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みんなの新武将/五代十国時代(十国) - (2021/11/30 (火) 00:17:23) の1つ前との変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
*五代十国時代(907~960)
唐の滅亡から宋の建国までの分裂期。
中原には主に開封を国都とした五王朝が興亡し、その他の地でも十数の王国が乱立した。
五代とは後梁・後唐・後晋・後漢・後周を指す。
また、十国とは呉・南唐・呉越・閩・南漢・前蜀・荊南・楚・後蜀・北漢を指し、他にも劉守光の燕・李茂貞の岐などがあった。
唐を滅ぼした朱全忠が興した後梁は、門閥主義・宦官重用を否定して経済都市である開封に都したが、
山西に拠る沙陀族を率いる李氏との抗争で衰え、923年に後唐の李存勗に滅ぼされた。
唐制回帰を唱えて洛陽に都した後唐は、軍部に擁されて開封に遷都した李嗣源の代に最盛期を迎えたが、
契丹の後援を得た石敬瑭によって936年に滅ぼされ、石氏は代償に燕雲十六州の割譲、契丹への臣属、重い歳貢などを課された。
この後晋も契丹と断交したことで946年に滅ぼされ、契丹追撃を指揮した劉知遠が新たに後漢を建てたが、5年足らずで郭威に簒奪された。
次いだ後周は五代最高の名君と称される世宗の時代に、中央集権などの諸制度を整えるとともに燕雲十六州の一部の回復に成功したが、
960年に禁軍を率いる趙匡胤に簒奪された。
この趙匡胤の許で十国政権の多くも平定され、中国は宋朝によって統一された。
&br;五代は唐末の藩鎮体制の延長線上にあり、諸王朝・諸王国は国内に大小の藩鎮を抱え、
中央政府はいわば最有力の藩鎮に過ぎず、そのため特に中原の五代王朝では短命な政権が相い次いだ。
黄河流域以外に諸国が割拠するという前代未聞の状況は、各地域の経済力が各々1つのブロックを形成できるほど発展していたことを示し、
殊に南唐は淮塩と長江デルタの農産力を背景に中原を凌ぐ経済力を回復させ、南唐文化と呼ばれる重要な過渡期文化を開花させた。
十国
四川
前蜀 907~925
後蜀 934~965
江南
南呉 902~937
南唐 937~975
湖北
荊南 907~963
湖南
馬楚 907~951
杭州
呉越 907~978
泉州
閩 909~945
広州
南漢 909~971
太原(并州)
北漢 951~979
その他
幽州
桀燕 911~913
陝西
岐 901~924
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#CONTENTS
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*南呉(楊呉)
**楊行密(化源)
|統率|武力|知力|政治|魅力|>|>|>|>|個性|>|>|>|>|戦法|政策|主義|
|85|80|76|74|79|||||||||||||
【ヨウコウミツ(カゲン)】
呉王。初名は楊行愍。
唐末期の募兵に応じ盧州の牙将となる。
その後、盧州刺史に任命され淮南節度使の高駢に帰属する。
畢師鐸と秦彦が高駢を殺害すると、これを討って揚州に入り、淮南留後を自称した。
この際、揚州の城内では大飢饉に陥っていたが、軍の兵糧を開放し民を救済している。
秦宗権・孫儒と長江・淮河の一帯を争って勢力圏に置き、淮南節度使に任じられる。
朱全忠の南進では、朱瑾を派遣して食い止め、南北の分裂を決定的にする。
唐より呉王に封じられ、南呉の実質的な建国者となった。
末王楊溥の代に太祖武帝が追贈されている。
**朱瑾
|統率|武力|知力|政治|魅力|>|>|>|>|個性|>|>|>|>|戦法|政策|主義|
|81|90|75|19|26|||||||||||||
【シュキン】
唐末の群雄。後に南呉の武将となる。
性格は残忍だったが、武勇絶倫で槊の扱いに長けていた。
また小勢力だった朱全忠が、秦宗権と対峙したときに援助を求められ、秦宗権を破る。
時溥が朱全忠に攻められると救援に向かうが、石佛山で大敗を喫する。
その後、従兄が朱全忠に殺害されたため、楊行密に投じた。
朱全忠の南進では、清口に駐屯した龐師古を水攻めにして敗死させ、葛従周も敗走させた。
楊行密の死後、権勢を誇った徐温の息子徐知訓から屈辱を受けたため殺害。
呉王楊隆演は不問としたが、怒った徐温が兵を発したため自刎した。
**李神福
|統率|武力|知力|政治|魅力|>|>|>|>|個性|>|>|>|>|戦法|政策|主義|
|86|73|89|74|72|||||||||||||
【リシンフク】
南呉の武将。
楊行密に仕えて数々の献策を行い、寡兵ながら偽兵や偽撤退を駆使して賊平定に尽力する。
盧州と舒州が朱全忠に降ると、討伐の任に当たり二州を回復した。
顧全武に楊行密麾下の武将が敗れ続けると、戦局を挽回するために出陣。
巧妙な撤退からの伏兵による挟撃で呉越軍を大破し、顧全武を捕縛した。
鄂州の杜洪討伐の際には救援に来た成汭率いる十万の軍を殲滅する。
田頵の乱では家族を人質に取られるが、自ら討伐の任に当たり田頵を破った。
その後、再び鄂州討伐に赴き攻囲するが、病に倒れ陣没した。
*呉越
**顧全武
|統率|武力|知力|政治|魅力|>|>|>|>|個性|>|>|>|>|戦法|政策|主義|
|89|87|68|42|80|||||||||||||
【コゼンブ】
呉越の武将。出家しており「顧和尚」の異名を持つ。
銭鏐に仕え裨将として近侍し、武功を重ねて軍権を委ねられる。
董昌が越州で皇帝を僭称すると討伐の指揮を執り、
越州を包囲し帝位を去らせるが、董昌が節度使を称したため滅ぼした。
杜洪が楊行密に反し銭鏐に救援を求めると、援軍として淮南に入り、
田頵を敗走させて十八の砦を抜き、周本を破り、蘇州を陥落させて秦裴を捕縛する。
しかし、李神福に大敗を喫して捕縛され、銭鏐が痛哭することとなった。
その後、秦裴との交換の形で呉越に還され、軍務に復帰した。
**銭弘佐(玄佑)
|統率|武力|知力|政治|魅力|>|>|>|>|個性|>|>|>|>|戦法|政策|主義|
|79|80|76|79|82|||||||||||||
【センコウサ(ゲンユウ)】
呉越の第三代の王。
十四歳で父の跡を継ぎ王位に就く。
歳若く温厚な性格だったため、章徳安ら大臣が専横しようとする。
しかし、果断な対応をして章徳安らを排除し、支配体制を固めた。
李仁達が南唐に反抗し討伐を受けると、救援を要請される。
諸臣は南唐の軍事力に叶わないと諌めるが出兵し、南唐軍を打ち破って福州を占領した。
治世では国境防衛に重点を置き、減税を行うなど民の安寧に務めた。
しかし、在位七年目に二十歳の若さで亡くなった。
読書と詩作を好んでいたという。
*南唐
**李弁(正倫)
|統率|武力|知力|政治|魅力|>|>|>|>|個性|>|>|>|>|戦法|政策|主義|
|85|74|78|88|78|||||||||||||
【リベン(セイリン)】
南唐の初代皇帝烈祖。元の名を徐知誥、徐誥。
孤児だった頃に南呉の楊行密に救われ、徐温の養子となる。
徐温の元で軍事・内政両面で能力を発揮し、徐温の死後に南呉の実権を握り斉王となる。
睿帝より禅譲され、斉を建国。翌年国号を唐(南唐)に改め、名も李昪とした。
開墾・治水を行って内政を充実させ、呉越と和解して戦争を控え、民を休息させた。
隣国の呉越の宮廷が大火を起こした際には、侵攻の好機とする進言を退け、見舞金を送るほどであった。
晩年は不老不死を求め丹薬中毒となり、背中の腫物で病が悪化し病没した。
**劉仁贍(守恵)
|統率|武力|知力|政治|魅力|>|>|>|>|個性|>|>|>|>|戦法|政策|主義|
|87|64|84|73|86|||||||||||||
【リュウジンセン(シュケイ)】
南唐の武将。
儒学に通じ、兵書を好み声望を得ており、士を重んじて法を厳粛に守った。
後周の世宗柴栄が南唐へ親征すると、寿春防衛の任に当たる。
竹龍と呼ばれる闘艦の投石や水攻めに耐え、寿春城を防衛し続けた。
援軍が紫金山で敗れ、劉仁贍も陣中で病に倒れると、
息子の劉崇諌が投降しようとしたため息子を斬り、将兵は城を死守することを誓った。
その後も将兵は数ヶ月城を堅守するが、劉仁贍が危篤となったため副将が寿春を開城して降伏する。
世宗が忠義の名臣と称え要職を与えようとするが、すでに息を引き取っていた。
*南漢
**劉厳
【リュウゲン】
南漢高祖。925年冬に劉龔(キョウ)と改名。
聡明な人物として知られ67年の栄華を誇った基礎を築くも、
多様な酷刑を採用し秩序安定を謀った苛烈な凶暴王。
又、殺人を見る度に歓喜を耐えられず、無意識に涎を垂らし呻き声を上げて愉しんだ。
**劉晟
【リュウセイ】
高祖の4男、第3代皇帝。2代目に即位した兄が典型的な放蕩息子で政務を顧なかった為に、芸人を用いて殺害。
即位後は抹殺の負い目から厳父以上の酷刑で人民を畏怖させようとし、強い猜疑心に身内から功臣まで一族を滅していった。
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