ガフンダルから『アパッチ』と呼びかけられた男は、小さく首肯した。そのとたん、パイソンはその場に正座し、両手を地に着けて深々と頭を垂れた。パイソンのいきなりの行動に、ガフンダルも真紅もあっけにとられている。
「偉大なる領袖アパッチよ。私めは海賊業を生業とするキャプテン・クラックの次男、パイソンでございます。いつぞやは父と私が、立ち寄ったゲドナンの街中にて窮地に陥っていたところをお救いいただき、まことにありがとうございました。このような状況下ではございますが、貴殿のおん前にこうして立てること、至上の喜びでございます」
「おお、パイソンか。あの頃はまだ小さなボウズであったが、立派になったものだ」アパッチは、優しい眼でパイソンを見つめながら、喉から搾り出すようなしわがれた声でそういった。
パイソンはさらに地面にはいつくばって、ほとんどぺしゃんこの状態で、「…はい」とだけ答えた。
「ふーん。パイソンってアパッチさんと知り合いだったのね。助けてもらったんだ」
「なにせ、恩を受けたら16倍返しというのがクラック家の家訓らしいからのう。親子ともども助けてもらったのなら、まあ神様みたいなものじゃろうて。ときにルビイ、お前水を持っておらなかったか?」
「チョントゥー先生に、お弁当と一緒にもらった水筒があるけど。パスカルさんたちと別れるときに水を分けてもらった」そういって、真紅は自分のバッグをゴソゴソさぐり、大きな水筒を取り出した。
「よろしい。ではその水をアパッチ殿に飲んでいただこう」
「え?じゃあワタシたちの分はぁ?」
「何をケチ臭いことをいっておるのじゃ?いざとなればウンディーネ殿を呼び出せばよいではないか。もうお腹がパンパンになって、1ノマ(1ヶ月)は水を見たくもないというほど飲ませてくれようさ」
「なんかちょっとセコイくない?ウンディーネさんを呼び出す理由としてはさぁ」真紅はほぺったを膨らませながらも、しぶしぶガフンダルに水筒を手渡した。
「うむ、なかなか聞き分けがよろしい。しかし困ったぞ。どうやってこの水をアパッチ殿に飲ませて差し上げるかが問題じゃ」ガフンダルはお得意のあごの無精ひげを撫でながらそういったが、いつもの調子ではなく、動作が緩慢であった。若干途方に暮れているのかもしれない。
「得意の魔法でなんとかすれば?」
「それがどうも、いまいち魔法が上手く発動せんのじゃよ。忌々しい結界のせいだと思うのじゃが。この明かりを薄ぼんやりと照らしているだけでも相当疲れるのじゃわい」ガフンダルの無精ひげを撫でる動作がは、一段と緩慢になってしまった。
「じゃあ今のガフンダルは、達者なだけで、他になんのとりえもない平凡なお年寄りに過ぎないってこと?」
「若干カチンと来るいいようだが、実際その通りなのじゃわい。ワシゃ明かりをつけるだけ…」とうとう無精ひげを撫でる動作が停止し、しゅんとうなだれてしまうガフンダル。
ガシャガシャガシャ!
突然パイソンが狂ったかのように鉄格子をゆすり始めた。力ずくで格子を外そうとしているようだ。力任せに叩いたりし捻じ曲げようと試みたりしている。あまりにも激しくそれらのことをやったため、パイソンの手は紫色になり、うっすらと血が滲んできた。ううぅと唸り声を上げるパイソン。
「やめなさいよパイソン。いくらアンタが力持ちで拳法の達人だからって、この鉄格子がどうにもなるわけないじゃない。もう、やめなさいって!」真紅はパイソンの後ろからしがみついて、必死で鉄格子から引き離そうとする。しかしパイソンは聞く耳持たず、懸命に拳を鉄格子に打ちつけ続ける。
「だからパイソンの手が壊れちゃうのヤなんだってば!」
そう叫びながら、真紅は思いっきりパイソンの後ろ頭をひっぱたいた。
我に返ったパイソンは、鉄格子を握り締めながらその場にがっくりと膝をつく。
「おうおうおう。なにやってんだよ。そんなこたぁオイラに任せなよ!」突然、陽気なべらんめえ調が室内に響き渡った。
「おうそうじゃ。我らには、吟遊パソコン松平長七郎という強い味方がおったのじゃ♪おぬしならばこの鉄格子を難なくすり抜け、中に入ることができようさ!」一発で元気一杯になるガフンダル。
「へん!へん!その割には最近、全くお座敷がかからねえけどなぁ。まあオイラそんな小せえことはあまり気にしねえ性質(タチ)なんだがよ。それにしても、オイラ出番が少なすぎるんじゃねえかナア」
「めちゃめちゃ気にしてるじゃないのよ!」真紅はあきれている。
「まあまあ、長七郎殿。おぬしの役割は基本的に、ルビイサーガの記録であろうが。例えお前さんがレギュラーで出てきたとしても、次のようになるだけじゃよ」
長七郎は記録した。
長七郎はさらに記録した。
長七郎はまだ記録している。
長七郎はとことん記録している。
そして、長七郎は記録し続けた。
ああ、今でも彼は記録し続けているのである。
「…てなことになってしまうぞ」
「なんでぃそりゃ?まあいいや。じゃあオイラにその水筒の紐をひっかけな。アパッチさんは手が使えないみてえだから、ふたを開けといてくれ」そういって、長七郎は空中へ飛び上がり上向けに30度ほどの角度で開いて静止した。真横から見るとちょうどVの字の形になっている。真紅はそこに水筒の紐を引っ掛けた。
「じゃあしっかりね長七郎、慌てちゃダメよ。特に格子をすり抜けるときは注意するのよ。こぼすんじゃないのよ」真紅は世話焼きのお母さんのようになっている。
「うるせえな。そうしてプレッシャーをかけられたら余計緊張するじゃねえか。ちょっと黙ってろ!」そう叫んで、V字スタイルのまま、つーっと空中を滑っていったが。ちょうど格子をすり抜けるときに、ガクンとバランスを崩してしまった。
「きゃ」真紅が小さく悲鳴を上げた。
「なあああああんて。冗談だぴょぴょぴょぴょぴょぴょーん♪」長七郎は難なく体勢を整えて、格子をすり抜けていった。
<あいつ。いつか髑髏環礁か、火の山の溶岩流に沈めてやる。そうすれば、うっとうしいのがふたり同時にいなくなるわ>
真紅が恐ろしいわるだくみをしている間に、長七郎はアパッチのところまでたどりついた。
長七郎はアパッチの上部で位置を微妙に変え、アパッチの口元に水筒の口を持っていく。アパッチの口が水筒を捉えたのを確認して、長七郎は少しずつ少しずつ上昇していく。それにつられて水筒も上昇していくので、ちょうどアパッチの口に水筒が斜め上方から突き刺さったような形になった。文章で詳細に表現するとわかりにくいが、要するに『手を使わずに口で水筒を咥えて水を飲んでいる』という状態になったのだ。
「うまいわ、長七郎。ふーん。アンタでも役に立つときあるのねえぇー」真紅は心から、純粋に感心しているようだ。
アパッチは水筒の水をあっという間に飲み干してしまい、水筒から口を離してうつむいている。と、何やら「ぅぅー」という唸り声が聞こえてきた。どうやらアパッチが唸っているようである。
「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅー」
アパッチはずっと唸り続けている。真紅たちは固唾を飲んでアパッチを見守る。
「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅううううううううううー」
だんだんと唸り声が大きくなっていく。アパッチはガバっと顔を上げ、真紅たちをものすごい形相で見据え、
「うううううーんまい!」
と叫んだ。
<あらら> 真紅は、心の中で小さくズッコケてみる。
「水がこんなに旨いものだとはしらなんだぞ。この通り礼をいう」アパッチの声は、先ほどのしわがれたものと比べると相当ましになっている。
「ところでお前達、何を好き好んでこのようなところへ迷い込んできたのだ?ここは一度迷い込めば二度と地上に出ること叶わぬ迷路になっておるのだぞ」
「別に好き好んで迷い込んできたわけではないさ。トムキャットに罠を仕掛けられ、まんまとそれにはまってしもうたのよ」ガフンダルはいくぶん照れくさそうに、鼻の頭を人差し指でぽりぽり掻きつつ答えた。
「玉虫色のガフンダルともあろうものが油断しおったな。わはは。しかし、そもそもよくぞここにたどり着いたものだ。それすら奇跡といわねばならんよ、この迷宮ではなあ」
「ビャーネ神がお引き合わせ下さったのだろうよ…」
「…ガフンダルよ。とにかく俺をここから出してくれぬか。俺がこの迷路の脱出方法を知っているから、お前達を案内しよう」アパッチはその場でヨロヨロと立ち上がりながらそういった。
「アパッチ。無理をせぬほうが良いぞ」とガフンダルがアパッチに声をかけたと同時に、またパイソンがガチャガチャと格子をゆすり始めた。
「もうやめなさいってばパイソン。ねえガフンダル、よく考えるとこの鉄格子おかしいのよ。ほら、よく牢屋の鉄格子には、小さなくぐり戸みたいなのがついててさ、おっきな鍵がかかっててさ、そんでもって、バカでスケベで居眠り大好きな獄卒がいてさ、さも盗んでくださいといわんばかりに腰のところに鉤束をぶらさげたりしてさ、賢い主人公にまんまと鍵を盗まれてさ、逃がしちゃうっていうのが定番じゃん。ところがこの牢にはくぐり戸がないの。どうして中に入ったんだろこの人?」真紅が長い長い疑問を一気にぶちまけた。
「このモジラ山の地下迷宮は、我らコモン・ゲートウェイ一家が作り上げたものではないし、そもそも我ら人類が作り上げたものでもないとさえいわれているのだ」
アパッチがそういうと、ガフンダルがその言葉を受けて話し出した。
「さよう、あのデラスカバリスカ山脈の地下大洞窟と同様に、我らより先にこの世界に住んでいた、高度な科学力を持つ先住民族の手によるものだ」
「モジラ山の迷宮の中には、我々の想像もつかない仕組みで動くからくりがいくつもあって、この牢屋もそのひとつなのだ。ほれ、この格子の横の岩面に金属でできた板のようなものがあるだろう」
アパッチの言に従って、真紅が格子の横の岩盤を調べていると、なにやらひんやりつるつるした板状のものを見つけた。「あったわよ」
「ではそれを軽くポンポンと叩いてみてくれ」
「わかった」そういって真紅が板をペシペシペシと3回ほど叩くと、板がボォーっと鈍い光を放ち、真ん中から二つに分かれてすっと開いた。
「あれ?なんか変な棒があるよ」板が開いた後には1ノルヤーン(1メートル)四方の窪みがあり、棒が3本立っている。そして左端の棒に大きさの違う5枚の円盤が円錐状にはまっていた。「なんだろこれ?輪投げあそびかな?」真紅は円盤のひとつを手にとり、ためつすがめつしている。
「その3本の棒と5枚の円盤がこの牢をあける鍵になっているのだよお嬢さん。左端にある5枚の円盤をそっくりそのまま全て真ん中の棒に移すことができれば、この牢の格子が外れるのだ」
「なんだ、簡単じゃん。そんなのすぐにできるわ」真紅は5枚の円盤をよいしょと重ねて真ん中の棒へ移そうとする。
「こらこら。ルールに従って移さないと、2度とこの格子が開かなくなってしまうわ。いきなり行動する前に人の話をよく聞け!」アパッチは大慌てで真紅を制止した。
「円盤を移動させるに当たっては3つのルールがある。
1) 一回に1枚だけしか動かしてはいけない。
2) 棒以外の場所においてはいけない。
3) 小さい円盤の上に大きい円盤を重ねてはいけない。
この3つのルールに従って、3本の棒をうまく使い、見事真ん中の棒に円盤を移すわけだよ。もしルール違反をしでかすと、2度と格子が開かないのだ。できるか?お嬢さん」
アパッチの説明を聞いて、真紅は無言でパイソンに円盤を渡した。きょとんとして真紅の顔と、手に持たされた円盤を交互に見ている。
「なんだ。やはりお嬢さん達には無理か」心なしかアパッチの声に元気がなくなった。
「わははは。このふたりは気は優しくて力持ちなのだが、こういう問題についてはからきしでな。しかし落胆する必要はないぞアパッチ。我々には、こういうときのために知恵を貸してくれる優秀なブレーンがおるのじゃよ」
「なんでこう、毎回毎回こんな難しい問題が発生するわけ?なんで力と技で解決できる問題が発生しないの?ねえ?こんなの、どんどんパパがいい気になるだけじゃないのさ!」真紅は完全にキレてしまっている。
「私は別にいい気になってはいないよ、ルビイ。ふはははははは」突然、VAIOに実装寺健一郎が降臨した。
「でぇたぁ!」
「人をばけもののようにいうのではない。仕方がないじゃないかルビイ、時代が私を必要としているのだから」
「…なにいってんだか」
「さて、この牢屋の鍵であるパズルは、有名な『ハノイの塔』というものでな。パズル自体も有名だが、その解法も有名なのだ。円盤の数が何枚になろうが、同じ手順の繰り返しで必ず解くことができる。何手でクリアできるを計算する式もあるぞ」
クリア手数 = 2^n-1 (nは円盤の数)
「円盤の数が5枚であれば、31手でクリアできるということになるわけだ。では画面を見ていただこうかな」
「今回の問題は円盤の枚数が5枚だが、一応色々と遊べるように4枚から8枚の間でフレキシブルに枚数を変更することができるぞ。また、このプログラムは完全自動で実行されるので、処理速度を遅い、普通、速いのなかから選ぶことができる。では今回は5枚とし、速度は普通にしてみよう。真紅、開始ボタンを押してみてくれ」
「あら!3本の棒と円盤が出てきたわ」
「よし、では解答ボタンを押してみてくれたまえ」
「わ。円盤が勝手に動き始めた!ねえパパ、本当にちゃんと仕事してるの?ワタシたちのために?もしかして、Rubyのプログラムを作るために、長期休養かなんかしてない?」真紅が訝しげにたずねた。
「ぎく。け、けっしてそのようなことはないぞ!」
「ふーん。どんどん手が込んできてるからさぁ」
「そんなことより、この手順通りに円盤を動かして、早くアパッチ殿をお助けするのだ。じゃ、私は用事を思い出したので、この辺で失礼するから。ああ忙しい忙しい」そういって、健一郎の気配がフッとVAIOから消えてなくなった。
かくして、コモン・ゲートウェイ一家の先代首領にして、天下の義侠人アパッチは、真紅たちの手によってモジラ山の地下牢獄より救い出されたのであった。
最終更新:2009年03月03日 12:13