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Dグループ第七話『籠城』


今回予告

―H271年8月、各地にいるハーテン教の信者たちが一斉に蜂起した。信者たちからデムーラン城砦を奪取したセリスたちは旗を掲げ、ハーテン教徒との戦いを開始する。最初の目的は、デムーラン城砦の死守だった。信者たちの大軍を相手に僅かな手勢で奮闘するセリスたちに、一人の男が立ちはだかる。その名はベルサリウス。フルールの母、キーナの仇だった。ベルサリウスや傭兵たちとの戦いの中で、セリスたちはミシロとコトキを奪うべく動き出す―

登場人物

※年齢は271年現在のものです

PC


セリスたちの同行者

セインとモズメの娘。セリスやミリオットの幼馴染でバレー私塾『十傑』の一人。礫と馬の名手。父と同じく緑色が好き。
陽気で明るい性格。両親から譲られた緑色の布袋を腰から下げている。セリスと共に騎馬隊の編成を担当する。

タマムシ大学におけるミリオットの友人。爆破術の使い手。
大人しい性格だが、好敵手と認めたミリオットの前では対抗心を剥き出しにする。

バレー私塾『十傑』の一人。クロエと同い年で親友。親友であるクロエに対し並々ならぬ思いを持っている。
クロエと共に訓練をこなすレイに突っかかることが多い。

傭兵。金髪で、前髪を高く上げている。見事な剣技を持つが、レイと同じく北での任務を避ける。
女性と間違えてナルセスに告白した過去を持つ。レイ、クロエと共に歩兵部隊を担当。

フルールの姉。ソレイユとキョウコの娘となっているが、実際はゲンとジェナーラの娘。バレー私塾『十傑』の一人。
金髪緑目、白い翼を持つ。闊達な性格。キッサキの守備隊の一員として活躍した後、コトキでアニムスの部下となる。
レイ、フェルグスと共に歩兵部隊を担当。

コトキ太守。青髪に青い髯を持っており、『青髭』と称されることも多い。
セリスを頭として、デムーラン城砦でハーテン教徒に対抗しようとしている。

アニムスの部下の旗手。膂力に優れ、逞しい腕を持っている。ただ、見た目に反し臆病で常識的な性格。
そのため、アニムスやかつての隊長だったセルジュに振り回され胃を痛めている時も多い。

  • モンケ(ヴァーナ(アウリル)、男性、21歳)
レイリアの弟子。琥珀色の髪を持つ。人より馬と話すことを好む性格。
師匠であるレイリアの仇として、ハーテン教徒との戦いを望む。

シナト村の警護隊長。モミジ・シューターのもとで育てられた孤児。アニマのような剣士を目指している。
ただ、兵になることをモミジに反対されたため家出同然の形になっている。

同行者以外のセリスたちの関係者

ジャンヌの父でモズメの夫。シアルやユリアンヌの元同僚で、現在はリシア財団の役員。
礫の達人。緑色が好きで、緑衣の外套を好んで身に付けている。

ジャンヌの母、セインの夫。もとシアル軍の歩兵隊長。軍人として天賦の才能を持ち、特に弓の技術はずば抜けたものを持つ。
シアルの形見である『瑠璃色の首飾り』と青い腕輪の所持者。

ゴサリンの年長の友人。金髪を長く伸ばしている。独特の口調と魔術師は格好よくあれとの信念の持ち主。
リシア財団の一員として、ハーテン教徒の動向を見張っている。

コダマの娘。通称ディーネ。水色の髪を持つ。名前のみの登場。

騎銃隊の隊長。キッサキで妖魔との戦いを続けている。独身。
レイとは姉弟のような関係。アニムスの要請を受け、部下を連れてコトキに向かう。

コトキ、ポケトピアなどの元太守。現在は引退しリシア財団の役員。ダニエルの親友。
頭を剃っており、毎朝丁寧に頭を磨いている。その光の反射は、武器だと考える人が出るほどに眩い。

  • セルジュ(ドラゴネット(メディオン)、女性、28歳)
元トバリの将校で、アニムスの同僚。桃色の髪を持つ大柄な女性。両耳に竜の特徴が出でおり、竜のような耳を持つ。
豪快な性格で、どこか反権力的な面を持つ。竜が好き。現在はシーキンセツで歩兵隊を率いる。

イタガキ商会の若き頭取。長い銀髪を一つにまとめ、女性のような顔立ちをしている。
情報に重きを置いており、情報が途絶したデムーラン城砦近辺の状況を探ろうとする。

イタガキ商会の正式な跡継ぎ。色黒。アシェラの副官として日夜働いている。

キーナが率いていた騎馬隊の隊長の一人。セリスの副官となる。

キーナが率いていた騎馬隊の隊長の一人。ジャンヌの副官となる。

セリスたちの関係者(新規)

シーキンセツに住む神官。全盲で、普段は杖とコシュートの補佐を受けて生活している。
転移の術を取得しており、キッサキとシーキンセツを自在に行き来できる。

オフィーリアの騎士を務める海獺。人語を介す。語尾に「ミジュ」とつけているが、意図的なのか勝手についてしまうのかは不明。
得物はシェルブレード。

  • ラディ(ヴァーナ(アウリル)、男性、42歳)
影の軍の隊長の一人。リシア財団所属。セリスたちに協力する。

影の軍の隊長の一人。リシア財団所属。日に焼けた黒い肌の持ち主。コトキの兵糧庫襲撃を担当。

ミシロに住む医者

セリス軍・リシア財団の関係者(戦病没者、没順)

フルールとクロエの母。ソレイユの妻。金髪で非常に大柄。フォール軍の騎馬隊を率いていた。
傭兵団との戦いの中でナルセスを追い詰めるが、乱入したベルサリウスに倒される。

シアル軍の馬匹担当。コトキの近くで牧場を経営しており、現在もその時の仲間やリシア財団とは繋がりを持っている。
シアルやセインが乗っていた馬の子孫を放牧しており、セリスとジャンヌに譲る。
ハーテン教徒の襲撃を受け死亡。


その他

コトキで記憶喪失となっていた所を発見される。赤髪、日に焼けたような肌の持ち主。
錬金術やからくりに対する造詣が深く、記憶を失う前はその知識を活かした職に就いていたと考えられている。

獣医。名前だけの登場。

ハーテン教徒軍

トキワの森にすむ猟師。常人離れした体力と武術の腕を持つ。賊に追われていたフルールを助けた。
ナルセスと知り合い、ナルセスを庇う形でキーナを斬り殺す。現在はナルセスに同行。

猛安と呼ばれる傭兵団の隊長。桃色の髪を一つにまとめ、女性のような顔立ちをしている。
刀の達人で、黒刀と呼ばれる細身の倭刀を巧みに操る。キーナとの戦いで危機一髪のところをベルサリウスに救われる。

アニムス、セルジュの上官。ハーテン教の教祖であるハーテンとも昔からの付き合いがある。
無実の罪を着せられたことがきっかけでヒロズ国を出奔。ハーテンの協力者としてヒロズ国に戦いを挑む。

ハーテン教教祖。無意識のうちに人を惹きつける才能を持つ。
元はヒワダの街医者。布教活動を行いながら、叛乱の計画を練っていた。

金髪緑目。赤い斑点が混じった黒い翼と感情を持たないかのような表情と声色の持ち主。槍を得物とするが、体術を最も得意としている。

ハーテン教徒軍(新規)

ハーテンの副官。名前だけの登場。ヒロズ国の通信を妨害しようと目論む。

シーキンセツを攻めるハーテン教徒の隊長。

  • ラズィーヤ(ヒューリン(ハーフネヴァーフ)、女性、22歳)
猛安の隊員。他の地域に向かったナルセスに代わり、コトキにいる傭兵団をまとめる。

  • ロージャ(ヒューリン(ハーフセラトス)、男性、34歳)
ドフトエフスキー傭兵団の隊長。眼帯をつけた大男。斧を操る。

内容

 蝉の声が、鳴り響いている。夏の盛りだった。とにかく、暑い。噴き出てくるような汗を時折拭いながら、ベオウルフは小さな村の中を歩いていた。目的の家に辿り着く。
「久しぶりだな。ベオウルフ」
 オドリックの頭は、夏の日差しを受けて一際眩しく輝いている。その輝きが、時として射してくる光よりも強くなっていることにベオウルフは気付いていた。
「ベオウルフ、元気にしているか?」
 光の眩さで気が付かなかったが、その場にはもう二人の人間がいた。アシェラとエマ・イタガキだ。二人ともイタガキ商会と呼ばれるホウエン南部を拠点とする商会の人間で、リシア財団と協力することも多い。ベオウルフも何度か共に仕事をしていた。ベオウルフは頷く。
「ああ、おれは元気にしているさ」
 ベオウルフの言葉に、アシェラが安心したように頷き返してくる。
 ベオウルフ本人は、確かに元気だった。ただ、家族まで入れるとそうともいかない。ベオウルフの妻は何年も前に亡くなり、一人息子だったデルムッドは出奔している。ただ、家族のことまでアシェラに話す必要はなかった。
「私もエマも元気で過ごしているよ。私たちの周りで大きな問題があるわけではないしな」
「ついこの間、川を船で渡ろうとした時は大変でしたけどね」
 エマの言葉に、アシェラが苦笑する。ひとまとめにした長い銀髪と顔立ちも相まって、一見すると女性としか思えない。女性として考えれば声がやや低いとはいえ、アシェラの性別に疑いを抱かせるほどのものではなかった。
「エマ、それは忘れてくれ。そもそも、物流の流れを実際に体験するのは大切ですとか言って無理やり乗せようとしたのはお前じゃないか。今度、私の手料理を食わせるぞ」
「そんなことをしたら、今度船に乗った時に甲板から突き落としますよ」
 二人の軽口が続く。アシェラが全く泳げない人間であり、逆にエマは水中で生まれたのではないかと思うくらいに泳ぎが得意だと聞いたことがあった。二人の話しぶりから察するに、どうやら本当らしい。その様子を見ながら、オドリックが口を開いた。
「後、もう一人来る予定なんだ。そろそろ来ると思うんだが」
 その時、ベオウルフの背後で扉が大きく開く。瞬時に、部屋に光が満ち渡った。
「うわっ、まぶしっ」
 うっかり直視してしまったのだろう。アシェラが思わず呟いている。
「オドリックさん、相変わらず神々しい光ね。わたしの魔術も神々の恩寵を受けながら日々熟達しているけど、まだあなたの『太陽』のような輝きには勝てないわ」
 金色の髪をたなびかせながら、女性が入ってきた。コダマ・リィだ。更に、その後ろから紫色の兎のような生物が入ってくる。ブイと呼ばれるコダマのファミリアだった。
「相変わらずだな、コダマは」
 オドリックが笑って告げる。そして即座に真面目な顔になった。
「それより、ディーネは大丈夫なのか?」
「ええ。わたしもディーネも選ばれし血筋の持ち主だから。ちょうど、ディーネがタマムシ大学の見学に行きたいって言っていたの。だから、ゴサリンに任せて連れて行ってもらっていてね」
 家には戻れなくなったけど、と肩を竦めながらコダマが告げる。コダマとディーネはミシロに住んでいたはずだ。ミシロで、何かあったのだろうか。そんなベオウルフの疑惑の表情に気付いたのか、オドリックが口を開いた。
「ハーテン教が、大規模な叛乱を起こした。ヒワダ、トキワ、ミオ、カンナギの四都市が中心のようだが、ホウエンの各地でも蜂起が起きているようだ」
「恐らく、一昨日からだ」
 アシェラが告げる。ベオウルフより情報が早い。どうやって、その事実をと思ったが、アシェラが飛脚と転移の術を利用した独自の通信網を構築しようとしていたことを思い出した。
「そして、それに伴って通信網に障害が発生している。今話に出たミシロなど一部の地域からの通信が途切れているのだ。これでは、その地で何が起こっているかわからない。そこで、ベオウルフ。頼みがある」
 アシェラがベオウルフを見る。
「私と共にホウエンに向かって欲しい。通信網を整備し直したいし、そもそも同地の情報を集めたいんだ。もともと、あなたが名高い傭兵だったことは聞いている」
「こんな老骨で良ければな」
 ベオウルフの答えを聞くと、アシェラが礼を述べる。
「ありがたい、ベオウルフ。頼りにしている。見ての通りの非力だからな。戦いとなると手も足も出ないんだ」
「アシェラさんはもう少し鍛えた方がいいんですよ。わたしより力がないじゃないですか」
「適材適所って言葉があるだろう、エマ。オドリックさんだって、家の中より外にいた方が輝くはずだ」
「物理的な話はずるいです」
 エマが苦笑しながら答える。コダマとオドリック本人も笑っていた。
「ところでアシェラ、お前がベオウルフと共にホウエンに向かっている間、誰がお前の代わりを務めるんだ?」
「数日はエマに任せようと思っている。もともと私の作業は傍で見てきているしな。問題なくできるだろう」
「わかりました」
 おそらく事前に話し合っていたのだろう。あっさりとエマが了承する。
「で、アシェラ。あなたがホウエンに行こうとしているのはわかったけど、ここに神々の恩寵を受けた選ばれし魔術の使い手がいることを忘れてないかしら? 精霊たちもあなたの耳元で囁いているはずよ。美しき魔術の使い手こそが汝の試練を乗り越える手助けをしてくれるだろうって」
「同行してくれるのか、コダマ。君がいるなら心強い、ありがとう」
 コダマの難解な言葉を受け流しつつ、アシェラが頭を下げる。コダマは満足そうに頷いた。
「天啓があったの。試練の地に、我が弟子にして未来の『英雄』がいるって」
 アシェラとエマは咄嗟に顔を見合わせる。誰のことか、分からないのだろう。ベオウルフはうっすらと分かった。リシアとレヴィンの遺児であるミリオットだ。何度も話したことがあるが、魔術に優れた才を持っている。そしてなにより、コダマの影響を受けて英雄に憧れていた。
「とりあえず、よろしく頼むよ、コダマ」
「任せなさい、アシェラ。『月光』コダマ・リィがついている限り、あなた方の平穏は保たれるわ」
 胸を張りながら、コダマが答えていた。

 既に、ハーテン教徒とヒロズ国との戦いは始まっていた。ただ、決して予定通りではない。万全を期すために慎重に立ち回ったつもりだが、それでもトキワで叛乱の準備をしていたことが露見したのだ。
 最も、黒法軍を率いるアトラクサはヒロズ国の諜報能力を侮ってはならないと発言していたし、シモン・ド・モンフォールも同様に警告を飛ばしていた。
 それもあってか、露見してすぐにはヒワダ、トキワ、そしてカンナギとミオの四都市を中心として大規模な反乱を起こすことに成功している。ヒワダはハーテン本人が、残りの三都市ではハーテン教の指導者たちが全体を取り纏めていた。
 シモンはヒワダの近郊で、兵の訓練を行っているところだった。無数に集まる信者以外に、一千単位の訓練された部隊を百二十ちょっと用意している。その内の半分をハーテンのそばに置き、残り半分のほとんどを三人の指導者がそれぞれ率いていた。それ以外の地域に派遣されているのは、合わせて十隊ほどである。
 十五万の訓練された兵。それが反乱に際し一つの目安だった。それでも、油断すればすぐ敗北に繋がるだろう。腐敗した役人ばかりが目に付くが、カタスト・レイサイトやフォール・ラーデン、マルティム・リアルンパと軍部の筆頭たる三人の将軍を見てもヒロズ国の懐は広い。シモン自身がかつて部下として見てきたアニムスやセルジュも、かなりの力を持っているとシモンは感じていた。
 シモンがヒワダにやってきたのは、ハーテン教の反乱が始まって三日してからのことである。戻ってくるようにとハーテンから連絡がきたのだ。
「おお、シモン。お前の言ったとおりだ。ヒロズ国の連中は強いな」
 シモンの顔を見るなり、楽しそうな声でハーテンが告げる。
「トキワでの戦いはもう終わった。壊滅だよ、壊滅」
「なるほど」
 シモンが軽く頷くと、ハーテンは子どものようにむくれた。
「したり顔で頷きやがって。お前もつまらん奴だな、シモン。こちらが二万の兵を擁していたのに、あいては五千しかいなかったんだぞ。なのに、ディア・マンドすら討ち取られている」
「相手の大将は誰だ?」
「大将軍のカタスト・レイサイトだ」
「カタストか。なら、当然だ。ヒロズ国の最も強いところとぶつかったのだ」
 シモンが当たり前のように告げる。ハーテンは鼻を鳴らした。
「しかし、あのディアだぞ」
「むしろ、ディアがカタスト相手に善戦できたと言われても驚いたな。ハーテン、この国の奥は深いのだ。カタストほどではないが、フォールやマルティムと言った名将もいる。おれたちは彼らと戦い、生き残らなければならない」
 シモンが落ち着き払った顔で告げる。ハーテンも、まじめな顔で頷いた。
「ああ、つくづく実感する。ところで、エスタックとかいうやつが六万の軍を率いてセキエイからキキョウに向かったそうだ。じき、我々の下に攻めてこようとしているらしい」
「エスタックか」
 かつてシモンがトバリの守備隊長をしていた頃、無実の罪を着せて捕らえようとした男だった。確か、宰相であるゲマ・エビルマー子飼いの将校である。
 荒々しそうな表情をしていた。ただ、所詮はそれだけである。
「そのあたりが、ヒロズ国の弱いところだな。ハーテン」
「どうした?」
「宰相のゲマはエスタックに功を上げさせたいのだろう。だが、おれはエスタックに負けるような軍を育ててはいない」
「強気だな」
 ハーテンがにやりと笑いながらシモンをみる。
「油断は禁物だがな。アトラクサに頼んで、黒法軍を動かしてもらえるか。エスタック軍の陣容が知りたい」
「どうせそう言われると思ったからな。既に調べてある」
 ハーテンがエスタック軍の情報を告げる。特に、危険な将校はいなさそうだった。
「わかった。なら、訓練された兵を三万と信者の軍を五万ほど出動させてくれ」
 シモンの言葉に、ハーテンが頷く。
「細かい戦いのことは、任せている。気軽に連れていってくれ。おれも、出よう」
「それは」
「おれに向かってくる軍だろう。なら、おれも危機を冒すべきだ。儀式の場をリューに作らせようと思う」
 リュー・ウマーイはハーテンの副官のような男だった。ハーテンほどの深さはないが、堅実で周囲を見渡せる。転送石を極力使えないようにさせようとの考えも、リューのものだった。ホウエン南西部では徹底的に成功しており、ヒロズ国側は通信が遮断されたようになっているらしい。
「お前が言うなら、そうしてくれ」
 話は終わりだった。シモンは立ち上がる。
「なあ、ハーテン」
 何気ない口調を装って、シモンは口を開いた。ハーテンが訝しげにシモンを見つめてくる。
「本当に、お前の言う魔族の世はやってくるのか?」
「当たり前だ。知らぬ神だが、おれに語りかけてきた。疑う余地もない」
 ハーテンが頷く。その表情は、真面目なものだった。

 セリス・フィングたちがデムーラン城塞を奪還してから、三日が経っていた。斥候や避難民たちの情報を元に、ようやく周囲の状況が分かり始めたところである。
 デムーラン城塞は今、ハーテン教徒によって緩やかに包囲されていた。ただ、信者たちはある一定のところからは近づいてはこない。不用意に接近してきた信者たちを、レイとアニムスに率いられた部隊が徹底的に殲滅したためだ。
 今、信者たちはデムーラン城塞の物見櫓から辛うじて見えるかどうかのところにいる。そして、その合間を縫ってニクソンたち数名の斥候が近隣の様子を調べていた。
 ニクソンがただのリシア財団の職員ではないと知ったのは、つい一昨日のことである。リシア財団には影の軍と呼ばれる特殊な任務を請け負う組織があるらしい。ニクソンはその組織の一員として、特殊な訓練を積んできたようだった。
 他の斥候たちは、ニクソンとラーチェルが中心となって足の速い者を選抜している。セリスやジャンヌも斥候に志願したかったが、馬が目立つとの理由で断られていた。
 城砦周囲の状況はわかってきたものの、他の地域の様子は依然としてわからない。通信が、途絶されているためだ。転移の術が使える人間がいるか転送石でもあれば問題はなかったが、セリスたちの下にはどちらも存在しない。デムーラン城砦に転送石を使ってやってくる人間が来る可能性もあったが、デムーラン城砦が戦略上主要な地位を占めていたゲン軍の叛乱の頃ならまだしも、ただの兵糧庫となった現在、向かおうとする人間がどこまでいるか不明である。
 そこで、アニムスがシーキンセツへと向かっていた。デムーラン城砦の状況を伝え、可能ならば救援を要請するためである。もちろん、シーキンセツがハーテン教徒に落とされている可能性も高い。軽々しく救援を期待するべきではないことはセリスたちも理解している。
 シーキンセツまでは、馬でも三日はかかる距離だったが、アニムスは二日でたどり着くと話していた。アニムスの健脚を考えれば、決して不可能ではないだろう。出発したのが二日前なので、順調に進めば今頃には到着しているはずだった。シーキンセツには、アニムスの馴染の将校がいる。名は、セルジュだったはずだ。竜の血をひくメディオンであり、自身も地竜に乗って歩兵隊を指揮しているらしい。豪放な性格だとアニムスからは聞かされていた。
 アニムスがシーキンセツに向かうまでの間、セリスとジャンヌは騎馬隊の練度を挙げるようマッキンリーから依頼されている。ただ、馬の数は少ない。
 「馬は全部で十八頭。ただ、その中には、怪我をしている馬や軍馬としての動きに不安のあるものもいるので、人を乗せることが出来る馬は十三頭しかいない」
 セリスの下にやってきたモンケが告げる。モンケは今、城塞の隅の方に臨時で作られた厩舎を管理していた。オランジュやジャンヌの愛馬であるシルヴァディもそこで飼われている。
「おれがもっと、馬に気を遣っておくべきだった。今、あの馬たちがどこで何をしているのか、考えるだけで胸が痛い。百頭以上もいたんだ」
 モンケが悲しげな表情を浮かべる。彼が馬を第一に考える人間だと言うことは、ここ数日の付き合いで分かっていた。残された馬の中には、オランジュの兄弟となる馬もいたらしい。一際大きな白馬で、目の下に赤い斑点がある。癖が強い馬だったようで、軍馬として慣らそうとしているところだったようだ。
「何とかしてやりたいが、今の私たちに馬一頭一頭を探して回る余裕がないんだよ」
「でも、セリス。将来的には馬の数を増やさないとね」
 ジャンヌ・ボッツが告げた。ちょうど、三人で話していたのである。人は、増えていた。ニクソンたちが斥候の傍らでデムーラン城塞に関する噂を流しているためである。
「騎馬隊の拡張を行いたい気持ちは私だって持っているさ、ジャンヌ」
 セリスが答える。のんびりとした口調だと、昔から言われていた。ただ、その声を聞いていると安心するとジャンヌからは何度か言われている。そう言うものだろうか。
 人について言えば、周囲を取り囲むハーテン教徒たちの影響もあってか爆発的に人が増えることはない。それでも、この三日間で百人近い人間がやってきていた。半分は一般人で、残りの半分はコトキの兵士である。
 兵士や一般人の中の志願者はマッキンリーの選抜を受け、クロエの部隊に入れられている。そこで問題ないと思われた者が他の部隊に回されることになっていた。
「馬の医者も欲しいな。人間と同じで、馬も見るべき人間が治療すれば元気になりやすい。一人、心当たりがいるにはいるんだが」
「心当たり?」
 モンケの言葉に、セリスが尋ね返す。モンケは頷いた。
「ドヴァーラヴァティーだ」
「なんだって?」
「ドヴァーラヴァティー」
 モンケが繰り返す。覚えにくいし、発音もしづらい。ジャンヌも同様の感想を持ったのか、苦笑しながらその名を復唱している。
「ええと、そのドヴァ・・・」
「ドヴァーラヴァティー」
 ジャンヌが言葉を閊えていると、モンケが冷静に告げる。ジャンヌはまた苦笑した。
「とにかく、そのドヴァーラヴァティーさんが馬の医者なのね」
「ああ。もっと言えば、ドヴァーラヴァティーは馬以外の生き物も治療できるらしい。ただ、今は北の方にいるらしくてな。治療の腕は師匠がこれ以上の人間はいないと言っていた。だから、近くに行けば噂が聞こえてくるだろう」
「なるほど。そのドヴァー・・・なんだっけ?」
「ドヴァーラヴァティーだ、セリス」
 淀みなくモンケがその名を告げる。その落ち着いた口ぶりに、セリスは苦笑せざるを得なかった。同じように笑っていたジャンヌが口を開く。
「他の地域と連絡が取れるようになったら、探しに行きたいね」
「そうだな。それまで頭に留めておくことにするよ。そ、そのドヴァ、ドヴァー・・・」
「ドヴァーラヴァティー」
 何回聞いても、覚えられる気がしなかった。
「でもよ、もうしばらくは他の地域との連絡は取れないんだろう?」
 モンケが話を変える。その通りだった。近隣のコトキやミシロなら転送石もあっただろうが、どちらもハーテン教徒の占領下になっている。
「マッキンリーさんたちは、他の地域の人たちがわたしたちの状況に気づくのを待っているんじゃないかな。むしろ、それを信じているというか。ねえ、セリス?」
 ジャンヌがセリスを見る。可能性は高かった。わざわざ籠城できるこの場所を選んだのだ。
「だから、今は辛抱するしかないと思う。それに、将来馬は欲しいって言ったけど、今はまだ大丈夫だしね。騎馬隊に向いている人がそう多いわけじゃないし。それに、アニムスさんが状況を伝えるために出払っているからさ。あの人の足ならきっと無事シーキンセツにたどり着けると思うし、助けが来るのもそう遠くはないと思うよ」
「そうだな。アニムスさんの足は、何故か馬より速いし」
 ジャンヌの言葉に、セリスが頷く。ジャンヌらしい割り切り方だった。昔から、思い切りは人一倍いい。
 それに、ジャンヌは少数精鋭の騎馬隊を作りたがっていた。ジャンヌやセリスの父親たちがかつて作った騎馬隊の話を、聞かされることが多かったためだろう。
 疾風のように速く、神出鬼没の軍。それがジャンヌの目標だった。
「今のところ、何人くらい馬に乗りそうなんだ?」
「決まっているのはわたしたち以外で五人かな」
「なるほど」
 モンケが頷く。セリスを見た。
「なら、今は馬に問題はない。ただ、これからどんどん人が増えるんだよな。セリス?」
 セリスの言葉を聞くと、顔をしかめた。
「そう考えると、早いうちに馬が欲しい。新兵と同じで、軍馬としての訓練が必要だからな。それに馬を放しておく場所だ。牧が欲しい。人が走らずにいると体力が無くなるのと同じように、馬も駆けずにいると走れなくなる」
「もし牧を作るのなら、騎馬隊の宿舎も近くに作りたいかな。いざという時にすぐ動きたいし」
 モンケの言葉に、ジャンヌが続ける。どちらも、先の話だった。建物の計画自体は考えられつつある。マッキンリーとラーチェルの二人が中心となって、デムーラン城塞の改築案を出していた。
 ただ、資材も人の余裕もない。なにより、建築に明るい人間がいなかった。
「悠長だな」
 そのことを告げるとモンケが呟く。ジャンヌが苦笑した。
「まあ、そればっかりは仕方ないよ。さっきも言ったけど、今は耐える時期だからね」
「おれは、一刻も早く動きたい。おれが出来ることなら、師匠と馬たちの仇を今すぐにでも討ちたいんだ」
 モンケの口調は、いつになく熱がこもっている。ジャンヌが困ったような顔でセリスを見た。
「とは言ってもな、モンケ。現状は動けないだろう」
「それはわかっているんだがな。すまない、少し熱くなり過ぎた。それに、お前たちも騎馬隊の隊長を亡くしているんだよな」
 モンケが申し訳なさそうに告げる。ジャンヌが首を横に振った。その目は伏せられている。
「そこは、熱くなっていいと思うよ。モンケにとって、レイリアさんは親のような人だったんだろうしさ。クロエさんや、フルールだって」
 途中からジャンヌの声は小さくなり、何を言っているのか聞き取れなくなった。ただ、キーナやレイリアが死んだ責任を感じていることだけは伝わってきた。場の雰囲気が、重くなる。
「セリス、ジャンヌ」
 クロエの声が遠くから聞こえてくる。
「そうだ、クロエさんが騎馬隊に向いていそうな新兵を連れてくるって」
 ジャンヌが弾かれたように顔を上げる。
「クロエさん、すぐ行きます」
 ジャンヌが、いつもの明るい声で返す。場の重苦しさが、いくらか薄れていた。
「セリス、モンケ。急いでいこう」
 ジャンヌが飛び出していく。モンケはセリスを見た。
「すまんな、お前の彼女を暗い気持ちにさせて」
「ジャンヌは彼女でも何でもなくて、ただの幼馴染だよ」
 セリスの言葉に、モンケは目を丸くした。
「なんだ、雰囲気からしてそうだと思っていたよ。お前、なかなか女たらしだな」
 モンケがにやりとする。セリスは苦笑した。何を言っても、モンケはからかってくるだろう。
「行こうか、モンケ。ジャンヌを待たせるのも悪いし」
「そうだな。急がないとお前のお姫様が怒り始めるよな。出会ってそう日は経っていないが、彼女は気が短そうだ」
 案の定、遅いとジャンヌがセリスたちを呼び声が聞こえてくる。セリスとモンケは走って後を追いかけた。ジャンヌとクロエが話しているところにたどり着く。クロエが連れてきた新兵は十人ほどだった。ここから、セリスとジャンヌによる選抜が始まる。
「みんな、厩舎に行こうか」
 ジャンヌが告げる。セリスも行こうとしたところで、クロエに呼び止められた。
「フルールのことだ」
 単刀直入な物言いである。クロエの妹であるフルールは、母であるキーナ・ローランサンが亡くなった衝撃から立ち直っていない。おまけに、フルールにとって不幸なことに今の彼女を構う余裕がセリスにもクロエにもなかった。
「傍に付けている人間から、報告が来ている。最悪な状態は脱したらしいが、一人にしておくと何もせずに虚空を見つめているらしい」
 視界の端で、ジャンヌが歩くのを止め、不安そうな目でセリスたちを見ている。セリスが声をかけると、頷いて厩舎へと向かい始めた。
「すまんな、セリス。ジャンヌにも迷惑をかけたと伝えてくれ」
 クロエが苦笑している。長い金髪が、風に流されていた。
「ただ、やはりまだどこか様子が変なようでな。もし、お前やジャンヌがフルールを見ていて変わったところがあったら、教えてくれ」
 セリスが頷く。
「それから、今度新兵の訓練を手伝ってくれないか? まだ馬の数が少ないとはいえ、騎馬隊だ。連携も必要になってくるだろうし、逆に騎馬と戦う際の練習もしておきたい」
「ああ、了解したよ」
 セリスが答えると、クロエが頷いた。
「セリス、助かる。お前もジャンヌも見事な馬術の持ち主だからな。軽く捻られないように鍛えておくよ」
 クロエ自身も、馬術の腕前は際立っている。何より、機を掴むのが上手かった。そして、ここぞの場面で動きやすいのは騎馬である。本人に拘りはないだろうが、騎馬に余裕が出れば彼女も騎馬隊に配属されるかもしれない。
「今、アニムス隊長がシーキンセツに向けて走っている。隊長が戻ってきたときに、デムーラン城砦が落ちていましたじゃ意味がないからな。訓練して、少しでもハーテン教徒の侵攻に備えておこう」
「ああ。いつでも協力するさ」
「引き止めてしまって悪かったな、セリス。ジャンヌも心配しているだろうし、わたしはこれで退散するよ」
 クロエが手を振りながら去って行く。セリスも手を振ると、背を向けて歩き出した。

 別れの言葉もなかった。母であるキーナ・ローランサンは軍人である。いつ任務で命を落としても不思議ではない。幼いころからフルール・ローランサンはそう言い聞かされて育ってきたし、覚悟もできていたはずだった。
 母が斬られた瞬間のことは、ついさっき起こった出来事のように振りかえることができる。母は、ナルセスと呼ばれる傭兵たちの隊長を追い詰めていた。そして、いざ止めと言うところで横から入ってきた人間に斬られたのである。ただ、遠くから見ていたので顔は分からない。近くにいたレイやアニムスは覚えていると思うが、聞いたところで誰かわかるものでもないだろう。
 フルールは今、デムーラン城砦の一室を与えられていた。一人の部屋は固辞したので、相部屋である。最大四人まで住めるようだが、今のところはフルールの他にもう一人しかいない。ファイ・ラと名乗るミリオットの友人だった。姉であるクロエはラーチェルと共に軍営の方に住んでいる。
 以前のフルールであればラーチェルに対して、姉と同じ空間で寝泊まりしていることをからかっただろうが、今のフルールにそんな余裕はない。
 部屋の中は、基本的に会話がなかった。今のフルールに他者と会話する気はないし、ファイもファイでフルールとの会話を求めてこない。最初は静かな女性だと思っていたが、流石のフルールも分かってきた。ファイは、自分の世界にのめり込んでいる。
 今もまた、ファイの爆音が部屋の中で轟いている。ただ、爆発の大きさに比べるとその音は小さい。時折失敗するのか大きな音をたてることもあるが、どんどんその回数は減り、音も小さくなっていた。
「ふむ、大分爆発音が小さくなってきているが、まだまだのようだな。これでは奴に見せられん」
 ファイが呟いている。彼女はミリオットに対抗心を燃やしていた。やはり、以前のフルールならちょっかいを出しに行っただろう。しかし、今のフルールにそんな気力はない。
「フルールちゃん、ファイちゃん、大丈夫?」
 二度ほど立て続けに大きな爆発音が聞こえた後、大きく扉が開かれた。剣を手に持ったプライム・ベリーが立っている。アウリラらしく飛び跳ねながら駈けてきたのだろう、その息は荒い。
「何か、ありましたか?」
 きょとんとした顔でファイがプライムを見る。
「え、今、爆発したような音が聞こえなかった?」
「ああ、なんだ。それですか」
 ファイがどうでもいいようなことのように告げると、右手の人差し指を上げる。その上に、小さな橙色の球体が現れた。驚くプライムの前で、小さな音をたてて消失する。
「この音を今、小さくする努力をしているんですが、どうも上手くいかなくて」
 ため息をつきながら、ファイが告げる。プライムが呆れたような顔をしているのは、目に入っていないらしい。
「な、なるほどね。フルールちゃんは大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
 フルールからの返事を受け、プライムは頷く。
「フルールちゃん、ファイちゃん。二人とも仲良くね。特にファイちゃん、あなたは年上なんだからさ」
 そう告げると、プライムは去って行く。ファイは困ったような表情をしていたが、やがてフルールを向いた。
「フルールちゃん」
「はい、なんでしょう」
 フルールが答えると、ファイは困ったように首を傾ける。もともと、人と仲良くすることが苦手なのだろう。ミリオットの前であそこまで喋れているのが、奇蹟なのかもしれない。
「フルールちゃん」
 もう一度、フルールを呼びかける。僅かに周巡した後、意を決したように言葉を続けた。
「爆破術に興味はない?」
 フルールの返事も聞かず、爆破術の説明を始める。本当に、自分から人と話すことが苦手なのだろう。いくら夏とは言え、ファイの顔には尋常ではない量の汗が浮かんでいた。
「まあ、ここまでが爆破術の基礎なんだが」
 一通り話している間に、僅かに落ち着いてきたのだろうか。あるいは、フルールが黙って聞いていることに気をよくしたのだろうか。ミリオットに話すときのような口調になってきている。ただ、話し始めてから一時間近くが経過していた。
「早速実践してみるかね?」
「わたしは攻撃魔術は得手ではありませんから。ですが、それを増幅させることはできるかもしれません」
「なるほど、魔力強化か」
 魔術全般についても詳しいのか、ファイがあっさりと頷く。フルールは召喚具を取り出した。ファイに魔力を強化する魔術をかける。ファイが小指の先ほどの小さな爆球を作り出した。それは近くの椅子へと向かっていく。炸裂した。椅子が、粉々に吹き飛ぶ。
「なるほど」
 納得したようにファイが頷くと、フルールを見た。
「ただ、できれば奴には一人で勝ちたいんだ。わたし一人でできるようにならないか?」
「それは難しいと思います」
 フルールが簡単に魔術の説明をする。ファイは大きく首を横に振った。
「そうか、それは残念だ。ただ、フルール君の力を使えば魔術は大きく強化できる。これは、どこかで使えるかもしれない。まあ、また定期的に爆破術の訓練をしようじゃないか」
 ファイが手を差し伸べてくる。戸惑いながらも、フルールはその手を握った。ファイが笑いかけてくる。
「よろしくな、フルール君」
「よろしくお願いします」
 ファイは、いたずらを思いついた少女のような笑みをしていた。

 ただひたすらに、走っていた。走り始めてから、既に二日が経っている。その間アニムスディッセンバーは、日中のおよそ三時間の睡眠を除き休むことなく体を動かしていた。
 通信が、完全に遮断されている。それがハーテン教徒の意図したものなのか、混乱による偶然なのかは分からない。もし意図したものだとすれば、相当の知恵者がハーテン教徒についていると思っていいだろう。
 コトキとミシロはハーテン教徒に襲われていた。そして、ハーテン教徒の教祖はコトキやミシロから見て北のヒワダに住んでいた。
 ここから考えるに、西と北に向かうのは危険だろう。ならば、向かうのは南のシーキンセツか東のカイナだ。
 セリス、クロエ、ラーチェル、マッキンリーと五人で話し合った結果、アニムスは南にあるシーキンセツへと向かうことになった。シーキンセツには、かつてトバリで共に隊長をしていたセルジュがいることが大きい。
 セルジュは現在、一千ほどの歩兵を指揮していた。おまけに、地竜と呼ばれる翼のない竜に乗っているらしい。もともと、セルジュ自身も竜が好きなところがあった。
 トバリにいたころ、サラマンダー・タカイなる人物が竜に乗ってアニムスたちのもとを訪れたことがある。その時も、サラマンダーが乗る竜に強い興味を示していた。嬉々として地竜の世話をしているセルジュの姿を、アニムスは容易に思い浮かべられる。
 走っている最中、何度もハーテン教徒と思しき姿を見かけた。だが、風のように走るアニムスに追いつけるようなものはまずいない。それにもし、正面からハーテン教徒と向き合うことになっても百名くらいであれば軽く薙ぎ倒せる自信があった。
 このままいけば、問題なくシーキンセツにつくだろう。新調した靴の調子もいい。馬の皮を利用して作られた靴は軽く、滑るように走ることができる。アニムス自身も健脚だが、そこに名馬の速さが加わったような力をアニムスにもたらしていた。泉で一口水を飲むと、小川を飛び越え、沈んでいく太陽の何十倍も速く走る。
 うっすらと、シーキンセツと思しき城壁が見えてきた。それと同時に、戦乱の気配が漂ってくる。一千ほどの部隊が、五倍以上の人間に取り囲まれている。取り囲まれている部隊の中心には、見慣れない生き物が五体ほど混じっていた。あれらが地竜なのだろう。体の中心に行くにつれて背が大きくなっており、一番高いところは人の背の倍近い。尻尾も長く、体と同じくらいの長さを持っていた。よく見ると、全身が鎧のようなもので覆われている。そして、尻尾の先端が太くなっており、塊のようなものがついていた。
 地竜に乗る一人に、見覚えがあった。セルジュである。遠目に見ているので、誰とはっきり識別できるものはない。特徴的な桃色の長髪も、今は兜の中にしまっているのか見えずにいる。ただ、それでもどことなくセルジュと分かるだけの雰囲気は持っていた。
 セルジュが乗る地竜の鞍には、柄の長い大斧が備え付けられている。恐らく、背の高いセルジュの倍近くあるはずだ。
地竜の上から振り回した時に、地上にいる兵に届くようにするためだろう。先端にある両刃の部分も、セルジュの上半身ほどの大きさはありそうだった。
 見るからに重そうなその大斧を、セルジュは造作もなく持ち上げる。流石、怪力で鳴らしただけのことはあった。頭上で一振りする。風を切る音が、アニムスのもとまで聞こえてきた。
 セルジュを中心に百名ほどが突っ込んで行く。セルジュが長柄の大斧を振り回す度に、人が吹き飛ばされていた。以前と変わらぬ実力を持っている。ただ、依然と比べどこか軽率な動きだった。トバリにいたころのセルジュなら、もっと周りを見て行動している。今のセルジュには目の前の敵しか見えていないようだった。
 不意に、セルジュの部隊が乱れる。右から、一千ほどの歩兵が突っ込んできていた。とても、ただのハーテン教の信者とは思えない機敏な動きをしている。アニムスには事前に近づく様子が見えていたが、セルジュにとっては予想外だったようだ。衝撃に抗いきれず、部隊が壊走していく。アニムスは地面を二度靴で叩いた。走り出す。
 気付けば、セルジュの目の前に千人の先頭にいた男が近づいていた。彼も、大斧を振り回している。セルジュが防戦しようとするが、その目の前には無数のハーテン教徒が待ち構えていた。武器をセルジュの乗る地竜に突きたてようとしている。だが、流石に地竜の装甲は厚く、弾き返されていた。地竜が尾の塊を振る。信者が数名、吹き飛んだ。ただ、大斧を持った男が、セルジュの前にやってきている。
「ははは、ここがお前の墓場のようだな。このン・ルアーダが貴様の命、貰い受ける」
 ンと名乗った男が斧を振りかざした。セルジュが顔を顰めている。
「我が師匠、ルア・ダーン殿より教わった斧の技術、特と見るがいい」
 ンがそこまで叫んだ時にはもう、アニムスはセルジュの隣へとやってきていた。信者たちの包囲を、突き破ってきたのだ。斧を構えたまま、ンがアニムスを見る。
「なんだ貴様は」
「通りすがりの伝令です」
「なるほど、ならば退け。ここにいれば、今からそこの女と共に死ぬぞ」
 ンが斧を振り上げる。その構えに、アニムスは見覚えがあった。誰に見覚えがあったのか、アニムスは逡巡する。
「そうだ。ルーア・ダーンだ」
 思い出した時、思わず口に出していた。ンの表情に、僅かな動揺が走る。
「貴様、ルーア・ダーンを知っているのか。今、やつは行方不明になっている。どこにいるか、わかるのか?」
 ンの言葉に、アニムスはにやりと笑った。
「それを知りたければ、おれを倒してみるがいい」
「よかろう。我が斧の錆にしてくれるわ」
 ンが斧を振り回しながら突っ込んでくる。ただ、アニムスからすれば遅かった。悠々と背後に回ると、腕を絡め取り地面に打ち倒す。その首が、ありえない方向に曲がった。信者たちが、僅かに怯む。セルジュはその隙を見逃すような人間ではなかった。
「皆、前に」
 アニムスとセルジュを頂点とした、矢の形が出来上がる。一気に突き進んだ。包囲網から、抜け出す。シーキンセツとは、反対だ。シーキンセツの方には五千どころではない信者が待ち構えている。アニムス一人ならまだしも、一千の兵と向かったところで押し包まれてしまうはずだ。
「アニムス殿、ありがとうございます」
 セルジュが地竜の上から頭を下げてきた。
「もっと、信者の動きを注視すべきでした。お蔭で、危ういところを助けていただくことになってしまいましたし」
 助けてもらったことに気が引けているのか、依然と比べ大人しい言葉遣いだった。
「それから、申し訳ないんですがしばらくご同行を願えませんか?」
 アニムスが頷くと、セルジュは安堵の表情を浮かべる。
「アニムス殿、一度わたしが殿につくので、前をお願いします。一時間ほど進んだところに、兵が依りやすい丘があるので、そこまで兵の指揮を任せてしまっても大丈夫でしょうか?」
 セルジュの言葉に、アニムスが頷く。
「任せろ。今の私はただの伝令だ。君の指揮下に入ろう。気にせず命令してくれ。ただ」
 アニムスはにやりと笑うと、靴で地面を二回叩いた。
「ついてこれるかな」
「歩調は周りに合わせてください」
「はい」
 アニムスが頷くと、セルジュは地竜の速度を弱め始めた。殿に向かうのだろう。アニムスは他の兵と共に駆け始めた。アニムスにとっては肩慣らしのような速度だが、他の兵と歩調をあわせているので仕方ない。
 一時間くらいで、セルジュが話していた丘が見えてきた。そこに上る。流石に、ここまで追いかけてくる信者はいなかったようで、兵たちも次々と上ってきた。
 セルジュの姿が見える。地竜共々、目立った傷はない。ただ、兵の数は百以上減っているだろう。
「アニムス殿、改めてありがとうございます」
 兵に一通りの指示を出してから、セルジュがやってくる。その顔は浮かない。
「しかし、アニムス殿が一人でこちらに来たとなると、コトキもハーテン教徒が」
「はい、落ちました」
「ですよね」
 アニムスの言葉を聞いて、セルジュがうなだれる。
「シーキンセツも似たようなものでしょう。わたし自身は彼らと共にたまたまシーキンセツから離れていたので襲撃には立ち会いませんでしたが、戻ろうと思ったらあの様でした」
「なるほど」
 恐らく、シーキンセツももう落ちているはずだ。アニムスも現状を伝える。
「増援を求めにシーキンセツに来たんだが、手遅れのようだな」
「シーキンセツそのものは難しいと思いますが、増援ならまだ、間に合うかもしれません」
 セルジュの言葉に、アニムスが顔を上げる。
「アニムス殿、これを」
 セルジュが腰に下げた袋から転送石を取り出す。
「ただ、あくまでもシーキンセツに戻るためのものです。そこから先は」
 他の場所に通じるための手段を見つけなければならないのだろう。転送石を見つけるのは容易ではないが、転移の術を使える人間ならば見つかるかもしれない。そして、転移の術で他の地域に脱出して援軍を要請する。他地域にさえ出られれば、ヒロズ国との連絡も復旧する見込みも出てくるはずだ。
 一般的に、転移の術が使える人間は神殿勤めの神官に多かった。彼らを見つけ出し、事情を話して協力してもらうしかないだろう。一通りの神殿の場所を聞くと、アニムスは転送石を手にした。
 セルジュにはデムーラン城塞に向かうよう告げてある。恐らく、四日もすれば到着するはずだった。
「では、デムーラン城砦でお待ちしていますね。大丈夫です。わたしには可愛いコスモファントムちゃんもいますしね」
 地竜が一声吠える。コスモファントムとは、彼の名前のことだろうか。いや、彼女なのかもしれない。
「アニムス殿、幸運を」
「セルジュ殿は、良い旅路を」
 セルジュが敬礼する。次の瞬間には、景色が変わっていた。物が燃える臭いが、ここまで漂ってくる。アニムスは流民のような恰好をすると街中へと飛び込んだ。神殿の場所へと向かう。ブリガンディアの神殿も、ダグデモアの神殿も、荒らされていた。次はアーケンラーヴの神殿だ。倒壊している。火の手も上がっていた。
 だが、他の場所とは違い、闘争の気配が伝わってくる。
 見ると、十数名の信者が大きな瓦礫の近くを囲んでいた。その中心で、白い服を着た女性が瓦礫に足を挟まれて身動きがとれずにいる。
 ただ、信者たちが女性に向けている気配は、剣呑なものだった。
「おいおい、旦那さん。見てないで助けてくれよ」
 女性の方から声が聞こえる。ただ、女性は目も口も閉じていた。
「聞いているかい、旦那さん」
 よく見ると、女性の足下に一匹の海獺が立っていた。右手に、貝殻を握りしめている。その海獺が、アニムスに話しかけていた。
「おれの名はコシュート。オフィーリアを守る一端の騎士だ・・・ミジュ」
 謎の語尾を残しながら、コシュートと名乗る海獺が告げる。アニムスは思わずにやりと笑った。
「よう兄弟、助けに来たぜ。おれが参上」
「旦那さんなら来てくれると思ってたぜ・・・ミジュ」
 アニムスとコシュートが、オフィーリアと呼ばれた女性を護るように信者たちの前に立ちはだかる。オフィーリアが首を横に振った。
「コシュートも近くにいる方も、気持ちだけで十分です。わたしは足手まといです。コシュート、あなたには海獺としての生き方もありますし、離れてください。近くにいる方も、わたしのことは構わず」
 柔らかいながらも、はっきりとした意志を感じさせる声だった。アニムスはコシュートを見る。コシュートもアニムスを見返す。どちらからともなく、頷いた。
「さあ、来い」
 アニムスが呟くと、コシュートは懐から貝殻を取り出した。
「騎士の名が廃るようなことをさせないでくれよな、オフィーリア。なに、安心してくれ。おれのシェルブレードが火を噴くぜ・・・ミジュ」
 恐らく、胸元で構えた貝がシェルブレードなのだろう。
 アニムスとコシュートが同時に動く。次の瞬間にはもう、アニムスの拳は信者を捉えていた。反応させる間もなく、もう一人を蹴り飛ばす。視界の端で、シェルブレードから延びた水刃が信者たちを切り倒しているのをアニムスは確認した。
 十数人の信者が倒れる。呼吸にして、二つ三つのことだった。
「な。火を噴くと、言ったろう」
 シェルブレードを仕舞いながら、コシュートが呟く。アニムスを見た。
「ああ。吹いたのは水だけど流石だな」
「それにしても、ありがたいぜ、旦那さん。おれ一人だったら、オフィーリアを守りきれるか怪しかった」
「そうだな、怪しかった。だが、おれがいたからできた」
「その通りだ。だから、是非とも礼をさせてくれ・・・ミジュ」
 相変わらず、とってつけたように謎の語尾をつけている。
「そうだな。ここら辺で転移の術が使えるものを知らないか?」
「おお、それならちょうどいい。ここにいるオフィーリアがその使い手だ・・・ミジュ」
「なるほど。ならばそのオフィーリアとやらをくれないか?」
「へ?」
 想定外の質問だったのか、コシュートが困惑した表情を浮かべる。アニムスは頷いた。
「大丈夫だ。我が軍はちゃんと給料も出る」
「旦那さん。オフィーリアはおれじゃない。目の前にいる女の人だ」
「だから君に聞いているんだろう。彼女は今、瓦礫に足を挟まれていて身動きができない。これを何とかできるのはおれと君だけだ」
「助けてくれるのか・・・ミジュ」
「我が軍に彼女が加わるならな」
 アニムスが告げると、オフィーリアが口を開いた。相変わらず、目は閉じたままだ。
「わたしがその軍とやらに加わればいいんですね、大丈夫ですよ」
「ありがたい。海獺君も、騎士だと言うのなら最後まで守って見せろよ」
 アニムスがコシュートの背中を強く叩く。コシュートの小さな体がごろごろと転がり、近くに燃え広がる火の中に突っ込んで行った。
「やっちまった」
 思わずアニムスが呟いた。海獺は油が多いと聞いたことがある。確かに、火の手が強まっているような気がした。アニムスは首を大きく振る。
「まあ、いいか」
 火の中から大きな音がする。シェルブレードを右手に持ったコシュートが、火の中から飛び跳ねてきた。咄嗟に水で自らの身を護ったのか、毛はどこも焦げていない。
「やれやれ、旦那さんもやってくれる・・・ミジュ」
 アニムスとコシュートでオフィーリアを助け出す。すぐに、オフィーリアの足から瓦礫が除かれた。オフィーリアがよたよたと立ち上がろうとする。しかし、立てない。瓦礫に挟まれた際に、足を怪我したのだろう。
 それよりアニムスが気になることがあった。オフィーリアの手が、まるで周囲の様子を探るように動くのだ。おまけに、目を決して開かない。目が見えないのかもしれない。
 上半身を起こしたオフィーリアが、自身に向けて治癒の魔術を唱えている。それがひと段落すると、アニムスはコシュートと軽快な会話をしながらオフィーリアを背負った。コシュートが頭を下げる。
「ところでコシュート君。この炎、何とかならないか」
「任せてくれ。何しろ、おれにはこのシェルブレードがある。行くぜ・・・ミジュ」
 コシュートは右手で貝殻を高く掲げると、左手を突き出した。そこから大量の水が噴き出し、辺りを鎮火していく。
「シェルブレードは?」
 思わず、アニムスは突っ込んでいた。コシュートは短い手を器用に動かしながら肩を竦めた。
「範囲が短くてな・・・ミジュ」
「なるほどな。確かに、おれも以前は軍で支給された武器を使っていたが、気付いちゃったんだよな。邪魔だってことに。ただまあ、おれたち人間は、その程度で挫けやしない」
 心が大事だ、と言わんばかりのアニムスにコシュートが頷く。
「最も、おれは海獺だけどな」
 外に出る。オフィーリアの転移の術は、シーキンセツとキッサキを往復できるものだったらしい。
「じゃあ、さっさとキッサキに行こうか」
 コシュートが告げる。オフィーリアは頷くと、転移の術を唱え始めた。すぐに景色が変わり、同時に涼しい空気がアニムスの肌に触れてくる。
「どうですか?」
 オフィーリアが尋ねてくる。目が見えない彼女は、キッサキの状態が分からないのだろう。
「問題なさそうだぜ・・・ミジュ」
 コシュートが頷いている。確かに、これまで見てきた都市と比べても、キッサキは平穏そうだった、軍人ばかりが住む街とあって、ハーテン教徒も手を出しにくかったのだろう。オフィーリアを連れ、歩き始める。事情を話すと、すぐに部屋へと通された。一時間ほど、三人で話していた。
 足音が聞こえ、一組の男女が入ってくる。後から入ってきた緑髪の女性に、アニムスは見覚えがあった。フェミナである。キッサキで騎銃隊を率いている四十ほどのヒューリンで、何よりレイの姉のような女性だった。アニムスとも、若干の面識がある。
「あなたは、レイ君のお姉さんのフェミナさんじゃないですか」
「あら、アニムス君。お久しぶりね」
 アニムスの言葉に、フェミナが表情を綻ばせる。フェミナの方も、アニムスをしっかりと覚えていたのだろう。
「お元気でしたか?」
「もちろん、わたしは元気よ。それよりアニムス君、そっちの事情は聞いたわ」
 フェミナの言葉に隣のセラトスが、重々しく頷いた。彼がマルティム・リアルンパ。キッサキの守備隊長を務める将軍だろう。
「兵力も足りないですし、周囲もほとんどがハーテン教徒の手に落ちました。牧も襲撃され、騎馬隊すらも編成できない有様です。なので、不躾で申し訳ないんですが、例えばその、デムーラン城砦の防衛に協力してくれる、熟達した騎銃隊を率いる将校とかに心当たりはないですかね?」
 アニムスの言葉に、フェミナは軽く笑うと頷く。
「そう、そう言うと思って。わたしが五百の兵を連れてあなたと共に向かうことにするわ。大丈夫、デムーラン城砦に向けて転移の術が使える人間に心当たりはあるから。最も、騎銃隊は残してくれって言われたから、別の兵なんだけどね」
「構いませんよ。来ていただけるだけで助かります」
 アニムスが頭を下げると、マルティムが苦笑しながらフェミナを見た。
「フェミナ。それでも、ある程度兵の自由は認めただろう。騎兵も二百は連れて行っていい」
「まあ、その通りですけどね。アニムス君。そんなわけだから。よろしく」
 にこりと笑う。とても四十を過ぎたとは思えないような表情だった。
「助かります。騎兵二百と言えば、我が軍の騎馬隊の十倍ですからね。まあ、指揮官は王族ですが」
「誰がいるの?」
 フェミナが訝しむ。
「セリス殿下ですよ」
「ああ、セリス君もそこに居るんだ。なるほどね」
 フェミナが頷く。どうやら面識があるようだった。
「アニムス君、そう言うわけでよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 アニムスが差し出した手を、フェミナが握る。にこりとフェミナが笑った。
「ま、若くていい男がいたら紹介しなさいよ、アニムス君」
 僅かな逡巡の後、爽やかな笑みと共にアニムスが口を開く。
「それなら、今どき珍しく『英雄』を志す青年がいるんですが」
「それ、ミリオット君のこと?」
「くっ、知り合いか」

 音のない、襲撃だった。ちょうど、ミリオットが野外で魔術の訓練を行っていた時である。背後に、あるかないかの気配を感じた。振りかえると、目の前に爆球が迫ってきている。
 爆発し始めた。驚くことに、全ての爆発に音がない。だが、ミリオットに届く爆球はなかった。全て、炎渦竜巻が防いでいる。
「ふむ、これで十三回目の失敗か」
 竜巻による砂塵が収まると、目の前にはミリオットの予想通りファイの姿があった。残念そうに首を振り、肩を竦めている。真夏だと言うのに、暑そうな黒い服にすっぽりと身を包んでいた。そのすぐ隣には、アクセナのからくりだったジェニファーが両腕の刃を交差させながら立っている。
「この前、セリス君とジャンヌ君に言われた欠点は改良できたと思ったんだがな」
 確かに、そうだった。前回、レイリアの牧場で襲撃してきた際、近くにいたセリスからは大きな音を鳴らすと動物に迷惑が及んでしまう可能性を指摘されていた。今回の爆球は無音で爆発させている。いったいどういう原理なのか。
「流石にこれは驚いたぞ」
「まあ、わたしは爆破術の天才だからな。これくらいのことはしてみせないと」
 鼻高々と言った様子で、ファイが滔々と理論を語り始める。所々で自慢が入るものの、非常に分かりやすい理論だった。ただ、流石に今回の魔術は聞いただけで真似できるとは思えない。それほど高度な魔術だった。いったい何をどうしたら、短期間でここまでの魔術を習得してしまえるのか。
「流石だな。おれも部屋でその理論を考えてみよう」
「まあ、爆破術の天才たるわたしだからできたことだからな。ミリオット君には難しいかもしれない」
 ミリオットがすぐに真似できなかったことで、ファイは安心したのか余裕のある笑みを見せる。
「ただ、君はルーア・ダーンを倒した『英雄』としてこの砦でも有名人だからな。『爆破術の天才』と『英雄』。良い好敵手関係じゃないか」
 ファイが一人頷いている。ミリオットは苦笑するしかなかった。
「しかし、早くアクセナ君を助けに行きたいな。ジェニファーも心配している」
 コトキに状況を伝えに行ったアクセナは、それきり行方が分からなくなっていた。コトキからやって来た兵たちによると、エベールと呼ばれる隊長にミリオットたちの状況を伝えたところまではその姿が確認されている。ただ、それ以降、アクセナもエベールもその姿を見た者はいない。
「行方は気になるな」
「怪我をしていないかが心配だ。後は、わたしたちがここにいることに気付いてくれるか」
 ファイは、アクセナは生きていると信じて疑っていなかった。
「まあ、幸いにしてわたしたちは『爆破術の天才』と『英雄』だ。これから先もわたしたちが活躍すれば、それだけ噂が流れていくだろう。そこで、アクセナ君が気付いてくれればいいと思っている」
「見つけてくれた方が、楽だからな」
 ファイの言葉に、ミリオットも頷く。
「二人とも、ここにいたか」
 振り返ると、青髭のネヴァーフが立っていた。マッキンリーだ。コトキ太守で、セリスと共にデムーラン城砦をまとめあげている。
「探したよ。ちょっと、君たちに頼みごとがあるんだ」
 ミリオットの言葉に、マッキンリーが答える。ファイはと言えば、先ほどまでの饒舌さはどこへやらミリオットの隣で二人の会話を黙って聞き始めていた。
「君たちの魔術の力を活かして、罠を用意できないか?」
「罠?」
 ファイが反応する。
「それはつまり、ミリオット君を捕まえるためのものか」
「もちろん違う。ハーテン教を撃退するためのものだ」
「ふむ」
 ファイの表情から、興味が消える。だが、それも一瞬のことだ。口元に手をやると、僅かに頷く。
「詳しく話を聞かせてくれ。マッキンリーさん。協力できることならしようじゃないか」
 ファイがちらりとミリオットを見る。
「なに、わたしの好敵手が最近活躍しているからな。そろそろわたしもしっかりと活躍して、誰がこの砦で一番の魔術の使い手が誰であるかはっきりと分からせないといけないと思っているんだ。任せてくれ」
 ファイがにやりと笑う。対して、マッキンリーの表情にはわずかに困惑が浮かんでいた。
「気にしないでくれ、いつものことだ」
 苦笑しながらミリオットが告げる。マッキンリーは信じられないものを見るような目でファイを見た後、ミリオットに頷いた。
「ともあれ、君もファイも協力してくれるんだな、助かる」
 どうやら、城砦の守りを固める上で必要な罠を幾つか考案して欲しいとのことらしかった。
「詳しい話はラーチェルから聞いてくれ。元はと言えば、あいつの考えだからな」
 バレー私塾時代から、ラーチェルは頭が良いことで有名だった。二つほど年上だったこともあり、そこまで深い付き合いはなかったが、ラーチェルが魔術を使うこともあって、何度か話をしたことがある。いつも、クロエの話ばかりしている印象があった。
「さて、二人とも魔術の優秀な使い手だと聞いている。どんな罠ができるのか、楽しみにしているよ。ラーチェルは後二時間もすれば手が空くと言っていた。彼女の執務室で待っているといい」
 そう告げると、マッキンリーが去って行った。ファイがにやりと笑った。
「わたしたちの実力を見せる時が来たようだな。ときに、ミリオット君」
 ファイがミリオットをちらりと見る。
「どうした?」
「なあ、その、なんだが」
 僅かにその頬が赤くなっていた。目をミリオットから逸らすと、口を開く。
「ラーチェル君の執務室は、どこにあるんだ?」
 相変わらず、場所には弱いようだった。ミリオットは苦笑する。
「一緒に行くか」
 二人で並んで歩き出す。幸い、爆球は飛んでこなかった。

 巧みな用兵だった。いくら三十人とは言え、自分の手足のように自在に兵を操ってくる。
 そして、こちらの綻びを突いてくるのも絶妙だった。崩された、と思ったときにはもう兵がそこを狙い打ちしてくる。そして、こちらの誘いには乗ってこない。
 指揮官としての経験に差はあると言え、クロエ・ローランサンの技量は流石しか言いようがない。
「『ゼロ』、流石だな。あなた一人に圧倒されるところだった」
 訓練が終わった後、兜を取りながらクロエが話しかけてきた。長い金髪が、背にかかる。レイ・クライスラーはそんなクロエを見ながら首を振った。
「とは言え、軍団としてはおれの負けだ。傭兵生活が長かったから、個人で動く分には何とかなるんだが」
「本当に凄いな、その腕は。真似できる者もほとんどいないだろう。いったいどうやったら、そんな技術が身につくんだ?」
 本心から聞いているようだった。闊達で、裏表がない。兵の心を掴むのも天性のものが感じられた。レイは肩を竦める。
「実戦の中で腕を磨いてきただけさ。どこかの拳法の使い手も、実戦の中で腕を磨いてきたようだし」
「確かに。アニムス隊長の健脚や体術を真似できる者がいるとは思えない」
 クロエが頷く。そこに、緑の髪を跳ねさせながら一人の女性が駆けてくる。
「クロエ!」
 ラーチェルだった。その目から、僅かに殺気が見え隠れしている。どうやら、クロエとの距離間が近過ぎたらしい。
 この四日間、歩兵隊の指揮をしながら学んだことの一つとして、ラーチェルの人間性が挙げられた。
 バレー私塾『十傑』の一人に数えられるほど博識な彼女だが、少々扱いにくい性格をしている。端的に言えば、クロエのことが好き過ぎるのだ。だから、なるべくクロエの側にいようとするし、逆に長時間クロエと離れていれば不安定になる。
 そして何より、クロエと親しげに話している人間は男女を問わず彼女の敵だった。
「クロエ、新兵たちの特徴をまとめておきましたわ」
クロエから見えない角度でレイを冷めた目で一瞥すると、ラーチェルは嬉々とした表情でクロエに話しかける。あまりの変わり方に、レイは苦笑するしかなかった。
「有り難いな、ラーチェル。わたしはどうも、そのあたりの細かいところは苦手で」
「お互い、自分の得意なところを生かせばいいんですの。逆にわたしは、兵をクロエより上手く動かせるとは思いませんわ。さあ、早く行きますわよ」
「しかし、『ゼロ』と訓練の感想を話し合っていなくてな」
 クロエに悪気はないのだろう。しかし、今のクロエの発言は、その場におけるレイの立場を悪くするには十分なものだった。ラーチェルが素早くレイを振り返る。その目には、明らかに殺意が込められていた。
「確かに、振り返りは大切ですわね」
 クロエに向き直ると、ラーチェルが笑顔を見せて告げる。どうしたらここまで素早く表情を変えられるのか、レイは乾いた笑い声を上げながら感心するしかなかった。
「ただ、兵を待たせるのもよくないですわ。手短にしてくださる?」
「しかし、ラーチェル。色々と話したいことはあるんだ。だったら先に兵と会って、後で『ゼロ』と話すことにするよ」
「お話したいんですね」
 ラーチェルが再び後ろを振り返る。その表情は、並の人間なら生きてきたことを後悔するほどのものであろう。流石に、修羅場を幾つも潜り抜けてきたレイが動じることはなかったが、この展開には苦笑する以外に出来ることはない。何故、ここまでラーチェルに敵視されなければならないのか。
「でしたらわたくしも同席いたしますわ。一応、これでも多少の軍学は学んできたとの自負がありますの」
 レイを一瞥すると、ラーチェルが告げる。
「まあ、そうだな。おれ一人だと思いつけることに限りがある」
 レイが苦笑しながら告げると、クロエも頷く。
「ラーチェルの意見にははっとさせられることが多いからな。是非、頼むよ」
「もちろんですわ」
 勢いよくラーチェルが頷く。クロエがレイを見た。
「『ゼロ』、よろしく頼む。また後でな」
 クロエとラーチェルが去っていく。一度、ラーチェルが後ろを振り返り、レイを見つめた。その眼光は、鋭い。
「すっかり嫌われているな」
 いつの間にか、近くにフェルグスが近づいていた。何が面白いのか、にやにや笑っている。
「あれは嫌われていると言うより、クロエに話しかける人間を」
 そこまで告げたあたりで、フェルグスの笑いが伝染してしまい、レイは言葉を続けられなくなる。その様子を見たフェルグスは更に吹き出していた。
「しかし、『ゼロ』。このまま行くと、いつか毒を盛られそうじゃないか」
「せめて、死ぬんなら心穏やかに逝きたいもんだけどな」
 どうにか笑いの発作を沈めたレイが告げる。フェルグスも頷いた。
「しかし、クロエもラーチェルも、とても年下とは思えないほどしっかりしているよな」
 レイとフェルグスは、それぞれ四十ずつの歩兵を率いていた。クロエが三十人の部隊を率いており、更に百人近く新しくやってきた兵たちが存在している。いずれ、三人が百人の兵を分けて受け持ち、それをアニムスがまとめあげるようになるはずだ。
 ただ、全体をまとめるはずのアニムスは足の速さを生かして他地域との連絡を繋ぐために出払っている。それまでの間、三人が協力して兵の訓練をするしかなかった。
 アニムスの代わりに兵をまとめあげているのはクロエで、流石と思わせるような統率力を持っている。
「二人とも、バレー私塾で学んでいたらしい。セリスやミリオットもそうだ」
「皆、活躍してるもんな、バレー私塾ってのは、凄いところなんだろうな」
「まあ、なんせ教えているのは元大将軍のバレー・ボールだからな」
「それは、豪華だな」
 フェルグスが納得したように頷く。
「しかし、ラーチェルなんて、こっちに来てからほとんど寝ていないらしいぞ」
 確かに、ラーチェルは最も忙しい人間の一人に入るだろう。セリスやマッキンリーと共に砦全体のことに気を配りつつ、毎日のように新兵の選抜を行っているのだ。
 思い返してみれば、目のあたりに僅かに隈のようなものが見えた気もする。
「さて、訓練でもするか。『ゼロ』」
「おれたちはおれたちに出来る最善を尽くすしかないからな。頭脳労働はできないし」
「お互い様だな、そこは」
 レイはフェルグスと共に兵のもとに戻る。互いの部隊としばし訓練を重ね、一日が終わった。兵と共に夕食を取った後、レイは自室に戻る。すぐに、クロエとラーチェルが訪ねてきた。
「さて、さっきの訓練についてたが」
「ああ、検証していこう」
 レイが頷くと、クロエは訓練の様子を振り返りながら話し始める。ラーチェルはその隣で、クロエの言葉を幸せそうに聞いていた。レイは、クロエの話を聞きながら何気ない風を装ってラーチェルの顔を見る。
 確かに、ラーチェルの目の周りには僅かな隈が見えていた。ただ、一見すると隈が分からないようにラーチェルは化粧をしている。実際は、もっと酷いのかもしれない。クロエの視線がラーチェルに向かないときに眠そうに眼を擦っている。
 ラーチェルはこっちに来てから、ほとんど寝ていない。フェルグスの言うことは事実なのだろう。
 ただ、クロエの前でそれを隠しているということは、クロエに心配されたくないのかもしれない。
「クロエ、明日も訓練が待っていますし、そろそろ戻りますわ。巡回をしている兵の様子も見なければいけませんし」
「そうだな」
 そう告げると、クロエとラーチェルが去っていく。しばらくしてから、部屋の戸を叩くものがいた。
「フェルグスか?」
「残念、わたくしですわ」
 ラーチェルだった。昼間にレイを見たときと比べ、幾分穏やかな表情をしている。
「『ゼロ』、わたくしが今ここに来たことは内緒にしてくださる?」
 そう言って、ラーチェルは真っ直ぐにレイを見つめてきた。
「何事だ?」
「あなた、わたくしが気を張っているの、気づいているでしょう?」
「化粧で隠しているとはいえ、見え見えだからな。気づくな、と言われる方が難しい」
 レイが告げると、ラーチェルは苦笑した。口を押さえながら、僅かに欠伸をしている。もう、ラーチェルは自身が疲れていることを隠していなかった。
「クロエには伝えないでくださる? わたくしはクロエのためになりたいけど、クロエの迷惑にはなりたくないんですの」
「じゃあ、代わりに一つだけ」
 そう告げると、レイは机の引き出しから一冊の本を取りだしてラーチェルに渡した。受け取ったラーチェルが、レイを見る。
「これは?」
「二十年ほど前の日誌だ。この砦が出来たばかりの頃にいた人の日誌だよ。内容は色々書いてあって、参考になることも多いだろう。ただ、おれが言いたいことは、その中の一つだ。デムーラン城砦にはかつて六日に一度休みがあった。兵たちも将校たちも例外なくな。そうしないと、肝心な時に体が持たない。それを、覚えておいてくれ」
 正確には、母の日誌だった。かつてデムーラン城砦の守備隊長だったころの記録を、丁寧に残していたのだ。
 レイの言葉に、ラーチェルが笑顔を見せる。年相応の、可愛らしい笑顔だった。
「心配して下さって、ありがとうございますわ。お昼は、色々と突っかかってしまってごめんなさいね」
「別にそれは良いんだ。かつて、シアル将軍の軍師だったムーンさんも何かと無理をして周囲をやきもきさせたと聞いている。お前はそうなるなよ」
「随分と昔のことに詳しいんですわね」
 ラーチェルが驚いたように告げる。レイは微笑んだ。
「ちょっとな」
 いつもであれば、そこから質問してくるであろうラーチェルの言葉がない。扉に体を持たせたまま、眠っていた。本当に、体力の限界だったのだろう。そのままラーチェルが倒れそうになる。
「おっと」
 レイは慌てて抱き止めた。ラーチェルは起きてこない。仕方がないので、両腕でラーチェルを抱えると、部屋の外に出た。ラーチェルの部屋に連れて行くのが一番いいのだろうが、クロエと同じ部屋だった記憶がある。クロエに心配をかけたくないとラーチェルが話している以上、そこに連れて行くべきではなさそうだった。
「なら、執務室に連れて行くか」
 レイは呟くと歩き出す。ラーチェルは幸せそうな表情をしていた。
「クロエ・・・」
 その呟きだけが、レイの耳に入ってきた。

 コトキの街は、落ち着きを取り戻しつつあった。ただ、日に何度か『破天創魔』のかけ声が街中から聞こえてくる。その時は、路地を埋め尽くさんばかりにハーテン教の信者が集まり、遮るものを踏み潰しながら進んでいた。
 ただ集まるだけでなく、街中に潜むヒロズ国の人間を炙り出している。そう教えてくれたのはナルセスだった。信者たちを巧みに扇動する人間がいるらしい。
 同時に、信者たちを避けるための手段もナルセスから教えてもらっている。最も、いざ信者に襲われたところで、逃げきる自信がベルサリウスにはあった。真正面から信者に立ち向うつもりはない。倒しきることも可能だろうが、そのためには数百の人間を殺さねばならない。兵同士の戦いでならまだしも、他者の扇動を受けただけの市民をそこまで倒したいとベルサリウスは思わなかった。
「さて、そろそろトキワに戻るかな」
 一人、呟く。ベルサリウスがナルセスと共にコトキにたどり着いたのは、五日前のことだった。もともと、同行するのはコトキに到着するまでと話していたこともあり、そこでナルセスとは別れている。ナルセスは、更に別のところに向かうと話していた。猛安の面々も、ナルセスに同行している。ただ、コトキに残った傭兵団をまとめ上げる必要があるとの理由で一人だけ猛安の隊員が残っていた。ラズィーヤと呼ばれるネヴァーフの血が混じったヒューリンの女性だ。年齢は分からないが、ベルサリウスよりいくつか上だろうか。やや褐色の肌に橙色の髪が肩にかかるくらいまで伸びている。ナルセスに軽く紹介されたが、真面目そうな女性との印象を受けただけだった。最も、流石猛安の隊員だけあって武術には光るものを持っている。ただ、何かが足りなかった。それをラズィーヤ本人に伝えるつもりはない。ベルサリウスに出来ることはないのだ。それに、もうトキワに戻ると決めている。
 荷物をまとめ、宿を引き払う。宿屋の店主とは、この五日間でいくらか仲良くなっていた。きっかけは、復旧活動である。ハーテン教の叛乱のせいか、ベルサリウスがやって来たときはこの辺りも瓦礫に溢れていたのだ。幸い、ベルサリウスは常人にはない膂力を持っている。その瓦礫を取り除き、建物を直していく中で、店主と話すようになったのだ。
「あ、ベルサリウス。この前はありがとう」
 街を歩いていると、話しかけられた。見れば、一人の女性が頭を下げている。アントニナだ。街の復旧作業を行う中で知り合ったヒューリンである。まだ若く、歳はベルサリウスとそう変わらないはずだ。赤い髪と、日に焼けて褐色になった肌が特徴的である。
「アントニナか。左足は、大丈夫なのか?」
「しばらく引き摺って歩くことになるみたいだけどね。幸い、一生引き摺ることはなさそうって」
 アントニナが微笑みながら答える。ベルサリウスも笑みを返した。
「なら良かった。後は記憶か」
「そればっかりは、本当に」
 アントニナが残念そうに首を横に振る。気がついたら、コトキで倒れていたらしい。その時は左足を負傷しており、治療にあたった神殿の人間によれば、あと少しで左足を斬り落とすことになるところだったようだ。幸い、治療によりその必要はなくなったが、記憶はどうにもならない。
 分かることと言えば、錬金術に関する職に就いていた可能性が高いことくらいだろう。錬金術の知識は豊富なようで、錬金術を利用して作られた施設や品物の修復を手掛けていた。
「ハツデンショやニューキンセツに、行ってみるのはどうなんだ? どちらも、錬金術師が多くいるのだろう」
「ここの復旧がひと段落したらかな。まだまだ直すものもあるし、正直な所、自分の記憶にそこまで関心が持てなくて」
 アントニナが苦笑しながら答えてきた。おそらく、錬金術に関することさえできれば、後は気にならない性格なのだろう。日に焼けた肌も、野外で錬金術の仕事を続けていたからだと考えれば納得がいく。
「どこかに行くの?」
 話していると、アントニナが尋ねてきた。
「行くと言うよりは、帰るだな。おれはもともと、この辺りの人間ではない」
「それは、寂しくなっちゃうね」
 本当に寂しそうな声で、アントニナが告げる。恐らく歳が近いとのこともあり、アントニナとはここ数日で仲良くなっていた。
「また、会えるさ」
 ベルサリウスは告げる。頭の中には、ナルセスの姿があった。二度、別れている。しかし、まだ会うだろうとの予感がベルサリウスの中にはあった。アントニナも同様である。時期は分からないが、またどこかで会う気がするのだ。
「困っていたら、いつでも言ってくれ。おれは普段、トキワの森で猟をしている」
「わかった。何かあったら、尋ねに行くから」
 手を振り、アントニナと別れる。ラズィーヤに会ったのは、城門の近くだった。
「ベルサリウス殿」
 ベルサリウスを見ると、直立して頭を下げる。ベルサリウスは苦笑した。
「その呼び方と態度は止めてくれ。おれは、そんなにたいそうな人間じゃない」
「しかし、あなたはナルセス隊長と対等に話されています」
「それは、おれが軍人じゃないからだ。おれはナルセスとは友人になったと思っているし、あんたとも友人になれるとは思っている。だから、その大層な対応は止めて欲しい」
「しかし」
 ラズィーヤは困ったように辺りを見ると、大きくため息を吐いた。
「分かりました。ベルサリウス・・・さん。これでいいですか?」
「まあ、さっきよりはいいかな」
 ベルサリウスが苦笑すると、ラズィーヤも強張った笑みを浮かべる。
「そうだ、ベルサリウスさん。先ほど隊長から連絡がありまして。戦いで勝ったそうです」
 どうやら、ナルセスはヒワダ近郊で行われた戦いに参加していたようだった。ハーテン・ノール率いる本隊が、ヒロズ国の将校であるエスタック・エスターク率いる軍を散々に打ち破っている。ナルセスは、エスタックを後一歩のところまで追いつめたらしい。
「流石、ナルセスだな」
「わたしたちの隊長ですからね」
 誇らしそうに、ラズィーヤが告げる。
「それから、実は頼みたいことがありまして」
「どうした」
「少し、訓練を見て欲しいんです」
 その表情は、曇っていた。何かあったのだろう。ただ、ラズィーヤは詳細を話さず、傭兵たちを訓練しているところまでベルサリウスを連れてきた。
「おう、ラズィーヤの姉ちゃんじゃねえか」
 片目に眼帯をつけた大男が、ラズィーヤを見て笑う。ベルサリウスは、ラズィーヤの直面している問題がうっすらとわかった。ばらばらなのだ。ナルセスがいれば、彼らもまとまるのだろう。しかし今は不在で、こうしなければいけないとの目標もない。その中で、皆好きなことをしているのだ。
「いざと言う時に備えて、訓練をしましょう」
 ラズィーヤが告げる。恐らく、言い続けているのだろう。眼帯の男は、目に見えて嫌そうな表情になった。
「またその話か。大丈夫。いざとなったら、おれたちが働くってことは、お前も知っているだろう。この、ドストエフスキー傭兵団隊長、ロージャ様を舐めるなよ」
 ロージャが告げると近くにいた面々が笑う。彼らが、ドストエフスキー傭兵団なのだろうか。ベルサリウスが、前に出る。
「どうした、おれとやろうってか」
 そう告げたロージャが、立ち上がる。その身のこなしに、隙はほぼ見えなかった。口だけでなく、それなりに強い人間なのだろう。ただ、ベルサリウスの敵ではない。
「まあ、いい。武器はどうする?」
 ベルサリウスが尋ねると、ロージャが近くから大斧を持ってきた。
「おれの得物はこれさ。お前はどうする」
「別に、素手でも構わないんだが」
 ベルサリウスが告げると、ロージャの表情が見る間に赤くなっていく。
「舐めているのか?」
「お前を舐めたいとも思わないが」
 昔から、取り繕った言葉は苦手だった。ロージャの顔は最早赤黒くなっている。
「そこまで言うなら後悔するなよ。来い」
 ロージャに連れられ、訓練場の一角へと向かう。周りには、二人を囃し立てるように人垣ができていた。
「ベルサリウスさん」
 ベルサリウスの傍にいるのは、ラズィーヤだけだった。心配そうに、ベルサリウスを見る。
「あんたはおれに彼をどうにかして欲しいんだろう?」
「それは、そうなんですが」
「なら、信じてくれ。すぐに終わるさ」
 ベルサリウスは軽く手を振ると、訓練場に立つ。目の前に、怒りに燃えるロージャの顔があった。
「くらえっ」
 ロージャが大斧を突き出してくる。良い動きだった。ベルサリウスは僅かな動きでそれを躱す。三度四度と躱すうちに、最初はロージャを囃し立てていた外野が、驚いたように静まっていく。
「お前、ただ躱すだけかよ」
「それもそうだな」
 そう告げると、間髪入れずにロージャに近づく。ロージャの大斧が動くより先に、手刀で手首を叩いた。ロージャが大斧を落とす。
「馬鹿な」
「もう一度やるか?」
「当たり前だ」
 ロージャが大斧を手に取り、突っ込んでくる。躱しざま、今度は足を出した。足を取られたロージャが、大斧を飛ばしながら転ぶ。
「まだやるよな?」
 ロージャが頷く。何回やっても、ベルサリウスの勝利だった。だが、ロージャも諦めない。外野は、五回六回とロージャが負けていく中で飽きたように去って行く。ついに見ている人間がラズィーヤだけになっても、ロージャは突っ込んできていた。
「くそ」
 二十回は倒しただろうか。ついに、ロージャが倒れたまま動かなくなる。
「やるじゃねえか、お前」
「お前の根性もな」
 ベルサリウスが告げる。顔を見て、どちらともなく笑った。ロージャがラズィーヤを見る。
「わかったよ、兄ちゃん。おれの負けだ。ラズィーヤの姉ちゃん。お前の言うことに従うよ。確かに、おれたちは少しお前を甘く見ているところがあった。ただ、ナルセスがいない今、隊長はお前だ。好きに訓練をしてほしいし、連携もとっていこう。どうにもならないときは、おれに言ってくれ。こんな無様な様を見せたが、決して弱いわけではない。それから、兄ちゃん」
 ロージャがベルサリウスを見た。
「もちろん、お前も手伝うんだろ?」
「ラズィーヤがそう言うならな」
 別に、今すぐトキワに戻らなければならない理由はない。それに、自分の力が必要とされるなら、悪いことではなかった。ベルサリウスはラズィーヤを見る。頷いていた。
「ベルサリウスさんが、構わないのであれば」
「じゃあ、ベルサリウス、頼むぜ。戻ってきたナルセスが驚くような訓練をしようじゃないか」
 ロージャの瞳が、燃えていた。

 ミシロとコトキにいるハーテン教徒が、デムーラン城塞を攻める構えを見せ始めていた。ただ、あくまで動きの鈍い信徒中心の軍である。ニクソン率いる斥候隊が周囲を調べているが、今日明日に来る、と言うわけではなさそうだった。
 とはいえ、ハーテン教徒が近づいてくれば大規模な戦闘が始まることになる。それまでの間に、ハーテン教徒を迎え撃つ準備を進めておかなければならない。
 朗報もあった。一番大きなものは、他地域と連絡が取れるようになったことだろう。アニムスが昼前に、四人の同行者を連れて戻ってきたのだ。その中には、ミリオットの師匠であるコダマも混じっていた。
 コダマと共にやって来たアシェラは、リシア財団の関係者らしい。通信網の復旧に来たと話しており、アシェラの方はセリスやマッキンリーと話し合いをした後、転移の術で戻っている。ついでに、兵站の輸送も始めると話していた。本来はベオウルフも来る予定だったが、他の任務との兼ね合いで来ることができなかったようだ。
 そして、もう一人、オフィーリアと呼ばれる盲目の女性がデムーラン城砦に残っていた。彼女は転移の術が使えるらしく、デムーラン城砦から他地域に行く通信役も兼ねている。盲目とは言え、杖を利用することである程度は問題なく動けるらしい。そして、近くに従者のコシュートがいた。海獺の彼が大声で会話することを、誰も疑問に思わない。その彼が巧みにオフィーリアを補佐していた。
「さて、会議を始めようか」
 そう告げたのは、マッキンリーだった。これまでの情報をまとめ、話し合うべきだろうと判断したためである。セリスとマッキンリー以外にも、多くの面々が会議に参加している。
 セリスと共に騎馬隊をまとめているジャンヌの他、歩兵隊からは隊長のアニムスを始め、クロエ、レイ、フェルグスが、更に軍師のラーチェルと、リシア財団からコダマ、更に重要な戦力と見なされているミリオットとフルール、すべて合わせると十二名もの人間がその場に集っていた。
「これまでの情報を、わたくしなりにまとめさせていただきましたわ」
 そう告げたのは、ラーチェルだ。
「攻めてくる信徒はコトキとミシロにいるのを合わせて、二万ほどの見込みですわ。それに対して、こちらはまず砦にいる二百。そして、フェミナさんが連れてくる五百」
 突然、フェミナの名が出たことで動揺したレイがむせる。アニムスがにやにや笑っている近くで、ラーチェルが眉を顰めた。
「『ゼロ』、大丈夫ですの?」
「問題ない。気にしないでくれ」
 レイはそう言いながら無言でアニムスを見た。アニムスはにやにやしながら口を開く。
「『ゼロ』君は魔導銃の使い手ですからね。フェミナさんと言えばヒロズ国でも有数の銃の使い手。気になるところがあるんでしょう」
「憧れているんですわね」
「そうなんですよ。ねえ、『ゼロ』」
「え、ああ。う、うん」
 レイの歯切れは悪い。それを見たアニムスが大きく頷いた。
「ほら、問題ないでしょう」
「明らかに動揺しているように見えますの」
「それは気のせいです」
 アニムスが断言する。動揺から立ち直ったレイも大きく頷く。
「そう、気のせいだ」
「まあ、『ゼロ』本人がそう言うならいいんですの。フェミナさんの五百以外に、セルジュさんと行動を共にしている九百もこちらに来るそうですわ。フェミナさんはあと三日ほど、セルジュさんは明日には到着するとのことですの」
「しかし、それでも千六百対二万か」
 呟いたのは、フェルグスだ。マッキンリーが皆を見る。
「私は軍人ではないから分からないのだが、戦力差としてはどうなんだ」
「そうですね。通常でしたら、籠城戦は野戦と比べると防衛側が圧倒的に有利です。防衛側の戦力は攻城側の十倍にもなると言います。そう考えれば、我々の戦力は実質一万六千。ちょっと足りませんね」
 アニムスが告げる。マッキンリーが苦笑した。
「なるほど。やはり不利なのか」
「なに、簡単だ。おれたちが千人倒せばいい」
 そう告げたのはレイだった。アニムスも頷く。
「僕は二千人倒すから、君は千人でいいよ」
 二人を横目に見ながら、クロエがマッキンリーを見る。口を開いた。
「同程度に訓練されている兵なら、厳しいでしょう。ただ、信徒の軍はほとんど武器を持ったこともないような人間で構成されていると聞きます。ならば、まだ勝ち目はあるでしょう」
「その通り。それに、我々には王族の血をひく殿下が旗頭としているわけですから、その差は歴然です。ですよね、殿下?」
 アニムスの言葉に、妙な棘が入っていた。どこか、嫌味に近い。セリスが困ったような表情になる。ラーチェルが再び立ち上がった。
「二百の指揮についてですわ」
 話しが変わる。ラーチェルがセリスたちを見渡した。
「まず、騎馬隊。十名ですが、セリスさんとジャンヌに指揮をしてもらいます。それから、歩兵。アニムスさんを中心に、クロエと『ゼロ』、それにフェルグスは以前からいる百を指揮してください。新兵の百は、わたくしの指揮下で砦を守りますわ」
「お前が、百を指揮するのか?」
 フェルグスが尋ねる。予想された質問だったのだろう、ラーチェルが頷いた。
「この百は、いわば砦に敵を引きつけるための囮ですわ。引きつけるためには、砦を効率よく守りきる必要がありますの。大丈夫、わたくしに策がありますの」
「ラーチェル」
 クロエが窘めるように告げる。ラーチェルは首を横に振っていた。
「クロエ、あなたが心配して下さるのは心から嬉しいですわ。ですが、あなたはもともとの部隊を指揮して下さいませ。目的は、兵糧ですわ。ここ数日、ニクソンさんたちには兵站の情報を集めていただきましたの。数万の信徒たちを動かすのですから、莫大な兵糧が必要になってくるでしょう。それが数日来なくなる。それだけで信者たちの不安を煽るには十分ですわ」
「なるほど。ただ、向こうも対策をしているんじゃないか?」
 フェルグスが尋ねてくる。ラーチェルが頷いた。
「もちろん、向こうも警戒はしていますわ。例えば、兵糧の輸送手段。どうやら、彼らは転移の術が使える人間を輸送役として、現地に千人分の食料を一気に送るとの方式を取っていますの。おまけに、数千の信者がまとまって行動しているので、まともに兵站を掻き乱そうと思うと数千の兵と対峙する可能性がありますわ」
「じゃあ、どうするんだ?」
「まず、一つ目は兵站の集積所の襲撃ですわ。コトキとミシロに、兵站の集積所を作っているとの報告がありますの。その倉庫を襲撃しますわ。更に言えば、集積所に食料を運び込む際は転移の術を使わずに運び込むことも多いので、そこを可能な限り襲撃していただけるかしら?」
「しかし、それではすぐに効果は見込めないのではないか?」
「十日」
 マッキンリーの言葉に、ラーチェルが答える。
「この作戦が、機能するために必要な日数です。そこは、何としてでも耐えます。だから、皆様は少しでも集積所に運び込まれる兵站を削ってくださいませ。そして、信者たちの士気が落ちてきたところを、一気に叩きましょう」
 ラーチェルが皆を見渡す。その目は、据わっていた。場が、黙る。クロエが、手を挙げた。
「ラーチェル、言いたいことはわかった。しかし、軍の指揮をしたことはないだろう。いざと言う時も考えると、誰か指揮をできる人間が一人いるべきだと思う。その方が、ラーチェルが策を考えることに集中もできる」
 もっともな意見だった。ラーチェルは困ったように視線を泳がせる。
「セリス、お前はどう思う?」
 クロエがセリスを見る。セリスが口を開いた時だった。
「『ゼロ』」
 ラーチェルが突然名を挙げた。皆が、ラーチェルとレイを交互に見比べる。
「でしたら、『ゼロ』を残してくださいます? ここ数日間、兵の訓練を何度も見させてもらいましたの。その中で、デムーラン城砦を共に守るなら『ゼロ』が良いと思いましたわ」
「そうだな。その役目は『ゼロ』が向いていると思う」
 アニムスが告げると、クロエも納得したように頷く。
「確かに、『ゼロ』は一人で戦局を変えるような射撃の腕を持っているからな。わたしも何度かやられたよ」
 皆がレイを見る。レイが立ち上がった。ラーチェルが何かを覚悟していることは分かっている。そして、その道連れに自分を選んだことも。
「わかった。そこまで言われたのなら、引くわけにはいかない」
「ありがとうございますわ、『ゼロ』」
 ラーチェルが頭を下げる。その目には、強い光が灯っていた。
「では、残りの方々は部隊を二つに分けて、それぞれ兵糧を掻き乱しましょう」
 ラーチェルが話し出す。詳細な戦略が決まった。
「より掻き乱せれば、わたくしと『ゼロ』の負担が減ることになりますわ。皆さま、よろしくお願いします」
 ラーチェルが頭を下げる。それで、会議は終わりだった。皆が去って行く中、セリスとアニムスの目が合う。
「殿下もゆめゆめ、手抜かりなさらぬように」
 相変わらず、棘のある口調だった。セリスが王族だと判明してから、アニムスのセリスに対する態度はどこか嫌味を含んでいることが多い。他の地域に救援を求めるため、アニムスが出払っていたため気づかずにいる者がほとんどだったが、セリスはそれを肌で感じていた。
「今更ですが、アニムスさん」
 話しかけられたので、セリスも口を開く。
「何か言いたければ、はっきり言ってください」
「そうですか。しかしあなたは王族でいらっしゃる。私のような下々の人間が声をかけるなんて、恐れ多い」
 仰々しくアニムスが話しかけてくる。ふざけたような口調だが、目は笑っていない。むしろ、棘だらけの言葉だった。
「確かに、適切な上下関係であればあってもいいと思いますけどね」
 ただ、今のセリスとアニムスが適切な関係にあるとは言えないだろう。まして、アニムスは軍の頂点にいる。このまま放置しておけば、いざと言う時に重大な問題になりかねない。
「できれば、何が引っ掛かっているかを教えて欲しいところです」
「そうですか」
 そう告げると、アニムスは周囲を確認する。誰もいないのを確認すると、アニムスはため息を吐いた。
「おれはお前が憎くて仕方ないんだよ」
「憎い?」
 嫌われている気配はあったが、憎まれているまでは想定していなかった。思わずセリスが聞き返す。アニムスは剣呑な気配でセリスを睨み付けると、口を開いた。
「おれたち姉妹はこの国から見捨てられ、人体実験の道具にされてきた。そこからたまたま善意と出会って救われた姉さんによって、おれも救われた。そんな姉さんの人の好さに付け込んで、戦いの道具扱いしてお前の親父は闘わせたんだよ。人生を搾取したようなものだろう」
 アニムスの目から怒りが見える。セリスは何も言えずにいた。
「他人事ならばただの笑い話で済むだろうが、身内の話なんだ。憎くて仕方ないだろう」
 そこまで告げると、アニムスはセリスから目線を逸らした。
「だからだよ、セリス殿下。あなたに罪はないことはおれにもわかっている。でも、そんな憎い男を頂上として仰げるかい?」
 セリスは答えなかった。沈黙が二人の間を流れる。やがて、アニムスが口を開いた。
「でも、私たちは軍人です。弱い人のために闘う義務がある。ですから、殿下」
 アニムスがセリスの胸を叩く。
「あなたには怨恨を抱えた人間でさえも、この男なら仕方ないと思えるような背中を見せていただきたい。あなたは王族なのですから」
 アニムスの目が、まっすぐとセリスを睨んでくる。その目を逸らすことなく、セリスも真っ向から見返す。
「見せるしかないですよね」
「わかった。じゃあ、やれ」
 アニムスの口調は、先ほどから乱れている。恐らく、それほどまでの激情なのだろう。セリスは頷いた。ここまでのアニムスの性格から察するに、生半可なことでは納得しないだろう。しかし、軍の頂点にいるアニムスを納得させなければ先はない。
「やってみせます」
「ああ、見せてみろ」
 そう告げると、アニムスは踵を返し、去って行く。一度振り返った。
「では殿下、これにて」
 その背が見えなくなるまで、セリスは立っていた。
「重たいな」
 呟く。だが、仕方のないことなのだろう。これから先も、アニムスのように自身を嫌ってくる人間がいる。それをまとめられるような人間でなければ、頂点には立ち続けられない。それに、アニムスの言葉の端々には、まだ優しさが感じられた。

 部屋に戻ったレイを訪ねるものがいた。誰なのかは、想像がついている。扉を開けると、案の定ラーチェルの姿が目の前にあった。
「『ゼロ』、あなたに謝りに来ましたの」
 ラーチェルは珍しく剣を腰から下げている。鞘の形状から見て、刀身は細い。デムーラン城塞に来るまでは冒険者をしていたと彼女が話していたのをレイは思い出した。
 見た目からは想像つかないが、遺跡の中で魔獣や妖魔と闘ったことも一度や二度ではないのだろう。思い返してみても、身のこなしには意外と隙が少ない。
 ラーチェルは剣を鞘から抜く。細い剣が部屋の明かりに照らされ輝いた。その切っ先を、レイに向ける。
「死んでくださる?」
 ラーチェルの表情は、真面目そのものだった。レイはにやりと笑う。
「その状態からでも、おれが銃を抜いてから撃つ方が早いぞ」
 ユリアンヌ・クライスラー、百発百中を誇る射撃の名手である母に対し、抜き打ちだけは劣らないとの自負をレイは持っていた。僅かな沈黙が長かれる。ラーチェルの顔が緊張を緩め、ふっと笑った。
「もちろん、あなたを死なせないように最善の努力はしますわ。負けてしまっては元も子もないですからね」
「それはお互い様さ。最も、ラーチェル。君なら安心して背中は任せられる。君はバレー私塾で用兵術を学んできたんだろう?」
「もちろんですわ。ただ、百で二万を迎え撃ちますの。万一の場合には死んで頂くこともあるかもしれませんわ。最も」
 ラーチェルは一度言葉を区切る。真っ直ぐに、レイを見てきた。緑の少し大きめな目が、レイを射抜いてくる。
「その場合はあなたが死ぬ前に、わたくしが死にますわ。あなたに依頼した時点で、それは覚悟しておりますの。仮に、あなたが死んでわたくしが生き残っても、自死しますわ。軍師として、あなたを死なせた責任は取るべきだと思いますの」
「おいおい。そう言う時はな、誰も死なない方法を考えるもんだ」
「そのつもりですわ。いざと言う時の話ですの」
「まあ、それもそうだけどさ」
 レイは目の前に立つ少女に漠然とした不安を感じていた。決死なのはお互い様である。ただ、今のラーチェルは何かあった時にすぐ死にかねない。何故、それほどまでに自らを追い込んでいるのか。
「『ゼロ』、わたくしは何としてでもクロエのためになりたいんですの」
 ラーチェルはレイから目をそらさずに告げる。
「と言うのも、わたくしは子どもの頃にクロエに助けられたんですわ」
 突然、ラーチェルが話し始めた。目は、遠くを見ている。ラーチェルは、トキワに近い村の出身だった。
「もともとわたしは体があまり強くなくて、活動的な性格ではなかったんですの。昔から書物を読むことだけは興味があって、近くの大人に教わったりしながら多くの書物を読んでいましたの。ただ、同年代の人たちとは話が合わなくて」
 のけ者にされる日々が多かったのだと言う。最も、ラーチェルはそこまでそれを気にしていなかった。人は人、自分は自分だと思っていたからだ。本当に気にし始めたのは、歩いている時に密かに石を投げられたりするようになった時からである。かといって、周りの大人には相談しづらかった。
 大人たちなら自分の味方をしてくれるだろう。しかし、これは子どもの問題である。当時のラーチェルはそう考えていた。子どもの問題を、子どもである自分が解決できなくてどうするのだ。
 ただ、ラーチェルの想いとは裏腹にラーチェルに対する陰からの嫌がらせは悪質さを増していた。一度、我慢できなくなった際に二日かけて密かに落とし穴を作り、嫌がらせしている人間を何人か落としたことがある。しかし、その様子を見て笑ったとして後日殴り飛ばされた。
 流石にその時は大人たちもラーチェルの様子がおかしいことに気付いたが、ラーチェルはついに話すことがなかった。そんな時にやって来たのが、クロエである。
 クロエは、暗い顔をして歩いていたラーチェルに気兼ねなく話しかけてきた。ラーチェルが困りながらも対応している間に、ラーチェルがかなりの知識を持っていることに気付いたらしい。いくつか年の割には難しい質問を投げかけてきた。それをラーチェルが答えると、クロエは驚きに満ちた目で笑いかけてきた。
 それが、クロエがバレー私塾の講師から出されて解けなかった問題の答えだと知ったのは、ラーチェルがバレー私塾に入学してからのことである。
 その日のクロエは、たまたまこの村にやって来たのだと言う。何故か、初対面だと言うのにラーチェルはクロエと話すことができた。同年代だったこともあるのかもしれないし、クロエの持つ人間性なのかもしれない。
 とにかく、気付けば色々なことを相談していた。
「さっきの質問に答えてくれたお礼に、手伝うよ」
 クロエは真面目な顔で告げてくる。ラーチェルはその言葉に、目を丸くした
「でも、どうやって」
「全員殴り飛ばそうか?」
「それじゃあ、仕返しが」
「だったら、ラーチェルが強くなるとか」
「そんな実力、ないと思う」
 ラーチェルが首を横に振る。その他にも出てきた案を全て否定していると、クロエが苦笑し始めた。
「本当に、頭が悪くて申し訳ないな」
「わたしこそ、否定しかできなくて。でも、確かに強くなってみるのは良いのかもしれない。わたし今まで、書物ばかりの生活だったし」
「じゃあ、早速だな」
 クロエはそう告げると、辺りを歩き回り、すぐに細い枝を渡してきた。それが武器の代わりだと気付くのに、ラーチェルはわずかな間が必要だった。こうして、クロエとラーチェルの修行が始まった。
 そして、これが思わぬ解決策へと繋がったのである。ラーチェルとクロエの訓練を、まず年下の子どもたちが羨ましがり始めたのだ。年下の子どもたちに丁寧に教えている間に、年下の子どもを経由して同年代の人間も二人の下にやってくるようになった。皆、武器が使えるようになりたかったらしい。クロエはそうやってきた同年代の人間一人一人とラーチェルを納得いくまで話し合わせ、やがてラーチェルと同年代の人間は気兼ねなく話せるようになっていった。
 バレー私塾にラーチェルが興味を持ち始めたのも、その頃からである。それまでは、タマムシ大学に入学して学者になろうと考えていたのだ。ただ、クロエとより多くの時間話せること、そしてクロエのような人間が多くいるであろうバレー私塾に、堪えきれないほどの魅力を感じていたことも、事実である。結局、両親を説得してバレー私塾に入っていた。
「バレー私塾に入ってからのことは、聞いての通りですわ。クロエがいなかったら、今のわたしはここにいなかったと思いますの。ひょっとしたら、村で潰れていたかもしれません。その恩を、わたしは少しでも返したいんですわ」
 言っていて恥ずかしいのか、ラーチェルの顔がわずかに赤くなっている。
「なるほどな。お前がクロエのことを強く慕っているのはわかったよ。ただ、一つだけ警告しておこう」
「何ですの?」
 レイは真面目な口調で告げると、ラーチェルも真剣そのものと言った表情で聞き返してきた。相変わらず、顔は赤い。
「戦いに行く前にそうやって過去のことを話すのは、大体死ぬと相場が決まっている」
 ラーチェルが吹き出した。
「そう言うことですの。大丈夫ですわ。もちろん、そんなありきたりな死に方はしないよう気は配っていますの。それに、あっさりと死んでしまっていてはクロエの役に立てませんわ」
 そう告げると、手を差し出してきた。レイがその手を握る。
「ありがとうございますわ、『ゼロ』。わたくしのわがままのために」
「なに、こういう時に戦う仕事を選んだからな。それに」
 レイはそこで言葉を止めた。自分の母親が戦ったデムーラン城砦で、自分も戦う。その一致に感傷を持ったが、ラーチェルに言っても通じないだろう。むしろ、ユリアンヌの息子だとアニムス以外の人間に伝わることが問題だった。
「いや、これは個人的な感傷だ。気にしないでくれ」
 ラーチェルは気にしたようなそぶりを見せたが、そのまま黙って頷いていた。

 月明かりに、大地が照らされていた。雲の切れ間から、月が顔を覗かせている。
 アニムスは周囲の動きに気を払っていた。一応、林の中とのこともあって、ハーテン教の信者たちがこちらに気づいたこともなさそうである。
「わたしとコシュートはデムーラン城塞に戻ります」
 背後から、声がかけられる。オフィーリアのものだった。オフィーリアやマッキンリーなどの非戦闘要員もデムーラン城砦には百人近く住んでいる。彼らの多くは、転移の術で一時的に他の街へと逃れていた。いざと言う時に足を引っ張りかねないためだ。ただ、オフィーリアは転移の術を持っているため例外的に残っている。
「ここまでご協力ありがとうございました」
「アニムスさん、くれぐれも怪我には気を付けてくださいね」
 オフィーリアが告げる。
「あ、報酬に関しては正規の手続きを踏んでおきましたので、戦闘終了後に申請して受け取っておいてください。まあ、デムーラン城砦が残っていたらですけど」
 アニムスの不吉な発言に、オフィーリアは苦笑する。その隣で、コシュートがにやりと笑った。
「なに、デムーラン城砦にはおれもいる。心配しないでくれ・・・ミジュ」
「忘れていたよ。おれたちは敵が最も恐れる男を味方にしていたんだ」
「その通りだ。このシェルブレードが火を噴くところ、見せられないのが残念だ・・・ミジュ」
「ああ。噴くのは水だが残念だ」
 アニムスが笑う。コシュートが短い手を振ると、オフィーリアを案内して去って行った。いつの間にか、アニムスの近くに赤髪のアウリルが立っていた。ラディである。
「アニムスさん、現状の報告です」
 歳は、四十くらいだろうか。アニマよりいくつか年長だったはずだ。赤髪に、僅かながら白いものが混じり始めている。しかしまだ、見た目は若々しい方だった。
 ラディが数名の影の軍を引き連れやってきたのは、今朝のことである。ラーチェルと話し合うと、一度部下を引き連れ出ていき、夕方に戻ってきた。デムーラン城塞から歩いて半日ほどのところと、転移の術で行き来できるようにしたと聞かされたのは、その時である。
 早速、夜陰に紛れ兵を移動させ始めた。念のため、レイとラーチェルが五十ほどの兵で陽動を行っている。
 ラーチェルの動きは、かなり慎重だった。クロエのためにも、失敗させたくないとの思いが強いのだろう。今日のために、昨日と一昨日も兵を陽動させていた。
 転移の術でやって来たところは、林の中である。セリスたち騎馬隊と、クロエ率いる五十の兵はいない。また別の茂みに転移しているはずだった。アニムスの傍にいるのは、ラディとフェルグス、そして旗手のメランヒトンだった。最も、この作戦では旗を立てる必要がないため、旗の代わりに長い槍を持ってきている。
「コトキのことは、スタンダールに任せてください」
 影の軍は、コトキにあるハーテン教徒用の兵糧庫も見つけていた。ただ、警備が厳重で、容易に近づけそうにない。そこで、もう一人の影の軍の隊長であるスタンダールが部下と共に潜入作戦を敢行することになっていた。身のこなしの軽いアニムスがそちらに向かっても良かったのだが、流石に経験豊富な指揮官が歩兵隊に欲しいとのことで、フェルグスと共に部隊の指揮に回っている。
「では、アニムスさん。後はよろしくお願いします」
「セリス殿下にも、同じことを伝えておいてくれ。むしろ、彼がこの軍の頂点だ。今後はまず僕ではなくセリスに話を通して欲しい」
「分かりました」
 ラディが去って行く。どこか、業務的だった。アニムスが影の軍に対してあまり好感情を持っていないことを知っているのだろう。セリスの父シアルと同じく、影の軍もまた姉のアニマを単なる戦力としか考えていないとアニムスは思っていた。互いに大人なので仕事をする分には問題なく付き合えるが、それ以上親しくなろうとは思わない。
「アニムス、メランヒトン。準備はできたぜ」
 最後に転移してきたフェルグスが告げる。前髪を高く上げた特徴的な髪形は、遠くから目立っていた。
「ああ。フェルグス君。今日はいい天気だ。死ぬにはいい日だと思わないか?」
「確かに。ただ、その前に、一つでも多くの兵糧を奪い取らないとな」
 フェルグスは明らかに逸っていた。友人であるレイが百人の兵の指揮官としてデムーラン城砦に残ったことが、少なからず影響しているのだろう。何しろ、二万の部隊と直接ぶつかる残留部隊だ。決死である。友を一刻も早く助けたいとの気持ちが、前に出ていた。アニムスはそんなフェルグスの肩を叩く。
「相手が砦攻めなんか考えられないくらい、ぼこぼこにしてやろう」
「ああ。任せてくれ」
 フェルグスが頷くと兵に指示を出しに行く。
「しかし、アニムス隊長。フェルグス殿も立ち直ったみたいですね」
 メランヒトンが話しかけてくる。
「ん? ああ、男に告白した件かい?」
「あ、そうなんですよ。ほら、何でもアシェラさんをお茶に誘ったらしいじゃないですか」
 アニムスに連れられ、初めてアシェラがデムーラン城砦にやって来たときだった。確かに、アシェラは一見すると性別を間違えそうになる見た目の持ち主である。最も、男だからとアシェラには一蹴されていた。それだけなら良かったのだが、その光景をプライムが見ていたのである。この噂は、風よりも早くデムーラン城砦を駈け巡っていた。
 それからしばらくは、憑かれたように訓練に繰り出すフェルグスの姿をアニムスも見ている。
「ただ、思うんだが。ひょっとして彼はどちらの性別でもいけるんじゃないか」
「確かに。ここまで続くとわざとなのではないかと思ってしまいますよね」
「ただ、この仮説を実証するためには実験をする必要がある。まず、女っぽい見た目の男、男っぽい見た目の男、女っぽい見た目の女、男っぽい見た目の女、以上四つの例が必要だな。その上で、どれにフェルグスが引っ掛かるかを調べよう」
「なるほど。そうなると男っぽい男はアニムス殿ですね」
「任せろ。女っぽい男は」
 アニムスは記憶を掘り返した。
「いっぱいいるな。女っぽい女はクロエちゃんに頼むとしよう」
「そうすると、男っぽい女ですよね」
「誰がいるんだ」
 アニムスとメランヒトンは考え込む。誰も出てこなかった。
「よし、メランヒトン。お前女装しろ」
「それだと女っぽい男が増えるだけですよ」
「あ、あれ? ややこしくなってきたな。これがフェルグスの罠か。こうやっておれを混乱させようと」
「全部、聞こえているからな」
 いつの間に戻ってきたのか、フェルグスが苦笑していた。
「フェルグス、違うんだこれは」
 動揺するアニムスにフェルグスは呆れたようにため息をつく。
「とにかく行こうか、セルジュとやらがこの先で待っているらしいしな」
 しばらく、歩き続ける。林の中に、小さな丘が五つほど点在していた。いや、地竜だ。体を地面につけるように姿を潜めている。その上に木の葉や枝が被せられていることもあって、一見しただけでは意外と気づきにくかった。
「アニムス殿。またお会いできて嬉しいです」
 近くに息を潜めていたセルジュがやってくる。この前見た長柄の大斧と比べると、いくらか柄の短い斧を背負っていた。地上に降りた時用の斧なのだろうか。それでも、セルジュの背丈とそう変わらない。
 セルジュは大柄だった。おまけに、重い大斧を軽々と振り回しているだけのことはあり、体格にも恵まれている。
「男っぽい女」
 セルジュの顔を見た時、思わずアニムスとメランヒトンは口走っていた。
「へ?」
「セルジュ、お前にしか頼めないことがあるんだ。是非、協力してほしい」
「は、はあ」
 セルジュの顔に困惑が浮かんでいる。そんなセルジュを見ながら、アニムスは続けざまに口を開く。
「本当にお前にしか頼めないんだ。だから、死ぬなよ」
「わかりました。もとより死ぬ気はないですが。でもその、男っぽい女と頼み事は関係はあるんですか?」
 やや不本意そうに告げる。自らの外見を気にしているのだろうか。アニムスは首を振ると、断言するように告げる。
「何もないから安心しろ」
「絶対ありますよね、それ」
「この目が信じられないのか?」
「信じています」
 必死に告げるアニムスに、セルジュは大きく頷いた。
「そして、その目が如実に語っています」
「よし、じゃあ今後の計画について話し合おう」
 露骨に目と話を逸らす。そんなアニムスを見ながら、セルジュが豪快に笑っていた。

 まるで、海だった。原野を埋め尽くすように人が並んでいる。まだ、こちらの武器が届く範囲にやってきてはいない。それでも、風に流されて呪文のように『破天創魔』と叫ぶ声が聞こえてくる。
「いよいよですわ」
 隣にいるラーチェルが告げる。城塞に築かれた、物見櫓の中だった。レイは信者の海を眺める。
「改めてみると、二万の兵ってのは壮観だな」
「そうですわね。彼らを相手に、最低でも十日はここを守りきる必要がありますの」
「それを助けるために、他のみんなが兵站を絶とうとしてくれている。おれたちはここを持ち堪えることだけ考えよう。それに、ある程度のところまで行けば援軍として助けに入ってくれるはずだ」
 レイの言葉に、ラーチェルが頷く。援軍が来るまでの間、城塞に籠もる。事前に二人で決めたことだった。千の兵がいるならまだしも、百の兵で二万の大軍に飛び込むのは死に等しい。おまけに、その間城塞を守る兵すらもいなくなるのだ。
 規模が縮小し、濠も全て埋められてしまったとは言えデムーラン城塞はまだまだ強固である。特に、城壁は登りにくくなるよういくつかの仕掛けが施されていた。
 この城塞を作り上げた人たちの、思いが残されているのだろう。その一人が、レイの母であるユリアンヌだった。二十年近い時を経て、子である自分がこの城塞を守る立場となっている。レイには感慨深いものがあった。
「しかし、調べれば調べるほど、この城塞は感心しますわ。この前、あなたから日記を貸していただいたでしょう。そこに、ここを守るために考案されたたくさんの仕掛けについて書かれていましたの。そして、城壁がそれらの仕掛けを置きやすいように調節されているのですわ。おまけに、位置も絶妙ですの」
 この場所に城砦を作ろうと提案したのは、名前の由来にもなったデムーランと呼ばれるエルダナーンだった。レイの両親の親友であり、下級の神官だったにもかかわらず、その才を認められ城塞の軍師に抜擢されたのだという。すぐに声が大きくなる、と懐かしむように母が話していたのをレイは覚えていた。
 ただ、デムーランはこの城塞が出来てすぐの戦いで亡くなっている。次いで軍師となったのは、クロエの母であるキョウコだった。
 キョウコは石積みの達人で、この城塞に残されている仕掛けの多くを作り上げた本人であるらしい。ただ、彼女も暗殺者の凶刃に倒れ、命を落としている。
「『ゼロ』、先は長いですわ。逸って死なないようにしてくださいませ」
「それはお互い様だ」
「大丈夫、わたくしはそう簡単には死ねませんわ」
 レイの言葉に、ラーチェルが笑って答える。
「ただ、デムーラン城砦を以前のように万全の状態には出来なかったことは悔やんでおりますの。わたしがクロエのお母様のように石積みや罠を上手く仕掛けられれば良かったんですけれど。そうもいきませんわ。一応、簡単なものは用意しておきましたが」
 大きな岩を砕いて、石にする。油を用意し、火をつけられるようにする。少しでも時間を稼ぐためにラーチェルは多くの準備をしていた。目の隈からして、またあまり眠っていないのだろう。
「六日に一度はちゃんと休むように言っただろう」
「今はそう言っている時期ではありませんわ。デムーラン城砦を守りきったら、ゆっくり寝させていただきますの」
 翌日から、ハーテン教徒の本格的な攻撃が始まった。『破天創魔』と叫びながら、近づいてくる。その多くは、武器をまともに持ったことすら少ない農民だ。
 出て行けば、軽く蹴散らせるだろう。
「誘いですわね」
 ラーチェルが告げる。どうやら、農民たちに混じって訓練を積んだ兵が僅かに混じっているらしい。
「茂みの中に、毒蛇がいる。おそらく、そんな具合ですわ。茂みが邪魔だからとかき分けていくと、うっかり毒蛇を踏みつけ、噛まれてしまう。そんな気がしますの」
 ラーチェルはそう告げると、城壁の近くにいる兵のもとへと向かっていった。レイも向かう。
 早くも信者たちが城砦へと向かい始めていた。最も狙われているのは、城門の付近である。それだけに、警護の兵も多い。更に、城壁を乗り越えようと手をかける者も出てきた。レイとラーチェルが指示を出す。兵たちが、投石器を構えた。石が飛んでいく。矢を放つ者もいた。
 何人かの信者を倒すと、楯が出てくる。場所によっては楯ともいえない覆いだ。しかし、石や矢を止めることはできる。
「イーヴァルディ!」
 ラーチェルが叫ぶ。ラーチェルの左手が青白く輝いたかと思うと、人の体ほどはありそうな巨大な氷柱が、楯めがけ降り注いだ。石や矢を止めた楯が紙のように裂けていく。
「今ですわ」
 再び、投擲が始まった。しばらくはこれで持ち堪えられるだろう。しかし、敵も乱れない。
「『ゼロ』、あの三人」
 近づいてきたラーチェルが告げる。レイも感じていた。彼らがそれとなく指揮を出している。ただ、ラーチェルの魔術を警戒しているのだろう、近づいてはこない。
「魔導銃で、撃ってくださる?」
「任せろ。抜き打ちの速さなら、この砦を作ったユリアンヌ・クライスラーにも負けないつもりだ。まあ、命中精度は劣るかもしれないが」
 そう告げると、城壁へと向かう。指揮官たちは、まだ誰も自分たちを狙っていないと思っている。腰に手をかけた。次の瞬間には、もう三発とも撃ち終わっていた。銃声が鳴り終ると同時に、指揮官とおぼしき人間が、次々と倒れていく。僅かに、信者たちが動揺した。
「流石ですわね」
 様子を見に城壁へと上がってきたラーチェルが告げる。レイは首を横に振った。
「まだまだだよ。おれの目指す理想像はこんなものではない」
 理想は、母だった。母の凄さは、幼いころから聞き続けている。抜き打ちの速さだけは自信があったが、他の技術で同じ次元に達していると思えるものは何もなかった。
「さて、また行きますわ」
 ラーチェルが右手を突き出す。魔術を撃ち始めた。氷柱が敵陣へと落ちていく。指揮官を欠いた信者たちの混乱がより広がった。このまま、押し切れる。
 何かを感じたのはその時だった。思わず、レイが顔を上げる。風を切る音が、聞こえた。ラーチェルは、気付いていない。矢が、一直線にラーチェルへと向かっていく。今から銃を向けても間に合わない。普通ならば。
 ただ、レイは抜き打ちの達人だった。矢を認めた瞬間には、もう銃を撃っている。ラーチェルの耳のすぐ手前で、鏃に銃弾がぶつかった。方向が変わった鏃が、ラーチェルの目の前を通り過ぎていく。
「えっ」
 流石のラーチェルも、すぐには理解できなかったらしい。戸惑ったような声を上げる。少ししてから、自分が危機一髪であったことに気付いたらしい。少し涙ぐんだ目で、レイを見る。
「あ、ありがとうございますわ。『ゼロ』」
 顔が、僅かに赤くなっている。レイはその頭に手を置き、軽く撫でる。ラーチェルも、嫌がるそぶりは見せなかった。
「戦いに集中するのはいいけれど、戦場じゃ後ろから撃たれることだってあるんだ。気をつけろ」
「本当に、そうですわね。この借りは、この戦いが終われば必ず返しますの。何を返すかは、秘密ですが」
 ぎこちなくラーチェルが笑う。
「ちなみに、好きな食べ物は何ですの?」
 それをくれるのだろうか、意外と、分かりやすい性格をしていた。
「肉だな」
「そうだと思いましたわ。見た目通りですわね」
 ラーチェルが納得したと言わんばかりの表情で頷く。一体、レイのことを何だと思っているのか。レイは苦笑せざるを得なかった。
 その後も戦いは続き、ついに日が暮れる。そこで一度、ハーテン教徒たちが下がっていった。
 幸い、まだどこも突破されていない。ただ、兵の疲弊は凄まじかった。しかし、奇襲を避けるためにも全員を休ませるわけにはいかない。兵を四隊に分け、交互に見張りに立たせることにした。レイとラーチェルは、交互に休む。ラーチェルが先に休むことになり、レイは城壁を見て回ることにした。歩いていたレイが、思わず足を止める。
 フルールが、見張りに参加していた。
 城内に残る道を選んだ彼女は、昼の戦いにも参加していた。特に、防御壁を作り出す魔術は凄まじく、それを利用して城内に打ち込まれた石や矢を上手く弾き返していた。
 フルールの父が、かつて母の同僚だったソレイユ・ローランサンであることは聞いている。母やフェミナからソレイユが防御壁を作り出す魔術の達人だったと言われていたことを思い出した。血を、受け継いでいるのだろう。
 そのフルールが、寝ようともせずに城壁で見張りを続けていた。
「フルール」
「『ゼロ』さん」
 レイの言葉に、フルールが顔を上げる。
「夜通し見張っていると翌日動けなくなるぞ。ほどほどにして、ゆっくり休め」
「心配してくださってありがとうございます。ですが、わたしにはこれくらいのことしかできないので、わたしは自分の役目を果たすだけです」
「なあ、フルール」
 少し言葉を考えた後、レイが口を開いた。フルールは、じっとレイを見ている。さながら、人形のようだ。
「十五歳の君を戦場に立たせなければいけない現状を、大人としては恥じ入るばかりだよ。ただ、君が父であるソレイユさんのように防御壁の魔術を作り出せてしまうから、戦力として当てにせざるを得ない」
「ありがとうございます」
 フルールの言葉は、感情もなく淡々としていた。人形が口を開いたら、こんな感じなのだろう。
「礼を言われたくてそう言ったつもりはないんだけどな。こういう状況だ。窮地をしのぎきるためにも君には万全の状況でいて欲しいんだ」
 レイの言葉に、僅かにフルールの表情が揺れる。感情が残っている証だった。ただ、決していい方向ではない。フルールが母を失った衝撃から立ち直れていないとの話はクロエやラーチェルから聞かされていた。このままだと、母の後を追いかねない。
 ただ、フルールの表情が動いたのはほんの一瞬のことだった。すぐにいつもの無表情に戻ると、頭を下げる。
「そうですね。では、その通りにさせていただきます」
「夜の警護は交代で行う。今はゆっくり休みなさい」
 レイが告げると、フルールはもう一度頭を下げて城壁から降りて行った。フルールの姿が見えなくなってから、レイはため息をつく。
「キーナさんの代わりは、無理だな」
 そのあともしばらく、レイは城壁を見回っていた。
 あっという間に、三日が過ぎていく。ハーテン教徒は、まだ城壁を乗り越えていない。しかし、時間の問題だった。こちらの疲労が、かなりのものになってきている。ハーテン教徒もそれに気づいたのか、昼夜兼行で攻め始めていた。
 こちらは百の兵を四隊に分け、六時間ごとに一隊を休ませるようにしている。ただ、それでも兵が倒れ始めていた。敵の投擲による者もいるが、一番は疲労である。眠ったように倒れ、そのまま死に至るものも少なくなかった。
 ラーチェルの頬が削げている。自分も、似たような顔をしているはずだ。他の兵と共に六時間は休むことにしているが、警戒しなければいけないことが多く、殆ど寝た気がしない。それでも、ラーチェルの瞳には強い光が灯っていた。クロエへの愛がなせるのだろう。
「隊長、ラーチェル殿。城壁に信者が取り付いてきました」
 兵が叫んでいる。
「『ゼロ』、ここはわたしが行きますわ」
 ラーチェルが駆け出していく。
「イーヴァルディ!」
 お馴染みの声と共に、巨大な氷柱が信者に降り注ぐ。楯すらも通用しないその一撃は、信者たちの恐怖となっているようだった。だが、別の場所から信者がよじ登り始める。
 レイがそちらに向かうと、魔導銃を放った。城壁に取りついた信者が、落ちていく。ただ、まだ信者は無数に迫っていた。フルールも防御壁を張り、信者の侵入を食い止めている。
「隊長、別の方角からも」
 どうやら、四方から同時に攻めてきているようだった。
 ラーチェルを見る。氷柱を放ちながら、その内の一方面を支えていた。自分とフルールも別の方面を支えることはできるだろう。ただ、一方面だけが間に合わない。
 不意に、ハーテン教徒の動きが乱れた。
 土煙が、後方から近づいてくる。二百ほどの騎馬が、ハーテン教徒の軍を斜めに絶ち割っていた。何が起きたか分からないのか、信者たちに混乱が広がっていく。
 馬群が近づいてくる。その先頭を駆るものに、レイは見覚えがあった。間違えようもない。フェミナだ。
 槍を振り回しながら道をこじ開け、突き進んでいく。フェミナが人から譲り受けたと話していた槍だった。銃にも変形することをレイは知っている。騎馬隊の突進を受け、信者たちが逃げ始めているのが見えた。
「矢と石を」
 別の方面でラーチェルが叫んでいる。更に、左手が青白く輝いたかと思うと、氷柱を落とし始めた。動揺した信者たちが下がっていく。
 ひと段落と言ったところだった。フェミナの騎馬隊も気づけば去っている。
 ただ、近くにはいるはずだ。増援が来るまで守り抜いたとの意識からか、味方の士気が上がっている。
「フェミナ姉、来てくれたか」
 思わず、ぽつりと溢していた。幸い、近くには誰もいない。すぐに、ラーチェルが駆け寄ってきた。
「流石、歴戦の将ですわ」
 落ち着いた声だった。フェミナの突撃の効果を、軍師として冷静に見ているのだろう。それに、まだ信者たちが完全に退却したわけではない。戦いは続いていた。
 ただ、いくらか気持ちは軽くなっていた。
「『ゼロ』、戦い抜きましょう」
「敵が足並みを乱している今が好機だ。また押し返そう」
 隣に立ったラーチェルが、頷く。その距離が、以前と比べて近くなっていることにレイは気がついた。

 最初は、ただ真面目なだけだと思っていた。そうでもないと思うようになったのは、何度も訓練を共にしていく中でのことだった。流石にナルセスが傭兵団を取りまとめるために残した人間である。何度か共に訓練をするにつれ、ラズィーヤが全体を見て指揮を行っていることが分かってきた。
 自分なら、確実に面倒になる。そして、自らの力を頼んで突っ込むとしか思えない。そんな場面でも、ラズィーヤは慌てることなく訓練を続けている。その視野の広さには、ロージャと二人で感心するしかなかった。
 ただ、ラズィーヤ自身の実力に関しては、どこか本人の力を出し切れていない。現状だとロージャとほぼ互角くらいだろうか。恐らく、本来の力を出し切れればもっと強くなれるはずだ。後は、本人がどこでその実力を出せるようになるかだろう。
 そのラズィーヤが、忙しそうに駆け回っていた。
 他の傭兵たちもどこか慌ただしい。ロージャに事情を聞くと、出動の命が出されたとの答えが返ってきた。
 二万近いハーテン教の信者が二百の兵しかいないデムーラン城塞を攻めている。その様子は、想像するだけでどこか滑稽ですらあった。ただ、一向に落ちる気配がない。決死で守っている兵の粘りが凄まじいようなのだ。
 特に、『ゼロ』と呼ばれる傭兵と、ラーチェルと呼ばれる魔術師の働きが目覚ましい。ベルサリウスは二人の話を聞いて感心していたが、デムーラン城塞を巡る問題はそれだけではないようだった。
 どうやら、兵站が乱されているらしいのだ。特に、コトキへと持ち込まれる兵站が酷い。
 今はまだ、コトキの倉庫に預けられている兵糧に余裕があるのでいいらしいのだが、この状況が長く続けば、デムーラン城塞を攻めている信者が飢えかねなかった。何しろ、二万の大軍である。一日の食料を賄うのも大変な量だ。
「それで、ラズィーヤとお前が兵糧を受け取りに行くことに」
「そうなんだよ、お頭」
 気づけば、ロージャからはお頭と呼ばれ始めていた。賊徒の親分のように聞こえるから止めてくれと話しているが、一向に聞き入れられる気配はない。
 むしろ、仕方なしにとは言え最近はベルサリウスもその呼び方を受け入れつつあった。
「おれも行くべきか」
「おれとしてはお頭がきてくれるなら大助かりだけどよ。決めるのはラズィーヤだからな」
「なら、ラズィーヤに聞きに行くか。ちょうど、肉も手に入ったしな」
「何の肉だ?」
 ロージャが尋ねてくる。大抵の人間の例に漏れず、ロージャも肉が好きだった。
「最近は街からあまり出られないからな。雉だよ。二羽いる」
「じゃあ、おれとラズィーヤで一羽ずつだな。ちょうど腹も減ってきたところだ」
「おれの分を省くな」
「じゃあ、せめて半分だけでも。酒を持っていくからさ」
 ベルサリウスは苦笑した。ロージャはいつも酒を用意している。ただ、一人ではあまり飲まないらしい。みんなと騒ぐのが好きなのだろう。
「まあ、ならいい。行くか」
 二人でラズィーヤのところに向かう。ラズィーヤはハーテン教徒の関係者と話しているところだった。
「ベルサリウスさん、それにロージャ」
 二人に気づいたラズィーヤが顔を上げる。
「出動するのか」
「依頼を受けたので。ただ、ベルサリウスさん。あなたは傭兵団に含まれているわけではないので、出る必要はありません」
「なら、同行しても構わないか?」
 ベルサリウスの申し出はラズィーヤにとって意外だったらしい。僅かに考え込む様子を見せる。
「いえ、ベルサリウスさんは残っていてください。わたしとしても申し出はありがたいのですが、恐らくナルセス隊長に仲間に加わることを伝えてからでないと」
 ナルセスは妙なところで頭が固い。自身が亡き友人との約束を果たそうとしていることもあってか、約束に拘るのだ。
「おれはもうお前たちの仲間に加わるつもりだがな。まあ、お前が言うなら今回は止めておこう」
「すみません。それに、いつもベルサリウスさんに頼りきりでも申し訳ないですからね」
「おれはついてきて欲しかったんだが」
 ロージャが残念そうに告げる。ベルサリウスは苦笑すると、背に持っていた雉肉をロージャに投げつけた。
「お頭、これは?」
「一羽丸々欲しかっただろう。おれはまた狩りにでも出かけるから、どこかで食ってくれ」
 ロージャが雉の肉とベルサリウスを交互に見る
「いいのか、おれは遠慮しないぞ」
「されても困る」
「やはり、持つべきものは友とお頭だな」
調子のいい人間だった。ラズィーヤも苦笑している。ただ、悪い人間ではない。
「ラズィーヤ、お前も持っていけ」
「えっ」
「もともとお前に渡すつもりだった」
「しかし、そうするとベルサリウスさんの分が」
「別に、金には困っていないから気にするな」
「そう言う問題では」
 ラズィーヤが困った表情を浮かべている。ベルサリウスはロージャを見た。
「お前もこれくらい、慎みを持ってくれればよかったんだがな」
「おれは慎み深い人間ではなく、罪深い人間ですからね」
 ロージャがにやりと笑う。ラズィーヤが呆れていた。
「さて、ロージャ。そろそろ支度をしましょう。ナルセスさんが書いていた策の準備をしないと」
「おう、ラズィーヤ」
 ロージャが頷く。ベルサリウスを見た。
「お頭、行ってくるぜ」
「ああ」
 ベルサリウスは二人に手を振ると、来た道を戻り始める。
「あれ、ベルサリウス」
 驚くような声が聞こえる。アントニナだった。長細い筒のようなものを左肩に乗せている。
「帰るって言ってなかったっけ」
「予定が変わってな」
 ベルサリウスが告げると、アントニナが納得したように頷いた。
「その、肩に乗せている物は?」
「ああ、これね。錬金銃の砲身だよ」
 聞いてもいないのに、原理をアントニナが語り始める。余程、錬金術が好きなのだろう、止めどなく言葉が流れてくる。
「しかし、誰が使うんだ?」
「わたしだよ」
 アントニナの言葉にベルサリウスは思わず目を見開いた。
「なんでそんな驚いた顔をするのさ。わたしだって武器は持たないと、危ないと思うし」
「まあ、確かに。護身で持つのは悪くないかもしれん。ただ、使い方がわからないと銃の意味はないぞ」
「大丈夫だよ。錬金銃は整備が難しいだけで、扱うのはそう難しくないって聞いたことあるし」
 舐めない方がいい、そう言おうとしてベルサリウスは言葉を噤んだ。アントニナの顔に、不安が満ちていたからだ。恐らく、自分の身を自分で守らなければいけないと感じているのだろう。ただ、その方法が分かりきれていないのだ。
「銃の撃ち方、教えようか」
「そうしてくれると、助かるな。なんだかんだ、使ったことがあるわけじゃないし」
 アントニナが少し不安の和らいだ笑みを見せた。やはり、困っていたのだろう。
「でも、時間は良いの?」
「どうせ、しばらくは急いでいるわけじゃない」
 明日、訓練しよう。そう話がまとまった時だった。ベルサリウスは、鋭い気配を感じた。一瞬である。それも、別にベルサリウスに向けられたものではない。だが、ここからそう遠くない場所だった。
「アントニナ、家まで送っていこう」
「今から買い物に行くところだったんだけど」
 アントニナの言葉に、ベルサリウスは苦笑した。何故、細長い筒を抱えたまま買い物しようと思ったのか。職人肌の人間が考えることはよくわからない。
「なら、そっちに付き合おう」
「それは嬉しいな。わたし、買い物するとたくさん買い込んじゃうから」
 荷物持ちでも、させるつもりなのだろうか。ベルサリウスはため息をついた。
「いいよ、無理してついてこなくても」
「いや、大丈夫だ。時間はある」
 連れ立って歩き出す。喧噪が近づいてきたのは、間もなくだった。物が燃えるようなにおいも漂ってくる。
「どうした?」
「倉庫街で、火事が」
 事情を聞いたフィルボルが答える。不安そうな表情をしていた。アントニナを安全な場所へと連れ出す。詳しい事情が分かったのは、その夜のことだった。ラズィーヤが残した部下が、事情を伝えてきたのである。
「ハーテン教徒の兵糧が、焼かれたのか」
 倉庫にあった十日分近い兵糧が、失われていた。火の手が上がるような場所ではないと、部下が告げている。誰かが、燃やしたのだろうか。ただ、誰も捕まっていない。
「不安だ」
 ラズィーヤとロージャのことだった。今回焼かれた兵糧と、乱されている兵站は無関係ではないだろう。問題は、どちらもハーテン教徒側が良いように振り回されていることだった。
 おそらく、この戦略を思い描いたものがいる。ならば、ラズィーヤやロージャのような訓練された部隊が兵糧の受け取りに出動することも、見越しているのかもしれない。ただ、そこから先のことは何もわからなかった。
 もともと、考えるのは得意ではない。
「まずは的だな」
 明日、アントニナにどう銃の撃ち方を教えるか。それを考えながらベルサリウスは眠りについた。

 森の中を、周囲を探りながら進んでいた。斥候は二人一組を基本として、八方位に出している。今のところ、何かを見つけたとの報告は入ってこない。
 アニムスの話を受け、コトキへと運び込まれる兵糧を狙い始めてから六日が経っていた。最初のうちは警戒もせず輸送していた信者たちも、慎重に行動するようになっている。
 お陰で、ここ二日ほどは兵站を襲えていない。ただ、ラディの部隊からの報告によれば、アニムスの部隊や大将であるセリスを中心とした部隊は的確に兵站を乱し続けている。
 自分だけが誰の役にも立てていないのではないか、との不安がセルジュの中で高まっていた。
 おまけに、セルジュは九百名近い歩兵を抱えている。これは、デムーラン城塞の周囲にいるアニムスたちの部隊を全て足した合計よりも多い。それだけの兵を抱えながら、との気持ちもないわけではなかった。
 あまり原野に出ないよう気をつけながら、兵を進めていく。目立ちやすい部隊ではあった。人数もさることながら、五騎の地竜が部隊に存在するのだ。少しくらいの丘では、その姿を隠しきれない。
 ただ、地竜を伴っていることを後悔してはいなかった。
 元々、竜が好きなのだ。理由はわからない。ただ、その全てが好きだった。
 時間があれば、コスモファントムには様々な話をしている。自分が子どもだったときのこと、ゲンが反乱を起こしたときのこと、軍人となりアニムスやシモンと出会ったこと。コスモファントムから答えを聞いたことはない。ただ、昔より意思を伝えることは容易になっていた。色々話したことで、心を許してくれたのだろうとセルジュは思っている。
「セルジュ殿、斥候が戻ってきました」
 兵が告げに来る。すぐに、斥候本人がやってきた。見てきたことをセルジュに伝えてくる。思わず唸った。
「北に、百名ほどの部隊が」
 そのままセルジュが尋ね返す。斥候は頷いた。
「十台以上の荷車を引いてきています。恐らく、兵糧か消耗品を運んでいるものかと」
 ある程度訓練された兵の動きをしていると斥候は話していた。流石に、信者だけで兵糧を運ぶことは難しいと思ったのだろう。
 久しぶりの遭遇だった。それだけに、逃すわけにはいかない。ただ、警戒しなければいけないこともある。
 まず、罠かどうかだ。複雑なことを考えるのはセルジュにとって得意ではなかったが、それでも最低限考えなければいけない。何しろ、九百名の命がかかっている。
「兵の様子は?」
「周囲にかなり気を配っています。荷車の中身を粗末に扱っている様子はないですし、本物かと」
「確かに、一理あるかな」
 セルジュが頷く。後はその場に向かうだけだった。一抹の不安はある。特に、敵兵の人数だ。訓練された兵とは言え、百人は少ない。襲ってくれと言わんばかりである。ただ、不安を恐れていては何もできなかった。
「出発」
 兵たちに声をかける。すぐに、動き始めた。斥候を出しながら、先回りする場所に兵を伏せにいく。相手も斥候は出しているとの報告があった。ただ、前方を中心に出しており左右は気を配っていない。少し離れた場所に兵を伏せた。
 傭兵たちは気づかずに進んでくる。目標の場所に、たどり着いた。
「突撃!」
 セルジュは叫ぶと、長柄の大斧を振り回しながら敵に近づいていく。
相手もこちらの存在に気づいたのか、慌てて迎撃の体勢を取り始めた。橙髪の女が、指揮を出している。だが、もう遅い。セルジュと、四騎の地竜が先頭となって傭兵たちとぶつかった。大斧を動かす度、傭兵の首が飛んでいく。狙いはその先にいる指揮官だった。
 指揮官は下がりながら何かを飛ばしてくる。短剣だ。大斧で弾こうにも、距離が近い。セルジュは身を捩ってかわす。更にもう一発。今度は焦ったのか、かなり外れたところに飛んでいく。荷車の上に置かれた樽に刺さった。樽から水のようなものが漏れていく。
 いや、水ではない。それが何か理解した瞬間、セルジュの全身から血の気が引いた。
「荷車から離れて!」
 とっさに怒鳴る。橙髪の指揮官が、笑った気がした。視界の先で、激しい音と共に樽が四散する。荷車の中身が爆発したのだ。咄嗟に片手で大斧と手綱を抑え、もう片手で咄嗟に顔を防ぐ、爆風が、セルジュに襲い掛かった。あまりの衝撃に鞍から転がり落ちる。やはり、罠だった。
 気づけば、地面に突っ伏している。全身が痛い。起き上がろうとして、すぐ上を何かが覆っていることに気がついた。暖かい。コスモファントムだ。セルジュを守ってくれていたらしい。
「コスモファントムちゃん、ありがとう」
 痛みに顔を顰めつつ、コスモファントムの腹の下から這い出す。人が、何人も倒れている。それが、自分が先ほどまで指揮していた部下だと気付くのに時間はいらなかった。ただ、動いている者は少ない。誰かが、生き残った自分の部下たちをまとめているのだろうか。振りかえる。コスモファントムが心配そうにセルジュを見ていた。いくつかの鱗が剥げているが、大きな怪我はない。流石、地竜だった。
「お、誰かいるぞ」
 その声に、セルジュは思わず身構える。武器はない。長柄の大斧はどこかに飛ばされている。鞍を見るが、そこにつけていたはずの予備の斧もなかった。セルジュの心の中が、すっと冷たくなる。
「お、こいつが隊長格の姉ちゃんじゃねえか。倒しちまえば、かなりの報酬がもらえるぞ」
「おれたち、運がいいな」
 傭兵は、全部で三人だった。軽口をたたいているが、油断なくセルジュを見ている。一対一なら何とかなったかもしれないが、三人だ。おまけに、こちらは武器もない。どうしようもなかった。
「これは、辛いなあ」
 思わず、呟く。アニムスやセリスと違い、役に立てていない。最後まで、皆の足手まといだった。それが、心残りである。
「ごめんなさい」
 アニムスや死なせてしまった部下に謝る。抵抗する気もなくなっていた。傭兵たちが、近づいてくる。一人が、剣を振り被った。

 一度、フェミナの部隊と合流していた。フェミナの部隊は騎馬二百、歩兵三百からなる。いずれもキッサキで鍛えられてきた精兵である。動きに無駄はない。ただ、歩兵の指揮官がいなかった。
 アニムスはフェミナと話し合い、歩兵をアニムスとフェルグスが百五十ずつ受け持つことにした。これまで同行してきた五十もいるので、実際は二百弱である。そして、フェルグスが独りで兵站を乱すことになった。アニムスとフェミナは、セルジュの部隊と合流してからデムーラン城砦へと向かう。
「わかりました、それだけの兵を指揮した経験はないので緊張しますが、何とかやってみせます」
 フェルグスが告げる。いつになく緊張した面持ちだった。無理もない。最近兵の指揮をすることが増えてきたが、もとはレイと共に傭兵をしていたのだ。そこまで大勢を指揮した経験もないだろう。
「なに、お前ならできるさ」
 アニムスが告げると、フェルグスは頭を下げる。
「フェルグス。おれが任せたんだから、失敗したらおれの責任だ。お前は気負わずのびのびとやれ」
「わかった」
 フェルグスが頷く。そんなフェルグスに、フェミナが歩み寄ってきた。
「あら、あなたがフェルグス君なのね。よろしく」
 フェミナがフェルグスに笑いかけている。いつになく、妖艶な笑みだった。それに、赤の他人と話すにしては親しげである。そんなフェミナの様子にフェルグスはより緊張したのか、無言で頷いている。
「そうなんですよ、フェミナさん。こちらがフェルグス君。若手の傭兵ですが、なかなか力がありましてね。将来有望ですぜ」
 アニムスがにやりと笑って告げる。フェルグスを見た。
「フェルグス、あちらがフェミナさんだ。若々しそうに見えて、この国の軍隊の重鎮だ。見た目よりはいくらか年上だが、どうだフェルグス。年上に甘えたくはないか?」
「あら、アニムス君。早速素敵な男を紹介してくれてありがとう。どう、フェルグス君?」
 フェミナが冗談めかせた口調と共にフェルグスを見る。フェルグスは困惑しているのか緊張しているのか、地面に視線を落としながら無言を貫いていた。ただ、嫌がってはいない。
「な、フェミナさん。可愛い奴だろう」
「ええ、とっても可愛いわね。フェルグス君、そんなに緊張しなくていいのよ。気楽に話しましょう」
「美人と話すのは慣れていなくて」
 ようやくフェルグスが告げる。ただ、その笑いもぎこちなかった。やはり、気負っているのだろう。
「あら、こんな売れ残りを美人って言ってくれるの? お世辞でも嬉しいわね。十年くらい前なら言ってくれた男もいたんだけど、最近はお世辞ですら言う人もいなくなっちゃって」
「お世辞では、ないですよ」
 フェルグスの言葉は、相変わらずぎこちない。フェミナはそんなフェルグスに絡み続けている。もともと、酔うと絡みが酷くなると聞いていたが、それにしても執拗だった。最も、フェルグスはレイの友人である。恐らく、レイも話しているのだろう。ひょっとしたら、フェルグスがどんな人間か気になっていたのかもしれない。フェミナとレイは姉弟のような繋がりの深さがあった。フェルグスへの絡みも、赤の他人とは思えないほどである。
「『ゼロ』、おれはやったよ」
 二人の様子を見ながら、アニムスはにやりと呟く。
「じゃあ、騎馬は先に行くから。セルジュちゃんと後から来てね」
 明るく告げると、フェミナは騎馬隊を連れて去って行く。フェルグスがしばし、その場に立ちつくしていた。
「フェルグス殿」
 メランヒトンの言葉でようやく我に返ったのか、顔を上げる。その顔が、いくらか赤くなっていた。
「どうした?」
「どうしたもこうしたも、アニムス隊長。今、フェルグス殿はぼうっとしてましたよね」
「そうだな。ちょっと、衝撃的な出会いがあったからな。恋の稲妻、あるいは一目惚れと言うべきか」
「は?」
 フェルグスが思わず聞き返す。ただ、その顔は赤いままだった。
「それに、どうせ男だろう」
「いや、あの人は女性だぞ」
 アニムスの言葉に、フェルグスは訝しげな表情を取る。
「またまた、そう言っておれを騙そうとしているんだな」
「いや、女性だから」
 アニムスが言っても、なかなかフェルグスは信じようとしない。余程、過去の出来事が心に突き刺さっているのだろう。最後まで、フェルグスは半信半疑の様子だった。
 フェルグスの部隊が出発すると、メランヒトンが兵に指示を飛ばす。歩兵が、動き始めた。流石にキッサキで鍛えられた兵士である。動きが、速かった。セルジュとの合流地点に辿り着く。どうやら、まだ来ていないようだった。
「アニムスさん」
 しばらくしてやって来たのは、ラディである。息を切らしていた。
「セルジュさんの部隊が、二百ほどの傭兵に襲われています」
「な、なんだと」
「完全に不意打ちだったことと、傭兵たちの攻撃が予想以上に強力なこともあって、かなり押されています」
 どうやら、兵糧を運ぶ信者たちを襲撃しようとしたところ、荷車に乗せられていた樽が爆発し、混乱したところを傭兵たちの奇襲を受けたらしい。
「ここから急行して、どれくらいの時間がかかる?」
「アニムス殿であれば、半時間もかからずにたどり着けるかと」
 ラディが告げる。
「じゃあみんな、まずはそっちの救援に行こう。セルジュをここで戦死させるわけにはいかない。分かっているよな、メランヒトン」
「ええ、貴重な男っぽい女ですからね」
 具体的な場所を聞くと、アニムスは靴で地面を二度叩いた。走り出す。アニムスの足に適う者はいない。
 喧噪が、聞こえてくる。その少し手前で、三人ほどの傭兵に、セルジュが囲まれていた。武器は持っていない。セルジュの表情は、どこか諦めたものがある。傭兵の一人が、剣を振り被った。直後に、その傭兵が吹き飛ぶ。コスモファントムの尾が、まともに命中していた。コスモファントムが像のような雄叫びを上げる。
「コスモファントムちゃん」
 セルジュが混乱したように呟いている。アニムスはその脇を駆けた。コスモファントムの頭を踏み台にして一度跳躍すると、傭兵の一人を延髄蹴りで倒す。残りの一人がアニムスを見た時には、その鳩尾に拳を入れていた。三人目の傭兵が、倒れる。セルジュはまだ、自失していた。
「アニムス殿。どうして、ここに」
「どうやら間に合ったな。あなたが危ないと聞いて救援に向かったんだ。おれが来たからには、もう安心だ」
 アニムスが告げる。セルジュはまだ、自分を取り戻せていないようだった。
「わたしなんか、何の役にも立てていないのに。アニムス殿も、コスモファントムちゃんも」
 風が吹き、セルジュの桃色の長髪が舞い上がる。戦いのときに付けていた兜は、どこかに消えていた。鎧もあちこちが大きくへこんでいる。爆発に巻き込まれたのだろうか。幸いなことに、防具が衝撃を吸収したことで、体に大きな傷はできていない。
 コスモファントムが、セルジュを励ますように吠える。コスモファントムもほとんど怪我をしていなかった。こちらは、流石地竜と言うべきだろう。コスモファントムの声に呼応するかのように、地竜の声が聞こえてきた。まだ、傭兵たちとの戦いは続いているようだった。
「アニムス殿、わたしは」
 セルジュの声は暗い。その様子を見ながら、アニムスが口を開く、
「まだ戦えるか?」
 まだ、戦いは終わっていない。感傷に浸るのは、その後で良かった。セルジュも軍人である。すぐにアニムスの真意を理解した。先ほどアニムスが倒した傭兵から剣を奪うと、頷く。本来の得物は斧だろうが、今は探している余裕はなかった。
 セルジュの部下の下に向かう。橙髪の女性を先頭とした傭兵団と、セルジュの部下である歩兵隊が見合っている。アニムスとセルジュの姿を認めた橙髪の女性が手を挙げると、傭兵たちは去って行った。このまま続けると不利だと察したのだろう。
「隊長、セルジュ殿は無事だったんですね」
 メランヒトンが告げる。アニムスの部下たちを率いて、すぐ後ろまでやって来ていた。メランヒトンたちが追い付いたことも、傭兵団が下がった理由の一つだろう。
 とは言え、アニムスたちも追いかけるのは難しい。まず、現状を把握する必要があった。セルジュが部下から状況を聞き始める。百近い兵が、死んでいた。更に、生き残った八百のうち二百近くが傷を負っている。すぐに動けるのは六百ほどだった。荷台が爆発した際に、かなりの兵が負傷したらしい。
「アニムス殿。すみません」
 しばらくしてから、セルジュが呟くように告げる。目から光が失われていた。
「最後の兵站だと思って、欲を出したのが間違いでした。そのせいで大勢の仲間が」
 セルジュの声も暗い。アニムスはその肩を軽く小突いた。
「気にするなとは言わんが、最善を尽くした結果だと言うことはよくわかっているよ。君の失策で失った兵の分だけ、次の戦いで敵を倒しなさい」
「何としてでも、借りは返します」
 セルジュがアニムスを見る。その顔には、いくらか闘気が戻ってきているようにアニムスには感じられた。セルジュが両手を見る。
「ただ、わたしの大斧がなくなってしまったんですよね。見つけ出さないと」
 アニムスが近くにいたメランヒトンを見る。
「あの大斧って、取り寄せ出来ると思う?」
「確実に、特注品ですからね」
 メランヒトンが首を傾げながら答える。コスモファントムが何かを伝えるような叫び声を上げ始めていた。
「なあ、メランヒトン。あいつは何を言っているんだ?」
「ひょっとしたら」
 メランヒトンがコスモファントムが向いている茂みへと向かっていく。
「大斧がありました。今、持っていきます」
 メランヒトンが告げる。ただ、なかなかやって来ない。アニムスがメランヒトンの下へと向かう。顔を真っ赤にしながら、メランヒトンが両手で長柄の大斧を動かそうとしていた。ただ、長柄の大斧はほとんど動かない。
「メランヒトン、ありがとう」
 いつの間にかやって来たセルジュが告げる。メランヒトンの下へと向かうと、片手で長柄の大斧を持ち上げる。
「これでどうにか、いつも通り闘えそう」
 セルジュがコスモファントムの下へと向かう。メランヒトンがアニムスを見た。
「僕、これでも力には自信があったんですが」
「あれは、仕方ない」
 確かに、メランヒトンは力がある。旗持ちとして、常に大きな旗を持ちながら反対の手で並の兵ほどには剣を振るうことができるのだ。メランヒトンと同じことができる兵は、まずいないだろう。ただ、セルジュの怪力は規格外だった。
「あれは、仕方ないんだ」
 もう一度告げると、慰めるようにメランヒトンの肩に手を置いた。セルジュの声が、聞こえてくる。

 セリスたちに緊張が走ったのは、五百ほどの騎馬隊を捕捉した時だった。敵か味方か、分からない。
 これまでハーテン教徒の軍に騎馬隊はいなかった。しかし、この五百が味方との保証もない。
 五百の軍は、時折斥候を出しながらこちらに向かってきているとのことだった。それもまた、彼らの正体を不明にしている。
 歩兵を指揮するクロエを呼ぶと、相談を始める。騎馬隊に加わっているミリオットとモンケもその場にやって来ていた。ジャンヌだけは騎馬隊と歩兵隊に指示を出すためこの場にいない。
 迎撃しよう、と結論が出た。馬防柵など用意してきていないので、馬の勢いを止められそうな林の中へと移動する。
 一時間ほどで、遠くに馬群が見えてきた。しっかり訓練されているのだろう。その動きは早く、乱れがない。
「あれ」
 セリスが感心していると、隣にやってきたジャンヌが間の抜けた声を上げた。
「あれ、グレゴリウスじゃ」
 確かに、先頭の男はグレゴリウスだった。それ以外にも、見覚えのある姿が馬に乗っている。ついこの間まで、セリスとジャンヌが指揮していた騎馬隊の面々だった。
「知り合いか?」
 セリスとジャンヌの様子に気づいたクロエが尋ねてくる。
「わたしたちの部下かな。ねえ、セリス?」
 ジャンヌがいつの間にか取り出していた礫を、腰に下げた緑色の袋に戻しながら答える。セリスも頷いた。
「ああ。ここに来る前に指揮していてね」
「なるほど。そうなのか」
「それにしても良い馬が多いな、セリス。軍馬としても慣らされているし、見事な騎馬隊だな」
 クロエが頷く横で、モンケがはしゃいでいる。ミリオットも頷いた。
「ああ、そうだな。少なくとも、ハーテン教徒よりはいい動きをしている」
 グレゴリウスの指揮する騎馬隊が、セリスたちの目の前で止まった。
「セリス隊長、ジャンヌ隊長」
 敬礼しながら、グレゴリウスが告げる。
「フォール将軍の許可を得て、騎馬五百でやってきました。ハインリヒが残りの千五百を取りまとめ、フォール将軍のもとに向かっています」
 ハインリヒは、ジャンヌの副官をしていた人間だった。恐らく、フォールに対しても何らかの出動命令が出ているのだろう。グレゴリウスが何かを確認するように周りを見た。
「セリス隊長。キーナ隊長は別動隊ですか?」
 セリスとジャンヌは思わず互いの顔を見合わせる。どちらからともなく口を開いた。グレゴリウスが目を見開く。
「そんな。あの隊長が」
「戦いだ、仕方ない」
 クロエが告げる。グレゴリウスもそれは理解しているようで、頷くとそれきりそのことには触れなかった。
「それにしても、よくこの場所が分かったな」
「フォール将軍におおよその位置を言われまして」
 クロエの疑問に、グレゴリウスが答える。影の軍が手を回したのだろうか。兵站についても、問題ないようだった。アシェラが裏から手を回しているのだろう。
「これだけの騎馬が増えたのはありがたい。何より、兵をデムーラン城塞に戻せる」
 レイとラーチェルをデムーラン城塞に残してから、六日が経っていた。デムーラン城塞で大きな動きがあったとは聞いていないので、まだ持ちこたえているのだろう。しかし、百対数万である。
「セリス、ミリオット、クロエさん。誰が戻る?」
「セリス、ジャンヌ。グレゴリウスが連れてきた騎馬隊を率いて戻ってくれ。ミリオットもだ。わたしが元々いた歩兵と騎馬を率いて、兵站を叩こう。騎馬隊の指揮も兼ね、モンケは残してもらって良いか?」
 クロエの言葉に、セリスが頷く。
「三人とも、『ゼロ』とラーチェルを頼むぞ」
「もちろんです」
 ジャンヌがにこりと笑った。クロエたちと別れ、デムーラン城塞へと駆け出す。ここまで長駆してきたはずだが、全く乱れはない。流石に、鍛えられていた。
 デムーラン城塞まで、半日もあればたどり着く。一度休憩し、セリスはジャンヌ、ミリオット、グレゴリウスの三人と編成を話し合った。五百の中で、中核を担う百を半々に分け、セリスとジャンヌが直接指揮する。そして、残りの四百はセリスの指揮下でグレゴリウスを隊長として動くこととなった。魔術を使えるミリオットは、遊撃としてセリスかグレゴリウスの部隊に同行する。
「隊長たちがいれば、怖いものなしですね。よろしくお願いします」
 グレゴリウスが告げる。休憩が終わった。馬に乗り、動き始める。斥候を除くと、セリスとジャンヌが先頭になった。
 林に入る。木々の間から、デムーラン城塞が見えていた。黒い煙が見える。ただ、城塞が燃えているような気配はない。罠の一部が、起動しているのだろうか。だとすれば、まだ持ち堪えているはずだった。
 林を抜ける。視界に数え切れないほどの信者が見えてきた。皆、デムーラン城塞を向いている。
 デムーラン城塞の近くで、火がいくつか燃えていた。信者たちが、その対応に追われている。城壁に、緑髪のエルダナーンが見えた。ラーチェルだろう。左手を下ろした。巨大な氷柱が城壁を登ろうとした信者に降り注いでいる。
 レイのものと思しき銃声も、鳴り響いていた。信者が、怯んでいる。
 ただ、信者の数は多い。レイとラーチェルのいない所では、かなりの所まで信者が登っていた。一気に駆ける。隣で、ジャンヌも動いていた。信者が僅かに混乱する。しかし、ごく一部だけだ。
 別の箇所から、信者の混乱が伝わってきた。フェミナの騎馬隊だ。槍を振り回しながら、先頭でフェミナが突き進んでいる。フェミナが反転し、信者から離れた。かと思うと、数名の信者が弾かれたように倒れている。
 いつの間にか、フェミナの槍が銃へと変化していた。信者たちが動揺している。指揮官と思われる人間を、狙い撃ちしたのだ。
 馬上で銃を槍へと器用に戻し、フェミナが反転する。セリスたちの突撃とあわせ、信者の混乱が広がっていた。
 壊走が始まる。反対側で、信者が紙切れのように吹き飛んでいた。アニムスと、地竜に乗った見慣れぬ女性を先頭とした部隊が縦横無尽に駈けている。女性は重そうな長柄の大斧を軽々と振り回していた。大斧が唸りを上げる度、人が吹き飛んでいく。
 ひとまずの勝利だった。ハーテン教徒側は、砦から大きく下がった所で陣を構え直している。
「セリス、ミリオット。ラーチェルさんから伝令が」
 セリスの傍にやって来たジャンヌが告げる。
「この地点に来てほしいって。多分、みんながデムーラン城砦の救援に来たから簡単な軍議をしたいんだと思う」
 断る理由はなかった。騎馬隊は、グレゴリウスに任せておけば問題ないだろう。
「わかりました。隊長」
 セリスが告げると、グレゴリウスが告げる。
「それにしても、相変わらずお強いですね、隊長たちは。我々も、訓練しているつもりですが」
 グレゴリウスが笑った。

 レイとフルール、そしてラーチェル以外の面々にとって、久しぶりのデムーラン城砦だった。度重なる改修で小さくなっているとは言え、百に満たない兵しか残っていない現状ではがらんとしている。これを、レイとラーチェルは七日間守り続けていた。軍議の場へと向かう。デムーラン城砦の三人とセリス、ミリオット、アニムス、ジャンヌ、コダマの他にフェミナとセルジュがやって来ている。二人とも、軍人としては一流のものを持っていた。ただ、セルジュはここに来るまでの間で傭兵団と戦闘になり、多くの兵を失ったと聞いていた。
「みなさん、ありがとうございますわ。皆さまが兵站を乱し続けてくださっているお蔭で、信者たちの動揺が広がってきておりますの。おまけに、今日はこちらの戦いにまで助けを向けてくださって。お蔭様で、兵たちも久しぶりに一息つけそうですわ」
 軍議の場で最初に話し始めたのはラーチェルだった。ラーチェルは頬の肉が削げ、化粧をしていない目元には濃い隈が浮き出ている。ただ、目の光は失われていない。
「現状を整理しておきましょう。一万二千ほどの信者が、デムーラン城砦の西側に陣取っています。こちらは、城内にわたくしと『ゼロ』が指揮する部隊が八十ほど。城外ではクロエとフェルグスが合わせて二百ほどの兵を率いて攪乱を続行しています。それ以外では、セリスとジャンヌの騎馬隊が五百。フェミナさんの騎馬隊が二百。アニムスさんとセルジュさんの歩兵が合わせて八百ほどです」
「とすると、こちらは合わせて千五百ほどか」
 アニムスが明るい声で告げる。
「攻城戦の一般論に従って十倍すれば、一万五千だ。相手の兵力を上回ったな。勝てるぞ」
「ああ、勝てる」
 レイも頷く。
「ただ、油断しなければだ」
「ここで指揮官が死んでしまえば、動揺して一気に瓦解するからな」
 アニムスがレイを見ながら告げる。レイは苦笑しながら頷いた。
「軍師がやられてしまっても不味いぞ」
 その言葉に、今度は隣に座っていたラーチェルが苦笑する。以前より、二人の間は近い。以前はラーチェルがレイに刺すような視線を向けていたが、今日はもっと穏やかだった。クロエがいないと、こうなのだろうか。それとも、別の理由なのだろうか。
「すみません。わたしが敵を侮ったばかりに」
 セルジュが頭を下げる。セルジュはアニムスと合流する直前に傭兵たちと戦い、百近い兵を失っていた。すぐに戦場に出られない負傷兵も同じくらい存在する。
「まあまあ、むしろ、戦いに間に合ってよかった。ですよね、殿下?」
 アニムスがセリスを見る。セリスが頷いた。のんびりした口調で告げる。
「シーキンセツも大変だったと聞くしなあ」
「手のやり方が巧妙だったと言うことですの。仕方ありませんわ」
 ラーチェルが取り成すように告げる。セルジュは頷いたが、答えなかった。
「明日以降は、どうするの?」
 フェミナが口を開いた。年長者であるアニムスや彼女が落ち着いていることは、他の皆を安心させる大きな理由にもなっている。
「まずは、信者を壊走させることですわ。兵糧が滞り始めており、信者たちの間に不安が広がっているとの情報が入っていますの。壊走したら、一気にコトキとミシロを奪いますわ」
「随分と、大胆ね。兵の数は?」
「まともに考えたら、足りませんの。しかし、ミシロとコトキを奪うことができれば、もっと自由に動くことが可能になりますわ」
「デムーランさんみたいな策ね」
 フェミナが呟く。この城砦をユリアンヌやキョウコと共に作り上げた人物は、ミシロ、コトキと連携して動くことを前提にこの砦を作ったらしい。実際、ゲン軍がこの堅い守りを突破することはできなかった。
「もちろん、意識をしていないと言えば嘘になりますわ。デムーランさんや以前この城砦の守備隊長をしていたユリアンヌさんの考えは、かなり参考にしておりますの」
 ラーチェルがレイの渡したユリアンヌの日記をかなり読み込んでいることを、レイは知っていた。ユリアンヌやその友、デムーランの思いや考えが、そこには多く残されている。二人はミシロ、コトキ、デムーラン城砦の三点を利用した守りを意識していた。点でも線ではなく、面で守る。それが、二人の共通した戦術だったらしい。それは、今も同じだった。ラーチェルが皆を見渡す。
「それに、相手はこの時点でわたしたちがコトキとミシロを奪おうとは考えていないと思いますの。そこに、陥穽がありますわ」
「ただ、信者に勝たないといけないですよね」
 セルジュが告げる。ラーチェルが頷いた。
「そうですわね。影の軍によると、セルジュさんたちを破った部隊は信者たちの部隊に合流したそうですわ。明日は、その部隊に自由に動かれないようにしましょう」
「わたしに、その役目をやらせてください。一度は不覚を取りましたが、正面からなら互角に戦える自信があります」
 セルジュが真っ直ぐにラーチェルを見た。ラーチェルも頷く。
「わかりましたわ。ただ、セルジュさんは一番多くの兵を抱えています。その全てで傭兵団にあたっていただくわけにはいきませんの。二百で止めてくださる? 状況によってはフェミナさんがその補佐を。残りは全軍で、信者に当たりますわ。『ゼロ』」
 ラーチェルが隣のレイを見る。
「明日、城内のことはわたくしに任せてくださる? ここは、一兵でも多く外で敵を倒す場面ですの」
 最もな考えだった。機を逃してはいけない。ただ、ラーチェルを一人残すことは心配だった。
「おれが出るなら代わりの指揮官がいた方がいいんじゃないか?」
 レイの言葉に、ラーチェルが首を横に振る。
「この場にいて軍を指揮されたことのある方は、基本的に外に出た方がいいと思いますの。明日はこの戦いを乗り切るうえで重要な一日ですわ。少しでも、ハーテン教徒に打撃を与えた方がいいと思いますの」
「『ゼロ』、城内のことはそんなに心配しないで。城内にはこの『月光の乙女』たるわたしがいるから。神々に選ばれたものの力、今こそ見せてあげるわ。ね、ミリオット」
 コダマが、にやりと笑ってミリオットを見る。ミリオットの師匠らしかった。
「ああ、そうだな。明日はおれも力を解放して、『英雄』と呼ばれるにふさわしい戦い方をしてみせてやる」
 二人のやり取りに、アニムスが苦笑している。
「では、明日はお願いしますわ。皆さん」
 ラーチェルが告げる。軍議は終わりだった。

 信者たちが、デムーラン城砦に向けて前進を始めている。当初と比べてその数は減ったとはいえ、依然として一万近い。いくら訓練されていない信者が中心とはいえ、重圧はかなりのものだった。おまけに、今はセルジュの軍を追い詰めた傭兵たちの軍も混じっている。その軍はセルジュとフェミナに任せ、全体を攪乱するのがセリスたちの役目だった。
 城砦の近くへと到達した信者目掛け、石や矢が飛んでいく。信者たちは怯むも、前に行こうとする。もう、何日も行われた動きだった。見張り櫓に立ったラーチェルが右手を掲げる。巨大な氷柱が、信者たちに襲い掛かった。信者たちの動きが、鈍る。同時に、セルジュと歩兵たちが戦場の一点目掛けて突っ込んで行く。橙色の髪をした女性が、指示を飛ばしていた。彼女が、傭兵団の指揮者なのだろう。セルジュたちと、乱戦が始まった。これで、傭兵団も自由に動けない。
 今こそ、セリスたちが動く時だった。歩兵はレイとアニムスが三百ずつを率い、信徒と正面からぶつかる。そこに、セリスとジャンヌを筆頭とした騎馬隊が横から突っ込んで行く。信者たちが大きく乱れる。更に、ミリオットの魔術だった。背に生やした炎の翼を大きくはためかせる。炎渦竜巻が辺りに広がった。信者たちを一気に蹴散らす。信者たちがセリスたちの圧力に抗いきれず、下がり始めた。そこを、セリスとアニムスがすかさず追撃していく。気づけばセルジュの部隊と戦っている傭兵団だけが、突出して残っていた。
 フェミナの騎馬隊が、傭兵団の横に回る。傭兵団を指揮している橙髪の女が素早く指示を出すと、兵を小さくまとめた。フェミナの部隊が、傭兵たちの手前で反転する。
 その間に、セルジュの部隊が体勢を立て直していた。コスモファントムともう一頭の地竜を楔の頂点として、その周りに兵が集まっている。
 傭兵団と、ぶつかった。傭兵団の反応が遅れる。フェミナの部隊が、しつこく牽制をかけているためだ。
 一人、二人と傭兵団の兵が倒れていた。跳ねるように前線に出てきた眼帯の男が、叫びながら斧を振り回している。セルジュの部隊の動きが、僅かに止まった。
 ただ、全体の流れは変わらない。フェミナとセルジュは連携をとりながら、傭兵たちを追いつめている。
 銃声が鳴り響いた。一人善戦していた眼帯の男が、膝をつく。フェミナの銃だ。
 ここぞとばかりに、セルジュの部隊が突き進んでいく。眼帯の男はすぐさま立ち上がると斧を降り始めるが、先程までより動きに切れがない。セルジュを乗せたコスモファントムが肉薄する。
 そこに一騎、信者の中から稲妻のように飛び出してきた。大きな白馬である。目の下に、赤い斑点が見えていた。僅かな間で、眼帯の男の側へと駆けつける。白馬に乗る男は両手にそれぞれ長剣を構えていた。
 コスモファントムが吠える。その背に乗ったセルジュは長柄の大斧を頭上で回すと、新しくやってきた男に向けて振り下ろした。
 男は右手の剣で大斧を受け止めると、左手の剣を振る。大斧が、柄のところで二つに斬れた。セルジュの顔が驚きに満ちる。
 だが、セルジュは即座に柄を捨てると、鞍の横に備え付けていた予備の斧を握り直した。先ほどまでの斧と比べると、やや小ぶりの斧である。地竜の鞍からは届きにくいかもしれない。セルジュが地竜から飛び降りるかの様に身を乗り出した。
 コスモファントムが雄叫びを上げる。疾駆し始めた。男から離れていく。体勢を崩したセルジュは鞍を掴むと、コスモファントムに何事かを叫んでいた。ただ、コスモファントムは止まらない。男を乗せた白馬がコスモファントムを追うべく駆けだそうとする。
 再び銃声が鳴り響いた。男が剣を振ると、難なく銃弾を切り捨てる。ただ、その間に男とセルジュの距離は広がっていた。
 男は特に気にする様子もなく、戦場全体を見渡している。

 両軍が離れ、戦場全体に落ち着きが戻ってきた。気づけば、日が沈みかけている。日中の戦闘は、ひと段落していた。
「すみません。わたしが皆の足を引っ張ってばかりで」
 セルジュが悔しそうに告げる。途中までは、傭兵団を押していた。全てはあの男だった。馬に乗り、武器も変わっているが、見た目は変わらない。キーナを倒したあの男だった。アニムスがセルジュの肩を叩く。
「あれは仕方ない」
「ああ、あれは無理だ」
 レイも告げると、セリスが頷いた。
「むしろ、生き残ってくれて良かったよ」
 その穏やかな口調は不思議と場の雰囲気を和らげた。皆が、和気藹々と話し始める。
 セリスが陣を敷いた場所に、自然と皆が集まっていた。全ての将校がいるわけではない。フェミナやグレゴリウスは自分の部隊の下にいる。セリスたち五人とジャンヌ、ラーチェル、そしてセルジュがその場にはやってきていた。
「でも、運だけでそう何度も負けるわけではないはずです。今回だって、あの男が近づいた時点でもっと警戒すべきでした。実際、フェミナさんはほとんど犠牲もなくやり過ごしています。なのに、わたしは」
 百五十名ほどの部下をセルジュは失っていた。その半数が、セルジュと共に傭兵団を止めた二百人から出ている。五騎いる地竜たちが全て無事なのが、数少ない救いだった。
「仕方ない。将校は、死んだ部下の数だけ強くなる。背負っていきなさい」
「アニムス殿」
 セルジュの目は、潤んでいた。
「何度も何度も、励ましていただいてすみません。少しはアニムス殿みたいな立派な人間になれるように努力します」
「よし、じゃあ解散しようか」
 アニムスが皆を見て告げる。ラーチェルが苦笑した。
「今、解散されたらわたくしがここに来た意味がありませんの」
「あ」
 アニムスは宴会を始めようとしていたらしい。慌てて姿勢を正した。
「軍師殿、お待ちしておりました。今から軍議を開きましょう」
 その口調に、ラーチェルがまた苦笑する。ジャンヌがラーチェルを見た。
「それで、ラーチェルさん。明日はどうするの?」
「あの男を止めないといけませんわ」
「稲妻のように突っ込んできた?」
 アニムスの言葉に、ラーチェルが頷く。
「そう、あの男ですわ。恐らく、明日は動き回ってくるはずですの。あの剣捌きをまともに受け止めないと、デムーラン城砦から出られなくなってしまいますわ」
「そうですね。我々がいいようにやられてしまっては、士気にかかわるでしょう」
「その通りですわ。そこで、『ゼロ』」
 ラーチェルがレイを見る。その瞳には、確かな信頼が見えていた。
「あなたやセリス、それにアニムスさんとミリオット、フルールの五人であの男を止めてくださる?」
「やるしかないんだろう」
 レイが頷く。アニムスがにやりとしながらレイを見た。
「『ゼロ』、いけるのか?」
「もちろんだ」
「セリス殿下も、楽勝ですよね」
「楽勝な訳はないよ」
 セリスが苦笑する。穏やかとした口調で、言葉を続ける。
「でも、ここで止めるしかないからね。戦うさ」
「セリス、騎馬隊はわたしとグレゴリウスが指揮するから。大物は任せたよ」
 ジャンヌが笑って告げる。いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「なんなら、わたしが役目を代わりたいくらいだけど」
「騎馬隊を、頼むよ」
 苦笑しながらセリスが答えると、ジャンヌは大きく頷いた。
「もちろん」
「セルジュさん」
 ラーチェルがセルジュに声をかけた。セルジュが、顔を上げる。
「セルジュさんは、明日信者たちを相手してくださる?」
「でも」
「セルジュ、お前の無念はおれが果たす。お前の大斧は、おれの拳に預けろよ」
 アニムスが自分の胸を叩きながら、セルジュを見る。セルジュは少し笑顔を見せて頷いた。
「わかりました。アニムス殿。でも」
「でも?」
「重いですよ、わたしの大斧は」
「物理的ではないと思いますわ」
 ラーチェルが苦笑している。いくつかの細かい事項を話すと、簡単な軍議が終わる。ラーチェルはこの場にいないフェミナとグレゴリウスに伝令を送るよう指示すると、セリスたちを見た。
「皆さん、頼みますわ」
 ラーチェルが告げる。やつれた体の中で、目だけが光っていた。
 アニムスはメランヒトンの下に戻ると、酒盛りを始めた。そこに、セルジュがやってくる。
「アニムスさん」
「どうしたセルジュ、お前も飲んでおけ」
 セルジュに大きな器を渡す。そこに注がれた酒を、セルジュは一口で飲んだ。更なる酒を注ぎながら、アニムスを見る。
「ラーチェルさんは、輝いていますね。そう思いませんか、アニムスさん」
 羨ましそうな口調で、セルジュが告げる。アニムスは苦笑した。
「いや、今にも死にそうな顔をしているだろう。彼女は」
「確かに、死にそうな顔はしていましたけどね」
 セルジュも納得したように頷く。
「でも、ラーチェルさんは頑張っていると思うんですよ」
「お前の言いたいことは分かっているさ、セルジュ。お前も昔から相当頑張っていただろう。どうした、二回負けた程度でへこんでいるのか」
 アニムスがけらけらと笑うと、からかうような口調で尋ねる。セルジュは苦笑すると頷いた。
「そうです。へこんでいるんですよ。一度目は策に嵌って、二度目は力負けして。力か頭のどちらかがもっと優れていれば、今みたいに振り回されなくてよかったと思うんですよ」
「最初から全部揃っているやつなんかいないだろう。自分の出せる力を磨くしかないさ。これから頑張れ」
「そうですね。本当に、頑張るしかないと思います。わたしはさっきも死にかけましたし。あと少しで首を取られそうなところを、コスモファントムちゃんに救われたんです」
「そりゃ、コスモファントムちゃんに感謝するんだな。死んじまったら磨くこともできないだろう」
 アニムスが笑顔を見せると、セルジュも控えめに笑った。
「アニムスさん。長々とすみません。明日は気を取り直して頑張ります。大丈夫です。強いところはアニムスさんたちに止めてもらっているので。信者たちを何とかしてみせます」
「おう、任せてくれ」
 アニムスが陽気に告げる。セルジュは横で座っていた。目から地面に、数滴の粒が流れている。それを見なかったことにして、アニムスは歩き始めた。
「あいつには、償うべき罪がたくさんあるんだ。死んで償ってもらうさ」
 その声は、暗い。

 ベルサリウスを乗せた大柄な白馬が、悠然とした足取りで近づいてくる。戦いは、ひと段落していた。それでも、油断は禁物である。戦える傭兵たちのうち半数は、いつでも出撃できるように身構えていた。ラズィーヤもロージャも、当然鎧を付けている。
「遅くなったな」
 ラズィーヤたちの下にやって来たベルサリウスが口を開く。落ち着き払った表情をしていた。とても、戦場が初めての人間とは思えない。年齢がラズィーヤより三つ若いことも、驚きだった。いくら本人が生まれた年齢は多少の誤差があると話しているとは言え、それでも前後二歳程度だろう。どの道、ラズィーヤよりは若い。
 ラズィーヤは今、二十二である。年齢は、間違いない。母が教えてくれたのだ。ラズィーヤはネヴァーフの父とヒューリンの母を持つハーフネヴァーフだった。ネヴァーフの血が流れている故か、暗闇でもある程度物を見ることができる。ただ、ラズィーヤが五歳の時、父はどこかへと消えた。それ以降、会っていない。ラズィーヤを育ててくれたのは母である。ただ、生活は大変だった。ラズィーヤ以外にも、妹と弟が一人ずついたのである。
 生き抜くために、七歳から盗みを始めた。それがいけないことだとは思わなかった。そうしなければ、死んでいたからだ。何度か失敗し、手ひどく殴られたこともある。それでも、止められなかった。ただ、妹と弟に同じことはさせたくないと母に何度か掛け合ったことは覚えている。
 母は頷いたが、妹が七歳になると、盗みのやり方を伝えようとしていた。自分がちょうど、盗みを始めた年齢である。これではいけないと思ったが、止める手段もなかった。テオドラに出会ったのは、その時である。
 盗みに入った宿に、たまたまいたのだ。
「止めたいのなら、自分が盗みを辞めなさい」
 テオドラの意見は最もだった。しかし、そうしなければ生きていけない。そう告げると、テオドラは首を傾げた。他にも手段はある、と言わんばかりに。
 気づけば、テオドラの見習いとして傍にいることになった。テオドラは安いながらも金をくれ、それとは別に食事をさせてくれた。従って、金には使い道がなく、全て家族に渡していた。その甲斐あってか、妹と弟の二人は盗みもせずに生きている。子に盗みをさせようとしていた母がすぐに死んだことも大きいだろう。
 ラズィーヤは十四の時テオドラと別れることとなった。なかなか、戦いの腕が上達しなかったためである。機敏ではあったので、踊り子として働くことになった。そちらの方が、実入りが良かったこともある。
 次にテオドラの話を聞いたのは、ナルセスからである。三年前のことだった。テオドラは死んだ。そう聞かされた衝撃は忘れようがないだろう。平和に死んだのが、唯一の救いだった。
 ナルセスは、テオドラが創始した傭兵団を引き継いでいた。その傭兵団を大きくすることが目標だ。そう言われた時、入隊を申し入れていた。二度、断られている。雑用でもいいから協力させてくれと告げると、根負けしたのか入隊させてくれた。
 『黒刀』との綽名が示すように、ナルセスは黒い倭刀を脇に二本差していた。何故二本差しているのかと聞くと、いつ折れるかわからないからだと答えが返ってきた。確かに、ナルセスの刀は刀身が細い。ただ、つい最近まで刀身が折れたのを見たことがなかった。
 猛安の一員になって一月ほどしてから、武術の稽古を再開した。やはり、猛安の一員として最低限の武術を身に着けたかったのだ。ナルセスは厳しいながらも丁寧であり、ラズィーヤに見合う武器まで考えていた。決して力があるわけではない。ただ、俊敏に動くことはできた。その俊敏さを活かして短めの剣を両手で使う。それが、結論だった。更に、牽制用に短剣を三本ほど腰に差している。戦いの腕は、なかなか上がらなかった。
 ただ、一度だけ自分でも信じられない力を見せたことがある。二百名ほどの賊徒を倒しに行った時だ。ナルセスたちが正面から賊徒に突っ込むと決めた上で、逃げた敵を少しでも仕留めるためにラズィーヤと他四人の団員が裏手に回った。そこで、賊徒たちの待ち伏せを受けたのである。
 矢の一斉射撃で、ラズィーヤ以外の四人は負傷した。ラズィーヤが躱せたのは、俊敏だったからに過ぎない。先手を取られた中で、二十人ほどの賊徒に取り囲まれた。更に、増援として数十名がやってこようとしている。
 ラズィーヤは他の四人に逃げるよう告げると、賊徒の中に突っ込んだ。とにかく、夢中で動き回ったことは覚えている。気づけば、三十人ほどは倒しており、敵も想定外だったのか押され始めていた。そこに、正面の敵を倒したナルセスが合流してきたのである。
 それ以降、ラズィーヤは猛安が二手に分かれる時は、もう一方の小隊長を任されることが多くなった。任されるうちに、指揮の上手さが認められるようになり、今回も一人残されている。
 最初はどうなることかと思ったが、ベルサリウスとロージャのお蔭で何とか傭兵たちはまとめられていた。
 今回の戦いも、危ないところだった。ラズィーヤたち傭兵団を、一番強いところだと踏んだのだろう。そこに騎馬隊の一部と地竜の混じった歩兵隊を当て、ラズィーヤたちが身動きを取れなくしている間にセリス率いるヒロズ国軍の本隊が信徒を一蹴していた。
 むしろ、ベルサリウスが来なければロージャは討ち取られていたかもしれない。それほどまでに、今回の戦いは危ないところだった。
「ロージャ、怪我は?」
 ベルサリウスが、ロージャに尋ねている。
「こんなの、唾でもつけておけば治るぜ。親分。そんなことより、どうしてここへ」
「胸騒ぎがしたからな。それに、許可が出た」
「許可?」
 思わず、ラズィーヤは聞いていた。ベルサリウスが頷く。
「ナルセスが一度戻ってきたんだ。状況を話して、許可は得ている。二本の長剣と、ブケパロスもその時貰った」
「ブケパロス?」
 今度はロージャが尋ねる。ベルサリウスが白馬を指した。よく見ると、目の下に赤い斑点がある。
「あいつだよ。癖の強い悍馬だと聞いていたが、そんなことはない。むしろ、稲妻のように速く駆ける。どうやら、ハーテン教徒が牧で捕獲していたらしい」
「なるほど。そいつは良かったな」
 ロージャがにやりと笑う。その足を、ベルサリウスが押した。ロージャが顔を顰める。
「やはり、足の怪我が治っていないだろう。明日は無理をするな」
「こればっかりは、そうもいかないぜ。親分」
「そんなんで死なれても困るんだがな。まあ、いい」
 あっさりとベルサリウスが頷く。ベルサリウスが二人を見る。
「おれが明日は朝から出る。強いところは、全て倒そう。誰を倒せばいい?」
「セリスと呼ばれる青年が、敵の大将です。恐らく、この間シナト村で戦いになった中にいたかと」
「そうか。おれは遅れてきたからな。あんまり覚えていないんだ。ナルセスに切りかかった女なら、覚えているんだが」
 ナルセスの黒刀を折った女だった。彼女をあそこでベルサリウスが倒していなかったらと思うと、ぞっとする。
「後ろから、援護はします」
「問題ないさ。一人でいける」
 確かに、ベルサリウスは強い。ただ、軍をまともに指揮したことはないのだ。その不安が喉元まで出かかったが、どうにか抑えた。
「わかりました。明日は、よろしくお願いします」
「ああ。二人とも、無理はするなよ」
「親分、分かっているって。おれを舐めるなよ」
「だから、舐めたくないと言っているだろう」
 ベルサリウスとロージャが笑っている。ラズィーヤは空を見上げ、頷いた。気づけば、多くのものを背負っている。それだけに、負けられなかった。

 ラーチェルは、会議が終わった後もしばしその場に留まっていた。フェミナとグレゴリウスに送った伝令が戻って来るのを待っているのだろう。目を閉じ、俯いている。その顔には、疲労が滲み出ていた。
「大分消耗しているな」
「そんなことありませんわ、『ゼロ』」
 目を空けたラーチェルが元気そうな声で告げた。ただ、その表情を見れば、空元気であることが一目で分かる。
「それに、明日が正念場ですわ。明日さえ乗り切れば、楽になると思いますの」
 レイが頷くと、ラーチェルはレイを見る。やつれた顔の中で、目だけが大きく輝いていた。
「それに、『ゼロ』。明日大変なのはわたくしではなく、あなたですわ」
「あの男が並々ならぬ実力者なのは分かっているさ。でも、デムーラン城砦を守ることとどっちか大変かなんてことは比べるものじゃない」
「そうですわね。互いに辛い局面であることには変わりないですし。でも、『ゼロ』、死なないでくださる?」
「確約はできないがな」
「でも、寝覚めが悪くなりますの」
 レイは苦笑すると、ラーチェルの隣に座り、その頭を軽く撫でる。ラーチェルはされるがままだった。
「お前こそ、気負いすぎるなよ。軍師ってのは戦いの後も必要になってくる。気楽にしろよ」
「心配して下さっているんですわね。ありがとうございますわ」
 ラーチェルがレイを見る。座っているとは言え、レイの方がいくらか背が高い。必然的に、ラーチェルはレイを見上げていた。
「でもまだ、わたくしはあなたに借りを返していないですからね。それを返すまでは、死ねませんの」
「いつ返してくれるかは知らんが、楽しみにしておくさ」
「では、七十年後くらいでどうですの?」
 レイは苦笑した。
「寿命は考慮してくれ」
 ラーチェルも笑顔を見せると口を開く。その時、伝令が戻ってきた。無事、二人に状況を伝えたらしい。
「では、わたくしは城砦内に戻りますわ」
 ラーチェルが転移の術を使う兵の下へと向かう。
「借り、ちゃんと返させてくださいね」
「ああ」
 レイが頷く。ラーチェルが手を振った。ラーチェルと兵の姿が消える。辺りは急に静かになった。夏だと言うのに、虫の声もほとんど聞こえない。レイは空を見上げた。雲に隠れながら、いくつもの星が見えている。まだ、日が昇るまでに時間はありそうだった。
 日が昇れば、あの男との対決である。負けてしまえば、デムーラン城砦は守りきれない。母が、デムーランが、そしてラーチェルが。皆が命を賭して守り抜いてきたこの城砦を失うわけにはいかなかった。
 レイは歩いて自分の部隊の下へと向かう。ようやく、虫たちの声が聞こえてきた。

 夜が明けると、ハーテン教徒の布陣が見えてきた。信者たちは、一万二千から更に減っている。食料の問題から、脱走する人間が相次いでいるのだ。セリスたちは、城砦からやや離れたところに陣を構えたアニムスとセルジュの歩兵の中に潜んでいた。合計で七百ほどだ。兵の損耗は、激しい。セルジュは気にしているようだったが、一番強いところと戦い続けた結果である。むしろ、兵力の差から考えれば健闘している方だった。
 ジャンヌとフェミナの騎馬隊は、所々にある林の中に身を潜めている。そして、デムーラン城砦ではラーチェルとコダマが百近い兵を指揮していた。
 信者たちが、ゆっくりと近づいてくる。先頭が城門の近くまで達した時、セルジュが手を挙げた。横から、信者たちに突っ込んで行く。セルジュはベルサリウスに斬り飛ばされてしまった長柄の大斧ではなく、いくらか短い斧を使っていた。いつもと比べ届く距離が少ないからか、戦いにくそうにしている。ただ、それでも十分に強かった。斧が唸る度、敵が吹き飛んでいく。背後からは、ジャンヌとフェミナが襲っているはずだった。信者たちが浮足立つ。その時だった。
「『ゼロ』、セリス殿下。出たぞ」
 アニムスが笑って告げる。昨日の男だった。二本の長剣を構え、セリスたちに真っ直ぐに突っ込んでくる。レイが頷く。
「了解」
「みんな、迎え撃とう」
 セリスが鎚を掲げた。その時にはもう、稲妻のようにセリスたちの眼前に男が迫っていた。セリスもアニムスも、咄嗟に反応できない。ただ、レイは違った。抜き打ちだけは誰にも負けないと豪語する彼は、既に魔導銃を撃っていたのだ。銃声が響く。狙いは、馬だ。大きな白馬が、咄嗟に方向を変え、駆け去って行く。反転した。再び、突っ込んでくる。今度は、セリスたちにも迎え撃つ時間があった。
 アニムスが飛びこむように男の眼前へと向かう。無造作に拳を突き出した。
「やあやあ、お兄さん。久しぶりだね。覚えているかい?」
 明るい声で、尋ねる。一気に肉薄したこともあり、男との距離は近い。長剣で切り払うこともできないだろう。だが、男は身を捩ると、その一撃を躱す。
「いや」
「君は子どもの前で親を殺したんだ」
 男が躱した先に、アニムスの足があった。華麗に蹴りが入る。
「君が何をしようと人の勝手だよ。でも、やったことに対する報いは受けるべきだ」
 空中で何回転かした後、着地をしながらアニムスが告げる。
「死んで償え」
「そうか。なら、償わせてみろ」
 男が告げる。そこに銃声が響いた。レイが抜き打ちで銃を放ったのだ。その速さは、銃を抜いた所すら誰にも悟らせないほどである。だが、男はその一撃を予想していたかのように剣を振るう。銃弾が、弾き返されてきた。
 逆に、レイが反応しきれない。銃弾が、レイの目の前に迫る。だが、レイには届かなかった。直前で、巨大な防御壁が作られる。フルールの魔術だ。銃弾は防御壁に弾かれ、地面に落ちた。
「まさか」
 フルールが呟いている。その剣の動き、身のこなしに見覚えがあったのだ。数か月前にトキワの森であった、あの狩人である。確か名は、ベルサリウスと言った。
「レイ!」
 アニムスが叫んでいる。思わず偽名の『ゼロ』ではなく本名で呼んでしまったが、誰も何も言わない。気にしている余裕すらなかった。ベルサリウスを止めるべくセリスが突っ込んでいる。ちょうど、反転しようとしたベルサリウスと打ち合いになった。二合、三合と打ち合う。
「アニムスさん、大丈夫です」
 それを見ながら、レイが告げる。アニムスが安心したようにため息を吐いた。
「セリス、気をつけろ。こいつ、相当できるぞ」
 レイが思わず呟いた。ベルサリウスと自身との実力差を最も感じたのは、レイだろう。これまで自信を持ってきた一撃を、あえなく打ち返されたのだ。だが、目の前で、愚直にもセリスはベルサリウスに殴り掛かっている。ただ、やはりベルサリウスの方が実力で勝っている。二本の剣が、セリスに迫る。
 不意に、セリスが馬上から飛んだ。その動きはベルサリウスも想定していなかったらしく、反応が遅れる。その隙に、鎚がベルサリウスの腹を捉えた。鈍い音が響く。セリスは勢いのまま空中で一回転すると、地面に着地する。すぐ横にオランジュが駆けてきた。飛び乗る。
 ベルサリウスは既に反転していた。白馬が、稲妻のように駆け寄ってくる。セリスは再び身構える。
 風が動いた。そう思うと、ベルサリウスの目前に二本の巨大な炎渦竜巻が現れる。ミリオットの魔術だ。左右からベルサリウスを飲み込むようにぶつかった。
 だが、ベルサリウスは一瞬で竜巻から出てくる。白馬共々、竜巻の影響を受けた様子はない。一直線に、セリスに向かう。セリスも既にベルサリウスへと突っ込んでいた。ぶつかる。二本の剣がセリスに迫ってきた。だが、セリスは躱さない。セリスの後ろには、フルールが立っている。セリスたちと違って、フルールはベルサリウスに抵抗する手段はない。近づかれたら、確実に斬られるだろう。
 代わりに。セリスは愛鎚を振った。ベルサリウスに、攻撃が命中する。だが、同時に、セリスも馬上から吹き飛ばされていた。斬り殺されなかったのは、咄嗟にフルールが巨大な防御壁を作り出したためだ。
「セリス!」
 アニムスが思わず叫んでいる。フルールが大急ぎでセリスに近づいていた。状態を確認すると、治癒の魔術を駆けようとする。
「おい、大丈夫か?」
 アニムスの問いかけに、フルールが頷く。どうやら、無事ではあるらしい。ただ、気を失っている。
 ミリオットとレイが、ベルサリウスを牽制するかのように前に出た。
 やるな。そう言わんばかりにベルサリウスがセリスたちを見ている。ベルサリウスの表情にはまだ、余裕が感じられた。
 ただ、全体としてはセリス軍が押し始めている。何しろ、ベルサリウスがセリスたちの相手をしていて動けないのだ。ベルサリウスも味方の窮状に気付いたようで、馬首を巡らせる。
 不意に、ベルサリウスが馬上で身を倒した。先ほどまでベルサリウスの頭があった位置に、矢が飛んでくる。
「アニムス。後はおれたちが時間を稼ごう」
 覚えのある声が、アニムスのすぐ近くから聞こえてきた。振りかえる。緑色の外套が、目に入った。セインだ。その後方で、モズメが弓を構えている。矢を放った。ぶれることなく、ベルサリウスの胸へと向かっていく。ただ、ベルサリウスも立て直していた。今度は余裕をもってその矢を躱す。
「引き際を見誤らないでくださいよ」
 アニムスが告げると、セインがにやりと笑う。
「なに、適当に戦ったら切り上げるさ。それより軍師殿からで、今のうちに一気にコトキとミシロを落とすとさ。だから、先に行っていてくれ。それからアニムス」
「なんですか?」
「この頑張った坊主を頼む」
 セリスのことだった。アニムスは頷く。
「ああ、もちろんだ」
 アニムスの返事を聞くと、セインがベルサリウスに突っ込んで行く。今のうちだった。
 アニムスはセリスを背負うと、駆け始める。まともについて来れるのは、セリスの愛馬たるオランジュくらいだった。セルジュの部隊が、信者たちに突っ込んでいる。信者たちは、壊走していた。それを無視し、突き進んでいく。途中、クロエの部隊から伝令が来た。クロエとフェルグス、それにフェミナと影の軍が中心となってコトキは占領したらしい。後はミシロだった。
「ここは」
 アニムスの背から、のんびりとしたセリスの声が聞こえる。目が覚めたようだ。
「なかなかやるな」
 そう告げると、セリスを投げる。セリスは空中で体勢を立て直すと、オランジュの背に乗った。オランジュが嬉しそうに嘶く。
「他のみんなは?」
 状況を思い出しつつあるらしい。アニムスは後ろを指した。はるか後方で、レイたちが駆けている。ミリオットとフルールは、どこで調達したのか馬に乗っていた。全員、無事である。
「株を上げたな」
 アニムスがにやりと笑う。
「ちなみにセリス殿下、堅苦しいのは好きじゃないと言っていましたが」
「ああ」
「じゃあ、セリス。これでいいですか?」
「そうだね」
 セリスが頷く。アニムスがまた笑った。
「しかし、よくやったな。セリス」
 二人が駆けていく。前方に、地竜の姿が見えてきた。セルジュの姿もある。
「アニムス殿、セリス殿」
 コスモファントムの上から、セルジュが告げる。他に、十人ほどがその場にいた。
「先に行っていただけませんか。わたしは、百ほどでここに」
 セルジュは一点を見据えていた。その先には、橙色の髪を持った指揮官が見える。彼女を討ち取りたいと考えたのだろう。ただ、セルジュ一人に任せるのは危険だった。彼女を討ち取りたいあまり、無謀な行動をしかねない。
 残るなら、セリスたちだろう。アニムスがセルジュを見る。
「いや、ここはおれたちがやろう。先に行っていてくれ」
「わかりました。では、わたしがミシロに向かいます。アニムス殿、セリス殿、後はお願いします」
 コスモファントムに乗ったセルジュが去って行く。橙髪の指揮官がセリスたちに気付いたのか、周囲の傭兵たちに指示を出している。傭兵たちが下がり始めた。ただ一人、眼帯をした男だけが下がろうとしない。橙髪の指揮官は諦めたのか、ため息を吐くと短剣を抜いた。眼帯の男は、斧を構えている。
 二人とも、覚悟を決めた顔をしていた。

 橙髪の女が、飛ぶように突っ込んでくる。ベルサリウスほどではないが、十分に速かった。セリスたちの目の前に近づく。銃声が、鳴り響いた。
「抜き撃ちの速さだけなら、ユリアンヌ・クライスラーにも負けねえよ」
 いつのまにか、レイが魔道銃を手にしている。更にもう一度、銃声が響いた。一度目の銃弾を後方に跳躍することで躱した橙髪の女に、銃弾が迫る。身を捩って躱そうとしたが、躱しきれない。鎧の留め金が弾け、地に落ちる。
「これで貴様の鎧はもう、役に立たない」
 レイが呟く。だが、橙髪の女も負けてはいない。身を屈めると、溜めこんでいた力を爆発させるかのように一気に近づいてくる。ただ、それもまたレイの銃弾に防がれていた。
 そこに、眼帯の男が斧を放り投げてくる。アニムスはそれを器用に受け止めると、橙髪の女目掛けて投げつける。橙髪の女が躱した先に、アニムスがいた。拳が振られる。腹部にまともな一撃が入った。更に蹴りを入れようとする。それは、眼帯の男が受け止めてきた。右足を掴まれ、地面に叩きつけられる。だが、同時にアニムスの左足が眼帯の男に入っていた。眼帯の男が膝をつく。
 橙髪の女は、セリスと戦っていた。セリスの鎚が唸りを上げ、橙髪の女にぶつかる。風が、熱を帯びた。
 炎渦竜巻だ。背から炎の翼を生やしたミリオットが、魔力を凝縮させ放っている。周囲の草を巻き込みながら、巨大な竜巻が二本、橙髪の女に迫っていた。だが、その時にはもう橙髪の女はそこにはいない。ミリオットの近くへと、迫っていた。そこに、拳が襲い掛かる。
 アニムスだった。橙髪の女が空中に飛びあがると、それを見越したかのように蹴りを放つ。綺麗に入った。女が地に叩きつけられる。更に追撃を試みたアニムスの前に眼帯の男が立ちはだかった。蹴りを入れる。眼帯の男は吹き飛ばされるが、攻撃そのものは器用にいなしていた。その間に、橙髪の女は体勢を立て直している。
 銃声が響いた。橙髪の女は躱しきれない。そこに、セリスが再び近づいていく。鎚が二度、橙髪の女にぶつかった。橙髪の女は吹き飛ばされる。だが、また立ちあがってきた。気迫も、失っていない。
「破壊の翼よ」
 ミリオットが叫ぶ。炎で造られた翼がはためき、炎渦竜巻が出来上がる。橙髪の女に、襲い掛かった。流石に、今度は躱しきれない。風が収まる。橙髪の女の服が、ぼろぼろになっていた。そこにアニムスが畳み掛ける。眼帯の男がアニムスに食い下がった。アニムスが薙ぎ払うも、その間に橙髪の女は動いている。
 ミリオットの目の前に現れた。短剣を構えている。この距離では、ミリオットも何もできない。
「させるかよ」
 叫び声と共に三度、銃声が鳴り響く。レイだ。レイだけが、橙髪の女の動きを目線で追いきれていた。抜き打ちで橙髪の女の動きを止めると、更に銃を放つ。橙髪の女の左肩から、血が滲む。そのままレイは横に飛ぶ。先ほどまでレイがいたところに、斧が飛んできていた。眼帯の男が、拾った斧を投げつけてきたのだ。着地したところに、橙髪の女が襲い掛かる。それを、セリスが受け止めていた。短剣で切られそうになるが、目の前に出てきた巨大な防御壁に阻まれる。フルールの魔術だった。
 更に、アニムスが殴り掛かっている。橙髪の女が吹き飛ぶ。橙髪の女も、眼帯の男も、傷だらけだった。だが、どちらも闘気に満ちている。
 おまけに、橙髪の女は徐々に動きが早くなっていた。この戦いの中で、何かを掴んだのか、それとも眠っている力が目覚めたのか。とにかく、厄介な敵と化している。
 眼帯の男が、膝をついた。橙髪の女が、何かを告げている。眼帯の男が何かを言いかけるが、口を噤むと下がっていった。
「さて、戦いを続けましょう」
 橙髪の女が舞うように突っ込んでくる。フルールが防御壁を作り出そうとするが、橙髪の女の動きに追いつかない。セリスが前に出る。受け止めた。あまりの衝撃に、セリスは一度昏倒する。だが、すぐに立ち上がった。
 風が、動いた。ミリオットが渾身の破壊暴風を放ったのだ。全てを切り裂かんばかりの烈風が、襲い掛かる。ルーアを倒したあの一撃だった。烈風によって砂埃が舞い上がり、橙髪の女の姿が見えなくなる。やがて、風が止んだ。砂埃も、収まってくる。
 橙髪の女は、まだ立っていた。
「これでもまだ倒れないのか」
 ミリオットが呻く。だが、橙髪の女は満身創痍である。その姿が消えた。目にも止まらぬ速さで、セリスたちの前に現れる。虚をつかれたセリスたちは、反応できない。短剣を振った。
 いや、振ろうとした。その両手には短剣がない。レイの銃弾が、どちらも叩き落としていた。橙髪の女が飛び退こうとする。
「させるか!」
 叫び声と共に、レイが銃弾を放つ。その一撃が、橙髪の女の額に吸い込まれていった。一瞬の間の後、女がゆっくりと倒れていく。

 橙髪の女が倒れたことは、敵に更なる恐慌をもたらした。我先にと言わんばかりに、信者たちが逃げていく。傭兵団も、どこかへと消えていた。
「どうにかなりそうだな」
 いつの間にか、セリスの隣にセインがやって来ていた。馬の後ろに、モズメを乗せている。
「こっちはある程度時間を稼いだところで終わらせた。あの男は、全力でミシロかコトキに向かっているだろう。ただ、無駄な戦いをする性格ではなさそうだ。街が奪われていることを知れば、どこかに落ち延びるだろう。セリス、良くやったな」
「ぎりぎりだったけどね」
 セリスが苦笑しながら告げる。のんびりとした声だが、感慨深そうだった。
「さて、セリス。お前たちはミシロを奪いに行ってくれ。おれは一度、デムーラン城砦に戻る。ミシロは任せたぞ」
 セインが去って行く。セリスたちはミシロへと向かった。城壁に、不死鳥を模った旗が揚がっている。セリスたちの旗であることに、間違いはなかった。
「セリス」
 騎馬隊を引き連れたジャンヌがやってくる。騎馬は城内での戦いには向いていない。それで、近くに待機していたのだろう。
「無事だったのか」
「もちろん、わたしは無事だよ。それにしても、流石だね、セリス。セリスたちが時間を稼いでくれたから、こっちもなんとかなったよ。今、セルジュさんとフェミナさんの部隊が城内から信者たちを追い出しているの。わたしは外からやってくる信者たちの迎撃をしていたところ」
「互いに、やり遂げたね」
 セリスが手を上げる。ジャンヌも手を上げると、セリスの上げた手を叩いた。
 間もなく、フェミナから使者が来た。城内から信者を追い出したらしい。むしろ、信者の多くはセリスたちとの戦いに出ていたらしく、ほとんど戦いらしい戦いはなかったようだ。
「セルジュさんが負傷した?」
 ジャンヌが驚きの声を上げる。どうやら、探索中にハーテン教徒の遺した罠に引っ掛かってしまったらしい。慌てて、セルジュのもとに向かう。
「アニムス殿、セリス殿。心配ばかりおかけしてすみません」
「いや、無事で何よりだよ」
 アニムスが答える。治療のために鎧こそ脱いでいるが、セルジュは元気そうだった。白い服を着たフィルボルがてきぱきと治療していた。歳は、五十くらいだろうか。いくらか白いものが髪に混じっている。ただ、背を向けているため顔が分からない。
「この人が、素早く治療をしてくれて」
「それはそれは。同僚として、感謝いたします。よろしければ、お名前を」
 アニムスが近づく。医者が振りかえった。
「ドクターワリオだ。久しいな、アニムス君」
「あなたのような人を、お待ちしていました。よろしければ、今一度私たちの軍に力を貸していただけませんか?」
「もちろんだ」
 ドクターワリオが頷く。
「お礼は、わたしの権限で可能な限りさせていただきます」
「わたしは医者だ。負傷者や体の調子が悪いものがいたら連れて来てくれ。それが仕事だからな。それから、アニムス君」
 ドクターワリオがアニムスを見る。
「モミジは無事だ。薬屋は燃えてしまったんだがね。今は、治療所で負傷者の介護をしている」
「そうですか、プライムもそれを聞いたら安心するでしょう」
 アニムスが頷く。ドクターワリオが僅かに反応した。
「そうか、プライムちゃんも無事なのか。他の三人の養子たちも無事だよ。では、わたしは治療所に戻ろう。怪我人がいたら送ってくれ。あまりにも多い場合は、逆に治療する場所をくれ」
「はい、よろしくお願いします」
 ドクターワリオが戻っていく。そこからは忙しかった。ミシロの状況を把握し、兵を振り分けるだけで日が暮れ始めている。ラーチェルが、やってきた。
「『ゼロ』、無事だったんですわね」
「ああ、互いにな」
 レイが頷く。ラーチェルも頷いた。
「あなたたちが強いところを相手してくれたんですの。これで、デムーラン城砦が奪われでもしたら合わせる顔がありませんわ」
 ラーチェルがにっこりと笑う。
「『ゼロ』、あなたやアニムスさんたちはしばらく軍を各地に展開して、この辺り一帯から信者たちを追い出していただくことになると思いますの。それから、編成も変えないといけませんわ」
 ただ、この忙しさでは会議もしばらくできないだろう。レイとラーチェルはセリスの下に向かう。
「セリス、三日後に会議をしましょう。それまでは、皆、今の仕事を」
 ラーチェルは全員のやるべきことを把握していた。マッキンリーと二人で決めていたらしい。マッキンリーは、同じことをコトキにいる面々に伝えているはずだ。そして、しばらくはラーチェルとマッキンリーにとって忙しい日々が続く。
「では、わたくしはしばらくミシロを立て直す方に回りますわ。何しろ、ミシロは太守が亡くなってしまっているので、誰も民政をまとめる人がいませんの。『ゼロ』、会議の日まではデムーラン城砦に行ってくださる?」
「もちろんだ」
「よろしくお願いしますわ」
「おうよ」
 特に断る理由もない。レイはデムーラン城砦へと向かう。まだしばらくは満足に寝ることはできないだろう。それでも、大きな仕事を一つやり遂げていた。

 ミシロとコトキが奪還されたとの知らせがやってきた。傭兵たちをまとめるために残していたラズィーヤも、討ち取られている。
 副官ではなかったが、頼りにしていた一人だった。戦いながら、周囲の状況を落ち着いて判断できる。いざとなれば逃げ出す選択肢もとれる人間だ。それに、本人は気付いていないようだったが、いざと言う時の実力は相当なものがある。何かを守ろうとすると、本来隠し持っていた力を出せる人間だった。その時の実力は、猛安であればナルセスの次に位置する。
 ベルサリウスも、ラズィーヤの強さにはある程度気づいていただろう。ただ、それを日ごろから出せるわけではない。ベルサリウスに付き従っていれば、力が開花することもあっただろうが、その前に死んでいた。
「おれのせいだ」
 目の前に座ったベルサリウスが告げる。ドフトエフスキー傭兵団の団長だったロージャと共に、生き残った傭兵団をまとめて連れ帰ってきていた。他の傭兵からの話もまとめて考えるに、ラズィーヤとベルサリウス、そしてロージャの三人が傭兵団の中心だったようだ。
「ナルセス。おれが自分の強さを過信しすぎた。いける、と思ったんだ」
 ベルサリウスの動きに対応するように、五人ほどの人間が突っ込んできた。その中には、大将であるセリスや傭兵仲間だった『ゼロ』も入っている。一人一人が、かなりの腕前だった。そして、ベルサリウス相手に善戦している。
「すぐに決着をつけることはできなかった。特に、セリスとかいう向こうの大将だ。二度も、おれに鎚をぶつけてきた。今まで、二度も当てられたことはなかったからな。驚きだ。おまけに、おれがそいつらを何とかしようと躍起になっている間に、戦線が崩れてな。ラズィーヤはそれを何とか立て直そうと前に出てきたんだ。隙あらば、おれに助太刀しようとしていたのだろう。前にいた分、戻るときに相手の猛追を受けやすかった」
 そして、死んでいる。ただ、ラズィーヤがセリスたちを僅かにでも足止めしたことで、より多くの傭兵たちが戦線から離脱できていることも事実だった。
「戦場の死は、仕方ない。そこは割り切れ。それに、ラズィーヤの代わりにお前の働きで救えた命もあるはずだ」
「どうだかな」
「少なくとも、わたしは一度お前に救われている」
 ナルセスの言葉に、ベルサリウスが声を上げる。じっと、見てきた。酒の入った杯を持っているが、先ほどから飲もうとしていない。
「今回の戦いでは、いないさ」
「どうだかな。それに、悔やみ続ければ帰ってくるわけではない。生きていれば。わたしたちにできることは忘れないことくらいだ。覚えていてやってくれ。そして、次に同じような過ちを犯さないでくれ」
「わかっている」
 ベルサリウスが告げる。
「今回のことを、誰が忘れるものか」
 しばし、沈黙が二人の間を流れる。ベルサリウスは酒の入った杯を持ったままだった。しばらくしてから、思い出したように飲み干す。
「そう言えば、だが」
 ベルサリウスが杯を置いてから、ナルセスが告げる。
「アントニナは無事だぞ。今、ヒワダにあるわたしの家に置いている。聞かされてはいたが、本当に錬金術の知識は凄いな」
「記憶は?」
「相変わらずだ。つまり、戻っていない」
「そうか」
 ベルサリウスが考え込むような表情になる。真剣に、彼女のことを考えているのだろう。
「惚れたのか?」
「は?」
「だから、惚れたのかと聞いている。どうなんだ?」
「出会ってまだ、ひと月も経っていない。おまけに、記憶もないからな」
 ベルサリウスが困ったように告げる。ある程度は、本心だろう。
「そうか、冗談だ。そこまで気にしないでくれ」
 ナルセスが告げると、ベルサリウスが苦笑する。
「冗談なら、もっと早く言ってくれ」
 本当は、冗談でも何でもなかった。ただ、今のところのベルサリウスにその気はなさそうである。ただ、半年後は分からない。
「わたしは冗談が苦手なんだ。今の冗談が、そもそも二年ぶりでな」
「さして面白くないぞ、お前の冗談は」
「精進するよ」
 ナルセスは苦笑すると杯を上げた。ベルサリウスも、それに合わせるように杯を上げる。
 ラズィーヤは、殆ど酒を飲まなかった。ナルセスはそんなことを思い出していた。

 セリスたちがミシロとコトキを奪還してから、三日が経っていた。この三日間、セリスたちはほとんど休む間もなく各地を動き回っている。それで、どうにかミシロ、コトキ、デムーラン城砦の三点を結ぶ地域の混乱は収まりつつあった。会議が開かれたのも、そんな中のことである。
 会議の場所は、ミシロの市庁舎だった。セリスを始め、多くの面々がミシロに留まっていたためである。総大将であるセリス、コトキ太守であるマッキンリー、そして軍師のラーチェルの他、軍人としては騎馬隊のジャンヌとフェミナ、歩兵隊のアニムス、クロエ、フェルグス、セルジュ。デムーラン城砦からはレイもやって来ている。更に、ミリオットとフルールもおり、リシア財団からはセイン、モズメ、コダマが同席していた。
 合計で、十五名である。
「さて、会議だな」
 マッキンリーが青髭を擦りながら口を開く。ラーチェルが立ち上がった。
「まずは兵力の話からですわ。現在、ミシロ、コトキ、デムーラン城砦の三地点を奪っていますが、兵力は圧倒的に少ないと言わざるを得ませんの」
「削られに、削られたからな」
 アニムスが呟く。本当に、その通りだった。ミシロとコトキを奪還する中で、合計で千七百近くいた味方が千四百を切っている。
「ただ、ハーテン教徒の信者たちに街を追い出された兵や義勇軍がやってきたこともあり、まもなく兵力は千五百を超えることになりそうですわ。そして、重要なこととしてミシロを始めとする三地点を結ぶ三角地帯の中で、ハーテン教徒の信者はいませんの。他の主要な街からは比較的距離が離れているため、ハーテン教徒による大きな侵攻はしばらくないと思いますわ」
「しばらくとは、どれくらいだ?」
 フェルグスが口を挟む。ラーチェルは腕を組んだ。
「ハーテン教徒の正確な陣容が分からないので、何ともいえませんの。ただ、ハーテン教徒の本隊は、キキョウを奪おうと動き始めたようですわ。その分、この地域からはいくらか目が逸れるはずですの。具体的に言えば、最低でも一月くらいは侵攻してくることはないと思いますわ」
「なるほど。その間に、兵力を増やしたいわけだな」
 フェルグスの言葉に、ラーチェルは頷く。
「本国との連絡は?」
 アニムスだった。ラーチェルがアニムスを見る。
「取れるようになりましたの」
「援軍の要請も」
「可能になりましたわ」
 ラーチェルが頷く。ただ、と目を伏せた。
「どこの都市でもハーテン教徒の侵攻が相次いでいるようなので、どこまで要請が通るかが分かりませんの」
「全く、ヒロズ国は度し難いな。そう思わないか、セリス?」
 アニムスが呆れたように告げる。セリスは苦笑していた。
「アニムスさん。あまり言ってもセリスが困るだけですよ」
「そうだな。じゃあ、会議を続けようか」
 ラーチェルが全体を見る。再び、口を開いた。
「幸い、リシア財団の方からかなりの支援をしていただけると言われていますの。兵力としては、三拠点で、合計一万を目指したいと思いますの」
「随分、多いな」
「これでも少ない方ですわ。かつて、セリスの父であるシアルさんたちがデムーラン城砦を築いたとき、その兵力は二万近くあったと言いますの。最も、その時は相手もゲン率いる精兵たちですが」
「人が、必要なわけだな。そして、その増援が認められるだけの将来性も」
 マッキンリーがラーチェルを見る。
「その通りですわね。将校を含め、他の地域からヒロズ国の兵を連れてくることができれば、兵力不足は解消しますわ」
「それは私とフェミナが行おう。おそらく、いま一番つてが多いのは私とフェミナだろうし」
 マッキンリーが告げる、ラーチェルが頷いた。
「よろしくお願いします。フェミナさんも」
「大丈夫。ついでに、良い男も一人や二人くらい見つけてくるから」
 フェミナが陽気に笑う。レイが苦笑いしていた。それを見たアニムスがにやりと笑う。
「フェミナさん、あそこにいる『ゼロ』なんかはなかなかのいい男ですよ。先ほどの戦いでも、魔道銃を駆使して幾度も敵将の攻撃を防ぎましたし」
「でも、わたしの好みじゃないのよね」
 フェミナが笑いながらばっさりと斬り捨てる。皆が笑っていた。
「なんだか、弟みたいな気もするし」
 レイが噴き出した。乾いた笑い声を上げる。傍目から見たら、目の前でばっさりと斬り捨てられた衝撃が強かったと思われるのだろうか。そんなレイの様子を訝しみながら、ラーチェルが言葉を続ける。
「それから、編成です。まず、わたしたちの拠点ですが、今後はミシロに置こうと思います。デムーラン城砦の方が守りには優れるかもしれませんが、ミシロはゲンの叛乱の折にシアルさんが拠点とした街です。セリスがシアルさんの息子だと伝われば、かつてのシアルさんを思い出して味方する人が出てくるかもしれません」
「まあ、神輿としては優秀だからな。うちの隊長は」
 アニムスが冗談めかせて告げる。セリスが苦笑した。
 ラーチェルから編成の話が続く。これまではアニムスを頂点とした軍政だったが、ミシロ、コトキ、デムーラン城砦の三地域を治める必要が出てきたため、それぞれに総指揮官を置くことになった。ミシロと全体については、セリスが頂点である。
 そのセリスは、ジャンヌと互いに百騎を目標とする騎馬隊を作ることとなった。どちらも、今は五十騎ほどの騎馬隊なので倍である。グレゴリウスの騎馬隊も同様に倍の千を目指すことになっている。そして、セインが五十騎ほどで遊撃隊を作ることになった。ただ、モズメは軍を率いるだけの体力がもうないとのことで軍には参加しない。歩兵の指揮は、クロエである。そして、全体を見回す軍師として、ラーチェルがそこにつく。民政も、正式な太守が決定するまではラーチェルが担当することになった。
 デムーラン城砦については、レイを総隊長とした上で、フェルグスが歩兵の指揮を、フェミナが騎馬の指揮を担当する。コトキは、太守のマッキンリーが民政を行い、総隊長としてアニムスが向かうことになった。これまで軍の総指揮をしていたアニムスがコトキの隊長になったのは、マッキンリーの強い要望があったためらしい。更に、その下にセルジュが着任する。
「これで、よろしくお願いしますわ」
 ラーチェルが告げる。どこも、兵が少ない。まずは兵を増やすことが急務となりそうだった。会議が終わる。
「セリス」
 セリスを呼び止める者がいた。アニムスだ。
「もう一度確認するが、この呼び方で構わないんだよな?」
「そうしてくれると助かるかな」
 穏やかな声でセリスが返す。
「わかった。おれのなかではまだ、お前の一族に対する怨念が渦巻いている。ただ、お前がフルールを庇ったように、命を懸けて弱きものを守る態度は感激した。そんなやつは、今までおれの前に出てきたことがない。だから、お前は信じよう。お前がおれたちの頂点にいることについて、おれは全く異論はない。せいぜい、上手く使ってくれ」
「互いに、上手に付き合っていきましょうか」
 セリスが告げる。アニムスが去って行った。
 一方、レイはラーチェルと共にいた。ラーチェルが、話したそうにしていたからだ。その顔はいくらか曇っている。
「『ゼロ』、今回の編成で、心残りが一つだけありますの」
「心残り?」
 ラーチェルはミシロに残ることとなっていた。デムーラン城砦に住むレイとは会う機会も少なくなるだろう。ただ、ラーチェルが大好きなクロエもミシロに残っていた。それだけに、ラーチェルが表情を曇らせている理由が皆目見当もつかない。
「どうした、ラーチェル。悪いものでも食べたか?」
「それが心残りだったとしてら、わたくしはどれだけ食い意地の張った人間ですの?」
 ラーチェルが苦笑している。レイも笑った。そんなレイを見ながら、ラーチェルが口を開く。
「編成のことですの。できれば、あなたもわたくしと同じところにいてくださると心強かったですわ。命も助けていただきましたし」
「ラーチェル。君におれがどう映っているか分からないが、自分の心の思うとおりに人を配置しなかったことは評価されるべきなんじゃないかな」
「それは全体を見る軍師として、当然のことですの。『ゼロ』、これからもお互い、自分の目標のために努力しましょう」
「ああ、もちろんだ」
 ラーチェルの目標は、クロエに関することだろう。レイの目標は、母である。ラーチェルがどこまでレイのことに気付いているかは分からない。
 二人は市庁舎の外に出る。ちょうど、フェミナとモズメが話し込んでいた。レイを見ると、にこりと笑ってモズメが去って行く。
「では、わたくしはまだ仕事がありますので。『ゼロ』、今後もよろしくお願いしますわ」
 ラーチェルが去って行く。後には、にやにやと笑っているフェミナが残されていた。嫌な予感しか、感じられない。
「全く、レイ君も隅に置けないね」
 誰もいないのを確認してからフェミナが告げる。
「いや、それは、その」
 レイがしどろもどろに弁解を始めようとする。ただ、何も思いつかなかった。
「いつの間にか、あんな可愛い子ちゃんと良い仲になっちゃうだなんて。お姉さんは、レイ君が何も教えてくれなくて寂しいぞ」
「フェミナ姉、そういうんじゃないよ。ただ、デムーラン城砦で一緒に戦ったってだけさ」
「またまた」
 レイの反応を見て、楽しそうにフェミナが笑う。それから、真面目な表情になった。
「かつて、レイ君のお母さんと守った城砦を、今度はレイ君のもとで守るとは思わなかったよ」
 母や母の友人たちが必死に守り切った砦だった。レイは、空を見上げる。青い空が、広がっていた。
「傭兵として色々と渡り歩いて、母さんたちが作ったデムーラン城砦を守ることになって、抜き打ちの速さだけなら母さんにも負けないつもりで戦ってきたけれど。やっぱりまだまだ敵わないなって痛感したよ」
 ベルサリウスと戦った時のことである。一度は相手の動きを止めることに成功したが、次に放った時は銃弾を撃ち返されあわやのところまで追い込まれていた。フェミナも空を見上げた後、レイに視線を向けた。
「まあ、確かに今の君はユリアンヌさんに勝てないと思うよ。でも、君はわたしが初めて出会った時のユリアンヌさんよりよっぽど若いよ。同じ年になった時に、どうなっているか。それで判断すればいいんじゃないかな」
 レイもフェミナを見る。大きく息を吐いた。
「目指す背中は、まだ遠いな」
「目指す背中がある方が、頑張れるかもしれないよ」
「追いついたのか、追い越せたのか、分からないのが寂しいけどな」
 レイの言葉に、フェミナはにこりと笑う。
「自分で判断してもいいし、人に聞いてみてもいいと思うしね。幸い、わたしやセインさんを始め君のお母さんに世話になった人はたくさんいるわけだし。何かあったら、いつでも頼りなよ。改めてよろしくね、レイ君」
「ああ。頼りにさせてもらうよ、フェミナ姉」
 フェミナと連れ立って歩き出す。どこからともなく、蝉の声が聞こえていた。
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