してからレヴィンも亡くなっていた。何かを確認することは、もうできない。
「揃ったようだな」
ミリオットたちを見て、ベオフルフが告げる。彼らはリシアたちが資金を隠したとされる遺跡の近くへと、やってきていた。
「知っているとは思うが、一応この遺跡の注意点を伝えておこう」
ベオフルフは今回の探索には同行しない。歳だからな、とどこか寂しげな口調でミリオットたちに言っていた。
ただ、かつてリシアやレヴィンと共にこの遺跡を探索したことがあるため、遺跡の内情を話すためにやってきている。
「この遺跡は三十層からなる構造になっている。ただ、一層目と三十層目以外は入る度に構造が変わる特殊な仕掛けがなされている。従って、どこにどんなものがあるかを伝えることはできない」
ベオフルフはミリオットたちを見る。その表情は、落ち着き払っていた。
「ただ、分かりやすい傾向を伝えることはできるな。ジャガーノートが何体かうろついている。やつは危険だ。お前たちの親ならまだしも、お前たちが戦えばかなり苦戦するだろう。気をつけて立ち向かってくれ」
ジャガーノート。書物の中でその名をミリオットは聞いたことがあった。通った後には草一つ残らないと言われる太古の機械である。ただ、ミリオットの母であるリシアはそれを何体も屠ってきた。
「それから、この遺跡に階段はない。転移の術が施された魔方陣を利用して進んでいくことになる」
ベオフルフは懐から転送石を取り出した。
「これを渡しておこう。遺跡の中で使えば、この遺跡の目の前まで移動できる。遺跡以外の場所で使っても効果はないがな。万一の時はこれで戻ってきてくれ」
ベオフルフはにやりと笑うとミリオットたちを見る。
「ま、これを使わないで済むことを祈っているぜ。おれかリシア財団の誰かがこの近くにいる。後は任せた」
ベオフルフは片手を振るとミリオットたちから離れ、近くの石に腰を下ろした。
「セリスさん、皆さん。行きましょうか」
代わって口を開いたのはルナだ。無意識なのだろうが、セリスとの距離が近い。
ジャンヌがいなくて良かった、とミリオットは思った。ジャンヌがこの光景を見たら、間違いなく不機嫌になるだろう。
「どうやら、ようやくわたしの出番のようだな」
ミリオットの背後から声が聞こえてきた。ファイが、楽しそうな表情を浮かべている。その距離は、意外なほど近い。
ジャンヌがいなくて良かった。ミリオットは再び思った。
彼女がいたら、後でどんなからかいを受けるかわかったものではない。
「さあ、ミリオット君。行くぞ」
ファイの言葉を受け、ミリオットは遺跡の中へと入っていった。一層目と三十層目の構造は変わらないらしいが、念のためにとレイが皆の先頭に立ち、罠の有無を調べている。やはり、罠はなさそうだった。
短い通路を抜けると、大きな広間に辿り着く。その中央に、大きな魔方陣が描かれていた。それが、次の層へといく手段になっている。
レイが一通り罠を調べると、ファイが魔術を利用した特殊な仕掛けがないか調べ直している。
「どうやら、変わった仕掛けはない。ただ、ここからどこに行くか保証はできない」
「そういうものですからね。この遺跡は」
ルナが落ち着き払って答える。彼女の推論によれば、何千もの階層がこの遺跡には用意されているらしい。そして、魔方陣を使う度にその階層のどこかに転移させられる。
「可能だったらその法則性も理解したかったんですが、時間が回らなくて」
かつて、その法則性を理解しようとした人間がいた。ミリオットの父であるレヴィンだ。恐らく、彼はかなりのところまで理解していたのだろう。だが、彼は若くして病で亡くなってしまった。レヴィンの確立した理論も、彼の死と共に失われている。
「では、みなさん、行きましょう」
ルナの声と共に、ミリオットたちは魔方陣に乗る。次の瞬間、光が渦巻いたかと思うと、ミリオットたちは別の場所に転移していた。
まるで、蟹だった。
セリスたちの目の前にいる機械である。ただ、蟹とはいくつか違う点が見て取れる。まず、金色だ。前の二本が蟹の鋏のように大きくなっているが、全ての足を数えても六本しかない。目も一つしかついていなかった。
そして、その目がゆっくりと光り始めている。
「ジャガーノートです」
落ち着き払った声で、ルナがセリスたちに告げる。まだ、二層目だった。それも、二層目に来たばかりである。
「気を付けて戦いましょう」
言いながら、支援の魔術をセリスたちにかけていく。ジャガーノートの目が激しく光り輝いたかと思うと、極太の光線が撃ち出された。
ただ、その方角はセリスたちがいる場所からは程遠い。抜き打ちでレイが放った銃弾が、光線の発射口を巧みに破壊していたのだ。
「ああ、そうさせてもらうさ」
レイが落ち着き払った口調で告げる。既に、銃は仕舞われていた。激しい音がしたかと思うと、ジャガーノートの装甲が剥がれている。
「自慢の装甲も、もう役に立たないな」
レイが呟くと同時に、アニムスが殴り込みをかけていた。ジャガーノートの巨体が、二度激しく震える。
「破壊の翼よ」
ミリオットの叫び声と共に、二本の炎渦竜巻が巻き起こった。それは途中で合体すると、ジャガーノートの巨体を引き裂いていく。ジャガーノートの姿は、既に見るも無残なものになりつつあった。装甲は剥がれ、アニムスとミリオットの攻撃であちこちから煙を上げ始めている。ただ、まだその目の光は灯っていた。
それが再び、激しく光り始める。
「そうはさせない」
セリスが鎚を構える。だが、構えただけだった。セリスが動こうと思った時には、ジャガーノートの目は潰れ、その巨体も蹴り飛ばされていたのである。アニムスの格闘術だった。遙か前方で、爆発するのが見え。その爆風すら、フルールの障壁に防がれていた。
「みんな、凄いなあ」
セリスが苦笑しながら他の五人を見る。よくよく考えると、自分だけ何もしていない。オランジュがいない分機動力に欠けることは仕方がないとは言え、やるせなかった。
「やれやれ、ミリオット君。わたしの出番はまた今度のようだな」
ファイがミリオットに話している。彼女もまた、何もしていなかった。ただ、セリスとは異なり自信にあふれた表情をしている。ミリオットは苦笑していた。
「まだ、先は長いですからね」
ルナが二人を取り成すように告げる。そして、セリスたちは先へと進み始めた。
セリスたちの目の前にいる機械である。ただ、蟹とはいくつか違う点が見て取れる。まず、金色だ。前の二本が蟹の鋏のように大きくなっているが、全ての足を数えても六本しかない。目も一つしかついていなかった。
そして、その目がゆっくりと光り始めている。
「ジャガーノートです」
落ち着き払った声で、ルナがセリスたちに告げる。まだ、二層目だった。それも、二層目に来たばかりである。
「気を付けて戦いましょう」
言いながら、支援の魔術をセリスたちにかけていく。ジャガーノートの目が激しく光り輝いたかと思うと、極太の光線が撃ち出された。
ただ、その方角はセリスたちがいる場所からは程遠い。抜き打ちでレイが放った銃弾が、光線の発射口を巧みに破壊していたのだ。
「ああ、そうさせてもらうさ」
レイが落ち着き払った口調で告げる。既に、銃は仕舞われていた。激しい音がしたかと思うと、ジャガーノートの装甲が剥がれている。
「自慢の装甲も、もう役に立たないな」
レイが呟くと同時に、アニムスが殴り込みをかけていた。ジャガーノートの巨体が、二度激しく震える。
「破壊の翼よ」
ミリオットの叫び声と共に、二本の炎渦竜巻が巻き起こった。それは途中で合体すると、ジャガーノートの巨体を引き裂いていく。ジャガーノートの姿は、既に見るも無残なものになりつつあった。装甲は剥がれ、アニムスとミリオットの攻撃であちこちから煙を上げ始めている。ただ、まだその目の光は灯っていた。
それが再び、激しく光り始める。
「そうはさせない」
セリスが鎚を構える。だが、構えただけだった。セリスが動こうと思った時には、ジャガーノートの目は潰れ、その巨体も蹴り飛ばされていたのである。アニムスの格闘術だった。遙か前方で、爆発するのが見え。その爆風すら、フルールの障壁に防がれていた。
「みんな、凄いなあ」
セリスが苦笑しながら他の五人を見る。よくよく考えると、自分だけ何もしていない。オランジュがいない分機動力に欠けることは仕方がないとは言え、やるせなかった。
「やれやれ、ミリオット君。わたしの出番はまた今度のようだな」
ファイがミリオットに話している。彼女もまた、何もしていなかった。ただ、セリスとは異なり自信にあふれた表情をしている。ミリオットは苦笑していた。
「まだ、先は長いですからね」
ルナが二人を取り成すように告げる。そして、セリスたちは先へと進み始めた。
二十層を越すと、流石に疲労が溜まってくる。途中で、何度か休憩を取り、仮眠もとっているとは言え、遺跡の中だ。絶えず緊張を強いられていることには変わりない。そして、ジャガーノートも無数に動き回っていた。
「この階層は」
ルナが呟く。彼女は過去に遺跡に来た経験もあり、ある程度遺跡の階層の傾向を掴んでいた。何千もの階層があるため、ある程度同じような階層もあるらしい。
「知っているの?」
セリスが尋ねる。ルナは頷いた。
「恐らくは。動く壁です」
「動く壁?」
セリスたちが聞いた時だった。部屋の端から、地響きが聞こえてくる。壁が迫り始めていた。それも、普通の人が歩くよりいくらか速いくらいの速度でだ。
「なるほどね」
ルナの言いたいことを理解したセリスたちは、即座に走り出す。反対側には、扉があった。
「いくつかの部屋の先に、次の魔方陣があるはずです」
ルナが告げる。元々、体を動かす方ではないのだろう。少し走っただけだが、既に辛そうだった。
だが、走るだけなら問題ないだろう。そう思った時だった。目の前の扉が勝手に開きはじめる。同時に、聞き覚えのある機械音が聞こえた。ジャガーノートである。
セリスたちに身構える隙を与えずに、部屋へと入ってきた。その目は、既に光り輝いている。危険だった。何しろ、セリスたちの陣形は大きく乱れている。走る速度がばらばらだったためだ。ジャガーノートの近くにいるセリスやアニムスはともかく、後方で懸命に走っているルナやフルールがジャガーノートの光線に巻き込まれることだけは避けなければいけない。だが、咄嗟にルナやフルールを庇える人間は近くにいなかった。
「任せてくれ」
銃声と共に、危機を救ったのはレイだった。いつもの抜き撃ちで発射口を撃ち抜き、光線の弾道を変化させる。
ジャガーノートが、浮いた。アニムスだ。疾走する馬よりも早いその脚で近づくと、勢いを殺すことなく蹴りをぶつけていた。
ジャガーノートが回転しながら後方の壁へと激突する。硬い者同士がぶつかる、激しい音が鳴り響いた。
「後はおれがやろう」
「お願いします」
セリスとレイが先頭となり、ジャガーノートがいた部屋を突っ切っていく。次の部屋への入り口は、閉じられていた。僅かにレイより先行していたセリスが、扉を蹴り開ける。
光り輝く目が、見えた。
「なんだよ、またジャガーノートじゃないか」
思わずと言った口調で、セリスが呟く。鎚で殴り掛かるものの、目の輝きは、変わらない。光線が、撃ち出される。
だが、その軌道は大きく逸れていた。レイの銃弾が、直前で発射口に命中したためである。
「竜巻よ」
ミリオットの声と共に、巨大な竜巻がジャガーノートを飲み込んだ。その動きを止めることはできなかったが、その装甲にいくつも傷が入っていく。
派手な音が、後ろから聞こえてきた。アニムスが、再度ジャガーノートを壁に叩きつけている。それも、ただの壁ではなく動く壁だ。大きな音と共に、ジャガーノートが動く壁にすり潰されていく。アニムスの蹴りもあって、すぐに一体目のジャガーノートは動かなくなった。
ジャガーノートが一体だけとなれば、余裕も生まれてくる。足が速いとは言えないルナやフルールも、懸命に走り続けていたこともあって動く壁との距離は開いていた。
再びジャガーノートの目が光り輝くも、レイが落ち着いて銃弾を発射口に命中させる。更に、疾走してきたアニムスの蹴りにより、ジャガーノートは動かなくなっていた。
セリスとレイ、そしてアニムスの三人が中心となって更に先の扉を開けていく。一番奥の部屋を空けると、この階層三体目のジャガーノートが待ち受けていた。
だが、セリスたちにはもはや脅威でも何でもない。レイの銃が火を噴き、アニムスの拳とセリスの鎚が振るわれる。すぐに、三体目のジャガーノートも動かなくなっていた。
「ようやく、次の階層ですね」
息を整えたルナが告げる。魔方陣が、薄く光り輝いていた。
「この階層は」
ルナが呟く。彼女は過去に遺跡に来た経験もあり、ある程度遺跡の階層の傾向を掴んでいた。何千もの階層があるため、ある程度同じような階層もあるらしい。
「知っているの?」
セリスが尋ねる。ルナは頷いた。
「恐らくは。動く壁です」
「動く壁?」
セリスたちが聞いた時だった。部屋の端から、地響きが聞こえてくる。壁が迫り始めていた。それも、普通の人が歩くよりいくらか速いくらいの速度でだ。
「なるほどね」
ルナの言いたいことを理解したセリスたちは、即座に走り出す。反対側には、扉があった。
「いくつかの部屋の先に、次の魔方陣があるはずです」
ルナが告げる。元々、体を動かす方ではないのだろう。少し走っただけだが、既に辛そうだった。
だが、走るだけなら問題ないだろう。そう思った時だった。目の前の扉が勝手に開きはじめる。同時に、聞き覚えのある機械音が聞こえた。ジャガーノートである。
セリスたちに身構える隙を与えずに、部屋へと入ってきた。その目は、既に光り輝いている。危険だった。何しろ、セリスたちの陣形は大きく乱れている。走る速度がばらばらだったためだ。ジャガーノートの近くにいるセリスやアニムスはともかく、後方で懸命に走っているルナやフルールがジャガーノートの光線に巻き込まれることだけは避けなければいけない。だが、咄嗟にルナやフルールを庇える人間は近くにいなかった。
「任せてくれ」
銃声と共に、危機を救ったのはレイだった。いつもの抜き撃ちで発射口を撃ち抜き、光線の弾道を変化させる。
ジャガーノートが、浮いた。アニムスだ。疾走する馬よりも早いその脚で近づくと、勢いを殺すことなく蹴りをぶつけていた。
ジャガーノートが回転しながら後方の壁へと激突する。硬い者同士がぶつかる、激しい音が鳴り響いた。
「後はおれがやろう」
「お願いします」
セリスとレイが先頭となり、ジャガーノートがいた部屋を突っ切っていく。次の部屋への入り口は、閉じられていた。僅かにレイより先行していたセリスが、扉を蹴り開ける。
光り輝く目が、見えた。
「なんだよ、またジャガーノートじゃないか」
思わずと言った口調で、セリスが呟く。鎚で殴り掛かるものの、目の輝きは、変わらない。光線が、撃ち出される。
だが、その軌道は大きく逸れていた。レイの銃弾が、直前で発射口に命中したためである。
「竜巻よ」
ミリオットの声と共に、巨大な竜巻がジャガーノートを飲み込んだ。その動きを止めることはできなかったが、その装甲にいくつも傷が入っていく。
派手な音が、後ろから聞こえてきた。アニムスが、再度ジャガーノートを壁に叩きつけている。それも、ただの壁ではなく動く壁だ。大きな音と共に、ジャガーノートが動く壁にすり潰されていく。アニムスの蹴りもあって、すぐに一体目のジャガーノートは動かなくなった。
ジャガーノートが一体だけとなれば、余裕も生まれてくる。足が速いとは言えないルナやフルールも、懸命に走り続けていたこともあって動く壁との距離は開いていた。
再びジャガーノートの目が光り輝くも、レイが落ち着いて銃弾を発射口に命中させる。更に、疾走してきたアニムスの蹴りにより、ジャガーノートは動かなくなっていた。
セリスとレイ、そしてアニムスの三人が中心となって更に先の扉を開けていく。一番奥の部屋を空けると、この階層三体目のジャガーノートが待ち受けていた。
だが、セリスたちにはもはや脅威でも何でもない。レイの銃が火を噴き、アニムスの拳とセリスの鎚が振るわれる。すぐに、三体目のジャガーノートも動かなくなっていた。
「ようやく、次の階層ですね」
息を整えたルナが告げる。魔方陣が、薄く光り輝いていた。
最上層である三十層目にたどり着いたのは、それからしばらくしてからのことだった。かつて、この階層に辿り着いたことがあるルナの指示の下、セリスたちは奥へと向かっていく。ミリオットの手によって最奥の封印も解かれ、セリスたちはリシア財団の資金を入手することができた。後は、戻るだけである。
最上階に上がってすぐのところに、薄く光る魔方陣があった。それに乗れば、遺跡の入り口に辿り着くらしい。一通り最上階の様子を確かめた後、セリスたちはその床に乗ることにした。あっという間に景色が変わり、赤い光がセリスたちを照らしてくる。どうやら、夕方のようだった。
「早かったじゃないか」
ベオウルフの声が聞こえてくる。近くの石に、腰を下ろしていた。立ち上がると、セリスたちに近づいてくる。
「目的は、達成できたか?」
「達成した」
ミリオットが頷く。レイがベオウルフを見て笑った。
「もちろん、おれたちは無事です」
「それなら、一安心だ。『ゼロ』」
ベオウルフもにやりとする。不意に、アニムスが動いた。飛び膝蹴りをベオウルフに加える。誰も予想していなかったこの動きに、ついていける者はいない。ベオウルフが吹き飛ばされる。同時に、乾いた音が続けざまに鳴り響いていた。
ベオウルフが先ほどまでいたところを通り、その先の壁へといくつもの銃弾がぶつかっていく。襲撃だ。
「みんな、隠れろ」
アニムスが叫ぶ。セリスたちは一斉に近くの物陰へと向かいだした。アニムスもまた、近くの物陰へと向かう。ちょうど、ベオウルフも隠れていた。
「どうやら狙われていたようだな、ベオウルフ」
「そうだな、アニムス。おれはお前に助けられたようだ」
ベオウルフは頷くと、アニムスを見る。
「ただ、おれに飛び膝蹴りをする必要はあったのか」
「咄嗟のことだったんだ」
「庇ってくれて悪いんだが、明らかに、もうちょっと効率のいい動きがあると思うんだよな」
「ない」
アニムスが沈痛な表情を浮かべ、断言する。ベオウルフは頷くしかなかった。更に、銃声が鳴り響いている。ただ、西日と木々に阻まれ、敵の居場所が分からない。だからと言って迂闊に飛び出せば、銃の良い的である。
「ふむ」
アニムスたちの背後で、頷くような声が聞こえた。同時に、巨大な橙色の球体が出現する。爆球だ。そう思った時には、轟音が聞こえてくる。目の前の林が、爆発により吹き飛び、燃えていた。
ファイが、アニムスとベオウルフの後ろに立っていた。その右手の先で、爆球が回転している。
「どうだ、明るくなったろう」
ファイが後ろを振り返る。そこにはミリオットが立っていた。
「ミリオット君。これで相手は隠れられなくなったな」
「やれやれ、強引すぎやしませんかね」
声の先には、二人の人影が見えた。いや、二人と言っていいのだろうか。一人は、人間だ。おそらく、今の言葉を述べた方だろう。全く感情のない声で話し、赤い斑点の混じった黒い翼を持っているオルニスだ。手に、得物と思われる槍を持っている。
もう一人は、いや、一人と言っていいのだろうか。オルニスの三倍の背丈を持つ、人型の機械だった。赤色の塗装が為されたそれは、左手に銃を、右手に四叉に分かれた槍を持っている。どちらも、セルジュの持つ斧と大差ないほどの大きさだった。更に、背中と両肩に複数の大砲が合わさったような兵器を装備している。
「あれは?」
レイが思わず呟く。
「さあ、何だろうな」
オルニスの女性が無表情に呟くと、その姿が消える。気配もなくなった。この場から、離脱したのだろう。つまり、この場に残された敵は人型の機械だけである。
「お前、なんであれに気が付かなかったんだよ」
人の背丈の三倍もある機械を見上げながら、アニムスが呟く。敵の数は減ったが、大きな脅威であることに変わりはない。
「迷彩のせいだろう。ああ言うからくりには往々にして迷彩処理が施されている」
「ああ、迷彩なら仕方ない」
ただ、と言わんばかりにレイが機械を見る。機械は、迷彩からは程遠い綺麗な赤色をしていた。
「夕方だから、夕日が赤いのが悪いんだよ」
ベオウルフが苦しい言い訳を告げる。実際のところは、ベオウルフも気づかないような遠くに隠れていたのだろう。脚部についた加速装置が、その機動性を物語っていた。
「神々の力を」
そう告げると、フルールが支援の魔術を唱え始める。更に、ルナも支援の魔術をセリスたちにかけていた。
「やれやれ、おれは下がっていた方が良さそうだな」
そう告げたベオウルフが、ファイとともに下がる。
人型の機械が、左手の銃を掲げた。人の顔より大きい銃口が、セリスたちを向く。先ほどより大きな銃声と共に、人の頭ほどの銃弾が発射された。それがセリスたちの手前で地面にぶつかると、紫色の煙がまき散らされていく。毒だった。レイとアニムスは即座にその場から飛びずさる。セリスも近くにいたルナを庇うと、後ろに下がった。ミリオットとフルールだけが煙に巻き込まれる。
そこに、閃光が走った。背中と両肩に載せた大砲から、光線が撃ち出されている。それも、ジャガーノートのものより格段に太い。
「こんなものかな」
それを、セリスが正面から受けていた。普段ならオランジュとの息の合った動きで避けているところだろう。だが、今のセリスは馬から降りていた。おまけに、ミリオットとフルールを庇う必要もある。
盾と鎧を器用に使い、光線の勢いを最大限に押し殺していた。更に、フルールが防御壁を作り出している。煙が晴れた。激しく咳込んでいるミリオットとは対照的に、フルールは平然と杖を構えている。毒が、フルールには効いていないのだ。
「吸引することで効果のある毒であれば、息を止め続けることで無力化はできますが」
フルールの様子を見ながら、ルナが驚いた声色で呟いた。確かに、フルールは目と口を閉じている。その状態で、正確に魔術を唱えていた。並の精神力で、出来ることではない。ルナが感心する横で、更に支援の魔術をセリスたちにかけていく。ルナもまた、セリスたちに指示を出し始めた。これまでの動きから、人型機械の特徴をほぼ理解したのだ。
レイが銃を抜き撃ちで放つ。それは、寸分違わず人型機械の留め金を撃ち抜き、装甲板を引き剥がしていた。
「これでもう、奴の鎧は役に立たない」
更にもう一度、銃声を轟かせる。その弾は、人型機械がちょうど構えようとした銃に吸い込まれていった。激しい音と共に、銃から黒煙が上がる。
だが、人型機械の攻撃も終わらない。レイの銃声と同時に、人型機械の背中と両肩につけられた大砲が光を帯びる。次の瞬間には、セリスたち目掛け極太の光線が放たれていた。
「任せてくれ」
声と同時に、セリスたちの周囲に烈風が走る。ミリオットが、咳込みながらも魔術を唱え始めていた。三本の竜巻が光線の軌道を巧みに逸らしていく。
その合間を縫って、セリスが鎚を片手に突っ込んでいた。人型機械の脚部を狙い、三度鎚が閃く。更に、ミリオットが炎渦竜巻を放っていた。人型機械のあちこちに、亀裂が入っていた。ただ、致命傷には至っていない。
人型機械が、右腕の槍を構えた。そこに、すかさずレイが抜き撃ちで銃弾を放つ。
「やらせねえよ」
「そして、もう使わせない」
人型機械の左腕が、ごとりと落ちた。アニムスが、その肩に乗っている。その拳が、腕と肩の接続部分を粉々に打ち砕いていた。
人型機械の顔面に蹴りを入れながら、アニムスが離脱する。直後に、右腕も吹き飛んでいた。レイの銃弾が、腕と肩の接続部分を射抜いたのだ。
「後は本体だけだな」
セリスが再び鎚を振るい、ミリオットの破壊暴風が人型機械の胴体を刻んでいく。だが、まだ人型機械は動いていた。背中と両肩の大砲が、再び輝き始める。
だが、その輝きが放たれることはなかった。レイが放った銃弾により、大砲から黒煙が上がっていく。
そこに、アニムスが拳を叩きこんでいた。人型機械が、吹き飛んでいく。
立ち上がろうとした人型機械が、音を立てて崩れ落ちた。その胴体から人が這い出てくる。操縦士なのだろうか。赤く短い髪をした女性である。その日に焼けた顔に、ミリオットはどこか見覚えを感じた。
だが、ミリオットが何かを告げるより先に、アニムスが動いていた。機械の破片を手に取ると、女性への距離を一気に詰める。
「ふむ」
いつの間にか、先ほど撤退したはずのオルニスがやって来ていた。赤髪の女の隣で、呟く。
「ここは撤退だな」
赤髪の女性が頷くと同時に、二人の姿が消えた。アニムスの攻撃が、虚空を切る。人型機械も、同時に消え去っていた。
「あれ、この辺りは転送石がつかえるんですか?」
虚をつかれたような表情でルナが尋ねる。ベオウルフが頷いた。
「場所によるな。ここに入る時に専用の転送石を渡しただろう。そう言った転送石の効果を使えるようにするためかわからないが、この辺りは部分的に転送石が使えるようになっている。おれも、場所の区別はつかん」
「ややこしいですね」
納得しきった顔ではないが、ルナが頷いている。とは言え、ひとまずの脅威を退けたことで、セリスたちには安堵の表情が広がっていた。
「ひとまず、戻りましょう」
ルナの言葉を受け、アニムスが頷く。
「流石に疲れたからな」
「あんなにジャガーノートがいっぱい出てくるとは思わなかったしな」
レイも疲れた表情で告げる。転送石を使い、セリスたちもまたミシロへと戻って行った。
「では。わたしは今回得た資金を動かすことになるので」
ルナが告げた。アシェラやベオウルフと共に、リシア財団の資産を運用していくのだろう。休む間は、ほとんどない。他の面々も、それぞれの持ち場へと戻り始める。帰路につくミリオットの隣に、ファイがやって来た。
「ミリオット君。あの機械に乗っていた女」
ファイの声は、高くもなければ、低くもなかった。ミリオットが頷く。
「ああ、そうだな。見間違えがなければ、あいつだった」
「良かった」
しばしの沈黙の後、呟くようにファイが告げる。その瞳が、僅かに潤んでいることにミリオットは気が付いた。
「例えどんな関係だろうと、生きているアクセナ君を見れて、本当に良かった。生きていると思っていたけど、信じていたけど、それでも」
突然、ミリオットの胸にファイが飛び込んで来た。涙を、堪えきれなかったのだろう。しばらく、無言でファイは顔を埋めていた。顔を上げる。
「べ、別に泣いてなんかいないからな」
目を真っ赤にしながら告げるファイに、ミリオットが苦笑するしかなかった。
「今日は疲れただろう、ファイ。もう、戻ろう」
「そうだな、ミリオット君。今日は帰ろう。一刻も早く、お前を爆破術で泣かせる準備が必要だからな」
ファイは笑顔を見せると、いつも通りの声色で話しかけてくる。ミリオットは、近くにジャンヌがいないことを感謝するだけだった。
最上階に上がってすぐのところに、薄く光る魔方陣があった。それに乗れば、遺跡の入り口に辿り着くらしい。一通り最上階の様子を確かめた後、セリスたちはその床に乗ることにした。あっという間に景色が変わり、赤い光がセリスたちを照らしてくる。どうやら、夕方のようだった。
「早かったじゃないか」
ベオウルフの声が聞こえてくる。近くの石に、腰を下ろしていた。立ち上がると、セリスたちに近づいてくる。
「目的は、達成できたか?」
「達成した」
ミリオットが頷く。レイがベオウルフを見て笑った。
「もちろん、おれたちは無事です」
「それなら、一安心だ。『ゼロ』」
ベオウルフもにやりとする。不意に、アニムスが動いた。飛び膝蹴りをベオウルフに加える。誰も予想していなかったこの動きに、ついていける者はいない。ベオウルフが吹き飛ばされる。同時に、乾いた音が続けざまに鳴り響いていた。
ベオウルフが先ほどまでいたところを通り、その先の壁へといくつもの銃弾がぶつかっていく。襲撃だ。
「みんな、隠れろ」
アニムスが叫ぶ。セリスたちは一斉に近くの物陰へと向かいだした。アニムスもまた、近くの物陰へと向かう。ちょうど、ベオウルフも隠れていた。
「どうやら狙われていたようだな、ベオウルフ」
「そうだな、アニムス。おれはお前に助けられたようだ」
ベオウルフは頷くと、アニムスを見る。
「ただ、おれに飛び膝蹴りをする必要はあったのか」
「咄嗟のことだったんだ」
「庇ってくれて悪いんだが、明らかに、もうちょっと効率のいい動きがあると思うんだよな」
「ない」
アニムスが沈痛な表情を浮かべ、断言する。ベオウルフは頷くしかなかった。更に、銃声が鳴り響いている。ただ、西日と木々に阻まれ、敵の居場所が分からない。だからと言って迂闊に飛び出せば、銃の良い的である。
「ふむ」
アニムスたちの背後で、頷くような声が聞こえた。同時に、巨大な橙色の球体が出現する。爆球だ。そう思った時には、轟音が聞こえてくる。目の前の林が、爆発により吹き飛び、燃えていた。
ファイが、アニムスとベオウルフの後ろに立っていた。その右手の先で、爆球が回転している。
「どうだ、明るくなったろう」
ファイが後ろを振り返る。そこにはミリオットが立っていた。
「ミリオット君。これで相手は隠れられなくなったな」
「やれやれ、強引すぎやしませんかね」
声の先には、二人の人影が見えた。いや、二人と言っていいのだろうか。一人は、人間だ。おそらく、今の言葉を述べた方だろう。全く感情のない声で話し、赤い斑点の混じった黒い翼を持っているオルニスだ。手に、得物と思われる槍を持っている。
もう一人は、いや、一人と言っていいのだろうか。オルニスの三倍の背丈を持つ、人型の機械だった。赤色の塗装が為されたそれは、左手に銃を、右手に四叉に分かれた槍を持っている。どちらも、セルジュの持つ斧と大差ないほどの大きさだった。更に、背中と両肩に複数の大砲が合わさったような兵器を装備している。
「あれは?」
レイが思わず呟く。
「さあ、何だろうな」
オルニスの女性が無表情に呟くと、その姿が消える。気配もなくなった。この場から、離脱したのだろう。つまり、この場に残された敵は人型の機械だけである。
「お前、なんであれに気が付かなかったんだよ」
人の背丈の三倍もある機械を見上げながら、アニムスが呟く。敵の数は減ったが、大きな脅威であることに変わりはない。
「迷彩のせいだろう。ああ言うからくりには往々にして迷彩処理が施されている」
「ああ、迷彩なら仕方ない」
ただ、と言わんばかりにレイが機械を見る。機械は、迷彩からは程遠い綺麗な赤色をしていた。
「夕方だから、夕日が赤いのが悪いんだよ」
ベオウルフが苦しい言い訳を告げる。実際のところは、ベオウルフも気づかないような遠くに隠れていたのだろう。脚部についた加速装置が、その機動性を物語っていた。
「神々の力を」
そう告げると、フルールが支援の魔術を唱え始める。更に、ルナも支援の魔術をセリスたちにかけていた。
「やれやれ、おれは下がっていた方が良さそうだな」
そう告げたベオウルフが、ファイとともに下がる。
人型の機械が、左手の銃を掲げた。人の顔より大きい銃口が、セリスたちを向く。先ほどより大きな銃声と共に、人の頭ほどの銃弾が発射された。それがセリスたちの手前で地面にぶつかると、紫色の煙がまき散らされていく。毒だった。レイとアニムスは即座にその場から飛びずさる。セリスも近くにいたルナを庇うと、後ろに下がった。ミリオットとフルールだけが煙に巻き込まれる。
そこに、閃光が走った。背中と両肩に載せた大砲から、光線が撃ち出されている。それも、ジャガーノートのものより格段に太い。
「こんなものかな」
それを、セリスが正面から受けていた。普段ならオランジュとの息の合った動きで避けているところだろう。だが、今のセリスは馬から降りていた。おまけに、ミリオットとフルールを庇う必要もある。
盾と鎧を器用に使い、光線の勢いを最大限に押し殺していた。更に、フルールが防御壁を作り出している。煙が晴れた。激しく咳込んでいるミリオットとは対照的に、フルールは平然と杖を構えている。毒が、フルールには効いていないのだ。
「吸引することで効果のある毒であれば、息を止め続けることで無力化はできますが」
フルールの様子を見ながら、ルナが驚いた声色で呟いた。確かに、フルールは目と口を閉じている。その状態で、正確に魔術を唱えていた。並の精神力で、出来ることではない。ルナが感心する横で、更に支援の魔術をセリスたちにかけていく。ルナもまた、セリスたちに指示を出し始めた。これまでの動きから、人型機械の特徴をほぼ理解したのだ。
レイが銃を抜き撃ちで放つ。それは、寸分違わず人型機械の留め金を撃ち抜き、装甲板を引き剥がしていた。
「これでもう、奴の鎧は役に立たない」
更にもう一度、銃声を轟かせる。その弾は、人型機械がちょうど構えようとした銃に吸い込まれていった。激しい音と共に、銃から黒煙が上がる。
だが、人型機械の攻撃も終わらない。レイの銃声と同時に、人型機械の背中と両肩につけられた大砲が光を帯びる。次の瞬間には、セリスたち目掛け極太の光線が放たれていた。
「任せてくれ」
声と同時に、セリスたちの周囲に烈風が走る。ミリオットが、咳込みながらも魔術を唱え始めていた。三本の竜巻が光線の軌道を巧みに逸らしていく。
その合間を縫って、セリスが鎚を片手に突っ込んでいた。人型機械の脚部を狙い、三度鎚が閃く。更に、ミリオットが炎渦竜巻を放っていた。人型機械のあちこちに、亀裂が入っていた。ただ、致命傷には至っていない。
人型機械が、右腕の槍を構えた。そこに、すかさずレイが抜き撃ちで銃弾を放つ。
「やらせねえよ」
「そして、もう使わせない」
人型機械の左腕が、ごとりと落ちた。アニムスが、その肩に乗っている。その拳が、腕と肩の接続部分を粉々に打ち砕いていた。
人型機械の顔面に蹴りを入れながら、アニムスが離脱する。直後に、右腕も吹き飛んでいた。レイの銃弾が、腕と肩の接続部分を射抜いたのだ。
「後は本体だけだな」
セリスが再び鎚を振るい、ミリオットの破壊暴風が人型機械の胴体を刻んでいく。だが、まだ人型機械は動いていた。背中と両肩の大砲が、再び輝き始める。
だが、その輝きが放たれることはなかった。レイが放った銃弾により、大砲から黒煙が上がっていく。
そこに、アニムスが拳を叩きこんでいた。人型機械が、吹き飛んでいく。
立ち上がろうとした人型機械が、音を立てて崩れ落ちた。その胴体から人が這い出てくる。操縦士なのだろうか。赤く短い髪をした女性である。その日に焼けた顔に、ミリオットはどこか見覚えを感じた。
だが、ミリオットが何かを告げるより先に、アニムスが動いていた。機械の破片を手に取ると、女性への距離を一気に詰める。
「ふむ」
いつの間にか、先ほど撤退したはずのオルニスがやって来ていた。赤髪の女の隣で、呟く。
「ここは撤退だな」
赤髪の女性が頷くと同時に、二人の姿が消えた。アニムスの攻撃が、虚空を切る。人型機械も、同時に消え去っていた。
「あれ、この辺りは転送石がつかえるんですか?」
虚をつかれたような表情でルナが尋ねる。ベオウルフが頷いた。
「場所によるな。ここに入る時に専用の転送石を渡しただろう。そう言った転送石の効果を使えるようにするためかわからないが、この辺りは部分的に転送石が使えるようになっている。おれも、場所の区別はつかん」
「ややこしいですね」
納得しきった顔ではないが、ルナが頷いている。とは言え、ひとまずの脅威を退けたことで、セリスたちには安堵の表情が広がっていた。
「ひとまず、戻りましょう」
ルナの言葉を受け、アニムスが頷く。
「流石に疲れたからな」
「あんなにジャガーノートがいっぱい出てくるとは思わなかったしな」
レイも疲れた表情で告げる。転送石を使い、セリスたちもまたミシロへと戻って行った。
「では。わたしは今回得た資金を動かすことになるので」
ルナが告げた。アシェラやベオウルフと共に、リシア財団の資産を運用していくのだろう。休む間は、ほとんどない。他の面々も、それぞれの持ち場へと戻り始める。帰路につくミリオットの隣に、ファイがやって来た。
「ミリオット君。あの機械に乗っていた女」
ファイの声は、高くもなければ、低くもなかった。ミリオットが頷く。
「ああ、そうだな。見間違えがなければ、あいつだった」
「良かった」
しばしの沈黙の後、呟くようにファイが告げる。その瞳が、僅かに潤んでいることにミリオットは気が付いた。
「例えどんな関係だろうと、生きているアクセナ君を見れて、本当に良かった。生きていると思っていたけど、信じていたけど、それでも」
突然、ミリオットの胸にファイが飛び込んで来た。涙を、堪えきれなかったのだろう。しばらく、無言でファイは顔を埋めていた。顔を上げる。
「べ、別に泣いてなんかいないからな」
目を真っ赤にしながら告げるファイに、ミリオットが苦笑するしかなかった。
「今日は疲れただろう、ファイ。もう、戻ろう」
「そうだな、ミリオット君。今日は帰ろう。一刻も早く、お前を爆破術で泣かせる準備が必要だからな」
ファイは笑顔を見せると、いつも通りの声色で話しかけてくる。ミリオットは、近くにジャンヌがいないことを感謝するだけだった。
年が明けていた。暖かいホウエンの台地であっても、冬となれば上着が必要な寒さになってくる。
外套を羽織りながら、レイはデムーラン城塞の物見櫓に登っていた。一人である。フェミナは騎馬隊の訓練をしており、フェルグスは休みのはずだった。
ハーテン教徒との戦いは、これからが本番だった。北東にあるシダイナ川を渡った先は、ハーテン教徒が占拠している。南のシーキンセツや南西のトウカも、ハーテン教徒が占めていた。それらの都市から、湧き出るように信者が押し寄せてくるのだろう。
「レイ、探しましたわ」
櫓を登る音と共に、声が聞こえてきた。ラーチェルだ。もともと民政はルナ、軍務はラーチェルと担当を分けていたようだったが、最近はセリス軍全体とミシロについてはルナが担当し、ラーチェルはデムーラン城砦にかかりきりになっていることが多い。やがて、デムーラン城砦の専従になるかもしれないとラーチェルが話していた。
「あなたに、伝えておきたいことがありますの」
ラーチェルがレイを真直ぐに見つめてきた。その顔は、夕日が照らされて赤く染まっている。
「クロエのことですわ。カタスト大将軍の下で、活躍しているのはご存じでしょう」
もちろん、知っていた。カタスト軍は、マサラとワカバの間に駐屯し、ハーテン教徒の北進を完全に防いでいる。特に、クロエが率いる五百の騎馬隊は活躍が目覚ましく、光の矢のように速く鋭い動きを見せているようだ。
ベルサリウスが率いる騎馬隊相手に、互角の戦いを何度も繰り広げたとの報告も入っている。ベルサリウスの騎馬隊は百ほどしかいないが、数が全てではないことはセリスの騎馬隊やセインの遊撃隊、そしてレイ個人の射撃の腕が示していた。
「その功を買われて、クロエはミナモの守備隊長としてハーテン教徒を迎撃することになりましたの。およそ、二千ほどの部隊がそこに回されると聞いていますわ」
ミナモはホウエン大陸部の東端、ミナリビ川の東端に位置する港町である。トクサネやサイユウなど、ホウエン西部の海上に点在する島々との交易に欠かせない場所で、カナズミ、カイナ、キンセツに次ぐホウエン第四の都市として発展していた。
現在、ホウエン西部の大半を手中に収めたハーテン教徒本隊は、東進を続けている。既に、ヒワマキまでがハーテン教徒のものとなっていた。唯一、ホウエンでハーテン教徒に抵抗できる勢力と言えば、セリス軍くらいだろう。
そう考えれば、ホウエン東端のミナモに強力な軍ができることは望ましい。もし、ハーテン教徒がミナモまで支配した場合、多くの兵力をセリス軍との戦いに回せるようになってしまうためだ
だが、ハーテン教徒もそれは理解している。ミナモを巡り、厳しい戦いが展開されることは想像に難くなかった。
「だから、レイ。お願いがありますの」
「お願い?」
レイが尋ね返す。ラーチェルは頷くと、レイを真正面から見つめてきた。
「わたくしがクロエの下に向かうことに、賛成してくださる?」
ラーチェルは、レイから目を逸らすことなく言葉を続ける。
「もちろん、わたくしはセリス軍の所属ですから、反対されてまでいくことはできないでしょうし、クロエもそれを望んでいないと思いますわ。ただ、二千の兵でミナモを守りきるには、戦略と戦術が必要になりますの。カタスト大将軍がクロエの実力を評価して下さったのは嬉しいですが、クロエに死なれたくはありませんわ。あなたが賛成してくれれば、セリスやルナさんも強く反対できないと思いますの。だから、レイ。お願いしますわ」
ラーチェルが頭を下げてくる。その緑髪が風に棚引かれるのを、レイはしばし見つめていた。
「わかった」
しばしの間の後、レイが静かに告げる。ラーチェルが、顔を上げた。言葉を確認するように、再びレイを見つめる。レイはゆっくりと口を開いた。
「ラーチェル、お前は行っていい。ただし、おれも行く」
流石に、レイの言葉は想定外だったのだろう。ラーチェルが目を丸くする。
実を言えば、ラーチェルの要望はレイにとって予想の範疇にあった。もちろん、レイはクロエがミナモに派遣されることを知っていたわけではない。
ただ、クロエがカタストの下に向かった時から、クロエが何らかの任務に就く可能性はあると考えてきた。もちろん、その任務によっては、ラーチェルが全てを擲ってでもクロエの下に戻りたがることも含めてである。
その場合、状況が許せば自分も同行したいと以前からセリスやルナには話していた。その場合にデムーラン城砦を任せることになるフェミナや、元々連携することが多かったアニムスも知っている。
「もちろん、あなたが来てくだされば心強いとは思いますわ。でも、レイ。デムーラン城砦の守りはどうされることになりますの?」
「フェミナ姉がいる」
慌てたようなラーチェルの言葉に、落ち着いてレイが告げる。このところ騎馬隊を指揮することが増えていたが、フェミナはゲン軍との戦いで生き残った老練な指揮官だ。これまでの武功はセインに次ぐものがあり、ゲン軍との戦いの中でユリアンヌからデムーラン城砦の守りが何たるかを叩きこまれてもいる。この砦を任せても、問題はなかった。
「でも、セリスが何と言うか」
「それは、問題ないと思うぞ」
レイはにやりと笑った。その晩、転送石を使ってレイとラーチェルはセリスの下へと向かう。いきり立つラーチェルを制し、レイが落ち着いて話し始めた。
「『ゼロ』が一緒に行くだなんて、これ以上にはない護衛だね」
一通り事情を聞いた後、セリスが笑って告げる。ラーチェルが、唖然とした顔をしていた。
「デムーラン城砦は、フェミナさんに任せてくれ。彼女なら大丈夫だ」
「分かったよ」
セリスが頷く。これで、決まりだった。
「嫌なんですか、ラーチェルさん?」
近くにいたルナが口を挟んでくる。ラーチェルの表情が、朱に染まった。
「その言葉は、狡いと思いますわ」
ルナとの間で、軽い言葉の応酬が始まる。だが、嫌だとは一言も言わなかった。ラーチェルは、耳まで赤くなっている。
「『ゼロ』、ラーチェル、久しぶりだな」
十日が経ち、クロエがやって来た。長い金髪が、風に棚引いている。風の強い日だった。数か月ぶりの、再会である。レイの記憶にあるクロエと比べ、大きく変わったところがあるかと言えば、そうでもない。ただ、以前より自然だった。もともと、こうだったのだろう。セリス軍を離れる前までは、フルールの姉として、数少ない指揮官の経験者として、周りの補佐に回らざるを得なかった。そんな状況が、彼女を重くしていたのだろう。
カタスト軍に行ってからも戦いは多かったと思うが、より彼女らしさを出して行動できたはずだ。人を惹きつける力は、元々存分に備わっていると聞いている。
「クロエ!」
声と同時に、ラーチェルがクロエに飛び込んでいた。クロエがラーチェルを抱き締めると、ラーチェルが幸せそうにその胸に顔を埋めていた。
「すまないな、『ゼロ』。わたしがミナモを任されるようになったばかりに、お前とラーチェルを一時的に連れて行くことになってしまって」
ラーチェルの頭に手をやりながら、クロエが申し訳なさそうに首を横に振る。ラーチェルの長い髪が風に吹かれ、近くにいるレイの腕に触れていた。
「なに、気にするな。君に死なれると、フルールが悲しむ。それに」
「それに?」
「君とフルールのお母さんには傭兵時代にお世話になったからな」
レイは静かに告げた。この世には、戦いで死なれて欲しくない人間が何人もいる。レイにとって、クロエとフルールの姉妹はそんな人間に含まれていた。
彼女たちの母である、キーナ・ローランサンにレイは二度命を救われていた。一度目は、まだレイが七歳だったころ。そして二度目は、半年近く前、シナト村でのことだった。そして、その借りを返すことなくキーナは死んでいる。
その遺児である二人に何かあったら、彼女の墓に顔向けできないとレイは考えていた。
「そうか。正直なところ、『ゼロ』が一緒に来てくれるのはありがたい。『ゼロ』の射撃の腕は、戦況を変えるからな」
ところで、とクロエが近くにいるアニムスを見る。アニムスが、きょとんとした顔でクロエを見た。
「どうした?」
「ラーチェルからの手紙で薄々察してはいたんですが、この二人はいつからこんな仲になったんですか?」
きょとんとしていたはずのアニムスの顔が、見る見るいつもの表情に戻っていくのを、レイは黙って見ているしかなかった。
「鋭いねえ」
アニムスが楽しそうに告げる。
「語ると長くなるんだが」
「クロエ、それは誤解だから」
ラーチェルが顔を真っ赤にしながら、慌てた口調で告げる。アニムスが、余裕のある表情でクロエを見た。
「クロエ君。今晩歓迎会を開くから、その席でいいかい」
クロエもにこりと笑う。
「もちろん、楽しみにしていますよ」
「アニムスさん、おれたちは別に何もやましいことなんて」
「大丈夫だよ。『ゼロ』、ラーチェル。若い男女なんだから、自然なことさ」
アニムスが笑いながら告げる。ラーチェルは、唖然とした表情で絶句していた。
「いや、あの、アニムスさん」
「『ゼロ』、言い訳は見苦しいぞ」
レイが何かを言うより先に、アニムスが告げる。
「言い訳をしているわけじゃあないんだが」
レイの言葉は、アニムスの笑顔の前にただただ小さくなるばかりだった。
「セリス」
そんな二人のやり取りに笑った後、クロエがセリスを見る。
「『ゼロ』とラーチェルを借りていくぞ。三月だ」
クロエが、指を三本立てる。
「三月の間だけ、二人を借りる。その間に、ミナモの戦況を何とかしてみせる」
ハーテン教の侵攻は、来月にも本格化するだろう。その戦いをしのぎ切れるかだった。それと、その後の立て直しで三月なのだろう。
「そんなに急いても危ないんじゃない? 一つ一つ、ゆっくりとだね」
セリスが告げると、アニムスもクロエたちに笑いかける。
「ま、セリス軍にはおれもいるから安心してくれよ」
二人の言葉に、クロエがにこりと笑った。
「そうですね。セリス、アニムス隊長、こっちは頼みます」
一際強い風が、レイたちの間を通り抜けた。クロエの長髪が、風に棚引いている。
外套を羽織りながら、レイはデムーラン城塞の物見櫓に登っていた。一人である。フェミナは騎馬隊の訓練をしており、フェルグスは休みのはずだった。
ハーテン教徒との戦いは、これからが本番だった。北東にあるシダイナ川を渡った先は、ハーテン教徒が占拠している。南のシーキンセツや南西のトウカも、ハーテン教徒が占めていた。それらの都市から、湧き出るように信者が押し寄せてくるのだろう。
「レイ、探しましたわ」
櫓を登る音と共に、声が聞こえてきた。ラーチェルだ。もともと民政はルナ、軍務はラーチェルと担当を分けていたようだったが、最近はセリス軍全体とミシロについてはルナが担当し、ラーチェルはデムーラン城砦にかかりきりになっていることが多い。やがて、デムーラン城砦の専従になるかもしれないとラーチェルが話していた。
「あなたに、伝えておきたいことがありますの」
ラーチェルがレイを真直ぐに見つめてきた。その顔は、夕日が照らされて赤く染まっている。
「クロエのことですわ。カタスト大将軍の下で、活躍しているのはご存じでしょう」
もちろん、知っていた。カタスト軍は、マサラとワカバの間に駐屯し、ハーテン教徒の北進を完全に防いでいる。特に、クロエが率いる五百の騎馬隊は活躍が目覚ましく、光の矢のように速く鋭い動きを見せているようだ。
ベルサリウスが率いる騎馬隊相手に、互角の戦いを何度も繰り広げたとの報告も入っている。ベルサリウスの騎馬隊は百ほどしかいないが、数が全てではないことはセリスの騎馬隊やセインの遊撃隊、そしてレイ個人の射撃の腕が示していた。
「その功を買われて、クロエはミナモの守備隊長としてハーテン教徒を迎撃することになりましたの。およそ、二千ほどの部隊がそこに回されると聞いていますわ」
ミナモはホウエン大陸部の東端、ミナリビ川の東端に位置する港町である。トクサネやサイユウなど、ホウエン西部の海上に点在する島々との交易に欠かせない場所で、カナズミ、カイナ、キンセツに次ぐホウエン第四の都市として発展していた。
現在、ホウエン西部の大半を手中に収めたハーテン教徒本隊は、東進を続けている。既に、ヒワマキまでがハーテン教徒のものとなっていた。唯一、ホウエンでハーテン教徒に抵抗できる勢力と言えば、セリス軍くらいだろう。
そう考えれば、ホウエン東端のミナモに強力な軍ができることは望ましい。もし、ハーテン教徒がミナモまで支配した場合、多くの兵力をセリス軍との戦いに回せるようになってしまうためだ
だが、ハーテン教徒もそれは理解している。ミナモを巡り、厳しい戦いが展開されることは想像に難くなかった。
「だから、レイ。お願いがありますの」
「お願い?」
レイが尋ね返す。ラーチェルは頷くと、レイを真正面から見つめてきた。
「わたくしがクロエの下に向かうことに、賛成してくださる?」
ラーチェルは、レイから目を逸らすことなく言葉を続ける。
「もちろん、わたくしはセリス軍の所属ですから、反対されてまでいくことはできないでしょうし、クロエもそれを望んでいないと思いますわ。ただ、二千の兵でミナモを守りきるには、戦略と戦術が必要になりますの。カタスト大将軍がクロエの実力を評価して下さったのは嬉しいですが、クロエに死なれたくはありませんわ。あなたが賛成してくれれば、セリスやルナさんも強く反対できないと思いますの。だから、レイ。お願いしますわ」
ラーチェルが頭を下げてくる。その緑髪が風に棚引かれるのを、レイはしばし見つめていた。
「わかった」
しばしの間の後、レイが静かに告げる。ラーチェルが、顔を上げた。言葉を確認するように、再びレイを見つめる。レイはゆっくりと口を開いた。
「ラーチェル、お前は行っていい。ただし、おれも行く」
流石に、レイの言葉は想定外だったのだろう。ラーチェルが目を丸くする。
実を言えば、ラーチェルの要望はレイにとって予想の範疇にあった。もちろん、レイはクロエがミナモに派遣されることを知っていたわけではない。
ただ、クロエがカタストの下に向かった時から、クロエが何らかの任務に就く可能性はあると考えてきた。もちろん、その任務によっては、ラーチェルが全てを擲ってでもクロエの下に戻りたがることも含めてである。
その場合、状況が許せば自分も同行したいと以前からセリスやルナには話していた。その場合にデムーラン城砦を任せることになるフェミナや、元々連携することが多かったアニムスも知っている。
「もちろん、あなたが来てくだされば心強いとは思いますわ。でも、レイ。デムーラン城砦の守りはどうされることになりますの?」
「フェミナ姉がいる」
慌てたようなラーチェルの言葉に、落ち着いてレイが告げる。このところ騎馬隊を指揮することが増えていたが、フェミナはゲン軍との戦いで生き残った老練な指揮官だ。これまでの武功はセインに次ぐものがあり、ゲン軍との戦いの中でユリアンヌからデムーラン城砦の守りが何たるかを叩きこまれてもいる。この砦を任せても、問題はなかった。
「でも、セリスが何と言うか」
「それは、問題ないと思うぞ」
レイはにやりと笑った。その晩、転送石を使ってレイとラーチェルはセリスの下へと向かう。いきり立つラーチェルを制し、レイが落ち着いて話し始めた。
「『ゼロ』が一緒に行くだなんて、これ以上にはない護衛だね」
一通り事情を聞いた後、セリスが笑って告げる。ラーチェルが、唖然とした顔をしていた。
「デムーラン城砦は、フェミナさんに任せてくれ。彼女なら大丈夫だ」
「分かったよ」
セリスが頷く。これで、決まりだった。
「嫌なんですか、ラーチェルさん?」
近くにいたルナが口を挟んでくる。ラーチェルの表情が、朱に染まった。
「その言葉は、狡いと思いますわ」
ルナとの間で、軽い言葉の応酬が始まる。だが、嫌だとは一言も言わなかった。ラーチェルは、耳まで赤くなっている。
「『ゼロ』、ラーチェル、久しぶりだな」
十日が経ち、クロエがやって来た。長い金髪が、風に棚引いている。風の強い日だった。数か月ぶりの、再会である。レイの記憶にあるクロエと比べ、大きく変わったところがあるかと言えば、そうでもない。ただ、以前より自然だった。もともと、こうだったのだろう。セリス軍を離れる前までは、フルールの姉として、数少ない指揮官の経験者として、周りの補佐に回らざるを得なかった。そんな状況が、彼女を重くしていたのだろう。
カタスト軍に行ってからも戦いは多かったと思うが、より彼女らしさを出して行動できたはずだ。人を惹きつける力は、元々存分に備わっていると聞いている。
「クロエ!」
声と同時に、ラーチェルがクロエに飛び込んでいた。クロエがラーチェルを抱き締めると、ラーチェルが幸せそうにその胸に顔を埋めていた。
「すまないな、『ゼロ』。わたしがミナモを任されるようになったばかりに、お前とラーチェルを一時的に連れて行くことになってしまって」
ラーチェルの頭に手をやりながら、クロエが申し訳なさそうに首を横に振る。ラーチェルの長い髪が風に吹かれ、近くにいるレイの腕に触れていた。
「なに、気にするな。君に死なれると、フルールが悲しむ。それに」
「それに?」
「君とフルールのお母さんには傭兵時代にお世話になったからな」
レイは静かに告げた。この世には、戦いで死なれて欲しくない人間が何人もいる。レイにとって、クロエとフルールの姉妹はそんな人間に含まれていた。
彼女たちの母である、キーナ・ローランサンにレイは二度命を救われていた。一度目は、まだレイが七歳だったころ。そして二度目は、半年近く前、シナト村でのことだった。そして、その借りを返すことなくキーナは死んでいる。
その遺児である二人に何かあったら、彼女の墓に顔向けできないとレイは考えていた。
「そうか。正直なところ、『ゼロ』が一緒に来てくれるのはありがたい。『ゼロ』の射撃の腕は、戦況を変えるからな」
ところで、とクロエが近くにいるアニムスを見る。アニムスが、きょとんとした顔でクロエを見た。
「どうした?」
「ラーチェルからの手紙で薄々察してはいたんですが、この二人はいつからこんな仲になったんですか?」
きょとんとしていたはずのアニムスの顔が、見る見るいつもの表情に戻っていくのを、レイは黙って見ているしかなかった。
「鋭いねえ」
アニムスが楽しそうに告げる。
「語ると長くなるんだが」
「クロエ、それは誤解だから」
ラーチェルが顔を真っ赤にしながら、慌てた口調で告げる。アニムスが、余裕のある表情でクロエを見た。
「クロエ君。今晩歓迎会を開くから、その席でいいかい」
クロエもにこりと笑う。
「もちろん、楽しみにしていますよ」
「アニムスさん、おれたちは別に何もやましいことなんて」
「大丈夫だよ。『ゼロ』、ラーチェル。若い男女なんだから、自然なことさ」
アニムスが笑いながら告げる。ラーチェルは、唖然とした表情で絶句していた。
「いや、あの、アニムスさん」
「『ゼロ』、言い訳は見苦しいぞ」
レイが何かを言うより先に、アニムスが告げる。
「言い訳をしているわけじゃあないんだが」
レイの言葉は、アニムスの笑顔の前にただただ小さくなるばかりだった。
「セリス」
そんな二人のやり取りに笑った後、クロエがセリスを見る。
「『ゼロ』とラーチェルを借りていくぞ。三月だ」
クロエが、指を三本立てる。
「三月の間だけ、二人を借りる。その間に、ミナモの戦況を何とかしてみせる」
ハーテン教の侵攻は、来月にも本格化するだろう。その戦いをしのぎ切れるかだった。それと、その後の立て直しで三月なのだろう。
「そんなに急いても危ないんじゃない? 一つ一つ、ゆっくりとだね」
セリスが告げると、アニムスもクロエたちに笑いかける。
「ま、セリス軍にはおれもいるから安心してくれよ」
二人の言葉に、クロエがにこりと笑った。
「そうですね。セリス、アニムス隊長、こっちは頼みます」
一際強い風が、レイたちの間を通り抜けた。クロエの長髪が、風に棚引いている。