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&font(b,#93b881){&ruby(いし){石}&ruby(だ){田}&ruby(みつなり){三成}}(1560~1600)は&bold(){[[戦国時代>戦国時代(日本)]]}の人物、武将である。
●目次
#contents
*★人物
近江の出身で、長浜時代の&bold(){[[羽柴秀吉>豊臣秀吉(戦国武将)]]}に登用されたと伝わるがいまいちはっきりしていない。
近江出身者の特徴とも言うべき&font(b,#93b881){高い実務能力}を有し、早い時期から羽柴家の台所を切り盛りしたとされる。
本能寺の変が起こった際には直ちに&font(b,#93b881){兵坦を確保}、秀吉軍の素早い進軍を助けている。
武将としても優秀だったと思われるが、前線に回される事が少なく、出た時も活躍出来なかった。
その正義感の強さに惹かれ、&bold(){[[大谷吉継>大谷吉継(戦国武将)]]}や田中吉政らとは交流があった。
また、義を掲げる&bold(){[[直江兼続>直江兼続(戦国武将)]]}とも仲が良かった様子だが、当時において「義に生きる」と言うのは「清廉潔白で正義感が強い」ということでは無く、
「乱世の戦国においても学問の大切さを理解している」という意味合いとなっており、兼続とはお互い&font(b,#93b881){官僚的な気質}であった事からウマが合っていたとも言える。
また、この点に関しては、皮肉にも後に敵対する&bold(){[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]}とも通じている。
一方、優れた行政能力を持ちながらも、若くして文治派として出世し、秀吉からも過度なまでに重用された事から&bold(){武断派から嫉妬を買いやすく}、
その生涯全体を見ても、つくづく人望には恵まれなかった。
ただし、人望に恵まれなかった点に関しては三成本人にも問題があり、官僚の性に加えて彼自身が狷介((自分の意志を曲げず人と和さないこと))で好き嫌いの態度の差が激しいと、&font(b,#93b881,#000000){人から嫌われ易い性格}をしていた。
また、後述の逸話にもあるように、真面目過ぎたが故に、不正に関しては意図した物ではないとしても厳しく糾弾する等、
過剰なまでに規律に固執するあまり、不器用で配慮に欠ける言動をしてしまうこともあった。
さらにそれを改善するための努力や、自身のやり方を省みようともしない性質が、周囲の反感を加速させてしまう要因にもなっていたようである。
計算には長けているが、人の心までは読むことができない、といったところだろう。
文治派の自身とは対照的に、常に前線で命懸けで戦ってきた武断派である&bold(){福島正則}や&bold(){加藤清正}等からは、同じ秀吉の子飼いの兄弟分でありながらも嫌われていた。
それでも、名護屋城建設の際には清正((加藤清正はこの時点までは豊臣家直轄領の代官や貿易の監督、肥後地方の復興を歴任して来たのに対し、逆に一軍の指揮官として活動したのは天草地方の反乱鎮圧の加勢に行った時だけであり、行政官僚としての実績の方が豊富なぐらいだった))と見事なコンビネーションを見せたという話も残っているのだが、
後述の&bold(){朝鮮出兵}の時期に関係が悪化し、その清正とも決別してしまっている。
これに関しても、三成本人が「どうせあの二人に何を言った所で無駄に決まっている」と勝手に自己完結してしまう傾向があった結果、
そのままで終わるどころか、更に悪化させてしまう事態に繋がっている。
「人望を集める」、「人と無駄に衝突しない」為の努力や配慮をする事も、人の上に立つ者として求められることであるので、
それをしなかった事が&font(b,#93b881,#000000){三成の最大の欠点}であったのは間違いないのが悲しい。
しかし、誰に対しても配慮することがなかったというわけではなく、例えば領国経営においては、
凶作の際に年貢を免訴するなどといった、領民を労わる良き領主であったようで、
その証拠に、三成が追われている時に、彼に恩のある村人に一時匿われたが、
三成は&font(b,#93b881){「このままでは匿ってくれた人たちが咎められ、殺される」}と考え、自らを突き出すよう願い出たという逸話もある。
また、古来より日本は合戦の際に民衆を巻き込まないことが掟で美学とされていたが、
それでも「戦場の気晴らし」ということで狼藉を働くものが多く、同時にそれらは暗黙の了解であった。
しかし三成はこうした横暴者を厳しく罰し、さらに法度まで設けて諫めたといわれる。
彼が治めていた佐和山には、三成の死を悲しみ作られたという&font(b,#93b881){「石田地蔵尊」}が現存しており、
この地を彼の後に治めた&bold(){[[井伊直政>徳川四天王]]}は三成のやり方を踏襲し、また彼らが三成を弔うことを黙認した(もしくはせざるを得なかった)という。
もちろん、領民から慕われるような政治を行うのは、一揆などを防ぐという側面からも、領主としては当然である。
が、頭で分かっていたとして、それを実践できるかどうかは領主の資質次第であり、誰でもできることではない。
そんな中で、三成は自身の死後も領民から慕われるほど、良き領主として領地を治めていたのである。
同僚の武将には厳しく接していながら、自らの領民には慈悲深く接する。生真面目なこの男らしい、何とも両極端な態度である。
ともあれ、職場での人望の無さに関しては、親友と言っても過言ではない程親しかった&bold(){大谷吉継}にすら、
「お前には人望がなく禄高も家康に大きく劣る((三成が19万石、家康が約255万石、家康の場合は一門や譜代も含めれば更に高い。))のだから、家康を打倒するなら他の人を上に立てろ」
と助言されたほどである。
三成はその助言を受け入れ、関ヶ原の戦いの際には大大名である&bold(){毛利輝元}を総大将に立てているのだが、
結局自らのそれまでの行動が仇になる形で、本戦では自滅に近い末路を迎えてしまう事になっている。
しかしこれらの欠点は、「敗軍の将」故に後世で後付けされたかもしれない可能性も留意すべきである。
かの&bold(){[[織田信長>織田信長(戦国武将)]]}も「魔王」として苛烈な印象を付け加えられ、以降400年に余りそのイメージがまとわりつき、
最近になってようやく、「これらの苛烈なイメージはもしかして後付けされたのではないか?」と見直され、彼の本来の人物像が解明されつつある。
この、ある意味大きすぎる例にならえば、現在に伝わる一般的な石田三成像も、後世にイメージから誇張されたりした結果である可能性も捨てきれない。
ただ、これらの欠点の内訳(理由)の大半が「度が過ぎるほどの真面目さ」や「強い忠誠心故の融通の利かなさ」とされている辺り、
多少誇大表現がされていたとしても、&font(b,#93b881){「忠誠心が強く、生真面目すぎて融通が利かない」}、高潔な(もしくはそうあろうとした)人物であるのは間違いないのかもしれない。
*★来歴
**豊臣政権下
秀吉に仕官したばかりの時は、特に目立った活躍は無かったものの、彼が関白に就任してからは、&bold(){&ruby(じゅう){従}&ruby(ごい){五位}&ruby(げじぶ){下治部}&ruby(のしょう){少輔}}に就任。以降は堺奉行、検地奉行など、&font(b,#93b881){行政官}として手腕を発揮していく事になる。
有名な「太閤検地」も、事実かどうかは不明であるが、三成の発案ではないかとされている。
九州平定後には博多奉行にもなり、復興に寄与したり、色々な地方の検地を担当している。
しかし、行政官として活躍する反面、武将としての活躍は優秀と言えない状況が続き、
小田原征伐の際は忍城攻略軍の司令官として長大な堤防を築き水攻めを試みたが決壊し&font(b,#93b881,#000000){失敗}。小田原本城が先に陥落する大失態を犯してしまった。
この水攻めは近年では秀吉の指示と言われており、本人はむしろ難色を示していたとされる。指揮官でありながら結局企画担当として扱われる三成の姿が垣間見える。
作戦の立案者はどうあれこれがきっかけで三成は戦下手と馬鹿にされるようになったとか。
最初の朝鮮出兵である&bold(){「文禄の役」}の際は、自らも朝鮮に渡り、奉行人達を纏めて各武将の働きぶりを秀吉に報告する役だったが、真面目ゆえに&font(b,#93b881){不手際や軍紀違反まで事細かに秀吉に報告}。
一方で自身は明との講和交渉に積極的役割を果たし、秀吉から更に信頼を得た為に、結果的に秀吉の不興を買った武将達から恨みを買ってしまう事になった。
例えるなら、ちょっぴりワルな学生たちが融通の利かないクラスの風紀委員を「チクリ魔」と毛嫌いするようなものだろうか。三成自身の空気の読めない言動も原因と言えるが。
文禄から慶長の時代に入ってからは、&font(b,#93b881){京都奉行}に任じられている一方で、&bold(){[[キリシタン弾圧>日本におけるキリスト教史]]}を命じられた時は秀吉の怒りを宥めたり、捕まえる人間や処刑者を減らす為に奔走したりしていた。
結局処刑は防げなかったが、処刑された彼等はルイス・フロイスによって「日本二十六聖人」として扱われている。
このように忠誠心はありながらもイエスマンではなく、秀吉を絶対視していたわけではない。
二度目の朝鮮出兵となる&bold(){「慶長の役」}にて、戦線縮小を求めた在朝鮮の諸将達に激怒した秀吉が彼らに譴責や所領の一部没収といった暴挙に出た際は、
それらに関する状況を報告したのが自身の縁戚であった結果、処分を受けた諸将達からも恨みを買ってしまう事になる。
前述の文禄の役での三成による謹言からも、処分を受けた諸将たちには三成の陰謀に映ってしまったのかもしれない。
また、戦の経験など皆無でありながら、日本軍の総大将として参加させられた&bold(){[[小早川秀秋]]}が独断専行してしまった件についても、
窮地に陥った味方の清正を助けるための行動であった以上、ある程度配慮してもよかったはずなのだが、融通の利かなかった三成はそれもそのまま報告。
結果、秀頼の事で秀秋の存在を疎ましく思っていたと思われる秀吉が、減封転封命令によって彼を追い落とす切っ掛けを与える事になってしまっている((一説では、最初から秀秋を追い落とす為に秀吉が仕組んだ策略ともされている。秀次事件の時も秀秋は領地を没収され切腹される可能性まであったことからそういう意図があってもおかしくない。))。
しかもこの後、没収された秀秋の領地や一部の家臣ですらも三成が手中に収めてしまったため、散々な目にあった秀秋から相当な恨みと反感を買ってしまったのは、言うまでもないだろう。
更に、秀次事件のときは秀吉の命令により秀次を糾問したり、秀次一族の死後にはその旧領を受け継いだりしている。
これらの点を見ても、秀吉が三成に対し、過剰なまでに重用・信頼を置くようになってしまったのは明らかで、後の悪評や他の武将たちからの恨みつらみへと発展してしまう原因となっている。
**秀吉死後
秀吉死後、五大老の筆頭となっていた&bold(){[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]}と連携する形で、朝鮮半島からの日本軍撤退をいち早く行い遠征軍を助けているのだが、
文禄の役で渡海した以降は国内に留まり続けていた為か、武断派から嫌われるのは変わらなかった。
というか『こっちは命懸けで必死に戦ってきたのに、なんだよこれ!あーもー全部石田が悪い!!』なんて言われる始末。%%ぶっちゃけ清正の例の進軍なんかやらされたら兵糧を管理する文官側もそりゃ冷たくするわとは思うが。%%
が、三成はそんな状況にはほとんど気にしないまま、秀吉の遺命であった「秀吉の許可無しによる大名同士の婚姻」を破った&font(b,#1f661f){徳川家康}を厳しく弾劾するが、上手くかわされる。
とまあ、ここまで言えば三成の方が正しいと見えるのだが、実は家康の遺命破りに先立って、秀吉の死から&bold(){わずか十日後に}、
石田三成は毛利輝元を証人として、長束正家・増田長盛・前田玄以の三人と起請文を交わす遺命破り(徒党を組む)に出ていたりするので、偉そうな事は言えない。
加えて、秀吉から政権執行者を任されていた家康が行った大名同士の婚姻も遺命破りになるかは微妙で、
さらに秀吉の残した大名同士の婚姻の内容は「秀吉本人からの許可が要る」という物で「秀吉の死後は誰が許可するのか」については全く決まっていなかったという「抜け穴」もあった((ちなみに、後に家康が発布した武家諸法度では、大名同士の婚姻に関して「幕府からの許可が要る」としっかり記載されている。))。
また、三成は家康を咎めても、彼と婚姻を結んだ清正や正則、&bold(){[[伊達政宗>伊達政宗(戦国武将)]]}に関しては咎めていないため、余計に家康の豊臣家からの追放を目的としたものと見えてしまっている。
そんな事をやっている内に、&bold(){[[前田利家]]}の死を契機となる形で、逆に武断派七将((加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、[[細川忠興]]、加藤嘉明、池田輝政、脇坂安治、蜂須賀家政、藤堂高虎…のうち7人。資料によって違いがあるがとりあえず最初の5人はほぼ確定している))に命を狙われる失態を犯してしまい、佐竹義宣と徳川家康に守られる。
なお家康が守ったのは、三成が&font(b,#93b881){「今ここで自分が死ねば豊臣家の内紛は無くなり家康にとって都合が悪い=自分は家康に殺されない」}と見込んで家康に助けを求めたためだという。
殺されないと見込んで敵にさえ助けを求める三成の頭脳に、家康は戦慄したとか…。
しかし、命は助かったが結局、隠居させられてしまい、同時に家康は三成の優秀さに対して更に警戒を強めることになったという。
ただし、徳川屋敷に駆け込んで家康に守られるのが三成の策略であったという点や、家康が三成を恐れて隠居に追い込んだという点は、後年の創作である可能性も高い。
ここで三成を何のお咎めも無しにしてしまえば、三成がまた命を狙われる事になるのは明白で、最悪の場合は武断派七将全員が豊臣家から離反し、戦国の世に逆戻りになってしまう可能性もあったためとも取れ、
「豊臣家の秩序を守り、なおかつ三成の命を助けるには、隠居させるしかなった」という解釈も出来る。
いずれにせよ、こうなってしまったのは武断派七将との関係を改善しようとしなかった三成自身に原因があったというのが、痛い話である。
とはいえこの前後に、家康の息子である&font(b,#1f661f){結城秀康}が三成の護衛をし、その褒美として脇差を貰っている事は事実である。
その事から徳川屋敷に逃げ込んだのが嘘だったとしても、三成が徳川を頼った(もしくは家康ないし秀康が三成を守った)のは実際に起こった話なのだろう。
**&bold(){[[関ヶ原の戦い>関ヶ原の戦い(戦国時代)]]}
秀吉の死から時間も経ち、豊臣家の重鎮である前田利家も亡くなった後、実質豊臣家の最高権力者となった家康は、
越後の領主となっていた堀秀治から、同じ五大老の一人である上杉景勝に謀叛の疑いありという名目で&font(b,#1f661f){会津上杉討伐}を行う((実際は景勝ではなく、越後に移民一揆を起こさせて、再び上杉の領土にしようとした直江兼続の策謀。))。
三成はこれを好機と密謀を巡らせ、親友の&bold(){大谷吉継}や五大老の&bold(){毛利輝元}、&bold(){[[宇喜多秀家>宇喜多秀家(戦国武将)]]}、五奉行の&bold(){長束正家・増田長盛・前田玄以}の三人、
&bold(){小西行長、安国寺恵瓊}といった大名達に協力を仰ぎ、1600年に西国大名を束ねて&font(b,#93b881){家康討伐}に乗り出す。
西国大名の動員、壮大な布陣、大義名分の確保等、僅か数十万石(19万石程度)の小大名としては見事な準備を整え、
大阪城に入城し家康の弾劾状を叩きつけた三成の正義を成す為の戦いは、関ヶ原にて遂に幕を上げた。
しかし、現実はそんなに甘くなかった…。
三成本人からしてみれば、間違いなく「奸臣の家康を討つ正義の為の戦い」であったのが、
元々西軍についた武将達の多くは家康の会津征伐に協力するために出陣し、なし崩し的に協力させられたに過ぎない上に、
三成の挙兵は客観的に見れば「自らの復権を賭けたクーデター」のようなもののためか、家康と戦うことに乗り気でない者が多かった。
家康に同行していた武断派七将やその他の大名に呼びかけた際も、彼等の女房や子供を人質にした上に、人質の一人である細川ガラシャが自害した結果、
誰一人も家康から離反する事無く、むしろ「三成許すまじ!」と激怒させてしまう事になり、
特に最愛の妻・ガラシャを喪った&bold(){[[細川忠興]]}に至っては、福島正則と共に最前線で三成の首を取ろうという勢いだった。
この事件に加え、&bold(){小山評定}により東軍の統率は非常に高かった。
自らの指揮する西軍の中でも、三成の謹言が原因で所領や多くの家臣を奪われた&bold(){[[小早川秀秋]]}は、三成を激しく恨んで早くから家康と内通しており((近年では、秀秋の人間関係や実際に布陣した際の小早川軍の位置からして、「最初から秀秋は東軍として参戦していたのではないか」とする説も唱えられている。))、
ろくに家臣に相談もせずに総大将に担がれた毛利輝元も、勝手に三成への協力を決めた事で家臣達に咎められた結果、その家臣である&bold(){吉川広家}が毛利秀元や恵瓊の軍を牽制。
西軍の中でも特に実戦経験豊富である&bold(){[[島津義弘>島津義弘(戦国武将)]]}と島津豊久に至っては、三成から1000人の軍勢を軽視され、前哨戦の墨俣の戦いで見殺しにされた挙句、
本戦前日に提案した夜襲も馬鹿にされた事に激怒し、「もう知るか!」と言わんばかりに最初から我関せずの姿勢をとられてしまう始末だった。((ちなみに島津は元々東軍に付こうとしていたがその際にトラブルがあり西軍に流れてきたという経緯もあり最初から三成に協力的とは言えなかった。ただし島津の布陣する場所は三成本隊の隣であるため「ある意味で切り札と考えられていた」という意見もある))
なお三成は豊臣秀頼が西軍として戦場に駆け付けることを期待していたようだが、家康が仕組んだこととはいえ会津討伐は豊臣家と朝廷が正式に発表したことなので、
そんな豊臣家が上杉を助けるようなことをすれば豊臣の信用に関わるので出陣などできるわけがなかった。
更に言うなら、そもそも当時わずか7歳の秀頼が権力を維持できていたのは五大老や五奉行といった重臣達の後ろ盾があったからであり、
いくら奸臣といえどその力を積極的に削ぐような真似をしたら、一番割を食うのは他でもない秀頼自身である。
&font(b,#1f661f){家康の入念な工作}も理由の一つであるが、&font(b,#93b881){三成自身の軽率な判断や行動}もまた西軍のまとまりを悪化させる大きな要因となり、
開戦初期から中期にかけては優勢に進めるも、兼ねてより三成を恨んでいた秀秋率いる軍の大谷軍への攻撃が切っ掛けとなり、敗戦。
伊吹山山系へ農民達に匿われる形で逃亡するも、捕縛される。
同年、同じく捕縛された行長、恵瓊の二人と共に六條河原で処刑された。
*★評価
一般に&bold(){無能な小心者、豊臣政権を私した奸臣}というイメージが近年まで続いていたが、
これは徳川政権の正当化を図る江戸幕府の情報統制による影響を多分に含んでいる点を忘れてはならない。
実際、平成に入ってからも漫画『&bold(){[[花の慶次>花の慶次(漫画)]]}』では非常に頭は切れるが嫌味なエリートかつ小心者のように描かれている。
皮肉にも敵対していた張本人、徳川家康や、「&bold(){[[水戸黄門]]}」こと&bold(){[[徳川光圀>徳川光圀(史実)]]}と言った江戸幕府の最高責任者達が、石田を&font(b,#93b881){忠臣・名臣}と呼んでいる。
近年は再評価の機運が高く、忠臣・名臣として表現されるようになりつつある。
石田三成は他の戦国武将同様、衰退が確定しつつも恩義のある豊臣家のために死ぬ気で尽くした(その結果として家康と違う考えに至った)だけだが、
結果的に負けたことで逆賊扱いを数百年受け続けた悲劇の武将…といった具合になり、
徳川家康は、&font(b,#1f661f){「野望のためなら何でもする腹黒[[タヌキ]]親父」}として扱いが下げられることもしばしば。
&s(){まぁタヌキ親父的に言われるのは石田三成再評価よりもずっと前からなので平常運転でもあるが。}
だが一方で、あまりに見直しや美化が行われ結果、源義経のように判官贔屓され過ぎているのではないかという批判もある。
義の人((先ほども言ったがこの時代における義人とは教養に長けた人のことを指すが、それを理解していない人は「義理深い人」だと認識するだろう))である&bold(){直江兼続}、大坂の陣にて奮戦した&bold(){真田信繁}ともども、
「三成、兼続、信繁は豊臣のために戦った正義の人」で、逆に「徳川家康とそれに従った者は悪人」という扱いにされることすらよくある。
三成が&font(b,#93b881){融通の利かないマニュアリスト}なのは事実であり、特に最前線で戦う武将達との確執は、
自身の失脚や家康の征夷大将軍への就任、豊臣家が一大名にまで落とされた挙句に滅亡した遠因でもあった。
また、三成の関ヶ原の西軍敗戦が原因で、上杉家、毛利家は所領を大幅に減封され、
真田昌幸や&bold(){[[真田幸村]]}、&bold(){長宗我部盛親}といった名立たる武将達の改易や破滅にも繋がった事も踏まえれば、やはり擁護しきれない。
この点はかつて&bold(){[[足利義昭]]}が&bold(){[[織田信長>織田信長(戦国武将)]]}を倒そうと目論み包囲網を形成するも、悉く信長に敗北した末に滅亡した大名((義昭側について信長と敵対した大名の中には本能寺の変で難を逃れられた者もいるのだが、難を逃れられた大名である上杉家・毛利家・長宗我部家が関ヶ原の戦いの結果で転封や改易に追い込まれたため、三成の戦犯っぷりが際立ってしまう。))が多いのを彷彿とさせる。
更に言うなら、そもそも豊臣家から見てもこのタイミングで秀頼の後ろ盾筆頭である家康を廃するのは先述した通りどう考えても悪手でしかなく、
仮に三成が関ヶ原で勝てていたとしても、豊臣の天下を維持できていたかと言われると怪しいと言わざるを得ない。
「水清ければ魚棲まず」という諺がある様に、清廉潔白すぎることではなく清濁併せ呑む大器こそが、本当に大事なのかもしれない。
ちなみに基本的に「戦下手」として扱われているが、自らの評価を下げる事となった「忍城への水責め」は前述の通り三成だけの責任とは言い切れない。
さらに実は関ヶ原で三成が用意した布陣は海外の戦術家に「あの布陣で負けるはずがない」と太鼓判を押される程完璧((…と言いたいがこの辺りは創作の可能性も高いが、理にかなった布陣なのは事実である))であり、合戦の心得、知識自体はあったのだろう。
とはいえ「戦場で活躍した」「敵の首を取った」と言った&font(b,#93b881){「強い武将」と言った類のエピソードはほぼなく}、そういう意味でも武断派からは嘗められていたのだろう。
*★逸話
この手の逸話は創作の類が多い。のだが三成のものに関してはキャラがブレてないのが面白いところ。
-三杯の茶(三献茶)
一杯目…温くて沢山。まずは喉の渇きを潤す。
二杯目…やや熱くて少なめ。
三杯目…熱くてちょびっと。
この気の効いた三杯の御茶を貰ったのが、接待された秀吉である。
&font(#ffb74c){「はぅ~三成ちゃんお持ち帰りぃ~!」}
逆にこれを「茶坊主の阿り」と武断派武将達には小賢しく思われた。
勿論これは創作ではあるが、「茶坊主」という罵りは便利らしく現代の創作で採用されることは多い。
その後の三成も、千利休の影響もあって大いに茶の湯を政治に活用していくこととなっていく。
-商才
最初の石高は無石。代わりに河原の葦の採取税を取って莫大な利益を出す。
大阪を台風が襲った際、普請現場((工事現場))の被害が気になり、工事担当者より先に調べ上げて秀吉に報告。
おかげで担当者は秀吉に「うーん、三成の報告の方が分かりやすいかも」と言われてしまい面目丸潰れ。
ここで責任者に渡せないのが三成である。
とはいえその担当も対応が遅れに遅れ秀吉に大目玉を食らったので、現地に住まう人たちの事を思えば三成の方が正しかったのかもしれない。
-無欲な男
筒井家浪人・島清興を配下にしたいと勧誘した際、三成が交渉に出したのは&font(#ff0000){自らの禄高=全収入4万石の&bold(){半分}・2万石}で勧誘。数々の仕官を断った島もこれには敵わず仕官。
ちなみにこの島という人物、&bold(){[[関ヶ原>関ヶ原の戦い(戦国時代)]]}で東軍兵士に&bold(){[[トラウマ]]}(関ヶ原三大トラウマ)を植え付けた島左近その人である。
加増された際、一人にまるまる加増分を与え仕官させる。
秀吉の右腕と言ってもいい地位にいながら秀吉のように豪奢な暮らしはせず、質素に暮らしていた。
さぞかし財を貯め込んでいるだろうと攻め込んだ佐和山城の質素さに兵士一同愕然としたとか。
これに関しては&font(b,#93b881){『主君から与えられた物はすぐに使い切るべし。それを貯め込むのは盗人と変わらない』}という三成の考え方も関係しているだろう。
ちなみに『貯め込むのは盗人』であり、&font(b,#93b881){『使い込んで借金するのは愚人』}とも考えていたとか。
-大谷吉継との友情
武将たちによる茶会では、結束を深めるため一杯のお茶を集まった諸侯で回し飲みするのが通例となっていた。
ハンセン病を患っていた大谷吉継は、その病気から自分の後にお茶を飲むことを嫌がられ、肩身の狭い思いをしていた。
そしてとある茶会にて、吉継はお茶を飲んだ際、膿(鼻水という説も)をお茶の中に落としてしまった。
吉継の後に続いた武将はお茶を飲むふりをしてやり過ごしたが、三成は吉継の気持ちを慮ってかぐいっと一口にお茶を飲み干したという。
その三成の態度に感じ入った吉継は彼と友誼を深めていき、強い信頼関係を築いていった。
非常に男気溢れるエピソードだが、最近の研究ではそもそも大谷義継がハンセン病であったか自体が怪しく、創作である可能性が高いらしい。
-細川忠興との仲直り
三成はかねてから細川忠興ととても仲が悪いことを悩んでおり、ある日仲直りがしたいと前田玄以に仲介して場を設けてもらった。
その際に玄以から忠興は柿が好きだということを聞かされていた三成は、忠興が座っているところに柿を持って入ってきた。
そして一言「はい、柿どうぞ。」
当然不仲な相手からの嫌がらせと受け取った忠興は激怒し退出。三成は何が駄目だったのか理解できておらず茫然とし、玄以は頭を抱えたという。
-超真面目な頑固者
大阪城で同僚・浅野長政と一緒に、頭巾を被って日に当たって暖を取っていた三成。
家康が来た時、自分より凄く偉いのに頭巾も取らずガン無視。
近くにいた同僚に注意されても、業を煮やした同僚に頭巾を取られて焚き火に放り込まれてもガン無視。
これにはターゲット(家康)も苦笑い。
毛利家から「こんな時季に取れるのは珍しいので献上したい」と果物((10月に採れた桃。桃の旬は7月下旬~8月上旬とされる))が送られてきたとき、
「時季外れとはいえ立派な果物であるが、時期外れのものを食べて秀吉公に何かあったら大変だから受け取れません」と突き返した。
一応「万が一何かあったら毛利家の面子が丸潰れになる(下手すれば責任問題で誰かの首が物理的に飛びかねない)」という理由もあったのだが、
「何も突き返すことないだろ、横柄だ」と大ブーイングを受けることとなった((ごく一部の人は「もっともなことであり、こういう才人だからこそ武人が多い豊臣家で信頼されているのだ」と言ったとされるが、まあ本当に一握り))。
-管理職と現場の乖離
朝鮮帰りの加藤清正たちを労おうと&font(b,#93b881){「お前らが今度京都にきたら茶会でもしようか」}と言ったら、
&bold(){「7年も命懸けで戦って金も食料も人員もすっからかんの俺たちに茶会出ろとかナメてんのか?」}とブチキレられる。
茶会に招かれた側も礼儀的に手ぶらで参加はできない((それなりに費用と人員を割かないと面子が潰れる))のでごもっともな話である。
他前述の通り兵士達の「気晴らし」を逐一報告していた。
それは人間としては正解なのだが戦時中としてはまずい対応でもあり、戦う人間の心が理解できていない節は見られる。
-関ヶ原から敗走後捕まって大津城で晒されていた時の反応
福島正則…「捕まってやんのバーカ」と罵られて「お前をここに晒せなかったのが悔しい」と憎まれ口。
黒田長政…「勝負は時の運」と羽織りを貰って「ありがとう」と御礼を言う。
藤堂高虎…「うちの鉄砲衆にアドバイスを」と求められ、「傭兵に頼りすぎ。組頭を何とかせにゃ」とアドバイス。後にアドバイス通り鉄砲隊を再編成。
&bold(){[[小早川秀秋]]}…見るなり「地獄に落ちろ、クズが!」と激怒。小早川ビビる((「異説として「俺がお前の二心を知らなかったのは俺が愚かだったからだ。だが約に違い義を棄て人を欺いて裏切ったのは武将の恥。末代まで語り継がれて笑われろ」と言ったというものもある。))。
&s(){2年後に病死して小早川家は改易の憂き目に遭ってしまうのはこの時の報いだろうか。}
&bold(){[[細川忠興]]}…無視される。とはいえ元々不仲だった上に前述通り三成が大名達の妻子を人質に取る作戦を立てたため、最愛の妻を失うことになった上、忠興自身の&bold(){[[愛妻っぷり>ヤンデレ]]}やこれまで彼が敵に対して取ってきた行動を考えればその場で妻の仇と斬り殺されてもおかしくない状況のため、かなり我慢をしていた事がうかがえる。
-最後まで諦めない
処刑場に行く途中で「喉が渇いた」と訴え、白湯を求めるも無かったために干し柿を出され、「干し柿は痰の毒。自分は痰持ちだから」と断る。
これから死ぬ人間が健康を気にするのか、と嘲笑した兵士を&font(b,#93b881){「志ある者は生きている限り諦めないものだ」}とたしなめたという。
また、捕らえられた後に「敗戦の将ならば敗戦の責任をとってすぐに切腹すべきだった。そうすれば縄目に遭うこともなかっただろうに」と言われた時も、
&font(b,#93b881){「大望ある者は簡単には諦めないもの。私は再起を図っていただけだ」}と言い返したとか((実際に島津と連携して九州からの巻き返しを狙っていたとされる))。
「ニラ雑炊を要求した」という異説もあり、どちらにせよ死の直前まで健康に気遣っていたのは事実だろう。
&s(){嫌いなものを理屈つけて食べなかったわけではない……よね?}
なおこのエピソードから創作などで苦手な物を「柿」にされがちでもある。
他方&bold(){[[御城プロジェクト:RE~CASTLE DEFENSE~]]}の三成は柿が大好き。どちらにせよこの果物との縁は持たされる傾向にある。
ちなみに合戦に負けた場合の武将は潔く腹を切る事が多いが、&bold(){三成はそれをせずに逃げ出している}。
最期の最期まで足掻く。それもまた人間の姿であろう。
-しかし命運尽きる際は潔く
関ヶ原の戦いの後、捕らえられて引っ立てられた三成に家康は「勝負は時の運。どんな名将とて負ける時は負けるもの。恥に思うことはない」と言うが、
三成は平然としたまま&font(b,#93b881){「そんなことはわかっている。私に天が味方しなかっただけだ。早く首を切るがいい」}と言い返したという。
この潔い態度に家康は「さすがに大将の器がある。&bold(){[[命乞い]]}をした平宗盛((平安時代末期の平家の公卿・武将。平清盛の後を継いだが、源平合戦に敗れて捕縛され、鎌倉の源頼朝の前に引き出された。この際、立場からいっても死罪はほぼ確定事項であるのに、卑屈な態度に終始してまで命乞いし、集まった者から嘲笑・批難されたという。))とはわけが違う」と言ったとか。
上記の「諦めの悪さ」とは矛盾するような逸話であるがそれは違う。諦めが悪い事と往生際が悪い事はまた別の話なのだ。
-家康の方は…
秀吉の死後、本格的に対立を深めた三成と家康。
しかし三成はともかく、家康の方は彼を政敵と見つつも個人的には嫌っていなかったとされている。
三成の息子である&font(b,#93b881){石田重家}の事は実の孫の様に可愛がっていたらしく、
三成が失脚した後も自らの権限で元服を認め、自らの家康の「家」を含めた元服名を与えている程。
会津征伐の際には吉継の傘下として出陣を認め父親の汚名返上の機会を与えていた。
関ヶ原の戦いで西軍が大敗した際には、人質となっていた重家は乳母たちの助けで密かに大坂城を脱出し、出家したものの、
生まれからいって斬首は避けられないと思われたが、彼を保護した住職からの助命嘆願を、家康は重家の十代前半という若さもあって受け容れた。
そして石田重家改め「済院宗享」となった彼は、その後三成が父のために開いたという寿聖院を受け継ぎ、一説には百歳ほどまで生きたと伝わる。
これらの逸話からも、家康が三成を嫌っていた可能性は極めて低いと言え、
前述の様に三成を武断派七将から庇ったのも、彼の息子である重家の事を思ったが故なのかもしれない。
次男の&font(b,#93b881){重成}は親交のあった津軽家に匿われ、杉山と姓を改めて弘前藩に仕えるが、捜索等が行われた様子はなくこちらも黙認されていたようである。
重成の子で三成の孫にあたる杉山吉成は蝦夷地で発生したシャクシャインの戦いの報告を幕府に行っているので、
家康以降の徳川将軍家も、三成の子孫を排斥する気はなかったようだ。
また三成の娘達も徳川下で大事にされ、特に次女の小石殿の孫(三成から見て曾孫)は三代将軍&bold(){徳川家光}の側室となり子を宿し、以降石田三成の血を現在までに残している。
ちなみに家康は滅ぼした家の配下を召し抱えることは多々あったので三成に対しても同じようなことをしただけ…という考え方もできる。
だが西軍についたほぼ全ての家を断罪し、更に後に大坂の陣を起こした豊臣に対しては徹底した残党狩りを行うなどの「反豊臣」である家康が、&bold(){その豊臣の重臣たる三成の家族に対しては非常に甘い対処を行っている}。
これの意味することは未だにわかっていない。
他方三成の方も、家康の暗殺計画を察知した際即座に彼に伝えたり、家康の命で軍を動かしたりしている。
また豊臣家の中では三成はその性格、家康はその影響力から他の武将達に嫌われており、嫌われ者同士仲が良かったという説まである。
家康の次男である「結城秀康」には前述の通り、襲撃事件の後三成の護衛をした礼として正宗の刀を贈った。
石田三成が江戸幕府において「逆賊」と罵られていることを知りつつも、彼はそれを大切にしたという。
総大将として争い、「逆族」とまで罵り合った間柄の相手やその関係者に嫌われるどころか認められ、
自身は死すとも、自らの跡取りを庇護・重用された三成。
家康や徳川家は、ただ勝者としての慈悲をかけただけなのか、それとも…。
*★石田三成が登場する作品
**小説
[[司馬遼太郎]]『関ヶ原』
童門冬二『石田三成』
**漫画
・原哲夫『SAKON-戦国風雲録-』
・[[重野なおき]]『軍師黒田官兵衛』他
算術を得意とするKY武将。自身の算術に絶対の自信を持っており、何かと確率を計算する癖がある典型的なデータキャラ。
一方で人の和に疎く、無意識の失言や煽りで相手の神経を逆撫でする事が非常に多い。
黒田官兵衛「いつか『&bold(){ヤツらの強さは算術では計りきれないのか}』とか言って負けそう」
真田昌幸「&bold(){頭が固くて正論で人を殴る感情の無い男}」
その後、『石田三成の妻は大変』で妻・尾藤うたと共にメインキャラに抜擢された。
妻相手でもその堅物っぷりとKYは健在なものの、%%うたの努力もあり、%%なんだかんだ言って良好な関係を築いている。
**ゲーム
・[[戦国無双]]シリーズ
1から登場しているが、当時の彼はモブ。関ヶ原の戦いは[[スルー]]されているので見せ場も無し。
単なる羽柴軍のモブ武将の一人に過ぎず、これといったキャラ付けもなされていなかった。
2で無双武双化。小田原城攻めの際に出会った幸村、兼続と合わせて義トリオを結成。cv[[竹本英史]]
顔は[[イケメン]]だが塩対応と口の悪さが玉に瑕。目下や同格相手ならともかく、目上相手でも慇懃無礼気味に物申す事が多い。
[[腐れ縁]]の加藤清正や福島正則だけではなく、何なら秀吉にすらたまにボロクソ言う。なお、ねねに対しては内心鬱陶しいと言わんばかりに塩対応気味。
敵や不特定多数が相手だと「クズが」「馬鹿が」等を口癖にする程に悪口が多く、見下すような態度を取りがちなのもあって、多方面に敵を作りがちである。
実は[[ツンデレ]]。素直に感謝する事は苦手ではあるものの、親しい間柄になると不器用ながら礼を言うようになったり、信頼していると言わんばかりの態度を見せるようにもなる。
武器は扇子。ビームも撃てるし地雷も設置できる。
以降のシリーズでも家康とは犬猿の仲であり、(三成側が一方的に)不倶戴天の敵とみなしている程だが、Empireシリーズで同じ勢力となった際の彼との会話イベントは必見。
「もっと早く気付くべきだったな」
3では被り物がやたら増毛し、三成の頭がもっふもふになった。
4では本拠地の佐和山が浅井領に近いこともあり、豊臣家に来る前は[[長政>浅井長政(戦国無双)]]に仕えていたというトンデモ設定となっている。
同僚には大谷吉継と藤堂高虎(彼のみ史実通り)もおり彼らとの友情も見どころではあるが、多方面からツッコミが入ったのは言うまでもない。
・[[戦国BASARAシリーズ]]
BASARA3より登場。CV[[関智一]]。
秀吉を敬愛してやまない[[ヤンデレ]]。秀吉がいるときといないときで精神の安定度が違いすぎる。
『豊臣のために生涯を捧げた、不器用で融通の利かない男』という部分&bold(){&color(red){だけ}}を徹底的に煮つめたようなキャラ。&s(){BASARAでは平常運転。}
家康が自分の目的成就のため秀吉を討ったことがきっかけとなり、復讐として彼を殺そうと執拗に付け狙う。
BASARA4皇の一騎打ちステージのうち1つ「豊臣双腕」では、秀吉が健在であることに加えて家康も離反する前なので、
大谷吉継や島左近に向けるのと同様の物静かだがやや[[ツンデレ]]気味の対応をしている。
・仁王シリーズ
関ヶ原を取り扱った初代「仁王」にのみ登場。CV[[櫻井孝宏]]。
義を振りかざしては敵を作り、大谷吉継や島左近に呆れられながらも支えられるという、よくある三成像そのままのキャラクター。今作の西軍は英国の錬金術師エドワード・ケリーと通じており、三成も関ヶ原にて敗色濃厚と見るや(苦渋そうにしながらも)戦場の死者たちを媒介にガシャドクロを召喚する“エノクの秘法”を使うというケリーからの提案を受け入れている。
ケリーの協力を得て太閤・豊臣秀吉を復活させようと目論むも、肝心のケリーは三成を捨て駒としか見ておらず、三成はアムリタを注入されて妖鬼と化してしまうが…
次作「仁王2」では装備のみ登場。信長や秀吉の時代を取り扱った作品だが、何故か若き日の三成は出てこない。
・戦国大戦
初登場はver2。レアリティはRでどこか傲慢さを感じさせる少年で後にそのまま成長した姿も登場した。
ver3の関ヶ原でついにSRとして排出。ゴリラモデルと計略ムービーが絶妙なダサさで三成らしいと評判。CV:[[緑川光]]。
・信長の野望
文官型のステータスで、三成のイメージ通り義理が高い。
・太閤立志伝
三成的にも目玉作品はやはり最終作のⅤ。
秀吉プレイだと三杯の茶の登用&主人公札イベントが用意されている((三成の主人公札入手はそれ以外だと徳川家康プレイで関ヶ原に勝つしかない。))。
算術・弁舌と内政系技能は概ね完備。部将までずっと金策係専任でもゴリゴリ出世していく。
&s(){秀吉「もう茶と茜の売買でスロットしなくていいわい。」}
&s(){半兵衛「ようやく軍資金調達係から解放されました。」}
関ヶ原シナリオでも当然第二の主役でイベントてんこもりだが、まともにプレイすると島清興もそこまで合戦で頼もしくない上、そもそも蒲生頼郷を加えて計3人しかいない軍((合戦では計5部隊になるまで備大将というモブ枠が補充されるが、プレイヤー武将の半分程度の能力なのでまともな三成プレイでは数合わせでしかない。))で黒田長政・徳川家康と無茶な連戦させられる。無理ゲーに近く、武将編集機能でチートしても苦労する域(とはいえ、もっと厳しい逆転系IFプレイのある本作では応用編の入門水準のポジション)。
なので、慣れたプレイヤーはデフォルトの佐和山城から本拠をズラして関ヶ原発動を封じ、それぞれ息子に代替わりして家老をやってる[[長宗我部元親>長宗我部元親(戦国武将)]]・[[黒田如水>黒田官兵衛(戦国武将)]]とかを引き抜いて色々指南を受けてから本拠を戻し、歴史群像新書みたいな石田軍で勝つのがセオリー。&s(){官兵衛も元親も違う意味で恐いテンションしてそうな軍だが。}
嫁ゲーとしても名のあるⅤだが、残念ながらデフォ嫁はなし。重野なおきセンセはちょっと、かなり遅すぎた…。
代わりに、お兄ちゃんの正澄は家庭用版から追加されている。三成のマイナーダウンみたいな按配だが、十分出世させやすい内政官。関ヶ原シナリオでは大坂城務めなので寄騎にもらうのもいいだろう。
・[[采配のゆくえ]]
主人公。関ヶ原の戦いの時点で二十代。エンディングでは…
・決戦
PS2のローンチタイトルで、関ヶ原の合戦を題材とした戦術シミュレーション。
毛利輝元が登場しないので名実共に西軍の総大将だが、大合戦で一回でも負けると死亡してしまう。
戦闘能力は家康に劣るが、戦法が優秀なのでそれなりに戦える。兜がまるで[[太陽の塔]]。
・[[モンスターストライク]]
割と初期に実装されたガチャ限定キャラ。光属性。
しかしこちらではどういうわけか[[ガチャのハズレ枠>プレミアムガチャの星4モンスター(モンスターストライク)]]となってしまっており、ぶっちゃけ言ってかなり弱い。
星4故にステータスはお世辞にも高くなく、SSも「触れた味方が多い程攻撃が上がる」という非常に使いにくいもので評価は散々。
その上、一部他の星4モンスターとは異なり&bold(){一切の上方修正をされた事が無く、}はっきり言って見限られている可能性が高い。&s(){それ故に他のとこでネタにされた事も殆ど無い。}
#center(){&bold(){&font(#ed6d3d){筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり}}}((訳:筑摩江(地名)よ、あの芦の間に灯るかがり火のように、わが命も消えていくのだな…))
追記・修正は&bold(){[[東軍メガネを外してから>石田三成CM(滋賀県)]]}お願い致します。
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&font(#6495ED){登録日}:2009/10/29 Thu 20:25:55
&font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red)
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&font(b,#93b881){&ruby(いし){石}&ruby(だ){田}&ruby(みつなり){三成}}(1560~1600)は&bold(){[[戦国時代>戦国時代(日本)]]}の人物、武将である。
●目次
#contents
*★人物
近江の出身で、長浜時代の&bold(){[[羽柴秀吉>豊臣秀吉(戦国武将)]]}に登用されたと伝わるがいまいちはっきりしていない。
近江出身者の特徴とも言うべき&font(b,#93b881){高い実務能力}を有し、早い時期から羽柴家の台所を切り盛りしたとされる。
本能寺の変が起こった際には直ちに&font(b,#93b881){兵坦を確保}、秀吉軍の素早い進軍を助けている。
武将としても優秀だったと思われるが、前線に回される事が少なく、出た時も活躍出来なかった。
その正義感の強さに惹かれ、&bold(){[[大谷吉継>大谷吉継(戦国武将)]]}や田中吉政らとは交流があった。
また、義を掲げる&bold(){[[直江兼続>直江兼続(戦国武将)]]}とも仲が良かった様子だが、当時において「義に生きる」と言うのは「清廉潔白で正義感が強い」ということでは無く、
「乱世の戦国においても学問の大切さを理解している」という意味合いとなっており、兼続とはお互い&font(b,#93b881){官僚的な気質}であった事からウマが合っていたとも言える。
また、この点に関しては、皮肉にも後に敵対する&bold(){[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]}とも通じている。
一方、優れた行政能力を持ちながらも、若くして文治派として出世し、秀吉からも過度なまでに重用された事から&bold(){武断派から嫉妬を買いやすく}、
その生涯全体を見ても、つくづく人望には恵まれなかった。
ただし、人望に恵まれなかった点に関しては三成本人にも問題があり、官僚の性に加えて彼自身が狷介((自分の意志を曲げず人と和さないこと))で好き嫌いの態度の差が激しいと、&font(b,#93b881,#000000){人から嫌われ易い性格}をしていた。
また、後述の逸話にもあるように、真面目過ぎたが故に、不正に関しては意図した物ではないとしても厳しく糾弾する等、
過剰なまでに規律に固執するあまり、不器用で配慮に欠ける言動をしてしまうこともあった。
さらにそれを改善するための努力や、自身のやり方を省みようともしない性質が、周囲の反感を加速させてしまう要因にもなっていたようである。
計算には長けているが、人の心までは読むことができない、といったところだろう。
文治派の自身とは対照的に、常に前線で命懸けで戦ってきた武断派である&bold(){福島正則}や&bold(){加藤清正}等からは、同じ秀吉の子飼いの兄弟分でありながらも嫌われていた。
それでも、名護屋城建設の際には清正((加藤清正はこの時点までは豊臣家直轄領の代官や貿易の監督、肥後地方の復興を歴任して来たのに対し、逆に一軍の指揮官として活動したのは天草地方の反乱鎮圧の加勢に行った時だけであり、行政官僚としての実績の方が豊富なぐらいだった))と見事なコンビネーションを見せたという話も残っているのだが、
後述の&bold(){朝鮮出兵}の時期に関係が悪化し、その清正とも決別してしまっている。
これに関しても、三成本人が「どうせあの二人に何を言った所で無駄に決まっている」と勝手に自己完結してしまう傾向があった結果、
そのままで終わるどころか、更に悪化させてしまう事態に繋がっている。
「人望を集める」、「人と無駄に衝突しない」為の努力や配慮をする事も、人の上に立つ者として求められることであるので、
それをしなかった事が&font(b,#93b881,#000000){三成の最大の欠点}であったのは間違いないのが悲しい。
しかし、誰に対しても配慮することがなかったというわけではなく、例えば領国経営においては、
凶作の際に年貢を免訴するなどといった、領民を労わる良き領主であったようで、
その証拠に、三成が追われている時に、彼に恩のある村人に一時匿われたが、
三成は&font(b,#93b881){「このままでは匿ってくれた人たちが咎められ、殺される」}と考え、自らを突き出すよう願い出たという逸話もある。
また、古来より日本は合戦の際に民衆を巻き込まないことが掟で美学とされていたが、
それでも「戦場の気晴らし」ということで狼藉を働くものが多く、同時にそれらは暗黙の了解であった。
しかし三成はこうした横暴者を厳しく罰し、さらに法度まで設けて諫めたといわれる。
彼が治めていた佐和山には、三成の死を悲しみ作られたという&font(b,#93b881){「石田地蔵尊」}が現存しており、
この地を彼の後に治めた&bold(){[[井伊直政>徳川四天王]]}は三成のやり方を踏襲し、また彼らが三成を弔うことを黙認した(もしくはせざるを得なかった)という。
もちろん、領民から慕われるような政治を行うのは、一揆などを防ぐという側面からも、領主としては当然である。
が、頭で分かっていたとして、それを実践できるかどうかは領主の資質次第であり、誰でもできることではない。
そんな中で、三成は自身の死後も領民から慕われるほど、良き領主として領地を治めていたのである。
同僚の武将には厳しく接していながら、自らの領民には慈悲深く接する。生真面目なこの男らしい、何とも両極端な態度である。
ともあれ、職場での人望の無さに関しては、親友と言っても過言ではない程親しかった&bold(){大谷吉継}にすら、
「お前には人望がなく禄高も家康に大きく劣る((三成が19万石、家康が約255万石、家康の場合は一門や譜代も含めれば更に高い。))のだから、家康を打倒するなら他の人を上に立てろ」
と助言されたほどである。
三成はその助言を受け入れ、関ヶ原の戦いの際には大大名である&bold(){毛利輝元}を総大将に立てているのだが、
結局自らのそれまでの行動が仇になる形で、本戦では自滅に近い末路を迎えてしまう事になっている。
しかしこれらの欠点は、「敗軍の将」故に後世で後付けされたかもしれない可能性も留意すべきである。
かの&bold(){[[織田信長>織田信長(戦国武将)]]}も「魔王」として苛烈な印象を付け加えられ、以降400年に余りそのイメージがまとわりつき、
最近になってようやく、「これらの苛烈なイメージはもしかして後付けされたのではないか?」と見直され、彼の本来の人物像が解明されつつある。
この、ある意味大きすぎる例にならえば、現在に伝わる一般的な石田三成像も、後世にイメージから誇張されたりした結果である可能性も捨てきれない。
ただ、これらの欠点の内訳(理由)の大半が「度が過ぎるほどの真面目さ」や「強い忠誠心故の融通の利かなさ」とされている辺り、
多少誇大表現がされていたとしても、&font(b,#93b881){「忠誠心が強く、生真面目すぎて融通が利かない」}、高潔な(もしくはそうあろうとした)人物であるのは間違いないのかもしれない。
*★来歴
**豊臣政権下
秀吉に仕官したばかりの時は、特に目立った活躍は無かったものの、彼が関白に就任してからは、&bold(){&ruby(じゅう){従}&ruby(ごい){五位}&ruby(げじぶ){下治部}&ruby(のしょう){少輔}}に就任。以降は堺奉行、検地奉行など、&font(b,#93b881){行政官}として手腕を発揮していく事になる。
有名な「太閤検地」も、事実かどうかは不明であるが、三成の発案ではないかとされている。
九州平定後には博多奉行にもなり、復興に寄与したり、色々な地方の検地を担当している。
しかし、行政官として活躍する反面、武将としての活躍は優秀と言えない状況が続き、
小田原征伐の際は忍城攻略軍の司令官として長大な堤防を築き水攻めを試みたが決壊し&font(b,#93b881,#000000){失敗}。小田原本城が先に陥落する大失態を犯してしまった。
この水攻めは近年では秀吉の指示と言われており、本人はむしろ難色を示していたとされる。指揮官でありながら結局企画担当として扱われる三成の姿が垣間見える。
作戦の立案者はどうあれこれがきっかけで三成は戦下手と馬鹿にされるようになったとか。
最初の朝鮮出兵である&bold(){「文禄の役」}の際は、自らも朝鮮に渡り、奉行人達を纏めて各武将の働きぶりを秀吉に報告する役だったが、真面目ゆえに&font(b,#93b881){不手際や軍紀違反まで事細かに秀吉に報告}。
一方で自身は明との講和交渉に積極的役割を果たし、秀吉から更に信頼を得た為に、結果的に秀吉の不興を買った武将達から恨みを買ってしまう事になった。
例えるなら、ちょっぴりワルな学生たちが融通の利かないクラスの風紀委員を「チクリ魔」と毛嫌いするようなものだろうか。三成自身の空気の読めない言動も原因と言えるが。
文禄から慶長の時代に入ってからは、&font(b,#93b881){京都奉行}に任じられている一方で、&bold(){[[キリシタン弾圧>日本におけるキリスト教史]]}を命じられた時は秀吉の怒りを宥めたり、捕まえる人間や処刑者を減らす為に奔走したりしていた。
結局処刑は防げなかったが、処刑された彼等はルイス・フロイスによって「日本二十六聖人」として扱われている。
このように忠誠心はありながらもイエスマンではなく、秀吉を絶対視していたわけではない。
二度目の朝鮮出兵となる&bold(){「慶長の役」}にて、戦線縮小を求めた在朝鮮の諸将達に激怒した秀吉が彼らに譴責や所領の一部没収といった暴挙に出た際は、
それらに関する状況を報告したのが自身の縁戚であった結果、処分を受けた諸将達からも恨みを買ってしまう事になる。
前述の文禄の役での三成による謹言からも、処分を受けた諸将たちには三成の陰謀に映ってしまったのかもしれない。
また、戦の経験など皆無でありながら、日本軍の総大将として参加させられた&bold(){[[小早川秀秋]]}が独断専行してしまった件についても、
窮地に陥った味方の清正を助けるための行動であった以上、ある程度配慮してもよかったはずなのだが、融通の利かなかった三成はそれもそのまま報告。
結果、秀頼の事で秀秋の存在を疎ましく思っていたと思われる秀吉が、減封転封命令によって彼を追い落とす切っ掛けを与える事になってしまっている((一説では、最初から秀秋を追い落とす為に秀吉が仕組んだ策略ともされている。秀次事件の時も秀秋は領地を没収され切腹される可能性まであったことからそういう意図があってもおかしくない。))。
しかもこの後、没収された秀秋の領地や一部の家臣ですらも三成が手中に収めてしまったため、散々な目にあった秀秋から相当な恨みと反感を買ってしまったのは、言うまでもないだろう。
更に、秀次事件のときは秀吉の命令により秀次を糾問したり、秀次一族の死後にはその旧領を受け継いだりしている。
これらの点を見ても、秀吉が三成に対し、過剰なまでに重用・信頼を置くようになってしまったのは明らかで、後の悪評や他の武将たちからの恨みつらみへと発展してしまう原因となっている。
**秀吉死後
秀吉死後、五大老の筆頭となっていた&bold(){[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]}と連携する形で、朝鮮半島からの日本軍撤退をいち早く行い遠征軍を助けているのだが、
文禄の役で渡海した以降は国内に留まり続けていた為か、武断派から嫌われるのは変わらなかった。
というか『こっちは命懸けで必死に戦ってきたのに、なんだよこれ!あーもー全部石田が悪い!!』なんて言われる始末。%%ぶっちゃけ清正の例の進軍なんかやらされたら兵糧を管理する文官側もそりゃ冷たくするわとは思うが。%%
が、三成はそんな状況にはほとんど気にしないまま、秀吉の遺命であった「秀吉の許可無しによる大名同士の婚姻」を破った&font(b,#1f661f){徳川家康}を厳しく弾劾するが、上手くかわされる。
とまあ、ここまで言えば三成の方が正しいと見えるのだが、実は家康の遺命破りに先立って、秀吉の死から&bold(){わずか十日後に}、
石田三成は毛利輝元を証人として、長束正家・増田長盛・前田玄以の三人と起請文を交わす遺命破り(徒党を組む)に出ていたりするので、偉そうな事は言えない。
加えて、秀吉から政権執行者を任されていた家康が行った大名同士の婚姻も遺命破りになるかは微妙で、
さらに秀吉の残した大名同士の婚姻の内容は「秀吉本人からの許可が要る」という物で「秀吉の死後は誰が許可するのか」については全く決まっていなかったという「抜け穴」もあった((ちなみに、後に家康が発布した武家諸法度では、大名同士の婚姻に関して「幕府からの許可が要る」としっかり記載されている。))。
また、三成は家康を咎めても、彼と婚姻を結んだ清正や正則、&bold(){[[伊達政宗>伊達政宗(戦国武将)]]}に関しては咎めていないため、余計に家康の豊臣家からの追放を目的としたものと見えてしまっている。
そんな事をやっている内に、&bold(){[[前田利家]]}の死を契機となる形で、逆に武断派七将((加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、[[細川忠興]]、加藤嘉明、池田輝政、脇坂安治、蜂須賀家政、藤堂高虎…のうち7人。資料によって違いがあるがとりあえず最初の5人はほぼ確定している))に命を狙われる失態を犯してしまい、佐竹義宣と徳川家康に守られる。
なお家康が守ったのは、三成が&font(b,#93b881){「今ここで自分が死ねば豊臣家の内紛は無くなり家康にとって都合が悪い=自分は家康に殺されない」}と見込んで家康に助けを求めたためだという。
殺されないと見込んで敵にさえ助けを求める三成の頭脳に、家康は戦慄したとか…。
しかし、命は助かったが結局、隠居させられてしまい、同時に家康は三成の優秀さに対して更に警戒を強めることになったという。
ただし、徳川屋敷に駆け込んで家康に守られるのが三成の策略であったという点や、家康が三成を恐れて隠居に追い込んだという点は、後年の創作である可能性も高い。
ここで三成を何のお咎めも無しにしてしまえば、三成がまた命を狙われる事になるのは明白で、最悪の場合は武断派七将全員が豊臣家から離反し、戦国の世に逆戻りになってしまう可能性もあったためとも取れ、
「豊臣家の秩序を守り、なおかつ三成の命を助けるには、隠居させるしかなった」という解釈も出来る。
いずれにせよ、こうなってしまったのは武断派七将との関係を改善しようとしなかった三成自身に原因があったというのが、痛い話である。
とはいえこの前後に、家康の息子である&font(b,#1f661f){結城秀康}が三成の護衛をし、その褒美として脇差を貰っている事は事実である。
その事から徳川屋敷に逃げ込んだのが嘘だったとしても、三成が徳川を頼った(もしくは家康ないし秀康が三成を守った)のは実際に起こった話なのだろう。
**&bold(){[[関ヶ原の戦い>関ヶ原の戦い(戦国時代)]]}
秀吉の死から時間も経ち、豊臣家の重鎮である前田利家も亡くなった後、実質豊臣家の最高権力者となった家康は、
越後の領主となっていた堀秀治から、同じ五大老の一人である上杉景勝に謀叛の疑いありという名目で&font(b,#1f661f){会津上杉討伐}を行う((実際は景勝ではなく、越後に移民一揆を起こさせて、再び上杉の領土にしようとした直江兼続の策謀。))。
三成はこれを好機と密謀を巡らせ、親友の&bold(){大谷吉継}や五大老の&bold(){毛利輝元}、&bold(){[[宇喜多秀家>宇喜多秀家(戦国武将)]]}、五奉行の&bold(){長束正家・増田長盛・前田玄以}の三人、
&bold(){小西行長、安国寺恵瓊}といった大名達に協力を仰ぎ、1600年に西国大名を束ねて&font(b,#93b881){家康討伐}に乗り出す。
西国大名の動員、壮大な布陣、大義名分の確保等、僅か数十万石(19万石程度)の小大名としては見事な準備を整え、
大阪城に入城し家康の弾劾状を叩きつけた三成の正義を成す為の戦いは、関ヶ原にて遂に幕を上げた。
しかし、現実はそんなに甘くなかった…。
三成本人からしてみれば、間違いなく「奸臣の家康を討つ正義の為の戦い」であったのが、
元々西軍についた武将達の多くは家康の会津征伐に協力するために出陣し、なし崩し的に協力させられたに過ぎない上に、
三成の挙兵は客観的に見れば「自らの復権を賭けたクーデター」のようなもののためか、家康と戦うことに乗り気でない者が多かった。
家康に同行していた武断派七将やその他の大名に呼びかけた際も、彼等の女房や子供を人質にした上に、人質の一人である細川ガラシャが自害した結果、
誰一人も家康から離反する事無く、むしろ「三成許すまじ!」と激怒させてしまう事になり、
特に最愛の妻・ガラシャを喪った&bold(){[[細川忠興]]}に至っては、福島正則と共に最前線で三成の首を取ろうという勢いだった。
この事件に加え、&bold(){小山評定}により東軍の統率は非常に高かった。
自らの指揮する西軍の中でも、三成の謹言が原因で所領や多くの家臣を奪われた&bold(){[[小早川秀秋]]}は、三成を激しく恨んで早くから家康と内通しており((近年では、秀秋の人間関係や実際に布陣した際の小早川軍の位置からして、「最初から秀秋は東軍として参戦していたのではないか」とする説も唱えられている。))、
ろくに家臣に相談もせずに総大将に担がれた毛利輝元も、勝手に三成への協力を決めた事で家臣達に咎められた結果、その家臣である&bold(){吉川広家}が毛利秀元や恵瓊の軍を牽制。
西軍の中でも特に実戦経験豊富である&bold(){[[島津義弘>島津義弘(戦国武将)]]}と島津豊久に至っては、三成から1000人の軍勢を軽視され、前哨戦の墨俣の戦いで見殺しにされた挙句、
本戦前日に提案した夜襲も馬鹿にされた事に激怒し、「もう知るか!」と言わんばかりに最初から我関せずの姿勢をとられてしまう始末だった。((ちなみに島津は元々東軍に付こうとしていたがその際にトラブルがあり西軍に流れてきたという経緯もあり最初から三成に協力的とは言えなかった。ただし島津の布陣する場所は三成本隊の隣であるため「ある意味で切り札と考えられていた」という意見もある))
なお三成は豊臣秀頼が西軍として戦場に駆け付けることを期待していたようだが、家康が仕組んだこととはいえ会津討伐は豊臣家と朝廷が正式に発表したことなので、
そんな豊臣家が上杉を助けるようなことをすれば豊臣の信用に関わるので出陣などできるわけがなかった。
更に言うなら、そもそも当時わずか7歳の秀頼が権力を維持できていたのは五大老や五奉行といった重臣達の後ろ盾があったからであり、
いくら奸臣といえどその力を積極的に削ぐような真似をしたら、一番割を食うのは他でもない秀頼自身である。
&font(b,#1f661f){家康の入念な工作}も理由の一つであるが、&font(b,#93b881){三成自身の軽率な判断や行動}もまた西軍のまとまりを悪化させる大きな要因となり、
開戦初期から中期にかけては優勢に進めるも、兼ねてより三成を恨んでいた秀秋率いる軍の大谷軍への攻撃が切っ掛けとなり、敗戦。
伊吹山山系へ農民達に匿われる形で逃亡するも、捕縛される。
同年、同じく捕縛された行長、恵瓊の二人と共に六條河原で処刑された。
*★評価
一般に&bold(){無能な小心者、豊臣政権を私した奸臣}というイメージが近年まで続いていたが、
これは徳川政権の正当化を図る江戸幕府の情報統制による影響を多分に含んでいる点を忘れてはならない。
実際、平成に入ってからも漫画『&bold(){[[花の慶次>花の慶次(漫画)]]}』では非常に頭は切れるが嫌味なエリートかつ小心者のように描かれている。
皮肉にも敵対していた張本人、徳川家康や、「&bold(){[[水戸黄門]]}」こと&bold(){[[徳川光圀>徳川光圀(史実)]]}と言った江戸幕府の最高責任者達が、石田を&font(b,#93b881){忠臣・名臣}と呼んでいる。
近年は再評価の機運が高く、忠臣・名臣として表現されるようになりつつある。
石田三成は他の戦国武将同様、衰退が確定しつつも恩義のある豊臣家のために死ぬ気で尽くした(その結果として家康と違う考えに至った)だけだが、
結果的に負けたことで逆賊扱いを数百年受け続けた悲劇の武将…といった具合になり、
徳川家康は、&font(b,#1f661f){「野望のためなら何でもする腹黒[[タヌキ]]親父」}として扱いが下げられることもしばしば。
&s(){まぁタヌキ親父的に言われるのは石田三成再評価よりもずっと前からなので平常運転でもあるが。}
だが一方で、あまりに見直しや美化が行われ結果、源義経のように判官贔屓され過ぎているのではないかという批判もある。
義の人((先ほども言ったがこの時代における義人とは教養に長けた人のことを指すが、それを理解していない人は「義理深い人」だと認識するだろう))である&bold(){直江兼続}、大坂の陣にて奮戦した&bold(){真田信繁}ともども、
「三成、兼続、信繁は豊臣のために戦った正義の人」で、逆に「徳川家康とそれに従った者は悪人」という扱いにされることすらよくある。
三成が&font(b,#93b881){融通の利かないマニュアリスト}なのは事実であり、特に最前線で戦う武将達との確執は、
自身の失脚や家康の征夷大将軍への就任、豊臣家が一大名にまで落とされた挙句に滅亡した遠因でもあった。
また、三成の関ヶ原の西軍敗戦が原因で、上杉家、毛利家は所領を大幅に減封され、
真田昌幸や&bold(){[[真田幸村]]}、&bold(){長宗我部盛親}といった名立たる武将達の改易や破滅にも繋がった事も踏まえれば、やはり擁護しきれない。
この点はかつて&bold(){[[足利義昭]]}が&bold(){[[織田信長>織田信長(戦国武将)]]}を倒そうと目論み包囲網を形成するも、悉く信長に敗北した末に滅亡した大名((義昭側について信長と敵対した大名の中には本能寺の変で難を逃れられた者もいるのだが、難を逃れられた大名である上杉家・毛利家・長宗我部家が関ヶ原の戦いの結果で転封や改易に追い込まれたため、三成の戦犯っぷりが際立ってしまう。))が多いのを彷彿とさせる。
更に言うなら、そもそも豊臣家から見てもこのタイミングで秀頼の後ろ盾筆頭である家康を廃するのは先述した通りどう考えても悪手でしかなく、
仮に三成が関ヶ原で勝てていたとしても、豊臣の天下を維持できていたかと言われると怪しいと言わざるを得ない。
「水清ければ魚棲まず」という諺がある様に、清廉潔白すぎることではなく清濁併せ呑む大器こそが、本当に大事なのかもしれない。
ちなみに基本的に「戦下手」として扱われているが、自らの評価を下げる事となった「忍城への水責め」は前述の通り三成だけの責任とは言い切れない。
さらに実は関ヶ原で三成が用意した布陣は海外の戦術家に「あの布陣で負けるはずがない」と太鼓判を押される程完璧((…と言いたいがこの辺りは創作の可能性も高いが、理にかなった布陣なのは事実である))であり、合戦の心得、知識自体はあったのだろう。
とはいえ「戦場で活躍した」「敵の首を取った」と言った&font(b,#93b881){「強い武将」と言った類のエピソードはほぼなく}、そういう意味でも武断派からは嘗められていたのだろう。
*★逸話
この手の逸話は創作の類が多い。のだが三成のものに関してはキャラがブレてないのが面白いところ。
-三杯の茶(三献茶)
一杯目…温くて沢山。まずは喉の渇きを潤す。
二杯目…やや熱くて少なめ。
三杯目…熱くてちょびっと。
この気の効いた三杯の御茶を貰ったのが、接待された秀吉である。
&font(#ffb74c){「はぅ~三成ちゃんお持ち帰りぃ~!」}
逆にこれを「茶坊主の阿り」と武断派武将達には小賢しく思われた。
勿論これは創作ではあるが、「茶坊主」という罵りは便利らしく現代の創作で採用されることは多い。
その後の三成も、千利休の影響もあって大いに茶の湯を政治に活用していくこととなっていく。
-商才
最初の石高は無石。代わりに河原の葦の採取税を取って莫大な利益を出す。
大阪を台風が襲った際、普請現場((工事現場))の被害が気になり、工事担当者より先に調べ上げて秀吉に報告。
おかげで担当者は秀吉に「うーん、三成の報告の方が分かりやすいかも」と言われてしまい面目丸潰れ。
ここで責任者に渡せないのが三成である。
とはいえその担当も対応が遅れに遅れ秀吉に大目玉を食らったので、現地に住まう人たちの事を思えば三成の方が正しかったのかもしれない。
-無欲な男
筒井家浪人・島清興を配下にしたいと勧誘した際、三成が交渉に出したのは&font(#ff0000){自らの禄高=全収入4万石の&bold(){半分}・2万石}で勧誘。数々の仕官を断った島もこれには敵わず仕官。
ちなみにこの島という人物、&bold(){[[関ヶ原>関ヶ原の戦い(戦国時代)]]}で東軍兵士に&bold(){[[トラウマ]]}(関ヶ原三大トラウマ)を植え付けた島左近その人である。
加増された際、一人にまるまる加増分を与え仕官させる。
秀吉の右腕と言ってもいい地位にいながら秀吉のように豪奢な暮らしはせず、質素に暮らしていた。
さぞかし財を貯め込んでいるだろうと攻め込んだ佐和山城の質素さに兵士一同愕然としたとか。
これに関しては&font(b,#93b881){『主君から与えられた物はすぐに使い切るべし。それを貯め込むのは盗人と変わらない』}という三成の考え方も関係しているだろう。
ちなみに『貯め込むのは盗人』であり、&font(b,#93b881){『使い込んで借金するのは愚人』}とも考えていたとか。
-大谷吉継との友情
武将たちによる茶会では、結束を深めるため一杯のお茶を集まった諸侯で回し飲みするのが通例となっていた。
ハンセン病を患っていた大谷吉継は、その病気から自分の後にお茶を飲むことを嫌がられ、肩身の狭い思いをしていた。
そしてとある茶会にて、吉継はお茶を飲んだ際、膿(鼻水という説も)をお茶の中に落としてしまった。
吉継の後に続いた武将はお茶を飲むふりをしてやり過ごしたが、三成は吉継の気持ちを慮ってかぐいっと一口にお茶を飲み干したという。
その三成の態度に感じ入った吉継は彼と友誼を深めていき、強い信頼関係を築いていった。
非常に男気溢れるエピソードだが、最近の研究ではそもそも大谷義継がハンセン病であったか自体が怪しく、創作である可能性が高いらしい。
-細川忠興との仲直り
三成はかねてから細川忠興ととても仲が悪いことを悩んでおり、ある日仲直りがしたいと前田玄以に仲介して場を設けてもらった。
その際に玄以から忠興は柿が好きだということを聞かされていた三成は、忠興が座っているところに柿を持って入ってきた。
そして一言「はい、柿どうぞ。」
当然不仲な相手からの嫌がらせと受け取った忠興は激怒し退出。三成は何が駄目だったのか理解できておらず茫然とし、玄以は頭を抱えたという。
-超真面目な頑固者
大阪城で同僚・浅野長政と一緒に、頭巾を被って日に当たって暖を取っていた三成。
家康が来た時、自分より凄く偉いのに頭巾も取らずガン無視。
近くにいた同僚に注意されても、業を煮やした同僚に頭巾を取られて焚き火に放り込まれてもガン無視。
これにはターゲット(家康)も苦笑い。
毛利家から「こんな時季に取れるのは珍しいので献上したい」と果物((10月に採れた桃。桃の旬は7月下旬~8月上旬とされる))が送られてきたとき、
「時季外れとはいえ立派な果物であるが、時期外れのものを食べて秀吉公に何かあったら大変だから受け取れません」と突き返した。
一応「万が一何かあったら毛利家の面子が丸潰れになる(下手すれば責任問題で誰かの首が物理的に飛びかねない)」という理由もあったのだが、
「何も突き返すことないだろ、横柄だ」と大ブーイングを受けることとなった((ごく一部の人は「もっともなことであり、こういう才人だからこそ武人が多い豊臣家で信頼されているのだ」と言ったとされるが、まあ本当に一握り))。
-管理職と現場の乖離
朝鮮帰りの加藤清正たちを労おうと&font(b,#93b881){「お前らが今度京都にきたら茶会でもしようか」}と言ったら、
&bold(){「7年も命懸けで戦って金も食料も人員もすっからかんの俺たちに茶会出ろとかナメてんのか?」}とブチキレられる。
茶会に招かれた側も礼儀的に手ぶらで参加はできない((それなりに費用と人員を割かないと面子が潰れる))のでごもっともな話である。
他前述の通り兵士達の「気晴らし」を逐一報告していた。
それは人間としては正解なのだが戦時中としてはまずい対応でもあり、戦う人間の心が理解できていない節は見られる。
-関ヶ原から敗走後捕まって大津城で晒されていた時の反応
福島正則…「捕まってやんのバーカ」と罵られて「お前をここに晒せなかったのが悔しい」と憎まれ口。
黒田長政…「勝負は時の運」と羽織りを貰って「ありがとう」と御礼を言う。
藤堂高虎…「うちの鉄砲衆にアドバイスを」と求められ、「傭兵に頼りすぎ。組頭を何とかせにゃ」とアドバイス。後にアドバイス通り鉄砲隊を再編成。
&bold(){[[小早川秀秋]]}…見るなり「地獄に落ちろ、クズが!」と激怒。小早川ビビる((「異説として「俺がお前の二心を知らなかったのは俺が愚かだったからだ。だが約に違い義を棄て人を欺いて裏切ったのは武将の恥。末代まで語り継がれて笑われろ」と言ったというものもある。))。
&s(){2年後に病死して小早川家は改易の憂き目に遭ってしまうのはこの時の報いだろうか。}
&bold(){[[細川忠興]]}…無視される。とはいえ元々不仲だった上に前述通り三成が大名達の妻子を人質に取る作戦を立てたため、最愛の妻を失うことになった上、忠興自身の&bold(){[[愛妻っぷり>ヤンデレ]]}やこれまで彼が敵に対して取ってきた行動を考えればその場で妻の仇と斬り殺されてもおかしくない状況のため、かなり我慢をしていた事がうかがえる。
-最後まで諦めない
処刑場に行く途中で「喉が渇いた」と訴え、白湯を求めるも無かったために干し柿を出され、「干し柿は痰の毒。自分は痰持ちだから」と断る。
これから死ぬ人間が健康を気にするのか、と嘲笑した兵士を&font(b,#93b881){「志ある者は生きている限り諦めないものだ」}とたしなめたという。
また、捕らえられた後に「敗戦の将ならば敗戦の責任をとってすぐに切腹すべきだった。そうすれば縄目に遭うこともなかっただろうに」と言われた時も、
&font(b,#93b881){「大望ある者は簡単には諦めないもの。私は再起を図っていただけだ」}と言い返したとか((実際に島津と連携して九州からの巻き返しを狙っていたとされる))。
「ニラ雑炊を要求した」という異説もあり、どちらにせよ死の直前まで健康に気遣っていたのは事実だろう。
&s(){嫌いなものを理屈つけて食べなかったわけではない……よね?}
なおこのエピソードから創作などで苦手な物を「柿」にされがちでもある。
他方&bold(){[[御城プロジェクト:RE~CASTLE DEFENSE~]]}の三成は柿が大好き。どちらにせよこの果物との縁は持たされる傾向にある。
ちなみに合戦に負けた場合の武将は潔く腹を切る事が多いが、&bold(){三成はそれをせずに逃げ出している}。
最期の最期まで足掻く。それもまた人間の姿であろう。
-しかし命運尽きる際は潔く
関ヶ原の戦いの後、捕らえられて引っ立てられた三成に家康は「勝負は時の運。どんな名将とて負ける時は負けるもの。恥に思うことはない」と言うが、
三成は平然としたまま&font(b,#93b881){「そんなことはわかっている。私に天が味方しなかっただけだ。早く首を切るがいい」}と言い返したという。
この潔い態度に家康は「さすがに大将の器がある。&bold(){[[命乞い]]}をした平宗盛((平安時代末期の平家の公卿・武将。平清盛の後を継いだが、源平合戦に敗れて捕縛され、鎌倉の源頼朝の前に引き出された。この際、立場からいっても死罪はほぼ確定事項であるのに、卑屈な態度に終始してまで命乞いし、集まった者から嘲笑・批難されたという。))とはわけが違う」と言ったとか。
上記の「諦めの悪さ」とは矛盾するような逸話であるがそれは違う。諦めが悪い事と往生際が悪い事はまた別の話なのだ。
-家康の方は…
秀吉の死後、本格的に対立を深めた三成と家康。
しかし三成はともかく、家康の方は彼を政敵と見つつも個人的には嫌っていなかったとされている。
三成の息子である&font(b,#93b881){石田重家}の事は実の孫の様に可愛がっていたらしく、
三成が失脚した後も自らの権限で元服を認め、自らの家康の「家」を含めた元服名を与えている程。
会津征伐の際には吉継の傘下として出陣を認め父親の汚名返上の機会を与えていた。
関ヶ原の戦いで西軍が大敗した際には、人質となっていた重家は乳母たちの助けで密かに大坂城を脱出し、出家したものの、
生まれからいって斬首は避けられないと思われたが、彼を保護した住職からの助命嘆願を、家康は重家の十代前半という若さもあって受け容れた。
そして石田重家改め「済院宗享」となった彼は、その後三成が父のために開いたという寿聖院を受け継ぎ、一説には百歳ほどまで生きたと伝わる。
これらの逸話からも、家康が三成を嫌っていた可能性は極めて低いと言え、
前述の様に三成を武断派七将から庇ったのも、彼の息子である重家の事を思ったが故なのかもしれない。
次男の&font(b,#93b881){重成}は親交のあった津軽家に匿われ、杉山と姓を改めて弘前藩に仕えるが、捜索等が行われた様子はなくこちらも黙認されていたようである。
重成の子で三成の孫にあたる杉山吉成は蝦夷地で発生したシャクシャインの戦いの報告を幕府に行っているので、
家康以降の徳川将軍家も、三成の子孫を排斥する気はなかったようだ。
また三成の娘達も徳川下で大事にされ、特に次女の小石殿の孫(三成から見て曾孫)は三代将軍&bold(){徳川家光}の側室となり子を宿し、以降石田三成の血を現在までに残している。
ちなみに家康は滅ぼした家の配下を召し抱えることは多々あったので三成に対しても同じようなことをしただけ…という考え方もできる。
だが西軍についたほぼ全ての家を断罪し、更に後に大坂の陣を起こした豊臣に対しては徹底した残党狩りを行うなどの「反豊臣」である家康が、&bold(){その豊臣の重臣たる三成の家族に対しては非常に甘い対処を行っている}。
これの意味することは未だにわかっていない。
他方三成の方も、家康の暗殺計画を察知した際即座に彼に伝えたり、家康の命で軍を動かしたりしている。
また豊臣家の中では三成はその性格、家康はその影響力から他の武将達に嫌われており、嫌われ者同士仲が良かったという説まである。
家康の次男である「結城秀康」には前述の通り、襲撃事件の後三成の護衛をした礼として正宗の刀を贈った。
石田三成が江戸幕府において「逆賊」と罵られていることを知りつつも、彼はそれを大切にしたという。
総大将として争い、「逆族」とまで罵り合った間柄の相手やその関係者に嫌われるどころか認められ、
自身は死すとも、自らの跡取りを庇護・重用された三成。
家康や徳川家は、ただ勝者としての慈悲をかけただけなのか、それとも…。
*★石田三成が登場する作品
**小説
[[司馬遼太郎]]『関ヶ原』
童門冬二『石田三成』
**漫画
・原哲夫『SAKON-戦国風雲録-』
・[[重野なおき]]『軍師黒田官兵衛』他
算術を得意とするKY武将。自身の算術に絶対の自信を持っており、何かと確率を計算する癖がある典型的なデータキャラ。
一方で人の和に疎く、無意識の失言や煽りで相手の神経を逆撫でする事が非常に多い。
黒田官兵衛「いつか『&bold(){ヤツらの強さは算術では計りきれないのか}』とか言って負けそう」
真田昌幸「&bold(){頭が固くて正論で人を殴る感情の無い男}」
その後、『石田三成の妻は大変』で妻・尾藤うたと共にメインキャラに抜擢された。
妻相手でもその堅物っぷりとKYは健在なものの、%%うたの努力もあり、%%なんだかんだ言って良好な関係を築いている。
**ゲーム
・[[戦国無双]]シリーズ
1から登場しているが、当時の彼はモブ。関ヶ原の戦いは[[スルー]]されているので見せ場も無し。
単なる羽柴軍のモブ武将の一人に過ぎず、これといったキャラ付けもなされていなかった。
2で無双武双化。小田原城攻めの際に出会った幸村、兼続と合わせて義トリオを結成。cv[[竹本英史]]
顔は[[イケメン]]だが塩対応と口の悪さが玉に瑕。目下や同格相手ならともかく、目上相手でも慇懃無礼気味に物申す事が多い。
[[腐れ縁]]の加藤清正や福島正則だけではなく、何なら秀吉にすらたまにボロクソ言う。なお、ねねに対しては内心鬱陶しいと言わんばかりに塩対応気味。
敵や不特定多数が相手だと「クズが」「馬鹿が」等を口癖にする程に悪口が多く、見下すような態度を取りがちなのもあって、多方面に敵を作りがちである。
実は[[ツンデレ]]。素直に感謝する事は苦手ではあるものの、親しい間柄になると不器用ながら礼を言うようになったり、信頼していると言わんばかりの態度を見せるようにもなる。
武器は扇子。ビームも撃てるし地雷も設置できる。
以降のシリーズでも家康とは犬猿の仲であり、(三成側が一方的に)不倶戴天の敵とみなしている程だが、Empireシリーズで同じ勢力となった際の彼との会話イベントは必見。
「もっと早く気付くべきだったな」
3では被り物がやたら増毛し、三成の頭がもっふもふになった。
4では本拠地の佐和山が浅井領に近いこともあり、豊臣家に来る前は[[長政>浅井長政(戦国無双)]]に仕えていたというトンデモ設定となっている。
同僚には大谷吉継と藤堂高虎(彼のみ史実通り)もおり彼らとの友情も見どころではあるが、多方面からツッコミが入ったのは言うまでもない。
・[[戦国BASARAシリーズ]]
BASARA3より登場。CV[[関智一]]。
秀吉を敬愛してやまない[[ヤンデレ]]。秀吉がいるときといないときで精神の安定度が違いすぎる。
『豊臣のために生涯を捧げた、不器用で融通の利かない男』という部分&bold(){&color(red){だけ}}を徹底的に煮つめたようなキャラ。&s(){BASARAでは平常運転。}
家康が自分の目的成就のため秀吉を討ったことがきっかけとなり、復讐として彼を殺そうと執拗に付け狙う。
BASARA4皇の一騎打ちステージのうち1つ「豊臣双腕」では、秀吉が健在であることに加えて家康も離反する前なので、
大谷吉継や島左近に向けるのと同様の物静かだがやや[[ツンデレ]]気味の対応をしている。
・仁王シリーズ
関ヶ原を取り扱った初代「仁王」にのみ登場。CV[[櫻井孝宏]]。
義を振りかざしては敵を作り、大谷吉継や島左近に呆れられながらも支えられるという、よくある三成像そのままのキャラクター。今作の西軍は英国の錬金術師エドワード・ケリーと通じており、三成も関ヶ原にて敗色濃厚と見るや(苦渋そうにしながらも)戦場の死者たちを媒介にガシャドクロを召喚する“エノクの秘法”を使うというケリーからの提案を受け入れている。
ケリーの協力を得て太閤・豊臣秀吉を復活させようと目論むも、肝心のケリーは三成を捨て駒としか見ておらず、三成はアムリタを注入されて妖鬼と化してしまうが…
次作「仁王2」では装備のみ登場。信長や秀吉の時代を取り扱った作品だが、何故か若き日の三成は出てこない。
・戦国大戦
初登場はver2。レアリティはRでどこか傲慢さを感じさせる少年で後にそのまま成長した姿も登場した。
ver3の関ヶ原でついにSRとして排出。ゴリラモデルと計略ムービーが絶妙なダサさで三成らしいと評判。CV:[[緑川光]]。
・信長の野望
文官型のステータスで、三成のイメージ通り義理が高い。
・太閤立志伝
三成的にも目玉作品はやはり最終作のⅤ。
秀吉プレイだと三杯の茶の登用&主人公札イベントが用意されている((三成の主人公札入手はそれ以外だと徳川家康プレイで関ヶ原に勝つしかない。))。
算術・弁舌と内政系技能は概ね完備。部将までずっと金策係専任でもゴリゴリ出世していく。
&s(){秀吉「もう茶と茜の売買でスロットしなくていいわい。」}
&s(){半兵衛「ようやく軍資金調達係から解放されました。」}
関ヶ原シナリオでも当然第二の主役でイベントてんこもりだが、まともにプレイすると島清興もそこまで合戦で頼もしくない上、そもそも蒲生頼郷を加えて計3人しかいない軍((合戦では計5部隊になるまで備大将というモブ枠が補充されるが、プレイヤー武将の半分程度の能力なのでまともな三成プレイでは数合わせでしかない。))で黒田長政・徳川家康と無茶な連戦させられる。無理ゲーに近く、武将編集機能でチートしても苦労する域(とはいえ、もっと厳しい逆転系IFプレイのある本作では応用編の入門水準のポジション)。
なので、慣れたプレイヤーはデフォルトの佐和山城から本拠をズラして関ヶ原発動を封じ、それぞれ息子に代替わりして家老をやってる[[長宗我部元親>長宗我部元親(戦国武将)]]・[[黒田如水>黒田官兵衛(戦国武将)]]とかを引き抜いて色々指南を受けてから本拠を戻し、歴史群像新書みたいな石田軍で勝つのがセオリー。&s(){官兵衛も元親も違う意味で恐いテンションしてそうな軍だが。}
嫁ゲーとしても名のあるⅤだが、残念ながらデフォ嫁はなし。重野なおきセンセはちょっと、かなり遅すぎた…。
代わりに、お兄ちゃんの正澄は家庭用版から追加されている。三成のマイナーダウンみたいな按配だが、十分出世させやすい内政官。関ヶ原シナリオでは大坂城務めなので寄騎にもらうのもいいだろう。
・[[采配のゆくえ]]
主人公。関ヶ原の戦いの時点で二十代。エンディングでは…
・決戦
PS2のローンチタイトルで、関ヶ原の合戦を題材とした戦術シミュレーション。
毛利輝元が登場しないので名実共に西軍の総大将だが、大合戦で一回でも負けると死亡してしまう。
戦闘能力は家康に劣るが、戦法が優秀なのでそれなりに戦える。兜がまるで[[太陽の塔]]。
・[[モンスターストライク]]
割と初期に実装されたガチャ限定キャラ。光属性。
しかしこちらではどういうわけか[[ガチャのハズレ枠>プレミアムガチャの星4モンスター(モンスターストライク)]]となってしまっており、ぶっちゃけ言ってかなり弱い。
星4故にステータスはお世辞にも高くなく、SSも「触れた味方が多い程攻撃が上がる」という非常に使いにくいもので評価は散々。
その上、一部他の星4モンスターとは異なり&bold(){一切の上方修正をされた事が無く、}はっきり言って見限られている可能性が高い。&s(){それ故に他のとこでネタにされた事も殆ど無い。}
#center(){&bold(){&font(#ed6d3d){筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり}}}((訳:筑摩江(地名)よ、あの芦の間に灯るかがり火のように、わが命も消えていくのだな…))
追記・修正は&bold(){[[東軍メガネを外してから>石田三成CM(滋賀県)]]}お願い致します。
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