牢獄の鍵となっていたハノイの塔を攻略した瞬間、鉄格子が静かな音を立てて壁の上部に吸い込まれていくと同時に、両手両足を戒めていた鉄鎖もバキッと音を立ててはじけるように外れ、アパッチは完全に自由の身となった。

彼は震える足で立ち上がり、真紅たちの方へ近寄ってこようとしたが、相当に体力を消耗しているのか、二、三歩歩いたところで、どぉっとばかりに横転する。

「アパッチよ。無理をするでない!」ガフンダルが慌ててアパッチの側に駆け寄り、彼を抱き起こす。アパッチはガフンダルに何かボソボソと話しかけた。

「な、なんと。ハラが減ったと申すのか?」

「なにしろ、7ノル(1週間)程度なにも食していないからな。この牢獄の壁に染み出してくる地下水を舐めて生きながらえてきたのよ」

<ひゃぁー。ワタシなんて、一週間もゴハンを食べなきゃ絶対死んでるわ。ヤッパすごいんだ。ノルゴリズムの有名人って…>

「なるほど。7ノルのう。ということは、副首領のトムキャット、いやさその正体はダークマージめがおぬしに反旗を翻したのがちょうどその頃というわけか。7ノル前といえば、ちょうどこのルビイがこのノルゴリズムにやってきた頃じゃ。そう考えると帳尻が合うわい」

「誤解のないように言っとくけど、ワタシは『ノルゴリズムにやってきた』んじゃなくて、『拉致された』んだからね!」真紅は、意味もなく細かいことにこだわっている。

「ガフンダルよ。俺の如き卑小な者にも時おりビャーネ神が啓示を下されることがあってな。今回のトムキャットの造反と、ルビイさんというのであったか。その娘さんと関係しているのはなんとなくわかるよ。だが、俺がこうして捕らえられたのには別の理由があるのさ」

「ほう。というと?」ガフンダルが興味津々でアパッチに尋ねた。

「…ここはほれ、場所が悪い。そのことについては、ここを無事脱出してからお話しよう」

「なるほど。確かにここは場所が悪い。ダークマージの気配があちこちでするでな。ではアパッチ、この迷宮を抜ける道案内をお願いしようか。と、その前に」ガフンダルはゆっくりと眼をつぶり、ブツブツと呪文を唱え始めた。呪文を唱える声は徐々に大きくなり、まるで怒鳴っているみたいになってきた。顔も真っ赤になって、血管が浮き出している。彼には珍しく汗をダラダラと流している。真紅やパイソン、そしてアパッチまでが固唾を飲んでガフンダルを見つめていた。

やがて、ガフンダルの頭上の空気が渦を巻き始め、その中心から何かの物体が姿を現してきた。

「どぉりゃぁぁぁぁぁぁー!」


ガフンダルが洞窟に響き渡るほどの大音声で叫ぶと、その物体がボサッと音を立てて地面に落ちた。その物体、それは、ガフンダルの使いこなされたカバンであった。

ガフンダルはその場に突っ伏して、ハアハアと肩で息をしている。

「ふぃー。ダークマージ、いやさゴメラドワルの結界はさすがに強力じゃ。自分のカバンひとつ手元に引き寄せるだけで、持てる全魔力を搾り出さねばならんとはな」ガフンダルは声も切れ切れにそう言った。

「ルビイ。申し訳ないがカバンをワシにくれぬか。ちょっと今ワシは動けぬのじゃ」

「は、ハイっ」真紅ははじかれたように返事をして、地面に落ちているカバンを拾い上げてガフンダルに手渡した。ガフンダルは、鞄の中をゴソゴソと探って、瓶に入った丸薬を取り出した。

「あ。それって『ハラフ・クルール丸』!」真紅は、ガフンダルの洞窟でその丸薬を見せてもらったことを思い出して叫んだ。独特のウ○コ色なので、忘れようとしても忘れられない。

「さよう。アパッチよ。この丸薬はあまり美味とはいえぬけれども、おぬしの空腹を押さえ、体力を回復してくれるであろう。ルビイよ。その瓶の蓋に二、三粒ほど丸薬を取り分け、アパッチ殿に渡してくれ」

「わかった」真紅はガフンダルに指示された通りしようと、瓶の蓋を撮った瞬間、心の底からの叫び声をあげた。

「く、くさぁぁぁぁぁぁーい!なにこれ?眼が、眼が……」



あまりの臭気に涙をぽろぽろこぼす真紅。

「た、たすけてパイソン!」真紅はパイソンに抱きつこうとするが、彼も顔をしかめて思わず体をかわしてしまう。

「ひ、ひどい…」

真紅は瓶から顔をそむけながら、なんとか丸薬を三つほど蓋に移してアパッチに手渡す。アパッチは既に鼻をつまんでいた。

「これはまた、えげつない臭いがするなあ。まあ今は臭いがどうの味がどうのと文句を言っているときでもあるまい」アパッチはそう言って、一気に丸薬を飲み込んだ。見る見るうちにアパッチの顔が紅潮していく。

「んんんんんんまずぅぅぅーい!」



そう叫んで、唾をペッペと吐き出すアパッチ。

「あ、そうじゃ。忘れておったわ。もしよければアパッチ殿にこの『ギャル絶叫、一流パティシエ・スイーツ味』の粉末を渡してやってくれ…」

「もう遅ぉーい!」


はからずも、アパッチと真紅が同時に絶叫した。

ハラフ・クルール丸のおかげで、とにもかくにも体力を取り戻したアパッチの案内で、迷宮を抜け出した真紅たちは、コモン・ゲートウェイ一家の本部へと続く地下通路の途上にいた。

「向うから光がこぼれているだろう。あそこが我々の本部だ」

「よぉーし。今に見てなさいよ!」真紅はそう言って、ズチャっとホレハレコンの短剣を抜いて出口に向かって駆け出した。

「こりゃ。待てというに!」ガフンダルのコウモリ傘の柄が、ジャストタイミングで真紅の襟に引っかかる。

すってーん。



たまらず後ろ向けに倒れてしりもちをついてしまう真紅。

「やみくもに本部に突っ込んでどうしようというのじゃ?ルビイ。最近少しは成長して落ち着きが出てきたと思っていたが、最初の頃からなんも変わっておらんなお前は」

「しょうがないでしょ。人間一週間や十日そこらで、爆発的に成長するわけないじゃない!」ものすごい剣幕でガフンダルにくってかかる真紅。

「な、なにを逆ギレしておるのだ貴様!」ガフンダルは珍しく感情的になっていた。魔法が思うように使えないというのが相当なストレスとなっているようだ。

「まあまあ、こんなところで仲間同士諍いあっていても仕方あるまい。ガフンダル殿の魔道が封じられておるから、我々には扉の向こうの様子を知る術がないからな。このお嬢ちゃんが選択した『とりあえず扉を蹴破って殴りこみ、後は相手の出方を見る』方法しかなさそうだぞ」アパッチが仲裁に入った。

「もしかすると俺達とアパッチ殿が地下迷宮を脱出したことが、既にダークマージの知るところとなっているかもしれないけれど、逆に、絶対脱出不可能と高をくくってのんびり鼻毛でも抜いている可能性もある」パイソンが冷静に自分の意見を述べた。

「わかった。では『とりあえず殴りこんで後は野となれ』作戦で行こう…って、こりゃぁ」

ガフンダルの言葉が全て終わらないうちに、既に真紅とパイソンは脱兎の如く出口に駆け寄り、息の合ったツープラトンキックを扉にぶちかましていたのである。

どっこぉーん。バサバサバサっ



ものすごい音がしたかと思うと、扉の向うで「うぎゃぁあ」という叫び声が聞こえた。あたり一面もうもうと埃が巻き上がっている。

どうやら、真紅とパイソン渾身の蹴りは、扉を開くだけでは飽き足らず、隠し扉の前においてあった大きな書架まで倒してしまったようだ。

「また、これは凄まじいのう。よし。この技を『必殺バイオレンス夫婦(めおと)キック』と名付けよう」ガフンダルは勝手に二人の蹴りに名前を付けたりしている。

「あら。こいつトムキャット、じゃなくてダークマージじゃない?」真紅が指差した先には、不細工にもダークマージが、倒れた書架の下敷きになって潰れていた。

「ははん。私たちが絶対に地下迷宮を脱出できないと思って、安心して椅子にふんぞり返って鼻毛でも抜いてたのね。やっぱゴメラドワルの手下ってバカだわ」

「ぐぐぅー」ダークマージは、怒りと羞恥で真っ赤になった顔で呻いている。

「安心するのは早いぞルビイ。ダークマージの力を侮ってはならん!」ガフンダルが叫んだとたん、書架が中にふわっと浮かび上がり、高速で回転しだした。それと同時に部屋中に散らばっている本が次々と中に浮かび上がり、渦のように回転し始めたのである。真紅たちはたまらず床に伏せる。

ものすごい勢いで体にぶつかってくる本の衝撃に耐えかねて、真紅の怒りがついに爆発した。

「もういい加減にしときなさいよこのバカ!。えーい。輝けよ!ホリハレコーン!」


真紅が叫ぶと、正視できないほどのまばゆい光が短剣から放出された。

「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁー!」



ダークマージが叫び声をあげて、両手で眼を覆う。魔力の行使が一旦途切れてしまったのか、天井近くまで持ち上げられていた書架が支える力を失い、ダークマージに向けて落下してきた。

「マズい!」そう叫んで、アパッチはダークマージの足に飛びつき、場所を移動させようとする。

一瞬に反応したパイソンも片方の足に飛びつき、思いっきりダークマージの体を引っ張った。ダークマージの体が床を滑るように移動した後に、轟音を立てて書架が落下してきた。後0.5ノルゴルンゴ(1秒)遅ければ、トムキャットの体は書架に押しつぶされていたであろう。まさに間一髪だった。

アパッチとパイソンに両足を捉まれて、仰臥した姿になってもがいているダークマージの額に、真紅がゆっくりとホレハレコンの短剣の刃をあてがう。ジュッっという音がして、トムキャットの体から黒い湯気のようなものがもわもわと浮き出してきた。それは徐々にひとつの塊となって、弾丸のように窓を突き破り、外へ飛び出したのである。

「ふん。ゴメラドワルの手下って、揃いも揃って逃げ足だけは速いわ。でもまあ、アイツもゴメラドワルに厳しく折檻されるわね」真紅はそう吐き捨てた。

本部の扉の外側では、騒ぎを聞きつけたのか、盗賊たちが集まってきてなにやらザワザワとしだした。アパッチはおもむろに扉まで歩みより、取っ手に手をかけて扉をバーンと開いた。

「おかしら!おかしらだぁー!おかしらがお戻りになられたぞぉー!」



集まった盗賊たちは一人残らずその場にひれ伏した。

「ふむ。やはり大した統率力よ。首領というのはああでなくてはのう。よく見ておけよパイソン」

「別に俺は海賊の首領になるつもりはない」パイソンが慌てて否定する。

「まあ、お前さんはまだ若いからのう。そう早く結論を出してしまうこともあるまい。よく考えるのだぞパイソン。ろくでもない首領を頭にいただくと、手下達が不幸になってしまうぞ。トムキャット。いやさダークマージに率いられたこのコモン・ゲートウェイ一家の姿を見ればお前さんにもそれがわかるじゃろう。クラックの後妻、ナンナを事実上の首領にいただいたお前達の部下の行く末についてよく考えてみるがよい」そういってガフンダルは小さくウインクした。

「……」思わず下を向いて黙り込んでしまうパイソン。

真紅は、パイソンとガフンダルのやり取りを心配そうに聞いている。

「さて、パイソン殿の進路については後でよく考えていただくとして、ひとまずは礼を言うぞ。ガフンダル殿、そして、ルビイ殿に、パイソン殿」アパッチはそう言って深々と頭を下げた。

「そのような他人行儀なマネはよすがよいぞアパッチ。貴殿のこの度の難儀、元はといえば我々のせいでもあるわけじゃからな。そうじゃ。時に、貴殿がこのようなめに遭われたのには、別の理由があると申しておったな」

「その通り。もう今ならお話してもよかろう。ゴメラドワルめが俺のところにダークマージを差し向けた一番の理由は、ある者達の居場所を聞き出すためだよ」アパッチがゆっくりと話し始めた。

「俺は、そうさなあ。10ノル(10日)程前にビャーネ神の啓示を受け、西方より来た二人の兄妹が身を隠す手助けをしたのさ」

「もしや!その兄妹というのは?もしそうであれば、何たるビャーネ神のお導きよ!」ガフンダルが若干興奮気味に叫んだ。

「いかにもその兄妹とは、竜の都、浮遊都市ドラゴナールの皇子と皇女さ」


竜の都(12)へ続く
最終更新:2009年03月09日 23:21