#110/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 1/30 21:59 ( 40)
オウム真理教 ラージャ・ヨーガ ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より
オウム真理教ネットにおいて
最終解脱に至る七つのステージ
次に、オウム真理教で定義されている、最終解脱に至る七つのステージにつ
いて説明します。
◎ステージ1――ラージャ・ヨーガ
意志のヨーガともいう。煩悩の否定によって生じる集中のエネルギーにより、
外界からの刺激や影響を一切受けないプラティヤハラという制感の状態にある
解脱の一ステップ。このラージャ・ヨーガの背景にあるのは意志です。強靭な
意志の持ち主でなければなりません。
このステージでは、三グナ(この世を構成する三つの根元的なエネルギー)
を霊視することができます。
ラージャとは王のこと。ハタ・ヨーガから見ればラージャ・ヨーガは王のヨ
ーガといえます。
オウム真理教ではこのステージに達した人にはスワミ(在家の場合はガッパ)
という称号とホーリーネーム(祝福された修行者名)が与えられる。
次にこの人が功徳というエネルギーを十分に持っていたら、クンダリニー・
ヨーガのプロセスに入って行きます。
参考文献 真理の芽
#111/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 1/31 9:54 (145)
オウム真理教 クンダリニー・ヨーガ 1 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた
麻原彰晃尊師より オウム真理教ネットにおいて
◎ステージ2――クンダリニー・ヨーガ
エネルギーのヨーガ。尾てい骨に眠るクンダリニー・エネルギーの覚醒・上
昇により煩悩を昇華し、安定した心の状態を保っている解脱の一種。エネルギ
ー・ロスがない限り、煩悩に左右されない状態にある。オウムでは、この状態
に達した修行者を師と呼んでいます。
このステージの人がクンダリニーを完全にコントロールし、下降のエネルギ
ーがなくなり、すべて上昇のエネルギーになったならば、下部から上昇したエ
ネルギーが大脳を振動させ、ふつうの人と違った大脳の働きをかもしだします。
オウムでは以前、クンダリニー開発前後でどれだけ知能的に変化が出るかを
数値的に確かめるため、学生信徒によるIQテスト(A.W.Munxert,
J.E.Klausnizerのもの)を行いました。その結果、21才男性
信徒は101から141、24才男性信徒は112から146と、驚異的にI
Qが上昇しているのが確かめられました。また、尊師の長女であるシャクティ
ー・ドゥルガー(13才・クンダリニー・ヨーガの成就者)の知能指数はなん
と175という超天才の数値を示しています。この明晰な頭脳が、次のステッ
プの重要な条件の一つになります。このクンダリニー・ヨーガの成就において
は、六神通の基礎がつきます。どの神通力が得意かは師によって違ってきます。
オウム真理教では、このステージに達すると、「師」の称号が与えられます。
ここで、マハー・ケイマ正大師のクンダリニー・ヨーガ成就時の手記をご紹
介します。
「そのとき、私は光だった!」
ケイマ大師 クンダリニー・ヨーガの成就体験談
「そのとき、私は光だった!」
--------- ケイマ大師 クンダリニー・ヨーガの成就 ---------
マハー・ケイマ正大師……本名 石井久子 三十歳。一九八七年六月、クンダリ
ニー・ヨーガで成就。現在はクンダリニー・ヨーガを完
成し、マハー・ムドラー、大乗のヨーガの成就も果たさ
れている。
(オウムで修行を始めるまでの経緯については『マハー
ヤーナ』NO1を参照のこと。)
--手記初出 『マハーヤーナ・スートラ』
オウム真理教ネットより転載
《ケイマ大師--独房修行プログラム》
(六月十九日~二十三日まで。二十四日からはオウムの集中セミナーに参加し、
プログラムも随時変わる。)
午前 六時~十二時 ヴァヤヴィヤ・クンバカ・プラーナーヤーマ
午後十二時~ 四時 浄化法(サンカプラクサラーナ・クリヤ、ダウティ、
ネーティバスティ、ガージャ・カラニー)
食事(おもにこの時間に日誌)
四時~ 七時 ツァンダリー(プラーナーヤーマ)
七時~翌二時 ツァンダリー(瞑想)
午前 二時~ 六時 睡眠(実際には、ケイマ大師は覚醒状態が続き、平均
すると二、三 時間の睡眠しかとらなかった。)
▼解脱・死・狂気--残された道は三つ
◎六月十九日(金)
今、浄化法が終わったところ。修行に入る前より、約二・三キロ減っている。
昨日の夜より修行を開始したけれども、前日まで仕事でほとんど徹夜明けだっ
たため、ダウンしてしまった。まだ、ツァンダリーの瞑想も暗記していない。
早く覚えなければ。
今日からは、睡眠四時間。甘えていられない。頑張らなければ。今、解脱し
なければ、私は今生で解脱することは不可能だろう。あらゆる事象がそれを示
している。
解脱か、死か、気が狂うか、私に残された道は三つしかない。
朝六時起床。ヴァヤヴィヤに入る。いつも通りの方法でやっていると……し
ばらくすると、何回目だろうか、右耳で今まで聞いたことのない音が聞こえて
びっくりした。右耳の内側あたりだろうか、何かが回転するような音で、シュ
ルシュルシュル……といっている。と同時に、右側の空間で音がしはじめた。
ヒューとか、パチとかである。大きい音ではないが。
しかし、この音はすぐに消えてしまった。その後少しして、ヴァヤヴィヤの
レーチャカのクンバカのときに、身体が跳ねだした。今まで震動はあったのだ
が、今回のは明らかにダルドリー・シッディである。同時に身体が軽くなるよ
うな気がした。
ここで私は迷ってしまった。身体を跳ねたままにすると、クンバカの時間が
短くなり、快感が上昇しないような感じなのだ。光も強くない。それ以前の震
動のみのときは、プーラカに入ったとき、全身がしびれ、赤い光が広がり、上
昇したからである。飛ぶことはエネルギーのロスかな? と思い、Hさんにメ
モで先生に質問してもらった。回答は、
「何も気にするな。思い切ってやれ。」
とのこと。スーッと力が抜けた。うれしかった。
レーチャカのクンバカのとき、保息し続けることに恐怖が出てきた。苦しく
なるまでクンバカをし続けていたのに、途中で妥協してしまうのだ。
(いけない、こんなことでは。)
と思って気持ちをふるいたたせる。先生のお言葉の後は、少しずつこの恐怖が
ぬけていった。
レーチャカのクンバカのとき、ダルドリー・シッディを息の続く限り続けて
いると、プーラカのときも快感が戻ってきた。全身がしびれる。透明な明るい
赤(黄)につつまれている。しかし、クンバカが長続きしない。苦しくなる前
に、息が上がってきてジャーランダラ・バンダがとけてしまうのだ。というこ
とは、バンダが不正確だということになるだろう。そして吐き気がする。この
プラーナーヤーマが、息を吐き出すときに嘔吐するように息を吐かなければい
けない、というのがよくわかった。声を出して息を吐くと、吐き気がおさまる
のだ。悪い気を体外に出しているのだろうか。
足の痛みはどうしようもない。蓮華座が続かないのだ。体が跳ねて前に出る
ので、先生からいただいたジュウタンをたてに敷いた。
ヴァヤヴィヤのあいまに、たびたびアストラル界に入ってしまう。アストラ
ル界で生活、行動しているのだ。なにか、寝ているんだか、起きているんだか、
わからないような、中間の状態だ。フーッと自然に気がついて、
(ヴァヤヴィヤをやらなくては。)
と思い、続ける。
時間の感覚がわからない。いつもは時間の中にいるのだが、今はどのくらい
時がたっているのか全く不明である。時とは相対的なものである、と認識した
ような感じだ。
ツァンダリーのプラーナーヤーマ、三時間。これはいつもやっているせいか
割とましであったが(他の行法より)、プラーナーヤーマの途中でも意識の固
定がたびたびとけてしまい、アストラル界へと飛んでいってしまう。すぐに戻
り、再びプラーナーヤーマをはじめる。そのくり返しだ。やはり座法が安定し
ない。
#112/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 2/ 1 4: 6 (195)
オウム真理教>信州大学講演1 J.HOSHI
★内容
「若者の宗教の必要性」 1991年11月1日
◎満足は欲求のコントロールから
今日はまず、「なぜ今若者は宗教なのか」ということから、修行する場合のメ
リット、そして人がどのような形で神々に至るかという話について、皆さんにお
話をしたいと思います。で、この二つの命題、つまり「若者の宗教の必要性」、
そしてその「宗教の目的」というものは、これはおそらく皆さんも、絶対にそれ
を聴くことによって、不利益になる命題ではないだろうと考えています。
まず、わたしたち日本人は、外国に比べると大変物質的に豊かな生活をしてい
る。確かに、この物質的な豊かさというものはわたしたちに外的欲求における幸
福というものを与える。もちろん、この外的欲求を満たすということは、その瞬
間瞬間において幸福感というものを満足させている----また、そういう感じはす
るわけですけども、実際わたしがいろいろと研究し、そして、これは京大でもか
なり研究されているみたいだけども、その幸福観の定義からいくならば、決して
幸福になれないと。
それはどういうことかというと、まず、わたしたちの欲求というものがあると。
そしてこの欲求というものは、いろいろな情報によって増大すると。これはまあ、
分母と考えてみたらわかるわけだけども。そして、分子にはわたしたちの現実的
な物質的充足度というものがあると。
ところがね、分子の物質的充足度というものは、分母の欲求に比べると、その
スピードが遅いと。そして結果的には、分母の欲求が増大すればするほど、欲求
不満の状態に陥るんだと。そして、それが、例えば自然破壊につながるし、ある
いは自分自身の器でもないようなことをしでかし、例えばサラ金地獄とかそうい
う状態に陥ると。
ここで、だから問題になってくるのは、この欲求をいかにコントロールするか
ということが問題になってくると。この欲求をもしコントロールすることができ
るならば、もともと物質的に、世界的にも満足感を与える国、日本であるから、
最高の満足した状態でこの人生を満喫することができるはずであると。
ところがね、例えば宗教というと、即その欲求を増大させ、欲求を増大させた
ものを満足させるという教え、これが日本では広がっているわけだね。今から二
千五百年以上前登場なさったサキャ神賢の教えも、その当時は新興宗教であった
わけだけど、そういう新興宗教というのは、そのニーズに合わせて法を説くとい
う形を展開することにより、その時代の人たちを幸福へと導くわけです。
◎観念的教えは幸福を与えるか
そして、今の若者は、これは世界的にも水準の高い知的生命体であると。この
知的生命体は、当然自分の煩悩、つまり欲求というものと、そしてその欲求から
来る苦しみというものを絶えず見つめて生きているはずである。そうするとね、
この欲求、そして物質的充足度のこの差というものは永遠に縮まらないんだとい
うことを、日本人は賢いからわかるわけだね。そこで、いろいろな神秘主義、あ
るいは神秘主義ではなくて観念的な教えといったものに少しずつ少しずつ取り込
まれていくと。
ところがだ、よく考えていただきたいんだけども----まあこれは、実は今から
四日前、中沢新一(宗教学者)という人と、二時間ぐらいのちょっと対談を行っ
たわけだども----そのときも出てきた話だけどね、この観念的な教えというもの
は、既にこれは中国の支配思想として使われているし----例えば、それは孔子の
儒教であったりするわけだけどね----そういう観念的な教えが、これから先のわ
たしたちの満足、あるいはわたしたちの幸福といったものを与えてくれるかどう
かというのは、大変難しい問題である。というよりも、わたし自体は与えてくれ
ないだろうと考えているわけだ。
それはなぜかというと、あの当時の中国はもともと貧しい人たちがたくさんい
たわけだし、そして、ある程度上の力、つまり国家の力に対して、その力に従う
ことによって自分たちの低い生活レベルでの安定というものを得ることができた
わけだから。そして、それこそ善であるとかいう言葉で表わすことにより国家運
営ができたわけです。
しかし、今はそうじゃないよね。それぞれがそれぞれの生き方を持っているし、
そして、それぞれがそれぞれの考え方を持っていると。つまり、この生き方、あ
るいは考え方の延長線上にわたしたちの幸福観というものがなければならないん
だと。わたしたちの満足というものがなければならないんだと。
◎知性を超えて智慧を得よ
とするならば、今のあなた方の知性というものをいかに超えるかということが
問題になってくるわけです。なぜならば、知性というものは問題を解決するただ
一つの道具だからである。そして、その知性の最終的地点に智慧、ウィズダムと
いうものがあるわけだよね。
ところで、この知性から智慧への発展、これは何によって得られるのだろうか
と。実は、これは中国にあまり受け入れられなかった老子・荘子の思想であるタ
オイズムがそうであるし、あるいは原始ヨーガがそうであるし、あるいは仏教が
そうであるし、あるいは密教がそうであると。
このような教えというものは、自分自身を変化させることにより、自分自身を
昇華させることにより、意識を変え、そして高い世界の経験をすることにより、
その世界の叡智を引き出してくると。まあ、要するに秀才型のタイプではなく天
才型のタイプをつくり上げていく教え、あるいは実践であるわけだね。
◎苦しみから逃げるな
そして、この教え・実践が、あまりにも日本にはなさすぎたがために、皆さん
もおそらく、今、先程言った欲求と、そして現実の満足感との間で大きなギャッ
プを感じながら苦しんでいるはずだ。もちろん、そういう話をするとこう言うか
もしれない。
「俺たちは苦しみなんかないよ。」と。
「わたしたちは苦しみなんかないよ。」と。
「今が楽しいんだよ。」と。
しかし、よく考えてみようじゃないか。例えばね、本当に苦しみがなければ、
次から次へと欲望の対象を求めるだろうかと。本当に楽しければ、次から次へと
新しいことを試みようとするだろうかと。もちろん、これは真実において内側に
充足感がないがゆえに、そのような方向に向かうわけだよね。つまり、行動を起
こすときには必ず動機というものがあって、その動機をしっかりと見つめるなら
ば、自分自身の今の状態というものがわかるはずであると。
そして、これらの教えをすべて完璧に説き明かされた方、この方が、まあ今、
日本では仏陀という称号----実際この仏陀というのは、個人の一人を指すのでは
なく状態を指すわけだけども、二千六百年前のサキャ神賢、サキャムニの教えで
あると。これは、その教えの途上にある、例えばイエス・キリストなどの教えも
すべて包含された絶対的な教えであると。
そして、その教えの中に、わたしたちがこの人間から神に至る道があるんだと
いうことを、その経典、例えば、これはインドからスリランカに伝わった『南伝
大蔵経』や、あるいはインドからチベットに伝わった北伝のいろいろな教えが説
き明かしているわけだね。そして、この教えをしっかりと皆さんが実践すること
により、確実に神に至ることができる。
◎神の定義とは
では次に、この神という場合の、神の定義をしなければならないと。例えば人
間といった場合、二本足・二本手、そして話すことのできる生命体であると。あ
るいは、考えることのできる生命体であると。これを人間と定義するならば、で
はいったい、神とはどのような生命体だろうかと。それは、人間より優れた智性
を持ち、そして神秘的な力----まあ、これは一般にいわれている超能力とは若干
違うものだけども----そういう神秘的な力を有した生命体と。そして、最終的に
は煩悩が完全になくなり、食べる必要もなく、あるいは飲む必要もないような状
態に至った魂ということになるよね。
ではなぜ、この食べる必要がなく飲む必要のない状態の魂を神といえるのだろ
うかと。つまりそのとき、その生命体はそういうことなしに、心の中に完全なる
満足、充実した心の状態を経験しているからであると。まあ、これはわたしの修
行上の体験からいってもそういう状態に入ると、実際、いっさいの行為なしに身
体全体が、体全体が本当に快感状態に至り、そして心の中は充実すると。そして
この状態に入ると、いかなる外側の刺激に対して、情報に対して心が動かなくな
り、そして真に生命に対する喜びが生じてくると。
しかし、この神の状態ですら最後ではないと。この神の状態も、この喜び、あ
るいは満足という状態も、いずれはその原因が切れたとき、終わってしまうと。
この原因が切れたとき終わってしまうというのは、ちょうど車にガソリンを入れ、
そして、そのガソリンが尽きるまではその車は走るが、ガソリンが尽きてしまっ
たら走らないのと同じである。
これらの状態をもう一つ超える----これが、十力者とも真理勝者ともいわれる
状態であると。
◎三界の構成要素
この人間、神、そして真理勝者、タターガタというね、この三つの言葉の定義
をしっかりしておかないと、君たちにはわかりづらいだろうから、定義をすると
しよう。
まず、この粗雑な世界、これは肉、血、そして体温、呼吸、それから空間と----
空間って、例えば口腔、口の空間だとか、あるいは鼻腔、鼻の空間だとか、そ
ういう空間----これらのものによって形成されていると。
例えば、骨などは、その肉の部類に属すると。この肉の部類とは何かというと、
実際には、地、地元素であると。つまり、固体元素であると。そして二番目の血
液、これは水元素であると。だから、血液だけではなく、例えば消化液とか、あ
るいはリンパ液とかいう、液と名のつくものすべてがこの二番目のカテゴリーに
入ると。そして三番目は、火元素は、これは体温を生じさせるもの、あるいは熱
を発生させるものであると。四番目は、これは呼吸であると。で、五番目は、空
間である。これはOKであると。
そして、これらの五つの元素の集大成によって、わたしたちの肉体は形成され
ていると。
これと同じように、この宇宙のすべての要素が、この五大元素によって明らか
にされると。例えば、地イコール土であると。水イコール水であると。火イコー
ル、例えば太陽の発する熱などすべて、この火元素に属すると。
そして、風イコール、これは火元素を昇華した形でのエネルギーであると。で、
ここでのエネルギーというのは、先程の呼吸とどう関係があるかと。それは皆さ
んも知ってのとおり、例えば空気中の酸素をわたしたちは吸収し、それによって
熱エネルギーを生産しているわけだけども、それと同じように、この風元素、例
えば核融合によって生じたエネルギーというものは、火元素の比ではないほどの
エネルギーを発すると。そして、その上に空が生じていると。この空というのは、
ブラック・ホールだと考えるべきであると。
で、この小宇宙と大宇宙の粗雑な元素、これと心の働き、そしてもう一つ、わ
たしたちが夢で使うような身体、この三つを合わせて、この現象界の構成要素で
あるといっていると。で、この現象界の構成要素というのは、今わたしたちがこ
の住んでいる現実といわれるものだね。
そして、ここからもう一段階深い意識状態に入ってくると、心の要素と、そし
て形状-容姿だけになると。これは、皆さんが夢で経験しているようなもの、こ
れが、もっともっと実際リアルな世界が存在するわけだけど、その世界では先程
述べた粗雑な五大元素はなく、微細な五大元素が存在していると。
そして、その形状、つまり姿・形を完全に止めた状態が、心の本質の世界----
まあ、これを非形状界といっているわけだけど----が存在していると。そして、
この心の本質を完全に止めた状態でこの三界から脱却すると。で、ここはポイン
トなんだけどね、この三界を完全に捨断した状態こそがタターガタ、つまり真理
勝者であると。で、この真理勝者こそが二千六百年前に現われられたお釈迦様が
その典型であると。
◎仏教----生きているうちの問題解決法
では、その止めてしまうということは、どういうメリットがあるんだと。これ
は、生命に対して自由になるのであると。つまり、その三界のどこへ生まれるこ
ともできるし、あるいはいつでも死ぬことができると。そして、いっさいの現象
を思うままに動かすことができると。これが、真理勝者の最終的段階であると。
そして、そのとき欲求もすべてコントロールできるから、そのときは分母の欲
求と、そして分子のこの現世的充実感というものとは、必ずイコールになると。
つまり、絶えず一定の心の状態で生活することができると。
このような状態をつくり上げていくこと、これが、人間の状態を超えて、そし
て神になると。そして、神の状態を超えて真理勝者、つまりタターガタになると
いうことなんだね。そして、このような状態を完全に会得することができるなら
ば、この世の苦しみというのは、先程も述べたとおり、分母と分子が一定になる
わけだから、完全に消えてしまうと。そのための教え、これが仏教であると。
ところが、今の仏教を見ると、人が死んだとき、一生懸命お坊さんが来て拝む
と。まあ、その拝むこと自体は悪いことではないし、素晴らしいことだと思う。
しかし、もともと仏教というのは、生きている人たちをいかに幸福にするか、生
きているうちにいかに死後の準備をするか、あるいは生きているうちにいかに未
来の準備をするかと、これが仏教だったんだね。ところが、その生きているうち
の問題を解決することは難しいから、徐々に徐々に死後の問題点へと論点は移っ
ていったということになる。
ID:QAA11022 J.HOSHI
#113/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 2/ 1 4:10 (192)
オウム真理教>信州大学講演2 J.HOSHI
★内容
◎新しい時代の到来を前に
ところでだ、少し、皆さんあまり興味がないかもしれないけど、これから日本
が、そして世界がどうなっていくかの予言についての話をしましょう。
君たちは、『新訳聖書』の中に「ヨハネの黙示録」というのがあるのを知って
いるかな。この「ヨハネの黙示録」の預言というものは、今のところ百パーセン
ト成就をしていると。この成就については二つの考え方があって、一つは、自然
にそうなっているのだと。もう一つは、より大きな力によってそうなっているの
だという二つの考え方があります。まあ、いずれにしろ完璧な成就をしていると。
例えば、ソビエトが四十二年間、アメリカの力によって権威を与えられると。
現に、ベルリン封鎖以降四十二年、つまり一九九〇年にソビエト連邦は崩壊し----
まあ、完全に崩壊したのは今年だけども----ロシアの、ソビエトの覇権主義と
いうものは終わってしまった。こういうことを中心として、必ずやその預言どお
りの現象がこれからどんどん起きてくるだろうと。
では、その預言が、これから先何を示しているのかと。それは、ある程度のカ
タストロフィー、大破局と。そして、その後の新人類の登場の預言であると。
この、ある程度のカタストロフィー、そしてその後の新人類の登場、これにつ
いては、そうなった方がいいという考え方と、そうならない方がいいという考え
方がある。しかし、いずれにしろ、今の人類の形態が、例えば共産主義対資本主
義という対決、そして資本主義が生き残ると。この後に来る物質主義対、次は精
神主義の対決と。そして、より高度な方が残るであろうと。そして、預言がその
とおり、今の百パーセントの預言の的中と同じような形で達成されるならば、お
そらく精神的な、心の成熟した超人類が生き残るであろうと。
これはね、なぜわたしが今日「ヨハネの黙示録」を今取り出したかというと、
君たちだって自由に本屋さんに行って『聖書』を買えば、その内容が書かれてい
るから、自分たちで研究すればよくわかるからである。そして、その最終的な選
別は、そうだね、あと十年はかからない期間のうちに行なわれるであろうと。
まあ、これらのいろいろな現象があったがゆえに、今オウム真理教は積極的に
その部分を教え、そして、まず自己を改革していただきたいと。まあ、そのため
に今日わたしも参加したわけだけど。よって、この講演が君たちの少しでも利益
になれば幸いだと思います。
【質疑応答】
◎人間はなぜ生まれてきたのか
(質問者A)僕らは毎日こうして生活してるんですけれども、やっぱり一番疑問
に思うのが、どうして僕たちは生まれてきて、こうして生活して、最終的には死
んでしまうんですけども、こうやってお金稼いだり、勉強したりして、結局、何
を目的として暮らしていくのか知りたいんですけど。
(尊師)大変いい質問だと思うね、それは。まず、人間がなぜ生まれるかという
のは、十二の条件生起の法というのがあります。この十二の条件生起の法という
のは、まあ君たちは正しくない言葉で、「あいつはわたしに因縁をつけた」とか
いうわけだけど、その因縁、これは十二因縁の法とか、十二縁起の法とかいわれ
ている、これは正確に訳すると、十二の条件生起の法という言葉で表わすことが
できると。
で、その十二の条件生起の法そのものが、わたしたちがこの人間の世界へ生ま
れてきたプロセスをしっかりと説明していると。よって、その十二の条件生起の
法についてお話をしましょう。
まず、わたしたちが死というものを迎えた直後、わたしたちはまず気絶状態に
入ります。この気絶状態に入るというのは、この粗雑な人間の世界をすべてであ
ると考えている意識がそこから解き放されるときに、そのショックによって気絶
をするわけです。そして、その気絶状態に入ってその次の段階で、経験の構成を
認知するプロセスに入ってくると。
経験の構成を認知するとは何かというと、例えば、その前の生においてロック
をたくさん聞いていたとか、あるいはジャズをたくさん聞いていたとか、あるい
は科学の本をたくさん読んでいたとか、あるいは実際に科学の研究をしていたと
か、あるいは、例えば食べ物で信州そばをたくさん食べていたとか、そういう経
験の構成が甦ってきます。
で、経験の構成が甦ってきた段階で、次は識別作用が生じます。識別作用とい
うのは、その経験に基づいてどの世界へ行こうかという識別作用が生じます。で、
そして自分の望む世界はここであるというそういう識別が生じた段階で、次は先
程述べたとおり、形状-容姿と心の働きのみが存在する世界へと至ります。この、
心の働きと形状-容姿というのは、要するに触れることのできない身体と、そし
て心の働きが同時に存在している世界へと移行していくわけだね。
そしてその次の段階で、その心の働きと形状-容姿の六つの器官、これは、目、
耳、鼻、口、ね、そして触覚という五つと、それから心の働きの六つが外界と接
することにより、というのは、この心の働きと形状-容姿の世界にはたくさんの
他の生命体がいますから、外界と接触することにより、そこで感覚が生じてくる
と。
そして、感覚が生じるがゆえに、次はもっともっとより強い感覚を得たいと。
これは、例えばおいしいものを食べたらよりいっそうおいしいものを食べたいと
か、あるいはわたしたちが性的快楽に対して縛られているのと同じように、より
いっそう強い渇愛が生じてきます。つまり、欲求が生じてくるわけだね。
そして、その欲求が生じてきた段階で、その次の段階で、その欲求なるがゆえ
にとらわれるようになります。例えば、恋愛においても、あの人でなきゃ駄目だ
とかこの人でなきゃ駄目だとか、食べ物でも、わたしは例えばカレーが好きなん
だけどラーメンは嫌いだとか、このような形のとらわれ、愛著が生じてきます。
で、実はその愛著が生じた瞬間に、それと同時に、裏側に嫌悪、つまりあの人
は嫌いだこの人は嫌いだといったような感情も生起するわけだけど、まあそれは
いいとして、その相反する感情が生起した次の段階で、それを具体的にもっともっ
と経験したいという心の働きが働きます。そして、子宮へと至るわけです。
子宮へと至った魂は、もう君たちも知ってのとおり、そのまま生存へと至ると。
これが、わたしたちがこの世に生まれてきた意味合いです。ですから、この世に
生まれてきた意味合いというのは、要するに欲望、煩悩というのがあって、その煩
悩によって生まれてきているんだということになるわけだね。よろしいでしょうか。
◎絶対的価値観と相対的価値観
(質問者B)わたしは、絶対的な価値観というものは存在するのかって書いたん
ですけれども、先日、人と話をしていて、三人で話をしてたんですけれども、二
人の方の価値観があまりにも違うっていうか、うまく説明できないんですけれど
も、わたしはほんとにもうどちらが正しいかってことは自分でももちろん判断で
きなかったんで、こうしてこういうこと書いたんですけれども、人間が生きてい
く上で、どういうものに価値を置いて生きていくのが正しいのか、そもそも正し
い価値観とか正しくない価値観とかそういうものがあるのか、そういうものがす
べてわからなくなってしまったんで、そのへんをちょっとお聞きしたいと思いま
す。
(尊師)価値観っていうのは、二つのカテゴリーに分けることができると。その
第一の価値観は絶対的な価値観と。第二の価値観は相対的な価値観と。で、この
絶対的な価値観と相対的な価値観の違いは、その超越した煩悩の状態との価値観
を中継するのか、あるいは煩悩によって目的を追求することによって生じる価値
観を採るのかによって違ってくると。
例えば、第一番目の例は、わたしたちは必ず死にますと。よって、長生きした
いと。あるいは、わたしたちは必ず死ぬから、苦しみの少ない世界へ、幸福の多
い世界へと生まれ変わりたいと。あるいは、この人生で生きていて幸福になりた
いと。このようなものは、すべて絶対的価値観に属すると。
では相対的価値観とは何かというと、例えば学校生活を実際送ると。そして、
高学歴、そして一流会社といったエリートコースを歩むと。これに価値を見いだ
してる人、あるいはそうではなくて、例えば人生というものはもっとゆったりと
楽しみながら生きていくことの方がいいんだと考える生き方と。このような例え
ば価値観というのは、相対的な価値観に属するということがいえると思うんだね。
で、この相対的価値観というのは、必ずその人が何らかの精神的トライをする
ならば変化すると。しかし、絶対的価値観というのは、その絶対的価値観の終局
である悟り、あるいは解脱をしない限り、その絶対的な価値観における満足を得
ることができないと。こういうことがいえると。
そして、この相対的価値観は、瞬間瞬間、一時的には喜びを満たしてくれると。
例えば、この人間の世界はわずか八十年であると。この八十年間の間において相
対的価値観は有効であると。しかし、絶対的価値観は、それを超越した長い長い
魂の流れにおいて有効であると。ということは、相対的価値観を捨断し、絶対的
価値観を採った方がわたしたちにとってはより多くの利益があるといえると。よ
ろしいでしょうか。
◎真理勝者の発するヴァイブレーション
(質問者C)仏陀である釈迦が悟りを開いた後に人々に法を説いたときには、人
間の言葉もわからない動物もその教えに聞き入っていたというんですけれど、そ
れについてはいかがでしょうか。
(尊師)それは事実だと思うね。というのは、真理勝者の発するヴァイブレーショ
ンというのは大変神聖なものであると。例えば、オウム真理教でわたしが法を説
くときも、例えばネズミがね、わたしの体に乗っかってきて体の上で遊んでると
いう状態もある。
これは、全くその同じ意味合いで、仏教の修行の中に非害心というのがあるわ
けだけど、相手を害さない修行、あるいは非暴力・非残酷という修行があるわけ
だけど、そのような形で、動物界というものは完全に動物連鎖によって恐怖を覚
えてるわけだけど、サキャ神賢の場合、その恐怖を全く与えない心の働きがあら
れたので、動物たちも神聖な気持ちになれたということだよね。
それからもう一つは、これは、そうだね、物理の話になるわけだけど、人間が
聞いている可聴範囲の声ではなく、例えば低音範囲とか高音範囲には別の成分が
あって、その別の成分は、例えば動物とかそういうものに対しても一種のヴァイ
ブレーションとして会話することができるといわれています。ですから、それは
正しいと思います。
(質問者C)えっと、そういううんちくを聞きたいんじゃなくて、実際にネズミ
が体の上に乗ってきたっていうのだけじゃ信じられないので、そういうのを見せ
てほしいんですけど。
(尊師)君の心の中には、既に”真理”というものに対しての否定的想念という
か、そういうものがあって、そしてそれを面白がってるよね。そういう心をまず
切らないと、自分自身がそういう見せ物的な立場に置かれる可能性が高いよ。わ
かるかな、言ってることは。
◎サイエンスは精神科学から降りてきた一部である
(質問者D)こないだね、NHKのテレビだったんですけども、「アインシュタ
インの宇宙」っていうの見たんですよ。で、詳しい内容はよく覚えてないんです
けども、麻原さんの考える宗教と科学----科学っていうのは、化学じゃなくてサ
イエンスの方なんですけども----宗教と科学の接点についてちょっと聞きたいと
思うんですけども、よろしかったら答えてください。
(尊師)まず、アインシュタインが徹底したユダヤ教徒であることはしってるよ
ね。
(質問者D)はいはい。
(尊師)で、科学というのは、精神科学から降ろされた情報の一部を一生懸命追
いかけてるということだとわたしは思うんだよ。つまり、まず先に精神科学があっ
て、その後に実際の科学が存在してくるというか。で、それについてはね、今日、
これは阪大で宇宙物理学をやってたマンジュシュリー・ミトラが来てるから、よ
り詳しくちょっと聞いてみようじゃないか。
(マンジュシュリー・ミトラ正悟師)皆さんもね、ご存じのように、いわゆる偉
大な科学者とおっしゃる方はね、皆、例えば瞑想の経験とか、あるいは深く思索
し続ける経験を持ってるかしています。で、これは、わたしたちがね、オウム真
理教の修行においてなされる瞑想その他の修行と同じなんだね。
で、そのとき、実は宇宙の構造というのがあるわけですけれども、この現象界
に対してさらにその上のね、アストラル世界、それからその上にコーザル世界と
いうね、情報の本質のあるところがあるわけですが、そこからの情報をキャッチ
するわけです。で、それが、例えば啓示であるとか、ひらめきであるとか、ある
いは直感であるとかいう形でポッと与えられるわけだね。
で、後、それをいかにね、具体的に、例えば数学的に記述していくかとか、あ
るいは観測によってそれをね、証明していくかというのが、どちらかというと技
術的な問題になる。だから問題は、要するに、いかに根本的な情報にわたしたち
が触れるかということになってくるわけです。で、それをね、直接的に扱ってい
るのが、まあ精神的な科学ということですね。ですから、その成果の一部を利用
していくのが物質的な科学ということになると思います。
(尊師)で、そのアインシュタインのね、言葉の中で有名な言葉があるわけだけ
ど、自分は科学の大きな波の一部を経験したにすぎないと。そして、真理の本当
に一部を経験したにすぎないという有名な言葉があります。しかし、わたしはそ
れは事実だと考えています。なぜならば、先程言ったとおり、サイエンスという
のは、精神科学から降りてきた一部なんだということだよね。まあ、それについ
ては、これから徐々にオウム真理教の方でもいろんな形で証明をしていきたいと
考えています。よろしいでしょうか。
ID:QAA11022 J.HOSHI
#114/999 資料室
★タイトル (QAA11022) 92/ 2/ 1 4:14 (176)
オウム真理教>信州大学講演3 J.HOSHI
★内容
◎科学的な疑問は差異を背景にしている
(質問者E)基本的にはいいんですけど、科学というのは、サイエンスの方は、
今精神科学から降りてきたものの一部と今言いましたよね。もうちょっと詳しく
説明していただくとうれしいんですけども。何か具体的なことで。よくわからな
いんですが、はっきりはそのへんが。
(尊師)例えばね、電話があるとしましょうと、ね。そうすると、電話というの
は、ここからある場所に瞬間的に対して話をしたいという発想から起きてきてる
ね、当然。ところがそういうのは、例えば、教団内においては日常茶飯事で起き
るわけだよね。
で、例えばそれはどういう形で起きてくるかというと、先程マンジュシュリー・
ミトラが言ったように、アストラル----つまり、このアストラルというのは音の
世界なわけだけど、その音の世界を使って速く伝播するというか、例えば今の電
話を考えた場合も、一応電気を信号に変えて、そして対象に対して送るわけでしょ。
それと同じように、例えばアストラルで、あるエネルギーを信号に変えて対象に
送るわけだよね。で、そこに気づいたのがベルではないかと、あるいはエジソン
ではないかということだよね、例えば例を挙げるならば。まあこれは、科学技術
の問題に入るわけだけどね。
もっと典型的な例をいうならば、アインシュタインが相対性理論の理論背景の
中でこういう表現を使ってるよね。例えば、一般の生活の時間のスピードと、そ
れからある人が、例えばまあ、ものすごく熱い、そうだね、鉄板の上に座ってる
場合とでは時間の流れが違うじゃないかと。つまり、時というものは絶対的スケー
ルではないんだと。
(質問者E)ええ、聞いたことありますけど。
(尊師)あるよね。わかるよね。こういうこともすべて、先程言ったとおり精神
科学から出ていることでしょ。
(質問者E)それは、精神科学かどうかよくわからないんですけども、ちなみに
アインシュタインは、普通の人間といる場合は時間の経ち方は同じですけども、
美人といるときは時間の経ち方が速いと言ったように記憶してるんですけど。
(尊師)その一つだけじゃないよね。それはもっと読んでちょうだい、しっかり
と。だから、例えばそういう、まず心に対してしっかりと洞察すると。心に対し
てしっかりと洞察することによって、その差というものをこの現象界に降ろした
場合、それが科学でしょ。
(質問者E)そんなもんですかね。
(尊師)じゃあ、君にとっての科学はそうじゃないんだ。
(質問者E)いや・・・。
(尊師)つまり科学というのは、必ず差異というものを起点として・・・。
(質問者E)差異って何ですか。
(尊師)例えば、ある理論があるとしましょう。その理論と例えば現象との間に
どのような関連があるのかと。まず、これが第一段階で考えられると。
(質問者E)あ、それはそうですね。
(尊師)でしょ。ところが、その理論とそれから現象の間に疑問を生じない人と
いうのは、そこから発展しないよね。
(質問者E)当然ですね。
(尊師)でしょ。つまり、その理論と現象との間の差、つまり相違点を追求して
いくのが科学じゃないの。
(質問者E)あ、そうです。っていうか、その疑問の追究ですよね。
(尊師)いや、だから単純に疑問の追究ではなくて相違の追究じゃないのかな。
まあ、そこで君のいう曖昧語の疑問というものと、それからわたしのいう差異と
いうものとの間におそらくズレがあると思うんだね。つまり、疑問というのは何
かというと、もともとわかっていることを疑問として生じさせる場合と、それか
らわからない部分について、あるいはズレについてしっかりと押さえる場合と二
つあるよね。
(質問者E)ああ、おそらく後者の方を僕は疑問というと思うんですけども。わ
かってることっていうのは疑問じゃないと思いますけど。
(尊師)いや、わかってることも疑問だと思うんだよ。
(質問者E)え、どういう、例えばどういうような感じなんですか、わかってる
疑問というのは。
(尊師)ここに、例えば先程言ったオウム真理教の教えがあると。そして、オウ
ム真理教の、要するに、そうだね、デモビデオが流れたと。それに対して疑問を
生じさせたと。しかし、これはしっかりと考えていけばわかる内容だよね。
(質問者E)あ、あ、そういった類いの疑問ですね。
(尊師)そうです。だから、科学的な疑問っていうのは、あくまでも差異を背景
とした疑問であると。
(質問者E)あ、言ってることわかりました。
(尊師)ということなんだよ。で、それをまず精神世界において、精神科学にお
いて追究して、それが降ろされてくると、科学というのは。わたしは科学技術を
言ってるわけじゃないから。
◎大脳は受信機、データバンクの働きをしている
(質問者F)人間がものを考えたりするときには、大脳を使って考えてるとかと
思うんですけど、魂とか、例えば死後の世界とかっていわれた場合。体がなくなっ
た状態で、例えば魂とか----オウム真理教ではどうか知りませんけど----死後の
世界でまだ意識があるというようなとらえ方をしている話を聞いたことがあるん
で、体がなくなって人間の脳自体で思考が行なわれていないときに、果たして魂っ
ていうのがあり得るのかどうかっていうの、そこらへんはどういうふうにとらえ
ていらっしゃるでしょうか。
(尊師)いや、もちろんそれは存在するよ。そして、意識も存在するし、思考も
存在する。というよりも、思考を最も鋭くしている状態というのは、死後のある
段階だと、これは仏典にうたわれてるし、わたしの瞑想体験においても同じこと
がいえます。
(質問者F)ということは、人間がこういうふうにものを考えたりしているって
いうのは、すべて大脳によるものばかりじゃなくて、それ以外の何かによっても
いえるということですか。
(尊師)大脳というのは、単なる、そうだね、思考をするときの、まあ例えばデー
タバンクであったり、あるいは、そうだね、データバンク、あるいは----ちょっ
と難しいな。何が難しいかというと表現が難しいわけだけどね----要するに、考
えてるということそのものは大脳で考えてるんじゃないんだというのが仏教の考
え方なんだよね。で、その例として挙げるならば、例えば、もし大脳で単純に考
えてるんだったならば、精神的コンディションによって、例えば記憶力とか、あ
るいは思考のレベルっていうものが狂ってくるはずないじゃないかと。これはど
うだ。
(質問者F)うんと、そのへんは学者じゃないんで詳しくはわかりませんけど、
例えば体調が悪くて、血の巡りが悪くて頭が鈍くなるとか、例えば貧血を起こし
たときにはものを考えれる状態ではないとか、そういったことはあり得ると思い
ます。
(尊師)うん、だから例えばね、たくさんものを食べたときと、それからある程
度空腹なときと、どちらの方が思考力があるのかといった場合どうかな。
(質問者F)ある程度空腹なときですか。
(尊師)だよね、やはりね。で、じゃ例えばそのときだよ、大脳に対する血液の
量というものが変化してるのかと。あるいは逆に、次に血液の量を変化させるこ
とによって思考というものは鋭くなるのかという問題があるよね。
(質問者F)はあ、その点に関しては実際自分で確かめたわけじゃないので断言
はできませんが、ものを食べた後っていうのは、胃や腸、肝臓の方に血液が流れ
ていて、空腹時に比べたら大脳ってか頭の方に回っている血液量っていうのは多
少、少ないという話を聞いたことがあります。
(尊師)じゃあ逆にだよ、じゃあ血を多く流すことによって、大脳の働きは正常
になる、あるいはそれ以上になるというデータはあるかな。
(質問者F)それは聞いたことがないです。
(尊師)ないよね。だからまあ、マイナスの情報というか、血液の流量が少ない
がゆえに大脳の働きが鈍くなる、あるいは血液の流量が正常なるがゆえに大脳の
働きは良くなるとか、あるいは正常になるという単純な問題ではないと思うんだ
よね。例えば、例としては植物人間を考えたらわかるとおり、植物人間で、例え
ば大脳のある部分が全く損傷がないとしても、結局その人の知性というのは止まっ
てしまってる場合もあるわけでしょ。だよね。
(質問者F)まあそうですね。
(尊師)だから、大脳でものを考えるということに対する反証というものはいろ
いろあるわけだけど、でも逆に今度は、医学的実験において、例えばある大脳の
一部分を切り落とした場合、それによって思考力が停止するとか、あるいは記憶
力が停止するということがあるわけだから、それから考えるならば、大脳は何ら
かの受信機の働きをしている、あるいはデータバンクの働きをしていると考える
のが妥当じゃないかと思います。
(質問者F)あ、よくわかりました。
(尊師)はい。
◎本質的な能力に限界はない
(質問者G)いろいろな修行によって人間の能力が開花するって言ってましたけ
ど、その能力に限界はあるんでしょうか。
(尊師)例えばね、人間が執筆をするスピードがあるとしましょう。例えばまあ、
一人の作家が書ける限界っていうのが一日原稿用紙四十枚だとしようじゃないか。
ね。ところが、修行によって、例えば、一日原稿用紙三百枚五百枚のものが出せ
るとしましょう。
しかし、それは粗雑な肉体を使っている以上、例えば口の限界とか----つまり、
口を動かすための時間的な限界とか、あるいは手を動かすための時間的限界に制
約されることによって、その能力というものはある段階で制約を受けることにな
る。しかし、本質的な能力については限界はないと考えていいと思います。わた
しの言いたいことわかるかな。
つまり、ソフトの部分については限界がなくて、ハードの部分について限界が
あるんだということだね。
◎サキャ神賢はヨーガを実践していた
(質問者H)今ビデオを見せてもらったんですけれど、そこでヨーガのことが出
てきたんですけど、オウム真理教というのは、ヨーガなんでしょうか。
(尊師)質問していいかな。仏教は、君は何だと思うか。君たちは仏教というも
のが存在していると考えてるかもしれないけど、仏教というのは、釈迦牟尼が亡
くなられた後に仏教徒たちがまとめた教え、これが仏教です。そして、例えばサ
キャ神賢の、釈迦牟尼の教えの中で仏教という言葉は一度も使われていません。
では、彼は何を実践したのかと。彼はヨーガを実践してたんだよ。
ということは、オウム真理教の中で、ヨーガという言葉が出てきても当然だし、
例えば、インド・ヨーガの大家である聖者アカンダナンダは、原始仏教の研究を
しているということから見ても、わたしの言っている意味合いが理解していただ
けると思います。つまり、日本というのは、完全に仏教国といいながら仏教音痴
なんだね。よろしいでしょうか。
◎宇宙人は意識堕落天の神
(質問者I)単純な質問なんで端的に答えていただきたいと思います。宇宙人は
いますか。
(尊師)います。
(質問者I)いるとなると、それはいわゆる----いろいろ本読んだんで、欲六界
ですか、現象界っていうんですか、それの属するあれだと思うんですけど、前世
が宇宙人だったっていう人がやっぱりいるわけですか。
(尊師)はい、います。宇宙人というのは、欲六界の中の意識堕落天を指してる
んです、今は。
(質問者I)どうもありがとうございました。
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以上 麻原彰晃の世界PART11
「自己を超えて神となれ!」より
ID:QAA11022 J.HOSHI
#116/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 2 10:53 (199)
オウム真理教 クンダリニー・ヨーガ2 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より
オウム真理教ネットにおいて
▼アストラル世界を飛ぶ
◎六月二十日(土)
ヴァヤヴィヤ、六時間。昨日にひきつづいて身体が跳ねる。ときおり、クン
バカの恐怖が顔を出すが、続けていくうちになくなる。快感、光はいつもどお
り。今日は、いろいろな音が聞こえて来た--シュルシュルという虫の鳴き声。
鈴の音。そして、かすかにメロディーが流れていた。めいっぱいクンバカして
いるので、一息終わると呼吸が荒くなる。少し呼吸を整える。と、この間にア
ストラル界に行ってしまう。今日行った所も、ごく普通のアストラル界だった。
ただ、一回だけ先生がアストラル界で出てらして、遠離、離貪について講義
して下さった。先生は、
「遠離、離貪しているので、シャクティーパットをしてもカルマを受けないの
だ。」
とおっしゃった。そして、手を使って説明して下さった。
浄化法が終わり、体重を計ったところ、昨日より〇・六キロ減っていた。食
事をとっていると、先生からTELがある。今日か、明日いらして下さるとい
う。うれしい。頑張らなければ。
それにしても、今日はヴァヤヴィヤが終わってフラフラしているところにす
ぐサンカプラクサラーナをやったのだが、なかなか下に降りない。食事は一回
しかとっていないのですぐに降りてもよいと思うのだが、気が上がっているか
らか?塩レモン水が気持ち悪く、ゆっくり飲まないと吐いてしまいそうになる
(これは昨日と同じ)。約一・三リットルくらい飲んだ所でほとんど水になっ
た。あとは、湯を飲んで吐き出す。かなりお腹にレモン水が残っていた。
サンカプラクサラーナをやると、いつも頭痛と吐き気がするが、昨日よりは
大分よい。今日は頭がじんじんとしびれ、ひざ下のふくらはぎの外側が両足と
もかなりしびれた。血行が悪いのかもしれない。頭頂に意識を集中すると、少
し良くなったが、今度は頭の中心部から鼻にかけてしびれる。悪いところ、浄
化されていないところが痛むようだ。
ツァンダリーのプラーナーヤーマのときに、集中力が弱まってくると色々な
雑念が出てきた。人の顔が(あまり気分よくない)出てきて観想の邪魔をした
り、悪魔かなとも思ったが、私の中にあるものだ、と思い無視した。
又、アモガシッディの観想をすると、背の高いがっちりとした男の人が出て
きて、長いガウンみたいな服(白)を着ていた。髪は黒で、パーマがかかって
いるような感じで、目は大きかった。しかし、私には何かわからないので(よ
い人か、悪い人か?)、無視した。その他、色々な雑念がわいては消え--内
容は昔のこと、現在のこと、仕事、ありとあらゆること--、私の潜在意識と
はいかに雑念のかたまりかと思い知らされた。
一回だけふっと、どこかに入ってしまったようだったが、先生が出ていらっ
しゃって、呼び出して下さった。そこには入ってはいけないよ、というような
ことをおっしゃったと思う。どこへ行ったかは全く覚えていないのだが、よい
世界だったと思う。
次にツァンダリー(瞑想)。教本を片手に観想する。エネルギーを上昇させ
て、ルドラ結節の詞章を唱え、頭頂に意識を集中していると、Jさんと私が、
Aさんの話をしている。そこまで覚えているのだが、あとは不明。またどこか
へ飛んでいた。気がつくと、ああ、どこへ行っていたんだろうか、と思うばか
り。本当に私は暗性だ。
観想しながら、アストラル界に入ったりしていると、ちょうどそこに先生が
いらっしゃった。そして、エネルギーを入れて下さった。透明な、精妙なエネ
ルギーだった。
落ちつく。安心感がある。光に満ちている。
「やっぱり、ルン(風)でひっかかっていたね。だからツァンダリーができな
いんだ。『空』までひきあげておいたから、これからはツァンダリーができる
よ。」
とおっしゃった。
その後、ツァンダリーをはじめると、すぐにアストラル界へ飛んでしまった。
しかし、冷たいものは落ちたような気がする。残り時間三十八分はすぐたった。
▼成就するだけ!
◎六月二十一日(日)
午前二時就寝。夢を見る。Hさんがなかなか起こしに来ない。時間をすぎて
いるのでは? と思う。そして、時計を見ると、九時。三時間もすぎている。
私はそういえば、空を飛んでいた。昔見た夢に似ている。ちょうどその時、
「時間です。」
Hさんが起こしに来た。夢の中で一回起きたらしい。
午前六時 ヴァヤヴィヤ。昨日、先生にエネルギーを入れてもらったせいか、
一息終わるごとに暗やみの中を光がうずまく(目はつぶったまま)。クンバカ
が苦しくなり、体が震えてくると、つぶったまぶたの外で白い光がチラチラゆ
れている。身体の震動のせいか? と思い、一瞬揺れをおさえると、それでも
光はちらついている。限界までとめて、大きく息を吸う。
今日はあまりジャンプするのをやめてみた。大きく動くと快感状態に入りに
くい。不安定になる。ヴァヤヴィヤの回数を数えた。全部で五十息と少し。六
十息はいくと思っていたのだが。
さっきのHさんの話では、三十分くらい物音がしないときがあるという。私
は自分でも覚えていないが、また暗性の三昧にはいっているのだろうか?
浄化法の途中で先生がいらっしゃった。ずいぶん声が通るようになった、と
おっしゃった。昨日、先生にエネルギーを入れてもらって、先生が喉のチァク
ラを浄化して下さったからだ。先生は声が出なくなった、という。本当に申し
訳ない、いつも、私のカルマをしょって下さる。私は無始の過去から悪業を積
み続けてきたのだ。何とか恩返しをしたい。
今の私にできることは成就することだけだ!
▼訪れた「悟り」--菩薩の道を歩む!
◎六月二十二日(月)
ヴァヤヴィヤ。今日は五十二、三息、そのときに強烈な思いがわきあがって
来た。
私は救済するために、この世に生まれて来たのではないか。すべての魂は、
悟り、解脱するために存在しているのではないか。
私はいつの日か、大乗の仏陀となって、この世を救済できる日が来るまで(
麻原尊師のように)、この苦界に何度でも生まれ変わって、救済のお手伝いを
しよう。 菩薩の道を歩こう。
たとえ何千年、何万年、何億年、いや何百カルパかかっても、衆生がマハー
ヤーナに入る日までは、どんなに素晴らしい世界を見ようとも、たとえ目の前
に美しい世界があろうとも、私は安住することはない。
たとえ、六道輪廻の中に生を得、どのような苦しい環境に生まれようとも、
身体が不自由に生まれようとも、男であっても、女であっても、大乗の菩薩の
道を歩こう。気が遠くなる程の長い年月を経ても、すべての生類がマハーヤー
ナに入るまでは、私は大乗のボーデイーサットヴァの道を歩こう。
グルとシヴァ神に私は請願をした。
私は救済したい。大乗の仏陀となりたい。私は他のために生きよう。自己の
利益を顧みてはならない。自己のためには生きない。そして、この請願を供物
として捧げ、どうか私に解脱と悟りをもたらして下さい、と強く発願した。そ
の瞬間、私は理解した。
人間(凡夫)は、みな自己のために生きている。
自己の欲求を満たすために行動する。
これがすべての苦の原因である。
自己(エゴ)は、すべて欲望の都合がよいように動く。
楽しみを求めて、喜びを求めて。それが満たされない時は苦を感じる。
自己の欲望を満たそうとすることが、苦の根本原因である。
求めなければ苦はない。
すべてから離れていれば(遠離)、苦は生じない。
自己の利益、自己の喜びを求めるから、苦がある。
人間は本来自由である。個人のエゴで他を束縛することはできない。
束縛しようとするから、苦が生じる。
凡夫は「喜び」、「楽」を求めて、自己をとってしまう。
一時的にはそれは喜びかもしれないが、最終的には苦だ。
悟った人は、それは一時的なものにすぎないと理解し、その道を選ばない。
他の魂にとっての益するところを喜ぶ。
行動するとき、言葉を発するとき、気をつけなければならない。
結果を見極めて、行動しなければならない。
自己の利益がからむと、物事を正しく見ることができない。
他の喜びを自己の喜びとすれば、すべてのものを正確に見ることができる。
自己(エゴ)が存在するから、他が見えない。わからない。
ここに自己がいなければ、すべてはありのままに見える。
なぜならば、何も求めない成就者は、すべてを正確に理解しているのだから。
道は二つしかない。すべての外界の影響を受けない山奥で暮らすか。
他の者のために生きるか。
もちろん、大乗の発願をした以上、後者の道を私は選ぶ。
Hさんに、時間です、と言われても、私は座り続けていた。強い発願と、こ
れこそ私の求めていた道だ、という感激におそわれて、私は涙がとまらなかっ
た。請願したと同時に、私の中に、他のために生きることこそが大乗の道であ
り、自己を滅することが、苦を滅することだという、大きな「悟り」が得られ
たからであった。
#117/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 2 12:19 (141)
オウム真理教 クンダリニー・ヨーガ3 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より
オウム真理教ネットにおいて
▼雑念に流される
◎六月二十三日(火)
ツァンダリーの時間が終わって、明日からの集中セミナーに参加するため、
急きょ食事。
今日は午前中のヴァヤヴィヤの時に、先生にエネルギーを入れてもらった。
雑念が出てくるので、それを゛解脱したい″というふうに思い込むようにする。
十二時終了。
浄化法のとき、Sさんが来た。どうも調子がわるい。クリヤをやりながら雑
念ばかりわいてくる。
足が痛いので少し(二十分くらい)アーサナをして四時、ツァンダリーのプ
ラーナーヤーマ。どうもおかしい。雑念が多い。そして雑念に流される。Sさ
んの影響か。
ふっとアストラル界に入ってしまって気がつく。何とかしなくてはと思い、
プラーナーヤーマをやるが、また雑念。そしてイライラ。エネルギーが変な回
転をする。座っていられない。何度となく、先生をお呼びして聞こうと思った
が、時間が終わるまで待った。
七時。先生をお呼びする。
「一切無視してやれ!」
という。
ツァンダリーの瞑想に入ったが、すぐ座ったまま眠ってしまったようだ。オ
ウムの仕事の夢を見ていた。二、三度呼吸が停止するような感じでスーッと入
っていって、そのときは夢かそうでないか、わからないような感じであった。
ふと、先生がいらした。エネルギーを入れて下さる。申し訳ない。早く解脱
しなければ。先生のエネルギーをとってばかりいる。何とか早く、早く解脱し
なければ。
偉大なグル。先生のエネルギーは何物にも変えがたい。この先、何カルパ生
きても、尽くしても、この恩恵には報いることができないだろう。大乗の如来
となってはじめて報いることができるのではないかと思う。それ程までに先生
の力は大きい。
ありがとうございます。感謝の言葉をいくつ並べても、並べ足りません。本
当にありがとうございます。
この根性なしのケイマですが、一日も早く解脱するように頑張ります。
グルとシヴァ神にかけて誓います。
“私は今生で必ず解脱を果たします。”
グルとシヴァ神のこんなにも大きい恩恵を得ているのですから。
必ずや解脱をし、悟りを開き、一切衆生を救済します!
必ずや。
▼痛みと闘う!
◎六月二十四日(水)
今までのノートの記述を読む。少々照れくさいところもあるが、正直な私の
気持ちを書いているつもりだ。
前ページをちょうど書き終わったとき、先生が部屋へいらした。昨日の不調
を話すと、やはりSさんの想念の影響を受けているという。彼は現在かなりの
魔境に入っているそうだ。彼の波動と同調して、体調を崩したということは、
私の中に魔が存在するということだろう。なぜならば、先生は全く影響をお受
けにならないのだから。
エネルギーを入れて下さって、
「Sの影響は抜いておいたから。」
とおっしゃった。そして、
「まだまだ次元が低い。今のおまえは解脱しなければならないんだ。他のこと
は一切関係ない。高い世界のことだけを考えるようにしなさい。」
とおっしゃった。確かにその通りである。私も、私の潜在意識にうもれていた
雑念を、意識できるようになってくるにつれて、私は何と雑念の塊なのだろう、
と思っていたのだ。ありとあらゆること、幼少の頃のこと、強く印象に残って
いたこと、つらかったこと、楽しかったこと、悪いことをして隠していたこと、
単なるTV、新聞、雑誌、それが順不同に、突発的に、表面の意識にあらわれ
るのだ。時間も午前三時すぎくらいになっていたと思う。毎日の睡眠時間は二
~三時間。今日はセミナーに行くので、早く寝なければと思い、横になった。
と、なかなか寝つかれない。ふと気がつくと、ムーラダーラ・チァクラとアナ
ハタ・チァクラが異常に熱い。横になっていても、熱くて眠れない。
ふと思い立ち、昨日のツァンダリーの瞑想をふり返ってみると、足の痛みが
ひどくて、数分ともたなかったことを思い出した。先生がエネルギーを入れて
下さると、なおさら痛みが増して、いてもたってもいられなくなるのだ。先生
いわく、
「アパーナ気が撤退する(ひきあげられる)から、痛みが増すのだ。そのくら
い耐えろ。」
ということであった。
寝つかれないのなら朝まで座ろう、と思い立ち、座法を組んで頭頂に意識を
集中した。熱はなかなかおさまらない。そのうち、足、特にひざとすねが痛み
だした。
(痛みになんか負けるものか。私は朝まで座ろう。そのくらいしなければ解脱
はしない。)
足が痛いときは、グル・ヨーガのマントラを唱えるように、と言われていた
ので、金鋼合掌を組んで、マントラを唱え始めた。マントラに集中すると、少
し痛みがまぎれたが、またじきに痛くなってきた。
痛い!痛い!痛い!
本当に私は根性がない!頑張れ!
私はこの身体に執着があるから、解脱できないんだ。
この痛みは私のものではない!
この身体は私のものではない!
この痛みは私のものではない!
この身体は私のものではない!
何回も必死に唱え続けた。どのくらい時間がたったのかわからない。私には
ものすごく長く感じられたが、実際には、数十分くらいだったと思う。ふと、
すねの痛みが、ジーンとしたしびれに変わって、痛みがひきはじめた。不思議
な現象だった。すねの痛みが、ひざの方に撤退しているようなのだ。それによ
って、足の痛みが半減したようだった。その後しばらく座り続けていたが、い
くじがなく、朝まで座ろうと思っていたのだが、足を解いてしまった。いつの
間にか背中のクンダリニーの炎はおさまっていた。
#118/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 2 14:37 ( 67)
オウム真理教 クンダリニー・ヨーガ4 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より
オウム真理教ネットにおいて
▼吹き上がるエネルギー
朝、目が覚める。どのくらい眠ったであろうか、三時間くらい寝たのか?と
思っていたら、数分後、そろそろ時間ですヨ、との合図があった。セミナー初
日。七時四十分頃出発なので、七時まで寝かしてくれたようだ。
出発。丹沢青山荘着十時。十時半から修行に入る。今日のプログラムは、一
時までツァンダリーのプラーナーヤーマ。六時までヴァヤヴィヤ。九時まで浄
化法、そしてツァンダリーである。食事はなし。そういえば、食欲が極端に落
ちた。一日一食で、それも通常の半分くらいの量である。
今日のツァンダリーのプラーナーヤーマは気持ちがよかった。プラーナがよ
いせいか、ラトナサンヴァバの観想のときに、黄色(金色)のエネルギーが、
頭頂まで吹き上がる。他の四仏のときも、意識して上げようとしたがダメ。ラ
トナサンヴァバのみが吹き上がった。
ヴァヤヴィヤも調子がよく、かなり一気に気が上昇する。今日は、はじめて
頭頂まで気、エネルギーが昇ったようだ。後で先生にお聞きする。
「それは喉のチァクラが浄化されて、今までつっかえていたひっかかりがとれ
たからだ。昨日エネルギーを入れた時に抜いておいた。」
なるほど、喉のひっかかりがないと、スムーズに光が上昇する。快感状態に
いる時のエネルギーの色、状態を見てみようと努力した。大体、赤、オレンジ
系の色が吹き上がる。少しクンバカが短いと黄色だ。そして、たまに白銀が上
がり、その後透明な光った赤(黄)が上がる。この色は赤といっても太陽光線
に似ている。その後うすい紫色がのぼってきたり、暗い緑が見えたりする。
光が上昇してしまった後は、あまり光っていない白い丸(三角)いものが見
えて、その回りを、暗い色(暗い青か緑か?)がとりかこんでいる物体が見え
る。そして、喉に力を入れ、息がもれないようにして、息の続くかぎりクンバ
カをしていた。
午後六時、クリヤをひととおりやる。今日はバスティーの日だ。2000c
cやったが、なかなかきれいな水にならない。脱力感、少し疲労した感じだ。
ダウティ、ネーティ、大体三時間。その後、水浴。ここは山の中なので、少し
寒い。頭を洗ったらかなり冷えた。
午後九時、ツァンダリー。なかなか瞑想に入れない。体が冷えている。眠い。
十時半、先生がいらっしゃる。毛布を巻くように言われる。
「今日は失敗だ。」
と、先生。
「このセミナー中には必ず解脱させる。まだ、心の中で落としきっていない部
分があって、それがひっかかりとなって残っている。」
実は、独房に入る前に、私は先生に二度ザンゲをしている。心にひっかかっ
ていること、隠していること、恥ずかしいこと、言いたくないこと、隠しては
いないにしても、自己の不利益になるがために言っていないこと、などである。
二度のザンゲで、かなり大きくひっかかっていることは言ったのだが、まだ
心の中に残っていたのだ。
その夜、アストラル界に入って、ひっかかっていることをヴィジョンとして
見た。先生はザンゲの詞章を唱えるように、とおっしゃった。そして、光の瞑
想も教示して下さった。
#119/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 2 16:47 (176)
オウム真理教 クンダリニー・ヨーガ5 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より
オウム真理教ネットにおいて
▼最後のザンゲ--もう私には何もない
◎六月二十五日(木)
ツァンダリーのプラーナーヤーマの途中、午前八時すぎだっただろうか。修
行をしていると、心に浮いたことが気になって、気になって仕方がなくなって
きた。心にひっかかっていることが出てきた。前の二回で必要と思われること
は先生にザンゲしたと思っていたのに、ひとつ強くひっかかっていることがな
くなると、次にひっかかっていることが大きく心の表面に浮き出てくるようだ。
はじめは、この時間が終わったら先生のところに話しに行こう、と思った。先
生も疲れて横になっていらっしゃるはずだ。そう思っていると、ますます心の
ひっかかりが大きくなってきて、いてもたってもいられなくなる。こうなると
もう言わずにはいられない。もう待てない。修行もできない状態だ。
すーっと立ち上がると、隣の先生の部屋をノックしていた。
「なんだ。」
「ザンゲしに来ました。」
「そうか……今度は何だ。」
と、ごく普通の口調で聞いて下さる。ここでいつも口ごもるのだ。前二回も言
葉が喉まで来ているのに、言い出すのに三十分くらいかかった内容もあった。
話さずにはいられない心(潜在意識)と、
(これを話したら、私のこと先生はどう思うだろうか。)
あるいは、
(今までよい子、優等生で通していたのに、本当のドロッとした私の内面、行
為を知ったら、先生はあいそをつかすのではないか。)
あるいは、
(自分を、本当の自分以上によく見せたい。)
その他、さまざまな意識が錯綜し、なかなか言葉が出ない。先生も、そういう
私の心の葛藤をよくご存知で、言い出しやすいようにいろいろと誘導して下さ
る。
いよいよ私が生きてきた二十六年間、積もりに積もった心の覆いを落とす時
が来てしまったのだ。
一回目の告白
二回目の告白
三回目の告白
すでに、一回目と二回目は、独房修行に入る前にすんでいた。このときは、
一気に心の毒が外に出てしまったのだが、私のエゴのショックも大きかった。
今回は三回目。これで最後だ。あとはもうひっかかっていることはない。
私は一気に今までの自分の行為、心の汚れた部分、屈折等を話してしまった
。先生は解脱なさっているから、ご存知ないはずはないとわかっているつもり
でも、本当の自分の、汚れた自分、恥ずかしい自分を話すことは、非常に抵抗
があった。
先生に告白してから、私は数時間泣き続けた。私は今まで自分が大切にして
きたものを失ってしまったのだ。それは偽りの自己であって、本当の私自身で
はないのだが、その偽りの自己を自分自身と思いたかったのだ。自分は、本来
はドロッとした最も人間らしい要素(煩悩)を持った人間なんだけれども、き
れいな、清い者だと思い込みたかったのだ。いや、事実思い込もうとしていた。
言うなれば、臭い物には永遠にふたをしようとしていたということだろう。そ
して、自己の偶像に満足して、真実を見つめるのを避けていたのだ。
しかし、そういう心の働きは心の屈折を招く。ひとつ屈折すると、それに関
連した問題もまたひとつ屈折する。屈折が屈折を呼んで、いつしか本来の自己
を見失っていたのだろう。
私は、偉大なるグルを前にしてすべてを告白した。そして二十六年間、自分
が大切に育ててきた幻影が、一瞬にして崩壊してしまったのを知った。
私が今まで大切にしてきたものは何だったんだろう。私と思っていたものは、
私ではなかった。美しいと思っていたものは、すべて汚れていて、私の大切な
自己は、プライドは、すべてエゴが作り出した幻影であったのだ。
もう私には何もない。
私にとって、一番大切なものを失ってしまった。
私にとって、一番大切だったのは、自分自身(エゴ)であったのだ。
もう私には何もない。
生きている意味もない。
大切な、信頼されているグルにもあきれられてしまったであろう。
逃げ出したい。
逃げてどうするのか?
わからない。
いっそのこと、死んでしまおうか。
死にたい。
私は泣いた。思いきり泣いた。泣いて、泣いて、
顔がはれあがるくらい泣いた。
苦しかった。悲しかった。辛かった。
自分が情けなかった。
自分はなんて汚い物なんだろうと思った。
私自身(エゴ)には、真実は何一つない。
色々な思いが浮かんでは消え、浮かんでは消え、すべては絶望の要素を含ん
でいた。
私の心の動きとは裏腹に、先生は冷静な面持ちであった。
「そうか。」
そして、予想していたことだとおっしゃった。先生は決して責めることはお
っしゃらない。先生は何があっても動じない。誰が何を言おうとも、決して心
を動かすことはない。
「すべて、自己(エゴ)崩壊のプロセスである。」
とおっしゃる。そして、
「ここで、落としておかなかったら(心の屈折をザンゲしていなかったら)君
は解脱できなくなっただろう。後悔したであろう。」
「できることならば、解脱できなくても言いたくなかったです。」
「それは根本無明だ。」
少し落ちついて部屋に戻った。今日のプログラムはまだはじまったばかりだ
。しかし、修行が手につかない。深い絶望感に沈んでいた。考えること、考え
ること、すべて暗い方向へ心は流れ、もういっそのこと死んでしまいたい、と
思うのだ。
自分が自分でなくなるとき、エゴが滅するときに感じる苦痛、ショックは想
像を絶するものだ。私はいまだかつて経験したことのない、深い絶望感にさい
なまれていた。
(自分が、自分と思っていたものは何であったのだろうか?)
暗い部屋で、ひとり死んだようにうずくまっていた。
先生が訪れた。私を一目見るなり、
「今まで君を見てきた中で一番美しい。きれいだ。心のひっかかりがとれて、
エゴが落ちかかっている。もう本当に解脱まで近い。」
とおっしゃった。
すべては必要なプロセスだったのだ。先生は、無痴の闇の中から、私をひき
あげて下さった。人間が、人間でなくなるとき、この生命とひきかえにしても
よいくらいの苦痛があるのを私は知った。想像を絶するショックであった。
しかし、先生は暖かい光を放っている。周りの者はすべてその光の中にいる
と安らいでしまう。かたくなな心も、もつれた心も、すべてとかしてしまう、
光のヴァイブレーションだ。その光の中にいた私は、いつしかショックから立
ち直っていた。
目の前に一筋の光の道が見えた。もう私にはこの道しかない。失ったものを
惜しんで振り返っている暇があるならば、一歩でも前進しよう。次に得るもの
は、失ったものの何十倍、何百倍、いや比較にならない程大きなものなのだ。
修行に入った。
その夜、私ははじめて三昧に入った。一時間程度、低い次元の三昧だったよ
うだ。
#120/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 2 19:10 (104)
オウム真理教 クンダリニー・ヨーガ6 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より
オウム真理教ネットにおいて
▼成就したら
◎六月二十六日(金)
十時修行開始。午後一時までツァンダリーのプラーナーヤーマ。この日はラ
トナサンヴァバの呼吸のとき、金色の光が上昇する。意識を尾てい骨から頭頂
にかけて移動させると、首から頭頂にかけて黄金色の光がサーッと上がって頭
頂がしびれる。他の四仏でやってみたが、エネルギーは上昇しない。
午後一時、ヴァヤヴィヤ。ヴァヤヴィヤであまりエネルギーが上昇しなくな
った。それに伴って、快感状態も少なくなってきた。おかしいな、と思いつつ
も続ける。先生にお聞きすると、もうほとんどエネルギーが上がりきってしま
っているからだ、とのことだった。
七時、浄化法。バスティがなかなかうまくいかない。水にならない。ネーテ
ィ、ダウティ、ガージャカラニーが終わって、水浴。十時頃終了。フラフラに
なった。体力を消耗したようだ。
ツァンダリーの瞑想。体力がなく、心臓の鼓動が激しい。先生と話していて
も、話すだけで息が荒くなる。三昧に入るときは、そういう状態がベスト、と
のことだ。観想しだすと、アストラル界にすぐ入ってしまう。三昧にも二、三
回入った。夢も見た。
先生がシャクティーパットで邪気を吸って、指が動かないとおっしゃってい
た。先生のアナハタに手のひらを置く。すると、
「邪気が手を伝わって、『空エレメント』に還元されていっている。指の痛み
はなくなった。ケイマのパワーはすごい。」
と、おっしゃった。しかし、私のパワーもすべてもとはと言えば先生のエネル
ギーなのだ。私は、先生に多大のエネルギーをいただいているからこそ、この
ステージまで来れたのだ。
「成就したら、先生にシャクティーパットできるのですか?」
「それはできるね。」
先生はすでにシャクティーパットで身体を酷使している。そして、回復させ
るための修行も多忙のあまりできない。少しでもお役にたてればよいな、と思
う。
ザンゲの詞章を唱えて眠る。
▼もう少しだ。頑張れ。
◎六月二十七日(土)
修行の開始は十二時。お昼だ。体のふしぶしが痛く、だるい。ベッドで眠っ
たせいだろうか、疲れがたまっていたせいだろうか、と思った。
しかし、実際は昨日、先生にエネルギーを入れた時に『風エレメント』を使
ったからだという。ほんの少しの時間なのに、これだけ身体に出てしまう。先
生はシャクティーパットで一体どれだけの苦痛に耐えていらっしゃるのであろ
うか。
十二時、ツァンダリーのプラーナーヤーマ。気持ちよい。黄金色の光が何回
となく上昇する。昨日よりも快感、しびれが強い。光も強い。
ヴァヤヴィヤ。またまたエネルギーの上昇がほとんどない。一息、一息、限
界まで保息しているのだが、光もあまりない。クンバカはかなり長くなったよ
うだ。四時くらいから、意識がボーッとしてきて気持ちよくなり、何もやる気
がしなくなった。どうしたのだろう。ただただ、ボーッとしていたい感じだ。
『風のクンダリニー』が背骨を何度も何度も上昇してゾクゾクする。気持ちよ
い。
また新たな状態なので、グルにお聞きする。
「それは、マノーマニー状態(ウンマニー状態)だ。ボーッとして何もしたく
なくなり、気持ちよい状態だ。」
そして、
「その状態を越したら解脱だ。もう少しだ。近いぞ。頑張れ。」
再び、ヴァヤヴィヤを始める。しかし、やる気が出ない。いつもより非常に
時間が遅く流れる気がする。数回ヴァヤヴィヤを行なう。すると、心臓が苦し
くなってきた。
鼓動が激しい。
「心臓の負担がかかってきたようだ。ヴァヤヴィヤはやめて、三昧に入りなさ
い。」
との先生のお達しがある。そのまま三昧に入った。二、三時間、少し高い世界
に行った。そして、ザンゲの詞章も唱える。
午後九時、今日は先生の説法を聞くように言われた。解脱までのプロセスを
明解に説いて下さった。まさに私のために説いて下さったかのように。残りの
プロセスがよく理解できた。
十時、浄化法。
一時、ツァンダリーの瞑想。三昧に入る。食事。二つの課題を考えながら眠
る。「純粋真我」「ダイヤモンドと駄石」
#121/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 3 18:26 (174)
オウム真理教 クンダリニー・ヨーガ7 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より オウム真理教ネットにおいて
▼成就--光の海に飛び込む!
◎六月二十八日(日)
朝は十時十分より、ツァンダリーのプラーナーヤーマを開始する。先生の話
では、遅くてもセミナー中には必ず成就する、とのこと。残りわずかに今日と
明日。頑張らなければと思う。
解脱に近い、近いと言われ続けて、十日目。それでも、毎日一ステージずつ
上がっているという。先生の多大なエネルギーを受けて、お時間をさいていた
だいて、私はもう早く解脱しなければ申し訳ない。何とか早く、早く。一日で
も早く成就したい。
ツァンダリーのプラーナーヤーマの途中、大きな変化があった。一息するた
びに気が上昇するとイメージすると、黄金色の光が眼前、そして頭上に現れる
のだ。おとといから現れはじめ、昨日その光はだいぶ強くなったのだが、今日
の光はその比ではない。それに伴い、その光が現れている間中、全身に快感が
はしる。そして、光が強まれば強まるほど快感状態は長くなり、頭頂から腕、
足、指先に至るまでが強烈にしびれるようになっていく。
ふっと、その光に意識を集中していたら、意識がとぎれた。数秒後、意識は
戻っていたのだが、自分がどこに行っていたのかすぐにはわからなかった。身
体は前を向いていたのだが、横向き(右)になっており、細かく震動していた。
一体私はどこに行っていたのか。このショックは私がいつもアストラル界へ
飛んでいくときのものとは全く違っていた。(アストラル・トリップするとき
は、こんなにも強い光はささない。そう、白く鈍い光の中にすっと入ってしま
って、軽い震動とともにたいした違和感なく、身体に戻ってくるのである。そ
して、その間の記憶が、身体に戻ったあと脳裏にやきついており、ああ私はど
こどこへ行ってこういう行動をしてきたのだな、ということを自覚できるのだ。)
そして、肉体をぬけだす時のショック、戻ってくる時のショックは、今だか
つて、私が経験したことのないものであった。言うなれば、黄金色の光にすい
こまれたと言うべきであろうか。光に向かって飛んでいったと言うべきであろ
うか。
ゴーッという音とともに、光の渦の中に入っており、そしてそこは、楕円形
に回転していた。私の印象としては、光の渦というよりも、想念の渦という感
じが残っている。言葉では説明できないのだが、ありとあらゆる想念(想い)
が回転している光の世界というのが、一番近いと思う。そして、その中に私は
吸い込まれて失神してしまった。次に気がついた時、私は肉体に戻っていた。
しばし、ボーゼンとしていた。自分の今の体験を、私は理解できなかったの
だ。
気を取り直して、再び修行を開始した。だが、この前述の体験が心の中のひ
っかかりとなったようで、光がなかなか見えてこない。初めての体験に対する、
私の潜在的な恐怖心が原因したようだ。
そこで、私は努めて身体の力を抜いた。気をつけてみると、やはり肩ははっ
ていて、緊張していたのだ。できるだけリラックスして、何回か行なっている
と、だんだん光が戻ってきた。そして、意識があると、ないとの中間状態(こ
れも言葉では説明できないが)に入るようになった。
そのときも、黄金色の光が頭上にあり、クンダリニーが上昇し、全身が光の
身体になったような感覚になり、思考が停止する。そして、またゆっくりと思
考が働きはじめて、体のしびれがとけていく。意識の中間状態は、こんなプロ
セスで入って、さめていく。
何回、いや何十回か、私はこの状態に入った。
そして、この後、前述の失神状態、光に飛び込んだ状態も二度体験した。三
度とも同じプロセスである。違っていたのは、目覚めたときに体が前のめりに
なって、床に頭をついていたこと(二度目)、そして、体が前後に震動してい
たことだ(三度目)。ツァンダリーのプラーナーヤーマの時間が終わり、ヴァ
ヤヴィヤの時間に入る。しかし、もうヴァヤヴィヤでは、ほとんどエネルギー
は上昇しない。そして、エネルギーのロスをするように感じる。疲れるのだ。
ヴァヤヴィヤは、多量なエネルギーを一気に上昇させる働きはあると思うが、
この時点では下位のチァクラにエネルギーがそれほどないために、上昇させる
ために使うエネルギーをロスさせるのではないかと思う。
逆に、ツァンダリーのプラーナーヤーマでは、微細なエネルギーを上昇させ
るようだ。そういえば、三日前くらいから、ヴァヤヴィヤでの強烈な快感はな
くなり、ツァンダリーのプラーナーヤーマで快感を感じるようになってきてい
る。
ヴァヤヴィヤをやめて、三昧に入ろうと思い、座る。しかし、三昧にはなか
なか入れない。ツァンダリーのプラーナーヤーマをやろうかどうか迷った。
先生にお聞きした。三回失神したことをお話しすると、
「光の中に飛び込め。」
とおっしゃった。そして、ツァンダリーのプラーナヤーマがよいとのことだっ
た。
しばらく続ける。先生がいらっしゃった。
「今日、必ず解脱するぞ。」
とおっしゃった。そして、最後のイニシエーションを与えて下さった。強烈な
エネルギーだ。頭に気が集まっている。
修行を開始する。まだ、頭頂部にエネルギーの塊がある。先生のエネルギー
が、そのまま残っているらしい。ツァンダリーのプラーナヤーマではダメだ。
先生のエネルギーがとけない。ものすごく強いエネルギー体だ。強い刺激を与
えなければと思い、すぐにヴァヤヴィヤを始めた。三十分くらい行なって、ツ
ァンダリーのプラーナヤーマに入った。
快感が走る。震動する。しびれる。そして、太陽の光のようにまぶしく、も
のすごく強い、明るい黄金色の光が頭上から眼前にかけて昇った。
金色の光が、雨のように降りそそいでいる。そして、その光の中で、私は至
福感に浸っていた。
この太陽は、その後何回も昇り、そして最後に黄金色の渦が下降し、私の身
体を取り巻いた。
このとき、私は光の中に存在していた。いや、真実の私は光そのものだった
のだ。その空間の中に、ただ一人私はいた。ただ一人だが、すべてを含んでい
た。真の幸福、真の自由は、私の中にあった。真実の私は肉体ではなかったの
だ。
そのとき、私は光だった……
《ケイマ大師の成就について》
ケイマ大師はシャクティーパットができる唯一の大師である。私は彼女
以外、シャクティーパットを認めていない。
というのも、彼女はクンダリニー・ヨーガを成就してから、五ヵ月たっ
た今、それを完成させることができたのだ。そして、もう少しでジュニア
ーナ・ヨーガの成就というところまできている。
成就前を振り返ってみると、性格的には自己表現が苦手だったようだ。
しかし、
それを超越することができ、自己を改造することができたのである。
また、愛情欲求・食欲という、一般に女性に多い煩悩が成就を妨げてい
たが、それらもつぶすことができた。
彼女の独房期間が短かかったのは、ひとえに功徳のおかげである。今ま
で十分 に功徳を積んでいたので、一気に結果が出たのである。修行に
は功徳が絶対に必要なのだ。加えて、彼女はグルに対する信もしっかりし
ていた。クンダリニー・ヨーガを成就するためのポイントをきちんとクリ
ヤーしているのだ。
また、この体験談には出てこないが、既にかなりの数の前世を思い出し
ている
ことも一言付け加えておこう。
専門用語の解説
クンバカ プラーナーヤーマやムドラーなどで息を止めること。
レーチャカ 息を吐ききった状態でのクンバカ
プーラカ 息を吸った状態でのクンバカ
バンダ プラーナーヤーマやムドラーなどでクンバカ中に体の
各部位を引き締めること。基本的にはムーラ・バンダ
(肛門)、ウディヤーナ・バンダ(お腹)、ジャーラ
ンダラ・バンダ(喉)の三つがある。
参考文献 生死を超える
マハーヤーナ
#122/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 3 20:15 ( 39)
オウム真理教 ジュニアーナ・ヨーガ ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より オウム真理教ネットにおいて
◎ステージ3(パターン1)――ジュニアーナ・ヨーガ
分析のヨーガ。物事をありのままに見つめる純粋観照智により、自らの煩悩
を原因レベルにまでさかのぼって分解する、煩悩に全く左右されない解脱の状
態。仏典でいうところの「供養値魂」(阿羅漢)を指す。ジュニアーナ・ヨー
ガを成就すると、例えば相手のカルマを受けても、その状態を正確に分析する
ことによって、カルマを消してしまうことができる。よって、シャクティー・
パット等をしても元の状態に戻れるわけです。もちろんこれは精神的な問題で
あって、肉体的な影響はやはり受けなければなりません。ただ実際はなかなか
大変なようです。マハー・ケイマ正大師がのべ二千人近くのシャクティー・パ
ットで受けたカルマを完全に消滅するまで一年以上かかったといいます。
クンダリニー・ヨーガのときの変化身の体験により、全宇宙が三つの世界に
よって構成されていること、そして宿命通で過去世を知る事により、この世の
人間関係というものが、マーヤ(幻影)にすぎないということを悟ります。そ
れにより、平等心が身につき、その平等心を背景として、グルから伝授された
公式を使って、純粋観照智であらゆる事象を、そして自己の煩悩をスパスパと
解析していき、最終的にセルフ・リアライゼーションという、本当の自分を知
る、ヒナヤーナにおける最高の悟りに到達するのです。
この境地に達した修行者には、正悟師の称号が与えられます。オウムでは、
この正悟師以上にならないとシャクティー・パットをする事ができません。
参考文献 マハーヤーナ・スートラ
マハーヤーナ
#123/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 3 22:32 (160)
オウム真理教 マハー・ムドラー1 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より オウム真理教ネットにおいて
◎ステージ3(パターン2)--マハー・ムドラー
ジュニアーナ・ヨーガの別パターン。方法は違いますが結果的に得る境地は
ジュニアーナ・ヨーガと一緒です。いままでオウムで誕生した正悟師は全員こ
のマハー・ムドラーで成就しています。
マハー・ムドラーは、コーザルにある、この現象界に関わるデータを一時的
にグルが具現化します。例えば嫉妬心、怒り、無智と言ったデータを意図的に
現象化させるわけです。そして経験させて、それが苦であるということを理解
させた上で、一気にグルの力によって抜き去るのです。よって、この修行にお
いては弟子はグルによって多大な苦を経験させられるため、グルに対する絶対
的な帰依というものが不可欠になってきます。また、グルは弟子の煩悩状態を
見抜き、弟子が落ちないぎりぎりの状態で弟子に苦を与え、煩悩が苦の原因で
ある事を理解させた上で、最後はそれを抜き取るという高度なテクニックが要
求されるため、このマハー・ムドラーをかけることのできるグルは非常に高い
ステージに達していなければなりません。
このマハー・ムドラーの完成は、最終解脱するまでありえません。
クンダリニー・ヨーガまではヨーガ的な色彩が強いのですが、ここから先は
完全な仏教になります。
それではここで、マイトレーヤ正悟師のマハー・ムドラー成就時の手記をご
紹介しましょう。
アニャータ・マイトレーヤ大師誕生す!
「約束された救済者への道」
性欲について思索を始めた。その瞬間だった。性欲がズバッと落ちた。
続けてプライドについて瞑想した。すると、思索を始めてすぐに、プライド
に対応するチァクラのあたりに何かがチカッと光って消滅した。そして強いエ
ネルギーが昇り、目の前が光で満たされていった。
「煩悩が瞬間的に滅するとは、このことか!」
それまでどうしても到達できなかったステージだった。極厳修行のときも、
その後の修行でも、一回も経験することができなかった。前回の極厳修行でク
ンダリニーヨーガを成就したが、それは修行が完成したという訳ではない。特
に支部での救済活動など、他人の影響を強く受ける環境では、煩悩を押さえき
れずに何度となく振り回され、自分が自分の思うようにならず苦しみ続けてき
た。
しかし、このとき、
「煩悩は本当に滅することができるんだな」
と、私は実感した。それは、私が修行を始めてからずっと求め続け、初めて体
験した“本当の喜び”だった。煩悩を満たすことによっては絶対に得られない、
自分のすべてが喜んでいる状態だった。
ずば抜けた論理性、秀でた英語力、澄んだ瞳に知性が光る。
三年前、早稲田大学大学院から宇宙開発事業団というエリートコースを振り
切り、修行の道を選んだマイトレーヤ大師。彼は、修行においてもその天才ぶ
りを発揮し、一回目の極厳修行において、ジュニアーナ・ヨーガ的な方法によ
り、第三段階のヨーガ、マハー・ムドラー成就の一歩手前までいっていた。八
七年十月のことである。
それから、月日の経つこと約二年。大師は見事、個の完成であるマハー・ム
ドラーの成就を果されたのだった。この第三段階のヨーガ、マハー・ムドラー
は、思索によって完璧に煩悩を破壊するヨーガである。そして、エネルギーの
昇華により、もたらされるクンダリニー・ヨーガの成就とは違い、マハー・ム
ドラーの成就は、グルの力と本人の努力によって心のプロセスを進め、煩悩を
消滅させるため、非常に難しいといわれている。
大師の成就を知らされたとき、だれもが何の疑問もなく納得した。あの修行
の天才、マイトレーヤ大師のこと、この成就もさぞやすんなりとされたに違い
ない――多くの者がそう思ったことだろう。
しかし、成就までの二年間が私達の前に明らかにされるに従って、そこには
並々ならぬ苦悩と努力の跡が隠されていることに気が付いた。
「マイトレーヤはマハー・マーヤの次に長く苦しんだんだ。」
麻原彰晃尊師も、マイトレーヤ大師の今回の成就についてはこう語られていた。
“長く苦しんだ”という言葉が妙に心に響く。
マイトレーヤ大師が自ら書かれた手記の中には、大師が独り心の中で葛藤し
ていたその苦悩の日々が赤裸々に描かれていた。私達がいつも目にしている大
師とは違う、一個人としてのマイトレーヤ大師――この修行の天才児ゆえの苦
しみと葛藤の道程が、今初めて明らかにされる。
◎偽りの修行、偽りの救済
※マイトレーヤ大師のマハー・ムドラー成就までの苦悩の原因は、大師の出家
の動機の中に既に潜んでいたようだ。
「解脱していないから当然ですが、自分の出家の動機は、本当の意味での修行、
救済からは、かなりずれていたと思います。そのため、八七年七月から三カ月
間続いた極厳修行でも、自己の心の弱さによって、マハームドラーの成就まで
修行を貫徹することができなかったのだと思います。」
と本人は語られる。
あの頃は、解脱と悟りを得て、人々を救済するために出家したのだと自分で
は思っていた。しかし、今思うと、「解脱=スーパーマンになれるんだ」とい
った気持ちが強かったし、救済といっても、ニューヨーク支部でかっこよく活
躍することばかりイメージしていた。苦悩に満ちた六道輪廻から脱却するため
に、長い修行の道程を真剣かつ地道に歩み続けていくという謙虚さがなかった。
自己のエゴ・プライドを満たすための偽りの修行、偽りの救済願望だったと思
う。
そのような心の働きの結果、一回目の極厳修行でマハー・ムドラーを成就で
きなかった。クンダリニー・ヨーガ成就後、尊師には、「マハー・ムドラーの
成就が近い」と言われていたが、より高い成就を得るためのより高い壁にぶつ
かっていた。その壁はなかなか越えられそうになかった。加えて、「クンダリ
ニー・ヨーガは成就している」、「ニューヨーク支部設立の準備に忙しくなる」
など、修行の中断を正当化する理由があり、心にスキを作っていた。
今思うと、たとえあと何カ月かかろうとも、ねばり強く修行し、自分の壁を
越えることこそが、本当の意味での自己の進歩、救済につながることだった。
しかし、そのときは、修行と救済の真の意味合いを理解しておらず、修行の動
機自体が煩悩的であったため、修行を貫徹するに十分な心の強さ、心の支えと
いうものが、私にはなかった。
※三カ月間の修行を終え、極厳修行を出た大師は「成就者」、「大師」として
紹介される。尊敬と羨望に満ちたまなざしが降り注ぐ中で、大師は心の片すみ
で何か引っ掛かりを感じていたという。クンダリニー、五大エレメント、光球、
ダルドリー・シッディ、バルドーの体験、三昧……等、神秘体験は多かったが、
期待していた大きな精神的変化が得られなかったと感じていたからである。こ
れは、既に前生で同じ変化を経験している修行者の場合、慣れのため、あまり
変化を感じないからだ
そして、この引っかかりが修行に対する不信として頭をもたげてきたのであ
る。
「自分は三カ月も必死に修行したが、結局大きな精神的変化は得られなかった。
本当に修行で煩悩を完璧に滅し、別人のようになれるのだろうか。尊師の言わ
れるような解脱や悟りは本当に得られるのだろうか。」
と。もちろん、その一方で、
「もっと修行し続けていたら、何か得られたに違いない。不信を持つ前にもっ
と修行し、努力すべきだ。」
という意識が反発し、その疑念を否定しようとした。この葛藤は、支部開設の
ために渡ったニューヨークの苛酷な環境によって、さらに激しいものになり、
ぶり返してくるのである。
#124/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 4 9:21 (161)
オウム真理教 マハー・ムドラー2 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた
麻原彰晃尊師より オウム真理教ネットにおいて
◎進まぬ救済活動
※ニューヨークでの救済活動は、ストレスの連続だった。大学時代クラブで英
語の勉強をしていたとはいえ、マイトレーヤ大師自身、実際の海外生活は初め
てであった。特に初めの頃は、英語を使えるのが大師一人だったので、電話の
受け答え、信徒・非信徒との対応、翻訳、法律関係の仕事が集中的し、精神的
にも肉体的にも大変な負担がかかった。
また、周りのシッシャは、慣れない環境に苦しみ、思うように奉仕活動がで
きずにいらだっていた。シッシャになったばかりの人もおり、その指導は大変
だったようだ。
そして、大師の一番の悩みは、入信がなかなか増えないことだった。
翻訳本や入信パンフレットなどの出版物がそろっていないことに加え、当時
のニューヨークには、インド・ヨーガ、チベット仏教等の伝統宗教だけでなく、
ニューエージという精神世界のブームが起こっており、無数の団体とマスター
(指導者)が割拠していた。もちろん、その中には多くの偽物のマスターがい
る。そのせいで、オウムを訪ねて来る人々は、これは本物だろうか、それとも
偽物だろうかと、強い疑いの目で見る人がほとんどだった。
しかも、オウムの入会金、修行代が、多団体に比べて非常に高いということ
も大きなネックになっているようだった。アメリカの宗教団体は、奉仕団体の
性格が強く、修行代が安いだけでなく、貧民に無料で食事を出しているところ
が多かった。修行者が、自分の物質的執着を取るために布施をするという、仏
教的価値観は広がっていなかった。
これについて、尊師は、
「物資的なものでなく、修行に価値を見いだすように、価値観を変えてやらな
ければならない。」
と言われた。そこで、私はいろいろ工夫し、価値観を変えさせるように努力し
てみたが、予備知識もなく、信の全くない人達の価値観を、入信案内の限られ
た時間に変えることは難しかった。
◎不信――最終解脱者なのにどうして?
※これらのことが重なって、極厳修行後に芽生えかけていた修行に対する疑問
が、再び大師の心にぶり返して来たのだった。そして、それはさらに危険な方
向へと発展していく。
どんなにうまく説明しても、言葉に何かを感じさせるヴァイブレーションが
ないから入信してくれないのではないだろうか。自分自身、修行によって大き
な精神的な変化を経験していないのだから、話す言葉に真実味が出るわけがな
いと考えるようになった。
もちろん、修行を進めていけば変化はあるんだという気持ちもあったが、こ
の頃は、様々なストレスが高じて、心が相当弱っていた。また、日本よりさら
に煩悩的なニューヨークの波動にも相当影響されていた。そのため、極厳修行
以来全く消えていた性欲が出てきたり、食欲については、定められた戒さえ守
りにくい状態になっていて、修行を進めるどころではなくなっていた。
このようにして、私は、「修行に対する不信」と「そこから抜け出すための
修行ができないこと」のジレンマに陥ってしまった。何度も何度も「もっと修
行するんだ」と思っては挫折して……。自分の弱さというものを嫌というほど
感じる毎日だった。
そして、このような精神状態のときだからだろうが、この修行に対する不信
は、グルに対する不信へと発展していった。それは様々な小さな出来事がきっ
かけとなった。
例えば、尊師が、
「入信を増やすためには、思い切ったことをやった方がいい。五十ドルの料金
で、五時間くらいのマントラ講習会をやれ。」
と言われたことがあった。私は、
「何の信もない人が、マントラを一つ伝授するだけで五十ドルも払うわけがな
い。」
と思い、思わず耳を疑った。それでも尊師の意思は実践しなければと思ってや
ってみたのだが、結局だれも来なかった。今から思えば、不十分な宣伝や、自
分の功徳のなさなどが原因だった。限界の努力をしたわけでなかった。自己の
努力不足を反省すれば、向上することができるのに、自分を守ろうとする心の
働きが強く、その結果、
「最終解脱者なのに、どうしてこんな指示を出すのだろうか?」
と考えるようになってしまったのだ。そして、このような出来事が何回かあり、
その度に心の中に不信と怒りの感情が育っていった。
◎もう一つの苦悩――愛着による苦しみ
また、もう一つの苦悩は、以前恋人だったU大師に対する執着だった。私の
U大師に対する愛着は、性欲だけではなく、様々な精神的なものに基づいてい
た。クンダリニーヨーガの成就後、性欲については、他人の影響や強烈なスト
レスによって、一次的に生じることはあったが、もちろんそれで自分の行動に
大きな影響があるわけではなかった。
しかし、今思うと、尊師が「ポアの集い」の説法でも言われているように、
精神的な部分ではまだ執着の根が残っていた(『マハーヤーナ』に掲載)。そ
の原因の一つは、恋人であったために、その人を正確に理解できず、間違った
イメージを持ち続けていたこと。もう一つは、男性にありがちな支配欲求みた
いなもの、自分が精神的に優位に立っている関係を求めているところがあった
ということだ。実際、恋人だったときは、いろいろ助け合いながらも、精神的
には自分がリードしていると感じている部分があった。
尊敬は折りに触れ、私にU大師への愛着について注意された。しかし、当時
は、このような自分の心の働きが理解できておらず、尊師の忠告にもあまり納
得がいかなかった。しかし、実際は、執着のために苦しみを感じることがしば
しばあった。
例えば、U大師は、ニューヨーク支部の状態を聞くために、定期的に電話を
かけてくることがあったが、あまりかんばしくない入信状況を報告すると、そ
の都度かなり手厳しい言葉をいただいた。客観的にみれば、叱咤激励以外の何
ものでもなかったのだが、精神的な優位性が崩れ、プライドが傷付いた私は、
その言葉に対して怒りと苦しみをを感じた。このようなことが、私はニューヨ
ーク滞在中に何回か続き、私の心の中には、U大師に対する愛着と嫌悪が混ざ
ったような感情が育っていった。
その自分の煩悩にさらに追い討ちをかけたのが、尊師の言葉だった。
「お前には、Uを背景にした、私に対する闘争心がある。」
つまり、U大師が私への愛着を完全に断ち切り、尊師のもと、東京で修行に専
念していることを快く思っていない心の働きがあるだろうということだ。自分
のU大師に対する支配欲求が、尊師によって阻まれているということである。
しかし、そのときの私は、この言葉を意外に感じ、納得がいかず、またも尊師
に対して不信感を強めてしまった。
だが、尊師の言葉は、その人の潜在意識にあって、後から表面に出てくる意
識を示唆している場合が多い。実際、ニューヨークから帰国した後、尊師に完
全に心服しているU大師を恨めしく思うようになっていった。
◎生まれて初めての挫折
※八八年三月、マイトレーヤ大師の様々な苦悩は頂点に達する。同じニューヨ
ークに滞在していたK大師に相談を持ちかけるほどひどい状態だった。結局、
日本に戻るよう指示されるが、その極限状態の中、一つのひらめきが得られた。
「私の心は常に揺れている。不信が生じ消え、苦しみが生じ消え、これが繰り
返されている。今回の苦しみも時間がたてば消えていくだろう。揺れる心を自
分自身として、それに埋没するのではなく、心から意識を離すように努力して
みよう。そう言えば、経典には『心は無常なり。無常なるがゆえに苦なり。苦
なるがゆえに無我なり』という教えがあった。知識としては知ってはいたが、
これはこういうことだったんだな。」
こう考えた瞬間、ふっと何か楽になった。一種のあきらめみたいな感情も含
まれていたが、「よし、修行を続けていこう」という気持ちが戻ってきた。
ところが、この小康状態も、さらに強烈なパンチによって崩された。東京か
ら、すぐ戻るようにという指示があったのだ。どうやら、私のことをK大師が
心配されたのだろう、前日相談した話が東京に伝わったようだった。「そうい
う状態ではニューヨークに置いていてもしょうがない」というのが理由だった。
俗にエリートコースと言われる人生を歩んできた自分にとっては、このニュ
ーヨークでの活動は、生まれて初めての完全な敗北であり、プライドが完全に
つぶされたかっこうになった。また、ニューヨークでの支部活動は出家の動機
でもあったから、そこを離れなければならないというのは大きな衝撃だった。
断ち切れぬ強い執着を残したまま、私はニューヨークを後にした。
#125/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 4 16:21 (135)
オウム真理教 マハー・ムドラー3 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より オウム真理教ネットにおいて
◎山の中腹――最も苦しいとき
※疲れた心を引きずって、大師は半年ぶりに東京に戻ってきた。ちょうど水中
エアータイト・サマディが行なわれようとしていた頃のことである。大師はワ
ークに励んだが、その間中も、疑念・怒り・自分に対する情けなさ等が入り交
じり、心は掻き乱された。そして、大師は尊師に疑問をぶつけた。
前に述べたように、私の心には、修行の結果に対する不満が生じていた。そ
して、いくつかの納得いかない指示によって、尊師に対する不信感をつのらせ
ていた。もちろん、その一方で、自分の修行をもっと進めれば、その効果を体
験できるのではないかと思ってはいたが、煩悩のために、修行に没頭できない
というジレンマに陥っていた。
このことを尊師にお話しすると、
「それはプライドだ。」
と、一刀両断されてしまった。
私は大学を出てすぐにオウムに入ったが、学業でも、クラブ活動でも、かな
り熱中するタイプで、それなりの結果を出していた。それで、「自分はこれと
思ったことには没頭でき、成果を上げられる人間だ」というプライドを持って
いたのだ。このため、没頭できようとできまいと、大きな成果が出ようと出ま
いと、ただひたすら地道に修行していくという気になれなかった。そのため、
修行しても結果が出ないんじゃないかという、プライドの裏返しの卑屈な考え
が出てきてしまっていたのだ。
また尊師は、私が極厳修行で得た神秘体験を指摘され、
「得たものは得たとして評価しなさい。そうしないと修行意欲がなくなる。」
ともおっしゃられた。
確かに私には、「尊師の力によって、多くの神秘体験をさせていただいた」
という感謝の気持ちが薄く、自分が得ていないものがあると不満に思うという
傾向があった。これもプライドのせいだろう。 さらに、尊師は、
「お前が今苦しいのは、山の中腹まで来ているからだ。山のふもとは傾斜が緩
やかだから、楽に登れる。頂上が見えたときも楽になる。一番つらいのが、山
の中腹にいるときだ。」
と続けられて、修行は進んでいるんだということを示唆された。
もちろん、不満と不信にとらわれていた私の心が、この尊師のお話しによっ
て、すべて変わったということではない。不信感を育てた過去の出来事の印象
は、自分のプライドの問題とは別に、私の中に根強く残っていた。そのせいで、
私はこのとき、「よし、あと十年は我慢して修行しよう」という決意をしてい
た。シッシャとなったからには、一生グルに付いていくというのが当然だから、
今思えば恥ずかしい限りだが、その当時はこのように時間を区切ることが自分
のエゴに対してのギリギリの攻めだった。
とにかく、尊師のこのお話は、修行において私を昔よりねばり強くしてくれ
た。この後今回の成就まで一年半以上あったが、その間の変化というのは、一
見非常にゆっくりとしていて微妙なものだった。だから、私の修行に対する姿
勢が以前と全く変わっていなかったら、途中で放り出してしまっていたかもし
れない。
◎強烈なカウンターパンチ
※水中エアータイト・サマディが終わった八八年五月、心の中に様々な苦悩を
秘めながら、マイトレーヤ大師は東京本部を中心として活動を続けていた。そ
のとき、大師の心をさらに揺さぶったのが、ニューヨーク再赴任の話であった。
再びニューヨーク行きの話が尊師から舞い込んできた。
「また、ニューヨークをやらせるから、そのスタッフを考えておくように。」
と言われたのである。私の心は緊張しながらも、喜びに包まれた。ニューヨー
クでの活動は、私にとって出家の大きな理由だ。加えて、失敗のまま終わりた
くないという気持ち、語学力やニューヨークに関する知識において秀でている
という自負、さらに非難した人を見返してやりたいという気持ちが合わさって、
自分をニューヨークに駆り立てていた。
※しかし、これも尊師のマハー・ムドラーであった。数日後、尊師は会議の席
上で、
「アメリカに行くか行かないか、もう一度考えて決めろ。」
と、マイトレーヤ大師に問いただされたのであった。そして、
「マイトレーヤには精神的弱さがあるから、再び失敗したら、二度目の挫折に
なるだろうし、M大師の方が適役ではないか。」
と続けられたのである。尊師のこのお話は、形としては、大師に選択を任せる
というものであったが、流れは明らかに一つの方向を示していた。
二十分くらい話し合いが続き、マイトレーヤ大師はやっと重たい口を開き、
「M大師にお願いします。」
と言ったが、心は明らかに言葉とは逆であった。
このとき、「ニューヨーク=自分のオウムでの存在価値」というプライドが
ずたずたになった。「よし、やるぞ」と思っていたさなかにくらった強烈なカ
ウンターパンチだった。
今思うと、特定の国の人を救済したいというのは、おかしな考え方で、執着
以外の何ものでもない。
「執着は苦をもたらす。」
このことを悟らせるための尊師の愛の鞭だったのだろうが、このときはそう考
えることはできなかった。修行意欲を支える糧を失い、私の心は大きく揺れた。
これからは、自分の才能を発揮できず、無気力な人生を過ごしていかなくて
はならないような気がした。「現世の方がもっと充実した人生を送れるのでは
ないか」「いや、現世に戻っても、もうもとには戻れない。みじめになるだけ
だ」という考えが目の前をちらつき、私を苦しめた。
◎ありがたい忠告
※マイトレーヤ大師は、日々の修行に対する疑問に葛藤していたが、疑問を自
らの内に秘めておくというのを嫌った大師は、それらの疑問を他のシッシャが
いる場でも尊師にぶつけることが多かった。そして、そのことで先輩のK大師
やP大師から自粛を求める忠告を受けた。それは六月のインドでのことである。
今から思うと、この忠告は大変ありがたいものだった。なぜなら、私は修行
やグルを否定するという、大きな口のカルマを積んでいたからだ。この忠告の
後、私はできるだけそういう口のカルマを積まないよう努力した。もちろん、
これは自分の大きな特徴だったから、他の大師から見れば目に付くこともあっ
たろうが、自分としては以前と違ってだいぶ押さえようと努力していたことは
確かだ。
そして、今考えると、この時期を境に、極めてゆっくりではあるが自分の疑
問が解決していったのである。それは、功徳を積みつつ、教義や自分の煩悩に
ついて思索、瞑想するという基本的な修行によるものだった。すると、煩悩と
誤った観念のために、不信が生じていることがわかってきた。煩悩と観念によ
って生じた疑問を、煩悩と観念にとらわれている心が増幅させているだけだった。
#126/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 4 18:42 (165)
オウム真理教 マハー・ムドラー4 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた
麻原彰晃尊師より
オウム真理教ネットにおいて
◎グルの素晴らしさ――選択は一つ
※さらに、このインドの滞在で、大師は自分の尊師に対する甘えに気付く。そ
して、グルの本当の価値を認識するようになる。
チベット仏教、カギュ派の総帥カール・リンポチェの所に尊師と共に滞在し
ていたときのことだ。私は、毎日尊師の通訳として、リンポチェの講義に出席
していた。
このときも、私は不信により帰依というものに悩んでいた。
そうした私に、尊師はこうおしゃった。
「私はタントラのグルだ。帰依ができないなら、タントラの道は歩めない。大
乗がいいなら、カール・リンポチェの弟子になれ。」
リンポチェは弟子に対して、比較的ソフトで、ゆっくり時間をかけながら帰
依させていくというタイプだった。一方尊師は超スピードで弟子を成就させる
ために、厳しい愛のムチで弟子のカルマを落とす。その愛のムチが誤解される
と不信につながるので、人によっては帰依しずらいのだ。
この尊師の言葉は、私の心に一種の目覚めのようなものを与えた。それまで、
私は自分の修行において、尊師がいなくなることを考えたことがなかった。も
ちろん、他のグルを比べたこともなかった。
これは、ある意味で矛盾している。尊師に対して不信を持っていると言いな
がら、尊師なしの修行を全く考えていないわけだから。今思うと、やはり心の
奥では、「修行するならこの人のもとしかない」と思っていたのだろう。そし
て、不信の原因は、やはり現世的な煩悩が背景にあったのだ。
また、その少し前に、尊師が、
「グルというのは花のようなものだ。遠くから見ると綺麗だが、近寄ってみる
とグロテスクな部分もある。いつもグルのそばにいると、グルの価値がわから
なくなる。」
と言われたことがあった。
遠くから尊師を見ている信徒さんと違って、厳しいカルマ落としをされる弟
子にとっては、その未熟さのため、グルが憎しみの対象になることもある。そ
して、いつもそばにいることができると、それが当然となってしまい、その大
きな恩恵に気が付かなくなってしまう。つまり、甘えが生じるのだ。
もちろん、この話を初めて聞いたときは、自分の煩悩と観念のために素直に
受け入れることができなかった。しかし、尊師から、
「カール・リンポチェのところへ行くか。」
と言われたときに、初めて自分が尊師から遠ざかることを具体的にイメージす
ることになったのだろう。尊師を失うことによる損失の大きさ、言い換えれば
日頃受けている恩恵というものをおぼろげながら感じることができた。
この体験がベースとなって、その後かなり時間がたってからではあるが、こ
う考えるようになっていった。
修行が完成していない者は、非常に深い意味のあるグルの行為のすべてを理
解することはできない。不信が、自分の煩悩や観念によるものだということ理
解することもできない。それは、修行を進めない限り解決しない。修行が完成
していない者にとって一番大切なのは、帰依するか帰依しないかをはっきり選
択しなければならないということだ。尊師の説く修行の道、他のグルの道、現
世での人生……。尊師の道を選択したなら、その道を全力で前進しなければ、
短い人生の時間を無駄にするだけだ。前進しなければ解決しない不信のために
立ち止まったり、選択しなかった現世の方に目をやっても何の意味もない……。
このように、極めてゆっくりとだったが、甘えによってゆがんだ心と、不信
にとらわれていることの無意味さを理解するようになっていったのだったと思
う。
◎愛着、嫉妬、怒り……
※インドから帰って間もなく、マイトレーヤ大師は、名古屋支部に派遣された。
そこにはU大師がいて、このときにも、愛着というものの苦しさを経験をとお
して十分味わうことになった。
昔はU大師が私に追随するという感じだったが、そのときは、大師として自
己を確立していて、支部活動においては自分なりのやり方を持っておられ、名
古屋支部は活気づいていた。それは、U大師の大きな精神的な進歩だった。と
ころが、私には依然支配欲というものがあって、大師の進歩を心から喜ぶこと
ができなかった。また、支部活動において、大師のやり方を十分に尊重できず、
自分の主張をしすぎることがあった。その結果、私の心は、嫉妬、怒りなどに
とらわれることが少なくなかった。
これは自分でも自覚していたが、尊師が私を名古屋に送ることによって、愛
着の苦しみを経験させようとしたのだろう。今思うと、このような経験を通じ
て自分の心は少しずつ変わっていったような気がする。
◎煩悩超越のための試行錯誤
※そうこうするうち、ニューヨーク支部の決算、宗教法人の申請などの法律関
係の仕事と、尊師の著書の英訳を中心の目的として、再び大師は渡米すること
になる。
ニューヨーク支部にもう一度行くということが決まったとき、前回のように
ストレスによる煩悩に負けないこと、特に性欲・食欲をコントロールすること
を目標にした。
それまでも、煩悩のコントロールには手を焼いていた。というより、それは
本当に深刻な悩みだった。
煩悩を含めたいろいろな心の問題を解決するためにも、修行を進めることが
第一だと思っていたから、いろいろな方法を試しては試行錯誤していたのだ。
ある時期は、煩悩に負けたときの悔しさを繰り返しイメージし意識した。暇
を見つけては「大乗の発願」を唱えたり、「修行するぞ、修行するぞ」とぶつ
ぶつ言い続けていたこともあった。これらは、心は日頃インプットされる情報
に左右されるという教義に基づいて考えたものだった。
その中で、一番思い出に残っているのが、このニューヨークでの断食だ。性
欲は、食事を控えれば押えられるし、食欲も全く食べなければいいわけだし、
食事量を減らせば睡眠時間も減るだろうと考えて、五日間くらいの断食を二日
間のインターバルを挟んで、四、五回繰り返したのだ(こんな無理な断食がで
きるのは成就者だからだと後に尊師から言われたので、決してまねしないでく
ださい)。
断食も、始めて三日目くらいになると、呼吸が止まるようになり、集中し続
けていると意識が途切れそうにもなった。ツァンダリーも頻繁に起こるように
なって、その快感は何もせずにただ座っていたいと思わせるほど強いこともあ
った。そして、最後の日には非常に心が軽くなり、すべての人が愛せそうな気
持ちになったのだった。 この断食に成功したことで、私は一時的にではある
が煩悩に勝つことができたと思った。もちろん、その後、食欲がぶり返してし
まって長くは続かない勝利感だったが、煩悩の手ごわさに手を焼き続けてきた
私にとっては、本当にうれしいことだった。
◎断ち切られた執着
※だいたい八月末から約二カ月、大師はニューヨーク支部に滞在した。その間、
大師は、『マハーヤーナ・スートラ』『生死を超える』『超能力・秘密のカリ
キュラム』の三冊の翻訳に大半の時間を割いていた。
そのうち、訳の校正のために、頻繁に支部に来てくれる信徒さんもでき、本
が印刷されたら一気に活動が拡大していくのではという希望も感るようになっ
た。
しかし、帰国した大師を待っていたのは、そんなニューヨークに対する思い
が完全に断ち切られるような出来事だった。
私が帰国して一週間ほど経ったとき、尊師の指示でニューヨーク支部が一時
閉鎖(翌年二月まで続く)されることになった。さらに、年が明けて間もなく
開かれた大師会議では、尊師から私が海外支部を担当することはもうないだろ
うということを言われた。
この一連の出来事は、強かった私の外国願望をほとんど強制的に打ち崩して
いくものだった。
そして、ある日、「もう、外国での救済を特に意識することはやめよう」と
半ばやけくそに思い切った。そのときは、自分を支えている大きな力がなくな
り、痛みと共に何か宙に浮くような感じさえしたが、その後は、私の外国への
執着はどんどん落ちていった。
自分にとってのニューヨークは、終始プライドや執着を落とす方に動いてい
たようだ。大変貴重な体験だった。
#127/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 5 10:21 (173)
オウム真理教 マハー・ムドラー5 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より
オウム真理教ネットにおいて
◎進む思索、深まる納得
※大師は、しばしば修行の大切さ、意味合いについて思索し続けていた。しか
し、それは修行と考えて積極的にやっていたのではなかった。心の奥から沸き
起こる修行に対する疑問を封じ込めるために、必要に迫られての思索だったの
である。
そして、ニューヨークより帰ってから八九年の初めにかけて、その思索がよ
うやく整理され、本当の意味での修行の大切さについて深く理解できるように
なり始めていた。
私の煩悩は、修行を妨げるために様々な疑問を投げかけてきた。修行の意義
を支える根本的な世界観、例えば、魂の存在、転生の存在、欲六界の存在、カ
ルマの存在などに対する疑問、自分の神秘体験が幻影ではないかという疑問、
在家で天界を目指す修行に妥協しようという誘惑……などが心に浮いてきた。
私の心は揺さぶられた。
そこで、私は、尊師の本を読み直すことに加え、オウムの出版物に載ってい
る大師方の体験、釈迦牟尼やチベット仏教の経典、欧米での信頼できる輪廻転
生の研究などに注目した。貴重な体験をした大師から、詳しい話を聞いた。関
連する経典、出版物にも目を通した。そうしながら、疑問に対する回答を見つ
けるため、自分の体験の意味合い、現世の意味合い、修行の意味合いなどを考
えていった。
これらの思索は、ある時期に集中して行なったのではなく、煩悩によって修
行に対する疑問が強くなる度に考えたことだ。何カ月間も同じところで答えが
出ずに、苦しんだこともあった。しかし、一つ一つの疑問が解決するごとに、
修行はするべきだという気持ちが、疑問を持つ心よりも着実に強くなっていっ
た。
修行を通じての世界観は、自分の体験だけでなく、信頼できる事実や他人の
修行体験を目にするうちに、自分の心の中で次第に確固たるものとなっていっ
た。
現世での生活を初めとする煩悩的な生き方についても、そのはかなさ、苦し
みといったものを感じるようになっていった。しかし、これには特に長い時間
がかかった。たぶん出家前にあまり苦しまなかったためだろう。
ここで役に立ったのが、前に述べたオウムでの様々な苦しみ、煩悩によって
生じた苦しみの体験だった。そして、その体験の中で培ってきた修行における
粘り強さだった。もちろん本に書いてある教義も役立ったが、自分自身の苦し
みの体験は何といっても強いインパクトを伴っていた。
◎仏陀の手の平の上で
※大師がニューヨーク滞在中やその後に経験した苦しみは、すべてグルが計画
したものであった。
煩悩を満たすことができている間は、煩悩がなぜ苦しみなのかということを
理解するのは容易ではない。ある程度功徳があり、あまり苦しみを知らない人
は、煩悩、現世は、苦ではないと考える。マイトレーヤ大師もこのタイプだっ
た。
しかし、それは苦にまだ出会っていないだけで、煩悩がある限りいつかは苦
しむことになる。親や恋人、財産、地位、名誉など、今はあっても、それらは
人生の荒波の中で、または死の瞬間に必ず失なわれるからである。だから、苦
しみを感じるときが遅すぎると、修行に縁のないまま転生し、同じことを繰り
返すという泥沼にはまるのだ。
そこで、グルが意図的に弟子に苦しみを与え、煩悩は苦であることを経験的
に悟らせるのが、マハー・ムドラーといわれる手法だ。しかし、これは弟子を
速やかに成就させるのには有効だが、反面危険性もある。弟子が己の未熟さか
ら、自分の苦悩の原因が煩悩であると考えず、グルが悪いと考え不信を持って
しまうことがあるからである。だから、マハー・ムドラーを仕掛けるグルは、
弟子が道をはずれない範囲で苦しみの経験をさせるように、弟子の力量を含め
たすべてを正確に見抜き、緻密な計画を立てなければならない。まさに、仏陀
にのみに可能な業である。弟子は「仏陀の手の平の上」にいるのだ。
私もこの落とし穴に落ちた。何回も落ちながら、次第に、
「いかなる苦しみも、自分の煩悩を背景にして生じる。グルや環境など外的な
もののせいにせず、自分の煩悩を滅することに心を集中しなければならない。」
と考えるようになった。そして、それまでの不信を尊師にザンゲしたのが、こ
の後、かのマハー・ムドラーの元祖、カギュ派のカール・リンポチェが入滅し
た際、インドを訪問したときであった。
◎同じ悩みを持つ法友のために
※八九年の二月から、マイトレーヤ大師は大阪支部に派遣された。徐々に真理
に確信を持ち、心が救済に向かい始めていた大師は、全力で支部活動に当たる
ことができた。マイトレーヤ大師は他の大師と協力して積極的な支部活動を展
開し、入信者数も同支部だけで毎月百人を越えるにいたった。
支部に来る人だけではなく、各地方を回ったり、信徒さんの自宅で「集い」
を開いたりした。ほとんどオウムを知らない人に入信の案内をすることも多か
った。このとき、修行の意味合いについて繰り返し思索した経験が、修行の世
界に懐疑的な一般の人を説得していくのに非常に役立った。
こうして大阪支部で巡り合った人の中には、今出家して一生懸命修行してい
る人もいる。もちろん、その人達はもともとオウムとの縁があったのかもしれ
ないが、何か自分の苦労が報われたような気がする。苦しむことがあっても、
その経験が、将来同じ苦しみを持つ人にとって役立つかもしれないということ
を考えると、何か元気が出てくる感じがした。
◎非難される釈迦牟尼の伝統
※この時期、尊師が衆議院議員選挙に出馬されることが決まり、大師も選挙活
動の準備に入った。そのさなかに突然始まったのが、マスコミによるオウム叩
きである。教団の外報部長として、外部と応対する緊張した毎日。その中で大
師の心の状態も大きく変化していく。
煩悩を肯定している現代社会に対して、宗教は煩悩を否定し、真理を求める
といった点で反社会的だ。そのため、仏教もキリスト教も最初は迫害された。
特にオウムは純粋に真理を求めるがゆえに、他団体のような妥協がない。その
分、悪意を持った人が、偏った見方によって攻撃しようと思えば簡単である。
まず、仏教の開祖、釈迦牟尼以来の最高の修行法であり、ノーベル賞を受賞
したダライラマ法王も行なった出家修行が、反社会的な行為と決め付けられた。
物質的な執着を取り、救済に貢献するための善意の布施は、金儲け主義と批判
された。神聖な秘儀の伝授であるイニシエーションは、無気味な儀式とセンセ
ーショナルに報道された――魂の真の幸福を願って作られたオウムの修行法が、
歪曲された形で次々と槍玉に上がる。
そして、その歪曲されたイメージがベースになって、ついに言われなき事件
にも巻き込まれる流れができてしまった。確固たる証拠と言えるものは何もな
いのに、実名入りで大きく報道された。
マスコミを中心とした、宗教否定、煩悩肯定の考え方の堅さを改めて感じた。
著しく価値観が違い、自分達の利益のためセンセーショナルな報道を第一に考
えるマスコミに対して、オウムの正当性を主張するのは大変難しかった。報道
の自由を振りかざし、他人の名誉を傷つけることに慣れた人々には、法的手段
をもって対抗するしかない場合もあった。
◎災い転じて福となる
しかし、この一連のオウム叩きは、私の修行にはプラスに働いた部分があっ
た。まず、現世の煩悩的な生き方に対する思いが完全に断ち切れたことである。
もちろん、それ以前に、その空しさ、苦しみもかなり理解していたと思う。し
かし、ある団体のスポークスマンとして、マスコミを通じ、その煩悩的な生き
方を否定する立場を主張するということは、どんなことがあっても修行の道を
一生歩んでいくはっきりとした選択なしにはできないことだった。
また、オウムを理解してもらい、真理を守るためにはどうしたらよいかとい
うことを常に考え、行動しなければならない状況にあったから、煩悩や観念に
とらわれている時間は必然的に少なくなった。刑事事件関係で連日テレビに出
演したときは、その準備に全く睡眠が取れないほどだった。前に述べた、修行
やグルを否定する口のカルマを積んでいた状態とは逆の状況になったのだ。こ
の功徳のおかげか、その後、私の修行はかなり早く進んでいったように思う。
◎近づくマハー・ムドラーの成就
※十一月の「ポアの集い」で、尊師は、マイトレーヤ大師のマハー・ムドラー
の成就を予言される。その言葉を裏付けるかのように、大師の成就を阻んでい
た二つの大きな引っかかりが次々と落ちていったのだ。
十一月の初旬、大阪支部から東京に戻ってくる途中、車内で瞑想していたと
きのことだった。相当に集中していて、二時間くらいずっと思索をした。する
と、長い間理解できず、大きな引っかかりになっていた教義について、ぱっと
ひらめいたものがあった。ズバッと納得できたという感じである。尊師がおっ
しゃるには、これが私にとって初めの「ポア」、すなわち意識レベルが瞬間的
に変化するという経験だった。
十二月に入ってすぐ、前に述べたU大師に対する感情にも、大きな変化をも
たらす出来事が起こった。執着というのは、往々にして偏ったイメージによっ
てできるが、そのイメージが崩壊したのである。そして、その後すぐ西ドイツ
に赴き、尊師のもとで、この執着について集中的に瞑想する機会が与えられた。
このあたりは、私にマハー・ムドラーを成就させるような方向に、周りの状
況が変化していったような気がする。すべてはカルマだろうが、尊師がおっし
ゃるには、シヴァ神の意思という大きな力が働いていたようだ。
#128/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 5 17:42 (189)
オウム真理教 マハー・ムドラー6 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より オウム真理教ネットにおいて
◎聖なるヒマラヤへ
※この後、マイトレーヤ大師は、尊師と共にヒマラヤへと向かう。その目的は
もちろん、マハー・ムドラーの成就である。
ウッタルカシー――そこは、ヒマラヤにあるこぢんまりとした町だった。近
くにはガンジス川が流れている。上流に近いので水は澄み切っていて、太陽の
日を受けると水晶のようにきらめく。
私達は、町中から少し外れて、質素なホテルに荷を降ろした。そこで、大師
は一人一部屋与えられ、それぞれ瞑想修行に打ち込むこととなった。前回の極
厳修行とよく似ているが、食事のときには外に出られるし、部屋も広いからプ
レッシャーは格段に少ない。
しかし、今回の修行には、一五〇〇メーター以上の高地であるということと、
特殊な漢方薬を調合し粉末状にした「丹」という二つの負担があった。丹は、
エネルギーが強化される反面、非常にまずくて消化もされにくく、大きな精神
的負担になった。修行を早く進めるために、尊師が考えられたものだった。
◎念を強めろ!
一回目の丹を食べた。その後瞑想したが、丹のせいで腹が重たい。意識は不
鮮明。三回ほど意識が飛ぶ。尊師のお言葉によると、丹によって上昇する風の
エネルギーが強いからだという。アナハタの引っかかりが前回の西ドイツでの
修行で取れているそうだ。
しかし、風エネルギーが強く上昇するため、潜在意識に入るが、同時に煩悩
についての思索もしにくくなって、ついつい意識が飛んでしまう。尊師は「風
エネルギーに意識が付いていっていない」状態だとおっしゃった。
二回目の丹を食べ、瞑想する。しばらくすると、尊師が私をお呼びになった。
「どのくらい思索できたか。」
「三十分くらいできました。その後また飛んでしまいました。」
「三十分できることはよいことだ。三十分の四倍、二時間になったらいろいろ
な変化が起きる。あと何日かの状態だ。」
「時間はどうやって延ばしていくんですか。意志の力ですか。」
「意志ではない。念だ。」
意志とは、欲求を満たそうとする心のある方向での働き、念とは修行を成就
しようとする心の働きで区別される。
念という言葉は心に響いた。
◎熾烈な加速実験
三回目の丹。通常丹は一日一回だが、これで一日半の間に三回食べたことに
なる。尊師は「加速実験」と言われていたが、早く成就するため、限界一杯ま
で丹を使おうということらしい。食べた後瞑想していると、下痢をもよおして
きた。
しばらくして、尊師から呼ばれた。
「吐いたか。」
「いいえ。下痢を三回しましたが、吐き気はありません。」
「すごい。加速実験に生き残ったのはお前だけだ。他の大師はみんな吐いてし
まった。アナハタなどでエネルギーの流れが詰まっていると吐いてしまうんだ。
それで瞑想状態はどうだ。」
「明瞭な意識と不明瞭な意識が交互に来るといった感じです。不明瞭なときは
眠りの中にいつつ思索しているといった感じです。」
「はっきりした意識というのは、今までのはっきりした意識と違うんじゃない
のか。」
「はい。そう思います。」
「意識状態によっては明日終わるかもしれないよ。」
尊師の最後の言葉に少し緊張しながら、私は自分の部屋に戻った。
◎初めて体験した本当の喜び
午後〇時ちょっと過ぎ、十七日になったばかりのときに、再び尊師に呼ばれ
る。
「もう〇時になったから言うが、今日終わるか、明日終わるかだ。それはお前
の念次第だ。」
とおっしゃった。
その後、再び丹の時間がやってきた。つらい。もう少しで吐きそうだ。どう
にかこらえて部屋に戻るが、胃がもたれた感じだ。
瞑想に入った。しばらくすると、眠気が襲ってきて、耐えられなくなった。
「眠るな! 今が一番大切なときだ。」
私は自分を励ました。
「苦しいが頑張らなくてはいけない。念だ! 念を強めろ!」
すると、いつもと違う非常に気持ち良い状態に入った。大変楽で静かな状態
だ。意識は深い感じなのに、すごく鮮明だ。呼吸もほとんどしていない。
「これが『楽』の状態か。」
ふっとそう思う。
瞑想課題について思索し始める。まず、性欲について意識を向けた。具体的
にイメージすると、性欲のエネルギーが上昇してくる。明るかったヴィジョン
が暗くなる。そして、性欲について思索を始めた。その瞬間だった。性欲がズ
バッと落ちた。
続けてプライドについて瞑想した。すると、思索を始めてすぐに、プライド
に対応するチァクラのあたりに何かがチカッと光って消滅した。そして、強い
エネルギーが昇り、目の前が光で満たされていった。
「煩悩が瞬間的に滅するとはこのことか!」
それまで、どうしても到達できなかったステージだった。極厳修行でも、そ
の後の修行でも、一回も経験することができなかった。前回の極厳修行でクン
ダリニーヨーガを成就したが、それは修行が完成したという訳ではない。特に
支部での救済活動など、他人の影響を強く受ける環境では、煩悩を押さえきれ
ずに何度となく振り回され、自分が自分の思うようにならず苦しみ続けてきた。
しかし、このとき、
「煩悩は本当に滅することができるんだな」
と、私は実感した。それは、私が修行を始めてからずっと求め続け、初めて体
験した“本当の喜び”だった。煩悩を満たすことによっては絶対に得られない、
自分のすべてが喜んでいる状態だった。
しばらくして、尊師の部屋を訪れる。今、かなり意識が鮮明になっていて、
もう終わりは近いということである。さっきの体験についてお話しすると、
「それは、マハー・ムドラーの成就の状態だ。」
とおっしゃられる。尊師の言葉のニュアンスは、「まだ成就とは言えないが、
今の状態をより確実なものにしていけばよい」といった感じに受け取られた。
もっと頑張らなければいけない。
尊師にご挨拶をして、私は立ち上がった。喜びと緊張の両方の感情に包まれ
ながら、部屋を出る。そういえば、今日は私の二十七回目の誕生日だ。きっと、
この日は人生の重要な節目となるに違いない。
「彼のマハー・ムドラーの成就の仕方は、ニンマ派で言うポア、これとも似て
いる。このポアというのは、六ヨーガの最後にくるヨーガなんだね。ポアとは
どういうことかというと、意識がパッパッと移り変わる。つまり、煩悩に集中
すると、その煩悩が落ちる。煩悩が落ちた段階で、その煩悩はなくなるわけだ
ら、意識はチェンジするということだ。つまり、完璧なタントラ的マハー・ム
ドラーの成就であるということがいえると思います。これも、一重に彼の前生
からの精進が実を結んだ結果である。」(麻原彰晃尊師コメント)
◎観念の崩壊に向けて
瞑想に入る。ヒンドゥー・ツァンダリーをするが、胃のもたれが治らない。
丹の影響で、性欲が少し出てきた。深い瞑想に入れず、性欲に押される感じだ。
丹の影響がさらに強くなってくる。性欲を感じる対象を分解しようとする。
「なぜ、美しいと感じるのか。なぜだ!」
その朝、尊師は観念についての説法をされた。例えば、美しい人という観念も
人によって違う。その説法に沿って考えていくのだが、どうも切れない。
「自分で切れない場合は、私のところに来なさい。」
という尊師のお言葉を思い出して、私は尊師のところへ行った。
私の質問を聞くと、尊師は、美しい人というのは人によってかなり違うこと
を強調され、私の好きなタイプの分析を始められた。そして、私が完全に自立
している人より、甘えてくるタイプの人が好きであり、その背景に、「支配欲
求」があると指摘された。
「支配欲求のデメリットを悟ると、好みが全く変わってしまうよ。」と尊師は
おっしゃられる。ご自身も修行の過程で、好みがどんどん変わっていったそう
である。
自分の観念をつきつめていくと、自分の煩悩にぶちあたり、それを滅すると、
観念が崩壊する。その結果、「美しいとは思っても、だから好きだということ
はない」という状態になるそうだ。
#129/999 資料室
★タイトル (MQM47158) 92/ 2/ 6 10:21 (159)
オウム真理教 マハー・ムドラー7 ウパティッサ
★内容
このように私は聞いた 麻原彰晃尊師より オウム真理教ネットにおいて
◎捨てること
早朝の二時、マンジュシュリー大師、ミラレパ大師と一緒に尊師に呼ばれた。
「ずいぶん進んできたから。」
と言われ、新しい瞑想課題を与えられた。
「捨てることについて考えなさい。捨てるとは、煩悩だけでなく、瞑想による
喜の状態を捨てることも含まれる。これは最後の瞑想だ。」
「支配欲求・闘争心」と「捨てること」――この二つの課題を胸に私は尊師の
部屋を出た。
◎目の前に光は満ちて……
自分の部屋に戻り、まず闘争心について瞑想する。しばらく闘争心のデメリ
ットについて思索していくと、パッとひらめいた。
「闘争心のために、他人の長所を学ぶことができず大変な損をしてきた。自分
とは違うタイプの修行者、自分にはない良さを持っている修行者と自分を比較
して、その優劣を気にするのは、闘争心があるからだ。
違うタイプの人から学ぶことによって、自分の修行の幅は大きく広がる。人
それぞれ長所と短所があり、様々なタイプの人がいるということは、大変な幸
福だ。それぞれから、自分にない長所を学ぶことができ、心を成熟させていく
ことができるからだ。しかし、今まで、自分の周りにあふれているこの大きな
チャンスを全く生かせなかった。それどころか、嫉妬など様々な苦悩の原因に
なっていた。加えて、人の長所、短所をありのままに見つめられないがため、
人を正確に見ることができず、救済においても大きな損失だった。尊師は自在
に大師の長所を誉められ、短所を指摘されるが、それは闘争心がないからなん
だ。」
このような思考が一気に出てきて、
「本当に損したんだなあ」という思いが込み上げてくる。そのときだ、喉で詰
まっていた気の流れがいくらか取れて、エネルギーが強く上昇してきた。そし
て、目の前から上に光が満ち、ナーダ音が聞こえた。見えた光はうすい赤紫が
かかっているような感じがした(これは錯覚かもしれない)。
お昼過ぎ(十二時四十分)、食事の際に、尊師に朝の体験の報告をした。す
ると、尊師は、
「マハー・ムドラーは終わっている。後はどのくらいの完成度にもっていける
かだ。そのためには、この前言った幅を広げる瞑想をしなさい。どうせ空無辺
処定に入っていかなきゃならないんだから。」
と言われた。私は、尊師のお顔を見ながら。
「修行をやっていて、本当に良かったと思います。」
と心の底から言った。
◎遥かなるマハー・ニルヴァーナを目指して
朝の瞑想。いつものように気持ち良い状態に入る。煩悩について、その対象
を具体的にイメージしても、性欲も食欲も、何もわいてこない。非常に安定し
ていて、そのままの状態に漂っていたいという感じだ。しかし、人と触れ合い、
救済活動をすれば、この状態は失われる。瞑想による喜の状態にさえ執着せず、
救済活動に取り組むことが、尊師の言われていた「捨てること」の意味合いで
はないだろうかと思った。
すると、体の感覚が鈍くなって、座高が半分くらいになったような気がした。
はっきりとした感覚があるのは、頭と手とお尻の部分だが、頭からお尻までの
長さがおなかまでの長さくらいに感じた。少し横にも広がったような感じだ。
肉体という外枠をはずれ、意識が広がりかけているような感じだ。「これが、
尊師の言われていた空無辺処定の状態の入り口かもしれない」と私は思った。
そして、「修行というのは終わりがない。もっともっと奥へ、先へ行こう」と
決意した。
以前、尊師から六つの極限についての詳しいお話しがあったことがある。そ
して、それには、八つの解脱の段階があるということだった。それによれば、
今の私の状態は第三解脱、第四解脱に相当する。この尊師の説法を聴き、私は
マハー・ムドラーを遥かに越えて続く修行の壮大さと神秘を感じた。そして、
自分の修行意欲が高まるのを感じた。
今後は、マハー・ムドラーの上に遥かに続くステージをできるだけ早く与え
ていただけるよう、全力を尽くそう。この素晴らしい修行という世界にすべて
の魂を導く尊師のお手伝いをすべく、尊師からいただいた、このマイトレーヤ
という偉大な名前に恥じることなく、未来際に渡って邁進していこう、遥かな
るマハー・ニルヴァーナを目指して――。
「マイトレーヤ大師のマハー・ムドラーの成就を考えるならば、もともと彼は
天才的な修行者であるということができる。それは、一回目の極厳修行に彼が
入ったとき、私はジュニアーナ・ヨーガ的な技法によって、三つ目までのヨー
ガが終わるかなと期待をしていた。しかし、今生で修行経験の浅い彼は、三つ
目まで到達することはできなかった。しかし、彼はその途上におけるすべての
経験、光のヨーガまでの経験をしてしまっていた。そして、私の期待に応え、
もちろん途中では彼も大変なときが何度もあったと思うが、修行を始めてから
わずか二年半で、マハー・ムドラーの成就を達成した。
しかし、ここで一つ考えなければならないことがある。それは、彼の学生時
代からの生き方である。私は、彼の修行期間というものは、結局二年半ではな
く、六年半、八年半、いやもっと長い年月だったんだなと実感している。そし
て、今は修行をきちんと長くやれば、どんな人でも結果は出るんだなと考えて
いる。
つまり、彼にはマハー・ムドラーの修行、あるいはオウムの修行という以前
に、既に土台ができていたということだ。そして、オウムに入り、いきなり極
厳修行。そして、極厳修行の後、同じように半極厳修行のようなニューヨーク。
これを考えると、マハー・ムドラーの成就をしても当然だなと思っています。
そして、ここで、もう一度みんなに話したいことは、亀さん歩きでも、ある
いは兎のように速く走っても、それはどちらでもいいわけだけども、ゴールと
いうものに到達するには、一定の距離があるんだと。そして、亀にしろ兎にし
ろ、必ずそのゴールには到達できるんだよということだ。そして、その到達し
た点の深さ、あるいは長さによって、次の生の自由度が決定する。もちろん今
生の自由度も決定する。
すべての苦悩は、幻影であるということができる。しかし、幻影であると言
いつつ、煩悩の中に浸り、幻影だと言ったとしても、これは単なるたわごとに
すぎない。苦悩を幻影であると考え、それを本当に見、知り、分析する。そし
て、すべての苦悩から解き放たれたとき、その人は自由になるんだ。そして、
あなた方は、その道を歩いているんだという確信を持ち、目標を見失わないよ
うに努力してほしい。」(麻原彰晃尊師コメント)
◆修行者の皆さんに
今回は、私のクンダリニー・ヨーガの成就から、マハー・ムドラーの成就に
至るまでの経過をできるだけ具体的にお話しさせていただきました。できるだ
けリアルなものにするため、かなり自分の恥をさらけ出している部分も多々あ
ります。それは、
「修行の道は厳しいけれども、頑張れば本当に成就は与えられる。煩悩から解
放され本当の自由を得ることはできる。」
ということを皆さんにぜひ確信していただきたかったからです。
今、修行をされている皆さんは、自己の煩悩に加えて、様々な障害に苦しん
でいらっしゃるかもしれません。しかし、それは、仏教やキリスト教がそうで
あったように、偉大な救世主が真理を展開するときには避けられないものだと
思います。釈迦やキリストは、社会に迫害されただけでなく、弟子にさえ裏切
られました。
そして、尊師の予言は次々と成就しています。ご著書の『イニシエーション』
にある、政局の不安定化、マスコミの流す煩悩的な情報の急増、今回の選挙結
果に見られるような政治の分野での国家権力の拡大、日米貿易摩擦の激化……。
尊師の示唆される世紀末の大きな破局は着実に迫っているのです。
このような大きな流れに抗して、来るべき二十一世紀に真理の灯を燃やし続
けることは、今修行をされている、またはこれからされようしている皆さんの
お力がなければ不可能でしょう。私の体験談が、その皆さんの修行に対する確
信を少しでも高め、解脱と救済という偉大な道を、偉大な救済者である麻原尊
師のもと、より力強く歩まれるための一助となれば、この上ない幸せと考えま
す。
アニャータ・マイトレーヤ
参考文献 マハーヤーナ
最終更新:2016年05月28日 19:47