店に中に一歩入っただけで、真紅は咳き込みそうになった。

煙草の紫煙で、店の中にうっすら靄がかかっているような状態になっていたからである。それに煙草のあの独特のにおいが、店の中の空気に、壁に、床に、ソファーに染み付いているようであった。

<こりゃあひどいわね。パパが昔ヘビースモーカーだった頃の部屋の中みたい……。まあそれ以上ね。ファブリーズ3ガロンほどふりまかなきゃ>

真紅の父親は現在でこそ禁煙しているが、昔は1日3箱はきっちり灰にしていて、真紅は、小さい頃父親の部屋に入ったときのことを思い出していた。

店の中は、男たちの下卑た笑い声と、時おり響き渡る女性の嬌声、そして、ステージ上にいるバンドの、うるさいだけの下品な演奏が入り混じって、まさに混沌とした状態になっている。

店の通路をズンズンと進むガフンダルの後にくっついて、おっかなびっくり歩く真紅に、男たちの好色そうな視線が集中する。真紅を見ながら連れ同士ボソボソとなにやら言葉を交わして、ゲヘへと下品に笑いあう客もいて、もし許されるのならばその席に踊りこんで、バーコードハゲ頭をパンパンパンと景気よくはたいてやりたいと思う真紅であった。

店の女たちの視線はというと、完全に真紅の後ろを歩くパイソンに集中してしまっている。中には、あからさまにパイソンに秋波を送る女もいた。パイソン自身は一切気にとめていないようであったが。

<やっぱ入るんじゃなかったわ。めちゃ浮いてるじゃん、ワタシたちって…!え?>

「ぎゃ」

真紅は、突然お尻に違和感を感じた。どうやら通路の近くに座っていた酔客が、真紅のお尻を撫でたようだ。酔客はだらしなく歪んだ顔で「ゲハハ、ねえちゃん、こっち座んなよぉ」などと言いながら下品に笑っている。

「な、なにすんのよぉ!」


と、真紅が叫び終わる前に、男は蛙のように床に叩きつけられていた。パイソンが電撃的に男の首根っこを引っ掴み、床に叩きつけたのだ。一撃で気絶してしまったようで、ピクリとも動かない。

「なにしやがるんだ!」

床に叩きつけられた男の連れ二人が、ものすごい剣幕でパイソンに掴みかかる。

「それはこっちのセリフだ!馬鹿野郎」


パイソンの頬は紅潮し、完全に目の色が変わってしまっている。怒り心頭に達しているらしい。

「ゲボォ」

男の一人が、パイソンの蹴りを腹部にまともに受けて、2メートルほどすっ飛び、他の客の席へ頭から突っ込んでいった。女たちはなぜか知らないが、きゃあきゃあと喜んでいる。こういった暴力沙汰にはもう慣れっこになっているのかもしれない。残ったひとりは、ソファに座り込み短刀を抜いて構えている。ブルブルと震えてはいたが。

<やばいよこれ。この三人、パイソンに殺されちゃうわ。ま、いい気味だけど。でも、女の人のお尻をふざけて触っただけで殺されちゃあ、たまったもんじゃないわね>

「えーと、パイソン。あの、お尻触られたぐらいじゃ減らないから。あの…」

真紅の説得は全く実らず、パイソンは短刀を構えた男に近づいて、上から威圧的に睨みつける。

「な、なんだ?やろうってのか!?」改めて確認しなくても、パイソンはハナからやるつもりなのであって、既に二人を叩きのめしているわけであるから、非常に間の抜けた質問といえる。

騒ぎを聞きつけて、屈強な男たち三人が真紅たちのところへやってきた。ひとりはパイソンと同じぐらいの背格好であったが、残りの二人は2メートル以上ある。二人の巨人は、真っ黒なスーツに血の色のネクタイ、スキンヘッドにサングラスといういでたちで、間違っても夜の町で出くわしたくないタイプである。

「困りますよお客さま。仲良く愉しんでいただかなくては」パイソンと同じぐらいの背丈の男が冷静な口調でいった。彼だけは派手なストライプ模様のスーツを着て、胸ポケットには金色のハンカチなどを挿している。サングラスをかけているのは巨人たちと同様だが、彼のものだけデザインが違ってかなり高額そうであった。髪の毛は、一本の乱れなく整髪料で撫でつけられている。

「おい、このお客様たちを店の外へお連れしなさい」彼は、蛙のように潰れている男たちのグループ三人を顎で指して、巨人たちに指図する。

巨人のひとりは、蛙男と、よその席に頭から突っ込んで気絶している男をひょいと肩に担いで店の外へ出て行った。もうひとりはソファに陣取って担当を構えている男の手を拳の上から優しく掴んで、ニヤッと笑ったかと思うと、体ごと宙へ吊り上げ、腹部に軽く当身を食らわせた。一瞬で気絶した男を肩に担いでゆっくりと店を出て行く。

それと同時に、固唾を飲んで成り行きを見ていたほかの客たちや店の女たちは、真紅たちへの興味を失い、またぞろバカ騒ぎを始めだした。

「お客さま。大変不愉快な思いをさせてしまいまして、まことに申し訳ありませんでした。入り口のところでお待ちいただければ、このようなことがないよう、我々が席までご案内させていただきましたのに」残った男は慇懃な口調でそういった。

「こちらこそ、騒ぎを起こしてしまって申し訳ありませんでしたなあ」ガフンダルが、場の状況にあまりそぐわないのんびりとした口調で謝罪した。

「いいえ。私はあちらの方で一部始終を見ておりましたので。元はといえば、先ほどの三人組が、酔いに任せてそちらのお嬢様のその臀部を撫で、不愉快な思いをされたのがそもそもの原因でございますから。お客さま」男の口調がさらに慇懃になる。しかし、表情と云うものがないので、何を考えているのやらさっぱりわからない。

「おやおや。先ほどから我々のことを『お客さま』と呼ばれているようじゃが、残念ながら我々は『お客さま』ではございませんでな。ここへはちと野暮用があってまかりこしましたのじゃ」

ガフンダルは、男の調子に合わせて、無表情かつ慇懃に言葉を返す。この辺の茶目っ気がガフンダルのよいところであるとともに、ノルゴリズム屈指の大魔道師なのに、いまいち胡散臭さを感じさせるところだと真紅は考えていた。

「ほう。どのようなご用件でございましょうか?」

「ふーむ。そうさな。まずここの支配人にお会いしたいのじゃが…」

「私でございます。ご挨拶が遅れました。私はこのキャバレーの支配人、ジャカルタと申します。以後お見知りおきを」男の慇懃さはいや増したが、無表情さは相変わらずだ。

「おお、やはりのう。そうじゃろうなあ、その貫禄ですからなあ。ワシなどは絶対貴方が支配人であろうと踏んでおりましたぞ。ふぉふぉふぉ」

ガフンダルが持ち上げると、男の鼻の横がプクッと微妙に膨らんだ。おそらくまんざらでもないのだろう。

<なんか劇を見てるみたい。もう、早くアパッチの紹介状を出して、竜の兄妹にあわせてもらえばいいのにさ>真紅は実際のところ、イライラとしてきた。

「では、支配人の私めがご用件をお伺いしましょうか」

「コホン。では、我々の用件を申し上げましょう。ここのオーナーであられる、タービン殿にお引き合わせ願えますかな」

ガフンダルがそう言った途端、ジャカルタの表情が硬くなった。始めてみる表情の変化である。

「申し訳ありませんが、社長は極めて多忙でございまして、約束のない方や、ご紹介のない方とはお会いになられません」

<あら。いけないんだ。借りに自分の上司でも、ヤクザの親分でも、こういうとき敬語使っちゃだめなのよぉーだ>

真紅は、実につまらないところにツッコミを入れている。なぜなら、いい加減退屈してきたからである。

ガフンダルは、ゴソゴソとコートのポケットに手を入れ、アパッチからの紹介状をつかみ出し、ジャカルタの眼前にかざす。紹介状を見て、みるみるジャカルタの顔色が変わった。

ジャカルタは「しょ、少々お待ちください」と言い残して、大慌てで店の奥に駆け込んでいった。後ろから見ると髪の毛が若干乱れている。

「もう。入り口のところでその紹介状を見せてりゃよかったのよ。そしたらこんな大騒ぎにならなかったのにさぁ。ワタシもケツ撫でられないで済んだしさぁ。でも、ワタシ嬉しかったのよ。ありがとー。パイソォーン」そういって、真紅はパイソンに抱きついた。パイソンは、店の薄暗い照明でもわかるほど、真っ赤に茹で上がる。

暫くすると、すました顔でジャカルタが戻ってきた。先ほど乱れていた髪の毛もすっかり綺麗に撫でつけられている。

「社長がお会いになります。私についてきてください」無表情さもすっかり元通りだ。

ジャカルタの後に着いて、店の奥へと入り込んでいく真紅たち。店の奥には、指名のかかっていない女たちの待合室、バンドマンやダンサー達の控え室などがあり、結構ザワザワとしていた。照明は店内より明るいくらいである。ジャカルタは黙々とその中を歩いていく。時おり店の従業員とすれ違い、鷹揚に挨拶を受けたりしている。

階段をおおよそ3階分ほど昇ったと思われる頃には、すっかり人気がなくなってきた。

「あちらで社長がお待ちです」ジャカルタは通路のどん詰まりにあるドアを指差した。ドアの前には、先ほどパイソンにボコボコにされた客を外に『捨てに』いった二人の巨人が立っている。

ジャカルタと真紅たちがドアの前に立つと、巨人の一人が恭しくドアを開ける。

「さあ、お入りください。私はここで失礼いたしますが」

ジャカルタに促されて真紅たちが部屋に入ると、バタンと扉が閉じられた。

部屋の中には、大きな木製の机がしつらえており、座り心地のよさそうな椅子に、見るからに好々爺然とした老人が座って、ニコニコと真紅たちに笑顔を向けていた。

そして、その両横には、パイソンより身長が高いと思われる、ひょろっとした若い男と、真紅ほどの身長で、意志の強そうなまなざしが印象的な、若い女が立っていたのである。


竜の都(14)へ続く
最終更新:2009年03月15日 23:08